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龍人鳥の徒然フォト日記

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カテゴリ:炎暑、上野国古墳めぐり 2018( 5 )


2018年 07月 15日

『炎暑、上野国古墳めぐり/元島名将軍塚古墳』 mt-5

7月14日、上野国史跡めぐり第8弾。
前橋・高崎古墳探訪。
先ず、前橋市/広瀬古墳群/前橋天神山古墳、八幡山古墳、二子山古墳(文京町)を探訪。
続いて、前橋市内で開催された群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演を聴講。

講演会が終わったのが午後4時過ぎ。
会場の外へ出た途端、ムッとした熱気が。
昼のTVニュースで午後には36度を超えると報じていたが、その通りであった。
当初プランでは、これから高崎市の元島名将軍塚古墳を探訪することになっているのだが、この暑さの中、行くべきか、古墳探訪は止め、このままJR前橋駅へ向かい、輪行で帰途に就くか逡巡。
元島名将軍塚古墳までは、利根川右岸CRを下り、国道27号線を西へ、県道13号線を南へというルートである。
利根川沿いなら涼しい川風に吹かれながら走れるかもしれないとの思いに達し、予定通り、本島名将軍塚古墳へ向かうこととした。

思った通り、利根川右岸CRは快適。
涼風に加え、西側は木立が続き、西日を遮ってくれる。
そして、僅かながらも下り基調で、ペダルを漕ぐ力も少なくて済む。

ここで、今回の古墳探訪に元島名将軍塚古墳を織り込んだ理由を述べておきたい。

<理由その1/『将軍塚』古墳シリーズ>
今年5月、長野県千曲市の森将軍塚古墳を探訪した。
森将軍塚古墳は、有明山の尾根に築造された前方後円墳で、歪な地形の尾根に築造されたため、左右対称になっておらず、後円部が楕円形に歪んでいるという、珍しい形をした前方後円墳である。

『将軍塚』という名称について、案内人さんに問うたところ、「5~6000人の兵士を統率する人を中国では将軍というそうです。被葬者はそれくらの権力を有していたであろうということから、『将軍塚』と名付けらたとのことです。森将軍塚の『森』は、以前、この辺りは埴科郡森村であったことから『森』と名付けられました」というものであった。
森将軍塚古墳のほかにも、調べてみると、『将軍塚』という名称の古墳が幾つかあり、『将軍塚』古墳探訪シリーズのひとつとして、今回、元島名将軍塚古墳を探訪することにしたのであった。

<理由その2/前方後墳シリーズ>
元島名将軍塚古墳は前方後墳であり、この日、探訪した前方後墳の八幡山古墳とセットでの「前方後墳」探訪シリーズの一環としたのであった。

この日の講演会よりも前に、元島名将軍塚古墳が前方後墳であることは承知していたが、講演会で貰った資料の「図1 関東最大の前方後墳(前橋市八幡山古墳)」の中に、前橋八幡山古墳のより先に、元島名将軍塚古墳の名が挙げられており、群馬県で最古の前方後墳であることを知ると共に、これも奇縁だなと思った。

その資料のをここに掲載しておこう。
※編年2の項に「元島名将軍塚(90)」、続いて、「前橋八幡山(130)」とある。
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しっかりと地図を準備していたので、迷うことなく、元島名将軍塚古墳に到着。
古墳にはしばしばあることだが、神社が鎮座している。

島名神社。
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扁額コレクション。
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鳥居をくぐる。
左手に「高崎市指定史跡 将軍塚古墳」の標柱と共に説明板が現れる。
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説明板に目を通す。
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高崎市指定史跡
将軍塚古墳
付、周濠出土の底部穿孔壺形土器等一括資料
所在地 高崎市元島名町162ほか
指定年月日 昭和48年1月31日
追加指定 平成3年3月1日

将軍塚古墳は、井野川の左岸台地上に位置する前方後方墳である。
現在、前方部には島名神社が鎮座している。

古墳の規模は、全長96m、後方部幅51m、後方部高さ8.6m、前方部高さ4.7mで、周堀を含めた主軸の全長は150mと推定されている。
墳丘に葺石は認められない。
周堀は不定形をしており、深さは0.3mほどである。

明治44年、後方部より偶然に埋葬施設が発見された。
これは、墳頂下約2mにあって、大きさは全長1.8m、幅0.6mほどであり、中からは人骨のほか獣形鏡・石釧・大刀・鉈などの副葬品が出土している。
これらのうち、鏡・石釧は東京国立博物館に所蔵されている。
また、昭和55年度の発掘調査の際に、墳丘から転落したと思われる底部穿孔壺形土器・S字状縁台付甕形土器などの遺物が周堀より多量に発見された。
これらは、一括して追加指定されている。

この古墳は、墳丘の構造・副葬品・出土した土器類などから4世紀後半に築造されたと推定されており、井野川流域で初めてつくられた大型の前方後方墳である。

高崎市教育委員会
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将軍塚古墳全体図。
説明書きに「現在、前方部に島名神社が鎮座している」とあるので、構築物が描かれている図の下側(南)が前方部、図の上側(北)が後方部となる。
我々が説明板に目を通しながら立っている場所は、後方部の北西角となる。
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説明板の裏手、後方部南西角の墳丘の裾に置かれた石仏。
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後方部墳丘の西裾から前方部の島名神社を眺める。
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少し進むと、くびれ部が認められる。
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前方部に鎮座する島名神社に参拝。
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由緒に目を通す。
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島名神社由緒
一、御祭神 彦狭嶋王(他十一柱)
一、御由来
創立年月は不詳なり。
「日本書紀」景行天皇の条に、彦狭嶋王が東山道十五国の監督に任命され、薨去の後は上野国に葬られたとあり、塚の築造時期は四世紀後半と推定される。
是即ち當社の始なり。
延喜式神名帳に倣い、上野国司が祀る神社を登録した「上野國十四群諸社神名帳」は三種の異本があり、何れにも「従四位上嶋名明神」とある。
元来、島名は「倭名類聚集」にある郷名であり、その名の興りは彦狭嶋王の社伝より出たものと思われる。
明治十年五月、明治四十年四月 付近の天降社等十一社を本社境内社として祭祀し、明治四十三年十一月十六日 許可を得て本社内社を合祀せり。
大正七年九月二十七日 勅令に依り神饌幣帛料供進社として指定せられ、昭和二十七年六月 神社神道に従って祭祀を行うことを目的として宗教法人「島名神社」設立を神社本庁より公告された。
崇敬者篤志家の助力に依り、平成二年春に御社殿の大修築があり、平成十二年秋に大鳥居の再興が行われた。
一、彦狭嶋命由来
第七代孝霊天皇の皇子にて「新撰姓氏録」では東国統治活躍したと伝ふ。
「先代旧事本紀」の上毛野国造の条に「彦狭嶋命初めて東方十一国を治平し封と為す」とある。
「日本書紀」は彦島命、「古事記」日子寤間命なり。
平成十三年二月(撰文・當社宮司 長尾悦治)
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神社前に立ち、前方部から後方部を眺める。
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前方部墳頂の神社から後方部へと歩を進める。
後方部の墳頂に上る。
説明板に掲示されていた測量図でも見られたが、墳丘の南側が溝状に大きく抉られている。
相棒の武衛さん曰く、調査のために掘り、埋め戻しをしなかったのかも、と。
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後方部墳頂に設置された三角点。
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後方部墳丘に生える桜の木。
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後方部、北西端。
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後方部墳頂から前方部を眺める。
前方部南端が大きく溝状に抉れているのが見て取れる。
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抉れた向こうに、くびれ部が見て取れる。
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後方部南端から前方部に鎮座する島名神社を眺める。
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或る資料に、古墳の東側から水田を挟んで眺めると墳丘全体の様子がよく分かるとあった。
鳥居をくぐり、一般道に出る。
時計回りで東側へ行ってみる。
古墳の東側と南側は住宅や畑、古墳は木々に覆われ、その姿は見えない。
目印の高南中学校の脇を抜けると東側に関越自動車の高架が見えて来た。
それに沿って北へ少し進み、水田に向かう脇道に入り、西に向かう。

某資料に記されていた通り、田圃を挟んで、元島名将軍塚古墳の全景が現れた。
左手/前方部、右手/後方部。
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左手/前方部が少し欠けてしまったので、位置を変えて、取り直し。
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農道に1台の軽トラックが現れ、男性が車から降りて来た。
「田圃の見回りですか?」。
「そうです」。
「ご苦労様です」。
「どちらから来られましたか?」。

2年前の夏、下野国史跡めぐりのときにも、よく似たことがあった。
そのときのことをマイ・ブログを読み返すと次のようなことであった。
下野国庁跡近くの農道で、屋根の両端には東大寺大仏殿の如き鴟尾が設えられた小学校の校舎をカメラに収めていたところ、1台の軽トラックが現れ、男性が車から降りて来た。
田圃の水の状態の見回りであると。
「どちらからこられましたか?」との質問があり。
この質問に対する応え方にいつも迷う。
住まいしているところを言えばいいのか、そう言うとそこからここまで jitensha に乗って来たのかと思われるし、輪行して来た最寄り駅から言えば、質問者に対する答えになるのか、とあれこれ迷うのである。
「東京方面から来たのですが、走って来たのは自治医大駅からスタートして、下野薬師寺跡、龍興寺、下野国分寺跡、尼寺跡、国庁跡をめぐり、これから大神神社へ行くところです」と答えたのであったが...。

元島名将軍塚古墳の東側の農道に話を戻そう。
「東京方面からです。趣味の古墳めぐりです。今日は両毛線の前橋大島まで電車で来て、そこから広瀬古墳群の古墳を3基ほどめぐり、前橋市内で古墳の講演会に出て、そのあと、利根川沿いを走り、ここまで来ました」。
「自転車で古墳めぐり、いいですね。いつの頃であったでしょうか、古墳の調査があり、埋葬品はいろいろ出ました。田圃の中からも出ました」。
更に続けて、「古墳の上に上れますから、あとで上られるとよいでしょう」。
「有難うございます。実は先程、上って来まして、東からの眺めがよいと資料に書かれていましたので、こちらへ来たところです」。
「なかなか、よい眺めでしょう」。
「古墳は遠くから”こんもり”を眺めるのもよいし、墳丘に上って眺めるのも、これまた、よしです。ここは、田圃を挟んで、”こんもり”を見ることが出来るというのがいいですね」。
更に続けて、「将軍塚古墳の名の謂れをご存知であれば、教えて欲しいのですが」。
「名の謂れは分かりませんね。昔から将軍塚と呼んでいますんで、謂れを考えたことはありませんね」。
「この本島名も含め、将軍塚という名の古墳は全国に幾つかあります。今年の5月、信州の森将軍塚なる古墳を訪ねた際、5~6000人の兵士を統率する人を中国では将軍というそうで、被葬者はそれくらの権力を有していたであろうということから『将軍塚』と名付けらたという話を聞きました。案内人さんから聞いた話の受け売りですけど...」。

古墳の北側へ回る。
後方部北端。
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後方部/北東角をアップで。
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後方部/北西角をアップで。
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午前中に訪ねた八幡山古墳は、同じ前方後墳ではあるが、後方部の方形はしっかりと確認できなかった。
一方、この元島名将軍塚古墳の後方部は方形であることがしっかりと見て取れる。
満足!

国道354号線を西へ走り、JR高崎駅へと向かう。
国道とは名ばかり、狭く走り難い道であった。
西へ向かうので、夏の西日が眩しいだろうと思ったが、既に午後5時半を過ぎ、夕日の眩しさはなかった。

炎暑の日ではあったが、日中は涼しい会場での講演会、それを挟んで、比較的涼しかった午前中に3基、夕方遅くに1基の古墳めぐり。
炎暑を避けるように組んだ行程は、我ながら上手いプランであったと自画自賛(たまたま、そういうプランになったんでけどね)。
まことに結構な1日であった。

フォト:2018年7月14日

(完)





by ryujincho | 2018-07-15 23:35 | 炎暑、上野国古墳めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 07月 15日

『炎暑、上野国古墳めぐり/群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演会』 mt-4

7月14日(土曜)、晴れ。
上野国の古墳めぐりに出掛けた。
古墳めぐりの相棒、武衛さんと共に。
上野国史跡めぐりはこれで第8弾となる。

昨年4月、群馬県埋蔵文化財調査センター「発掘情報館」を訪ねた。
その際、イベントの開催案内等を配信してくれるとのことで登録した。
先日、公益法人群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演が前橋市で開催されるとの案内が到来した。
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「創立40周年記念講演会」開催のお知らせ(平成30年6月6日)

今年の7月に公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団は、おかげさまで創立40周年を迎えます。
創立40周年を記念して講演会を次の通り開催します。
ぜひ、ご来場ください。

◆日時 平成30年7月14日(土)    
    開場14:15 講演14:30~16:00
◆会場 前橋テルサ ホール 前橋市千代田町二丁目5番地1
◆演題 「群馬の古墳と日本の古墳-私が群馬の古墳から学んだもの-」
◆講師 大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長    
白石太一郎(しらいし たいちろう)先生
◆定員 250名(先着順)
◆入場 無料、資料代無償
◆問い合わせ 電話0279-52-2511
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この記念講演会だけで前橋へ行くのは勿体ないので、炎暑ではあるが、前橋市内と高崎市内の古墳探訪も織り込んた。

午前、広瀬古墳群/前橋天神山古墳、八幡山古墳、前橋二子山古墳を探訪し、前橋の市街地へ。
昼餉で入った蕎麦屋で、ちょうど、昼のニュースがテレビに映し出されていた。
前橋の気温は午前中からどんどん上昇し、午後には36度超なると報じていた。

昼餉を終え、講演会場の前橋テルサ・ホールへ。
先日、貰った講演会の案内に「定員 250名(先着順)」とあったので、1時間以上前に到着。
受付を済ませ、入場の”権利”を確保。
併せて、講演会の資料もゲット。

開場時間までホール1階のイタリアン・レストランで過ごすことにし、コーヒーとアイスクリームセットを注文。
冷房が心地よい。
空き時間を利用して、資料を写真に撮っておくことにする。
イタリアン・レストランによくある赤白チェックのテーブルクロスがちょいと気になるが、まあ、それはそれとして、撮影に勤しむ。

P.1/表紙
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公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演
「群馬の古墳と日本の古墳-私が群馬の古墳から学んだもの-」
2018年7月14日(土)
14:30~16:00/14:15開場
前橋テルサ ホール
主催/公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団
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本ブログにおいて資料の内容を書き下しておきたいとも思うのだが、省エネ編集とし、一部を除き、項目のみ記しておきたい。

P.2/講師プロフィール
P.3/はじめに
P.3/1.前方後方墳の世界
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白石太一郎(しらいし たいちろう)先生 
プロフィール
経歴
1938年 大阪市に生まれる
1961年 同志社大学文学部文化史専攻卒業
1968年 同志社大学大学院博士課程(文化史専攻)満期退学
(財)古代学協会研究員、奈良県立橿原考古学研究所員、国立歴史民俗博物館助教授・教授・副館長、総合研究大学院大学教授、奈良大学文学部教授、大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授  

専門
日本考古学、考古学の立場から日本の古代国家・古代文化の形成過程を追求

主な著書(本ブログでは記載割愛)
主な編書(本ブログでは記載割愛)
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P.4/図1 関東最大の前方後方墳(前橋市八幡山古墳)
P.4/図2 毛野の主要古墳編年図(右島和夫氏による)

P.5/2.太田天神山古墳の長持形石棺
P.5/図3 太田市太田天神山古墳
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P.6/図4 伊勢崎市お富士古墳の長持形石棺

P.6/3.群馬の後期前方後円墳
P.7/図5.群馬(上毛野)における後期前方後円墳の分布
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P.8/表1 関東地方の後期大型前方後円墳(墳丘規模単位:m)
P.8/表2 畿内地方の後期大型前方後円墳(墳丘規模単位:m)

P.8/4. 群馬における前方後円墳の終末
P.8/図6 前橋総社古墳
P.9/図7 前橋愛宕山古墳
P.9/図8 前橋宝塔山古墳
P.9/図9 関東における国造の分布

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P.10/5.山上古墳と山上碑
P.10/図10 高崎市山上古墳
P.11/図11 高崎市山上古墳の横穴式石室
P.11/図12 高崎市山上碑、「山上碑」の銘文
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P.12/図13 山上碑と佐野・大胡・新川の位置関係
P.12/挿図等出典一覧
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会場満席、熱心に聴講。
冷房効き過ぎ、途中、毎度携行している薄手のウィンドブレーカーを着用。
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講演を聴きながら、資料に目を通しながら、これまで探訪した古墳や遺跡の多くが登場したこともあり、誠に親しみの湧く、そして、理解が深まることなった講演であった。

講演を聴きながら思うこと、いろいろあり。
その一部をここに書き出しておきたい。

「1.前方後方墳の世界」について:
先刻、前方後方墳である八幡山古墳を探訪して来たばかりであった。
現場を検分したのちに講演を聞く。
誠にグッド・タイミング!と自己満足するのであった。

八幡山古墳の脇に設えられて説明板に測量図の掲載はなかった。
且つ、現場で、前方後方墳の「後方部」の方形をこの目で確認しようとしたが、円ではないことは分かるが、しからば、方形であるということもはっきりとは見分けが付かなかったのが正直なところである。
ということで、資料に「図1 関東最大の前方後方墳(前橋市八幡山古墳)」として測量図が掲載されているのは有難いことである。

「2.太田天神山古墳の長持形石棺」について:
講演では「長持形石棺は畿内の大型古墳に特有の石棺である。関東では、太田天神山古墳とお富士山古墳でしか見られておらず、これらの古墳の被葬者とヤマト王権との関係を示すものである」というものであった。

数年前、茨城県石岡市の船塚山古墳を訪れた際、説明板に「関東第二位の前方後円墳」とあり、しからば、関東第一位の前方後円墳は何処の古墳?と思い、調べたところ、群馬県太田市の太田天神山古墳であることを知った。
気にはなりつつあるもそのままとなっていたが、遂に2017年5月、太田天神山古墳を探訪した。

探訪に先立つヨシューで「後円部南側の裾には、石棺部材と見られる石材の一部が転落した状態で残存する。この石材は群馬産の緑色凝灰質砂岩で、乳頭状突起を有する特徴から、組合式長持形石棺の部材の一部と見られている」とあり、現場で、古墳めぐりの相棒、武衛さんと石棺の一部とされる石材を探してみたが、残念ながら、見つけることは出来なかった。

講演で、太田天神山古墳のほかに、お富士山古墳で長持形石棺が使われていたことを知った。
お富士山古墳は、広瀬川の左岸、伊勢崎市にある。
この日、探訪した広瀬古墳群は広瀬川右岸にあり、広瀬川を少し下ったところの左岸である。
お富士山古墳の長持形石棺を、是非、この目で見てみたいものである。。
お富士山古墳を次回の探訪先に挙げておきたい。
(参考)
・お富士山古墳の長持形石棺は、後円部墳頂に鎮座する富士神社の脇に保存されている。
・複製は、国立歴史民俗博物館と群馬県立歴史博物館で展示されている。

「3.群馬の後期前方後円墳」について:
講演で「5世紀後半になると、各地の前方後円墳の規模は急速に小型化し、ひとり畿内の大王だけが依然として墳丘長200mを超える巨大な前方後円墳の造営を続ける。首長連合としてのヤマト政権の性格が大きく変わったことを物語っている。そうした中で上毛野をはじめとする関東地方では、なぜか比較的大規模な前方後円墳が数多く造営されている。(中略)この時期のヤマト王権を支える経済的・軍事的基盤の大きな部分が東国、それも上毛野を中心とする関東地方にあったことを示すものと考えるほかなかろう」との解説があった。

表1と表2を参照すると、畿内の後期大型前方後円墳は39基、関東地方の後期前方後円墳は216基、そのうち、上野だけで97基となっており、関東8ヶ国の中で図抜けて多いことが分かる。
古墳めぐりの相棒、武衛さんと小生は、関東各地の古墳を探訪する中、群馬県に足を運ぶ回数が最も多いのも頷けるとこの表を眺めながら納得するのであった。

「4. 群馬における前方後円墳の終末」について:
講演で「6世紀代、群馬の各地で数多く営まれていた前方後円墳は、7世紀初頭になると一斉にその造営が停止される。それまで60~100m級の前方後円墳が代々営まれていた各古墳群でも小規模な方墳ないし円墳が営まれるに過ぎなかった。ただ、群馬でただ1ヶ所だけ、前橋市の総社古墳群でのみ、愛宕塚古墳→宝塔山古墳→蛇穴山古墳という大型方墳の造営が続く。」との解説があった。

2017年の冬、総社古墳群の宝塔山古墳と蛇穴山古墳を探訪したことが思い出される。
当時、綴ったブログと総社歴史資料館で貰った資料を読み返してみた。
その一部をここに転記しておこう。
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総社古墳群のうつり変わり
総社古墳群は、東南方向に広がる榛名山の裾野の末端、現・利根川の西岸に南北約4kmに分布する古墳群です。
総社古墳群は、その規模や卓越した技術、優美な出土品などから、古くから注目されており、東国を代表する古墳群の一つに数えられています。
現在は前方後円墳3基、方墳3基、円墳3基が残されています。
大型古墳の分布を見ると、その立地から南北二群に分けられ、南支群には王山古墳・王河原山古墳(消滅)、北支群には遠見山古墳・総社二子山古墳・愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳があります。
古墳の移り変わりとしては、先ず、5世紀後半に北支群に遠見山古墳が築かれ、その後、6世紀初頭に南支群の王山古墳や、横穴式石室を持っていたと考えられる王河原山古墳が続きます。
以降は、北支群で大型古墳が造られ、総社二子山古墳(6世紀後半)⇒愛宕山古墳(7世紀後半)⇒宝塔山古墳(7世紀中葉)⇒蛇穴山古墳(7世紀後半)へと移り変わります。
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ここまでは講演の内容と同じであるが、講演では更に「きわめて興味深いことは、関東地方では前方後円墳の造営停止がこの地域における国造制の成立と対応する可能性が考えられる...」と続き、より理解が深まった。

なお、前回、愛宕山古墳群を探訪したときは、先ず、高崎市内の武衛さんの親戚にお邪魔し、そのあと、山王廃寺跡(この地から「放光寺」銘書の瓦が発見されたことから、山王廃寺が山上碑に刻まれた放光寺との可能性が高まった)、更に、総社古墳群/北支群の宝塔山古墳と蛇穴古墳、隣接の総社歴史資料館、そして、南支群の王山古墳を訪ねたが、冬の日暮れは早く、日没時間切れとなり、総社古墳群の中で未探訪となった古墳もあった。
機会があれば、それらの古墳も探訪したいと思っている。

「5、山上古墳と山上碑」について:
講演で「上野三碑の一つとして名高い高崎市の山上碑は、山上古墳という終末期の裁石切組積横穴式石室を持つ径12mほどの小円墳の前に立てられたもので、この古墳と密接な関係を持つものと考えられている。この碑は、碑文によると亥巳歳(681)に放光寺の僧長利がその母の黒売刀自のために建てたもので、その被葬者の一人に黒売刀自が含まれていることは疑いなかろう。興味深いのは、碑文から赤城山麓の新川臣の大児臣に嫁いだ黒売刀自が、その出身地である佐野の地の山上古墳に埋葬されていることである。私はこの古墳をその石室の型式から7世紀の第2四半期から中葉頃のものと想定し、黒売刀自の父のために営まれた古墳と考えている。まさに黒売刀自は里の父の墓に帰葬されているのである。(以下略)」との解説があった。

2016年の暮れ、史跡めぐりの相棒、武衛さんと上野三碑をめぐり、山上古墳とその脇に建つ山上碑を探訪した。
そのときのブログを紐解いてみた。
高崎市教育委員会の説明板の書き下しを再読してみた。
説明書きの全文はここでは割愛するが、「碑に隣接する山上古墳は、精緻な切石積みの石室をもつ有力首長の墓であり、7世紀中頃の築造と考えられる。その築造時期は、山上碑(681年)よりも数十年古いため、もともと、黒売刀自の父の墓として造られ、後に、黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられる(白石太一郎説)」とあり、この日の講師である白石太一郎氏の説が引用されていることに気付いた。
更に、マイ・ブログでは、白石太一郎氏のプロフィールも書き添えていた。
講演会のときにはそのことに気付かず、マイ・ブログを読み返し、気付くとは小生も耄碌したものだと思う一方、いやいや、2年前に山上碑と山上古墳を探訪していたからこそ、そうしたことが言えるのだと思い直し、満足感に浸るのであった。

(補遺)
講演会時、武衛さんと「資料の表紙の写真は何処の古墳なんだろう?」、「資料のどこにもその名は書かれていませんね」と会話を交わすも、その答えはないままに終わった。
後日、武衛さんから「我々が探訪した古墳の記憶を辿ってみました。表紙の古墳は、昨年秋に探訪した綿貫観音山古墳ではないかと、グーグルマップの航空写真と見比べながら確認してみました。周堤跡、周濠跡、墳丘に設けられた歩道、周辺の道路、電信柱の標準的間隔から図った墳長などから、綿貫観音山古墳と判定しました」とのメールが到来した。
確かに、綿貫観音山古墳であった。
すっきりした。

綿貫観音山古墳(資料の表紙掲載写真トリミング図)。
6世紀後半、前方後円墳。
墳丘長97m、後円部径61m、高さ9.6m、前方部幅64m、高さ9.4m。
国の史跡「観音山古墳」。
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講演ならびに資料で登場した古墳や史跡は、お富士塚古墳(伊勢崎市)と愛宕山古墳(前橋市)を除き、すべて探訪済みで、より理解が深まった。
有意義な講演会であった。

講演会を終え、前橋市から高崎市の本島名将軍塚古墳へと向かう。
何故、今回の古墳探訪に本島名将軍塚古墳を含めたかについては続編で述べることとしたい。

フォト:2018年7月14日

(つづく)


by ryujincho | 2018-07-15 23:34 | 炎暑、上野国古墳めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 07月 15日

『炎暑、上野国古墳めぐり/二子山古墳』 mt-3

7月14日、上野国史跡めぐり第8弾。
前橋・高崎古墳探訪。
先ず、前橋市/広瀬古墳群を探訪。
前橋天神山古墳(広瀬町)、八幡山古墳(朝倉町)に続いて、二子山古墳(文京町)へ。

二子山古墳。
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標柱「史跡 二子山古墳」。
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余談ながら、何処の史跡を訪ねても標柱に刻まれた文字が気になる癖がある。
この標柱の右側面には「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ昭和二年六月十四日内務省大臣指定」と刻まれている。
左側面には「昭和九年九月建設」と刻まれている。
指定されてから7年後に建てられたものであり、苔が蒸すこともなく、真新しく見えるが、80余年前に建てられたものである。
「史蹟名勝天然記念物保存法」は1919年(大正8年)に施行され、1950年(昭和25年)、現行の「文化財保護法」により継承された法律である。

標柱の足元に葺石らしき丸い石が数個、散在している。
葺石については、後程、じっくりと。

説明板に目を通す。
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国指定 前橋二子山古墳
文化庁・群馬県教育委員会・前橋市教育委員会

前橋二子山古墳は昭和2年国指定指摘に指定され、地名をとった天川二子山古墳で親しまれています。
古墳の形は前方後円墳といい、墳丘は二段に築かれています。
墳丘の表面は川原石が厚く敷き詰められていますが、墳丘を保護するため、薄く盛土をしています。
埋葬施設は未調査ですが、横穴式石室と推定されています。
また、周囲をめぐる堀の一部が県立文書館の敷地内で確認されました。

墳丘の規模
全長 104m
前方部幅 76m 後円部径 72m
前方部高 9.5m 後円部高 11m
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「測量図」。
※説明板では方位は北が左になっているが、分かり易くするため、北が上になるよう90度、右に回転させている。
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「前橋の地形と古墳」。
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オレンジ色で示されて地域が、ここ、前橋二子山古墳や、先ほど、探訪した前橋天神山古墳や八幡山古墳などが属する広瀬古墳群である。
後述の説明書きの中の「左上図のように広瀬川低地帯を見下ろす前橋台地のふちに細長く立地し」の「左上図」がこの図である。
「天川二子山古墳はその西北端にあります」は、この図のオレンジ色の西北端の辺りである。
八幡山古墳は西北端から1km南東に、前橋天神山古墳は1.2km南東に位置している。


広瀬古墳群。
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前橋(天川)二子山古墳と広瀬古墳群
天川二子山古墳がある地域は、古代をしのぶ古墳や集落の多い所です。
この分布図は昭和10年の調査や航空写真をもとに作成したもので、昭和10年の調査では約150基ほど数えられますが、それ以前に失われた古墳を含めると更に多くの古墳がありました。
このように、広瀬古墳群は関東においてもかなりの規模を持ったものでした。
左上図(※前掲「前橋の古墳と地形」図)のように、広瀬川低地帯を見下ろす前橋台地のふちに細長く立地し、天川二子山古墳はその西北端にあります。

古墳が造られるようになったのは、近畿地方では4世紀前半頃、関東地方では4世紀後半頃からで、8世紀初め頃まで造られました。
広瀬古墳群は、天川二子山古墳のような前方後円墳や八幡山古墳のような前方後方墳の大きな古墳と、多くの小規模な円墳などからなっています。

古墳を造るには、高度な土木技術や大勢の人々の老労力や強い統率力などが必要とされました。
前橋天神山古墳や八幡山古墳のあるこの地域は、4世紀後半頃の上毛野の国づくりの中心でした。
そして、天川二子山古墳のような古墳は、前橋の地域に勢力をもっていた朝倉君の墓だと考えれています。
分布図を見ても判るように、いくつかの大きな古墳を持つ広瀬古墳群のあったこの地域は、東国の古墳文化の中心地のひとつでした。

古墳が造られた時期は、次の通りです。
・前橋天神山古墳(県史跡) 4世紀後半頃
 関東で最初に造られた前方後円墳のひとつ
・八幡山古墳(国史跡) 4世紀後半前後
 全国でも最大級の前方後方墳のひとつ
・亀塚山古墳(市史跡) 5世紀後半~6世紀初期
・天川二子山古墳 6世紀前半~7世紀初期
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墳丘を見上げる。
虫取り親子さんの姿が目に入る。
夏らしい、微笑ましい風景である。
墳丘に生える木々は虫たちのサンクチュアリであり、親子さんの虫取りフィールドでもある。
数年前、小生も<虫撮り>に熱中し、夏、日の出前から近所のかわせみ池近くの林に出掛け、いろんな虫を撮影。
そこで、虫取り親子さんとよく出遭い、「昆虫少年交遊録」を3シーズンに亘ってブログにアップしたこともあった。
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我らも墳丘に上る。
我らは虫取りではなく、古墳ケンキューのためのフィールドワークで。

墳頂へ向かう階段が前方部南面の中程に設けられている(冒頭掲載の「標柱」の脇)。
説明書きにある通り、この古墳は二段築成であることがこの階段を上りながら、はっきりと分かる。
階段はテラスで一旦、途切れ、更に階段が設けられているからである。

テラスに立ち、墳丘を眺める。
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テラスの後円部方向にジョギングさんの姿が目に入る。
墳丘は虫取りフィールドのほか、ジョギング・コースにもなっているのだ。
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同じく、テラスの後円部方向に、先ほどの虫取り親子さんが現れた。
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階段を更に上り、前方部中程の墳頂に立つ。
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葺石がしっかりと残っている。
葺石を見ると、その昔、葺石が前面に施された光景が目に浮かび、古墳にコーフンするのである。
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アップで。
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超アップで。
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前方部南面(前方部中程から後円部方向の南面)。
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同上(前方部中程から前方部先端方向の南面)。
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前方部先端。
右手の人物は、古墳探訪の相棒、武衛さん。
しっかりと前方部墳丘を検分中。
手前には葺石がびっしり!
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葺石をアップで。
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前方部先端から西側を見下ろす。
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前方部墳頂に設けられた三角点付近から後円部方向を眺める。
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前方部中程、北側下り階段。
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前方部中程、南側下り階段(先程、上って来た階段)。
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南側階段を下る。
ここで「南側階段を下る」と綴り、ふと、気付いたことがある。
それは、後円部墳頂の写真がないことだ。
炎暑、暑さボケ、そして、正午近くで昼餉時でもあり、後円部の墳頂に足を運ぶ忘れていたのであった(トホホ)。

南側から墳丘を眺める。
墳丘全体を1枚には撮り切れないので、後円部、中程、前方部の順に、三分割で。
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古墳の近く(というよりは敷地内)には、よく、こうしたミニ公園があり、子供さん用の遊具が備えられていることが多い。
因みに、先程の八幡山古墳の東側は野球場と公園となっていた。
古墳とその周辺の保全とともに空き地の有効活用である。

次は、午後からの「群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演会」である。
会場は前橋の市街地にある前橋テレサ・ホール。
その前に昼餉を摂ることにして、市街地に向け、走る。

フォト:2018年7月14日

(つづく)



by ryujincho | 2018-07-15 23:33 | 炎暑、上野国古墳めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 07月 15日

『炎暑、上野国古墳めぐり/八幡山古墳』 mt-2

7月14日、上野国史跡めぐり第8弾。
前橋・高崎古墳探訪。
先ず、前橋市/広瀬古墳群の前橋天神山古墳(広瀬町)を探訪。
続いて、前橋天神山古墳から八幡山古墳(朝倉町)へ。
これら二つの古墳は、距離にして200メートルほどの位置に築造されている。
前橋天神山古墳は4世紀後半、八幡山古墳は4世紀中頃の築造とされている。

八幡山古墳。
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史跡 八幡山古墳
かつては、現在、住宅地となっている広瀬川右岸の台地上に百数十基にもおよぶ大小の古墳があり、一大古墳群を形成していた。
本古墳は、この古墳群を代表するものの一つで、古墳群中唯一の前方後方墳である。
墳丘の規模は現状で全長130m、前方部幅59m、同高さ8m、後方部幅7.2m、同高さ12mで、前方後円墳としての形もよくとどめている。
また、墳丘周囲には幅25~30mの堀がめぐっていたことが確認されている。
埋葬主体部については、未調査のため、明らかではないが、墳丘頂上部から埋葬した竪穴系のものであったと推定される。
なお、本古墳の東南には、県内最古の古墳と考えられる天神山古墳がある。
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ウィキペディアその他も参照してみた。
前掲の説明板での記載事項以外のことを箇条書きする。
・築造時期は4世紀中頃。
・広瀬川右岸の河岸線にほぼ平行して、前方部を東南に向けて位置する。
・前方部約200mの地には前橋天神山古墳が位置しており、両墳が継起的関係を持って毛野の地に出現した初期古墳であることが推定できる。
・墳丘盛土下に浅間山の噴火に伴うC軽石層がみられることから、古墳の築造は4世紀の半ばから後半と推定される。
・前方後方墳としては東日本最大、全国でも有数の規模を有する。
・葺石は河原石で墳丘斜面全体に敷設されていたと推定されるが、特に墳丘裾部の根石は直径30cmを超えるような大型石材を石垣状に配列している。
・周堀は浅い空堀である。
・段築は確認されていない。
・ 主体部は不明であるが、後方部に礫床が存在するという伝えもあり、竪穴系主体部が存在したことは確かである。
・ 昭和24年(1949年)に国の史跡に指定された。

標柱「史跡 八幡山古墳」、説明板と共に墳丘をカメラに収める。
説明版に「前方部を東南に向けて位置する」とある。
よって、これは、後円部、いや、前方後方墳であるから後方部の北東角となる。
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墳丘の周囲を時計回りで歩く。

墳丘全体像。
左手(南東)/前方部、左手(北西)/後方部。
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前方部/南東角。
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前方部/東南側から。
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前方部/南西角。
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前方部/南西側から。
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くびれ部/南西側から。
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後方部/南西側から。
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再び、標識と説明板のある北西角から眺める。
最初にこの位置で眺めたときは左手前の後方部がハイライトされて見えていた。
だが、一周してみると、左手前の後方部のみならず、右奥に見える前方部もしっかりと認識。
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東南側のくびれ部の踏み分け道から墳丘に上る。
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くびれ部あたりから前方部墳頂を眺める。
墳頂の踏み分け道に葺石と思しき石が見られる。
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葺石と思しき石をアップで。
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葺石と思しき石を集めて保存中?
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前方部/東南端(縦長写真)。
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同上(横長写真)。
縦長写真と横長写真では前方部墳丘の趣きが少し異なる。
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前方部からくびれ部、そして、後方部を眺める。
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後方部の墳頂に立ち、くびれ部を眺める。
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くびれ部/左側(北東側)。
先ほど、上って来た側。
形が崩れている。
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くびれ部/右側(南西側)。
くびれ部から前方部の縁や裾、そして、濠跡がしっかりと見て取れる。
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墳頂から、北西に位置する前橋の市街地を眺める。
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前橋市の、いや、群馬県のランドタワー、群馬県庁舎をアップで。
光背の山はその形から榛名山。
写真には写っていないが、その右手が利根川を挟んで浅間山となる。
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余談。
群馬県庁舎は、33階建て、高さ153m、都道府県庁舎では東京都庁舎に次ぐ第2位の高さ。
32階展望台からの眺望は絶景。
殊に、北側の、左手から榛名山、利根川の流れ、そして、浅間山と市街地に伸びてくる稜線の景色は絶景である。

話を元に戻そう。
前掲の説明板に「本古墳の東南には、県内最古の古墳と考えられる天神山古墳がある」とあり、また、ウィキペディアその他資料でも「前方部約200mの地には前橋天神山古墳が位置しており、両墳が継起的関係を持って毛野の地に出現した初期古墳であることが推定できる」とあり、この八幡山古墳と先ほど訪ねた前橋天神山古墳には関連性があることを示唆している。
後刻、訪ねた二子山古墳の説明板に広瀬古墳群に属する古墳の分布図があり、両墳の位置関係や形が分かり易く示されていたので、その部分の切り抜き写真をここにアップロードしておこう。

左、前方後方墳/八幡山古墳。
右、前方後円墳/前橋天神山古墳(現在は後円部の一部が残るのみ)。
左右に伸びる黒い線は広瀬川。
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前方後方墳は、前方後円墳に比べれば、その基数は圧倒的に少ないが、200乃至500基あるといわれている。
今回、訪ねた、或いは、訪ねる予定の前方後方墳のほか、今後、訪ねてみたい前方後方墳をここに列挙しておきたい。
・大安場古墳(福島県郡山市田村町)
 全長83メートル、東北地方最大、 国の史跡
・上侍塚古墳(栃木県大田原市湯津上)全長114.0メートル、国の史跡
・下侍塚古墳(同上)全長84.0メートル、国の史跡
・八幡山古墳(群馬県前橋市朝倉町)・・・※今回、探訪が叶った。
 全長130メートル、国の史跡
・元島名将軍塚古墳(群馬県高崎市元島名町)・・・※今回、探訪が叶った(続編で登場)。
 全長75メートル、高崎市指定史跡
・西山古墳(奈良県天理市御経野町・勾田町・杣之内町)
 全長183メートル、日本最大の前方後方墳

=備忘録=
上侍塚古墳と下侍塚古墳は、徳川光圀の命により、那須国造碑(国宝)の碑主を調べるため、碑の近くにあるこれら2基の古墳の発掘調査が行われたことから、全国初の学術的な発掘調査が行われた古墳として学史上名高い。
また、下侍塚古墳は「日本一美しい古墳」といわれている。
因みに、「日本一美しい古墳」といわれる理由を調べてみたところ、徳川光圀の命により、墳丘の崩壊を防ぐために松の木が植えられたことによるものとのことであった。

次は二子山古墳へ。

フォト:2018年7月14日

(つづく)


by ryujincho | 2018-07-15 23:32 | 炎暑、上野国古墳めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 07月 15日

『炎暑、上野国古墳めぐり/前橋天神山古墳』 mt-1

7月14日(土曜)、晴れ。
上野国の古墳めぐりに出掛けた。
古墳めぐりの相棒、武衛さんと共に。
上野国史跡めぐりはこれで第8弾となる。

昨年4月、群馬県埋蔵文化財調査センター「発掘情報館」を訪ねた。
その際、イベントの開催案内等を配信してくれるとのことで登録した。
先日、公益法人群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演が前橋市で開催されるとの案内が到来した。

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「創立40周年記念講演会」開催のお知らせ(平成30年6月6日)

今年の7月に公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団は、おかげさまで創立40周年を迎えます。
創立40周年を記念して講演会を次の通り開催します。
ぜひ、ご来場ください。

◆日時 平成30年7月14日(土)    
    開場14:15 講演14:30~16:00
◆会場 前橋テルサ ホール 前橋市千代田町二丁目5番地1
◆演題 「群馬の古墳と日本の古墳-私が群馬の古墳から学んだもの-」
◆講師 大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長    
白石太一郎(しらいし たいちろう)先生
◆定員 250名(先着順)
◆入場 無料、資料代無償
◆問い合わせ 電話0279-52-2511
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この記念講演を聴講すると共に、前橋市内と高崎市内の古墳をめぐることにした。

JR両毛線/前橋大島駅まで輪行。

前橋大島駅前。
今日の jitensha。
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駅前広場の、三匹のカエル。
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「無事かえる 皆でむかえる 梨の里」。
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天気予報では、最高気温は36度になるという。
今は朝10時、気温は30度を超えていると思われるが、前橋特有の、あついーっ!というほどではまだないが、さて、どうなるか。
三匹のカエルが、そして、我らが、炎暑でひっくりカエルことのなきよう祈るばかりである。

広瀬古墳群に属する古墳のうち、3基を南から順にめぐる。
・前橋天神山古墳 4世紀 前方後円墳 全長125m
・八幡山古墳 4世紀 前方後方墳 全長130m(注1)
・前橋二子山古墳 6世紀 前方後円墳 全長104m(注2)
(注1)前方後方墳としては東日本最大
(注2)天川二子山古墳とも称される

因みに、広瀬古墳群とは、前橋市の南東部の利根川と広瀬川に挟まれた地域に造られた約200基の古墳の総称である。
広瀬川は、群馬県渋川市で利根川から分かれ、前橋市街を南東に流れ、概ね、JR両毛線JRに沿って、伊勢崎市に至り、再び、利根川と合流する利根川水系の一級河川である。

前橋大島駅から南へ走り、広瀬川を渡り、目的地の広瀬町に着く。

前橋天神山古墳。
「およよよーっ!」、「これが前方後円墳!?」。
時折、こういう姿になっちまった古墳を見ることがあるが、のちほど、説明板に目を通し、区画整理事業により前方部の一部のみを残し、削平されてしまったという状況を知った。
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一部分だけ残された後円部の墳頂に立つ。
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ネット検索で、2004年に撮影された写真を見た。
墳頂に覆い屋か四阿のようなものが写っていた。
今回の写真を見ると、草の生えていない部分がある。
この辺りに覆い屋があったのかもしれない。
更に、この辺りの地下に石室があったのかもしれないと想像するのであった。
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説明板に目を通す。
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群馬県指定史跡 前橋天神山古墳
指定年月日 昭和45年12月22日
所在地 前橋市広瀬町1丁目27-7

4世紀後半の古墳時代前期に、東日本で最も早く造られた前方後円墳の一つです。
主軸を東西方向にとり、全長は129m、後円部の直径は75mありました。
後円部は3段に造られ、葺石により覆われていました。
墳頂部には、赤く塗られ、底に孔が開けられた壺形土器が四角く配列されていました。
その中央部に、全長7.8m、幅1.2mの頂戴な粘土槨(遺体を納めた木の棺を被覆したもの)が検出され、その中から、三角縁神獣鏡を含む鏡5面のほか、銅の鏃や鉄の剣、鉄の斧や鑿などが出土しました。
また、赤い顔料の入った滑石で造られた小型の壺も出土しています。

たくさんの出土品のうち、粘土槨の副葬品は、国の重要文化財として、東京国立博物館に所蔵保管されています。
しかし、残念なことに、古墳は区画整理事業により、前方部は削平され、後円部だけが四角の丘として残されることになりました。

古墳時代は巨大な前方後円墳の出現で幕を開けます。
天神山古墳の出土品から、鏡は宗教、鏃や剣は武力、そして、斧や鑿は生産の象徴としての首長の姿が浮かび上がってきます。

<発掘調査の経過>
第1次調査 昭和43年7月~8月 墳丘現状実測 後円部葺石調査
第2次調査 昭和43年11月 周溝調査
第3次調査 昭和44年3月~4月 後円部埋葬主体部(粘土槨)調査
第4次調査 昭和44年7月~8月 前方部周溝調査
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粘土槨。
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三角縁五神四獣鏡。
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実測測量図。
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昭和43年頃の前橋天神山古墳(北より)。
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説明板に「残念なことに、古墳は区画整理事業により、前方部は削平され、後円部だけが四角の丘として残されることになりました」とある。
四角い丘になってしまった古墳の四方は、南側が道路、東西は住宅、北側は保育園となっている。
四角い丘になってしまった後円部と昭和43年頃の写真を見比べながら、往時の様子を偲ぶのであった。

前橋天神山古墳から200mばかり離れた北側に位置している八幡山古墳へと向かう。

フォト:2018年7月14日

(つづく)


by ryujincho | 2018-07-15 23:31 | 炎暑、上野国古墳めぐり 2018 | Comments(0)