龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 03月 03日

『影盛(かげもり)』

3月3日、晴れ。
手賀沼の新田開発に尽力した旧井上家住宅を見学。

表門。
形式は医薬門。
屋根は切妻造桟瓦葺。
棟の両端には鬼瓦と漆喰を盛り上げた「影盛(かげもり)」。
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フォト:2018年3月3日

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by ryujincho | 2018-03-03 23:33 | Comments(0)
2018年 02月 22日

『差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり』

2月22日(木曜)。
今朝の朝刊に、2月20日に亡くなった金子兜太さんに関する投稿記事が幾つか掲載されていた。
金子兜太さんの句に身近に触れたのは、2010年の秋、渥美半島をポタリングした際、伊良湖岬で彼の作が刻まれた句碑に出遭ったときのことであった。

「差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり」
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サシバは「鷹の渡り」をみせる代表的な鳥である。
4月頃、夏鳥として東南アジアやニューギニアから日本に渡来し、標高1000m以下の山地の林で繁殖する。
秋の渡りは9月初めに始まり、沖縄・南西諸島を経由して東南アジアやニューギニアで冬を越す。
一部は沖縄・南西諸島で冬を越すものもある。
日本では4月ごろ夏鳥として本州、四国、九州に渡来し、標高1000m以下の山地の林で繁殖する。
秋の渡りの時には非常に大きな群れを作り、渥美半島の伊良湖岬や鹿児島県の佐多岬ではサシバの大規模な渡りを見ることができる。
一方、春の渡りは秋ほど大規模な群れは作らない。

「伊良湖岬」と「サシバ」、これらふたつの言葉から連想されるのはサシバの秋の渡りであるが、句碑に刻まれた「差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり」は春から夏にかけての伊良湖岬の風景である。

伊良湖岬の高台に建てられた伊勢湾海上交通安全センターの外壁に数羽のサシバが刻まれている。
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このレリーフのサシバは、句碑とは異なり、春の渡りではなく、秋の渡りが刻まれたものであろう。

金子兜太さんは、戦中、トラック諸島に海軍主計中尉として赴任していたという。
1月4日に亡くなった、小生の極々近しい人も、戦中、トラック諸島に。

2009年3月、三浦半島をポタリングした際、「浦賀港引揚げ記念の碑」に目を惹かれた。
そのときのことをマイ・ブログに通り綴った。
その抜粋は次の通りである。
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東浦賀から浦賀の中心地を経て、浦賀港沿いに、西浦賀へ。
海側の歩道を走っていたところ、「浦賀港引揚げ記念の碑」と記された碑が目に入りました。
碑文を読みながら、小生に最も近しい人の話を思い出し、この碑をカメラに収めました。
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碑文は次の通り記されています。

昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に送還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。
引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かつてない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。
私たちは再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。                 
横須賀市 

小生の最も近しい人は、終戦後、引揚げ船で南方の戦地、トラック諸島から、無事、帰還。
その人が傘寿を迎えるにあたって綴った「生い立ちの記 風雪80年」の中で、次のように記されています。

「(略) 小笠原諸島を過ぎた頃、前方の雲間に白い三角形のものが見えた。船が内地に近づく程、三角形は大きくなり、富士山の頂上だとはっきり認識出来るようになり、白扇逆さまに掛かるの表現がよく理解出来た。直ぐに、船室の同僚に知らせたら、船酔いも忘れて、皆、甲板に出て、3年振りに見る霊峰富士の神々しい姿に、万感胸に迫り、ただただ、涙を流すばかりだった。
 昭和20年10月29日、「巨斉」は浦賀港に入港した。やっと生きて故国の土を踏むことが出来た。入国検査では、現在、有毒と言うことで使用が禁止されているDDTを頭から身体中が真っ白になる程、米兵に掛けられ、近くの横須賀銃砲隊の兵舎に入った。(略)」

この章では、この後、東京から復員専用列車で故郷に帰還するときの様子や故郷に無事、到着したときの様子も綴られています。

本ブログでは、紙面の都合上、上述の抜粋に留めますが、戦時の章では、召集令状から入隊、訓練、南方諸島への出陣、南方諸島での戦いや生活、無事の帰還、復員の様子が31ページに亘り、綴られています。

今回、ブログを掲載するに際して、この章を読み返してみましたが、やはり、胸の詰まる思いです。

碑の写真一枚で、苦労なさった皆さんのことを済ますつもりはありませんが、それはお許し戴いた上での掲載です。
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金子兜太さんは享年98歳、極々近しい人は享年96歳。
ひょっとしたら、二人はトラック諸島で出会っていたかもしれない。

このようにこのブログを綴っていると、トラック諸島からの無事の帰還と南方から日本に渡って来るサシバとが重なり合う思いに至るのであった。

合掌

フォト#1~#3:2010年11月7日(当時、綴ったブログより転載)
フォト#4:2009年3月21日(同上)


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by ryujincho | 2018-02-22 23:31 | Comments(0)
2018年 01月 03日

『初詣』

正月三日。
初詣。
成田山新勝寺。
超広角レンズを持って。

仁王門。
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大本堂前。
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大本堂にて参拝。
表に出て、三重塔を見上げる。
最近の初詣では珍しい光景だが、着物姿の娘さんがいたので、それも一緒に。
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三重塔の装飾は、着物姿の娘さんに負けず劣らず美しい。

平和の大塔。
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大塔の2階の明王殿で、本尊の不動明王、四大明王を参拝。
明王殿の壁画、昭和大曼荼羅、真言祖師行状図を眺める。
尾垂が浜に本尊が上陸したことも描かれていた。
昨年2月、龍尾寺(匝瑳市)から成田山本尊上陸の地である尾垂が浜(山武郡横芝光町)を訪ねたときのことを思い出しながら、壁画を眺めた。


醫王殿。
昨年秋、紅葉狩で訪れたときには、醫王殿まだ工事中であったが、その後、11月28日、醫王殿入仏落慶大法会が執り行われたことを報道で知り、初詣で、是非、参拝したいと思っていた。
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御手綱。
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御手綱を握り締め、祈る。
そして、醫王殿内へと進む。
醫王殿に安置された薬師如来、そして、薬師如来を護る十二神将を間近にして参拝。
薬師如来の指には御手綱が優美に結ばれているのをこの目でしっかりと見た。

表に出ると先ほどよりも参拝者の列は増している。
彼らも回向柱の御手綱を握り締めた後、醫王殿内へと進んで行く。
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醫王殿に安置された薬師如来と回向柱を繋ぐ御手綱をアップで。
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こうして、恒例の成田山初詣を無事終えることが出来た。
すっきり!

フォト:2018年1月3日
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by ryujincho | 2018-01-03 23:31 | Comments(0)
2018年 01月 02日

『初詣』

正月二日、初詣。
紅龍山 布施弁天 東海寺。
通称「布施弁天」。

楼門は竜宮城風。
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本堂と冬晴れの空。
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鐘楼の十二支。
今年の干支は、戌。
戌の彫刻に白い房が据えられている。
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フォト:2018年1月2日

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by ryujincho | 2018-01-02 23:31 | Comments(0)
2018年 01月 01日

『謹賀新年』

謹賀新年。
2018年
平成30年
戌戊(つちのえ いぬ、ぼじゅつ)

元旦。
次男夫婦が何処で紙粘土をゲットして来た。
紙粘土で拵える御題は「犬」。
みんなで紙粘土細工に腕をふるった。
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番号札は出来映えの順位ではなく、あみだくじでの当たり番号。

フォト:2018年1月1日


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by ryujincho | 2018-01-01 23:31 | Comments(0)
2017年 12月 22日

『ジャズ・コンサート』

12月12日、久方ぶりに、関西の盟友、播磨守さんと電子飛脚便交信。
「12月17日、熟年バンド、ジャズのコンサートに出演します」と。
「写真を1枚、送って貰えると嬉しいです」と返信。
12月21日、電子飛脚便と共にコンサートの写真が送られて来た。
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熟年バンドのメンバーの中には、播磨守さんのほか、穴子奉行さん、御典医さん、呑々守さん、本町奉行さんらの盟友の姿もあり。

播磨守さんからの電子飛脚便によれは、演目は次の通り。
シルヴァリー・ムーン
ビギン・ザ・ビギン
メモリーズ・オブ・ユー
ハロー・ドーリー
想いでのサンフランシスコ
テイスト・オブ・ハニー
マンボ No. 5
ムーンライト・セレナード

曲名を見ただけで音色が聴こえて来る。
熟年バンド、よー、頑張ってはります。

フォト:2017年12月17日、播磨守殿提供
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by ryujincho | 2017-12-22 23:31 | Comments(0)
2017年 12月 05日

『或る日の朝な夕な』

12月5日。
朝6時半、外は霧、霧、霧。
2時間ばかり過ぎ、外を見ると<雲海>。
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西方、霧の向こうの遥か彼方にはうっすらと富士の山。
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朝霧の彼方にうっすらと見えていた富士も、夕暮れときにはくっきりと。
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富士から目を転じて、夕暮れときの東京スカイツリー。
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フォト:2017年12月5日
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by ryujincho | 2017-12-05 23:31 | Comments(0)
2017年 10月 26日

『柿の日』

10月26日、晴れ。
手賀沼南岸を走る。
今日、10月26日は『柿の日』。
柿の実を撮る。
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明治28年の10月26日、奈良を旅行中の正岡子規があの有名な句を詠んだことに因んで、10月26日を「柿の日」としたとのことだ。

柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺  子規

20数年前、スペインを旅した。
果物屋の店先に”KAKI”と書かれた値札と共にカキが並べられていた。
へぇー、カキはスペイン語でも”KAKI”というんだと思わず口に出た。

カキの学名は Diospyros kaki 。
カキは東アジアの固有種で、日本原産ではないが、日本から欧米に伝わったことから学名が ”kaki” になったとのことである。

カキは、元々、渋柿で、甘柿は渋柿の突然変異種と考えられている。
写真に撮ったカキは野原に生えた渋柿。
正岡子規が食した柿は甘柿であったことは申すまでもないことであろう。

柿撮れば ヒヨの一声 手賀の沼  霹靂火

フォト:2017年10月26日
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by ryujincho | 2017-10-26 23:32 | Comments(0)
2017年 07月 12日

『頭椎大刀』

7月12日、文化庁主催企画展『発掘された日本列島2017 新発見考古速報』にて。

千葉県我孫子市/根戸船戸遺跡1号墳。
古墳時代終末期 約1400年前。
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眼下に手賀沼を望む台地の縁辺に造られた古墳です。
墳丘は推定で全長約35m、高さ約2mで、前方後円形が崩れたダルマのような形をしており、周囲には部分的に幅4mの周濠が巡ります。

埋葬施設は、白色の粘土を切り出し、さも、石を使ったかのように積み上げた横穴式”石”室です。
周辺では良好な石材が産出しないため、関東ローム層下の白色粘土を柱状に切り出して代用したものと考えられます。

石室からは頭椎大刀1点のほか、大刀3点、鉄鏃約12点、玉類などが出土しました。
金メッキで飾られた頭椎大刀は大和政権から下賜されたとみられるもので、この古墳の被葬者が地域の有力者であったことを示す重要な発見です。
我孫子市教育委員会
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頭椎大刀(かぶつちのたち)とは。
柄頭 (つかがしら)が倒卵形でやや傾いたような形をしている、日本の上古時代特有の大刀拵 (たちこしらえ)。
この部分は鉄製もあるが、金銅製であることが多い。
後期古墳から出土することが多く、実戦用というより儀仗用と思われる。
(出典/ブリタニカ)

頭椎大刀を初めてみた見たのは、今年初め、総社歴史資料館(群馬県前橋市)を訪ねたときのこと。
それは、総社二子山古墳出土の頭椎大刀。
原品の所在は不明で、詳細な絵図が残されており、その絵図に基づき復元されたレプリカであった。

一方、今回の文化庁主催企画展に出展された、根戸船戸古墳出土の頭椎大刀は原品およびそのレプリカである。
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刀身、上部。
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刀身、下部。
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柄頭(つかがしら)をアップで。
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渦巻文様をアップで。
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この頭椎大刀を眺めていると、中央政権とつながりを持つ地方の有力豪族の姿が目に浮かぶ。

余談(8月19日、記)。
8月初旬、子供さんの夏休みの時期だからであろうか、BSプレミアムで、大映特撮時代劇『大魔神』シリーズ3部作、『大魔神』、『大魔神怒る』、『大魔神逆襲』(いずれも1966年作品)が一挙放映された。
後日、録画で、第3作の『大魔神逆襲』を観ていたとき、大魔神の腰に帯びた大刀に目を惹かれた。
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埴輪の武人像は右手を大刀の柄に掛けているものが多く、柄頭の形はよく見えないが、大魔神の大刀の柄頭は頭椎大刀に似た卵形となっている。

これからの史跡めぐりでは、頭椎大刀と武人像の埴輪も注視していかねばならないという思いを新たにした。

フォト:2017年7月12日、8月19日
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by ryujincho | 2017-07-12 23:34 | Comments(0)
2017年 07月 12日

『鳥が刻まれた銅鐸』

7月12日、文化庁主催企画展『発掘された日本列島2017 新発見考古速報』にて。

香川県高松市/天満・宮西遺跡。
弥生時代後期 約1800年前。
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アップで。
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「弥生ムラ 見れや壊せや 銅鐸を」。
どういう意味?
その意味は、このあと、分かることとなる。

銅鐸に描かれた鳥。
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超アップで。
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鳥が描かれた銅鐸片は銅鐸の裾の部分。
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説明パネルに目を通す。
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天満・宮西遺跡~遺跡の概要~
高松平野に所在する、弥生時代後期に栄えた拠点的な集落です。
集落の外れを流れていた自然流路とみられる落ち込みから、長さ49.5cm、厚さ4mm、重さ4.1kgもある大型の銅鐸の破片が出土しました。

銅鐸片は銅鐸作りの最終段階に作られた突線紐式のもので、裾の部分には鳥または鹿とみられる絵画が鋳出されています。
割れ口はゆがみ、破断面は表面と同じく錆びているため、意図的に割られた破片であると考えられます。

集落から他にも、古墳時代へと続いていく新たな祭祀道具であある特殊器台も出土しています。
破砕され、集落の外れに捨てられた銅鐸は、銅鐸祭祀の終わりと新たな祭祀の始まりを考える上でたいへん興味深い事例です。
高松市教育委員会
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なるほど、この銅鐸は意図的に割られたものなのであり、銅鐸祭祀の終わりと新たな祭祀の始まりを考えさせる銅鐸片であるということ。
ベンキョーになった。

讃岐には家内の実家があることでもあり、義兄の案内で「讃岐国史跡めぐり」を結構やっている。
ということで、次回、機会があれば、この天満・宮西遺跡を訪ねてみたい。
ということで、この遺跡は高松市のどの辺りだろうかと調べてみた。
住所は「高松市松縄町295-1ほか」、「熊野神社の隣接地」とある。
地図を参照したところ、南北に走る県道43号線を挟んで、栗林公園の東に熊野神社があった。
次回、是非、訪ねてみたい。

なお、天満・宮西遺跡の所在地を調べている中で、高松市のホームページにヒット。
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天満・宮西遺跡
高松市松縄町
高松市街地南東の郊外、熊野神社が鎮座する隣接地にあたる。
この地は香東川の扇状地にあたり、現地表面の標高は5~6mと低く、原始においては海岸線まであまり離れていなかったと想定される。
微高地とその北東側で旧河道を確認している。
注目される遺構は、弥生時代前期に属する環濠である。
環濠は直径約65mで、囲まれた範囲内には集落が存在したと想定されるが、後世に竪穴住居跡等の遺構は壊されたようで残っていない。
もっとも数多く確認された遺構は、弥生時代後期から古墳時代初頭のものである。
微高地では、竪穴住居跡だけで20棟以上を数え、多数の溝や井戸、柱穴なども見つかっている。
さらに、驚くべきは旧河道では捨てられた土器の破片がおびただしく堆積しており、発掘調査中は土を掘っているのか土器を掘っているのかわからないぐらいであった。
これは,水の流れがなくなった旧河道に、弥生のムラの人たちが生活不用品の土器を次々と捨てたもので、これによって旧河道がしだいに埋まっていったのである。
ゴミの回収がない昔では仕方がないかもしれないが、これを今風にいうなら,弥生時代の環境破壊といえるかもしれない。
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銅鐸の裾部に描かれた鳥はどういう意味を持っているのだろうか。
古墳時代においては、装飾古墳に船が描かれたものがあり、船の舳先に鳥が1羽、とまっている。
この鳥は、あの世に渡っていく水先案内との説がある。
弥生時代、祭祀に使われた銅鐸に刻まれた鳥は、その後、古墳時代の装飾古墳の鳥へとつながっていくのであろうか...。

フォト:2017年7月12日
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by ryujincho | 2017-07-12 23:33 | Comments(0)