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龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/水族館~霞ヶ浦大橋~霞ヶ浦漁師市~高浜』 kk-7

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ヶ浦ポタリング。

坂稲荷山古墳の探訪を終え、次は霞ヶ浦漁師市。
牛渡銚子塚古墳、打越十日塚古墳、坂稲荷山古墳はいずれも台地上であったので、高度確保は出来ており、台地から湖畔に向かって下り坂の<下りま専科>、下った先は、いつも見慣れた、かすみがうら市立水族館である。
時計は午後1時40分を指している。
漁師市に到着した頃にはそろそろ終了時間ではないかと思いながら、坂道を下る。

かすみがうら市立水族館と雲の共演。
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モニュメント「帆引き船発祥の地」と雲の共演。
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霞ヶ浦の湖面と雲の共演。

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愛馬二頭と雲の共演。
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霞ヶ浦大橋西詰。
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高浜入りの向こうに見える筑波山をズームアップ。
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霞ヶ浦大橋を渡る。
想像していた通り、霞ヶ浦漁師市は、ほぼ終わり。
恒例の、わかさきのかき揚げの残りものを頂戴する。
郵便局の出店を訪ねる。
昨年、一昨年と2年つづけて歓談しているNさんと会うのを楽しみにしていたが、Nさんは不在で、若い局員さんがふたり。

物産館で干し芋をゲット。
物産館のテラスから高浜入りの向こうの筑波山を眺める。
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少し、アップで。
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霞ヶ浦西詰から眺める筑波山が好きだ。
物産館から眺める筑波山が好きだ。
そして、もうひとつ、高浜駅のホームから眺める筑波山も好きだ。

物産館で干し芋をゲットし、再び、霞ヶ浦大橋を渡る。

既に、午後3時を過ぎている。
予定では、太子古墳、風返稲荷古墳、風返浅間山古墳、山崎古墳に立ち寄ることとなっている。
しかし、師走の日暮れは早い。
これらを巡っているとJR高浜駅に到着する前に日暮れになってしまうだろう。
これらの古墳探訪は次回の愉しみに残すこととし、霞ヶ浦大橋西詰から湖岸の自転車道を北上する。

途中から向かい風がきつくなってくる。
里山の台地沿いに走れば少しは向かい風をかわすことが出来るだろうと、湖岸の自転車道から外れ、田畑の中を阿弥陀くじのように縦、横の道を辿り、走る。

あの<こんもり>は古墳だろうね、などと話しながら走る。
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アップで。
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鳥居の前を通り過ぎる。
鳥居の脇の、緑の案内板も目に入る。
jitensha を止める。

社号標には「鹿島神社」と刻まれている。
偶然ではあるが、探訪プランに含めていた大崎古墳(石岡市石川)である。
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緑の案内板に目を通す。
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石川自然環境保全地域
この地域は、古墳で、頂部はスギ、ヒノキの針葉樹からなら、斜面は、スダジイ、タブノキ、モチノキ、アカガシ、シラカシなどの照葉樹が優占し、よく暖帯林の様相を示している。
また、タブノキが多いため、アオスジアゲハの個体数が多く、生物学および人文学上貴重な地域です。
なお、地元では通称山崎社とよばれている。
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古墳については、「この地域は古墳で」と一言、触れられているだけである。
通称、「山崎社」とあり、山崎古墳であることは間違いはない。
「タブノキ...アオスジアゲハ」とある。
一時期、虫撮りに熱中し、チョウの写真を随分と撮る中、チョウの食性についてベンキョーしたことがあった。
例えば、思い出すままに;
・オオムラサキ/エノキ(荒川自然公園)
・クロツバメシジミ/ツメレンゲ(岡村島)
・ヒメギフチョウ/カタクリ、ウスバサイシン(赤城山)
・コムラサキ/ヤナギ(手賀沼)
など。

山崎社参道の石段、即ち、墳丘上への道。
上ってみたいが、既に夕方4時半、日暮れも近く、次の機会にとする。
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出発する。
少し走ったところで、未練たらしく、いや、別れを惜しんで、いや、次回を期待して、<こんもり>を眺める。
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(メモ)
山崎古墳に関する詳細は不詳。
分かっていることは;
・墳長40mの前方後円墳
・石川古墳群を形成している
・山崎古墳は石川古墳群1号墳とも呼ばれる
・石川古墳群2号墳もある・・・所在地不詳
という程度である。

日暮れまでにJR高浜駅に到着せねばならない。
先を急ぐ。

左手の彼方に筑波山が見える。
この日の日の入りはは、石岡市、午後4時31分41秒。
現在時(写真データで)午後4時50分。
残照である。
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男体山と女体山の間に、筑波神社の光であろうか、宿の光であろうか、はたまた、ケーブルカーの光であろうか、一点、光が見えている。
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17時5分、高浜駅発に乗車し、帰途に。

今回は、いつもの霞ヶ浦ポタリングとは異なり、湖岸から離れ、台地の上を走ったり、里山沿いを走ったりして、新たなコース開拓が出来たポタリングであった。

こうして、2018年の走り納め、古墳探訪納めが叶った。
走行距離57kmであった。

フォト:2018年12月28日






by ryujincho | 2018-12-29 23:37 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/坂稲荷山古墳』 kk-6

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ヶ浦ポタリング。

折越十日塚古墳から、次の探訪地、坂稲荷山古墳へ。

折越十日塚古墳から北東に走り、南西から東南に向かう一般道に出る。
この一般道を南東に走ると、左手に目印としていたカラオケ店の案内板が現れた(この一般道にも坂稲荷山古墳への案内標識なない)。
一般道を左折し、北東へ向かう。
地図によれば、カラオケ店の北側に坂稲荷山古墳が位置している。
道の左手にカラオケ店が現れた。
カラオケ店を通り過ぎたが、古墳に関する標識はない。
更に走り進むと、左手に、畑を挟んで<こんもり>が見える。
この<こんもり>が古墳であること間違いない。
しかし、古墳へアプローチする道は見当たらない。
そうこうしているうちに、かすみがうらゴルフクラブのコース内に入った。
このコースは、かすみがうらゴルフクラブの南・中・東の三つのコースのうちの南コースである。
ゴルフ場を開発するときに古墳をいっぱい潰したんだろうなと思った(以前、訪ねた、東松山市/三千塚古墳群/雷電山古墳は川越カントリークラブ内にあったので、同じようなことを思ったことがある)。
そんなことを思いながら、カラオケ店のところまで引き返す。

ちょうど、カラオケ店の前でおしぼりを配達する人がいた。
ラッキー!
古墳への入り口を尋ねたところ、カラオケ店に入り、店主殿に話を繋いでくれた。

店主殿が出て来て、「この道から藪の中へ入っていくと古墳へ行けます」と教えてくれた。
店主殿が言った「この道」とは、カラオケ店の直ぐ西隣の畑の畦道であった。
案内板がない中、店主殿に尋ねなければ、如何なる古墳探訪者も「この道」が古墳への道であることは分からないであろう。

「この道」の写真がこれ。
正面の建物がカラオケ店。
舗装路は右へカーブし、そのあとは一直線、左手に畑を挟んで<こんもり>が見え、直進するとゴルフ場へ、となる。
「この道」は、舗装路から左側、森に向かって直進する未舗装の道。
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未舗装の道を森に向かって直進する。
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森の入り口で駐輪。
藪を掻き分け、森の中に入る。
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鳥居が現れた。
鳥居の脇に説明板がある。
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鳥居の手前から斜面になっており、鳥居の奥も斜面となっている。
墳丘の南斜面である。
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説明板に目を通す。
最初の牛渡牛塚古墳の説明板は壊れていたが、そのあとの牛渡銚子塚古墳、折越十日塚古墳の見慣れた、かすみがうら市の標準スタイルの説明板である。
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市指定文化財 坂稲荷山古墳(さかいなりやまこふん)
所在地 かすみがうら市坂字香取(かんどり)4014ノ1外
指定 昭和49年3月22日

前方後円墳
全長 約60m
前方部高さ 約6.4m
前方部幅 約39m
後円部高さ 約8m
後円部径 約27.8m

坂東集落の北西の台地上にある前方後円墳で、南西に向ける前方部に稲荷社が祀られています。
墳丘は比較的高く、周濠もよく保存されています。
前方部濠をへだてて、小円墳のものが10基並んでいます。
6世紀後半に築いたものと推定されています。
かすみがうら市教育委員会
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先ほどの牛渡銚子塚古墳(全長約64m、前方部高さ約2.7m、前方部幅約38m、後円部高さ約5.6m、後円部径約34m)、折越十日塚古墳(全長約60m、前方部高さ約4.8m、前方部幅約30.5m、後円部高さ約6.4m、後円部径約35m)と比較すると、ほぼ同規模ながら、説明板にある通り、墳丘は比較的高い。

南斜面から墳丘に上る。

前方部墳頂。

前方部墳頂に鎮座する稲荷社。
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前方部墳頂から後円部を見通す。
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前方部から後円部へ進む。
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後円部墳頂から東側を眺める。
先ほど、<こんもり>は見えるものの、古墳へのアプローチが見つからないとウロウロしていた側である。
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後円部から北側を眺める。
北側の斜面は細長く伸びている。
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後円部墳頂から北東を眺める。
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後円部墳頂から北西を眺める。
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説明板に「南西に向ける前方部に稲荷社が祀られています」とあり、前方部、後円部の位置を間違えることはないのだが、墳丘に上った印象では、手前(南西、稲荷社のある方)が後円部で、奥(北東)が前方部に思えてならない。

場所が分かり難い古墳であった。
カラオケ店主殿に道を教えて貰わなければ、分からず仕舞いで、次の探訪地に向かったかもしれない。
おしぼり配達の人とカラオケ店の店主殿に感謝!である。

こうして、牛渡牛塚古墳(5世紀、円墳)、牛渡銚子塚古墳(5世紀、前方後円墳)、折越十日塚古墳(7世紀、前方後円墳)、坂稲荷山古墳(7世紀、前方後円墳)の4基の古墳について綴っている中、これら4基をグーグル・マップで眺めてみると、間隔は異なるが、南西・北東方向にほぼ一直線に並んでいることが分かった。
意図的にそうなっているのか、はたまた、偶然なのであろうか...。

牛渡牛塚古墳を除く3基は5世紀から7世紀にかけて築造された前方後円墳。
前方後円墳は、6世紀後半になると全国各地で造られなくなっていく中、関東地方など一部の地域で7世紀前半まで築造が続いており、折越十日塚古墳や坂稲荷山古墳はそのよい事例である。

フォト:2018年12月28日

(つづく)


by ryujincho | 2018-12-29 23:36 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/折越十日塚古墳』 kk-5

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ヶ浦ポタリング。

牛渡銚子塚古墳から、次の探訪地、折越十日塚古墳へ。

牛渡銚子塚古墳から一般道を北西方向へ走る。
折越十日塚古墳の目印はX字形交差点の付近、おおよそこの辺りということしか分かっていない。
先ほど、牛渡銚子塚古墳へ向かう際は標識があったので、次も標識があるだろうと思っていたが、標識は見当たらないままに、次の探訪地、坂稲荷山古墳へ向かう一般道に突き当たってしまった。

来た道を戻り、目印のX字形交差点に至る。
近くで農作業をしていたお百姓さんに尋ねてみた。
「折越十日塚古墳という名の古墳は知りませんが、あちらの方に、以前、調査をしていた古墳があります」と貴重な情報を頂戴した。
あちらの方とは南東方面。
X字形交差点の南東方向へと向かう。

畑の向こうに古墳らしきものが見えて来た。
白く、説明板らしきものも見える。
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ぐるっと畑の右手から回り込んで古墳に至る。

折越十日塚古墳。
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市指定文化財 折越十日塚古墳古墳(おりこしとおかづかづかこふん)
所在地 かすみがうら市坂字折越351外
指定 昭和49年3月22日

前方後円墳
全長 約60m
前方部高さ 約4.8m
前方部幅 約30.5m
後円部高さ 約6.4m
後円部径 約35m

折越の台地にあって、前方部を南西に向ける前方後円墳で、全体が樹叢・竹林でおおわれ、墳形がよく保存されています。
市内における代表的な古墳のひとつで、後円部に巨大な石材の横穴式石室が確認されています。
7世紀に築いたものと推定されています。
かすみがうら市教育委員会
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先ほどの牛渡銚子塚古墳(全長約64m、前方部高さ約2.7m、前方部幅約38m、後円部高さ約5.6m、後円部径約34m)と比較すると、折越十日塚古墳は僅かに小さい程度で、ほぼ同規模と考えてよいだろう。

かすみがうら市のホームページも参照してみる。
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指定年月 昭和49年3月22日
所在地 かすみがうら市坂3518
所有者又は管理者 個人
折越の台地の端にある全長63.2m、後円部の高さ約5.4mを計る前方後円墳です。
現在は開口していませんが、後円部に横穴式石室があり、石室内部に朱による線や彩色が見られることから、太子唐櫃古墳と同様の装飾古墳であることが明らかです。
また、周囲には二重に周溝が廻るなど珍しいもので、築造は7世紀前半と推定されています。
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いずれも、かすみがうら市の記述であるが、内容は異なる。
ホームページでは;
・「石室内部に朱による線や彩色が見られることから、太子唐櫃古墳と同様の装飾古墳であることが明らか」
・「周囲には二重に周溝が廻る」
という現地説明板にはない記事が記載されている。

「太子唐櫃古墳」とあるが、これは、後ほど探訪する予定としていたが、未探訪となった「太子古墳」(地元では「太子の唐櫃(カロウド)」とも呼ばれている)のことである。
朱色の丸紋が多数描かれていたが、今は褪色しているという。
虎塚古墳(茨城県ひたちなか市)より南に、折越十日塚古墳や太子古墳などの装飾古墳が存在することを知った。

12時半、昼餉時。
朝方、コンビニで調達した握り飯を頬張る。

畑の遥か向こう、北西方向に、筑波山が見える。
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ズームアップ!
電柱の右に見える大型の照明設備は土浦日大高校/かすみがうら桜グラウンド。
先ほど、行き過ぎて、グラウンド近くまで行ったので、よくわかるのである。
道を間違えたお陰で何か新しいものを知るということは時々ある。
このグラウンドを知ったからどうという訳ではないが、土浦日大高校の野球部が甲子園に出場したときはあのグラウンドで練習したんだろうとイメージは出来る。
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折越十日塚古墳の被葬者は、生前、筑波山の見えるところに自らの墓を築造することを望んだかもしれない。
先ほどの牛渡銚子塚古墳からは筑波山は見えなかったが、墳丘に上っていれば、見えたかもしれない。
因みに、筑波山を望む絶妙の地にある古墳は舟塚山古墳(石岡市北根本)とその東側にある府中愛宕山古墳である。

説明板にある通り、そして、この目で見た通り、墳丘全体が樹叢・竹林でおおわれており、墳丘に上るのは控えた。

次の探訪地、坂稲荷山古墳へと向かう。

フォト:2018年12月28日

(つづく)


by ryujincho | 2018-12-29 23:35 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/牛渡銚子塚古墳』 kk-4

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ヶ浦ポタリング。

牛渡牛塚古墳から、次の探訪地、牛渡銚子塚古墳へ。

県道118号線を東へ走り、目印の牛渡郵便局の角を左折、県道141号線に入る。
直ぐに上り坂となる。
坂道を上り切り、三叉路に至る。
地図によれば、道なりに左へ行けば県道、右へ行けば、牛渡銚子塚古墳方面。
有難いことに「右、牛渡銚子塚古墳」の標識あり。
自信を持って、右折。

平坦な台地を走る。
道沿いに民家はあるものの、殆どは畑と森。
右手に牛渡銚子塚古墳が見えて来た。
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牛渡銚子塚古墳。

前方部付近に立つ説明板に目を通す。
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市指定文化財 牛渡銚子塚古墳(うしわたちょうしづかこふん)
所在地 かすみがうら市牛渡字銚子塚4002ノ2
指定 昭和49年3月22日

前方後円墳
全長 約64m
前方部高さ 約2.7m
前方部幅 約38m
後円部高さ 約5.6m
後円部径 約34m

牛渡下郷集落北西部に位置し、前方部を西に向ける前方後円墳で、墳形は後円部に対し前方部が低く美しい古墳です。
常陸国府に下向した勅使がこの地で亡くなり、遺体を埋葬した古墳であるとの伝説から、別名「勅使塚」といわれています。
銚子(チョウシ)と勅使(チョクシ)の発音が類似するところからこの名称がついたものと思われれます。
5世紀に築いたものと推定されています。
かすみがうら市教育委員会
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先ほどの牛渡牛塚古墳(円墳)は、霞ヶ浦を船で渡った勅使をあとを追い掛け、泳ぎ、力尽きた牛を葬った古墳との伝説。
こちらの牛渡銚子塚古墳(前方後円墳)は、勅使を葬った古墳との伝説。
いずれも築造時期は5世紀。
辻褄はあっている。
片や、前方後円墳、片や、円墳、この円墳が陪塚であればもっとよいのだが(距離的に数キロ離れていること、勅使より牛が先に死に、「牛塚」が築造されているので、陪塚は成立しないが...)。

説明書きに目を通し、カメラに収める、古墳探訪の相棒、武衛さん。
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墳丘の北側から、後円部、くびれ部、前方部の順に眺める。
墳丘の周囲はすべて畑。
後円部の奥(南東)に酪農を営んでいる農家がある。
上掲の写真の説明板の奥に”MEIJI”の名が見えるのがそれである。

北東部から後円部を望む。
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少し、アップで。
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北東部から、くびれ部~前方部を望む。

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北西部から、くびれ部~後円部を望む。
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北西部から前方部を望む。
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西側に回り込んで、前方部西端を望む。
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更に回り込んで、南西部から前方部を望む。
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墳丘には囲いがあるので、墳頂には上らず。

牛渡銚子塚古墳の東にある酪農農家の東隣に<こんもり>が見える。
これも古墳と思われる。
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アップで。
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霞ヶ浦湖畔に築造された牛渡牛塚古墳にまつわる伝説。
その北の台地(霞ヶ浦は見えない)に築造された牛渡銚子塚古墳にまつわる伝説。
説明板には、これらの二つの古墳の関係は記されていないが、勅使と勅使が乗っていた牛車の牛ということなので、ふたつが組み合わさった伝説でもよいと思うのだが(勅使が亡くなったことを悲しんで牛車の牛が死んだというようなこと)。
ともあれ、なかなか面白い古墳であった。

次の探訪地、折越十日塚古墳へと向かう。

フォト:2018年12月28日

(つづく)


by ryujincho | 2018-12-29 23:34 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/牛渡牛塚古墳』 kk-3

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ヶ浦ポタリング。

崎浜横穴古墳群から、次の探訪地、牛渡牛塚古墳へ。
県道118号線を東へ走れば、県道沿いの左手に牛渡牛塚古墳が現れるはずであるが、県道を走るよりも湖畔を走った方が気持ちがよいので、再び、湖畔の自転車道を走る。

湖畔の自転車道の適当なところから左折し、県道118号線へ。
ぴたりと目的地のところに出た。
企画段階での、ヴァーチャル・ポタリングのお陰である。

牛渡牛塚古墳。
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ズームアップ。
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鳥居と祠。
古墳でしばしば見る姿。
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鳥居の脇に説明板らしきものがあった形跡があるが、破損したのか、説明板そのものはない。

代わりに、かすみがうら市ホームページを参照。
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牛渡牛塚古墳(うしわたうしづかこふん)
市指定文化財
指定年月日 昭和49年3月22日
所在地 かすみがうら市牛渡2041-1
所有者又は管理者 個人

市内で最も標高が低いところに築かれた円墳で、霞ヶ浦に面しており、直径約40m、高さ約4mを計ります。
その昔、常陸国府へ向かう勅使を乗せてきた牛が、霞ヶ浦を船で渡った勅使を慕って泳いできましたが、力つきてこの地で亡くなったので、手厚く葬ったとの伝説が残されています。
周辺より壺形埴輪片が採集されていることから、5世紀頃に築造れたものと考えられています。
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数行ではあるが、短い中になかなか興味深い記述がある。
先ず、古墳の名の由来。
この由来を読み、菅原道真と牛の逸話が頭に浮かんだ。

更に思うことは、常陸国府へ向かう勅使が乗っていた船の行き先は、霞ヶ浦の北端、高浜であることは間違いないであろう。
何故なら、高浜は、常陸国府(石岡市総社1丁目、石岡小学校付近)に最も近いからである。
或いは、高浜から更に恋瀬川を数キロ遡ったところであったろう。
一方、勅使の乗った船は霞ヶ浦のどの辺りから出発したのであろうか?
牛が力尽きた牛渡の対岸は現在の美浦村、これが最短。
或いは、潮来市に牛堀なる地名があるので、この辺りかもしれないと想像する。
但し、現在と当時では霞ヶ浦の水域は異なっており、何とも言えないということもある。

墳頂に上る。

墳頂の中央に立つ碑。
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碑には「牛司大權現」と刻まれている。
「牛司大權現」の両脇には「大同二年」「□辰二月」と刻まれている。
「牛司大權現」は、上述の伝説の通り、力尽きた牛が権現となり、祀られていると理解出来る。
「牛司」という言葉は知らないが、「馬司(=馬寮:律令制で、官馬の飼養・調習や馬具のことを扱い、また、諸国の御牧の馬をつかさどった役所)に倣い、「牛司」としたのかもしれない。
「大同二年」は西暦807年、牛の命日は802年2月ということであろう。
なお、上掲の鳥居と祠の写真のキャプションとして「鳥居と祠。古墳でしばしば見る姿。」と記した。
先に解説を読んでおれば、「牛司大權現」を祀った鳥居と祠と記していただろう。

墳頂に置かれた石。
こういう石を見ると、丸いものであれば、葺石、四角いものであれば、石室に使われた石材ではないかと思うのが常である。
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墳頂から北側を望む。
池がある。
周囲はレンコン田なのに、この池はレンコン田ではない。
この池は、昔、周濠の一部だったのではないかと勝手に想像するのであった。
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墳頂から東側を望む。
こちらはレンコン田。
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墳頂から南側を眺める。
墳丘、祠と鳥居、県道、レンコン田、霞ヶ浦。
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霞ヶ浦対岸に、小さく見える、牛久大仏を発見。
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ズーム・アップ!
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更にアップ!
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牛渡牛塚古墳から眺める牛久大仏。
「牛」繋がりの、奇縁である。

次の探訪地、牛渡銚子塚へと向かう。

フォト:2018年12月28日

(つづく)


by ryujincho | 2018-12-29 23:33 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/崎浜横穴古墳群』 kk-2

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ヶ浦ポタリング。

土浦駅から湖畔の自転車道へ入り、目指すは最初の探訪地、崎浜横穴古墳群。

崎浜横穴古墳群に到着。
が、しかし、ザック置き忘れ事件が発生。
途中休憩したところまで、バック。
再び、崎浜横穴古墳群に到着。

崎浜横穴古墳群。
西側から、左手にある横穴を見通す。
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左手に横穴を眺めながら東へ。
横穴群の東端の空き地に jitensha を止める。

「史跡 崎浜横穴古墳群」。
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説明板に目を通す。
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説明板の、先ず、左部分から目を通す。
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崎浜・川尻ジオサイト
筑波山地域ジオパーク
霞ヶ浦ゾーン/地質・地形サイト

カキ化石床の歴史遺産
磯浜から川尻にかけては、約15万~12万年前に、この地域が海(古東京湾)であった時代の干潟に生息していたカキ化石の密集層が見られます。
これらのカキ化石床を含む地層を掘り抜いて作れれた崎浜横穴墓は貴重な歴史遺産となっています。
また、約7000年~6000年前の縄文海進時後の海面低下で形成された湖岸低地帯は見渡す限りのハス田となっており、レンコンの一大山地となっています。
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説明板の下段部分を読み進む。
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「海岸準変動と海岸線の変遷」
最終間氷期には海水面が上昇して古東京湾と呼ばれる浅海が広範囲に広がり、当時の海岸線は筑波山麓に達していました。
やがて氷期を迎えて海水準が下がると、河川が大地を下刻して谷が形成されました。
当時の地層からナウマンゾウの化石などが産出しています。
縄文時代前期には、温暖な気候のもとで谷に海水が入り込み、やがて土砂が深い谷間を埋めて、低地が形成されました。
当時の海岸線付近には貝塚が多数のこされており、人々の生活の様子がうかがえます。
霞ヶ浦は近世になって海の入り江から汽水湖、そして淡水湖へと姿を変えてきました。
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①古東京湾の時代/最終間氷期(約12万年前)
②旧石器時代の関東平野/最終氷期(約2万年前)
③縄文海進と海の流入/縄文時代(約6500年前)
④現在(利根川流域変更、霞ヶ浦淡水化などの人工改変もなされた)
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古東京湾の海岸線が筑波山麓から関東平野一帯にまで達していた図は、以前、木下貝層(千葉県印西市)の説明板でも見たことがあり、興味深く思った記憶がある。
因みに、木下貝層とは次の通りである(現地説明板、抜粋)。
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国指定天然記念物 木下貝層(きおろしかいそう)
平成14年3月19日指定
木下貝層は、千葉県北部から茨城県南部に広く分布しており、印西市木下で最初に調べられたので、この名前が付けられました。
この貝層は、約12~13万年前の地層で、その頃の関東平野には、「古東京湾」と呼ばれる大きな内湾が広がっており、その内湾の波浪や潮流によって貝殻が集められ堆積したものが木下貝層です。
ここに見られる貝化石は、タマキガイ、バカガイ、キオロシアサリ、サラガイ、マメウラシマガイなどです。また、このほかにカシパンウニもよく出てきます。
これら貝類と同一の種類は、現在でも海岸や海岸より少し沖合いに生息しています。
木下貝層は、当時の浅海に堆積した化石や様々な堆積構造を含むだけでなく、関東平野の地層研究の端緒となったことが、地質学的に重要であることにより、天然記念物に指定されました。
印西市教育委員会-
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「古東京湾」のことを木下貝層や崎浜横穴古墳群でマルチにベンキョー出来た。

ナウマンゾウの骨は印旛沼でも発見されており、北印旛沼と西印旛沼の間の捷水賂のコンクリート壁に「ナウマンゾウ発掘の地」のプレートがあり、また、西印旛沼の双子公園にはナウマンゾウの親子像がある。

「印旛沼/ナウマンゾウ発掘の地」に関するマイ・ブログを紐解いてみると次の通り綴っている。
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印旛沼捷水路沿いを走る。
「ナウマン象発掘地」の石標に目を通す大給守、武衛ご両氏。
(写真)
小生も久しぶりに石標に目を通す。
(写真)
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ナウマン象発掘地ナウマン象の化石は、1966年(昭和41年)の印旛水路工事でブルドーザーによる掘削中に発見されました。
当時、日本で頭、胸、足の骨がそろって発見されたのはこれが始めてで、貴重な資料であったため発掘調査が行われ、約3万年前の化石であることが判明しました。
復元されたナウマン象は、体高2.17m、体長3.4mで現在のアフリカ象に似ています。
この化石があった地層は、以前そこが沼地であり、象が水辺で沼に落ち込んで死んだものと思われ、台地の崖から崩れ落ちた土砂に埋もれてしまったものではないかと考えられています。
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ひとしきり、ナウマン象の話題で盛り上がる。
ナウマン象はナウ万年前におったんですかね、などと阿呆な駄洒落を飛ばして、再び、捷水路を走る。
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今月1ヶ月の中で、ナウマン博士の名前に二度触れることとなった。
一度目は、今月初め、明治大学博物館で、日本考古学の父ともいわれるウィリアム・ガウランド展を見学する中、須恵器について「出雲と備前は自身の調査時、土佐は地質学者のナウマンから入手したもの」との解説があり、ナウマン博士の名前に触れた。
そして、二度目は、月末に崎浜横穴墓群で、再び、その名に触れたのであった。

続いて、説明板の真ん中部分に目を通す。
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崎浜、川尻のカキ化石床
約13万~12万年前のマガキ化石が密集する地層。
崎浜ではマガキの遺骸が潮流で掃き寄せられて集積した様子が、川尻ではマガキが生息時の直立姿勢をとったままで埋積されており、「リレー戦略」と呼ばれるマガキが少しずつ泥に埋まりながら上方へ成長した様子が観察できます。
(写真)
浜崎カキ化石床
川尻カキ化石床
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浜崎カキ化石床の横穴墓
崎浜カキ化石床の墓は、横穴を掘って死者を葬るタイプのもので、横穴墓と呼ばれています。
一段高くなっているところは、遺体を安置した場所です。
このタイプの墓は、茨城県の南部では非常に珍しく、とても貴重なものです。
(写真)
亡くなった人を安置したところ(赤色で図示)・・・後掲写真、参照
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霞ヶ浦周辺の古東京湾貝化石
霞ヶ浦周辺では、カキ以外にも様々な海棲貝化石が見つかっており、これらは約15万~12万年前の古東京湾時代の貝です。
中には、トウキョウホタテのように、現在では絶滅してしまった貝も確認されています。
(写真)
歩崎周辺の貝化石
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湖岸低地のハス田
この地域の地形の徳高は、縄文海進時の際に寄せられた波で削られた浸食崖とその後の海面低下で形成された波で削られた浸食崖とその後の海面低下で形成された湖岸低地であり、現在、この低地を利用したハス田でレンコンが生産されています。
(写真)
レンコン田
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地形を確認するため、少し離れて、東側から遠望する。
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カキ化石床と横穴墓を見分する。

先ず、カキ化石床から。
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カキ殻。
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「カキ殻をアップで撮っても、その大きさを示すことにはなりませんね」。
「では、私のスマホを脇に置いてみましょう」。
「グッド・アイデア。そういえば、昔、几号水準点めぐりのときはメジャーを携行していたことがありますね」。
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カキ化石床のほかにこうした崖表面も露出している。
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つづいて、横穴墓を見分。
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片側石床が設けられた横穴墓。
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両側に石床を備えた横穴墓。
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こちらも両側に石床を備えた横穴墓。
この横穴墓は、上掲の説明板で「亡くなった人を安置したところ」と赤色で図示していたものである。
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少し角度を変えて。
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この横穴墓は、最奥に横向きの石床が備えられていたようにも見える。
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横穴墓は、昨年4月、水町遺跡(福岡県直方市)で見学して以来、興味を持ち、各地の横穴墓を巡って来た。
・水町遺跡(福岡県直方市)
・黒岩横穴古墳群(埼玉県吉見町)
・吉見百穴(同上)
・比丘尼山横穴墓群(埼玉県東松山市)
・十五郎穴(茨城県ひたちなか市)
・崎浜横穴墓群(茨城県かすみがうら市)
こうして、複数ヵ所の横穴墓を探訪して来たことでもあり、ここら辺りで、横穴墓に関するベンキョー結果を纏めてみたいと思っている。

次の探訪地、牛渡牛塚古墳。
県道118号線を東へ走れば、県道沿いの左手に牛渡牛塚古墳が現れるはずであるが、県道を走るよりも湖畔を走った方が気持ちがよいので、再び、湖畔の自転車道へと向かう。

フォト:2018年12月28日

(つづく)


by ryujincho | 2018-12-29 23:32 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/序』 kk-1

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ケ浦ポタリング。
年末開催の霞ケ浦漁師市と古墳探訪をセットにしたこの企画は、4年連続、4回目となる。

探訪した霞ケ浦周辺のメインの古墳は;
初回(2015年)舟塚山古墳ほか(石岡市)
2回目(2016年)三昧塚古墳ほか(行方市)ほか
3回目(2017年)富士見塚古墳ほか(かすみがうら市)
初回のメンバーは、大給守さん、伊豆守さん、上総の3名であったが、それ以降は、武衛さんと上総の2名。

今回は、富士見塚古墳が位置する霞ケ浦中岸に点在する古墳をめぐることとし、前回、かすみがうら市立水族館脇で撮影した観光館内図を参考にしてプランを立てた。
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先ず、土浦駅方面~霞ケ浦大橋西詰~高浜駅方面の反時計回りの順で、古墳をピックアップ(土浦駅、高浜駅、いずれからスタートするかは当日の風向きを見て)。
1.崎浜横穴古墳群(比較的、湖畔近く)
2.牛渡牛塚古墳(同上)
3.牛渡銚子塚古墳(湖畔から北奥、かすみがうらOGMの南側)
4.打越十日塚古墳(同上)
5.坂稲荷山古墳(同上)
=かすみがうら市立水族館から、県道118号線を道なりに、霞ヶ浦大橋西詰、富士見塚古墳を過ぎて、北西へ=
6.太子古墳・・・未達
7.風返稲荷古墳・・・未達
8.風返浅間山古墳・・・未達
9.風返大日山古墳・・・未達
-----上掲の案内図外、道路地図参照-----
10. 山崎古墳(石岡市石川、目印:鹿島神社)

7:57 土浦駅着。
jitensha を組み立てる。
霞ヶ浦方面へ向け、出発する。
コンビニで昼餉の握り飯を調達する。
コンビニは、駅舎下のローソンではなく、毎度、ご用達の、県道263号線沿いのファミリーマートで。

土浦駅発とするか、高浜駅発とするかは、当日の風向き次第としていた。
冬場は、北もしくは北西からの筑波おろし。
土浦駅発であれば、往路は追い風。
復路は土浦駅へ向かおうが、高浜駅へ向かおうが、向かい風は必定だが、高浜駅へ向かう方が比較的マシ。
ということで、土浦駅で下車したのであった。

県道263号線の天皇橋を渡り、右折、霞ヶ浦サイクリングロードに入り、湖岸で出る。
天気予報では、北西のち北の風、最高気温6度。
天気予報通り、追い風である。
さほどの寒さは感じない。

波立つ土浦入りを右手に見ながら快調に走る。
目指すは、最初の探訪地、崎浜横穴古墳群。
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静水水域。
湖岸は地形によって静かな水域もある。
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左手に、土浦名物、レンコン田を眺めながら快調に走る。
土浦産レンコンについては、過去のブログで縷々綴って来たので、ここでは簡単に。
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レンコン田の鳥除けネットに引っかかってしまったオオバン。
残酷とは思うが、左足を動かしたり、首を動かしたりして何とか逃れようとするオオバンの写真を3葉。
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足をバタつかせたり、首を動かしたりするが、右足がしっかりとネットに絡まってしまっており、どうしようもない。
可哀そうだと思うが、自業自得。
自業自得とは、こういうことである。
我がフィールドの手賀沼のオオバンは市の鳥になるほどの鳥で、害鳥ではない。
しかし、霞ヶ浦のオオバンは、レンコン農家にとっては害鳥である。
何故なら、レンコン田の水底に潜って、レンコンを食い荒らすのである。
以前、レンコン農家の人に聞いた話では、レンコンは水深1mくらいのところで栽培しているが、収穫が大変なので、浅い水深で栽培しているレンコンもあり、水深1mではオオバンの被害はないが、浅い水深ではオオバンは容易にレンコンを食い荒らすとのことであった。
ということで、鳥除けネットをレンコン田に張っているのである。
ということで、そこに引っかかってしまうオオバンは自業自得ということになる。

昔、ポルトガルのセシンブラという漁村のリゾート地で過ごしたことがある。
朝、散歩をしていたとき、漁網に引っかかったカモメを見つけた。
突っつかれそうになりながら、「こりゃ、助けてやるんだから、突っつくな」と言い聞かせながら(ポルトガルのカモメだから日本語は通じないんだろうけどね)、何とか、網から解いてやったことがあった。
毎年末、霞ヶ浦で、鳥除けネットに引っかかったオオバンを見るたびに、ポルトガルでのこのことを思い出すのである。

レンコンの収穫風景。
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胸まで浸かっての収穫作業。
筑波下しの冷たい風と相まって、年に幾人かは大変なことになることもあるという。
そんな話を作業中のレンコン農家の人から聞いたこともある。
併せて、出荷調整をしているという話も聞いたことがある。
出荷調整は価格の乱高下を避けるということであろう(確かに、レンコンはお安くはない)。
ということは、収穫作業は過酷であるが、収入はガッポリということと相成ろう。

途中で、一服。
冬とはいえ、水分補給は大事。

再び、出発。
おおよそ、この辺りだろうというところから左折し、湖畔の自転車道を外れ、県道118号線に出る。
県道に出たところで、直ぐに横穴が現れた。
企画檀家で、ヴァーチャル・ポタリングをしていたお陰である。

最初の探訪地、崎浜横穴古墳群に到着。

「あれっ!さっき、休憩したところにザックを置き忘れっ!」。
急ぎ、取りに戻る。
こういうとき、忘れ物は、誰にも気づかれず、置き忘れた場所にそのままあるのがベスト。
そう祈りながら、走る。
風は向かい風、結構、きついが、これも運動だっ!
忘れ物の主は、向かい風に拘らず、流石に走るのが速い。
小生は、途中、100m以上も遅れてしまった。
ザックは、無事、あった!

再び、追い風を楽しみながら、崎浜横穴古墳群に到着!

フォト#1:2017年12月29日
フォト#2~#7:2018年12月28日

(つづく)


by ryujincho | 2018-12-29 23:31 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 24日

『吉備国史跡めぐり/造山古墳から総社駅へ』 kk-7

12月22日(土曜)、曇りのち晴れ。
四国に所用があり、その途中、岡山から少し足の延ばし、総社へ。
総社駅前で自転車をレンタル。
吉備路自転車道を走り、先ず、作山古墳を探訪。
続いて、備中国分寺を探訪。
続いて、こうもり塚古墳を探訪。
続いて、総社吉備路文化館で展示物を見学。
続いて、備中国分尼寺跡を探訪。
続いて、造山古墳を探訪。

曇り空、備中国分尼寺跡を出発したときには降雨、造山古墳に着く頃には晴れに。

造山古墳をあとにして、総社駅に戻るべく、吉備路自転車道を西へ走る。

こうもり塚古墳。
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こうもり塚古墳の遠望写真を撮っていたところ、「古墳めぐり、如何でしたか?」と声を掛けられた。
総社駅前のレンタル自転車店の人であった。
10人ばかりの若い人と一緒であった。
観光案内をしているところらしい。

「はい、お陰さまで、プラン通り、造山古墳まで見学できました。お奨めの吉備路文化館に立ち寄りました。今、総社駅へ戻る途中です」。
「それはよかったです。駅まで、あと30分くらいです」。

時計を見る。
時計は15時45分を指している。
日暮れまでに総社駅に着ける。
十分である。

「吉備路文化館のAさんから奨めのあった楯築弥生墳丘墓など、まだまだ吉備路自転車道の周辺は奥が深いんで、また、来ます」。
「お待ちしております。気を付けてお帰りください」。

備中国分寺。
以前、参拝したことがあり、時間セーブのため、往路は境内に入らず。
帰路、時間的な余裕があれば、境内に入ろうと思っていたが、パスさせて戴き、先へと進む。

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五重塔と吉備路自転車道。
往路は曇り空であった。
帰路は青空。
記憶する限りにおいて、往路と同じアングルで。
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国道429号線を横切る。
東側からの作山古墳をカメラに収める。
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作山古墳、南西角からカメラに収める。
午前中、墳丘に上ったのは、この前方部西南角の踏み分け道から。
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田畑を挟んで、作山古墳を遠望。
16:00 pm ちょうど。
師走の夕陽を背に受けて。
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少し、ズームアップして。
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総社市観光イラストマップ。
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次回の吉備国史跡めぐりの粗案を考えながら、走る。

16:15 総社駅前に到着。
自転車を返却。
岡山行きは伯備線と桃太郎線(吉備線)がある。
16:51総社発/17:22岡山行き(伯備線)
16:54総社発/17:35岡山着(吉備線)
桃太郎線(吉備線)は乗ったことがないので、これに乗ってみたいと思うが、岡山に少しでも早く着いておくことが旅のジョーシキ。
ということで、伯備線に乗車。
こうして、吉備国史跡めぐりを終えたのであった。

=備忘録=
<プランA>
国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社めぐりの一環として。
□備中国府跡(推定地/総社市金井戸、総社市指定史跡「伝備中国府跡」)
 ・備中国は、9郡97郷が管轄下にあり、国府はそのうちの賀陽(かや)郡に置かれたと記録されている。
 ・国府が置かれた場所は定かではない。
 ・総社市金井戸付近に「国府」「国府西」「北国府」「御所」などの地名が残り、この地が有力候補地となっている。
 ・そのほか、総社宮付近(総社市総社、伝国府跡の西約5km)や、西阿曽周辺(備中国分寺の北約4km)の説もある。
□備中国総社宮
□備中国分寺跡・・・済み ※次回、境内を今一度。
□備中国分尼寺跡・・・済み ※南門跡、残っておれば。

<プランB>
鬼ノ城
鬼ノ城は「日本100名城」の69番目。
義弟は城郭めぐりを趣味としている。
既に「日本100名城」を終え、現在は「続日本100名城」をめぐっているという。

義弟曰く「自転車では無理ですよ」と。
「きみはどうやって行ったんや?」。
「バス路線はなく、タクシーがレンタカーということで、レンタカーで」。
「ということは、四輪がちゃんと通れる道なんやね」。
「道は舗装路です」。
「ということは、自転車でも安全な道やね」。

この情報に基づき、次のようなプランを考えた。
(ケース1)
jitensha 携行で、総社駅から鬼ノ城までタクシー。
帰路は、高度確保しているので、jitensha で<下りま専科>。
(ケース2)
総社駅から鬼城山の麓まで自走(直線距離にして約5km)。
鬼城山の麓から鬼ノ城までの坂道は<押し>も含めて登坂(約4km)。
帰路は<下りま専科>。

<プランC>
国府跡・国分僧寺跡・尼寺跡・総社めぐり
総社駅
~備中國総社宮
~備中国府跡(推定地)
~備中国分寺・・・探訪済み
~備中国分尼寺跡・・・探訪済み

<プランD>
吉備路自転車道周辺の古墳+楯築弥生墳丘墓
総社駅
~作山古墳・・・探訪済み
~角取山古墳(円墳)
~持坂20号墳(方墳)
~宿寺山古墳(前方後円墳)
~江崎古墳(前方後円墳)
~こうもり塚古墳・・・探訪済み
~法華古墳群
~折敷山古墳(方墳)
~造山古墳・・・探訪済み
~榊山古墳(造山第1号墳)
~千足古墳(造山第5号墳)
~楯築弥生墳丘墓
~足守川沿いを下り伯備線・山陽本線/庭瀬駅へ(約5km)
※庭瀬駅の西、中庄駅(約5km) 、倉敷駅(約5+4=9km)

次回は、これらを組み合わせての吉備国史跡めぐりと相成るだろう。

フォト:2018年12月28日

(完)


by ryujincho | 2018-12-24 23:37 | 吉備国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 12月 24日

『吉備国史跡めぐり/造山古墳』 kk-6

12月22日(土曜)、曇りのち晴れ。
四国に所用があり、その途中、岡山から少し足の延ばし、総社へ。
総社駅前で自転車をレンタル。
吉備路自転車道を走り、先ず、作山古墳を探訪。
続いて、備中国分寺を探訪。
続いて、こうもり塚古墳を探訪。
続いて、総社吉備路文化館で展示物を見学。
続いて、備中国分尼寺跡を探訪。
続いて、造山古墳へ向かう。

備中国分尼寺跡を出発すると直ぐに雨が降って来た。
曇り空ではあるが、雨の天気予報ではなかった。
しかし、総社駅前のレンタル自転車店の配慮が素晴らしい。
自転車の前駕籠にビニール製の雨合羽を準備してくれているのだ。
早速、ビニール製雨合羽を着て、走り始める。
しばらく走ると、雨は上がり、曇り空、そして、遂に青空が顔を出した。
有難い!

前回、2010年に吉備路自転車道を走った際、自転車道の脇に古墳の模型があったと記憶する。
それを目印に走っていたが、「右、造山古墳」の標識に従い、右へ。
ぐるっと回り込み、造山古墳の東側へ出た。

この日の古墳探訪のメインといってもよい造山古墳に到着したときには、見事に晴れとなった。

「史蹟 造山古墳」。
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上り口の説明板に目を通す。
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造山古墳
長径350mの前方後円墳。
履中天皇陵に次いで全国第4位の規模をもち、上・中・下の3段の墳丘をつくり、埴輪円筒列をめぐらせてあった。
付近の6基のうち、千足古墳の石室には、直弧紋様の装飾彫刻を施した槨障がある。
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「履中天皇陵に次いで全国第4位の規模をもち」については、第一話の作山古墳の巻で「造山古墳と作山古墳」の中で縷々述べた通りである。

造山古墳は、主軸を南西・北東(南西/前方部、北東/後円部)に置き、墳丘長約350メートル、後円部幅約190メートル 前方部幅約215メートル、高さ約24メートルの前方後円墳。

「履中天皇陵に次いで全国第4位の規模」とは;
第1位 大山古墳(第16代仁徳天皇陵)墳丘長525m 5世紀前期-中期
第2位 誉田山古墳(第15代応神天皇陵)墳丘長 425m 5世紀初頭
第3位 上石津ミサンザイ古墳(第17代履中天皇陵)墳丘長365m 5世紀前半
第4位 造山古墳(吉備全域を統括する大首長墓)墳丘長350m 5世紀前半 
上位の3基は宮内庁管理により立入禁止、一方、造山古墳、作山古墳は立入可。
ということは、造山古墳は立入可の古墳としては全国第1位の規模と相成る。

「上・中・下の3段の墳丘をつくり」は、3段築成のことである。

「付近の6基のうち、千足古墳の石室には、直弧紋様の装飾彫刻を施した槨障がある」の「槨障」とは?
ネット検索してみると、「槨障」ではなく、「障槨」にヒット。
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玄室四壁の下部に立てめぐらした板石を「石障」「障槨」「槨壁」などといい、この形式のものを「石障系横穴式石室」、「障槨式石室」などとも呼ぶ。
肥後に広く見られるところから、一般的に「肥後型横穴式石室」ともいわれる。
石障で囲まれた内部を奥・左・右の三つの箱式石棺状に仕切り石で区切り、遺体を収める屍床としている。
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標柱の「史蹟 造山古墳」に続いて「第一、二、三、四、五、六墳」と刻まれている。
これらは、説明板の「付近の6基」のことで、造山古墳とこれら6基の古墳で造山古墳群を構成している。
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造山古墳群を構成する、造山第1号古墳~第6号古墳の概要は次の通りである。
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造山第1号墳(榊山古墳)
円墳もしくは前方後円墳
後円部径約40メートル
馬形帯鈎(ばけいたいこう、馬形を模 った青銅製の帯金具(バックル)の一種)や神獣鏡、銅鈴などが出土
築造時期 古墳時代中期
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造山第2号墳
方墳
一辺約40メートル
周濠が存在
外堤上に埴輪列を伴い、100体以上の埴輪が出土
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造山第3号墳
円墳(推定)
径約30メートル
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造山第4号墳
円墳もしくは前方後円墳
墳丘長約55メートル
墳丘端から円筒埴輪、形象埴輪(家形・短甲形)が出土
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造山第5号墳(千足古墳)
前方後円墳(帆立貝形古墳)
墳丘長約75メートル、3段築成
九州北西部の装飾古墳に類似した初期の横穴式石室をもつ
石室内に直弧文の刻まれた石障(障槨、槨壁ともいう)がある
(直弧文に関する参考)
10月、福岡県八女市/石人山(せきじんやま)古墳に隣接した資料館で、家形石棺の棺蓋に浮彫された直弧文を見学したことでもあり、直弧文に興味があり、調べてみた。
・棺蓋に直弧文を浮彫したもの・・・福岡県八女市/石人山(せきじんやま)古墳の家形石棺
・棺蓋に直弧文を線刻したもの・・・熊本県宇城市/鴨籠(かもご)古墳の家形石棺
・棺身の内面に直弧文を線刻したもの・・・福岡県久留米市/浦山古墳の家形石棺
・これらと前後して、横穴式石室の内部に安置場所を囲んで方形に立てめぐらした石障その他に直弧文を彫刻したものが現れた・・・千足古墳の石障
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造山第6号墳
円墳
径30メートル
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造山第5号墳(千足古墳)は、先ほど訪ねた総社吉備路文化館の展示パネル(航空写真)で、造山古墳の西側に位置していることを視認した。

同じく、総社吉備路文化館で貰ったリーフレット(岡山県古代吉備文化財センター発行)のマップを参照すると、造山古墳の西側に造山第5号墳(千足古墳)ほか6基の古墳が図示されている。
これらは造山古墳の陪塚とされている(一部、築造時期が異なる古墳は陪塚ではない古墳もある)。

前方部の南東側から石段を上る。
墳丘は3段築成、高さ約24m、上り甲斐がある。
因みに、この日、最初に訪ねた作山古墳は、墳丘は三段築成、高さは約23m、墳丘見学用のような道は設けられておらず、踏み分け道のような坂道で、朝方まで雨が降っていたので、よく滑り、上り甲斐があった。
その点、こちらの造山古墳は、前方部墳頂に荒神社が鎮座しているので、参道としての石段が整備されており、滑るようなことはない。

3段築成のテラス。
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前方部墳頂に至る。
正面に神社が現れた。
南東向きに鎮座している荒神社である。
後円部の墳頂に神社が鎮座している古墳が多い(と記憶する)中、この神社は前方部の先端近くに鎮座している。
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説明書きに目を通す。

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国指定史跡 造山古墳
当古墳は墳長約350m、後円部径約200m、高さ約24m、前方部幅約215mを測る前方後円墳で、岡山県下で第1位、全国でも第4位、自由に立入できる古墳としては全国一の規模を誇ります。
大正10年(1921年)、周辺の中小古墳(第1~第6古墳)とともに国指定史跡となりました。
古墳は、低い丘陵を切断し、土盛りや削平などを施して形を変えていきます。
墳丘は三段築成で、くびれ部両側に台形の造り出しを設けています。
墳丘表面には葺石が葺かれ、各段には円筒埴輪がめぐらされていました。
このほか、盾・靭・蓋・家などの形象埴輪もみつかっています。
埋葬施設などの詳細は未調査のため不明ですが、墳丘規模・外表施設などの有り様からみて、被葬者は当地域の首長であったと同時に、吉備全域をも統括していた大首長の地位にあったと考えられます。
また、造山古墳に次ぐ作山古墳(総社市)、両宮山古墳(山陽町)などの巨大古墳の存在は、吉備が畿内の勢力と肩を並べるほどに強大であったことをうかがわせます。
なお、前方部に置かれている刳り抜き式の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩製で、蓋には直弧紋が刻まれているなど、九州地域の石棺の特徴を持っています。
近くの新庄車塚古墳から運ばれたものとも、当古墳の前方部から出土したとも伝えられています。
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この説明板で新たにベンキョーになったことを3点、挙げておきたい。
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両宮山古墳(山陽町)
墳丘全長206メートルの外側に内外二重の周濠をもつ大形前方後円墳です。
昭和2年に国指定史跡となっています。
墳丘は岡山県内では造山古墳・作山古墳に続き、3番目の大きさです。
備前地域では最大の規模となります。
現在、ため池として利用されている内濠の中に前方後円形の墳丘が美しく映えています。
外濠は既に水田などの下に埋まってしまっています。
古墳の大きさは、南側の中堤からがよく眺められます。
また、前方部には両宮(伊勢)神社が祀られています。
(赤磐市教育委員会ホームページ)
※山陽町は旧赤磐郡山陽町で、2005年、赤磐郡赤坂町、熊山町、吉井町と合併し、赤磐市となった。
※最寄り駅 山陽本線瀬戸駅、北西約5km
※両宮山古墳の西に備前国分寺跡がある(備前国分尼寺跡(推定地)はその南300mにあり)
※山陽自動車道上り線の左手(北側)に、備前国分寺跡と両宮山古墳が見えると思われる。
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阿蘇溶結凝灰岩製刳抜式舟形石棺
・造山古墳の石棺は、熊本県宇城市/鴨籠古墳(かもごこふん)の石棺と類似しているという。
・11月、今城塚古墳(兵庫県高槻市)隣接の今城塚古代歴史館で、3種類の石材、即ち、阿蘇溶結凝灰岩(馬門石)製、二上山凝灰岩製、竜山石(たつやまいし、宝殿石ともいう、兵庫県高砂市伊保山、竜山などで産出)製の石棺についてベンキョーした。
阿蘇凝灰岩製石棺とヤマト政権の関わりに関する研究など、石棺を通して九州と畿内や吉備との交流を紐解く学問があるようだ。
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新庄車塚古墳
造山古墳の北西約300mに位置している(岡山市北区新庄上)。
円墳(径約70m)もしくは前方後円墳(全長120m)、但し、開墾で平地化され、古墳の面影はない。
なお、現在、造山古墳の前方部に置かれている石棺は、造山古墳前方部に安置されていたものを移動したか、或いは、新庄車塚古墳から移されたとあり、その根拠を調べてみたが、分からなかった。
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造山古墳測量図。
墳丘の西側は3段築成がはっきりと見て取れるが、東側は一部、崩れているか消滅しているようである。
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前置きが長くなった。

造山古墳の墳頂で見分したを綴っていきたい。

荒神社の脇に鐘がある。
ここは神社で、寺ではない。
何故、鐘があるのだろう?と思うのだが、深くは考えないことにする。
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荒神社の脇に置かれた「石棺」。
説明板に「前方部に置かれている刳り抜き式の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩製で、蓋には直弧紋が刻まれているなど、九州地域の石棺の特徴を持っています。近くの新庄車塚古墳から運ばれたものとも、当古墳の前方部から出土したとも伝えられています」と記されていた石棺である。
「蓋には直弧文が刻まれている」とあるが、蓋は見当たらない(県か市の埋蔵文化財センターで保管されているのかな?)。
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神社脇(前方部)から後円部を見通す。
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左手。
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右手。
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右手の彼方に赤い鳥居が見える。
ズーム・アップ!
後日、調べたところ、造山古墳から北東に約5km、日本三大稲荷のひとつ、最上稲荷の大鳥居であった。
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荒神社参道の石段(長い石段と短い石段の短い方の石段)を下り、墳丘の東端から後円部を見通す。
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後円部墳頂まで行きたいが、立入禁止となっている。
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前方の黒いシートが見える。
黒いシートは工事中の養生シートのようである。
墳丘が少し崩れたようである。
大事な古墳、十分に養生してもらわねばならない。
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立入禁止のところから、前方部を東から西へ横切り、墳丘の西側に立つ。

前方部から後円部を見通す。
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墳丘の西側を草を踏みしめて歩けば、後円部に行けそうだが、踏み分け道もないし、墳丘の東側は少し崩れているようだし、古墳を大事にするためには余り歩き回らないことと思い、後円部は次回の愉しみに残しておくことにした。

前方部先端方向(荒神社)を見通す。
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荒神社前に立ち、今一度、後円部を見通す。
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前方部先端付近に置かれていた石棺に目を奪われ、前方部先端からの景色を眺め忘れていた。

前方部先端部からの南西方向の景色。
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前方部墳頂から長い石段を下る。
墳丘のテラスを眺める。
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前方部の裾に沿って南西へ、そして、南西角を曲がり、前方部の先端裾を走る。

左手に墳丘らしきものが見える。
造山古墳の直ぐ西に位置している造山第1号墳(榊山古墳)のようだ。
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作山古墳の前方部先端の裾を走り切り、吉備路自転車道に出る。

吉備路自転車道沿いの、造山古墳群の模型と造山古墳の墳丘をセットで眺める。
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模型「造山古墳群」。
2010年の吉備路ポタリングの際に見た模型と変わりはなく、<健在>であった。
造山古墳と共に、造山第1号~第6号古墳もしっかりと見て取れる。
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造山古墳を遠望する。
よき姿をしている。
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ここから更に東へ走れば、吉備津神社、そして、岡山の市街地となる。
2010年のときは吉備津神社に立ち寄り、岡山駅まで行き、折り返し、総社の国民宿舎サンロード吉備路まで戻った。

”今日の jitensha” at 15:30 pm.。
この日の古墳探訪はレンタル自転車があって成立したもの。
レンタル自転車に感謝!
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少し西に走ったところで、牧場が現れた。
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古墳といえば、埴輪。
埴輪といえば、動物埴輪。
動物埴輪といえば、馬形埴輪。
古墳を探訪し、最後に牧場で馬に遭遇。
何だか嬉しい。

フォト:2018年12月22日

(つづく)


by ryujincho | 2018-12-24 23:36 | 吉備国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 12月 24日

『吉備国史跡めぐり/備中国分尼寺跡』 kk-5

12月22日(土曜)、曇りのち晴れ。
四国に所用があり、その途中、岡山から少し足の延ばし、総社へ。
総社駅前で自転車をレンタル。
吉備路自転車道を走り、先ず、作山古墳を探訪。
続いて、備中国分寺を探訪。
続いて、こうもり塚古墳を探訪。
続いて、総社吉備路文化館で展示物を見学。
続いて、備中国分尼寺跡へ。

総社吉備路文化館から数百メートル走ると、右手に「築地土塀跡」、左手に「備中国分尼寺跡」が現れた。

築地土塀跡。
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築地土塀跡
備中国分尼寺は東西108m、南北216mの寺域を有し、その周囲には築地土塀をめぐらせていました。
ここにはその基部の痕跡をみることができます。
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備中国分尼寺跡。
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国指定史跡 備中国分尼寺跡
所在地 岡山県総社市上林・宿
指定年月日 大正11年(1922)10月12日

天平13年(741年)、聖武天皇が仏教の地からで戦乱や疫病などの災いから国を守るという鎮護国家の考えに基づき、国分寺と国分尼寺の建立を全国に命じました。
これが「国分寺の詔」です。
備中国では、この場所に国分尼寺が、約500m西に国分寺が建てられました。
備中国分尼寺跡では、金堂などの建物の礎石が表面に露出し、周囲を取り囲む築地土塀の跡も良好に残っており、現在でも見ることができます。
現存する築地土塀跡から、寺域は南北216m、東西108mと復元でき、その境内には、南から北へ、南門・中門・金堂・講堂が一直線に並んでいます。
なお、南門の前には東西に延びる当時の道の存在が発掘調査によって確認されました。
見つかっている瓦から、備中国分尼寺の創建は備中国分寺と同じ8世紀中頃と考えられます。
平成27年9月 岡山県教育委員会
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これまでに幾つもの国分寺跡・国分尼寺跡を見分し、且つ、伽藍配置図あるいは基壇復元、建物の一部復元などを見て来た。
それらに照らし合わせると;
・講堂の北側の建物は「建物跡」とされているが、これは「尼坊跡」であろう。(→後で見でた現地説明板では「尼坊跡」もしくは「食堂」の可能性があるとなっている)
・金堂背後の東西に配置されている鐘楼と経蔵は図示されていない(未発掘か、元々、なかったのか?)
・中門の東側にある建物は「建物跡」とされているが、これは「塔跡」であろう。(→後で見た現地説明板では「塔跡」「鐘楼」「経蔵」の可能性があるとなっている)

説明板の伽藍配置図によれば、今、立っているところは、南門と中門の間となる。

中門跡。
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中門跡
ここには南北3.8m、東西21mの基壇の遺構があります。
礎石は残っておりませんが、基壇の遺構からみて、中門は東西に細長い門であったようです。
この中門と金堂の間には回廊で囲まれた1800平方メートルほどの平坦な広場が設けられていました。
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金堂跡。
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金堂跡
備中国分尼寺の本尊をまつっていた建物跡で、寺域のほぼ中央に位置していました。
直径約70cmの円形の柱座や地覆座をもつ大形の礎石がほぼ当初の位置に現存しており、創建時の建物は桁行五間(約20m)、梁間四間(約13m)であったことがわかります。
礎石から推定される柱の太さは約70cmで、極めて雄大な建物であったことが想像されます。
本尊は中央の奥まった位置に須弥壇を設けて安置されていました。
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講堂跡。
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講堂跡
講堂は仏教を学ぶ施設であり、古代の寺院では重要な伽藍のひとつでした。
現存する礎石は2個を数えるだけですが、基壇と考えられる盛り土の範囲や礎石の作りから推定すると、講堂の規模は金銅とほぼ同じであったと考えられます。
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講堂跡の北側の「建物跡」。
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建物跡
ここは金堂や講堂と同じく東西約20mの基壇跡とみられる整地面があり、何らかの建物があったことが推定されます。
伽藍の位置関係からみて、尼坊か、あるいは食堂であった可能性があります。
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金堂跡まで戻る。
金堂跡近くに建てられた標識「←金堂 塔跡→」に従い、「塔跡」へ。
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金堂東側の「建物跡」。
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建物跡
ここには1辺12mばかりの方形基壇の遺構があり、場所がら塔跡ではないかと考えられていました。
しかし、基壇が小規模であり、礎石も小さく、鐘楼か経蔵など別の建物がたっていた可能性があります。
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1辺12mの方形基壇の遺構を探すも、見当たらず。
おおよそ、この辺りだろうと見当をつけ、シャッターを切る。
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中門・金堂・講堂跡とその東側の建物跡の間に南北に道が通っている。
東側の建物跡から戻って来たとき、その道の脇に立っている標柱が目に入った。

標柱「史蹟 備中國分尼寺址」。
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標柱の側面には「史蹟名勝天然記念物保存法二依リ 大正十一年十月 内務大臣指定」と刻まれている。
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史蹟名勝天然紀念物保存法は大正8年(1919年)に施行され、文化財の保護を担った。
昭和25年(1950年)に文化財保護法が制定され、史蹟名勝天然紀念物保存法は廃止された。

林の中にひっそりと残っている備中国分尼寺跡。
ほとんど手付かずの、こういう風情が好きだ。

さて、次は、全国第4位の規模を誇る造山古墳である。
備中国分尼寺跡をあとにして、吉備路自転車道を東へ走る。

フォト:2018年12月22日

(つづく)





by ryujincho | 2018-12-24 23:35 | 吉備国史跡めぐり 2018 | Comments(0)