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龍人鳥の徒然フォト日記

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カテゴリ:街歩き、村歩き、ポタリング( 186 )


2019年 02月 11日

『新国立美術館 2019.2.11』

2月11日(月曜)、曇り。
jitensha 仲間の伊豆守さんはアマチュア画家。
彼の作品が新国立美術館で開催されている絵画展に出品されているとの案内があり、
jitensha 仲間の武衛さん、南国守さんと共に新国立美術館へ。
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作品に見入る少女。
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別の展示室で開催されていたモダン・アートも鑑賞。

古代遺跡の環状列石を思わせる作品。
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昆虫好きにはたまらない作品。
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これは作品ではなく、館内写真。
《無機質な斜め平行線》とでも題し、出品してもよいかもしれない。
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芸術鑑賞のあとは蕎麦屋で一献。
六本木から麻布十番へと向かう。

《街角 Ⅰ》
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《街角 Ⅱ》
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《街角 Ⅲ》
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《街角 Ⅳ》
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フォト:2019年2月11日


by ryujincho | 2019-02-11 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2019年 01月 30日

『墨東散策/三囲神社』

1月30日(水曜)、晴れ。
墨東散策。
牛嶋神社と三囲神社を参拝。

牛嶋神社から三囲神社へ。
「三囲」の読みは「みめぐり」。

牛嶋神社は三輪鳥居、三囲神社は三柱鳥居。
牛嶋神社は<狛牛>、三囲神社は<狛ライオン>。
これらを愉しみに、三囲神社へ歩を進める。

三囲神社。
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「鬼平情景」。
本所界隈でしばしば目にする鬼平犯科帳ゆかりの高札である。
神社参拝の折には、先ず、社号標、鳥居、扁額コレクションなどから撮り始めるのが常だが、この高札は三囲神社について簡潔明瞭に書かれており、先ず、これを。
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鬼平情景
三囲神社(三囲稲荷社)
三井家(越後屋)が江戸進出時に三囲の名にあやかって守護神としました。
港区にあった三井八郎右衛門邸が小金井市の江戸東京たてもの園 に移築される際には、屋敷神であった顕名霊社、三角鳥居、家紋の入った水鉢などが寄贈されました。  
鬼平犯科帳 にも数回、登場しますが、特別長編「迷路」の「妙法寺の九十郎」には、
三囲稲荷社は、大川の堤の道を一段下った鳥居から田圃の中を松並木の参道が東に伸びた先にあり、境内は広くはないが、美しい木立と竹林に囲まれ、本社は立派なものであると、当時のたたずまいが描かれています。
(図)
『江戸名所図会』より
墨田区
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一の鳥居。
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扁額コレクション。
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二の鳥居。
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扁額コレクション。
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歌碑。
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日比翁助 石垣の歌碑

いしがきの 小石大石持合いて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色 日比美勲

日比翁助は号を美勲と称し 三越呉服店の会長 わが国 近代百貨店の創始者であった
茲来百年 松を新たに植え 旧観を復した
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最古の紀年銘。
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最古の紀年銘
藤堂高睦(伊賀上野城主)が宝永3年(1707)に奉納した当神社で最も古い年代を示す石造物
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由緒。
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由緒
一 東京市本所區向島二丁目七番地
鎮座
一 村社
一 御祭神 宇迦能魂命
一 御祭日 例祭 四月九日
三井總元方 三井銀行 三井物産株式會社 三井鑛山株式會社 株式會社三越
右總元方始め各株式會社交代に正五九の小祭を受け持ち昔の礼の儘に祭祀を執り行ふ

當社の草創は、實に壹千餘年前の事にして其間屢々の變遷あり
元亀年間火災に罹り社殿を再建し、慶長年間には隅田川築堤に際し
旧社地より約南二丁の現地に移さる
靈験妙なるが 中にも元禄六年六月の大旱魃の時俳聖晋其角献句雨乞によりて 
靈験立ちどころに顕れ 翌日大雨あり之より御神德天下に普く
特に京都の巨商三井家江戸に進出するや 三圍大神の信仰厚く當家の守護神と仰ぎ
享保元年三井髙治三井高久三井高房相議りて 神祇の司職吉田家に神位を乞請け捧け奉り
又 享保十二年五月には 從二位卜部朝臣兼敬に請ひて更に靈璽を當社に遷し鎭め奉り 
田地を捧け 社地を擴張し 神殿瑞垣を改築せり
爾來二百餘年子孫代々祖先の志を継ぎ、敬神以て今日に至る
迠昔の隨々に當社の維持經營に努め又三圍講を創設して祭祀に力を致す
境内末社多く中にも大國神惠比壽神は隅田川七福神の一として其名髙く
額殿に奉揭せる額は三井家に関係のもの大部を占め又樹間に點綴せる諸名家の碑石は
其の數多く興趣掬すべし 
昭和十七年一月二十五日
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祭神 宇迦能魂命とは。
『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。
名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。
また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる。
記紀ともに性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。
ただし、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことである。
伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。

狛犬コレクション。
奥にライオン像が一体、見えるが、これは後段で綴るとして、先ずは狛犬から。
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阿形狛犬をアップで。
狛犬にも幾つか種類があるが、これは獅子舞の獅子の面立ち。
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吽形狛犬。
うん、やっぱり、獅子舞。
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「三囲のコンコンさん」。

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「三囲のコンコンさん」は、先ほど、訪ねた牛嶋神社の撫で牛と同様に、不思議な面立ち。
その面立ちをアップで。


阿形のコンコンさん。
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吽形のコンコンさん。
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「三囲のコンコンさん」の説明書きに目を通す。
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三囲のコンコンさん
目尻のさがった温和な表情をここいら辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうである
向店は越後屋本店(ほんだな)の道をへだてた向かいにあって木綿を主に扱っていた
享和2年(1802)の奉納
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狛犬、コンコンさんのあれこれに続いて、ライオン像について。
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説明書きに目を通す。
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三囲のライオン像
三越の旧池袋店から移した 三越のシンボルであるライオン像は
大正3年 当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオンを大いに好み
三越本店に 一対のライオン像を据えたのにはじまる
戦後 本店の像をもとに各支店に設置されている ライオン像の原形はロンドン・トラファルガー広場の有名なネルソン像をかこむライオンである。
なお、「現金安売り掛け値なし」という三井の越後屋の画期的な商売の仕方は 大いに発展し 明治29年三越呉服店につながる
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日比翁助は、欧米を視察し、デパートメントストアという概念を日本に持ち込んだ人物である。
1914年(大正3年)に本店玄関に設置されたライオン像は、英国人彫刻家、メリフィールドがトラファルガー広場のライオン像から型取りし、バルトンが鋳造したものである。
因みに、トラファルガー広場のライオン像は、英国人動物彫刻家 ランドシィーア(1802-1873)の作である。
本店のライオン像は太平洋戦争中に金属回収されたが、溶解を免れて、東郷神社に奉納されているのを社員が発見し、1946年(昭和21年)に本店に戻ったという。
これは、東郷神社が海軍の担当者からの依頼で神社の敷地内にあった防空壕の中に隠して置かれたとのことで、海軍担当者は、戦局の悪化を見通し、溶かして武器にする無意味さを悟っていたためという。
2009年に閉店した池袋三越の像は三囲神社に奉納されたほか、2015年、日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈されている(ライオンは日体大のシンボルマスコット)。

今一度、ライオン像を眺める。
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上掲の狛犬阿吽形の面構えに比べるとこちらは面白さに欠ける。
トラファルガー広場のライオン像はもっと精悍な面立ちである。
百貨店だから、優し気に作ったのかもしれない。


ライオン像の隣の、三越の商標。

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(右)
「越」は三越の商標。
客に出す茶の湯を沸かす銅壺の台石に彫られ、「腰」の範形といわれる。
明治29年から昭和の初期まで実際につかわれていた。
(左)
ライオンは東洋的意匠の狛犬に変化したのだが、三越のライオン像も狛犬のように神前を守っている。
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社殿+ライオン像+三越の商標+吽形の狛犬+コンコンさん。
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扁額コレクション。
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これにて墨東散策を終えた。
終えたあと、狛犬、コンコンさん、ライオン像などに集中し過ぎて、三囲神社の必見である未柱鳥居を見忘れていたことに気付いた。
牛嶋神社の三輪鳥居は台風で倒壊し、見ることが叶わなかったことでもあり、三囲神社の三柱を見忘れたことと、ちょうど、上手くバランスしたと思うことにし、次回の愉しみとした。

フォト:2019年1月30日

(完)




by ryujincho | 2019-01-30 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2019年 01月 30日

『墨東散策/牛嶋神社』 bt-1

1月30日(水曜)、晴れ。
墨東散策。
牛嶋神社と三囲神社を参拝。

昨年12月、すみだ北斎美術館で「須佐之男命厄神退治之図」(推定復元図)を観た。
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この作品は、弘化2年(1845年)、北斎が86歳の時に描いた板絵額。
牛嶋神社に奉納され、社殿に掲げられていたが、関東大震災(大正12年・1923年)で焼失。
近年、明治43年(1910年)刊の『国華』に掲載されていたモノクロ写真をもとに、最新の技術を用いて制作当時の色彩で推定復元。

そうしたこともあり、今般、牛嶋神社を参拝したのであった。

牛嶋神社。
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扁額コレクション。
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扁額には「神宮大宮司 二条弼基 謹書」とある。
二条弼基(にじょうたねもと)について、ネット検索してみた。
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二条弼基(1910年 - 1985年)
工学者、政治家、華族、貴族院公爵議員、工学博士。
男爵・二条正麿の三男として生まれ、二条家第28代当主・二条厚基の養子となる。
1930年、公爵を襲爵。
1934年、東北帝国大学理学部地質科を卒業し、さらに1937年同大学工学部電気科を卒業。
1937年、逓信省電気試験所に入所し、研究員となり、1939年、逓信技師に任官。
1940年、満30歳に達し、貴族院公爵議員に就任し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
戦後は、逓信省電気通信研究所無線器具課長、郵政省電波研究所次長、同省電波監理局監視長、同局次長などを歴任。
1962年に退官して、松下電器に入社し、技術本部研究調整部長、同本部研究所長、同研究所参与を務めた。
1976年、伊勢神宮大宮司に就任。
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狛犬コレクション。

阿形。
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吽形。
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狛犬の位置から拝殿を眺める。
三輪鳥居(みわのとりい)がない!
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境内を掃除中の権禰宜さんに尋ねてみた。
「三輪鳥居は如何相成りましたでしょうか」。
「去年の台風24号で壊れてしまいました」。
「そうですか、それは知りませんでした。是非、再建を」。

三輪鳥居が設けられている理由として、須佐之男命・天之穂日命・貞辰親王命の三祭神を祀っているからとの説もあるようだ。
三輪鳥居をくぐったつもりで、拝殿前へ。

狛犬コレクション、その二。
阿形・吽形がそれぞれ獅子山風の設えで。

阿形。
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吽形。
子連れ。
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牛嶋神社は本所一帯(墨田区の南半分)の総鎮守。
牛となれば、菅原道真、天神さんかと思うも然に非ず。
須佐之男命ほか三祭神を祀り、古くから「撫牛信仰」の神社でもあるのだ。

拝殿前には、狛犬コレクションならぬ、狛牛も鎮座。

狛牛コレクション。

右手、阿形の位置の狛牛。
牛であるからか、阿形の狛犬のように口は開いていない。
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左手、吽形の位置にある狛牛。
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説明板に目を通す。
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牛島神社について
牛島神社は、もともと、本所区向島洲崎町に鎮座していたが、関東大震災後、昭和のはじめ、水戸徳川邸跡の現位置に再建された。

当社の縁起書によると貞観2年(860年)、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として創祀、後に天之穂日命を祀り、次いで清和天皇の皇子貞辰親王をお祀りし、「王子権現」と称した。

また、天文7年(1538年)、後奈良院より「牛御前社」との勅号を賜ったといわれ、隅田川に沿う旧本所一帯の土地を、昔、「牛島」と呼んだところから、その鎮守として明治初年から「牛島神社」と称するようになた。
例祭日9月15日は、貞観の昔はじめて祭祀を行った日とされている。

治承4年(1180年)、源頼朝が大軍を率いて、当地に赴き、豪雨による洪水に悩まされたとき、武将千葉介平常胤が祈願し、全軍無事を得たところから、頼朝はその神徳を尊信し、社殿を造営し、多くの神領を寄進した。 

江戸時代には、鬼門守護の社として将軍家の崇敬厚く、特に三代将軍家光は祭礼渡御の旅所としての土地を寄進した。
現在の本所二丁目のお仮宮がこれである。
総桧権現造り、東都屈指の大社殿を誇る牛島神社は、昭和32年、鎮座千百年祭を執行、氏子五十町・牛島講の守護神として、崇敬尊信を集めている。
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「清和天皇の皇子貞辰親王をお祀りし、『王子権現』と称した」とある。
貞辰(さだとし)親王は清和天皇の第七皇子。
貞辰親王は、牛島神社のほか、葛飾区の王子神社と王子白髭神社の祭神となっている。
その王子神社社伝によると、貞辰親王が東国を巡行中の元慶元年(938年)にこの地で没したために祀られたという。

先日、古墳探訪の一環で、北区王子の飛鳥山を訪ねた。
その際、王子の地名の由来は、熊野から王子権現を勧進したことによるとあった(後の王子神社)。
王子も牛嶋も、神が高貴な幼児の姿で現れるという王子信仰。
熊野信仰とともに、熊野の若一王子(にゃくいちおうじ)権現が全国に広まった。
そのほかに、祇園社や日吉社の八王子権現なども有名。
王子信仰であるから、親王を祭神化するというのも頷ける。

「治承4年(1180年)、源頼朝が大軍を率いて、当地に赴き...」とある。
これは、治承4年(1180年)8月、源頼朝が伊豆で挙兵、伊豆を制圧した頼朝は相模へ向かうが、真鶴付近の石橋山の戦いで敗北、安房へ脱出し、上総、下総、そして、武蔵を経ながら加勢を得、坂東を平定し、鎌倉へ向かう際、同年10月、下総から武蔵に入ろうと隅田川を渡河するときの出来事を指している。


もうひとつの説明板にも目を通す。
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牛嶋神社
貞観2年(860)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。
関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。
昭和7年(1932)に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。
本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3年(1251)には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。
また、境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(烏亭)焉馬(えんば、1743~1822)の「いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるヽ 堪忍の虹」の句碑などがある。
5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。
返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合御渡となる。
(写真)
左・上/「須佐之男命厄神退治之図」
    86歳の作といわれている。
    関東大震災で焼失したが、モノクロ写真が残っている。
左・下/牛嶋神社
右・下/撫牛
    自分の悪い部分と同じ場所を撫でると、病気が治るといわれている。
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撫牛は何処にあるのだろうと、ぐるっと辺りを見たが、見当たらない。
社務所の巫女さんに撫牛の場所を尋ねた。
わざわざ、社務所の外に出て、案内してくださった。
社殿の直ぐ近くの覆い屋に撫牛は鎮座していた。
天満宮の撫で牛を想像していたので、覆い屋にあると思っていなかったので、見つからなかったのであった。

撫牛。
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不思議な面立ちをした牛である。
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説明板に目を通す。
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墨田区登録文化財 
撫牛(なでうし)
所在地 墨田区向島1-4 

牛嶋神社内撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。
自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。
牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。
また、子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
この牛の像は、文政8年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。
平成17年3月 墨田区教育委員会
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「不思議な面立ちをした牛」と上述したが、堀辰雄の「メランコリックな目さし」の表現がぴったりだ。
流石、小説家である。


包丁塚。
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社殿前の<狛牛>、社殿近くの<撫牛>、そして、境内入口の包丁塚の牛と、面立ちの異なる三体の牛を見た。
こうして、三体を見比べるのも牛嶋神社の愉しみのひとつかもしれない。
因みに、狛犬コレクションの異色版として、一昨年の三峯神社の<狛狼>に続き、今回、<狛牛>の蒐集も叶った。
残るは、大宮/調神社の<狛兎>、備前/和気神社と京都/護王神社の<狛猪>である。

包丁塚から南東の方向を眺めると、鳥居の向こうに東京スカイツリーの姿が。
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三囲神社へと向かう。

フォト:2019年1月30日

(つづく)


by ryujincho | 2019-01-30 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2019年 01月 26日

『武蔵国古墳探訪/十条富士塚古墳』 kk-3

1月25日(金曜)、晴れ。
都内の古墳探訪に出掛ける。
古墳探訪の相棒、武衛さんと共に。

先ず、飛鳥山1号古墳を探訪。
続いて、赤羽台第3号古墳石室を探訪。
続いて、十条富士塚古墳へ。

途中、煉瓦造りの建物に遭遇。
北区中央図書館。
その一画にある東京砲兵工廠銃包製造所の建物として使用されていた煉瓦造りの倉庫であった。
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説明板に目を通す。
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北区指定有形文化財
十条富士塚
北区中十条2-14-18

十条冨士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。

現在も、これを信仰対象として毎年6月30日・7月1日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠(せきし)を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。

塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、30数基あります。
銘文によれば遅くとも、天保11年(1840)10月には冨士塚として利用されていたと推定されます。

これらのうち、鳥居や頂上の石祠など16基は明治14年(1881)に造立されています。
この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄(じきぎょうみろく)、本名伊藤伊兵衛の150回忌に当りました。
石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。

形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳(こみたけ)神社の石祠を置いています。
また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
十条富士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、富士信仰に基づく祭儀を行って来た場です。

平成4年3月 北区教育委員会
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この説明書きは、富士山信仰の富士塚をメインに書かれている。
「古墳と推定される塚に...」と僅かに古墳であることが触れられている。

ウィキペディアでは、富士塚古墳は十条台古墳群に属する古墳として次の通り解説されている。
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十条台古墳群は、東京都北区十条にある古墳群である。
中十条2丁目にある3基の円墳跡と富士塚古墳からなる。
武蔵野台地北東縁に立地する小規模な円墳群で、利根川下流域における初現的な群集墳である。
周辺の宅地開発によりほとんどの古墳は削平された。
北区教育委員会によって発掘調査され、5基の周溝が検出された。
・十条台1号墳
 径23メートルの円墳。
 周溝から大量の埴輪(円筒・朝顔)、土器(土師器坏・椀、須恵器坏)が出土。
・富士塚古墳
 円墳跡に溶岩を配して富士山を模すように整えられ、全体が十条富士神社となっている。
 1991年(平成3年)11月に、「十条冨士塚」として東京都北区指定有形民俗文化財に指定された。
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都内には60数基の富士塚があるという。
富士塚を意識してポタリングをしたことはないが、これまでに訪ねたことのある富士塚を挙げておこう。
・駒込富士神社
 初夢の「一富士、二鷹、三茄子」発祥の地である。
・水稲荷神社/高田富士
 早稲田大学拡張工事の際に大学構内にあった江戸中最古の富士塚を移築。
・品川神社/品川富士
 江戸七富士のひとつ。
 高さ15m、都内最大の高さの富士塚。
・鉄砲洲稲荷神社/鉄砲洲富士
・十条富士神社/十条富士
 江戸七富士のひとつ。
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・木曽呂の富士塚(埼玉県川口市東内野) 
 都内ではないが、埼玉県/見沼用水路をポタリングしていた際に遭遇。
 寛政12年(1800年)に富士講の一派である「丸参講」によって築造。
 埼玉県内では最古の富士塚。

古墳から富士塚に話が反れてしまった。

3基礎の古墳、将軍吉宗の「飛鳥山碑」、富士塚、近代の遺物、都市交通など短時間ながら盛りだくさんな半日であった。

フォト:2019年1月25日

(完)



by ryujincho | 2019-01-26 23:33 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2019年 01月 26日

『武蔵国古墳探訪/赤羽台第3号古墳石室』 kk-2

1月25日(金曜)、晴れ。
都内の古墳探訪に出掛ける。
古墳探訪の相棒、武衛さんと共に。

先ず、飛鳥山1号古墳を探訪。
続いて、赤羽台第3号古墳石室へ。

飛鳥山から旧岩槻街道を北へ、音無橋を渡り、王子神社の前を通り過ぎ、王子新道を西へ。
王子神社の前を通り過ぎながら、王子に来るのは東京十社めぐり以来、東京十社めぐりはいつのことであったろうかなど、思いを巡らす。
2012年3月3日、jitensha club ドラポタの面々と「東京十社めぐり、川向うの二社以外の八社めぐり」と銘打ち、南の品川神社から北の王子神社まで八社をめぐったのであった。

赤羽台第3号古墳石室の目印は、北区中央公園内の文化センター。

北区中央公園の入り口に到着。

前方に想像外の姿をした白い建物が!
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白い建物は中央公園文化センター。
戦前の東京第一陸軍造兵廠(兵器工場)の本部として昭和5年に建てられたもの。
北区の赤羽から王子に至る間には旧日本陸軍の施設が数多くあったということは承知していたが、実際に目にしたのはこれが初めて。
数年前、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷となった大講堂などを移設・復元した市ヶ谷記念館を見学したことがある。
バルコニーや車寄せが設けられた玄関など、建物正面はそれとよく似た姿である。

赤羽台第3号古墳石室は文化センターの右手(東側)にあった。
石室は覆屋で覆われている。
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覆屋の中を覗く。
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少し、角度を変えて。
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説明板に目を通す。
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赤羽台第3号古墳石室
この古墳の石室は、昭和57年7月、東北新幹線工事にともなう発掘調査により発見されたものです。
ほかに十数基の古墳、横穴墓群、多数の竪穴住居跡が見つかっています。
北区の歴史を知る上で貴重な資料であるため、石室をそのまま切り取って移設し、展示しているものです。
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発見場所と移設場所を示した図。
発見場所:北区赤羽台4-2 星美学園内
現在地:北区十条台1-2-1 中央公園内
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この図には石室の発見場所と移設場所のほかに幾つかの情報が織り込まれている。
・南東(右下)から北東(左上)に京浜東北線が走っている。
・京浜東北線は台地の裾(崖下)を通っている。
・現在地の東(右)の王子駅の南(下)に、先ほど、探訪した飛鳥古墳1号墳がある。
・飛鳥古墳1号墳の巻で綴った通り、台地から北東に隅田川、荒川を望む。
・赤羽台第3号古墳石室の発見場所は、赤羽駅の北。
・石室の移設場所の南に、西から東へ石神井川(荒川水系の支流)が流れている。
・石室の発見場所の北に、西から東へ新河岸川(荒川水系隅田川の支流)が流れている。
 明治の遺物/几号水準点探訪で赤羽北の諏訪神社を訪ねた際、新河岸川から南へ台地を上ったことを思い出す。

石室の概要。
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石室の概要
石室の概要この石室は今から約1400年前の古墳時代に作られた横穴式石室です。
現在は石積みが二段しか残っていませんが、当時は数段積まれ、その上に天井石をのせたものと推定されています。
石材は凝灰質砂岩で海浜の自然石を用いたものです。
また、床面には、全面に小石が、一部にカキ殻も敷かれていました。
石室の中には人骨とともにガラス玉・碧玉製の管玉・耳飾りなどの装身具と直刀・矢の先に付けられる鉄鏃などの武器類が副葬品として納められていました。
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石室平面図、出土品。
上段、左/副葬品出土状態
上段、右/石室平面図
下段、左/装身具類(ガラス玉、管玉、耳環)
下段、右/武器類(直刀、刀子、鉄鏃)
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石室復元図。
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明治の遺物。
石室の覆屋の奥にこんなものが展示されていた。
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説明板に目を通す。
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東京砲兵工廠銃包製造所のボイラ(部品)と鋼製耐震煙突銘板
明治38年(1905)、現在の十条台1丁目一帯に「東京砲兵工廠銃包製造所」が開設されました。
日露戦争を機に弾薬(銃包)の増産が必要となったことから、小石川地区(現後楽園周辺)より当地に移転・拡張されたものです。
敷地内には銃包を製造するための煉瓦造の工場棟が多数建設されました。
銃包製造所では、製造に必要な工作機械の動力として、英国バブコック&ウイルコックス社製のWIF型蒸気ボイラーが導入され、ボイラーの煙突には、東京芝浦製作所製の鋼製耐震煙突が使われました。
この煙突は、煉瓦造の煙突の周りに鉄板を巻き、耐震性を高めたものです。
ここに展示されている部品は、ボイラーのドラム・水管の一部・鉄製の扉、および鋼製耐震煙突の銘板で、十条自衛隊の施設建替の際に解体・保存したものです。
銘板には銃包製造所開設年にあたる「明治三十八年九月竣工」の年代が入っており、これらは銃包製造所の歴史を伝えるとともに、日本の近代産業遺産としても貴重な資料です。

(写真)
左/ボイラー外観
ボイラーは正面に4枚の鉄製扉が付き、内部には水管が収められている。
扉には「BABCOCK&WILCOX LTD.」「LONDON&GLASGOW」と記された銘板が取り付けられている。
扉の上にはドラムの端部が見える。

央/ボイラー内部
ドラムの下部に水管群が斜めに配置されている。
水管を熱し、蒸気を発生させ、ドラムから蒸気を取り出す構造。

右/鋼製耐震煙突
高さ約30mの煉瓦造煙突は、地上から約3mより上部をすべて鉄板で覆っている。

平成27年3月 東京都北区教育委員会
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扉に貼られた「BABCOCK&WILCOX LTD.」「LONDON&GLASGOW」の銘板。
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アップで。
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東京砲兵工廠は、旧幕府の関口大砲製作所を受け継いだ、旧日本陸軍の兵器工廠。
小石川の旧水戸藩邸跡に建設され、小銃を主体とする兵器の製造を行った。
1871年(明治4年)から、1923年(大正12年)の関東大震災により甚大な被害を受け、1935年(昭和10年)その機能を小倉工廠に移転するまで小石川にて操業した。
跡地の小石川後楽園で弾丸製造機械など砲兵工廠の遺構や、記念碑を目にしたことがある。また、東京ドームの近くで、煉瓦造りの遺構を目にしたこともある。
なお、東京砲兵工廠は、板橋火薬製造所、岩鼻火薬製造所、十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場を管下においたことがあり、今般、目にした東京第一陸軍造兵廠(兵器工場)の本部建物やボイラー、煙突などはこの十条兵器製造所を指しているのだと思う。

次の探訪地、十条富士塚古墳へと向かう。

フォト:2019年1月25日

(つづく)





by ryujincho | 2019-01-26 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2019年 01月 26日

『武蔵国古墳探訪/飛鳥山1号墳』 kk-1

1月25日(金曜)、晴れ。
都内の古墳探訪に出掛ける。
古墳探訪の相棒、武衛さんと共に。

探訪プランは次の通り。
jitensha はなし、徒歩で
□飛鳥山1号墳
◆飛鳥山博物館・・・オプション
□赤羽台第3号古墳石室
□十条台古墳群/富士塚古墳(十条富士神社、十条富士塚)
◆西ヶ原貝塚(坪井正五郎博士、飛鳥中学校校庭、埋め戻し、説明板あり)・・・方角が違うので、オプション

JR王子駅、集合。
久し振りの王子である。
前回、王子に来たのは、東京十社めぐりのときで、それ以来のことである。
2012年3月3日、jitensha club ドラポタの面々と「東京十社めぐり、川向うの二社以外の八社めぐり」と銘打ち、南の品川神社から北の王子神社まで八社をめぐったのであった(走行距離32km)。
因みに、東京十社とは、品川神社、芝大神宮、日枝神社、赤坂氷川神社、神田神社、根津神社、白山神社、王子神社、亀戸天神社、富岡八幡宮。
このとき、亀戸天神社と富岡八幡宮は川向うなので、また別の機会にとしたが、<別の機会>がないままに今日に至っている。
なお、亀戸天神社と富岡八幡宮は個別に参拝しており、「東京十社めぐり」として未達という意味であることを申し添えておこう(細かいことが気になる性格)。

飛鳥山公園へ。

街区表示板「北区王子1丁目1」。
昭和30年代、NHKのラジオドラマで「一丁目一番地」というのがあった。
調べてみると「昭和32年4月1日~昭和40年4月2日、NHK第一放送、月~金、午後6時30分~6時45分の放送」とあった。
懐かしい。
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街区表示板の奥に見えるのは、飛鳥山モノレールの軌道。

飛鳥山モノレールに乗り、公園へ。
飛鳥山モノレールは、JR王子駅中央口改札近くの公園入り口から山頂(標高25.4m)の間を結ぶ斜行エレベーターである。
詳細については、後段で綴ることとしたい。

飛鳥山とは。
「飛鳥山の歴史」と篆額にある石碑に目を通す。
黒光りした御影石に刻まれていることでもあり、仰々しい内容であろうと思いきや、然に非ず。
地形の解説や飛鳥山の名の由来、はたまた、右手に建立されている「飛鳥山碑」は難解と正直に書かれていたりして、なかなかユニークな内容の石碑である。
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飛鳥山の歴史
飛鳥山公園は、明治6年に定められた我が国最初の公園の一つです。
この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。
このあたりは、古くから人が住んでいたらしく、先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。

ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔、この岡の地主山(現在の展望台の所)に飛鳥明神の祠が祀られていたからと伝えられています。

江戸時代の中頃、元文2年(1737)、徳川八代将軍吉宗がこの地を王子権現に寄進し、荒れ地を整備して、たくさんの桜や松、楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名にい、附近に茶屋なども出来ました、
その説明は右手の大きな石碑に刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。

飛鳥山のお花見は向島とともに仮装も許されていたので、まるで落語に出て来るような仇討の趣向や変装のために大変な賑わいでした。
また、東側の崖からはカワラケ投げなども行われ、土皿を風に乗せて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって危険防止のために禁止されました。
この山は東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のためにせばめられ、さきに中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。

昭和55年2月吉日 
東京王子ロータリークラブ
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この説明には、古墳探訪者にとって有用なことが書かれている。即ち、「この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部」、「東側の崖からはカワラケ投げなども行われ」とある。古墳探訪者は古墳の築造場所と地形の関係をいつも念頭に置いており、この地形の説明は誠に有難いものである。この説明の通り、この地は武蔵野台地の東端で、台地の崖下に沿ってJR京浜東北線などが走っており、台地から東側は荒川を望む台地上を選んで古墳が築造されたことがよく理解できる。

東京王子ロータリークラブさんが「右手の大きな石碑に刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました」としている飛鳥山碑を見分する。

飛鳥山碑。
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説明板に目を通す。
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東京都指定有形文化財(古文書)
飛鳥山碑
所在地 北区王子1-1-3
指定 大正15年4月

八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。
これを記念して、王子権現別当金輪寺の住職宥衛が、元文2年(1737年)に碑を建立した。

石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。
碑文は、幕府の儒臣成島道筑(錦江)によるものである。
篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。
建立に至る経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。
碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調格調高く書かれている。
吉宗の治政が行き届いて太平の世であることを宣伝したものと考えられる。

碑は、総高218.5cm、幅215cm、厚さ34.cm。
元享年中(1321~24)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。
続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記されている。
最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記されている。
異字体や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解する上で貴重な資料である。

平成23年3月 東京都教育委員会
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飛鳥山の名の由来について。
東京王子ロータリークラブの説明碑では「昔、この岡の地主山(現在の展望台の所)に飛鳥明神の祠が祀られていたからと伝えられています」となっている。
一方、東京都教育委員会の説明板では「(飛鳥山碑には)元享年中(1321~24)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記されている」となっている。
これでは、飛鳥山の名の由来ははっきりとは分からない。
ネット検索してみた。
その名の由来が刻まれた個所について、飛鳥山碑を読み下した解説がある。
それでも、やはり、飛鳥山の名の由来はよく理解出来ないが、その読み下し解説をここに引用しておこう。
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武之豊島郡(ぶのとしまごおりの)
豊島氏(としまし)
初兆豊島郡(はじめてとしまごおりにかぎりて)
為熊野神座(くまののかみのざとなす)
地之曰王子(これにちしておうじといい)
山之曰飛鳥(これにやましてあすかというは)
蓋自此始也(けだしこれよりはじまるなり)

元享年中(1321~23)の昔に、武蔵国豊島郡の豊島氏が初めてこの地に神の領域を見立てて、熊野の神の座を創始した。
王子といい、飛鳥山というのは、おもうに、この頃より始まったものである。
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<難解>とされている「飛鳥山碑」を間近に見分。
<難解>なので、石碑全体の雰囲気を味わう。
そして、篆額「飛鳥山碑」の書体をカメラに収める。
「異字体や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが」とあり、東京王子ロータリークラブと同様、東京都教育員会もこの石碑に刻まれた漢文を<難読>としている。
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前置きが長くなった。
本論の古墳へ。

飛鳥山公園の古墳/飛鳥山1号墳。
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飛鳥山公園の古墳
飛鳥山1号墳
古墳時代後期の直径31mの円墳。
平成元年の調査で、周囲には幅38mの周溝が廻ることが確認された。
また、平成5年の埋葬施設の調査で、切石を使用した横穴式石室が確認されている。
石室には玄室の左側壁の最下段の床石の一部が原位置を留めている他は、大きく壊されていた。
石室の形態は残された側壁から「胴張型横穴式石室」と判断できた。
石室内からは大刀や刀子の破片、鉄鏃・耳環・管玉・切小玉・ガラス小玉が出土している。
公園内では、他にも古墳の周溝が確認されており、古墳群が形成されていたようである。
(写真)
石室左側壁
石室の全景
石室内出土遺物
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墳頂に上る。
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墳頂から南西を望む。
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墳頂から北東を望む。
眼下の先の崖下にJR京浜東北線が走っているという地形である。
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飛鳥山博物館。
手前の、子供が遊んでいる盛土も古墳であったように見える。
このほかにも、園内にはこうした古墳に見える地形が散見される。
やはり、この辺りは古墳群が形成されていたと思われる。
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飛鳥山博物館は次の機会に見学することとする。
モノレールに乗り、<下山>。

飛鳥山モノレール。
愛称「エスカルゴ」。
かたつむりに似ているのでエスカルゴと名付けたそうだ。

飛鳥山山頂駅からR王子駅方面を眺める。
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エスカルゴ、都電荒川線、JR王子駅に入線中の京浜東北線をセットで。
撮り鉄ではないが、このような写真が撮れると何だか嬉しい、
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エスカルゴと都電をアップで。
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エスカルゴは無人運転である。
鳥山山頂駅でボタンを押すと飛鳥山公園入口駅で待機していた「エスカルゴ」が下から上って来る。
飛鳥山は標高25.4m、公園口駅と山頂駅の高低差は約18m、レール延長は48m、片道の所要時間は2分である。

コールしたエスカルゴが到着。
車内には倍賞千恵子の声が流れる。
賠償千恵子の弟さんは甲子園球児である。
野球中継のアナウンサーが「賠償選手はあの賠償千恵子・美津子姉妹の弟さんです。ご両親は都電の運転手と車掌さん。いわば、都電一家です」というような紹介をしていたと記憶する。
賠償千恵子が歌う♪下町の太陽♪を聴いたとき、何と綺麗な声のお姉さんだろうと思った記憶がある。
当時、倍賞千恵子は何歳だったんだろうとウィキペディアを紐解くと、20歳。
小生は13歳、やっぱり、お姉さんと呼ぶに相応しいであろう。
今や、倍賞千恵子は78歳、小生は71歳、70代ともなれば、何故か、年齢は狭まっているような感じがする。
♪下町の太陽♪がヒットしたことで、のちに同名の映画が製作されることとなり、出来上がった作品が山田洋二監督作品『下町の太陽』(1963年)であった。
映画『下町の太陽』と映画『男はつらいよ』シリーズの「さくら」とは無縁ではないだろう。
都電を眺めながら、都電一家の庶民派女優の声が北区のエレベーターの中で流れる、誠に結構な趣向である。

賠償という名字は珍しい。
珍しいが、子供の頃から倍賞千恵子の名で馴染んでいるので、珍しさの度合いが違い、名字の由来好きとして倍賞姓について調べたことはなく、これを機会に調べてみた。
・倍賞姓は、秋田県鹿角郡(現:鹿角市)十和田大湯にルーツを持つ。
・先祖は佐竹藩に仕えた守衛で、先祖の一人に頭の良い人がいて書記に抜擢され、何かの賞を受けたのがこの姓の由来という。
これを知り、遺跡好きでもある者として頭に浮かぶのは、秋田県鹿角郡(現:鹿角市)十和田大湯が縄文時代後期の大型の配石遺跡である「大湯環状列石」であるということであった。

後方窓からの景色/山頂駅舎と軌道。
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前方窓からの景色。
ゆるやかな下り坂の国道122号線。
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「この斜行エレベーターのメーカーは KAHO MONORAIL。嘉穂製作所です。去年の4月、遠賀川流域古墳をめぐったとき、王塚古墳の西にある大分廃寺塔跡に寄ろうというプランがありましたね。大分廃寺塔跡には立ち寄りませんでしたが、その近くにあるメーカーです」と武衛さん。
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帰宅後、グーグルマップで嘉穂製作所(福岡県飯塚市大分567)の場所を確認。
大分廃寺塔跡(福岡県飯塚市大分726 )から西に1kmくらい離れたところに位置していた。
流石、現役時代、この業界に身を置いていた武衛さんである。

飛鳥山から次の探訪地、赤羽台第3号古墳石室へ。

フォト:2019年1月25日

(つづく)


by ryujincho | 2019-01-26 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2019年 01月 11日

『楠木正成像』

1月10日(木曜)、曇り。
jitensha club ドラポタの新年会で都内へ。
少し早めに出掛け、皇居へ。

皇居前広場/楠木正成像。
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楠木正成像を初めて見たのは、幼き頃、神戸/湊川公園の像であった。
当時、有馬温泉へ行くときは、湊川から神有電車に乗って、であった。
そのときに楠木正成像を見たのであった。

当時、有馬温泉行きの電車を「神有(しんゆう)」と呼んでいたが、現在の正式な会社名は「神戸電鉄株式会社」。
「神有」と呼んでいた頃の正式名称は「神戸電鉄」ではなかったと思い、同社の歴史を紐解いてみた。
・1926年(大正15年)3月 神戸有馬電気鉄道として会社設立
・1928年(昭和3年)11月 有馬線(湊川-電鉄有馬〈現在の有馬温泉〉)開業
・同年12月 三田線(唐櫃〈現在の有馬口〉-三田)
・1947年(昭和22年)1月 三木電気鉄道を合併し、神有三木電気鉄道に社名変更
・1949年(昭和24年)4月 神戸電気鉄道に社名変更
・1988年(昭和63年)4月 神戸電鉄に社名変更

「神有(しんゆう)」に乗って有馬温泉へ遊びに行っていたのは昭和30年代前半。
ということは、「神戸電気鉄道」の頃である。
にも拘らず、「神有(しんゆう)」と呼んでいたのは、創業時の社名「神戸有馬電気鉄道」の略称「神有」は世間に馴染んだ呼び名で、社名改称後もずっとそう呼ばれていたということである。
そして、「神有(しんゆう)」という呼び方は今から有馬温泉に行くんやで!という気分にさせるものであったと思うのである。

話が反れてしまった。
皇居前広場の楠木正成像の話題に。

像は皇居の方を向いて建っている。
冒頭の写真がそれである。
冒頭の写真のアップも掲載しておこう。
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背面からの像。
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アップで。
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台座の背面に、住友が別子銅山開坑200周年事業として像を献納したと刻まれた銅製碑文が埋め込まれている。
碑文は次の通りである。
------------------------------------
(原文)
自(臣)祖先友信
開伊豫別子山銅坑
子孫継業二百年
亡兄友忠深感國恩
欲用其銅鋳造楠公正成像
献之闕下蒙允未果
(臣)継其志薫工事及功竣謹献
明治三十年一月従五位(臣)住友吉左衛門謹識
------------------------------------
(読み下し)
臣の祖先・友信、伊豫・別子山銅坑を開きてより、
子孫、業を継ぎ二百年、
亡兄・友忠、深く国恩を感じ、
其の銅を用いて楠公正成の像を鋳造し、
之を闕下に献ぜんと欲するも、
允(ゆる)しを蒙むりて未だ果たさず。
臣、其の志を継ぎ、工事を薫し、功竣に及び、謹しみて献ず。
明治三十年一月
従五位 臣住友吉左衛門、謹みて識す
---------------------------------------
(現代語訳))
私の祖先・友信が伊予国・別子銅山を開いて以来、子孫は代々二百年の間その業を継ぎました。
私の亡くなった兄・友忠は、深くその国恩を感じ、その銅を用いて楠木正成公の像を鋳造し、 朝廷の城下に献上しようと思い、その許可はいただきましたが、未だ果たさずにいました。
私は、その亡き兄の志を継ぎ、工事を監督し、竣功に及んだので、ここに謹んで献上します。
明治三十年一月
従五位 私、住友吉左衛門が、謹んで記します。
----------------------------------------

友忠(1872年(明治5年) -1890年 (明治23年))は住友家13代目当主。
寄贈者は、住友家第15代当主、男爵、住友友純(1865年(元治元年) -1926年(大正15年))。
従一位右大臣徳大寺公純の第6子で、1892年(明治25年)住友家に入家。
次兄は西園寺公望。

住友は、楠木正成像の制作を東京美術学校に依頼し、高村光雲が頭部を、山田鬼斎と石川光明が身体・甲冑部などを、後藤貞行が馬の制作を担当した。
因みに、神戸/湊川公園の楠木正成像は、1935年(昭和10年)、神戸新聞社の寄贈によるものという。
制作者を調べてみたが、今のところ、未詳。
機会があれば、湊川公園の楠木正成像を訪ねてみたい。

余談ながら、この像は甲冑の騎馬武将として外国人観光客に人気があるという。
案内板には和英併記で次の通り記されている。
-------------------------------------------
楠木正成は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてご後醍醐天皇(1288年~1339年)に仕えた武将です。
鎌倉幕府を倒し、約150年の武家政権から、朝廷による支配の復活を図りました。
この銅像は、隠岐から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた楠木正成の雄姿を象ったものです。

This bronze statue is of Kusunoki Masahige, a samurai regarded as a paragon of loyalty to the Imperial Family.
This statue represents Kusunoki awaiting the return in 1333 of the Emperor Go-Daigo (1288-1339) from exile in Oki islands in the Sea of Japan.
Kusunoki was a brilliant straitegist who defeated the Kamakura shogunate in 1333, allowing the Emperor to restore Imperial rules, albeit briefly, after almost 150 years of samurai rule.
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フォト:2019年1月10日


by ryujincho | 2019-01-11 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2019年 01月 11日

『皇居 2019.1.10』

1月10日(木曜)、曇り。
jitensha club ドラポタの新年会で都内へ。

平成は今年4月30日まで、5月1日に新天皇が即位、新元号となる。
新年の一般参賀はままならず、この日、少し早めに出掛け、皇居へ。
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過去、一度だけ新年の一般参賀に。
今年は新天皇の即位、そのときには参賀に、と思いながら、二重橋を眺める。

フォト:2019年1月10日


by ryujincho | 2019-01-11 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 12月 17日

『師走の月』

12月17日(月)、晴れ。
「ロンドン三人会」を結成、初の会合え都内へ。
その前に、ちょこっと、街歩き。

KITTE 6F 屋上ガーデンにて。

16:43 p.m. 東の空。
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16:43 p.m. 西の空。
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Marunouchi Building エントランスにて。

17:21 p.m. 東の空。
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フォト:2018年12月17日


by ryujincho | 2018-12-17 23:33 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 12月 17日

『東京駅丸の内駅舎/2018.12.17』

12月17日(月)、晴れ。
「ロンドン三人会」を結成、初の会合え都内へ。
その前に、ちょこっと、街歩き。

東京駅丸の内駅舎。

16:54 p.m. KITTE 6F 屋上ガーデンにて。
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17:17 p.m. 丸ビル、エントランスにて。
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フォト:2018年12月27日


by ryujincho | 2018-12-17 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)