龍人鳥の徒然フォト日記

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カテゴリ:街歩き、村歩き、ポタリング( 167 )


2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/多摩川台公園古墳資料室』 tk-9

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

先ず、本日のメイン・イベント、野毛大塚古墳を探訪。
続いて、等々力渓谷3号墳を探訪。
等々力渓谷を経て、等々力不動尊を参拝。
そして、御岳山古墳、狐塚古墳、八幡塚古墳を探訪。
これにて、野毛古墳群は終了。
昼餉と九品仏参拝をはさんで、次は田園調布古墳群の鵜木大塚古墳と浅間神社古墳の探訪に。
先ず、鵜木大塚古墳を探訪。
そして、この日最後の古墳、浅間神社古墳を探訪。

浅間神社古墳の後円部とされるところに、多摩川浅間神社が鎮座している。
多摩川浅間神社は、第8話で綴った通り、北条政子がここに逗留したときのあれこれを由緒とし、その創建は鎌倉時代の文治年間に遡る。

多摩川浅間神社の境内やその周辺には古墳の面影はなく、古墳に関わる説明板もなく、禰宜さんに尋ねたところ、古墳に関わることは多摩川公園内の古墳資料室で、とのことであった。

多摩川台公園古墳展示室は、3月初旬、田園調布古墳群のうち、多摩川台公園内にある蓬莱山古墳、亀甲山古墳、多摩川台古墳群(円墳8基)を探訪した際に訪ねたことがあり、多摩川浅間神社のことを知るため、再び、訪ねた。

大田区立多摩川台公園古墳展示室。
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第1話の冒頭で、本ブログはポタリングの記録であり、古墳それぞれの詳細については兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」の「武蔵国史跡めぐり」の項で綴ることとしたいと記した。
ということではあるが、今回、探訪した野毛古墳群と田園調布古墳群のふたつの群を束ねた荏原(台)古墳群のことに少し触れた上で、浅間神社古墳のあらまし、特にその姿についてここで綴ることにしたい。

荏原(台)古墳群の成立ち。
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荏原(台)古墳群の成立ち
多摩川下流沿岸、現在の大田区田園調布・世田谷区尾山台・等々力・野毛、かつての武蔵国荏原郷と呼ばれた地域には、古墳が数多く分布しており、これらは「荏原(台)古墳群」と呼ばれている。
これは、田園調布を中心とする「田園調布古墳群」と、尾山台から野毛にかけての「野毛古墳群」とに二分して考えることもある。
この一帯は、多摩川の豊富な水資源と広い平地を利用した農耕を地盤とする強力な首長により治められていたと考えられる。
荏原(台)古墳群は、その代々の首長と一族の墓地だったのであろう。

4世紀~5世紀
古墳の発生期にあたる。
田園調布古墳群での大形前方後円墳が築造される。

5世紀
野毛古墳群で大形円墳が築造される。

6世紀
田園調布古墳群の中で、中・小形前方後円墳が築造される。

6世紀~7世紀前半
古墳の終末期にあたる。
小形円墳が多数築造される。
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荏原(台)古墳群の分布。
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分布パネルの下段に設けられた、古墳の名称と赤いボタン。
赤いボタンを押すと、上面の地図上にその位置を示すランプが点灯する。
古墳のほかに埴輪の製作址もある。
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大田区の古墳。
※田園調布古墳群は大田区内
※野毛古墳群は世田谷区内
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大田区の古墳
多摩川下流一帯は、水資源と肥沃な土地に恵まれ、弥生時代以来、豊かな農耕生産に支えられて発展した。
その中から有力な首長が誕生し、彼らのシンボルとして巨大な墓「古墳」が造られた。
大田区田園調布から世田谷区野毛に至る、かつての武蔵国荏原郷と呼ばれた地域には、数多くの古墳が分布し、これらは荏原(台)古墳群と呼ばれている。
ここでは、その古墳群のうち、田園調布を中心とする「田園調布古墳群」を造られた順に紹介する。
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田園調布古墳群に関わる展示物のうち、浅間神社古墳のあらまし、特にその姿について記しておきたい。
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浅間神社古墳
多摩川を見下ろす舌状台地の先端に位置する前方後円墳。
前方部は東向きとされていたが、平成2年の発掘調査で、反対側の西向きに位置することがわかった。
後円部上に、多摩川浅間神社社殿が建立されており、古墳の名の起こりもこれに由来する。
人物埴輪・鹿形埴輪・馬形埴輪・円筒形埴輪が多摩川側斜面を中心に出土し、豊富な種類の形象埴輪を伴う埴輪列の存在が考えられる。
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「多摩川を見下ろす舌状台地の先端に位置する前方後円墳」という記述から次のようなことを思った。
蓬莱山古墳、多摩川台古墳群(円墳8基)、亀甲山古墳が北西から順に多摩川台公園内に位置していることで、これらの古墳を一括りにして考え勝ちだが、亀甲山古墳の南西に浅間神社古墳が位置していることから、浅間神社古墳もこれらに加え、蓬莱山古墳、多摩川台古墳群(円墳8基)、亀甲山古墳、浅間神社古墳が北西から南西に並んでいる姿をイメージした方がよいと思ったのである。

「形象埴輪が多摩川側斜面を中心に出土した」とある。
多摩川浅間神社の社殿の左手(多摩川側)の斜面を検分していたときに禰宜さんから立ち入り禁止の注意を受けたのだが、まさにその斜面であった。
現場を見てから資料を見る、或いは、資料を見てから現場を見るという、現場+資料をモットーとしている小生にとって、誠に嬉しい記述である。

資料パネルの航空写真に前方後円墳の形が白線で図示されている。
更に、資料パネルの下段右に測量図がある。
これらふたつで、浅間神社の前方後円墳の形がしっかりと視認出来る。

航空写真上に浅間神社古墳である前方後円墳の形を図示したパネル写真をアップで。
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測量図をアップで。
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説明文では「前方部は西向き」とある。
この航空写真での多摩川駅、東急東横線、東急多摩川線の位置と、グーグルマップでのこれらの位置を照らし合わせると、「前方部は西向きとある」という記述に疑問が湧く。
前方部が「北西向き」ということであれば、合点がゆくのだが、パネル資料にある測量図には、残念ながら方位が示されていない。
別の資料を参照してみたところ、「神社の社殿の裏側が前方部である」という記述があった。
念のため、後円部に鎮座する神社の社殿をグーグルマップで拡大し、その向きを確認してみた。
やはり、前方部は、「西向き」ではなく、「北西向き」と考えるのが妥当である。

ということで、パネルの航空写真を少しだけ左回転させ、今一度、確認してみた。
果たして、グーグルマップと線路がピタリと一致するのであった。

もはや、多摩川浅間神社の境内を歩いても前方後円墳の面影はないが、この航空写真上での図示と測量図での図示で、浅間神社古墳の姿が容易にイメージ出来たのであった。

今回、探訪した古墳は、野毛大塚古墳と等々力渓谷3号墳を除いて、御岳山古墳の墳頂には祠、狐塚古墳の墳頂には稲荷の祠跡、八幡塚古墳には尾山台宇佐神社、鵜木大塚古墳には雪谷大塚稲荷神社が鎮座していた。
こうしたことは古墳にはつきもので、特に珍しいことではないが、これまで古墳めぐりをした中で、僅か1日で、これほど多くの、こうした姿の古墳に出会ったのは初めてであった。

古墳めぐりと等々力不動尊参拝、九品仏参拝を終え、多摩川駅から帰途に就いた。
反省会はなし、にして...。

フォト#1~#6:2018年3月4日(アーカイブより)
フォト#7~#9:2018年5月26日

(完)

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by ryujincho | 2018-05-27 23:39 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/鵜木大塚古墳』 tk-7

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

先ず、本日のメイン・イベント、野毛大塚古墳を探訪。
続いて、等々力渓谷3号墳を探訪。
等々力渓谷を経て、等々力不動尊を参拝。
そして、御岳山古墳、狐塚古墳、八幡塚古墳を探訪。
これにて、野毛古墳群は終了。
昼餉と九品仏参拝をはさんで、次は田園調布古墳群の鵜木大塚古墳と浅間神社古墳の探訪に。

先ず、鵜木大塚古墳へ。
九品仏から、環状8号線に出て、南東方面へ走る。
目印は、田園調布警察前交差点(環8と中原街道が交差)、その北東にある大田区立調布大塚小学校。
事前の調べでは、鵜木大塚古墳は小学校の斜め前にあり、墳丘には雪谷稲荷神社が鎮座しているとのことであった。
少し迷ったが、鵜木大塚古墳に到着。

鵜木大塚古墳/雪谷大塚稲荷神社。
鵜木大塚古墳(うのきおおつかこふん):
・円墳
・高さ 約6m、直径 約27m
・墳丘の南側を掻き落として稲荷社を構設している。
円墳がどのような形で残っているのか楽しみにしながら、鳥居をくぐり、稲荷神社へ向かう。
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墳丘の南側を掻き落として造られた社の左右と裏側はブロック塀となっている。
社の両側には立入禁止のテープが張られており、墳頂には行けない。
立入禁止のテープ越しに、社の右手(東側)から墳頂を垣間見る。
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社の左手(西側)から墳頂を垣間見る。
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墳頂から裾部へと目を遣る。
円墳の西側下は、道路、そして、住宅となっている。
道路があるということは、古墳の外観を眺めるのには好都合。
のちほど、行ってみることにした。
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”狛狐”コレクション。
阿形/子連れ。
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吽形/玉乗り。
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玉乗り狛狐の後ろに石碑が建立されている。
「市制記念碑」と刻まれている。
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市制とは東京市のことであろう。
裏面に目を通せば、更に詳しいことが分かるであろうが、雑草の生えた斜面に立たなければ裏側は見られないので、諦めた。

石碑の上部に刻まれた篆書体。
「大〇古〇」と一部しか読み取れない。
こういう書体が読めないのは情けない。
そして、その意味も想像すら出来ず、情けない。
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古墳の周囲をぐるっと一周。
南側は通りに面し、稲荷神社の鳥居と参道。
東側は住宅となっており、墳丘は見えない。
北側は駐車場、西側は道路で、墳丘が眺められる
先ほど、神社脇から眺めた墳頂から裾の部分を西側から眺める。
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大田区立調布大塚小学校。
正門に日の丸が掲揚されている。
この日は運動会が開かれており、学校にとっては旗日。
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次は、この日の古墳めぐりの最後となる浅間神社古墳へ。

フォト:2018年5月26日

(つづく)



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by ryujincho | 2018-05-27 23:37 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/九品仏』 tk-6

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

先ず、本日のメイン・イベント、野毛大塚古墳を探訪。
続いて、等々力渓谷3号墳を探訪。
等々力渓谷を経て、等々力不動尊を参拝。
そして、御岳山古墳、狐塚古墳、八幡塚古墳を探訪。

八幡塚古墳の探訪を終えたところで、ちょうど、昼餉時となった。
九品仏方面で昼餉を摂ることにし、環状8号線に出て、東へ走る。
玉川浄水場交差点を左折し、九品仏駅方面へ行こうとしたそのとき、交差点の角で、懐かしく、且つ、面白いもの(と言っては失礼になるかもしれないが)が目に入った。
連れの武衛さんに思わず、「あれを!」と交差点向かいのビルのガラス窓を指差したのであった。

小口整形外科。
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何故、懐かしく、且つ、面白いもの(と言っては失礼になるかもしれないが)なのかについて、説明しておかねばならないだろう。
jitensha を始めた頃、あるいは、それ以前から、面白い看板をコレクションしていた。
尾仲内科(内科で「おなか」)、越後貫歯科(越後貫の読みは「おごぬき」、アゴが抜かれそう)、荒井歯科(荒い歯科は困るが、洗いはクリーニング、歯磨きに通じるから良し!)、荒井皮膚科(粗い皮膚を想像)、奈良歯科(奈良の鹿を想像)、ひら歯科(ヘラジカを想像)などなど。
越後貫歯科に関わるブログを綴った際、越後貫さんから書き込みを頂戴したこともあった。

そうした中、2012年1月の世田谷ポタリングで、浄真寺(九品仏)を参拝し、駒沢方面へ向かう途中、奥沢7丁目の通りで「小口整形外科」と書かれた電柱の巻き看板を見た。
そのときのことをマイ・ブログに「浄真寺から駒沢オリンピック公園方面に向う。電柱の"巻き看板"を眺めながら走るのも、ポタリングの楽しみのひとつである。面白い看板を見つけた」とのキャプション付きで「小口整形外科」と「おか歯科」の電柱巻き看板の写真をアップ。
「小口整形外科」は大きな口をおちょぼ口に整形を想像、「おか歯科」は博多弁のようで面白いと思ったのであった。

なお、以前、マイ・ブログでこうしたことを綴ったとき、「医学は尊いもの、笑っちゃいけませんね」との言葉を添えており、この気持ちは今も変わりはない。

2012年当時の電柱巻き看板「小口整形外科」(アーカイブより)。
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環状8号線から北へ入る。
奥沢6丁目の通りの蕎麦屋で昼餉を摂り、九品仏へ向かう。

九品仏に到着。
2012年の世田谷ポタリングの際に参拝して以来、6年ぶりである。
6年前、等々力不動尊は境内に入らず、山門からの参拝であったが、九品仏では総門をくぐり、境内に入り、しっかりとお参りした。
ここが都内なの?と思わせる風情で、都内の寺院の中で最もお気に入りの寺となったのである。

「九品佛浄眞寺總門」。
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由来。
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当山はひろく「九品仏(くほんぶつ)」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院淨眞寺(くほんざんゆいざいねんぶつじょうしんじ)」、浄土宗に属し、境内約12万㎡(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の寺である。
開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の時、延宝6年(1678)に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。
「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を鋼板葺に改修した。
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寺紋コレクション。
この紋は「有馬竜胆車」(多分)。
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扁額コレクション/「般舟場」。
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扁額 般舟場(はんじゅじょう)
当山二世珂憶上人の高弟珂慶上人の御筆で流麗雄渾な筆致である。
般舟とは般舟三昧の事で常に行道念仏として現前に諸仏を見奉るを言う。
般舟三昧経三巻は弥陀経典中最古のもので浄土三部経と共に古来より重ぜられている。
当山は院号を唯在念仏院と称し念仏の道場であり参する人々に願往生の心を自然に発さんが為書かれたものである。
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閻魔堂。
お懐かしゅうございます、閻魔様。
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閻魔堂には葬頭河婆の像も安置されている。
葬頭河婆像は何やら恐ろしげなので、撮影は控えた。
前回のブログを見ると、「葬頭河婆は、ちょいと、怖ろしげなので、フォトのサイズは小さめで」とのキャプションが付し、写真を掲載している。
前回は恐ろしさを感じながらも写真は撮ったのだが、今回はちょっと...。
あれから6年、古希となったことは無関係ではないような気もする。

仁王門。
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阿形。
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吽形。
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鐘楼。
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鐘楼の四周には干支が彫られている。
我が干支「子」。
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ぐるっとめぐって「龍」。
これは、龍コレクション+アルファ。
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本堂。
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扁額コレクション/「龍護殿」。
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本尊 釈迦如来。
ご本尊様、お久しゅうございます。
普段、何処の寺院でも本尊を真正面から撮ることは控えているが、今回は特例でご容赦いただき...。
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本尊 釈迦如来につづいて、九体の阿弥陀如来、即ち、九品仏を参拝。

本堂の向かいの三つの阿弥陀堂に三体ずつ、合計九体の阿弥陀如来像が安置され、それぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の九つの階層を表しており、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)といい、この九品の仏を由来として、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。

上品阿弥陀堂。
上品阿弥陀如来像三体のうちの、上品上生仏。
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中品阿弥陀堂。
中品阿弥陀如来像三体のうちの、中品上生仏。
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中品阿弥陀堂の表に「中品下生佛像御遷座中」とある。
阿弥陀堂の左奥を見る。
本来、安置されているところに中品下生仏の御姿はない。
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中品阿弥陀堂内。
左側、中品下生仏の御姿がない。
表の立て札に「平成30年から2ヶ年間」とある。
中品下生仏の本座還着をお待ちしたい。
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中品上生仏の脇に「祝 中品上生佛大修繕完了 中品堂本座還着」とある。
”平成九品佛大修繕事業”の中で着々と修繕が進められているのである。
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下品阿弥陀堂。
下品阿弥陀如来像三体のうちの、下品上生仏。
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九体阿弥陀は、ここ、浄真寺のほかに浄瑠璃寺(京都府木津川市)にも安置されており、浄瑠璃寺は九体寺(くたいじ)とも呼ばれている。
浄真寺の阿弥陀像は江戸時代の作、浄瑠璃寺の阿弥陀像は平安時代の作。
いずれも『観無量寿経』に説く「九品往生」の考えに基づくものである。
史跡めぐりの相棒、武衛さんの話によれば、浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は小ぶりであるという。
浄瑠璃寺にはまだ参ったことがない。
京都府ではあるが、地図を見ると、奈良・東大寺の北東、数キロのところである。
是非、参ってみたい。

支柱コレクション/その1。
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支柱は礎石の上に置かれている。
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支柱コレクション/その2。
木立の奥に見える御堂は、上品阿弥陀堂。
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礎石に乗せられた支柱の下端は朽ちかけている。
支柱も平成の大修繕が必要かもしれない。
あるいは、新たな年号での大修繕が必要かもしれない。
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サギソウ。
花期は7月から9月。
その頃には、境内の池の周辺で、サギが羽根を広げたような姿を見せているのであろう。
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仏教行事「お面かぶり」。
(掲示板の写真、接写)
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正式には「二十五菩薩来迎会」という。
3年に一度、本堂と上品堂の間に渡された橋を菩薩の面をかぶった僧侶らが渡るという。
次回は2020年に催されるとのこと。

浄真寺の参拝を終え、再び、古墳探訪に。
次は、鵜木大塚古墳である。
九品仏から、再び、環状8号線に出て、南東方面へ走る。

フォト:2018年5月26日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-05-27 23:36 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/八幡塚古墳』 tk-5

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

先ず、野毛大塚古墳へ、続いて、等々力渓谷3号墳、等々力渓谷を経て、等々力不動尊を参拝、そして、御岳山古墳、狐塚古墳を探訪。

狐塚古墳から八幡塚古墳へ向かう。
事前の調べによれば、八幡塚古墳には、尾山台(旧小山村)の鎮守、宇佐神社が鎮座しているとのこと。
宇佐神社を目指し、環状8号線を東へ走り、尾山台1丁目交差点で右折し、南下。
住宅地の中を走る。
坂道を少しくだる。
坂道は南へ下っている。
この坂道から、多摩川左岸の、舌状台地であることが分かる。
先ほど、探訪した狐塚と同様、住宅地の中で、少し迷ったが、宇佐神社に到着。
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鳥居をくぐり、石段を上り、境内へ向かう。
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境内に入る。

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境内の奥に社殿、そして、木立の生えた<こんもり>が見える。
この<こんもり>が八幡塚古墳。
八幡塚古墳は、小さな方形の造出部がついた造出付円墳。

狛犬コレクション。
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手水舎の脇に、古墳へ続くと思しき道がある。
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手水舎脇の道を進むと、左手に「八幡塚古墳」と刻まれた石標があった。
「許可者以外立入禁止 宇佐神社」と書かれた看板が立てられている。
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先ほどの御岳山古墳の入り口にも「無断立入禁止」の札が掲げられていたが、「問い合わせ先 等々力不動尊」と書かれていたので、等々力不動尊の手務所で許可をもらい、墳丘部に入ることが出来た。
こちらは「許可者以外」とあり、許可を貰えばよいということになる。
しかし、先ほどのように「問い合わせ先」という書き方であれば、問い合わせをしてみようという気持ちになるが、「許可者以外」は「立入禁止」の常套句であり、社務所に許可を貰いに行こうという気持ちは起こらなかった。

「立入禁止」の看板のところから、奥の様子をカメラに収める。
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奥に石段が見える。
ズームアップ。
石段を上ると墳頂に行けるんだろうなと思いながら、シャッターを切る。
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「八幡塚古墳」と刻まれた石標を横目に見て、更に先へ進むと駐車場になっていた。
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駐車場の中を進む。
古墳と駐車場は金網で仕切られている。
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金網のところに立ち、外から墳丘を眺める。
墳頂と思しきところをカメラに収める。
木立の間に石造りの祠のようなものが垣間見える。
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石造りの社が見える。
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社の屋根の千木と鰹木がしっかりと見える。
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金網に沿って更に回り込むと、社の裏側がしっかりと見てとれた。
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アップで。
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南側を眺める。
先ほどの狐塚古墳と同様に、南側に武蔵小杉の高層マンション群が見える。
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宇佐神社と八幡塚古墳をめぐり、再び、境内下に。
境内下に立ち、今一度、この辺りの地形について考える。
多摩川左岸の台地の先端は一律ではなく、舌状台地という言葉に表されている通り、櫛の目状になっており、それぞれの舌状台地で多摩川の風景を臨むことが出来る先端に、古墳が築かれているのである。
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これにて、野毛から尾山台にかけての国分寺崖線上の高台に築造された野毛古墳群に属する4基の古墳、野毛大塚古墳、御岳山古墳、狐塚古墳、八幡塚古墳の探訪を終えた。
グーグル・マップで、これら4基の古墳を見ると、東西にほぼ一直線に並んでいることが分かる(正確にいえば、東西に一直線ではなく、少し斜めに一直線となっているが)。
これは偶然か、それとも一直線になるよう意図して古墳の位置が決められ、築造されたのか...。

昼餉時となった。
九品仏方面で昼餉を摂ることにし、坂道を上り、環状8号線に出て、東へ走る。

フォト:2018年5月26日

(つづく)


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by ryujincho | 2018-05-27 23:35 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/狐塚古墳』 tk-4

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

先ず、野毛大塚古墳を探訪。
次に、等々力渓谷3号墳(横穴墓群)を探訪。
等々力渓谷を経由して、等々力不動尊を参拝。
続いて、御岳山古墳を探訪。

次の探訪地、狐塚古墳へ。
御岳山古墳から環状8号線沿いの等々力渓谷入り口に jitensha を止め置いたところまで戻り、jitensha をピックアップ。
環状8号線を東へ少し走り、尾山台交差点を南へ。
住宅街に入る。
狐塚古墳の位置をマークした地図は持っているのだが、住宅街で目的地を見つけるのは難しい。
一筋目、二筋目と見定めながら、探したところ見つかった。
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「狐塚古墳緑地」の表示を見つけた瞬間、「住宅地の古墳やから、こんなことになったしまってるんや!」と思わず、つぶやいてしまった。

こんなことになってしまっているというのは、「狐塚古墳」ではなく、後ろに「緑地」と付されている通り、コンクリート壁で固められてしまっているのであった。
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コンクリート壁に jitenshaを立て掛け、「古墳緑地」に向け、階段を上る。
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墳頂というか、小さな緑地広場に立つ。
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狐塚古墳の名の由来は、嘗て、墳頂に稲荷の祠があったことから名づけられたとのことで、祠の跡らしき土台が残っている。
そして、梅の実が転がっている。
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犬を連れた婦人がいた。
婦人は我々を見ながら、「この人たち、ヘルメットを被って、緑地のあちらこちらを眺めているが、何をやってるんでしょう?」というように、怪訝な顔つきであった
愛犬家の武衛さんは、それを取り成すかのように、「犬の散歩ですね」と声を掛けた。
婦人は、見れば分かるでしょといわんばかりのニュアンスで「はい」と返事しながら、階段を下りていった。
いつもなら、地元の人に古墳についてあれこれ尋ねるところであるが、今回は見合わせた。

墳頂からの、北の眺め。
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西の眺め。
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東の眺め。
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南の眺め。
多摩川方面。
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彼方に見える武蔵小杉の高層マンション群をズームアップ。
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狐塚古墳推定復元図(説明板より)。
この図からは、墳頂から裾部までなだらかな傾斜が残っているように見えるが、冒頭の写真の通り、ほぼ垂直に切り取られている。
この図を眺めながら、削りに削り取られてしまっている古墳ながら、往時はこんな姿であったんだなあとイメージするのであった。
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次は、八幡塚古墳へ。

フォト:2018年5月26日

(つづく)



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by ryujincho | 2018-05-27 23:34 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/等々力不動尊~御岳山古墳(下)』 tk-3

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

野毛大塚古墳、等々力渓谷3号墳を探訪し、等々力渓谷を経て、不動の滝に立ち寄り、等々力不動尊を参拝。
次の探訪先、御岳山古墳へ。

事前の調べで、御岳山古墳は、目黒通りを挟んで、目黒不動尊の向かい側辺りにある。
等々力不動尊の山門に立ち、目黒通りの向かい側を眺める。
右手に<こんもり>を発見!
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目黒通りを渡り、御岳山古墳に到着。
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「扉に『無断立入禁止』の貼紙がありますぞ」。
「『無断立入禁止』の後ろに『問い合わせ先 等々力不動尊』と書かれておりますぞ」。
「御岳山古墳は、目黒通りが出来るまでは等々力不動尊の境内と地続きで、ここは寺の地所なのかもしれませんな」。
「等々力不動尊に戻って、寺務所に見学したいと頼んでみましょう」。

再び、目黒通りを渡り、本堂脇の寺務所へ。
見学したい旨伝えたところ、「扉は自由に開けていただいて結構です。見学が終わりましたら、必ず、扉を閉めてお帰りください」と。

再び、目黒通りを渡り、御岳山古墳に到着。
扉は内側から貫木で閉じられている。
貫木は、左右の金具に差し通す形のものではなく、左右の金具に置く形で、上に持ち上げれば直ぐに外せるものである。
寺務所の了解を得ているので、誰憚ることなく、堂々と(???)、扉の上から手を伸ばし、内側の貫木を外し、開扉。
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墳丘を上る。
墳頂へ向かう道は、草が刈られ、清掃もよくされており、寺の気遣いが感じられる。
路傍にはいくつもの石仏が安置されている。
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墳頂には祠が鎮座している。
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祠のほかに石碑も置かれている。
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「等々力村石堤之碑」と刻まれている。
等々力村で石堤が築かれたことを記念して建立された碑と思われる。
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等々力村とは。
世田谷区のHPによれば、「明治22年(1889年)、それまでの奥沢・尾山・等々力・下野毛・上野毛・野良田・用賀・瀬田の8村が合併して玉川村が成立し、等々力村は大字等々力となった」とある。
碑に刻まれた「等々力村」文字から、等々力村であった頃の古墳や周辺の様子を想像するのであった。

御岳山古墳は、先ほど、訪ねた野毛大塚古墳と同じ、帆立貝形古墳である。
帆立貝形古墳は、通常、円丘に小さな方形の張り出しが設けられ、平面形で見ると帆立貝の形になっていることから、帆立貝形古墳あるいは帆立貝式古墳と呼ばれている。
御岳山古墳は、道路や住宅が墳丘の周囲に迫っているため、小さな方形の張り出しが東西南北のいずれの方角に設けられていたかは視認できない(説明板にも測量図は添えられておらず、分からない)。

墳頂からみた周囲の様子。
東側。
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南側。
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北側。
南北に走る目黒通りが見える。
左端に、先ほど、我らが入った扉も見える。
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西側。
先ほど、上って来た道。
西へ下り、北へ曲がり、少し下り、北側の入り口へと続いている。
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入り口付近から墳丘の北側を眺める。
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入り口から、目黒通りを少し北へ進み、御岳山古墳を眺める。
左側(東側)の木立が生えている<こんもり>が御岳山古墳。
微かに入り口が見えている。
南北に走っている目黒通りは、御岳山古墳を過ぎた辺りから多摩川へ向かって下り坂となる。
これは御岳山古墳が多摩川左岸の舌状台地の先端部(標高31m)に位置していることを示している。
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目黒通りを渡り、南の方を眺める。
ビルの奥の<こんもり>が御岳山古墳。
右手、歩道側は等々力不動尊の木立。
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目黒通りから環状8号線に出る。
環状8号線沿いの、 jtensha を止め置いた 等々力渓谷入口まで歩き、jitensha をピックアップ。
環状8号線を東へ走り、狐塚古墳へと向かう。

フォト:2018年5月26日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-05-27 23:33 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/等々力不動尊~御岳山古墳(上)』 tk-2

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

野毛大塚古墳、等々力渓谷3号墳を探訪ののち、等々力渓谷を歩き、不動の滝、そして、等々力不動尊へ。

不動の滝。
その昔、役の行者が打たれていたという。
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滝が写っていないって?
写っているけれど、大きな滝ではなく、水は二つの「龍口」から流れ出ている。
アップで。

不動の滝、そして、龍コレクション「二つの龍口」。
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正面から。
二つの龍口の間に不動明王が鎮座。
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後刻、等々力不動尊の山門脇で目に入った「等々力渓谷」に関わる説明板(東京都と世田谷区の2種類)に、不動の滝や湧水のこと、等々力不動尊の由緒などが書かれていたことでもあり、それをここに掲載しておこう。
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東京都指定名勝
等々力渓谷
等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する開析谷で、都内唯一の渓谷である。
台地と谷のとの標高差は約10mあって、騒音も渓谷の中までは届かず、都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃な景観を呈し、武蔵野の面影をよくしている。
玉川全円耕地整理組合が、昭和5年から13年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋に至る渓谷内は殆ど人の立ち入ることもなく、キジなどの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。
等々力不動尊左手の石段下には、国分寺崖線の湧水である不動の滝があり、かつては、この滝に打たれて、行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役の行者ゆかりの霊場と伝えられている。
等々力渓谷保存会によって行われている蛍祭りは、清掃活動とともに地域に根ざした保存活動として成果をあげており、清流復活運動の先駆けとなった地域である。
等々力渓谷は、東京都指定名勝「真姿の池湧水群」(国分寺市)とともに国分寺崖線名勝群と形成する一つであり、東京を代表する自然地理的名勝として、植生学、地質学および地形学上重要である。
平成11年9月
東京都教育委員会
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都内ポタリングをしている中で、国分寺崖線に沿って走ったこがあり、国分寺市の「真姿の池湧水群」を訪ねたこともあり、国分寺崖線は興味深いもののひとつであり、この説明文も興味深く目を通した。

史跡好き、遺跡好き、古墳好きの小生としては、説明文の中で、古代の人々と等々力渓谷の関わりや、渓谷の地形を利用して横穴墓をつくったことなどにも触れられていれば、この説明文はもっとよくなるとも思うのであった(説明文評論家としての意見)。

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等々力渓谷
等々力渓谷は谷沢川によってできた谷で、今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(竜頭滝)に映え、深山の趣きがある。
谷間は粘土、砂礫、赤土(関東ローム層)の層が重なって地層の移りかわりをものがたっている。
不動の滝は古くより知られ、清浄な渓谷にしぶきをたてて、とどろいていたことから、等々力の地名が起こったともいわれている。
不動堂本尊は、新義真言宗の宗祖興教大師が山城国(京都府)よりこの地に移したとつたえられる。
昭和54年3月
世田谷区教育委員会
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世田谷区教育委員会のこの説明板は、東京都のものに比べ、相当にシンプルである。
由来好きの小生にとしては、等々力の地名の由来に触れてくれているのが嬉しい。
不動の滝の轟く音に由来するという説のほかに、渓谷の崩落する音から来たという説や、兎々呂城(「とどろじょう」。「城」を「き」と読み、「とどろき」に転化)から来た説など、諸説ある。

兎々呂城(とどろじょう)とは。
城主は南条右京亮重長。
南条家は小田原の後北条家の家臣で、国府台合戦で戦功を上げたことからこの地を領地として与えら、居城として、深沢城を築城し、出城として、兎々城を築いた。
国府台合戦とは、戦国時代、北条氏と里見氏ほか房総諸将が国府台(千葉県)で戦った合戦のことである。
松戸市矢切の伊藤左千夫の「野菊の墓」碑を訪ねたとき、その地が国府台合戦の激戦地であったことを知り、第二次国府台合戦で里見氏の軍の矢が尽きたことから「矢切」の地名が生まれたともいわれている。

余談が過ぎた。
「とどろき」に「等々力」の漢字を当て嵌めたのは何故だろう?と思いながら、先へ進む。

渓谷から、懸造の建屋を見上げながら、石段を上り、境内へ。
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不動明王が持つ「宝剣」像。
煩悩を断ち切る智慧の刀という。
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不動の滝の「龍口」につづく、龍コレクション/その2「手水舎の龍口」。
渓谷の緑がきれい。
手水舎の龍は、渓谷の緑から現れた昇り龍に見えなくもない。
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ジオラマ「等々力渓谷と等々力不動尊」。
先ほどの等々力渓谷3号墳は左手の崖沿いに(図示はなし)。
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等々力不動尊を参拝。
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第1話の冒頭で「6年ぶりに、滝轟山明王院(等々力不動尊)と九品山法真寺(九品仏)を訪ね、参拝...」と綴った。
6年ぶりとは、2012年1月、世田谷在の”猫”氏の案内で世田谷区内をポタリングのときのこと。
目黒通りを走っているとき、山門の前を通り掛かり、境内へ入ることなく、山門から参拝したのであった。
正確さを期するなら、6年前の参拝はそういうことであったのだ。

境内。
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山門。
本来は、山門から境内へ、そして、本堂へ、となるところであるが、等々力渓谷を経て不動の滝の脇の石段を上り、境内に入ったので、順序が逆になってしまった。
山門を出て、目黒通り側から山門を眺める。
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扁額コレクション。
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通称、等々力不動尊。
正式名称は、滝轟山(りゅうごうさん)明王院。
関東三十六不動尊霊場第十七番。
真言宗智山派到航山万願寺別院。
本尊は不動明王。
寺に残る言い伝えによれば、不動明王像は1300年前の作、800年前に興教大師が武蔵国に不動明王像を安置する場所を探し続け、豊な水量の滝を見て、この地を霊地と悟り、不動堂を創建したといわれている。

御岳山古墳へ。
事前の調べで、御岳山古墳は、目黒通りを挟んで、目黒不動尊の向かい側辺りにある。
山門の外に立ち、目黒通りの向かい側を眺める。
右手に<こんもり>を発見!
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目黒通りを渡り、御岳山古墳に到着。
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「扉に『無断立入禁止』の貼紙がありますぞ」。
「『無断立入禁止』の後ろに『問い合わせ先 等々力不動尊』と書かれておりますぞ」。
「御岳山古墳は、目黒通りが出来るまでは等々力不動尊の境内と地続きで、ここは寺の地所なのかもしれませんな」。
「等々力不動尊に戻って、寺務所に見学したいと頼んでみましょう」。

再び、目黒通りを渡り、本堂脇の寺務所へ。
見学したい旨伝えたところ、「扉は自由に開けていただいて結構です。見学が終わりましたら、必ず、扉を閉めてお帰りください」と。

再び、目黒通りを渡り、御岳山古墳へ。

フォト:2018年5月26日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-05-27 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/野毛大塚古墳、等々力渓谷3号墳』 tk-1

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐり<第二弾>に出掛けた。

<第一弾>の都内古墳めぐりのは、3月初旬で、府中市内の武蔵府中熊野神社古墳、御岳塚、高倉塚古墳を探訪し、多摩川サイクリングロードを経由して、田園調布古墳群のうち、多摩川台古墳公園内にある亀甲山古墳・蓬莱山古墳・多摩川台古墳群(円墳8基)を探訪した。

今回はその続きとして、次の古墳をめぐることとした。
<野毛古墳群>
・野毛大塚古墳(帆立貝形古墳、5世紀初め)
・御岳山古墳(帆立貝形古墳、5世紀後半~6世紀中葉)
・狐塚古墳(円墳、※帆立貝形ないし造出付円墳との説もあり、5世紀後半)
・八幡塚古墳(造出付円墳、5世紀中葉)
<等々力渓谷横穴群>
・等々力渓谷3号墳(横穴墓、7世紀)
<田園調布古墳群>
・鵜木大塚古墳(円墳、築造時期?)
・浅間神社古墳(前方後円墳、6世紀前半)
※多摩川台古墳公園展示室
更に、6年ぶりに、滝轟山明王院(等々力不動尊)と九品山法真寺(九品仏)を訪ね、参拝することも加えた。

各々の古墳の詳細は、別途、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」の「武蔵国史跡めぐり」の中で綴ることとし、本ブログではポタリング記録として綴り残すこととしたい。

9:00、東急大井町線等々力駅に集合。
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等々力駅から環状8号線に出て、西へ。
等々力渓谷を横目に見て、しばらく走ると左手に玉川野毛町公園が見えて来た。
玉川野毛町公園内に野毛大塚古墳はある。

野毛大塚古墳。
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野毛大塚古墳は、帆立貝式古墳である。
全国各地に帆立貝形古墳があるが、関東で代表的なものは次の4ヶ所。
①塚廻り古墳群(群馬県太田市)
②女体山古墳(群馬県太田市)
③雷電山古墳(埼玉県東松山市)
④野毛大塚古墳(東京都世田谷区)
既に①②③の3ヶ所は探訪済みで、残るは野毛大塚古墳のみとなっていたので、早期に探訪し、”関東四大帆立貝形古墳”(筆者が勝手に”四大”と称しているのだが)を制覇したく、今回の目玉として野毛大塚古墳を織り込んだのであった。

帆立貝形古墳は、通常、円丘に小さな方形の張り出しが設けられ、平面形で見ると帆立貝の形になっていることから、帆立貝形古墳あるいは帆立貝式古墳と呼ばれている。
野毛大塚古墳は、通常の形とは少し異なり、小さな方形の張り出しのほかに、小さな造出部が設けれらており、<おまけ>付きの帆立貝形古墳である。

墳頂からの眺め。
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周濠跡で仲良く遊ぶ、子供さん二人。
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ズームアップ!
仲良く遊んでいる子供さんは、外国人であった。
さずが、高級住宅地の野毛である。
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次は等々力渓谷3号墳へ。
環状8号線を東へ少し戻る。
環状8号線沿いに「都史跡 等々力渓谷3号墳」と刻まれた立派な石標が立っている。
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石標近くに jitensha を留め置き、等々力渓谷に入る。

等々力渓谷横穴群/等々力渓谷3号墳。
等々力渓谷横穴群は、野毛地域の有力な農民の墓で、これまでに3基の横穴が調査されており、現在、3号墳横穴が完全に残っている。

渓谷の崖に横穴を掘り、羨道と玄室で構成されている横穴墓。
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石室は入り口に嵌められたガラス越しに内部を見るとことが出来る。
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4月半ば、水町遺跡群(福岡県直方市)で横穴墓を初めて見た。
つづいて、4月末、黒岩横穴墓群、吉見百穴(いずれも埼玉県吉見町)、比丘尼横穴墓群(埼玉県東松山市)で横穴墓を見た。
ここ、等々力渓谷3号墳で三度目の横穴墓探訪が叶った。

jitensha はそのまま止め置き、徒歩で、等々力渓谷を進み、等々力不動尊、そして、御岳山古墳へと向かう。

等々力渓谷案内図。
方位は左が北。
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案内図右側(南側)拡大図。
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最下段(西)/野毛大塚古墳
左側、上下(東西)に走る道路は環状8号線
中段、左右(南北)に続く緑地が等々力渓谷、そこを流れる川は谷沢川
中段、中ほど/等々力不動尊、不動の滝
上段、左右(南北)に走る道路は目黒通り(都道132号線)
最上段(東)/目黒通り沿い、中ほど/御岳山古墳

フォト:2018年5月26日

(つづく)



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by ryujincho | 2018-05-27 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 24日

『自転車のある風景』

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フォト:2018年5月24日、日比谷にて



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by ryujincho | 2018-05-24 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 24日

『ゴジラ & 東京ミッドタウン日比谷』

5月24日(木曜)、晴れ。
所用があり、都内へ出掛けた。
春にオープンした東京ミッドタウン日比谷なるものが如何なるものか、”社会勉強”のため、日比谷へ立ち寄ってみた。

GODZILLA SQARE & TOKYO MIDTOWN HIBIYA

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GODZILLA SQARE & TOHO CINEMAS CHANTER
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TOKYO MIDTOWN HIBIYA
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TOHO CINEMAS HIBIYA/TOKYO MIDTOWN HIBIYA, 4 & 5F
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有楽町・日比谷界隈の映画館は随分と変わった。
日本劇場(通称、日劇)、1933年12月24日開館、 1981年2月15日閉館。
1970年前後、学生の頃に通った日劇は、東宝映画1本と歌謡ショーのセットであった。
記憶に残っているひとつに、映画は何だったか忘れたが、布施明ショー、ラストの歌は”My Way”であった。

有楽町マリオン、1984年9月オープン、有楽町マリオン内の映画館が「日劇」の名称を継承。
オープン直後の1984年12月公開の映画『ゴジラ』(ゴジラ・シリーズ第16作)で、有楽町マリオンが破壊されるシーンが登場する。
沢口靖子は、デビュー第二作目の本作で『日本アカデミー賞』新人俳優賞を受賞。
2018年2月閉館。
2018年3月、TOHOシネマズ日比谷オープン、有楽町マリオン内にあったTOHOシネマズ日劇その他を継承。

TOHOシネマズ日比谷で映画を観たあと、入り口のチケットもぎり嬢に「スクリーン5はEXTRA LARGE SCREENとありましたが、有楽町マリオンの日劇のスクリーンとどちらが大きいのでしょうか」と尋ねてみた。
その答えは「わたじ、有楽町マリオンの日劇、知らないんです」と。
さもあらん。

スクリーンの大きさは、新宿ミラノ座が最大であったが、2014年、新宿ミラノ座閉館の後は、有楽町マリオンの日劇のスクリーンが最大となった。
映画は大画面で観るものというのが、小生の長らくのモットー。
しかし、いつの頃からか、シネコンの小さなスクリーン、そして、テレビ画面のサイズで満足するようになってしまった。
TOHOシネマズのEXTRA LARGE SCREENがどれくらいの大きさなのか、一度、このスクリーンで上映される作品を観てみたいと思っている。

「ゴジラ & 東京ミッドタウン日比谷」と題したが、映画館の話に終始してしまった。
ゴジラについては、これまでに幾度か綴っていることでもあり、ここでは「東京ミッドタウン日比谷が新しい背景となったゴジラ像が撮ってもらえて嬉しいなあ」、「第16作では有楽町マリオンを破壊。次のゴジラの新作映画では東京ミッドタウン日比谷を破壊するぞ、いや、TOHOシネマズ日比谷に仲間がいるから止めておこう」と、ゴジラ・スクエアのゴジラがつぶやいていたことだけをここに綴っておきたい。

=備忘録=
これまで都内で出会ったゴジラ像
・長根浜公園(伊豆大島、東京都大島町)石製頭部像
 ※伊豆大島火山博物館敷地内 シン・ゴジラ像設置計画は白紙撤回
・東宝スタジオ(世田谷区成城)正門前/立像、第5ステージ西壁面/壁画
・TOHOシネマズ新宿 屋上/頭部像
・新宿中央公園 水の広場 砂像彫刻(新宿クリエーターズ・フェスタ2015)
・日比谷ゴジラ・スクエア 立像
・TOHOシネマズ日比谷 シアター入り口/立像

ゴジラ像以外のゴジラ”名所”
・JR品川駅 1番線ホーム8両目付近に「鉄道発祥の地」プレート(ゴジラのイラスト付き)あり。
・京急北品川駅前 周辺案内図に「ゴジラ上陸地点」(火を吹くゴジラのイラスト付き)の図示あり。
図示された「ゴジラ上陸地点」は八ツ橋付近。
映画『ゴジラ』(1954年(昭和29年)第1作)では、ゴジラは東京湾から品川へ上陸。


フォト:2018年5月24日





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by ryujincho | 2018-05-24 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)