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龍人鳥の徒然フォト日記

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カテゴリ:炎暑、讃岐路 2018( 12 )


2018年 07月 30日

『炎暑、讃岐国古墳めぐり/青ノ山山頂古墳群(1号墳)』

7月27日(金曜)、晴れ。
讃岐国古墳めぐり。

全国各地の古墳をめぐる中、昨年3月末、初めて讃岐の古墳を探訪。
そのとき、探訪した古墳は、善通寺市/有岡古墳群に属する王墓山古墳と宮が尾古墳。

讃岐国古墳探訪の第二弾として、前日(7月26日)、同じ有岡古墳群に属するが、平地に築造された王墓山古墳や宮が尾古墳に対し、大麻山の山頂に築造された野田院古墳(のだのいんこふん)を探訪した。

この機会にもうひとつ讃岐で古墳をめぐっておこうと、綾歌郡宇多津町と丸亀市の境界に位置する青ノ山の山頂に築造された青ノ山山頂古墳群(1号墳)を訪ねた。

青ノ山の山頂近くの駐車場に車を止める。
見事な円錐形の姿を見せ、讃岐富士とも称される飯野山を眺める。
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讃岐には、飯野山と青ノ山を兄弟に見立てた伝説がある。
兄の飯野山(標高422m)が弟の青ノ山(標高224m)と背の高さで喧嘩になり、弟の青ノ山は兄の飯野山に頭を切られたため、頂上が平らになったという。
讃岐富士と称される優美な姿を見せる飯野山だが、こうした恐ろしい伝説も残っているのである。


駐車場から木立の中を抜けて頂上へと進む。
兄に頭を切られたという伝承の通り、頂上は広く、平らに開けている。
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石室がむき出しとなっていると思しき、大きな石が数個と説明板が目に入る。
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説明板に目を通す。
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青ノ山山頂古墳群(1号墳)
青ノ山山麓には古墳時代前期から同時代終末期にかけて10数基の古墳が営まれている。
標高224.5mの青ノ山山頂に位置する青ノ山1号墳はその特異な立地と方形墳という珍しい墳形から注目されている古墳である。
墳丘の規模や石室の形態など詳細なことは今後の調査によらなければならないが、見かけの墳丘は一辺9m、高さ2.5mの小形の方形墳で、安山岩・自然石を加工した大形の石材などを組み合わせて形成している。
石室はほぼ南方向に開口する両袖式の横穴式石室で全長6mを測る。
墳丘や石室の構築状況や既出の金・銅製耳環などから古墳時代後期(6世紀末~7世紀初頭)の造営になるものと考えられる。
宇多津町教育委員会
丸亀市教育委員会
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宇多津町と丸亀市、両市町の教育員会の”合作”であるところが好ましい。

「宇多津町指定文化財 青の山山頂古墳 宇多津町教育員会」と刻まれた標柱。
丸亀市の標柱は見当たらない(丸亀市は市の文化財に指定していないのかな?)。
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墳丘の周囲を時計回りで歩いてみる。
(南西角)
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(北西角)
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(北東角)
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(南東角)
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一辺9m、高さ2.5mの方墳である。
盛夏の頃なので、草がしっかりと生えており、草刈がされた直後とか、冬枯れの頃でないと、その墳丘を視認することは難しいが、墳丘の様子を頭の中でイメージする。


平らな原っぱの山頂を北へ歩いていく。
西の木立の間から丸亀城が見える。
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ズームアップ!
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超ズームアップ。
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天守を狙って、更にアップ。
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丸亀城天守。
三層三階の木造天守は万治3年(1660年)築。
全国に現存する『木造天守十二城』の一つ。
国指定重要文化財。
内堀から天守にかけて積み重ねられた石垣は、”扇の勾配”と呼ばれる特長的で見事な曲線を描く。

いつもは北側から眺めることの多い丸亀城だが、東側、青ノ山の高見から眺める丸亀城は初めてのこと。
大満足!

更に北へと進む。
炎暑の下、数羽のキタテハが元気よく飛んでいる。
しばし、キタテハに遊んで貰う。
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山頂北端の展望台。
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備讃瀬戸案内図。
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展望台からの風景。
若い頃、坂出に住んでいたことがあるが、青ノ山に上ったのは今回が初めて。
坂出を離れてからも出張や旅行で坂出や丸亀など西讃方面には幾度も来ており、この展望台から見えるものはすべて観光ガイド出来るくらいにこの辺りのことはよく承知をしていることでもあり、展望台からの風景を大いに楽しむ。
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右手、街並みの先にあるのは聖通寺山。
聖通寺山をはさんで東側が坂出市、西側が綾歌郡宇多津町。
聖通寺山の先は、昔、番の州呼ばれる浅瀬であったが、1965年から1972年にかけて、番の州を浚渫した砂で沙弥島と瀬居島の間を埋め立て、番の州工業地帯となった。
番の州工業地帯の辺りに備讃瀬戸に架かる瀬戸大橋が霞んで見える。
瀬戸大橋が開通したのは1988年。
瀬戸大橋が開通する以前は、岡山から宇野線で宇野へ、宇野から宇高連絡船に乗って高松に向かうというルートであった。

目を少し左(西)へ転じる。
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眼下に広がる宇多津町の街並み一帯は、以前、塩田であったが、1972年に塩田は廃止となり、その後、宅地化された。

更に、左(西)へ目を転じる。
綾歌郡宇多津町から丸亀市となるが、木立が高くなり、街並みは見えない。
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北端の展望台から再び、南側の1号墳の方へ歩く。
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1号墳の、石室が露出したと思しき大きな石を今一度、じっくりと眺める。
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青ノ山山頂古墳群/1号墳をあとにして、木立を抜け、駐車場へ向かう。

木立の中の踏み分け道。
古墳の石材かと思わせる石が散見される。
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木立を抜けると讃岐富士が現れた。
そして、青ノ山の山頂の縁には古墳に使われていたのではないかと思わせる石材が散在していたのであった。
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古墳時代の人々は 古墳築造の候補地を探すため、あちらこちらを歩き回ったであろう。
瀬戸内の眺めのよい山や高台にも上ったであろう。
そして、ここがベストだ!と、山頂が平らな青ノ山に白羽を立てたのであろうと想像する。
飯野山と青ノ山を兄弟に見立てた伝説はそうしたことも伝えているのではないかとも思うのであった。
であれば、古墳好きにとって、この言い伝えは、ますます興味深い伝説となるのであった。

そんなことを思いながら、青ノ山を下り、今回の讃岐路の旅を終えた。

後日、昔、青ノ山の北麓に住まいしていた、盟友、品濃守(not 信濃守)さんに青ノ山古墳を探訪したことを話したところ、「青ノ山、懐かしいですね。青ノ山の近くに住んでいたのは高校生の頃。犬を連れ、棒切れを持って雑草を払いながら、よく青ノ山に上ったものです。古墳については記憶にありませんが」とのことであった。
前掲の説明板や標柱がいつ設けられたかは定かではないが、品濃守さんがいた頃はまだ青ノ山古墳の調査は進んでおらず、説明板や標柱もなく、露出した石室と思われる積石を囲む囲いもなく、古墳の存在を示すものはまだかったのかもしれない。
何せ、50年余も前のことであるから...。
品濃守さんの話を聞き、犬を連れ、雑草を払いながら、青ノ山の北側の斜面を上る姿が目に浮かぶ。
古代の人たちもそうやって青ノ山に上り、古墳築造の場所を見付けたのであろうと想像するのであった。

今回の讃岐路の旅で立ち寄ったところを振り返ると、次の8ヶ所であった。
・四国八十八ヶ所第七十番札所/本山寺
・予讃線財田川鉄橋
・興隆寺遺跡
・生目神社
・野田院古墳
・紫雲出山遺跡
・父母ヶ浜
・青ノ山山頂古墳群/1号墳
ブログでは連載の形は取らず、個別に独立した形で綴ったが、括りの標題は「炎暑!讃岐路 2018」としておきたい。

炎暑の最中ではあったが、誠に有意義な旅であった。

フォト:2018年7月27日






by ryujincho | 2018-07-30 23:31 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐路/父母ヶ浜』

7月26日(木)、晴れ。
荘内半島、父母ヶ浜(ちちぼがはま)。
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10年以上前になろうか、小豆島の二十四の瞳映画村で浜辺に憩う人々を撮った。
その写真を見た、盟友、六々守さんから「植田正治風やね」との言葉を貰ったことがあった。
今般、荘内半島の父母ヶ浜にて、新たに植田正治風が撮れたと悦に入っている。

ということで、もう1枚。
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フォト:2018年7月26日




by ryujincho | 2018-07-29 23:38 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐国遺跡めぐり/紫雲出山遺跡(下)』 sy-2

7月26日(木曜)、晴れ。
高地性集落、紫雲出山(しうでやま)遺跡。
上の巻では、紫雲出山からの眺望について綴った。
そして、山頂に設置された、紫雲出山遺跡に関わる数枚の説明板に記されていたことについても綴った。
この下の巻では、紫雲出山遺跡館の展示パネルや出土品を見学しながらベンキョーしたことを綴り残しておきたい。

年表。
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弥生時代
町内のできごと
・紀元前200年 紫雲出山に弥生人が住みつく。
日本のできごと
・青銅器が副葬されたり、銅鐸まつりが行われる。
・機織りの技術が広がる。
・この頃、100余りの小さな国ができる。
・高床倉庫をもつ集落ができる。
・小さな国の間で戦いが絶えなくなる。
・この頃、瀬戸内海などで高地性集落ができる。
・中国の史書に、当時の人々の生活や習慣について書かれている。『魏志倭人伝』(最古の記録)
・女王卑弥呼が中国に使いを送り、金員と銅鏡などをさずけられる。
・鉄器が広がり、石器が次第に消える。
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紫雲出と弥生時代の戦争
稲を作り、米を食べることが日本の生活の基本となったのは、およそ2600~1700年前の弥生時代だった。
かつて、学会では、この弥生時代を平和な穏やかな農耕生活が営まれていた時代ととらえていた。
瀬戸内海から大阪湾にかけての沿岸や島々の高い丘上には、弥生時代の遺跡(高地性遺跡)が少なくない。
水田稲作の生活の場としては、低い土地が最も適しているはずだが、高い丘の上に住んだのは何故か。
中国の魏志倭人伝(「三国志」の魏書の東夷伝倭人の條)は、西暦2世紀の後半に、倭国、つまり西日本が乱れた、と記している。
この「倭国乱」の記述に対応するような戦いがあったのか、それとも、水田では支えきれないほど人口が増えたため、丘陵上にまで耕地を広げ、山畑を作ったのか。
この謎を解く目的で、京都大学の小林行雄先生をはじめとする人々がこの紫雲出山の頂にある弥生時代の遺跡を発掘調査したのは、1955年~57年のことである。
その結果、各種の土器、実った穂をつみとる石器(石包丁)、糸を紡ぐための重り(紡輪)など、低地の村あとにみられるものと同じ種類の生活遺物が数多く見いだされた。
矢尻(石鏃・やじり)や短剣など、石の武器も豊富だった。
それは、この地に恵まれた眺望とともに「紫雲出山が戦いにそなえた村だった」との解釈を導いた。
このようにして、その調査は「弥生時代こそが日本で戦争の始まった時代だった」といい、現在における考古学界九通の認識へのひとつの出発点となったのである。
土地争い、水争い、蓄えの奪い合い、政治的統合へ向けての武力衝突・・・農耕社会誕生は、集団と集団がぶつかりあって殺し合いという意味での戦争を導くことになったのである。
1988年、香川大学の丹羽祐一さんを指導者とする発掘調査によって、この山頂で弥生時代の家や倉のあとの存在が初めて明らかにされた。
それによって、ここ紫雲出山遺跡が名実ともに紀元前1~紀元後1世紀頃の「高地性集落」の代表の位置にまで高められたことはまことに喜ばしい。
1989年10月12日
奈良国立文化財研究所 技術部長 佐原 真
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「たたかうムラの分布」。
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西から;
井上山遺跡(山口県周防市)
吹越遺跡(山口県柳井市)
西山貝塚(広島県広島市)
八堂山遺跡(愛媛県西条市)
紫雲出山遺跡(香川県三豊市)
貝殻山遺跡(岡山県岡山市)
伯母野山(おばのやま)遺跡(兵庫県神戸市)
会下山(えげのやま)遺跡(兵庫県芦屋市)
観音寺山遺跡(大阪府和泉市)
滝ヶ峰遺跡(和歌山県和歌山市・海南市)

会下山遺跡。
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兵庫県芦屋市 会下山遺跡(高地性集落)
兵庫県会下山遺跡は、標高160m~200mの表六甲の尾根上に立地する弥生時代中・後期の高地性遺跡集落です。
大阪湾や紀伊水道を眼前にながめ、東は生駒の山並みや千里丘を望む見晴らしのよい場所に40人ほどの人々が生活をともにしていたようです。
住居7、祭場2、倉庫1、墓3、ゴミ捨て場1の施設が存在しており、当時最高の通信手段であるノロシを上げたと考えられる火たき場の跡も見つけられています。
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右/1955年(昭和30年)からの発掘調査。
左/1988年(昭和63年)の発掘調査。
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1955年(昭和30年)からの発掘調査の様子。
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1988年(昭和63年)の発掘調査の様子。
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出土品。
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ジオラマ。
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全景。
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煮炊き。
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祭祀。
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物見。
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狼煙。
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見回り出動。
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遺跡館を出て、右手の小高い、展望台に上ってみる。
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駐車場からの展望、山頂の四阿の展望台、その西の遺跡館の展望室、そして、更に西の、この小高い展望台と四つ目の瀬戸内海の風景を楽しむ。
奥/備後灘、左手/燧灘。
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光る海。
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潮目模様を描く海。
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来た道を戻る。
「発掘現場は紫陽花の遊歩道の辺り」と掃除をしていた人に教えて貰った通り、その辺りを眺める。
遺跡館で見た発掘調査時の写真をイメージしながら...。
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遺跡館での説明パネルに「矢尻(石鏃・やじり)や短剣など、石の武器も豊富だった。それは、この地に恵まれた眺望とともに『紫雲出山が戦いにそなえた村だった』との解釈を導いた」など、弥生時代は戦いの時代とのトーンでの説明であった。
この説は、讃岐へ向かう往路、新幹線の中で目を通した書物の「 瀬戸内海に残る高台の砦は倭国内乱の跡か?(略)この年代に対応する遺跡として注目されるのが、山口県の岡山遺跡、愛媛県の八堂山遺跡、香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡、岡山県の貝殻山遺跡などに代表される高地性集落(弥生中期)である(略)」との記述に符合する。
一方、20世紀末期頃からは、高地性集落を特殊な集落と捉えるのではなく、他の環濠集落や非環濠集落との関連性に着目し、地域の拠点となる拠点集落とその他の集落という関係で見直す動きも出ているということもあるようだ。
歴史を物語りと考えてはいけないが、物語り的には「倭国内乱の跡」説が面白い。

高地性集落での弥生人の生活を想像しながら、うねうねとした道を下り、紫雲出山を後にした。

フォト:2018年7月26日

(紫雲出山遺跡、上の巻、下の巻、完)


by ryujincho | 2018-07-29 23:37 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐国遺跡めぐり/紫雲出山遺跡(上)』 sy-1

7月25日(水曜)、晴れ。
讃岐へ向かう道中、新幹線の中で読んでいた古代史の書物に「 瀬戸内海に残る高台の砦は倭国内乱の跡か?(略)この年代に対応する遺跡として注目されるのが、山口県の岡山遺跡、愛媛県の八堂山遺跡、香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡、岡山県の貝殻山遺跡などに代表される高地性集落(弥生中期)である(略)」との記述があった。
「香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡」に目を惹かれた。
讃岐に、数日、滞在することでもあり、その間に、紫雲出山遺跡を訪ねてみたく思った。

7月26日(木曜)、晴れ。
義兄の運転で荘内半島の紫雲出山へ。
うねうねとした坂道を上って行く。

荘内半島は、香川県の西、瀬戸内海に突き出た半島。
荘内半島は、風光明媚なところで、浦島伝説があり、紫雲出山の名は浦島太郎が玉手箱を開けた時に立ち上った煙に由来しているという。
荘内半島は、幾度か訪ねたことがあるが、紫雲出山に上ったことはなく、紫雲出山遺跡を見学したこともなく、期待が高まる。

山頂近くの駐車場に車を止め、瀬戸内海の景色を眺める。

名残の紫陽花、一輪と共に。
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少し画角を変えて、空と島々。
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駐車場から徒歩で山頂へ。
山頂の、枯れかけた紫陽花がつづく遊歩道を進むと、展望台が見えて来た。

展望台からの瀬戸内海を眺める。
駐車場より目線が高くなった分、更に見事な光景である。
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紫雲出山と荘内半島
この紫雲出山園地は昭和25年に荘内半島の一部と共に瀬戸内海国立公園に加えられている。
青くしずかな海、そこに浮かぶ変化に富んだ緑の島々、複雑な出入りを見せている海岸線、遠く中国山地など360度の眺望のすばらしさは瀬戸内海沿岸では他を寄せつけないであろう。
春は新緑、数百本に余る桜の花で海も染まる程である。
夏は海水浴、秋は紅葉と四季を通じてのレクリエーションの場となっている。

また、この荘内半島には、伝説、浦島太郎にまつわる話や地名があり、次のものは代表的なものである。
「紫雲出山」 浦島太郎が玉手箱をあけると白い煙が立ち昇り、夕日に映えて紫の雲となり、この山にかかったことからこの名前が付いた。
「浦島」 大浜浦、積浦、生里浦、家の浦、香田浦、粟島の総称。
「積浦」 浦島太郎が竜宮より宝物を積んで帰ったところ。
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瀬戸内海を眺めながらいつも思うこと、それは、瀬戸内海には幾つの島があるかということ。
海上保安庁の資料によれば、「島の外周が0.1km以上の島は727。島の外周が0.1km以下も含めるともっと多くなるでしょう」とある。
定義外の島々を含めれば、3000以上あるともいわれている。

この機会に、これまでに訪ねたことのある島を海域別に列挙しておくこととしたい。
淡路島、小豆島
直島、本島
高見島、志々島、粟島
伊吹島、豊島(注1)
向島、因島、弓削島、生名島、生口島、大三島、伯方島、大島(注2)
岡村島、中ノ島、平羅島、大崎上島、大崎下島、豊島(注3)、上蒲刈島、下蒲刈島
江田島
注1)瀬戸内海に幾つかある「豊島」のうち、燧灘に浮かぶ無人島の豊島
注2)瀬戸内海に幾つかある「大島」のうち、しまなみ海道の大島
注3)瀬戸内海に幾つかある「豊島」のうち、安芸灘とびしま海道の豊島

訪ねた島は24島。
24/727、”制覇率””は僅かだが、しまなみ海道ポタリング(6島)や安芸灘とびしま海道ポタリング(7島)が大いに貢献している。

因みに、紫雲出山の展望台からは霞んで見えない島もあるが、高見島、志々島、粟島、伊吹島など、これまでに訪ねたことのある島が視認出来る。

瀬戸内海の風景もさることながら、紫雲出山遺跡に気持ちをシフト。
紫雲出山遺跡の説明板に目を通す。
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紫雲出山遺跡
紫雲出山(352m)の山頂に形成された弥生時代中期の高地性遺跡。
昭和22年、地元の郷土史家 前田雄三氏が発見し、昭和31年から32年にかけて、当時の京都大学講師 小林行雄先生によって発掘調査された。
土器の包含層は山頂一帯に広がり、住居址と思われる列石遺構のほかに貝塚も発見されている。
出土品は、弥生時代の中期から中期末の多数の土器のほかに、打製石鏃、石槍、環状石斧、打製石包丁、磨製石斧、分銅形土製品、貝輪、鉄器片、シコクヒエなどがみられる。
中でも、長くて重量性のある石鏃が多数出土していることは、特に注目され、荘内半島の最高所に立地するという地形上の特性からも、軍事的、防禦的性格を帯びた特殊な遺跡として学会でも注目されている。
詫間町教育委員会
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この説明書きからすると、高地性集落は山頂全体にあったように読める。
山頂そのものは然程広くはない。
遺跡はどの辺りで発掘されたのだろう?と周囲を見渡す。
ちょうど、掃除していた人がいたので尋ねてみた。
先程、歩いて来た、枯れた紫陽花が連なる遊歩道の辺りで遺跡は発掘されたとのこと。
その場所は帰りに検分することにして、展望台の西側にある紫雲出山遺跡館に立ち寄ることにした。

「紫雲出山遺跡館」の脇に復元された竪穴式住居と高床式倉庫、そして、弥生人。
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紫雲出山遺跡館。
紫陽花の花で隠れているが、「〇〇町立」は「詫間町立」。
詫間町は、嘗ての三豊郡詫間町で、2006年、平成の大合併で周辺の6町と合併し、三豊市詫間町となった。
全国各地をめぐっていると、平成の大合併のあと、看板や説明書きで、旧市町村名の上に新しい市の名前が書き直されていることが多いが、この石に刻まれているように町名や先程の説明書きの詫間町教育員会など旧名を残しておく方が町の変遷が分かってよいのではないかと常々思うのである。
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先程とは別の、紫雲出山遺跡の説明板に目を通す。
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内容は先程の説明板と重複するところもあるが、全文を書き下しておこう。
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香川県指定史跡 紫雲出山(しうでやま)遺跡のあらまし
昭和22年、地元の郷土史家 前田雄三氏によって発見され、本町出身の田村実造先生(京都大学名誉教授)の紹介で、京都大学の小林行雄先生によって発掘調査された。
その結果、今から約2000年前(弥生時代中期)に人々が生活していたことがわかった。
生活に使われていた土器・鉄製品・弓の先につける石鏃や石の短剣・木材を倒したり、加工するための石斧・貝製の腕輪・食料のヒエなども見つけられた。
特に、ここは眺めがよく、多くの石鏃が見つけられているので、守りやすく、戦いの見張りに適した集落として作られたものではないかと注目されている。
昭和63年、香川大学の丹羽祐一先生の指導による調査で、半地下構造の家の跡(竪穴住居)と二階建ての倉庫(高床倉庫)を見つけた。
この遺跡館の隣には、竪穴住居と高床倉庫を少し移して当時のままに復元している。
また、本町庁舎横の考古資料館には、ここで見つけられた土器などを展示している。
これらの施設を歴史学習の場やいこいの場として活用してほしい。
詫間町教育委員会
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館内に入る。
遺跡館というよりも喫茶室(兼)展望所といった感がある。
史跡めぐりを趣味とするものにとっては、これはちょいと違うんじゃないかな?と思うも、説明板に「歴史学習の場やいこいの場として活用してほしい」とあり、異を唱えるような考えはは止めようと思った。

炎暑である。
冷たい甘酒を注文し、ガラス越しに瀬戸内海の風景を眺める。
先程の展望台より少し西側に来たせいか、また違った風景を楽しむ。
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右手に、嘗て訪ねたことのある、高見島、志々島、粟島が見える。
高見島は若い頃であった。
島の頂上まで上った記憶がある。
志々島と粟島は、然程、昔ではない。
志々島の樹齢1200年といわれる大楠は見事なものであった。
また、この島は映画『男はつらいよ 寅次郎の縁談』(1994年公開、マドンナは松坂慶子)で琴島として登場したことは寅さん映画のファンなら誰ても知っていることであろう。
粟島は三つの島が砂州でつながっており、三枚翼のプロペラのような形をしている。
レンタル・ママチャリで島内をめぐったことが思い出される。

おっと、景色に見入って、島々の思い出に浸っていてはいけない。
ここは紫雲出山遺跡館。
展示パネルや出土品を見学しながら、紫雲出山遺跡をベンキョー、ベンキョー。

遺跡館でベンキョーしたことは続編にて綴りたい。

フォト:2018年7月26日

(つづく)





by ryujincho | 2018-07-29 23:36 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐国古墳めぐり/野田院古墳(下)-石積塚-』 nk-3

香川県善通寺の大麻山の尾根に築造された野田院古墳。
5月に訪ねた長野県千曲市の有明山の尾根に築造された森将軍塚古墳に触発され、同じく、山の尾根に築造された野田院古墳を、今回、探訪した。
上の巻では、説明書きを参照しながら、野田院古墳について縷々述べた。
中の巻では、比高差を中心に、野田院古墳と森将軍塚古墳について縷々述べた。

野田院古墳に関わる説明書きの中で「石積塚」について言及されている。
長野県の石積塚についても触れられている。
森将軍塚古墳を訪ねるに先立ち、長野県の古墳についてヨシューしていた際、「長野県の古墳」で検索したところ、ヒットしたのは;
・森将軍塚古墳など4基の前方後円墳が属する埴科古墳群(千曲市大字森、長野市松代町ほか)
・300余の積石塚古墳を中心とした大室古墳群(長野市松代町)
の2件で、積石塚のこともベンキョーしたことがある。
よって、この下の巻では、石積塚について触れてみたい。


野田院古墳の墳丘脇に設えられた説明板。
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積石塚に関わる解説。
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積石塚古墳の中には、土の代わりに川原石や山石を積み上げて造った「積石塚」と呼ばれるものがあります。
瀬戸内海沿岸部には、香川県を中心に、古墳発生期から前期にかけて造られた数多くの積石塚が分布していることが知られています。
この他には、長野県を中心に分布する古墳時代後期から終末期にかけて造られた積石塚が知られている程度で、全国的には分布していません。
朝鮮半島にも同様の積石塚が認められることから、渡来人が伝えたとする「外来説」と、日本で独自に発生したとする「自生説」がありますが、香川県では白鳥町の成重遺跡(弥生時代中期)や善通寺市の稲木遺跡(弥生時代後期)で集石墓が確認されており、積石塚は古代の讃岐で発生したのではないかと考えられています。
これは讃岐地方に古式の積石塚が多く残ることとも符合します。
野田院古墳では保存整備に伴う墳丘積石内部の発掘調査によって、優れた土木技術を用いて構築していたことが判明しました。讃岐地方の積石塚で内部構造が明らかになったのは初めてのことです。
弥生時代の集石墓は平地にあります。
また、川原石を積み上げた簡単な構造であり、短時間で技術が発達するとは考えにくいことから、自生説とともに高句麗の積石塚の構築技術の伝来も考える必要があるかもしれません。

香川県彼の積石塚分布図
※拡大図は省略※「野田院古墳」と「石清尾山(いわせおやま)古墳群(高松市)」の場所が図示されている。
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この説明書きでは、香川県と長野県の積石塚古墳についてしか触れていないが、大好きなウィキペディアを紐解くと更に各地の積石塚も列挙されている。
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積石塚(つみいしづか)
積石塚は、石を積み上げて墳丘を造っている墓である。
石塚・築石塚などと呼んだ時代や、他にケルンなども提唱されたが、近年はこの名称に定着している。
この用語は他の時代(縄文時代・中世)や地域(例、朝鮮半島等)でも使用されるが、この項では、古墳時代に限って説明する。

古墳時代にこの墓形式が存在する地域は、香川県から徳島県の一部の地域と長野県、山梨県の甲府盆地北縁など一部の地域に顕著に見られる。
また、長崎県の対馬、山口県の見島、そのほか、宮崎県・愛知県・静岡県・群馬県などにもみられる。
なかでも全長100メートルの海浜部に254基もの積石塚が拡がる福岡県の相島積石塚古墳群、長野県長野市の大室古墳群、香川県高松市の石清尾山古墳群、山口県萩市の見島ジーコンボ古墳群などが著名である。
香川・徳島のものは古墳時代前期(3~4世紀)を中心とし、香川の石清尾山古墳群では積石塚の前方後円墳9基、双方中円墳1基、円墳30数基がある。
長野・山梨のものは中期後半から後期(5~6世紀)にかけて形成された群集墳にみられる。
約500基からなる長野市松代町に所在する大室古墳群は、日本最大の積石塚古墳群で、大部分が積石塚であり、埋葬施設の多くが横穴式石室である。
長野県史跡である積石塚古墳群の八丁鎧塚古墳(長野県須坂市大字八町)は、第1号から第5号まである。
出土品として鏡・碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)・貝釧(かいくしろ)などがあるが、その出土鏡によって、これまでは6世紀以降の築造とされてきたが、5世紀代に溯るものと改められた。
(出典:ウィ木ペディア)
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野田院古墳関連の説明書きおよびウィキペディアを参考に、主要な積石塚(と思しき)次の6件について、その詳細を調べてみた。
(1)香川県高松市峰山町他/石清尾山古墳群
(2)徳島県鳴門市大麻町/萩原墳墓群
(3)長野県長野市松代町/大室古墳群
(4)長野県須坂市大字八町/八丁鎧塚古墳
(5)山口県萩市見島/見島ジーコンボ古墳群
(6)福岡県糟屋郡新宮町/相島積石塚古墳群

調べた結果は後述の通り。
但し、情報過多気味となったので、小生なりに纏めを先に記しておきたい。
調べた限りにおいては、徳島県の萩原墳墓群、次いで、香川県の石清尾山古墳群が最も古い積石塚古墳と思える。
長野県ほかの積石塚古墳はこれらが伝播したものか、各地独自で発生したかは定かではない。
渡来人が伝えたとする「外来説」、日本で独自に発生したとする「自生説」、いずれかはよく分からないが、「外来」ののち、各地に伝播し、「自生」したとも考えられる。
野田院古墳からヒントを得て、積石塚古墳をより詳しく知ることとなったことでもあり、機会があれば、各地の積石塚古墳を訪ねてみたい。殊に、長野県/大室古墳群のうち、最も規模の大きい大室谷支群を訪ねてみたいものである。


以下は、上記(1)~(2)の詳細調査結果。
今後、積石塚古墳を探訪する前に、今一度、目を通すための参考用として書き残すものである。


(1)石清尾山古墳群(香川県高松市峰山町他)
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石清尾山古墳群は、鶴尾神社4号墳、猫塚古墳、鏡塚古墳、石船塚古墳以外にも、北大塚古墳、北大塚東古墳、北大塚西古墳、小塚古墳、姫塚古墳、石清尾山9号墳の合計10基の積石塚古墳が国の史跡指定を受けています。(他に盛土墳2基も指定)。 
これら指定された古墳以外にも、紫雲山の尾根筋に、前方後円墳の稲荷山姫塚古墳、稲荷山北端1号墳、稲荷山1号墳等の積石塚古墳が知られています。 
なお、積石塚古墳は高松だけでなく、同じ時期のものが徳島県にもいくつかみられます。
また、長野県には6世紀から7世紀頃の積石塚古墳が極めて多く存在します。
(出典:高松市HP)
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墳丘の形状は多様である。
積石塚のうち、猫塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端古墳が双方中円墳、北大塚東古墳が方墳、稲荷山南塚北古墳が円墳、その他は前方後円墳である。
墳丘はどれも安山岩を積み上げて構築されている。
(出典:ウィキペディア)
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石清尾山古墳群には、4世紀から7世紀にかけてつくられた200基余りの古墳があります。
これらは、墳丘を土で築いた盛土墳と、石で築いた積石塚とに分けられます。
中でも、積石塚は4~5世紀にかけてつくられたもので全国的に珍しく、形も特異な双方中円墳をはじめ前方後円墳などと多様で、貴重な文化財として有名です。 
石清尾山では、古墳時代のはじめには既に前方後円墳が出現していたらしく、先進的な地域だったと思われます。
さらに、他の地方では見られない積石の古墳や中円墳等に強い個性がうかがえます。 
積石塚古墳の出現理由には、石清尾山では石を得られやすかったためとする自生説と、積石塚が所在する朝鮮半島から伝来したとする渡来説があります。
両説とも一長一短があり定まっていませんが、背景には豪族がいたのに間違いなく、当時の石清尾山周辺の繁栄がうかがい知れます。 
5世紀の中頃になると、積石塚は縮小され形も円墳となって、明らかに石清尾山の大豪族の衰退がみられます。
おそらく、個性的であったがために幾内の中央の勢力によって押さえ込まれたのでしょう。
5世紀の終わりごろになると、もはや積石塚古墳はつくられなくなります
その後、石清尾山に古墳がつくられるようになるのは約100年後のことです。 
それは、盛土で横穴式石室をもつ古墳として現れます。
この時期の古墳は、数多くつくられますが、古墳の規模、石室の構造、副葬品の内容等差異がみられなくなります。
石清尾山の横穴式石室古墳でも同様で、積石塚古墳がつくられたころの面影はありません。 
いずれにせよ、積石塚古墳によって代表される石清尾山古墳群は、極めて特色があるとともに、高松の文化の原点として、また、日本の歴史上貴重な古墳群といえます。
石清尾山古墳群のなかでも山頂一帯に所在する主要な11基の古墳は、昭和60年7月16日に国の史跡に指定されました。
高松教育委員会
(出典:高松市峰山公園HP)
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香川県高松市峰山町・室町・宮脇町ほかにある古墳群。
高松市中心街の南西に位置する標高230mほどの石清尾山山頂の稜線上には、数多くの積み石塚や盛り土墳が点在している。
北大塚1・2・3号墳、石船塚、小塚、姫塚、石清尾山9号墳などの前方後円墳、猫塚、鏡塚の双方中円墳、さらに東南の尾根にある鶴尾神社4号墳(香川県最古の古墳とみられる、しゃもじ形の前方後円墳)など、形態も多様である。
猫塚古墳は古墳群のなかでは最大規模で全長約96m、高さ5mあり、鏡塚古墳とともに双方中円墳という前方後円墳にもうひとつ方墳をつけたような特異な形をしている。
また、西方寺山尾根・摺鉢谷・浄願寺山には、積み石塚と古墳時代後期の横穴式石室など内部が石組みの多数の盛り土円墳が分布する。
古墳群は古墳時代前期から後期にわたる多様な古墳を有しており、瀬戸内海沿岸地方における古墳文化の研究に学術上貴重な遺跡群である。
1934年(昭和9)に石船塚古墳が国の史跡に指定されていたが、1985年(昭和60)に山頂にある多数の古墳を一括して追加指定し、石清尾山古墳群と名称変更され、1989年(平成1)に鶴尾神社4号墳が追加指定された。
古墳群はハイキングコースとして整備されている。
JR予讃線ほか高松駅から車で約15分。
(出典:コトバンク)
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(2)萩原墳墓群(鳴門市大麻町萩原字山下)
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萩原墳墓群
2基の墓があります。
萩原1号墓は昭和54~55年(1979~1980)に県道バイパス工事のために発掘調査され現在は消滅しています。
萩原2号墓は1号墓の上方にあり、平成16~19年(2004~2007)に徳島県教育委員会によって発掘調査されました。
形・規模
尾根上に築かれた積石墳丘墓です。
萩原1号墓は直径18mの円丘部に長さ8.5mの突出部を山側に向けています。
萩原2号墓は直径21.2mの円丘部に長さ5.6mの突出部を平野側に向けています。
古墳時代の積石塚に比べると墳丘の高さが低いのが特徴で、萩原1号墓は円丘部中央の高さがわ  ずか約0.8mです。造られた時代埋葬施設の上には砂岩円礫と多量の白色円礫が見られ、讃岐産の土器がお供えされていました。
築造時期は弥生時代終末期が考えられ、萩原2号墓⇒萩原1号墓の順番で築造されました。
埋葬施設は2基ともに積石木槨構造をしています。
畿内地域大和のホケノ山古墳や香川県石塚山2号墳の埋葬施設との関連が指摘されています。
(出典:さぬき市古墳勉強会)
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(3)大室古墳群(長野県長野市松代町)
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大室古墳群
長野県長野市松代町にある古墳群。
長野市街の南東約6km、千曲川南側の丘陵から派生する3つの尾根上と、それに挟まれた2つの谷に立地する。
標高は350~700m、約2.5km2の範囲に帯状に分布し、5世紀前半~8世紀に築かれた総数約500基の古墳群である。
古墳群は西から金井山、北谷、霞城(かじょう)、大室谷(おおむろだに)、北山の大小5つの支群に分かれている。
古墳群には盛り土による前方後円墳が1基あり、そのほかに土石混合墳も見られるが、約330基が石を積み上げた積み石塚古墳である。
積み石塚の墳形はほとんどが直径10mほどの円墳だが、日本ではきわめて珍しい積み石塚が、これほど多く密集する古墳群はほかに存在しない。
そして、合掌形石室と呼ぶ特異な構造を備えたものが約40基あり、石室の天井部に板状の石を三角形の切り妻屋根のように組み合わせた合掌形石室は、全国でも珍しく大室古墳群の特徴となっている。
出土遺物は土師器(はじき)や須恵器、珠文鏡、短甲、馬具、刀子、玉類、馬骨などで、なかでも馬具が多いのが特色といえる。
馬骨は頭骨だけで、横穴式石室の前庭部に多量の土師器や須恵器と一緒に埋納されていた。
このように大室古墳群は日本最大の積み石塚古墳群として重要であることから、大室谷支群の主要部分が1997年(平成9)に国の史跡に指定された。
積み石塚は高句麗(こうくり)の墓制と、合掌形石室は百済(くだら)の墓制と関係があるとする説もある。
長野電鉄屋代(やしろ)線大室駅から徒歩約20分。
(出典:コトバンク)
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大室古墳群は、積石塚324基と合掌形石室39基を含む、総計505基の古墳よりなる特異な古墳群である。
積石塚古墳は、四国(香川・徳島)や長野・山梨県の一部に顕著に見られる。
香川・徳島のものは、古墳時代前期(3~4世紀)の築造で、石清尾山古墳群では積石による前方後円墳などもある。
積石塚の源流は、高句麗・百済にあると考えられ、その移入経路は興味深い。
また、信濃国は、5世紀の馬文化移入に伴う馬飼育の場として早くから開かれ、その技術は渡来人に依っていたと考えられている。
古代牧の存在が、信濃の随所で見つけられている。
日本の馬文化発祥との関連も興味の一つである。
今回は、大室古墳群の大室谷支群を見学する。
大室古墳群では、北山支群に属す5世紀前半の全長55mの前方後円墳(18号墳)を最古とする。
5世紀中頃~後半には、積石塚に合掌形石室、箱型石室、竪穴式石室が組み合わせられた直径15m前後の円墳が造られた。
6世紀後半になると、横穴式石室が導入され、土石混合墳が主流になる。
古墳築造は、8世紀まで続いたと考えられている。
大室古墳群は、古くから知られていたが、明治大学考古学研究室の継続的な発掘調査により、その構成内容や分布が明らかになり、平成9年に大室谷支群の主要部分(約16.3ha、古墳数166基)が国史跡に指定された。

大室古墳群は、奇妙山の北西斜面に群集する古墳群で、三つの尾根上の「北山」、「霞城」、「金井山」と二つの谷筋の「大室谷」、と「北谷」の五つの支群に別れる。
平成9年に、大室谷支群の主要部分が国史跡に指定され、史跡入口部より山頂に向けて七つのゾーン(エントランス、施設整備、自然散策、歴史景観保全、遺構復元整備、山林修景、展望)に別け、保存整備中である。
平成24年度には、エントランス・施設整備ゾーンの正式公開が予定されているが、現在も整備された所は公開されている。
(出典:「歴史を旅」)
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大室古墳群は、長野県長野市松代町大室にある古墳群で、国指定の史跡。
約500基の古墳の中には、盛り土をした盛土墳(前方後円墳など)や土石混交合墳もあるが、八割近くが小石を積み上げて墳丘とした渡来人墓制である積石塚で、「合掌形石室」という特殊な埋葬施設となっていることから、他に類例の少ない遺跡として1997年(平成9年)7月28日に国の史跡に指定された。
この形は全国に40例、そのうち25例がこの古墳群に集中している。
古墳群は、地形的に北山(きたやま)・大室谷(おおむろだに)・霞城(かじょう)・北谷(きただに)・金井山(かないやま)の大小5つの支群に分類される。
このうち、最も規模の大きい大室谷支群が史跡指定地となっている。

形状:前方後円墳1基、積石塚400基など
規模:約2.5km2の範囲に約500基が密集
出土品:土師器、須恵器、土馬
築造時期:5世紀前半‐8世紀

大室古墳館
長野県長野市松代町大室310
料金 - 無料
見学時間 - 9:00-17:00毎週月曜日・祝日の翌日および冬季(12月-3月)休館
交通 - 長電バス屋代須坂線「大室駅」バス停下車徒歩約20分、上信越自動車道長野ICから約20分
(出典:ウィキペディア)
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(4)八丁鎧塚古墳(長野県須坂市大字八町)
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北信濃の長野盆地東側にある須坂市には古代氏族の墳墓である古墳が多く分布しています。
そのほとんどが川原石を積み上げた積石塚とよばれる古墳です。
須坂市南部を流れる鮎川沿岸段丘上には、積石塚古墳が数多く分布していることで知られています。
特に「八丁鎧塚古墳」は県史跡に指定されています。
(出典:須坂市観光協会HP)
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鮎川古墳群を構成する古墳群で、鮎川古墳群中、最上流域に位置する。
6基で構成され、1号・2号・6号墳が整備されている。
1号墳 直径25.5m、高さ2.5m、4世紀後半
2号墳 直径25.5m、高さ3.5m、5世紀後半
6号墳 直径12.5m、6世紀中頃
6号墳のみ積石塚ではなく、一般的な土を盛った古墳で、葺石が施されている。
以上、現地説明板より
(出典:「古墳マップ~古墳を旅する~」)
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(5)見島ジーコンボ古墳群(山口県萩市見島)
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山口県萩市見島にある古墳群。
萩の沖合約45kmの日本海上に浮かぶ、面積約7.8km2の見島にある。
本村(ほんむら)の東方高見山から晩台山にいたる横浦海岸一帯に、幅50~100m、東西約300mにわたって約200基の古墳が密集して築かれている。
海浜の玄武岩礫(れき)を利用し封土を用いずにつくった積み石塚で、内部主体は横穴式石室系と箱式石棺系のものがみられ、築造されたのは7世紀後半から10世紀初頭にかけてと推定される。
出土品は、鉄刀や鏃(やじり)などの武器類、金銅製かんざしやガラス小玉などの装身具、緑釉陶器や土師器(はじき)などの土器類、銅鈴や銅鏡などの青銅製品、和同開珎(わどうかいちん)などの銭貨など、種類も数も豊富である。
金具で飾られた鉄刀などの出土品から、被葬者は朝鮮との軍事的緊張にあたってこの島に派遣され、任期中に死亡した武人たちではないかと考えられる。
全国でもまれな集団古墳群として、1984年(昭和59)に国の史跡に指定された。
出土品は萩博物館、山口県埋蔵文化財センタ-にある。
萩商港から高速船で約1時間10分、本村港から徒歩約10分。
(出典:コトバンク)
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(6)相島積石塚古墳群(福岡県糟屋郡新宮町)
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福岡県糟屋(かすや)郡新宮町相島にある墓群。
相島の北東部、通称長井浜と呼ばれる海岸線南北約500mの範囲に、玄武岩の礫(れき)だけからなる、総数254基の積み石塚が分布。
1992年(平成4)に発見され、2001年(平成13)に国の史跡に指定された。
この石塚群は墳径約3mから5mほどの小型円墳、方墳が主だが、1辺12mの2段築成のものや地山を直接掘り込み主体部を造っているものもあり、これらは目印となる墳丘や墓標のようなものを一切つくっていないため確認が困難で、どれほど残っているかは不明。
内部主体は、竪穴(たてあな)式石室、箱式石棺、横穴式石室などである。
築造時期は5世紀前半から6世紀中ごろが中心だが、最初の築造時期は古墳時代前期までは確実にさかのぼることができる。
この古墳から北東方向の対岸には、同時期の有力な古墳が集中する宗像(むなかた)地域を望むことができ、その関連性も想定でき、朝鮮半島とのつながりや海人族との関係なども今後の調査研究に委ねられている。
西日本鉄道貝塚線西鉄新宮駅から新宮港まで徒歩約20分、新宮港から町営渡船で相島まで約17分、相島渡船場から徒歩約30分。
(出典:コトバンク)
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フォト:2018年7月26日

(野田院古墳、上の巻、中の巻、下の巻、完)


by ryujincho | 2018-07-29 23:35 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐国古墳めぐり/野田院古墳(中)-野田院古墳・森将軍塚古墳”比高差”比較-』 nk-2

上の巻では、香川県善通寺市の大麻山の尾根に築造された野田院古墳について縷々綴った。
今回、野田院古墳を探訪する切っ掛けを作ってくれたのは、5月に訪れた、長野県千曲市の有明山の尾根に築造された森将軍塚古墳であった。

比高差。
野田院古墳に関わる説明書きで「野田院古墳が造られたときの集落は今の善通寺市街地の辺りで、その標高は約30m、野田院古墳の標高は約400mにあり、全国で最も比高差のある場所に造られた古墳としても知られています」とあった。
然らば、森将軍塚古墳の比高差は如何ほどであろうかと調べてみた。

森将軍塚古墳が造られたときの集落は、千曲市のHPによれば、発掘調査の結果、森将軍塚古墳のある有明山の山麓にあったとされている(山麓の「科野の里歴史公園」に縄文・弥生・古墳時代と続いた「科野のムラ」が復元されている)。
この山麓のムラの標高は不明なるも、最寄り駅である屋代駅から「科野の里歴史公園」一帯はフラットな地形なので、屋代駅の標高361mを集落の標高と見做すことにする。
森将軍塚古墳の標高は490mであり、比高差は139mである。
一方、野田院古墳の比高差は370mであり、説明書きの「全国で最も比高差のある場所に造られた古墳としても知られています」も頷けるのであった。

森将軍塚古墳。
下界から眺めるとこんな感じである。
木立が切れたところに、後円部がしっかりと視認出来る。
左の建物は古墳館。
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野田院古墳。
大麻山のうねうねした道を下り、善通寺市街地まで残り1kmの辺りから野田院古墳を探してみる。
木々に覆われているせいか、古墳らしきものは見えない。
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野田院古墳から右手の山頂付近に鉄塔が見えていたので、そこから稜線に辿って少し下の方をズームアップして探してみたが、やはり、木々に覆われているせいか、古墳らしきものは視認出来なかった。
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野田院古墳に関わる説明書きに「後円部の北西側は不安定な斜面にはみ出ています。後円部を造る場所をここから少し南東に移せば、全体を平坦な場所に造ることができたはずです。傾斜部に造られた後円部の側面はとても高い壁になっていて、しかも平野の方に向いています。皆が生活する場所からよく目立つように考えたようです」とあり、往時は集落からしっかりと墳丘が見えていたであろう。

野田院古墳は大麻山の尾根というよりもテラス状の地形で、築造の自由度は高いにも関わらず、集落から目立つように斜面ぎりぎりに築造している。
一方、森将軍塚古墳は狭隘な尾根で、自由度はなく、止む無く、尾根の形状に合わせ、いびつな形の前方後円墳となっているが、この尾根を築造場所に選んだのは集落からよく見えるからということであったかもしれない。
因みに、森将軍塚古墳を訪ねたときは、その眺望から、被葬者は死後も絶景を眺めながら眠るというようなことからこの地を選んだと思っていたのだが、それは誤りかもしれない。

森将軍塚古墳。
そのいびつな形と眺望。
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森将軍塚古墳は、善光寺平、そして、遠く、北アルプスも展望できる地にある。
野田院古墳は、丸亀平野、三豊平野、瀬戸内海、そして、遠く、吉備(岡山)・安芸(広島)、伊予(愛媛)まで展望できる地にある。
比高差は野田院古墳が勝っているが、眺望は甲乙つけ難い地に築かれている。
いや、瀬戸内育ちにとって、雪山の光景は魅力的で、森将軍塚古墳に軍配かもしれない。

山の尾根に築かれた古墳、これからも出来る限り、各地のそうした古墳を訪ねてみたいと思っている。

次は、下の巻で、積石塚について述べてみたい。

フォト#1、4~9:2018年5月11日
フォト#2、3:2018年7月26日

(つづく)



by ryujincho | 2018-07-29 23:34 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐国古墳めぐり/野田院古墳(上)』 nk-1

7月26日(木曜)、晴れ。
讃岐国古墳めぐり。

昨年3月末、善通寺市/有岡古墳群に属する王墓山古墳と宮が尾古墳を探訪。
今回は、同じく、有岡古墳群に属する野田院古墳(のだのいんこふん)を探訪。

有岡古墳群は、野田院古墳・磨臼山古墳(すりうすやまこふん)・鶴が峰4号墳・丸山古墳・王墓山古墳・宮が尾古墳など、3世紀から6世紀にかけて築造された古墳からなる古墳群である。
野田院古墳は大麻山(おおさやま)の頂上付近に築造された古墳である。
今年5月、長野県千曲市の有明山の尾根に築造された森将軍塚古墳を訪ねたことでもあり、平野や山麓、丘陵のみならず、山頂や尾根に築かれた古墳にも大いに興味が湧き、今回、大麻山の野田院古墳を訪ねることにしたのであった。

大麻山のうねうねとした道を上り、頂上付近へ。
古墳探訪は jitensha もしくは徒歩を信条としているが、今回は義兄の運転する車で。
野田院古墳に到着して分かったことだが、古希となった今、この古墳は jitensha は無理であり、jitensha での<押し>も含め、徒歩は距離的に無理で、車で連れて行ってくれた義兄に感謝!であることを先に申し添えておきたい。

国指定史跡 有岡古墳群/野田院古墳。
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国指定史跡 有岡古墳群
善通寺市内には400基を越える古墳の存在が確認されています。
中でも筆ノ山(ふでのやま)・我拝師山(がはいしやま)で北部を、大麻山(おおさやま)で南部を限られた弘田川流域の有岡地区には、同一系譜上の首長墓と考えられる前方後円墳が集中し、大麻山山麓の谷間には、いたる所に後期古墳が群集していることが知られています。
中でも野田院古墳・磨臼山古墳(すりうすやまこふん)・鶴が峰4号墳・丸山古墳・王墓山古墳・宮が尾古墳は、4世紀から6世紀にかけて築造された県下を代表する古墳で、昭和59年11月29日に史跡に指定されました。
この6基の古墳は当地域における歴代の首長墓であり、讃岐の古代史解明に重要であるばかりでなく、中央や先進地域との緊密な交流を示す貴重な遺跡です。
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野田院古墳(3世紀後半)
野田院古墳は大麻山北西麓のテラス状平坦部(標高405m)という非常に高い場所に築かれた、丸亀平野周辺部で最古式の前方後円墳です。
その規模は、全長44.5m、後円部径21.0m、後円部の高さ2.5m、前方部幅13.0m、前方部は盛り土、後円部は安山岩塊の積石によって築かれています。
また、前方部はくびれ部が細く締まり、先端が撥形に開く発生期の前方後円墳の特徴を示していることなどから、3世紀後半に築造されたと考えられており、最初にこの地に登場した首長の墓ではないかと考えられています。

市内には他にも、大窪経塚、大麻山経塚、大麻山貸椀塚、丸山1号・2号墳など積石塚がありますが、この古墳群は坂出から綾歌の積石塚を経て、高松の岩清尾山(いわせおやま)古墳群と連鎖することが知られています。
つまり、この古墳は積石塚古墳の発生や変遷を研究し、当時の讃岐の地域集団関係を知る上で非常に貴重な遺跡なのです。

善通寺市 平成4年度
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墳丘実測図。
説明板がひび割れており、不鮮明ではあるが、じっくり見ると説明板書きにある「前方部はくびれ部が細く締まり、先端が撥形に開く発生期の前方後円墳の特徴を示している」ということがよく分かる。
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説明板の左手に鉄骨造りの展望台が設えられている。
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古墳と下界を俯瞰出来るのかもしれない。
早速、展望台へと向かう。

展望台の手前で、石積みの墳丘が目に入る。
気分が高揚する。
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展望台から墳丘を俯瞰。
手前/石積みの後円部、奥/盛り土の前方部。
くびれ部の付け根は前方部の墳丘に隠れて見えないが、前方部が撥形であることが見て取れる。
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展望台上の説明板/「野田院古墳遺構および施設配置図」。
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図下端、茶色個所:展望台
後円部、中央:第一主体部(竪穴式石室)、第二主体部(竪穴式石室)
前方部、縁の小さな点:基底部列石

後円部墳丘と、左手奥に木立の間から見える山を併せて眺める。
僅かだが、平野部の一部も見える。
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左手奥の山はその形から筆ノ山のようだ。
展望台上の案内板「野田院古墳からの展望」と見比べてみる。
やはり、筆ノ山である(案内板写真、右端の辺り)。
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野田院古墳が造られたときの集落は今の善通寺市街地の辺りで、その標高は約30m、野田院古墳の標高は約400mにあり、全国で最も比高差のある場所に造られた古墳としても知られています。
付近には視界をさえぎる山も少なく、古墳からは丸亀平野、三豊平野・瀬戸内海はもちろんのこと、遠く、吉備(岡山)・安芸(広島)、伊予(愛媛)まで展望できます。
よく晴れた日には瀬戸大橋のみならず、しまなみ海道(因島大橋)も見えます。
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今一度、北西から南西にかけての眺望と案内板の写真を見比べてみる。
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右側から;
右端/後円部墳丘とその向こうに善通寺市街地
右/備前(岡山)、央/安芸(広島)、左/伊予(愛媛)
右端から、瀬戸大橋、丸亀市、香色山、多度津町、筆ノ山、高見島、天霧山、我拝師山、中山、火上山、因島大橋、紫雲出山、庄内半島、しまなみ方面、七宝山、西条市、新居浜市

この説明で十分にイメージ出来る。
晴れの日、殊に、冬晴れの日なら、この風景がはっきりと見えることであろう。

展望台から降り、墳丘の周囲を反時計回りで歩いてみる。

後円部/南東面。
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くびれ部/南東面。
説明板の読み下しは後述にて。
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後円部とくびれ部付け根付近。

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前方部/北東角。
くびれ部の付け根もしっかりと視認。
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前方部/先端。
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前方部/北西角。
くびれ部の付け根もしっかりと視認。
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前方部/南西面から。
南西に傾斜したテラス状の地形であることがよく分かる。
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後円部/南西面。
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後円部/先端。
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墳丘脇の説明板に目を通す。
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説明板その1「古墳時代」。
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古墳時代
善通寺市は瀬戸内海に面し、温暖な環境で生活しやすい場所であったことから、古くから大勢の人が住み、独自の文化を育んできました。
少なくとも旧石器時代の終わり頃(2~3萬年前)には人々の生活が始まり、弥生時代には大きな集落が誕生していたことが明らかになっています。
弥生時代の終わり頃(3世紀後半)になると集落は更に発展し、政治的に人々をまとめる有力者が登場します。
この有力者は豪族と呼ばれ、人々は豪族がなくなると大きな墓を造って葬るようになりました。
やがて、各地の国は大和の大王家そ中心に統合され、前方後円墳という大王墓にならった墓を造るようになります。
大きな墓は、仏教が伝わり、火葬が始まる7世紀初め頃まで造られました。
この大きな墓を古墳と呼び、古墳が造られた時代が古墳時代です。
古墳の墳丘や石室を調べると、驚くほど優れた土木技術があったことがわかります。
また、死者に供えられた副葬品からは当時の生活の様子やどのような工芸技術があったのかがわかります。

200~300万年前
 旧石器時代 人類の誕生、石器の使用
 ※日本で紀元前35000年頃には人々が生活
約1万年前
 縄文時代 土器の使用
紀元前5世紀
 弥生時代 稲作の始まり
3世紀後半
 古墳時代 統一国家の始まり
7世紀初頭
 (飛鳥・白鳳)
 奈良時代 法治国家の始まり
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説明板その2「有明古墳群」。
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有岡古墳群
善通寺市内には400基以上の古墳があります。
昭和57年に発掘調査した王墓山古墳では石屋形をもった横穴式石室から豪華な副葬品がたくさん出土し、その中には大和政権や九州の先進地域との親しい関係を示す貴重な資料もありました。
この発見によって、王墓山古墳と周辺の代表的な5基の古墳(野田院古墳・宮が尾古墳・丸山古墳・鶴が峰4号墳・磨臼山古墳)が有岡古墳群として国の史跡に指定され、永久に保存されることとなりました。
6基の古墳はこの地域を治めた豪族の墓と考えられ、香川県(讃岐)の古代史を知る上で重要な遺跡です。

発生期 3世紀末頃 野田院古墳 竪穴式石室
前 期 4世紀代  鶴が峰4号墳 同上
中 期 5世紀代  磨臼山古墳、丸山古墳 同上
後 期 6世紀代  王墓山古墳 横穴式石室
終末期 7世紀初頭 宮が尾古墳・2号墳 同上
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説明板その3「積石塚」。
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積石塚
古墳の中には土の代わりに川原石や山石を積み上げて造った「積石塚」と呼ばれるものがあります。
瀬戸内海沿岸部には、香川県を中心に、古墳発生期から前期にかけて造られた数多くの積石塚が分布していることが知られています。
この他には、長野県を中心に分布する古墳時代後期から終末期にかけて造られた積石塚が知られている程度で、全国的には分布していません。
朝鮮半島にも同様の積石塚が認められることから、渡来人が伝えたとする「外来説」と、日本で独自に発生したとする「自生説」がありますが、香川県では白鳥町の成重遺跡(弥生時代中期)や善通寺市の稲木遺跡(弥生時代後期)で集石墓が確認されており、積石塚は古代の讃岐で発生したのではないかと考えられています。
これは讃岐地方に古式の積石塚が多く残ることとも符合します。
野田院古墳では保存整備に伴う墳丘積石内部の発掘調査によって、優れた土木技術を用いて構築していたことが判明しました。
讃岐地方の積石塚で内部構造が明らかになったのは初めてのことです。
弥生時代の集石墓は平地にあります。
また、川原石を積み上げた簡単な構造であり、短時間で技術が発達するとは考えにくいことから、自生説とともに高句麗の積石塚の構築技術の伝来も考える必要があるかもしれません。

香川県彼の積石塚分布図
※拡大図は省略
※「野田院古墳」と「石清尾山(いわせおやま)古墳群(高松市)」の場所が図示されている。
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説明板その4「野田院古墳が造られた時の様子(想像図)」。
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図に書き込まれていることは次の通り。
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右上:
ここは標高400mの高さにあるため、当時の人が住んでいた平野部はもちろんのこと、瀬戸内海や対岸の岡山・広島まで展望することができます。
今の市街地のあたりが当時の生活の中心でした。
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後円部:
この古墳には2基の石室があります。
夫婦・親子・兄弟の墓など様々な説がありますが、よくわかっていません。
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くびれ部付け根付近:
古墳のまわりの石室の上には赤く塗った壺形土器を並べていました。
ここが聖域であることを示すもので、埴輪のもとになるものです。
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左下:
集落を離れた場所での長期の工事です。
一時的に生活できるような家が造られていたかもしれません。。
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下端:
前方部は後円部が完成する間、重い石材を運搬する作業道として使われていたようです。
この後、更に土を盛り、石を葺き、前方部を完成させています。
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説明板その5「作業工程①~作業工程⑤」。
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作業工程①
最初に古墳を構築する場所を決めます。
野田院古墳の場合は見晴らしのいい尾根が選ばれました。
先ず、尾根の上を平らに整えることから始めますが、その周囲には急な斜面が残ります。
平坦部から一部傾斜部にかけて後円部の円周を設定し、これにそって石材を配置しています。
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作業工程②
次にその内側に石材を詰めます。
平坦部では小型の石材を詰めていくだけですが、傾斜部では内部に詰める石材は比較的大きく扁平なものが多く、地山と逆の向きに連続して立て、整然と配置しています。
これは傾斜部分の石材が下方に滑り出すことを防ぐことが目的と思われます。
傾斜部に高く石材を積み上げる際に、崩れにくい積み方を知っていたようです。
この工程で後円部の基礎を水平に仕上げています。
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作業工程③
作業工程②で造られた平坦部の上に二基の石室を造り始めます。
先ず、石室を造る部分に細かい石を敷き詰め、この上に荒い粘土を敷き、石室最下段の石材を配置します。
次に粘土床用の細かい粘土を敷いています。
この粘土は石室の床面だけでなく、石室最下段の石材を包むようにその外側にも及んでいます。
この粘土の中から多数のガラス小玉が出土しました。
通常の副葬品ではなく、祭祀遺物だったようです。
石室の四方の壁を積み上げながら、後円部周囲の壁も同様に高く積み、その間に石材を詰めていきます。
後円部の一段目は石室の下半分が積み上がった段階で完成します。
この作業工程は解体修理のときに後円部の断面で確認できました。
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作業工程④
次に後円部一段目の上に二段目を造り始めますが、このときに前方部の一部を坂道状に造っています。
古墳を造る場所を決めるにあたっては、その材料となる石材の取りやすさも大きく影響したと思われますが、野田院古墳の北東にある尾根付近には石材の露頭地があり、尾根伝いに運び降ろしたものと考えられます。
前方部は土でできていますが、くびれ部でその断面を見ると後円部の一段目の高さで前方部側にゆっくり下がる面が確認できます。
墳丘(後円部)へと石材を運びやすいくするための坂道が造られていたようです。
この作業道を利用して重い石材を運び上げたようです。
二段目は一段目より一回り小さくし、周りに平坦な段を造っています。
造り方は一段目と同じで、石室の四方の壁が完全に積み上がった高さで後円部の二段目が完成しています。
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作業工程⑤
ここで石室に巨大な石で蓋をします。
この蓋石を覆い隠すため、この上には更に多くの石が積まれていたようですが、後円部の三段目は完全に崩れていたため、元の形は不明です。
最後に作業道としての使用が終わった前方部を完成させ、その表面に石を葺き、古墳が完成します。
後円部の北西側は不安定な斜面にはみ出ています。
後円部を造る場所をここから少し南東に移せば、全体を平坦な場所に造ることができたはずです。
傾斜部に造られた後円部の側面はとても高い壁になっていて、しかも平野の方に向いています。
皆が生活する場所からよく目立つように考えたようです。
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「後円部と前方部の接合部検出状況(H12)」をアップで。
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後円部と前方部の説部に残る後円部(一段目と二段目)の検出状況です。
後円部を積んだ後に盛り土の前方部が造られてため、この部分では後円部の石積みが崩れずに完全な形で残っていました。
後円部はこれを参考に復元しました。
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説明板その6「野田院古墳保存整備事業」。
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野田院古墳保存整備事業
昭和59年11月29日に有岡古墳群が国の史跡指定を受けた後、最初に王墓山古墳、続いて、宮が尾古墳の保存整備事業を実施し、平成9年度からは野田院古墳の発掘調査と保存整備事業に着手しました。
発掘調査は平成13年度まで実施し、平成12年度から始まった保存整備事業は平成14年度に竣工しました。
積石塚の内部構造まで調べる発掘調査や解体修理・保存整備は国内でも初めての試みでしたが、古墳の内部構造や構築の工程まで知ることができました。
野田院古墳が造られてときの集落は今の善通寺市街地の辺りで、標高は約30m、野田院古墳の標高は400m付近にあり、全国でも比高差のある場所に造られた古墳としても知られています。
付近には視界をさえぎる山も少なく、古墳からは丸亀平野・三豊平野・瀬戸内海はもちろんのこと、遠く、吉備(岡山)・安芸(広島)・伊予(愛媛)まで展望できます。
展望台からご覧ください。
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「後円部の復元工事風景(H13)」をアップで。
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展望台の壁を利用して「尾根の傾斜部に造られた後円部の断面、1/2の大きさで再現」。
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左部分をアップで。
説明板、左端/1段目テラス(石室の下半分が積み上がった段階の高さ)
説明板、右上/2段目テラス(石室の四壁が完全に積み上がった段階の高さ)
説明板、下段/地山と傾斜と逆向きに連続して立て、整然と配置された石材
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右部分をアップで。
説明板/「墳丘と石室は並行して造られていることがわかります」。
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後円部断面再現脇の説明板。
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この説明板の内容はこれまでに目を通した説明版の内容と同じなので、書き下しは割愛。
但し、写真と図は特記しておくこととする。
説明板掲載写真、左下/後円部発掘調査時の航空写真(平成12年度)
説明板掲載写真、右上/傾斜部での後円部内部検出状況(平成13年度)/「比較的大きく扁平な石材を地山の傾斜と逆の向きに連続して立てて、整然と配置しています」。
説明板、央/墳丘実測図
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野田院古墳を堪能し、駐車場に戻ったところ、jitensha 2台と遭遇。
急ぎ、カメラを向け、シャッターを切る。
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坂道まで追いかけて、シャッターを切る。
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うねうねとした坂道を下り、下界へ。
やはり、この坂道は古希の身にとっては jitensha(漕ぎ&押し)は無理だなと改めて思った。
そして、大麻山の尾根に古墳築造の道具や資材を運んだ往時の人々の労苦を思うのであった。

現場を検分し、且つ、数多の説明書きに目を通した。
説明板は、入り口付近、展望台上、展望台下、墳丘脇と4ヶ所に亘り、内容が重複しているものとそうでないものが混在。
展望台下のものを除いて、全て、書き下し、記述内容と写真と見比べながら確認した点も多々あり。
大いにベンキョーすることが出来た。

折角なので、野田院古墳に関する所感を述べておきたいと思う。
それは、ページを改めて、下の巻で綴ることとしたい。

フォト:2018年7月27日

(つづく)


by ryujincho | 2018-07-29 23:33 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐路/生目神社』

7月26日(木曜)、晴れ。
讃岐路を走っているとき、「目の神様 生目神社」の標識を目にしたことがある。
昨冬、白内障の手術。
それに先立ち、中野区の新井薬師に参拝、術後、御礼参りにも。
今夏、連れ合いが目の手術を予定しており、新井薬師参拝を考えていたが、その前に「目の神様 生目神社」にも参拝することとした。

生目神社。
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参拝。
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扁額コレクション。
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由緒。
目を凝らして読まないと、よく読み取れない、目の神様に視力検査をされているような由緒書き。
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生目神社について
香川県の西部に位置し、浦島太郎の伝説が残されている香川県三豊市。
三豊市の中心部から車で約10分の小高い山に、生目神社があります。
三豊市の生目神社は天保7(1838)年に、高松引田の扇子屋善兵衛が日向国宮崎生目村八幡宮(現在の宮崎県宮崎市)の御分霊を勧請(かんじょう、分霊を他の神社に移すこと)したことが始まりといわれ、ご祭神には藤原景清公がお祀りされています。
景清公は平安末期から鎌倉初期にかけて生きた勇猛な武士で、源平合戦の際は平家軍として奮闘しましたが、平家は壇ノ浦にて滅亡しました。
景清公は戦禍から脱出し、源氏の棟梁である源頼朝を討とうと企てましたが、源氏の武士に捕らえられました。
景清公の忠誠心と武勇を惜しんだ頼朝公は、日向の別当として赴任を命じます。
しかし、東国から離れた日向でも源氏の繁栄を見聞きすることに苦しんだ景清公は、自分の両目をえぐって投げ捨てたといわれ、その両目の落ちた場所に『生目神社 宮崎市』が建てられ、景清公は「目の神様」として信仰されるようになったといわれています。
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この由緒に目を通しながら思い出したことがある。
それは、鎌倉の御霊神社(権五郎神社)の祭神、鎌倉権五郎景政のこと。
鎌倉景政は、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍し、活躍、そのとき、左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し、帰還した。
一人の武士が、景政の左目に突き刺さった矢を抜こうと、景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言う。
かかる伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされ、また、眼病平癒にも効験があるとされる。

宮崎市の生目神社について調べていたところ、神社の南、5kmくらいのところに生目古墳群なるものがあることに気付いた。
この古墳の案内記事によると、古墳公園として整備されており、次の通り紹介されている。
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生目古墳群史跡公園
生目古墳群は、宮崎市大字跡江にある丘陵上に築かれた、古墳時代前期から後期(約1700年前から1400年前)の古墳群です。
この丘陵は大淀川右岸に位置しており、東には宮崎平野を見渡すことができます。
生目古墳群は50基の古墳で構成されており、公園内には、前方後円墳8基、円墳25基があります。
その中の1号墳、3号墳、22号墳は全長が100mを超える規模を誇り、生目古墳群は古墳時代前期において、九州最大の古墳群であったと言えます。
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古墳探訪を趣味としている者にとって、まことに興味深い古墳である。
宮崎県では、西都原古墳群を訪ねてみたいと常々思っていたことでもあり、生目古墳群も探訪先の候補に加えておこう。

生目神社から話が脱線してしまった。

脇の参道の鳥居をくぐって境内に入ってしまったようで、正面の参道の石段や狛犬をカメラに収める。

石段。
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狛犬コレクション。
阿形。
逆光がちょいと辛い。
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吽形。
こちらは順光。
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阿形、吽形とも、顎を上げているというちょいと珍しい姿の狛犬である。
真横から見てみるとよく分かるので、阿吽形を代表して吽形の写真を1枚。
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正面参道から社を眺める。
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香川県の生目神社を参拝したことで、宮崎県の生目神社のことも知り、ひょんなことから、宮崎県の生目古墳群のことも知った。
誠に面白い巡り合わせとなった生目神社参拝であった。


フォト:2018年7月26日







by ryujincho | 2018-07-29 23:32 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐路/うどん』

7月26日(木曜)、晴れ。
前日25日、讃岐入り。
「讃岐へ来たら、即、うどん!」を信条としているが、タイミングが合わず、前日は見送り。
翌26日の朝10時半に、うどん屋へ。
店は、毎度贔屓の観音寺市、財田川近くの「かなくま餅 福田」。
「かなくま餅 福田」は、その名の通り、餅もやっているが、れっきとした讃岐うどんの店。
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今どきの若者に合わせたイラスト。
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こちらは外国人観光客向け。
”An English Guide to Sanuki Udon ””
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うどんノート。
右/うどん用語、左/記録用。
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左/記録用をアップで。
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「かなくま餅 福田」の店先に貼られたポスター。
「瀬戸フィルハーモニー交響楽団 観音寺公演」。
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瀬戸フィルハーモニー交響楽団。
初めて聞く名前である。
最近、アマチュア・オーケストラのコンサートに二度ばかり行ったので、瀬戸フィルもアマチュア・オーケストラかと思うも、マーラーの『さすらう若人の歌』を演目に入れるなど、意欲的な楽団だし、入場料は3800円はアマチュア・オーケストラにしては高額だし、念のため、同楽団のホームページを検索してみた。
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瀬戸フィルハーモニー交響楽団について
瀬戸フィルハーモニー交響楽団は昨年11月創立15周年を迎えました。
現在、約60人の団員は、定期演奏会や自治体、企業などへのコンサートをはじめ、小中学校を訪問しての音楽鑑賞・指導教室を行うほか、0歳児から入場できるコンサートなど多彩な演奏活動を展開しております。
これからも音楽文化の普及に努め、県民の皆様と香川県が一層元気になるよう、とりわけ、青少年に、夢と希望をもたらすことができるよう精進してまいります。
<沿革>  
2001年(平成13年)11月 NPO法人として設立 四国で初めてのプロオーケストラ  
2009年(平成21年) 4月 一般社団法人に 
2010年(平成22年)1月 公益社団法人へ移行  
2014年(平成26年)10月 香川県文化芸術選奨受賞  
2016年(平成28年) 6月 日本オーケストラ連盟に準会員として加盟  
2018年(平成30年) 3月 第4回高松国際ピアノコンクールにオーケストラとして出演
<役員名簿>  
名誉顧問 : 松平賴武  
顧  問 : 浜田恵造 大西秀人 岡市友利 梅原利之 鎌田郁雄  
アドバイザー:川井郁子 木内晶子  
代表理事 : 川北文雄  
理  事 : 香西勝人 髙山桂一 野田法子 真鍋洋子 佃 昌道 宮﨑節二
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「四国で初めてのプロオーケストラ」とある。
納得!

名誉顧問として、松平賴武の名がある。
氏は高松藩松平家第14代当主。
作曲家の松平頼則、松平頼暁の姻戚かと思うも、作曲家の松平頼則、頼暁は常陸府中藩松平家の系統。
いずれも水戸徳川家の連枝。
アドバイザーとして、ヴァイオリニストの川井郁子の名がある。
川井郁子は高松出身ということで、この楽団に関わっているのであろう。

話が脱線してしまった。
讃岐うどん共々、瀬戸フィルハーモニー交響楽団の活躍を期待!


フォト:2018年7月26日





by ryujincho | 2018-07-29 23:31 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 28日

『炎暑、讃岐国遺跡めぐり/興隆寺遺跡の石塔群』

2018年7月25日(水曜)、晴れ。
義兄の運転する車で、四国八十八ヶ所霊場第70番/本山寺/を参拝し、予讃線財田川橋梁復旧工事を取材。
そのあと、興隆寺遺跡の石仏群なるものに案内しようとの義兄の言あり。
暑い最中ではあるが、何でも見てやろう精神が沸き起こり、案内して貰った。

細い山道を上って行くと説明板が現れた。

興隆寺遺跡の石仏群とは。
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興隆寺遺跡の石塔群
興隆寺の石塔群は豊中町大字下高野字興隆寺3730‐5番地(地目、山林)標高約100mに占地している。
周辺の各所には大小さまざまの角礫凝灰岩が等高線に平行する形で露出しているが、石塔群はその中でも大形の岩塊を活用して造営されている。
百余基を有する世に稀な墓塔群であるが、大別して上下の二段に横並びに祀ってある、即ち、横さまに露出する凝灰岩壁を庇状に造成し、庇の下に墓塔を配列している。
下段の遺跡は不動明王(坐像)の摩崖仏を中にして左右に五輪塔30数基を配置し、上段の庇(石龕 せきがん)の中には五輪塔、宝塔、方篋印塔など約70基が造立されている。
これらの仏塔は鎌倉時代の後期から室町時代に及ぶ約200年の長期間にわたって継続的に造立されたものと考えられるが、風化の度が極めて軽微であり、造営当初の風格をただよわせている点にも驚かされる。
したがって、興隆寺の石塔群は量、質とも息詰まるほど充実し、中世における石塔の様相が把握できる貴重な遺跡である。
(香川県指定文化財)
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クモ。
石仏群の守り神(かな?)。
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先程、細い山道を上り始めたときに路傍に何体かの石仏が並んでいた。
その中で気になる石仏が二体あった。
その一体は、昨年春、訪れた竹生島の千手観音。
「第三十番」と刻まれている。
西国三十三ヶ所第三十番、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺である。
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もう一体は、光背ならぬ表からの光に照らされた御尊顔の石仏。
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「正観音 三十一番 長命寺」と刻まれている。
西国三十三ヶ所第三十一番、近江八幡の長命寺である。
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素朴な石塔と石仏。
親しみが湧く。


フォト:2018年7月25日




by ryujincho | 2018-07-28 23:33 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)