龍人鳥の徒然フォト日記

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2017年 11月 29日

『近所の紅葉』

11月29日、晴れ。
手賀沼を一周し、自宅の近所まで戻って来た。
そのとき、真っ赤に色づいたモミジが目に飛び込んで来た。
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10日前、成田山公園に紅葉狩りにいったが、生憎の曇り空で、鮮やかさはなかったので、今日は、より一層、鮮やに感じたのかもしれない。

フォト:2017年11月29日
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by ryujincho | 2017-11-29 23:32 | 花紀行 | Comments(0)
2017年 11月 29日

『オオバン』

オオバン。
手賀沼公園。
水際からかなり離れたところで餌をついばんでいるオオバンの姿が目に入った。
陸に上がっていてるときに人が近づくと直ぐに水に飛び込んでしまう、どちらかというと臆病な鳥だから、遠くから鳥見。
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ズームアップで、カメラを通して鳥見。
しっかりと正面顔を見せてくれたオオバン。
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しっかりと弁足を見せてくれたオオバン。
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フォト:2017年11月29日、手賀沼公園にて
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by ryujincho | 2017-11-29 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 26日

『コサギ vs ダイサギ/陣取り合戦』

1羽のコサギが杭に止まっていた。
そこへダイサギが飛んで来た。
足で蹴りを入れるが如くに「おれにとまらせろ」と。
「なにぃー」」と先にとまっていたコサギも負けてはいない。
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フォト:2017年11月26日、手賀沼南岸にて
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by ryujincho | 2017-11-26 23:33 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 26日

『コサギと小舟』

手賀沼北岸のいつも同じ場所に繋がれた小舟。
前々回は、超広角レンズで「陽光と小舟」を撮った。
前回は、フツーの広角で「陽光と小舟」を撮った。
今回は「コサギと小舟」を。
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フォト:2017年11月26日、手賀沼北岸にて
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by ryujincho | 2017-11-26 23:32 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 26日

『モズの目』

モズ。
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捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む「モズの速贄(はやにえ)」という言葉がある。
その言葉からすると、モズは獰猛な鳥のような感じがする。
しかし、モズの目は意外と優しそうに見える。
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フォト:2017年11月26日、手賀沼北岸にて
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by ryujincho | 2017-11-26 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 25日

『旧井上家土蔵SPレコードコンサート』

11月25日、晴れ。
布佐の旧井上家住宅の土蔵でSPレコードコンサートが開かれるというので、手賀沼CR、手賀川CRを走り、布佐へ。
この時期にしては珍しく、東の風で向かい風。

旧井上家住宅。
表門。
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主屋。
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主屋内部。
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井上家は、江戸時代前期から江戸尾張町(現:銀座)で食料雑貨商「近江屋」を営んでいたが、4代目の井上佐次兵衛の代に「享保の改革」の一環として実施された手賀沼の干拓事業に参入すべく、利根川舟運の主要な港町、布佐郊外に移り住み、相島新田を開いた豪農である。

SPレコードコンサート会場の、新土蔵。
新土蔵は昭和期に建てられたもの。
隣の保存整備工事中の建物は江戸末期に建てられた土蔵。
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「土蔵でSPレコードコンサート」。
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銘板”Brunswick”。
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ブランズウィック社は、もともと、ビリヤード台やボーリング場の製造と設備、高級家具の製造で知られたアメリカ最大手の木工メーカー。
同社による蓄音機の製造は1916年に始まり、後発のメーカーながらもエジソン社の蓄音機のケースを製作していた強みを生かし、ビクター社と並ぶ程の蓄音機メーカーに成長したという。
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竹針。
右下の針はサボテン針のようだ。
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レコード針を眺めながら思い出すのは幼き頃のこと。
小学校の低学年の頃までは、SPレコードであった。
針は、竹針やサボテン針ではなく、鉄針を使っていた。
親から言われたことは、「2回、掛けたら、針は換えるんだよ」であった。
数あるSPレコードの中で、お気に入りはロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」であった。
裁縫用の長い物差しを腰に差し、首に巻いた風呂敷をはためかせながら、曲に合わせ、部屋の中を走り回っていた。
当時は、走り回れるほどの、結構大きな家に住んでいたのであった。
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プログラム。
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エンリコ・カルーソー(1873-1921)/伊テノール歌手、ナポリ民謡「オーソレ・ミオ」
アメリータ・カルクルチ(1882-1863)/伊コロラトーラ・ソプラノ歌手、アダン「きらきら星変奏曲」
フォオドール・シャリアピン(1873-1938)/露バス歌手、ロシア民謡「ステンカ・ラージン」
リリー・ポンズ(1904-1976)/仏コロラトーラ・ソプラノ歌手、アリアビエフ「ナイチンゲール」
イポリカ・ツィツェル(1906-1971)/洪バイオリニスト、ポリアキン「カナリア」、プラーガ「天使のせれなーで」
パブロ・カザルス(1876-1973)/西チェリスト、バッハ「G線上のアリア」、バッハ「アンダンテ」
エディット・ピアフ(1915-1963)/仏シャンソン歌手、「ばら色の人生」
小唄勝太郎(1904-1974)/端唄「都々逸」

我々の世代でも馴染みのある演奏家が幾人かいる。
カルーソーは、オペラ史上、最も有名なテノール歌手の一人として、我々の世代でもその名を知っている。
シャリアピンは、来日時に帝国ホテルで所望し、調理された「シャリアピン・ステーキ」でも名を残している。
20世紀最大のチェリスト、パブロ・カザルスが1961年、ケネディ大統領に招かれ、ホワイトハウスで世界平和を願い、演奏したカタロニア民謡「鳥の歌」のCDは今も愛聴している。
エディット・ピアフが歌う「ばら色の人生」、シャンソンにはSPレコードの音がよく似合う。
アンコールはイブ・モンタンが歌う「枯れ葉」、名曲である。

SPレコードからLPレコードへ、そして、CDへ。
LPレコードとCDは、しばらく併用していたが、1990年代半ば、遂に、メモリアルな数枚を残し、泣きの涙で、数百枚のLPレコードを処分した。
以来、ずっとCDで音楽を楽しんでいる。
近年、ダウンロードとか、イヤフォンで聴くとかで、音楽を聴くということが随分とお手軽になってしまった感がある。
今日、こうしてSPレコードの音に触れ、昔の人が苦労して開発したアナログレコードの功績に思いを馳せ、また、今も蓄音機とSPレコードを大事にしながら、その音色を楽しんでいる人たちに敬意を表したい。
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手賀川CR、手賀沼CRを走り、帰途に。
往路、向かい風であった東風は、帰路は追い風に。
11月下旬の夕方3時過ぎともなれば、陽も落ち掛けて寒い。
だが、SPレコードコンサードの司会者さんの言葉を思い出し、寒さに負けず、しっかりとペダルを踏むのであった。
その司会者さんの言葉は、「土蔵の中は寒いですが、SPレコードの音は暖かいです」であった。

フォト:2017年11月25日
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by ryujincho | 2017-11-25 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 21日

『下総国史跡めぐり/相馬郡衙正倉跡』

11月21日、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと、平将門伝説の地である、日秀将門神社、将門の井戸、観音寺の日秀観音と首曲がり地蔵を訪ねた。

日秀観音寺の首曲がり地蔵の脇にでいいものを<発見>した。
それは「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識であった。
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これまでに、武衛さんと国府跡・国分寺跡めぐりをして来たこともあって、国府跡(国衙跡、国庁跡)のみならず、郡衙についても大いに興味があった。
しかしながら、国府跡(国衙跡、国庁跡)のみならず、郡衙跡もめぐるとなれば、相当の労力が必要であり、これまでに訪ねた郡衙跡は上野国新田郡庁跡(群馬県太田市天良町)だけであった。
ここで、「相馬郡衙正倉跡」の標識に遭遇したことを首曲がり地蔵さんのお導きと感謝するのであった。

下総国について。
昨年5月、下総国の国府跡(推定地)と国分寺跡・国分尼寺跡を訪ねた。
そのときに、ベンキョーした下総国のことについてここでリピートしておきたい。
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律令制以前には、印波、千葉、下海上の国造が置かれていた。
律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11の郡(評)をもって令制国としての下総国とした(のちに豊田郡が加わる)。
国府は現在の市川市国府台付近に置かれ、国級は大国に位置づけられた。
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現在、この周辺で「相馬」の名を残しているのは、茨城県北相馬郡利根町のみである。
明治期、「相馬」は利根川を挟んで、北相馬郡と南相馬郡に分かれていたが、南相馬郡は東葛飾郡に編入され、消滅した。
因みに、徳川家康の利根川東遷事業による利根川の付け替え河川改修以前は、利根川は野田市関宿あたりから江戸へ流れ込んでいたので、「相馬」は大きな川に隔てられることなく、一体であった。
余談ながら、福島県の「相馬」は、中世、下総国相馬郡で起こった有力武士、相馬氏が同地へ移り住んだことに由来する。

さて、日秀観音寺の首曲がり地蔵の脇の標識、「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識にまで話を戻す。

郡衙跡にも興味のある武衛さんと小生は、この標識を<発見>し、首曲がり地蔵さんのお導きと大いに喜んだ。
標識の「↑ 700m」は南へ700メートルのことで、先ほど走って来た道だが、道沿いは「相馬郡衙正倉跡」の標識は見当たらなかった。
スマホを取り出し、「相馬郡衙正倉跡」を検索してみた。

千葉県教育委員会のホームページにヒットした。
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相馬郡衙正倉跡
所在地 我孫子市日秀字西60-6の一部ほか
概要
相馬郡衙正倉跡(日秀西(ひびりにし)遺跡)は、千葉県立湖北高等学校の建設に伴い発掘調査が行われ、その中心部分の様相が明らかになった遺跡である。
郡衙とは古代(奈良・平安時代)の郡の役所全体を指す名称で、正倉とは徴収した税である稲などを納めた倉庫群を指す名称である。
かつての相馬郡は現在の我孫子市、沼南町と柏市の一部、さらに利根川を挟んだ茨城県取手市、利根町、藤代町に相当すると考えられている。
(以下、省略)
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千葉県立湖北高等学校の建設に伴い、発掘調査されたとある。
県立湖北高校を目指せばよいということになるが、さて、高校は何処にあるのだろうか?
そう思ったとき、散歩中の婦人があらわれた。
「湖北高校への道順を教えていただきたいのですが」。
「湖北高校はなくなり、今は特別支援学校になっています。成田線の踏切を渡って、右へ行くと学校が見えて来ます」。

「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」の標識をよく見ると、その下に「県立湖北特別支援学校」と書かれている。
更によく見ると、「県立湖北高等学校」と書かれた上に新たに「特別支援学校」の紙が貼られているのであった。
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教えられた通り、踏切を渡り、右へ行く。
学校らしき建物が見えて来た。

正門脇の説明板/相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)。
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相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)。
古代の日本では行政区分として東北から九州が六十の国に、さらに国が複数の郡に分けられ、国の中心には国府、郡の中心には郡衙(郡家)という役所が置かれ、地域における支配を担っていました。
我孫子市周辺は下総国相馬郡とされてきましたが、中心となる相馬郡衙がどこにあるかは長らく謎のままでした。
昭和53年(1978年)、千葉県立湖北高校校舎建設に伴って(財)千葉県文化財センターによる日秀西遺跡発掘調査によって多数の遺構を確認しました。
1期(6~7世紀末)は竪穴建物188棟からなり、我孫子市内でも有数の古墳時代後期の大集落です。
2期(7世紀末~8世紀中頃)は竪穴建物を排除して掘立柱建物7棟が建てられ、3期(8世紀中頃~9世紀初頭)は東西120m、南北54mの広場を取り囲むように倉庫建築に用いられている総柱式掘立柱建物や礎石式基壇建物34棟が規格性をもって建てられています。
基壇建物の1つからはタガネで半分に割られて地鎮祭に用いられた和同開珎の銀銭が出土したほか、建物の基礎や周囲から大量の炭化米が出土しています。
4期(9世紀初頭~10世紀)は3期建物が火災で焼失した後、掘立柱建物9棟の小規模な区画で再建されたものです。
特に注目されるのは3期の建物で、広場を取り囲む規格性のある建物配置は当時の官衙(役所)遺跡に共通するものであり、相馬郡衙の中核的な施設である「正倉」であると考えられました。
郡衙正倉は、本来、税「租」として徴収した米(稲穀)を凶作時の備え、田植え時の種籾として貯蔵する施設で、在地支配の象徴的な存在でした。
また、3期建物が火災で焼失しているのは奈良時代の正史である『続日本紀』に記載されている神火事件(貯蔵米の不正使用発覚を恐れた郡衙役人による放火事件。各地の郡衙正倉遺跡で火災痕を確認)による可能性があります。
郡衙には正倉の他、郡庁、館(たち)、厨(くりや)、駅家(うまや)などの施設が付随し、郡司などの役人や郡内各地から集まった人々が居住する地域の政治・経済・文化の中心都市であったことが文献に記載され、我孫子市教育委員会が発掘調査を通じて全容の解明につとめています。
相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)は平成7年(1995年)、千葉県指定史跡となっています。
平成18年(2006年)3月
千葉県教育委員会
我孫子市教育委員会
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正倉復元想像図。
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日秀西遺跡、第1期~4期の建物配置。
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左上/第1期(6~7世紀末) 赤色:竪穴建物
右上/第2期(7世紀末~8世紀中頃) 破線:掘立柱建物
左下/第3期(8世紀中頃~9世紀初頭) 破線:総柱式掘立柱建物、黒色四角:礎石式基壇建物
右下/第4期(9世紀初頭~10世紀) 破線:総柱式掘立柱建物

校内には入れない。
学校の周辺をぐるっと回ってみる。
先ず、学校の東側の道を南へ向かい、南東地点から学校とその周辺を眺める。
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学校の東側から北の正門前を通り過ぎ、西側の道を南へ下り、台地の縁、里山の道を走る。
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先ほどの南東地点の台地の下に至る。
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ぐるっと回ったことで、この辺りに相馬郡衙正倉が設けられたことと地形の関係が分かるような気がした。

この辺りに鎌倉街道があるという。
台地の上に続く、鎌倉街道と思しき上り坂を眺める。
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鎌倉街道と思しき道を眺める。
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鎌倉街道は茨城県利根町でも訪ねたことがある。
今回の鎌倉街道がそれに続くものか、それとも別ルートなのかは今後の宿題。

将門伝説の地、我孫子市日秀をめぐり、偶然、「相馬郡衙正倉跡」の標識を見付け、相馬郡衙正倉跡をも尋ねることが出来た。
こうしたことがあるから、やっぱり、ポタリングは止められない。
ポタリングに感謝!である。

フォト:2017年11月21日
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by ryujincho | 2017-11-21 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 21日

『平将門伝説の地を訪ねて/日秀将門神社、将門の井戸、日秀観音、首曲げ地蔵』

11月21日、晴れ。
平将門伝説の地、日秀将門神社、将門の井戸、日秀観音、首曲げ地蔵を訪ねた。

5ヶ月前、『坂東の豪族 平将門フォーラム』なるものが開催され、聴講。
フォーラムの項目は次のようなことであった。
1.「将門伝説を取材して」
2.地域からの報告「我が町と将門」/取手市、流山市、坂東市、我孫子市
3.「将門の生産力」/「馬」、「鉄」、「布」について

このフォーラムの内容をヒントに、将門伝説の地をポタリングしてみようと思いつつ、実行せぬまま、夏が過ぎ、秋も晩秋となった。
史跡めぐりの相棒、武衛さんは、諸般の事情で半年ばかり jitensha から遠ざかっていたので、彼の足慣らしも兼ねて、手賀沼CR+我孫子市内/平将門伝説の地めぐりポタリングをプランしたのであった。

手賀沼北岸CR、手賀川CRを走り、手賀川に架かる水道橋から北上。
坂道を上り切り、台地に出ると、この辺り一帯が将門伝説の地、日秀(ひびり)である。

地図によれば、将門神社は坂道を上り切った左手奥に鎮座している。
左手奥へと向かう。

日秀将門神社。
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鳥居、そして、奥に真新しい覆屋と祠。
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扁額。
読み取り難い扁額の文字に目を凝らす。
「平親王  将門大明神」と刻まれている。
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真新しい覆屋に施された家紋「丸に揚羽蝶」。
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当神社の由来。
天慶三年(940)、将門が戦没するや、その霊は遺臣等と共に手賀沼対岸から沼を騎馬で渡り、沼の畔の丘の上で日の出を拝したと伝えられている。
その伝説の地に霊を祀り、鎮守としたのが当神社の起こりであるという。

「日秀(ひびり)」の地名は、将門の霊が日の出を拝したからとも、また、その遺臣である日出弾正なる者がこの地に隠栖したことから、「日出(ひいで)村」と呼ばれるようになり、のちに「日出」が「日秀」に変化したといわれている。

日秀将門神社は、手賀川(新田埋め立て前は、手賀川流域も沼であった)を臨む台地のほぼ南端にあり、東向きに鎮座していることから、この地名の由来は成る程!と思うのであった。

この地には桔梗を植えても花が咲かないという桔梗不咲伝説があるという。
また、この地に住む人たちは桔梗を植えたりはしないという。
これは、愛妾、桔梗御前の裏切りによって将門が討たれたとの伝説によるものという。。
更に、この地に住む人たちは成田山には参詣しないという。
これは、将門調伏の祈祷を行った成田山を快しとしないことによるものという。
こうしたことは、「平将門フォーラム」での「我が町と将門」の中で、日秀のみならず、各地に共通する慣習でもあることを知った。

将門神社から「将門の井戸」へ行ってみることにした。

右奥の標識/将門神社、左手前の標識/将門の井戸。
標識「将門の井戸」の右手の下り道が先ほど上って来た坂。
標識「将門の井戸」の手前の細い坂道(写真には写っていない)を下る。
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細い坂道を下って行ったが、井戸らしきものは見当たらない。
ちょうど上手い具合に、立ち話をしている二人の婦人を見付けた。
「将門さんの井戸はどの辺りでしょうか?」。
今、下って来た細い坂道の方を指差し、「この先に電信柱が見えるでしょう。そこが井戸です」と。

将門の井戸。
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「将門の井戸」と書かれた札が脇の樹木に。
井戸らしきものはないが、「将門の井戸」と思しき窪みがあった。
二人連れの婦人に出会わなかったら、探し回っていたかもしれない。
感謝!である。

「将門の井戸」。
承平2年(932)、将門自らが掘り、近くの分城の軍用に供したのが、この井戸であるという。
また、将門が滅亡ののち、興世王(おきよおう)が逃れるときに、将門の守り本尊である観音像をこの井戸に隠し、姿をくらましたともいわれている。

将門の井戸から、再び、細い坂道を jitensha を押し、標識「将門の井戸」まて戻る。
そこから北進し、日秀観音へと向かう。

JR成田線「日秀踏切」。
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踏切を渡り、しばらく進むと国道356号線に行き当たり、その左角が観音寺(日秀観音)である。

観音寺(日秀観音)。
観音堂に安置されている聖観世音菩薩は平将門の守り本尊で、行基の作と伝えられている。
平将門の守り本尊といえば、今月初旬、取手市の長禅寺三世堂が特別公開され、見学した。
この三世堂の説明書きに「縁起によると、織部時平公が、文暦元年(1234)に平将門公以来の守本尊である十一面観音菩薩像を安置するために観音堂を建立したことに始まる」とあった。
このように、極々近い地域であっても、将門の守り本尊について、井戸に隠した伝説、観音寺観音堂の日秀観音、長禅寺三世堂の十一面観音菩薩と三つもあるのであった。
どれが本当なのだろうか?などと野暮なことは考えないことにしたい。

観音寺の境内の一角に、国道365号線に面して安置された「首曲がり地蔵」。
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将門調伏を祈願した成田山に顔を背けている姿だといわれている。

成田山には参詣しないという日秀あるいは将門伝説の地に住まいする人たちには申し訳ないことではあるが、小生は、毎年、成田山新勝寺に初詣に行っている。
数年前、成田山に初詣した数日後に、ドラポタ走り初めで神田明神を参拝したこともあった。
そのときは、おっと、数日前に成田山に参っちまったが、ご勘弁を、と祈りながら随身門をくぐった。
今年2月、九十九里、尾垂の浜の「成田山本尊上陸の地」を訪ねたこともあった。
数日前には、成田山公園へ紅葉狩りにも行った。
一方、今年6月には「将門フォーラム」に参加したり、今月初めには将門ゆかりの、取手市/長禅寺三世堂を見学したりもしている。
バランスよくやっているということで、ご勘弁願いたい。

余談ながら、将門伝説の地のことを綴りながら思い出したことがある。
昨夏、下野国史跡めぐりの中で、下野国庁跡を訪ねた際、隣接の国庁跡歴史館で「下野国印」(推定復元印)を見た。
武衛さんが案内の館員さんに「下野国府が平将門の襲撃を受けたとき、国印はどうなったのですか」と尋ねた。
「国印はさっさと渡しました。すると、平将門軍はさっさと通り過ぎて行きました」という答えであった。

首曲がり地蔵の脇にでいいものを<発見>した。
それは「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識であった。
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この続きは『下総国史跡めぐり/相馬郡衙正倉跡』と題し、続編にて綴ることとしたい。

フォト:2017年11月21日







 
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by ryujincho | 2017-11-21 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 19日

『成田山紅葉狩』

11月19日、曇り時々晴れ。
近場で紅葉狩り、さて、何処で?
そうだ、成田山へ出掛けてみよう。

成田山公園。
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成田山公園をぐるっと、ひと回りし、「平和の大塔」下へ。
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平和の大塔を見上げる。その頃には、先ほどまでの曇り空から、すっかり、青空に。
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毎年、初詣は成田山新勝寺ながら、平和の大塔は遠目に眺めるだけであったが、今回は塔内へ。
明王殿に鎮座する、大塔の本尊、不動明王を拝す。
今年2月、九十九里、尾垂ヶ浜の「成田山不動尊上陸の地」を訪ね、不動明王が京の都から船で運ばれ、九十九里浜に上陸し、成田山に運ばれて来たことを思い浮かべるのであった。

大塔の隣の、造営中の、真新しい御堂。
ほぼ完成に近く、足元の外構の工事を残すのみとなっていた(工事中の箇所は写真ではカット)。
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後刻、この真新しい御堂は「醫王殿」であることを知った。
醫王殿の本尊は薬師如来(大醫王如来)。
来年の成田山開基1080年記念の目玉事業として、総檜造り、総工費約12億円をかけて建立されたという。
11月28日に入仏落慶大法会が開かれるという。
来年の初詣には、平和の大塔と醫王殿も参拝することにしよう。

フォト:2017年11月19日
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by ryujincho | 2017-11-19 23:31 | 花紀行 | Comments(0)
2017年 11月 16日

『旧吉田家住宅』

11月16日。
旧吉田家住宅(柏市)を見学。

長屋門。
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長屋門前の桜の大樹。
趣味の、支柱コレクション。
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長屋門の瓦。
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瓦には吉田家の家紋が焼き込まれている。
家紋は植物のカタバミと剣が組み合わされた「剣片喰(けんかたばみ)」である。

門をくぐる。
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主屋。
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茶の間。
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「ミセ」。
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「ミセ」の玄関から表を眺める。
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「ミセ」から渡り廊下を通り、書院へと進む。
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書院。
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廊下の角の設えをアップで。
この角の設えを見ただけでも、施主と棟梁の拘りが見て取れる。
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吉田家とは。
吉田家は大規模に農業を営みながら代々名主の職を務めていたうえ、文化2年(1805)から醤油醸造業に進出し、天保2年(1831)から穀物商を営むなど在郷商人として成長した。
また、江戸幕府御用牧として開設された小金牧の管理にも携わり、野馬奉行の下で文政9年(1826)から明治4年(1871)牧の廃止に至るまで牧士に任命され、士分格の地位が与えられていた。

醤油醸造番付。
前頭筆頭の「花井 吉田官蔵」が当家である。
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大関に「野田 茂木勇右衛門」の名がある。
これはキッコーマン醤油の前身である。
関脇の「銚子 田中玄蕃」の名がある。
これはヒゲタ醤油の前身である。

吉田家住宅とは。
往時の吉田家の姿は、明治27年(1894)に作成された銅版画に克明に描かれている。
東西に細長い広大な屋敷地を東西に二分して、東半を宅地、西半を醤油醸造場とした。
その南前方には畑が広がっていた。
その後、大正12年(1923)には関東大地震により醸造場の諸施設が倒壊したことと、この当時事業が不振であったことが重なり、これを機に廃業された。
その後、醸造場跡地は吉田家の新宅となり、南面の畑は平成8年(1996)に芝地に改められた。
旧宅地・建物と芝地は平成16年(2004)に柏市に寄贈された。

明治27年(1894)の銅版画「千葉懸下総國東葛飾郡田中村花野井 醤油醸造吉田長左衛門邸宅」。
右(東側)/屋敷、左(西側)/醤油醸造所。
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屋敷をアップで。
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数年前、趣味のロケ地探訪の一環で、映画やテレビドラマでしばしば登場する坂野家住宅(常総市)を見学したことがあった。
この坂野家は新田開発に尽力した名主で、豪壮な主屋と表門、瀟洒な造りの書院など、豪農の屋敷構えはこういうものだったのだと実感した。
それに続いて、今回は、名主にして商人、そして、牧士に任命され、士分格の地位が与えられた吉田家の住宅、まことに立派なものを見学させて貰った。

フォト:2017年11月16日
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by ryujincho | 2017-11-16 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)