龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 01月 25日

『久しぶりの、ジョサイア・コンドルゆかりの地』

1月24日、晴れ。
甲武信さん、品濃さん、小生の定例「三人の会」。
今回は、ジョサイア・コンドル設計の上野池之端/旧岩崎邸(都立旧岩崎庭園)を見学し、旧岩崎邸北側の坂道、無縁坂を上り、東大構内のジョサイア・コンドル像を眺め、そのあと、日暮里の蕎麦や「川むら」で一献という趣向。

旧岩崎邸。
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前回、ここを訪ねたのは2009年8月8日、夏、真っ盛りの頃であった。
今回は、数日前の降雪が残る雪景色である。
そして、前回と大きく異なるのは、今回は、ガイドさん付きということである。
説明書きを読むよりも、ガイドさんの話を聞きながらの見学は、より一層、ベンキョーになる。

ガイドさんの話の中でベンキョーになった事例を、ひとつ、ふたつ、記しておこう。
旧岩崎邸の敷地は、江戸時代、越後高田藩榊原家江戸上屋敷であった。
隣の東京大学本郷キャンパスは、江戸時代、加賀藩前田家江戸上屋敷であったことはよく知られているが、榊原家の屋敷跡というのは知らなかった。
越後高田藩榊原家は譜代大名加賀藩前田家は外様大名、譜代が外様を見張るためにこうした屋敷配置にしたというのがガイドさんの話。

古地図を広げて、そう説明するガイドさん。
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ガイドさんの話をもうひとつ。
正面玄関のステンドグラスと前庭の大銀杏の話題あり。
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江戸時代、越後高田藩榊原家屋敷時代からこの地にあったと思われる大銀杏は、5月には新緑を、12月には黄葉を、正面玄関のステンドグラスに映し出すという。
流石、ジョサイア・コンドルである。

ガイドさんの案内を受けながら、邸内を見学。
詳しく説明があったが、ここでは割愛。
邸内で数多の写真を撮ったが、雪景色をメインに数葉だけ、ここに掲載しておこう。

南側1階。
窓越しに雪の庭園を眺める。
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1階バルコニー。
列柱はトスカナ式。
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大階段。
邸内細部にジャコビアン様式の意匠を見ることが出来る。
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2階バルコニー。
列柱はイオニア式。
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旧岩崎邸の見学を終え、次は東大本郷キャンパス内に建つジョサイア・コンドル像の見学である。

東大本郷キャンパスは、旧岩崎邸の北側の「無縁坂」を上って行けば、直ぐだ。
ところが、無縁坂は雪が固まり、鏡面仕上げ風となっている。
滑って転んで救急車では、何にもならない。
東大本郷行きは諦め、日暮里の蕎麦や「川むら」へ直行。

無縁坂は登らなかったが、この坂について少しだけ触れておこう。

この無縁坂は、森鴎外の『雁』に登場する。
「...そのころから無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石との間から、歯朶や杉菜が覗いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅られることがなかった...」。

岩崎邸の塀は『雁』では土塀となっているが、現在は煉瓦塀である。
煉瓦色が坂の景色をつくっており、森鴎外が眺めた頃の景色とは大いに異なっているのであろう。

森鴎外の『雁』の話を甲武信さんと品濃さんにしたところ、品濃さんから「『無縁坂』といえば、さだまさしですね」との話が出た。
「あれば、長崎のことじゃないですかね」と言ったが、のちほど、調べたところ、さだまさしの『無縁坂』は「東京都台東区池之端1丁目から文京区湯島4丁目へ登る坂、無縁坂を舞台に、息子の年老いた母に対する想いを歌った楽曲である」とあった。
さだまさしの出身地、坂の町、長崎とごっちゃになり、あの無縁坂は長崎の坂道と思い込んでいたようだ。
因みに、さだまさしの、あのフニャフニャとした歌い方は余り好きではないが、あの歌い方がさだまさし調であることもまた事実である。

無縁坂に触れたことでもあり、東大構内のジョサイア・コンドル像についても少々触れておきたい。
この像を初めて訪ねたのは、前述の通り、2009年の夏であった。
いろんな像を眺めるとき、その作者のことがいつも気になるのだが、このときはジョサイア・コンドルの風貌容姿に気を取られ、作者のことまでは思いが及ばなかった。
そのまま月日は経ったが、数ヶ月前、テレビ東京「開運なんでも鑑定団」で新開竹太郎の「牛臥置物」なるものが出品された。
この番組のよいところは、出品物の真贋や評価額のみならず、作者のプロフィールについて簡潔明瞭に解説がなされることである。
新開竹太郎の作品のひとつとして、何と、東大構内のジョサイア・コンドル像が紹介されたのであった。
次回、ジョサイア・コンドル像を訪ねたときには、像に刻まれた「新開竹太郎」の名を探してみたいと思っている。

日暮里の蕎麦や「川むら」にて、東近江の銘酒「喜楽長」を頂戴しながら、趣味の話で大いに盛り上がった。

フォト:2018年1月24日


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by ryujincho | 2018-01-25 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 01月 25日

『ドラポタ佐久平支部便り/史上最強寒波、襲来中』

連日、信州の盟友、大給守さんは、軽トラ4WDで立科のスキー場通い。
重たいランクルより軽トラ4WDの方が下り坂では惰性が少なく、運転がし易く、、軽トラ4WDを愛用しているとのことだ。

1月24日、「山は今朝も吹雪、こんな道を毎日登って、下っています」とのメッセージと共にこんな写真が送られて来た。
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1月25日、「晴天なれど低温、右側の山は蓼科山、今朝の気温はマイナス20℃、標高1500mでは良く冷えます」とのメッセージと共にこんな写真が送られて来た。
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次回は、濡れタオルが凍って棒状になっている様子とか、ハンガーに掛かった濡れTシャツが凍った様子の写真を送って貰うことにしよう。
いやいや、そんなことよりも、遭難だけはなされぬよう、元気な姿で雪を楽しんで貰えればと思っている。

フォト:2018年1月24日、25日、大給守殿提供

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by ryujincho | 2018-01-25 23:31 | ドラポタ佐久平支部便り | Comments(0)
2018年 01月 23日

『雪景色』

1月23日(月曜)、晴れ。
前日は南岸低気圧が通過。
東京近郊では4年ぶりの大雪と。
朝6時半、日課のラジオ体操。
<天守>の窓からの景色を眺めながら。

超広角。
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標準。
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望遠。
里山。
朝霧と相まって雲海に浮かぶ島の如し。
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家々。
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森、そして、ちょいと都会風も。
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フォト:2018年1月23日 6:42~6:45


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by ryujincho | 2018-01-23 19:01 | この一枚 | Comments(0)
2018年 01月 21日

『モズ』

1月21日(日曜)、晴れ。
手賀沼に出動。
北岸を走っていると、ほぼ同じ場所でモズを見掛ける。
ほぼ同じ場所ということは、縄張りの見回りをしているのかもしれない。

梢にとまり、周囲を見渡すモズ。
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フォト:2018年1月21日


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by ryujincho | 2018-01-21 23:34 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2018年 01月 21日

『オオジュリン』

1月21日(日曜)、晴れ。
手賀沼に出動。

手賀沼にオオジュリンの季節がやって来た。
今シーズン、初見のオオジュリン。
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フォト:2018年1月21日



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by ryujincho | 2018-01-21 23:33 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2018年 01月 21日

『カワウとコブハクチョウ』

1月21日(日曜)、晴れ。
手賀沼に出動。

カワウのそばを通過してゆくコブハクチョウ。
なんで、わざわざ、俺さまの近くを通り過ぎるんだと言いたげに
コブハクチョウの方へ目を遣るカワウ。
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フォト:2018年1月21日

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by ryujincho | 2018-01-21 23:32 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2018年 01月 21日

『シジュウカラ』

1月21日(日曜)、晴れ。
手賀沼に出動。

地鳴きするシジュウカラ。
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フォト:2018年1月21日
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by ryujincho | 2018-01-21 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2018年 01月 18日

『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/弘法寺』 df-5

1月16日(火曜)、晴れ。
ドラポタ走り初め。
国府台、東京医科歯科大学 市川キャンパス内にある法皇塚古墳を見学したのち、次の訪問先、弘法寺古墳を目指し、松戸街道(県道1号線)を南へ走る。

この辺りは学校や病院が多い。
これはこの辺りが、以前、軍用地であったことと無関係ではないだろう。
軍用地が、学校や病院の用地になったのではないかと思われるので
一昨年の5月、「下総国/国府跡・国分寺跡・総社めぐり」で、この付近にある、国府跡の推定地とされる総社跡(六所神社跡)を訪ねたことがあり、総社跡(六所神社跡)の説明書きに「六所神社は明治9年に須和田へ移転し、軍用地となったあとも『六所の森』としてのこっていました」と書かれており、この辺りが軍用地化されたことが分かる。
また、先刻、訪ねた法皇塚古墳の説明書きには「古墳の墳裾は軍用地整備のためか、一部が石垣となったり、削り取られたりしていて」との記述があり、同じく、この辺りが軍用地化されれたことが分かる。

松戸街道(県道1号線)沿いには、西側に、東京医科歯科大学市川キャンパス、県立国府台高校、和洋国府台女子高、和洋女子大学が、東側には、国立国際医療研究センター国府台病院、市川市国府台スポーツセンター、千葉商科大学などがある。

千葉商科大学を過ぎた辺りから下り坂となる。
この坂道を一気に下ってしまうと、真間川沿いから「真間の継ぎ橋」がある参道を通り、石段を上り、弘法寺に至るということになり、折角、確保している高度を失うこととなるので、坂道の途中で左折し、千葉商科大学の南側の道を東へ進み、弘法寺に至る。

弘法寺の境内に入る。
さて、弘法寺古墳は何処にあるのだろうか?
散策中の地元の人と思しき男性に尋ねてみた。
「あちらに赤門、その左に竹垣が見えるでしょう。その裏に古墳らしきものがあります」。

指差された先は、先ほど、北側から境内に入り、南に進み、左手に本殿、右手に赤門、その奥に真間道場なるものがあった場所である。
即ち、境内の西側である。
「赤門の先には急な下り坂がありましたが、坂道を下るのですか」。
「坂道は下りません。その手前です」。

教えられた通りに進む。
あった!

弘法寺古墳。
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弘法寺古墳
全長43メートルの前方後円墳で、築造年代は6世紀後半から7世紀前半と推定されます。
台地の崩壊で、現在は半壊状態となっています。
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道の奥へ進み、古墳を眺める。
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古墳の先端をアップで。
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「弘法寺古墳」の標識が立っていた方よりもこちら側の方が高さが高いように思える。
しかし、半壊状態でもある。
どちらが前方部で、どちらが後円部なのかは、よく分からない。
古墳は竹垣で囲まれており、反対側には行けないが、反対側は崖のようで、台地の縁に築造されていると思われる。
古墳は南東/北西方向に向いて築造されていると思われる。

帰宅後、もう少し、詳しいことが分からないかとネット検索してみた。

<検索その1>
全長43mの前方後円墳。
分かっているのはこれだけで、以前測量のみが行われ、それ以外の調査は一切行われていない。
国府台台地の一番外れに位置している。
墳丘に登って確認したところ、既に前方部の一部と後円部の凡そ半分は既に崩落しており、一見しては前方後円墳とは見えない形状になってしまっている。

<検索その2>
方位N65度W、墳長43m、後円径推定20m(現存8m)・高3m、前方幅15m・高3m、後前高差±0m

これらの記事によれば、以前は墳丘に上れたときもあったようだ。
墳長43m、前方幅15m、後円径20m、高さ3mという規模は、今の状態からは想像できないほどに崩れてしまっている。

弘法寺古墳を見学したのち、急坂を下り、弘法寺の参道へ出る。
一昨年の5月、「下総国/国府跡・国分寺跡・国分尼寺・総社めぐり」の際に、参道にある真間の継ぎ橋に立ち寄ったことがある。
そのときは、時間の都合上、橋から弘法寺の長い石段と山門を遠目に眺めるだけで、参拝は次の機会としたことがあった。

今回は坂を下ってしまったが、石段近くに jitensha を止め、石段を上り、正規のルート(?)で、弘法寺を参ることにした。

石段下に、高校の野球部員が集まっていた。
今から、石段を上り下りするトレーニングを始めるところであった。
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結構、きつそうな石段である。
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我らも石段を上り始める。
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グリーンのウィンドブレーカーを着た男性は、先ほど、境内で弘法寺古墳の場所を教えて貰った人である。
石段と境内を往復しながら、体力づくりをするのを日課としているようであった。
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石段の途中で一服。
万葉集巻十四の雑歌に目を通す。
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足の音せず行かむ駒もが葛飾の
真間の継橋やまず通はむ
(作者不詳 巻十四 雑歌)

真間の継ぎ橋は、弘法寺の山門から国道14号線に至る大門通りに掛けられた橋で、現在は道の両側に赤く塗ったコンクリート造りの欄干が取り付けられています。
この大門通りは、上総国府から海岸沿いに市川砂洲を通って下総国府(国府台)に入るメインストリートでした。
しかし、国府への入り口には真間の入江が開口し、そこには幾つかの洲が出来ていたものと思われます。
その洲から洲に掛けられた橋だとすると「継橋」とは複数の橋であったかも知れません。
位置としては現在とそんなに違った場所ではないと思われます。
既に元禄9年(1696)に鈴木長頼が弘法寺の日貞上人と相談して、忘れ去られようとしている万葉の古跡に碑を立てました。
現在の継橋の袂にその碑が残されています。
「足音をせずに行く駒がほしい。葛飾の真間の継橋をいつも女のもとに通いたい」と訳されています。
平成2年3月
市川市教育委員会
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この説明書きには、前回、2016年の5月に「真間の継ぎ橋」を訪ねたときにベンキョーしたこと、即ち、下総国府への入り口には真間の入江が開口した地形であったことが織り込まれている。
更に、今回、弘法寺古墳を訪ねたが、古墳時代にまで遡れば、この古墳は海に面した崖の縁に築造されたのだなということも想像出来るのであった。

そして、この説明書きには、同年9月に上総国府跡(国府跡は判明しておらず、推定地4ヶ所)を訪ねたときにベンキョーしたことも織り込まれている。
即ち、平安時代の作、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が著した『更級日記』は父親が上総国での任官を終え、京へ向け出立するときのことから書き始められており、上総国から下総国に入るときに、入り江の洲に架けられた「真間の継ぎ橋」を渡ったであろうと当時のブログに綴ったこともあった。

話が脱線した。
弘法寺のことに話を戻そう。

石段を上り切る。
仁王門。
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扁額コレクション。
左右対称の山号である。
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仁王門の天井の<飾り>。
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浅草寺や成田山新勝寺では大きな提灯が吊り下げられているが、こうした<飾り>を見るのは初めてだ。
こうした<飾り>が正式で、提灯はその代わりなのかもしれない。

扁額や<天井飾り>よりも仁王門で最も大事なもの、仁王像を見ずしては片落ちである。
金網の隙間から仁王像を眺める。

仁王像、阿形。
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仁王像、吽形。
吽形であるから、ウンとアップで。
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仁王門の東側に建つ、鐘楼。
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「この鐘楼が建っているところは、古墳のように見えますね」と、武衛さんと小生の意見は期せずして一致。

別の角度からも眺めてみる。
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前述の通り、弘法寺古墳について更なる情報はないかとネット検索した。
そのとき、弘法寺古墳のほかに、真間山古墳なるものに関する記述もみつけた。
その記述は、次の通りであった(抜粋)。
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真間山古墳
弘法寺の墓地のすぐ横にあるのが、真間山古墳である。
この古墳は全く史跡表示がないので、恐らく古墳だと気付いている人は殆どいないであろう。
調べてみたところ、全長20mの小型円墳ということである。
見た目は寺の鐘楼が立つ部分と繋がって前方後円墳のようにも見える。
もしかしたら、円墳というのは誤りで、前方後円墳の上に寺の鐘楼台があるのではないかと思わせる。
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写真、左奥に墓地がある(写真には写っていない)。
その墓地の手前に円墳があるということになる。
その円墳と鐘楼台の建つ盛り土をつなぐと前方後円墳を思わせるということになるのである。
我らは鐘楼台の盛り土を古墳と思ったが、この記述で、我らの想像が全くの的外れということではなかったといえる。
この真間山古墳に関わる情報は我らにとって誠に貴重なものとなった。感謝!
次回、弘法寺を訪ねたときに、奥の墓地の脇にある円墳をこの目で確認しておきたい。

仁王門前から西側を眺める。
右手に、客殿、本殿が並ぶ。
西側正面に、弘法寺古墳の目印ともなる赤門が見える。
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赤門をアップで。
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先ほど、この赤門脇お竹垣を目印に弘法寺古墳の場所を教えてくれ、そのあと、石段を上る後ろ姿も見た男性と再び出会った。
「先ほどは有難うございました」。
「いいものが見つかりましたか」。
「お陰さまで<発見>することが出来ました」。

境内をあとに、石段を下る。
仁王門の向こうでシルエットになっているのは、先ほどの男性と野球部のコーチ。
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野球部員の石段トレーニングは続いている。
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真間山弘法寺(ままさんぐぼうじ)
真間山弘法寺は、略縁起によると、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりであり、その後、平安時代、弘法大師(空海)が七堂を構えて「真間山弘法寺」とし、さらにその後、天台宗に転じたとされる。
真間の地は、かつてはすぐ北に六所神社があり、国府が設置されていた古代以来の下総の国の中心地であった。
そのため、ここに古くから寺院があった可能性は高く、本来は国府と密接にかかわる寺院であったとの推測もある。
鎌倉時代、この地に及んだ日蓮の布教をうけて、建治元年(1275)、時の住持了性が日蓮の弟子で中山法華経寺の開祖日常と問答の末やぶれ、日蓮宗に転じ、日常の子で六老僧の一人、日頂を初代の貫主としたと伝える。
鎌倉末期の元亨3年(1323)には、千葉胤貞により寺領の寄進を受け、延文3年(1358)の日樹置文によれば、葛飾郡一帯や千田庄(多古町)に多くの寺領や信徒を擁していたことが知られる。
また、室町・戦国時代には、山下に真間宿または市川宿といわれる門前町が発展し、賑わいをみせていた。
天正19年(1591)、徳川家康より朱印地30石を与えられ、元禄8年(1695)には水戸光圀も来訪したと言われる。
江戸時代は紅葉の名所として知られ、諸書に真間山弘法寺の紅葉狩りことが記されているが、明治21年(1888)の火災のため諸堂は焼失してしまった。
その後、明治23年(1890)に再建され、現在に至っている。
境内には、日蓮の真刻と伝えられる大黒天をまつる太刀大黒尊天堂、水戸光圀が賞賛して名づけたといわれる遍覧亭跡、袴腰の鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。
平成18年3月
市川市教育委員会
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石段を下り、参道を南へ走る。

手児奈霊堂。
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鳥見写真のおまけ。
霊堂の屋根から南の彼方を眺めるカラス。
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手児奈霊堂
奈良時代のはじめ、山部赤人が下総国府を訪れたという伝承が残っている。
その時に真間の手児奈を詠ったものが万葉集に収録されている。
『われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処(おくつきどころ)』
手児奈霊堂は、この奥津城所(墓所)と伝えられる地に建てられ、 文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。  
手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のため 人びとの争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の 入り江に身を沈めたとか、継母の仕え、真間の井の水を汲んでは孝養を 尽くしたとか、手児奈は国造の娘で、その美貌を請われ、或る国の 国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが 生れ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に司える巫女であったり する等、いろいろと形を変えて伝えられている。
万葉の時代から今日に至るまで、多くの作品にとりあげられた真間の地は、 市川市における文学のふる里であるともいえる。            
昭和58年3月 
市川市教育委員会
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真間の継ぎ橋。
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2016年5月の「下総国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社めぐり」の最後は、ここ、真間の継ぎ橋であった。
今回、この地を訪ね、この真間の継ぎ橋から向こうの、手児奈霊堂、弘法寺へと繋がったのである。
2016年5月から2018年1月へと繋ぐ、まさに、”真間の継ぎ橋”なのであった。

斯くして、柴又の「さくら像」の取材が叶い、当初、明戸古墳、法皇塚古墳、弘法寺古墳の3基をめぐるつもりが、真間山古墳も加わり、下総の南西地域、国府台の古墳めぐりは4基を極め、ドラポタ走り初めは誠に結構なポタリングであった。
相棒の武衛さんに感謝!そして、道順や古墳の場所を教えてくれた通りすがりの方々にも感謝!する次第である。

フォト:2018年1月16日

(完)



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by ryujincho | 2018-01-18 23:35 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 01月 18日

『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/東京医科歯科大構内 法皇塚古墳』 df-4

1月16日(火曜)、晴れ。
ドラポタ走り初め。
里見公園で、明戸古墳石棺や国府台城跡を見学後、次は、東京医科歯科大市川キャンパス内にある法皇塚古墳を目指し、東へ走る。

住宅街を抜けると県道1号線に突き当たる。
その右手が東京医科歯科大市川キャンパスである。

正門を入る。
守衛室も事務所もない。
構内に入るのはフリーパスのようだ。
ということで、フリーパスで入れて戴く。

正門近くに立つ案内図を見る。
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前方後円墳の姿がくっきりと図示されている。
その手前の広場の名は、法皇塚広場。
どんな古墳なんだろうと、何だか、嬉しくなってくる。
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構内を進む。
南東側から眺める。
自販機の奥の、森のように見えるのが法皇塚古墳。
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南西側から眺めてみる。
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説明板に目を通す。
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個々の資料をアップで。
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法皇塚古墳
この古墳は、直径58m、高さ5mという市川市最大の前方後円墳です。
昭和44年の発掘調査のとき、後円墳から横穴式石室を有する主体部が発見され、そこから甲冑、太刀、鉄鏃、ガラス玉、馬具関係品、その他の副葬品が発見されました。
これらの副葬品を納めた古墳は、今までに下総南部の地域では認められなかった極めて貴重な存在で、築造年代は6世紀前半の頃と思われます。
また、出土品は市川考古博物館に展示されています。

東京医科歯科大学教養学部
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法皇塚古墳
市川市国府台二丁目、東京医科歯科大学構内の北端に位置する。
この付近は、里見公園から須和田丘陵に連続するその中継地点に当たり、明戸古墳には北方200m、弘法寺古墳には南方約300mで達する。
江戸川沿いの南北に細長い丘陵の末端近くに位置することになり、かつては江戸川を一望のもとに収めることのできた佳勝の地であったに違いない。

明治年間に軍用地整備のため、国府台一帯が整地された際にも、墳裾以外はあまり手を加えることがなかったと伝えられている。
従って、現在でも墳丘の全容をみることができる。

昭和26年、故後藤守一博士が発掘調査されたことがあるが、この時は北側の封土をかなり深くまで発掘したが、埋葬主体は発見できず、わずかに家形埴輪片を含む若干の遺物を採集したにとどまったと言われる。

昭和40年春、明治大学考古学研究室が墳丘及び付近の地形測量を実施した。
その結果、法皇塚古墳は、下総西南部の地域では最大の前方後円墳であることが判明した。
即ち、前方部を西側に向けて主軸方位N40度Wを指し、長軸全長58m、後円部径現存24m、高さは5mあまり、前方部先端幅現存28m、高さはやはり5mあまりを測る。
古墳の墳裾は軍用地整備のためか、一部が石垣となったり、削り取られたりしていて、明確にその規模を把握できないが、測量図をもとにして復原してみると、主軸全長65m、後円部直径30m、前方部の幅35m、高さは前方部・後円部ともに5.5mほどの規模となる。
後円部よりもやや前方部の発達した段階の古墳の姿を示しているとみてよいであろう。

次いて、昭和44年3月に法皇塚の発掘調査を実施することになった。
調査は市川市の委嘱のもとに明治大学考古研究室がこれを行った。

発掘調査の結果、法皇塚古墳の埋葬主体は後円部に造られた横穴式石室であることが判明した。
石室は西南に向かって開口し、軟質の凝灰岩や硬質砂岩を中心とするので、架構したものが全く痕跡をとどめていなかったが、石室床面は板石を亀甲張りしたもので、豊富な副葬品が検出された。
また、墳丘には埴輪片が散在しており、いずれも原位置を保って埋置してあったり、石室玄関近くに人物埴輪が発見されたりしたことが、それを証していると思われる。
かつて故後藤守一博士が、前方部において家形埴輪を採集されたことも、前方部における埴輪埋置の方法を探る上で極めて貴重な資料と言わねばならない。

発見された副葬品
①甲冑 一領、②太刀 四口分、③鉄鏃 一括、④馬具鏡板付轡 一対、⑤馬具轡 一対、⑥鉄地金銅張雲珠 二個、⑦地金銅張辻金具 二個、⑧地金銅張鞍金具 一具分、⑨鉄製輪鎧片、⑩銅釧 一対、⑪ガラス丸玉 一括、⑫鉄地金銅張留金具 一括、⑬鉄具片、⑭金銅装帯状飾金具 一帯分、⑮用途不明鉄器 一括、⑯人骨及び歯牙 一括
以上の副葬品は、市川考古博物館(市川市北国分町)に展示されています。

東京医科歯科大学 教養学部事務部総務掛
(参考文献 市川市史第一巻原始の古代より)
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これらの説明に目を通し、写真を撮っていたところ、「縦書きかと思ったら、横書きでした」と武衛さんの声が。
武衛さんの声は、掲示板の説明書きに目を通したあと、南側の墳裾に置かれた、もうひとつの説明板に目を通していたときに発されたものであった。
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武衛さんの声が聞こえていなければ、縦書きで読みそうになる書き方である。
内容は前掲の説明と同じであるが、記録としてこれも読み下しておこう。
縦書きで読みそうになる横書きなので、段落は原文通りで記しておこう。
なお、原文では、標題の「法皇塚古墳」の「法皇」が「法王」となっているのはご愛嬌ということにしておこう。
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法王塚古墳(前方後円墳)
 昭和43年3月、明治大学考古学研究
室によって発掘調査が実施されてもの
で、埋葬主体は後円部に造られた横穴
式石室であり、墳形、埋葬施設、副葬
品の検討から古墳時代の末期に築造さ
れたものであることが判明した。
 古墳は、軍用地整備のため、一部分
が石垣となったり削り取られたりして
明確にその規模を把握できないが、測
量図をもとに復原してみると、主軸全
長65米、後円部直径30米、前方部の幅
35米、高さ前方部、後円部ともに55米
ほどの規模で、下総西南地域で最大の
古墳である。
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法皇塚古墳の全体を眺めるべく、南側の説明板の位置から時計回りで古墳を一回りしてみることにした。

西側から。
前方部の先端部分。
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北西部から。
左手/後円部、右手/前方部。
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少し先へ進み、北東から。
左手/後円部、右手/前方部。
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古墳に近づいてみる。
後円部。
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前方部と後円部をつなぐ凹の部分。
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前方部。
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墳頂の中ほどに立つ。
後円部に生える、大きな古木。
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前方部に生える木々。
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北側から。
後円部の先端と、大学の建物。
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もう一度、説明書きにあった古墳の規模をリピートしておこう。
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前方部を西側に向けて主軸方位N40度Wを指し、長軸全長58m、後円部径現存24m、高さは5mあまり、前方部先端幅現存28m、高さはやはり5mあまりを測る。
古墳の墳裾は軍用地整備のためか、一部が石垣となったり、削り取られたりしていて、明確にその規模を把握できないが、測量図をもとにして復原してみると、主軸全長65m、後円部直径30m、前方部の幅35m、高さは前方部・後円部ともに5.5mほどの規模となる。
後円部よりもやや前方部の発達した段階の古墳の姿を示しているとみてよいであろう。
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古墳上に積もる落ち葉を踏みしめながら、昨年5月の「上野国史跡めぐり」で、太田市内の天神山古墳、女体山古墳、塚廻り古墳と3基の古墳をめぐったとき、女体山古墳で周堀跡に溜まった落ち葉を搔き集め、袋詰めにしていた農家の人と、暫し、歓談したことを思い出した。

先ほど、訪ねた明戸古墳石棺の説明書きの中に「考古博物館による測量図」があった。
そして、ここ、法皇塚古墳の説明書きの中に「出土品は市川考古博物館に展示されています」と書かれていた。
一昨年の5月、「下総国/国府跡・国分寺跡・総社めぐり」の途中、市川考古博物館を訪ねたことがある。
そのときは、下総国府跡や下総国分寺・国分尼寺跡関連の展示や、古代寺院の龍角寺関連の展示に気を取られ、法皇塚古墳の出土品が展示されていたという記憶はない。
次回、市川考古博物館を訪ね、古墳時代の展示をじっくりと見学してみたい。

次の訪問先は、弘法寺境内にある弘法寺古墳だ。
東京医科歯科大 市川キャンパスから弘法寺へ向け、県道1号線を南へ走る。

フォト:2018年1月16日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-01-18 23:34 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 01月 18日

『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3

1月16日(火曜)、晴れ。
ドラポタ走り初め。
矢切の、野菊の墓文学碑と国府台合戦地跡を訪ねたのち、松戸街道(県道1号線)沿いの蕎麦やで鴨南蛮をたぐり、昼餉と摂る。
江戸川左岸サイクリングロードに戻ることなく、松戸街道(県道1号線)を南へ向け、走る。

目指すは、里見公園。
里見公園は、国府台城跡ということで訪ねることにしたのだが、企画の段階で里見公園や国府台城跡のことを調べていたところ、次のようなことが分かった。
里見公園内には、国府台城跡のほかに、前方後円墳の明戸古墳がある。
明戸古墳の盛り土は築城に使われてしまっており、野ざらしの石棺が2基ある。
おお、何と、明戸古墳という前方後円墳があるのか!
史跡めぐりの中で、古墳めぐりは主要なテーマとなっており、この情報を見て、大いに喜んだ。
更に、明戸古墳のことを調べていたところ、この付近に、法皇寺古墳(東京医科歯科大 市川キャンパス内)と弘法寺古墳(弘法寺境内)があることも判明。
益々、喜んだ。
これにて、下総南西地域、国府台の台地に築かれた三古墳めぐりの企画が成立したのであった。

県道1号線を南へ向け、走る。
この道を利用する車両は多く、その割に道幅は狭く、自転車にとっては走り難い道である。
そろそろ右(西)に入らないと、里見公園を通り過ぎてしまうかもしれない。
エイ、ヤー、この辺りで曲がってしまえと横道に入り、しばらく走ると、T字路にぶつかった。
さて、右か左かと考えたとき、武衛さんが「上総さん、ここに案内標識がありますよ」と。
T字路の左肩に立つ標識に「総寧寺 50m→」その他いくつかの行き先の案内がある。
里見公園の案内はないが、事前調べで地図を見たときに、里見公園の北側に総寧寺なる寺院があることを知っていた。

50メートル先の安寧寺に至る。
丁度、通り掛かった近所の住人と思しき婦人に里見公園への道を尋ねた。
「緫寧寺と里見公園は隣合わせ。この道を真っ直ぐ南へ行くと公園の入り口があります。公園の中は自転車が入れないはずなので、入り口の駐輪場に置かれるのがよいでしょう」と懇切丁寧に教えてくれt。

「曹洞宗 里見城跡 緫寧寺」と刻まれた石標。
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説明板に目を通す。
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安国山 総寧寺。
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総寧寺はもと、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳3年(1383)通幻禅師を開山として、近江国五槻庄樫原郷(さつきのしょうかしはらごう、滋賀県坂田郡近江町)に建立された曹洞宗の寺院であった。
ところが、天正3年(1575)に至って、小田原城主北条氏政が、寺領20石を与えて下総国関宿(千葉県関宿町)に移した。
その後、関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文3年(1663)遂に徳川4代将軍家綱に願って国府台に移った。
その折、幕府は寺領として128石5斗余、山林6万7千余坪を与えている。
総寧寺は古くから一宗の僧録に任ぜられていたが、徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じたのである。
しかも歴代住職は10万石大名の格式を以て遇せられ、江戸小石川には邸(やしき)が与えられた。
総寧寺の格式の高さは今日に残る下馬石によっても分かる。
明治5年(1872)学制の施行によって、第一学区の大学校舎を総寧寺境内に建設することになったが、それは後、陸軍用地となり、昭和33年現在の里見公園となった。
本寺の境内には、関宿より移された小笠原政信夫妻の供養塔である2基の五輪塔、小川稽古斎碑をはじめ、国府台合戦の伝説にまつわる夜泣石等を存する。
昭和54年3月
市川市教育委員会
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緫寧寺の境内を少し散策。
境内の南側に公園が見えるが、金網の塀で隔てられている。

婦人に教えられた通り、真っ直ぐ南へ行くと右手に里見公園の入り口が見えて来た。
入り口に入ると坂道。
台地でも公園(というか、国府台城跡)は一段低いところに位置していることとなる。
駐輪場に jitensha を止める。

公園内を歩く。
「国府台城跡」の銘板。
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「房総の魅力500選/市川の里見公園」。
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房総の魅力500選
「房総の魅力500選」は、昭和58年に千葉県の人口が500万人に達したのを記念し、魅力あるふるさとづくりの一環として昭和63年1月に選定されたものです。
市川の里見公園
この公園は、戦国時代に里見氏などの房総勢と小田原の北条氏が二度も戦った古戦場跡で、今でも土塁や空堀の跡が残されえいます。
昭和33年に現在の公園となり、桜の名所として市民に親しまれています。
園内には、明戸古墳石棺、羅漢の井、里見諸将群霊墓などがあり、古い歴史を物語っています。
また、北原白秋の旧宅「紫烟草舎(しえんそうしゃ)」が昭和44年に移築復元されています。
千葉県
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「国府台城跡」。
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国府台城跡
「鎌倉大草紙によれば、文明10年(1478)扇谷上杉氏の家宰太田道灌が「下総国府台」に陣取り、仮の陣城を構えたとあり、国府台城のはじまりであるとする説がある。
道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。

これより以前の康正2年(1456)千葉自胤は兄の実胤と共に「市川城」に立て籠もり、足利成氏に対抗していたが、簗田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れた。
この「市川城」と太田道灌の陣城との関係が注目されるが、同じものかどうかは不明である。

国府台は標高20~25mの下総台地の西の端であり、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在に里見公園の中に土塁状の城郭遺構が現存している。
そして、公園の北に向っても城郭の遺構らしきものが確認される。

公園内の遺構は破壊が激しく、築城時期を想定する事は難しいが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推定もある。

この地は、その後、天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏により行われた国府台合戦の舞台となっている。
天文7年(1538)の合戦は小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(千葉方)に拠点を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方方との戦いである。
これに対して永禄7年(1564)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに対抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄6年にも合戦が行われたという説もある)。

永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である、正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房へ敗走する。
現在の国府台城跡は、この合戦のなかで激突する両陣の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国時期の城郭に進化した、とする説もある。

現在の里見公園には、江戸時代になってから作られた里見軍の慰霊のための供養塔がたてられている。
この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は軍用地となり、終戦を迎えている。

平成18年3月 市川市教育委員会
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過去、「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」と銘打って各地をポタリングしたこともあり、冒頭の「文明10年(1478)扇谷上杉氏の家宰太田道灌が『下総国府台』に陣取り、仮の陣城を構えたとあり、国府台城のはじまりであるとする説がある」という情報で、「太田道灌ゆかりの地」がまた増えたこととなった。
嬉しい。

里見公園訪問のメインの目的は、明戸古墳石棺。
園内の何処にあるのだろうと、案内図を眺める。
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案内図によれば、明戸古墳石棺は北西の奥の方にある。
園内を歩くも、よくは分からず、手前の方をぐるっと回って元の場所に戻ってしまった。
もっと奥だろうと、西側の道を奥へ、奥へと進む。

石垣が見えて来た。
元は古墳であったろうと思わせる大きな盛り土も見えて来た。
明戸古墳、そして、古墳の盛り土を崩して築城されたともいわれる国府台城跡の区域に入ったようだ。

石垣の上に竹垣で囲まれた石碑3基と置き石。
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「里見広次並びに里見軍将士亡霊碑」。
碑は写真の右奥にちらっと見えている。
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里見広次並びに里見軍将士亡霊碑
永禄7年(1564)1月4日、里見義弘は8千の軍勢をもって国府台に陣を構え、北条氏康の率いる2万の兵を迎え撃ちました。
しかし、8日払暁、北条軍は寝込みを襲い、里見の陣地目がけて一斉に攻撃をかけたのです。
鬨の声に驚いた里見軍は「あるいは鎧、太刀よ馬に鞍おけと呼びまた太刀一振り鎧一領に2人3人取付て我よ人よとせり合い、兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるものあり」という狼狽ぶりを呈しました。

この合戦で敗北した里見軍は、里見広次、正木内膳らをはじめとして戦死するもの5千名と伝えております。
その後、里見軍の戦死者の亡霊を弔う者もなく、やっと文政12年(1829)に至って、里見将士群亡塚(左側)里見諸将霊墓(中央)が建てられ、また年代は不祥ですが、石井辰五郎という人によって里見広次公廟(右側)が建てられました。

ここに265年の歳月を経てようやくこの地で討死した里見軍将士の亡霊が慰められ、今日に残されたものです。
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「夜泣き石」伝説。
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「夜泣き石」伝説
伝えによると、国府台の合戦で北条軍に敗れた里見軍は多くの戦死者を出しました。
このとき、里見軍の武将里見弘次も戦死しましたが、弘次の末娘の姫は、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどり着きました。
未だ12、3歳だった姫は、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続け、ついに息絶えてしまいました。
ところが、それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになりました。
そこで里人たちはこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになりましたが、その後、一人の武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったといいます。
しかし、国府台合戦の記録は、里見弘次は永禄7年(1564)の合戦のとき15歳の初陣で戦死したことになっています。
この話は里見公園内にある弘次の慰霊碑が、もと明戸古墳の石棺近くに夜泣き石と共にあったところから、弘次にまつわる伝説として語り伝えられたものと思われます。
平成4年3月
市川市教育委員会
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後ほど、明戸古墳石棺の説明書きで知ることとなるのだが、石棺の蓋と思われる板石が「夜泣き石」の台座に使われているという。
今一度、台座を眺めてみる。
そういわれてみれば、そのように見える。
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更に奥へ進む。
右手に、これも古墳の名残かと思わせるような、こんもりとした高台がある。
これに上ってみる。
「市川市最高標高地点(標高 30.1m)」の標識が立っている。
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東の縁からグッと下がっており、その下は墓地となっている。
先ほど訪ねた総寧寺の境内の西にあった墓地である。
総寧寺や公園の南側は台地の中でも低い位置にあり、公園の北の奥は台地が一層高く立ち上がっている地形なのである。

市川市最高地点から南側を眺める。
こんもりとした盛り土に木々が生えている。
古墳の名残かもしれない。
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市川市最高地点から西側を眺める。
眼下に池が見える。
国府台城跡の空堀が池になったのかもしれない。
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鳥見中の Birderさんがいた。
「何狙いですか?」。
「シロハラです」。
池の近くに鳥が見える。
遠目にはツグミに見える(シロハラはツグミ科であるから、そう見えても不思議ではない)。
「この辺りに石棺があると思うのですが、ご存知でしょうか」。
「セキカン?」。
「古墳から出土した石棺、石の棺です」。
小生も鳥見が好きだが、今日は鳥見モードではなく、古墳モード。
Birderさんは、当然のことながら鳥見モードであるから、小生の言葉「石棺」を鳥の「セッカ」かと思い、「セキカン?」と聞き直したのかもしれない。
「石棺なら、向かいの高台の端にありますよ」と右手方向(北西)を指差して教えてくれた。

Birderさんに教えて貰った方向へ進んで行った。
それらしきものが見えて来た。
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市指定重要有形文化財 明戸古墳。
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明戸古墳石棺
明戸古墳は、全長40mの前方後円墳です。
周辺からは埴輪が採集され、埴輪から6世紀後葉に造られたことがわかります。
2基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ、今でもその位置を保っています。
かつての写真から石棺の蓋と思われる板石は、里見公園にある「夜泣き石」台座になっています。
石材は黒雲母片麻岩で、筑紫石と呼ばれるものです。
石材は筑波山麓から切り出され、霞ケ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます。

この2基の石棺は、天保7(1836)年に発行された「江戸名所図会」に「石櫃2座。同所にあり。寺僧伝え云う、古墳2双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同性長九郎弘次といへる人のはかなりという。一ツはその主詳ならず。或は云う、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらわる。その頃櫃の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎及び正木内膳の墓とするは何れも誤りなるべし。」と書かれ、図も描かれています。
「江戸名所図会」によって19世紀にすでに石棺があらわれていたことがわかるばかりか、失われた出土資料を知ることができます。

平成16年3月
市川市教育委員会
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「石材は筑波山麓から切り出され、霞ケ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます」とある。
古墳時代の霞ケ浦・手賀沼・江戸川は「香取海」であったと思われる。
龍角寺古墳群(千葉県印旛郡栄町)の岩屋古墳(龍角寺105号墳、7世紀中頃)の石室の石材も筑波山系片岩であった。
筑波山系の石材は下総各地の古墳の築造に使われていたということが分かる。
筑波山の西側のサイクリングロード「つくばりんりんロード」を走ると、何軒かの石材店を見ることがあり、昔も今も筑波山は良質の石材を産出しているのである。

昭和57(1982)年の考古博物館による測量図。
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国府台城築城のため、明戸古墳の盛り土が切り崩されたとしても、もし、この場所に古墳があったとせば、この測量図からして、前方部を北に向けて築造された前方後円墳ということになる。

「江戸名所図会」に描かれた国府台。
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測量図と江戸名所図会のふたつの資料から、古墳は下総西南の台地の縁、江戸川を見下ろす場所に築かれたといえる。

再び、泣き石の辺りまで戻り、台地の縁から江戸川を眺望する。
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正面に、富士と東京スカイツリー。
左から、大山(1252m)、三ノ塔(1206m)、塔ヶ岳(1491m)、丹沢山(1567m)、東峰(1345m)、蛭ヶ岳(1673m)、富士山(3776m)、袖平岳(1432m)、大室山(1588m)、御正体山(1682m)、鹿留山(1632m)、山倉山(1470m)、朝日山(1260m)、大峰山(841m)、二十六夜山(972m)。

この日は14℃、1月半ばとしては気温は高めで、しかも、午後でもあり、霞んで富士山は見えない。
冬晴れの午前中であれば、富士山がくっきりと見えるだろう。

展望台近くの、里見公園案内図。
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冒頭に掲載した、公園入り口近くで見た案内図は誠に分かり難かったが、この案内図は分かり易い。
この案内図を公園の入り口近くに掲げてくれていれば、明戸古墳石棺へ容易に行けたであろう。
公園内に「明戸古墳石棺 〇〇メートル →」というような標識を設けてくれれば、なお良い。

Birderさんに場所を聞き、明戸古墳石棺を見学することが出来、満足!

次は、東京医科歯科大 市川キャンパス内にある法皇塚古墳だ。
里見公園から東へ向かう。

フォト:2018年1月16日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-01-18 23:33 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)