龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 01月 10日

『手賀沼/飛翔するミサゴ、群れるオナガガモ』

1月10日(水曜)、晴れ。
日本海側では爆弾低気圧で荒れ模様と報じられている。
天気は、全国的には、雪、雨、曇りだが、関東地方だけは晴れの予報で、事実、冬晴れ。
愛馬に跨り、手賀沼へ出動。
風が強い。
冬には珍しく、南西の風、冷たい風ではない。

北岸を西へ走る。
上空にミサゴの姿が。
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西から東に飛翔。
太陽の光線の具合で空の色はくすんだ青に。
ミサゴは太陽の光の中に入り、その姿は消えてしまった。
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手賀沼西端から南岸に入る。
南岸を西から東へ走る。
追い風基調、楽チン。
ハス群生地に差し掛かる。
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コブハクチョウやサギらが餌をついばんでいるのが普段の光景だが、今日は何だか雰囲気が違う。
ズームアップして様子を探る。
オナガガモが群れをなして羽を休めているのであった。
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フォト:2018年1月10日


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# by ryujincho | 2018-01-10 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2018年 01月 04日

『走り初め+鳥見初め』

1月4日。
三が日は御年賀、初詣などで過ごし、今日4日、走り初め。
ホーム・コースの手賀沼へ出動。

南岸を走る。
jiensha を止めて、お気に入りの入り江の景色を眺める。
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左から右手に鳥が横切り、竹の杭に止まった。
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カワセミや!
鳥見初めがカワセミとはラッキー!
最初に止まった竹の杭はお気に召さなかったのか、塩ビの杭に移動。
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塩ビの杭もお気に召さなかったようで、すぐに別の杭に。
破船が繋がれた杭なので、見てくれのよろしくない背景ながら、カワセミにはここがお気に召したよう。
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次は足元で何かが動いた。
そちらにカメラを向け、シャッターを切った。
鳥見初め第2号はアオジであった。
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再び、入り江を眺める。
僅かに氷が張っている。
氷結部と不凍結の間が潮目のようにくっきりと。
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手賀沼東端、曙橋から沼を眺める。
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北岸に入る。
いつも係留されている小舟と湖面に光る陽光、これもお気に入りの景色だ。
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沖合いの浅瀬は氷結しているようである。
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氷結部と不凍結の境目を泳ぐカモ。
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<走り初め>のつもりで出掛けたのだが、カワセミで始まる<鳥見初め>も叶った、今日の手賀沼一周ポタリングであった。

フォト:2018年1月4日
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# by ryujincho | 2018-01-04 13:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2018年 01月 03日

『初詣』

正月三日。
初詣。
成田山新勝寺。
超広角レンズを持って。

仁王門。
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大本堂前。
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大本堂にて参拝。
表に出て、三重塔を見上げる。
最近の初詣では珍しい光景だが、着物姿の娘さんがいたので、それも一緒に。
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三重塔の装飾は、着物姿の娘さんに負けず劣らず美しい。

平和の大塔。
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大塔の2階の明王殿で、本尊の不動明王、四大明王を参拝。
明王殿の壁画、昭和大曼荼羅、真言祖師行状図を眺める。
尾垂が浜に本尊が上陸したことも描かれていた。
昨年2月、龍尾寺(匝瑳市)から成田山本尊上陸の地である尾垂が浜(山武郡横芝光町)を訪ねたときのことを思い出しながら、壁画を眺めた。


醫王殿。
昨年秋、紅葉狩で訪れたときには、醫王殿まだ工事中であったが、その後、11月28日、醫王殿入仏落慶大法会が執り行われたことを報道で知り、初詣で、是非、参拝したいと思っていた。
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御手綱。
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御手綱を握り締め、祈る。
そして、醫王殿内へと進む。
醫王殿に安置された薬師如来、そして、薬師如来を護る十二神将を間近にして参拝。
薬師如来の指には御手綱が優美に結ばれているのをこの目でしっかりと見た。

表に出ると先ほどよりも参拝者の列は増している。
彼らも回向柱の御手綱を握り締めた後、醫王殿内へと進んで行く。
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醫王殿に安置された薬師如来と回向柱を繋ぐ御手綱をアップで。
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こうして、恒例の成田山初詣を無事終えることが出来た。
すっきり!

フォト:2018年1月3日
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# by ryujincho | 2018-01-03 23:31 | Comments(0)
2018年 01月 02日

『初詣』

正月二日、初詣。
紅龍山 布施弁天 東海寺。
通称「布施弁天」。

楼門は竜宮城風。
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本堂と冬晴れの空。
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鐘楼の十二支。
今年の干支は、戌。
戌の彫刻に白い房が据えられている。
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フォト:2018年1月2日

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# by ryujincho | 2018-01-02 23:31 | Comments(0)
2018年 01月 01日

『謹賀新年』

謹賀新年。
2018年
平成30年
戌戊(つちのえ いぬ、ぼじゅつ)

元旦。
次男夫婦が何処で紙粘土をゲットして来た。
紙粘土で拵える御題は「犬」。
みんなで紙粘土細工に腕をふるった。
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番号札は出来映えの順位ではなく、あみだくじでの当たり番号。

フォト:2018年1月1日


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# by ryujincho | 2018-01-01 23:31 | Comments(0)
2017年 12月 30日

『走り納め 2017/霞ヶ浦ポタリング/歳末漁師市&富士見塚古墳』

12月29日(金曜)、晴れ。
今年の走り納め。
走り納めは、コースは異なれど、一昨年末、昨年末、本年末と3年連続で霞ヶ浦。

今年のコースは、JR土浦駅~西浦中岸~霞ヶ浦大橋~歳末漁師市@行方市 道のえき「たまつくり」~霞ヶ浦大橋~西浦中岸~富士見塚古墳~西浦中岸~JR高浜駅。
メンバーは武衛さんと小生の2名。

湖岸を走る。
ハス田が続く。
昨年末に比べ、レンコンの収穫作業をしている人が多い。

「上総さん、ハス田に鳥の群れが」と武衛さん。
「何の鳥でしょうかね。ズームアップしてみましょう」。
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「シギです。何という名のシギか、パッと出て来ないのが寂しいところです(帰宅後、調べてみたところ、ハマシギであった)」。
更に言葉を続けて「シギといえば、先日、手賀沼で初めてツルシギなる鳥を見ました。我孫子野鳥の会のホームページを参照したところ、毎年のように見られる種ではない、とありました。掲載されていた写真は夏羽のツルシギでした。冬羽の写真が掲載されていないということは、ひょっとしたら、手賀沼で冬羽を見たのは小生が初めてかも...」。

ハス田は続く。
「去年はハス田にオオバンが群れをなして泳いでいましたが、今年はいませんね」。
「レンコンは1mくらいの深さのところに生えているそう。この深さだとオオバンは潜っても届かないそう。収穫をし易くするため、深さ50cmくらいのところに生えるレンコンを育てている農家もあるそうです。深さ50cmのレンコンはオオバンが突いて商品価値が落ちるそうです。で、ハス田にネットを張っているそうです」。
と話をしながら走っていると、オオバンがネットに引っかかっているハス田が目に入った。
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懐かしの「やましち」。
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「一昨年の11月、大給守さん、伊豆守さんとこのルートを走ったときに、彼らはこの『やましち』に立ち寄り、ワカサギの佃煮やコエビの佃煮をゲットしました。そのとき、天日干ししているシラウオを眺めながら、これは佃煮用と思っていましたが、先日、テレビで『寒曳きシラウオの煮干し』と言っていました」。
そんなことを武衛さんに話していたところに、佃煮工場から男性が出て来たので、尋ねてみた。
「佃煮にするシラウオは天日干しですか、生ですか」。
「佃煮は生です。シラウオの天日干しは煮干しです。シラウオの煮干しは旨いですよ」(と茨城なまりで答えてくれた)。

かすみがうら市水族館。
ちょっと休憩。
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「上総さん、バナナ、食べますか」。
「バナナ?家から持って来たんですか?」。
「いえ、さっき、土浦の駅前のコンビニで昼餉のおにぎりを買ったときに、一緒に買いました」。
「コンビニにバナナを売ってるんですね」。
なかなか旨いバナナであった。

観光マップを眺める。
この日、訪ねることにしている富士見塚古墳のほかに幾つか古墳が散見される。
参考のために、北から順に古墳の名をここに挙げておこう。
風返大日山古墳、風返浅間山古墳、風返稲荷山古墳、太子古墳、富士見塚古墳、坂稲荷山古墳、折返十日塚古墳、牛塚古墳、銚子塚古墳。
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霞ヶ浦大橋を渡り、道のえき「たまつくり」で開催中の歳末漁師市に到着。
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一昨年の暮れの走り納めで、大給守さん、南国守さん、小生の3人で、JR高浜駅~西浦中岸~霞ヶ浦大橋~西浦東岸~石岡市内~JR石岡駅のコースで霞ヶ浦ポタをした際、偶然、歳末漁師市に遭遇。
白魚のかき揚げを試食、これが誠に旨かった。
この話を武衛さんにしたところ、是非、行きたいとのことで、昨年の暮れの走り納めで、霞ヶ浦漁師市(行方市)~三昧塚古墳(同)~舟塚山古墳(石岡市)~府中愛宕山古墳(同)~茨城廃寺跡(同)のコースで、史跡めぐりを挙行したのであった。
本年も武衛さんから「また、霞ヶ浦へ行きたいですね」との希望があり、霞ヶ浦漁師市+富士見塚古墳(かすみがうら市)を企画したのであった。

白魚のかき揚げを試食する。
旨い。
白魚の塩辛も試食する。
これは塩辛い。
塩辛だから当然か。
柚子の香りがよい。
持参したコンビニおにぎりを食す。
武衛さんがコンビニでゲットしたバナナも食す。
腹いっぱいとなった。

昨年、出店していた郵便局さんは今年も出店していた。
昨年、会話を交わした局員さんがいた。
こちらから声を掛ける前に、先方から「あっ、去年、お会いしたお二人さんですね」と声を掛けてくれた。
嬉しいことであった。
今年も、しばし、歓談。

道のえき「たまつくり」の駐車場に水陸両用車が停まっていた。
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「これは水陸両用車ですね」。
「そうです」。
「幾らくらいするんですか?3000万円くらいですか」。
「いやいや、もっと高いです」。
「乗車料金は幾らですか」。
「これは、なめがたファーマーズヴィレッジの送迎車なので、1回幾らの営業はやっていないんです。因みに、この水陸両用車の導入を検討していためとき、横浜や東京で営業している水陸両用車にも乗りましたが、横浜の乗車料金は3800円と高かったです」。
「霞ヶ浦のどの辺りを走るのですか」。
「北浦がメインです。霞ヶ浦(西浦の意)の方は予科練などでよく知られていますが、北浦が水上飛行機の訓練場となっていたことは余り知られていません。水上飛行機の訓練場がまだ残っており、それを利用して水陸の移動が出来るようになっています」。
「北浦が水上飛行機の訓練所だったとは知りませんでした。勉強になりました」。

行方市観光物産館で、干し芋、スナック菓子のなっとう棒、かき餅などをゲット。
物産館の裏手から霞ヶ浦と筑波山を眺める。
この場所からこの景色を眺めるのも恒例となった。
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昨年暮れは、手前の道を右方向へ走り、三昧塚古墳を訪ねたのであった。
今回、訪ねる富士見塚古墳(かすみがうら市柏崎)は対岸のこんもりとしたところの左手辺りであろうと思われるが、さて?

再び、霞ヶ浦大橋を渡り、行方市から かすみがうら市に入る。
霞ヶ浦大橋西詰から湖畔の道を北上する。
菱木川を渡り、湖畔の道から外れ、県道118号線を走る。
右手に「富士見塚古墳公園」の標識が現れた。
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石段を上ると、3基の古墳が現れた。
富士見塚1号古墳は前方後円墳(築造推定時期:5世紀末から6世紀初頭)、富士見塚2号古墳は円墳(築造推定時期:1号古墳と同じ、5世紀末から6世紀初頭)、富士見塚3号古墳は円墳(築造推定時期:6世紀末)。

富士見塚1号古墳。
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墳頂に立ち、対岸に位置する三昧塚古墳を探す古墳ハンター、二人の影。
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事前の調べで、霞ヶ浦を挟んで、南に位置する三昧塚古墳と北に位置する富士見塚古墳は図ったようにぴったりと南北に位置していることは分かっていた。
武衛さんは霞ヶ浦全体と筑波山の位置も分かる地図を傾向、小生は富士見塚古墳と三昧塚古墳を南北に一直線に結ぶ地図を携行。
これらを参照しながら、対岸の三昧塚古墳の位置を絞り込んで行った。
カメラのズームを望遠鏡代わりにして、その絞り込んだ位置を舐めるように眺めて行った。
見えた!三昧塚古墳の姿が!
前方に桜の枝が被っている。桜の枝をかわすため、墳頂を少し移動し、遠・中・近でズームを動かし、シャッターを切る。
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昨年の暮れ、三昧塚古墳を訪れており、周辺の様子が分かっているので、富士見塚古墳の墳頂から見つけることが出来たのであろう。
満足!

本ブログでは富士見塚古墳のことよりも対岸の三昧塚古墳がメインになってしまった感ありだが、富士見塚古墳の詳細については、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」で「常陸国史跡めぐり/富士見塚古墳」と題し、綴ることとなしたい。

今日の jitensha。
背後の校倉造り風の建物は富士見塚古墳展示館。
この日は年末年始の休館日で見学は出来ず。
事前に電話で確認済みなので、「あっ、閉館や」ということではなく、残念という気持ちはない。
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湖畔の道に出て、北上する。
三昧塚古墳が最も近いと思われるところで jitensha を止め、対岸を眺める。
三昧塚古墳がはっきりと見える。
やっぱり嬉しい!
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JR高浜駅から常磐線に乗り、帰途に就く。
土浦駅で途中下車し、土浦駅前の天ぷら「八起」で反省会、白魚の天ぷら、蓮根の天ぷらで一献、蓮根麺で〆とのプランもなくはなかったが、年末のことでもあり、反省会はなしにして、年明けに新年会(兼)反省会をやることとした。

走行距離45.80km。
企画時、往路(土浦駅~道のえき たまつくり)25km、復路(道のえき たまつくり~高浜駅)20kmと見込んでいたので、ピタリ賞。
気持ち、良し!
幾度も同じコースを走っているから、当たり前のことかな。

冬晴れ、ほとんど風もなく、快適な冬のポタリングであった。

来年も史跡めぐりを中心にいろいろとポタリングのアイデアあり。
愉しみ、愉しみ...。

フォト:2017年12月29日


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# by ryujincho | 2017-12-30 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 12月 30日

『ハマシギ』

12月23日、手賀沼でツルシギを見た。
12月29日、霞ヶ浦でハマシギを見た。
年末になって、シギづいている。

ハマシギ。
霞ヶ浦/ハス田にて。
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冬鳥、または、旅鳥として日本全国に飛来する。
特徴は、やや下に湾曲した嘴。
先日、見たツルシギはゆっくりとした動きだった。
一方、ハマシギは落ち着きなく、スッ、スッ、スッと動き、ハス田の泥に嘴を突っ込んで餌を採っている。
ハス田の水深は浅く、氷が張っているように見える(事実、張っているのだろう)。

フォト:2017年12月29日、霞ヶ浦(西浦)中岸にて
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# by ryujincho | 2017-12-30 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 12月 23日

『初お目見え/ツルシギ(冬羽)』

12月21日(木曜)、晴れ。
手賀沼周遊。

北岸を走っていたとき、畔にいる1羽のユリカモメが目に入った。
その脇に、何やら見慣れない鳥がいるように見えた。
jitensha を止め、畔を眺めた。
やはり、ユリカモメの脇に、見慣れない鳥がいる。
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水鳥独特の、頭を背に潜らせての休息ポーズなので、顔は見えない。
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しばらく待ったところ、動き出した。
シギの一種であることは分かるが、名前は分からない。
名前は後ほど調べることにして、折角、動き出してくれたことでもあり、シギさんに感謝しながら<鳥見>に集中。
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なかなか可愛らしいシギだ。

さて、鳥の名調べ。
見た目で印象に残る特徴は、オレンジ色の脚。
「シギ 脚 オレンジ色」でネット検索してみた。
ズバリ、これ!といったものにヒットせず。
「シギ・チドリ識別メモ」なるものに目を通す。
この資料は、和名・学名・英名/分布/大きさ/嘴/足/声などが一覧になっている。
「足」の項をひとつずつ見ていく。
オレンジ色の足というのは見当たらない。
赤色の足というのが2種あり、鳥の名を見た。
ツルシギとアカアシシギ。
これらの写真と小生の撮った写真を見比べてみる。
ツルシギかアカアシシギのどちらかであることが分かった。

更に、ツルシギとアカアシシギについて調べてみたところ、「冬羽のツルシギとアカアシシギはよく似ている。見分け方はくちばしの色。ツルシギは下くちばしの基部のみが赤く、アカアシシギは上下のくちばしの基部が赤い」ということであった。

小生の撮った写真のくちばしを見たところ、下くちばしの基部のみが赤いので、ツルシギと判定。

「シギ・チドリ識別メモ」の「分布」の項で、ツルシギは旅鳥となっている。
更に詳しく調べてみた。
ユーラシア大陸の寒帯や北極圏で繁殖し、冬季はアフリカ大陸中部、地中海沿岸、中近東、インド、東南アジアに渡って越冬する。
日本には、旅鳥として春と秋の渡りの時期に全国的に渡来する。
秋よりも春の渡りの方が渡来数は多い。
まれに越冬する個体もある。

今は秋ではなく、冬、しかも1羽だけ。
旅の途中で群れからはぐれ、手賀沼に飛来したのであろうか(群れで旅をするのかは不詳ながら)。
手賀沼で越冬するつもりなのだろうか。
であれば、時折、その姿を見られるかもしれないのだが...。
いずれにせよ、初お目見えのツルシギであった。

フォト:2017年12月21日、手賀沼北岸にて
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# by ryujincho | 2017-12-23 23:33 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 12月 23日

『寒雀』

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広辞苑。
【寒雀 かんすずめ】
寒中の雀。美味で薬になるという。<季語 冬>

昔はスズメの姿焼きなんていうものがあった。
今や、スズメを捕って喰おうなんていう時代ではない。
スズメには安心な時代である。

フォト:2017年12月21日、手賀沼南岸にて
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# by ryujincho | 2017-12-23 23:32 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 12月 23日

『手賀沼ポタリング/対空標示(ヘリサイン)』

12月21日(木曜)、晴れ。
手賀沼一周に出動。

手賀沼東端、曙橋近くでサイクリングロードの路面に「手賀曙橋」と白塗りで大書された文字が目に入る。
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一昨日の午前、にここを走ったときはなかった白色文字だ。
ということは、一昨日の午後が昨日、施工されたこととなる。
「手賀曙橋」をアップで。
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「手賀曙橋」に続く文字もアップで。
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【手賀沼土改】と書かれている。
「土改」は「土地改良」の略だとは思うが、「手賀曙橋【手賀沼土改】」の標識文字はサイクリストや散歩の人に「ここが曙橋ですよー」と知らせるにしては大袈裟な標識文字である。
サイクリストや散歩の人に「ここが曙橋ですよー」と知らせる目的なら、道の脇に1本、「手賀曙橋」と書かれた標識を立てておけば、事は足りると思われる。

曙橋北詰の駐車場にも、同様の文字が白塗り大書されていた(写真はなし)。

帰宅後、「手賀曙橋手賀沼土改」でネット検索してみた。
柏市役所のホームページにヒット。
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これは、国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所が設置した「対空標示(ヘリサイン)」と言われるもので、地震・出水等の災害時に上空から河川の被災状態を把握した位置の特定が迅速に確認でき、また、カメラ映像により河川を上空から撮影した場合、その位置を速やかに特定するための一助となるものだそうです。
「手賀沼曙橋 手賀沼土(地)改(良区)」と書かれています。
縦横3mx3m,2mX2mと大きな文字です。
---------------------------------

なるほど、そういうことだったんだ。

そういえば、いつぞや、荒川サイクリングロードを走っていたとき、路面に白塗りで大書された「鹿浜橋」の文字を見た記憶がある。
これはサイクリストのための標識と思っていたが、そうではなく、対空表示(へりサイン)かもしれない。

フォト:2017年12月21日
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# by ryujincho | 2017-12-23 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 12月 22日

『ジャズ・コンサート』

12月12日、久方ぶりに、関西の盟友、播磨守さんと電子飛脚便交信。
「12月17日、熟年バンド、ジャズのコンサートに出演します」と。
「写真を1枚、送って貰えると嬉しいです」と返信。
12月21日、電子飛脚便と共にコンサートの写真が送られて来た。
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熟年バンドのメンバーの中には、播磨守さんのほか、穴子奉行さん、御典医さん、呑々守さん、本町奉行さんらの盟友の姿もあり。

播磨守さんからの電子飛脚便によれは、演目は次の通り。
シルヴァリー・ムーン
ビギン・ザ・ビギン
メモリーズ・オブ・ユー
ハロー・ドーリー
想いでのサンフランシスコ
テイスト・オブ・ハニー
マンボ No. 5
ムーンライト・セレナード

曲名を見ただけで音色が聴こえて来る。
熟年バンド、よー、頑張ってはります。

フォト:2017年12月17日、播磨守殿提供
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# by ryujincho | 2017-12-22 23:31 | Comments(0)
2017年 12月 17日

『サザンカ』

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サザンカの花を見ると、ツバキとどう違うのだろうといつも思うのだが、調べもせずにそのままに。
で、調べてみた。

主な違いは次の通りであった。
花期:サザンカは10~12月、ツバキは12~4月
花の咲き方:サザンカは平開、ツバキは平開しない
落花:サザンカは花弁がバラバラに散る、ツバキは首から落ちる
実:サザンカは表面に毛がある、ツバキは表面はツルツル

余談ながら、サザンカで思い出すのは、やはり、童謡の『たきび』である。
都内ポタリングで、中野区上高田の「たきびの歌発祥の地」を訪ね、歌詞にある♪垣根の垣根の曲がり角♪を眺めたこともある。
そして、もうひとつ、思い出すのは、芸名、山茶花究、それに連動して、八波六十四の名である。

フォト:2017年12月17日、手賀沼北岸にて
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# by ryujincho | 2017-12-17 23:32 | 花紀行 | Comments(0)
2017年 12月 17日

『手賀沼周遊 2017.12.17』

12月17日(日曜)、晴れ。
手賀沼周遊。
愛馬に跨るのは、12月2日以来、2週間ぶり。

12月1日、今日から師走だ、今月も頑張って走るぞ!と日課の手賀沼を一周。
翌2日も手賀沼へ、しかし、5kmばかり走ったところで、体調不良を感じる。
普段、手賀沼一周は大したことではないと思っていたが、このときばかりは無理と感じ、Uターンして帰宅。
過去、所期の目的を達せず、途中リタイアしたのは一度しかないと記憶。
それは、利根川CRから利根運河CRを経由して江戸川CRを走り、江戸川河口を目指していたとき、疲れを感じ、江戸川CRから外れ、最寄り駅の松戸から輪行、帰宅したことがあった。
このときは30kmくらい走ってからのことだったが、今回は5kmほどだったので、Uターン帰宅は大いにショックであった。
ショック払拭のため、しばらく休養、そして、本日の出動となった次第。

手賀沼東端、曙橋にて。
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手賀沼を眺める。
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手賀川を眺める。
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空高く飛ぶ、カワウ。
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沼と川を行ったり来たりして泳ぐ、カンムリカイツブリ。
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快走にて手賀沼一周。
ショック、払拭が叶う。

フォト:2017年12月17日
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# by ryujincho | 2017-12-17 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 12月 14日

『赤穂浪士討入凱旋の旅(下の巻)』

12月14日(木曜)、晴れ。
赤穂浪士吉良邸討ち入りのこの日、高輪泉岳寺の義士祭に出掛けた。
しばし、泉岳寺で過ごし、そのあと、泉岳寺に程近い、浪士らの御預け四家のひとつ、細川家下屋敷跡へ。
そして、来た道を戻り、再び、泉岳寺山門脇へ。

大石内蔵助の辞世を思い浮かべつつ、像を見上げる。
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大石内蔵助の辞世。
あら楽し
思ひは晴るる
身は捨つる
浮世の月に
かかる雲なし

因みに、「あら楽し」が「あら楽や」となっている文献もある。

なお、大石内蔵助の実際の辞世は次の通りとも言われている。
極楽の
道はひとすぢ
君ともに
阿弥陀をそへて
四十八人

やっぱり、「あら楽し...」が内蔵助さんらしくていいんじゃないかと思うのだが、さて...。

大石内蔵助像に関わる説明書き。
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大石内蔵助銅像
この銅像は、浪曲の宗家、桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に序幕したものです。
内蔵助が、当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。
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Bronze statue of Oishi Kuranosuke
The leader of the Ako Gishi r 47 loyal retainers who the attack on Kira's residence.
The statue was built in 1921.
He holds a roll listing the name of the loyal retainers.
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「浪曲の宗家、桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもの」とある。
浪曲と講談は異なるが、2001年、2002年、2003年と赤穂で忠臣蔵三百年祭が開かれた際、東西の講談師が赤穂に集結し、義士伝が演じられたことが思い出される。
何故、3年に亘り、忠臣蔵三百年祭が開かれたのか、それは、松の大廊下事件により浅野内匠頭が切腹した1701年(元禄14年)から300年、赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入った1702年(元禄15年)から300年、そして、寺坂吉右衛門を除く46名が切腹した1703年(元禄16年)から300年と、赤穂は三度、三百年祭を執り行ったのであった。
2000年から関西に単身赴任した小生は、赤穂に出掛け、これら三度の三百年祭を体験し、その中で、講談も耳にしたのであった。
記憶に残っているのは、女流講談師、神田紅が立て板に水ですらすらと四十七士の名を挙げたことであった。
流石、プロだなと思った。

大石内蔵助像の英文説明書きに"loyal retainers "とある。
この言葉を見て、思い出したことがある。
それは、2000年に綴った「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>で次のようなことに触れたことだ。
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<The Loyal Ronins>
日露戦争終結後、米国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、1905年(明治38年)、米国ポーツマスにおいて日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテの間で日露講和条約が結ばれた。
セオドア・ルーズベルトは日露の仲介を積極的に行い、且つ、日本贔屓であったので、小村寿太郎がその理由をセオドア・ルーズベルトに問うたところ、彼曰く、「自分は『忠臣蔵』を読んだことがある。忠誠心の深い日本人が大好きだ」と。
因みに、英訳「忠臣蔵」のタイトルは”The Loyal Ronins”である。
一度、読んでみたいものだ。
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幟旗「忠臣蔵を大河ドラマに 義士親善友好都市文流会議」。
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NHK大河ドラマで赤穂浪士を題材としたのは、『赤穂浪士』(1964年)、『元禄太平記』(1975年)、『峠の群像』(1982年)、『元禄繚乱』(1999年)の4作である。
1999年以来、暫く、途絶えている。
2020年の東京オリンピックの年に、”The Loyal Ronins”と題し、放送されると期待したい。

ポスター。
山門脇のこの位置にポスターが貼られるのも毎年恒例である。
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右側のポスターは、新橋演舞場/舟木一夫特別公演『通し狂言 忠臣蔵 花の巻(昼の部) 雪の巻(夜の部)』。
大石内蔵助は舟木一夫、浅野内匠頭は尾上松也、吉良上野介は里見浩太朗。
舟木一夫は顔立ちからして浅野内匠頭であろうが、芸能生活55周年とのことなので、大石内蔵助を演じるのもよかろう。
吉良上野介は悪役の似合う役者というのが相場ではあるが、二枚目の里見浩太朗が演じるというのはなかなかに面白そう。

昔の正月映画はオールスターキャストでの「忠臣蔵」、「赤穂浪士」が定番であった。
特に東映、大石内蔵助は片岡千恵蔵、浅野内匠頭は大川橋蔵。
その後の、年末年始の長時間テレビ・ドラマに。
先日、日本テレビで再放映された、年末時代劇スペシャル『忠臣蔵』(1985年)を観た。
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1985年当時、この『忠臣蔵』を観た記憶はなく、興味深く観た。
大石内蔵助は里見浩太朗、浅野内匠頭は風間杜夫、そして、吉良上野介は、何と、森繁久彌。
松の大廊下で、吉良が浅野を苛めるとき、「田舎侍」とか「鮒侍」と呼ぶのが通例(?)かと思うが、このドラマでは、贈り物が鰹節5本であったことから、これに引っ掛けて、「かつお武士、かつお武士」と言いながら苛めていた。

このトラマの中で、浅野内匠頭刃傷のあと、御側用人、柳沢吉保が将軍綱吉に刃傷があったことを報告する際、「処罰のことはのちのこととして、勅使饗応役の代わりは如何致しましょうか」とお伺いを立てると、「下総佐倉の戸田能登守にさせい」との綱吉の言葉があった。
こうした代役の名が出た映画やドラマはこれまでに観たことはなかった。

で、下総佐倉の戸田能登守について調べてみた。
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戸田 忠真(1651年-1729年)
江戸城中で勅旨饗応役浅野内匠頭が高家吉良上野介に斬りつける事件があった際、急遽、勅使饗応役の代役を担当した。
急遽の大任を果たしたにも拘らず、将軍綱吉の不興を買ったのか、同年のうちに下総佐倉から越後高田に移封となった。
将軍綱吉が死去した後、下野宇都宮へと再度関東への移封(帰還)となり、戸田家は高田より雪の少ないことを大いに喜んだ。
後年、老中を務めた。
(ウィキペディア等より抜粋)
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以前から代役は誰が務めたのであろうかと思っていたこともあり、このドラマで新しい知識を得ることが出来た。

余談続きに、テレビ・ドラマの話をもうひとつ。
現在、BS12 トゥエルビで、三船敏郎主演のテレビ時代劇『大忠臣蔵』(1971年、全52話、NET、三船プロダクション作品)が再放映されている。
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この『大忠臣蔵』は全52話の大長編であるから、講談や浪曲でいうところの、刃傷から討入・切腹に至るまでを語る〈本伝〉に加え、討入に参加した四十七士のエピソードを描いた〈義士銘々伝〉、周辺の人物を扱った〈義士外伝〉なども織り込まれている。

吉良上野介が浅野内匠頭を苛めた背景は物語によって異なるが、そのひとつに、吉良上野介は赤穂の製塩方法を吉良郷にも取り入れたいと思い、その伝授を頼むも浅野内匠頭をそれを断ったということがある。
三船敏郎の『大忠臣蔵』では、国許の大石内蔵助が江戸で吉良の要請を断ったことを知り、それでは殿が危うい立場になると慮り、製塩方法を記した巻物を携えた早馬を江戸へ遣り、無事に届くも、浅野内匠頭は「それには及ばぬ」と吉良に渡すことはなかったという場面があった。
全52話の大作であるからこその、こうした肌理細かい物語の展開が織り込まれており、流石、三船プロダクションだと思った。

中門を抜け、外に出る。
武衛さん曰く、「夜、また、泉岳寺に来ます」。
「えっ?何故?」。
「孫がスマートボールを遣りたがっているんです。去年、景品をゲットしたもんで、今年も遣りたいと」。
「境内、参道、門の外と露店は並んでいますが、スマートボールは見当たりませんね」。
近くの露店の小粋な姐さんに尋ねたみた。
「ちょいとお尋ねしますが、スマートボールの店が出ているでしょうか」。
「最近、店の数が減っていますんで、さて?」。
「お忙しいところ、スミマセン。探してみます」。
中門前の通りを南側へ下ってみた。

あった、露天が居並ぶ一番端っこに。
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武衛さんと孫さんは、今夜、吉良邸ならぬ、このスマートボール屋へ討ち入りだ。

「この近くに、武衛さん御用達の床屋がありましたね」。
「第一京浜沿いです。ちょっと寄ってみましょう」。
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11:50、泉岳寺駅から新宿へ。
鮨屋で、Yさん、Kさんと中学同窓会の幹事会(同窓会を開催する予定はないのだが)。
久しぶりの会で、大いに会話は弾んだ。
御酒を三合も頂戴してしまった。

夕、武衛さんより夜の泉岳寺義士祭の様子を伝える電子飛脚便と写真が届いた。
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予定通り、孫を義士祭に連れて行きました。
昼は年配者が主体でしたが、夜は会社帰りの勤め人が結構来ていました。
写真は7時ころですが、子供も多く出ていました。
孫は、案の定、スマートボール台に!
最近の香具師は、小さい子でもビンゴが取れるようにおまけをしたり、サービスのコツを知っています。
お陰で常に満席でした!
写真は「義士祭夜の賑わい」です。
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昼も夜も大勢の人出。
老若男女、みんな、赤穂浪士が大好き!なのである。
もちろん、小生も含め、であることは申すまでもなきこと。

泉岳寺義士祭、そして、新宿でのミニ同窓会。
師走の14日は、いい1日を過ごすことが出来た。

フォト:2017年12月14日

(完)
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# by ryujincho | 2017-12-14 23:33 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 12月 14日

『赤穂浪士討入凱旋の旅(中の巻)』

12月14日(木曜)、晴れ。
赤穂浪士吉良邸討ち入りのこの日、高輪泉岳寺の義士祭に出掛けた。
しばし、泉岳寺で過ごし、そのあと、泉岳寺に程近い、浪士らの御預け四家のひとつ、細川家下屋敷跡へ。

細川家下屋敷跡へは「御預け四家を訪ねて」ポタリングで幾度か訪ねており、道に迷うことはない。
泉岳寺山門脇から高輪高校脇の細道を抜け、坂道を上り、二本榎通りへ出る。
通りを横切り、旧高松宮邸と都営アパートの間の道を入ると、細川家下屋敷跡が見えて来る。

細川家下屋敷跡。
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赤穂義士史跡碑
正義を愛し名節を重んずる者は暫くここに歩を停めよ
此処は徳川時代細川邸の跡
実に赤穂義士の総帥大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である
昭和三十五年三月二十日
財団法人 中央義士会
東京都教育委員会
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自刃せる義士左の如し。
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大石良雄外十六人忠烈の跡。
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東京都指定史跡
大石良雄外十六人忠烈の跡
所在地 港区高輪1の4、6~16
標識 大正7年4月
指定 昭和30年3月28日

この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら一七人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部です。
赤穂事件とは、元禄14年(1701年)3月14日におこった殿中刃傷事件とその翌年12月14日夜から15日にかけての吉良邸討ち入り及びその一連の事件のことをいいます。
当時の藩主五代綱利は、老中稲葉肥後守からの御預けの命を受けると、大目付仙石伯耆守の屋敷に総勢875人の藩士と駕籠を送り引き渡しを受けます。
このような大部隊を送ったのは、大藩の威武を示すとともに、上杉家の襲撃を警戒したためといわれています。
細川家は、大藩の威厳と識見をもって優遇し、御預け四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。
元禄16年(1703年)3月4日午後2時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹の申渡しを受け、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存知奉り候」と礼を述べました。
切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を背負った位置でした。
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細川家のことのみをここに掲載するのは片落ちとなるので、御預け四家について触れておきたい。
肥後熊本藩細川家下屋敷/大石内蔵助ほか17名御預け切腹(所在地は高輪/泉岳寺脇を上がる) 
三河岡崎藩水野家下屋敷/間十治郎ほか9名御預け切腹(所在地は芝/田町駅、慶応仲通り商店街)
伊予松山藩松平家下屋敷/大石主税ほか10名御預け切腹(所在地は三田/イタリア大使館)
長門長府藩毛利家下屋敷/岡島八十右衛門ほか10名御預け切腹(所在地は六本木/テレビ朝日傍) 

四家お預けに絡んで、巷間、「細川の 水の流れは 清けれど ただ大海の 沖ぞ濁れる」なる狂歌が詠まれた。
2008年、初めて、「お預け四家を訪ねて」ポタリングをしたとき、水野家下屋敷の説明書きで、この狂歌を知った。
「細川の」は細川家、「水の」は水野家、「大海の」は(海(かい)と毛利甲斐(かい)守を引っ掛けて毛利家、「沖ぞ」は沖(おき)と松平隠岐(おき)守を引っ掛けて松平家を読み込み、細川家と水野家は浪士らを丁重に扱ったが、毛利家と松平家はそうではなかったという落首である。

この狂歌の通り、細川家と水野家は厚遇であったが、その厚遇の度合いを比べると細川家の方が相当に厚遇であったようだ。
例えば;
①上記の説明書きにもある通り、藩主細川綱利自らが浪士らに引見したとのこと(他の三家は家老クラス)。
②浪士らの生活は座敷であったとのこと(他の三家は侍長屋)。
③浪士らが手紙をしたためことを制限しなかったとのこと(他の三家は幕府に都度お伺い)。
④食事は豪華で酒も付いていたとのこと。大石内蔵助は1年8ヶ月の浪人生活で粗食に慣れ、ご馳走は胃にもたれるので、粗食に変えて欲しいと申し入れるも聞き入れられなかったとのこと。
⑤大石内蔵助以下17名切腹の後、幕府から細川家下屋敷に切腹の庭を清めるための役人が派遣された時、藩主細川綱利は「ここで果てた勇士たちは、屋敷のよき守り神なので、庭を清めるには及ばない。そのままにしておくように」という意味のことを言ったとのこと。

泉岳寺は大勢の人出であったが、ここ、細川家下屋敷を訪ねる人は僅か。
我々が訪ねたときは、ほかに男性二人組だけであった。

フォト:2017年12月14日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-12-14 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 12月 14日

『赤穂浪士討入凱旋の旅(上の巻)』

12月14日(木曜)、晴れ。
赤穂浪士吉良邸討ち入りのこの日、高輪泉岳寺の義士祭に出掛けた。

高輪泉岳寺の様子を綴る前に、前置きを少々。

毎年、本所松坂町(現・ 両国)吉良邸跡から高輪泉岳寺まで「赤穂浪士討入凱旋の旅」と称し、jitensha で走っている。
両国・吉良邸跡周辺での「元禄市・吉良祭」は12月14日の直近の土日曜に開される。
高輪泉岳寺での「義士祭」は、曜日に拘らず、討入の日に合わせ、12月14日に催される。
我らの「赤穂浪士討入凱旋の旅」の挙行日は、土日曜が12月14日であれば、その日に、そうでなければ、その直近の土日曜に挙行ということを原則としている。
今年の「赤穂浪士討入凱旋の旅」は、12月9日(土曜)、武衛さん、南国守さん、小生の3名にて挙行することと相成っていたが、諸般の事情により挙行見送りとなり、本懐を遂げることが出来なかった。
しかし、どうも、それでは落ち着きがよろしくない。
ということで、12月14日の午前、高輪泉岳寺へ電車で馳せ参じることとした。

遠方の南国守さんへの連絡は見送るも、都内在住で、泉岳寺はほぼ地元の武衛さんに「本日は12月14日、赤穂浪士討ち入りの日。討入凱旋ポタ」は見送りとするも、どうも落ち着きがよろしくなく、本日、昼、新宿で所用があることでもあり、その前に1時間ほど、泉岳寺へ立ち寄ろうと思い居りまする。10:48 泉岳寺駅着~泉岳寺~11:50 泉岳寺駅発新宿へ、との予定です。ご一報まで」と電子飛脚便を遣わした。
すると、「某もその時間帯に馳せ参じまする。10時50分に泉岳寺駅改札にて」との返信があった。

泉岳寺。
中門。
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山門とその脇に立つ大石内蔵助像。
これら二つを一緒に撮りたいと以前から思っていたことでもあり、この日は超広角レンズを携行。
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大石内蔵助像。
これは標準レンズで。
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連判状を手に、決意の眼差し。
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山門をくぐり、境内へ。
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本堂。
先ず、参拝。
そして、本堂の表に張られたを幔幕を眺める。
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藩主、赤穂浅野家の家紋は「違い鷹の羽」、国家老、大石家の家紋は「二つ巴」。
2000年の秋、赤穂の浅野家菩提寺、花岳寺を訪ねたときも浅野家と大石家の家紋が染め抜かれた幔幕が張られていた。
そのときのことを綴った「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>を読み返してみると、「本堂に張られた幔幕には、主君と家来の関係にも拘らず、浅野家の家紋と大石家の家紋が並列で並んでいた。大石の功績からすれば、それは当然のことか。」と綴っている。
今も同じ思いである。

本堂から山門方向に境内を眺める。
大勢の人出。
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浅野内匠頭、瑤泉院、浪士らの墓所へ向かう人々の長い、長い行列。
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右手のテントは中央義士会の書籍販売所(兼)赤穂義士何でも相談所。
いつそや、書籍販売所のテントで中央義士会の会長さんに声を掛けたことがあった。
残念ながら、今日は会長さんの姿は見当たらない。

行列は墓所の門へと続く。
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或る年、雨天で本所松坂町吉良邸跡から高輪泉岳寺までの「赤穂浪士討入凱旋の旅」の挙行が出来なかったとき、今回と同様に、午前中に、電車で泉岳寺を訪れたことがあった。
そのときも、墓所に入る人数を制限するため、ロープを張り、交通整理をしていたことを思い出した。
それはいつのことだったろう?と記録を紐解いてみたところ、「2008年12月14日(日曜)、高輪泉岳寺~本所松坂町吉良邸跡(電車&徒歩)」と記されていた。
更に、「12月27日(土曜)、赤穂浪士討入凱旋の旅&御預け四家の旅、挙行」と記されており、日を改めて、本所松坂町吉良邸から高輪泉岳寺までの討入凱旋の旅を挙行し、且つ、御預け四家も訪ねているのであった。

長い行列であることを言い訳にして、墓所でのお参りはいずれ日を改めてとし、行列の脇からお参りとし、境内を出る。
今一度、山門脇の大石内蔵助像を見上げる。
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泉岳寺をあとにして、御預け四家のひとつ、細川家下屋敷跡へと向かう。

フォト:2017年12月14日
フォト#1、2、6~13/超広角レンズにて撮影

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-12-14 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 12月 11日

『カタバミ』

先月末、江戸時代の豪農、吉田家住宅(柏市)を見学した。
吉田家の家紋は「かたばみ(片喰)」。

カタバミ。
葉は、ハート型の葉がクローバーのように3枚合わさった形。
花は、春から秋にかけて咲き、色は黄色、花びらは5弁。

師走11日、散歩の途中、ハート形3枚の葉をもった、こんな花が目に入った。
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葉はカタバミに似ているが、花の色が違う。
この時期、紫色の花を咲かせ、葉はハート型3枚の花の名は?
調べてみたところ、イモカタバミとムラサキカタバミが候補に浮上。
イモカタバミの花はオシベが黄色、ムラサキカタバミの花がオシベが白色とのことで、イモカタバミと判定。
イモカタバミ、ムラサキカタバミ、いずれも観賞用として渡来し、のちに野の花にもなったとのこと。

さらに、こんな花も目に入った。
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花の色は白、葉は3枚だが、ハート型ではなく、丸っぽい。
この花の名はすぐに、フヨウカタバミと判明。
これも観賞用として渡来したとのこと。

さらに、こんな花に出遭った。
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花の色は紫。
葉は3枚だが、丸っぽい。
よく見ると、少しだけ凹部があるが、ハート型ほどには切れ込んでいない。
先ほど見たイモカタバミかとも思うが、そう判定するには、葉のほかに、、花びらの形も違うように見える(
花はしぼんでいるものもあり、花びらの形ははっきりとは分からないが)。
取り敢えず、、イモカタバミの<亜種>としておこう。

花の名に疎い小生だが、家紋のお陰で、カタバミ数種の名を知ることが出来た。

フォト:2017年12月11日
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# by ryujincho | 2017-12-11 23:31 | 花紀行 | Comments(0)
2017年 12月 10日

『陸王』

12月10日(日曜)。
TBSドラマ/日曜劇場『陸王』第7話を観る。
NHKのドラマはよく観る方だが、それに比べると民放のドラマは殆ど観ない。
そういうことなのだが、たまたま、『陸王』の第2話を観たところ、これがなかなか面白く、ずっと見続けている。
面白いと思うのは、物語の中身そのものもあるが、ドラマの舞台が行田市ということもある。

行田市は、東日本最大の古墳群である「埼玉古墳群」や「古代蓮の里」、そして、石田三成の水攻めを題材にした映画「のぼうの城」(和田竜 原作脚本/犬童一心、樋口真嗣 共同監督/野村萬斎主演)でお馴染の忍城、そして、足袋の町として有名である。

大輪の蓮の花が咲く季節には「古代蓮の里」へ行ったことがある。
また、ドラポタの面々と浦和から利根大堰まで見沼用水路沿いをポタリングしたときには、途中、行田市に立ち寄り、埼玉古墳群や忍城を訪ねたこともあった。
忍城址内の郷土博物館では、明治以降、行田の基幹産業であった足袋づくりの展示もあり、横綱の足袋で一番デカイのは武蔵丸の足袋であったとの記憶も。

日曜劇場『陸王』第7話の行田市駅伝大会のシーンでは、水城公園や忍城、そして、古墳も登場。
どんな番組でも自分の知っているところが映し出されると嬉しくなるのは毎度のことで、思わず、カメラを取り出し、それらのシーンをカメラに収めた(正確には録画の画面を撮ったのであるが)。

水城公園と忍城(画面、左後方に小さく)。
ポタリングで行田市に立ち寄った際、埼玉古墳群から忍城に向かうときに走ったのが、池の右手の道だった。
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埼玉古墳群。
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埼玉古墳群は、金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳、日本最大の円墳である丸墓山古墳、武蔵国最大の前方後円墳である二子山古墳、そして、将軍山古墳、愛宕山古墳、瓦塚古墳、奥の山古墳、鉄砲山古墳、中の山古墳などからなる古墳群。
画面に映し出されたのは二子山古墳(のはず)。

忍城。
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さあ、物語はいよいよ終盤。
楽しみ、楽しみ...。

大迫に
履かせてやりたい
陸王を 
霹靂火/福岡国際マラソン3位、大迫選手への激励の一句

フォト:2017年12月10日
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# by ryujincho | 2017-12-10 23:32 | 映画三昧 | Comments(0)
2017年 12月 10日

『ドラポタ佐久平支部便り/スキーシーズン、始まる』

12月10日。
輪友、大給守さんより「スキーシーズン、始まる」と題し、小海リエックスの写真が送られて来た。
いい天気。
ゲレンデの下に広がるのは佐久平、流れる川は千曲川、そして、彼方のひときわ、高い山は浅間山。
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大給守さんは、昨年末で江戸勤番を終え、今年初めに信州に隠居。
隠居早々にスキー便りが到来して以来、春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、今冬のスキーシーズンが到来したのだ。

「近々、スキー学校でアルバイト開始。アシスタントをやりながら資格取得の予定」とも。
そういえば、先日、ラジオを聴いていたら、投書はがきで「わたしは高齢者ですが、スキーが得意です。先日も滑降してきて、スッと止まったところ、若い女性スキーヤーから、まあ、素敵と言われました。ゴーグルに帽子ですから、若い男性スキヤーに見られたのかもしれません。でも、素敵と言われると益々励みになります」というようなものもあった。
大給守さんは、スキーが上手くて、スラッと背が高く、「まあ、素敵」と言われる部類であろう。
資格を取得するとも申されており、隠居後も<進化>しているようである。

フォト:2017年12月10日、大給守殿提供
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# by ryujincho | 2017-12-10 23:31 | ドラポタ佐久平支部便り | Comments(0)
2017年 12月 09日

『心象風景/レグルス』

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夕方の3時頃、手賀沼公園を散歩。
水辺でユリカモメと戯れる人々にカメラを向けた。
間もなくすれば、夕陽と化する太陽がまぶしく輝く。

これは、ターナーが描く「レグルス」風だなあと思った。

ターナーは好きな画家のひとりだ。
ターナーの絵は、1990年前後、ロンドンに住まいしていた頃にテイト・ギャラリーにて、そして、近年では2013年秋の東京都美術館のターナー展にて鑑賞。

「レグルス」の作品紹介はこうだ。
陽光の黄色く、まばゆい光が空を覆い、海面に反射する。
その色彩の美しさに目を奪われる。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの代表作の一つ「レグルス」。
紀元前のローマ軍の将軍レグルスが、太陽の光で失明してしまうという逸話を題材にした。
降り注ぐ光が劇的な効果を演出している作品だ。

「レグルス」に描かれた太陽はキャンバスからはみ出すくらいに大きい。
そして、油絵なのに自然光の如くに、いや、それ以上にまぶしい。
ターナーが描く、あの「レグルス」の光を、もう一度、見てみたいものだ。

フォト:2017年12月9日
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# by ryujincho | 2017-12-09 23:31 | 心象風景 | Comments(0)
2017年 12月 05日

『或る日の朝な夕な』

12月5日。
朝6時半、外は霧、霧、霧。
2時間ばかり過ぎ、外を見ると<雲海>。
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西方、霧の向こうの遥か彼方にはうっすらと富士の山。
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朝霧の彼方にうっすらと見えていた富士も、夕暮れときにはくっきりと。
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富士から目を転じて、夕暮れときの東京スカイツリー。
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フォト:2017年12月5日
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# by ryujincho | 2017-12-05 23:31 | Comments(0)
2017年 12月 01日

『鳥の群れ、二題』

12月1日。
朝からどんよりとした空模様。
天気予報では午後から晴れ間が出るとも。
午後2時頃から空が明るくなって来た。
今日は師走朔日、今月も頑張って走ろうと愛馬を駆って手賀沼へ。

手賀沼北岸。
畔の枯れ枝の向こうに、コブハクチョウの群れ。
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1羽が近づいて来て、ハクチョウ体操を見せてくれる。
羽の運動。
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首の運動。
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手賀沼北岸、東端近く。
カモの群れ。
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かもとりごんべえさんは何処に?と探すも、その姿はない。

フォト:2017年12月1日
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# by ryujincho | 2017-12-01 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 29日

『近所の紅葉』

11月29日、晴れ。
手賀沼を一周し、自宅の近所まで戻って来た。
そのとき、真っ赤に色づいたモミジが目に飛び込んで来た。
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10日前、成田山公園に紅葉狩りにいったが、生憎の曇り空で、鮮やかさはなかったので、今日は、より一層、鮮やに感じたのかもしれない。

フォト:2017年11月29日
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# by ryujincho | 2017-11-29 23:32 | 花紀行 | Comments(0)
2017年 11月 29日

『オオバン』

オオバン。
手賀沼公園。
水際からかなり離れたところで餌をついばんでいるオオバンの姿が目に入った。
陸に上がっていてるときに人が近づくと直ぐに水に飛び込んでしまう、どちらかというと臆病な鳥だから、遠くから鳥見。
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ズームアップで、カメラを通して鳥見。
しっかりと正面顔を見せてくれたオオバン。
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しっかりと弁足を見せてくれたオオバン。
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フォト:2017年11月29日、手賀沼公園にて
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# by ryujincho | 2017-11-29 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 26日

『コサギ vs ダイサギ/陣取り合戦』

1羽のコサギが杭に止まっていた。
そこへダイサギが飛んで来た。
足で蹴りを入れるが如くに「おれにとまらせろ」と。
「なにぃー」」と先にとまっていたコサギも負けてはいない。
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フォト:2017年11月26日、手賀沼南岸にて
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# by ryujincho | 2017-11-26 23:33 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 26日

『コサギと小舟』

手賀沼北岸のいつも同じ場所に繋がれた小舟。
前々回は、超広角レンズで「陽光と小舟」を撮った。
前回は、フツーの広角で「陽光と小舟」を撮った。
今回は「コサギと小舟」を。
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フォト:2017年11月26日、手賀沼北岸にて
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# by ryujincho | 2017-11-26 23:32 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 26日

『モズの目』

モズ。
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捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む「モズの速贄(はやにえ)」という言葉がある。
その言葉からすると、モズは獰猛な鳥のような感じがする。
しかし、モズの目は意外と優しそうに見える。
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フォト:2017年11月26日、手賀沼北岸にて
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# by ryujincho | 2017-11-26 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 25日

『旧井上家土蔵SPレコードコンサート』

11月25日、晴れ。
布佐の旧井上家住宅の土蔵でSPレコードコンサートが開かれるというので、手賀沼CR、手賀川CRを走り、布佐へ。
この時期にしては珍しく、東の風で向かい風。

旧井上家住宅。
表門。
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主屋。
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主屋内部。
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井上家は、江戸時代前期から江戸尾張町(現:銀座)で食料雑貨商「近江屋」を営んでいたが、4代目の井上佐次兵衛の代に「享保の改革」の一環として実施された手賀沼の干拓事業に参入すべく、利根川舟運の主要な港町、布佐郊外に移り住み、相島新田を開いた豪農である。

SPレコードコンサート会場の、新土蔵。
新土蔵は昭和期に建てられたもの。
隣の保存整備工事中の建物は江戸末期に建てられた土蔵。
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「土蔵でSPレコードコンサート」。
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銘板”Brunswick”。
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ブランズウィック社は、もともと、ビリヤード台やボーリング場の製造と設備、高級家具の製造で知られたアメリカ最大手の木工メーカー。
同社による蓄音機の製造は1916年に始まり、後発のメーカーながらもエジソン社の蓄音機のケースを製作していた強みを生かし、ビクター社と並ぶ程の蓄音機メーカーに成長したという。
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竹針。
右下の針はサボテン針のようだ。
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レコード針を眺めながら思い出すのは幼き頃のこと。
小学校の低学年の頃までは、SPレコードであった。
針は、竹針やサボテン針ではなく、鉄針を使っていた。
親から言われたことは、「2回、掛けたら、針は換えるんだよ」であった。
数あるSPレコードの中で、お気に入りはロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」であった。
裁縫用の長い物差しを腰に差し、首に巻いた風呂敷をはためかせながら、曲に合わせ、部屋の中を走り回っていた。
当時は、走り回れるほどの、結構大きな家に住んでいたのであった。
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プログラム。
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エンリコ・カルーソー(1873-1921)/伊テノール歌手、ナポリ民謡「オーソレ・ミオ」
アメリータ・カルクルチ(1882-1863)/伊コロラトーラ・ソプラノ歌手、アダン「きらきら星変奏曲」
フォオドール・シャリアピン(1873-1938)/露バス歌手、ロシア民謡「ステンカ・ラージン」
リリー・ポンズ(1904-1976)/仏コロラトーラ・ソプラノ歌手、アリアビエフ「ナイチンゲール」
イポリカ・ツィツェル(1906-1971)/洪バイオリニスト、ポリアキン「カナリア」、プラーガ「天使のせれなーで」
パブロ・カザルス(1876-1973)/西チェリスト、バッハ「G線上のアリア」、バッハ「アンダンテ」
エディット・ピアフ(1915-1963)/仏シャンソン歌手、「ばら色の人生」
小唄勝太郎(1904-1974)/端唄「都々逸」

我々の世代でも馴染みのある演奏家が幾人かいる。
カルーソーは、オペラ史上、最も有名なテノール歌手の一人として、我々の世代でもその名を知っている。
シャリアピンは、来日時に帝国ホテルで所望し、調理された「シャリアピン・ステーキ」でも名を残している。
20世紀最大のチェリスト、パブロ・カザルスが1961年、ケネディ大統領に招かれ、ホワイトハウスで世界平和を願い、演奏したカタロニア民謡「鳥の歌」のCDは今も愛聴している。
エディット・ピアフが歌う「ばら色の人生」、シャンソンにはSPレコードの音がよく似合う。
アンコールはイブ・モンタンが歌う「枯れ葉」、名曲である。

SPレコードからLPレコードへ、そして、CDへ。
LPレコードとCDは、しばらく併用していたが、1990年代半ば、遂に、メモリアルな数枚を残し、泣きの涙で、数百枚のLPレコードを処分した。
以来、ずっとCDで音楽を楽しんでいる。
近年、ダウンロードとか、イヤフォンで聴くとかで、音楽を聴くということが随分とお手軽になってしまった感がある。
今日、こうしてSPレコードの音に触れ、昔の人が苦労して開発したアナログレコードの功績に思いを馳せ、また、今も蓄音機とSPレコードを大事にしながら、その音色を楽しんでいる人たちに敬意を表したい。
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手賀川CR、手賀沼CRを走り、帰途に。
往路、向かい風であった東風は、帰路は追い風に。
11月下旬の夕方3時過ぎともなれば、陽も落ち掛けて寒い。
だが、SPレコードコンサードの司会者さんの言葉を思い出し、寒さに負けず、しっかりとペダルを踏むのであった。
その司会者さんの言葉は、「土蔵の中は寒いですが、SPレコードの音は暖かいです」であった。

フォト:2017年11月25日
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# by ryujincho | 2017-11-25 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 21日

『下総国史跡めぐり/相馬郡衙正倉跡』

11月21日、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと、平将門伝説の地である、日秀将門神社、将門の井戸、観音寺の日秀観音と首曲がり地蔵を訪ねた。

日秀観音寺の首曲がり地蔵の脇にでいいものを<発見>した。
それは「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識であった。
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これまでに、武衛さんと国府跡・国分寺跡めぐりをして来たこともあって、国府跡(国衙跡、国庁跡)のみならず、郡衙についても大いに興味があった。
しかしながら、国府跡(国衙跡、国庁跡)のみならず、郡衙跡もめぐるとなれば、相当の労力が必要であり、これまでに訪ねた郡衙跡は上野国新田郡庁跡(群馬県太田市天良町)だけであった。
ここで、「相馬郡衙正倉跡」の標識に遭遇したことを首曲がり地蔵さんのお導きと感謝するのであった。

下総国について。
昨年5月、下総国の国府跡(推定地)と国分寺跡・国分尼寺跡を訪ねた。
そのときに、ベンキョーした下総国のことについてここでリピートしておきたい。
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律令制以前には、印波、千葉、下海上の国造が置かれていた。
律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11の郡(評)をもって令制国としての下総国とした(のちに豊田郡が加わる)。
国府は現在の市川市国府台付近に置かれ、国級は大国に位置づけられた。
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現在、この周辺で「相馬」の名を残しているのは、茨城県北相馬郡利根町のみである。
明治期、「相馬」は利根川を挟んで、北相馬郡と南相馬郡に分かれていたが、南相馬郡は東葛飾郡に編入され、消滅した。
因みに、徳川家康の利根川東遷事業による利根川の付け替え河川改修以前は、利根川は野田市関宿あたりから江戸へ流れ込んでいたので、「相馬」は大きな川に隔てられることなく、一体であった。
余談ながら、福島県の「相馬」は、中世、下総国相馬郡で起こった有力武士、相馬氏が同地へ移り住んだことに由来する。

さて、日秀観音寺の首曲がり地蔵の脇の標識、「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識にまで話を戻す。

郡衙跡にも興味のある武衛さんと小生は、この標識を<発見>し、首曲がり地蔵さんのお導きと大いに喜んだ。
標識の「↑ 700m」は南へ700メートルのことで、先ほど走って来た道だが、道沿いは「相馬郡衙正倉跡」の標識は見当たらなかった。
スマホを取り出し、「相馬郡衙正倉跡」を検索してみた。

千葉県教育委員会のホームページにヒットした。
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相馬郡衙正倉跡
所在地 我孫子市日秀字西60-6の一部ほか
概要
相馬郡衙正倉跡(日秀西(ひびりにし)遺跡)は、千葉県立湖北高等学校の建設に伴い発掘調査が行われ、その中心部分の様相が明らかになった遺跡である。
郡衙とは古代(奈良・平安時代)の郡の役所全体を指す名称で、正倉とは徴収した税である稲などを納めた倉庫群を指す名称である。
かつての相馬郡は現在の我孫子市、沼南町と柏市の一部、さらに利根川を挟んだ茨城県取手市、利根町、藤代町に相当すると考えられている。
(以下、省略)
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千葉県立湖北高等学校の建設に伴い、発掘調査されたとある。
県立湖北高校を目指せばよいということになるが、さて、高校は何処にあるのだろうか?
そう思ったとき、散歩中の婦人があらわれた。
「湖北高校への道順を教えていただきたいのですが」。
「湖北高校はなくなり、今は特別支援学校になっています。成田線の踏切を渡って、右へ行くと学校が見えて来ます」。

「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」の標識をよく見ると、その下に「県立湖北特別支援学校」と書かれている。
更によく見ると、「県立湖北高等学校」と書かれた上に新たに「特別支援学校」の紙が貼られているのであった。
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教えられた通り、踏切を渡り、右へ行く。
学校らしき建物が見えて来た。

正門脇の説明板/相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)。
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相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)。
古代の日本では行政区分として東北から九州が六十の国に、さらに国が複数の郡に分けられ、国の中心には国府、郡の中心には郡衙(郡家)という役所が置かれ、地域における支配を担っていました。
我孫子市周辺は下総国相馬郡とされてきましたが、中心となる相馬郡衙がどこにあるかは長らく謎のままでした。
昭和53年(1978年)、千葉県立湖北高校校舎建設に伴って(財)千葉県文化財センターによる日秀西遺跡発掘調査によって多数の遺構を確認しました。
1期(6~7世紀末)は竪穴建物188棟からなり、我孫子市内でも有数の古墳時代後期の大集落です。
2期(7世紀末~8世紀中頃)は竪穴建物を排除して掘立柱建物7棟が建てられ、3期(8世紀中頃~9世紀初頭)は東西120m、南北54mの広場を取り囲むように倉庫建築に用いられている総柱式掘立柱建物や礎石式基壇建物34棟が規格性をもって建てられています。
基壇建物の1つからはタガネで半分に割られて地鎮祭に用いられた和同開珎の銀銭が出土したほか、建物の基礎や周囲から大量の炭化米が出土しています。
4期(9世紀初頭~10世紀)は3期建物が火災で焼失した後、掘立柱建物9棟の小規模な区画で再建されたものです。
特に注目されるのは3期の建物で、広場を取り囲む規格性のある建物配置は当時の官衙(役所)遺跡に共通するものであり、相馬郡衙の中核的な施設である「正倉」であると考えられました。
郡衙正倉は、本来、税「租」として徴収した米(稲穀)を凶作時の備え、田植え時の種籾として貯蔵する施設で、在地支配の象徴的な存在でした。
また、3期建物が火災で焼失しているのは奈良時代の正史である『続日本紀』に記載されている神火事件(貯蔵米の不正使用発覚を恐れた郡衙役人による放火事件。各地の郡衙正倉遺跡で火災痕を確認)による可能性があります。
郡衙には正倉の他、郡庁、館(たち)、厨(くりや)、駅家(うまや)などの施設が付随し、郡司などの役人や郡内各地から集まった人々が居住する地域の政治・経済・文化の中心都市であったことが文献に記載され、我孫子市教育委員会が発掘調査を通じて全容の解明につとめています。
相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)は平成7年(1995年)、千葉県指定史跡となっています。
平成18年(2006年)3月
千葉県教育委員会
我孫子市教育委員会
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正倉復元想像図。
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日秀西遺跡、第1期~4期の建物配置。
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左上/第1期(6~7世紀末) 赤色:竪穴建物
右上/第2期(7世紀末~8世紀中頃) 破線:掘立柱建物
左下/第3期(8世紀中頃~9世紀初頭) 破線:総柱式掘立柱建物、黒色四角:礎石式基壇建物
右下/第4期(9世紀初頭~10世紀) 破線:総柱式掘立柱建物

校内には入れない。
学校の周辺をぐるっと回ってみる。
先ず、学校の東側の道を南へ向かい、南東地点から学校とその周辺を眺める。
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学校の東側から北の正門前を通り過ぎ、西側の道を南へ下り、台地の縁、里山の道を走る。
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先ほどの南東地点の台地の下に至る。
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ぐるっと回ったことで、この辺りに相馬郡衙正倉が設けられたことと地形の関係が分かるような気がした。

この辺りに鎌倉街道があるという。
台地の上に続く、鎌倉街道と思しき上り坂を眺める。
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鎌倉街道と思しき道を眺める。
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鎌倉街道は茨城県利根町でも訪ねたことがある。
今回の鎌倉街道がそれに続くものか、それとも別ルートなのかは今後の宿題。

将門伝説の地、我孫子市日秀をめぐり、偶然、「相馬郡衙正倉跡」の標識を見付け、相馬郡衙正倉跡をも尋ねることが出来た。
こうしたことがあるから、やっぱり、ポタリングは止められない。
ポタリングに感謝!である。

フォト:2017年11月21日
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# by ryujincho | 2017-11-21 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 21日

『平将門伝説の地を訪ねて/日秀将門神社、将門の井戸、日秀観音、首曲げ地蔵』

11月21日、晴れ。
平将門伝説の地、日秀将門神社、将門の井戸、日秀観音、首曲げ地蔵を訪ねた。

5ヶ月前、『坂東の豪族 平将門フォーラム』なるものが開催され、聴講。
フォーラムの項目は次のようなことであった。
1.「将門伝説を取材して」
2.地域からの報告「我が町と将門」/取手市、流山市、坂東市、我孫子市
3.「将門の生産力」/「馬」、「鉄」、「布」について

このフォーラムの内容をヒントに、将門伝説の地をポタリングしてみようと思いつつ、実行せぬまま、夏が過ぎ、秋も晩秋となった。
史跡めぐりの相棒、武衛さんは、諸般の事情で半年ばかり jitensha から遠ざかっていたので、彼の足慣らしも兼ねて、手賀沼CR+我孫子市内/平将門伝説の地めぐりポタリングをプランしたのであった。

手賀沼北岸CR、手賀川CRを走り、手賀川に架かる水道橋から北上。
坂道を上り切り、台地に出ると、この辺り一帯が将門伝説の地、日秀(ひびり)である。

地図によれば、将門神社は坂道を上り切った左手奥に鎮座している。
左手奥へと向かう。

日秀将門神社。
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鳥居、そして、奥に真新しい覆屋と祠。
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扁額。
読み取り難い扁額の文字に目を凝らす。
「平親王  将門大明神」と刻まれている。
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真新しい覆屋に施された家紋「丸に揚羽蝶」。
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当神社の由来。
天慶三年(940)、将門が戦没するや、その霊は遺臣等と共に手賀沼対岸から沼を騎馬で渡り、沼の畔の丘の上で日の出を拝したと伝えられている。
その伝説の地に霊を祀り、鎮守としたのが当神社の起こりであるという。

「日秀(ひびり)」の地名は、将門の霊が日の出を拝したからとも、また、その遺臣である日出弾正なる者がこの地に隠栖したことから、「日出(ひいで)村」と呼ばれるようになり、のちに「日出」が「日秀」に変化したといわれている。

日秀将門神社は、手賀川(新田埋め立て前は、手賀川流域も沼であった)を臨む台地のほぼ南端にあり、東向きに鎮座していることから、この地名の由来は成る程!と思うのであった。

この地には桔梗を植えても花が咲かないという桔梗不咲伝説があるという。
また、この地に住む人たちは桔梗を植えたりはしないという。
これは、愛妾、桔梗御前の裏切りによって将門が討たれたとの伝説によるものという。。
更に、この地に住む人たちは成田山には参詣しないという。
これは、将門調伏の祈祷を行った成田山を快しとしないことによるものという。
こうしたことは、「平将門フォーラム」での「我が町と将門」の中で、日秀のみならず、各地に共通する慣習でもあることを知った。

将門神社から「将門の井戸」へ行ってみることにした。

右奥の標識/将門神社、左手前の標識/将門の井戸。
標識「将門の井戸」の右手の下り道が先ほど上って来た坂。
標識「将門の井戸」の手前の細い坂道(写真には写っていない)を下る。
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細い坂道を下って行ったが、井戸らしきものは見当たらない。
ちょうど上手い具合に、立ち話をしている二人の婦人を見付けた。
「将門さんの井戸はどの辺りでしょうか?」。
今、下って来た細い坂道の方を指差し、「この先に電信柱が見えるでしょう。そこが井戸です」と。

将門の井戸。
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「将門の井戸」と書かれた札が脇の樹木に。
井戸らしきものはないが、「将門の井戸」と思しき窪みがあった。
二人連れの婦人に出会わなかったら、探し回っていたかもしれない。
感謝!である。

「将門の井戸」。
承平2年(932)、将門自らが掘り、近くの分城の軍用に供したのが、この井戸であるという。
また、将門が滅亡ののち、興世王(おきよおう)が逃れるときに、将門の守り本尊である観音像をこの井戸に隠し、姿をくらましたともいわれている。

将門の井戸から、再び、細い坂道を jitensha を押し、標識「将門の井戸」まて戻る。
そこから北進し、日秀観音へと向かう。

JR成田線「日秀踏切」。
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踏切を渡り、しばらく進むと国道356号線に行き当たり、その左角が観音寺(日秀観音)である。

観音寺(日秀観音)。
観音堂に安置されている聖観世音菩薩は平将門の守り本尊で、行基の作と伝えられている。
平将門の守り本尊といえば、今月初旬、取手市の長禅寺三世堂が特別公開され、見学した。
この三世堂の説明書きに「縁起によると、織部時平公が、文暦元年(1234)に平将門公以来の守本尊である十一面観音菩薩像を安置するために観音堂を建立したことに始まる」とあった。
このように、極々近い地域であっても、将門の守り本尊について、井戸に隠した伝説、観音寺観音堂の日秀観音、長禅寺三世堂の十一面観音菩薩と三つもあるのであった。
どれが本当なのだろうか?などと野暮なことは考えないことにしたい。

観音寺の境内の一角に、国道365号線に面して安置された「首曲がり地蔵」。
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将門調伏を祈願した成田山に顔を背けている姿だといわれている。

成田山には参詣しないという日秀あるいは将門伝説の地に住まいする人たちには申し訳ないことではあるが、小生は、毎年、成田山新勝寺に初詣に行っている。
数年前、成田山に初詣した数日後に、ドラポタ走り初めで神田明神を参拝したこともあった。
そのときは、おっと、数日前に成田山に参っちまったが、ご勘弁を、と祈りながら随身門をくぐった。
今年2月、九十九里、尾垂の浜の「成田山本尊上陸の地」を訪ねたこともあった。
数日前には、成田山公園へ紅葉狩りにも行った。
一方、今年6月には「将門フォーラム」に参加したり、今月初めには将門ゆかりの、取手市/長禅寺三世堂を見学したりもしている。
バランスよくやっているということで、ご勘弁願いたい。

余談ながら、将門伝説の地のことを綴りながら思い出したことがある。
昨夏、下野国史跡めぐりの中で、下野国庁跡を訪ねた際、隣接の国庁跡歴史館で「下野国印」(推定復元印)を見た。
武衛さんが案内の館員さんに「下野国府が平将門の襲撃を受けたとき、国印はどうなったのですか」と尋ねた。
「国印はさっさと渡しました。すると、平将門軍はさっさと通り過ぎて行きました」という答えであった。

首曲がり地蔵の脇にでいいものを<発見>した。
それは「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識であった。
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この続きは『下総国史跡めぐり/相馬郡衙正倉跡』と題し、続編にて綴ることとしたい。

フォト:2017年11月21日







 
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# by ryujincho | 2017-11-21 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)