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龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(六)』

8月18日(土曜)、晴れ。播磨国入り。小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)
加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。
「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。
「二の巻」では、五色塚古墳の後円部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「三の巻」では、五色塚古墳の前方部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「四の巻」では、小壺古墳のあれこれを綴った。
「五の巻」では、五色塚古墳の北側と東側からの見分のあれこれを綴った。
「六の巻」では、パンフレット『史跡 五色塚古墳・小壺古墳』について綴ることとしたい。

パンフレット『史跡 五色塚古墳・小壺古墳』
表紙。
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五色塚古墳は、淡路島を望む台地の上に築かれた前方後円墳です。
その全長194mで、兵庫県で一番大きな古墳です。
周囲を深い濠と浅い濠で二重に囲い、西側には円墳で、直径70mの小壺古墳が築かれています。
この五色塚古墳は、全国的にみると40番目の大きさですが、同じ時期のものだけを比べると、奈良県北部の大王墓(佐紀古墳群)と肩を並べる大きさです。
4世紀の終わり頃、この古墳に葬られた人は、明石海峡とその周辺を支配した豪族だと考えらえます。
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西日本の大型前方後円墳が語られるとき、大きさランキング第1位~第3位の畿内/大山古墳(仁徳天皇陵、486m)、誉田御廟山古墳(応神天皇陵、425m)、石塚ヶ丘古墳(履中天皇陵、365m)に続いて、第4位と第10位の吉備/造山古墳(350m)、作山古墳(286m)、そして、その中間地点に位置する第40位の播磨/五色塚古墳(194m)が挙げられ、併せて、畿内・播磨・吉備の関係が語られることがある。


このパンフレットでは「全国的にみると40番目の大きさですが、同じ時期のものだけを比べると、奈良県北部の大王墓(佐紀古墳群)と肩を並べる大きさです」とあり、こうした比較の仕方もあるのだなあと改めて思った。

奈良盆地北部の佐紀古墳群は、奈良盆地東南部の大和古墳群、大阪平野の百舌鳥古墳群・古市古墳群と並ぶ大古墳群である。
佐紀古墳群は、五社神古墳(ごさしこふん、神功皇后治定陵、276m)、佐紀石塚山古墳(成務天皇治定陵、220m)、佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(日葉酢媛(ひはすひめ)治定陵、210m)、市庭古墳(平城天皇治定陵、253m)、ヒシアゲ古墳(磐之媛治定陵、218m)、コナベ古墳(204m)、ウワナベ古墳(265m)など全長200m以上の大型前方後円墳に加え、これらに随伴する陪塚群、そのほかの中・大型前方後円墳で構成される。

グーグル・マップの航空写真で佐紀古墳群を見てみる。
無数のといってもよいくらいの数の前方後円墳が見事に並んでいる光景を見ることが出来る。
佐紀古墳群は佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群とも呼ばれている。
これは、古墳と周濠の形が盾型をしており、それらが北側に後円部、南側に前方部という位置でそれぞれが平行に、また東西一直線に並んでいるからという。
確かに、グルーグル・マップの航空写真で盾が並んでいる光景が見て取れる。
いつ、誰が、何処から、佐紀古墳群を眺め、盾が並んでいるような光景を見て、そう呼んだのであろうか、航空写真もドローンもない時代に...。

話が五色塚古墳から反れてしまった。
五色塚古墳に話を戻す。

パンフレット、2ページ目/上段。
整備以前の五色塚古墳。
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整備工事緯線の五色塚古墳
五色塚古墳に関する最初の記事は、日本書紀に見られます。
「仲哀天皇の偽の墓で、葺石は淡路島から船で運んできた」と書かれています。
しかし、ほかの古墳と同様に、すべて丁寧に造られていることや、人が葬られる石室の石材が出土していることから、偽物とは考えられません。
江戸時代には様々な人が訪れ、絵や文章などの記録を残しています。
18~19世紀に活躍した絵師 司馬江漢も、長崎旅行の途中に立ち寄ったことが、彼の残した日記に記されています。
明治・大正時代には、人類学者や考古学者が調査をし、記録を残しています。
ほとんどの学者は埴輪に興味を示し、その大きさや配列城代を記録しています。
第二次世界大戦中、古墳に生えている松を切り、船材としたり、その根から油を採取しました。
また、戦後は食糧難から畑として開墾されたために、荒廃してしまいました。
昭和30年代の後半になり、五色塚古墳を守ろうと、文化財保護委員会(現・文化庁)が計画を立て、神戸市が地域の方々の協力を得て、昭和40年から10年の歳月をかけ、発掘調査と復元工事を行いました。
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葺石の産地について。
一の巻で、五色塚古墳の入口近くに設けられた説明板に「小さな葺石は古墳近くで採取され、大きな葺石は淡路島で採取された」と記されていることについて、「各地の古墳探訪で都度質問することは、葺石の採取場所。よって、この説明板は的を得ている」と小生のコメントを付した。
パンフレットに「日本書紀に葺石は淡路島から運んで来た」とあり、葺石の産地が淡路島である根拠が日本書紀であることが明らかにされている。
然らば、淡路島の何処で採取された石なのかということになるが、これは当然のことながらが、島内各所の石をサンプリング調査し、島内の産地が明らかになっていると思う。
よって、パンフレットでその旨も言及してくれているとより嬉しいのだが...(と記して、パンフレットの次の項「発掘調査」に目を通すと、「上二段の葺石は分析の結果、淡路島の東側の海岸で産出するものであることが分かりました」とあり、その答えが記されていた。流石、神戸市教育委員会!!)

パンフレットに「第二次世界大戦中、古墳に生えている松を切り、船材としたり、その根から油を採取しました」とある。
この記述で思い浮かぶことは、未探訪ではあるが、長らく探訪したいと思い続けている、栃木県大田原市の侍塚古墳群の下侍塚古墳のことである。
水戸光圀は、那須国造碑との関連を調べるため、上侍塚古墳と下侍塚古墳を発掘調査した。
調査後、墳丘の崩落を防ぐため、松を植樹し、保全整備が行われた。
下侍塚古墳は、今もその原形をとどめ、「日本で一番美しい古墳」といわれている。
片や、下侍塚古墳は文化的遺産を大事にする日本人の美徳の現れ、片や、戦時であれば何をやってもよいという軍部の暴走で、一時期、不幸な状態となってしまった五色塚古墳なのである。

パンフレット掲載写真。
「1960年頃、樹木はほとんどなく、畑になっている」とのキャプションが付された、整備工事以前の航空写真。
パンフレットに「戦後は食糧難から畑として開墾されたために、荒廃してしまいました」とあり、調査と保全工事が始まる昭和40年(1965年)頃まで、こうした状態が続いていたのであった。
但し、今ほどの住宅地とはなっておらず、田畑が広がっており、古墳の周辺環境としては幸せな時代であったかもしれない。
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盟友、品濃守さんは子供の頃、歌敷山(五色台塚古墳の北西部の丘)に住んでいたという。
その頃、五色塚古墳で遊んだことがあるという。
今のような葺石が施されてはおらず、畑であったという。
まさに、1960年頃の、この航空写真のような様子だったのであろう。
因みに、彼は小生より2歳年下だから、五色塚古墳で遊んでいた頃は10歳であったこととなる。

パンフレット、2ページ目/下段~3ページ目。
五色塚古墳の発掘調査。
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五色塚古墳の発掘調査
整備に向けて発掘調査がはじめられたのは昭和40年12月でした。
古墳は、畑でほとんど壊されているのではないかと考えれれていましたが、調査が進むにつれ、大変よく残っていることが分かり、古墳全体の発掘調査をすることになりました。
その結果、古墳は三段に築かれ、斜面にはびっしりと石が葺かれ、各段の平坦部と頂上には、鰭付円筒埴輪が並べられていました。
一番下の段の葺石は付近のものですが、上二段の葺石は分析の結果、淡路島の東側の海岸で産出するものであることが分かりました。
伝承として地域に残っていたものを日本書紀が採用したのでしょう。
埴輪はほどんどが鰭付円筒埴輪で、4~6本に1本の割合で鰭付朝顔形埴輪が立てられていました。
ほかには、蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)盾形埴輪などが少し出土しています。
濠の中には、島状の土壇が造られ、祭祀を行う場所であったと考えられます。
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鰭付円筒埴輪(左)、鰭付朝顔形埴輪(右)。
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復元された埴輪群。
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①円筒埴輪を利用した棺
②後円部東側の島状遺構
③各段に立て並べられて円筒埴輪
④東側くびれ部の埴輪列
⑤発掘調査中の前方部全景
⑥東側くびれ部の葺石
⑦前方部南側の通路状遺構
⑧東側くびれ部の島状遺構

この目で見分した墳丘を思い浮かべながら、これらの写真を見ると、誠に興味深い写真資料である。

裏面。
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五色塚古墳の復元整備
五色塚古墳の復元は、発掘調査の成果に基づいて、設計されました。
当初は、正確に築造当時の形に復元しようとし、発掘調査で出土した古墳時代の面に、転落した葺石を拾い上げ、葺き直しました。
しかし、工事中に古墳の一部が壊れたり、時間の経過とともに雨水などの影響で保存が困難であることが分かりました。
そこで、工法を改良しながら、前方部はすべて古墳築造当時の面を利用し、復元しました。
後円部は、幅1mで7ヶ所だけ調査をし、復元の資料を得ました。
従って、古墳築造時の面の調査は部分的でしたので、全体に50cmの盛土をし、その上に新たに購入した石を葺きました。
従って、前方部と後円部は50cmの違いがあります。
墳頂へ上がるためにくびれ部に設けた階段で、その差を解消しています。
(図)
左下/前方部復元計画模式図
右上/後円部の復元工事
右下/後円部復元計画模式図
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復元図。
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五色塚のCG復元
発掘調査資料をもとに、五色塚古墳が築かれた当時の姿をCGで復元したのが、右の画像です。
海に面した台地上に築かれ、周囲には深くて大きな濠が全周し、後円部ではその外に更に浅い溝が巡らされています。
濠の中には、くびれ部の両側と後円部の東側に島状のマウンドが築かれています。
また、前方部南側には通路のように土橋が設けられています。
古墳は三段に築かれ、斜面には石が葺かれ、各段の平坦面と墳頂には埴輪が並べられています。
小壺古墳は、二段に築かれた円墳で、斜面には石は葺かれていません。
平坦面と墳頂には、五色塚古墳と同様に埴輪が立て並べられ、濠の中には、はやり土橋が設けられています。
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解説に目を通しながら復元図を眺める。
現場で見分したことも重ね合わせながら、眺める。
現場やこれまでの説明板、そして、パンフレットの記述にはなかった土橋が、五色塚古墳の前方部南側や小壺古墳の北側に設けられていることがしっかりと読み取れる。
土橋がこういう形で築かれていることを初めて知った。

現場見分と説明板、そして、パンフレットで五色塚古墳について大いにベンキョーが出来、大満足の1日であった。
こうして、8月18日からの二泊三日の播磨国行脚を大満足のうちに終えたのであった。

フォト:2018年8月20日

(五色塚古墳・小壺古墳、一の巻~六の巻、完)




by ryujincho | 2018-08-21 23:50 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(五)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。
「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。
「二の巻」では、五色塚古墳の後円部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「三の巻」では、五色塚古墳の前方部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「四の巻」では、小壺古墳のあれこれを綴った。
「五の巻」では、五色塚古墳の北側と東側からの見分のあれこれを綴ってみたい。

先程、五色塚古墳の墳丘に上った際、東側の石段は閉鎖されており、方形マウンドや周濠跡に入ることは叶わず。
五色塚古墳の東側の様子を見分すべく、五色塚古墳と小壺古墳の間の一般道を北へ、そして、東側へと向かう。
(写真、右/五色塚古墳、左/小壺古墳)
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五色塚古墳、後円部/西側傾斜面。
1段目傾斜面、芝張り養生中。
傾斜面の養生は墳丘維持のための大事な仕事。
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五色塚古墳の北西角から南側を眺める。
五色塚古墳の周濠跡や3段築がしっかりと見て取れる。
右手には小壺古墳の墳丘もしっかりと見て取れる。
説明書きでは、五色塚古墳には二重の濠、小壺古墳にも濠があったと記されており、一般道の幅ほどしかない僅かなスペースの中で、五色塚古墳と小壺古墳の周濠や堤が上手く収まっていたのであろう。
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北側から。
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北東角近くに標柱が立っている。
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標柱には「史跡 五色塚(千壺)古墳」と刻まれている。
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五色塚古墳の東側へ回り込む。
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北側から東側にかけての周濠跡。
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後円部の北東側の方形マウンドが見て取れる。
説明板の図で、くびれ部の東西両脇にある方形マウンドのほかに、もうひとつ、方形マウンドが図示されていた、その方形マウンドである。
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方形マウンドの手前に石積の円形マウンドらしきものも見える。
角度を変えて、眺めてみる。
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これは、石積みの円形マウンドであろうか?
そうであれば、説明板の図で図示されているはずである。
単なる養生用の石材だろうか?
いや、やはり、これは石積の円形マウンドと思いたい。
機会があれば、神戸市教育委員会に尋ねてみたい。

北西から後円部と前方部を眺める。
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くびれ部、東側の方形マウンド。
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角度を変えて、南側から方形マウンドを眺める。
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「一の巻」で触れたこと、それは説明書きに「濠の中には東西のくびれ部付近に方形マウンド(島状遺構)が造られているほか、円筒棺を埋めたマウンドもありました...」とあり、このくびれ部東側にある方形マウンドは陪塚ではないようだ、となると、この方形マウンドが造られた目的は何か?ということであった。

方形マウンドを間近に眺めながら、今一度、このマウンドの目的を考えてみた。
前方後円墳の前方部は祭祀を執り行う場所、後円部は埋葬の場所という説がある。
この方形マウンドは後円部を見上げるような位置にあり、この方形マウンドも祭祀を執り行う場所であったのかもしれない。
(のちほど、パンフレットに目を通していたところ、「濠の中には、島状の土壇が造られ、祭祀を行う場所であったと考えられます」とあり、現場での小生の推測は”正解”であった。)

墳丘の東側の道は山陽電車の線路の手前で行き止まりとなる。
前方部先端を眺める。
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丁度、山陽電車が走って来た。
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山陽電車の車窓からは、一瞬、前方部の葺石が見えるのであろう。
山陽電車に乗る機会は余りなく、見たことはない。
JR神戸線は山陽電車より一段下がったところを走っており、葺石は見えないかもしれない。
JR神戸線は乗る機会が多いが、見えたことはない。
次回、乗る機会があれば、目を凝らしてトライしてみたい。

線路際のマンションの銘板。
「舞子五色塚ハイツ」の書体は五色塚古墳を意識してのものと推察。
書体が素適なので、カメラに収めた。
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東南からの墳丘全景。
正確には”準・全景”。
周辺は住宅が迫っており、距離を取って遠く離れて全景を捉えることは叶わず。
広角レンズなら”全景”を撮り易いであろうが、古墳探訪は軽装備を常としているし...。
全長194メートルはそれほどに長いといえるのである。
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再び、西側に戻って来た。
草刈り作業が始まっていた。
夏場は草が刈ってあるか、草ボウボウかで、墳丘の様子は随分と違って来る。
炎暑の中での草刈りさんに感謝!である。
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時計は10時過ぎを指している。
ここに到着したのは9時前。
1時間超をかけての、五色塚古墳・小壺古墳探訪であった。

管理事務所でゲットしたパンフレットに今一度、目を通す。
簡潔明瞭にいろいろと解説されている。
それらについては続編にて。

フォト:2018年8月20日

(つづく)




by ryujincho | 2018-08-21 23:49 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(四)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。
「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。
「二の巻」では、五色塚古墳の後円部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「三の巻」では、五色塚古墳の前方部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「四の巻」では、小壺古墳のあれこれを綴ってみたい。

五色塚古墳の墳頂を下り、小壺古墳へ。
正面に見える墳丘が小壺古墳である。
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小壺古墳は、一般道を挟んで、五色塚古墳の西側に位置している。
右/五色塚古墳入口、左/小壺古墳。
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「史跡 小壺古墳」。
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墳丘全景(北東角から)。
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説明板に目を通す。
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史跡 小壺古墳
小壺古墳は、直径70m、高さ約8.5mの円墳で、古墳の裾と濠の大部分は周りの道路敷まで広がっています。
墳丘は2段で築かれており、墳頂部と中段の平坦面には、五色塚古墳と同形の鰭付円筒埴輪がめぐらされていました。
家形埴輪も数個分、発見されています。
斜面に葺石はありませんでした。
小壺古墳が造られた時期は、埴輪の形などからみて五色塚古墳と同じ、4世紀後半頃と推定されます。
整備にあたっては、墳丘斜面に平坦面をつくらず、斜面全体に芝張りを行いました。
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円墳の周囲を反時計回りでぐるっと歩いてみる。

墳丘の稜線と明石大橋のケーブルの、緑と白の””曲線美”(北東角から)。
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小壺古墳の墳丘と五色塚古墳の後円部の、緑と葺石色の”二重墳丘美”(北西角から)。
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小壺古墳の墳丘と五色塚古墳後円部の”二重墳丘美”(南西角から)。
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小壺古墳の東側た立っていた標柱「史跡 小壺古墳」のほかに、南東角にもうひとつ、こんな年季の入った標柱が立っていた。
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この年季の入った標柱は文字が消えかけているが、「史跡 五色塚千壺古墳 小壺古墳」と読み取れる。
五色塚古墳の入口にあった記念碑は「五色塚(千壺)古墳」と刻まれており、「千壺」は括弧書きであった。
一方、こちらの年季の入った標識は「五色塚千壺古墳」となっており、「千壺」は括弧書きにはなっていない。
五色塚古墳には2200本もの円筒埴輪が並べられていたということから「千壺」の名称が生まれたということは想像に難くない。
となれば、「千壺」の名は括弧書きなどにせず、堂々と(???)、この年季の入った標識のように「五色塚千壺古墳」とすることでよいのではないだろうか。

先程、五色塚古墳の墳丘に上った際、東側の石段は閉鎖されており、方形マウンドや周濠跡に入ることは叶わず。
小壺古墳から一般道を北へ、そして、東側へ回ってみることにする。
それについては、続編にて。

フォト:2018年8月20日

(つづく)




by ryujincho | 2018-08-21 23:48 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(三)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。
「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。
「二の巻」では、五色塚古墳の後円部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「三の巻」では、五色塚古墳の前方部墳頂に上ってのあれこれを綴ってみたい。

後円部墳頂からの眺め。
前方部墳頂と埴輪列。
明石海峡、淡路島、明石大橋、左手、大阪湾。
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前方部の先端へ歩を進める。
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前方部先端からの眺め。
斜面下は、山陽電鉄、JR神戸線、国道2号線が並走、国道筋の建物群の向こうは海岸線(一部埋め立て)。
ちょうど、山陽電車が通過する。
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埴輪列と明石大橋。
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明石大橋と船。
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前方部、南東角。
埴輪列と大阪湾。
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前方部先端に設けられた説明板に目を通す。
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葬られた人物
五色塚古墳・小壺古墳は、須磨から明石にかけての海岸線が最も突出したところに造られています。
墳頂からは、明石海峡を隔てて淡路島が望め、右手に播磨灘、左手に大阪湾、天候がよければ小豆島や紀伊半島、友ヶ島まで望むことができます。
現在は眼前に埋立地が広がりますが、五色塚古墳・小壺古墳が造られた頃の海岸線は2号線付近で、海を見下ろす位置にあたります。
そのため、明石海峡を中心とした海陸交通要衝の地を支配した人物が葬られているのではないかと考えられています。
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CGで復元した五色塚古墳と周辺の地形(パンフレット「史跡 五色塚古墳 小壺古墳」より)。
まことによく出来たCG復元図である。
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航空写真(同上)。
左下から右上に弧を描くように連なって並んでいる建物群の辺りが国道2号線、即ち、古墳築造当時の海岸線。
昔の海岸線をこの航空写真でしっかりと読み取ることが出来る。
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前方部先端から後円部を望む。
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方形マウンド(東側)。
先程、後円部墳頂から眺めた方形マウンドを前方部墳頂から眺める。
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墳丘探訪を大満足で終え、西側の石段を下る。
前方下に見える墳丘が円墳の小壺古墳。
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五色塚古墳の墳丘の東側の石段は閉鎖されており、方形マウンドや周濠跡に入ることは叶わず。
一般道を通り、東側へ回ってみることにする。
併せて、小壺古墳も探訪。
それらについては、続編にて。

フォト:2018年8月20日

(つづく)


by ryujincho | 2018-08-21 23:40 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(二)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。
「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。
「二の巻」では、五色塚古墳の墳丘に上ってのあれこれを綴ってみたい。

五色塚古墳の西側から墳丘を上る。
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石段の途中から北側、後円部を眺める。
葺石がびっしり。
往時を偲ばせる如くに葺石が見事に復元されている。
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くびれ部から後円部にかけて、墳丘を眺める。
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前方部/西側斜面を眺める。
三段築造の斜面と平坦部が見事に復元されている。
視線の先には、明石海峡と淡路島が見える。
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後円部の墳頂に上る。
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後円部の墳頂に立ち、南西から反時計回りでぐるっと360度、見渡す。

南西から南にかけて。
明石海峡、明石大橋、淡路島。
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南から東にかけて。
明石海峡、淡路島、大阪湾。
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南東
大阪湾。
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東。
前方の山は鉢伏山。
山頂展望台の建物も見える。
麓の須磨浦公園付近は源平合戦の一ノ谷古戦場である。
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鉢伏山をズームアップ!
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北東から北にかけて。
丘陵地帯に広がる住宅地。
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北から北西部にかけて。
丘陵地帯に広がる住宅地。
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西から南西部にかけて。
丘陵地帯に広がる住宅地。
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方形マウンド(東側)。
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アップで。
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方形マウンドを眺めていたところ、丁度、前方部先端沿いに山陽電車が通り過ぎる。
そして、海峡を通り過ぎる船が彼方に見える。
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説明板では西側の方形マウンドも図示されていたが、復元はされておらず、その痕跡らしきも見えない。
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西側、小壺古墳(円墳)。
後程、墳丘の近くへ。
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再び、五色塚古墳に目を移す。
後円部墳頂の周囲に並べられた円筒埴輪と朝顔形埴輪。
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円筒埴輪も朝顔形埴輪も鰭付きで、見事に再現されている。
円筒埴輪は古墳の外側の世界と古墳とを遮蔽するために並べられたものと考えられている。
鰭のない円筒埴輪に比べ、鰭付きの円筒埴輪は隙間を作らないように並べることが出来る。
鰭付円筒埴輪を採用したこの古墳の設計者は、外側の世界と古墳を遮蔽しようとする強い意図を持っていたと考えられる。
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埴輪列の復元。
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埴輪列の復元
五色塚古墳では、墳頂部・上段平坦部・中段平坦部の三段に埴輪が並べられていました。
古墳全体ではおよそ2200本もの埴輪がめぐらされていたと推定されます。
埴輪の大部分は鰭付円筒埴輪で、4~6本の1本の割合で鰭付朝顔型埴輪が立てられていました。
埴輪列は、幅0.5~0.7m、深さ0.4~0.5mの溝を掘り、その中に鰭が接するか前後に重なるように並べ、土で固定しています。
また、蓋型埴輪や家形埴輪、盾形埴輪なども少量発見されています。
後円部と前方に¥部墳頂の埴輪列は、出土した埴輪をもとにして鰭付円筒埴輪と鰭付朝顔形埴輪を合成樹脂で作成し、復元しました。
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今一度、明石大橋を眺める。
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古墳築造の技術、そして、架橋の技術、時代は変わっても土木技術は大事である。
そんなことを思いながら、石段を下り、前方部へ。
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後円部の高さは18.0m、前方部の高さは11.5mで、その差は6.5m。
知る限りでは、結構大きな差の前方後円墳といえる。

前方部のあれこれについては、続編にて。

フォト:2018年8月20日

(つづく)


by ryujincho | 2018-08-21 23:39 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(一)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。

最寄り駅の山陽電鉄/霞ヶ丘駅に降り立つ。
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駅名表示と共に五色塚古墳の図絵が目に入る。
「大古墳 海峡望む 五色塚」。
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駅前の案内板。
「ここは 神戸市垂水区五色山町7番4号」。
神戸市というと摂津国と思い勝ちだが、神戸市垂水区は播磨国であり、本ブログのタイトル「炎暑!播磨国史跡めぐり」で間違いはない。
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五色塚古墳を訪ねるのは、2000年代初め、神戸に単身赴任しているときに散歩がてら訪ねて以来のこととなる。
当時は特段、古墳に興味を持っていた訳ではなく、散歩にちょうどよいという程度のことであった。
そのときは、JR舞子駅から国道2号線を東へ歩き、途中からJR神戸線の高架をくぐり、山陽電鉄の踏切を渡り、線路の北側の、この山陽電鉄沿いの道に出たと記憶する。
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線路沿いの細い道を東へ。
細い道は突き当り、左へ曲がり、北方向へ。
左へ曲がると、右前方に五色塚古墳の墳丘がどーんと現れる。
ええ光景!
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五色塚古墳の西側の道を北へ進み、入口へ。
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入口脇の管理事務所でパンフレットをゲットすると共に、事務所の壁に掲げられた航空写真を眺める。

航空写真(2005年撮影)。
蛍光灯の光が反射しているが、それはそれとして。
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播磨灘、明石海峡、海峡に架かる明石大橋、そして、淡路島を一望。
明石大橋の東側には、舞子公園、国道2号線を挟んで舞子ビラ、更に東の海岸線は埋立地のマリンピアなど。
明石大橋が架かる前と後で、舞子公園の辺りは大変貌。
子供の頃、”舞子の六角堂”と呼んでいた舞子公園内の移情閣は、今は、孫文記念館というらしい。
舞子公園の北東側の丘の上にある舞子ビラは旧有栖川宮別邸(1894年竣工)で、住友家への払い下げ、GHQによる接収、民間所有、神戸市所有、第三セクター、民間所有と幾多の変遷を辿り、現在は「シーサイドホテル舞子ビラ神戸」となっている。
我が人生もちょいとその変遷の中にあり、何を隠そう、我が結婚式は神戸市の施設であった時代の「舞子ビラ」で挙げたのであった。
以来、40数年が経ち、その間に建物は建て直されてはいるが、記念すべき場所なのである。
話が脱線した。

五色塚古墳に話を戻す。
五色塚古墳は、今は海岸線から少し離れているが、往時は海岸線ぎりぎりに築造されていたと思われる。
というのは、今は、南から、埋め立て地のマリンピア、旧海岸線、国道2号線、JR神戸線、山陽電鉄、そして、五色塚古墳の前方部先端(鉄道で一部、欠けている)となっている。
埋め立て以前は、海岸線から国道、鉄道を挟んで丘までの間の距離は然程なく、国道や鉄道が敷設される以前は、海岸線から前方部が立ち上がっているように見えたと思われる(古代の地形が現在の国道辺りが海岸線であったという前提で)。

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五色塚古墳の西隣の小壺古墳(円墳)もくっきりと。
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南側(正確には少し西に振っているが)、明石海峡、淡路島、そして、東に大阪湾。
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蛍光灯の反射のない、パンフレット表紙の航空写真。
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後円部の墳丘を背景に、古墳を模した標識とパンフレット。
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パンフレットに目を通す。
整備工事以前の五色塚古墳の航空写真が掲載されている。
「1960年頃、樹木がほとんどなく、畑となっている」とのキャプションが付されている。
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盟友、品濃守さんは子供の頃、歌敷山(五色台塚古墳北西の丘)に住んでいたという。
その頃、五色塚古墳で遊んだことがあるという。
今のような葺石が施されてはおらず、畑であったという。
まさに、1960年頃の、この航空写真のような様子だったのであろう。

パンフレットでの解説内容と掲載写真については、ページを改めて別途綴ることとしたい。

標柱。
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史跡
五色塚(千壺)古墳
小壺古墳
五色塚古墳復元整備完成記念
昭和50年8月
神戸市長 宮崎辰雄
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標柱ではなく、記念碑であった。
宮崎辰雄の名で思い出すのは、前市長の原口忠次郎から始まった「山、海へ行く」を継続し、「株式会社神戸市」を推進したたこと。
「最小の経費で最大の市民福祉」を基本理念に、原口忠次郎前市長時代にスタートした「山、海へ行く」のスローガンで、六甲山系西部の高倉山を削り取り、住宅地(須磨ニュータウン)とし、削り取った土砂でポートアイランドや六甲アイランドなど巨大な人工島を神戸港に造成する事業を継続し(六甲アイランドについては宮崎時代に事業開始)、大きく街の様相を変化させた。1981年(昭和56年)には神戸ポートアイランド博覧会協会会長として「ポートピア'81」の開催を成功させた。また、埋め立て地の売却益や、外国金融機関からの起債を中心に、国からの補助金に頼ることなく自力で神戸市を大きくする行政手法を展開。一連の宮崎行政は「株式会社神戸市」と呼ばれ、国内外から大きな注目を浴びた。一方で、元来登山家であった宮崎の開発一辺倒のこうした手法が、神戸の自然破壊を推し進めたとして強く批判されたりもした。 退任後の1995年(平成7年)に起きた兵庫県南部地震に伴う震災被害に関しては、宮崎時代の市政が経済を優先して災害対策を後回しにしたという批判が出たこともあった。
(筆者注:「株式会社神戸市」について、一部朧げな記憶もあったので、大好きなウィきぺディアを参照し、一部を引用した)
宮崎行政には功罪はあるが、今、我々が目にしている神戸の様相はまさに原口・宮崎時代に作られたもので、発展したとの評価はしてもよいと思うし、今の政治家にはみられない大胆な政策を打ち出す能力があったとも言えるのではないだろうか。

話は少々脱線してしまったが、神戸市長の力は大規模な古墳の築造を可能とした往時の豪族の長の力と共通する点もあるなあと記念碑を眺めながら思うのであった。

豪族の長は古墳で名を残す 市長は記念碑で名を残す
やっぱり、古墳時代の長の方が豪いかな?

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説明板に目を通す。
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史跡 五色塚古墳
五色塚古墳と小壺古墳は、古墳が造られた当時の姿が見られる野外博物館として、文化庁が計画を立て、神戸市により1965年から10年の歳月をかけて発掘調査と復元整備工事が行われました。
五色塚古墳は、墳丘の全長194m、後円部の多可さ18.8mの、兵庫県下最大の前方後円墳です。
周囲は深い濠と、今は見ることができませんが、浅い濠の二重に囲まれています。
墳丘は三段で築かれ、下段の斜面には古墳付近で集めた小さな石を葺き、中段と上段の斜面には淡路島から運ばれた大きな石を葺いていました。
墳頂と各段の平坦面には鰭付円筒埴輪・鰭付朝顔形埴輪をめぐらせていて、おおよそ2200本立てられていたと推定されます。
濠の中には東西のくびれ部付近に方形マウンド(島状遺構)が造られているほか、円筒棺を埋めたマウンドもありました。
五色塚古墳では、後円部にあると考えられる埋葬施設などの発掘調査は行っていません。
古墳が造られた時期を推定する材料は少ないですが、埴輪の形などからみて、4世紀後半頃と考えられています。
神戸市教育委員会
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興味深い記述は次の3点である。
①円筒埴輪・朝顔形埴輪が鰭付きであったということ
②小さな葺石は古墳近くで採取され、大きな葺石は淡路島で採取されたということ。
 各地の古墳探訪で都度質問することは、葺石の採取場所。
 よって、この説明板は的を得ている。
③くびれ部付近に方形マウンド(島状遺構)が存在すること。
 方形マウンドは陪塚ではないようだ。
 方形マウンドが造られた理由は、さて?
 円筒棺が埋められていたマウンドは陪塚か?

墳丘規模模式図。
方形マウンドを確認する。
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墳丘へ上ってみる。
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墳頂での様子は、続編にて。

フォト:2018年8月20日

(つづく)








by ryujincho | 2018-08-21 23:38 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/兵庫県立考古博物館(下)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園で玉丘古墳群を見学。
つづいて、五百羅漢で有名な羅漢寺へ。
つづいて、大日寺石仏群へ。
つづいて、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)へ。
つづいて、兵庫県立考古博物館(本館)へ。

兵庫県立考古博物館(本館)。
古墳時代から律令国家のコーナーへ。
「法律で治める国が生まれた」。
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法律で治める国が生まれた
古墳時代が終わり、新しい時代がやってきました。
法律で国を治める律令国家の誕生です。
中国(唐)の制度のもとに新しい社会のしくみができました。
新しい社会の仕組み
一、法律ができた
一、役所が設置された
一、道が整備された
一、戸籍がつくられた
一、税の仕組みができた
(図)
但馬 但馬国府 但馬國印(豊岡市)
丹波 丹波国府 丹波國印(亀岡市)
播磨 播磨国府 播磨國印 (姫路市)
摂津 摂津国府 摂津國印 (大阪市)
淡路 淡路国府 淡路國印 (南あわじ市)
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国印。
解説パネルの”五ヶ国”にそれぞれの国印が朱肉色でプリントされている。
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以前、下野国庁跡資料館で国印(復元)を見たことがある。
「〇〇國印」の「印」の文字が下野国と上述の五ヶ国とで違っているように思える。
アーカイブで下野国印の写真を探してみた。
兄弟ブログ『上総守が行く!(二代目)』の2016年9月2日付「下野史跡めぐり/国庁跡資料館(中)」で、次の通り綴っていた。

=====「下野史跡めぐり/国庁跡資料館(中)」、抜粋=====

下野国印(推定復元)。
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下野国印
日本では「大宝令」頒布(702年)とともに、「新印様を頒布」し、ついで慶雲元年(704年)の「諸国印を鋳す」を印章使用の発足としています。
古代の印章は、すべて鋳造で、印文は陽刻の篆書体であり、内印(天皇の印)が方3寸(8.7cm)であり、それ以下の役所では次第にその大きさを減ずるのが官印の制度でした(『国史大辞典』吉川弘文館より)。
律令時代の各国の国印は方2寸(約6cm)の大きさでした。
下野国印は、現物も押捺した史料も現存していないので、他国の例を参考に推定復元しました。
印は、莟紐印の形状で、印文は養老5年(721年)「下総国印」の印影および丸山暁鶴氏の御教示により作成したものです。
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以上が、以前、下野国庁跡資料館で見た下野国の国印である。
見比べてみると、「印」の字が確かに異なっている。
五畿七道すべての国の国印を調べた訳ではないが、他の幾つかの国印を参照すると、「印」の文字には二種類あることがわかった。
どのような理由で二種類の「印」の文字が存在しているのか(畿内を中心に東と西に分けたのか?など)、その理由は今後の課題とし、機会があれば調べてみたい。


「すべての道は都に通ず」。
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全国を支配するために道を整備し、都と各地を結びました。
古代の国道と誕生です。
(図)
東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道を図示。
----------------------------------------
古代の「山陽道」
都と太宰府を結ぶ重要な道です。
広いところは10~12mもあり、平野部では一直線に通っていました。
1300年も前に現代の道路のような立派な道がつくれれていたのです。
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林の中に眠っていた野麿駅家(やまのうまや)
-落池遺跡ー
落池遺跡(上郡町)では林の中に古代の駅家がそっくりそのまま残されていました。
長い塀や立派な門で囲まれ、瓦葺きの建物が建ち並んでいたことが分かりました。
(図)
清少納言も『枕草子』の中に「駅(うまや)は野麿駅(やまのうまや)」と書いています。
(写真)
姿をあらわした建物跡
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『枕草子』で野麿駅がとのように登場するのか調べてみた。
「うまやは。梨原。ひぐれの駅。望月の駅。野口の駅。山の駅。哀なる事を聞置たりしに、又哀なる事の有しかば、猶取り集めて哀也。」。
ここに登場する「山の駅」が「野磨駅家」なのである。

布勢駅家(ふせのうまや)の屋根瓦。
鬼瓦・軒丸瓦・軒平瓦
奈良時代
小犬丸遺跡(たつの市)
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小犬丸遺跡の周辺には、長尾薬師塚古墳(被葬者は布施駅長で里長でもあったと推測される人物)や小犬丸中谷廃寺跡などもあるという。

国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社めぐり(のちに、国分寺以前の古代寺院跡、更に古墳と時代を遡っての遺跡めぐりに拡大)のそもそもの発端は、東京都国分寺市で東山道武蔵路跡を見学したことであった。
その後、各地の国府跡や国分寺跡・国分尼寺跡、総社をめぐる中で、上野国分寺跡の南側にある東山道跡(と思しき道)や上野国新田郡庁跡近くの東山道跡、下野国庁跡近くの東山道跡なども探訪したことがある。
ということで、山陽道の駅に関する展示を興味深く目を通した。

なお、一昨年の秋、姫路市内の兵庫県立歴史博物館を訪ねた際、県立考古博物館にも古代瓦の展示があると聞いたことでもあり、今回、それを見学することも楽しみにしていたが、瓦の関連としては平安時代の瓦の展示が多く、古代瓦の関連では、前掲の布勢駅家から出土した瓦の展示のみであったことを言い添えておきたい。

山陽道の兵庫県下の駅(9駅、廃駅2駅)については、兄弟ブログ『上総守が行く!(二代目)』の2016年10月25日付「播磨国史跡めぐり/兵庫県立歴史博物館」で詳しく綴っていることでもあり、ここでは割愛する。


「丹波国氷上郡お役所めぐり」。
子供さん向けの表題となっているが、郡衙のことである。
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古代では国を群に分け、それぞれに役所(郡衙)が置かれました。
丹波国氷上郡(今の丹波市)は大きかったので、西と東の二ヶ所に役所が置かれていました。
一つのの群に二つの役所あったのは全国でも珍しいことです。
(写真)
氷上郡衙の本所
市辺遺跡
市辺遺跡は氷上郡衙の本所の一部です。
※など税として集めたものを保管する倉庫跡がたくさんみつかりました。
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市辺遺跡からの出土品。
墨書土器、木簡など。
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国府跡(国衙跡、国庁跡を含む)を探訪しているが、郡衙跡までは手が回らない。
しかし、上野国新田郡庁跡や下総国相馬郡衙正倉跡など、機会がある都度、訪ねている。
よって、但馬国氷上郡衙の展示について興味深く目を通した。

兵庫県の五ヶ国。
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兵庫県が出来る前のお話
みなさんが住んでいる兵庫県が出来て150年を迎えます。
それ以前は、摂津・播磨・但馬・丹波・淡路の五つの国に分かれていました。
その五つの国が一つになって兵庫県が誕生したのです。
それでは、兵庫県が出来る前に分かれていた五つの国はいつから始まったでのしょうか。
それは古墳時代に県内各地にいた有力者の勢力範囲を元にしています。
約1300年前、奈良に都が出来る頃には、都から役人が来て、国ごとにそれぞれの地域を治めるようになりました。
奈良時代は、天皇が法律によって日本を治めた時代です。
ひょうごの五つの国にも役所が置かれ、都から来た役人を中心にそれぞれの国を治めていました。
今回の展示は、発掘調査の成果を元にこの時代に五つの国であった出来事を紹介します。
平成30年7月21日
兵庫県立考古博物館
館長 和田晴吾
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播磨国。
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昔の人は何をつくっていたのだろう?
播磨国は、兵庫県の西部に位置し、神戸市西部、明石市、播磨町、稲美町、加古川市、高砂市、姫路市、太子町、たつの市、相生市、赤穂市、上郡町、佐用町、宍粟市、三木市、小野市、加東市、加西市、西脇市、多可町、市川町、神河町、福崎町の地域です。
播磨国は昔から焼き物づくりが盛んで、須恵器と呼ばれる灰色の硬い焼き物をつくっていました。
奈良時代には、都にも納めていたことが知られています。
ここでは、播磨でつくられた焼き物(食器)を見てみましょう。
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淡路国。
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昔の人は何を食べていたのだろう?
淡路国は、淡路島全域、現在の淡路市、洲本市、南あわじ市の地域です。
現在でも海の幸が豊富なことで知られているように、奈良時代の淡路国は若狭国(福井県)、志摩国(三重県)とともに天皇の食料を納める国でした。
奈良の都には、塩も運ばれていたことが知られています。
ここでは、淡路島で見つかった塩づくりで使用した土器やタコツボから、昔の人が何を食べていたかを見ましょう。
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摂津国。
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昔の人はどんな文字を書いていたのだろう?
摂津国は、兵庫県と大阪府にまたがっており、兵庫東部は、神戸市東部、芦屋市、西宮市、尼崎市、伊丹市、宝塚市、川西市、猪名川町、三田市の地域です。
奈良時代には、役所で文字が使われるようになり、文字の利用が広がっていきました。
ここでは、芦屋市で見つかった古い年号を記した文字や神戸市で見つかった硯に刻まれた文字、県内で見つかった文字も併せて取り上げます。
当時の人たちがどのような文字を書いたのかを見てみましょう。
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上段、央/
文字が書かれた土器「但馬」 深田遺跡(豊岡市)
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上段、右/
文字が刻まれた硯 太田町遺跡(神戸市)
直▢▢、荒田、冨里、郡中、荒田
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下段、左/
文字が書かれた土器「大伴」 丁・柳ヶ瀬遺跡(姫路市)
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下段、央/
文字が印で押された土器「榎」 丁・柳ヶ瀬遺跡(姫路市)
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左/年の書かれた木簡(元号) 深出遺跡(豊岡市)
「大同五年」(810年)
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右/年の書かれた木簡(干支)(レプリカ)
三条九ノ坪遺跡(芦屋市)
「三壬子年▢」
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芦屋市/三条九ノ坪遺跡出土の木簡に書かれた「三壬子年▢」は、西暦でいうと何年のことであろうか。
調べてみた。
この木簡に関する報告書の中で調査研究が縷々語られているが、ここでは結論だけを記しておきたい。
・「三壬子年」の「三」は、「三」と読めそうだが、研究の結果、「元」と読むのが妥当である。
・「元壬子年」と見なすと、白雉(はくち)元年壬子(じんし)の年となる。
・白雉とは、大化の後、西暦650年から654年までの期間を指し、九州年号では652年から661年までの期間を指す。
・白雉/西暦/干支を照らすと;
 白雉元年/650年/庚戌
 白雉2年/651年/辛亥
 白雉3年/652年/壬子
 (以下、省略)
・以上のことから、木簡に書かれた「元壬子年」は九州年号で西暦652年となる。
九州年号について書き出すと長くなるので、割愛する。

但馬国。
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昔の役人はどんな姿だったのだろう?
但馬国は、兵庫県の北部、現在の豊岡市、養父市、朝来市、香美町、新温泉町です。
豊岡市では、役人が川で行ったお祓いの跡から、たくさんのお祓いの道具や役人が身に着けたいたものが見つかっています。
ここでは、昔の役人が使ったベルトの飾りや着物を見てみましょう。
併せて、お祓いの道具に描かれたたくさんの顔の絵を見ながら、昔の人の姿を想像してみましょう。
(図)十数人の役人の顔の絵
(展示品)木簡に似た人形(ひとかた)
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役人の姿や役所の道具については、武蔵国の国府であった東京都府中市の「ふるさと府中歴史館」など各地の資料館で見学しているが、人形(ひとがた)をした木製祭祀具を見るのは初めてであった。

我が住まいとする千葉県は上総、下総、安房の三ヶ国があるが、我が生国の兵庫県は播磨、摂津、淡路、丹波、但馬と五ヶ国もある。
そうしたことを、一昨年の秋、姫路市内の兵庫県立博物館を訪ねた際のブログに綴ったなあと思い、マイ・ブログを繰ったところ、「関東各地の国府跡・国分寺跡をめぐった際、総じて各県<一国>であるが、千葉県は上総国、下総国、安房国の三国があり、(中略)我が生国の兵庫県は、播磨国、丹波国、但馬国、淡路国と、一部、摂津国の五つの国だったんだなあ、そして、五畿七道のうち、山陽道、山陰道、南海道と三つの道であったのだなあと改めて気づかされた」と綴っていた。
兵庫県は多様である。

「遺跡を掘ろう!」のコーナー。
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遺跡を掘ろう!
遺跡は昔の人たちの暮らしの跡だ。
考古学者は毎日あちらこちらで
土に埋もれた遺跡を掘って、
昔のことをしらべている。
みんなも考古学者になって、
遺跡を掘ってみよう!
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こうしたコーナーを見ると、古希のGGでも血が騒ぐ。
ましてや、好奇心旺盛な子供さんならもっと血が騒ぐだろう。
兵庫県下から優秀な考古学者が生まれることを期待したい。

大中遺跡公園。
炎暑ながら、空には秋の気配も。
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こうして、この日の播磨国史跡めぐりは大満足のうちに終えた。
関西の盟友、六々守さん、そして、播磨守さんに感謝!である。

翌日の探訪先は、五色塚古墳と小壺古墳(神戸市)。
それらについては、下の巻にて。

フォト:2018年8月19日

(兵庫県立考古博物館、上・中・下の巻、完)



by ryujincho | 2018-08-21 23:37 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/兵庫県立考古博物館(中)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園で玉丘古墳群を見学。
つづいて、五百羅漢で有名な羅漢寺へ。
つづいて、大日寺石仏群へ。
つづいて、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)へ。
つづいて、兵庫県立考古博物館(本館)へ。

兵庫県立考古博物館(本館)。
上の巻では弥生時代終末期の墳墓までを綴った。
解説パネルは、いよいよ「古墳時代のはじまり」に移る。
古墳探訪は、今、小生が最も注力していること。
解説パネルに如何なることが書かれているのか、如何なる出土品が展示されているのか、大いに楽しみ。
この中の巻ではそれらのことについて綴っていきたい。


古墳時代のはじまり。
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古墳時代のはじまり
邪馬台国を中心として西日本がひとつの国(倭国)にまとまりました。
各地の王は倭国王から中国製の鏡をもらい、倭国王と同じ前方後円形の墓をつくりました。
古墳時代の始まりです。
(図)
前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の形別で古墳の場所を図示
画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡の出土場所を図示

三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡が出土した古墳
三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡は、倭国王が中国からもらった鏡です。
こhの鑑をもっているということは高い地位にあったことを示します。
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兵庫県最古の古墳/丁瓢塚(よろひさごづか)古墳(姫路市)。
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兵庫県最古の古墳
ー丁瓢塚古墳(姫路市)ー
兵庫県で最も古い古墳のひとつです。
奈良県にある箸墓古墳(初代倭国王卑弥呼の墓と考えられてている古墳)と同じ形をしています。
倭国の成立に力をつくした人物の墓です。
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航空写真。
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箸墓古墳/丁瓢塚古墳の大きさ比較。
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丁瓢塚古墳(姫路市) 全長107m
箸墓古墳(奈良県桜井市)全長272m
丁瓢塚古墳は箸墓古墳の約三分の一の大きさです。
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7月下旬、香川県善通寺市の野田院古墳を探訪。
野田院古墳は、くびれ部が細く、前方部は撥形であるという古い形の古墳の特徴がよく分かる古墳であった。
丁瓢塚古墳も、航空写真で、くびれ部が細く、前方部は撥形であることがしっかりと見て取れる。

是非、探訪してみたい古墳なので、丁瓢塚古墳の場所をグーグル・マップで確認。
・姫路市藤原区丁(よろ)
・夢前川と揖保川の間の中程、山陽新幹線の南、県道421号線沿い

「丁(よろ)」とは珍しい地名である。
地名の由来好きとしては調べない訳にはいかない。
角川日本地名大辞典によれば、兵庫県姫路市藤原区丁(よろ)の丁(よろ)は『播磨風土記』揖保郡大家里の条にある「与富等(よふど)」が「丁(よろ)」になったという。
「与富等」とは?と思うが、そこまで深入りはしないことにする。
古語辞典を紐解くと、「【丁(よほろ)】上代、公用の労働に徴用された青年男子。公用の人夫。」とある。
「丁(よほろ)=人夫」と古墳築造の工人との関係は?と思うが、そこまでは深入りしないことにする。

古墳時代/王権のシンボル。
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古墳時代
王権のシンボル
「王」は、その力を示すために、巨大な墓をつくり、豪華な武具を身につけた。
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武力を示す王
古墳時代中期の王は、鉄製のヨロイやカブトを身につけ、馬に跨り、勇ましく戦う「武人」の姿をしています。
王はその力を武力によって示しました。
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説明書きには「古墳時代の王はその力を武力によって示した」とある。
だが、これには補足が必要である。
弥生時代、ムラ同士の戦いがあった。
その後、ムラはクニへと変化し、クニ同士の戦いもあった。
古墳時代となり、ヤマト王権を中心とした連合国家となった。
王はその力を武力によって示すも、国内での戦いはほとんどなく、ひたすら古墳の築造に集中。
武力は、百済への援軍、あるいは、外敵に対する備えとしてのものであり、また、王として民衆を守るための祭祀の際の装束でもあった。

精巧なレプリカでの武具を纏う王を見ると、昨年4月、群馬県渋川市の金井東裏遺跡と群馬県埋蔵文化財センターを訪ねたときのことを思い出す。
金井東裏遺跡は、ひざまづいた姿で榛名山の噴火で埋もれていたヨロイを着た古墳時代の武人が発見された遺跡である。
この武人がヨロイを身に着けて何をしていたのかについては諸説あるが、榛名山の噴火を鎮めるために祭祀を司っていたときに火砕流に巻き込まれたという説もある。
群馬県埋蔵文化財センター情報館で、ヨロイを身に着け、跪いている武人を発掘された姿そのままに見学、それは感動的ですらあった。

王が葬られた部屋。
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王が葬れた部屋
雲部車塚(くもべくるまづか)古墳の石槨(5世紀)
雲部車塚古墳は古墳時代中期に築かれた前方後円墳です。
古墳の中に石積みの部屋がつくられ、ここに王が葬られていました。
明治時代の発掘の中で様子がわかりました。
(図)雲部車塚古墳の場所、図示(篠山市)
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王に供えられたもの。
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王に供えられたもの
石槨の中からたくさんの武器が見つかりました。
王ひとちが使うには多過ぎる量で、彼が思いのままに動かすことができた武力の大きさを表しています。
(図)
よろい 5領
馬具  1組
剣   8本
刀  34本
矢 107本
鉾   3本
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兵庫県の大型古墳。
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兵庫県の大型古墳
県内各地の大きな古墳と日本で一番大きい倭国王の墓・大山古墳(大仙古墳、仁徳天皇陵)を比べると、大きさはずいぶんと違いますが、形は同じ前方後円墳です。
同じ形は倭国の有力者だったことを示しています。
上段:
右/五色塚古墳 神戸市 墳長194m
央/雲部車塚古墳 篠山市 墳長158m
左/壇場山(だんじょうざん)古墳 姫路市 全長142m
中段:
右/池田古墳 朝来市 墳長141m 
央/玉丘古墳 加西市 墳長105m
左/行者塚古墳 加古川市 墳長98m
下段:
茶すり山古墳 朝来市 墳長:90m
近畿地方最大の円墳ですが、前方後円墳ではないので、倭国での地位は低かったのでしょう。
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上段と中段は、兵庫県内の大型前方後円墳の第1位から第6位まで列挙されている。
下段は、近畿地方最大の円墳(細かい話ながら、パネルでは「墳長:90m」と記されているが、円墳なので「直径:90m」と記すべきであろう)。

五色塚古墳。
翌日、探訪の予定である。

雲部車塚古墳。
篠山市なので、探訪は難しいが、前掲の石室の説明書きで航空写真が掲載されており、そこに陪塚らしきものが写っており、興味深い古墳なので少し調べてみた。
・所在地:篠山市東部、篠山市東本荘、篠山盆地東縁の亀岡盆地とつながる交通上の要衝に築造された大型前方後円墳。
・ 被葬者は明らかでないが、宮内庁により「雲部陵墓参考地」(被葬候補者:第9代開化天皇皇孫彦坐王王子丹波道主命)として陵墓参考地に治定されている。
・「車塚」の名称は、古墳両脇の陪塚を車輪に見立てたことに由来する。

やはり、航空写真に写っているのは陪塚であった。
航空写真では陪塚は1基だけしか残っていないように見えるが、グーグル・マップの航空写真を見ると、陪塚は2基あることがはっきりと見て取れる。

壇場山古墳。
所在地は姫路市御国野町国分寺。
2016年の秋に探訪した播磨国分寺と国分尼寺跡のある住所と同じである。
グーグル・マップで壇場山古墳を検索してみた。
国分尼寺跡の数百メートル東に位置していた。
その北側には山之越古墳(方墳、一辺60m)なる古墳があることも分かった。

池田古墳。
朝来市なので、探訪は難しい。
調べてみたところ、明治40年頃、山陰本線敷設の際、墳丘は削平され、その後、宅地化や国道9号線和田山バイパスが横断したことにより、墳丘は大きく損なわれているとのことである。

玉丘古墳。
前日、探訪して来たばかりの古墳である。

行者塚古墳。
本ブログ、上の巻で、弥生時代終末期の西条52号墓の関連で、西条古墳群について調べた中で行者塚古墳のことも知った。

古墳の現場を見る、そして、博物館で古墳の資料に目を通す、そうしたことで、その古墳が身近のものとなって来る。
これが古墳探訪の堪えられない愉しみなのである。


囲いの埴輪。
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囲いの埴輪
古墳の周りには筒形の円筒埴輪が並べられました。
古墳を何重にもめぐる、囲いのように使われました。
王の墓を悪いものから守ろうとしたのでしょうか。
(写真)五色塚古墳 神戸市
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装う人びと。
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装う人々
小さな古墳からも金メッキをした耳飾りや宝石で作られた勾玉などが見つかります。
王でない人びとも男女ともアクセサリーをつけていました。
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装った巫女の埴輪/塚廻り3号古墳(群馬県)。
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昨年5月、群馬県太田市の天神山古墳、女体山古墳と共に、塚廻り古墳群を探訪。
塚廻り古墳群では、円筒、朝顔形円筒、家形、器財、人物、馬などの復元埴輪が並べられた4号墳(帆立貝形古墳)を見学。
上掲のパネル写真にある3号墳(帆立貝形古墳)は埋め戻しされており、その姿を見ることは出来ない。
塚廻り古墳群からの出土品のパネルが、ここ、兵庫県立考古博物館で展示されているということを知り、何だか嬉しい。


土器が語る男の物語。
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土器が語る男の物語
人や動物の飾りがついた土器が2個、古墳の入り口に置かれていました・
鼻の高い男が主人公の葬られた人で、その人生を表情ゆたかに伝えています。
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右側の土器に、鼻の高い男が見られる。
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左側の土器には、相撲、男女、狩猟の様子が見られる。

相撲。
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相撲
鼻の高い男と鼻の低い男が相撲を取っています。
相撲はこの頃からある古い競技です。
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相撲は、鼻の高い男が勝ったのであろうか。

男女。
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男女
髪型から見て男女でしょう。
向き合っていますが、女は手を後ろにし、いやがっているようです。
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狩猟。
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狩猟
人が馬に乗って、シカとイノシシを追いかけています。
シカに矢が刺さったあとがあります。
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土器の足元に置かれた説明書き。
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飾りのついた土器
装飾付須恵器
古墳時代後期
勝手野6号墳(小野市)
県指定文化財
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装飾付脚付壺、台付長頸瓶、容器などの須恵器は見たことがあるが、このような円筒状の装飾付須恵器を見たのは初めてである。
で、調べてみたところ、壺に底がなく、口頸部に透かし穴がある装飾付須恵器は、この小野市/勝手野古墳出土品が全国初であるとのこと。

古代の須恵器は、大阪府堺市ほか/陶邑(すえむら)窯跡群、愛知県名古屋市ほか/猿投(さなげ)窯跡群、福岡県大野城市ほか/牛頸(うしくび)窯跡群など、いわゆる、三大古窯で焼かれた。
古墳時代の須恵器は、主に祭祀や副葬品に用いられ、初めのうち古墳からの出土に限られるが、普及が進んだ後期になると西日本で集落からも出土し、西日本では須恵器、東日本では土師器が優勢という違いが現れた。

須恵器は、古墳時代から奈良・平安時代まで生産された陶質土器(炻器)で、青灰色で硬く、同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できる。
土師器は、弥生土器の流れを汲み、古墳時代から奈良・平安時代まで生産され、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質である。
土師器は、須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。
埴輪も一種の土師器である。

弥生時代終末期の墳墓、そして、古墳時代の古墳のコーナーは誠に興味深いものが多かった。
次回の播磨国古墳探訪が愉しみである。

次のコーナー、律令国家の誕生へ。

フォト:2018年8月19日

(つづく)





by ryujincho | 2018-08-21 23:36 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/兵庫県立考古博物館(上)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園で玉丘古墳群を見学。
つづいて、五百羅漢で有名な羅漢寺へ。
つづいて、大日寺石仏群へ。
つづいて、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)へ。
つづいて、兵庫県立考古博物館(本館)へ。

加西市内での史跡巡りを終え、盟友、六々守さんの運転で、兵庫県立考古博物館(本館)がある加古郡播磨町へ移動。
現地で、同じく関西の盟友、播磨守さんと落ち合う。

兵庫県立考古博物館(本館)。
同館は大中遺跡公園の一画にある。
大中遺跡は弥生時代中期から古墳時代中期の遺跡(国指定史跡)である。

県立考古博物館は、2016年の秋以来、是非訪ねたいと思っていた資料館である。
というのは、2016年の秋、播磨国府跡(姫路市総社本町、現・姫路郵便局)、播磨国分寺跡・国分尼寺跡(姫路市御国町)、総社(姫路市総社本町、射楯兵主神社)をめぐった。
その際、姫路城の東側にある兵庫県立歴史博物館に立ち寄り、国分寺以前の古代寺院、繁昌廃寺、溝口廃寺、西条廃寺の古代瓦、更に、播磨国分寺、播磨国分尼寺、但馬国分寺、淡路国分寺の古代瓦を見学した。
そのとき、学芸員さんから県立考古博物館にも古代瓦が展示されていると聞き、機会があれば、是非、県立考古博物館を訪ねたいと思っていたのであった。

先ず、県立考古博物館の展望台に上る。
南側の眺望。
先刻訪ねた加西市が播磨平野の北端なら、この眺望は播磨平野の南端。
明石海峡の西、播磨灘沿岸部の工場地帯も見える。
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北側の眺望。
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館内。
播磨国、但馬国、淡路国を俯瞰。
更に、西は備前、美作、因幡、東は摂津、大和、山城も。
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明石原人。
兵庫県立考古博物館であるから、当然のこととして、先ず、明石原人から、であろう。
そして、明石で育った筆者としては、子供の頃から馴染み深い明石原人でもあるから。
この博物館は子供さん向けに重きを置いているような作りなので、子供の頃に戻って説明書きに目を通す。
因みに、我らの子供の頃に斯様な立派な博物館はなかったということは申すまでもなきことかと。
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ナゾの人骨発見!
昭和6年(1931)、直良信夫さんが明石の西八木海岸で、化石になったヒトの左寛骨を見つけました。
直良さんは縄文時代より古い旧石器時代の人骨だと考えましたが、学界は認めませんでした。
旧石器時代には日本列島に人がまだいなかったと考えられていたからです。

(写真)博物学者 直良信夫さん
病気の療養のため、明石に住み、近くの遺跡の調査に力を入れていました。
(写真)発見当時の西八木海岸(明石)
この崖の下で、人骨が見つかりました。
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発見場所の西八木海岸の写真を眺める。
子供の頃、この崖を見学に行った記憶がある。
後年、十数年前、神戸に単身赴任していたときにも見に行ったことがある。

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燃えてしまった人骨
明石人骨は、東京に戻った直良さんの自宅で大切に保管されていました。
しかし、発見から14年後の昭和20年(1945)、戦争でアメリカ軍の爆撃を受け、家とともに人骨も燃えてしましました。
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「明石原人」の誕生
明石人骨は失われましたが、人骨の石こう模型が東京大学で保管されていました。
長谷部言人さんは昭和23年(1948)、この模型を調べ、約50万年前の原人の骨だと発表しました。
「明石原人」の誕生です。

(写真)長谷部言人さん
東京帝国大学(現・東京大学)元教授。
明石人骨を「ニッポナントロプス・アカシエンシス」(明石原人)と命名しました。
(写真)教科書にものった「明石原人」
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「明石原人」はいなかった!?
昭和57年(1982)、遠藤萬里さんと馬場悠男さんは、縄文時代以降の新しい骨あという説を発表しました。

(写真)明石人の骨
(写真)現代人の骨/前人の骨/猿人の骨/原人の骨
明石人骨をいろいろな時代の骨とくらべました。
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可能性を求めて
昭和60年(1985)、国立歴史民俗博物館の春成秀爾さんは、明石人骨に関する新たなデータを求めて、西八木海岸の発掘調査を行いました。
明石人骨が出土したとされる地層は6~13万年前の古いものだとわかりました。
その時代に人がいたことを示す決定的な証拠は見つかりませんでした。

(写真)西八木海岸の再発掘調査
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ナゾ解きは終わらない
「明石人骨」については、これまでにいろいろな説が発表されてきましたが、今も確かなことはわかっていません。
考古学では、新しい発見や研究方法の進歩により、発見されたものについての評価が変わることがあります。
「明石人骨」が古いものだという可能性がある限り、真実を明らかにすることが当博物館の使命であると考えています。

(写真)現在の西八木海岸
今もこの地に、まだ発見されていない明石人が眠っているかもしれません...。

直良信夫さんが手にした「明石人骨」とは何であったのか。
当博物館とみなさんでいっしょに、最初の”ひょうご人”のナゾ解きにいどみましょう。
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子供心に、人骨が戦争で焼けてしまったのは残念と思ったことが思い出される。
時代は変わり、もし、人骨が残っていれば、今の分析技術からすれば、新たな情報が得られたであろうが、石こう模型しか残っていないのは残念なことである。

この説明書きを見ながら、”ひょうご人”という呼び方に違和感を覚えた。
やはり、”明石原人”であろう。
原人であるかどうかは定かではないというなら、”あかし人”であろう。
最初に発見した直良信夫さんのことを思うなら、そして、発見場所を尊重するなら、明石という名は残さねばならないだろう。
と書いて、ああ、ここは兵庫県立だから”ひょうご人”としてるんだなと思ったりして。
そうであれば、それは間違った考え方でろうと、”明石原人”を擁護するのであった。

次のコーナーへ。
左奥から、縄文人、弥生人、古墳人の石膏胸像。
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迫力あるジオラマ。
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余談。
ふと、ジオラマという言葉はよく使うが、何語なんだろうとの思いに駆られた。
大好きな(???)ウィキペディアを紐解いてみた。
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ジオラマ (仏:diorama) は、展示物とその周辺環境・背景を立体的に表現する方法で、博物館展示方法の一つである。
19世紀初頭、フランス人風景画家で後に写真発明家となったルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが、画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子シャルル・マリ・プートンと共に、従来のパノラマに代わる新たな投影装置を開発し、”Diorama”と名づけたのが最初である。
箱の中に風景画と展示物を置き、その箱の一つの面に設けられた窓から中を覗くと、照明などの効果により本当に風景が広がっているかのように錯覚させる見せ物として人気を博し、明治時代に日本でも流行した。
「ジオラマ」は明治時代に入ってきたフランス語由来の外来語であり、国語辞書にも掲載されている一般的な言葉である。
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ウィキペディアに掲載されているジオラマの事例としての写真が、何と、兵庫県立考古博物館の、このマンモス狩りの様子を再現したジオラマであったことを言い添えておこう。

縄文時代→弥生時代→古墳時代。
土器の変遷。
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弥生時代/祈りの人 シャーマン。
今年3月、多摩川台公園古墳資料室で見た石棺の中の被葬者とその副葬品の再現も素晴らしいかったが、このシャーマンの姿の再現も素晴らしい。
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祈りの人 シャーマン
弥生人は豊かな実りを願い、祝い、また、大雨や日照りなどの災害からのがれるため、神に祈りました。
祈りの道具でいちばん大事な銅鐸は紐で吊り下げられて鳴らしました。
どのように鳴らしたか考えてみよう。
※南あわじ市で発見された松帆銅鐸で初めて紐がみつかりました。
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説明書きに「銅鐸をどのように鳴らしたか考えてみよう」とある。
冒頭、この博物館は子供さん向けの作りと記したが、この投げ掛けも多分に子供さん向けのものとも思える。
で、おっちゃんは知ってるで、つい半年前に知ったんやけどね、今年の4月、吉野ヶ里遺跡を訪ねたとき、弥生時代の服、貫頭衣をまとった案内人さんが木枠に吊るした小型の銅鐸(もちろん、レプリカ)で鳴らし方を教えてくれたんやで、おっちゃんも実際に鳴らしてみたんやで、と心の中で呟いた。

”大人”であるから、ちょいと専門的なことにも触れておかねばならないだろう。
銅鐸内面の下端を棒で叩くのである。
音を鳴らす棒は「舌(ぜつ)」という。
上述の説明書きの「南あわじ市で発見された紐」は、舌(ぜつ)を吊るす紐なのである。
銅鐸内側の下端は少し盛り上がっており、これは「突帯(とったい)」という。
舌(ぜつ)を当てて幾度も鳴らすと銅鐸の内側の下端は摩耗するので、その摩耗対策として銅鐸の内側に突帯(とったい)が施されているのである。


弥生時代/戦いのための砦。
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7月下旬、四国へ向かう道中、新幹線の中で読んでいた古代史の書物に「 瀬戸内海に残る高台の砦は倭国内乱の跡か?(略)この年代に対応する遺跡として注目されるのが、山口県の岡山遺跡、愛媛県の八堂山遺跡、香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡、岡山県の貝殻山遺跡などに代表される高地性集落(弥生中期)である(略)」との記述があった。
「香川県の紫雲出山遺跡」に目を惹かれ、四国滞在中に、紫雲出山遺跡を訪ねた。
紫雲出山遺跡は、瀬戸内海に突き出た荘内半島の紫雲出山頂にある弥生時代中期後半の高地性集落遺跡。
紫雲出山頂の資料館で、紫雲出山遺跡を含め、瀬戸内海から大阪湾にかけて存在した高地性集落の場所を示したパネルを見た。
その中に、兵庫県にある高地性集落遺跡として、会下山(えげのやま)遺跡(兵庫県芦屋市)が図示されていた。

そんなこともあって、この「戦いのための砦」のパネルを興味深く目を通した。
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戦いのための砦
播磨灘や大阪湾の沿岸部などでは、たくさんの砦が山の上につくられました。
(図)弥生時代中期から後期の砦の分布
とりでを山の上につくって、戦いのときに逃げ込んだり、敵の動きを見張って、狼煙(合図を送る煙)をあげました。
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濠にかこまれた砦
ー表山遺跡(神戸市)ー
明石から神戸に抜ける道(伊川谷)を見張る砦です。
ここからは、淡路島や六甲山系の砦が見えます。
(写真)濠の跡
敵からムラを守るため、幅4~6m、深さ3.5mの濠をめぐらしています。
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海を見守る砦
ー塩壺西遺跡(淡路市)ー
明石海峡を見張る砦です。
重要な砦なので、長い間、使われました。
狼煙の跡や鉄のヤジリが見つかっています。
(写真)狼煙の跡
海峡を見張り、敵が近づくと、狼煙をあげて対岸の砦に知らせました。
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最新の武器をもつ砦
ー会下山遺跡(芦屋市)-
大沢湾の沿岸を見張る砦です。
中国製の最新の武器をもっていました。
(写真)
砦からは大阪湾も見渡せます。
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7月下旬、四国へ向かう途中、新幹線の中で読んでいた本で、香川県に高地性集落の紫雲出山遺跡があることを知り、訪ねた。
それから1ヶ月も経たないうちに、兵庫県の高地性集落である表山遺跡、塩壺西遺跡、会下山遺跡の詳細を兵庫県立考古博物館で知ることとなり、これら三つの高地性集落遺跡も探訪したいとの思いに駆られるのであった。
=備考=
グーグル・マップで検索したところ、表山遺跡、塩壺西遺跡はずしされ現れなかったが、会下山遺跡は芦屋市立山手中学校の北にあり、遺跡の様子は十数枚の写真で知ることが出来た。

王墓の出現。
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王墓の出現
弥生時代の戦いを経て、ムラがまとまってクニになり、王が登場します。
豪華な副葬品をもった大きな王墓が各地で造られました。
(図)
・梅田東11号墳(朝来市)
・内場山墳丘墓(篠山市)
・有年原田中(うねはらたなか)遺跡(赤穂市)
・養久山(やくやま)5号墓(たつの市)
・西条52号墓(加古川市)
弥生時代後期から終末期の墓
日本海側の丹波・但馬には四角い墓が、瀬戸内海の播磨・摂津・淡路には丸い墓が造られました。
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現在、古墳時代の古墳探訪に注力しているが、このパネル資料を見ていると、弥生時代終末期の墳墓も探訪したいという衝動に駆られる。
パネルに列挙された5ヶ所すべては無理としてもは、加古川市の西条52号墓はロケーション的に探訪可能と思え、これについて調べてみた。
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西条52号墳
・所在地:加古川市神野町西条山手、加古川右岸、城山の麓、印南野平野を一望する丘陵地。
・西条古墳群の北で発見された。
・西条古墳群は嘗ては30基ほどあったが、宅地造成で消滅し、現在は5世紀頃に築造された人塚古墳(円墳)、尼塚古墳(円墳)、行者塚古墳(前方後円墳)が残るのみ。
・西条52号墳は他の古墳より古く、3世紀前半、弥生時代に築造された墳墓。
・西条52号墳は、弥生墓から前方後円墳につながる特徴を併せ持ち、円形部分:直径約12m、東に延びる突出部:長さ約6m、幅約4m、縁に2列の石が積まれた築造となっている
・木棺(長さ3.2m、幅0.6m)は古墳で見られる石槨(側面に石を積んだ穴)に納められたいたが、四方を石積みした完全な石槨ではなく、三方だけの石積み。
・石槨の上から打ち砕かれた銅鏡(内行花文鏡)が出土。
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西条52号墳は消滅しているようであるが、西条52号墳があった辺りをグーグル・マップで検索すると共に、現存する人塚古墳、尼塚古墳、行者塚古墳の位置を確認。

周辺情報として、次の事項もメモっておきたい。
・西条廃寺跡
 人塚古墳近くの県指定史跡公園「北山公園」内
 金堂・講堂・塔の基壇、中門・回廊跡などの復元あり
・日岡古墳群
 日岡陵古墳・西大塚古墳・南大塚古墳・北大塚古墳・勅使塚古墳など
 西条古墳群の西に位置
 西条古墳群と日岡古墳群は兵庫県南部においての最大の古墳群

立派な副葬品をもった王墓。
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立派な副葬品をもった王墓
ー梅田東古墳群(朝来市)・若水古墳(朝来市)ー
弥生時代の終わり頃、但馬のムラのリーダーは、中国製の鏡や青くきらめくガラスの玉、貴重な鉄製品などを墓に入れました。
リーダーはやがて王と呼ばれます。
(写真/左)
梅田東古墳群の墓には、たくさんの棺が埋められていました。
棺は石や木でつくられていましたが、木は腐るので残っていません。
(写真/右)
若水古墳では、丘の頂上を丸く削って大きな墓がつくられました。
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邪馬台国登場。
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各地のクニが激しく争っていた頃、邪馬台国の女王卑弥呼が現れ、周辺のクニをまとめていきました。
(図)
播磨(長越遺跡)⇔丹波
播磨(長越遺跡)⇔山陰
播磨(長越遺跡)⇔吉備
播磨(長越遺跡)⇔讃岐
播磨(長越遺跡)⇔邪馬台国(筆者注:畿内に図示)
播磨にあつまる人とモノ
邪馬台国の中心は今の奈良県にあり、播磨は邪馬台国と中国地方のクニを結ぶ重要な場所でした。
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邪馬台国の交流拠点
ー長越遺跡(姫路市)ー
邪馬台国の播磨における拠点であったと考えられます。
このムラからは近畿地方の土器をはじめ、中国・四国地方の土器もみつかっており、いろいろな地域から人やモノが集まっていたことを示しています。
(写真/左)いろいろな地域の土器が大きな溝の中からたくさん出ました。
(写真/右)四角い穴が家の跡です。たくさんの家がたっていました。
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説明書きで「邪馬台国の中心は今の奈良県にあり」と記され、図では邪馬台国は畿内に図示されており、兵庫県立考古博物館は邪馬台国畿内説派であると見受けられる。
邪馬台国の所在地については諸説ある中、子供さんに固定観念を植え付けるような記述は如何なものであろうかとも思うのであった。

現在、古墳時代の古墳めぐりをテーマとしているが、弥生時代終末期から古墳時代へ向かう過渡期の墳墓も大変興味深いものであり、大いにベンキョーになった。

解説パネルは、いよいよ「古墳時代のはじまり」に移る。
古墳時代の古墳めぐりは、小生か今、最も注力していること。
解説パネルに如何なることが書かれているのか、大いに楽しみ。
それらについては、下の巻にて。

フォト:2018年8月19日

(つづく)






by ryujincho | 2018-08-21 23:35 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園で玉丘古墳群を見学。
つづいて、五百羅漢で有名な羅漢寺へ。
つづいて、大日寺石仏群へ。
つづいて、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)へ。

兵庫県立考古博物館 加西分館/古代鏡展示館。
Hyogo Prefectual Museum of Ancient Cronze Mirrors
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鑑から鏡へ。
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から
には、光を反射させて人の姿やものの像などをうつし見る道具、という意味が一番に挙げられます。
古の人は、大きな容器に水をいれ、それを「水かがみ」として顔をうつしました。
漢字のはこの「水かがみ」を指し、を意味する古い文字になります。
つまり、という漢字は、よりも後から現れたのでした。
に通じるという文字は、三つの文字からできています。
脚のは水を張った台付きの容器を表し、大きなを示すと合わさり、水にうつった自らの姿を見入る様子を象っています。
西周時代の青銅器に記された文字(金文)には、その字形(→注)が見事に表現されています。
更に「鑑みる」という言葉が示すように、には自己を対象化し、現在のあり方を反省的に見る、また、真の姿を考え見るという意味でもあります。
、すなわち、には、人の姿だけではなく、心もうつし出す力があったのです。
そして、日本ではの表記に対して、「加賀美」(「古事記」)、「可我見(我を見る可し)」(「万葉集」)の文字を充てることがありました。
さあ、あなたは今日、に何をうつしますか?
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注)西周時代の青銅器に記された文字(金文)の字形は 観覧券の「古代鏡展示館」の頭に印字されたこの文字。
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東アジアの中の日本と鏡。
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上段:
漢の時代(紀元前202年~220年) [弥生~古墳時代]
金印の時代
卑弥呼と三角縁神獣鏡
(解説文は割愛)
下段:
唐の時代(618年~907年)[飛鳥~平安時代]
多彩な宝飾鏡の素材
遣唐使と正倉院
(解説文は割愛)
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装飾鏡、三種。
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三種の装飾鏡をそれぞれアップで。

金粒珠玉象嵌宝相華紋鏡(きんりゅうしゅぎょくぞうがんほうそうげもんきょう)
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宝相華とは、ボタンやハスなどの幸運をもたらす様々な花を合成した空想上の花。
それを金粒や宝石で華麗に表現する。
唐(8世紀) 直径5.8cm
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金粒珠玉象嵌宝相華紋八花鏡(きんりゅうしゅぎょくぞうがんほうそうげもんはっかきょう)
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金粒珠玉象嵌宝相華紋八花鏡
金の板を敷き、金の帯を立てて花紋を描く。
区画内にはトルコ石をはめ込み、金粒で区画の縁取りや区画内を充填する。
唐(8世紀) 直径5.9cm
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金粒珠玉象嵌宝相華紋六稜鏡(きんりゅうしゅぎょくぞうがんほうそうげろくりょうきょう)
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金粒珠玉象嵌宝相華紋六稜鏡
メノウ、ピンク水晶などの宝石で主紋を構成し、隙間を金粒で充填する。
細金細工は、ペルシャ起源の技法である。
唐(8世紀) 直径8.8cm
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象嵌鏡とは。
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象嵌鏡
宝石や金粒を貼り付けて文様を描き出す

鏡背を覆う金板に対し、厚さ0.1~0,2mm程度、高さ約1.5mmの金板をこれに垂直に立てて区画とし、加工を施したトルコ石を飾る。
紐の上とその周りに6個の紅水晶を嵌める。
その隙間は、径0.1~0.2mmの金の極細粒で埋め尽くされている。
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鍍金対置式神獣鏡。
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鍍金対置式神獣鏡
効能:不幸の除去、陰陽の調和
時代:後漢(紀元2世紀)
直径:14.9cm
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雲龍紋八花鏡。
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雲龍紋八花鏡
体をくねらせ、迫り来るような龍を表す。
龍は地上と天界を結ぶ霊獣で、神仙の乗り物ともいわれた。
唐(8世紀) 直径27.5cm
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五本爪の龍、四本爪の龍、三本爪の龍、これまでいろいろな龍をカメラに収めて来たが、銅鏡に描かれた龍をカメラに収めるのはこれが初めて。
龍蒐集家として大満足!

方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)。
この銅鏡は冒頭のポスター/企画展「吉祥の図像」に採用されており、当館の最も重要な所蔵品と思われる。
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方格規矩四神鏡
四神のうち青龍はカラスのいる太陽を、白虎はカエルのいる月をもつ。
隙間にはたくさんの愛らしい小鳥を描く。
新(王莽)(1世紀) 径20.4cm
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銅鏡に描かれた四神の拡大図。
四神は他の文様と共に細い線で描かれている。
四神は天の四方の方角を司る霊獣で、 東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武である。
四神は、方格の東西南北ではなく、方格の角に描かれている。
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この拡大図と実物を照らし合わせながら、上述の説明書きにある「青龍はカラスのいる太陽を、白虎はカエルのいる月をもつ」を目を凝らして探してみたが、判読出来なかった。

方格規矩四神鏡について、もう少し詳しく調べてみた。
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方格(ほうかく)
中心の鈕(ちゅう、ひもを通すところ)を四角く囲んだ箇所が方格である。
子・丑・寅・・・酉・戌・亥の十二支の漢字が並んでいる。
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規矩(きく)
方格から四方に出る「T」型の紋様、その対面の「L」型の紋様、「L]型と「L型」の間にある「V」型の紋様が規矩である。
規矩の「規」はコンパス、「矩」は定規のこと。
いずれも建築物の設計に使う道具であるが、銅鏡では世界を司る道具として描かれている。
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それらを確かめるために、今一度、実物を子細に眺めてみる。
確かに、方格の内側に十二支の漢字が見て取れる。
確かに、方格の外側に「T」型、その対面の円周の内側に「L」型、円周に沿って「L」型と「L」型の間に「V]型の文様が見て取れる。
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外周の内側に、漢字の銘文が円周にぐるっと刻まれている。
漢字そのものは我らが使っているものと、ほぼ同じである。
一文字ずつじっくりと読み取れば、浅薄な知識の筆者でも銘文の意味が分かりそうなほどであるが、残念ながら、目が渋くなった今、その根気はない。
因みに、参考文献で見た別の銅鏡の銘文の解説では、銅鏡が制作された経緯が刻まれていた。

方格規矩四神鏡の歴史を紐解くと次の通り。
・方格規矩四神鏡は、前漢時代(紀元前206年‐8年)後期に出現。
・方格規矩四神鏡は、西暦紀元直後の王莽(おうもう)皇帝の「新」王朝時代(8年‐23年)に多数作られた。
・方格規矩四神鏡は、その後も作り続けられ、魏の時代(220年‐265年)にも同じデザインの銅鏡が作られている。
・平原遺跡1号墳(弥生時代後期・晩期の墳丘墓)から出土した銅鏡40面のうち、32面が方格規矩四神鏡で占めらている。
・魏の「青龍三年」の銘が入った方格規矩四神鏡が大田南5号墳(京都府京丹後市)、安満宮山古墳(大阪府高槻市)などから出土おり、これは「魏志倭人伝」の邪馬台国の卑弥呼が魏に遣使を派遣(239年)した際に金印と銅鏡百枚などを授かったとの記述と年代が近いことから、邪馬台国の研究として注目されている。
・古墳時代には、倭国で方格規矩四神鏡を模造した鏡が多数作られていている。

伝 顧愷之「女子箴(じょししん)図」。
磨かれた銅鏡の表/生活のための鏡。
銅鏡は祭祀・呪術用の道具であったが、生活のための道具でもあった。
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「女子箴(じょししん)図」。
中国、東晋の画家 顧愷之(こがいし)の筆と伝えられる。
宮廷女官の心得を絵と文で描き表したもの。
東晋時代の原画を唐代に模写したものが大英博物館で所蔵されている。

鏡の裏(レプリカ)。
銅鏡は裏の紋様について語られることが多い。
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銅鏡の表(レプリカ)。
磨き抜かれた鏡面に映る我が身。
四面鏡張りの箱の中に入れられ、己が姿の鏡に映るを見て驚き、タ~ラリタ~ラリと油汗を流す四六ガマの境地...。
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これほど多くの古代鏡を一度に見たのは初めてである。
圧巻!のひとことである。
最後に、古代鏡展示館のホームページでの紹介記事をここに転載し、締め括りとしたい。
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千石コレクションについて
加西市在住の美術品蒐集家、千石唯司氏から当館に寄贈されたコレクションで、氏が30年以上にわたり蒐集されてきた300面を超える古代中国鏡が中心となっています。
その内容は、銅鏡が使用され始めた夏かの時代(約3700年前)から春秋戦国時代、そして、漢から唐の時代を中心として、宋の時代(約1,000年前)まで及ぶものであり、幅広い年代と多様な種類を網羅した、鏡の文化を知る上で極めて重要な資料です。
保存状態も良好であり、歴史的にも美術的にも高い価値を有する世界的な銅鏡コレクションです。
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つづいて、兵庫県立考古博物館本館(加古郡播磨町)へ。

フォト:2018年8月19日




by ryujincho | 2018-08-21 23:34 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)