龍人鳥の徒然フォト日記

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カテゴリ:信州史跡めぐり 2018( 23 )


2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/大屋駅から上田駅へ』 sp-23

5月13日(土曜)、曇りのち雨。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
三日目。

上田方面から自走し、北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳を訪ねた。
天気は、曇りのち、昼前には雨が降り出すとの予報。
予報より早く、海野宿を出発する頃に雨が降り始めたが、大降りとはならず、中曽根親王塚古墳を見学する頃には雨は止んでいた。
中曽根親王塚古墳を出発し、しなの鉄道大屋駅に向かう途中で、また、降り始めたが、少し濡れる程度の雨で、無事、大屋駅に到着!

従来なら、ここで”今日の jitensha@大屋駅”を撮るところであるが、降雨になることに備え、自走で上田方面から大屋駅前に到着したときに撮影済み。
駅の時刻表を見る。
下り電車は9時46分発である。
時間は十分にある。
ゆるりと輪行準備をする。

”今日の jitensha@大屋駅”。
降雨対策で事前に撮影した写真(8時15分撮影)に、再び、登場願おう。
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9:46発長野行きに乗車。
大屋駅を出ると、信濃国分寺駅、そして、上田駅となる。
信濃国分寺駅を過ぎると、車窓から、前日、訪ねた信濃国分寺跡・国分尼寺跡が見えてくる。
事前にカメラを構え、撮影の心積もりをしていた割りには、いい写真は撮れなかったが、<記念写真>としてここに掲載しておこう。

信濃国分寺跡の真ん中をしなの鉄道が横切っていることは既に前話で縷々述べた通りである。
下り電車の車窓、左側に見える信濃国分寺跡/南側ゾーン。
中門と講堂をつなぐ回廊の西側部分。
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続いて、国分尼寺跡/南側ゾーン。
手前は東側回廊の外側の空き地、その向こうにある生垣の奥は金堂跡と講堂跡。
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下り電車の車窓、右側の国分寺跡/北側ゾーンを眺める武衛さん。
窓の外に見える白い建物は上田市立信濃国分寺資料館。
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窓枠を額縁として「カバンの藤」。
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9:52、上田駅に到着、下車。
あっという間の輪行であった。

南国守さんは背嚢を背負って、武衛さんと小生は宿に背嚢を預けてのポタリングであったので、駅で南国守さんに jitensha の子守をして貰い、我らは徒歩で宿へ荷物を取りに。
宿で荷物を受け取ると共に、宿の店で飯島商店の「みずず飴」をゲット。
もちろん、駅でjitensha の子守をしてくれている南国守さんへの子守賃の「みずず飴」も含めて。

上田駅発北陸新幹線上り時刻表。
毎時2本か3本あるのに、10時台だけ10:11発の1本のみ。
直近は11:11発はくたか558号。
それまで時間は十分にあるので、ゆるりと売店で車内反省会用飲み物とつまみを調達。

上田/東京間の所要時間は1時間半程度。
車内反省会をしている間に、あっという間に到着。
往路、朝、東京方面を発ち、昼餉は千曲市/屋代駅前で昼餉を摂ったことでもあり、長野県は近いと言ったが、帰路も、新幹線を利用すれば、長野県は極々近いということを改めて実感した。
因みに、古墳めぐりで、しばしば、高崎や前橋へ行くことがあるが、在来線で2時間弱を要し、新幹線を利用することも考えなくはないが、乗り換え時間、待ち時間なども含めると、在来線でよいという結論にいつもなるのであった。
乗鞍岳や高峰高原へ行くときは新宿発の高速バスを使ったこともある。
長野県は、行き先によって、新幹線、或いは、高速バスを使い分けるのがよいだろう。

こうして、二泊三日の「信州史跡めぐり&宴の旅」は、大満足のうちに、無事、終えたのであった。
武衛さん、南国守さん、そして、信州の盟友、大給守さんに感謝!

フォト:2018年5月13日

(完)

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by ryujincho | 2018-05-14 23:53 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/中曽根親王塚古墳』 sp-22

5月13日(土曜)、曇りのち雨。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
三日目。

この日の探訪先は、北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳。
天気予報は、曇りのち雨。
雨は昼前には降り始める模様。

ポタリングはしたい、雨には極力濡れたくはない、雨が降り出すのは昼前頃、これらを勘案し、往路/上田駅前→探訪先自走、帰路/大屋駅→上田駅輪行とする。

北国街道海野宿を10年ぶりに訪ね、以前と変わらぬ街道筋の風景を楽しんだ。
海野宿を出発しようとしたとき、雨がぱら、ぱらっと降って来た。
雨に濡れるのはいやだ。
次の探訪先、中曽根親王塚古墳はギブアップし、このまま、大屋駅へ向かおうかと思った。
しかし、折角、ここまで来たことでもあるし、今回の信州史跡めぐりの旅は、千曲市の森将軍塚古墳に始まったことでもあり、東御市の中曽根親王塚古墳で〆ると、古墳に始まり、古墳に終わり、落ち着きがよいと思い、中曽根親王塚古墳へ向かうこととした。

中曽根親王塚古墳は、事前の調べでは、国道18号線沿いのホームセンターの敷地内にあるということであった。
海野宿から国道18号線に出るべく北へ向かって走る。
しなの鉄道の踏み切りを渡ると河岸段丘を一段上がるという感じで坂道を上る。
坂道を上って行くと国道18号線との交差点になると思いきや、国道の下をくぐる道となっていた。
国道をくぐると、ぐるっと回って国道へ入る、遠回りの坂道のようであった。
国道をくぐる手前に、国道へ上がる歩行者用の階段が設けられている。
これは好都合と、jitensha を担いでその階段を上り、国道へ出た。
国道18号線を西へ走る。
雨は降っているが、びしょ濡れになるような降り方ではない。
有難や。

しばらく走るも、目印のホームセンターはなかなか見えて来ない。
しばらくすると、後ろから、チーン、チーンと合図のベルと共に「左に古墳が見えまーす」と武衛さんの声。
jitensha を止め、左を見る。
「ええ形の古墳ですね。ホームセンターの看板ばかりを意識して、前方ばっかり見ていたので、左に古墳があることに気づきませんでした。古希ともなれば、視野が狭まっているのかもしれません」と言い訳がましいことを語りながら、古墳を眺める。
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事前調べでの目印はホームセンターであったが、正しくはガーデンショップであった。
「やすらぎの郷 ガーデンプラザ WATABE」。
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少し先の入り口からガーデンショップの敷地内に入る。
jitensha を止め、店先を過ぎ、奥の古墳へと向かう。
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軒先の向こうに、方墳とはっきり分かる墳丘が見える。
いい感じである。
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墳丘の裾にも販売用の植木が植えられている。
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女将さんと思しき女性とお客さんが植木の品定めをしていた。
「古墳を見学させてください」と言おうとしたところ、それより先に、女将さんと思しき女性が「どうぞ、古墳に上ってみてっください。眺めがいいですよ」と言ってくれた。
上ってはいけない古墳もあるので、有難い言葉であった。

「中曽根親王塚古墳 長野県史跡 昭和37年7月12日指定 長野県教育委員会 東御市教育委員会」。
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北角の裾から稜線を上り、墳頂へ。
このブログを綴るに際し、最初、「北西角の裾の稜線を上り」と書いたが、後述の説明板の内容ならびに地図上で古墳の向きを確認したところ、四角錐の各々の角は東西南北に位置しており、各辺は南西・北西・北東・南東に位置していることが分かった。

先発隊、南国守さんと武衛兵さん、登頂の雄姿。
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南国守さん、武衛さんに続き、小生も墳頂へ。
拳ふたつほどの大きさの川原石と思しき石が幾つか散見される。
これが葺石であれば、素晴らしい!と思った(果たして、墳頂に設けられて説明板に葺石と書かれていた。詳細は後述)。
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墳頂に立つ。
西の稜線角と彼方の景色。
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千曲川の流れ、そして、先ほど、上田方面から自走してきたとき、千曲川右岸から左岸に渡った大石橋が見える。
右岸を走っているとき、二つ目の上り坂では、それを回避するため、未舗装の細い農道を走ったが、その際に通過した浄水センターの建屋も見えている。
そして、手前の木立の影に、大石橋のひとつ上流に架かる大屋橋も垣間見えている。

その眺望をズーム・アップ!
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北西へ目を遣る。
左端に大石橋、千曲川が山裾に沿ってずっと流れ下っていく光景が目に浮かぶ。
前々日、前日と、千曲川右岸をずっと走ったので、目に見えぬ彼方の千曲川の流れもイメージ出来る。
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北西から北北西へ目を遣る。
「やすらぎの郷 ガーデンプラザ WATABE」の店舗全景と国道18号線。
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北北西から北へ目を遣る。
先ほど、国道18号線を右(東)から左(西)へ走って来て、道路際のハンドレールのところから古墳を眺めたのであった。
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北から東へ目を遣る。
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彼方の山は浅間山であろう。
ズーム・アップ!
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東へ目を遣る。
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東から南へ目を遣る。
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南から西へ目を遣る。
手前の少し盛り上がって見えるのが西の稜線の角である。

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以上を以て、墳頂から周囲360度を見渡したこととなる。
南から西にかけて千曲川を臨み、北から東にかけて浅間山とそれに連なる山々を臨む位置に築造された古墳であるということがよく分かった。

墳頂に設けられた説明板。
(表)
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(裏)
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中曽根親王塚古墳
この古墳は大塚(王塚)或いは丸山ともいう。
原形の一部が変形しているが、墳丘の基底が方形をなし、四隅に稜線が認められるもので、方墳に属する。
墳丘は、高さ10メートル余り、基底の一辺40メートル、上頂の一辺8メートルの截頭角錐状をなしている。
墳丘の一部に河原石をもってした葺石の跡がみられる。
埴輪の有無は明らかではないが、墳丘をめぐる周濠の存在が確認されている。
内部主体の構造は未だ確認されていないが、竪穴式石室の可能性が強い。
墳丘の各辺が東西又は南北の線に一致しないところから、方墳としては早い時期の構造と考えられるが、古墳時代の後半後期に位置すべきものと考えられる。
類例の少ない方墳中、規模の大きい点が注目される。
(裏面)
昭和49年1月
長野県教育委員会
東御市教育委員会 
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東御市は、旧・東部町と旧・北御牧村が合併して発足した市であることは先に述べた通りである。
説明板に刻まれた「東御市教育委員会」の「東御市」の文字の下に、以前、刻まれたいた「東部町」の文字の痕跡がくっきりと残っているところはがご愛嬌である。

説明書きの中で、次の3点につき、特記しておきたい。
1)「高さ10メートル余り、基底の一辺40メートル、上頂の一辺8メートルの截頭角錐状をなしている」とある。
墳頂に立ち、截頭角錐状(せつとうかくすいじょう)であることがしっかりと見て取れる。
誠に保存状態のよい方墳であるとの思いを強くする。
2)「墳丘の一部に河原石をもってした葺石の跡がみられる」とある。
北の稜線を上ったときに見た石は、やはり、葺石であったのだ。
前々日、探訪した、千曲川市の森将軍塚古墳の葺石は山で採石した石であった。
千曲川市あたりより上流の千曲川では川原石が採取できるが、千曲川市あたりの川原は砂になっており、石は採れないというのが森将軍塚古墳の案内人さんの話であった。
中曽根親王塚古墳の葺石に川原石が使われているということは、東御市あたりの千曲川の川原では葺石に適した石が採取できたということであり、森将軍塚古墳の案内人さんから的を得た説明を頂戴したということでもある。
3)「墳丘の各辺が東西又は南北の線に一致しないところから、方墳としては早い時期の構造と考えれれるが...」とある。
地図で中曽根親王塚古墳を見ると、稜線の角がほぼ東西南北の位置にあり、各辺は南西・北西・北東・南東面となっている。
この説明によれば、墳丘の各辺が東西南北の線に一致しているか、いないかが、方墳が築造された時期に関係しているように読み取れる。
即ち、各辺が東西南北に一致していれば、方墳としては遅い時期の構造ということになる。
果たして、そうなのかはこれからのベンキョーの課題としたい。
因みに、前方後円墳では、その方向に築造時期が関係したり、法則性があったりすることはなく、強いていえば、血縁関係にある古墳は同じ方向に並べて築造する場合があるということを、保渡田古墳群に隣接した「かみつけの里博物館」(群馬県高崎市)の学芸員さんに聞いたことがある。

説明書きの中には書かれていないが、築造時期は5世紀後半と考えられている。

墳頂から、上って来たのと同じ北の稜線を下る。
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途中、足を止め、葺石を改めてじっくりと眺める。
これは川原石であると自信を持って。
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古墳の下でのお客さんの応対は終わったのか、店先にいた女将さんと思しき女性に、しばし、インタビュー。
「あちらこらちの古墳をめぐっているんですが、方墳としては、なかなか立派な古墳だと思います。古墳にはいろんな名前が付けられていますが、中曽根親王塚古墳の名前の由来をご存知でしょうか?」。
「よくは知りませんが、この辺りは、以前、中曽根と呼ばれていたそうですので、それから付いた名前ではないでしょうか」。
「中曽根という地名が由来。誠に分かり易い由来です。有難い情報です」。

「中曽根」について:
1)「地名は地形から」の<原則>に従い、地形の「曽根(そね)」について調べてみた。
・河川沿いの微高地(自然堤防)
・扇状地の端で砂地のところ
・地味の悪い痩地、或いは、その荒地を開墾した地

2)「名字は地名から」の<原則>に従い、名字の「中曽根」について調べてみた。
①長野県飯山市中曽根発祥。南北朝時代に「中曽禰」の表記で記録のある地名。
②長野県東御市和曽根(旧:中曽根)発祥。戦国時代に「中そ禰」の表記で記録のある地名。長野県千曲市力石での伝承。
③群馬県高崎市上里見町での伝承。
④山梨県笛吹市付近(旧:八代郡)の中曽根から発祥。
⑤仲宗根の異形。沖縄県国頭郡本部町渡久地では1947年に仲宗根姓から改姓。

ずばり、②の通り、この地発祥の名字があった。
因みに、中曽根親王塚古墳付近の現在の住所は「東御市和」である。

「親王塚」について:
全国で「親王塚」と名づけられた古墳が散見される。
・阿保親王塚古墳(兵庫県芦屋市)/平城天皇の皇子で、在原業平の父、阿保親王(あぼしんのう)の墓所とされる。
・親王塚古墳(愛知県春日井市)/宗良親王あるいは護良親王の遺品を埋葬したとの伝承をもつ。
・小田中親王塚古墳(石川県鹿島郡中能登町)/崇神天皇の皇子、大入杵命の陵墓といわれている。

中曽根親王塚古墳の「親王塚」の由来は何処から来ているのであろうか?
森将軍塚古墳は、中国で5000人から6000人の兵を従える武将を「将軍」と称したことから、それくらいの勢力を有した豪族の墓ということで「将軍塚」と名づけられたという。
そうしたことから演繹すると、天皇の嫡出皇子に対する称号の「親王」ではなく、中央政権と深い繋がりをもった地方豪族が許しを得て、地方豪族の嫡出男子の称号としたのかもしれない。

方墳について:
方墳の有名どころをここで整理しておきたい。
・大成古墳(島根県安来市)/3世紀後半、1辺60m、最古の方墳
・造山古墳(島根県安来市)/3世紀後半、1辺60m、最古の方墳
・桝山古墳(奈良県橿原市鳥屋町)/1辺85m、5世紀前半、(宮内庁治定)第10代崇神天皇皇子の倭彦命の墓「身狭桃花鳥坂墓」、方墳としては全国第1位の規模
・春日向山古墳(大阪府南河内郡太子町)/7世紀前半、辺長63m×60m、(宮内庁治定)第31代用明天皇陵「河内磯長原陵」
・山田高塚古墳(大阪府南河内郡太子町)/7世紀前半、辺長63m×56m、(宮内庁治定)第33代推古天皇陵「磯長山田陵」
・赤坂天王山古墳(奈良県桜井市倉橋)/7世紀前半、東辺46.5m×西辺47m×南辺43.2mx北辺50.5m、第32代崇峻天皇の墓との説がある
・石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)/7世紀前半、墳丘は喪失、横穴式石室が露出、蘇我馬子の墓との説がある、上円下方墳との説もある
・龍角寺岩屋古墳(千葉県印旛郡栄町)/7世紀前半、1辺80m、方墳としては桝山古墳に次ぎ、全国第2位の規模

関東地方の方墳+中曽根親王塚古墳についてもここで整理しておきたい。
・龍角寺岩屋古墳(千葉県印旛郡栄町)/上述の通り、7世紀前半、1辺80m、方墳としては全国第2位の規模・・・探訪済み
・駄ノ塚古墳(千葉県山武市附)/7世紀前半、1辺60m
・宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町)/7世紀末、東辺54.5mx西辺51.2mx南辺49mx北辺42m・・・探訪済み
・蛇穴山古墳(群馬県前橋市総社町)/7世紀末、1辺39m・・・探訪済み
※中曽根親王塚古墳(長野県東御市和)/5世紀後半、1辺40m

ガーデンショップの女将さんに国道18号線から大屋駅への目印を尋ねた。
「左にTSUTAYAが見えたら、次の信号を左へ」の答えを貰い、礼を述べ、中曽根親王塚古墳を出発、しなの鉄道大屋駅へ。

フォト:2018年5月13日

(つづく)
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by ryujincho | 2018-05-14 23:52 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/北国街道海野宿』 sp-21

5月13日(土曜)、曇りのち雨。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
三日目。

この日の探訪先は、北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳。
天気予報は、曇りのち雨。
雨は昼前には降り始める模様。

ポタリングはしたい、雨には極力濡れたくはない、雨が降り出すのは昼前頃、これらを勘案し、往路/上田駅前→探訪先自走、帰路/大屋駅→上田駅輪行とする。

7時半、宿を出発。
千曲川右岸を走り、しなの鉄道大屋駅に至る。
空は雲が立ち込めつつあるが、まだ、雨の気配はない。
雨が降る前に”今日の jitensha @大屋駅”をカメラに収める。
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中曽根親王塚古墳は大屋駅の北側を通る国道18号線沿いを東へ1kmくらい走ったところにある。
北国街道海野宿は、このまま東へ1kmくらい走ったところにある。
海野宿、中曽根親王塚古墳の順にめぐり、大屋駅に戻ってくることにし、大屋駅から東へ向け、出発する。

「北国街道 海野宿」。
ここは西の入り口。
海野宿を訪れるのはこれで三度目だが、最初と二度目は東の入り口から入ったので、様子が異なる。
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海野宿を西から東へゆっくりと走る。
記憶にある家並みが現れた。
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前回、海野宿を訪れたのは10年前であったと記憶。
そのときと何ら変わらない、落ち着いた町並みである。
この町並みの特徴のひとつである用水路は、10年前と同様に、清らかな水が流れている。

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「蠶種製造業 蠶児飼育所 蠶製造所 昇國館 冨士屋」。
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「蠶」は「蚕」の旧字体であることは容易に想像はつく。

漢字のベンキョー。
--------------------------
「蠶」
「蚕」の旧字体
部首 虫(むし・むしへん)
画数 26画
音読み さん
訓読み かいこ、こ
漢字の構成 兂 兂 日 虫 虫
----------------------------

前夜、上田の居酒屋で”反省会”。
その店のフロア・スタッフは信州大学繊維学部の学生たちであった。
蚕の勉強をしている学生さんもいた。

学生さんに代わって、蚕種製造業について、ここで触れておきたい。
・蚕種(さんしゅ)製造業とは、蚕の品種改良および蚕種紙(さんしゅし)の製造を行うと共に、養蚕農家への蚕種紙の販売、蚕の飼育法の指導も行う。
・蚕種紙とは、蚕紙(さんしゅし)・蚕卵紙(さんらんし)ともいいい、蚕の卵である蚕種が産み付けられた紙を指す。
・蚕種製造業には、多くの資本投下、知識集約が必要であったため、いわゆる名望家層、豪農層から転じて専業化したものが多かった。
・戦後は蚕業の衰退とともに数を減らし、今では国内にわずかに数業者が存在するのみとなっている。

前々夜、戸倉上山田温泉での酒宴の席で、信州の盟友、大給守さんが「海野宿へ行ったら、養蚕博物館に立ち寄ってみてください」との話があった。

海野宿の街道筋を注意深く見てみたが、「養蚕博物館」そのものも、案内表示も見当たらない。
まだ、8時半過ぎであったが、海野宿歴史民俗資料館の扉が開いていた。
声を掛けたところ、婦人が現れた。
「ちょっとお聞きしますが、養蚕博物館は何処でしょうか?」。
「養蚕博物館ですか?養蚕博物館というのは聞いたことがありませんね。民俗資料館の中にも養蚕に関係した展示をしています。上田で蚕を数十匹、買って来て育てています」。
海野宿歴史民俗資料館入り口に掲示されている館内案内図を見ると、確かに、養蚕のコーナーが図示されている。
「そうですか、養蚕博物館はご存知ないですか...。先ほど、筋向いで『蚕種製造業 昇國館 冨士屋』という看板を見ました。この辺りは、蚕種の製造をやっていたんでね。時間の都合もあるので、資料館の見学は次回とさせて貰います」。

後刻、大給守さんに「海野宿で養蚕博物館は見当たらず」とメールで伝えたところ、「グーグルマップのストリートビューにて、海野宿を確認しました。『富士屋』の屋号看板を出しているお宅の、左隣の家が矢島家で、裏に養蚕博物館があります。矢島家母屋は富士屋看板のお宅の道、用水を挟んだ対面の、大木戸風の門のある家です。養蚕博物館の表示はありませんね。ゴールデンウィーク中はオープンしていたのですが、今は閉館中のようです」との返信があり、我らが眺めていた、殊のほか、立派な家がそれで、"当たり!"であったのだ。

民俗資料館のおばちゃんは、養蚕博物館を知らなかったのか、そこまで気が付かなかったのかもしれず、養蚕博物館は私的な博物館なのかもしれない。
養蚕博物館があるとは認識していなかったが、前掲の写真の通り、養蚕博物館のお宅の表をしっかりとカメラに収めており、見落としてはいなかったのであった。

地面にカメラを置いて、一枚。
ロー・アングル好きの、加藤泰監督風に。
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マンホール・コレクション。
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マンホールに「とうぶ」と刻まれている。
2004年(平成16年)、小県郡東部町と北佐久郡北御牧村が合併し、東御市が発足。
マンホールに刻まれた「とうぶ」は、旧・東部町の名残りである。
各地の市町村合併で、由緒正しい令制国以来の「郡」の名(今回の例でいえば、小県郡・(北)佐久郡)が消えていくことは残念なことと思っているが、東御市は「とうみ」という音感が心地よく、この新しい名前は好ましく思っている。

マンホール写真を撮り終わったとき、ぱら、ぱらっと雨が降って来た。
雨に濡れるのはいやだ。
次の探訪先、中曽根親王塚古墳はギブアップし、このまま、大屋駅へ向かおうかと思った。
しかし、折角、ここまで来たことでもあるし、今回の信州史跡めぐりの旅は、千曲市の森将軍塚古墳に始まったことでもあり、東御市の中曽根親王塚古墳で〆ると、古墳に始まり、古墳に終わり、落ち着きがよいと思い、中曽根親王塚古墳へ向かうこととした。

フォト:2018年5月13日

(つづく)






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by ryujincho | 2018-05-14 23:51 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/上田駅前から北国街道海野宿、中曽根親王塚古墳へ』 sp-20

5月13日(土曜)、曇りのち雨。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
三日目。

この日の探訪先は、北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳。
天気予報は、曇りのち雨。
雨は昼前には降り始める模様。

降雨を考慮して、三つのケースを考える。
ケース1:上田駅/大屋駅(探訪先の最寄り駅)往復共輪行
ケース2:往路/上田駅→大屋駅輪行、帰路/探訪先→上田駅前自走
ケース3:往路/上田駅前→探訪先自走、帰路/大屋駅→上田駅輪行

朝餉を摂りながら、評定。
ポタリングはしたい、雨には極力濡れたくはない、雨が降り出すのは昼前頃、これらを勘案し、ケース3を選択。
朝餉を追え、7時半、宿を出発。

国道18号線は幅が狭く、走り憎いのは、前日、経験済み。
千曲川右岸を走ることにする。
北陸新幹線高架の南側に沿って走り、常田新橋を渡り、千曲川右岸に出る。
右岸を遡る。
坂道が始まる。
前日、信濃国分寺跡を訪ね、上田駅前に向かう途中、遠目に、千曲川に架かる北陸新幹線の斜張橋が見えた。
北陸新幹線はこの斜張橋の右岸で直ぐにトンネルとなる。
我らはそのトンネルが掘られている山の北端の坂道を西から東へ上っているのである。
<峠>を越えた辺りで一服。
北陸新幹線斜張橋と千曲川を眺める。

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このブログを綴りながら、グーグルマップでこの辺りの航空写真を参照してみた。
北陸新幹線の斜張橋は「上田ハープ橋」と記されている。
斜張橋を楽器のハープに見立てて「ハープ橋」と名づけられているようである。
千曲川の幅は狭まり、広い砂州が見られる。
千曲川右岸は山が迫っている。
我らが走った道は山の北端と千曲川の間にへばりついたように通されている。
対岸の真北に信濃国分寺跡がある。
写真右の、横長の、こんもりとした緑の森がそれである。
アップで。
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<峠>から坂道を東へ下る。
しばらく走ると再び坂道が見えてくる。
結構、激坂である。
坂の手前に、左手に入っていく道がある。
道といっても、農道というか踏み分け道というか未舗装の細い道である。
轍は残っており、農耕用の車の通り道のようでもある。
上り坂を回避しようとこの道に入る。
しばらく走るとY字路に至る。
Y字路を左へ行くと千曲川沿いとなるが、道が先まで続いているのかどうかは不明。
Y字路の右手の先に倉庫のような建物が見える。
倉庫であれば、一般道に通じているであろう。
山男の南国守さんの勘に頼り、建物が見える右手の道を選択。
倉庫のような建物は上田市丸子浄化センターであった。
浄化センターを通り過ぎ、しばらく走ると、無事、一般道に出た。
このブログを綴りながら、グーグル・マップを参照したところ、Y字路は左右何れの道を選んでも一般道へ出ることが判明。
いずれにせよ、激坂を上ることは回避できたのであった。

「Y字路に立ち、来た道を振り返る」の図。
Y字路に立ち、左右どちらの道を行くか熟考したため、来た道を写真に撮ったが、Y字路の左右、先の道の写真は撮り忘れた。
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千曲川の支流、依田川を渡り、東郷橋東詰を左折し、北上する。
千曲川に架かる大石橋を渡る。

橋の上から千曲川を眺める。
先ず、上流を。
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下流を眺める。
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先ほど、激坂を回避し、農道へ入り、Y字路で立ち止まった際に左右どちらの道を行くかの判断材料となった浄化センターの建物が見える。
その手前には、依田川の千曲川への流れ込みも見える。
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更にアップで。
山裾の、細い未舗装の農道を走る三人組の姿が目に浮かぶ。
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依田川の流れ込みの少し下流に釣り人が見える。
ズームアップ!
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鮎の季節。
釣果を祈る!

余談ながら、グーグル・マップを見ていると、釣り人がいる対岸に「コハクチョウ飛来地」と記されている。
参考になる情報である。
走った道を、後に地図でトレースするのもポタリングの楽しみの一つである。

余談ついでに、今回のポタリングで渡った橋、眺めた橋、横目に見ただけの橋、見過ごした橋など、千曲川に架かる橋について下流から上流の順に列挙すると次の通りである。
粟佐橋 - 千曲橋(国道403号) - 平和橋 - 冠着橋 - 大正橋 - 万葉橋 - 笄(こうがい)橋 - 昭和橋 - 坂城大橋 - 大望橋 - 鼠橋 - 上田大橋(国道18号) - 古舟橋 - 上田橋 - (上田電鉄鉄道橋) - 常田新橋 - 小牧橋 - (北陸新幹線鉄道橋/上田ハープ橋) - 大石橋
この区間だけでも随分と橋の数が多い。
橋が多いことは有難いことである。

なお、大石橋のひとつ上流に架かる大屋橋(国道152号)を渡るつもりであったが、道なりに走り、ひとつ下流に架かる大石橋を渡ってしまったが、大石橋から、激坂を回避し、ショートカットした農道の辺りを間近に眺めることが出来、結果オーライであった。

大石橋を渡り、東へ少し走ると、河岸段丘らしく一段上へ上る坂道があった。
それを上ると国道152号線に出た。
国道152号線を少し東へ走ると、しなの鉄道大屋駅に至った。

空は雲が立ち込めつつあるが、まだ、雨の気配はない。
雨が降る前に”今日の jitensha @大屋駅”をカメラに収める。
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中曽根親王塚古墳は大屋駅の北側を通る国道18号線沿いを東へ1kmくらい走ったところにある。
北国街道海野宿は、このまま東へ1kmくらい走ったところにある。
海野宿、中曽根親王塚古墳の順にめぐり、大屋駅に戻ってくることにし、大屋駅から東へ向け、出発する。

フォト:2018年5月13日

(つづく)


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by ryujincho | 2018-05-14 23:50 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/国分寺』 sp-19

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡を見学。
続いて、その北にある後継寺院の国分寺へと向かう。

信濃国分寺。
宗派は天台宗。
本尊は薬師如来。
山号・院号はないが、江戸時代には「浄瑠璃山真言院国分寺」と号したとのこと。
「八日堂」の別称があるとのこと。

寺標「八日堂 信濃国分寺」と仁王門。
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参道を進む。
正面に本堂が見えて来た。
右手に三重塔が見える。
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早速、龍コレクション。
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三重塔。
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重要文化財(旧国宝)
信濃国分寺三重塔
全高20.1メートル
信濃国分寺は平安末期現地に移ったと考えられ、源頼朝公発願と伝えるこの塔内に建久8年の墨書があったとされるが、様式上、室町中期の建立と推定される。
明治40年、国宝に指定され、昭和7年から同8年にかけて全面解体修理が行われた。
外観は軒反が強く壮麗で一部唐様のほか和様式であり、内部は四天王柱上の台輪や内外陣の詰組など純唐様式で、仏像は金剛界大日如来の木像である。
上田市教育委員会
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「源頼朝公発願」とある。
源頼朝や北条一族は善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行ったことなど、頼朝と信濃国の関わりはいろいろある。

鐘楼。
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本堂(薬師堂)。
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長野県宝 信濃国分寺本堂
国分寺本堂(薬師堂)の建立は、文政12年(1829)に発願され、天宝11年(1840年)に起工し、万延元年(1860)に竣工しました。
本堂再建は発願から完成まで実に31年の歳月を費やした大事業で、11冊におよぶ「信濃国分寺勧進帳」(上田市指定文化財)や、柱、梁、扉をはじめ、屋根の瓦に至るまで刻まれている寄進者の住所氏名などに、当時の勧進の苦心が偲ばれます。
本堂は、柱間1間を8尺(約2.4m)にとる桁行6間、梁行4間の入母屋造、妻入の建物です。
外観は善光寺本堂のように母屋のまわりに1間の庇(低い屋根)をつけているので、2階建てのように見えます。
内部は前側の外陣(参詣の空間)と、奥の内陣(仏の空間)にわかれ、内陣の両脇と背後の1間通りは入側(僧侶の通路)となっています。
内陣には薬師如来を本尊として、日光菩薩、学校菩薩及び十二神将を安置しています。
建立に携わった職人は、大工棟梁が佐久耳取村(現小諸市)の田島喜平、彫工は地元上沢出身の竹内八十吉で、瓦師は三河から招かれていたことが記録されています。
本堂は近世の堂としては東信地方最大の建造物で、同拝の彫刻にみられる鋭い彫りや、虹梁の複雑な絵様などに江戸時代末期の特徴がよくあらわれています。
平成9年2月20日指定
長野県教育委員会
上田市教育委員会
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本堂は「県宝」となっている。
「県宝」という言葉は初めて知る言葉である。
前掲の三重塔は「重要文化財(旧国宝)」となっている。
重要文化財とは、1950年制定の文化財保護法にいう有形文化財で、文部大臣が重要と思うものとして指定したものであり、そのうち、特に優秀で文化財史的意義の深いものは国宝に指定される。
因みに、文化財保護法施行以前の旧法では、「国宝」と「重要文化財」の区別はなく、国指定の有形文化財はすべて「国宝」と称されていた。
日本の地方公共団体(都道府県、市町村)においては、それぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財を「県指定重要文化財」、「市指定重要文化財」等と称する場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国が指定した有形文化財のことを指す。
となると、「県宝」は、長野県指定の重要文化財という意味であろうと思い、念のため調べてみた。
長野県教育委員会のHPに掲載されている「文化財情報(国・県指定等文化財)一覧」の「県指定/県宝/建物」の項に「県宝(建物)/寺院建築/国分寺本堂」とあるので、「県指定重要文化財」の長野県独特の呼び方と理解したい。

本堂の説明の中に「瓦師は三河から招かれていたことが記録されています」とある。
信濃国分寺跡・尼寺跡は、平安時代の大修理で、近くに瓦窯をつくり対応したが、この(新)信濃国分寺本堂では、日本三大瓦である三州瓦、淡路瓦、石州瓦のうち、三州瓦が使われたのかもしれない。

本尊は、小生の大好きな薬師如来。
懇ろにお参りした。

石碑「真田徳川会見之地」。
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真田徳川会見之地とは?
特に、説明書きはない。
真田、真田と騒ぐ上田市ではあるが、説明書きがないのは不思議。
上田市教育委員会は、「真田徳川会見之地」とだけ言えば、誰でも知っていると思っているのかも知れない。
ネット検索してみた。
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上田城下から少し離れた場所にある信濃国分寺は、戦国時代にも有名になった場所です。
慶長5年(1600)の第二次上田合戦の時、上田城に籠る真田昌幸と徳川軍(東軍)についた、昌幸の長男、真田信之(信幸)とその義弟、本多忠政が会見した場所がこの信濃国分寺です。
城を明け渡す準備をするので少し待ってほしいと申し出る昌幸、幸村。
しかし、数日後、再び国分寺を訪れた昌幸は、戦の支度ができたので一戦交えるべしと東軍を挑発。
そのまま、第二次上田合戦につき進む事になったのですが、その切っ掛けの場所がこの信濃国分寺です。
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信濃国分寺跡と後継寺院の信濃国分寺の見学を終え、上田駅前の宿へ向かう。
来た道である、国道18号線、剣道41号線は車道、歩道とも狭く、走りたくない。
千曲川左岸を走り、宿へ帰ることにした。
信濃国分寺公園の北ゾーンと南ゾーン連絡通路を jitensha を担いで通り抜け、しなの鉄道の南側へ。

信濃国分寺跡の南ゾーンの周辺は住宅地。
先ずは千曲川右岸を走り、一番最初に現れた橋を渡り、左岸に出るという算段で、住宅地内の細い道を走る。
住宅地内の三叉路に至る。
三叉路に立つ標識は何れの方向も「この先、行き止まり」の表示。
山男の南国守さん、兎に角、右へ行きましょうと。
山男の勘が当たり、「行き止まり」はなく、そのまま走り、立派な橋の袂に出た。
橋の名は「小牧橋」、しなの鉄道、北陸新幹線、千曲川を跨ぐ橋。
橋を渡り、千曲川左岸に出る。

この日の午前中は、千曲川市から上田市まで千曲川左岸を遡って来たが、今度は流れに沿い、下る番。
川は人間の習性上、いや、小生の習性からして、下る方が落ち着く。
小牧橋のひとつ下流の常田新橋をやり過ごし、上田橋まで走り、右岸へ渡る。
上田橋は午前中、渡った橋である。
午前中は下流側を眺めたので、今度は上流側を眺める。
上流側の赤い鉄橋は上田駅と別所温泉駅を結ぶ上田電鉄別所線の鉄橋である。
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宿で一服。
窓からの景色を眺める。
先ほど、渡った上田橋とその手前に赤い上田鉄道の鉄橋が見える。
明日の天気は、曇りのち雨。
明日の予定は、北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳探訪。
午前中だけでも天気がもってくれればと願う。

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夕餉と本日の反省会を兼ねて、上田市内の居酒屋へ出動。
今回の旅の企画段階で、信州の盟友、大給守さんに上田市内によい居酒屋はないか問い合わせた。
以前、大給守さんが通っていた居酒屋はなくなり、跡地にマンションが建ち、その1階に”S”という居酒屋が出来ているという。

居酒屋”S”へと向かう。
途中、飯島商店に立ち寄る。
みすず飴を試食。
以前、ジャムを溶かした詰めたいジュースを飲ませて貰った記憶があるが、それはなかった。
飯島商店のジャムは美味い。
容器の瓶が重い。
今回はみすず飴で我慢。

居酒屋”S”に入る。
鄙には稀な(といっては失礼か。上田市は、長野市、松本市に次ぐ長野県下3番目の規模の都市。その昔、国府が置かれたところだし)小洒落た店である。
我々が入店したときにはカウンターに2、3人であったが、次々と客は来店、テーブル席も小洒落た小上がりも直ぐに埋まった。
客層は若い男性に若い女性が多く、GGは我らだけであった。
飲み物と料理を注文。
フロアの男性スタッフは、皆、今様にいえば、イケメン。
「あなたは信州大学の繊維学部の学生さんですか?」と武衛さんが声を掛けた。
「そうです」。
「ES法というのを知っていますか?」。
「ES法という言葉は知っていますが、詳しくは知りません。自分は蚕を生物として捉える勉強をしていますので」。
フロアの男性スタッフは3人いた。
次のスタッフにも同様の質問を。
やはり、信州大学の繊維学部の学生さんで、蚕を専門としていた。
3人目の学生さんはES法を知っていた。

信州大学のキャンパスは、松本、長野、伊那、上田に分かれており、武衛さんと学生さんの会話で、上田には繊維学部があることを知った。

ES法とは何ぞや?
後刻、武衛さんに解説して貰った。
・ES法とは、エレクトロ・スピニング(ES)法のこと。
・シリンジに入った高分子溶液とコレクタ電極間に高電圧を印可することで、シリンジから押出された溶液が電荷を帯び、細かな繊維となってコレクターに付着する微小繊維製造方法である。
・この方法により、サブミクロンからナノの直径を持つ繊維を製造することが出来る。
・1930年代に報告された技術であるが、最近になってナノテクノロジーの台頭とともに注目を浴びてきている紡糸技術である。

ふむ、なるほど。
武衛さんは、信州大学にこの方法で繊維を作る研究者がいることに注目していたので、信大アルバイト学生に話題にしたとのこと。
絹も大事、ナノ繊維も大事、信州大学繊維学部の若者たち、頑張れ!

居酒屋を出て、宿に向かう。途
中、南国守さんから「ラーメンを食べよう」との提案あり。
塩分控えめの生活を送っているので、長らく、ラーメンを食っていない。
<禁>を破って、ラーメン店に入る。
学生と思しきアルバイトさんが数人いる。
「あなた方は信州大学の学生さんですか?」。
「そうです」。
「さっきの居酒屋も信州大学の学生アルバイトでした」。
「何処の店ですか」。
「”S”という店」。
「知らない店です」。
「”S”のアルバイトさんは、皆、イケメン。ここはラーメンだけど」。
酔った勢いでつまらん駄洒落を言うてしまった。
外国人のアルバイトさんもいた。
「あなたは何処の国から来られましたか?」。
「スリランカです」。
スリランカは10年余、南国守さんが駐在していた地。
「学生さんですか」。
「語学の勉強をしています。日本の大学へ行きたいと思っています」。
「大学で、何を勉強したいですか」。
「観光学を勉強したいです」。
「頑張ってください」。

居酒屋とラーメン店で、上田市の一面が分かったような気がした。
頑張れ、若人!

明日は北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳。
明朝、朝の天気予報を参考にして、自走、輪行などを検討することにした。

フォト:2018年5月12日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-05-14 23:49 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(五)』 sp-18

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。
史跡の真ん中を「しなの鉄道」が横切り、南のゾーンと北のゾーンに分かれてしまった史跡。
北側のゾーンでの、国分僧寺跡と国分尼寺跡を見学。
線路下の連絡通路を通って、南側のゾーンの、国分僧寺跡と国分尼寺跡を見学。
再び、線路下の連絡通路を通り、北側のゾーンへ。
国分尼寺北門跡の北側に見事な花を咲かせている「カバンの藤」の藤棚へと向かう。

銘木「カバンの藤」。
前夜、戸倉上山田温泉での宴の際、信州の盟友、大給守さんが「信濃国分寺跡の藤の花は満開でありましょう」と言っていた通り、見事な花を咲かせている。
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「カバンの藤」とは。
千曲市立信濃国分寺資料館ロビーに次の通り掲示されていたパネルに目を通した。
信州の盟友、大給守さんからあらましは聞いていたので、直ぐに理解できた。
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「カバンの藤」
この藤棚は、1880年(明治13年)、当時の第十九銀行(現在の八十二銀行上田支店の前身)の役員、黒沢鷹次郎氏が、郷里、南佐久郡の農家から苗を渡し受け、その本店に移し、植えたものである。
(中略)
苗を手鞄に入れて運んだことから、「カバンの藤」の愛称をもって広く市民に親しまれてきた。
今日、八十二銀行は、この名木を本公園に寄贈された。
まことに有難く、ここにその由来をしるし、花の命の長いことを祈る。
昭和51年春 上田市長 石井 泉 謹書
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樹齢は、今年で、満138歳。
今年、明治150年であるから、如何に長寿の藤であるかが分かる。

この「カバンの藤」以上に長寿の藤がある。
その藤は、佐久市「旧中込学校」の藤である。
旧中込学校は、1875年(明治8年)に完成し、国内の学校建築のうち、現存する最古級の擬洋風建築物で、国の重要文化財に指定されている。
旧中込学校の藤は、1875年(明治8年)に中込学校が建設されたことを記念して植えられ、その苗は「カバンの藤」と同じ南佐久郡の農家のものといわれている。
旧中込学校の藤の樹齢は、今年で、満143歳。
旧中込学校の藤が兄(姉)で、信濃国分寺史跡公園の「カバンの藤」が5歳違いの弟(妹)ということになる。

この話は、苗を譲り渡した南佐久郡の農家さんと極々近しい人から聞いた話である。
因みに、この藤の兄弟(姉妹)の親となる、その農家さんの藤は今も1メートルにならなんとする花を咲かせており、その写真を見たことがある。

この「親子の藤」についてよくご存知の、信州の盟友、大給守さんから、信濃岩村田藩の殿様の藤にまつわる面白い話を聞いたことがある。

「金は内藤志摩守 すそからぼろが下がり藤」。
これは庶民が貧乏藩である岩村田藩の殿様を揶揄したものとのことである。

岩村田藩は、信濃国佐久郡・小県郡の一部(現在の佐久市)を所領とした藩で、藩主家は内藤氏である。
揶揄された殿様は、最後の藩主である第7代藩主、内藤志摩守正誠(まさのぶ)。
この人物は、江戸幕府日光祭礼奉行、奏者番、寺社奉行などを務めている。
こうした要職にあることと貧乏藩であることは繋がりにくいし、浅田次郎の小説『一路』で、参勤交代の途中、主人公が岩村田藩に金を借りに行くことととなり、そうしたことからして、岩村田藩が貧乏藩であったというのは解せないが、庶民の中ではそう言い囃されていたそうな。
因みに、小説『一路』で描かれた時代は幕末近くなので、金を借りに行ったときの岩村田藩の殿様は、この7代藩主、内藤志摩守正誠であったと思われる。
なお、7代藩主、内藤正誠は、1869年(明治2年)、版籍奉還ののち、岩村田藩知事になっている。

話が反れてしまった。
藤の花と躑躅の花、季節の花のツー・ショットを。
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次は、信濃国分寺史跡公園の北側にある「瓦窯跡」へ。
史跡公園の北側入り口へと向かう。
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「信濃国分寺 瓦窯跡 観察施設」。
「瓦窯跡」は、国道18号線を挟んで、史跡公園の向かい側にある。
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「あれっ、扉がしまっていますね。昼過ぎ、史跡公園に到着したときは開いていたんですが」と武衛さん。
時計を見たところ、午後3時を少し回ったところ。
午後4時に閉めるなら分かるが、午後3時に閉めるのはちょいと早過ぎやしませんか!(不満!)。

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来場記念(???)として「信濃国分寺 瓦窯跡 観察施設」の銘板をカメラに収める。
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説明書きに目を通す。
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瓦窯跡観察施設
この窯跡は、昭和42年2月、運輸会社建設工事の際、発見され、同年3月の緊急発掘調査により、半地下式平窯跡2基であることが確認された。
これは、尼寺金堂跡北東約200メートルに位置し、窯の中心線は2基とも東偏差24度30分で、中心線の間隔は43メートルである。
構造は瓦を使って構築した平窯で、焚口は大きい河原石を左右に立て、その上に大石をのせてある。
燃焼室はラッパ状に焼成室に向かって広がり、焼成室との境は障壁によって分けられ、下部に3個の通焔孔を設けてある。
焼成室は7本のロストルを設け、奥壁内に3本の煙道をつくってある。
この焼成室の高さは四囲の壁が破壊されているので明確ではないが、およそ1.3メートル程度と推定される。
また、構築材となっている瓦は、国分寺創建時の瓦と本瓦の工人が作成したものの2種であり、操業は平安時代初期における国分僧寺、尼寺の大修理に際して行われたと推定され、1回についての瓦焼成数は瓦を3段詰にした場合、約500枚程度と考えられる。
なお、この観察施設は、上田市が国、県の補助を得て、800万円の経費で建設したもので、2基の窯跡を鉄筋コンクリート壁で保護し、西側の1基について観察の便を計り、他の1基は床の下に埋め戻されている。
昭和48年10月1日
上田市教育委員会
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常陸国分寺・国分尼寺の屋根に葺く瓦を製造した窯跡「瓦塚窯跡」を探訪したことがあるが、この窯跡は常陸国分寺跡・国分尼寺跡から10kmくらい離れた丘陵地帯の裾に位置していた。
丘陵地帯の裾に窯が設けられたのは、この瓦窯は粘土質の地山をくり抜いてつくられた内部が5段の「地下式有段窖窯」で、地形的に丘陵地帯の方が作り易かったこと、瓦の材料である粘土や燃料の木々の確保し易かったことなどが考えられる。
しかし、窯から現場まで10kmもの距離がある「瓦街道」を通って瓦を運搬するのは大変であったろうと、そのとき、想像するのであった。
その点、信濃国分寺瓦窯は、寺の大修理用瓦窯として、現場近くに窯が設けられており、運搬は楽であったろう。
現場近くに瓦窯があるという事例をここで知ったことは有意義なことであった。
惜しむらくは、窯そのものを見学したかったのだが...。

800万円の費用をかけて観察施設を作ったということまで、説明書きに書く必要があるのかと思うが、そこまで書くなら、大枚、叩いて作った施設なのだから、早々と扉を閉めずに、せめて午後4時か5時頃までは見学可能にして欲しいものであると思うのであった。
因みに、向かいの上田市立信濃国分寺資料館の開館時間は午前8時半から午後5時まで、休館日は水曜日・年末年始・祝日の翌日となっており、この日は土曜日、窯跡を早々と閉める必要はないと思うのだが、如何だろうか(ああ、また、文句垂れ、いや、苦言を呈してしまった)。

次は、直ぐ近くの、後継寺院である国分寺へと向かう。

フォト:2018年4月12日

(つづく)



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by ryujincho | 2018-05-14 23:48 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(2)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(四)』 sp-17

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。
史跡の真ん中を鉄道が横切っており、史跡は南北に分かれてしまっているが、線路下に設けられた連絡通路でつながっている。

北側のゾーンを見学し、続いて、連絡通路を通り、南側のゾーンへ。
南側のゾーンで、先ず、僧寺跡を見学する。
やはり、国分寺跡の見学は北から順では駄目だ。
南から、南大門、中門、金堂、講堂...の順に見学すると落ち着く。

僧寺跡から西側の尼寺跡へ向かう。
信濃国分寺は僧寺と尼寺が隣接しているという珍しい事例の国分寺である。
尼寺跡へ向かうといっても、直ぐ隣りだから、5分と掛からない。

「史跡 信濃国分寺跡 尼寺跡」。
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------------------------------------------
史跡 信濃国分寺跡 尼寺跡
ここは、古代信濃国分寺の尼寺回廊南西隅にあたります。
天平13年(741)、聖武天皇により国分寺建立(建設)の詔(命令)が下され、僧寺「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、尼寺「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」の建立が全国に命じられました。
僧寺には僧侶20人、尼寺には尼10人がおかれ、僧や尼は毎月8日に最勝王経を転読することなど、定められた規則にしたがって生活することが義務づけられました。
ところが、各地の国分寺造営(建設事業)は期待したようにはかどらなかったようで、天平19年(747)には国分寺の造営を督励(催促)する詔が発されています。
天平勝宝4年(752)に総国分寺である東大寺の大仏開眼供養が執り行われ、僧国分尼寺の法華寺も建立されました。
しかし、天平宝字3年(759)になっても国分寺造営を督促する記事が「続日本紀」にみられ、西暦770年前後に至ってようやく大半の国での国分寺が完成したと考えられています。
信濃国分寺跡では、昭和38年から46年に至る数次にわたる史跡整備と、これに伴う発掘調査が平行して行われ、僧寺・尼寺の伽藍の全容と、これに伴う多くの資料を検出することが出来ました。
この尼寺跡では、北から、北門・尼房・講堂・金堂・中門が直線的に並び、講堂と中門が回廊で結ばれ、講堂の西の経蔵も確認されました。
ただ、南大門と尼寺全体を取り囲む80間(約148m)四方と推定される築地塀の南辺と西辺はまだ確認されていないことや、建物の詳細については解明されていないことも多く、これからの調査や研究が必要とされています。
平成22年3月1日
上田市教育委員会
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これまで、各地の国分寺跡を訪ねる都度、「天平13年(741)、聖武天皇により国分寺建立の詔が下され、国分僧寺、正式名称『金光明四天王護国之寺』と、国分尼寺、正式名称『法華滅罪之寺』の建立が全国に命じられました...」の説明文を目にして来たが、この文言は、幾度、目にしても心地がよい。
「しもつけ風土記の丘資料館」(栃木県下野市国分寺)で、最勝王経(格調高いレプリカ)を見たことも思い出される。

この説明文の中で引っ掛かる点は「この尼寺跡では、北から、北門・尼房・講堂・金堂・中門が直線的に並び、講堂と中門が回廊で結ばれ」という記述である。
北からではなく、南から中門、金堂、講堂が直線的に並んでいるというのが正しいのではないか。
また、講堂と中門が回廊で結ばれているというのも逆で、中門と講堂が回廊で結ばれているというのが正しいのではないか。
やっぱり、上田市教育委員会のスタッフは、北からこの史跡を眺めていると言わざるを得ない。
但し、先ほど、僧寺中門跡で目を通した説明書きでは、南から順に記されていたので、上田市教育委員会のスタッフによって、ものの考え方が異なっているようにも思えるが、如何だろうか。

と、こう書きながら、官道から国分寺につながる道は、南大門にはつながっておらず、北門につながっていたのではないかと思ってしまう。
官道や国分寺につながる支道については、調べがついておらず、「南メイン説」より「北メイン説」が正しいのではないかと思ってしまう。

信州の盟友、大給守さんは、千曲市立信濃国分寺資料館の元・館長さんと知り合いとのことなので、官道は何処を通っていたのか、国分寺につながる道はどのようになっていたのか、「南メイン説」、「北メイン説」などについて問い合わせて貰うことにしたいくらいである。
いや、そうして戴こう。
小生が上田市教育委員会に電話で確認しても、話は噛み合わないであろうから。

話が反れてしまった。
国分尼寺跡に話を戻そう。

説明板に添えられている案内図と写真2葉をここに掲載しておこう。
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尼寺空撮(写真上が北)。
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尼寺金堂雨落溝発掘調査(昭和41年(1966))。
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尼寺中門跡。
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右/尼寺中門跡、そこから西に、そして、北に延びる南側回廊跡、西側回廊跡。
前方に、尼寺金堂跡、尼寺講堂跡、線路は見えないが、その向こうの白い建物が資料館。
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尼寺中門跡から尼寺金堂跡を眺める。
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尼寺金堂跡。
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尼寺金堂跡から尼寺講堂跡を眺める。
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尼寺講堂跡。
尼寺講堂跡の奥、金網のところが「しなの鉄道」の線路、その向こうに見事に花を咲かせている「カバンの藤」の藤棚。
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南東角から見た、東側回廊。
左奥/尼寺講堂跡、右ずっと奥/「カバンの藤」。
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東側回廊近くに立つ石柱。
「史跡 信濃国分尼寺 法華滅罪之寺跡」。
本来なら、この写真を最初に掲載すべきであるが、東側回廊からの帰路、通路に出たところで目に入ったので、尼寺跡めぐりの〆として。
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次は、先ほど、北側のゾーンで、国分尼寺北門跡を見学した際、その北側で見事な花を咲かせていた「カバンの藤」の藤棚へと向かう。

フォト:2018年5月12日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-05-14 23:47 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(三)』 sp-16

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。
ここは史跡の真ん中を鉄道が横切っており、南北に分かれてしまっているが、線路下に設けられた連絡通路でつながっている。

北側のゾーンを見学し、続いて、連絡通路を通り、南側のゾーンへ。
通路を抜けたところに設けられた案内図を眺める。
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信濃国分寺跡
信濃国分寺跡は、古代信濃を代表する遺跡であるとともに、全国の国分寺跡のなかでも特に歴史的重要性の高い遺跡です。
史跡指定は昭和5年(1930)に遡りますが、昭和38年から46年(1963~1971)にかけての発掘調査によって、僧寺跡と尼寺跡の伽藍跡とともに、それらが隣接して立地する特異性も明らかになりました。
遺跡の重要性に対する認識を受けて、同43年(1968)に史跡指定範囲の拡大と公有地化が促進され、続いて行われた整備事業により史跡公園化されました。
これは国分寺跡の本格整備としては、全国でも最も早い事例に属しています。
この説明板の位置は、その間に立つもので、おそらくは僧寺と尼寺の間を南北に通る道路上と推定されていますが、明確な道路遺構は、未だに確認されていません。
平成30年3月1日
上田市教育委員会
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「全国の国分寺跡のなかでも特に歴史的重要性の高い遺跡」とある。
全国で60余の国のうち、これまでに探訪したのは、常陸国、上総国、下総国、上野国、下野国、武蔵国、相模国、伊豆国、播磨国、讃岐国、筑前国など11ヶ国で、えらそうなことは言えないが、この説明文の1行目を読んで、信濃国分寺跡の何処に歴史的重要性があるのあろうと思った。
だが、続いて、「僧寺跡と尼寺跡が隣接して立地する特異性」が述べられている。
この点について、前話で、小生なりに触れていたので、何だか嬉しさを感じた。

前話では、僧寺と尼寺の間を”空き地”と記したが、この説明書きでは「明確な道路遺構は、未だに確認されていません」とのことながら、「僧寺と尼寺の間を南北に通る道路」があったと推定されている。
これも納得のいく推定である。
道が通っており、その両側に僧寺と尼寺の築地塀、いい風景である。
因みに、武蔵国分寺跡は、東に僧寺、西に尼寺、その間を南北に官道である東山道武蔵路が通っている。
道幅は異なれど、武蔵国分寺跡とイメージが重なる。
しからば、信濃国のこの周辺の官道は何処を通っていたのだろうか、官道から分かれれて、僧寺、尼寺の南大門へ通じる道があったとせば、何処を通っていたのだろうか、今は、史跡の南側は住宅地となっているが、この住宅地の辺りに道があったのであろうか、など、あれこれと考えるのである。

僧寺、尼寺の伽藍配置図。
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航空写真(平成16年)。
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赤文字、中央/現在地
赤文字、右(東)/僧寺跡
赤文字、左(西)/尼寺跡
赤文字、上(北)/資料館

僧寺跡、尼寺跡の順に見学。
先ず、僧寺跡から。
南側ゾーンの南端まで行ってみる。
背後で電車が近づいて来る音がする。
カメラを構えて、待つ。
しなの鉄道軽井沢行きである。
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南側ゾーンの南端は広い空き地となっている。
ロープが張られているのは、公有地を示しているのであろう。
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空き地の南側は住宅地である。
空き地と住宅地の間を通って、東へ進む。

「史跡 信濃国分寺跡 僧寺築地塀跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 僧寺築地塀跡
ここは、僧寺南大門から西に延びていた、僧寺の内と外を区画する施設が推定されており、現在のところ、築地塀が想定されています。
築地塀は、基礎に柱と貫(ぬき)の骨組みで木の枠を作り、そこに土を入れて、突き固める「版築」という方法で作られるものが多く、屋根や瓦、板などで葺いたものがあります。
信濃国分寺の内と外の区画施設が築地塀であるのか、板塀であるのか、未だにはっきりとはせず、現在も発掘調査により確認作業をしています。
また、規模も僧寺は100間(約187m)四方、尼寺は80間(約150m)四方と推定されていますが、これもはっきりとはしていません。
現在は想定される築地塀のラインにドウダンツツジを植えて表示しています。
平成26年3月1日
上田市教育委員会

説明板掲載写真
左/法隆寺東大門(重要文化財)から伸びる築地塀
央/僧寺西南隅の発掘調査(塀などの痕跡は確認できませんでした)
右/僧寺南大門址の発掘調査(礎石の下の栗石が確認され、八脚門であることがわかりました)
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築地塀の版築による一部復元は、上野国分寺跡、播磨国分寺跡、讃岐国分寺跡で見学したことがある。

築地塀跡の東側と南側は住宅地となっており、南大門跡の発掘調査は行われたのであろうか(後述の中門跡の説明の中に、中門は南大門より大きいと書かれているので、調査はされているのかもしれない)。

築地塀跡から北側を眺める。
前方に礎石の位置を示す算盤球状の石が置かれているのが見える。
北へ進む。

「史跡 信濃国分寺跡 中門跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 僧寺中門跡
ここは、古代信濃国分寺の僧寺中門跡です。
中門は、間口5間(18.0m)、奥行き2間(6.6m)の規模で、南大門よりも大きく、二層の建物も考えられています。
建物の下の基壇(土を一段高く盛った基礎部分)規模は東西20.8mx南北9.4mと判明しています。

この中門には、東西の両側に、講堂へとつながる回廊が取り付いていました。
回廊の多くは、幅1間の「単廊」と呼ばれる形式のものですが、この国分僧寺は梁間2間の「複廊」と呼ばれる大きさのものでした。
回廊の基壇は、幅が8.1mあり、南北の全長は79.2m、27間です。
また、東西長は、中門も含めて、66.1mありました。

この中門の北側(線路の向こう側)には、僧寺伽藍の中心である金堂、講堂が直線上に建ち並び、その東側には塔跡と僧房跡が、そして、南側には南大門が建つ、壮大な伽藍を形成していました。

金堂は、寺院のもっとも大切な建物空間で、中には本尊がまつられていました。
建物の規模は、間口7間(24.2m)、奥行き4間(14.4m)で、屋根の庇から落ちる雨落溝も確認されています。

講堂は、僧が仏教や学問を学ぶ建物です。
間口9間(28.8m)、奥行き4間(14.0m)で、雨落溝も確認されています。

このほか、僧寺跡には、僧侶の寝食の建物である僧房跡や、七重塔跡と推定される建物跡が確認されています。

ただ、周囲を取り囲む築地塀については、東西176.56mx南北178.05mとほぼ100間四方の寺域であったと推定されていますが、東・北・西の文などとともに、その確認は今後の調査にゆだねられています。

平成17年12月1日
上田市教育委員会

図、右上/講堂
図、右中央/金堂
図、右下/七重塔
図、左上/中門
図、左下/僧房
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この説明書きの表題は「僧寺中門跡」であるが、国分寺の伽藍に関わる主な事項のほどんどが述べられている。
惜しむらくは、経蔵と鐘楼について何ら触れられていないということである。

中門跡。
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西側から中門跡を眺める。
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西南角から中門跡を眺める。
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中門跡から西へ、そして、北へ延びる回廊跡。
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北西角から、手前/西側回廊跡、奥/南側回廊跡と中門跡を眺める。
中門跡から東へ延び、北へ向かう南側・東側回廊跡は、鉄道(左、金網沿い)が横切り、消滅している。

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線路の向こう側を眺める。
線路の北側、直ぐのところが金堂跡、その向こうの木立が1本見えるところが講堂跡。
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「史跡 信濃国分寺跡 僧寺西門跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 僧寺西門跡
ここは、古代信濃国分寺の僧寺西門跡です。
西門は、いままでの僧寺の築地塀想定ライン上より少し西側で、僧寺金堂の真西に検出されました。
建物の規模は、桁行5.1m(17尺)、梁行2.7m(9尺)で、検出された柱穴は四脚門の控え柱です。
梁行の中間には、礎石の上に立つ親柱があり、そこに扉が付いていたと考えられています。
門の西側1.8m(6尺)の箇所には、並列する2個の柱穴が同じ桁行で検出され、庇が付属していたと推定されます。
この門は礎石建ちではなく、掘立柱であることや、出土する瓦の量がきわめて少ないことから、檜皮葺や板葺きの屋根であったと考えられます。
この西門の確認により、僧寺築地塀のラインが、これまでの想定ラインより5m西に振れていること、そして、この門が、僧寺と尼寺の間を南北行すると推定される道路に面しており、僧寺と尼寺とを繋ぐ出入口であることなど、たいへん、多くの情報を提供しています。
平成22年3月1日
上田市教育委員会

図、右上/現在地と西門を図示。
図、左下/僧寺西門復元想像図
図、右下/僧寺西門跡発掘調査(真上から/写真上が北)
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「西門は金堂の真西」とある。
先ほど、線路の北側のゾーンで金堂跡を見学した。
南面の南西角を線路がかすめていた。
西門はそこから、線路を挟んで、西にあったのだ。
線路があることでイメージし辛いが、説明板に添えられて図で、金堂と、線路を挟んで、西門が位置しているがよく分かり、この図は大いに助けとなる。

西門のこともさることながら、小生にとっては、僧寺と尼寺との間に南北行の道路が通っていたということが大事な点である。

先ほど来、カッコウの声が聞こえている。
♪ カッコー、カッコー♪と幼き頃から歌を歌い、カッコウという鳥は馴染み深い鳥であるが、ナマの姿を見たことはない。
利根川サイクリングロードを走っていると、河川敷の木立の中で鳴いていることがあるが、その姿を見たことはない。
ここでも、史跡公園の木立を縄張りとし、木立の中で鳴いているのだろうと、その姿を見ることなど思いもせず、声だけを聞いていたところ、武衛さんがその姿を見つけた。

「上総さん、あの電線にとまって鳴いているのがカッコウのようです。鳴くときに羽を少し広げ気味にして、そのときにカッコウの声が。ということで、あれは、確かに、カッコウです」。
「では、オリンパス・イーグル・アイでズーム・アップ」。
カメラを望遠鏡代わりにして、鳥見。
「ズームで撮ると、手振れが激しいので、ズームは止めて、あとで、トリミング」。

遠めの一枚。
電線にとまり、鳴くカッコウ。
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鳥ミング図。
胸の縞々模様が微かに見える。
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前日、千曲川左岸サイクリングロードを走っているとき、今シーズン初めて、オオヨシキリの声を聞いた(毎シーズン、その声を聞くのは、マイ・鳥見フィールドの手賀沼にて)。
何故、ここでオオヨシキリの話を持ち出すかというと、それは、カッコウはオオヨシキリの巣に托卵するという関係にあるからだ。

カッコウの雛は、比較的、短期間で孵化し、巣の持ち主の雛より早く生まれることが多い。
孵化したカッコウの雛は巣の持ち主の卵や雛を巣の外に押し出してしまう。
その時点でカッコウの雛は仮親の唯一の雛となり、仮親の育雛本能に依存して餌をもらい、成長して巣立っていく。
托卵を見破られないようにするため、カッコウは卵の色や斑紋などを仮親の卵に似せてたり、托卵する際に仮親の卵を巣から出して数合わせを行う場合もある。
何故、カッコウは托卵するかについては、よく分かっていないが、体温が低いためという説がある。
いずれにせよ、「オオヨシキリ残酷物語」である。

電線に止まり、鳴いていたカッコウは、近くの森に飛び立ち、再び、鳴いていた。

♪カッコー、カッコー♪と歌う童謡をはじめ、カッコウが登場する音楽は数多ある。
それについて語り出すと、音楽好きの小生としては、エンドレス状態になりかねないので、それは別の項の「鳥見雑記」で綴ってみたい。

僧寺跡から、西側の尼寺跡へと向かう。

フォト:2018年5月12日

(つづく)

















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by ryujincho | 2018-05-14 23:46 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(二)』 sp-15

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。

相当に期待していたのだが、少々、期待外れであったので、前第14話では、先に<文句垂れの巻>を綴った。

この第15話では、機嫌を直して、信濃国分寺跡・国分尼寺跡見学の巻を綴りたい。

国分寺と国分尼寺は幾らか距離を開けて建立されているのが通常であるが、信濃国分寺と国分尼寺は隣接して建立されており、これは珍しい事例である。

通常、国分寺跡・国分尼寺跡の見学は、南側の南大門跡からスタートするのが通例である。
しかし、信濃国分寺跡・国分尼寺跡は、北側に国道18号線が通っていることから、北側が入り口となっており、北から南の順で見学するという、特異なケースとなっている(往時の官道が何処を通っていたかまではまだ調べきれていない)。
加えて、史跡の真ん中を鉄道が横切っており、線路を挟んで、北側ゾーンと南側ゾーンに分断されているという、これも特異なケースとなっている。

よって、北から南の順で見学していくこととする。

僧寺伽藍配置。
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僧坊跡。
これまでに見て来た国分寺跡では、僧坊は講堂の北側にあり、これが<標準的配置>である。
一方、信濃国分寺跡では、僧坊は東側に設けられている(配置図参照)。

講堂跡。
北側から見た講堂跡。
(手前の敷石の道は回廊跡ではなく、単なる通路)
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北西角から見た講堂跡。
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金堂跡。
北から見た金堂跡。
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北西角から見た金堂跡。
南面、南西角(写真、右上)を線路がかすめている。
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線路の南側を眺める。
中門跡と回廊跡と思しき礎石が見える。
後ほど、見学。
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塔跡。
北側から見た塔跡。
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北西角から見た塔跡。
金堂跡と同様に、南面、南西角(写真、右上)を線路がかすめている。
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塔跡から、西側を眺める。
手前のコンクリート敷きは、東側回廊跡。
奥、左の金網のところが線路、その右のコンクリート敷きのところが金堂跡、その右の木が一本生えているところが講堂跡。
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西側の国分尼寺へ向かう。
各地の国分寺(僧寺)と国分尼寺は少し距離を置いて(少なくとも数百メートル)建立されているが、信濃国分寺と国分尼寺は隣接しており、これは珍しい事例である。

僧寺と尼寺が並んでいる様子はこの案内図でよく分かる。
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僧寺と尼寺の間の”空き地”は10数メートルであろう。
なお、いうまでもないことであるが、何処の国分寺、国分尼寺でも同様だが、いずれも築地塀で囲まれており、それぞれ独立した寺域となっている。

僧寺と尼寺の間の”空き地”。
白い建物は千曲市立信濃国分寺資料館。
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ちょうど、しなの鉄道長野行きが通過。
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尼寺跡の北側の「カバンの藤」。
「カバンの藤」については、続編で。
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尼寺跡。
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北門跡。
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北西角から見た北門跡。
北門跡の南面、南西角(写真、右側)を線路で削られている。
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尼寺の北側で見事に花を咲かせている「カバンの藤」をゆるりと鑑賞。
「カバンの藤」の詳細については、続編にて。

南側ゾーンへ行く前に、上田市立信濃国分寺資料館に立ち寄る。
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受付スタッフさんとしばし会話。
会話の内容は前第14話の<文句垂れの巻>、いや、<苦言の巻>で縷々述べた述べたので、詳しいことはここでは割愛するが、ひとことで言えば、こちらが投げかけた話に対し、ピリッとした対応ではなかったということで、興醒め。
よって、館内の展示は見学せず、ロビーの展示を軽く見学。

「上田市立信濃国分寺資料館」。

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上田市立信濃国分寺資料館
今から約1200年前、聖武天皇の発願によって、各国ごとに国分寺(僧寺と尼寺)が建てられました。
この国分寺は国家の繁栄と幸福を祈ることを目的とした国の寺(官寺)であります。
昭和5年11月、国の指定を受けた信濃国分寺跡は、上田市が国・県の指導を得て、昭和38年から昭和46年にかけて大規模な学術調査を実施しました。
その結果、僧寺と尼寺の規模と全容が明らかにされ、さらに窯跡(瓦を焼いた窯)跡まで発掘されるという成果を得ました。
その間、昭和43年3月にはこの一帯が国の追加指定を受け、国分寺史跡公園として整備を重ねて今日に至ったものであります。
この信濃国分寺資料館は、その発掘調査によって出土した信濃国分寺関係資料を中心として、上田小県(ちいさがた)地方の原始・古代から平安時代に至る資料を一堂に展示し、この地方の歴史を学ぶ場としたいとの願いをこめて建設されたものであります。
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国分寺址・国分尼寺址分布図。
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「信濃」をアップで。
八葉複弁蓮華文軒丸瓦。
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瓦について調べたところ、信濃国分寺跡の発掘調査で、創建期の瓦が出土しているという。
国分寺・国分尼寺の瓦の多くは、山田寺系、川原寺系のいずれであり、それにつても調べたところ、東大寺の軒丸瓦に似ているとあった(小生としては、この答えに納得し兼ねるところあり、と申し上げておこう)。

線路下の通路を通り、北側ゾーンから南側ゾーンへ。
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フォト:2018年5月12日

(つづく)






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by ryujincho | 2018-05-14 23:45 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(一)』 sp-14

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉から、千曲川左岸サイクリングロード(一部、一般道)を自走し、上田に到着。
昼餉は、手打ち蕎麦の「刀屋」で、極太の量的にも大満足な、ざるそばを頂戴する。
蕎麦パワーを充填し、元気いっぱいで、上田市内の史跡めぐりに出動。

数年前から、史跡めぐりの相棒、武衛さんと、国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社、これら三点セットでめぐることをテーマとして来た。
これまでに、常陸国、上総国、下総国、上野国、下野国、武蔵国、相模国、伊豆国、播磨国、讃岐国、筑前国などを探訪した。
今回は、その一環で、上田市内にある信濃国分寺跡・国分尼寺跡と信濃国総社をめぐることとなった。
信濃国府の所在地は不明なので、信濃国総社の探訪を以て国府跡も探訪したことにする。

信濃国総社である科野大宮社を探訪の後、信濃国分寺跡・国分尼寺跡へと向かう。
県道141号線を走り、国道18号線に合流。
どちらの道も車道が狭く、jitensha で走るには難儀な道。
歩道を走ろうとするが、歩道は溝の上に作られた、あの凸凹の歩道で、これも走るのが難儀。
やっぱり、千曲川を渡り、左岸を走るべきであったかと反省しながら、そのまま走り続け、信濃国分寺跡史跡公園に至る。

信濃国分寺跡史跡公園。
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入り口に掲示された「信濃国分寺跡史跡公園周辺の観光案内図」。
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楽しみにして来た信濃国分寺跡・国分尼寺跡なので、最初から文句を垂れてはいけないと思うのだが、垂れておこう、いや、文句ではなく、格好良くいえば、苦言を呈しておこう、であろう。

文句垂れ、いや、苦言は、見学開始前に感じたこと、見学中に感じた、それら全てをこの冒頭に書き出しておこう。
なお、信州の盟友、大給守殿に、これらのことを伝えたところ、「上田市のため、是非、よろしく。改善のヒントとなるでしょう」との応援メッセージも貰ったことでもあり、遠慮なく書かせていただこう。

苦言その1:
案内図の北が左、南が右となっている。
北は上、南は下というのが、地図や案内図の常識であろう。
時折、東西南北を、上下左右、無視して作られている案内図を見掛けることはある。
それは大目に見るとしても、こちらの案内図は国分寺と国分尼寺の伽藍配置を示す図でもある。
国分寺と国分尼寺は、先ず、南大門から始まる。
南大門は南にある。
よって、北を上に、南を下にして案内図を作れば、方角と伽藍配置が一致し、誠に気持ちのよい案内図となるのだが、南北を左右にされてしまうと、国分寺跡・国分尼寺跡好きの人間にとっては、我慢ならん!ということになるのである。

ということで、90度回転させ、北が上に、南が下になった案内図をここにアップロードしておこう。
まことに見易い案内図となった。
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苦言その2:
案内図に「JR信越線」とある。
この案内図は相当、昔に作られたもののようだ。
現在、軽井沢/長野間は第三セクターの「しなの鉄道」である。

国分寺跡・国分尼寺跡の真ん中を横切るように鉄道が敷かれている。
これについて、文句をいうつもりはない。
史跡好きの者にとっては、信濃国分寺跡・国分尼寺跡は可哀相であると思うくらいである。

信越線の歴史を紐解くと、官設鉄道として、1888年(明治21年)に軽井沢/上田間が延伸開通している。
以後、いろいろな変遷を辿り、1997年(平成9年)、軽井沢/長野間はJR東日本から第三セクターの「しなの鉄道」に引き継がれた。
今なら史跡保存を優先するであろうが、明治の頃は鉄道敷設優先であったことは否めず、線路が国分寺跡・国分尼寺跡を横切っていることは止むを得ないことと思わざるを得ない。

苦言その3:
史跡に北側に幹線道路の国道18号線が通っており、国道に面して「上田市立信濃国分寺資料館」が設けられていることから、北側が史跡の入り口となっている。
しかし、国分寺と国分尼寺の伽藍は、南から北に、南大門、中門、金堂、講堂が配置され、中門から講堂をつなぐ回廊があり、東西に鐘楼と経蔵、多くは東に塔という伽藍配置で、入り口はあくまでも南である。
そのことを強調するように、案内図や説明板に織り込むべきである。

因みに、我々は北から見学し、「しなの鉄道」下に設けられた連絡通路を通り、南側も見学した。
そこで見た案内図は、北を上に、南を下にした配置となっており、我々の満足のゆく作りとなっていた。
上田市の<名誉>のために、その案内図をここにアップロードしておこう。
この図は、上田市教育委員会による平成30年3月1日付けの説明文が掲示された説明板に添えられていたものであり、日付からして、最新版である。
こうしたものを北側の入り口に掲げておれば、ベストである。
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苦言その4:
「国分寺史跡公園」と称されている。
史跡と史跡公園では、所掌官庁も予算も別のものであると理解している。
しかしながら、この「国分寺史跡公園」は、史跡そのものを理解していないのか、史跡としての整備がよろしくない。
例えば、礎石。
オリジナルの場所にあるものはそのまま保存・・・これがベストである。
オリジナルの礎石であるが、伽藍域内の別の場所に置いてある・・・これも許される。
ところが、この「国分寺史跡公園」では、庭石と思しきものがあちらこちらに置かれており、礎石なのか、庭石なのか紛らわしいこととなっている。
次に、回廊跡。
細く、コンクリートが打設されたり、或いは、敷石が敷かれているところがある。
回廊跡を示しているのかと思いきや、史跡公園内の、単なる道なのである。
と、思いきや、或る場所では、回廊跡を示しているところもある。
回廊跡なのか、単なる道なのか、はっきりと仕分けをして欲しいものである。

苦言その5:
上述の通り、史跡内を線路が横切っている。
線路の下に通路が設けられ、南北の行き来ができるようになっている。
しかし、史跡公園内に「連絡通路はこちら」の標識は立っていない。
案内図にもその表示はない。
お粗末である。
なお、連絡通路入り口の頭上にはこんな表示があった。
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苦言その6:
上田市立信濃国分寺資料館の受付スタッフに覇気がない。
北側ゾーンをめぐって、資料館へ。
礎石と庭石のことを話したら、ふにゃふにゃと何を言っているか分からない返事。
回廊跡と道のことを話したら、やはり、ふにゃふにゃと何を言っているか分からない返事。
資料館の展示物の中で、これは必見というものはありますかと問うても、ふにゃふにゃと何を言っているか分からない返事。
学芸員さんを呼んで欲しいと言おうかと思ったが、学芸員はいませんという答えだったら、最悪と思い、敢えて聴かず。
信州の盟友、大給守さんから当館の元・館長さんの名前も聞いており、学芸員さんとの会話の中で元・館長さんの名も出せば、盛り上がるだろうと思ったが、その楽しみも敢えてなしとした。
「南側のゾーンへ行くには、外の踏み切りを渡っていくんですか?」と問うたところ、「連絡通路がありますよ」と、このときだけは元気な声で、バルコニーから指差し、その場所を教えてくれた。
そもそも案内表示がないのがおかしいと言おうと思ったが、また、ふにゃふにゃした答えであろうから、そのことについては言わず。

文句垂れ、いや、苦言の巻はこれくらいにして、機嫌よく、信濃国分寺跡・国分尼寺跡見学の巻に移ることとしたい。

フォト:2018年5月12日

(つづく)


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by ryujincho | 2018-05-14 23:44 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)