龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/戸倉上山田温泉から上田へ(下)』 sp-12

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉から上田方面へと向かう。

千曲川左岸サイクリングロード(一部、一般道兼用)を走る。
途中、オシャレな黄色の大望橋の袂から千曲川を眺めたり、冠雪の北アルプスを眺めたり、ニセアカシアの倒木に遭遇したり、地震警報に遭遇したり、グランドゴルフおばちゃんに遭遇したり、養蜂箱に遭遇したりしながら、快調に走る。

グランドゴルフおばちゃんから「「あんた方、上田の方へ行くんだったら、こっちへ行っちゃ駄目ですよ。川にはまってしまいますよ。上田はあっちの道を行くんですよ」と親切なアドバイスを頂戴し、しばらく走ったところ、千曲川沿いのサイクリングロードは途切れ、複雑な交差点に出た。
千曲川ねずみ橋西詰の小網交差点である。
ここから、国道18号線のバイパス(上田坂城バイパス)を走る。
国道18号線は千曲川右岸を通っているのだが、バイパスは左岸を通っている。

しばらく走ると、上田市に入った。
千曲市、埴科郡坂城町、そして、上田市へ。
自走しているので、何だか満足感を感じる。

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先ほど、養蜂箱に出遭ったが、またまた、養蜂箱に遭遇。
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アップで。
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更に、ズームアップ。
ミツバチが元気よく巣箱を出入りしている。
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トンネルに入る。
トンネルの名は「半過(はんが)トンネル」。
全長は忘れたが、結構長いトンネルであった。
この辺りの地形は、西から山が迫り、山と千曲川の間は隘路となっている。
川沿いは旧道(県道77号線)で、その西側に、トンネルを掘り、バイパスを新たに設けたようである。


半過トンネルを抜けると、少し先に、もうひとつ、トンネルが見える。
「岩鼻トンネル」である。
岩鼻トンネルには入らず、バイパスを左に反れ、千曲川沿いに出る。
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畔の潅木にホオジロの姿が見える。
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川沿いの道を進むと、右手に奇妙な岩山が現れた。
落石防止であろか、コンクリートで箱根の函嶺洞門(2007年、バイパス完成により通行禁止となった)のような洞門が造られている。

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岩山を過ぎると、ぐっと開けて、右手に公園、その西側の国道18号線バイパス沿いに「上田 道と川の駅」 なる施設があった。
これが、先ほど、グランドゴルフおばちゃん、お勧めの「川の駅」なのであった。

この辺りの予備知識なしに走っていたので、この岩山を見たとき、これが何かは分からなかったが、このあと、見た案内板で「岩鼻(いわばな)」なる名勝であることを知った。

公園に入り、南側から「岩鼻」を眺める。
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岩鼻とは。
「上田市文化財マップ」(上田市マルティメディア情報センター)によれば、次の通りである。
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岩鼻(半過、下塩尻)
種別 県指定、天然記念物
指定 昭和49年1月14日
千曲川を挟んで向かい合ってそそり立つ半過岩鼻(ひん岩)と下塩尻岩鼻(緑色凝灰岩の大岩壁は、千曲川に削られてできたもので、その景観はたいへん雄大です。
半過岩鼻にえぐるように開いた大穴は、川の浸食力のものすごさを物語っています。
この向かい合う岩鼻の景観と、そのすそを洗いながら悠々と流れ下る千曲川の広大な景観とがうまく調和して、ここは大正10年に日本百景の一つに選ばれました。
半過岩鼻山頂の千曲公園は、その入選記念につくられました。 
このすばらしい景観に併せて、岩鼻一帯にはここ特有の珍しい動植物の生態や分布が見られることから、長野県では岩鼻一帯の約13ha(うち約2haは地続きの坂城町分)を県天然記念物に指定し、その保護に努めています。
ここは、野鳥チョウゲンボウの集団繁殖崖として有名でしたが、最近は飛んでいることも少なくなり、気がかりです。
また、サハリンや北海道に自生するモイワナズナが、本州ではここだけにとび離れて分布していることや、数々の寒地系植物が自生することでも有名な場所となっています。
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千曲川左岸の半過岩鼻と右岸の下塩尻岩鼻、これらふたつの崖は、元は陸続きで、千曲川の浸食により、こうした地形になったのである。

かつて、岩鼻より上流は湖であった。
岩鼻近くに見える「塩尻」という地名は、かつての湖の北端に位置していたことに由来するとされる。
また、南佐久郡の「海の口」や「海尻」といった地名は湖の南端に位置していたことに由来するとされる。
これらの地名が上流に湖があったことを示しているという。

上流に湖があったというのは、2014年秋の「佐久平&八ヶ岳の旅」のことを綴ったブログで、南佐久郡の「海の口」や「海尻」の地名に関連して縷々述べた中で、「仁和3年(887年)あるいは仁和4年(888年)に起きたとされる八ヶ岳(天狗岳)の水蒸気爆発による大崩落によって千曲川の下の深山(現在の八那池洞門付近)が泥流によってせき止められ、海の口から海尻にかけて大きな湖ができた」ということであった。

この地には、伝承として、「多くの子ネズミを従える大ネズミが村に住みつき、田畑を荒らし回り、困った村人たちは、大きなネコをけしかけ、大ネズミを岸壁まで追い詰めたところ、大ネズミは死に物狂いで岩壁を食い破ると、湖の水がほとばしり、大ネズミや子ネズミは、ネコともども、流れ去った」との言い伝えもあるという。
岩鼻付近には「鼠」という地名があり、一説にはこの伝承に由来すると考えられている。
そういえば、先ほど、国道18号線バイパスに入ったのは「千曲川ねずみ橋」西詰交差点であったが、橋の名に「ねずみ」がついていた。
なお、「鼠」は、かつて、ここら辺りに信濃国の国府へ知らせる狼煙台があったことから、「不寝見」に由来するという説もある。

地名好きの小生にとって、これらの伝承と地名はなかなか興味深いものである。

「上田 道と川の駅」案内板。
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グランドゴルフおばちゃんは「川の駅」を強調していたが、国道18号線バイパス沿いの「道の駅」と千曲川沿いの「川の駅」の合体版であった。

案内図を見ながら、「半過古墳なるものがありますよ」と武衛さんの声。
今回は、信州史跡めぐりの旅である。
古墳は大歓迎である。
早速、半過古墳の方へ。

「半過古墳群10号墳の石室(移転復元)」。
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「半過古墳群10号墳の石室(移転復元)
-バイパス工事で発掘された中の沢遺跡・半過古墳群ー
中の沢遺跡と半過古墳群は、国道18号上田坂城バイパスの工事にともない、平成18~19年度に発掘調査が行われました。
遺跡は、ふたつのトンネルの間にあり、弥生時代から平安時代の住居のほか、半過古墳群の4つの古墳が発掘調査されました。
古墳からは人骨や青いガラス玉の首飾り、金銅製の耳飾り、鉄剣、土器などの副葬品が見つかりましたが、特に移築復元したこの10号墳は、副葬品が多く出土し、棺桶に入った遺体が骨となってそのままの形で残っていました。
直径7mほどの円墳で、遺体を納めた石室の全長は5mほどあります。
ここから少なくとも5人分の骨が見つかっており、女性や子供と考えられる骨もありました。
そのため、古墳は半過周辺を治めていたリーダーの家族墓と思われます。
ふつう、古墳は墳丘と呼ぶ土盛りが地上に見られますが、4つの古墳は背後の山から崩れた土砂で埋まっていたため、石室内がほとんど荒らされずに残ったものと考えられます。
10号墳から出土した須恵器(フラスコ形瓶)は東海地方で作られた7世紀後半のものであることから、古墳の遺体が埋葬された時期を特定するうえで貴重な資料となりました。
半過周辺には多くの古墳がありますが、発掘調査されたものは少なく、当時の生活を知る上で大きな成果となりました。
中の沢遺跡からは縄文時代早期(約8000年前)の押型文土器や、弥生時代(約2000年前)の石包丁(稲の穂を摘む道具)、平安時代(約1000年前)の鉄を精錬した鍛冶炉なども見つかっています。
道路工事にともない、遺跡は消滅しましたが、半過の歴史の1ページを後世に伝えていくため、ここに古墳を移築復元しました。
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半過古墳群10号墳石室(移築復元)。
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半過古墳群全景(写真中央が10号古墳)。
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棺桶に入った痕跡が残る人骨(左)。
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出土した鉄剣と須恵器(フラスコ形瓶)。
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川の駅ゾーンから千曲川を望む。
予定外の、半過古墳群10号古墳を見学出来たのは、グランドゴルフおばちゃんの「川の道に、是非、寄ってください」とのアドバイスのお陰だなあ、感謝、感謝と思いながら...。
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国道18号線バイパスをしばらく走る。
上田大橋西詰の手前でバイパスから外れ、千曲川左岸サイクリングロード(一部、一般道)に入る。

またまた、グランド・ゴルフ場が現れる。
先刻、見たのはいかにもグランドゴルフ場という風情であったが、それとは異なり、こちらはモトクロス・バイクを走らせてもよさそうな、ダートでハードなグランドゴルフ場である。
先刻のメンバーとこちらのメンバーで対抗戦をしたら、さて、どちらが勝利するであろうか。
いやいや、勝敗ではない、どちらがPPK(長野県はPPK、ピンピンコロリ運動が活発)かということであろう。

そんなことを思いながら走っていると、左手、右岸に上田の市街地が見えて来た。
そろそろ、左岸から右岸に渡らねばならない。
地図を出して確認しようと思った、ちょうどその時、犬の散歩中のご婦人に遭遇した。
地図をみるより、人に尋ねるのが一番。
「上田駅前に行くには、いずれの橋を渡れば、近いでしょうか」。
「次の橋を渡り、右へ行くと直ぐですよ」。
「ありがとうございました」。

上田橋を渡る。
千曲川の下流方面を眺める。
川沿いを走るときは、上流から下流へ下るということをモットーとしているが、今回は諸般の事情で遡上。
遡上ではあるが、ここまでは平坦な道で、楽チンだったなあと、川の流れを眺めながらそんなことを思うのであった。
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上田駅前の宿に到着。
丁度、12時。
まだ、時間が早く、チェックインは出来ないが、フロントに荷物を預け、身軽となる。

戸倉上山田温泉を出発したのが9時半。
ここまでの走行距離は20km。
2時間半で20km、寄り道も多いし、フォト・タイムも多いし、急ぐ旅でもないし、丁度、いいペース。

昼餉は「刀屋」。
今回の旅の企画段階で、武衛さんから「上田へ行くのは数十年ぶり。刀屋の蕎麦が懐かしい」とのメールがあり、旅程に「昼餉 刀屋」を織り込んだ。
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昼時である。
混み合っている。
店先には、日除けの葦簀張りが立てられ、床几が置かれている。
床几に座り、しばし、待つ。
蕎麦は勝負が早い。
直ぐに席は空き、店内に案内される。

品書きをみる。
もりそば(小)もりそば(中)もりそば(並)もりそば(大)
ざるそば(小)ざるそば(中)ざるそば(並)ざるそば(大)

小、中、並、大の量が分からない。
いつぞや、多摩湖をポタリングしたとき、近くの武蔵野うどんの店に入った。
うどんは、小、中、大とあり、「大って、何玉ですか?」と問うたら、「〇〇グラムです」とグラムで返事があり、グラムで言われても検討がつかず、おったまげたことがあった。
因みに、讃岐地方の讃岐うどんの店(讃岐地方だから讃岐うどんに決まているが、讃岐地方の店という意味で)の品書きは「小(1玉)、中(2玉)、大(3玉)」と書かれており、これは分かり易い。

小声で「おねえさん、隣の席の人の、あれは、大ですか?並ですか?」と尋ねた。
「あれは、中です」。
「えっ、あの量で、中ですか」。
「はい、うちの店は量が多いんですよ」。

「中」でも結構な量である。
「並」というと、「中」より少なめの感じがするが、「中」より「並」の方が多いのも面白い。
「中」にするか、「並」にするか、武衛さん、南国守さん、小生の3人、しばし、討議。
GGの胃袋には、「中」が丁度よさそうとの結論に達す。
前日、森将軍塚古墳を探訪したことでもあり、もりそばを頼もうと思った瞬間、南国守さんが「ざるそばの、中を三つ」と注文。
「森」と「盛り」の掛詞の目論見は見事に崩れた。
大袈裟に書けばそんなことだが、大勢に影響はない。

ざるそばが運ばれて来た。
極太である。
「中」ではあるが、その姿は「大盛り」である。
蕎麦屋の、もりそば、ざるそばといえば、その量はお上品である。
食べたかどうか、よくわからないような量である。
酒を飲んだあとなら、丁度よい量だが、昼餉としては不満が残る量である。
ところが、刀屋のそばはそうではない。
腹いっぱい、喰ってくだされ!と、そばが言っているような感じである。

腹いっぱい、喰った。
量的にも、「中」で、丁度よかった。

「おねえさん、何度も質問されているでしょうから、聞きにくいんですが、店の名、『刀屋』の由来は?」。
「昔は刀の仕事をしたそうです。刀といっても刀鍛治ではなく、刀の鍔です。祖父の代に食堂を始めました。そのあと、蕎麦屋に。食堂時代の名残りで、お腹がいっぱいになる蕎麦になったんです」。

刀屋の蕎麦に大満足し、店を出る。
昼のピークを過ぎ、先ほどに比べると、店先は静か。
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上田市内の史跡めぐりに出発する。

フォト:2018年5月12日

(つづく)


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by ryujincho | 2018-05-14 23:42 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/戸倉上山田温泉から上田へ(上)』 sp-11

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉。
朝湯、早朝散歩、荒砥城跡からの善光寺平眺望、朝餉と、朝から盛りだくさんに楽しんだ。
朝餉のあと、この日、中山道ウォークの予定があるという大給守さんは四輪を駆って帰館。
我らは自走にて、上田方面へ。

この日の旅程は次の通り。
9:30 戸倉上山田温泉発
~自走(千曲川左岸)
・長野県指定天然記念物「岩鼻」・・・予定外、現地情報にて追加
・上田 道と川の駅・・・同上
・半過古墳群10号墳(移築復元)・・・同上
~自走(千曲川左岸~上田橋~右岸)
12:00 上田駅前着
(昼餉)
~自走(国道18号線ほか)
・科野大宮社(ここが信濃国総社と推定されている)
~自走(国道18号線)
・信濃国分寺跡・国分尼寺跡
・信濃国分寺資料館
・信濃国分寺
~自走(千曲川左岸ほか)
16:30 上田駅前旅籠着

千曲川左岸の温泉街を南進。
千曲川に架かる万葉橋西詰を右折。
千曲左岸サイクリングロード(一部、一般道)に入る。

先ほど、”登城”した荒砥城跡が見えるのではないかと jitensha を止め、振り返る。
見えた!
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荒砥城二の郭の物見櫓が城山にそびえている。
戦国時代、荒砥城は善光寺平の南からこんな感じで見えていたのであろう。
早朝散歩で眺めた「戸」「倉」「上」「山」「田」の大看板と大きな温泉マーク、そして、善光寺大本願別院も角度を変えてよく見える。

物見櫓をアップで。
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jitensha を止めた頭上に鳥たちの姿が。
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快調に走る。

川辺のサイクリングロードでは、橋を眺めるのも楽しみのひとつ。
黄色の、オシャレな橋が見えて来た。

橋の袂で休憩。
ローディが橋を渡る。
橋の中ほどで止まって、川の流れを眺めている。
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橋の名は「大望橋」。
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この辺りは埴科郡坂城町。
「はにしなぐんさかきまち」、いい響きの名である。

橋を渡ると、しなの鉄道テクノさかき駅近くに出る。
しなの鉄道坂城駅は北側の隣駅だから、町役場などがある中心地の南ということになる。
千曲市と同様に、坂城町も千曲川を跨いでのエリアを有している。
坂城町は、上田市と千曲市に挟まれているが、両市とは合併せず、由緒正しい埴科郡の名を守っている、なかなか健気な地方自治体である。

健気な地方自治体、坂城町の歴史は如何なるものであろうか?と、大好きなウィキペディアを紐解いてみた。
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江戸時代、坂木藩が置かれた後、天領となった。
坂木(後に中之条)に陣屋が置かれ、幕府代官による支配が行われた。
1886年(明治19年)近世以来の坂木村が改称して坂城村となる。
1888年(明治21年)官設鉄道信越線の駅として坂城駅が開業。
1904年(明治37年)坂城村が町制施行して坂城町となる。
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江戸時代、この地は天領であったとある。
前日、森将軍塚古墳で案内人さんから、佐久間象山が古墳の下に広がる一画で大砲の試射をやり、北から南に試射した弾を回収するため、着弾地点に行ったところ、そこは天領だったので、返して貰えなったという話と符号する。
何故なら、松代藩の所領は、信濃国北部の高井郡(現上高井郡、下高井郡及び中野市、須坂市)、水内郡(現上水内郡、下水内郡及び飯山市、長野市)、更級郡・埴科郡(千曲市を含む)の川中島四郡で、所領の南端(千曲市)と天領の北端(坂城町)が接していたと理解してよいだろうから。

毎度のことながら、話が反れてしまった。
大望橋に話を戻す。

橋の袂で休憩しながら、ふと、北西の方に目を遣ったところ、住宅の屋根の向こうに雪山が見える。
北アルプスである。
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ズーム・アップ。
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大望橋の袂での休憩を終え、再び、走り始める。
少し走って、黄色の、オシャレな橋を今一度、眺める。
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「狼煙が上がっておりまするぞ」。
「天領への闖入が発覚いたしましたかな」。
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快調に走る。
前日同様、千曲川河川敷には白い花を咲かせているニセアカシアが続く。

「これは何だ?」。
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ニセアカシアの木が根こそぎ、倒れている。
次々と、倒木が現れる。
洪水で倒れてのなら、周囲に何か浮遊物の残骸があるだろうが、そんなものはない。
となると、風で倒れたということになる。
ずっと、河川敷に生えるニセアカシアを見て来たが、倒木が見られたのはこの一画だけであった。

倒木を見た間なしに、スマホから地震警報の警報音鳴り響く。
続いて、坂城町のスピーカーからも地震警報の警報音とアナウンスが流れる。
だが、揺れは感じない。
揺れは感じないが、警報をスマホが受信するということは震源は近いということでもある。
揺れを感じないのに、警報を聞くというのは余計に不気味さを増す。
周りを見渡す。
左岸サイクリングロードの西側に山があるが、山が迫って来ている地形ではないし、河川敷も広い。
しかし、見知らぬ土地。
やっぱり、不気味である。

武衛さんがスマホで検索。
10時29分、震源は長野県北部、震度5強と。

一昨年の秋、播磨国分寺跡を訪ねていたときもスマホが地震警報を発した。
そのときは、鳥取での地震であった。
昨年8月下旬、北海道の旅の折、8月29日、函館での早朝、スマホの警報がなり、市内のスピーカーからも警報が流れた。
北がミサイルを発射、函館上空を飛ぶという警報であった。
地震の警報音、ミサイルの警報音、どちらも心臓に悪い。

しばらく走ると、河川敷にグランド・ゴルフ場が現れた。
長野県は長寿日本一の県。
こうした施設が整っており、GG&BBの健康促進に貢献しているのであろう。
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ニセアカシアの花の下、♪ わたし、ピンクのサウスポー ♪
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グランドゴルフをしていたおばちゃんと、しばし、会話。
「千曲川沿いはニセアカシアが多いですね」。
「きれいな花を咲かせているでしょ」。
「さっき、ニセアカシアの木が倒れまくっていたところがありましたが、あれは?」。
「強風で倒れてしまったんですよ」。

第8話で、ニセアカシア(和名:ハリエンジュ、針槐)について、国土交通省千曲川河川事務所のHPに記載されていたことを縷々綴ったので、詳しくは割愛するが、ひとことでいうと「ハリエンジュは、環境省指定の『要注意外来生物』。千曲川全体の自然植生のうち約24%をハリエンジュが占めている。ハリエンジュは根が浅いため、洪水時は簡単に流されてしまい、河川管理上、悪影響を及ぼす」というものであった。
根が浅いため、洪水で流されるのみならず、強風で倒れることもあり、河川管理上、面倒な代物となるのだ。

「あんた方、これから何処へ」。
「上田方面へ」。
「こっちへ行っちゃ、駄目ですよ。川にはまってしまいますよ。上田はあっちの道を行くんですよ」。

時折、サイクリングロードが途切れ、一般道を行くのか、砂利道だけど、そのまま行けばいいのかなどと迷うことがあり、ちょうど、変な道に入ろうとしていたときに、グランドゴルフおばちゃんから的を得たアドバイスを頂戴したのであった。

グランドゴルフおばちゃんは、更に言葉を続け、「上田へ行く途中、川の駅があります。是非、そこに立ち寄ってください」と。
「川の駅?」。
「そう、川の駅。道の駅みたいな川の駅。ここは千曲川だから、川の駅があるんですよ」。
「寄ってみます。いろいろ、どうも有難う」。

ニセアカシアの倒木、地震警報とよろしくないことがふたつ続いたが、そのあと、明るい、グランドゴルフおばちゃんに遭遇。
よいことは続くもので、もうひとつ、明るいことに遭遇。
ニセアカシアの白い花が咲き乱れているのに、何故、養蜂箱がないんだと、前日から思っていたのだが、遂に養蜂箱に出遭ったのだ。
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フォト:2018年5月12日

(つづく)









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by ryujincho | 2018-05-14 23:41 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/戸倉上山田温泉、朝餉前の荒砥城跡』 sp-10

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉。
前夜は、信州の盟友、大給守さんも交えての宴で大いに盛り上がった。
早朝、目が覚める。
朝風呂に浸かる。
宿の近くを早朝散歩。
宿に戻る。
大給守さんが「朝餉前に、荒砥城跡に行きましょう」と。
前夜の宴の際、荒砥城跡を話題にし、久しぶりに行ってみたいと話したことでもあり、大給守さんの提案に、一もに二もなく、賛成!

荒砥城跡のことを話題にしたのは、前日、有明山の尾根に築造された森将軍塚古墳から善光寺平の風景を眺めながら、案内人さんとこんな話をしたからであった。

「あれはいつのことであったか、対岸の高台から今と同じような景色を見たことを思い出しました。NHKの大河ドラマ『風林火山』の頃であったような気がします。大河ドラマの撮影に使われた砦のような造りの場所でした」。
「それは、戸倉上山田温泉の裏の山にある荒砥城跡ですね。。荒砥城は、村上氏の一族、山田氏が16世紀初めに築城。武田氏、上杉氏、屋代氏、真田氏、徳川氏など、さまざまな関わりがあったのち、16世紀の末に廃城となった戦国時代の山城です」。

いつの頃であったかと、調べてみたところ、「2007年(平成19年)の大河ドラマ『風林火山』で、荒砥城跡を佐久海ノ口城に見立てて、武田晴信初陣のシーンを撮影した」とあった。
ということで、2007年以来、11年ぶりの荒砥城跡となったのであった。

大給守さん運転の四輪で、城山を上る。
この城山は、冠着山(かんむりきやま)から千曲川へ向かって伸びる舌状尾根の突端部にある。
この辺りの古墳築造も山城築城も、時代は変われど、その場所は、皆、尾根の先端部であるといえる。
因みに、この尾根には古墳はなく、倉科将軍塚古墳のように倉科氏の鷲尾城の城郭の一部に古墳を使うようなことはなく、山田氏はこの地に一から荒砥城を築城したといえる。

駐車場に車を置き、門の方へと向かう。
前方に男性が歩いている。
当地の管理人さんであった。
「開門は午前9時からなんですけど、今朝はお客さんが早めに来られるような予感がして、早めに来ました」と管理人さん。

今、朝7時過ぎ。
我らは、開門時間のことなど全く頭にないまま<登城>したのであったが、ラッキーであった。
ひょっとしたら、我らが、前夜あるいは今朝、宿で荒砥城跡のことを話題にしたのが管理人さんに聞こえていたのではないか、それとも、宿の人が我らの話を聞き、宿が気を利かせて、管理人さんに連絡したのではないか、いやいや、やはり、管理人さんのいう通り、彼の直感であったのだろう。

荒砥城跡に到着。
荒砥城の本郭は標高590mで、千曲川から比較するとおよそ220mの比高差があるとのこと。

門近くの石碑。
「甦る五百年の歴史 荒砥城 上山田町史跡整備助言委員 森嶋 稔」と刻まれている。
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アップで。
ちらっと見えている、赤いセーターの御仁は大給守さん。
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石碑裏面の碑文。
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荒砥城跡
荒砥城は中世戦国期、地域の衆族、村上氏の支族、山田氏による十六世紀頃築城による重要な山城ある。
〇〇の山城と同様にしてその出自は明確でない。
幾たびかの攻防記録も残されているが、戦国期末には、山田氏から武田方、屋代氏のもの、上杉方〇番衆による交代管理にもなったりした。
天文十一年(一五八三)四月、戦国のならいか、松代の上杉方海津城副将屋代秀正(勝永)は徳川方内通が発覚するや、この山城籠城の上、最後の抵抗を試みている。
だが、しかし、北信濃の諸将の攻撃を受けて〇日にして落城した。
その後は廃城となり、今日に至っている。
平成七年三月吉日
森島 稔 撰
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達筆なので、一部、推測しても判読不能な文字があり、それは〇印にてブランクとしている。

”早朝出勤”の管理人さんに入城料金三百文を支払い、入城券とリーフレットをゲット。
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開門!
入城券販売窓口の近くに掲げられていた「雪景色の門」の写真を借用して。
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二の郭へと進む。
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前を歩く大給守さんと管理人さんの会話が聞こえて来た。
石垣のことで会話を交わしている。
「この石垣の石は、望月の『てっぺいせき』ですね」。
「よくご存知で」。
「あの辺りにちょっとゆかりがあるものですから」。

「武衛さん、『てっぺいせき』って?」。
大給守さんと管理人さんの話に割り込んではいけないと思い、物知りの武衛さんに尋ねた。
「鉄に平な石。鉄平石です」。

鉄平石の石垣をもう一枚。
物事を理解せずして撮った写真と、理解した上で撮った写真では、その写真の重みは全く異なるので。
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鉄平石について。
毎度のウィキペディアでは面白くないので、佐久の某石材店のHPの解説文をここで引用させていただこう。
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鉄平石は長野県の諏訪や佐久地方に広く分布する安山岩で、板状節理を成すため板状に剥がれやすいのが特徴です。
この特徴を活かして様々な厚味やかたちに加工された石材は、 壁、床、庭、塀、時に屋根など、建築用の内外装材として広く利用されています。
色合いは灰色を基調とし、赤、青、黄、緑、茶など。
板状に剥離した鉄平石の表面は平板な中にも凹凸や模様が現れ、陰影によって天然石らしい手触りと表情を見せます。
また、表面を研磨すると色味が変わる特性を持ち、研磨したものは御影石とは異なるしっとりとした風合いを醸し出します。
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確かに、建物の内外装よく見掛ける石材である。
しかし、その名が鉄平石であるとは知らなかった。
また、ひとつ、カシコクなった。

カシコクなったついでに、鉄平石の石垣に咲く季節の花、ツツジをカメラに収める。
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四の郭、三の郭を過ぎ、二の郭に。

二の郭の門。
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鉄平石がやはり気になる。
石垣をアップで。
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鉄平石の特徴である平たい石が主であるが、ところどころに、平たくない、大きめの石が積まれている。
こうすることによって、石垣は平たい石だけよりも強固になるのかもしれない。
石垣を眺めていると、どうしても古墳の葺石を思い浮かべてしまう。
古墳時代からの石積みの変遷の歴史を見るようで、面白い。

ここからは、荒砥城のあれこれはさておき、善光寺平、千曲川、そして、彼方の山々の眺望を楽しむことにする。

二の郭、物見櫓に上る。
南側の眺望。
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北側の眺望。
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ここからは、前日、探訪した森将軍塚古墳が位置する有明山は見えないが、右手に見える善光寺平東辺の山伝いに東へ回り込んだ辺りに有明山は位置している。
正面の彼方に雪山が見える。
前日、森将軍塚古墳から眺めたときは、飯綱山と戸隠山の間に僅かに見えていた雪山だが、ここからはよく見える。
(左/戸隠山、央/雪山(名称不詳)、右/飯綱山の稜線のみ)
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二の郭から本郭へ。
先頭/管理人さん、赤/大給守さん、青/武衛さん、白/南国守さん、影/小生。
赤や青、白、そして、影などと書いていると、荒砥城の砦と相まって、昔、「仮面の忍者 赤影」なる忍者漫画、そして、それを原作とした特撮テレビ映画があったことを思い出す。
どんな番組だったかというと、覚えているのは、少年忍者、青影の、あのポーズ。
手のひらを閉じて、親指を鼻の頭につけて、指を開いて、「だいじょーぶ」というあれである。
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本郭。
南側の眺望。
二の郭の物見櫓、その向こうに、善光寺平と千曲川。
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北側の眺望。

二の郭からの眺望と同様に、正面の彼方に、前日、森将軍塚古墳から眺めたときは、飯綱山と戸隠山の間に僅かに見えていた雪山だが、ここからもよく見える。
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左/戸隠山、央/雪山(名称不詳)、右/飯綱山の稜線。
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左(西)に目を遣る。
木立の間の彼方に、前日、森将軍塚古墳から眺めた北アルプスがよく見えている。
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ズーム・アップ。
前日と眺める角度が違うのだが、前日と同様、白い屏風を広げたが如くである。
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前日の森将軍塚古墳からの眺望図では「北アルプス」とあったが、ここでは「北アルプス連峰」、更に(その北に)「北アルプス 白馬」と明記されている。
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荒砥城の概要、NHK大河ドラマ関連の撮影風景、脚本、撮影予定表などの展示あり。
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赤影、白影、青影の御三方。
「仮面の忍者 赤影」では、バタフライマスク状の仮面を付けていた。
仮面の代わりに、目の辺りにモザイクを。
御三方ともいい表情をなさっており、モザイクを掛けるのはもったいないのだが...。
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時計を見ると8時前。
宿の朝餉は7時45分からであったから、ちょうど、いい時間。
再び、大給守さん運転の四輪で城山を下り、宿に戻る。

もし、大給守さんもポタリングに参加であったなら、jitensha 傾向で、四輪はなく、荒砥城跡へは自走、というより<押し>、帰りは<下りま専科」であっただろう。
だが、多分、荒砥城跡はパスしていたであろう。

大給守さんの四輪があったこと、そして、案内人さんの直感で早朝開門がなされたこと、この二つのラッキーが重なって、荒砥城跡からの眺望を楽しむことが出来た。
感謝!

朝餉をゆるりと頂戴する。

フォト:2018年5月12日

(つづく)


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by ryujincho | 2018-05-14 23:40 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/戸倉上山田温泉、朝餉前の早朝散歩』 sp-9

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉。
前夜は、信州の盟友、大給守さんも交えての宴で大いに盛り上がった。
早朝、目が覚める。
朝風呂に浸かる。
極楽である。

宿の近くを早朝散歩。
これも旅の楽しみのひとつ。

朝5時40分。
人通り、皆無。
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「山口洋子 千曲川展示館 うたフォーラム」の幟旗。
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前8話で、前日、千曲川左岸を走っている途中、jitensha を止め、千曲川の流れを眺めた。
そのときの写真に添えて、「♪ あーあー、川の流れのよーにー ♪ いや、ここは千曲川、美空ひばりじゃなくって、五木ひろしかも。♪ 水の流れに 花びらを そっと浮かべて 泣いたひと ♪ 」とキャプションを付けた。

その五木ひろしが歌う♪ 水の流れに 花びらを そっと浮かべて 泣いたひと ♪ は、作詞 山口洋子、作曲 猪俣公章の『千曲川』、1975年のヒット曲である。

山口洋子千曲川展示館は2014年に亡くなった山口洋子の遺品を展示しているという。
近くの、千曲川万葉橋の角にある万葉歌碑公園には、山口洋子直筆の『千曲川』の歌碑もあるという。

千曲川といえば、島崎藤村の『千曲川旅情の歌』ということになろうが、千曲川を題材にした作品で山口洋子も名を連ねるというのも時代の流れであろう。

温泉街のクラブやスナックでは、余毎、山口洋子作詞の歌がカラオケで歌われていることであろう。
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城山には「戸」「倉」「上」「山」「田」の大看板と、大きな温泉マーク。
左の赤い建物は、善光寺大本願別院。
右手に、小さく、荒砥城跡の物見台も見える。
荒砥城については、続編で詳しく。

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温泉マークをアップで。
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温泉マークというと、一時期、何やらいかがわしいニュアンスだったこともあったが、温泉マーク(温泉記号ともいう)は、温泉・鉱泉を示す歴とした地図記号である。
この記号の歴史を紐解くと、地形図の地図記号として最初に現れるのは、1884年(明治17年)の陸軍参謀本部陸地測量部が作成した「假製2万分1地形圖圖式」においてであるという。
昨年であったか、一昨年であったか、温泉マークは外国人観光客が暖かい飲み物とかラーメンと勘違いする恐れがあるとのことで、丸に湯気の中に湯に浸かる三人を加えた、新たな記号が考え出された。
しかし、大分県をはじめ、全国の温泉県から猛烈な反対があり、温泉マークの変更は見送りとなった。
日本の大事な観光資源である温泉は、我々が馴染んでいる温泉マークも含めての温泉である。
外国人観光客の中には、この温泉マークも見たいと思い、来日して人もいるのではないだろうか。
お役所が温泉マーク改悪案を取り下げたことはまことに喜ばしいことである。
そんなことを思いながら、山頂に誇らしく掲げられていう温泉マークを見上げるのであった。

早朝の温泉街、人通りはないが、鳥は早朝から出動である。
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おまけ写真。
宿のエレベーター内に掲げられていたポスター。
「千曲市 国の名勝 姥捨 棚田の田毎の月」。
第4話で綴った森将軍塚からの眺望の中で、姥捨、田毎の月に触れたことでもあり、掲載する次第である。
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宿に戻る。
大給守さんが「朝餉前に、荒砥城跡に行きましょう」と。
荒砥城跡のことは前夜の宴で話題にし、久しぶりに行ってみたいなあと話したことでもあり、一もに二もなく、大賛成!

フォト:2018年5月12日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-05-14 23:39 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/森将軍塚古墳から戸倉上山田温泉へ、そして、宴』 sp-8

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

森将軍塚古墳を探訪、そして、隣接の千曲市森将軍塚古墳館を見学。
大満足のうちにこれらを終え、一路、この日、投宿の戸倉上山田温泉へ。
といいたいところであるが、当地、千曲市は日本一のアンズの産地とのこと。
ということで、森将軍塚の向かいにある「あんずの里 物産館」に立ち寄ってみた。

アンズという果実は余り馴染みがないが、ジャムで味わったり、会席料理の食前酒で飲んだりすることはある。
ジャムのラベルには、アンズよりもアプリコットと書かれているものが多いように思う。

「あんずの里 物産館」で、アンズのソフトクリームを頂戴する。
バニラのソフトクリームにアンズのジャムがたっぷりと添えられてものであった。
甘酸っぱくて、さっぱりとした、なかなか結構なお味であった。

さあ、アンズ・パワーを補給したことでもあり、一路、戸倉上山田温泉へ向け、出発。
千曲川右岸の国道18号線は走りにくそうなので、これは避け、古墳の案内人さんに教えて貰った通り、古墳と物産館の前を東西に通る一般道を西へ走り、栗佐橋を渡り、千曲川左岸のサイクリングロード(一部、一般道と兼用)を戸倉上山田温泉方面へ遡ることにする。

千曲川に架かる栗佐橋を渡る。
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千曲川の流れ/上流方面を眺める武衛さんと南国守さん。
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先ほど、森将軍塚古墳からこの橋が見えていた。
ということは、この橋から森将軍塚古墳が見えるのではないかと振り返ってみる。

見えた!
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ズーム・アップ!
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電柱が入ってしまった。
少し、先に進んで、電柱をかわした位置で、もう一度、眺める。
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ズーム・アップ!
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栗佐橋を渡り、千曲川左岸サイクリングロード(一部、一般道兼用)に入る。

快調に走る。
走れども、走れども、途切れることなく、河川敷に、ニセアカシアの白い花が咲き乱れている。

前を走る二人に、チーンとチビ丸ベルを鳴らし、合図。
「ニセアカシアと一緒に写真を撮りまーす。前方の山も姿もええ感じやし...」。
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ニセアカシア。
和名はハリエンジュ(針槐)。

余りに千曲川沿いにニセアカシアが多いので、このブログを綴るに際し、「千曲川 ニセアカシア」でネット検索してみた。

国土交通省千曲川河川事務所のHPに次の通り記載されていた。
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河川内樹木の悪影響
千曲川全体の自然植生のうち約24%をハリエンジュが占めている。
ハリエンジュは根が浅いため、洪水時は簡単に流されてしまい、河川管理上、悪影響を及ぼす。
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ハリエンジュのイロハ
・明治初期に渡来した北米原産の外来種。
・高さ15-20mほどになる落葉高木。
 広く街路樹や砂防樹として植えられ、野生化している。
・花期は5-6月頃。白い花が咲きます。
・帰化植物ハリエンジュは空中窒素固定能力があるために荒廃した林地では旺盛な生長を示して繁茂し、しばしば純群落を形成。
 このような状態になるとハリエンジュの優占状態が続き、在来植生は回復しない。
・ハリエンジュは根からの再生能力があり、地上部を伐採しても根から多数の地上茎を発生させ、瞬く間に回復。
 再生した地上茎は1年で1m以上も伸長。
・「要注意外来生物」(環境庁ホームページより)。
------------------------------------------------

余談ながら、国交省千曲川管理事務所のHPでは「『要注意外来生物』(環境庁ホームページより)」とある。
2001年、環境庁は環境省に改組されている。
この国交省千曲川管理事務所のHPは相当に古いか、誤記である。

環境省のHPを参照したところ、確かに、「要注意外来生物リスト」に「ハリエンジュ(ニセアカシア) (Robinia pseudoacacia) 」の名前が挙げられていた。

翌日、戸倉上山田温泉から上田まで、同じく千曲川左岸サイクリングロードを走ったが、そのとき、ニセアカシアが何本も倒れている光景を見た(その写真は、戸倉上山田温泉~上田の巻の続編で)。

河川敷でグランドゴルフをしていた人に「あれは何で倒れているんでしょうか?」と尋ねたところ、「強風で倒れてしまったんです」と。
国交省千曲川管理事務所のHPでは「ハリエンジュは根が浅いため、洪水時は簡単に流されてしまい、河川管理上、悪影響を及ぼす」とあったが、洪水で流されてしまう以外に、風にも弱いのであった。

満開のニセアカシアを眺め、きれいやなあ、蜂蜜がいっぱい採れるやろなあなどと、いいことばかりを考えていたが、河川にとっては歓迎されざる樹木なのであった。


話が脱線した。
千曲川左岸の走りに話を戻そう。

白いニセアカシアの花を眺めながら走る。
オオヨシキリの声が聞こえる。
オオヨシキリの最初の声は、毎年、マイ・フィールドの手賀沼で聞いているが、今年は千曲川の畔となった。

jiensha を止めて、千曲川を眺める。
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♪ あーあー、川の流れのよーにー ♪
いや、ここは千曲川、美空ひばりじゃなくって、五木ひろしかも。
♪ 水の流れに 花びらを そっと浮かべて 泣いたひと ♪

一般道とミックスのサイクリングロードを快調に走る。

大正橋西詰、佐良志奈神社前交差点に至る。
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佐良志奈神社。
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扁額コレクション。
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ブログを綴っていると、佐良志奈神社とは?ということで、由緒を調べてみたくなる。
ネット検索していると、由緒もさることながら、「さらしな神社かたくりまつり」の文字が目に飛び込んで来た。
盟友、甲武信守さんや品濃守さん(not 信濃守)らと話しをしているときに、山好きの彼らからカタクリの花の話題がよく出る。
カタクリの花を見たい、撮ってみたいと長らく思い続けているが、山登りは苦手だし、念願は叶っていない。
佐良志奈神社の境内や隣接の八王子山の山道沿いの傾斜地にカタクリの群生地があり、「春の妖精 カタクリ」が4月上旬に咲くという。
今年の「さらしな神社かたくりまつり」は4月7日に開催されたという。

カタクリの花を見るなら、ここかもしれない。
同じ時期に、アンズの花も咲くという。
佐良志奈神社とその周辺は楽しみな場所でありそうだ。

戸倉上山田温泉は、千曲川の左岸、大正橋とひとつ上流の万葉橋の間の一画が温泉街となっている。
佐良志奈神社前交差点を過ぎ、しばらくして、右手の温泉街に入る。

宿に投宿。
湯に浸かる。
湯に浸かっていたら、四輪で到着した大給守さんが風呂場に現れた。

全員、ゆるりと湯に浸かり、6時45分、予定通り、宴を開始。

大給守さんを交えての宴は、1年4ヶ月ぶり。
大給守さんは、昨年1月、40余年の江戸勤番を終え、信州に隠居することと相成り、1月7日、ドラポタ走り初め&送別ポタリングを挙行。
題して、「東京の灯よいつまでも」。
ゴールの中野にて反省会。

続いて、1月11日、両国「もヽんじや」にて壮行会。
「もヽんじや」は「山くじら」の店。
「山くじら」は獣肉を食べることは禁忌であったことからイノシシの肉や獣肉を言い換えたもの。
「いのしし鍋」、「しし鍋」、肉の色から「ぼたん鍋」とも。
関西で育った小生には「ぼたん鍋」と称するのが最もしっくりする。
今風にいえば、ジビエ料理である。

何故、壮行会の場を「もヽんじや」にしたか。
それは、大給守さんは、現役時代、参勤交代で国許に戻ったとき、時折、狩猟会(?)のお仲間と猪肉や鹿肉を食しているとの話を聞いていたこともあり、もし、隠居後、国許で新ビジネスを立ち上げるということなら、猪肉や鹿肉を江戸へ売り込むビジネスもあろうかと思い、消費地の調査も兼ねてと思ったからである。

昔話が長くなった。
戸倉上山田温泉に話を戻そう。

今回、大給守さんも交えて、信州史跡めぐりのポタリングも一緒にしたかったのだが、全員の都合がピタリと合うことは難しく、大給守さんは宴だけの参加となった。
宴では、大給守さんの隠居生活談を酒の肴に杯を重ねた。
野良仕事、古文書を読む会、中山道を歩く会、キノコの会、ジビエの会、冬のスキー指導員、公共施設の館長さんなど、公私共に多忙にて隠居生活をエンジョイなされておる由にて、何よりである。
もちろん、武衛さん、南国守さん、小生の隠居生活談もあれこれと。
杯を重ねに重ね、会話は弾みに弾み、大満足のうちに閉宴と相成った。

フォト:2018年5月11日

(つづく)



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by ryujincho | 2018-05-14 23:38 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/千曲市森将軍塚古墳館(下)』 sp-7

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市森将軍塚古墳館。
前第5話では、墓壙(ぼこう)と竪穴式石室を中心に綴った。
前第6話では、古墳館の展示物を”資料編”として綴った。

第7話では、2階展示室中央のワイドスクリーンに映し出される映像の幾つかを掲載しておきたい。
併せて、森将軍塚古墳をはじめ、『将軍塚』と名のつく古墳についてのあれこれを綴っておきたい。

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1600年の時を重ね...。
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雪に抱かれて眠る古墳。
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動植物たち。
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『将軍塚』と名の付く古墳。
そもそも、森将軍塚古墳を探訪しようと思い立ったのは、科野のクニを代表する前方後円墳であることや、尾根の地形に合わせて「くの字」に折れ曲がって築造されたという珍しい形の古墳であったこと、そして、『将軍塚』という名に惹かれたことであった。
第4話で、千曲川右岸に位置する『将軍塚』の名が付された埴科古墳群に属する前方後円墳4基、森将軍塚古墳、有明山将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳、土口将軍塚古墳について触れた。
第4話や第6話では、千曲川左岸に位置する『将軍塚』の名の付く古墳、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳も登場した。
これらの『将軍塚古墳』の築造場所、築造年代、規模などについて全体的に整理しておきたい。

1)築造場所:
①善光寺平東辺/埴科古墳群(南から北の順で):
・有明山将軍塚古墳(千曲市屋代、有明山)
・森将軍塚古墳(同上)
・倉科将軍塚古墳(千曲市倉科、北山)
・土口将軍塚古墳(長野市松代町岩野、千曲市土口、笹崎山)
②善光寺平西辺(長野市篠ノ井石川、湯ノ入山)
・川柳将軍塚古墳
(参考)川柳将軍塚古墳の北側に、前方後方墳の「姫塚古墳」(4世紀半ば、全長31m)が位置している。

2)年代順:
・4世紀末/森将軍塚古墳
・4世紀末~5世紀初め/有明山将軍塚古墳
・4世紀末~5世紀初め/川柳将軍塚古墳
・5世紀前半/倉科将軍塚古墳
・5世紀中頃/土口将軍塚古墳

3)規模順:
・森将軍塚古墳 全長100m
・川柳将軍塚古墳 全長91m
・倉科将軍塚古墳 全長83m
・土口将軍塚古墳 全長67m
・有明山将軍塚古墳 全長37m

『将軍塚』の名の由来について、「5~6000人の兵士を統率する人を中国では将軍というそうです。被葬者はそれくらの権力を有していたであろうということから、『将軍塚』と名付けらた」と、森将軍塚の案内人さんに教えてもらった。

上記の善光寺平の東辺・西辺の『将軍塚』古墳のほか、全国で『将軍塚』の付く古墳を調べてみた。
・将軍塚古墳(栃木県宇都宮市)
・元島名(もとしまな)将軍塚古墳(群馬県高崎市)
・野本将軍塚古墳(埼玉県東松山市)
・将軍山古墳(埼玉県行田市、※「将軍塚」ではなく「将軍山」だが、広義にとらえて)
・将軍塚古墳(大阪府茨木市)
・将軍山古墳(同上、※「将軍塚」ではなく「将軍山」だが、広義にとらえて)

将軍塚シリーズと銘打ち、これらの古墳も探訪してみたいものである。

ここ、科野の里歴史公園には、千曲市森将軍塚古墳館のほかに、長野県立歴史館もあり、立ち寄ってみた。
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受付で、展示物の内容について尋ねてみた。
企画展として、平成29年度に県内で発掘や整理を行った遺跡からの出土品を中心に展示した「長野県の遺跡発掘2018」なるものを開催中とのこと。
そういえば、昼餉を摂った店にこの企画展のポスターが貼ってあったことを思い出した。

現場と資料館をセットで見学することをモットーとしている。
長野県全体の出土品を見ても、現場は見ていないし、ただ、出土品を見ただけということになってしまう。
先刻、森将軍塚古墳館で相当に集中して見学したので、疲れて、集中力を欠いている。
というようなことで、長野県立博物館は入り口だけで失礼することにした。

「長野県立博物館 雷管記念」/長野県観光PRキャラクター&火焔型土器パネル。
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この長野県のユルキャラの名前は「アルクマ」とのこと。
プロフィールは「信州だけに出没する珍しいクマ。クマなのに寒がりでいつも頭にリンゴのかぶりもの。旅好きでいつも背中にリュック。信州をクマなく歩きまくり、信州の魅力を世の中にクマなく広めるのが生きがい」とのことだ。
「歩くクマ」で「アルクマ」なのである。
クマの出没は恐ろしいが、アルクマなら歓迎である。
クマといえば、2014年秋の「高峰高原下りま専科」に先立ち、盟友、大給守さんのアドバイスに従い、jitensha にクマ除けの鈴と装着した。
以来、今も時折、振動で揺れて鳴っている。

県立博物館前から、尾根の森将軍塚古墳を見上げる。
木立に半分隠れるようにして見えている。
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古墳館前から、今一度、見上げる。
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森将軍塚古墳、いろいろ楽しませてくれ、サンキュー!
案内人さん、いろいろと話を聞かせていただき、サンキュー!です。
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千曲市森将軍塚古墳館、サンキュー!です。
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時計は午後3時半を指している。
ここへ到着したのが午後1時少し前。
2時間半、たっぷりと古墳を楽しませて貰った。

フォト:2018年5月11日

(つづく)


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by ryujincho | 2018-05-14 23:37 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/千曲市森将軍塚古墳館(中)』 sp-6

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市森将軍塚古墳館。
前話では、古墳館で見学した、墓壙(ぼこう)と竪穴式石室を中心に綴った。
この古墳館には興味深い展示が数多ある。
いつも、ブログを編集する際には、個々の説明書きの読み下しや、補足、意見、感想などを綴っているが、量的なこともあり、今回は割愛したい。
よって、ここでは、"資料編"としてのアップロードとしておきたい。


「史跡 森将軍塚古墳発掘調査図」。
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「全面発掘調査がおこなわれた森将軍塚古墳」。
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「『くの字』に折れ曲がった森将軍塚古墳」。
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「二段墓壙の中央に設けられた竪穴式石室」。
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「幅広な竪穴式石室」。
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「大和王権によって築かれた古墳」。
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「長野県下の主な前方後円(方)墳」。
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「くの字に折れ曲がった古墳」。
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「全長100mの前方後円墳を計画」。
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貼石帯について。
古墳現場の説明板に「貼石帯(はりいしたい) 石を敷き詰めて古墳の形が整えられています」とあったが、これの意味するところがよく分からなかった。
だが、この古墳館の説明板で「後円部をより円形に近づけようと貼石帯を設けたり...」とあり、よく理解でした。

「前方部の墳丘内石垣」。
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「森将軍塚古墳の築造作業」。
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模型。
(墳丘に白くあるのはガラスへの照明の映り込み)
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「壷から変化した埴輪を供える」。
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「三角形の透孔がたくさんある埴輪」。
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「合子形埴輪(ごうすがたはにわ)」。
古墳館の1階から階段を上り、2階の展示物の中で真っ先に目に入るのが、この埴輪。
確かに「三角形の透孔」がたくさんある埴輪である。
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「古墳で行われた儀式」。
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「前方部に造られた二つの石室」。
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「古墳の埴輪を利用した小さな墓」。
写真:2号埴輪棺
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写真:4号埴輪棺、5号埴輪棺
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写真:6号埴輪墳、8号埴輪墳
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「古墳を取り囲む64基もの石棺」。
写真:8号石棺
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「小型埋葬施設分布図」。
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「遠く大阪から運ばれた大きな甕」。
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森将軍塚古墳周辺の13基の円墳。
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円墳/2号墳。
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円墳/3号墳。
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「古墳に並ぶ埴輪列」。
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個々の埴輪をカメラに収めたったが、時間の都合もあり、一括で。
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「『科野のムラ』のくらし」。
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個々の出土品をカメラに収めたったが、時間の都合もあり、一括で。
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「7代続いた『科野のクニ』の王墓」。
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「有明山将軍塚古墳」。
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写真:有明山将軍塚古墳の全景(手前は前方部)
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「倉科将軍塚古墳」。
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「土口将軍塚古墳」。
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「将軍塚」の名が付く古墳について興味がある。
それについては、続編でまとめてみたい。

千曲市内の主な古墳時代の遺跡。
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以上が"資料編"。
いつも、ブログを編集する際には、個々の説明書きの読み下しや、補足、意見、感想などを綴っているが、量的なこともあり、今回は割愛した。
よって、ここでは、"資料編"としてのアップロードとした。
今後、時間があれば、読み下しや、補足、意見、感想などを記してみたいと思うが、さて...。

フォト:2018年5月11日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-05-14 23:36 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/千曲市森将軍塚古墳館(上)』 sp-5

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市/森将軍塚古墳。
有明山の尾根に築かれた前方後円墳を見学。
尾根の地形に合わせ築造されたため、「くの字」になっているという珍しい形の前方後円墳。
床面積が日本最大と推測されている竪穴式石室。
眼前に広がる、善光寺平、千曲川の流れ、彼方の山々、さらにその向こうに冠雪した北アルプスなどの素晴らしい眺望。
復原された古墳を眺め、案内人さんの話を聞き、説明板を参照し、古墳好きには堪らなくよき時間を過ごした。

千曲市森将軍塚古墳館。
古墳を見学する前に、古墳館で簡単にヨシューした。
次は、古墳を見学した後の古墳館で、この目で見た古墳のあれこれを頭に描きながら、フクシューである。

「千曲市森将軍塚古墳館」。
後背の山は有明山。
その尾根に森将軍塚古墳が見える。
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古墳館2階の展示室へ。

「-集団墓から巨大な古墳へー 森将軍塚古墳の時代」。
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弥生時代には、溝で区画した円形や方形の周溝墓が溝とうし寄り添うように集落の近くに造られていたのです。
古墳時代になると、ひときわ高い墳丘を築いた墓が単独で造られるようになります。
長野県下では、最初に前方後方墳が造られ、次いで、前方後円墳が築かれるようになります。
------------------------------------

年表では、黄色で古墳時代が塗り分けられている。
その右に「主な出来事」の記述がある。
古墳時代の右側には、その前後の弥生時代の末尾と飛鳥時代の冒頭も含め、次の通り記されている。
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239 邪馬台国の卑弥呼が中国に遣いを送る
    
    全国各地に古墳が造られる
    森将軍塚古墳が造られる
    大和政権 国内の統一を進める

504 聖徳太子が17条の憲法を定める
------------------------------------

随分とざっくりした記述である。
「全国各地に古墳が造られる」には「3世紀中頃」と補足しておきたい
「森将軍塚古墳が造られる」には「4世紀末頃」と補足しておきたい。

「主な出来事」の右側の掲載写真。
左/周溝墓 長野市篠ノ井遺跡。
右/前方後方墳 松本市弘法山古墳。
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前方後方墳に興味がある。
前方後方墳である松本市弘法山古墳について調べてみた。
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弘法山古墳(こうぼうやまこふん)
長野県松本市並柳、松本市の南西部、弘法山(標高約 650 m)にある古墳。
東日本最古級の3世紀末築造の前方後方墳。
墳丘長 66 m、前方部幅22 m ・高さ 2 m 、後方部幅 33 m ・高さ 6 m 。
東日本特有の前方後方墳は、前方後円墳に先駆けて出現。
長野県では、弘法山古墳と同時期の4世紀末に、姫塚古墳(長野市篠ノ井石川)が出現。
山梨県では、4世紀中頃に、小平沢古墳(甲府市下向山)が出現。
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弘法山古墳は、最寄り駅のJR篠ノ井線南松本駅から徒歩15分、花見の名所とある。
訪ねてみたい古墳である。

早速、話しが反れてしまった。
森将軍塚古墳に話しを戻そう。

古墳館2階の展示室中央に、後円部の二段墓壙と竪穴式石室が再現されている。
そして、その手前にそれらに関わる説明と石室から出土した副葬品が展示されている。

正面から。
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左から。
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右から。
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二段墓壙と竪穴式をアップで。
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竪穴石室からの出土した副葬品。
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撮影方向を変えて。
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副葬品をアップで。

左/小型丸底土器。
右、上段から/復元した矢、矢じり、復元した鎌。
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直刀、剣、剣。
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硬玉製勾玉、碧玉製管玉。
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右/三角縁神獣鏡(片)、右/三角縁神獣鏡の模型(森将軍塚古墳友の会寄贈)。
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説明書きに目を通す。

「残された副葬品」、「副葬品が語る古墳の主」。
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残された副葬品
古墳時代前期の古墳には、武器(剣・刀・矢)と共に、鎌、ノミなどの農具や工具が副葬されるのが特徴です。
中期以降の古墳では、多量の武器や馬具などが副葬されます。
この二つの土器は小型丸底鉢と呼ばれるもので、当時の政治や文化の中心である近畿地方の影響のもとに作られて土器です。
この科野のクニが、当時、近畿地方をはじめ各地と盛んに交流していたことがわかります。
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副葬品が語る古墳の主
石室内の副葬品は、そのほとんどがすでに持ち去られたようです。
しかし、残された品々から、大和王権と密接な関係を持ち、人々に反映をもららす指導力を発揮した、科野のクニの最初の王の姿をみることができます。
見つかった三角縁神獣鏡片は、中国製の大型鏡です。
大和王権から全国各地の王に、政治的な関係を結んだ証として与えられたといわれる、長野県下で唯一のものです。
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「竪穴式石室に納められた木棺」。
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竪穴式石室に納められた木棺
古墳時代前期の竪穴式石室に納められた棺は、巨木を二つに縦割りにし、内部をくり抜いて合わせた割竹形木棺が主流だといわれています。
森将軍塚古墳の棺は残っていませんでしたが、石室の床が幅広く平坦であることなどから、割竹形木棺ではなかったかと考えられます。
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「竪穴式石室は日本最大級」。
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竪穴式石室は日本最大級
古墳時代の埋葬施設には、竪穴式石室・粘土槨・横穴式石室などがあります。
竪穴式石室は、棺を納めた後、さらに側壁を積み上げ、大きな石などで蓋をして埋め戻す棺の保護施設です。
古墳時代初めの頃から、5世紀代まで用いられています。
森将軍塚古墳の竪穴式石室は、長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mの長大なもので、日本最大級の規模です。
床面積の幅が特に広いのが特徴です。
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前期古墳の竪穴式石室の比較
鳥取県 馬山4号古墳 長さ8.8m 面積 7.1m2
奈良県 メスリ山古墳 長さ8.3m 面積10.4m2
静岡県 松林山古墳 長さ8.0m 面積 9.2m2
長野県 森将軍塚古墳 長さ7.6m 面積15.6m2
京都府 椿井大塚山古墳 長さ6.9m 面積 7.6m2
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「後円墳に設けられた埋葬施設」。
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後円墳に設けられた埋葬施設
ひときわ高い後円部の中央には、長大な竪穴式石室が設けられ、森将軍塚古墳の主が埋葬されていました。
この竪穴式石室は、「墓壙(ぼこう)」と呼ばれる二重の石垣で囲まれた長さ15.0m、幅9.3m、深さ2.8mの大きな穴の中に築かれ、石室内には遺体を入れる木棺が納められていました。
墳頂から石室の底までは、約3.5mもあり、手厚く埋葬された様子が伺われます。
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しばらくすると、正面のワイドスクリーンに月が現れ、後円部の上空が明るくなった。

もう一度、左から。
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右から。
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正面から。
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左奥から、墓壙(ぼこう)と石室の間近に。
先ほど、墳頂で、石室の大きさがブロックで示された枠内に南国守さんに立って貰ったので、展示室での実物大の大きさがよく理解出来る(南国守さん、サンキューです)。
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1階から、石室内部の再現が見られるという。
1階へ降り、ガラス越しに見学する。
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こちらは、赤く塗られた石室内の再現。
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説明書きに目を通す。
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赤く塗られた石室
この石積みは、森将軍塚古墳の竪穴式石室の一部を築造当時の姿に再現したものです。
板状の石(石英閃緑岩)は古墳から3kmほど離れた倉科地籍の山から運ばれています。
石室の内部は、真っ赤に塗られていましたが、壁面の赤い顔料はベンガラ(酸化第二鉄)と呼ばれるものです。
棺の周りの床には、当地方にはなく、貴重品であった朱(赤色硫化水銀)がまかれていました。
-------------------------------------------

板状の石(石英閃緑岩)は「古墳から3kmほど離れた倉科地籍の山から運ばれた」とある。
先ほど、墳頂で、案内人さんが指差して教えてくれた採石場は東隣の山の崖であった。
倉科地籍の山は古墳から北東部に見える山である。
案内人さんは、採石の痕跡を教えてくれるために、例えば、ということで東隣の崖の採石跡を教えてくれたのであろう。

ベンガラ(酸化第二鉄)と朱(赤色硫化水銀)について。

昨年4月、金井東裏遺跡(群馬県渋川市)を探訪し、この遺跡から出土した「赤玉(あかだま)」なる遺物を群馬県埋蔵文化財調査センター発掘情報館で見学した。
そのときにベンキョーしたことは次の通りであった。
----------------------------------
・出土した赤玉の大きさは、直径5.5 ~ 8 ㎝、重さ350 ~ 400 gほどのものであった。
・赤玉は、赤色顔料の素材を団子状に丸めたものと考えられる。
・この種のものでは、九州地方で「朱玉(しゅだま)」と呼ぶ円形で扁平なものが知られている他は、全国的に見ても類例の少ないものである。
・赤い色は、古墳時代には神聖な意味があったようで、古墳の石室の壁のほか、土器や埴輪に塗られている。
-----------------------------------

4月半ば、九州・遠賀川流域古墳の特別公開日に合わせ、超一級の装飾古墳といわれる王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町)も含め、6基の古墳をめぐった。
特別公開された王塚古墳の石室の実物は写真で見るほどの色彩感はなかった。
しかし、隣接の王塚装飾古墳館で見た、実寸大で造られたレプリカの石室は、赤・黄・緑・黒・白の5色で描かれた装飾壁画が見事に再現されていた。
王塚古墳の石室はいわば極彩色であったが、古墳の石室で彩色されたものの多くは赤色である。

上述の説明書きに、森将軍塚古墳では「棺の周りの床に、当地方にはなく、貴重品であった朱(赤色硫化水銀)がまかれていた」とある。
これまで数々の古墳の石室の説明書きを見て来たが、棺の周りに朱(赤色硫化水銀)という事例は初めて知ることであった。

硫化水銀とは。
---------------------------------------
1.硫化水銀(Ⅰ)。
不安定で、常温の水溶液中でただちに分解し、硫化水銀(Ⅱ)と水銀とになる。
化学式Hg2S
2.硫化水銀(Ⅱ)。
黒色または赤色の固体。天然には辰砂(しんしゃ)として産出し、黒色のものは昇華により安定な赤色の粉末に変わる。
赤色のものは顔料に用い、朱(しゅ)とよぶ。化学式HgS
---------------------------------------

因みに、高松塚古墳(奈良県明日香村)の女人像の赤い上衣はベンガラで、帯の赤は朱(赤色硫化水銀,HgS)で彩色されており、2種類の赤色が使い分けられている。
王塚装飾古墳館では、「九州の古墳」と「高松塚古墳」の分類で各種彩色見本が展示されたいた。
その中で、高松塚古墳の項には、九州の古墳と同じ"赤色A"に加え、”赤B”の見本も展示されていた。

更に、説明書きに「貴重品であった朱(赤色硫化水銀)は当地にはなかった」とある。
然らば、何処から持ち込まれたのであろうか。
朱(赤色硫化水銀)の産地について、調べてみた。
----------------------------------------------
・赤色硫化水銀は、弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。
・古くは、伊勢国丹生(現在の三重県多気町)のほか、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川(奈良県/吉野川、和歌山県/紀の川)上流などが特産地として知られた。
・現在では、大分県、熊本県、奈良県、徳島県などで産する。
・因みに、赤色硫化水銀は「辰砂(しんしゃ)」とも呼ばれるが、これは中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことによるものである。
------------------------------------------------

伊勢国丹生、大和水銀鉱山、吉野川上流辺りから産出されたものが、大和王権を経由して、科野のクニにもたらされたのかもしれない。

先ほどは、墳頂に立ち、案内人さんの話しを聞きながら、森将軍塚古墳を見学し、その前後に隣接の古墳館で数々の展示を見学した。
現場と資料館、両方を同時に見学することが古墳めぐりの"王道"であることを改めて実感した。

この「森将軍塚(Ⅳ)」では、墓壙(ぼこう)と竪穴式石室を中心に綴ったが、数多くの展示物を見学しており、それらについては続編で、"資料編"としてそのあらましを綴ることとしたい。

フォト:2018年5月11日

(つづく)





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by ryujincho | 2018-05-14 23:35 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/森将軍塚古墳(下)』 sp-4

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市/森将軍塚古墳。

眼前に前方後円墳を眺めながら、案内人さんから説明を聞き、併せ、説明板にも目を通したのち、墳丘の裾を通り、墳頂へ。

前方部に立つ。
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先ほど、墳丘の裾を通った際、葺石を間近に見た。
説明板に「表面にはこの山から集めた石英斑岩を葺き並べています」、「約80,000個の石が並べられています」とあった。

案内人さんに尋ねてみた。
「葺石は千曲川から運んで来た丸い河原石かと思っていましたが、丸くはありませんね」。
「ここの葺石は山から採石したものです。あちらの山にその跡が見えます」。

指差された古墳の右(東)の山に目を遣る。
木々が生えた山肌に、一部、岩の露出したところが見える。
階段状になった採石跡が見て取れる。
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案内人さんは更に言葉を続けて、「千曲川のこの辺りでは砂利となっています。大きな丸い河原石が取れるのはもう少し上流の方になります」。

小海線沿いの千曲川の流れが目に浮かんだ。
佐久平ポタで眺めた千曲川を流れも目に浮かんだ。
小海から臼田あたりまでは川幅は狭く、流れが急であった。
臼田を過ぎて、太田部、中込あたりから流れは比較的穏やかになっていた記憶がある。
そうした流れと、岩が砕け、丸い河原石となり、砂利となり、砂となる関係が具体的に目に浮かんだ。

森将軍塚古墳の荒い葺石を見て、4月半ばに挙行した「遠賀川流域古墳めぐり」の中で探訪した沖出古墳(福岡県嘉麻市)の葺石は山の石であったことを思い出した。

次に西側を眺める。
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素晴らしい眺望。
善光寺平、そして、遥か彼方に北アルプスが白い屏風を広げたが如くに。
ズームアップ!
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景色はあとでゆるりと眺めるとして、古墳に集中!

前方部。
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---------------------------------------
前方部
前方部は、古墳の主が眠る後円部に至る通路、あるいは、儀式の場所ではないかと考えられています。
森将軍塚古墳の前方部は、後円部と同様に千曲川から運びあげられた玉砂利が敷き詰められて、埴輪が立て並べられた広いものです。
後には、竪穴式石室2基をはじめ、組合せ式箱形石棺や埴輪棺などの埋葬施設が設けられています。
----------------------------------------

「千曲川から運びあげられた玉砂利が敷き詰められて」とある。
葺石は山から採取したものだが、玉砂利は千曲川から運ばれたのである。

前方部は儀式の場所という考えが通例である。
後に、前方部に埋葬施設が設けられたとのことだが、前方後円墳の前方部に埋葬施設が設けられた事例を初めて知った。

後に、埴輪を棺にしたり、前方部に埋葬施設をつくったりと、これはシナノ独特のことなのだろうか...。

続いて、後円部に立つ。
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後円部。
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-------------------------------------
後円部
一段と高い後円部には、長大な竪穴式石室が設けられ、森将軍塚古墳の主が埋葬されていました。
石室は特に大形で、その床面積は日本最大と推測されています。
副葬品には、鏡や剣・刀、勾玉・管玉などがみつかっています。
三角縁神獣鏡は、大和王権と特に関係の深かった有力者に限って持ったといわれています。
主はどんな人物だったのでしょう。
-------------------------------------

二段墓壙。
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------------------------------------
二段墓壙
石室は、二重の石垣で囲まれた墓壙の中央に設けられています。
外側(一段目)の長さ:13.8m、幅:8.8m
------------------------------------

竪穴式石室。
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------------------------------------
竪穴式石室
石英閃縁岩の板状の石を小口積みにして築かれています。
長さ:7.6m
幅: 2.0m
高さ:2.3m
墳頂から石室床面までの深さ:3.4m
------------------------------------

副葬品。
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------------------------------------
副葬品
青銅製の”三角縁神獣鏡”は、長野県下では唯一のものです。
翡翠製の勾玉・碧玉製の管玉
------------------------------------


説明板に「石室の床面積は日本最大と推測されている」とある。
後円部にブロックを並べて、石室の大きさ(長さ:7.6m x 幅:2.0m)が示されている。

「南国守さん、すみませんが、人と比べると石室の大きさが分かり易いので、そこに立って貰えませんか。寝っ転がって貰っても結構なんですけど、それは縁起が悪いんで、立つだけで結構です」。
「これでいいかな」と南国守さんと立ってくれた。
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幅2mは、これで如実に分かる。
長さ7.6mは遠近の都合で写真では分かり難いが、ブロックの数とその間隔、南国守さんの靴の大きさなどがその目安となろう。


科野のクニ。
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(説明板/上段)
-----------------------------------------
科野のクニ
千曲川両岸の自然堤防と後背湿地には、稲作が始まる弥生時代になると、たくさんのムラができ、農耕が営まれてきました。
やがて、この地域を中心に政治的なまとまりができてきました。
”科野のクニ”と呼ばれているものです。
-----------------------------------------

(説明板/下段)
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-----------------------------------------
自然堤防と後背湿地
善光寺平を流れる千曲川は、過去に洪水を繰り返したために、その両岸に大量の土砂が堆積して、堤防状の微高地を形づくっています。
そのために、盆地を取り囲む山地から流れ出てくる沢山川や聖川は、出口を阻まれ、自然堤防の背後に広大な湿地を形成しました。
-----------------------------------------

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-----------------------------------------
左岸
1 篠ノ井・塩崎遺跡群 集落遺跡 弥生時代から平安時代(塩先・松節遺跡)
2 石川条理水田址 埋没水田遺跡 弥生時代から近世
3 姫塚古墳 前方後円墳 全長32m 4世紀代の築造
4 川柳(せんりゅう)将軍塚古墳 前方後円墳 全長93m 4世紀後半の築造
5 中郷(なかごう)古墳 前方後円墳 全長53m 5世紀代の築造
6 越(こし)将軍塚古墳 円墳 直径33m 5世紀中頃の築造
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------------------------------------------
右岸
1 屋代遺跡群 集落遺跡 弥生時代から平安時代(城ノ内・生仁遺跡他)
2 更埴条理水田址 埋没水田遺跡 弥生時代から近世
3 土口(どぐち)将軍塚古墳 前方後円墳 全長67m 5世紀中頃の築造
4 倉科将軍塚古墳 前方後円墳 全長82m 5世紀前半の築造
5 有明山将軍塚古墳 前方後円墳 全長36m 4世紀末から5世紀初めの築造
6 屋代城跡 山城 屋代氏築城 15世紀の築造
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図/左/南西から西にかけて。
森将軍塚古墳の南に、有明山将軍塚古墳。
森将軍塚古墳の南西に、屋代城跡。
対岸(千曲川左岸)に、越(こし)将軍塚古墳。
西の彼方に、北アルプス。
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図/央/西。
西の彼方に、北アルプス。
対岸(千曲川左岸)に、篠ノ井・塩崎遺跡群、聖川を挟んで、石川条理水田址。
山裾に、 越(こし)将軍塚古墳、中郷(なかごう)古墳、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳。
手前(千曲川右岸)に、城ノ内遺跡、更埴条理水田址。 
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図/右/北西から北、更に東にかけて。
彼方に、戸隠山、飯綱山。
対岸(千曲川左岸)、千曲川に流れ込む聖川、その北に石川条理水田址。
手前(千曲川右岸)、城ノ内遺跡、更埴条理水田址、生仁遺跡、土口将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳。
倉科将軍塚古墳は沢山川の北側後背地に位置している。

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眺望図での景色はここまでとし、本物の眺めを。

善光寺平、そして、遥か彼方に北アルプスが白い屏風を広げたが如くに。
森将軍塚古墳の被葬者も、生前、この景色を眺めたであろう。
この眺望が、この尾根に前方後円墳を築造しようと決心させた最大の要素であろう。
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アップで。
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超アップで、南から北へ。
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この風景を眺めながら、山男の南国守さんから白馬三山の話が出た。
この景色が白馬三山だと思い込んでいたが、このブログを綴りながらグーグルマップで確認したところ、白馬三山はもう少し北に位置していた。
因みに、白馬三山とは、白馬岳(2,932m)、杓子岳(2,812m)、白馬鑓ヶ岳(2,903m)。
山に疎い小生、この機会に白馬三山をベンキョーしたのであった。


ここで、案内人さんのことについて少し触れておきたい。
案内人さんは、何でもよくご存知である。
我らの質問に対しても、即答である。
有難いことである。
案内の仕事を14年に亘って務めているという。
冬場はスキーの指導員もされているという。
スキーの指導員、これは、信州の盟友、大給守殿と同じである。
前職は某所で先生をされていたという。
これは「前職は先生ではなかったですか」との我らの質問に対する答えで、当たり!であった。
案内の人には結構、元・学校の先生が多いのである。

下界の古墳館で案内人さんと出会ったときにまで話を戻そう。
我らは、屋代駅に着き、駅前で昼餉を摂り、千曲市森将軍塚古墳館に到着。
受付で案内の人をお願いした。
しばらくすると案内人さんが現れた。
「姥捨へ行っておりまして、今、戻って来ました。姥捨にいい蕎麦やがあるもので...」。
更に言葉を続けて、受付のお嬢さんに「サイクリングロードのマップがあったでしょう。それをこの方々に」と。
我らの頭にヘルメット、背にザックの姿を見ての気遣いであった。
「サイクリングのマップはないんです」と受付のお嬢さん。
「他所で貰ったサイクリングマップが手元にありますので、それを差し上げましょう」と案内人さん。
「それは助かります。サイクリング用のマップがあれば、オニカナ(鬼に金棒)です」と我ら。
そんな会話を交わしたあと、案内人さんと我らは見学バスに乗車し、尾根の森将軍塚古墳へ向かったのであった。

案内人さんから数々の説明があった。
その内容は、上述の通り、説明板併用で記した。

説明板にはない話を幾つか、ここで綴っておきたい。

「この辺りの古墳には、将軍塚という名が付されていますが、何か理由があるのでしょうか?」。
「5~6000人の兵士を統率する人を中国では将軍というそうです。被葬者はそれくらの権力を有していたであろうということから、『将軍塚』と名付けらたとのことです。森将軍塚の『森』は、以前、この辺りは埴科郡森村であったことから『森』と名付けられました」。

北西から北、東を眺める。
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「倉科将軍塚古墳は、右手の山の尾根にあります。木々に覆われていて見えませんが、あの辺りです。倉科氏の鷲尾城跡があり、古墳は城郭の一部に使われていました。その向こうの北の山に土口将軍塚古墳があります」。

指で差し示された辺りに目を遣る。
写真、右手前の山とその奥の山が説明された場所である。
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これで、埴科古墳群の4基の前方後円墳が、北から南に、土口将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳、森将軍塚古墳、有明山将軍塚古墳の順で位置していることが頭の中に入った。
因みに、年代順に並べると、4世紀末/森将軍塚古墳、4世紀末~5世紀初め/有明山将軍塚古墳、5世紀前半/倉科将軍塚古墳、5世紀中頃/土口将軍塚古墳となる。
眺望図と実際に景色を眺めながら説明を聞くと頭の中に入り易い。

「南から北へ流れていた千曲川は、これらの張り出した山の辺りから東へ流れを変えます」。
その辺りをズームアップ。
写真、中央に千曲川の流れが見える。
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「右側の山の向こうに松代があります。佐久間象山は大砲の試し撃ちをするために、大砲を山を越えてこちら側に運んで来ました。平地を通って来ればよいと思うでしょうが、川あり、湿地ありで、山越えの方が楽だったようです」。

「大砲を据えた場所はあの辺りです。緑の土手が見えている辺りです」。
右手(東)、山裾の手前の平地に目を遣る。
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「試射された弾は、今、我々の目の前に見えている畑の上を飛び、左手の神社(写真はなし)の辺りに落ちたとのことです。大砲の弾は貴重ですから、回収に行ったところ、そこは天領だったので返して貰えなかったとのことです」。

本ブログを綴るに際し、グーグルマップを参照。
写真中央に写っている建物とテニスコートは東部体育館、その北に「象山砲術試射地碑」(千曲市生萱)の表示を見つけた。
着弾場所の神社の名は失念したが、或る資料に「幕府領である満照寺に着弾」とあった。
グーグルマップで満照寺を確認したところ、屋代駅の直ぐ東にあり、その直ぐ近くに東山神社もあり、案内人さんが言った神社はこの東山神社に違いない。

佐久間象山といえば、都内をポタリングしていたとき、中央区で「佐久間象山塾跡」なる説明板があったことを思い出す。
また、三浦半島をポタリングしていたとき、浦賀で「吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)」なる石柱を見たことも思い出す。
ばらばらではあるが、『佐久間象山ゆかりの地を訪ねて』に、またひとつ、ゆかりの地が増えたこととなった。

話が古墳から反れてしまった。
反れついでに、もう少し。

姥捨について。
案内人さんは「姥捨の蕎麦やに行って来た」と言っていた。
5年前の、2013年の秋、「乗鞍岳下りま専科」を、ドラポタの盟友、大給守さん、南国守さん、ハリポタの盟友、御典医さんと六々守さんと共に挙行。
そのあと、松本で大給守さん、御典医さん、六々守さんは帰館。
南国守さんと小生は、更にポタリングを続け、松本から長野へ輪行する際、JR篠ノ井線に乗った。
途中、姥捨駅に停車。
そのときのことを兄弟ブログ『上総守が行く!』に綴ったことがあり、マイ・ブログを紐解いてみた。
2013年10月16日付け『天空ポタ/究極の下りま専科』 第27話<松本~長野、篠ノ井線輪行の巻> で縷々綴っていた。

そこに掲載されている写真を見て驚いた。
善光寺平とその向こうに屋代地区とその周辺が写っている。
千曲川右岸の山並みは、今、我らが森将軍塚古墳から眺めているのと同じである。
グーグルマップで確認すると、姥捨駅と森将軍塚は、善光寺平、千曲川を挟んで、南西と北東の位置関係にある。
まさか5年後に善光寺平の反対側にいよう、しかも森将軍塚古墳のある尾根にいようとは、そのとき、露ほどにも思わず、撮った写真であったのだが...。

折角なので、マイ・ブログを抜粋して、ここに転載しておこう。

=====quote=========================
松本駅を発つ。
しばらく走ると、電車は線路上でストップ。
随分と長く止まった後、漸く、動き出した。
「線路に置き石がありましたので、点検しておりました」との車内アナウンスあり。
物騒な話である。
(中略)
「姥捨駅」に到着。
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おお、この地が彼の有名な深沢七郎の「楢山節考」にもなった姨捨伝説の地かと思うと同時に、「右手に、風光明媚な善光寺平がご覧になれます...」の車内アナウンスが流れる。

車窓から善光寺平を眺める。
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ホームの椅子が向こう側を向いている。
ここに座って、ホームからの善光寺平の眺めをゆっくり楽しんでくださいという駅の心遣いがうかがえる。

「上総さん、こっち側のホームに投句箱がありますよ」との南国守殿の声。
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五七五を捻くり回し、駄句を乱発している上総を思っての南国守殿の声掛けであった。
ということで、投句箱を撮った訳だが、こうしてブログを編集していたところ、投句箱の横にある碑が気になる存在となった。

フォトを拡大してみると、碑に刻まれた文字は不鮮明ながら「月の友」の文字が読み取れた。
芭蕉の句「おもかげや 姨ひとりなく 月の友」の句碑であった。
芭蕉は、元禄元年(1688年)、名古屋から木曽路を経て、この地を訪れ、古人に倣い、更科姨捨山で月見をして江戸に戻った。
そのときの紀行文が『更科紀行』である。
句碑に刻まれた句はこのときに詠んだものなのであろう。

「月の姥捨 さらしなの里へ ようこそ/姥捨駅愛好会」。
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このホームのフェンスに掲げられた看板から姥捨駅とその周辺の素晴らしさが伝わってくる。
この看板に描かれているイラストは「田毎の月」である。
この辺りには名所旧跡がいっぱいある。
いつの日か、中秋の名月の頃に、この地をゆるりと巡ってみたいものである。

全国でも珍しいスイッチバックの後、長野方面へ走り出した。
車窓を流れ行く、善光寺平の風景を眺める。
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約30分遅れで長野駅に到着。

フォト:2013年9月9日
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翌2014年の秋、「高峰高原下りま専科」を挙行したあと、佐久平をポタリングした。
佐久平を走ったことでもあり、次は善光寺平も走ってみたいと思うのであった。
「田毎の月」も含めて...。

話を森将軍塚古墳に戻そう。

条理制にも興味がある。
「先ほど見た眺望図の中に、更埴条理水田址とありましたが、眼下に見えるのがそれでしょうか。南の方から住宅が迫って来ていますが、今、見えているのは保存地域なのでしょうか」。
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「洪水を繰り返しているので、条理制の跡は地下数メートルのところにあります。今、畑のところは保存地域ではなく、南の方から宅地化が進みつつあります」。

写真、手前のクリーム色の建物は千曲市森将軍塚古墳館、その前を斜めに走っているのが県道392号線、右手、南北に走っているのが上越自動車道。
遥か彼方に、戸隠山(左、1,904m)、飯綱山(右、1,917m)・・・眺望図、参照。
その間に、白く冠雪した山が垣間見えるが、さて、その山の名は?

盛りだくさんな墳丘での見学であった。
そろそろ、時間。
バス停へ向かう。

「頂戴したサイクリング・マップ、参考にさせていだきます。これから戸倉上山田温泉へ、明日は戸倉上山田温泉から上田方面へ走ります。
国道18号線は走りたくありません。千曲川左岸のサイクリングロードは、戸倉上山田温泉、上田まで通じていますか?」。
「ところどころで、一般道と一緒になったりしますが、通じています。古墳館の前の道を西へ、西へ行き、栗佐橋を渡ります。ここから見えているあの橋です。それを渡ると千曲川左岸です」。
「森将軍塚古墳を堪能しました。周辺のこともいろいろベンキョーになりました。有難うございました」。

次のお客さんをここで待つという案内人さんと別れ、ミニバン見学バスで下界へ下った。

古墳見学前に、古墳館で軽くヨシューした。
今度は、古墳見学後の、古墳館でのフクシューである。

フォト:2018年5月11日

(つづく)






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by ryujincho | 2018-05-14 23:34 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/森将軍塚古墳(中)』 sp-3

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市/森将軍塚古墳。

下界の資料館「千曲市森将軍塚古墳館」発の見学バスに乗車。
九十九折を登り、有明山の尾根に築造された古墳近くのバス停に到着。

「何時頃、迎えに参りましょうか」と運転手さん。
事前調べのときに古墳館に電話で聞いた通り、送迎は随時なのである。

「30分後」と南国守さん。
「説明を聞きながら、古墳を見学し、景色も眺める。そして、質問もいろいろしたくなる。となると、30分以上は掛かるでしょう」と武衛さんと小生。
案内人さんに「我々は時間は十分にあります。目一杯、説明をいただいたとして、どれくらい必要でしょうか」と尋ねた
「そうですね、40分から50分くらいは必要です」。
「では、運転手さん、迎えは1時間後でお願いします」。

「史跡 森将軍塚古墳」。
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有明山の尾根に築造された前方後円墳。
遂にその姿を間近に見た。
前方部に見学中の小学生の子供たちの姿が見える。
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案内人さんの話を聞く。
古墳を見比べながら。
そして、説明板も見比べながら。
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森将軍塚古墳は、全面発掘調査の結果に基づいて、古墳築造時の姿に復原整備を行いました。
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前方後円墳に代表される古墳は、4世紀に入る頃、近畿地方の有力者たち(大和王権)によって築かれ始めたと考えられています。
古墳の形や大きさは、大和王権と各地の有力者たちとの関係の深さと力の大きさなどによって決まるといわれています。
長野県下で最初の、そして、最大の前方後円墳である森将軍塚古墳は、”科野のクニ”の最初の王者の墓といってもよいでしょう。
古墳は、主がおさめた善光寺平を一望できる、この狭い尾根の上に築かれたので、折れ曲がった形になったと考えられています。
また、尾根を削ったり、土を盛り、形を整え、表面にはこの山から集めた石英斑岩を葺き並べています。
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「狭い尾根に築かれたので、折れ曲がった形」。
前方後円墳は、通常、シンメトリー。
だが、常識に反した、この「狭い尾根に築かれたので、折れ曲がった形」が、是非、森将軍塚古墳を訪ねてみたいと思わせたポイントであったのだ。

俯瞰図。
前方後円墳とその周辺の古墳(倍塚もしくは後の時代の墓ともいわれるものも一部ある)が図示されている。
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図示されいる周辺古墳を読み取ると次の通りである。
・前方部の下(南側)に、4号墓(これは後の時代の墓ともいわれている)と12号墳(これは倍塚ともいわれている)がある。
・後円部の左(西側)に、3号墳、4号墳、10号墳、9号墳、5号墳がある。
・後円部の上(北側)に、8号墳、7号墳、14号墳、13号墳、6号墳がある。
都合11基の周辺古墳(倍塚と推定されるものも含む)と1基の墓(後の時代の墓ともいわれている)が位置している。


水平図、断面図。
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平面図
墳丘長:約100m、前方部幅:約30m、後円部幅:約43m
葺石:約80,000個の石が並べられています。
貼石帯:石を敷き詰め、古墳の形が整えられています。
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断面図
前方部高さ:約4m、前方部/後円部境界高さ:約3m、後円部高さ:約10m
丘尾切断部:古墳は尾根を断ち切り、造られています。
埴輪:約200個の埴輪が並べられています。
竪穴式石室:主の棺が納められています。
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「丘尾切断部」は前方部の裾と尾根の地面の間の箇所に矢印で示されている。
尾根の形状を利用しながら、前方後円墳の形に掘削し、築造していったということであろう。

古墳の種類と大きさ。
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古墳の種類
前方後円墳 円墳
前方後方墳、方墳
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古墳の大きさ
仁徳天皇陵/墳丘部長さ 486m
森将軍塚古墳/墳丘部長さ 100m
クフ王のピラミッド/底辺 230m
始皇陵/底辺 350m
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仁徳天皇陵、クフ王のピラミッド、始皇陵は、いずれも平地に築造されているが、森将軍塚古墳は山の尾根に築造されている。
古墳の大きさの比較もさることながら、この尾根に築造されているということが他の古墳と大いに異なるところであり、その築造場所に感心するのである。

古墳の築造。
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古墳の築造
すべて、人の力で築かれました。
(1日約100人で約550日)
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発掘調査。
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発掘調査
形や大きさなどを確かめる調査がおこなわれました。
(1日約20人で約500日)
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復原工事。
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復原工事
クレーンやトラックなどの機械が使われました。
(1日約10人で約300日)
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「古墳の築造...(1日約100人で約550日)」、「発掘調査...(1日約20人で約500日)」、「復原工事...(1日約10人で約300日)」は、なかなか面白い説明である。
古墳築造の1日100人と復原工事の1日10人は、古墳時代と現代の人口から考えると、古墳築造時の人集めだけでも大変なことであったことが推し測れる。

今一度、説明板の位置から古墳を眺める。
先ほどまで墳頂部にいた小学生の子供たちの姿は消えていた。
築造を終え、作業に携わっていた工人たちがいなくなったような感じである。
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墳丘へと向かう。
先頭、案内人さん、続いて、武衛さん...。
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葺石をアップで。
説明板に「表面にはこの山から集めた石英斑岩を葺き並べています」、「約80,000個の石が並べられています」とあった。
後刻、葺石について、案内人さんから話を聞いた。
それについては、続編にて。
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くびれ部近くで立ち止まって、何か説明を受けている。
急ぎ、そちらへ。
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説明を受けていたのは、これ。
4号埴輪棺。
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説明を聞きながら、説明板にも目を通す。
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埴輪
森将軍塚古墳には、壷の形、壷をのせる台から変化した円筒形、壷と台を組み合わせた朝顔形、家形などの儀礼的なものを型どった埴輪がたくさん並べられていました。
後に、こうした埴輪を棺に再利用した埴輪棺が造られ、4号埴輪棺の付近を中心に12基みつかっています。
組合せ式箱形石棺などと共に5世紀代に造られた、小さなお墓のひとつです。

図、左上/埴輪棺の位置(右側のくびれ部辺り)
図、左下/埴輪棺
図、右/上段:象形埴輪、朝顔形埴輪、壷形埴輪、
図、右/下段:円筒埴輪、土をこねる人、埴輪の形に整形する人
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4月半ば、弥生時代の遺跡、吉野ヶ里遺跡を訪ねた。
その際、甕棺墓群を見学した。
甕棺と埴輪棺の比較学なるものがあるのだろうか?
調べてみたい。

前方部から後円部の流れるような線を眺める。
前方部から後円部へ、ぐぐっと一気に立ち上がっている姿が見事である。
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墳頂へと進む。

フォト:2018年5月11日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-05-14 23:33 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)