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龍人鳥の徒然フォト日記

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カテゴリ:秋の九州史跡めぐり 2018( 47 )


2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/屋形古墳群(Ⅱ)原古墳、鳥船塚古墳』 kk-47

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

屋形古墳群。
珍敷塚古墳の装飾壁画を見分したのち、珍敷塚古墳の裏山(耳納山地北麓)に点在する、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳へと向かう。

原古墳。
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説明板に目を通す。
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原古墳(はるこふん)
原古墳は、今からおおよそ1400年以上前の古墳時代後期(6世紀後半)に造られた装飾壁画のある古墳で、昭和62年に国指定史跡となっております。
墳丘の形は円墳で、直径は約13m、高さは約3.5mあります。

主体部は全長8.9mの単室の横穴堰石室で、最大幅約2.3m、高さは2.2mを測ります。
石室は、天井に向かって石を少しずつ内側に積み上げえる持ち送りの構造で、急角度に積み上げられているため、天井部の一番狭い所では僅か30cmになっています。
石室内部は床材の一部が取り除かれ、奥の壁材もすべて抜かれていますが、この奥壁は昭和3年に石室から取り除かれた跡が元に戻され、現在、覆い屋の中で大切に保存されています(反対向きに置かれたため、壁画を見ることが出来る状態です)。

この奥壁と両側の壁の部分に赤一色で壁画が描かれていますが、奥壁は石室から取り出された後に一時期、露天にあったため、柄の残りはあまり良くありません。
奥壁には船・靫・櫂を持つ人物などが、側壁には同心円文が絵描かれています。

(図)
原古墳の絵
※この図は発見当時の模写図を参考にして作成しています

屋形古墳群・・・周辺に分布する珍敷塚古墳・原古墳・鳥船塚古墳・古畑古墳の4つの装飾古墳。
※古墳を見学できるのは公開日のみです

平成17年3月 うきは市教育委員会
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原古墳の「原」は九州らしく、詠みは「はる」である。
前々日、訪ねた五郎山古墳のある筑紫野市原田の「原田」の読みも「はるだ」である。

赤色一色の壁画。
素朴でなかなかよろしい。

図(拡大版)/奥壁に描かれた船・靫・櫂を持つ人物など。
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写真/奥壁に描かれた船・靫・櫂を持つ人物(珍敷塚古墳建屋内/展示パネル写真より)。
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墳丘を見分。
墳丘の周辺は住宅と果樹園。

北東側から。
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南東側から。
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北側から。
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次は、鳥船塚古墳へ向かう。

標識「左/鳥船塚古墳、右/原古墳」。
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標識に従い、山麓を更に奥へ進む。
細い横道に入ると森の中に鳥船塚古墳が現れた。

鳥船塚古墳。
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説明板に目を通す。
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国指定史跡 鳥船塚古墳
所在地 浮羽郡吉井町大字富永236-18
外形と規模 
墳丘は既にないが、もとは円墳であったと推定される。
石室 
大破しており、奥壁の石2個しか現存しない。
当初は西向きの全長約7mの単室の横穴式石室であった。
壁画
上の石の中心には矢を防ぐタテ(盾)を描く。
その直下に同心円文を、さらに、その下に船首と船尾に各1羽の鳥をとまらせた船、鳥船を、左端には大刀を添えたユキ(靭、矢筒)2個を各々表現している。
珍敷塚古墳と同じく右への動感があるが、ユキは小型化して、鳥船中心の構成に変わっている。
出土品 不明
年代 6世紀後半(約1400年前)

(図)
復元図は小林行雄編「装飾古墳」に拠る
指定年月日 昭和28年3月31日

吉井町教育委員会
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旧・浮羽郡吉井町の時代に設けられた説明板である。
誠に簡潔明瞭な説明板である。

古墳名の由来がはっきりしないことが時折あるが、鳥船塚古墳は「鳥船」を中心にして描かれた壁画を有していることを由来としていることが直ぐ分かる古墳である。

図(拡大版)。
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壁画は説明書きで簡潔明瞭に述べられており、敢えて、リピートする必要はないが、説明書きに照らし合わせながら、図を<鑑賞>する。
・上段/矢を防ぐタテ(盾)を描く。
・下段(上)/同心円文を描く。
・下段(左)/大刀をそえたユキ(靭、矢筒)2個を描く。
・下段(下)/船首と船尾に各1羽の鳥をとまらせた船「鳥船」を描く。
説明書きには「珍敷塚古墳と同じく右への動感があるが、ユキは小型化して、鳥船を中心とした構成に変わっている」とある。
確かに、右への動感を感じさせる。
船を漕ぐ人物が足を曲げ、力を入れて漕いでいる様子がよく描けており、これも動きを感じさせる要因かもしれない。
ということで、説明書きの意見に<同感>である。

鳥船の船首の鳥はくっきりとしているが、船尾の鳥は微かに見えるだけである。
鳥船だけを拡大してみる。
船首の鳥とほぼ相似形の鳥が船尾に見て取れる。
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説明板によれば、「墳丘は既にない」とある。
墳丘があったと思しき辺りを眺める。
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次に、屋形古墳群の四つ目、古畑古墳へ向かうべきところであるが、鳥船塚古墳付近からの案内標識は見当たらず、後行程のこともあるので、古畑古墳探訪は止めにして、山を下った。

古畑古墳の探訪は止めにしたが、屋形古墳群を構成する古墳のひとつであり、記録として、古畑古墳について簡単に触れておくこととしたい。

手元のリーフレット「うきはの装飾古墳」に次の通り記載されている。
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古畑古墳
鳥船塚古墳の南200mに位置する径約20m、高さ約3mほどの円墳で、墳丘は2段築成で段築面に円筒埴輪、人物埴輪が並んでいました。
屋形古墳群中、最高所に位置します。
内部主体は南西に開口する複室の横穴式石室です。
奥壁の鏡石には赤色で4個の大きな同心円文を中心に据え、三角文と小円文、大の字形に手足を広げた人物像などが描かれています。
同心円文を中心に据える点から、日岡古墳に似たタイプの壁画を持つ古墳です。
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写真/古畑古墳石室奥壁と鏡石(珍敷塚古墳建屋内/展示パネル写真より)。
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パネル写真(左)/石室奥壁と鏡石。
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パネル写真(右)/鏡石(大写し)。
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写真では、鏡石の上部に大きな同心円文がひとつ、微かに見えるだけである。
如何なる壁画か描かれているかは、説明文にある通りである。
即ち、赤色で4個の大きな同心円文を中心に、三角文と小円文、大の字形に手足を広げた人物像などである。

リーフレットにその模写図が掲載されており、より具体的にイメージ出来る。
それを言葉で表すと次の通りである。
・鏡石の上部に大きな同心円文がひとつ描かれている・・・写真に微かに写っている
・鏡石の下部に大きな同心円文が三角形を形作るかのように3個、描かれている
・これらで、大きな同心円文は都合4個描かれている。
・鏡石の下部の同心円文の左側に手足を広げた人物が小さく描かれている
・鏡石の下部の同心円文の最下端に三角文が小さく描かれている

説明文に「同心円文を中心に据える点から、日岡古墳に似たタイプの壁画を持つ古墳です」とある。
日岡古墳(若宮古墳群)は探訪予定に組み込んでおり、この日最後に探訪することにしている。
屋形古墳群/古畑古墳と若宮古墳群/日岡古墳の共通性が述べられており、この記述は大いに参考になる。

秋の青空とそれに映える柿の実。
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リーフレット「ふきはの装飾古墳」(うきは市教育委員会)。
次の古墳の所在地と各古墳の概要が簡潔明瞭に記されている。
・屋形古墳群/珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳(いずれも円墳)
・若宮古墳群/月岡古墳、日岡古墳、塚堂古墳(いずれも前方後円墳)
・朝田古墳群/重定古墳、法正寺古墳、矢次郎丸古墳(以上、前方後円墳)、楠名古墳、柄花塚古墳(以上、円墳)
・東屋形古墳群(円墳約60基で構成される群衆墳、多くは戦後の植林や柿畑の開墾で破壊されている)
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次は、寺徳古墳(久留米市)、前畑古墳(久留米市)である。
その前に、河童コレクションの一環として、田主丸駅/カッパ駅舎へ。県道151線を西へ走る。

フォト:2018年10月21日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:47 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/屋形古墳群(Ⅰ)珍敷塚古墳』 kk-46

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

筑後川右岸、狐塚古墳(朝倉市)から、筑後川左岸、珍敷塚古墳(うきは市)へ。

県道151号線を東へ走る。
左手に、標識「珍敷塚古墳→」が現れた。
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標識「珍敷塚古墳 Mezurashizuka BURIAL MOUND →」。
立て看板「→ 10/21(日)開催 装飾古墳等同時公開 珍敷塚古墳」。
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先ほど、訪ねた狐塚古墳は石室が建屋の中に入っていた。
こちらの珍敷塚古墳も建屋が設けられている。
建屋の出入り口は、腰に手をやり、何だか、格好を付けている青年が把手を持っている銀色の扉。
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扉の上に掲げられたプレート「国指定史跡 珍敷塚古墳」。
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建屋の外壁に掲げられた説明板に目を通す。
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史蹟 珍敷塚古墳
この古墳は、昭和25年1月、採土工事の際に発見されたが、主室の奥壁と側壁の一部のみで、他は既に持ち去られていた。
壁面は大きな靭、わらび手文、盾を持つ人物、ガマ、円文などが描かれ、左端のゴンドラ型の船には帽子をかぶった人物が櫂をあやつり、へさきには大きな鳥が羽を休めている。
きわめて情趣深い表現であるが、殊に船は天の鳥船をも連想させ、ガマは月をあらわすシンボルとして大陸との関連を裏付けて、古代文化を考える上で重要なものである。
約1300年以前のものと推定される。
昭和45年3月21日
吉井町教育委員会
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建屋の外壁に掲げられた、もうひとつの説明板にも目を通す。
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国指定 屋形古墳群
耳納山のふもと、ここ、富永の地には小円墳が数多くありました。
今はその数も少なくなりましたが、現在でも60基以上の古墳が残っています。
その中でも、珍敷塚・原・鳥船塚・古畑の4基の古墳からなる屋形古墳群は、古墳ごとに図柄の違うものの、石室の壁に鳥や船・人物・靭(ゆぎ)・盾などの絵が表してあり、装飾古墳として有名です。
昭和61年2月に国指定に指定されました。

珍敷塚古墳を見学希望の方は管理人室へお申し込みください
見学時間 午前9時~午後4時半迄

平成2年
うきは市教育委員会
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余談。
一つ目の説明板(昭和45年)は「吉井町教育委員会」、二つ目の説明板(平成2年)は「うきは市」(「吉井町」の文字の上に「うきは市」の貼り紙で修正)となっている。
うきは市は、2005年(平成7年)、吉井町と浮羽町が合併し、発足。
地元の人に、何故、平仮名で「うきは市」にしたのかと尋ねてみた。
その答えは、漢字で「浮羽市」とすると、浮羽町が吉井町を吸収合併したように思われることとなり、旧・吉井町の人にとってはおもしろくないということで、平仮名で「うきは市」になったという。
吉井町も浮羽町も合併前は浮羽郡であったのだから、漢字で「浮羽市」でよいのではないかと思うのだが、それはヨソモノの思いかも...。

因みに、浮羽郡の歴史を調べてみると;
・1889年(明治22年)、 町村制施行により、生葉郡吉井町と近隣の村が合併して吉井町に、また、 生葉郡浮羽村と近隣の村が合併して浮羽町に
・1896年(明治29年)、郡制施行のため、竹野郡および生葉郡が合併して、浮羽郡となる
とある。

この歴史からすると、元々、吉井町も浮羽町も生葉郡に属していたことが分かる。
また、古代、この地は「的邑(いくはのむら)」と呼ばれており、それが転じて「生葉郡(いくはぐん)」となり、「いくは」が転じて「浮羽(うきは)」になったという。
であれば、なおさら、漢字で「浮羽市」にすればよかったのではないかと思う。
或いは、由緒正しい「いくは」を採用し、「的邑市」「生葉市」とすればよかったのではないかとも思う。
となれば、難読市名のひとつになり、もっと有名な市になれたかもしれない。

余談が過ぎた。
珍敷塚古墳に話を戻そう。

珍敷塚古墳は屋形古墳群に属している。
後ほど、屋形古墳群に属する珍敷塚古墳以外の古墳も探訪するとして、先ず、珍敷塚古墳を見分することにする。

室内で、じっくりと装飾壁画を見分。
室内は撮影禁止なので、実物の写真はない。

室内の壁に展示された説明板と写真をカメラに収める。
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珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)
国史跡 昭和28年3月31日指定

珍敷塚古墳は国指定史跡「屋形古墳群」に属する。
この屋形古墳群が位置する耳納山麓一帯は、古くから装飾古墳が数多く分布する地域として知られてきた。
珍敷塚古墳古墳もその地名から古墳の存在が知られていたが、墳丘の消滅と共に忘れられていた。
しかし、昭和25年1月、採土工事の際に、以前破壊された奥室の壁画の一部が原形のまま発見された。

この古墳は、もとの長さが約4メートルの横穴式石室の円墳と考えられ、残された花崗岩の奥壁には、赤と青色の鉱物性顔料等と岩肌の淡黄色を用い、巧妙な構成のもとに、豪壮雄大な絵画が描かれている。

中央には大船に乗った3個の矢をさした靫(ゆぎ)と蕨手文、左上には光輝く同心円の太陽と、ゴンドラ型の船には、船を漕ぐ人と舳先にとまった鳥が確認でき、右側には盾をもつ人とその下に月を表す同心円、その左には中国で月の使いとして知られるヒキガエルが2匹描かれている。
ゴンドラ型の船は月の方へ進んでおり、太陽から月へと船を進める様子は死者を葬る葬送儀礼を描いているようにみえる。

珍塚古墳は6世紀後半頃の古墳と考えられており、ゴンドラ型の船やヒキガエル等、大陸の強い影響もみられる。
日本独自の装飾古墳として昇華されたこの壁画は、日本の原始美術の祖とも賞賛されている。

(図)
右上/奥室(一部)展開図と壁画の位置
右下/壁画解説図

うきは市教育委員会
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壁画(解説図)。
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壁画解説。
時計回りで書き下してみる。
・ユギ(矢を入れる道具)
・ヘビ?
・月
・ヒキガエル
・鳥(カラス?)
・舟
・舟をこぐ人
・鳥
・太陽
・わらび手文

壁画拡大版。
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説明文や解説図と照らし合わせながら、今一度、壁画を<鑑賞>してみる。
中央に3個の靫(ゆぎ)が大きく描かれている。
靫に納められた矢は几帳面な直線で描かれている。。
大きな蕨手文は、左側の靫と真ん中の靫の間から生え出だしたかと思わせる。
右側の靫の脇に、小さく、盾を持つ人が描かれている。
左端に大きな同心円、右端に小さな同心円で、太陽と月が描かれている。
太陽の下に、ゴンドラ型の舟、舟を漕ぐ人、そして、舳先に鳥。
説明文では「太陽から月へと船を進める様子は死者を葬る葬送儀礼を描いているようにみえる」とある。
なるほど!と思う。
月の近くに、2匹のヒキガエル2匹と1羽の鳥が描かれている。
ヒキガエル2匹、上から見た姿と、正面から見た姿。
古代の人の観察力が窺がえる。
壁画の最下段には、赤、白、青、赤の四層の横線。
説明文によれば、舟とされている。
最上段には、赤い、一本の太い線。
説明文によれば、ヘビ(?マーク付き)とされている。
上段のヘビ、下段の舟で、壁画全体の構図を引き締める効果があるように思える。
こうした構図を考え出した古代の人の素晴らしいセンスが窺がえる。

こうやって、自分なりに鑑賞しながら文字に起こしてみることで、壁画のすべてが理解出来、且つ、頭の中にしっかりと残すことが出来る。

珍敷塚古墳/装飾壁画(建屋内展示写真)。
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今年4月、遠賀川流域装飾古墳めぐりをした。
それに先立ち、図書館で、大塚初重著『装飾古墳の世界をさぐる』(祥伝社)を借り、事前ベンキョーした。
目次をここに掲載しておこう。
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目次
序 装飾古墳を学ぶ前に
第1講 線刻壁画を考える
第2講 古墳壁画の王者「王塚古墳(福岡)」の歴史的意義
第3講 古墳集中地域にある「珍敷塚古墳(福岡)」壁画の世界
第4講 「チブサン古墳(熊本)」石室内壁画に見る世界観
第5講 「竹原古墳(福岡)」のストーリーのある傑作壁画の解釈
第6講 「日ノ岡・重定古墳(福岡)」の壁画世界
第7講 「高松塚古墳(奈良)」の壁画と被葬者を考える
第8講 「虎塚古墳(茨城)」の壁画の発見と保存
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この書籍を読んだとき、「月にヒキガエル」に大いに惹かれた。
今回、珍敷塚古墳で「ヒキガエル」を見ることが叶い、大満足!

説明文では、「中国で月の使いとして知られるヒキガエル」とあるが、諸説ある。

漢籍において、「蟾蜍(せんじょ)」(ヒキガエルの漢名)は兎(ウサギ)とともに月の象徴。
日烏(にちう)と呼ばれる3本脚のカラスが太陽を象徴したのに対して、月には陰気の動物であるヒキガエル(蟾蜍)またはウサギ(月兎)が棲むとされた。

「月中蟾蜍(げっちゅうのせんじょ)」。
これは、仙女であった嫦娥が、地上に下りた際に不死でなくなったため、不老不死になろうと、夫の后羿が西王母から貰い受けた不死の薬を盗んで飲み、月(月宮殿)に逃げ、蟇蛙(ヒキガエル)になってしまったという伝説である。

兎についても触れておこう。
月の影の模様が兎に見えることから、「月には兎がいる」という伝承は各地にある。
兎の横に見える影は臼であるともされる。
日本では、ウサギが餅をついているとされている。
一方、中国では、ウサギが不老不死の薬の材料を手杵で打って粉にしているとされており、ヒキガエルもウサギも不老不死に繋がる話になっているところが面白い。

次に、珍敷塚古墳の裏山(耳納山地北麓)に点在する、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳へと向かう。

フォト:2018年10月21日

(つづく)



by ryujincho | 2018-10-23 23:46 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/狐塚古墳から珍敷塚古墳へ』 kk-45

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

筑後川右岸の朝倉市を東から西へ走る。
堀川用水と三連水車・二連水車を見学。
つづいて、一つ目の古墳探訪、狐塚古墳を探訪。
次の探訪先、珍敷塚(めずらしづか)古墳へと向かう。

国道386線を少し東へ戻り、右折、県道80号線を南下。
筑後川に架かる朝羽大橋北詰に至る。
背後に見える山は耳納(みのう)山地。
右手に歩行者用の補助橋がある。
安全第一、右手の補助橋を渡ることにする。
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補助橋から自動車道を挟んで筑後川の上流方向を眺める。
彼方に見える山々は?
大分県日田市方面である。
日田市周辺の山々を調べてみると、一尺八寸山(みおうやま)、大将陣山、岳滅鬼山(がくめきざん)、釈迦岳、御前岳などがある。
山には疎く、残念ながら、山の名は特定できない。
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朝羽橋南詰に近づく。
筑後川の下流方向を眺める。
彼方の山は脊振山地である(山には疎いが、これは自信を持って、そう言おう)。
河川敷にサイクリングロードが通っている。
「筑後川自転車道」である。
"CYCLING NAVI"によれば、筑後川自転車道は「区間:うきは市吉井町大字桜井~久留米市東櫛原町、距離:27.4km」となっている(もっと長~い区間の自転車道かと思っていたが)。
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筑後川を渡り切る。
今度は筑後川左岸に点在する古墳探訪である。

どんどん南へ走る。
国道210号線(バイパス)を横断する。
更に南へ走り、国道210号線(本線)に至る。
左折して、国道210号線を少し東へ走り、右折。
右手に目印の「福岡県立浮羽究真館高等学校」が見えて来た。

福岡県立浮羽究真館高等学校。
公立高校だが、何だか、私立のような校名である。
由来好きの小生、校名の由来は?と思い、調べてみたが、県立浮羽高校と県立浮羽東高校が合併した高校ということだけで、「究真館」とした理由は分からなかった。

校名の由来を調べている中、「競泳選手、後藤暢は、浮羽高等学校3年時、1952年ヘルシンキオリンピックで男子800m自由形リレー銀メダルを獲得」とあった。
もう少し、詳しく調べたところ、「後藤 暢(ごとう とおる)、1934年6月26日生まれ、福岡県朝倉郡朝倉村(現・朝倉市)出身の元競泳選手。浮羽高校3年生のとき、1952年のヘルシンキ・オリンピックに出場。男子800m自由形リレーで鈴木弘、浜口喜博、谷川禎次郎とともに銀メダルを獲得、100m自由形で4位」とあった。

ヘルシンキ・オリンピックの頃、筆者は4歳にならなんとする頃であった。
よって、ヘルシンキ・オリンピックのことはリアル・タイムでは知らない。
その次の1956年のメルボルン・オリンピックはリアル・タイムで知っており、そのときにヘルシンキ・オリンピックが戦後初めて日本が参加したオリンピックであることを子供なりに知った。
また、古川勝選手が競泳男子200m平泳ぎで金メダルを獲得したこともラジオで知った。
後藤暢選手の活躍は、今、こうして調べている中で知り、恥じ入るばかりであるが、後藤選手らの活躍が古川選手の活躍に繋がり、水泳王国ニッポンの名を馳せたのであった。
後藤暢氏に敬意を表したい。

話が逸れてしまった。
オリンピックの話になると、どうも、力(りき)が入ってしまうのである。
珍敷塚古墳へ向かう途上に話を戻そう。

浮羽究真館高校を通り過ぎ、久大本線の踏切を渡り、ゆるやかな坂を上り(地形的に耳納山地の北麓であることが分かる)、県道151号線に至る。
左折して、県道151号線を東へ走る。

左手に珍敷塚古墳の標識が現れた。
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「珍敷塚古墳 →」の標識と「装飾古墳等同時公開 珍敷塚古墳→」の立て看板。
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装飾古墳が語られるとき、珍敷塚古墳は、王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町、探訪済み)やチブサン古墳(熊本県山鹿市、未探訪)と共に、必ず挙げられる古墳である。
愉しみ、愉しみ...。

フォト:2018年10月21日

(つづく)







by ryujincho | 2018-10-23 23:45 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/狐塚古墳』 kk-44

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

筑後川右岸の朝倉市を東から西へ走る。
先ず、堀川用水と菱川三連水車・三島二連水車・九重二連水車を見学。
つづいて、一つ目の古墳探訪、狐塚古墳(朝倉市)へと向かう。
国道386線を西へ走り、標識に従い、左折し、一般道を南下。

狐塚古墳に到着。
「←狐塚古墳公開」の立て看板と共に、今日の jitensha。
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墳丘と思しき上に建屋がある。
現地に来て気付いたことだが、狐塚古墳の墳丘と石室の上部は失われ、残った石室の一部には覆屋が施され、保存されているのであった。
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標柱「史跡 狐塚古墳」。
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覆屋の入り口脇に設けられた説明板に目を通す。
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狐塚古墳
福岡県指定文化財(史跡)
昭和35年(1960年)3月5日指定

狐塚古墳は6世紀後半~7世紀前半に築造された古墳です。
古墳は当時の人々を葬ったお墓ですが、特にこの古墳は大きさや副葬品などから、この地を治めた首長層の墓であると考えられます。
円墳で、直径40~60m、高さは5m以上であったと考えられます。
主体部は前室と玄室からなる横穴式石室で、石室の長さは約13mです。
前室、玄室の平面形は円形で、「胴張り」といわれる筑後地方に多くみられる石室です。
副葬品は金環・銀環(耳飾)、餝玉(かざりだま)、鉄地金銅張の馬具類、刀装具、刀子、弓金具(弓)、鉄鏃(矢)、棺桶に使う鉄釘、須恵器、土師器などが出土しました。

この古墳は、石室の壁に石を刻んで絵を描いた線刻系の装飾古墳です。
筑後川流域では顔料(絵の具)で描いた彩色系が主流ですので、数少ない例と言えます。
線刻画は、石室の玄門~玄室にかけて動物や的状のもの、ゴンドラ型の船などを描いています。
これらの他にも多くの線刻がありますが、抽象的なものが殆どです。
石を積んで出入口を塞ぐものですが、狐塚古墳では開閉式の扉がついていたようです。
全国的に見ても例は少なく、貴重な古墳といえます。
(図)
左下/石室と線刻画の位置関係図
・玄室南壁:船
・玄室奥壁:船ほか
・玄室北壁:船
・玄門北側:的?と動物?
・玄門南側:動物
右上(写真))/玄室南壁の線刻画(白い石の表面を削って船を描いている)
右下(図)/墳丘平面図
右下(図)/墳丘断面図

平成26年3月
朝倉市教育委員会
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石室展開図。
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学芸員さんの説明を受けながら、覆屋内の石室を見分。
石室展開図と実際の石室を見比べると、実際の石室の羨道部は僅かな長さだけを残し、その殆どの部分は埋め戻されている。
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左から右に、玄室→央/前室→前室入口(前室/羨道部の間の両袖石部分)を見通す。
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前室/羨道部の間の袖石をズームアップ!
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仕切石をズームアップ!
仕切石の右端に軸穴らしきものが見える(説明板で「石を積んで出入口を塞ぐものですが、狐塚古墳では開閉式の扉がついていたようです」とあり)。
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開閉式扉について、これまでに各地の古墳でベンキョーしたことを記しておきたい。
・元々、古墳は被葬者は一人であったが、時代を経るに連れ、被葬者は複数となった。
・被葬者が出る都度、入口を塞いだ石を動かし、石室に遺骸を安置した。
・入口の石を容易に動かせるよう、石の開閉式扉を作ったと考えられる。


前室(右下/前室入口、左上/玄門)。
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前室南壁をアップ!
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前室から玄門、玄室を見通す。
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玄門側から玄室をズームアップ!
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玄室を真横(北側)から。
手前が張り出していて、大きな円形をした玄室そのものをカメラで捉えることは出来ない。
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玄室南壁。
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線刻画は、この目で見るのも、カメラに収めるのも至難の業。
然は然りながら、後日、カメラに収めたものを<眼力>で見ることとし、学芸員さんがレーザーポインターで指し示した部分をカメラに収める。

玄門南側の袖石(写真中央の四角い石)には「動物」、玄室南壁、玄門近く、袖石のそばの丸い石(写真では紫っぽく写っている石)には「船」が描かれている。
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前掲の説明板の「石室と線刻画の位置関係図」で該当箇所を、今一度、見てみる。
・図、左上/玄室南壁「船」
・図、右下/玄門南側「動物」
と図示されている。
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もぅひとつの説明板に目を通す。
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狐塚古墳
朝倉町大字入地字狐塚

狐塚古墳は筑後川右岸(北側)では数少ない装飾を持つ古墳です。
石室には「船」を主題にした線刻画が描かれています。
出土遺物より、古墳時代の終わり頃(約1400年前)に作られたと考えられます。

狐塚古墳の線刻画(奥壁鑑石)
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狐塚古墳は石室(遺骸を安置する部屋)に特徴があります。
平面プラン(石室の間取り)がほぼ円形で、筑後川流域に多く見られるものです。
また、羨道(石室に通じる廊下)と前室の間の敷石には、扉の柱を据える軸受の小穴が彫り込まれており、古墳時代の葬儀方法を考える上で興味深い点です。
盛り土と石室の上部が失われているため、正確にわからない点もありますが、複式の横穴式石室(二つの部屋を持ち、正面に入口がある石室)で、周囲に溝を巡らせた直径が約40~60mの円墳だったと考えられます。

狐塚古墳の石室
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狐塚古墳の最大の特徴は線刻による装飾です。
鋭利な工具で、安山岩の地肌に文様を彫り込む方法(線刻画)により装飾が施されています。
筑後川中流域の装飾古墳は一般的に染色(顔料を塗布する方法)が主流ですが、狐塚古墳ではこれとは違って線刻による装飾です。
石室の奥壁の石(向かって左奥下)にゴンドラ型の船が描かれており、石室・羨道の他の石にも線刻画が認められます。

狐塚古墳の線刻画
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=筆者による補遺=
この図と覆屋の入り口脇に設けられた説明板の図を照らし合わせると;
・左上/玄室南壁/「船」
・左下/玄室北壁/「船」
・右上/玄門南側/「動物」
・右下/玄門北側/「的?と動物?」
となる。

平成9年3月 朝倉町教育委員会
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上述の石室に関する説明の中で「羨道(石室に通じる廊下)と前室の間の敷石には、扉の柱を据える軸受の小穴が彫り込まれており、古墳時代の葬儀方法を考える上で興味深い点です」とある。
開閉式扉の目的について、筆者の理解を既に述べたが、説明板では「古墳時代の葬儀方法を考える上で興味深い点です」と思わせぶりな記述となっている。
筆者の理解していること以外に、まだ他に開閉式扉とする目的があるだろうか...。

出土品。
説明板に「副葬品は金環・銀環(耳飾)、餝玉(かざりだま)、鉄地金銅張の馬具類、刀装具、刀子、弓金具(弓)、鉄鏃(矢)、棺桶に使う鉄釘、須恵器、土師器などが出土しました」とあった。

そのうちの、これらは馬具類と鉄釘と思われる。
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最下段の馬具は鉄地金銅張であることがよく分かる。
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色が黒っぽく、土師器と思われる。
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通常、出土品は、資料館のガラスケースの中に展示され、お宝の如く、ガラス越しに見学することが殆どである。
しかし、ここ、狐塚古墳では、装飾古墳特別公開日に、出土品を現地に運び込み、無造作に展示されている姿が何とも素朴で好感が持てる。

覆屋の周りを見分。
墳丘の一部や石室の一部が見て取れる。
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暫し、歓談する朝倉市のスタッフさんと、古墳探訪の相棒、武衛さん。
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狐塚古墳の北側の風景を眺める。
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南側の写真はないが、筑後川に向かってなだらかな傾斜となっている。

時計は10時半を指している。
到着したのが9時45分。
一つ目の古墳のときは集中力があり、じっくりと見分するので、ついつい、時間を費やしてしまうのが常。
今回も一つ目で随分と時間を費やしてしまったと思ったが、45分で仕上がったのは上出来。
しかし、先はまだまだ長い。
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今年度の「筑後川流域装飾古墳同時公開」は、狐塚古墳(朝倉市)、珍敷塚古墳、日岡古墳、月岡古墳(以上、うきは市)、寺徳古墳、前畑古墳(以上、久留米市)、花立山穴観音古墳(小郡市)、仙道古墳(筑前町)の8ヶ所。

花立山穴観音古墳、仙道古墳はコースが組みにくかったのでカットし、今回の探訪先は古墳6ヶ所+河童コレクションの一環として田主丸駅舎の都合7ヶ所とした。
狐塚古墳は<制覇>したので、残るは古墳5ヶ所+アルファ1ヶ所。

狐塚古墳をあとにして、次の探訪先、珍敷塚古墳(うきは市)へと向かう。

フォト:2018年10月21日

(つづく)






by ryujincho | 2018-10-23 23:44 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/三連水車』 kk-43

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

探訪先をコース順に列挙すると次の通り(□:古墳、■:プラス・アルファ)。
■朝倉市/三連水車
□朝倉市/狐塚古墳
□うきは市/珍敷塚古墳・・・屋形古墳群
□同/原古墳・・・屋形古墳群として現地にて追加探訪
□同/鳥船塚古墳・・・同上
■田主丸駅/カッパ駅舎(河童コレクションの一環)
□久留米市/寺徳古墳
□久留米市/前畑古墳
□うきは市/日岡古墳
□うきは市/月岡古墳
※筑前町/仙道古墳・・・コースから外れるため、計画時にカット
※小郡市/花立山穴観音古墳・・・同上

この日は筑後川流域の装飾古墳を中心に石室の一般公開日。
これに合わせ、今回の古墳探訪の日程を組んだのであった。

午前8時過ぎ、宿を出発し、筑後川右岸、国道386号線を西へ走る。
標識に「菱野三連水車」の表示あり。
jitensha を止め、左手の筑後川の展望スペースへ行ってみる。
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筑後川の流れと山田堰。
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上流方面。
逆光を受けて、写真的には拙いが、午前8時40分の朝日の記録として。
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周辺案内図を眺める。
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山田堰の説明板に目を通す。
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山田堰
山田堰は、筑後川の水を農業用水として利用するため、江戸時代に造られました。
せき止められた水は筑後川右岸の水門を通って堀川を流れ、8km以上隔てた田畑まで送られます。
水門部分(取水口)は、恵蘇八幡宮北側の御陵山から連なる岩盤を人力で一部くりぬいて作られた切貫水門となっています。
堀川が開通したときの堰は、筑後川の小さな落差(瀬)を利用した簡単なものであったと考えられます。
その後、取水量の安定を図るため、100年以上の歳月をかけて改良が加えられ、寛政2年(1790年)の工事により、ほぼ現在の形になりました。
ゆるやかに左にカーブして流れる筑後川に、流れに斜交する石畳を築造し、水はカーブの外側(右岸)に設置される水門へと導かれます。
平水時は筑後川の本流となる「舟通」や「土砂吐」部分を水が流れ、増水時には石畳全体を水が越えることで堰の安全と取水量の安定を保っています。
山田堰は、自然の地形を巧みに利用した貴重な農業遺産であり、絶え間なく変化する筑後川と共に数百年の時を越えて来た先人の知恵の結晶です。
水面下に隠れる部分を含め、最長部172m、総面積約25,370m2の巨体な構造物です。
平成25年3月 朝倉市
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昨年(2017年)7月、九州北部は大豪雨に見舞われた。
殊に、朝倉市は気象観測史上、最大級の集中豪雨となり、大きな被害を被った。
堀川に設けられた三連水車が土砂に埋もれてしまった光景が、幾度もニュースで映し出された。
その後、地元の人たちやボランタリーの人たちの努力で三連水車が見事に復活したことも報じられた。
そうしたこともあって、今回の旅で、堀川用水と三連水車を是非訪ねてみたいと思ったのであった。

三連水車の見学に先立ち、堀川の大元となる山田堰に関わる懇切丁寧な説明板に目を通し、大いに勉強になった。
因みに、案内図を見て初めて知ったこと、それは、菱野の三連水車のみならず、三島の二連水車、九重の二連水車なるものもあるということだった。

案内図拡大版/堀川と三連水車(菱野)・二連水車(三島)・二連水車(九重)。
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説明板にある案内図は、上が南、下が北となっている。
地図の原則に従い、上が北、下が南になっていないと落ち着かないのが筆者の<性格>。
上が北になるように180度回転させた図も掲載しておこう。
文字が逆さまになり、ちょいと気分が悪くなりそうだが、方位がきちっとしたことにより、地図的には頭の中にすっきりと入って来る。
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西へしばらく走ると、左手に水車が見えて来た。
物産販売所「三連水車の里あさくら」の水車のモニュメントである。
県道から外れ、堀川沿いを西へ走る。

菱川三連水車。
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橋の上から見分。
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ズームアップ!
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橋を渡って、反対側からも見分。
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アップで。
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間近に。
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説明板に目を通す。
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国指定史跡 堀川用水および朝倉揚水車
平成2年7月4日 国指定
所在地 朝倉郡朝倉町大字山田 菱野・古毛(こも)
指定地域 堀川(取入口より九重橋)
     三連1基 二連2基 計3基礎

歴史・由来
当時、絶え間なく押し寄せる筑後川の洪水や、かんばつ、ききん等天災地変の中に幾多の犠牲と死闘を繰り返しつづけてきた祖先が、新田開発のため、寛文3年(1663年)、筑後川から水を取り入れることにより堀川を造った。
更に60年後の享保7年(1722年)、岩盤を切り貫き、現在の取入口を新設したのである。
しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかった。
そのために、この土地では自動回転式の水車が設置されたのである。
三連水車は寛政元年(1789年)に設置されており、三島・九重の二連水車も同じく宝暦のころに設置されたものと思われる。
毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、かんがい面積は3基で35ヘクタールにもおよぶ。

①山田堰
寛政2年(1730年)、当時の庄屋古賀百工を中心にして、堀川の水量を増加させ、かんがい面積を増やすために筑後川(堀川取水口上部)に堰を造った。
これが山田堰である。
表面積25,370m2で、今日もなお昔の面影をとどめ、堀川への導水を容易にし、670ヘクタールの美田をうるおしている。
②切貫水門内部
享保7年(1722年)、安定した水量を確保するために旧取水口を現在の位置に移した。
内部は巨大な岩をノミでくり貫いてあり、トンネル式になっている。
当時、長さ11間(約20m)内法5尺(約1.5m)四方で新設され、その後、数回の改修が行われ、内法10尺(約30m)四方に広められて現在に至っている。
③三連水車
寛政元年(1789年)、もともと、二連式であったものに一挺加えることにより、現在の形態となった。
車の直径は上部4.76m、中部4.30m、下部3・98mで、この大きさは、水車の回転数、高さ、揚水の量と密接な関わりをもっており、1日当たり7,892t揚水し、13.5ヘクタールの水田をかんがいしている。

朝倉町教育委員会
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=備考=
説明板では「所在地 朝倉郡朝倉町大字山田 菱野・古毛(こも)」「朝倉町教育委員会」となっているが、朝倉郡朝倉町は、2006年(平成18年)、甘木市、杷木町と合併し、朝倉市となった。

案内図。
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堀川用水と三連水車の恩恵に預かっている用水北側の田畑を眺める。
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堀川用水の南側の田畑も眺める。
緑の土手の向こうに筑後川。
その向こうに見える山並みは耳納(みのう)山地。
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堀川用水沿いを更に西へ走る。

三島二連水車。
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堀川の流れ。
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九重二連水車。
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堀川沿いから、再び、国道386号線に出て、狐塚古墳を目指し、西へ走る。

フォト:2018年10月21日

(つづく)



by ryujincho | 2018-10-23 23:43 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女市/一念寺』 kk-42

10月20日(土)、晴れ。
この日のプランは、八女古墳群探訪プラス・アルファ。

JR西牟田駅で下車、八女古墳群を西から東へ。
石人山古墳~弘化谷古墳+資料館~岩戸山古墳+資料館~乗場古墳~善蔵塚古墳~(丸山塚古墳、立ち寄り忘れ)~茶臼塚古墳~鶴見山古墳~釘崎古墳群を探訪し、残るはプラス・アルファだけ。

プラス・アルファとは;
・「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>の一環として、八女市/一念寺/寺坂吉右衛門の墓
・「国府跡・国分寺跡・総社めぐり」の一環として、久留米市/筑後国府跡・国分寺跡・尼寺跡・味水御井神社
のふたつである。

今回の古墳探訪先を検討していたとき、道路地図上で、一念寺を<発見>。
寺坂吉右衛門の墓は東京都港区南麻布の曹渓寺にあるのだが、寺坂吉右衛門の墓とされるところが八女市の一念寺も含め全国各地にあることは長年の赤穂浪士に関わるケンキューの中で承知していたので、気付いた次第である。
ということで、今回の古墳探訪の旅に一念寺を加えたのであった。

因みに、全国各地にある、寺坂吉右衛門の墓やそれに類するものは次の通りである。
・曹渓寺(東京都港区)
 晩年、曹渓寺で寺男をして渓いたことから、曹渓寺に葬られた。
 よって、ここが本当の墓で、夫婦の墓が並んでいる。
 魚籃坂を上れば、泉岳寺は直ぐのところにあり、寺男を務めながら、主君と浪士の墓参に通ったことであろう。
・泉岳寺(東京都港区)
 四十六士の墓所に、後年、供養墓が建立された。
・実相寺(宮城県仙台市泉区)
 友人が写真を送ってくれたことがある(生憎、管理が悪く、デジタル写真は消滅)。
 小学校が写っていた記憶があり、グーグルマップで見たところ、実相寺の向かいに仙台市立七北田小学校あり。
・慈眼寺(静岡県賀茂郡西伊豆町)
・一運寺(大阪府大阪市住吉区)※天野屋利兵衛の菩提寺であった龍海寺にあったものを明治期に移設
・信行庵(島根県江津市)
・一念寺(福岡県八女市)
・恵剣寺(長崎県五島市)

全国各地に寺坂吉右衛門の墓、供養墓、庵などがあるのは、討ち入りの様子を浅野家のゆかりの者、浪士ゆかりの者へ伝えるために全国を行脚したことや、浪士は「武士の鑑」と思われるようになり、各藩が寺坂吉右衛門を丁重に扱ったということなどによるものと思われる。

話を八女市に戻そう。

釘崎古墳群1号墳・2号墳から坂道を下り、一念寺に到着。

一念寺。
先ほど、釘崎古墳のある高台から遠望した寺を今度は下から見上げる。
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石段を上り、山門をくぐり、境内に入る。
本殿と霊光殿の間に石段がある。
多分、この石段を上って行った先に寺坂吉右衛門の墓があるのだろうと推測。
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何事も自力で探すことをモットーとしており、且つ、それを楽しみととしているのだが、時刻は既に午後4時近く。
時間セーブのため、寺務所で墓がある場所を尋ねることにする。
寺務所の呼び鈴を押す。
住職の御内儀と思しき婦人が現れた。
「ちょっとお尋ねしますが、寺坂吉右衛門さんの墓は?」。
「本堂と霊光殿の間の石段を上ったところにあります。直ぐに分かります」。
「失礼な質問になりますが、寺坂吉右衛門さんがこの地で亡くなったのは伝聞でしょうか」。
「久留米に親戚がいたとかで、当寺に来られたとこのことです。吉右衛門さんの刀や槍が当寺に遺っております。お祭りもやっております」。
「貴重な話をお聞かせ戴き、有難うございました。では、お墓に参らせて戴きます」。

先刻、眺めた石段を上る。
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寺坂吉右衛門の墓所。
墓石(供養塔)は僧侶の墓塔のような無縫塔となっている。
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先ず、参拝。
続いて、台座や巻石(外柵)に刻まれた文字を読み取る。
外柵には「豊福青年會建」、左には「昭和四年十二月」と刻まれている。
これは長らく地元の人たちが墓所を守り、供養を続けていることを示すものである。
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無縫塔の台石に刻まれた文字を読み取る。
読み取りが難しい個所もあるが、極力、読み取ってみる。
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------------------------------------
右(縦)/享保十四(?)
央(縦)/願譽順故、央(横)/大徳 
左(縦)/(?)九月廿六日
------------------------------------

文字は読み取り辛いが、「享保」はしっかりと読み取れている。
寺坂吉右衛門が没したのは、延享4年10月6日(1747年11月8日)。
となると、刻まれている年月日「享保14年9月26日」(1729年)は寺坂吉右衛門の命日ではない。
因みに;
・享保は1716年から1736年までの期間
・延享は1744年から1748年までの期間
である。
となると、寺坂吉右衛門が亡くなる以前に建立されたこととなる。
となると、?マークがいっぱい付くことになるのだが、この謎解きは追ってのこととしたい。

墓所の脇に設えられた案内板に目を通す。
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保護プラスチック板が反射し、上手く読み取れない。
加えて、杉板に黒ずんだ個所があったり、墨書きがかすれている個所もあり、上手く読み取れない。
しかし、大事な資料である。
武衛さんと共に、読み取れる文字を読み取ってみる。
以下はそのエッセンス。
-------------------------------------
1行目  寺坂吉右ヱ門傳記
2行目  、、、足軽ヨリ奮起シ、、、
15行目 、、、最後に六部姿ニテ九州ニ渡リ、、、
16行目 、、、久留米ニ来リテ(現在ノ日吉町博集舘附近)
18行目 、、、吉田忠左ヱ門ノ伯母ノ子ニ、、、
20行目 、、、立山ノ庵寺ニ入リ佛器等主君、、、
21行目 、、、享保十四年閏九月廿六日、、、
22行目 、、、ニヨリ遺骸を當山ニ、、、
---------------------------------------

「久留米」、「吉田忠左ヱ門ノ伯母之子二」は、先ほどの御内儀の「久留米の親戚」の話に呼応する。
寺坂吉右衛門は、浪士の一人、吉田忠左衛門に仕えていたので、全国の浪士ゆかりの人々を訪ねる中で、久留米の吉田忠左衛門の親戚に立ちよったということになる。
「享保十四年閏九月廿六日」は、台石に刻まれた年月日と呼応しており、謎解きの有用なヒントになる。

帰宅後にじっくりと読み取ろうと思い、三分割してカメラに収める。
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これから、この3枚の写真をゆるりとながめ、詳細を読み取り、「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>の一助としたい。

寺崎吉右衛門の墓所の近くで、古墳時代の石人・石馬などの石製品に類するものではないかと思わせる石を見つけた。
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一念寺の境内から釘崎古墳群1号墳と2号墳を遠望。
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山門を抜け、石段の上から釘崎古墳群1号墳、2号墳を遠望。
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これにて、「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>として、一念寺の寺坂吉右衛門の墓参が叶い、大満足!

この日の残るプランは、「国府跡・国分寺跡・総社めぐり」の一環として、久留米市内の筑後国府跡、筑後国分寺跡、筑後国分尼寺跡、総社である味水御井神社の探訪である。

時計を見ると、午後4時10分。
これから久留米市内に向かうと夕暮れ時となる。
国府跡・国分寺跡・総社めぐりはギブアップせざるを得ない。一念寺から、朝、下車した鹿児島本線/西牟田駅へ行くか、当初のプラン通り、久留米市内へ向かい、九大本線/久留米大学駅前へ行くかである。どちらも、距離的には、然程、差はない。当初プランで久留米市内へ向かうことにしていたので、地図も準備済みである。県道82号線、国道3号線を通り、九大本線/久留米大学前駅へ向かうことにする。

午後4時10分、一念寺を出発。
県道82号線、国道3号線などを通り、午後5時半、九大本線/久留米大学前駅に到着。
幹線道路だから道に迷うことはないと思っていたが、バイパス工事や何やかやで、途中、よく分からない道も走ったが、日暮れ直前に、何とか駅に到着出来た。
やれやれであった。

筑後国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社めぐりはギブアップしたが、今後の参考として、事前に調べた事項をここに記しておきたい。
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□筑後国府跡・・・久留米大学前駅の北西
・一期国庁、前身官衙、二期国庁舎、国司館跡、調査事務所などあり
・合川公民館(合川校区コミュニティセンター)前に説明板あり
□総社/味水御井(うましみずみい)神社・・・久留米大学前駅の直ぐ、北
※南に4期国府/横道遺跡あり
□筑後国分寺跡・・・陸上自衛隊久留米駐屯地付近
・日吉神社境内と重複して位置し、寺域は約150メートル四方と推定される
・遺構としては講堂跡・塔跡・築地跡が確認されている。
・神社境内に礎石1個が残る
・道路を挟んで塔跡が位置する
□筑後国分尼寺跡
・僧寺跡の北約200メートルの西村地区と推定(遺構、未発見。古瓦、出土)
・西村地区の「西」は「尼寺」の転訛ともいわれる
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17:50 久留米大学前駅発/18:14 筑後吉井駅着。
宿へ戻る途中、リンガーハットで夕餉を摂る。
コンビニでビールとつまみを調達し、宿で一献やりながら、<本日の反省会>と<明日の作戦会議>を行う。

大満足の1日を終え、さあ、明日は筑後川流域古墳探訪である。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:42 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/乗場古墳、(丸山塚古墳)、茶臼塚古墳、鶴見山古墳、釘崎古墳群』 kk-41

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

八女古墳群を西から東へ。
「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」、岩戸山古墳、隣接の資料館「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」を見分、見学。

時刻は既に午後2時を過ぎている。
先を急がねばならない。
岩戸山古墳を出発し、次の探訪先、乗場古墳へと向かう。

岩戸山古墳から東へ、坂道を下り、国道3号線を渡り、坂道を上る。
右手に乗場古墳、前方に福岡県立福島高校が現れた。

広川町古墳館と岩戸山歴史文化交流館で集中し過ぎてしまったせいか、乗場古墳の見分で墳丘に上る気力が失せてしまった。
ということで、墳丘の見分は相棒の武衛さんにお任せした。

乗場古墳の前方部北側を上る武衛さん。
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墳丘を見分する武衛さんと標柱「史跡 乗場古墳」。
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小生は道路から墳丘を見分。
北西角から墳丘を見通す。
道路の拡幅、或いは、墳丘の保全のためか、墳丘の北側と西側は人工的にがっちりと固められてしまっている〈後掲の説明書きに「以前は、周溝と周堤がめぐっていたが、昭和30年代に周囲を造成した際に削られた」とあった)。
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説明板に目を通す。
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国指定 八女古墳群
乗場古墳
指定年月日 大正11年3月8日
(昭和53年3月24日名称変更)
所在地 八女市大字吉田字乗場

乗場古墳は岩戸山古墳から東方約300mに位置する2段築成の前方後円墳で、墳丘の長さ約70m、後円部径約30m、高さ約5m、前方部幅約35mでさ、高さは前方部の方がやや低い。
以前は、周溝と周堤がめぐっていたが、昭和30年代に周囲を造成した際に削られた。

江戸時代の終わり、久留米藩士 矢野一貞が著した「筑後将士軍談」によれば、乗場古墳はすでに「吉田村奈良山之図」として紹介された周堤をめぐらした絵図があり、石人の出土も伝える。

石室の構造はほぼ南側に入口がある全長約10mの複室構造の横穴式石室で、石室の玄室の奥壁と両側壁、前室の両側壁と袖石に彩色によって装飾文様が描かれている。
出土遺物は明治~大正年間に発見された玉、馬具、土器があり、現在、東京国立博物館に収蔵中。
人物埴輪、環頭大刀柄頭は福島高校に保管されている。
古墳の年代は岩戸山古墳に次ぐ6世紀中頃から後半頃と推定されている。

平成4年3月 八女市教育委員会

(図)「筑後将士軍議」より
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久留米藩の学者である矢野一貞が著した『筑後将士軍談』は、先ほど、訪ねた資料館2館で馴染みとなった書物である。

『筑後将士軍議』で描かれた乗場古墳の図をアップで。
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左図(”立面図”)拡大版。
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本図から次のような記述が読み取れる。
※括弧内は読み取り不明瞭あるいは推測を示す。
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吉田村奈良山之圖
岩戸山ノ寅の方三四町ニアリ
岩戸山ヨリハ稍小也

直立西ハ二間六分
ハエ七間五分
三方ハ直立ニ間ニ分二厘
ハエ七間
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古(瓦)甚ダシ
石人ノ残缺缺モアリ
--------------------------------
周廻百間
--------------------------------
周囲ニ堀ノ形
(略)残シ(共)全カラズ
-------------------------------
(是)及朝田ノ塚等眞ノ山陵造
也(地)ノ類モ侭有之
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右図(”平面図”)拡大版。
※北が北上に位置するよう、図を90度右回転。
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本図から次のような記述が読み取れる。
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(方位)東、西
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二十間五分
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説明板の内容と江戸時代の記述を照らし合わせながら読むとまた別の思いが湧いて来る。

一般道を西から東へ見通す。
緩やかな上り坂(墳丘築造の地形が類推出来る)。
右/墳丘、前方/福岡県立福島高校正門、左/同校グラウンド。
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福岡県立福島高校正門をズームアップ。
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岩戸山古墳隣接の資料館で見た絵画『磐井とその一族』は同校で教鞭をとっていた井上自助氏が描いたものとあった。
また、前掲の説明板では、乗場古墳から出土した人物埴輪、環頭大刀柄頭は同校で保管されているとあった。
地元の学校が古墳に関わっていることは誠に結構なことである。
遺跡には教育委員会が関わっているから当然のことといえばそれまでであるが、現場に近い学校が関わっているということに意味がある。

一般道から墳丘後円部を眺める。
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案内標識「八女古墳群」。
これから探訪する古墳・古墳群がずらりと。
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墳丘探訪の武衛さんも合流し、出発。

上り坂の頂上を右折し、前方部東端を眺める。
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墳丘の南側は十数メートルの崖となっている。
ということは、乗場古墳は八女丘陵の高台南端に築造されているということになる。

我らは南へ下ることなく、東へと走る。
東側も下り坂となったあと、上り坂、坂を上り切ると平坦部が続き、丘陵の高台を東へ走る。

因みに、これまでずっと八女丘陵の高台を走っているが、平坦ばかりではなく、アップダウンがある。
即ち、石人山古墳・化谷古墳から岩戸山古墳までは比較的平坦が続いたが、岩戸山古墳から乗場古墳の間は一旦ダウンし、アップ、乗場古墳から東は一旦ダウンし、アップ、そのあとは平坦部が続くといった具合だ。
更に、茶臼塚古墳を過ぎるとダウンし、アップ、その高台に鶴見山古墳、釘崎古墳群が位置しているという地形である。

善蔵塚古墳。
左手に善蔵塚古墳の標識、その奥に墳丘が見える。
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(右側標識)
古墳ロード
八女丘陵上には5世紀から7世紀にかけて大小300基の古墳が造られました。
丘陵上のこの道路の両側にはたくさんの古墳が点在しています。
広川町観光協会
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(左側標識)
史蹟 八女古墳群
善蔵塚古墳
この古墳は大切な文化財です。
ごみを捨てたり、彫ったりしないでください。
広川町教育委員会
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この辺りは八女市と思っていたが、八女郡広川町(北側)と八女市(南側)の境界線上であったのだ。

墳丘に目を遣る。
墳丘のどの部分を見ているのかまだよく分からない。
更に進んで見分してみることにする。
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説明板が見当たらない。
ウィキペディアによれば、次の通りである。
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善蔵塚古墳
所属 八女古墳群
所在地 福岡県八女郡広川町六田字善蔵塚
形状 前方後円墳
規模 全長95m
出土品 埴輪
築造時期 6世紀前半~中頃
史跡 昭和53年(1978年)国の史跡

八女古墳群における有力古墳であり、岩戸山古墳、石人山古墳に次ぎ第3位の規模を誇る。
前方部を西に向け、2段築成の墳丘には葺き石と埴輪が巡る。
築造時期は表採された円筒埴輪などから、6世紀前半~中頃とみられ、乗場古墳と同時期か、やや遅れ、鶴見山古墳と並行すると考えられる。
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西側から前方部西端を眺める。
2段築成であることが見て取れる。
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前方後円墳であることを視認すべく、後円部北西の裾からズームアップし、前方部を覗いてみる。
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墳丘に上ってみたいのだが、時間的に厳しく、次へ。

しばらく走ると、左手に墳丘が見えて来た。

茶臼塚古墳。
西側から。
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南側から。
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草が刈り込まれ、整備がされていることでもあり、時間的に厳しいが、墳丘を見分することにする。

墳丘下に設えられた説明板に目を通す。
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国指定史跡 八女古墳群
茶臼塚古墳
指定年月日 昭和53年3月24日
所在地 八女市大字宅間田字ウト967番地
    八女市大字豊福烏帽子886番地の2他

八女丘陵のぼぼ中央に位置する円墳です。
墳丘は盗掘のため中央部分が陥没していますが、古墳を復元してみると直径約24m、高さ約5.3mの円墳となります。
墳丘の周囲から円筒埴輪が出土しており、出土遺物から6世紀の古墳と考えられています。
(図)
航空写真
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航空写真
右上/茶臼塚古墳・・・更地のように見えるが、目を凝らすと円墳とわかる
左下/丸山塚古墳・・・円墳がくっきりと見える 
※写真上では「丸山古墳」となっているが、丸山古墳は八女市の東南部にあり、八女丘陵のこの古墳は「丸山塚古墳」である。
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グーグルの航空写真でこの辺りをみると、善蔵塚古墳は森の状態、丸山塚古墳と茶臼塚古墳は見事な円となっているのが確認出来る。

墳丘を反時計回りで見分。

北東裾から南東を眺める。
畑の向こうに茶畑が見える。
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西裾から墳丘を眺める。
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西側から墳丘南裾と東側を見通す。
東側の畑の向こうに茶畑も見える。
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葺石かな?
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アップで。
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八女丘陵を更に東へ走る。
坂道を下る。
南北に走る県道82号線に至る。
そこで、ふと、気付いた。
丸山塚古墳に立ち寄っていなかった。
丘陵の道を東へ走りながら、左手にあると思い込んでいたのが間違い。
丸山塚古墳は、善蔵塚古墳と茶臼塚古墳の間の右手にあったのだ。
標識があったかどうかは定かではないが、道の左手にばかり気を取られていたので、見落としたのかもしれない。

時計をみると午後3時を回っている。
再び、坂道を上り、丸山塚古墳まで戻る時間的余裕も元気もない。
丸山塚古墳はギブ・アップしたが、せめてもの救いは、茶臼塚古墳に関する説明板掲載の航空写真に丸山塚古墳が写っていたことである。
ということで、丸山塚古墳の航空写真(トリミング図)をここに掲載しておきたい。
※写真上では「丸山古墳」となっているが、丸山古墳は八女市の東南部にあり、八女丘陵のこの古墳は「丸山塚古墳」である。
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説明板に代え、ウィキペディアによれば、次の通りである。
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丸山塚古墳
所属 八女古墳群
所在地福岡県八女市宅間田
形状 円墳
規模 直径約33m、高さ約5.3m
埋葬施設 両袖型横穴式石室
築造時期 6世紀後半
史跡 昭和53年(1978年)国の史跡

丸山塚古墳は大型の円墳で、本来は墳丘を取り巻く周濠・周堤が存在したと思われる。
北側200mの所には、善蔵塚古墳と茶臼塚古墳がある。
埋葬施設は両袖型横穴式石室で、全長8mを測り、南に開口する。
乗場古墳と同様、前室と後室に分かれた複室構造で、腰石に大きな石材を用い、上部には扁平の石材を用い割石積みをし、ドーム状に積み上げている。
また、奥壁や玄室・前室の袖石には赤・黄・緑の三色により三角文・円文・蕨手文が描かれている。
石室は保存のため調査後に埋め戻され、現在入ることは出来ない。
丸山塚古墳が造営された時期は、石室が複室構造であることなどから広川町の弘化谷古墳よりやや後出するものと考えられ、6世紀後半頃と推定されている。
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県道82号線を横切り、更に東へ。
上り坂となる。
坂を上り切ると再び平坦な道となり、右手奥に鶴見山古墳が現れた。

鶴見山古墳。
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鶴見山古墳
所在地 八女市大字豊福967番地他

八女丘陵の中ほどに位置している前方後円墳で、主軸を東西方向にとり、全長約85mの二段築造になっています。
周溝を含めると全長110mになります。
前方部は幅約50m、高さは現況で約6m、後円部は直径約40m、現況の高さで約5.5mです。
主体部は、後円部に築かれた横穴式石室で、複室構造になっています。
武人埴輪(盾を持つ埴輪)や円筒埴輪が出土しており、これらの遺物から6世紀中頃から後半頃の古墳と考えられています。
(図)
航空写真
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航空写真。
右(東)/鶴見山古墳、左(西)/茶臼塚古墳。
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航空写真/鶴見山古墳をトリミング拡大版で。
ビニールハウスの北側に、東西を主軸とする前方後円墳が見て取れる。
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墳丘を見分。

南東から前方部を眺める。
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墳丘上を見分する武衛さん。
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小生も墳丘に上ってみる。

前方部墳頂から北東を眺める。
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後円部西端。
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墳丘から下り、後円部を北側から眺める。
後円部の西側一帯は果樹園となっている。
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鶴見山古墳をあとにして、更に東へ走る。
秋の風情の中に立つ案内標識。
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釘崎古墳群は3・4号墳が道の左側(北)に、1・2号墳が道の右側(南)に。
1・2号墳を探訪することにする。
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釘崎古墳群は、八女市ホームページによれば次の通りである。
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釘崎古墳群
豊福地区に所在する、円墳8基・前方後円墳4基からなる古墳群です。
八女古墳群中、最も前方後円墳が密集している古墳群で、1号墳、2号墳、3号墳(現在は消滅)はこれまでに発掘調査が行われています。
3号古墳からは鏡や太刀、馬具と共に多量の鉄鏃(鉄の矢じり)が出土しており、被葬者は武人的性格の強い人物であったと想像できます。
11号古墳(円墳)は赤色の円文(丸い紋様)をもつ装飾古墳であることが確認されています。
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八女古墳群1号墳と2号墳を見分。
1号墳、2号墳は、いずれも主軸を南北にとる前方後円墳(北/前方部、南/後円部)。
1号墳が最南端に、そのすぐ北に2号墳が位置している。

1号墳(全長57m)。
南東方向から後円部を眺める。
右手のブルーシートに白い重しのあるところは調査用のトレンチ。
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1号墳、くびれ部付近。
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2号墳(全長47m)。
南側から前方部を眺める。
こちらも調査用のトレンチが掘られている。
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後円部を東側から眺める。
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くびれ部付近を東側から眺める。
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前方部の一部と午後3時40分の西に傾く太陽。
左下の紫色は、逆光のときのレンズの悪戯で僅かに現れたゴースト・フレア。
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1号古墳の南側が丘陵の南縁。
南縁に立ち、向かいの丘陵の高台にある一念寺を眺める。
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一念寺を訪ねるのか。


本日のプランで、このあと、一念寺を訪ねることにしている。
古墳探訪とは異質のところを訪ねるのは何故か。
それは続編の一念寺の巻にて。
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釘崎古墳群1号墳、2号墳をあとにして、坂を下り、一念寺へ。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:41 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/岩戸山古墳(Ⅵ)』 kk-40

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

八女古墳群を西から東へ。
「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。
続いて、岩戸山古墳へ。

岩戸山古墳。
先ず、隣接の「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」を見学。
第35話から5話に亘って、館内の展示品や展示パネルについて縷々綴った。
次は、古墳そのものの見分である。
資料館から岩戸山古墳へ徒歩で向かう。

到着時に目を通した説明板をもう一度。
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国指定史跡 八女古墳群
岩戸山古墳
指定年月日 昭和30年12月23日
(名称変更 昭和53年3月24日)
所在地 八女市吉田字甚三谷

八女丘陵は東西10数kmにおよぶ丘陵である。
この丘陵上には12基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。
八女古墳群のぼぼ中央に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135m、東側の後円部径約60m、高さ約18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり、周濠、周堤を含めると全長約170mになる。
墳丘は二段築造で、内部主体は未発掘のため不明である。
古墳の北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している。
岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527年)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓であり、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。
古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰岩でつくられた多量の石製品が埴輪とともに出土している。
種類も人物(武装石人、裸体石人など)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?犬?など)、器材(靱・盾・刀・坩・蓋・翳など)があり、円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。
石製品は埴製(土)を石製に代え、さらに実物大を基本とした所に特徴がある。
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今年4月、テレビの放送大学「日本の古代中世」で;
第1回「古代・中世史への招待」
第2回「日本列島の原始から古代へ」
第3回「律令国家への道」
第4回「律令国家と天平文化」
をベンキョー。

第2回「日本列島の原始から古代へ」の内容は「岩宿・三内丸山・吉野ヶ里遺跡など、旧石器・縄文・弥生時代の発掘成果から列島の社会像を見直し、中国史書が伝える歴史像と突き合わせる。また、古墳時代の稲荷山古墳鉄剣や『宋書倭国伝』が語る列島像を、磐井の戦いにみる国際関係とともに再検討し、倭国の大王と地方豪族との関係を複眼的に見直す」というものであった。
磐井の戦いに関わる解説と共に、佐藤信放送大学客員教授は岩戸山古墳へ赴き、現地での解説もあった。
このとき、別区なるものがあることを知り、まことに興味深く拝聴したのであった。

そうしたこともあり、この説明板の内容はスッと頭の中に入った。

説明板の航空写真をアップで。
この航空写真の方位は、下が北、上が南となっている。
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航空写真を、180度、回転させると上が北となり、墳丘の方向や別区の位置の方位がイメージし易い。
即ち、前方部を西、後円部を東とした前方後円墳であり、別区は後円部の北東に位置している。

航空写真の墳丘部と別区の部分だけをトリミングし、且つ、北が上になるよう、180度回転させ、方位を定めた写真がこれ。
・こんもり部分の、西(左側)が前方部、東(右)が後円部。
・北東(右上)の、芝の枯れた黄色の方形部分が別区。
眼を凝らしてこの写真を見ると、別区の東辺に置かれた石人・石馬(レプリカ)が黒い点線状で写真に写っているのが分かる。
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先ず、別区から見分。
別区は一辺約43mの方形である。
別区の北東角に立つ。
左手(別区、東辺)に石人・石馬(レプリカ)。
右手奥の<こんもり>は墳丘(後円部)。

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別区の北西角に立つ。
左奥(別宮、東辺)に石人・石馬(レプリカ)。
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別区東辺に並ぶ石人・石馬(レプリカ)。
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放送大学で佐藤信放送大学客員教授が岩戸山古墳へ赴いて現地での解説があったと上述したが、まさに、教授が立っていたところに、今、我らが立っているのである。

そして、先ほど、資料館で見学し、第35話の中で綴った『筑後國風土記』(逸文)の一説が頭の中に思い浮かぶのであった。

ということで、『筑後國風土記』(逸文)を今一度、ここに掲載しておこう。
※「筑紫國風土記」(逸文)の前段、中段あたりに岩戸山古墳と別区の様子が記されている。
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『筑後國風土記』(逸文)
筑後(ちくしのみちのしり)の國の風土記に曰はく、上妻(かみつやめ)の縣(あがた)。
縣の南二里(さと)に筑紫君磐井(ちくしのきみいはい)の墓墳(はか)あり。
高さ七丈(ななつま)、周(めぐ)り六十丈(むそつま)なり。
墓田(はかどころ)は、南と北と各(おのもおのも)六十丈(むそつま)、東(ひむがし)と西と各(おのもおのも)四十丈(よそつま)なり。
石人(いしひと)と石盾(いしたて)と各(おのもおのも)六十枚(むそひら)、交(こもごも)陣(つら)なり行(つら)を成して四面(よも)に周匝(めぐ)れり。
東北(うしとら)の角(すみ)に當りて一つの別區(ことどころ)あり。
號(なず)けて衙頭(がとう)と曰ふ。
衙頭は政所(まんどころ)なり。
其の中(うち)に一(ひとり)の石人あり、縦容(おもふる)に地に立てり。
號(なづ)けて解部(ときべ)と曰ふ。
前に一人あり、躶形(あかはだか)にして地に伏せり。
號(なづ)けて偸人(ぬすびと)と曰ふ。
生けりしとき、猪(ゐ)を偸(ぬす)みき。
仍(よ)りて罪を決められむとす。
側(かたわら)に石猪(いしゐ)四頭(よつ)あり。
贓物(ざうもつ)と號(なづ)く。
贓物は盗みし物なり。
彼(そ)の處(ところ)に亦(また)石馬(いしうま)三疋(みつ)、石殿(いしとの)三間(みつ)、石蔵(いしくら)二間(ふたつ)あり。
古老(ふるおきな)の傳(つた)へて云へらく、雄大迹(おほど)の天皇(すめらみこと)のみ世に當りて、筑紫君磐井、豪強(つよ)く暴虐(あら)くして、皇風(おもむけ)に偃(したが)はず。
生平(い)けりしの時、預(あらかじ)め此の墓を造りき。
俄(にわか)にして官軍(みいくさ)動發(おこ)りて、襲(う)たむとする間(ほど)に、勢(いきほひ)の勝つましじきを知りて、獨自(ひとり)、豊前(とよくにのみちのくち)の國上膳(かみつみけ)の縣(あがた)に遁(のが)れて、南の山の峻(さか)しき嶺(みね)の曲(くま)に終(みう)せき。
ここに、官軍(みいくさ)、追(お)ひ尋(ま)ぎて蹤(あと)を失(うしな)ひき。
士(いくさびと)、怒(いかり)泄(や)まず、石人(いしひと)の手を撃(う)ち折り、石馬(いしうま)の頭(かしら)を打(う)ち堕(おと)しき。
古老(ふるおきな)傳(つた)へて云へらく、上妻(かみつやめ)の縣に多く篤(あつ)き疾(やまい)あるは、蓋(けだ)しくは茲(これ)に由(よ)るか。
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石馬の脇に置かれた「別区」の表示。
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別区から後円部東端の裾を眺める。
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別区の北東角から墳丘の北側を東から西へ見通す。
念のため、磁石を取り出し、方位を確認。
立っているのは別区の北東角、墳丘の向きは東西(東/後円部、西(写真、奥)/前方部)である。
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後円部、墳丘の裾。
裾に「後円部」の表示あり。
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標識「後円部」をアップで。
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別区(東側)から西、墳丘の北側を見通す。
墳丘の北側が凸に見える。
これは;
左/墳丘裾(幅の狭い周濠があったのだろうか?と思わせるような凹みあり)
央/周堤
右/堤の外側に更に周濠があったのであろうか?と思わせるような凹みあり
という地形だからであろう。
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別区(東側)から墳丘北側の周堤を歩き、西へ進む。
途中、振り返り、西から東を眺める(右/後円部裾、奥/別区)。
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再び、西に向き、前進する。

墳丘の裾。
右下に「前方部」の標識あり。
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標識「前方部」をアップで。
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「前方部」の標識がある辺りから墳丘を上る。
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前方部の墳頂に至る。
前方部西端の北側に鎮座する社。
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前方部西端の南側に設えられた石段。
あとで分かることだが、後円部南側の裾に吉田大神宮の本殿が鎮座しており、先ず、本殿に参拝し、この石段を上り、前方部墳頂の社に参拝、更に、後円部の大神宮旧蹟にも参拝し、再び、この石段を下るというのが吉田大神宮参拝の正式ルートと思える。
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前方部墳頂から後円部墳頂を見通す。
足元の緑に苔むした辺りは丸みを帯びた凸凹になっている。
葺石かもしれない。
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既に別区で磁石を取り出し、方位(前方部/西、後円部/東)は確認したが、念のため、墳丘上でも方位を確認する。
当然のことながら、前方部は西、後円部は東である。
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前方部から後円部へ進む。

後円部。
後円部墳頂と、それをカメラに収める、古墳探訪の相棒、武衛さん。
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後円部墳頂に立つ石碑「大神宮舊跡」。
あとで分かることになるのだが、後円部の南裾に吉田大神宮の本殿が鎮座しており、この石碑「大神宮舊跡」は、以前、本殿は後円部墳頂に鎮座していたことを示している。
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石碑には「大正15年1月」と刻まれており、新たな本殿はその頃、或いは、それ以前に造営されたものと思われる。
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後円部墳丘斜/北縁斜面。
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後円部墳丘/東縁斜面。
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後円部墳丘/南縁斜面。
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後円部墳頂から前方部を見通す。
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後円部から、再び、前方部へ。
しつこいようだが、またまた、磁石を取り出して。
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前方部墳頂から南側へ石段を下る。
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下って来た石段を見上げる。
前方部の高さ約17mをこの目で確認。
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扁額コレクション。
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墳丘の北側裾部の見分、墳頂の見分に続いて、次は墳丘の南側裾部の見分。
南側の裾部を西から東へ進む。

後円部南裾に鎮座する、吉田大神宮本殿。
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鳥居の脇に立つ標柱「史跡 岩戸山古墳」。
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扁額コレクション。
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後円部南裾、吉田大神宮本殿(東)から前方部南裾方向(西)を見通す。
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北側にも説明板があった(冒頭に掲載)が、南側にも説明板がある。
同じ内容と思うも、<おさらい>も兼ねて、目を通す。
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国指定史跡 八女古墳群 岩戸山古墳
指定年月日 昭和30年12月23日(名称変更 昭和53年3月24日)
所在地 八女市大字吉田字甚三谷
八女丘陵は東西10数kmにおよぶ丘陵である。
この丘陵上には11基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。
八女古墳群のぼぼ中央に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135m、東側の後円部径約60m、高さ約18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり、周濠、周堤を含めると全長約170mになる。
墳丘は二段築造で、内部主体は未発掘のため不明である。
古墳の東北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している。
岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527年)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓であり、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。
古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰岩でつくられた多量の石製品が埴輪とともに出土している。
種類も人物(武装石人、裸体石人など)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?犬?など)、器材(靱・盾・刀・坩・蓋・翳など)があり、円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。
石製品は埴製(土)を石製に代え、さらに実物大を基本とした所に特徴がある。
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筑紫君磐井(つくしのきみいわい)
約1500年前の古墳時代後期に当地を含めた現在の福岡県南部を拠点とした大豪族である。
奈良時代に編纂された古事記や日本書紀には磐井に関する記述が残っており、日本書紀では「磐井は西の戎(ひな)の姧(かだましき)猾(やつこ)なり。川の阻(さか)しきこと負(たの)みて庭(つかえまつ)らず。」とされ、悪賢く、朝廷に使えない人物と評価されている。
また、磐井は西暦527年に火国(ひのくに)・豊国(とよのくに)(現肥前・豊前・豊後)と共に反乱を起こし、翌528年には筑紫の御井郡(現久留米市の三井周辺)において決戦が行われ、磐井は斬られたとも記されている。
しかし、筑後国風土記(逸文)には「豊前(とよくにのみちのくち)の國上膳(かみつみけ)の縣(あがた)に遁(のが)れて、南の山の峻(さか)しき嶺(みね)の曲(くま)に終(みう)せき。」とあり、現在の豊前市付近に敗走したと伝えている。
この記述は、磐井が地域の盟主であるが故に生かしたとの郷土民の強い思いであったのかもしれない。
2015年11月
八女市教育委員会
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南側の説明板の上段「国指定史跡 八女古墳群 岩戸山古墳」について:
2ヶ所を除き、北側の説明板と、一言一句、同じである。
相違点は次の2点である。
①前方後円墳の基数:(北側)12基、(南側)11基
 確認のため、ネット検索してみた。
 11基、12基、両方の記述あり。
 何れが正しいかは、八女市教育委員会に確認するしかない。
②別区の位置の表現:(北側)「古墳の北隅」、(南側)「古墳の東北隅」
 これは明らかである。
 南側の説明板「東北隅」に軍配!
 因みに、小生自身の文章の中では、「東北」ではなく、「北東」と記しているが...。

南側の説明板の下段「筑紫君磐井」について:
これは、北側の説明板にはなかったものであるが、資料館の展示パネルで解説されていた。
この説明板では「磐井は西暦527年に火国(ひのくに)・豊国(とよのくに)(現肥前・豊前・豊後)と共に反乱を起こし」とあり、資料館の展示パネルでも「筑紫君の命運をかけた一戦磐井の乱に込められた九州豪族の思い度重なる百済支援のため、九州に要求される兵・船・馬などの軍事挑発、強まる地方への支配体制、磐井は遂に立ち上がり、火国・豊国と共にヤマトの軍勢に刃を向け、ここに古代史上最大の内乱『磐井の乱』が勃発します」(全文は第35話に掲載)とあり、磐井は火国・豊国と共にヤマト王権軍と戦ったとしている。
磐井が火国・豊国と共にヤマト王権軍と戦ったということに異論を唱えるつもりはないが、関連資料に目を通していると、火国はヤマト王権軍に寝返ったという説もあることを申し添えておきたい(これに関する詳細は第35話と第38話にて述べた通りである)。

岩戸山古墳の見分に大満足!
後円部の南裾、東の吉田大神宮本殿から墳丘の南側を西へ進み、前方部の南西角を曲がり、前方部西端の裾を北へ進む。

前方部西端、南側から北側を見通す。
前方部の幅、約92mを実感する。
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前方部西端の北西角を曲がり、先ほど通り抜けた墳丘の北側を東へ進み、jitensha を止めてある資料館に戻る。

資料館ロビーの床面に貼られた航空写真。
現在地の岩戸山古墳、次の探訪先である乗場古墳、善蔵塚古墳、丸山塚古墳、茶臼塚古墳、鶴見山古墳、釘崎古墳がプロットされている。
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時刻は既に午後2時を過ぎている。
先を急がねばならない。
岩戸山古墳を出発し、次の探訪先、乗場古墳へと向かう。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:40 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/岩戸山古墳(Ⅴ)』 kk-39

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

八女古墳群を西から東へ。
「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。
続いて、岩戸山古墳へ。

岩戸山古墳。
先ず、隣接の「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」を見学。
第35話から4話に亘って、館内の展示品や展示パネルについて縷々綴って来た。
岩戸山古墳の見分も控えていることにて、そろそろ、館内展示について最終とせねばならない。

全話で掲載した「筑紫君全盛の頃の主要古墳分布図」の中で今城塚古墳がプロットされていたので、今城塚古墳について次の通り触れた。
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今城塚古墳について:
本図に、磐井の乱で筑紫君磐井が相対した継体天皇(第26代)の墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市郡家新町)がプロットされている。
なお、宮内庁治定による継体天皇の陵(みささぎ)は三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ、大阪府茨木市太田、遺跡名:太田茶臼山古墳)であるが、歴史学界では今城塚古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。
何故、継体天皇に関わる古墳がふたつあるのか、それについては、近々、三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)と今城塚古墳を探訪する予定としており、探訪後、別の機会に綴ることとしたい。
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話が少々逸れるが、筆者のもう一つの趣味である「赤穂浪士」、「忠臣蔵」の関連で、赤穂浪士ゆかりの地を<取材>しているが、それだけでは片落ちとなるので、吉良郷(愛知県西尾市吉良町、旧・幡豆郡吉良町)や江戸の吉良家菩提寺である萬昌院功運寺(東京都中野区上高田)など、吉良家ゆかりの地も<取材>している。

それと同様に、筑紫君磐井とその墓所のことだけを綴ったのでは片落ちとなるので、継体天皇とその墓所についても触れておかねばならないと思う次第である。

第37話で掲載した立山山古墳出土の人物埴輪3点の背面に展示されていたパネル資料や立山山古墳・カクチガ浦古墳・岡寺古墳出土の馬形埴輪3点の背面に展示されていたパネル資料は継体天皇もしくは今城塚古墳関連の記事となっていたが、当地出土の人物埴輪や馬形埴輪と今城塚古墳が重なり合うような混乱を避けるため、今城塚古墳はモザイク処理を施した。

今回は継体天皇について触れるため、モザイク処理した部分を復活させた写真を掲載する。
当地出土の人物埴輪と馬形埴輪はモザイク処理をすることなく残しておくが、今城塚古墳とは無関係の埴輪であることは申すまでもなきことかと。

最大のライバル!
継体大王が眠る今城塚古墳
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最大のライバル!
継体大王が眠る今城塚古墳
大阪府高槻市にある墳丘長190mの前方後円墳で、6世紀前半に築かれた古墳としては日本最大です。
墳丘は慶長・伏見地震(1596年)などで大きく崩れ、石室本体も失われていますが、平成13年には大規模な埴輪配列区画が発見され、当時の大王墓祭祀が明らかとなりました。
平成10年には墳丘上で熊本県宇土産凝灰岩の石棺財が発見され、磐井の乱後も火君と大王家との関係が深いことが分かりました。
(図)
上/今城塚古墳祭祀場近景
下/今城塚古墳祭祀場遠景
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(メモ)
継体大王、継体天皇の表記について
当資料館のパネル資料および映像解説においては、「大王」の表記が使われている。
大王(おおきみ、だいおう)は、古墳時代から飛鳥時代にかけてのヤマト王権の首長の称号あるいは倭国の君主号である。
天武朝(第40代天武天皇、673年~686年)の頃から中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった。
そうしたことからすると、初代神武天皇(諸説あるが)から数えて、継体天皇は第26代、天武天皇は第40代であるから、継体大王と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。
ここ、八女市は筑紫君磐井のご当地であり、磐井の乱でヤマト王権と戦ったことでもあり、ヤマト王権の首長を継体天皇ではなく継体大王と表記しているのかもしれない。

パネル資料をアップで。
上/今城塚古墳祭祀場近景
下/今城塚古墳祭祀場遠景
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祭祀場は多数の埴輪(レプリカ)が並べ、復元されている。
祭祀場の背後が今城塚古墳。
墳丘の右手(西)が前方部、左手(東)が後円部。
説明書きにある通り、後円部は地震で大きく崩れ、墳丘は低い。

馬形埴輪3体の背後のパネル写真
右/「今城塚古墳」
左/「日本書紀 継体紀二十二年十一月・十二月条」
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今城塚古墳をアップで。
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『日本書紀 継体紀二十二年十一月・十二月条』をアップで。
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日本書紀
継体紀二十二年十一月・十二月条

二十二年の冬十一月(しもつき)の甲寅(きのえとら)の朔(ついたち)甲子(きのえね)に、大将軍(おほきいくさのきみ)物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかひ)、親(みづか)ら賊(あた)の帥(ひとごのかみ)磐井と、筑紫の御井郡(みゐのこほり)に交戦(あいたたか)ふ。
旗(はた)鼓(つづみ)相望(あいのぞ)み、埃塵(ちり)相接(あいつ)げり。
機(はかりごと)を両(ふた)つの陣(いくさ)の間(あひだ)に決(さだ)めて、萬死(みをす)つる地(ところ)を避(さ)らず。
遂(つひ)に磐井を斬(き)りて、果して橿場(さかひ)を定む。

十二月(しはす)に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父(かぞ)のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐(おそ)りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を獻(たてまつ)りて、死罪(しぬるつみ)贖(あが)はむことを求(まう)す。
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以上が簡単ではあるが、継体大王についてである。
文字数は異なるが、これで、筑紫野君磐井と継体大王の両者を綴ったので、”片落ち””は解消できた。

次は、映像による磐井の乱とその後について、綴ってみたい。
映像は劇画調で、筑紫君磐井は「エエモン」風に、継体大王は「ワルモン」風に描かれている。
映像と共に流れるナレーションによるストーリーは『日本書紀』とは少々異なる。
「エエモン」、「ワルモン」や『日本書紀』とはストーリーが少々異なるのは、『日本書紀』はヤマト王権側から書かれたものであり、八女は筑紫君磐井のご当地であるから当然のことであろう。

「八女英雄伝説への招待」
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筑紫君磐井の一族が治める筑紫の地は平和そのものである。
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この頃、筑紫は半島諸国と人の交流や物の交流などがあり、文化経済圏を同じくし、友好関係にあった。
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当時、半島は高句麗、百済、新羅、伽耶諸国などであった。
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半島で、新羅が伽耶(日本書紀では任那(みまな)、伽耶と同義)に侵攻したため、伽耶と交流のあったヤマト政権は伽耶を助けるため、出兵した。
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ヤマト王権は筑紫君磐井にも半島への出兵を要請する。
ヤマト王権の要請に応えるべきか否か熟考する筑紫君磐井。
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磐井は筑紫の安定と半島との友好関係を優先し、ヤマト王権からの出兵要請を断り、ヤマト王権軍と対峙した。
『日本書紀』では、新羅が筑紫君磐井に賄賂を渡してヤマト王権軍を阻止するよう要請したとあるが、映像では異なる説を採っている。
磐井は平和主義者的に描かれており、容貌も温和な感じに描かれている。

ヤマト王権では、継体大王と家臣により、筑紫君磐井への対応策を謀議。
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継体大王。
顔つきは「ワルモン」。
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大伴大連金村(おおともおおむらじのかなむら)。
この人も人相が悪い。
隣にいるのは物部大連麁鹿火(もののべおおむらじのあらかび) 、或いは、許勢大臣男人(こせおおおみのおひと)か。
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物部大連麁鹿火(もののべおおむらじのあらかび)。
筑紫君磐井の征討将軍に任じられ、出兵。
『日本書紀』では、「大将軍(おほいくさのきみ)物部大連麁鹿火」と記されている。
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ヤマト王権征討軍に対し、挙兵する筑紫君磐井と筑紫の民衆。
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磐井の乱。
筑紫君磐井、御井郡(みゐのこほり)にて戦死(『日本書紀』)。
筑紫君磐井、豊前の國上膳の縣に遁れる(『筑後國風土記』)。
磐井の乱は、ヤマト王権軍の勝利、筑紫君磐井軍の敗北で、終結。
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コーナーは変わって、「磐井の乱、その後」のコーナーでの映像に。

筑紫君磐井の子、葛子は糟屋の屯倉をヤマト王権に献上。
「ワルモン」顔で、再び、登場の継体大王。
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ヤマト王権は北部・中部九州に屯倉を設置。
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ヤマト王権の勢力下に入った筑紫ではあるが、筑紫の民衆の心には穏やで人望のあった筑紫君磐井の記憶がいつまでも残るのであった。
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郷土の英雄「筑紫君磐井」。
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郷土の英雄「筑紫君磐井」
西暦527年に起きた「磐井の乱」。
地域の首長が各地を治める中、
親百済を貫くヤマト王権は5世紀後半頃から
大王(天皇)を頂点とした統一国家を強く望んでおり、
乱は不可避な出来事でした。
磐井が真に望んだことは、
九州の盟主としてヤマト王権に介入されることを排し、
「地方の、地方による統治」を実現する。
これこそ磐井が目指したものであり、
実現するため避けて通ることが出来なかった戦い、
それが「磐井の乱」だったのではないでしょうか。
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争いごとは控えねばならないが、地方自治、地方創生が叫ばれる今、かみしめねばならぬ一文かもしれない。

更に、映像で、岩戸山古墳につき、現場にての見分に先立ち、事前ベンキョー。

航空写真。
岩戸山古墳と周辺の古墳、俯瞰の図。
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古墳探訪では、ドローンを飛ばすか、少し離れた丘や山の上などの高台からでないと、墳丘を俯瞰することは出来ない。
その点、こうした航空写真があると随分と助かる。

この航空写真は西側から俯瞰したもの。
岩戸山古墳の別区は後円部の北東部に。
磐井の乱後に築造された古墳がずらっと。
この日の探訪は、乗場古墳、善蔵塚古墳、茶臼塚古墳、鶴見山古墳、丸山塚古墳(結果的には見落とし)、釘崎古墳群まで。
この映像は方位が的確(上が北)。
この日の探訪ルートが一目瞭然。

八女古墳群の図。
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岩戸山古墳、俯瞰の図。
墳丘長は135m。
北東隅の別区は一辺43mの方形。
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別区。
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別区と石人・石馬など。
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随分と資料館で時間を過ごした。
次は、いよいよ、岩戸山古墳そのものの見分である。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:39 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/岩戸山古墳(Ⅳ)』 kk-38

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

八女古墳群を西から東へ。
「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。
続いて、岩戸山古墳へ。岩戸山古墳。隣接の「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」を見学。
先ず、筑紫君磐井とヤマト政権の関わりについて、パネル資料でベンキョー。
続いて、石人・石馬などの石製品を見学。
続いて、埴輪や装飾品などの出土品を見学。

本資料館では、数多くのパネル資料が展示されている。
既に触れたパネル資料もあるが、まだ触れていない多くの資料もある。。
本話では、そうした資料の幾つかを掲載しておきたい。
なお、興味深く感じたものをピックアップして掲載しているので、一部、時代やカテゴリーで順不同となっているものがある。


筑紫君全盛の頃の主要古墳分布図。
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この図にプロットされた、筑紫君全盛期ころの古墳の個々の名称の抜き書きは割愛する。
なお、特記事項として次の3点を記しておきたい。

1)石製品が出土した古墳について:
本図でプロットされた古墳のうち、石製品が出土した古墳は次の通りである。
※出土した石製品の種類は筆者による調べ。
・石人山古墳(福岡県八女市広川町) 石人
・岩戸山古墳(福岡県八女市) 石人・石馬・石鶏・石猪・石盾・石壺・石刀・石靫・石蓋など100点以上
・石神山古墳(ふくおか県みやま市) 石人
・チブサン古墳(熊本県山鹿市)石人
・江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町) 石人
・三の宮古墳(熊本県荒尾市)石人
・臼塚古墳(大分県臼杵市) 石甲
・下山古墳(大分県臼杵市) 石甲
・石馬谷古墳(鳥取県米子市) 石馬 

美豆良を結った古墳人が「日本各地に広く分布する古墳の中でも、石人・石馬がみつかった古墳は九州に集中しているんだね」と語っている(本図、左下)。
その言葉の通り、石製装飾品は九州に集中しており、本州では石馬谷古墳(鳥取県米子市)での石馬出土が唯一の事例である。

2)火君について:
本図の北部・中部九州北部に「筑紫君(ちくしのきみ)・火君(ひのきみ)」と記されている。
「火君」とは、古墳時代に現在の熊本県の地域で最も勢力をもった豪族である。
現在の熊本県の地域は、「火の国」、「肥の国」、「肥後国」、「隈本」、「熊本」とその名称が変遷している。
「火の国」の由来については、「阿蘇山の火」説、「八代海の不知火」説、「氷川町の氷川(火川)」説、そして、「豪族の火君」説などがある。

熊本県八代郡氷川町に「野津古墳群」や「大野窟(おおののいわや)古墳」がある。
野津古墳群は、古墳時代後期(6世紀初~中頃)としては珍しい墳丘の長さ60~100mの前方後円墳が4基(物見櫓古墳・姫ノ城古墳・中ノ城古墳・端ノ城古墳)が4基並んでいる。
これらの古墳は、この辺りで最も勢力を誇った「火君」一族の墳墓である可能性が高いと考えられている。

筑紫君磐井は火君と親密であったが、磐井の乱では火君はヤマト王権側につき、筑紫君磐井と火君は敵対することとなったという。

3)今城塚古墳について:
本図に、磐井の乱で筑紫君磐井が相対した継体天皇(第26代)の墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市郡家新町)がプロットされている。
なお、宮内庁治定による継体天皇の陵(みささぎ)は三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ、大阪府茨木市太田、遺跡名:太田茶臼山古墳)であるが、歴史学界では今城塚古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。
何故、継体天皇に関わる古墳がふたつあるのか、それについては、近々、三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)と今城塚古墳を探訪する予定としており、探訪後、別の機会に綴ることとしたい。



磐井の後継者たち。
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磐井の後継者たちは乗場古墳や鶴見古墳などの大型前方後円墳を次々と築造していきます。
規模は90m前後で岩戸山古墳より小型化しますが、6世紀中頃の九州では最大級の大きさです。
乱で敗北した一族ですが、平成17年度に行われた鶴見山古墳の調査において武装石人が発見されるなど、最盛期の勢力はヤマト王権にそがれながらも、強い地域色を出しながら一族最高の機会を窺っていたようです。
(図)
左上/岩戸山古墳~釘塚古墳群位置図
下段、左(航空写真)/善蔵塚古墳
下段、央(航空写真)/乗場古墳(装飾古墳)+上段/乗場古墳の石室内部
下段、右(航空写真】/鶴見山古墳
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上述の通り、鶴見山古墳で武装石人が発見されているほか、乗場古墳でも石人が出土している。


筑紫君一族の側近者たちの墳墓?
釘崎古墳群
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筑紫君一族の側近者たちの墳墓?
釘塚古墳群
前方後円墳4基と円墳12基から成る古墳群です。
5世紀末頃に築かれた2号古墳を初代として、6世紀後半まで古墳築造が続きます。
磐井が出現する直前から筑紫君一族最後の首長墓・童男山(どうなんさん)古墳まで続くことから、磐井と共に歩み、筑紫君一族と運命を共にした被葬者たちの姿が想像できます。
なお、3号古墳からは多量の鉄製武器とともに装飾大刀も出土しており、被葬者は武官的な印象が持たれる古墳群です。
(図)
左上(航空写真):釘塚1号古墳、釘塚2号古墳
下段、左/釘塚1古号墳調査状況
下段、央/釘塚2号古墳調査状況
下段、右/釘塚古墳群位置図
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鉄から宝飾品へ。
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鉄から宝飾品へ
金属製品保有の意味
倭の五王(讃・珍・済・興・武)時代であった5世紀は、「戦いの世紀」とも呼ばれ、馬の導入、騎馬戦用の武具の出現、貫通性の高い鉄鏃など、実践的なものが多く見られます。
しかし、6世紀になると装飾付大刀や金製装身具などが重視されるようになっていきます。
これはヤマト王権に権威付けされた装飾品を身に付けることで、自己の権威を示すようになった在地首長の姿を表しています。
(図)
左、上/首長の住まいか?(南中学校校庭遺跡 11号竪穴住居)
左、下/東館遺跡 6号古墳
央、上/土器類の出土状況
央、中/鉄器・銅製品の出土状況
央、下/貝飾付銅製辻金具の出土状況
右/関連遺跡位置図(南中学校校庭遺跡、東館遺跡)
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本6号墳(真浄寺2号墳)
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5世紀後半に築造されたと考えられる直径30m超の大型円墳です。
昭和35年の調査の折、石室内から単甲2領が出土しました。
鉄製短甲や装飾付大刀などやヤマト王権から拝与されたものと考えられており、被葬者は王権との関係が深かったものと思われます。
(図)
左上/本6号墳(真浄寺2号墳)位置図
左下/本6号墳(真浄寺2号墳)全景
右下/本6号墳出土1号単甲、2号単甲・・・前話で展示の単甲、掲載
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筑紫君 胎動
豪族出現のメカニズム
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筑紫君 胎動
豪族出現のメカニズム
5世紀初頭(西暦400年頃)になると、直径30m前後の円墳を築造し、権力の象徴である銅鏡・勾玉・鉄製武器を副葬する有力者が市内域に出現します。
古墳の構造や副葬品の類似から「個人」ではなく「地域代表」として上位権力から古墳築城の許可や副葬品の授与があったものと思われます。
この有力者の更なる結合が「筑紫君」一族を生み出したと考えられ、一族は有力者連合の代表であったと考えられます。
(図)
左上/5世紀前半頃の主な古墳
左下/各古墳位置図と勢力の結集(イメージ)
右下/有力者連合代表(筑紫君)と地域代表の関係図
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図「5世紀前半頃の主な古墳」拡大版
図「各古墳位置図と勢力の結集(イメージ)」拡大版
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図「有力者連合代表(筑紫君)と地域代表の関係図」拡大版
・有力者連合代表(筑紫君)は前方後円墳
・地域代表は円墳
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石人山古墳~童男山古墳 首長墓系列
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石人山古墳~童男山古墳首長墓系列
本図には、28基の古墳がナンバリングされ、5世紀、6世紀、7世紀に区分して、図示されている。
28基すべての名称を書き下すことは割愛するが、オレンジ色の線で結ばれた古墳(首長墓系列)は次の通りである。
 1.石人山古墳(5世紀線半)前方後円墳
 6.石櫃山古墳(5世紀中頃)同上
 9.岩戸山古墳(6世紀線半)同上
10.乗場古墳(6世紀後半)同上
12.善蔵塚古墳(6世紀後半)同上
17.鶴見山古墳(6世紀後半)同上
28.童男山古墳(1号墳)(6世紀末)円墳
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上述の首長墓とされる古墳の被葬者(推定を含む)を調べてみた。
・石人山古墳:?(筑紫君磐井の祖父の墓と推定される。嘗ては、筑紫君磐井の墓に比定されていたこともあった)
・石櫃山古墳:?(筑紫君磐井の父?)
・岩戸山古墳:筑紫君磐井とされる
・乗場古墳:?(筑紫君磐井の子、葛子の墓との説がある)
・善蔵塚古墳:?(同上)
・鶴見山古墳:?(同上)
・童男山古墳:?(筑紫君磐井の嫡子、火中君の墓との説がある)



筑紫君一族の盟友たちが眠る
童男山古墳
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筑紫君一族の盟友たちが眠る
童男山古墳群
6世紀中頃から末頃に形成された古墳群で、1号墳を盟主墳とした27基の古墳で成り立っています。
熊本県北部地域に多く存在するタイプの石室が構築され、内部には同地域で特徴的な石屋形や死床、石棚状の構造が見られ、一部には石人も認められます。
被葬者たちは現在の山鹿地方から進出してきた一族と考えられ、「火国」の系統で筑紫君と関係の深い「火中君」の関係者である可能性があります。
(図)
右下/童男山古墳群全景
左上/1号墳
左中/2号墳
左下/3号墳
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前述で「火君」が登場したが、ここでは「火中君」が登場。
「火中君」についてベンキョーしようとネット検索したところ、筑紫君磐井および磐井に連なる主要人物の解説記事にヒット。
なかなか結構な記事であるので、それを引用させて貰うことにする。
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筑紫君磐井(つくしのきみいわい)
倭王武(倭の五王)の子または孫とされる。
福岡県八女市近郊を拠点として、筑紫国全体を統治していたが、磐井が直接統治していたのは筑後国一帯と考えられる。
御妻(御端)郡、御池(御毛)郡、御井郡、御原郡などの地名から、筑紫御国(つくしのみくに)と呼んだとする仮説もある。
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火中君(ひのなかのきみ)
磐井の嫡子で、磐井の反乱において磐井と共に死去。
磐井の時代、筑紫国の領土となっていた熊本県北部、火中国を統治していたと考えられる。
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筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)
磐井の子で、磐井の反乱において磐井と火中君が死去した際、粕屋屯倉を献上して助命され、筑紫君を継承した。
それ以前は、筑前国一帯を統治していたと考えられる。
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筑紫火君(つくしのひのきみ)
筑紫君磐井と火王朝の一族との間に生まれた庶子とされ、佐賀県鳥栖市近郊を拠点として、磐井の時代には筑紫国の領土となっていた肥前国一帯、筑紫火国を統治していたと考えられる。
筑紫君葛子と筑紫火君は同一人物、または筑紫火君の子とする説もある。
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古墳時代終焉の序章
八女古墳群 最後の首長墓
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古墳時代終焉の序章
八女古墳群 最後の首長墓
童男山古墳(1号墳)は推定直径48mの大型円墳です。
福岡県内3番目の長い横穴式石室を持ち、内部には石屋形と呼ばれる安置施設と石棺3基がありました。
八女古墳群では童男山古墳(1号墳)の築造直前から前方後円墳が造られなくなり、最後に大型円墳が築かれます。
以後、古墳は徐々に姿を消し、やがて古墳時代は終焉を迎えます。
(図)
上/童男山古墳位置図
下/童男山古墳(1号墳)石屋形と石棺
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童男山古墳群および童男山古墳(1号墳)については、当資料館でベンキョーするまで全く承知していなかったが、この地域において重要な古墳のひとつであることを理解した。
因みに、童男古墳群は、今回の八女古墳群探訪の中で最東端の、最後に訪ねた、釘崎1号・2号墳の東南東、直線距離にして約4kmほどのところに位置している。



「九州の豪族」から「ヤマトの臣下」へ
北部九州 兵站(軍事)基地化計画
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「九州の豪族」から「ヤマトの臣下」へ
北部九州 兵站(軍事)基地化計画
磐井の乱後、ヤマト王権は、筑紫君や火・豊国(ひ・とよのくに)等の監視のため、北部九州各地に拠点となる「屯倉(みやけ)」を設置し、国造(くにのみやつこ)として臣下となった豪族の反乱など、不測の事態に備えつつ、百済救済支援、新羅征討を継続します。
また、北部九州には乱を鎮圧した物部氏や大伴氏一族が軍事的一団を従えて進出して来るようになり、北部九州の兵站(軍事)基地としての最前線化が顕著になって来ます。
火君(ひのきみ)は得意な海上活動能力を買われ、乱後、九州各地に進出していきます。
しかし、これはヤマト王権の北部九州兵站基地化を推進するための「移住命令」であり、火国の勢力拡大のための積極的な進出ではなかったものと思われます。
(図)
図(九州全図)/オレンジ色矢印にて「火君による進出経路(推定)」を図示
左上(写真)/福岡市側から見た糸島半島(嶋郡川辺里、本岡遺跡群の位置を図示)
右上(写真)/童男古墳
右下(写真)/姫ノ城古墳(野津古墳群)
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「火君による進出経路(推定)」拡大図。
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・南の「谷津古墳群」からオレンジ色矢印はスタート
・この辺りの屯倉は春日部屯倉
・八代海から有明海を経由して、西原古墳・童男山古墳群付近を経由して、北部九州方面へ
・八代海から天草灘を北上し、壱岐水道を経由して、北部九州方面、嶋郡川辺里、元岡遺跡群方面へ



地域支配の拠点「屯倉」の設置
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地域支配の拠点「屯倉」の設置
磐井の乱後、ヤマト王権は地方支配の一環として、各地に地域支配の拠点となる「屯倉」を設置しました。
磐井の子「葛子」が献上した糟屋の屯倉を含め、その数は筑紫・火国・豊国だけで9ヶ所にのぼります。
王権側は屯倉を核とした地域生産力の取り込みを図ると同時に、後の古代官道につながる地域間ネットワークを整備し、物や人の交流を促進しながら地方への睨みを効かせていました。
(図)
安閑期までにおける九州の屯倉比定地・候補分布図
(筑紫)那津官家、糟屋屯倉、穂波屯倉、鎌屯倉
(豊)腠碕屯倉、大抜屯倉、肝等屯倉、我鹿屯倉、桑原屯倉
(火)春日部
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(筆者注)
※糟屋屯倉は26代継体天皇時代
※那津官家は28代宣化天皇時代
※その他の屯倉は27代安閑天皇時代
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磐井の末裔たち
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磐井の末裔たち
磐井の乱後、岩戸山古墳に続き、善蔵塚・鶴見山・童男山古墳など首長墓と呼べる大型古墳が築造されており、筑紫君一族は滅亡することなく継続したものと思われます。
日本書紀 天智10年(671年)の場には筑紫君一族である「筑紫君薩野馬(さちやま)」の名称を見ることができ、乱後約150年ほど経過した後でも筑紫君一族は脈々と影響力を行使していることが分かります。
(図)
日本書紀(原本)
日本書紀(原本)抜粋(筑紫君薩野馬記述部分)
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日本書紀(原本)
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八女 古墳時代の生き証人
立山山古墳群
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八女 古墳時代の生き証人
立山山(たちやまやま)古墳群
5世紀~6世紀にかけて造られた42基の古墳からなる古墳群です。
弥生時代からの墓制である箱式石棺系石室のほか、竪穴・横穴式の石室など多彩な形態の石室が見られ、八女市域の古墳時代全期間に関わった古墳群です。
8号墳出土の金製垂飾付耳飾は極小の金細工が見られ、朝鮮半島で製作されたものと考えられます。
八女と海外で活発な交流をしていたことを示す貴重な一品です。
(図)
左上/立山古墳群位置図
下/発掘調査時の立山山古墳群
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海外交流の証し
金製垂飾付耳飾
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海外交流の証し
金製垂飾付耳飾
立山山古墳群8号墳から出土した垂れ飾りが付く純金に近い金製の耳飾りです。
細金細工の技法を用いて中間飾りや垂下飾り部分の表面に非常に細かい金粒を吹き付けた見事な金粒細工が見られます。
6連の鎖部分を二重にするなど複雑ながらも精巧なつくりとなっています。
この耳飾りは朝鮮半島南部周辺で製作され、日本国内に持ち込まれたものと考えられます。
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立山山古墳群8号墳出土/金製垂飾付耳飾。
前話掲載の出土品でも登場したが、今一度、トリミング図にて。
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立山山古墳群/発掘調査時の航空写真(パネル資料からの切り抜き拡大版)。
43基からなる古墳群で、円墳数基が写っている。
金製垂飾付耳飾が出土した8号墳はひときわ大きく、盟主的古墳と見て取れる(直径は不明)。
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この地方を語るとき、筑紫磐井君や岩戸山古墳、磐井の乱に目が向きがちとなるが、数々の資料でそれ以外についても多くのことを知ることとなった。
殊に、ベンキョーになったのは;
・首長系列墳墓について
・磐井の乱以降の一族について
・今回、探訪予定に入っていない、童男山古墳群や立山山古墳などについて
であった。

次のコーナーへと進む。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:38 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)