龍人鳥の徒然フォト日記

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カテゴリ:街歩き、村歩き、ポタリング( 174 )


2018年 06月 05日

『雲と風車』

6月5日(火曜)、晴れ。

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馬橋から江戸川左岸を遡上、利根運河を経由して、利根川右岸を下る。
あけぼの山農業公園で休憩。
風車の先の雲を眺める。

フォト:2018年6月5日



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by ryujincho | 2018-06-05 23:35 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 06月 05日

『直線』

6月5日(火曜)、晴れ。
馬橋から江戸川左岸を遡上、利根運河を経由して、利根川右岸を下る。
新大利根大橋を渡る。
新大利根大橋から見下ろす水田の風景が好きだ。
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フォト:2018年6月5日




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by ryujincho | 2018-06-05 23:34 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 06月 05日

『田んぼアート』

6月5日(火曜)、晴れ。
馬橋から江戸川左岸を遡上、利根運河を経由して、利根川右岸を下る。

つくばエクスプレスの高架をくぐったところで、縞々模様に遭遇。
これは『田んぼアート』のひとつであろうか?

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フォト:2018年6月5日




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by ryujincho | 2018-06-05 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 06月 05日

『流山市立博物館/東深井古墳群/魚形埴輪』

6月5日(火曜)、晴れ。
馬橋まで輪行。
サイクルショップ「つるおか」で愛馬のメンテをして貰ったのち、江戸川左岸サイクリングロードを遡上し、流山市立博物館へ。

少々、前置きが長くなるが、流山市立博物館を訪ねた目的を先ず綴っておきたい。

5月5日、東深井古墳群を探訪。
以前にも、利根川~利根運河~江戸川ポタリングの途中、幾度かこの古墳群を訪ねているが、古墳めぐりを趣味としてからは今回が初めてのこと。

説明板の中に、目を惹かれる記述があった。
説明板(2018年5月5日撮影、アーカイブより)。
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東深井古墳について
古墳時代の人々は、一族の首長や権力のあった人が死ぬと、多くの時間と労力を費やして古墳を築きました。
古墳は、死者への敬意と悲しみを表現した重要な遺跡です。
東深井古墳群が造られ始めたのは埴輪の研究により6世紀から7世紀の初め頃と考えられています。
かつては40基を超える古墳がありましたが、現在はこの公園にある13基だけとなっています。
古墳上には、人(武人・貴人・女子)・動物を表しあ形象埴輪や円筒形をした円筒埴輪が出土しています。
埴輪は、死者への供物として、また、古墳を飾るための墳丘上や裾に囲むように立てられていました。
深井古墳群では、発掘を行ったほとんどの古墳から埴輪が出土しています。
中でも7号古墳からは出土例が少ない魚の埴輪や鳥の埴輪が、9号墳からは盾をもつ人物埴輪が発見されています。
このような埋蔵文化財(古墳をはじめ海図かや集落跡、出土した土器や石器など)は、私たちの貴重な財産を大切に保存・活用し、後世の人々に継承していきましょう。
流山市
流山市教育委員会
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目を惹かれたのは、7号墳から出土例の少ない魚形埴輪が出土したとの記述である。
魚形埴輪。
これまでにいろいろな埴輪を見て来たが、魚の形をした埴輪があることを初めて知った。
是非、魚形埴輪を見たいとの思いに。

7号墳から出土した魚型埴輪は流山市立博物館に展示されているのではないかと思い、同館に確認の電話を入れてみた。
レプリカが展示されているとのことであった。
本物は野田市立郷土博物館に収蔵されているとのことであった。

野田市立郷土博物館に本物の見学は可能か確認の電話を入れてみた。
常設展示はしていないという。
毎年2月と3月に収蔵物の特別展示を行うという。
開催年によって特別展示されるものは異なるという。
来年2月と3月の特別展示で、魚形埴輪が展示されるかどうかは分からないという。

東深井古墳群は流山市であるにも拘らず、そこからの出土品である魚形埴輪は野田市に収蔵されており、これについて尋ねてみた。
歴史学者の下津谷達男氏が東深井古墳群の発掘調査に携わったことによるものだという。
下津谷達男氏についてネット検索してみた。
同氏は野田市の出身で、國學院大學で王朝文学を学ぶ学生の頃に、東深井古墳群をはじめ、江戸川沿いの古墳の発掘調査に関わり、以後、王朝文学から考古学に転身した経歴を持ち、晩年(?)には野田市立郷土博物館の館長も務めたという人物であった。
そうしたことから、流山市内の古墳出土品ではあるが、野田市立郷土博物館に収蔵されているのだと想像するのであった。
先ずは、近いうちに、流山市立博物館でレプリカを見学してみようと思うのであった。

ということで、その1ヶ月後となったが、流山市立博物館を訪ねたのであった。

流山市立博物館。
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1階ロビーで出迎えてくれたのは、人物埴輪3体。
東深井古墳群9号墳から出土した武人埴輪3体。
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頭には笄帽(こうがいぼう)を被っている。
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右肩から襷のような突帯(とったい)とその先に「句兵(くへい)」と呼ばれるカギ状の刃を持つ武器が表現されている。
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耳は円孔で表現され、耳環(じかん)を下げている。
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鰭状の板、その下には突帯が一巡。
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人物埴輪
流山市東深井9号墳 6世紀前葉 古墳時代
現高 左75cm 中央89cm 右90cm
流山市立博物館 所蔵

胴部両側の鰭状(えらじょう)の板があり、防御用武具の盾を構えた人物を表現した武人埴輪です。
3体とも笄帽(こうがいぼう)を被り、耳は円孔で表現され、耳環(じかん)を下げています。
微笑みかけるような表情をしています。
中央の資料の正面には襷のような突帯(とったい)が張り付けられ、「句兵(くへい)」というカギ状の刃を持つ武器が表現されています。
鰭の下には突帯が一巡し、その下は円筒の基台になっています。
基台部の両脇に一対の円孔が開けられています。
このほか、中央と右の埴輪は、盾の裏側胴部にも円孔が一対あります。
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2階の展示室へ。
旧石器時代から現代までの流山市の歴史が展示されている。
本ブログでは、古墳時代、特に東深井古墳群に関わる展示について特記したい。

「古代国家と流山」コーナー。
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1階ロビーの人物埴輪、武人3体につづき、2階でも埴輪のオンパレード。

人物埴輪(武人)と人物埴輪(男子)。
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人物埴輪(男子)。
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鶏形埴輪。
左/人物埴輪(女子)、中央・右/人物埴輪(男子)。
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ガラスの一部に照明が反射しているので、角度を変えてもう一枚。
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円筒埴輪。
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本日の真打、登場!
魚形埴輪。
レプリカでありながら、別枠のケース内に。
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魚体の長さは20cm弱。
アユであろうか?

アップで。
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説明書き。
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古墳と埴輪
古墳は3世紀末から7世紀にかけて造られた、 豪族や有力者の墓です。
高く土盛りされていて、その形から円墳や方墳・前方後円墳などと呼ばれています。  
古墳の上や周囲に立て並べられた素焼きの土製品が埴輪です。
円筒形のものや、人物・動物・家・器財などをかたどったものがあります。  
流山では、4世紀はじめの三輪野山向原古墳から7世紀はじめの加北谷津第2古墳まで古墳が造られています。
6世紀に造られた東深井古墳群は、かつて40基を数えることができた群集墳です。
なお、東深井古墳群からは人物埴輪や鶏形埴輪、めずらしい魚形埴輪などが出土しています。
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東深井古墳群模型。
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1階展示の武人埴輪3体が出土した9号墳(右端、前方後円墳)と、2階展示の魚形埴輪が出土した7号墳(左、円墳3基のうち、右上)をアップで。
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東深井古墳群9号墳(2018年5月5日撮影、アーカイブより)。
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東深井古墳群7号墳(2018年5月5日撮影、アーカイブより)。
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今回は東深井古墳群の現場と博物館の展示についてのみ触れた。三輪野山向原古墳(4世紀、流山市三輪野山向原744ほか )や加北谷津第2古墳(7世紀、千葉県流山市加北谷津983ほか )については、現場を探訪したのちに博物館での展示も併せて触れてみたい。

来年のことをいったら鬼に笑われるかもしれないが、年が明けたら、野田市立郷土博物館に2月と3月の特別展示での魚形埴輪の本物の展示の有無を確認し、訪ねることとしたい。

フォト#1、25、26:2018年5月5日
フォト#2~24:2018年6月5日





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by ryujincho | 2018-06-05 23:01 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 06月 01日

『手賀沼/ハス群生地 2018.6.1』

6月1日(金曜)、晴れ。
手賀沼南岸を走る。

ハス群生地。
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あと、1ヶ月もすれば、ハスの葉で水面は覆い尽くされるであろう。


フォト:2018年6月1日



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by ryujincho | 2018-06-01 23:35 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 06月 01日

『青い空に白い雲』

6月1日(金)、晴れ。
6月となった。
jitensha に跨り、手賀沼へ出動。
6月ともなれば、梅雨入りの時期が話題となる。
梅雨入り前の、青い空に白い雲を楽しむ。

手賀沼北岸を走る。
龍の如き雲が見える。
jitensha を止めて、<龍コレクション>。
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龍好きだから、龍に見える。
まあ、そういうことなんだろうなと思いながら、東端の曙橋から雲を眺める。
右手に先ほどの<龍>が見える。
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アップで。
右が頭で、左が尻尾。
やはり、龍に見える。
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jitensha を止めているところは、自転車・歩行者用の曙橋。
自動車用の曙橋の上に浮かぶボリュームたっぷりな雲。
白い雲をささえる橋の青色と、空の”空色”のコントラストも面白い。
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手賀沼南岸を走る。
ハス群生地と白い雲。
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フォト:2018年6月1日



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by ryujincho | 2018-06-01 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/多摩川台公園古墳資料室』 tk-9

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

先ず、本日のメイン・イベント、野毛大塚古墳を探訪。
続いて、等々力渓谷3号墳を探訪。
等々力渓谷を経て、等々力不動尊を参拝。
そして、御岳山古墳、狐塚古墳、八幡塚古墳を探訪。
これにて、野毛古墳群は終了。
昼餉と九品仏参拝をはさんで、次は田園調布古墳群の鵜木大塚古墳と浅間神社古墳の探訪に。
先ず、鵜木大塚古墳を探訪。
そして、この日最後の古墳、浅間神社古墳を探訪。

浅間神社古墳の後円部とされるところに、多摩川浅間神社が鎮座している。
多摩川浅間神社は、第8話で綴った通り、北条政子がここに逗留したときのあれこれを由緒とし、その創建は鎌倉時代の文治年間に遡る。

多摩川浅間神社の境内やその周辺には古墳の面影はなく、古墳に関わる説明板もなく、禰宜さんに尋ねたところ、古墳に関わることは多摩川公園内の古墳資料室で、とのことであった。

多摩川台公園古墳展示室は、3月初旬、田園調布古墳群のうち、多摩川台公園内にある蓬莱山古墳、亀甲山古墳、多摩川台古墳群(円墳8基)を探訪した際に訪ねたことがあり、多摩川浅間神社のことを知るため、再び、訪ねた。

大田区立多摩川台公園古墳展示室。
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第1話の冒頭で、本ブログはポタリングの記録であり、古墳それぞれの詳細については兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」の「武蔵国史跡めぐり」の項で綴ることとしたいと記した。
ということではあるが、今回、探訪した野毛古墳群と田園調布古墳群のふたつの群を束ねた荏原(台)古墳群のことに少し触れた上で、浅間神社古墳のあらまし、特にその姿についてここで綴ることにしたい。

荏原(台)古墳群の成立ち。
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荏原(台)古墳群の成立ち
多摩川下流沿岸、現在の大田区田園調布・世田谷区尾山台・等々力・野毛、かつての武蔵国荏原郷と呼ばれた地域には、古墳が数多く分布しており、これらは「荏原(台)古墳群」と呼ばれている。
これは、田園調布を中心とする「田園調布古墳群」と、尾山台から野毛にかけての「野毛古墳群」とに二分して考えることもある。
この一帯は、多摩川の豊富な水資源と広い平地を利用した農耕を地盤とする強力な首長により治められていたと考えられる。
荏原(台)古墳群は、その代々の首長と一族の墓地だったのであろう。

4世紀~5世紀
古墳の発生期にあたる。
田園調布古墳群での大形前方後円墳が築造される。

5世紀
野毛古墳群で大形円墳が築造される。

6世紀
田園調布古墳群の中で、中・小形前方後円墳が築造される。

6世紀~7世紀前半
古墳の終末期にあたる。
小形円墳が多数築造される。
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荏原(台)古墳群の分布。
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分布パネルの下段に設けられた、古墳の名称と赤いボタン。
赤いボタンを押すと、上面の地図上にその位置を示すランプが点灯する。
古墳のほかに埴輪の製作址もある。
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大田区の古墳。
※田園調布古墳群は大田区内
※野毛古墳群は世田谷区内
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大田区の古墳
多摩川下流一帯は、水資源と肥沃な土地に恵まれ、弥生時代以来、豊かな農耕生産に支えられて発展した。
その中から有力な首長が誕生し、彼らのシンボルとして巨大な墓「古墳」が造られた。
大田区田園調布から世田谷区野毛に至る、かつての武蔵国荏原郷と呼ばれた地域には、数多くの古墳が分布し、これらは荏原(台)古墳群と呼ばれている。
ここでは、その古墳群のうち、田園調布を中心とする「田園調布古墳群」を造られた順に紹介する。
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田園調布古墳群に関わる展示物のうち、浅間神社古墳のあらまし、特にその姿について記しておきたい。
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浅間神社古墳
多摩川を見下ろす舌状台地の先端に位置する前方後円墳。
前方部は東向きとされていたが、平成2年の発掘調査で、反対側の西向きに位置することがわかった。
後円部上に、多摩川浅間神社社殿が建立されており、古墳の名の起こりもこれに由来する。
人物埴輪・鹿形埴輪・馬形埴輪・円筒形埴輪が多摩川側斜面を中心に出土し、豊富な種類の形象埴輪を伴う埴輪列の存在が考えられる。
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「多摩川を見下ろす舌状台地の先端に位置する前方後円墳」という記述から次のようなことを思った。
蓬莱山古墳、多摩川台古墳群(円墳8基)、亀甲山古墳が北西から順に多摩川台公園内に位置していることで、これらの古墳を一括りにして考え勝ちだが、亀甲山古墳の南西に浅間神社古墳が位置していることから、浅間神社古墳もこれらに加え、蓬莱山古墳、多摩川台古墳群(円墳8基)、亀甲山古墳、浅間神社古墳が北西から南西に並んでいる姿をイメージした方がよいと思ったのである。

「形象埴輪が多摩川側斜面を中心に出土した」とある。
多摩川浅間神社の社殿の左手(多摩川側)の斜面を検分していたときに禰宜さんから立ち入り禁止の注意を受けたのだが、まさにその斜面であった。
現場を見てから資料を見る、或いは、資料を見てから現場を見るという、現場+資料をモットーとしている小生にとって、誠に嬉しい記述である。

資料パネルの航空写真に前方後円墳の形が白線で図示されている。
更に、資料パネルの下段右に測量図がある。
これらふたつで、浅間神社の前方後円墳の形がしっかりと視認出来る。

航空写真上に浅間神社古墳である前方後円墳の形を図示したパネル写真をアップで。
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測量図をアップで。
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説明文では「前方部は西向き」とある。
この航空写真での多摩川駅、東急東横線、東急多摩川線の位置と、グーグルマップでのこれらの位置を照らし合わせると、「前方部は西向きとある」という記述に疑問が湧く。
前方部が「北西向き」ということであれば、合点がゆくのだが、パネル資料にある測量図には、残念ながら方位が示されていない。
別の資料を参照してみたところ、「神社の社殿の裏側が前方部である」という記述があった。
念のため、後円部に鎮座する神社の社殿をグーグルマップで拡大し、その向きを確認してみた。
やはり、前方部は、「西向き」ではなく、「北西向き」と考えるのが妥当である。

ということで、パネルの航空写真を少しだけ左回転させ、今一度、確認してみた。
果たして、グーグルマップと線路がピタリと一致するのであった。

もはや、多摩川浅間神社の境内を歩いても前方後円墳の面影はないが、この航空写真上での図示と測量図での図示で、浅間神社古墳の姿が容易にイメージ出来たのであった。

今回、探訪した古墳は、野毛大塚古墳と等々力渓谷3号墳を除いて、御岳山古墳の墳頂には祠、狐塚古墳の墳頂には稲荷の祠跡、八幡塚古墳には尾山台宇佐神社、鵜木大塚古墳には雪谷大塚稲荷神社が鎮座していた。
こうしたことは古墳にはつきもので、特に珍しいことではないが、これまで古墳めぐりをした中で、僅か1日で、これほど多くの、こうした姿の古墳に出会ったのは初めてであった。

古墳めぐりと等々力不動尊参拝、九品仏参拝を終え、多摩川駅から帰途に就いた。
反省会はなし、にして...。

フォト#1~#6:2018年3月4日(アーカイブより)
フォト#7~#9:2018年5月26日

(完)

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by ryujincho | 2018-05-27 23:39 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/浅間神社古墳』 tk-8

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

先ず、本日のメイン・イベント、野毛大塚古墳を探訪。
続いて、等々力渓谷3号墳を探訪。
等々力渓谷を経て、等々力不動尊を参拝。
そして、御岳山古墳、狐塚古墳、八幡塚古墳を探訪。
これにて、野毛古墳群は終了。
昼餉と九品仏参拝をはさんで、次は田園調布古墳群の鵜木大塚古墳と浅間神社古墳の探訪に。
先ず、鵜木大塚古墳を探訪。
続いて、この日最後の古墳、浅間神社古墳へ。

環状8号線から中原街道を南西に走る。
多摩川に架かる丸子橋東詰から少し北上。
浅間神社古墳(多摩川浅間神社)に到着。
この地は、3月に、田園調布古墳群のうち、多摩川台古墳公園内にある亀甲山古墳・蓬莱山古墳・多摩川台古墳群(円墳8基)を探訪した際、横目に見ながら通り過ぎたところであり、馴染みがある。

多摩川浅間神社。
多摩川浅間神社は、前方後円墳である浅間神社古墳(全長60m、前方部幅30m、後円部径32m)の後円部に鎮座している。
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石段を上る。
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石段上の一の鳥居をくぐり、続いて、二の鳥居をくぐる。
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更に、石段を上る。
石段の途中で、龍コレクション/その1。
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三の鳥居、四の鳥居をくぐり、境内に到着。
浅間造の社殿。
浅間造は、浅間神社にだけ使われる特殊な様式で、社殿の上に本殿を二階建て形式に建てた二重の楼閣構造。
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参拝の前に、展望台から多摩川を臨む。
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左手、丸子橋。
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右手、東急東横線多摩川橋梁。
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龍コレクション/その2。
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龍コレクション/その3。
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参拝。
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狛犬コレクション。
阿形/子連れ狛犬。
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吽形/玉乗り狛犬。
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浅間神社古墳は前方後円墳とのことながら、石段下から社殿前まで歩いて来た間に古墳の面影はない。
強いていえば、多摩川を臨む高台にあるということが古墳だんだなと思わせるだけ。
境内に古墳そのものに関わる説明板も見当たらない。

古墳の痕跡を探すため、先ず、社殿の右側(北東側)に入ってみる。
社殿を眺める。
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社殿を横から眺めながら立っているところの背後は、先ほどの石段とは別の、参道の坂道となっている。
坂道が通された斜面を眺めながら、墳丘の北東側の稜線を想像する。

社殿の左側(南西側)にも行ってみた。
立入禁止の簡単な柵が置かれている。
ちょっと、柵の横から入ってみる。
社殿の脇から数メートルで斜面になっている。
斜面は多摩川側へむかっての斜面である。

そこへ禰宜さんがやって来た。
「そこは立入り禁止です」。
「はい、了解です」。
「浅間神社は古墳の上に鎮座しているとのことですが、古墳の痕跡が全くなく、社殿の横手に入って検分していた次第です。古墳に関わる説明板もありませんが、どこかに古墳であったことを感じさせるところはありませんか」。
「ここは神社だけで、古墳に関わるものは何もありません。古墳に関わることは多摩川台公園にある資料館で展示されていますので、そちらの方でお願いします」。

多摩川台公園にある資料館とは、この3月に訪ねたことのある、大田区立多摩川台
のちほど、もう一度、訪ねることとした。

石段とは別の、先ほど、社殿の北東側で眺めた坂道を下る。
坂道を下りきったところで、「多摩川浅間神社」と大書された、大きな看板が目に入った。
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その頭の部分に「田園調布の古墳の丘の氏神様」との言葉が冠してある。
遂に、古墳の”痕跡”を見つけたのであった。

「田園調布の古墳の丘の氏神様」の文字をアップで。
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多摩川浅間神社の由緒が書かれている。
古墳に関わる亀甲山(かめのこやま)のことが登場する。
亀甲山については後ほど述べるとして、先ず、由緒の読み下しをここに綴っておきたい。
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創建は800年前の鎌倉時代
当浅間神社は、今から800年前、鎌倉時代の文治年間(1185~90)の創建と伝えられます。
右大将源頼朝が豊島郡滝野川に出陣したおり、夫の身を案じ、後を追って来た妻政子は、わらじの傷が痛み出し、やむなくここで傷の治療をすることになりました。
逗留のつれづれに、亀甲山(かめのこやま)へ登って見ると、富士山が鮮やかに見えました。
富士吉田には守り本尊の「浅間神社」があります。
政子は、その浅間神社に手を合わせ、夫の武運を祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建てました。
村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び、長く尊崇しました。
これが「多摩川浅間神社」の起こりです。
承応元年(1652)5月、浅間神社表坂の土留め工事をしていたとき、9合目辺りから唐銅製の正観世音の立像が発掘されました。
多摩川で泥を洗い落として見ると片足がありません。
そこで、足を鋳造してお祀りし、6月1日に神事を行いました。
以来、神社のご祭礼は6月に行われます。
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この由緒に登場する亀甲山(かめのこやま)について触れておきたい。
この3月、田園調布古墳群のうち、多摩川台古墳公園内にある亀甲山古墳・蓬莱山古墳・多摩川台古墳群(円墳8基)を探訪した。
浅間神社古墳は、亀甲山古墳の南東に続く台地に位置している。
亀甲山古墳は、今は周囲が柵で囲われており、墳丘に上ることは出来ないが、北条政子が「逗留のつれづれに亀甲山に登った」というのは、亀甲山古墳の墳丘に上ったということなのである。

浅間神社をあとにして、3月に訪れたことのある、多摩川台公園内にある古墳展示室へ向かう。

フォト:2018年5月26日

(つづく)






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by ryujincho | 2018-05-27 23:38 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/鵜木大塚古墳』 tk-7

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

先ず、本日のメイン・イベント、野毛大塚古墳を探訪。
続いて、等々力渓谷3号墳を探訪。
等々力渓谷を経て、等々力不動尊を参拝。
そして、御岳山古墳、狐塚古墳、八幡塚古墳を探訪。
これにて、野毛古墳群は終了。
昼餉と九品仏参拝をはさんで、次は田園調布古墳群の鵜木大塚古墳と浅間神社古墳の探訪に。

先ず、鵜木大塚古墳へ。
九品仏から、環状8号線に出て、南東方面へ走る。
目印は、田園調布警察前交差点(環8と中原街道が交差)、その北東にある大田区立調布大塚小学校。
事前の調べでは、鵜木大塚古墳は小学校の斜め前にあり、墳丘には雪谷稲荷神社が鎮座しているとのことであった。
少し迷ったが、鵜木大塚古墳に到着。

鵜木大塚古墳/雪谷大塚稲荷神社。
鵜木大塚古墳(うのきおおつかこふん):
・円墳
・高さ 約6m、直径 約27m
・墳丘の南側を掻き落として稲荷社を構設している。
円墳がどのような形で残っているのか楽しみにしながら、鳥居をくぐり、稲荷神社へ向かう。
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墳丘の南側を掻き落として造られた社の左右と裏側はブロック塀となっている。
社の両側には立入禁止のテープが張られており、墳頂には行けない。
立入禁止のテープ越しに、社の右手(東側)から墳頂を垣間見る。
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社の左手(西側)から墳頂を垣間見る。
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墳頂から裾部へと目を遣る。
円墳の西側下は、道路、そして、住宅となっている。
道路があるということは、古墳の外観を眺めるのには好都合。
のちほど、行ってみることにした。
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”狛狐”コレクション。
阿形/子連れ。
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吽形/玉乗り。
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玉乗り狛狐の後ろに石碑が建立されている。
「市制記念碑」と刻まれている。
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市制とは東京市のことであろう。
裏面に目を通せば、更に詳しいことが分かるであろうが、雑草の生えた斜面に立たなければ裏側は見られないので、諦めた。

石碑の上部に刻まれた篆書体。
「大〇古〇」と一部しか読み取れない。
こういう書体が読めないのは情けない。
そして、その意味も想像すら出来ず、情けない。
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古墳の周囲をぐるっと一周。
南側は通りに面し、稲荷神社の鳥居と参道。
東側は住宅となっており、墳丘は見えない。
北側は駐車場、西側は道路で、墳丘が眺められる
先ほど、神社脇から眺めた墳頂から裾の部分を西側から眺める。
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大田区立調布大塚小学校。
正門に日の丸が掲揚されている。
この日は運動会が開かれており、学校にとっては旗日。
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次は、この日の古墳めぐりの最後となる浅間神社古墳へ。

フォト:2018年5月26日

(つづく)



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by ryujincho | 2018-05-27 23:37 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 27日

『野毛古墳群・田園調布古墳群・等々力渓谷横穴群めぐり/九品仏』 tk-6

5月26日(土曜)、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと古墳めぐりに出掛けた。

先ず、本日のメイン・イベント、野毛大塚古墳を探訪。
続いて、等々力渓谷3号墳を探訪。
等々力渓谷を経て、等々力不動尊を参拝。
そして、御岳山古墳、狐塚古墳、八幡塚古墳を探訪。

八幡塚古墳の探訪を終えたところで、ちょうど、昼餉時となった。
九品仏方面で昼餉を摂ることにし、環状8号線に出て、東へ走る。
玉川浄水場交差点を左折し、九品仏駅方面へ行こうとしたそのとき、交差点の角で、懐かしく、且つ、面白いもの(と言っては失礼になるかもしれないが)が目に入った。
連れの武衛さんに思わず、「あれを!」と交差点向かいのビルのガラス窓を指差したのであった。

小口整形外科。
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何故、懐かしく、且つ、面白いもの(と言っては失礼になるかもしれないが)なのかについて、説明しておかねばならないだろう。
jitensha を始めた頃、あるいは、それ以前から、面白い看板をコレクションしていた。
尾仲内科(内科で「おなか」)、越後貫歯科(越後貫の読みは「おごぬき」、アゴが抜かれそう)、荒井歯科(荒い歯科は困るが、洗いはクリーニング、歯磨きに通じるから良し!)、荒井皮膚科(粗い皮膚を想像)、奈良歯科(奈良の鹿を想像)、ひら歯科(ヘラジカを想像)などなど。
越後貫歯科に関わるブログを綴った際、越後貫さんから書き込みを頂戴したこともあった。

そうした中、2012年1月の世田谷ポタリングで、浄真寺(九品仏)を参拝し、駒沢方面へ向かう途中、奥沢7丁目の通りで「小口整形外科」と書かれた電柱の巻き看板を見た。
そのときのことをマイ・ブログに「浄真寺から駒沢オリンピック公園方面に向う。電柱の"巻き看板"を眺めながら走るのも、ポタリングの楽しみのひとつである。面白い看板を見つけた」とのキャプション付きで「小口整形外科」と「おか歯科」の電柱巻き看板の写真をアップ。
「小口整形外科」は大きな口をおちょぼ口に整形を想像、「おか歯科」は博多弁のようで面白いと思ったのであった。

なお、以前、マイ・ブログでこうしたことを綴ったとき、「医学は尊いもの、笑っちゃいけませんね」との言葉を添えており、この気持ちは今も変わりはない。

2012年当時の電柱巻き看板「小口整形外科」(アーカイブより)。
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環状8号線から北へ入る。
奥沢6丁目の通りの蕎麦屋で昼餉を摂り、九品仏へ向かう。

九品仏に到着。
2012年の世田谷ポタリングの際に参拝して以来、6年ぶりである。
6年前、等々力不動尊は境内に入らず、山門からの参拝であったが、九品仏では総門をくぐり、境内に入り、しっかりとお参りした。
ここが都内なの?と思わせる風情で、都内の寺院の中で最もお気に入りの寺となったのである。

「九品佛浄眞寺總門」。
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由来。
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当山はひろく「九品仏(くほんぶつ)」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院淨眞寺(くほんざんゆいざいねんぶつじょうしんじ)」、浄土宗に属し、境内約12万㎡(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の寺である。
開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の時、延宝6年(1678)に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。
「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を鋼板葺に改修した。
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寺紋コレクション。
この紋は「有馬竜胆車」(多分)。
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扁額コレクション/「般舟場」。
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扁額 般舟場(はんじゅじょう)
当山二世珂憶上人の高弟珂慶上人の御筆で流麗雄渾な筆致である。
般舟とは般舟三昧の事で常に行道念仏として現前に諸仏を見奉るを言う。
般舟三昧経三巻は弥陀経典中最古のもので浄土三部経と共に古来より重ぜられている。
当山は院号を唯在念仏院と称し念仏の道場であり参する人々に願往生の心を自然に発さんが為書かれたものである。
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閻魔堂。
お懐かしゅうございます、閻魔様。
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閻魔堂には葬頭河婆の像も安置されている。
葬頭河婆像は何やら恐ろしげなので、撮影は控えた。
前回のブログを見ると、「葬頭河婆は、ちょいと、怖ろしげなので、フォトのサイズは小さめで」とのキャプションが付し、写真を掲載している。
前回は恐ろしさを感じながらも写真は撮ったのだが、今回はちょっと...。
あれから6年、古希となったことは無関係ではないような気もする。

仁王門。
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阿形。
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吽形。
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鐘楼。
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鐘楼の四周には干支が彫られている。
我が干支「子」。
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ぐるっとめぐって「龍」。
これは、龍コレクション+アルファ。
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本堂。
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扁額コレクション/「龍護殿」。
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本尊 釈迦如来。
ご本尊様、お久しゅうございます。
普段、何処の寺院でも本尊を真正面から撮ることは控えているが、今回は特例でご容赦いただき...。
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本尊 釈迦如来につづいて、九体の阿弥陀如来、即ち、九品仏を参拝。

本堂の向かいの三つの阿弥陀堂に三体ずつ、合計九体の阿弥陀如来像が安置され、それぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の九つの階層を表しており、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)といい、この九品の仏を由来として、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。

上品阿弥陀堂。
上品阿弥陀如来像三体のうちの、上品上生仏。
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中品阿弥陀堂。
中品阿弥陀如来像三体のうちの、中品上生仏。
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中品阿弥陀堂の表に「中品下生佛像御遷座中」とある。
阿弥陀堂の左奥を見る。
本来、安置されているところに中品下生仏の御姿はない。
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中品阿弥陀堂内。
左側、中品下生仏の御姿がない。
表の立て札に「平成30年から2ヶ年間」とある。
中品下生仏の本座還着をお待ちしたい。
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中品上生仏の脇に「祝 中品上生佛大修繕完了 中品堂本座還着」とある。
”平成九品佛大修繕事業”の中で着々と修繕が進められているのである。
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下品阿弥陀堂。
下品阿弥陀如来像三体のうちの、下品上生仏。
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九体阿弥陀は、ここ、浄真寺のほかに浄瑠璃寺(京都府木津川市)にも安置されており、浄瑠璃寺は九体寺(くたいじ)とも呼ばれている。
浄真寺の阿弥陀像は江戸時代の作、浄瑠璃寺の阿弥陀像は平安時代の作。
いずれも『観無量寿経』に説く「九品往生」の考えに基づくものである。
史跡めぐりの相棒、武衛さんの話によれば、浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は小ぶりであるという。
浄瑠璃寺にはまだ参ったことがない。
京都府ではあるが、地図を見ると、奈良・東大寺の北東、数キロのところである。
是非、参ってみたい。

支柱コレクション/その1。
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支柱は礎石の上に置かれている。
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支柱コレクション/その2。
木立の奥に見える御堂は、上品阿弥陀堂。
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礎石に乗せられた支柱の下端は朽ちかけている。
支柱も平成の大修繕が必要かもしれない。
あるいは、新たな年号での大修繕が必要かもしれない。
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サギソウ。
花期は7月から9月。
その頃には、境内の池の周辺で、サギが羽根を広げたような姿を見せているのであろう。
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仏教行事「お面かぶり」。
(掲示板の写真、接写)
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正式には「二十五菩薩来迎会」という。
3年に一度、本堂と上品堂の間に渡された橋を菩薩の面をかぶった僧侶らが渡るという。
次回は2020年に催されるとのこと。

浄真寺の参拝を終え、再び、古墳探訪に。
次は、鵜木大塚古墳である。
九品仏から、再び、環状8号線に出て、南東方面へ走る。

フォト:2018年5月26日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-05-27 23:36 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)