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龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 10月 27日

『秋の早慶戦同窓会 2018』

10月27日(土曜)、晴れ。

恒例の、早慶戦同窓会。
神宮球場に向かう。

球場に入る前に、国立競技場の建設状況を<取材>するのも恒例となった。
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木造部分。
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アップで。
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早慶戦。
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初めて早慶戦を観戦したのは1968年の春季早慶戦。
次に、同年秋季早慶戦。
今年は2018年。
あれから50年...。

いつの頃からか、早慶戦同窓会が始まった。
幹事役のK君に感謝!

フォト:2018年10月27日



by ryujincho | 2018-10-27 23:51 | Comments(0)
2018年 10月 26日

『エドヴァルド・ムンク/叫び』

今年6月、オスロ国立美術館でムンクの『叫び』を鑑賞した。
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初めてムンクの『叫び』を鑑賞したのは、1988年7月、オスロ市立ムンク美術館であった。
それから30年を経て、今年6月、オスロ国立美術館で『叫び』を鑑賞したのであった。
『叫び』と題する作品が複数あることを、今年6月にオスロ国立美術館で『叫び』を鑑賞したときに初めて知った。

話は変わって、今朝のこと。
テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』を見ていたところ、明日、27日から東京都美術館で『ムンク展―共鳴する魂の叫びー』が開催されると報じると共に、「『叫び』4作品 名画に隠された作者の思い」と題し、ムンクの『叫び』4作品が紹介された。
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四つの作品について、野上慎平アナウンサーからいくつかの解説があった。
その内容はオン・エアーで消え去ってしまっているので、Goo のテレビ番組紹介記事をここに引用させて貰う。

-----テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」2018年10月26日放送回-----
「叫び」は4種類ある。
最初に描いたときは29歳のときで最後は46歳くらいの時に描いた。
1~3番目までは眼球があるのに最後に描いたのは眼球がない。
奥の方に描かれている人は1番は前を向いていて、2番、4番は背を向けて遠ざかっていく感じ。
3番だけ考えている様子で、それぞれ船の位置も違う。
1番と4番がムンク美術館にあり、3番だけ個人所有だという。
「叫び」に描かれている人は叫んでおらず、自然が発する“叫び”が聞こえて耳を塞いでいる様子だという。
東京都美術館では4番を見ることができる。
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この解説について、疑問等も含め、何点かハイライトしておきたい。

1)「1~3番目までは眼球があるのに最後に描いたのは眼球がない」:

この言葉と共にアップされた4番目の作品。
確かに、眼球がない。
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2)「東京都美術館では4番を見ることができる。」:

東京都美術館のHP『ムンク展―共鳴する魂の叫びー』で、「世界中の誰もが知るムンクの代表作『叫び』。現存するいくつかのバージョンのうち、今回はオスロ市立ムンク美術館が所蔵するテンペラ・油彩画の《叫び》(1910年?)が初来日します」とあり、合致している。

3)「1番と4番がムンク美術館にあり、3番だけ個人所有だという。」:

小生が最も気になるのがこの点である。
先ず、指摘しておきたいことは、『叫び』は4作品ではなく、少なくとも5作品あることだ。

5作品のうち、どの作品が欠けているのかを知るために、番組に映し出された4作品をチェックしてみた(→以下が筆者のチェック結果)。
「①1893年(クレヨン版)」→パステル、オスロ市立ムンク美術館所蔵
「②1893年(テンペラ・クレヨン版)」→テンペラ・油彩、オスロ国立美術館所蔵
「③1895年(パルテル版)」→個人所蔵
「④1910年?(テンペラ・油彩版)」→オスロ市立ムンク美術館所蔵

番組で紹介されていない作品は、1895年制作のリトグラフ(オスロ市立ムンク美術館所蔵)である。

次に、「1番と4番がムンク美術館にあり、3番だけ個人所有だという。」というのは正しい。
ムンク美術館の所蔵作品を中心に開かれるムンク展であるから「1番と4番がムンク美術館にあり」はよいのだが、「3番だけ個人所有だという」というのであれば、「2番はオスロ国立美術館にある」ということも付け加えるべきであろう。

個人所有のムンクの作品(1895年 パステル画)の所有者を調べていたところ、「嘗て所持していた人物は、ペッター・・オルセン。ノルウェーの実業家。フレッド・オルセン・グループ社長であるフレドリック・オルセンの弟にあたる 」(ウィキぺディア)とあった。

フレッド・オルセン社は、ノルウェーの海運会社で、現役時代、仕事柄、同社と付き合いがあり、よく知っている会社である。
社長のオルセン氏と親しく話をしたこともあった(残念ながら、絵画の話題はなく、ビジネス・トーク)。
30年近く前のことになるが...。

このムンクの作品は、兄弟の父親、トーマス・フレドリック・オルセンによって収集されたもので、母、アンリエットは遺書に作品は弟ペッター・オルセンへ相続すると書き残していた。
そのため、兄のフレドリック・オルセンはペッター・オルセンと相続について、2001年、オスロ地方裁判所で争ったが敗訴した。ペッター・オルセンが所持していた叫びは、2012年、競売にかけられ、1億1990万ドル、史上最高額で落札された。
その収益はノルウェー・ヴィドステンでの博物館建設にあてられた。
(出典/ウィキぺディア)
因みに、落札者は誰かと思い、ネット検索したところ、「アメリカの実業家でコレクターとして有名なレオン・ブラック氏である、とウォールストリートジャーナルが報道したが、本人からの正式発表はない」とあった。

絵画の本筋から離れた話になってしまった。
こうして、ムンクの作品『叫び』のことについて綴りながら、30年前にオスロ市立ムンク美術館で鑑賞した『叫び』(1910年?(テンペラ・油彩版)の画調を思い起そうとするのであったが、生の画調が如何なるものであったかは、30年も前のことなので、記憶から消え失せてしまっている。
しかし、ムンク美術館のHPなどに掲載されており、そうしたことで生の画風を感じることが出来る。

ムンクは幼き頃に母親と姉を結核で亡くし、以来、死への恐怖を持ち続けていたという。
『叫び』は精神的不安とアルコール依存症の中でムンクの内面が描かれたものともいう。
背景の赤い空はそうした精神状態を表しているのかと思いきや、さにあらず、北欧の空にでしばしば現れる<真珠母雲(しんじゅぼぐも)>ともいわれている。

真珠母雲。
高度20~30km付近の成層圏にできる特殊な雲。
極や高緯度地方で冬によく見られる雲である。
非常に高高度にある雲のため、日没後も太陽の光を受けて輝く姿を見ることがある。
真珠母雲の名は、その色彩が真珠母貝であるアコヤガイの内側に似た虹色をしていることより付けられた。

ムンクは精神異常を来したこともあるが、ゴッホのように破滅することなく、晩年も絵を描き続け、80歳の天寿を全う。
晩年の作品は、あの陰陰滅滅とした画風は消え失せ、『太陽』(1911~1916年)に代表される、生命力のあふれた明るい画風となり、何やら、ほっとするのであった。

朝のテレビ番組をヒントに、30年前のオスロ市立ムンク美術館の『叫び』と今年6月のオスロ国立美術館の『叫び』を対比して鑑賞することが出来たことは有難いことであった。

フォト#1~3:2018年6月26日
フォト#4、5:2018年10月26日



by ryujincho | 2018-10-26 23:51 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/七日日、博多/櫛田神社』 kk-53(最終回)

10月22日(月)、晴れ。
「壱岐島・筑後川流域古墳めぐり」の最終日。
この日のプランは、櫛田神社参拝、そして、帰京。

数年前、或る友人から「櫛田神社の扁額は広田弘毅の揮毫によるもの」と聞いたことがあり、福岡へ行く機会があれば、是非、櫛田神社に参拝し、広田弘毅揮毫の扁額を見てみたいと思っていた。

広田弘毅は、 福岡県那珂郡鍛冶町(現・福岡市中央区天神)出身、外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任。
広田弘毅は平和外交を希求するも、理不尽にも、極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け、死刑となった。
広田弘毅の生涯を描いた城山三郎の小説『落日燃ゆ』を読んだのはいつの頃であったかと思い返してみた。
1974年、新潮社刊とあるので、社会人になって間もない頃のことであった。

早朝、博多駅前の宿から櫛田神社へ。
jitenshaではなく、徒歩で。

櫛田神社。
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櫛田神社。
博多の総鎮守。
祭神は、大幡主命(櫛田宮)、天照皇大神(大神宮)、素盞嗚尊(祇園宮)。
全国にある櫛田神社の主祭神は櫛名田姫だが、当社では櫛名田姫は祀られていない(元々は櫛名田姫を祀る神社であったとする説もある)。
社伝によれば、天平宝字元年(757年)、伊勢松坂の櫛田神社を勧進したことに始まるとされる。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉によって博多が復興されるにあたり、現在の社殿のが造営された。
当社に奉納される博多祇園山笠は、博多の夏の風物詩として全国的にも有名。

扁額コレクション/鳥居に掲げられた扁額「櫛田宮」。
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扁額コレクション/楼門に掲げられた扁額「威稜」。
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狛犬コレクション/楼門の両脇に鎮座する狛犬。
阿形。
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アップで。
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吽形。
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アップで。
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参道を進む。
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神馬と「博多総鎮守」の幟旗。
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狛犬コレクション/中門の両脇に鎮座する狛犬。
阿形。
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吽形。
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社殿。
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扁額コレクション/社殿に掲げられた扁額「櫛田神社」。
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社殿の意匠。
風神。
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アップで。
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雷神。
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アップで。
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博多べい。
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博多べい
天正15年(西暦1587年)豊臣秀吉の太閤の博多町割り(戦災復興都市計画)によって、たくましくよみがえった市街には、「博多べい」と呼ぶ土べいが長く連なった。
郷土再興の悲願をそのままに、焼け石、焼け瓦が厚く塗りこめられ、当時、重なる戦禍の焦土から奮起した根性と心意気を示して余りある。
このたび、博多三商傑の一人、島井宗室の屋敷跡に360余年の風雪に耐えた最後の「博多べい」が四散の危機に直面するに当って、広く志を集め、ここに移築再建した。
但し、右方は断面を表す。
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博多べいを眺める。
確かに、焼け石、焼け瓦が塗り込められており、普段、見慣れた築地塀とは趣きを異にしている。
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右方の断面を眺める。
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各地で築地塀を興味深く眺めることがある。
この「博多塀」も誠に興味深い。
説明書きにある豊臣秀吉の名で思い出した塀は、熱田神宮の信長塀。
織田信長は桶狭間の戦い出陣の際、熱田神宮に必勝祈願、今川義元を討ち果たし、その勝利の歴史的な勝利の礼として熱田神宮に奉納した築地塀が信長塀である。
片や戦勝により奉納された塀、片や戦禍の復興で築かれた塀、塀にもいろいろなドラマがある。

博多べいの近くに碑が立っている。
「寄進...宅地建物 川上音二郎 仝 貞子」と刻まれている。
新派劇の父、川上音二郎が生まれ所在の土地家屋を櫛田神社に寄進した旨の寄進碑である。

博多かべを見物していたところ、社務所から権禰宜さんらしき人が出て来るのが見えた。
「ちょっと、お尋ねしますが、広田弘毅さんが揮毫したという扁額は何処にあるのでしょうか」。
「社務所に保管してあります。一般の人は見られません」。

随分とつれない返事。
返事が内容がつれないのではなく、その言い方につれなさを感じたのであった。
小生が彼なら「早朝の参拝、お世話さまです。扁額は社務所に保管してあります。一般公開はしておりませんので、ご了承ください」とでも言ったであろう。
同じことを言っても、物は言いようであろう。

気を取り直して、扁額が納められているという社務所を眺める。
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博多祇園山笠。
「重要無形文化財博多祇園山笠」と大書された標柱。
飾り山笠の両脇には「奉納 山笠 博多祇園山笠振興会」、「奉納 山笠 九州朝日放送」と大書された大きな立札。
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「日本武尊征熊襲(やまとたけるのみことくまそをうつ」。
本ブログを綴りながら、後掲の、人形師 川崎修一さんの解説を読みながら、この作品を鑑賞し、一層の興味を覚えた。
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「飾山笠 表 人形師 川崎修一 作」。
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説明書きに目を通す。
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博多祇園山笠
「博多祇園山笠」は福岡を代表する祭りで、13世紀の半ばに疫病退散を願って始まったと言われています。
祭りの期間は7月1日から7月15日まで。
市内10数か所に高さ10メートルを超える豪華絢爛な飾り山笠が建ち、7月10日から勇壮な7つの舁き山笠(かきやまがさ)が男たちに担がれ、博多の街を走ります。
そして、7月15日の早朝4時59分、一番山笠の豪快な櫛田入りのあと、次々と7つの舁き山笠が市内およそ5キロのコースを走る「追い山笠」でクライマックスを迎えます。
山笠の人形や飾りは、博多伝統の人形作家の手によって作られ、その題材は歴史や神話に基づくものが多く採用されています。
舁き山笠と飾り山笠は祭りが終わると同時に解体されますが、ここ、櫛田神社の飾り山笠は特別に1年中展示されています。
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もうひとつの説明書きにも目を通す。
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博多祇園山笠について
日本三大祇園まつりのひとつと称えられる博多祇園山笠には諸説ありますが、一般的には、祇園会の祭典と、仁治2年(1241年)承天寺の開山聖一国師が博多津中の人々が担ぐ施餓鬼棚にのって甘露水(祈祷水)をまいて疫病を鎮めた古事があいまったことが起源とされています。
舁き山笠は10日から動きはじめ15日の追い山笠をもってその頂点に達します。
山笠期間中市内に設けられる10本余の飾り山笠が静的な美と称えられれば、走る舁き山笠は勇壮な動的な美として誇るにたる博多固有の夏祭りといえましょう。
なお、飾り山笠の題材には古来日本歴史の勇壮な場面やお伽話などがとられています。
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表 日本武尊征熊襲(やまとたけるのみことくまそをうつ)
景行天皇の皇子である小確尊(おうすのみこと)は、父の命を受けて朝廷に従わない西方の豪族である熊襲(現熊本県人吉周辺から現鹿児島県霧島市周辺)の魁師(ひとこのかみ、首長の意)・川上梟師(かわかみのたける)の征討に向かいました。
その時、小確尊は「わたしは弓を射るのが上手い人を得て、一緒に行きたいと思っている。どこかに弓を射るのが上手い人はいないものか」と言いました。
すると、ある人が「美濃国(現岐阜県南部)に弓を射るのが上手い人がいます。その人の名を弟彦公(おとひこのきみ)と言います」と答えました。
小碓尊に呼び寄せられた弟彦公は小確尊に従い、共に熊襲に向かいました。
小確尊は伯母の倭姫命(やまとひめのみこと)から借りた衣装で女装し、川上梟師の屋敷に潜入しました。
屋敷で行われる宴の席で、女装した小確尊を気に入った川上梟師は、小確尊を傍らに呼び、酒の相手をさせました。
川上梟師はの酔いがまわったところで、小確尊は懐から剣を取り出し、川上梟師の胸を突き刺しました。
しかし、川上梟師は息絶えることなく、どうか話を聞いてほしいと懇願しました。
川上梟師は「わたしはこの国で一番強かったので、川上梟師(かわかみのたける、タケルは勇猛な者の意)と呼ばれたが、あなたほど強い人は初めてです。どうか、これからは日本武尊(やまとたけるのみこと)とお名乗りください」と言いました。
これを承知した小確尊は川上梟師を討ち取り、熊襲征討を終えました。
この飾り山笠は日本武尊の名前の由来となる熊襲征討の一場面です。
人形師 川崎修一
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話は変わって、広田弘毅の揮毫についてもう少し触れておきたい。

本ブログを綴りながら、ウィキペディアで広田弘毅の項を参照したところ、「能筆家であり、福岡市天神の水鏡天満宮の鳥居の題額は小学校の時に、日清戦争戦勝を祝して建立された石碑『水鏡神社』は、広田が17歳のときに揮毫したものである」とあり、水鏡天満宮の鳥居題額と石碑の写真が添えられていた。

冒頭に、或る友人から「櫛田神社の扁額は広田弘毅の揮毫によるもの」と聞いたことがあると記したが、ウィキペディアでは水鏡天満宮について触れられているが、櫛田神社のことについては触れられていない。
友人の勘違いか?
しかし、櫛田神社の権禰宜さんと思しき人は、つれない言い方ながら、社務所に保管してあると言っていたので、櫛田神社にあることは間違いないと思える。
ということで、謎は残ったが、水鏡天満宮の鳥居題額を眺めてみたいとの思いとなり、再び、博多を訪ねる楽しみが出来た。

櫛田神社から宿に戻る。
途中、或るビルの入り口の案内板に書かれた「壱岐市」の文字が目に飛び込んで来た。
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ビル入り口の案内板には「4F 壱岐市福岡事務所 観光・物産案内 移住・定住相談」とあり。
添えられている写真は「壱岐牛」と「辰ノ島」。

壱岐島は、今回の旅の最初の訪問地。
奇遇にも、この案内板に出遭ったことで、壱岐に始まり、壱岐に終わるということに。

こうして、六泊七日の古墳探訪の旅は終わった。
訪ねた古墳は32基。
寺社、史蹟、資料館など18ヶ所。
総走行距離145.21km。
大満足の旅であった。

フォト:2018年10月21日

『壱岐島・筑後川流域古墳探訪』/全52巻
(完)


=備忘録=
探訪した古墳プラスアルファ一覧(□:古墳、■:プラスアルファ)
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壱岐市
□鬼の窟古墳
□双六古墳
□掛木古墳
□百合畑古墳群(13号墳、14号墳、15号墳、16号墳、18号墳、号墳不明1基の計6基)
□対馬塚古墳
□兵瀬古墳
□カジバヤ古墳
△平原1号墳(但し、遠目に場所のみ視認)
□大塚山古墳
(探訪古墳:計9ヶ所、14基)
■壱岐国分寺跡
■壱岐風土記の丘古墳館
■原の辻遺跡
■一支国博物館
■原の辻ガイダンス施設
■月読神社
■片国主神社
■興神社
※壱岐総社神社・・・未達
■小島神社
■金刀比羅神社
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□筑紫野市/五郎山古墳
■筑紫野市/五郎山古墳館
(探訪古墳:1ヶ所、1基)
-------------------------------------
□広川町/石人山古墳
□広川町/弘化谷古墳
□八女市/岩戸山古墳
□八女市/乗場古墳
□広川町/善蔵塚古墳
□八女市/茶臼塚古墳
※八女市/丸山塚古墳・・・未達、立ち寄り忘れ
□八女市/鶴見山古墳
□八女市/釘塚古墳群(1号墳、2号墳)
(探訪古墳:計8ヶ所、9基)
■広川町/広川町古墳公園資料館
■八女市/岩戸山歴史文化交流館いわいの郷
■八女市/一乗寺/寺坂吉右衛門の墓
※久留米市/筑後国府跡・・・未達
※久留米市/筑後国分寺跡・・・未達
※久留米市/筑後国分尼寺跡・・・未達
※久留米市/総社/味水御井(うましみずみい)神社・・・未達
---------------------------------------
□朝倉市/狐塚古墳
□うきは市/珍敷塚古墳(屋形古墳群)
□うきは市/原古墳(屋形古墳群)
□うきは市/鳥船塚古墳(屋形古墳群)
□久留米市/寺徳古墳
□久留米市/前畑古墳
□うきは市/月岡古墳(若宮古墳群)
□うきは市/日岡古墳(若宮古墳群)
△うきは市/塚堂古墳(若宮古墳群)・・・遠目に視認
(探訪古墳:8ヶ所、8基)
■朝倉市/菱野三連水車、三島二連水車、九重二連水車
■久留米市/名主丸駅カッパ駅舎
-----------------------------------------
■福岡市/櫛田神社
■福岡市/飾り山笠「日本武尊征熊襲」(櫛田神社境内)

総走行距離:145.21km
初日:  4.60km
二日目:24.65km
三日目:29.41km
四日目: 9.50km
五日目:32.96km
六日目:42.19km
七日目: 1.40km

(備忘録、以上)


by ryujincho | 2018-10-23 23:53 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/若宮古墳群(Ⅱ)日岡古墳』 kk-52

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

午前、朝倉市/菱野三連水車、朝倉市/狐塚、うきは市/屋形古墳群(珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳)を、午後、JR田主丸駅で河童コレクション、久留米市/寺徳古墳、前畑古墳をめぐり、うきは市/日岡古墳・月岡古墳へ。

日岡古墳と月岡古墳は、県道を挟んで、若宮八幡宮の境内の東側と北西側に位置しており、ほぼ同じ場所にある。

筑後川流域装飾古墳同時公開は午後4時まで。
古墳探訪の最後は、いつも、押せ、押せになってしまうのだが、今回も同じ。

午後4時を少し回って、日岡古墳・月岡古墳に到着。
幸いにも、4時を過ぎてはいるが見学はOK!とのこと。
ありがたや!

スタッフさんの言に従い、急ぎ、月岡古墳へ向かい、長持形石棺を見学。
続いて、急ぎ、日岡古墳へ向かう。

実際は、急いで、月岡古墳から、若宮八幡宮の境内を抜け、県道を横切り、石段を駆け上り、日岡古墳の前方部墳丘上の建物へ向かったのだが、本ブロでは、編集の都合上、日岡古墳の鳥居、説明書き、石段、墳丘の建物内の順にゆるりと見学したことで掲載する。


日岡古墳(ひのおかこふん)。
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説明書きに目を通す。
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日岡古墳
日岡古墳は今からおよそ1500年ほど前、若宮古墳群の中でも最後に造られた古墳です。
全長78mの前方後円墳で、前方は西に、後円は東に向いており、古墳のまわりには濠があることを確認しています。

後円には横穴式石室があり、この石室の壁に絵があることを発見したのは明治21年(1888年)のことです。
奥壁前面に、赤・白・緑の三色で同心円文・わらび手文・三角文が表してあり、装飾古墳の中でも優れた古墳といえるでしょう。
この古墳は昭和3年に国の史跡に指定されています。

平成18年 うきは市教育委員会
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石段を上る。
日岡古墳は、前方部が西、後円部が東。
となると、この石段は前方部の西端。

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一つ目の鳥居を抜け、前方部から後円部に向かって歩く。
二つ目の鳥居と石段に至る。
この鳥居の辺りがくびれ部、石段が後円部の斜面である。
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扁額コレクション。
日岡古墳では「月讀宮」と刻まれていた。
こちらの扁額は「伊勢宮」と刻まれている。
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鳥居をくぐり、石段を上り、覆屋の中に入る。
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覆屋内は、地上部から石室内を見下ろすような形になっている(石室の天井部は崩落し、開口している)。
覆屋内は撮影禁止なので、本ブログ上では、リーフレットの解説と石室実測図、壁画模写図、写真などにより、石室内の装飾壁画を楽しむこととしたい。

リーフレット。
(表面)
上段/日岡古墳に関する解説
下段/日岡古墳奥壁装飾
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日岡古墳(ひのおかこふん)
所在地 うきは市吉井町若宮366-6
指定種別 国指定史跡 昭和3年2月7日
墳丘・主体部 前方後円墳(全長74m) 横穴式石室
装飾 壁画系彩色(赤・青・緑・白)

日岡古墳は月岡古墳・塚堂古墳とともに若宮古墳群を形成します。
この古墳群は現在の筑後川より1kmほど入った平野部に位置する古墳です。
3基とも前方後円墳で、古墳時代中期から後期にかけてこのあたりを統治した首長の墓と考えられています。

その中で、日岡の古墳のみに装飾が施されています。
古墳時代後期に造られた全長約74mの前方後円墳で、1重の周溝が巡っています。
後円部にある横穴式石室の壁全体に様々な文様が描かれており、壁画系の装飾古墳の中で古いタイプのものです。
石室の構造はやや内傾して側壁を積み、奥壁には幅2.2m以上、高さ19m以上の大石をほぼ垂直に立てて鏡石としています。
奥壁の頂部には2~3段の割石を積み、石棚を設置しています。

描かれた文様は、奥壁に赤・白・緑色を使い、6個の大型同心円・蕨手文・連続三角文などが、周壁には赤・白・青色を使用し、同心円文や三角文といった幾何学的な文様のほかに、盾や靫(ゆき)、太刀などの武具・魚・船・馬・獣などの文様が描かれており、場所によって色の使い分けがあるようです。
天井石が石室の床面に崩落しているので、上からのぞき込む形で見学することができます。

(図)
写真/奥壁装飾
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(裏面)
日岡古墳石室・装飾実測図
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今年4月、遠賀川装飾古墳を探訪した際、王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町)の装飾壁画を見学した。
石室内の壁画は色褪ており、且つ、遠目なので、壁画鑑賞には至らなかったが、隣接の古墳館でのレプリカで、大掛かりな、見事な壁画であったことが窺えた。
日岡古墳の装飾壁画は王塚古墳ほどの規模ではないが、同心円文・円文・三角文などが色彩豊かに描かれているところはよく似ている。

奥壁装飾(リーフレット掲載写真)と当該箇所の模写図(リーフレット掲載の石室・装飾実測図、トリミング)を見比べはながら、装飾壁画を<鑑賞>。
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奥壁装飾壁画の<鑑賞>を言葉で表すと次の通り。
・彩色は、赤・白・緑色。
・大きな同心円文、6個。
・多くの連続三角文。
・蕨手文の数を数えてみた。
 同心円文の上に3個、左に1個、右に1個、同心円文の下に2個の、都合7個。
 もっと、あるかな?

リーフレットの解説文に「周壁には赤・白・青色を使用し、同心円文や三角文といった幾何学的な文様のほかに盾や靫(ゆき)、太刀などの武具・魚・船・馬・獣などの文様が描かれており」とある。
武具・魚・船・馬・獣を模写図で探してみる。
東側壁で船を、西側壁で盾と思しきものを見つけた。
それらを代表して、東側壁の模写図(トリミング)をここに掲載しておきたい。
船は中央の少し左に描かれているのが見て取れる。
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前方部。
後円部から西側を見通す。
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県道から日岡古墳の後円部の北側を見分。
後円部墳丘上に見える建物は、伊勢宮と石室の覆屋。
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若宮八幡宮。
時間の都合上、参拝できなかったが、心の中で二礼二拍手一礼。
八幡さまは許してくださるであろう。
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若宮八幡宮境内の石橋から、先ほど、訪ねた月岡古墳の後円部を眺める。
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月岡古墳の前方部を北東方向から眺める。
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少し、移動し、西日を避けて、月岡古墳の全景を眺める。
左(東)/後円部、右(西)/前方部。
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更に右へ目を遣る。
前方部西端の向こうに、耳納山地が見える。
右手の風変りな木立と共に、佳き風景を作り出している。
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更に、西に目を遣る。
夕陽、バッチリ!
右端の畦道に見える人影は、武衛さんと愛馬。
エンリコ・モリコーネ作曲のあのメロディー、映画『夕陽のガンマン』のテーマ曲が聴こえて来る(まさかっ!?)。
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時刻は午後4時36分(写真データより)。
このあと、宿に預けてある荷物をピックアップし、筑後吉井駅へ戻り、博多へ向かうというプラン。
愛馬に跨り、宿へ向け、疾駆する。
そして、荷物を担ぎ、筑後吉井駅へ向け、疾駆する。

17:41 筑後吉井駅発(九大本線)、18:20 久留米駅着、18:29 久留米駅発(鹿児島本線)、19:00 博多駅に到着。
博多駅前の宿へ。
荷物を置き、ちょいと一服。
駅前の居酒屋で、今回の古墳探訪の旅、六日目の<反省会>。
嗚呼、ビールが美味い!

メモ/この日の走行距離:42.69km

フォト:2018年10月21日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:52 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/若宮古墳群(Ⅰ)月岡古墳』 kk-51

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

朝倉市/狐塚、うきは市/屋形古墳群(珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳)、JR田主丸駅で河童コレクション、久留米市/寺徳古墳、前畑古墳をめぐった。
残すは、うきは市/日岡古墳、月岡古墳の2ヶ所のみ。

前畑古墳の見学を終え、輪行で筑後吉井駅まで戻ることにする。

前畑古墳からの最寄り駅は筑後草野駅。
下り列車は、15:35 筑後草野発、15:55 筑後吉井駅着。
筑後川流域装飾古墳一斉公開は午後4時まで。
4時前に筑後吉井駅に着き、jitensha を組み立て、月岡古墳・日岡古墳へ自走となるが、4時までに間に合うであろうか。
それはちょっと無理、4時を少し過ぎてしまうだろう。
古墳探訪の最後が、押せ、押せになるのは毎度のパターン。
ここは勝負!である。

筑後吉井駅に到着。
急ぎ、jitensha を組み立て、日岡古墳・月岡古墳へと向かう。
日岡古墳・月岡古墳は吉井筑後駅と宿の間の中ほどにあり、前日、宿に向かうとき、そして、今朝、駅に向かうときに前を通り過ぎており、道に迷うことはない。

日岡古墳に到着!
午後4時を過ぎているが、受付のテーブルにまだスタッフさんがいた。
「見学は出来ますか?」。
「時間は過ぎていますが、大丈夫です。今さっき、最後の見学者が月岡古墳の方へ行きました。まだ、説明中だと思いますので、急ぎ、月岡古墳へ行ってください。鳥居をくぐって、石段を上ったところにある建物です。そのあと、ここに戻って来てください。日岡古墳の石室の装飾壁画を説明しますので」。

有難いことである。
日岡古墳と月岡古墳は、県道を挟んで、若宮八幡宮境内の東側と北西側に位置している。
急ぎ、県道を渡り、月岡古墳へ。


月岡古墳(つきのおかこふん)。

実際は、急いで、若宮八幡宮の境内を抜け、石段を駆け上り、墳丘上の建物へ向かったのであるが、本ブロでは、編集の都合上、鳥居、石段、説明書き、墳丘の建物の順にゆるりと見学したことで掲載する。

後円部墳頂の「社」への上り口。
先ほど、受付のスタッフさんは「鳥居をくぐって、石段を上ったところにある建物」と教えてくれた。
鳥居脇の説明板にも「後円部墳丘上にある建物』と書かれている。
後刻、分かることになるのだが、後円部墳丘上にある建物は、建物というのは罰当たりで、長持形石棺を御神体とする社と呼ぶのが正しい呼び方である。
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扁額コレクション。
「月讀宮」と刻まれている。
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説明書き。
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月岡古墳(つきのおかこふん)
月岡古墳は、今からおよそ1500年以上前の古墳時代中期(5世紀中頃)に若宮古墳群の中で最初に造られた古墳です。
全長は約80mで、墳丘の高さは前方部が6m、後円部が7m程度あり、前方部を西に、後円部を東に向けた前方後円墳です。
昭和60年代に行われた発掘調査で、前方部の外側には三重の濠が巡っていたことなどが確認されています。 

今では古墳の形は若干崩れ、後円部にあった竪穴式石室は完全に失われていますが、江戸時代後期(1805年・文化2年)に、多く副葬品がここから発見されています。
現在、後円部墳丘上にある建物は、本来は石室があった場所に建てられており、石室内に置かれていた凝灰岩質の長持形石棺が、発掘当時のまま大切に保存されています。 

この石室や石棺の中からは、鉄製の甲(よろい)・冑(かぶと)・刀・剣・鏃(ぞく)・馬具(ばぐ)のほか、鏡・玉類など多種多用なものが出土し、中でも、細かな文様を刻んだ金銅で飾った冑(かぶと)・脛当て(すねあて)・ベルト金具・鞍といった品々は特に精巧な作りで、朝鮮半島との強いつながりが指摘されています。
また、長持形石棺という、当時、勢力を持っていた近畿地方の有力者の古墳と同様の埋葬施設をもつことなどから、この月岡古墳に葬られた権力者は、大和政権とかなり密接なつながりをもっていたと考えられ、考古学的にも大変注目される古墳です。

若宮古墳群・・・周辺に分布する月岡古墳・塚堂古墳・日岡古墳の3つの首長墓 

これらの貴重な出土品は、江戸時代の発掘記録と共に一括して、昭和36年に国の重要文化財に指定され、現在、歴史民俗資料館に展示されています。

(図)
写真、上/金銅装眉庇付冑
写真、央/金銅装脛当一対
写真、下/金銅製帯金具

平成17年3月 うきは市教育委員会
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鳥居をくぐり、石段を上り、後円部墳丘上の「社」の中に入る。
既に、先客の見学者に対し、説明が始まり掛けていた。
仲間に入れて貰い、説明を聞く。

長持形石棺。
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案内人さん所持の長持形石棺に関わる解説図を撮らせて貰った。
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副葬品/金銅装眉庇付冑(こんどうそうまびさしつきかぶと)(「社」内、展示パネルより)。
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リーフレット。
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月岡古墳
所在地 うきは市吉井町若宮358-1外
指定種別 国指定重要文化財 昭和36年2月17日
墳丘・主体部 前方後円墳(全長80m) 竪穴式石室
装飾 なし、長持形石棺

月岡古墳は若宮八幡宮境内北西隅にある古墳時代中期に造られた前方後円墳です。
全長89mといわれ、外表施設として三重の周溝が巡っています。
江戸時代に発掘され、後円部にあった竪穴式石室は現存していませんが、奈川5.5mX幅2.7mの長持形石棺を御神体とした社が建っています。

墳丘の南側は民家が立ち込んでいるため、かなり痛みが激しく、原形を留めていません。
しかし、昭和60年の調査によって、月岡古墳本来の姿が垣間見えて来ました。
古墳の周りには三重に堀が巡らされ、内側の溝には水が貯えられていたようです。
古墳の周りは一段高く土を盛り、その上に前方後円墳を築いています。
前方後円墳だけですと約80mとなりますが、一段高い部分を加えますと全長約95mとなります。
また、墳頂部を調べた結果、1m程削られて低くなっており、石棺を収める部屋があったようですが、破壊されています。
記録によると、石棺の内面には朱が塗られていたようです。

1805年(文化2年)に発掘が行われており、その際、出土した遺物の大半が現在まで伝え残されています。
その内容は金銅装眉庇付冑(こんどうそうまびさしつきかぶと)、短甲等の武具類や馬具の類い、鏡や装身具等でその豊富な副葬品から被葬者の繁栄ぶりが窺えます。
また、これら長持形石棺と副葬品は畿内(近畿地方)との密接な繋がりが想定されています。
現在、うきは市立吉井歴史民俗資料館に展示しています。

問い合わせ先 うきは市教育委員会生涯学習課
(以下、省略)
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このリーフレットの内容は中身が濃い。
リーフレットに目を通し、前掲の説明板の内容以外の、新たなことも分かった。
・後円部墳丘上の建物は覆屋ではなく、長持形石棺を御神体とする社であった。
・「古墳の周りには三重に堀が巡らされ、内側の溝には水が貯えられていたようです」とあり、立派な周濠を有した前方後円墳であったことが想像出来る。
・「古墳の周りは一段高く土を盛り、その上に前方後円墳を築いています」とあり、基壇があったということになる。
・「長持形石棺と副葬品は畿内(近畿地方)との密接な繋がりが想定されています」とあり、畿内との関係が長持形石棺で示される説はしばしば目にする。

長持形石棺そのものは特段、珍しいものではないが、今夏、前橋市で開催された群馬県埋蔵文化財センター創立40周年記念講演で「長持形石棺は畿内の大型古墳に特有の石棺である。関東では、太田天神山古墳とお富士山古墳でしか見られておらず、これらの古墳の被葬者とヤマト王権との関係を示すものである」との解説があり、関東では2例しかないことを知った。

本ブログを綴るに際し、昨夏の講演でのその旨を記したマイ・ブログを読み返してみた。

-----2018年7月18日付マイ・ブログ(抜粋)-----

2.太田天神山古墳の長持形石棺について:

講演では「長持形石棺は畿内の大型古墳に特有の石棺である。関東では、太田天神山古墳とお富士山古墳でしか見られておらず、これらの古墳の被葬者とヤマト王権との関係を示すものである」というものであった。

数年前、茨城県石岡市の船塚山古墳を訪れた際、説明板に「関東第二位の前方後円墳」とあり、しからば、関東第一位の前方後円墳は何処の古墳?と思い、調べたところ、群馬県太田市の太田天神山古墳であることを知った。
気にはなりつつあるもそのままとなっていたが、遂に2017年5月、太田天神山古墳を探訪した。

探訪に先立つヨシューで「後円部南側の裾には、石棺部材と見られる石材の一部が転落した状態で残存する。この石材は群馬産の緑色凝灰質砂岩で、乳頭状突起を有する特徴から、組合式長持形石棺の部材の一部と見られている」とあり、現場で、古墳めぐりの相棒、武衛さんと石棺の一部とされる石材を探してみたが、残念ながら、見つけることは出来なかった。

講演で、太田天神山古墳のほかに、お富士山古墳で長持形石棺が使われていたことを知った。
お富士山古墳は、広瀬川の左岸、伊勢崎市にある。
この日、探訪した広瀬古墳群は広瀬川右岸にあり、広瀬川を少し下ったところの左岸である。
お富士山古墳の長持形石棺を、是非、この目で見てみたいものである。。
お富士山古墳を次回の探訪先に挙げておきたい。
(参考)
・お富士山古墳の長持形石棺は、後円部墳頂に鎮座する富士神社の脇に保存されている。
・複製は、国立歴史民俗博物館と群馬県立歴史博物館で展示されている。
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こうしたこともあり、月岡古墳の長持形石棺を興味深く見学したのであった。

次は、この日最後の、そして、今回の古墳探訪の旅の最後となる、日岡古墳である。
月岡古墳から、県道を渡り、東側の日岡古墳へと急ぐ。

フォト:2018年10月21日

(つづく)




by ryujincho | 2018-10-23 23:51 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/前畑古墳』 kk-50

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

朝倉市/狐塚、うきは市/屋形古墳群(珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳)、JR田主丸駅で河童コレクション、久留米市/寺徳古墳を巡った。
残すは、久留米市/前畑古墳、うきは市/日岡古墳、月岡古墳の3ヶ所。

寺徳古墳から前畑古墳を目指し、県道151号線(浮羽草野久留米線)を西へ走る。
草野の町に入る。
県道の趣きががらりと変わる。
草野は久留米市街より東方約12~13km、耳納山地の北麓に位置する。
草野の歴史を紐解くと、草野は久留米から日田に通じる豊後街道(日田往還)山辺往還が通り、久留米八宿の一つで町場を形成していたとある。
そうしたこともあって、趣きのある町並みとなっているのであろう。

標識に従い、県道から外れ、左折、南へ。
右手に前畑古墳が現れた。

「史跡 前畑古墳]。
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標柱の向こうに墳丘が見える。
後背の山は耳納(みのう)山地。
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説明板に目を通す。
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史蹟 前畑古墳
久留米市草野町草野504
昭和38年1月16日 福岡県指定

墳丘は削平されているが、直径約20m、高さ約4.5mほどの円墳と思われる。
石室は複室構造で、全長8.5m、狭い羨道はやや小形の石で壁を築き、大きな天井石3枚で押さえている。
奥行き3.5m、幅2mあまりの後室は巨石で築かれており、奥壁の下半をなす一枚石は特に巨大である。
その前の床面には棺を置いた平石の棺台が残っている。

この古墳を特徴づけるのは、前室の奥壁(柱石)と後室の左壁(北壁)、右壁(南壁)、前、後室の境の天井石などに赤一色で描かれた二重、三重の同心円や単円などの壁画である。

副葬品としては、金環・鉄鏃・桂甲小札(けいこうこざね)・刀子・馬具(雲珠、杏葉、引手など)、須恵器などがあり、石室の形状とこれらの副葬品から、この古墳の築造年代は6世紀末から7世紀初頭と推定される。

久留米市教育委員会
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石室実測図を眺める。
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現場で掲示された石室実測図は不鮮明なので、リーフレットの鮮明な石室実測図を参照。
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先ほど、探訪した寺徳古墳の石室に描かれた円文、同心円文は相当の数で、数えるのはギブアップ。
一方、前畑古墳の円文、同心円文は数えられる程度の数である。
古墳人が描いたときからこの数であったのか、それとも実際はもっと多く描かれたが、調査で判明した数はこれだけということかは定かではないが...。
(因みに、ここではこう記したが、後掲のリーフレットの解説の中に「現在の装飾古墳は褪色が進み、はっきりと見えませんが、三角文もあったようです」とあった)

墳丘と石室入口を眺める。
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羨道は少し「くの字」に曲がっている。
平削されたときの影響か?
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蚊取り線香がご愛敬。
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前室から後室を見通す。
説明をする人、説明を受ける人の姿が見える。
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奥室奥壁正面上部。
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奥室奥壁右角。
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奥室奥壁左角。
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奥室前壁左角。
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奥室前壁右角。
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天井石。
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床面/平石の棺台。
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同心円文、円文。
視認出来たものからどんどんカメラに収めていった。

同心円文。
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同心円文。
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円文。
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同心円文。
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円文。
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さて、これは?
同心円文や円文には見えないが、赤色の痕跡はある。
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さて、これは?
これは壁画でなく、石の模様が汚れであろう。
何でも壁画に見えてしまうのは、<装飾古墳病>である。
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リーフレットに目を通す。
前掲の説明板と異なる解説もあるので、ここに転記しておきたい。
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史蹟 前畑古墳
所在地 久留米市草野町草野504
指定種別 県指定史跡 昭和38年1月16日
墳丘・主体部 円墳30m 複式横穴式石室
装飾 玄室、天井石、前室、壁画系彩色(赤)

かつては、夫婦木(めおとぎ)1号墳とか宮崎邸内古墳とも呼ばれていました。
墳丘は削られ、元の形をとどめていませんが、中央部に石室の天井部の一部が露出しています。
墳丘の規模は推測の域を出ませんが、直径20m、墳丘の高さ約4.5mほどの円墳であったと考えています。

石室は地形の傾斜と直交するようにに西に入り口があります。
石室は全長約8.5mあり、奥から玄室、前室、羨道と門石で仕切られた複式構造の横穴石室です。
玄室は平面系形が長方形をなし、大き目の石材を使用しています。
さらに奥壁は巨石3個を積み上げています。
また、床には大きな板石が奥壁に沿って1枚据えられており、棺台として使ったものと考えています。

装飾はすべて玄室内に描かれています。
奥壁に円文、奥壁に向かって右側壁に二重の同心円文と円文、左側石に円文が描かれています。
さらに、玄室と前室を区切る玄門の壁面に三重と二重の同心円文が描かれ、また、その天井部にも二重の同心円文が描かれていたようです。
現在の装飾古墳は褪色が進み、はっきりと見えませんが、三角文もあったようです。

副葬品は、全て前室から出土しているようです。
耳環、鉄鏃、桂甲小札(けいこうこざね)、刀子、馬具のほか、須恵器が出土しています。

(図)
前畑古墳石室実測図

問い合わせ先 久留米市教育委員会文化財保護課
(以下、省略)
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前畑古墳の見学を終える。
時計は午後2時45分を指している。

次は、うきは市に戻り、日岡古墳と月岡古墳である。
筑後草野駅から輪行で筑後吉井駅まで戻ることにする。
筑後草野駅へ向かう。

筑後草野駅、到着。
下り列車は、15:35 筑後草野発、15:55 筑後吉井駅着。
筑後川流域装飾古墳一斉公開は午後4時まで。
4時前に筑後吉井駅に着き、jitensha を組み立て、日岡古墳・月岡古墳へ自走となるが、4時までに間に合うであろうか。
それはちょっと無理、4時を少し過ぎてしまうだろう。
最後は押せ、押せになるのは毎度のパターン。
ここは勝負!である。

フォト:2018年10月21日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:50 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/寺徳古墳』 kk-49

10月21日(日)、晴れ。この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

うきは市/屋形古墳群(珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳)から久留米市/寺徳古墳、前畑古墳へ。
途中、河童コレクションの一環で、田主丸駅/カッパ駅舎に立ち寄り、再び、県道151号線を西へ走る。

右手に寺徳古墳が現れた。

寺徳古墳。

スタッフさんからリーフレットを頂戴する。
(表面)
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(裏面)
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寺徳古墳(じとくこふん)
所在地 福岡県久留米市田主丸益生田
指定種別 国指定史跡 昭和43年6月11日
墳丘・主体部 円墳(約18m)複室横穴式石室 
装飾 壁画系彩色(赤・緑)

寺徳古墳は山麓の県道沿いに位置する。
直径18m程の円墳です。
石室は入り口を西側に向ける複式構造の横穴式石室で全長10.4mが残っています。
石室床面が膨らんだ胴張り長方形で前室は長方形です。
後室奥壁には幅2.15m、高さ1.8m程の巨石を用いて鏡石としています。

装飾は後室奥壁・側壁・玄門袖石・前室側壁・前門前室側左袖石に描かれています。
文様は同心円文を中心とし、三角文・盾・船等の図文を周囲に配しています。
特に奥壁と前室左側室の大型同心円文は赤と緑を用い、大胆に表現されています。
また、玄門に描かれる同心円文は縦三段に同心円文が配されています。

これらの同心円文はすべて正円であり、何らかの道具(日岡古墳ではコンパスを使ったと思われる)を使って描かれていると思われます。

その他にも同心円文が描かれるが、一部、不整形なものがあり、フリーハンドで描かれたものもあります。
出土遺物は、勾玉・管玉などの玉類、馬具、須恵器が知られており、古墳が造られた時期は6世紀の後半と思われます。

当古墳は装飾の保護のため年1回の公開(11月頃)となっていますが、石室の装飾にっついては説明板に詳細な図を掲載しています。

(表面)
写真/前室より奥壁を望む
写真/奥壁装飾状況
(裏面)
図/石室実測図
写真/後室左側室
写真/前室左側室図

問い合わせ先 久留米市 文化財保護課
(以下省略)
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後室奥壁。
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案内の学芸員さんから、奥壁に描かれた壁画について説明を受ける。
学芸員さんの照らすカンテラの照明をうけて、大きな同心円文が見て取れる。

本ブログを綴るに際し、リーフレットの石室実測図(奥壁模写図、拡大)を参照。
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板状の間詰め石(写真にも写っている)の上と下に分けて、この模写図で壁画を<鑑賞>してみる。

上部:
・小さな円文が2個、描かれている。
・小さく描かれた船と思しきものが3個、描かれている。
・3隻の船とせば;
 左/漕ぎ手はふたつの円形(円文ではないとして)で雪だるまのようである。
 央/横棒で表された船、その上に2個の不等辺四角形。鳥であろうか?
 右/これがいちばん船と漕ぎ手に見える。
下部:
・大きな同心円が2個、小さな同心円が1個、赤と緑で描かれている。
・一部が欠けたと思しき、円文(あるいは、同心円文)が2個、描かれている。
・大小の三角文が5個、赤や緑で描かれている。
・その他に、素人には想像不可能な形のものが幾つか描かれている。

奥壁/間詰め石の上部。
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奥壁/間詰め石の下部。
カンテラで照らし出された大きな同心円文は、模写図にある2個の大きな同心円文のうちの中央寄りに描かれた同心円文と考えてよいだろう。
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アップで。
赤く、大きな同心円文が見て取れる。
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折角なので、更にアップで。
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以上が奥室の奥壁に描かれた壁画である。

以下の5枚の写真は石室内の何処を撮ったものか、残念ながら、定かではない。
しかしながら、貴重な写真であり、アップロートしておきたい。
折を見て、石室内のどの部分であるか、ケンキューしたい。
なお、写真に付したキャプションは、多分、この個所であろうと想像してのものである。
※本ブログを綴り終えたところで、3枚目と4枚目の撮影個所が判明!

天井部かな?
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学芸員さんがライトで照らしてくれた?
相棒の武衛さんがライトで照らしてくれた?
或いは、小生自ら片手ライト、片手カメラで写真を撮った?
いずれにせよ、不自然な角度で撮った写真である。
不自然な角度の写真は奥室の天井部であることが多い。
天井部と思うが、間詰め石が外れたような石が1個、飛び出している。
この石からして、床面かとも思えるが、飛び出した石を拡大してみると、間詰め石としてしっかりと隙間に入っている。
他の間詰め石からしても、天井部と思いたい。

何処に描かれた、大きな同心円文であろうか?
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石室壁画の模写図を見ると、数えきれないくらいに同心円文が描かれている。
何処の壁石かの特定は難しい。

これも天井部かな?
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何処に描かれた同心円文であろうか?
→答え:
リーフレット掲載の写真と照らし合わせてみたところ、リーフレット裏面/右側の写真と石の割れ具合がピッタリ。
ということで、前室左側壁であることが判明!
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何処に描かれた同心円文かな?
→答え:
リーフレット掲載の写真に照らし合わせてみたところ、リーフレット表面/左側の写真の奥室入り口の右袖石の下部にピッタリ。
ということで、奥室右袖石(前室側)であることが判明!
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石室内の見分を終え、石室入り口へと向かう。
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墳丘を間近に眺める。
墳丘は大きな樹木が幾本も根付いている。
今年4月、遠賀川流域装飾古墳探訪で竹原古墳(福岡県宮若市)を訪ねた際、竹原古墳の墳丘も大きな木々が幾本も生えていた。
同地の学芸員さんの話では、伐採すると、墳丘も石室も崩壊する恐れがあるので、樹木はそのままにしているとのことであった。
当地、寺徳古墳も同様のことであろう。
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(資料)
リーフレット掲載の写真と石室実測図をピックアップ。

写真、左/前室より奥室を望む
写真、右/奥壁装飾状況
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写真、左/後室左側壁
写真、右/前室左側僻
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石室実測図。
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大小の同心円文と円文の数を数えてみようと拡大図を作ってみた。
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円文と同心円文の数を数え始めたが、よくぞ、古墳人はこれほどの数の円文・同心円文をコンパスを使い、或いは、フリーハンドで描いたなとただただ感心するばかり。
老いの目はちかちかするだけとなり、途中で数えるのを止めた。
いずれ、数え終えたときのために、個数の欄をブランクにした「表」をここに準備しておくことにした。
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・奥室奥壁:〇個
・奥室左側壁:〇個
・奥室右側壁:〇個
・前室左側壁:〇個
・前室右側壁:〇個
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小さくて素朴な感じの古墳ながら、中身の濃い古墳であった。

次は、前畑古墳である。
県道151号線を西へ走る。

フォト:2018年10月21日

(つづく)



by ryujincho | 2018-10-23 23:49 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/田主丸駅カッパ駅舎』 kk-48

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

うきは市/屋形古墳群(珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳)から久留米市/寺徳古墳、前畑古墳へと向かう。
県道151号線を西へ走る。
寺徳古墳、前畑古墳の探訪前に田主丸駅へ。
目的は、河童コレクションの一環として、田主丸駅/カッパ駅舎の<取材>である。
県道151号線を外れ、少し、北へ向かう。

JR九大本線/田主丸駅。

河童コレクション、その1/駅舎。
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ふるさと創生事業の交付金を使って建て替えられたというカッパの形をした駅舎。
デザインは地元の福岡県立浮羽工業高校(田主丸駅から徒歩10分)の生徒によるもの。
1992年(平成4年)に完成。

その当時の当地は、福岡県浮羽郡田主丸町。
2005年(平成17年)、久留米市に編入され、久留米市田主丸町となった。
第46話で、浮羽郡吉井町と浮羽町が合併し、うきは市が発足した経緯を縷々述べたが、同じ浮羽郡の田主丸町は西隣の久留米市と合併したのであった。
合併特例法に基づく「平成の大合併」は各市町村のいろいろな思惑の中で行われた。
ここ、筑後川流域の市町村においても、浮羽郡という同じ郡の中で紆余曲折があったことが推察出来る。

余談ながら、このカッパ駅舎を眺めながら、2年前、東北を旅したときのことを思い出した。
それは、遠目に、五能線/木造(きづくり)駅の駅舎を見たことである。
木造駅は縄文時代の遮光器土偶を模した駅舎で、これもふるさと創生事業の交付金で建てられたものである。

河童コレクション、その2/楽太郎河童。
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田主丸の開基 菊地丹後は
自ら持っていた死生観
「極楽浄土楽生」から
楽生(たのしくうまる)をとって
田主丸となった 
と云う伝承があります
この河童も(楽)字をとって
楽太郎としました
皆さまに楽しみとしあわせを
授けることでしょう
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由来好きの小生、田主丸という地名の由来を調べようと思っていたところであったが、ここで楽太郎河童が由来をを教えてくれた。

もう少し詳しく調べてみた。
慶長年間、筑後国全権田主丸大庄屋、菊池丹後が藪を切り開いて町筋をつくり、それが田主丸町である。
その丹後の往生観である「我極楽世界楽生」の「我楽しう生まる」から「たぬしまる」の名が付いたと伝えられている。
そのため、今でも「たのしまる」と呼ぶ人が多いという。

河童コレクション、その3/河童像。
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河童さんの手には葡萄や柿などの果物が。
田主丸町は。巨峰の栽培発祥の地といわれている。
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駅舎のカフェ。
自転車吊り下げスタンドがオシャレ(自転車好き目線)。
カフェの名は、確か、「KAPATERIA(カパテリア)」であったかと。
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無人改札口からホームを眺める。
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河童コレクション、その4/駅のホームの大きな河童像。
ちょっと、とぼけたポーズがご愛敬。
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アップで。
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河童コレクション、その5/駅名標に描かれた河童の図。
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アップで。
カッパちゃん、ぶどう狩りの図。
この大きな紫色の房のぶどうは、当地が栽培発祥の「巨峰」。
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田主丸駅から、ゆるやかな坂道を上り、再び、県道151号線へ向かう。

河童コレクション、その6/「河童 with 葡萄 & 柿」の図柄のマンホール蓋。
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河童にまつわる伝説は全国各地にある。
これまでに訪ねた河童伝説の地を思い出しながら、北から順にキーワード的に触れてみたい。
・柳田國男著『遠野物語』河童の伝説(恐ろし過ぎる話で、あらましすらここには書けない)。
・昔、遠野を訪ねた際、”カッパ淵”で「カッパ捕獲許可証」なるものを貰ったことがある(最早、期限切れだが)。
・牛久沼/茨城県の河童伝説の地のひとつ。小川芋銭が描いた河童図が刻まれた「河童の碑」や河童の像あり。
・利根町立歴史民俗資料館(茨城県南相馬郡)/「ねねこ」なる関八州に君臨した女河童の伝説(資料館に赤松宗旦著『利根川図志』に記載された河童図を元に製作されたレプリカあり)。
・鳥見神社(千葉県印西市和泉)の奇祭「イナザキ獅子舞」/三匹の獅子に河童の道化が加わり、延々と続く乱舞。
・手賀沼/千葉県の河童伝説の地。モダンな形の4匹の河童の噴水。水を噴き上げなくなってから久しく、河童の頭の皿は乾いているかも。
・京都伏見の黄桜ギャラリー/河童のあれこれの展示あり、立派なコレクション。上述の鳥見神社の「イナザキ獅子舞」はここで知り、河童を見物に行った経緯あり。
・福崎町(兵庫県神崎郡)を流れる市川左岸の駒ヶ岩/ガタロ(=河童)の伝説。福崎町は柳田國男の生まれ故郷。柳田國男は、駒ヶ岩の河童の兄弟が『妖怪談義』河童の兄弟が川へ水遊びにやってきた子どもの足を掴んで引きずり込み、「尻子玉」を抜いてしまう話を綴っている。駒ヶ岩に立ってみたが、残念ながら、河童は見当たらず(その後、福崎町/辻川山公園の池に機械仕掛けの河童が出るようになったとのこと)。


さて、当地、田主丸の河童伝説は如何なるものか。
当地は筑後川の流域なので、田主丸およびその周辺でいろいろな河童伝説がある。
そのうちの幾つかを綴っておきたい。
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九千坊河童(くせんぼうかっぱ)
筑後川に棲む西日本随一の河童で、一族が九千匹もいたとされる。
もとは熊本に棲んでいたが、その傍若無人ぶりに怒った加藤清正に追われ、人畜に悪さをしないことを条件に、久留米藩有馬公から筑後川に棲むことを許された。
九千坊河童は有馬公に感謝し、以後、水天宮(久留米市京町、安徳天皇を祭神とする水の神様)の護り役として、領民を水害から守る事を誓ったとされる。
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田主丸の巨瀬入道(こせにゅうどう)
平清盛が巨瀬入道という名の河童になったという記述が、延宝3年(1675年)に 書かれた久留米藩の地誌「北筑雑藁」の中にある。
巨瀬入道は、筑後川の支流、現在のうきは市と久留米市を流れる巨瀬川(こせがわ)の主となり、年に1回、正室(継室)二位尼時子と巨瀬川の蛇渕で会う時、川は大荒れ、大洪水になると言われている。
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北野のカッパの手
北野天満宮(久留米市北野町)に河童の手のミイラが保管されている。
菅原道真が京都から大宰府へ向う途中、河童が藤原時平の追討から助けようとして切り落とされた手とする説、菅原道真が河童に川に引き込まれそうになったとき、河童の手を切り落としたとする説などがある。
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小生の大好きな菅原道真が河童と関りがあったとは知らなかった。
当地を訪ねたお陰で、河童コレクションにまた新たなものが加わった。

河童探訪から古墳探訪に戻ろう。
次は、寺徳古墳と前畑古墳である。
県道151号線を西へ走る。

フォト:2018年10月21日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:48 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/屋形古墳群(Ⅱ)原古墳、鳥船塚古墳』 kk-47

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

屋形古墳群。
珍敷塚古墳の装飾壁画を見分したのち、珍敷塚古墳の裏山(耳納山地北麓)に点在する、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳へと向かう。

原古墳。
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説明板に目を通す。
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原古墳(はるこふん)
原古墳は、今からおおよそ1400年以上前の古墳時代後期(6世紀後半)に造られた装飾壁画のある古墳で、昭和62年に国指定史跡となっております。
墳丘の形は円墳で、直径は約13m、高さは約3.5mあります。

主体部は全長8.9mの単室の横穴堰石室で、最大幅約2.3m、高さは2.2mを測ります。
石室は、天井に向かって石を少しずつ内側に積み上げえる持ち送りの構造で、急角度に積み上げられているため、天井部の一番狭い所では僅か30cmになっています。
石室内部は床材の一部が取り除かれ、奥の壁材もすべて抜かれていますが、この奥壁は昭和3年に石室から取り除かれた跡が元に戻され、現在、覆い屋の中で大切に保存されています(反対向きに置かれたため、壁画を見ることが出来る状態です)。

この奥壁と両側の壁の部分に赤一色で壁画が描かれていますが、奥壁は石室から取り出された後に一時期、露天にあったため、柄の残りはあまり良くありません。
奥壁には船・靫・櫂を持つ人物などが、側壁には同心円文が絵描かれています。

(図)
原古墳の絵
※この図は発見当時の模写図を参考にして作成しています

屋形古墳群・・・周辺に分布する珍敷塚古墳・原古墳・鳥船塚古墳・古畑古墳の4つの装飾古墳。
※古墳を見学できるのは公開日のみです

平成17年3月 うきは市教育委員会
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原古墳の「原」は九州らしく、詠みは「はる」である。
前々日、訪ねた五郎山古墳のある筑紫野市原田の「原田」の読みも「はるだ」である。

赤色一色の壁画。
素朴でなかなかよろしい。

図(拡大版)/奥壁に描かれた船・靫・櫂を持つ人物など。
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写真/奥壁に描かれた船・靫・櫂を持つ人物(珍敷塚古墳建屋内/展示パネル写真より)。
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墳丘を見分。
墳丘の周辺は住宅と果樹園。

北東側から。
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南東側から。
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北側から。
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次は、鳥船塚古墳へ向かう。

標識「左/鳥船塚古墳、右/原古墳」。
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標識に従い、山麓を更に奥へ進む。
細い横道に入ると森の中に鳥船塚古墳が現れた。

鳥船塚古墳。
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説明板に目を通す。
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国指定史跡 鳥船塚古墳
所在地 浮羽郡吉井町大字富永236-18
外形と規模 
墳丘は既にないが、もとは円墳であったと推定される。
石室 
大破しており、奥壁の石2個しか現存しない。
当初は西向きの全長約7mの単室の横穴式石室であった。
壁画
上の石の中心には矢を防ぐタテ(盾)を描く。
その直下に同心円文を、さらに、その下に船首と船尾に各1羽の鳥をとまらせた船、鳥船を、左端には大刀を添えたユキ(靭、矢筒)2個を各々表現している。
珍敷塚古墳と同じく右への動感があるが、ユキは小型化して、鳥船中心の構成に変わっている。
出土品 不明
年代 6世紀後半(約1400年前)

(図)
復元図は小林行雄編「装飾古墳」に拠る
指定年月日 昭和28年3月31日

吉井町教育委員会
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旧・浮羽郡吉井町の時代に設けられた説明板である。
誠に簡潔明瞭な説明板である。

古墳名の由来がはっきりしないことが時折あるが、鳥船塚古墳は「鳥船」を中心にして描かれた壁画を有していることを由来としていることが直ぐ分かる古墳である。

図(拡大版)。
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壁画は説明書きで簡潔明瞭に述べられており、敢えて、リピートする必要はないが、説明書きに照らし合わせながら、図を<鑑賞>する。
・上段/矢を防ぐタテ(盾)を描く。
・下段(上)/同心円文を描く。
・下段(左)/大刀をそえたユキ(靭、矢筒)2個を描く。
・下段(下)/船首と船尾に各1羽の鳥をとまらせた船「鳥船」を描く。
説明書きには「珍敷塚古墳と同じく右への動感があるが、ユキは小型化して、鳥船を中心とした構成に変わっている」とある。
確かに、右への動感を感じさせる。
船を漕ぐ人物が足を曲げ、力を入れて漕いでいる様子がよく描けており、これも動きを感じさせる要因かもしれない。
ということで、説明書きの意見に<同感>である。

鳥船の船首の鳥はくっきりとしているが、船尾の鳥は微かに見えるだけである。
鳥船だけを拡大してみる。
船首の鳥とほぼ相似形の鳥が船尾に見て取れる。
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説明板によれば、「墳丘は既にない」とある。
墳丘があったと思しき辺りを眺める。
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次に、屋形古墳群の四つ目、古畑古墳へ向かうべきところであるが、鳥船塚古墳付近からの案内標識は見当たらず、後行程のこともあるので、古畑古墳探訪は止めにして、山を下った。
ということではあるが、古畑古墳は屋形古墳群を構成する古墳のひとつであり、記録として、古畑古墳について簡単に触れておくこととしたい。

古畑古墳。
パネル資料/石室内写真(珍敷塚古墳建屋内/展示パネル写真より)。
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パネル写真(左)/石室奥壁と鏡石。
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パネル写真(右)/鏡石。
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写真では、鏡石の上部に大きな同心円文がひとつ、微かに見えるだけである。
如何なる壁画か描かれているかは、後述のリーフレット解説文に「赤色で4個の大きな同心円文を中心に、三角文と小円文、大の字形に手足を広げた人物像などが描かれている」とある。

リーフレット「うきはの装飾古墳」/古畑古墳に関する解説。
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古畑古墳
鳥船塚古墳の南200mに位置する径約20m、高さ約3mほどの円墳で、墳丘は2段築成で段築面に円筒埴輪、人物埴輪が並んでいました。
屋形古墳群中、最高所に位置します。
内部主体は南西に開口する複室の横穴式石室です。
奥壁の鏡石には赤色で4個の大きな同心円文を中心に据え、三角文と小円文、大の字形に手足を広げた人物像などが描かれています。
同心円文を中心に据える点から、日岡古墳に似たタイプの壁画を持つ古墳です。
(図)
右/奥壁
左/模写図
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古畑古墳/奥壁鏡石/壁画模写図。
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リーフレットの模写図で、より具体的にイメージ出来る。
模写図を見ながら壁画写真を<鑑賞>する。
リーフレットの解説文で既に説明されているが、自らそれを言葉で表してみる。
・鏡石の上部に大きな同心円文がひとつ描かれている・・・写真に微かに写っている。
・鏡石の下部に大きな同心円文が三角形を形作るかのように3個、描かれている。
・これらで、大きな同心円文は都合4個描かれている。
・鏡石の下部の同心円文の左側に手足を広げた人物が小さく描かれている。
・鏡石の下部の同心円文の最下端に三角文が描かれている。


リーフレット解説文に「同心円文を中心に据える点から、日岡古墳に似たタイプの壁画を持つ古墳です」とある。
日岡古墳(若宮古墳群)は探訪予定に組み込んでおり、この日最後に探訪することにしている。
屋形古墳群/古畑古墳と若宮古墳群/日岡古墳の共通性が述べられており、この記述は大いに参考になる。

秋の青空とそれに映える柿の実。
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リーフレット「ふきはの装飾古墳」(うきは市教育委員会)。
次の古墳の所在地と各古墳の概要が簡潔明瞭に記されている。
・屋形古墳群/珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳(いずれも円墳)
・若宮古墳群/月岡古墳、日岡古墳、塚堂古墳(いずれも前方後円墳)
・朝田古墳群/重定古墳、法正寺古墳、矢次郎丸古墳(以上、前方後円墳)、楠名古墳、柄花塚古墳(以上、円墳)
・東屋形古墳群(円墳約60基で構成される群衆墳、多くは戦後の植林や柿畑の開墾で破壊されている)
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次は、寺徳古墳(久留米市)、前畑古墳(久留米市)である。
その前に、河童コレクションの一環として、田主丸駅/カッパ駅舎へ。県道151線を西へ走る。

フォト:2018年10月21日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:47 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/屋形古墳群(Ⅰ)珍敷塚古墳』 kk-46

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

筑後川右岸、狐塚古墳(朝倉市)から、筑後川左岸、珍敷塚古墳(うきは市)へ。

県道151号線を東へ走る。
左手に、標識「珍敷塚古墳→」が現れた。
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標識「珍敷塚古墳 Mezurashizuka BURIAL MOUND →」。
立て看板「→ 10/21(日)開催 装飾古墳等同時公開 珍敷塚古墳」。
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先ほど、訪ねた狐塚古墳は石室が建屋の中に入っていた。
こちらの珍敷塚古墳も建屋が設けられている。
建屋の出入り口は、腰に手をやり、何だか、格好を付けている青年が把手を持っている銀色の扉。
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扉の上に掲げられたプレート「国指定史跡 珍敷塚古墳」。
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建屋の外壁に掲げられた説明板に目を通す。
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史蹟 珍敷塚古墳
この古墳は、昭和25年1月、採土工事の際に発見されたが、主室の奥壁と側壁の一部のみで、他は既に持ち去られていた。
壁面は大きな靭、わらび手文、盾を持つ人物、ガマ、円文などが描かれ、左端のゴンドラ型の船には帽子をかぶった人物が櫂をあやつり、へさきには大きな鳥が羽を休めている。
きわめて情趣深い表現であるが、殊に船は天の鳥船をも連想させ、ガマは月をあらわすシンボルとして大陸との関連を裏付けて、古代文化を考える上で重要なものである。
約1300年以前のものと推定される。
昭和45年3月21日
吉井町教育委員会
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建屋の外壁に掲げられた、もうひとつの説明板にも目を通す。
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国指定 屋形古墳群
耳納山のふもと、ここ、富永の地には小円墳が数多くありました。
今はその数も少なくなりましたが、現在でも60基以上の古墳が残っています。
その中でも、珍敷塚・原・鳥船塚・古畑の4基の古墳からなる屋形古墳群は、古墳ごとに図柄の違うものの、石室の壁に鳥や船・人物・靭(ゆぎ)・盾などの絵が表してあり、装飾古墳として有名です。
昭和61年2月に国指定に指定されました。

珍敷塚古墳を見学希望の方は管理人室へお申し込みください
見学時間 午前9時~午後4時半迄

平成2年
うきは市教育委員会
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余談。
一つ目の説明板(昭和45年)は「吉井町教育委員会」、二つ目の説明板(平成2年)は「うきは市」(「吉井町」の文字の上に「うきは市」の貼り紙で修正)となっている。
うきは市は、2005年(平成7年)、吉井町と浮羽町が合併し、発足。
地元の人に、何故、平仮名で「うきは市」にしたのかと尋ねてみた。
その答えは、漢字で「浮羽市」とすると、浮羽町が吉井町を吸収合併したように思われることとなり、旧・吉井町の人にとってはおもしろくないということで、平仮名で「うきは市」になったという。
吉井町も浮羽町も合併前は浮羽郡であったのだから、漢字で「浮羽市」でよいのではないかと思うのだが、それはヨソモノの思いかも...。

因みに、浮羽郡の歴史を調べてみると;
・1889年(明治22年)、 町村制施行により、生葉郡吉井町と近隣の村が合併して吉井町に、また、 生葉郡浮羽村と近隣の村が合併して浮羽町に
・1896年(明治29年)、郡制施行のため、竹野郡および生葉郡が合併して、浮羽郡となる
とある。

この歴史からすると、元々、吉井町も浮羽町も生葉郡に属していたことが分かる。
また、古代、この地は「的邑(いくはのむら)」と呼ばれており、それが転じて「生葉郡(いくはぐん)」となり、「いくは」が転じて「浮羽(うきは)」になったという。
であれば、なおさら、漢字で「浮羽市」にすればよかったのではないかと思う。
或いは、由緒正しい「いくは」を採用し、「的邑市」「生葉市」とすればよかったのではないかとも思う。
となれば、難読市名のひとつになり、もっと有名な市になれたかもしれない。

余談が過ぎた。
珍敷塚古墳に話を戻そう。

珍敷塚古墳は屋形古墳群に属している。
後ほど、屋形古墳群に属する珍敷塚古墳以外の古墳も探訪するとして、先ず、珍敷塚古墳を見分することにする。

室内で、じっくりと装飾壁画を見分。
室内は撮影禁止なので、実物の写真はない。

室内の壁に展示された説明板と写真をカメラに収める。
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珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)
国史跡 昭和28年3月31日指定

珍敷塚古墳は国指定史跡「屋形古墳群」に属する。
この屋形古墳群が位置する耳納山麓一帯は、古くから装飾古墳が数多く分布する地域として知られてきた。
珍敷塚古墳古墳もその地名から古墳の存在が知られていたが、墳丘の消滅と共に忘れられていた。
しかし、昭和25年1月、採土工事の際に、以前破壊された奥室の壁画の一部が原形のまま発見された。

この古墳は、もとの長さが約4メートルの横穴式石室の円墳と考えられ、残された花崗岩の奥壁には、赤と青色の鉱物性顔料等と岩肌の淡黄色を用い、巧妙な構成のもとに、豪壮雄大な絵画が描かれている。

中央には大船に乗った3個の矢をさした靫(ゆぎ)と蕨手文、左上には光輝く同心円の太陽と、ゴンドラ型の船には、船を漕ぐ人と舳先にとまった鳥が確認でき、右側には盾をもつ人とその下に月を表す同心円、その左には中国で月の使いとして知られるヒキガエルが2匹描かれている。
ゴンドラ型の船は月の方へ進んでおり、太陽から月へと船を進める様子は死者を葬る葬送儀礼を描いているようにみえる。

珍塚古墳は6世紀後半頃の古墳と考えられており、ゴンドラ型の船やヒキガエル等、大陸の強い影響もみられる。
日本独自の装飾古墳として昇華されたこの壁画は、日本の原始美術の祖とも賞賛されている。

(図)
右上/奥室(一部)展開図と壁画の位置
右下/壁画解説図

うきは市教育委員会
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壁画(解説図)。
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壁画解説。
時計回りで書き下してみる。
・ユギ(矢を入れる道具)
・ヘビ?
・月
・ヒキガエル
・鳥(カラス?)
・舟
・舟をこぐ人
・鳥
・太陽
・わらび手文

壁画拡大版。
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説明文や解説図と照らし合わせながら、今一度、壁画を<鑑賞>してみる。
中央に3個の靫(ゆぎ)が大きく描かれている。
靫に納められた矢は几帳面な直線で描かれている。。
大きな蕨手文は、左側の靫と真ん中の靫の間から生え出だしたかと思わせる。
右側の靫の脇に、小さく、盾を持つ人が描かれている。
左端に大きな同心円、右端に小さな同心円で、太陽と月が描かれている。
太陽の下に、ゴンドラ型の舟、舟を漕ぐ人、そして、舳先に鳥。
説明文では「太陽から月へと船を進める様子は死者を葬る葬送儀礼を描いているようにみえる」とある。
なるほど!と思う。
月の近くに、2匹のヒキガエル2匹と1羽の鳥が描かれている。
ヒキガエル2匹、上から見た姿と、正面から見た姿。
古代の人の観察力が窺がえる。
壁画の最下段には、赤、白、青、赤の四層の横線。
説明文によれば、舟とされている。
最上段には、赤い、一本の太い線。
説明文によれば、ヘビ(?マーク付き)とされている。
上段のヘビ、下段の舟で、壁画全体の構図を引き締める効果があるように思える。
こうした構図を考え出した古代の人の素晴らしいセンスが窺がえる。

こうやって、自分なりに鑑賞しながら文字に起こしてみることで、壁画のすべてが理解出来、且つ、頭の中にしっかりと残すことが出来る。

珍敷塚古墳/装飾壁画(建屋内展示写真)。
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今年4月、遠賀川流域装飾古墳めぐりをした。
それに先立ち、図書館で、大塚初重著『装飾古墳の世界をさぐる』(祥伝社)を借り、事前ベンキョーした。
目次をここに掲載しておこう。
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目次
序 装飾古墳を学ぶ前に
第1講 線刻壁画を考える
第2講 古墳壁画の王者「王塚古墳(福岡)」の歴史的意義
第3講 古墳集中地域にある「珍敷塚古墳(福岡)」壁画の世界
第4講 「チブサン古墳(熊本)」石室内壁画に見る世界観
第5講 「竹原古墳(福岡)」のストーリーのある傑作壁画の解釈
第6講 「日ノ岡・重定古墳(福岡)」の壁画世界
第7講 「高松塚古墳(奈良)」の壁画と被葬者を考える
第8講 「虎塚古墳(茨城)」の壁画の発見と保存
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この書籍を読んだとき、「月にヒキガエル」に大いに惹かれた。
今回、珍敷塚古墳で「ヒキガエル」を見ることが叶い、大満足!

説明文では、「中国で月の使いとして知られるヒキガエル」とあるが、諸説ある。

漢籍において、「蟾蜍(せんじょ)」(ヒキガエルの漢名)は兎(ウサギ)とともに月の象徴。
日烏(にちう)と呼ばれる3本脚のカラスが太陽を象徴したのに対して、月には陰気の動物であるヒキガエル(蟾蜍)またはウサギ(月兎)が棲むとされた。

「月中蟾蜍(げっちゅうのせんじょ)」。
これは、仙女であった嫦娥が、地上に下りた際に不死でなくなったため、不老不死になろうと、夫の后羿が西王母から貰い受けた不死の薬を盗んで飲み、月(月宮殿)に逃げ、蟇蛙(ヒキガエル)になってしまったという伝説である。

兎についても触れておこう。
月の影の模様が兎に見えることから、「月には兎がいる」という伝承は各地にある。
兎の横に見える影は臼であるともされる。
日本では、ウサギが餅をついているとされている。
一方、中国では、ウサギが不老不死の薬の材料を手杵で打って粉にしているとされており、ヒキガエルもウサギも不老不死に繋がる話になっているところが面白い。

次に、珍敷塚古墳の裏山(耳納山地北麓)に点在する、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳へと向かう。

フォト:2018年10月21日

(つづく)



by ryujincho | 2018-10-23 23:46 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)