人気ブログランキング |

龍人鳥の徒然フォト日記

ryujincho.exblog.jp
ブログトップ
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/折越十日塚古墳』 kk-5

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ヶ浦ポタリング。

牛渡銚子塚古墳から、次の探訪地、折越十日塚古墳へ。

牛渡銚子塚古墳から一般道を北西方向へ走る。
折越十日塚古墳の目印はX字形交差点の付近、おおよそこの辺りということしか分かっていない。
先ほど、牛渡銚子塚古墳へ向かう際は標識があったので、次も標識があるだろうと思っていたが、標識は見当たらないままに、次の探訪地、坂稲荷山古墳へ向かう一般道に突き当たってしまった。

来た道を戻り、目印のX字形交差点に至る。
近くで農作業をしていたお百姓さんに尋ねてみた。
「折越十日塚古墳という名の古墳は知りませんが、あちらの方に、以前、調査をしていた古墳があります」と貴重な情報を頂戴した。
あちらの方とは南東方面。
X字形交差点の南東方向へと向かう。

畑の向こうに古墳らしきものが見えて来た。
白く、説明板らしきものも見える。
a0289546_01181657.jpg

ぐるっと畑の右手から回り込んで古墳に至る。

折越十日塚古墳。
a0289546_07095458.jpg

---------------------------------------
市指定文化財 折越十日塚古墳古墳(おりこしとおかづかづかこふん)
所在地 かすみがうら市坂字折越351外
指定 昭和49年3月22日

前方後円墳
全長 約60m
前方部高さ 約4.8m
前方部幅 約30.5m
後円部高さ 約6.4m
後円部径 約35m

折越の台地にあって、前方部を南西に向ける前方後円墳で、全体が樹叢・竹林でおおわれ、墳形がよく保存されています。
市内における代表的な古墳のひとつで、後円部に巨大な石材の横穴式石室が確認されています。
7世紀に築いたものと推定されています。
かすみがうら市教育委員会
------------------------------------------

先ほどの牛渡銚子塚古墳(全長約64m、前方部高さ約2.7m、前方部幅約38m、後円部高さ約5.6m、後円部径約34m)と比較すると、折越十日塚古墳は僅かに小さい程度で、ほぼ同規模と考えてよいだろう。

かすみがうら市のホームページも参照してみる。
-----------------------------------------
指定年月 昭和49年3月22日
所在地 かすみがうら市坂3518
所有者又は管理者 個人
折越の台地の端にある全長63.2m、後円部の高さ約5.4mを計る前方後円墳です。
現在は開口していませんが、後円部に横穴式石室があり、石室内部に朱による線や彩色が見られることから、太子唐櫃古墳と同様の装飾古墳であることが明らかです。
また、周囲には二重に周溝が廻るなど珍しいもので、築造は7世紀前半と推定されています。
---------------------------------------

いずれも、かすみがうら市の記述であるが、内容は異なる。
ホームページでは;
・「石室内部に朱による線や彩色が見られることから、太子唐櫃古墳と同様の装飾古墳であることが明らか」
・「周囲には二重に周溝が廻る」
という現地説明板にはない記事が記載されている。

「太子唐櫃古墳」とあるが、これは、後ほど探訪する予定としていたが、未探訪となった「太子古墳」(地元では「太子の唐櫃(カロウド)」とも呼ばれている)のことである。
朱色の丸紋が多数描かれていたが、今は褪色しているという。
虎塚古墳(茨城県ひたちなか市)より南に、折越十日塚古墳や太子古墳などの装飾古墳が存在することを知った。

12時半、昼餉時。
朝方、コンビニで調達した握り飯を頬張る。

畑の遥か向こう、北西方向に、筑波山が見える。
a0289546_07404099.jpg

ズームアップ!
電柱の右に見える大型の照明設備は土浦日大高校/かすみがうら桜グラウンド。
先ほど、行き過ぎて、グラウンド近くまで行ったので、よくわかるのである。
道を間違えたお陰で何か新しいものを知るということは時々ある。
このグラウンドを知ったからどうという訳ではないが、土浦日大高校の野球部が甲子園に出場したときはあのグラウンドで練習したんだろうとイメージは出来る。
a0289546_07411857.jpg

折越十日塚古墳の被葬者は、生前、筑波山の見えるところに自らの墓を築造することを望んだかもしれない。
先ほどの牛渡銚子塚古墳からは筑波山は見えなかったが、墳丘に上っていれば、見えたかもしれない。
因みに、筑波山を望む絶妙の地にある古墳は舟塚山古墳(石岡市北根本)とその東側にある府中愛宕山古墳である。

説明板にある通り、そして、この目で見た通り、墳丘全体が樹叢・竹林でおおわれており、墳丘に上るのは控えた。

次の探訪地、坂稲荷山古墳へと向かう。

フォト:2018年12月28日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-29 23:35 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/牛渡銚子塚古墳』 kk-4

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ヶ浦ポタリング。

牛渡牛塚古墳から、次の探訪地、牛渡銚子塚古墳へ。

県道118号線を東へ走り、目印の牛渡郵便局の角を左折、県道141号線に入る。
直ぐに上り坂となる。
坂道を上り切り、三叉路に至る。
地図によれば、道なりに左へ行けば県道、右へ行けば、牛渡銚子塚古墳方面。
有難いことに「右、牛渡銚子塚古墳」の標識あり。
自信を持って、右折。

平坦な台地を走る。
道沿いに民家はあるものの、殆どは畑と森。
右手に牛渡銚子塚古墳が見えて来た。
a0289546_18354289.jpg

牛渡銚子塚古墳。

前方部付近に立つ説明板に目を通す。
a0289546_18403645.jpg

---------------------------------------
市指定文化財 牛渡銚子塚古墳(うしわたちょうしづかこふん)
所在地 かすみがうら市牛渡字銚子塚4002ノ2
指定 昭和49年3月22日

前方後円墳
全長 約64m
前方部高さ 約2.7m
前方部幅 約38m
後円部高さ 約5.6m
後円部径 約34m

牛渡下郷集落北西部に位置し、前方部を西に向ける前方後円墳で、墳形は後円部に対し前方部が低く美しい古墳です。
常陸国府に下向した勅使がこの地で亡くなり、遺体を埋葬した古墳であるとの伝説から、別名「勅使塚」といわれています。
銚子(チョウシ)と勅使(チョクシ)の発音が類似するところからこの名称がついたものと思われれます。
5世紀に築いたものと推定されています。
かすみがうら市教育委員会
------------------------------------------

先ほどの牛渡牛塚古墳(円墳)は、霞ヶ浦を船で渡った勅使をあとを追い掛け、泳ぎ、力尽きた牛を葬った古墳との伝説。
こちらの牛渡銚子塚古墳(前方後円墳)は、勅使を葬った古墳との伝説。
いずれも築造時期は5世紀。
辻褄はあっている。
片や、前方後円墳、片や、円墳、この円墳が陪塚であればもっとよいのだが(距離的に数キロ離れていること、勅使より牛が先に死に、「牛塚」が築造されているので、陪塚は成立しないが...)。

説明書きに目を通し、カメラに収める、古墳探訪の相棒、武衛さん。
a0289546_00073997.jpg

墳丘の北側から、後円部、くびれ部、前方部の順に眺める。
墳丘の周囲はすべて畑。
後円部の奥(南東)に酪農を営んでいる農家がある。
上掲の写真の説明板の奥に”MEIJI”の名が見えるのがそれである。

北東部から後円部を望む。
a0289546_00133042.jpg

少し、アップで。
a0289546_00301892.jpg

北東部から、くびれ部~前方部を望む。

a0289546_00333931.jpg

北西部から、くびれ部~後円部を望む。
a0289546_00344050.jpg

北西部から前方部を望む。
a0289546_00390659.jpg

西側に回り込んで、前方部西端を望む。
a0289546_00414300.jpg

更に回り込んで、南西部から前方部を望む。
a0289546_00430247.jpg

墳丘には囲いがあるので、墳頂には上らず。

牛渡銚子塚古墳の東にある酪農農家の東隣に<こんもり>が見える。
これも古墳と思われる。
a0289546_00471273.jpg
アップで。
a0289546_00511384.jpg

霞ヶ浦湖畔に築造された牛渡牛塚古墳にまつわる伝説。
その北の台地(霞ヶ浦は見えない)に築造された牛渡銚子塚古墳にまつわる伝説。
説明板には、これらの二つの古墳の関係は記されていないが、勅使と勅使が乗っていた牛車の牛ということなので、ふたつが組み合わさった伝説でもよいと思うのだが(勅使が亡くなったことを悲しんで牛車の牛が死んだというようなこと)。
ともあれ、なかなか面白い古墳であった。

次の探訪地、折越十日塚古墳へと向かう。

フォト:2018年12月28日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-29 23:34 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/牛渡牛塚古墳』 kk-3

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ヶ浦ポタリング。

崎浜横穴古墳群から、次の探訪地、牛渡牛塚古墳へ。
県道118号線を東へ走れば、県道沿いの左手に牛渡牛塚古墳が現れるはずであるが、県道を走るよりも湖畔を走った方が気持ちがよいので、再び、湖畔の自転車道を走る。

湖畔の自転車道の適当なところから左折し、県道118号線へ。
ぴたりと目的地のところに出た。
企画段階での、ヴァーチャル・ポタリングのお陰である。

牛渡牛塚古墳。
a0289546_23145696.jpg

ズームアップ。
a0289546_23161635.jpg

鳥居と祠。
古墳でしばしば見る姿。
a0289546_23184400.jpg

鳥居の脇に説明板らしきものがあった形跡があるが、破損したのか、説明板そのものはない。

代わりに、かすみがうら市ホームページを参照。
-----------------------------------------
牛渡牛塚古墳(うしわたうしづかこふん)
市指定文化財
指定年月日 昭和49年3月22日
所在地 かすみがうら市牛渡2041-1
所有者又は管理者 個人

市内で最も標高が低いところに築かれた円墳で、霞ヶ浦に面しており、直径約40m、高さ約4mを計ります。
その昔、常陸国府へ向かう勅使を乗せてきた牛が、霞ヶ浦を船で渡った勅使を慕って泳いできましたが、力つきてこの地で亡くなったので、手厚く葬ったとの伝説が残されています。
周辺より壺形埴輪片が採集されていることから、5世紀頃に築造れたものと考えられています。
-----------------------------------------

数行ではあるが、短い中になかなか興味深い記述がある。
先ず、古墳の名の由来。
この由来を読み、菅原道真と牛の逸話が頭に浮かんだ。

更に思うことは、常陸国府へ向かう勅使が乗っていた船の行き先は、霞ヶ浦の北端、高浜であることは間違いないであろう。
何故なら、高浜は、常陸国府(石岡市総社1丁目、石岡小学校付近)に最も近いからである。
或いは、高浜から更に恋瀬川を数キロ遡ったところであったろう。
一方、勅使の乗った船は霞ヶ浦のどの辺りから出発したのであろうか?
牛が力尽きた牛渡の対岸は現在の美浦村、これが最短。
或いは、潮来市に牛堀なる地名があるので、この辺りかもしれないと想像する。
但し、現在と当時では霞ヶ浦の水域は異なっており、何とも言えないということもある。

墳頂に上る。

墳頂の中央に立つ碑。
a0289546_23474005.jpg

碑には「牛司大權現」と刻まれている。
「牛司大權現」の両脇には「大同二年」「□辰二月」と刻まれている。
「牛司大權現」は、上述の伝説の通り、力尽きた牛が権現となり、祀られていると理解出来る。
「牛司」という言葉は知らないが、「馬司(=馬寮:律令制で、官馬の飼養・調習や馬具のことを扱い、また、諸国の御牧の馬をつかさどった役所)に倣い、「牛司」としたのかもしれない。
「大同二年」は西暦807年、牛の命日は802年2月ということであろう。
なお、上掲の鳥居と祠の写真のキャプションとして「鳥居と祠。古墳でしばしば見る姿。」と記した。
先に解説を読んでおれば、「牛司大權現」を祀った鳥居と祠と記していただろう。

墳頂に置かれた石。
こういう石を見ると、丸いものであれば、葺石、四角いものであれば、石室に使われた石材ではないかと思うのが常である。
a0289546_07082145.jpg

墳頂から北側を望む。
池がある。
周囲はレンコン田なのに、この池はレンコン田ではない。
この池は、昔、周濠の一部だったのではないかと勝手に想像するのであった。
a0289546_07083714.jpg

墳頂から東側を望む。
こちらはレンコン田。
a0289546_07131642.jpg

墳頂から南側を眺める。
墳丘、祠と鳥居、県道、レンコン田、霞ヶ浦。
a0289546_07173608.jpg

霞ヶ浦対岸に、小さく見える、牛久大仏を発見。
a0289546_07191809.jpg
ズーム・アップ!
a0289546_07261242.jpg
更にアップ!
a0289546_07265290.jpg

牛渡牛塚古墳から眺める牛久大仏。
「牛」繋がりの、奇縁である。

次の探訪地、牛渡銚子塚へと向かう。

フォト:2018年12月28日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-29 23:33 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/崎浜横穴古墳群』 kk-2

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ヶ浦ポタリング。

土浦駅から湖畔の自転車道へ入り、目指すは最初の探訪地、崎浜横穴古墳群。

崎浜横穴古墳群に到着。
が、しかし、ザック置き忘れ事件が発生。
途中休憩したところまで、バック。
再び、崎浜横穴古墳群に到着。

崎浜横穴古墳群。
西側から、左手にある横穴を見通す。
a0289546_14410724.jpg

左手に横穴を眺めながら東へ。
横穴群の東端の空き地に jitensha を止める。

「史跡 崎浜横穴古墳群」。
a0289546_14443692.jpg
a0289546_14465669.jpg

説明板に目を通す。
a0289546_14545628.jpg

説明板の、先ず、左部分から目を通す。
---------------------------------------
崎浜・川尻ジオサイト
筑波山地域ジオパーク
霞ヶ浦ゾーン/地質・地形サイト

カキ化石床の歴史遺産
磯浜から川尻にかけては、約15万~12万年前に、この地域が海(古東京湾)であった時代の干潟に生息していたカキ化石の密集層が見られます。
これらのカキ化石床を含む地層を掘り抜いて作れれた崎浜横穴墓は貴重な歴史遺産となっています。
また、約7000年~6000年前の縄文海進時後の海面低下で形成された湖岸低地帯は見渡す限りのハス田となっており、レンコンの一大山地となっています。
---------------------------------------

説明板の下段部分を読み進む。
---------------------------------------
「海岸準変動と海岸線の変遷」
最終間氷期には海水面が上昇して古東京湾と呼ばれる浅海が広範囲に広がり、当時の海岸線は筑波山麓に達していました。
やがて氷期を迎えて海水準が下がると、河川が大地を下刻して谷が形成されました。
当時の地層からナウマンゾウの化石などが産出しています。
縄文時代前期には、温暖な気候のもとで谷に海水が入り込み、やがて土砂が深い谷間を埋めて、低地が形成されました。
当時の海岸線付近には貝塚が多数のこされており、人々の生活の様子がうかがえます。
霞ヶ浦は近世になって海の入り江から汽水湖、そして淡水湖へと姿を変えてきました。
a0289546_15104240.jpg
①古東京湾の時代/最終間氷期(約12万年前)
②旧石器時代の関東平野/最終氷期(約2万年前)
③縄文海進と海の流入/縄文時代(約6500年前)
④現在(利根川流域変更、霞ヶ浦淡水化などの人工改変もなされた)
------------------------------------------------

古東京湾の海岸線が筑波山麓から関東平野一帯にまで達していた図は、以前、木下貝層(千葉県印西市)の説明板でも見たことがあり、興味深く思った記憶がある。
因みに、木下貝層とは次の通りである(現地説明板、抜粋)。
----------------------------------------------
国指定天然記念物 木下貝層(きおろしかいそう)
平成14年3月19日指定
木下貝層は、千葉県北部から茨城県南部に広く分布しており、印西市木下で最初に調べられたので、この名前が付けられました。
この貝層は、約12~13万年前の地層で、その頃の関東平野には、「古東京湾」と呼ばれる大きな内湾が広がっており、その内湾の波浪や潮流によって貝殻が集められ堆積したものが木下貝層です。
ここに見られる貝化石は、タマキガイ、バカガイ、キオロシアサリ、サラガイ、マメウラシマガイなどです。また、このほかにカシパンウニもよく出てきます。
これら貝類と同一の種類は、現在でも海岸や海岸より少し沖合いに生息しています。
木下貝層は、当時の浅海に堆積した化石や様々な堆積構造を含むだけでなく、関東平野の地層研究の端緒となったことが、地質学的に重要であることにより、天然記念物に指定されました。
印西市教育委員会-
----------------------------------------------

「古東京湾」のことを木下貝層や崎浜横穴古墳群でマルチにベンキョー出来た。

ナウマンゾウの骨は印旛沼でも発見されており、北印旛沼と西印旛沼の間の捷水賂のコンクリート壁に「ナウマンゾウ発掘の地」のプレートがあり、また、西印旛沼の双子公園にはナウマンゾウの親子像がある。

「印旛沼/ナウマンゾウ発掘の地」に関するマイ・ブログを紐解いてみると次の通り綴っている。
-----------------------------------------------
印旛沼捷水路沿いを走る。
「ナウマン象発掘地」の石標に目を通す大給守、武衛ご両氏。
(写真)
小生も久しぶりに石標に目を通す。
(写真)
**************
ナウマン象発掘地ナウマン象の化石は、1966年(昭和41年)の印旛水路工事でブルドーザーによる掘削中に発見されました。
当時、日本で頭、胸、足の骨がそろって発見されたのはこれが始めてで、貴重な資料であったため発掘調査が行われ、約3万年前の化石であることが判明しました。
復元されたナウマン象は、体高2.17m、体長3.4mで現在のアフリカ象に似ています。
この化石があった地層は、以前そこが沼地であり、象が水辺で沼に落ち込んで死んだものと思われ、台地の崖から崩れ落ちた土砂に埋もれてしまったものではないかと考えられています。
***************
ひとしきり、ナウマン象の話題で盛り上がる。
ナウマン象はナウ万年前におったんですかね、などと阿呆な駄洒落を飛ばして、再び、捷水路を走る。
-----------------------------------------------

今月1ヶ月の中で、ナウマン博士の名前に二度触れることとなった。
一度目は、今月初め、明治大学博物館で、日本考古学の父ともいわれるウィリアム・ガウランド展を見学する中、須恵器について「出雲と備前は自身の調査時、土佐は地質学者のナウマンから入手したもの」との解説があり、ナウマン博士の名前に触れた。
そして、二度目は、月末に崎浜横穴墓群で、再び、その名に触れたのであった。

続いて、説明板の真ん中部分に目を通す。
a0289546_15193331.jpg
---------------------------------------
崎浜、川尻のカキ化石床
約13万~12万年前のマガキ化石が密集する地層。
崎浜ではマガキの遺骸が潮流で掃き寄せられて集積した様子が、川尻ではマガキが生息時の直立姿勢をとったままで埋積されており、「リレー戦略」と呼ばれるマガキが少しずつ泥に埋まりながら上方へ成長した様子が観察できます。
(写真)
浜崎カキ化石床
川尻カキ化石床
---------------------------------------
浜崎カキ化石床の横穴墓
崎浜カキ化石床の墓は、横穴を掘って死者を葬るタイプのもので、横穴墓と呼ばれています。
一段高くなっているところは、遺体を安置した場所です。
このタイプの墓は、茨城県の南部では非常に珍しく、とても貴重なものです。
(写真)
亡くなった人を安置したところ(赤色で図示)・・・後掲写真、参照
---------------------------------------
霞ヶ浦周辺の古東京湾貝化石
霞ヶ浦周辺では、カキ以外にも様々な海棲貝化石が見つかっており、これらは約15万~12万年前の古東京湾時代の貝です。
中には、トウキョウホタテのように、現在では絶滅してしまった貝も確認されています。
(写真)
歩崎周辺の貝化石
----------------------------------------
湖岸低地のハス田
この地域の地形の徳高は、縄文海進時の際に寄せられた波で削られた浸食崖とその後の海面低下で形成された波で削られた浸食崖とその後の海面低下で形成された湖岸低地であり、現在、この低地を利用したハス田でレンコンが生産されています。
(写真)
レンコン田
---------------------------------------

a0289546_15235906.jpg


地形を確認するため、少し離れて、東側から遠望する。
a0289546_14455999.jpg

カキ化石床と横穴墓を見分する。

先ず、カキ化石床から。
a0289546_17244920.jpg
a0289546_17251098.jpg

カキ殻。
a0289546_17252969.jpg

「カキ殻をアップで撮っても、その大きさを示すことにはなりませんね」。
「では、私のスマホを脇に置いてみましょう」。
「グッド・アイデア。そういえば、昔、几号水準点めぐりのときはメジャーを携行していたことがありますね」。
a0289546_17275131.jpg

カキ化石床のほかにこうした崖表面も露出している。
a0289546_17313793.jpg

つづいて、横穴墓を見分。
a0289546_17351047.jpg
a0289546_17390062.jpg

片側石床が設けられた横穴墓。
a0289546_17412617.jpg

両側に石床を備えた横穴墓。
a0289546_17492120.jpg

こちらも両側に石床を備えた横穴墓。
この横穴墓は、上掲の説明板で「亡くなった人を安置したところ」と赤色で図示していたものである。
a0289546_17562788.jpg
少し角度を変えて。
a0289546_17574172.jpg

この横穴墓は、最奥に横向きの石床が備えられていたようにも見える。
a0289546_18033427.jpg

横穴墓は、昨年4月、水町遺跡(福岡県直方市)で見学して以来、興味を持ち、各地の横穴墓を巡って来た。
・水町遺跡(福岡県直方市)
・黒岩横穴古墳群(埼玉県吉見町)
・吉見百穴(同上)
・比丘尼山横穴墓群(埼玉県東松山市)
・十五郎穴(茨城県ひたちなか市)
・崎浜横穴墓群(茨城県かすみがうら市)
こうして、複数ヵ所の横穴墓を探訪して来たことでもあり、ここら辺りで、横穴墓に関するベンキョー結果を纏めてみたいと思っている。

次の探訪地、牛渡牛塚古墳。
県道118号線を東へ走れば、県道沿いの左手に牛渡牛塚古墳が現れるはずであるが、県道を走るよりも湖畔を走った方が気持ちがよいので、再び、湖畔の自転車道へと向かう。

フォト:2018年12月28日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-29 23:32 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 29日

『年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018/序』 kk-1

12月28日(金曜)、晴れ。
年末恒例、霞ケ浦ポタリング。
年末開催の霞ケ浦漁師市と古墳探訪をセットにしたこの企画は、4年連続、4回目となる。

探訪した霞ケ浦周辺のメインの古墳は;
初回(2015年)舟塚山古墳ほか(石岡市)
2回目(2016年)三昧塚古墳ほか(行方市)ほか
3回目(2017年)富士見塚古墳ほか(かすみがうら市)
初回のメンバーは、大給守さん、伊豆守さん、上総の3名であったが、それ以降は、武衛さんと上総の2名。

今回は、富士見塚古墳が位置する霞ケ浦中岸に点在する古墳をめぐることとし、前回、かすみがうら市立水族館脇で撮影した観光館内図を参考にしてプランを立てた。
a0289546_06484971.jpg

先ず、土浦駅方面~霞ケ浦大橋西詰~高浜駅方面の反時計回りの順で、古墳をピックアップ(土浦駅、高浜駅、いずれからスタートするかは当日の風向きを見て)。
1.崎浜横穴古墳群(比較的、湖畔近く)
2.牛渡牛塚古墳(同上)
3.牛渡銚子塚古墳(湖畔から北奥、かすみがうらOGMの南側)
4.打越十日塚古墳(同上)
5.坂稲荷山古墳(同上)
=かすみがうら市立水族館から、県道118号線を道なりに、霞ヶ浦大橋西詰、富士見塚古墳を過ぎて、北西へ=
6.太子古墳・・・未達
7.風返稲荷古墳・・・未達
8.風返浅間山古墳・・・未達
9.風返大日山古墳・・・未達
-----上掲の案内図外、道路地図参照-----
10. 山崎古墳(石岡市石川、目印:鹿島神社)

7:57 土浦駅着。
jitensha を組み立てる。
霞ヶ浦方面へ向け、出発する。
コンビニで昼餉の握り飯を調達する。
コンビニは、駅舎下のローソンではなく、毎度、ご用達の、県道263号線沿いのファミリーマートで。

土浦駅発とするか、高浜駅発とするかは、当日の風向き次第としていた。
冬場は、北もしくは北西からの筑波おろし。
土浦駅発であれば、往路は追い風。
復路は土浦駅へ向かおうが、高浜駅へ向かおうが、向かい風は必定だが、高浜駅へ向かう方が比較的マシ。
ということで、土浦駅で下車したのであった。

県道263号線の天皇橋を渡り、右折、霞ヶ浦サイクリングロードに入り、湖岸で出る。
天気予報では、北西のち北の風、最高気温6度。
天気予報通り、追い風である。
さほどの寒さは感じない。

波立つ土浦入りを右手に見ながら快調に走る。
目指すは、最初の探訪地、崎浜横穴古墳群。
a0289546_10365480.jpg

静水水域。
湖岸は地形によって静かな水域もある。
a0289546_10411403.jpg

左手に、土浦名物、レンコン田を眺めながら快調に走る。
土浦産レンコンについては、過去のブログで縷々綴って来たので、ここでは簡単に。
a0289546_10423970.jpg

レンコン田の鳥除けネットに引っかかってしまったオオバン。
残酷とは思うが、左足を動かしたり、首を動かしたりして何とか逃れようとするオオバンの写真を3葉。
a0289546_10483880.jpg
a0289546_10485365.jpg
a0289546_10491078.jpg

足をバタつかせたり、首を動かしたりするが、右足がしっかりとネットに絡まってしまっており、どうしようもない。
可哀そうだと思うが、自業自得。
自業自得とは、こういうことである。
我がフィールドの手賀沼のオオバンは市の鳥になるほどの鳥で、害鳥ではない。
しかし、霞ヶ浦のオオバンは、レンコン農家にとっては害鳥である。
何故なら、レンコン田の水底に潜って、レンコンを食い荒らすのである。
以前、レンコン農家の人に聞いた話では、レンコンは水深1mくらいのところで栽培しているが、収穫が大変なので、浅い水深で栽培しているレンコンもあり、水深1mではオオバンの被害はないが、浅い水深ではオオバンは容易にレンコンを食い荒らすとのことであった。
ということで、鳥除けネットをレンコン田に張っているのである。
ということで、そこに引っかかってしまうオオバンは自業自得ということになる。

昔、ポルトガルのセシンブラという漁村のリゾート地で過ごしたことがある。
朝、散歩をしていたとき、漁網に引っかかったカモメを見つけた。
突っつかれそうになりながら、「こりゃ、助けてやるんだから、突っつくな」と言い聞かせながら(ポルトガルのカモメだから日本語は通じないんだろうけどね)、何とか、網から解いてやったことがあった。
毎年末、霞ヶ浦で、鳥除けネットに引っかかったオオバンを見るたびに、ポルトガルでのこのことを思い出すのである。

レンコンの収穫風景。
a0289546_11055224.jpg

胸まで浸かっての収穫作業。
筑波下しの冷たい風と相まって、年に幾人かは大変なことになることもあるという。
そんな話を作業中のレンコン農家の人から聞いたこともある。
併せて、出荷調整をしているという話も聞いたことがある。
出荷調整は価格の乱高下を避けるということであろう(確かに、レンコンはお安くはない)。
ということは、収穫作業は過酷であるが、収入はガッポリということと相成ろう。

途中で、一服。
冬とはいえ、水分補給は大事。

再び、出発。
おおよそ、この辺りだろうというところから左折し、湖畔の自転車道を外れ、県道118号線に出る。
県道に出たところで、直ぐに横穴が現れた。
企画檀家で、ヴァーチャル・ポタリングをしていたお陰である。

最初の探訪地、崎浜横穴古墳群に到着。

「あれっ!さっき、休憩したところにザックを置き忘れっ!」。
急ぎ、取りに戻る。
こういうとき、忘れ物は、誰にも気づかれず、置き忘れた場所にそのままあるのがベスト。
そう祈りながら、走る。
風は向かい風、結構、きついが、これも運動だっ!
忘れ物の主は、向かい風に拘らず、流石に走るのが速い。
小生は、途中、100m以上も遅れてしまった。
ザックは、無事、あった!

再び、追い風を楽しみながら、崎浜横穴古墳群に到着!

フォト#1:2017年12月29日
フォト#2~#7:2018年12月28日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-29 23:31 | 年末恒例、霞ケ浦ポタリング 2018 | Comments(0)
2018年 12月 24日

『吉備国史跡めぐり/造山古墳から総社駅へ』 kk-7

12月22日(土曜)、曇りのち晴れ。
四国に所用があり、その途中、岡山から少し足の延ばし、総社へ。
総社駅前で自転車をレンタル。
吉備路自転車道を走り、先ず、作山古墳を探訪。
続いて、備中国分寺を探訪。
続いて、こうもり塚古墳を探訪。
続いて、総社吉備路文化館で展示物を見学。
続いて、備中国分尼寺跡を探訪。
続いて、造山古墳を探訪。

曇り空、備中国分尼寺跡を出発したときには降雨、造山古墳に着く頃には晴れに。

造山古墳をあとにして、総社駅に戻るべく、吉備路自転車道を西へ走る。

こうもり塚古墳。
a0289546_18565113.jpg

こうもり塚古墳の遠望写真を撮っていたところ、「古墳めぐり、如何でしたか?」と声を掛けられた。
総社駅前のレンタル自転車店の人であった。
10人ばかりの若い人と一緒であった。
観光案内をしているところらしい。

「はい、お陰さまで、プラン通り、造山古墳まで見学できました。お奨めの吉備路文化館に立ち寄りました。今、総社駅へ戻る途中です」。
「それはよかったです。駅まで、あと30分くらいです」。

時計を見る。
時計は15時45分を指している。
日暮れまでに総社駅に着ける。
十分である。

「吉備路文化館のAさんから奨めのあった楯築弥生墳丘墓など、まだまだ吉備路自転車道の周辺は奥が深いんで、また、来ます」。
「お待ちしております。気を付けてお帰りください」。

備中国分寺。
以前、参拝したことがあり、時間セーブのため、往路は境内に入らず。
帰路、時間的な余裕があれば、境内に入ろうと思っていたが、パスさせて戴き、先へと進む。

a0289546_00355050.jpg

五重塔と吉備路自転車道。
往路は曇り空であった。
帰路は青空。
記憶する限りにおいて、往路と同じアングルで。
a0289546_00361665.jpg
a0289546_00363938.jpg
a0289546_00374251.jpg
a0289546_00380318.jpg

国道429号線を横切る。
東側からの作山古墳をカメラに収める。
a0289546_00393337.jpg

作山古墳、南西角からカメラに収める。
午前中、墳丘に上ったのは、この前方部西南角の踏み分け道から。
a0289546_00400996.jpg

田畑を挟んで、作山古墳を遠望。
16:00 pm ちょうど。
師走の夕陽を背に受けて。
a0289546_00402947.jpg

少し、ズームアップして。
a0289546_00410795.jpg

総社市観光イラストマップ。
a0289546_00412456.jpg

次回の吉備国史跡めぐりの粗案を考えながら、走る。

16:15 総社駅前に到着。
自転車を返却。
岡山行きは伯備線と桃太郎線(吉備線)がある。
16:51総社発/17:22岡山行き(伯備線)
16:54総社発/17:35岡山着(吉備線)
桃太郎線(吉備線)は乗ったことがないので、これに乗ってみたいと思うが、岡山に少しでも早く着いておくことが旅のジョーシキ。
ということで、伯備線に乗車。
こうして、吉備国史跡めぐりを終えたのであった。

=備忘録=
<プランA>
国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社めぐりの一環として。
□備中国府跡(推定地/総社市金井戸、総社市指定史跡「伝備中国府跡」)
 ・備中国は、9郡97郷が管轄下にあり、国府はそのうちの賀陽(かや)郡に置かれたと記録されている。
 ・国府が置かれた場所は定かではない。
 ・総社市金井戸付近に「国府」「国府西」「北国府」「御所」などの地名が残り、この地が有力候補地となっている。
 ・そのほか、総社宮付近(総社市総社、伝国府跡の西約5km)や、西阿曽周辺(備中国分寺の北約4km)の説もある。
□備中国総社宮
□備中国分寺跡・・・済み ※次回、境内を今一度。
□備中国分尼寺跡・・・済み ※南門跡、残っておれば。

<プランB>
鬼ノ城
鬼ノ城は「日本100名城」の69番目。
義弟は城郭めぐりを趣味としている。
既に「日本100名城」を終え、現在は「続日本100名城」をめぐっているという。

義弟曰く「自転車では無理ですよ」と。
「きみはどうやって行ったんや?」。
「バス路線はなく、タクシーがレンタカーということで、レンタカーで」。
「ということは、四輪がちゃんと通れる道なんやね」。
「道は舗装路です」。
「ということは、自転車でも安全な道やね」。

この情報に基づき、次のようなプランを考えた。
(ケース1)
jitensha 携行で、総社駅から鬼ノ城までタクシー。
帰路は、高度確保しているので、jitensha で<下りま専科>。
(ケース2)
総社駅から鬼城山の麓まで自走(直線距離にして約5km)。
鬼城山の麓から鬼ノ城までの坂道は<押し>も含めて登坂(約4km)。
帰路は<下りま専科>。

<プランC>
国府跡・国分僧寺跡・尼寺跡・総社めぐり
総社駅
~備中國総社宮
~備中国府跡(推定地)
~備中国分寺・・・探訪済み
~備中国分尼寺跡・・・探訪済み

<プランD>
吉備路自転車道周辺の古墳+楯築弥生墳丘墓
総社駅
~作山古墳・・・探訪済み
~角取山古墳(円墳)
~持坂20号墳(方墳)
~宿寺山古墳(前方後円墳)
~江崎古墳(前方後円墳)
~こうもり塚古墳・・・探訪済み
~法華古墳群
~折敷山古墳(方墳)
~造山古墳・・・探訪済み
~榊山古墳(造山第1号墳)
~千足古墳(造山第5号墳)
~楯築弥生墳丘墓
~足守川沿いを下り伯備線・山陽本線/庭瀬駅へ(約5km)
※庭瀬駅の西、中庄駅(約5km) 、倉敷駅(約5+4=9km)

次回は、これらを組み合わせての吉備国史跡めぐりと相成るだろう。

フォト:2018年12月28日

(完)


# by ryujincho | 2018-12-24 23:37 | 吉備国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 12月 24日

『吉備国史跡めぐり/造山古墳』 kk-6

12月22日(土曜)、曇りのち晴れ。
四国に所用があり、その途中、岡山から少し足の延ばし、総社へ。
総社駅前で自転車をレンタル。
吉備路自転車道を走り、先ず、作山古墳を探訪。
続いて、備中国分寺を探訪。
続いて、こうもり塚古墳を探訪。
続いて、総社吉備路文化館で展示物を見学。
続いて、備中国分尼寺跡を探訪。
続いて、造山古墳へ向かう。

備中国分尼寺跡を出発すると直ぐに雨が降って来た。
曇り空ではあるが、雨の天気予報ではなかった。
しかし、総社駅前のレンタル自転車店の配慮が素晴らしい。
自転車の前駕籠にビニール製の雨合羽を準備してくれているのだ。
早速、ビニール製雨合羽を着て、走り始める。
しばらく走ると、雨は上がり、曇り空、そして、遂に青空が顔を出した。
有難い!

前回、2010年に吉備路自転車道を走った際、自転車道の脇に古墳の模型があったと記憶する。
それを目印に走っていたが、「右、造山古墳」の標識に従い、右へ。
ぐるっと回り込み、造山古墳の東側へ出た。

この日の古墳探訪のメインといってもよい造山古墳に到着したときには、見事に晴れとなった。

「史蹟 造山古墳」。
a0289546_10063381.jpg

上り口の説明板に目を通す。
----------------------------------------------
造山古墳
長径350mの前方後円墳。
履中天皇陵に次いで全国第4位の規模をもち、上・中・下の3段の墳丘をつくり、埴輪円筒列をめぐらせてあった。
付近の6基のうち、千足古墳の石室には、直弧紋様の装飾彫刻を施した槨障がある。
----------------------------------------------

「履中天皇陵に次いで全国第4位の規模をもち」については、第一話の作山古墳の巻で「造山古墳と作山古墳」の中で縷々述べた通りである。

造山古墳は、主軸を南西・北東(南西/前方部、北東/後円部)に置き、墳丘長約350メートル、後円部幅約190メートル 前方部幅約215メートル、高さ約24メートルの前方後円墳。

「履中天皇陵に次いで全国第4位の規模」とは;
第1位 大山古墳(第16代仁徳天皇陵)墳丘長525m 5世紀前期-中期
第2位 誉田山古墳(第15代応神天皇陵)墳丘長 425m 5世紀初頭
第3位 上石津ミサンザイ古墳(第17代履中天皇陵)墳丘長365m 5世紀前半
第4位 造山古墳(吉備全域を統括する大首長墓)墳丘長350m 5世紀前半 
上位の3基は宮内庁管理により立入禁止、一方、造山古墳、作山古墳は立入可。
ということは、造山古墳は立入可の古墳としては全国第1位の規模と相成る。

「上・中・下の3段の墳丘をつくり」は、3段築成のことである。

「付近の6基のうち、千足古墳の石室には、直弧紋様の装飾彫刻を施した槨障がある」の「槨障」とは?
ネット検索してみると、「槨障」ではなく、「障槨」にヒット。
------------------------------------------------
玄室四壁の下部に立てめぐらした板石を「石障」「障槨」「槨壁」などといい、この形式のものを「石障系横穴式石室」、「障槨式石室」などとも呼ぶ。
肥後に広く見られるところから、一般的に「肥後型横穴式石室」ともいわれる。
石障で囲まれた内部を奥・左・右の三つの箱式石棺状に仕切り石で区切り、遺体を収める屍床としている。
-------------------------------------------

標柱の「史蹟 造山古墳」に続いて「第一、二、三、四、五、六墳」と刻まれている。
これらは、説明板の「付近の6基」のことで、造山古墳とこれら6基の古墳で造山古墳群を構成している。
a0289546_10111057.jpg


造山古墳群を構成する、造山第1号古墳~第6号古墳の概要は次の通りである。
------------------------------------------
造山第1号墳(榊山古墳)
円墳もしくは前方後円墳
後円部径約40メートル
馬形帯鈎(ばけいたいこう、馬形を模 った青銅製の帯金具(バックル)の一種)や神獣鏡、銅鈴などが出土
築造時期 古墳時代中期
------------------------------------------
造山第2号墳
方墳
一辺約40メートル
周濠が存在
外堤上に埴輪列を伴い、100体以上の埴輪が出土
------------------------------------------
造山第3号墳
円墳(推定)
径約30メートル
-------------------------------------------
造山第4号墳
円墳もしくは前方後円墳
墳丘長約55メートル
墳丘端から円筒埴輪、形象埴輪(家形・短甲形)が出土
-------------------------------------------
造山第5号墳(千足古墳)
前方後円墳(帆立貝形古墳)
墳丘長約75メートル、3段築成
九州北西部の装飾古墳に類似した初期の横穴式石室をもつ
石室内に直弧文の刻まれた石障(障槨、槨壁ともいう)がある
(直弧文に関する参考)
10月、福岡県八女市/石人山(せきじんやま)古墳に隣接した資料館で、家形石棺の棺蓋に浮彫された直弧文を見学したことでもあり、直弧文に興味があり、調べてみた。
・棺蓋に直弧文を浮彫したもの・・・福岡県八女市/石人山(せきじんやま)古墳の家形石棺
・棺蓋に直弧文を線刻したもの・・・熊本県宇城市/鴨籠(かもご)古墳の家形石棺
・棺身の内面に直弧文を線刻したもの・・・福岡県久留米市/浦山古墳の家形石棺
・これらと前後して、横穴式石室の内部に安置場所を囲んで方形に立てめぐらした石障その他に直弧文を彫刻したものが現れた・・・千足古墳の石障
-------------------------------------------
造山第6号墳
円墳
径30メートル
-------------------------------------------

造山第5号墳(千足古墳)は、先ほど訪ねた総社吉備路文化館の展示パネル(航空写真)で、造山古墳の西側に位置していることを視認した。

同じく、総社吉備路文化館で貰ったリーフレット(岡山県古代吉備文化財センター発行)のマップを参照すると、造山古墳の西側に造山第5号墳(千足古墳)ほか6基の古墳が図示されている。
これらは造山古墳の陪塚とされている(一部、築造時期が異なる古墳は陪塚ではない古墳もある)。

前方部の南東側から石段を上る。
墳丘は3段築成、高さ約24m、上り甲斐がある。
因みに、この日、最初に訪ねた作山古墳は、墳丘は三段築成、高さは約23m、墳丘見学用のような道は設けられておらず、踏み分け道のような坂道で、朝方まで雨が降っていたので、よく滑り、上り甲斐があった。
その点、こちらの造山古墳は、前方部墳頂に荒神社が鎮座しているので、参道としての石段が整備されており、滑るようなことはない。

3段築成のテラス。
a0289546_00583168.jpg

前方部墳頂に至る。
正面に神社が現れた。
南東向きに鎮座している荒神社である。
後円部の墳頂に神社が鎮座している古墳が多い(と記憶する)中、この神社は前方部の先端近くに鎮座している。
a0289546_01004500.jpg

説明書きに目を通す。

a0289546_01205266.jpg

-----------------------------------------------
国指定史跡 造山古墳
当古墳は墳長約350m、後円部径約200m、高さ約24m、前方部幅約215mを測る前方後円墳で、岡山県下で第1位、全国でも第4位、自由に立入できる古墳としては全国一の規模を誇ります。
大正10年(1921年)、周辺の中小古墳(第1~第6古墳)とともに国指定史跡となりました。
古墳は、低い丘陵を切断し、土盛りや削平などを施して形を変えていきます。
墳丘は三段築成で、くびれ部両側に台形の造り出しを設けています。
墳丘表面には葺石が葺かれ、各段には円筒埴輪がめぐらされていました。
このほか、盾・靭・蓋・家などの形象埴輪もみつかっています。
埋葬施設などの詳細は未調査のため不明ですが、墳丘規模・外表施設などの有り様からみて、被葬者は当地域の首長であったと同時に、吉備全域をも統括していた大首長の地位にあったと考えられます。
また、造山古墳に次ぐ作山古墳(総社市)、両宮山古墳(山陽町)などの巨大古墳の存在は、吉備が畿内の勢力と肩を並べるほどに強大であったことをうかがわせます。
なお、前方部に置かれている刳り抜き式の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩製で、蓋には直弧紋が刻まれているなど、九州地域の石棺の特徴を持っています。
近くの新庄車塚古墳から運ばれたものとも、当古墳の前方部から出土したとも伝えられています。
-----------------------------------------------

この説明板で新たにベンキョーになったことを3点、挙げておきたい。
-----------------------------------------------
両宮山古墳(山陽町)
墳丘全長206メートルの外側に内外二重の周濠をもつ大形前方後円墳です。
昭和2年に国指定史跡となっています。
墳丘は岡山県内では造山古墳・作山古墳に続き、3番目の大きさです。
備前地域では最大の規模となります。
現在、ため池として利用されている内濠の中に前方後円形の墳丘が美しく映えています。
外濠は既に水田などの下に埋まってしまっています。
古墳の大きさは、南側の中堤からがよく眺められます。
また、前方部には両宮(伊勢)神社が祀られています。
(赤磐市教育委員会ホームページ)
※山陽町は旧赤磐郡山陽町で、2005年、赤磐郡赤坂町、熊山町、吉井町と合併し、赤磐市となった。
※最寄り駅 山陽本線瀬戸駅、北西約5km
※両宮山古墳の西に備前国分寺跡がある(備前国分尼寺跡(推定地)はその南300mにあり)
※山陽自動車道上り線の左手(北側)に、備前国分寺跡と両宮山古墳が見えると思われる。
-------------------------------------------------
阿蘇溶結凝灰岩製刳抜式舟形石棺
・造山古墳の石棺は、熊本県宇城市/鴨籠古墳(かもごこふん)の石棺と類似しているという。
・11月、今城塚古墳(兵庫県高槻市)隣接の今城塚古代歴史館で、3種類の石材、即ち、阿蘇溶結凝灰岩(馬門石)製、二上山凝灰岩製、竜山石(たつやまいし、宝殿石ともいう、兵庫県高砂市伊保山、竜山などで産出)製の石棺についてベンキョーした。
阿蘇凝灰岩製石棺とヤマト政権の関わりに関する研究など、石棺を通して九州と畿内や吉備との交流を紐解く学問があるようだ。
----------------------------------------------------
新庄車塚古墳
造山古墳の北西約300mに位置している(岡山市北区新庄上)。
円墳(径約70m)もしくは前方後円墳(全長120m)、但し、開墾で平地化され、古墳の面影はない。
なお、現在、造山古墳の前方部に置かれている石棺は、造山古墳前方部に安置されていたものを移動したか、或いは、新庄車塚古墳から移されたとあり、その根拠を調べてみたが、分からなかった。
--------------------------------------------------


造山古墳測量図。
墳丘の西側は3段築成がはっきりと見て取れるが、東側は一部、崩れているか消滅しているようである。
a0289546_01312467.jpg

前置きが長くなった。

造山古墳の墳頂で見分したを綴っていきたい。

荒神社の脇に鐘がある。
ここは神社で、寺ではない。
何故、鐘があるのだろう?と思うのだが、深くは考えないことにする。
a0289546_16010977.jpg

荒神社の脇に置かれた「石棺」。
説明板に「前方部に置かれている刳り抜き式の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩製で、蓋には直弧紋が刻まれているなど、九州地域の石棺の特徴を持っています。近くの新庄車塚古墳から運ばれたものとも、当古墳の前方部から出土したとも伝えられています」と記されていた石棺である。
「蓋には直弧文が刻まれている」とあるが、蓋は見当たらない(県か市の埋蔵文化財センターで保管されているのかな?)。
a0289546_16065386.jpg
a0289546_16070729.jpg
a0289546_16072583.jpg
a0289546_16282367.jpg

神社脇(前方部)から後円部を見通す。
a0289546_16300536.jpg

左手。
a0289546_16330739.jpg

右手。
a0289546_16332923.jpg

右手の彼方に赤い鳥居が見える。
ズーム・アップ!
後日、調べたところ、造山古墳から北東に約5km、日本三大稲荷のひとつ、最上稲荷の大鳥居であった。
a0289546_16341450.jpg

荒神社参道の石段(長い石段と短い石段の短い方の石段)を下り、墳丘の東端から後円部を見通す。
a0289546_16413370.jpg
a0289546_16415784.jpg
a0289546_16505898.jpg
a0289546_16511964.jpg

後円部墳頂まで行きたいが、立入禁止となっている。
a0289546_16513856.jpg

前方の黒いシートが見える。
黒いシートは工事中の養生シートのようである。
墳丘が少し崩れたようである。
大事な古墳、十分に養生してもらわねばならない。
a0289546_16534957.jpg

立入禁止のところから、前方部を東から西へ横切り、墳丘の西側に立つ。

前方部から後円部を見通す。
a0289546_17010342.jpg
a0289546_17012638.jpg

墳丘の西側を草を踏みしめて歩けば、後円部に行けそうだが、踏み分け道もないし、墳丘の東側は少し崩れているようだし、古墳を大事にするためには余り歩き回らないことと思い、後円部は次回の愉しみに残しておくことにした。

前方部先端方向(荒神社)を見通す。
a0289546_17164276.jpg

荒神社前に立ち、今一度、後円部を見通す。
a0289546_17174023.jpg

前方部先端付近に置かれていた石棺に目を奪われ、前方部先端からの景色を眺め忘れていた。

前方部先端部からの南西方向の景色。
a0289546_17200508.jpg

前方部墳頂から長い石段を下る。
墳丘のテラスを眺める。
a0289546_17232801.jpg
a0289546_17285637.jpg

前方部の裾に沿って南西へ、そして、南西角を曲がり、前方部の先端裾を走る。

左手に墳丘らしきものが見える。
造山古墳の直ぐ西に位置している造山第1号墳(榊山古墳)のようだ。
a0289546_17351485.jpg
a0289546_17353690.jpg

作山古墳の前方部先端の裾を走り切り、吉備路自転車道に出る。

吉備路自転車道沿いの、造山古墳群の模型と造山古墳の墳丘をセットで眺める。
a0289546_17404090.jpg

模型「造山古墳群」。
2010年の吉備路ポタリングの際に見た模型と変わりはなく、<健在>であった。
造山古墳と共に、造山第1号~第6号古墳もしっかりと見て取れる。
a0289546_18283808.jpg

造山古墳を遠望する。
よき姿をしている。
a0289546_17532246.jpg

ここから更に東へ走れば、吉備津神社、そして、岡山の市街地となる。
2010年のときは吉備津神社に立ち寄り、岡山駅まで行き、折り返し、総社の国民宿舎サンロード吉備路まで戻った。

”今日の jitensha” at 15:30 pm.。
この日の古墳探訪はレンタル自転車があって成立したもの。
レンタル自転車に感謝!
a0289546_18082052.jpg

少し西に走ったところで、牧場が現れた。
a0289546_18181714.jpg
a0289546_18215813.jpg
a0289546_18210558.jpg

古墳といえば、埴輪。
埴輪といえば、動物埴輪。
動物埴輪といえば、馬形埴輪。
古墳を探訪し、最後に牧場で馬に遭遇。
何だか嬉しい。

フォト:2018年12月22日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-24 23:36 | 吉備国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 12月 24日

『吉備国史跡めぐり/備中国分尼寺跡』 kk-5

12月22日(土曜)、曇りのち晴れ。
四国に所用があり、その途中、岡山から少し足の延ばし、総社へ。
総社駅前で自転車をレンタル。
吉備路自転車道を走り、先ず、作山古墳を探訪。
続いて、備中国分寺を探訪。
続いて、こうもり塚古墳を探訪。
続いて、総社吉備路文化館で展示物を見学。
続いて、備中国分尼寺跡へ。

総社吉備路文化館から数百メートル走ると、右手に「築地土塀跡」、左手に「備中国分尼寺跡」が現れた。

築地土塀跡。
a0289546_12163875.jpg

--------------------------------------------
築地土塀跡
備中国分尼寺は東西108m、南北216mの寺域を有し、その周囲には築地土塀をめぐらせていました。
ここにはその基部の痕跡をみることができます。
--------------------------------------------


備中国分尼寺跡。
a0289546_12171936.jpg

---------------------------------------
国指定史跡 備中国分尼寺跡
所在地 岡山県総社市上林・宿
指定年月日 大正11年(1922)10月12日

天平13年(741年)、聖武天皇が仏教の地からで戦乱や疫病などの災いから国を守るという鎮護国家の考えに基づき、国分寺と国分尼寺の建立を全国に命じました。
これが「国分寺の詔」です。
備中国では、この場所に国分尼寺が、約500m西に国分寺が建てられました。
備中国分尼寺跡では、金堂などの建物の礎石が表面に露出し、周囲を取り囲む築地土塀の跡も良好に残っており、現在でも見ることができます。
現存する築地土塀跡から、寺域は南北216m、東西108mと復元でき、その境内には、南から北へ、南門・中門・金堂・講堂が一直線に並んでいます。
なお、南門の前には東西に延びる当時の道の存在が発掘調査によって確認されました。
見つかっている瓦から、備中国分尼寺の創建は備中国分寺と同じ8世紀中頃と考えられます。
平成27年9月 岡山県教育委員会
---------------------------------------

a0289546_00411002.jpg

これまでに幾つもの国分寺跡・国分尼寺跡を見分し、且つ、伽藍配置図あるいは基壇復元、建物の一部復元などを見て来た。
それらに照らし合わせると;
・講堂の北側の建物は「建物跡」とされているが、これは「尼坊跡」であろう。(→後で見でた現地説明板では「尼坊跡」もしくは「食堂」の可能性があるとなっている)
・金堂背後の東西に配置されている鐘楼と経蔵は図示されていない(未発掘か、元々、なかったのか?)
・中門の東側にある建物は「建物跡」とされているが、これは「塔跡」であろう。(→後で見た現地説明板では「塔跡」「鐘楼」「経蔵」の可能性があるとなっている)

説明板の伽藍配置図によれば、今、立っているところは、南門と中門の間となる。

中門跡。
a0289546_12175616.jpg
a0289546_23291203.jpg

------------------------------------------
中門跡
ここには南北3.8m、東西21mの基壇の遺構があります。
礎石は残っておりませんが、基壇の遺構からみて、中門は東西に細長い門であったようです。
この中門と金堂の間には回廊で囲まれた1800平方メートルほどの平坦な広場が設けられていました。
------------------------------------------

金堂跡。
a0289546_23293807.jpg

-----------------------------------------
金堂跡
備中国分尼寺の本尊をまつっていた建物跡で、寺域のほぼ中央に位置していました。
直径約70cmの円形の柱座や地覆座をもつ大形の礎石がほぼ当初の位置に現存しており、創建時の建物は桁行五間(約20m)、梁間四間(約13m)であったことがわかります。
礎石から推定される柱の太さは約70cmで、極めて雄大な建物であったことが想像されます。
本尊は中央の奥まった位置に須弥壇を設けて安置されていました。
-----------------------------------------

a0289546_23315482.jpg
a0289546_23320954.jpg
a0289546_23322686.jpg

講堂跡。
a0289546_23403475.jpg

-------------------------------------------------
講堂跡
講堂は仏教を学ぶ施設であり、古代の寺院では重要な伽藍のひとつでした。
現存する礎石は2個を数えるだけですが、基壇と考えられる盛り土の範囲や礎石の作りから推定すると、講堂の規模は金銅とほぼ同じであったと考えられます。
-------------------------------------------------
a0289546_23442206.jpg
a0289546_23455478.jpg

講堂跡の北側の「建物跡」。
a0289546_23491515.jpg
a0289546_23511923.jpg

----------------------------------------------
建物跡
ここは金堂や講堂と同じく東西約20mの基壇跡とみられる整地面があり、何らかの建物があったことが推定されます。
伽藍の位置関係からみて、尼坊か、あるいは食堂であった可能性があります。
----------------------------------------------

金堂跡まで戻る。
金堂跡近くに建てられた標識「←金堂 塔跡→」に従い、「塔跡」へ。
a0289546_01031942.jpg
a0289546_01033334.jpg

金堂東側の「建物跡」。
a0289546_01054217.jpg

---------------------------------------------
建物跡
ここには1辺12mばかりの方形基壇の遺構があり、場所がら塔跡ではないかと考えられていました。
しかし、基壇が小規模であり、礎石も小さく、鐘楼か経蔵など別の建物がたっていた可能性があります。
----------------------------------------------


1辺12mの方形基壇の遺構を探すも、見当たらず。
おおよそ、この辺りだろうと見当をつけ、シャッターを切る。
a0289546_01060041.jpg

中門・金堂・講堂跡とその東側の建物跡の間に南北に道が通っている。
東側の建物跡から戻って来たとき、その道の脇に立っている標柱が目に入った。

標柱「史蹟 備中國分尼寺址」。
a0289546_01091583.jpg
a0289546_01095444.jpg

標柱の側面には「史蹟名勝天然記念物保存法二依リ 大正十一年十月 内務大臣指定」と刻まれている。
a0289546_01101790.jpg

史蹟名勝天然紀念物保存法は大正8年(1919年)に施行され、文化財の保護を担った。
昭和25年(1950年)に文化財保護法が制定され、史蹟名勝天然紀念物保存法は廃止された。

林の中にひっそりと残っている備中国分尼寺跡。
ほとんど手付かずの、こういう風情が好きだ。

さて、次は、全国第4位の規模を誇る造山古墳である。
備中国分尼寺跡をあとにして、吉備路自転車道を東へ走る。

フォト:2018年12月22日

(つづく)





# by ryujincho | 2018-12-24 23:35 | 吉備国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 12月 24日

『吉備国史跡めぐり/総社吉備路文化館』 kk-4

12月22日(土曜)、曇りのち晴れ。
四国に所用があり、その途中、岡山から少し足の延ばし、総社へ。
総社駅前で自転車をレンタル。
吉備路自転車道を走り、先ず、作山古墳を探訪。
続いて、備中国分寺を探訪。
続いて、こうもり塚古墳を探訪。
続いて、こうもり塚古墳の北にある総社吉備路文化館へ。

総社吉備路文化館。
総社駅前のレンタル自転車店の人から「吉備路文化館に是非、立ち寄ってください。今日はAさんという人がいるはずですので」との薦めもあり、立ち寄ってみた。

a0289546_12091945.jpg

ドアを開けると、Aさんらしき男性が現れた。
「Aさんですか。駅前のレンタル自転車店でAさんの名を伺いました。古墳を趣味としておりまして、四国へ行く途中なのですが、ちょいと足を延ばして、こちらへ来させていただきました」。
「そうですか、それはようこそ、お越しくださいました」。

2階の展示室へ。

Aさん曰く「ご存知の通り、岡山県は古墳が大変多いところです。古墳もさることながら、この辺りの特異な遺構として『楯築弥生墳丘墓』と『鬼ノ城』があります。これら二つを、是非、訪ねてみてください。鬼ノ城はちょっと遠くなりますが、楯築弥生墳丘墓は造山古墳に比較的近いところにあります」と。
「そうですか。今日は時間がありませんので、造山古墳までとしますが、是非、次回は楯築弥生墳丘墓と鬼ノ城をゆるりと訪ねたいと思います」。

Aさんと暫し古墳談義。
「先ほど、作山古墳を訪ねました。前方部の端は何やら妙な形をしてたり、後円部は楕円形であったりと、墳丘は少し歪な形になっているように思いますが」。
「その通りです。作山古墳は丘陵を削って築造されています。丘陵が少し歪んでいるので、それに合わせて造ったように思われます」。
「昨年、長野県千曲市の森将軍塚古墳を訪ねました。尾根に造られており、尾根の曲がりに応じて、見事に墳丘そのものが曲がっていました」。
「平地に盛土をして築造したものはきちっとしていますが、丘陵を削ったりしたものはどうしても歪んでしまうんでしょうね」。

ということで、作山古墳のパネルのところへ移動し、現場の説明板につづき、当館でも測量図と航空写真を眺め、<歪み>を確認した。
a0289546_18164245.jpg

更に、吉備路周辺を撮影した航空写真のパネルにへ移動。
航空写真に写る造山古墳を眺めながら、Aさんから「造山古墳は平地に盛土をしたように見えますが、これも作山古墳と同じように、独立した丘陵を削っています。大きな丘陵であったからでありましょう、造山古墳は整った形をしています」との解説あり。
a0289546_18235605.jpg

暫しの歓談のあと、Aさんは階下へ。

小生は、時間を気にしつつも、急ぎ、しっかりと展示品と展示パネルを見学。

パネル「吉備路風土記の丘と総社吉備路文化館」。
a0289546_17363201.jpg

-------------------------------------------
吉備路風土記の丘と総社吉備路文化館
「風土記の丘」は1966年(昭和41年)、文化庁の風土記の丘構想によって、遺跡・歴史資料の保存を目的として設置された、史跡等を中心とする野外博物館・公園のことです。
「吉備路風土記の丘県立自然公園」は、総社市南部を中心に1971年(昭和47年)に計画され、1975年(昭和51年)に県立吉備路郷土館が開館しました。
このうち、中心部分は風土記の丘の特別地域となっています。
この周辺には、岡山県かでも有数の遺跡が点在し、日本の歴史を考える上でも重要な地域です。
総社吉備路文化館は、県立吉備路郷土館の施設を改修し、吉備路風土記の丘の紹介と、総社市の芸術品・文化財の保存と市民の教育、学術及び文化の向上のための施設として2014年度(平成26年度)に開館しました。
-------------------------------------------

久しぶりに「風土記の丘」の<定義>を目にした。
これまで史跡めぐりの中で訪ねた「風土記の丘」を思い起してみる。
・房総のむら(千葉県立房総風土記の丘)(千葉県印旛郡栄町竜角寺)
・さきたま風土記の丘(埼玉県行田市埼玉)
・しもつけ風土記の丘(栃木県下野市国分寺)
・常陸風土記の丘(茨城県石岡市染谷)※文化庁事業外?
・近江風土記の丘(滋賀県近江八幡市安土町)
・壱岐風土記の丘(長崎県壱岐市勝本町布気触)※文化庁事業外?

航空写真。
ここまでに訪ねた場所(作山古墳、備中国分僧寺)と、これから訪ねる場所(備中国分尼寺跡)を眺める。
a0289546_17405088.jpg

航空写真。
現在地、そして、これから訪ねる場所(備中国分尼寺跡、造山古墳)を眺める。
a0289546_17412240.jpg

航空写真。
造山古墳とその付近を眺める。
a0289546_17414229.jpg

パネル「吉備路風土記の丘の歴史」。
横軸、右から左に、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代となっている。
縦軸、上から下に、吉備路周辺の主要な遺跡、岡山県内の主要な遺跡となっている。
それぞれの区分の中に、数多くの遺跡名が記されている(本ブログでの書き下しは割愛)。
a0289546_17350264.jpg

古代瓦。
国府跡・国分僧寺跡・国分尼寺跡・総社めぐり、更に、国分寺以前の氏寺(〇〇廃寺跡と称される寺)めぐり、そして、古墳めぐりに移行して来たので、一時期、国分僧寺跡や国分尼寺跡、氏寺跡など古代寺院跡から出土した瓦を集中的にベンキョーしたことがあった。
ということで、当地の古代瓦も興味深く見学。
a0289546_00485582.jpg

------------------------------------------------
備中国分僧寺・尼寺「古代の瓦」
平安時代には日本国内に68の国があったとされ、制度は奈良時代に遡ります。
(現在の行政単位は47都道府県)
聖武天皇(701~756)はこの旧国ごとに国分僧寺・尼寺のを建立しました。
現在の総社市周辺には古代の遺跡が多く存在し、山陽道が通るなどこの地域の中でも特に中心的な地域でした。
このため、この地に備中の国分僧寺・尼寺が建立されました。
展示している「古代の瓦」は、備中国分僧寺・尼寺で使用されていた奈良時代の屋根瓦です。
古代の寺院は本瓦葺きで、平瓦と丸瓦を組み合わせ葺いています。
特に軒には文様が付き、軒丸瓦・軒平瓦と呼ばれます。
文様は軒丸瓦には「蓮華」が、軒平瓦には「唐草」が用いられています。
軒丸瓦は同じ笵(型)で作られており、最も多く出土しています。
両寺院の本格的整備時に採用され、この笵は笠岡の関戸廃寺でも使用されました。
軒丸瓦はいくつかの種類が知られていますが、今回のものは展示の軒丸瓦とセットで使用されていた時期があると考えられます。
瓦は岡山県古代吉備文化センター所蔵品です。
------------------------------------------------

本葺き屋根模型(約1/5)。
a0289546_01111753.jpg

木製笵型模型(約1/2)。
a0289546_01133056.jpg

備中国分寺 軒丸瓦。
a0289546_01145705.jpg

備中国分尼寺 軒丸瓦。
a0289546_01151550.jpg

軒丸瓦の蓮華文には、素弁、単弁、複弁があり、更に、弁の数は6弁、7弁、9弁、11弁などがある。
当地の軒丸瓦は、僧寺も尼寺は同じ蓮華文だなあ、複弁だなあ、弁の数は幾つあるのだろうと数え始めたところ、今までに見て来た蓮華文とは異なることに気付いた。

今一度、じっくりと見分する。

備中国分寺の軒丸瓦をアップで。
a0289546_01155703.jpg


備中国分尼寺の軒丸瓦をアップで。
a0289546_01161594.jpg

今一度、見分して分かったことは;
・僧寺と尼寺の蓮華文は、当初の見立て通り、同じである。
・単弁と複弁が交互になっているのも、当初の見立て通りである。
・弁の数は、単弁x4、複弁x4であり、このような単弁と複弁が複合された蓮華文は初めて見るものであった(このように単弁と複弁が複合した蓮華文を何と呼ぶのであろうかとの疑問があるが、これは今後の宿題とする)。

なお、この蓮華文を調べている中で「備中においては、平城宮系瓦の採用契機は国分寺ではなく、 いずれも7世紀からの伝統的な在地寺院や窯であったことが判明した... 国分寺や諸官衙・寺院に入るのはその後出型式... しかも、国分寺では、あえて軒丸瓦の文様を変更しており、 それはむしろ平城と同文の瓦を避ける意識とも解釈できる」との説を見つけた。
となると、単弁と複弁の複合型は備中で変更されて文様なのであろうかとの思いにも至る。

或る資料で、笵型は中央が管理しており、中央から地方に貸し与えたという説を目にしたことがある。
備中が軒丸瓦の文様を変更したということは誠の興味深いことである。
何故なら、時代は異なるが、古墳時代において、前方後円墳は地位の高い者の墓なので、それより地位の低い者は前方後方墳(「後円」ではなく「後方」)になったという説のほかに、気概のある地方豪族は、ヤマト王権から前方後円墳の築造許可を得ながら、敢えて、中央とは異なるのだぞ!ということで、前方後円墳の一部を変更し、前方後方墳を築造したという説もある。
よって、時代は変わっても、国分寺の建立において、地方はそういう中央とは違うのだぞ!という意識があったのかもしれないと思うからであった。


平瓦。
a0289546_01254649.jpg
a0289546_01270028.jpg

アップで。
a0289546_01274644.jpg

数多くのパネルが展示されているが、そのうち、館員のAさんからお奨めのあった「楯築弥生墳丘墓」と「鬼ノ城」のパネルを、今後の参考のため、カメラに収めた。

パネル資料「楯築弥生墳丘墓」。
a0289546_02000122.jpg

--------------------------------------
楯築弥生墳丘墓
国指定史跡 1981年(昭和56年)12月9日
指定倉敷市矢部に所在する弥生時代後期後半の墳丘墓。
40mを超える円丘部の両側に方形の突出部が敷設された、全長約80mを測る弥生時代日本最大の墳墓です。
墳丘には巨石が立て並べられており、かつてはその中央部に楯築神社の御神体である弧帯紋を彫刻した亀石が祀られていました。
岡山大学考古学研究室によって発掘調査が実施され、円丘部のほぼ中央に木槨を築き、内部に木棺を納めた埋葬施設が発見されました。
棺内には30㎏を超える水銀朱を敷き詰め、当時の日本列島では出土例のない棗玉(メノウ製)を含む首飾りと鉄製の剣が副葬されていました。
この埋葬施設上方の墳丘上には、円礫が厚く堆積しており、破壊された弧帯石・特殊器台・特殊壺・多数の土器・鉄器などが発見されています。
このような大規模な墳丘をもち、他と隔絶した埋葬史跡を造るという行為が、日本列島で初めて行われたのはまさにこのときであり、埴輪の起源となる特殊器台が出現していることからも、吉備の墳丘墓は後の古墳に引き継がれていく諸要素をもっていたといえます。
--------------------------------------

「棺内には30㎏を超える水銀朱を敷き詰め」という記述に目を惹かれた。
弥生時代から古墳時代への過渡期の墳墓ということも、誠に興味深く、古墳探訪をする者にとっては必見であろう。
「楯築弥生墳丘墓」の「楯築」とは、立て並べられた巨石を楯に見立ててのことであろう。
この立て並べられた巨石は、後の古墳時代の形象埴輪の盾に繋がっていくようにも思わせるものがある。
また、時代も場所も異なるが、英国のストーンヘンジを思い起させたり、縄文時代の環状列石を思い起させたりもする。
グーグルマップを参照したところ、造山古墳の南東約2kmの辺りに位置している。
是非、訪ねてみたい。

パネル資料から楯築弥生墓遺跡の写真だけとトリミング。
右下に「円丘頂部の立石」とある。
a0289546_01570785.jpg

パネル資料「鬼城山(鬼ノ城)」。
a0289546_01471822.jpg

---------------------------------------------
鬼城山(きじょうざん)(鬼ノ城)
国指定史跡 1988年(昭和61年)3月25日指定
吉備高原の最南端に位置する標高約400mの鬼城山山頂に築かれた山城です。擂鉢を伏せたような
山容の8~9合目に、石垣と土を突き固めた版築土塁による総長2.8kmの城壁が築かれています。
城壁には、現在までに四つの門と六つの水門、そして、門を防御する角楼Iが確認されます。
城内には、倉庫と考えられる総柱建物五棟と、管理棟と推定される側柱建物二棟、鍛冶公房、のろし場跡、溜め井、水門上流の水を調整する土手状遺構などが発見されています。
『日本書紀』や『古事記』などの文献に記載がなく、築城の年代については謎が多い山城ですが、西暦663年の白村江の戦いの敗戦によって国土防衛のために築かれたとする説が有力です。
また、鬼ノ城は、吉備津神社の「吉備津勧進帳」にみられる、吉備津彦命と百済の皇子・温羅との戦いを記した温羅伝説の舞台にもなっています。
鬼ノ城は、非常に遺構の残りがよく、古代山城では初めて門(西門)と城壁の一部を復元しています。
(図)城域
(写真、上)屏風折れの石垣
(写真、下)復元された西門と角楼
---------------------------------------------

今年4月、大宰府政庁跡に隣接された大宰府展示館で、大野城や水城についてベンキョーした。
時間的な都合で、大野城跡や水城跡は未探訪であるが、それらと併せ、鬼ノ城も探訪してみたい。


ちょうど、展示パネルや出土品を見終わった頃、Aさんが「これ、どうぞ」と、岡山県古代吉備文化財センター発行の観光マップをわざわざ2階へ持って来て下さった。
-------------------------------
「おかやま☆遺跡探訪 吉備路とその周辺」
マップ1 吉備路とその北部 
マップ2 鬼ノ城とその周辺 
マップ3 足守川下流壱岐
---------------------------------
岡山県古代吉備文化財センターの発行だけあって、個々の史跡に関する解説もあり、誠によく出来たマップである。
有難く頂戴した。

Aさんに礼を述べ、次の探訪地、備中国分尼寺跡へ向かった。

フォト:2018年12月22日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-24 23:34 | 吉備国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 12月 24日

『吉備国史跡めぐり/こうもり塚古墳』 kk-3

12月22日(土曜)、曇りのち晴れ。
四国に所用があり、その途中、岡山から少し足の延ばし、総社へ。
総社駅前で自転車をレンタル。
吉備路自転車道を走り、先ず、作山古墳を探訪。
続いて、備中国分寺を探訪。

吉備路自転車道を東へ。
左手の奥に、こうもり塚古墳が現れた。
a0289546_23490940.jpg
a0289546_07194563.jpg

こうもり塚古墳。
主軸を南西・北東(南西/後円部、北東/前方部)に置く前方後円墳。
墳丘長 約100メートル
後円部 径:55~60m 高さ:約8m
前方部 約60m
築造時期 6世紀後半

測量図。
a0289546_07220222.jpg

石室開口部へ向かう。
a0289546_10153422.jpg

この古墳は、嘗て、仁徳天皇に愛された吉備のくろひめの墓とされ、くろひめ塚古墳と呼ばれていた。
しかし、この古墳は6世紀後半に造られたもので、仁徳天皇の時代とは100年以上も隔たりがあることから、名前の変更が考えられ、石室内にこうもりがたくさんいたことから、こうもり塚古墳と改名された。
(総社市HPより抜粋)
改名したことは、誠に的を得た対応である。

吉備の黒日売(くろひめ)とは。
-------------------------------------------------
黒日売(くろひめ)
『古事記』にみえる吉備海部直の娘。
容姿端麗なために仁徳天皇が召し使っていたが、大后の石之日売(葛城磐之媛)の嫉妬を恐れて吉備(岡山県)に帰郷する。
天皇が高台から、去りゆく黒日売の船を望見して歌を詠んだところ、大后は怒り、日売を下船させ、徒歩で帰らせた。
のちに、天皇は大后を欺いて淡路島から島伝いに吉備へ行幸した。
黒日売は菘菜(すずな)を摘み、羹(あつもの)に煮て献上し、天皇もともに菜摘みを楽しんだという。
やがて都へ帰る天皇に、別離の慕情をこめて次のような歌を献じた。
倭方に 西風吹き上げて 雲離れ 退き居りとも 我忘れめや
(やまとへに にしふきあげて くもばなれ そきおりとも われわすれめや)
(朝日歴史人物事典より抜粋)
-------------------------------------------------

a0289546_10155343.jpg
a0289546_10161702.jpg

石室開口部。
a0289546_10192925.jpg

羨道。
a0289546_10202225.jpg

玄門手前の天井石を見上げる。
a0289546_10204545.jpg

玄門の格子扉の間から石室内を見分。
a0289546_10283299.jpg

刳抜式家型石棺。
少し右壁の方に安置されている。
後述の通り、陶棺の残欠や木棺の釘が出土していることから複数の被葬者があったと推定されており、石棺を移動させたのかもしれない。
a0289546_10300308.jpg

奥壁/鏡石。
a0289546_10340271.jpg

右壁。
茶色に変色しているように見える。
何故だろうかと気になり、カメラに収めた。
a0289546_10370201.jpg


石室について。
・後円部の南南西に開口する横穴式石室(県内最大)。
・後円部南側に花崗岩の巨石を組み合わせた横穴式石室が開口している。
・全長約19.4m、羨道:長さ11.7m玄室:長さ7.7m、幅3.61m、高さ3.6m。
・玄室内には、刳抜式家型石棺がある。
 石棺の大きさは、長さ2.38m、幅1.4m、高さ1.31m、浪形石製(岡山県井原市浪形山産出の貝殻石灰岩)。
・石室内からは、金銅製単鳳環頭大刀の柄頭、鉄鏃、馬具、耳環・玉類などの装飾品、須恵器など多様な副葬品が出土。
・石棺以外にも陶棺(焼き物の棺)の残欠や木棺に使用した鉄釘が出土したことから、複数の被葬者があったと思われる。

石室展開図。
a0289546_09432271.jpg

出土品。
a0289546_10071145.jpg

石室内から開口部を見通す。
a0289546_11024356.jpg

墳丘に上ってみる。
先ほど、通り過ぎた標柱「史跡 こうもり塚古墳」の脇を抜け、踏み分け道を上る。
a0289546_10155343.jpg

上り口は踏み分け道であったが、上ってみると、テラスになっている。
これからすると、二段築成であると思われる。
a0289546_11141923.jpg

テラスを歩く。
a0289546_11143923.jpg

テラスに沿って進み、前方部の北側斜面から墳頂に上る。
a0289546_11150118.jpg

前方部墳頂には祠が2基、そして、墳頂は養生シートで覆われている。
何だか痛々しい感じである。
a0289546_11152665.jpg

墳頂は養生シートに覆われているが、立入禁止にはなっていない。
立入禁止ではないが、立ち入るのが憚れるような状態なので、そろっと足を踏み入れる。

後円部南端斜面。
石室入口の真上辺り。
a0289546_11162813.jpg

後円部墳頂から前方部を見通す。
a0289546_11172395.jpg

後円部から前方部へ向かって歩く。

墳丘の中ほど過ぎから、前方部墳頂を見通す。
a0289546_11174271.jpg

前方部北端斜面。
a0289546_11190702.jpg

前方部墳頂から後円部を見通す。
a0289546_11223037.jpg

後円部墳頂をズームアップ。
養生シートが痛々しい。
a0289546_11240435.jpg

前方部北西角から裾部に下りる。
a0289546_11271911.jpg

墳丘の西側を前方部から後円部方向に歩く。
a0289546_11314916.jpg
a0289546_11320881.jpg
a0289546_11322779.jpg

西側の田畑を挟んで、墳丘を遠望。
a0289546_11333405.jpg

航空写真で俯瞰してみよう。
a0289546_11412200.jpg

こうもり塚古墳をあとにして、次は、直ぐ北側にある総社吉備路文化館へ。

フォト:2018年12月22日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-24 23:33 | 吉備国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 12月 24日

『吉備国史跡めぐり/備中国分寺』 kk-2

12月22日(土曜)、曇りのち晴れ。
四国に所用があり、その途中、岡山から少し足の延ばし、総社へ。

総社駅前で自転車をレンタル。
吉備路自転車道を走り、先ず、作山古墳を探訪。
東へ走り、国道429号線を横切ると、備中国分寺の五重塔が見えて来た。
8年ぶりに見る風景である。
8年前は、国道429号線沿いの国民宿舎「サンロード吉備路」からスタートし、吉備路自転車道のこの辺りから東へ向け、走り始めたのであった。
a0289546_22064820.jpg
a0289546_22260048.jpg
a0289546_22263475.jpg

柿の実と五重塔。
となれば、どうしても、彼の有名な、正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」が頭に浮かぶ。
a0289546_22300846.jpg

柿の実をひとつ残す風習がある。
地方によっては、複数、残すところもあるという。
「木守り(きまもり)」といい、来年もよく実るようにというまじないで、木に残しておく果実をいう。
あるいは、餌が少なくなる冬場を控え、野鳥のために、柿の実を残すということもある。
これは「布施柿」というそうだ。
この柿の木にはまだたくさんの実が残っている。
そこの野鳥の姿がある。
餌はいっぱいあるわいと余裕なのか、柿の実をついばむこともなく、日本画風に気取ってとまっている。
a0289546_22480569.jpg

備中国分寺参道。
a0289546_23021122.jpg

備中国分寺。
山号は日照山、宗派は真言宗御室派、本尊は薬師如来。
聖武天皇の詔により建立された備中国国分寺の後継寺院。
中世初期に廃寺となった国分寺を天正年間(1573年-1592年)に備中高松城主の清水宗治が再興するも、その後、衰微し、江戸時代の宝永年間(1704年-1711年)に再建されたとされる。
創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複している。

今は古墳探訪に注力しているが、その緒となったのが国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社めぐりであった。
そうした中、国分寺跡・国分尼寺跡より以前の古代寺院(〇〇廃寺跡と称される氏寺)もめぐるようになり、地方豪族が氏寺を建立したのであれば、それ以前の地方豪族が築造した墓、即ち、古墳をめぐろうということになり、現在に至っている。

これまでに探訪した国分寺・国分尼寺跡(推定地を含む)は、武蔵、常陸、上野、下野、上総、下総、阿波、相模など関東一円、更に、伊豆、信濃、播磨、讃岐、筑前、壱岐など。
備中国分寺は、2010年5月に、関西の jitensha club 、ハリポタの面々と吉備路自転車道を走った際に見学したことがある。
しかし、当時は、特段、国分寺跡・国分尼寺跡に興味をもっていた訳ではなく、観光客的視点に留まっていたので、国分寺跡・国分尼寺跡めぐりの実績には加えていなかった。
だが、今回の訪問で、備中が国分寺跡・国分尼寺跡めぐりの実績に加わることと相成った。

ということで、国分寺跡・国分尼寺跡めぐりの視点で、備中国分寺跡の説明書きを読み下しておきたい。
a0289546_23080052.jpg
-------------------------------------------
国指定史跡 備中国分寺跡
所在地 岡山県総社市上林
指定年月日 昭和43年(1968年)2月15日

天平13年(741年)、聖武天皇は仏教の力で戦乱や疫病などの災いから国を守るという鎮護国家の考えにもとづき、国分寺と国分尼寺の建立を全国に命じました。
これが「国分寺建立の詔」です。
備中国では、この場所に国分寺、約500m東に国分尼寺が建てられました。

備中国分寺跡では、昭和46年(1971年)の発掘調査によって、南門跡、中門跡、築地土塀跡、建物跡、井戸跡が確認されました。
南門跡、中門跡には一部礎石が残存しています。
寺院を構成する建物を伽藍と呼び、当時の金堂、講堂、塔は、現在の国分寺境内の場所にあったと考えられますが、詳細は不明です。
周囲にめぐらされた築地土塀の跡から、寺域は東西約160m、南北約178mにおよぶことがわかりました。

出土した瓦から、備中国分寺の創建は8世紀中頃と考えられます。
中世には衰退し、その後、江戸時代中期に日照山国分寺として再興されました。
現存する伽藍はすべて江戸時代に建てられたもので、五重塔が国指定重要文化財、庫裏・裏書院・経蔵は県指定重要文化財になっています。
平成27年9月 岡山県教育委員会
--------------------------------------------

現在の伽藍配置と南門跡、中門跡、建物跡、井戸跡、築地土塀跡(推定寺域)。
a0289546_23082225.jpg

軒丸瓦、軒平瓦。
a0289546_23084092.jpg


本来なら、境内に入り、礎石などを見分すべきところであるが、2010年の訪問時、観光客的視点ではあったが、境内を見学しており、今回は初めての探訪先(こうもり塚古墳、備中国分尼寺跡、造山古墳)を優先し、時間セーブのため、境内には入らず、帰路、時間があれば、境内に入ることにして、外からの参拝に留めた。

南門跡の辺りに立ち、外から参拝。
a0289546_23472891.jpg

吉備路自転車道を東へ。

左手の奥に、こうもり塚古墳が現れた。
a0289546_23490940.jpg

フォト:2018年12月22日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-24 23:32 | 吉備国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 12月 24日

『吉備国史跡めぐり/作山古墳』 kk-1

12月22日(土曜)、曇りのち晴れ。
四国に所用があり、その途中、岡山から少し足の延ばし、総社へ。

古墳関連の資料に目を通していると、大型の前方後円墳の項で、畿内の大型古墳、次に、造山古墳(総社市)が登場する。

2010年、総社/岡山間の吉備路自転車道を走ったことがあり、道中、造山古墳も眺めたが、当時は古墳に特段、興味を持ってはいなかったので、大きな古墳やなあ、程度に眺めただけであった。

吉備路自転車道の沿線には、多数の古墳や史跡がある。
古墳に興味を持って以来、是非、訪ねてみたいと思い続けていたので、四国に所用がある機会を捉え、半日ほどではあるが、吉備国の古墳を探訪することにした次第。

今回の古墳探訪の詳細は、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」で綴ることとし、本ブログではハイライトを綴っておきたい。

プランとしては、半日という時間的制約があるので、次の探訪先に絞り、もし、現地で余裕が出れば、プラス・アルファにも立ち寄ることとした。

総社駅
~作山古墳
~備前国分寺
~こうもり塚古墳
~総社吉備路文化館
~備中国分尼寺跡
~造山古墳
~総社駅

7:10 東京駅発(のぞみ9号)・・・いつもは、ジパング倶楽部3割引きの「ひかり」だが、時間セーブのため、奮発して「のぞみ」にて。
10:24 岡山着
10:40 岡山発(伯備線備中高梁行き)
11:08 総社着

総社駅前のレンタル・サイクル店に直行。
今回のプランをするときに、レンタル自転車があれば便利と思い、調べた結果、駅前にあり。
念のため、「予約しておいた方がいいですか?」、「荷物は預かってくれますか?」など電話で確認。
予約なしでOK、荷物預かりOKとの回答を得る。

レンタル自転車店で「吉備路史跡めぐり」のマップを貰う。
「吉備路史跡めぐり」のあとに「田園風景を走り、古代2000年の風を感じて!~大地のめぐみがいざなう悠久の時~」と記されている。
ええキャッチ・コピーやなあ、と感心する。

レンタル自転車店の人が、マップに従い、懇切丁寧に説明してくれる。
8年前のことではあるが、吉備路自転車道を走ったことがあるので、土地勘あり、である。
但し、走ったことがあるのは、国道429号線沿いの国民宿舎「サンロード吉備路」/岡山の区間。
総社駅/国道429号線の区間は未体験なので、説明をしっかりと聞く。

総社駅前を出発!

しばらく走り、吉備路自転車道に入る。
畑の中の道を走る。

作山古墳らしきものが見えて来た。
自転車を止め、カメラに収める。
古墳は近くから眺めるのもよし、遠目に、木々が茂った墳丘の<こんもり>や周辺の地形を眺めることもよし、である。
a0289546_17293234.jpg
作山古墳に到着。
a0289546_17314247.jpg
a0289546_17384991.jpg

造山古墳と作山古墳。
いずれも岡山県にある巨大な前方後円墳だが、読みはどちらも「つくりやま」なので、ちょっと紛らわしい。
ということで、ここで、これら二つの古墳の簡単な比較を記しておこう。
造山古墳(岡山市)墳丘長350m 全国第4位(県内第1位) 5世紀前半・・・(注)
作山古墳(総社市)墳丘長282m 全国第10位(県内第2位)5世紀中頃
被葬者は、いずれも吉備を支配した首長と推定される。
畿内の巨大な前方後円墳に伍して、吉備でこのような巨大古墳が築造されたということは、吉備には強大な支配者がいたと推定されるという。
なお、地元では、造山古墳は「ぞうざん」、作山古墳は「さくざん」と区別して呼んでいるとのことである。
(注)
第1位 大山古墳(第16代仁徳天皇陵)墳丘長525m 5世紀前期-中期
第2位 誉田山古墳(第15代応神天皇陵)墳丘長 425m 5世紀初頭
第3位 上石津ミサンザイ古墳(第17代履中天皇陵)墳丘長365m 5世紀前半
これら3基は宮内庁管理により立入禁止、一方、造山古墳、作山古墳は立入可。
ということは、造山古墳は立入可の古墳としては全国第1位の規模と相成る。

作山古墳に話を戻す。

主軸を南西・北東(南西/前方部、北東/後円部)に置く前方後円墳。
墳丘長 約282メートル
後円部 3段築成、径:174m(楕円形、長軸長さ:約175m、短軸長さ:約160m)、高さ:約24m
前方部 3段築成、長さ:約110m、最大幅:約170m、高さ:約23m
a0289546_18380706.jpg

後刻、訪ねた吉備路文化館の館員さんとの歓談の中で、作山古墳について次の通り会話した。
「先ほど、作山古墳を訪ねました。前方部の端は何やら妙な形をしてたり、後円部は楕円形であったりと、墳丘は少し歪な形になっているように思いますが」。
「その通りです。作山古墳は丘陵を削って築造されています。丘陵が少し歪んでいるので、それに合わせて造ったように思われます」。
「昨年、長野県千曲市の森将軍塚古墳を訪ねました。尾根に造られており、尾根の曲がりに応じて、見事に墳丘そのものが曲がっておりました」。
「平地に盛土をして築造したものはきちっとしていますが、丘陵を削ったりしたものは歪んでしまいます」。

墳丘に上る(上り口は上掲の測量図、左下/前方部北西角)。
墳丘見学用のような道は設けられていない。
踏み分け道のような坂道を上る。
朝方まで雨が降っていたので、道が滑る。
墳丘は三段築成、前方部の高さは約23m、上り甲斐がある。

前方部墳頂から後円部を見通す。
a0289546_20524886.jpg

前方部墳頂から、木立の隙間を通して、東の方にあると思われる備中国分寺の五重塔を探してみる。

見えた!
a0289546_20562810.jpg

ズームアップ!
a0289546_20573279.jpg

前方部墳頂から後円部へと歩く。
足が沈み込むほどに、落ち葉が積み重なっている。

墳丘の中ほどから前方部を見通す。
くびれ部は、右(東側)はっきりしていないが、左(西側)ははっきりと見て取れる。
a0289546_21052523.jpg

前方部の墳頂に立つ。

前方部北東側斜面。
木立の隙間から、墳丘の裾部、道路、田畑、彼方の丘陵が見える。
a0289546_21113726.jpg

後円部墳頂から、松の木の隙間を通して、東側を眺め、備中国分寺の五重塔を探してみる。

見えた!
a0289546_21191293.jpg

ズームアップ!
a0289546_21234088.jpg

後円部墳頂から前方部を見通す。
a0289546_21294080.jpg

落ち葉を踏みしめながら墳頂を歩き、後円部から前方部へ戻る。
先ほどの前方部北西角の踏み分け道を滑り落ちないように蟹歩きで下る。

これまでに数々の古墳の墳丘に上り、実地見分した。
その中で、遊歩道や神社などの人工物が施されていない、自然そのものの墳丘を持つ古墳の中で、この作山古墳が最も大きく、歩き応えのある古墳であった。

作山古墳をあとにして、吉備路自転車道を東へ向かう。

南東側から、田畑を挟んで、作山古墳を遠望する。
a0289546_22112960.jpg

と、なれば、墳丘をアップで撮りたくなる。
左から、前方部、くびれ部、後円部の順にカメラに収める。

前方部。
先ほど、右手の木立の隙間から備中国分寺の五重塔を眺めたのである。
a0289546_21475617.jpg

前方部、くびれ部、そして、後円部。
墳頂を歩いたときの落ち葉はなかなかよかったなあ...。
a0289546_21481444.jpg

後円部。
右手の松の木の間から備中国分寺の五重塔を眺めたのである。
a0289546_21483835.jpg

南北に走る国道429号線を横切ると、前方に備中国分寺の五重塔が見えて来た。
8年ぶりに見る風景である。
8年前は、国道429号線沿いの国民宿舎「サンロード吉備路」からスタートし、吉備路自転車道のこの辺りから東へ向け、走り始めたのであった。
a0289546_22064820.jpg

振り向いて、作山古墳を見納める(帰路、もう一度、眺めることになるのだが)。
a0289546_22083380.jpg

フォト:2018年12月22日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-12-24 23:31 | 吉備国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 12月 17日

『師走の月』

12月17日(月)、晴れ。
「ロンドン三人会」を結成、初の会合え都内へ。
その前に、ちょこっと、街歩き。

KITTE 6F 屋上ガーデンにて。

16:43 p.m. 東の空。
a0289546_06023973.jpg
a0289546_06034034.jpg

16:43 p.m. 西の空。
a0289546_06030885.jpg

Marunouchi Building エントランスにて。

17:21 p.m. 東の空。
a0289546_06041718.jpg

フォト:2018年12月17日


# by ryujincho | 2018-12-17 23:33 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 12月 17日

『東京駅丸の内駅舎/2018.12.17』

12月17日(月)、晴れ。
「ロンドン三人会」を結成、初の会合え都内へ。
その前に、ちょこっと、街歩き。

東京駅丸の内駅舎。

16:54 p.m. KITTE 6F 屋上ガーデンにて。
a0289546_18332745.jpg
a0289546_18334564.jpg

17:17 p.m. 丸ビル、エントランスにて。
a0289546_18340926.jpg

フォト:2018年12月27日


# by ryujincho | 2018-12-17 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 12月 17日

『クリスマスツリー/2018.12.17』

12月17日(月)、晴れ。
「ロンドン三人会」を結成、初の会合え都内へ。
その前に、ちょこっと、街歩き。

KITTEのクリスマスツリー。
a0289546_17422627.jpg
a0289546_17440766.jpg

Marunouchi Building のクリスマスツリー。
a0289546_17591082.jpg
a0289546_17592841.jpg
a0289546_17594484.jpg
a0289546_18000334.jpg
a0289546_18020842.jpg

30年近く前のことであるが、ロンドンのクリスマスの電飾は地味であった。
KITTE のクリスマスツリーよりももっと地味であった。
Marunouchi Building のクリスマスツリーは、毎年、派手だ。

フォト」2018年12月17日


# by ryujincho | 2018-12-17 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 12月 14日

『赤穂浪士討入凱旋の旅/泉岳寺、曹渓寺、四つの新発見』

12月14日(金)、晴れ。

毎年末、「赤穂浪士討入凱旋の旅」と銘打ち、jitensha club ドラポタの面々と、本所松阪町吉良邸跡から、途中、赤穂浪士ゆかりの地に立ち寄りながら、高輪泉岳寺まで jitensha で走ることを常としていた。
しかし、昨年は諸般の事情で、泉岳寺のみとした。
今年も jitensha は止め、1週間前に本所松坂町を訪ね、今日は高輪泉岳寺を訪ねたのであった。

今回の相棒は、昨年に続き、武衛さん。
武衛さんの到着を待ちながら、集合場所の地下鉄泉岳寺駅改札口に掲げてある四十七士の名を眺める。
a0289546_06062441.jpg

12月14日は、赤穂と泉岳寺を筆頭に、各地で義士祭が催される。
2002年12月、赤穂では「赤穂義士本懐成就300年祭」と銘打ち、数々の催しがあった。
東西の講談師が赤穂に集結し、赤穂市民会館で、赤穂義士伝、銘々伝、外伝などが語られた。
田辺一鶴と神田紅の講演を愉しんだ。
神田紅が、立て板に水の如く、四十七士の名を一気に読み上げたこと、そして、名前の順番、覚え方などの解説が面白おかしく語られていたことが今も記憶に残っている。

神田紅は、粋なお姐さんという感じであった。
当時、何歳くらいであったのであろうと、プロフィールを紐解いてみた。
1952年生まれ、福岡県立修猷館高校卒業、早稲田大学商学部中退、大学在学中に文学座研究所に在籍。
演劇女優を経て1979年に、講談師二代目神田山陽に入門、1989年12月、真打に昇進。
2010年4月、日本講談協会会長に就任。
最近、テレビで、弟子の神田蘭を見たことがある。

a0289546_07012664.jpg
a0289546_07023806.jpg
a0289546_07033752.jpg

浅野家の家紋「丸に違いの鷹の羽」と大石家の家紋「左二つ巴」が並列になっていることは、赤穂の浅野家菩提寺、花岳寺を訪れたときに同様のことを目にし、これについて縷々綴ったことがある。

扁額「獅子吼」はいつも眺めているが、「文政二年卯八月 中将源斉宣」は今回、初めて認識。

中将源斉宣とは、島津氏第26代当主、薩摩藩第9代藩主、島津斉宣(しまづ なりのぶ)のことである。
将軍徳川家斉の正室は、島津斉宣姉、広大院。
将軍徳川家斉より偏諱を賜り、初名の忠堯(ただたか)から斉宣に改名。
将軍徳川家定の正室、天璋院(篤姫)の祖父にあたる。

島津家と泉岳寺の関係は不詳ながら、泉岳寺の北側に島津家下屋敷(赤穂浪士お預け四家のひとつ)があることと無関係ではあるまい。
島津家と泉岳寺の関係については、今後の宿題とする。

墓所への石段脇も幟旗と高張提灯が賑々しく。
a0289546_08474982.jpg

いつもは、四十七士の墓所に直行ながら、今回は、先ず、浅野内匠頭、瑤泉院、そして、浅野大学の墓に。

浅野内匠頭の墓。
a0289546_08580942.jpg
a0289546_09160782.jpg

瑤泉院の墓。
a0289546_09033296.jpg

<新発見その1>
浅野内匠頭の墓と瑤泉院の墓の間に4基の墓が並んでいる。
これまでこれら4基の墓は幾度となく目にしているが、この中に浅野大学の墓(左から3基目)があることを今回、初めて知った。
a0289546_08582989.jpg

浅野大学の墓。
「亮監院殿月清涼山大居士」、戒名を挟んで「享保十九年寅(天?)」「六月二十日」と刻まれている。
右側面には「(?)(?) 大學長廣」と刻まれている。
a0289546_09030041.jpg

1999年の「赤穂浪士討入凱旋の旅」(当時は jiensha の趣味はなく、徒歩)で、浅野大学の屋敷があった木挽町を歩いたことがある。
その旨を2000年12月の「赤穂浪士討入凱旋の旅」<本編>で綴ったことがあるが、浅野大学について深くは綴ったことはなく、ここで触れておきたい。
------------------------------------------
淺野 長廣(別名、通称、大學)
寛文10年10月29日(1670年12月11日)、赤穂藩第2代藩主 浅野長友の次男として江戸で生まれる。
元禄7年(1694年)8月21日、兄・長矩から播磨国赤穂郡の新田3000石を分与され、旗本の寄合に列し、幕府から木挽町に屋敷を賜った。
同時に長矩の養子となり、同年9月1日、初めて将軍徳川綱吉に拝謁した。
元禄13年(1700年)11月14日、菰野藩主・土方雄豊の養女を正室に迎えた。
元禄14年(1701年)3月14日、松の大廊下事件により、連座、3000石の所領は召し上げられ、広島浅野宗家にお預けとされた。
宝永6年(1709年)8月20日、将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710年)9月16日には新将軍徳川家宣に拝謁して、改めて安房国朝夷郡平郡に500石の所領を与えられ、旗本に復し、御家再興を果たした。
享保9年(1724年)7月19日、家督を嫡男の長純に譲って隠居した。
享保19年(1734年)6月20日に65歳で死去、兄や赤穂浪士と同じ高輪泉岳寺に葬られた。
(ウィキペディアより抜粋)
------------------------------------------

<新発見その2>
浅野長広夫人の墓は西巣鴨の妙行寺にあるという。
妙行寺について調べてみたところ、赤穂浅野家の菩提寺で、江戸期には四谷にあったが、明治に入り、西巣鴨に移転したという。
赤穂藩初代藩主 浅野長直正室、髙光院の墓所、浅野大学正室、蓮光院の墓所となっている。
更に、浅野内匠頭正室、瑶泉院の供養塔が昭和になって建立されている。

赤穂浅野家の菩提寺は、赤穂の花岳寺、江戸の泉岳寺、そして、赤穂の花岳寺に先立つ菩提寺である久学寺(兵庫県加西市)で、これらの寺を以て”赤穂浅野家三岳寺”と称されているが、もうひとつの菩提寺として、妙行寺があるというのは<新発見>であった。

妙行寺の場所を調べてみたところ、吉良家家老、小林平八郎の墓所、慈眼寺の北西、数百メートルくらいのところにあった。
因みに、吉良家の江戸菩提寺、萬昌院功運寺(牛込から上高田に移転)の東、数百メートルのところにある天徳院に、松の大廊下事件で浅野内匠頭を制止した梶川与惣兵衛の墓があり、赤穂浪士に関係する人物らの墓が隣り合っているようで、因縁を感じる。

「赤穂浪士討入凱旋の旅」の<番外編>として、妙行寺を是非訪ねてみたいと思っている。

<新発見その3>
浅野内匠頭の墓に向かって左手前に建立された「素願成就の梅『八ッ房の梅』謂れ」の碑が目に入った。
建立は平成25年(2013年)となっている。
建立されて以降、幾度も訪れているが、斯様な碑があることに全く気付くことはなかった。
「八ッ房の梅」の地で育った小生としては不覚であったが、遅ればせながらでも気付けて良かった!
a0289546_09091186.jpg

2000年7月、明石の月照寺と柿本神社の「八ッ房の梅」を訪ねたときのことを次の通り綴っている。
--------------------------------------------
<明石・八ッ房の梅> 
明石で育った筆者としては、高校時代の旧友たちとの新年会などで時折、明石を訪れることはあったが、転勤により20数年振りに明石に居することとなった。
明石にも赤穂浪士ゆかりの地がある。
それは、人丸山。7月某日、人丸山を訪れてみた。 

人丸山柿本神社の「八ッ房の梅」を訪れる前に、神社の隣にある曹洞宗人麿山月照寺に立ち寄ってみたところ、新発見。
新発見というのは、月照寺にも「「八ッ房の梅」があったことである。
初詣と言えば、家族連れで人丸さん(地元では、柿本神社とは言わず、人丸さんと言う)であったし、日本標準時が定められた東経135度上に設けられた明石天文科学館へ行ったりと何度も足を運んだ場所であるが、月照寺に立ち寄った記憶は余りなく、何十年も経たのちの発見であった。 

月照寺の「「八ッ房の梅」の能書きは次の通りである。
石標には「八房梅霊樹」と刻まれている。
説明書きには「元禄15年(1702年)、赤穂浪士大石良雄、間瀬久太夫の両人、当山へ参拝し、素願の成就を祈り、大石氏は墨絵鍾馗の図を描きて奉納。間瀬氏は持参の梅の鉢植え八ツ房を移植して祈願の印となした。この梅は紅梅で、ひとつの花から七、八個の実を結ぶので、八ツ房の梅と称され、多くの人々に親しまれている。現在は三代目である」と記されている。

一方、柿本神社の「「八ッ房の梅」は、「本名 八房梅」と石標に刻されている。
説明書きには「元禄の世の赤穂浪士、間瀬久太夫が主君の仇討ちを祈って植えたと伝えられ、ひとつの花に八つの実を結びます」と記されている。 

ひとつは“霊樹”、もうひとつは“本名”とされており、いずれの梅が本物かということになるが、そうした野暮な詮索は無用のことと思いながら、大石さんと間瀬さんも眺めたであろう明石海峡と淡路島を人丸山から久し振りに眺めた。
大きく変わったのは、瀬戸大橋が架けられたことである。 

余談ながら、日本標準時と松尾芭蕉のことについて記しておこう。 
日本標準時の子午線上に天文科学館がオープンしたのは、昭和35年(1960年)の時の記念日、6月10日であった。
小生、小学6年の時であった。天文科学館が建つ前から「トンボの標識」で子午線が示されていた。
能書きによれば、この「トンボの標識」が設けられたのは昭和5年(1930年)。
トンボは日本の古名である“あきつ島”の象徴。
この子午線をもって日本標準時としたのは明治19年(1886年)。
東経135度は北極圏から南へ大陸を抜け、但東町、西脇、三木、明石、紀淡海峡、パラオ諸島を抜け、南極に至る。
東経135度を題材にした推理小説があった。
松本清張の『Dの複合』である。
ロンドン駐在中に家族と共にグリニッジを訪れ、東経と西経の線を跨いだことも思い出される。 
「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」。
柿本神社の山門のそばに配された芭蕉の碑に刻まれた句である。
旅を糧とした芭蕉が訪れた西の果ては明石であった。

“赤穂浪士凱旋の旅”の途中で隅田川沿いの芭蕉記念館に立ち寄ったこともあった。
赤穂浪士と松尾芭蕉、これも何かの因縁か。

“赤穂浪士の旅”のあとの次のテーマは“芭蕉の旅”かな?と思う次第だが、これにはかなりの時間とお金が必要となるだろう。 

芭蕉の句碑の横に「万ごご路を 神もよみして 武士の 以の里はむすぶ 八ッ房の梅」との碑もあった。
「真心を神も読みしてモノノフの祈りは結ぶ八ッ房の梅」と誰が詠んだかは不詳ながら、赤穂浪士と八ッ房の梅を上手く詠み込んだものと感心。 

因みに、明石には、銘菓「八つ房の梅」なるものもあるということをここに書き添えておこう。

(「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>その6:明石・八ッ房の梅(2000年7月8日)より)
--------------------------------------------

今般、泉岳寺で<新発見>となった碑「八つ房の梅の謂われ」についても読み下しを記しておこう。
a0289546_09092606.jpg
a0289546_09095077.jpg
--------------------------------------------
素願成就の梅「八ッ房の梅」謂われ
元禄十五年 赤穂浪士 頭領 大石内蔵助良雄
間瀬久太夫正明 兵庫 明石の人麿山月照寺に
素願成就を念じ参拝 併せ 持参の「八ッ房の梅」を
祈念し月照寺に託すと伝承
爾来 珍重して三百有余年 時を得て
八房一門より大殿の墓前に献じ奉る
--------------------------------------------
人麿山月照寺に根づき育つ「八ッ房の梅」
八房梅香はじめとする八房一門会二百余名
旧東海道を歩き奉納する
平成二十五年十二月
曹洞宗 人麿山月照寺 廿七世 間瀬和人
碑製作設計者 明石 富永石材
--------------------------------------------

人麿山月照寺 廿七世 間瀬和人住職は間瀬久太夫の血筋の御方であろうか。

間瀬久太夫の血筋といえば、2010年に伊豆大島を訪ねた際、間瀬久太夫をはじめ浪士たちの遺児のことを知った。
そのときのことをマイ・ブログに縷々綴っている。
そのブログをここに貼り付けておこう。



赤穂浪士四十六士と四十七番目の士の墓所。
毎年、12月14日は線香が立ち込め、煙っているのが常だが、まだ、午前10時過ぎ、時間が早いせいか、煙が朦々というようなことにはまだなっていない。
a0289546_05275459.jpg
a0289546_05224888.jpg

寺坂吉右衛門の墓(供養墓)。
a0289546_05232218.jpg

寺坂吉右衛門の墓は夫人の墓と共に南麻布の曹渓寺にあるが、全国各地に寺坂吉右衛門の墓とされるものがある。
この10月、古墳探訪で福岡県八女市を訪ねた際、一念寺の寺坂吉右衛門の供養塔を参拝した。
泉岳寺の寺坂吉右衛門の墓前にて、その旨を”報告”した。
このあと、曹渓寺にも参る予定としている。

泉岳寺脇の道を上り、お預け四家のうちのひとつ、肥後熊本藩細川家下屋敷跡/人忠烈の跡」を訪ねる。
忠臣蔵、赤穂浪士の同好の士であろう、男性グループが現れた。
その他に訪ねて来る人はいない。
泉岳寺にはあれほどの人が来るのに、ちょっと足をのばせば、お預け四家で泉岳寺に最も近い細川家下屋敷ながら、訪ねる人は少ない。
皆さん、四十六士が切腹した3月4日の命日には是非訪ねてくださいと申し添えておこう。

伊皿子坂、魚籃坂を経由して、南麻布の曹渓寺へ。

曹渓寺。
a0289546_06170844.jpg
a0289546_06174499.jpg

曹渓寺を初めて訪ねたのは2000年2月のことであった。
本堂の左脇から入り、寺坂吉右衛門の墓参りをした。
そのときのことを次の通り綴っている。
---------------------------------------------
<南麻布・曹渓寺の寺坂吉右衛門と泉岳寺> 
高田馬場から寺坂吉右衛門の墓がある南麻布・曹渓寺を訪問。
寺坂吉右衛門の墓所を訪れてみようと思ったのは、四十七士のうち、唯一、生き残った浪士であり、また、身分は足軽であったことなどから興味があったからである。
解説には、「赤穂浪士寺坂吉右衛門信行は足軽頭吉田忠左衛門の組下で、足軽ではただ一人の加盟者であった。討ち入りまでは伴介と変名し、忠左衛門の下僕として働き、仇討ちの後、内蔵助の使者として内匠頭夫人瑶泉院に終始を報告、更に大石夫人のいる但馬国豊岡へ向かった。その後、吉田忠左衛門の長女が嫁いでいる伊藤家に仕え、それから麻布・曹渓寺の寺男となり、最後は或る人の紹介で旗本の山内家へ出仕し、83才で大往生したと伝えられる」とある。 
吉右衛門には、①前述の解説の通り、他の浪士とともに吉良邸へ討ち入った、②吉良邸までは浪士たちと一緒だったが、軽輩のため討ち入りそのものを行わなかった、③軽輩にまで討ち入りさせたのでは、浅野家の名に傷がつくと内蔵助が説得し、討ち入り直前に脱盟させた等々の諸説があるが、①の説を信じたい。 
曹渓寺の墓には「節岩了貞信士 寺坂信行 延亨四丁卯年十月六日卒」と刻まれている。
延亨四年は西暦1747年、吉右衛門83才であった。
隣には「粛室知秋信女 寺坂信行妻 延亨二乙牛年九月十二日」と刻まれた妻の墓もあった。 
寺坂吉右衛門の墓は四十六士と共に泉岳寺にもある。
刻まれている文字は「遂道退身信士 寺坂吉右衛門信行 元禄十六年二月四日」。
内蔵助を始め四十六士の戒名には「刃」と「剱」の文字があるが、寺坂吉右衛門にはそうした文字は刻まれていない。
「遂道退身」の確たる意味は分からないが、文字の感じからして、吉右衛門は内蔵助から託されたことを成し遂げるというようなことに思える。  
地図を見ると曹渓寺から泉岳寺まではそう遠くない道程。
寺坂吉右衛門は妻と共に、毎日、曹渓寺から泉岳寺に内匠頭、瑶泉院、四十六士のお墓参りに行ったのではないかと思い、泉岳寺へ足を運ぶことにした。
泉岳寺を訪れるのは、昨年10月に本所松坂町から“赤穂浪士討ち入り凱旋の旅”をして以来のこと。
曹渓寺をあとにして、古川橋の交差点から魚藍坂を上り、伊皿子坂を下ると右手が泉岳寺。 
義士墓の解説によれば、「大石良雄は城代家老(1500石)で、主君浅野長矩公の妄念をはらさんと同志46名と共に血盟を結び、苦心の結果、元禄15年(1702年)12月14日、吉良邸に討ち入り、主君の仇を復した。即日、細川(大石以下17名)、松平(主税以下10名)、水野(神崎以下10名)、毛利(武林以下10名)の四家に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕命により切腹。夜に入り、主君の墓側に葬られる」とある。 
四家お預けの人数を数えると47名である。寺坂吉右衛門は四家お預けの数に含まれるのかとの疑問あり、説明書きの付記を読むと「寺坂は、引き揚げ後の途中、大石の命を受け、瑶泉院その他関係者を歴訪して事件の顛末を報告し、江戸に帰り、自首したるも、時効を以て取り上げられず、麻布曹渓寺その他に身を寄せ、延亨4年(1747年)10月6日、83才にて没。泉岳寺の墓は供養墓である」とあり、人数の矛盾は解けず。
別の資料を見たところ、細川、松平、水野の三家は前述の人数と同じであるが、毛利家は9名となっている。これで納得。 
余談ながら、泉岳寺の浪士たちの墓は大石良雄、主税親子ほか四十六士と寺坂吉右衛門の47基に加え、もう1基ある。
その墓には「刃道喜剱信士」と刻まれている。
俗名は記されていないが、これは、志半ばで自害した萱野三平の墓とされている。
脱盟した浪士は他にもいるが、萱野三平は親兄弟から仇討ちへの参加を強く反対され、悩みに悩んだ挙句、討ち入りを待てず、切腹して果てたということで、四十七士と同じ扱いで、泉岳寺の仲間に加えられたと聞く。

(「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>番外編その3:高田馬場~南麻布・曹渓寺 寺坂吉右衛門の墓~高輪・泉岳寺(200年2月12日))
----------------------------------------------

その後、時を経て、2012年12月、jitensha clubドラポタの面々と共に曹渓寺を訪れた際には、本堂の左脇から墓地に入れないようチェーンが張られ、立入禁止の札が掛かっていた。
そのときのことを次の通り綴っている。
----------------------------------------------
寺に尋ねたところ、以前は墓参が叶ったが、ブームに乗じて、墓参客が増え、他家の墓石に上るなど、よからぬ輩が続出したとのことで、墓地には檀家以外は立入禁止にしたとのこと。
忠臣蔵、赤穂浪士を愛するものにとって、ブームは無用である。
(2012年12月13日付ブログより)
----------------------------------------------

本堂右手の駐車場の奥に上り坂がある。
上ってみる。
墓地に出る。

<新発見その4>
「赤穂義士寺坂吉右ヱ門逸事碑石」なるものが目に入った。
a0289546_06182264.jpg

標柱「赤穂義士寺坂吉右ヱ門逸事碑石」。
a0289546_06190096.jpg

石碑。
a0289546_06192753.jpg
石碑の頭には右から左に「寺坂信行逸事碑記」と刻まれている。
a0289546_06194532.jpg

碑文の冒頭。
a0289546_06200570.jpg

日を改めて、碑文を読み下してみたい。

2000年2月に見たことのある寺坂吉右衛門夫妻の墓は、こうした広々として墓地ではなく、本堂脇の辺りではなかったかと記憶するが、20年近くも前のことなので、記憶は薄れている。
その後、立入禁止になっていたことでもあり、当寺に迷惑を掛けるつもりはなく、夫妻の墓を探すことは控え、「赤穂義士寺坂吉右ヱ門逸事碑石」のみに止めた。

曹渓寺から麻布十番まで散策。
麻布十番の蕎麦屋に入る。
浪士たちは蕎麦屋の二階(芝居では、であるが)だが、我らは一階にて。

本所松坂町から泉岳寺をjitensha で走ることは止め、徒歩で泉岳寺を訪れること、これで2年連続。
1999年の「赤穂浪士討入凱旋の旅」以来、いろいろとベンキョーしたが、それでも今回は、泉岳寺/浅野大学の墓、赤穂浅野家菩提寺/妙行寺、泉岳寺/「八ッ房の梅の謂れ」碑、曹渓寺/「赤穂義士寺坂吉右ヱ門逸事碑石」と、四つもの<新発見>のあった、よき「赤穂浪士討入凱旋の旅/2018」であった。

なお、1週間前に、本所松坂町吉良邸跡、両国橋袂/大高源五の句碑なども訪ねてた。
吉良さんのことが片落ちとならぬよう、きちっとバランスを取っていることも申し添えておきたい。

フォト:2018年12月14日


# by ryujincho | 2018-12-14 23:31 | Comments(0)
2018年 12月 08日

『本所松坂町界隈、そして、神田佐久間町へ』

12月7日(金)、晴れ。
夕刻から、備前守さん、伊豫守さんと一献傾けながらの大放談会。
一献傾ける前に<文化活動>をするのが常。
今回の<文化活動>は、すみだ北斎美術館。

北斎を鑑賞したあと、1週間後に控えた、年末恒例の「赤穂浪士討入凱旋の旅」の先取りで、本所松坂町吉良邸跡へ。

「本所松坂町公園」の幟旗。
本所松坂町公園とは、広大な吉良上野介邸跡の一部に設けられた史跡公園。
これまでに幾度、吉良邸跡を訪ねたことであろうか。
吉良さんの像を拝す。
吉良家の領地、幡豆郡吉良町(現・西尾市吉良町)では、親しみを込めて「吉良さん」と呼んでいることを現地で知り、小生もそう呼んでいる。

吉良邸跡を背にして、右角は飯澄稲荷、その向こう隣りは和菓子屋。
a0289546_20571483.jpg


和菓子屋の店先に幟旗が立っている。
幟旗は「長谷川平蔵 すみだ 縁の地 鬼平犯科帳を歩く」と染め抜かれている。
墨田区内を jitensha で巡っていると、各所で、鬼平犯科帳ゆかりの高札を目にすることがある。
BSフジで再放送されている、中村吉右衛門主演の『鬼平犯科帳』を毎週月曜、楽しんでいる。
行き当たりばったりでの高札ではなく、「鬼平犯科帳ゆかりの地を訪ねて」と銘打って、全ての高札を巡るのもよいかもしれない。
a0289546_21063052.jpg

回向院に立ち寄ることとし、そちら方面へ。
シャッターに描かれた討ち入りの図。
a0289546_21102755.jpg

「討ち入りのあと、浪士たちは、一先ず、回向院に入ろうと目論むも、回向院は拒否したんですよ」と話していたところ、脇を歩いていた婦人が声を掛けて来た。
「回向院へ行かれるなら、先ほどの角を曲がって大通りに出て」。
「この先の、裏門から入ろうと思っているんですが」。
「裏門は閉められていますよ」。
「そうですか、御助言、忝い」。

少し戻り、角を曲がり、大通り(京葉道路)へ。

角を曲がったところにある、時折、お世話になる自転車店。
a0289546_21125314.jpg
a0289546_21131568.jpg

回向院へ立ち寄る。
裏門は、以前、木戸のような簡単な門であったが、立派な鉄製に変わっており、施錠されていた。
我らが話をしていた中で「回向院」の言葉が耳に入り、表から入るようアドバイスしてくれた婦人に感謝である。

回向院から両国橋方面へ。

jiensha club ドラポタ御用達「ももんじや」。
a0289546_21145287.jpg

両国橋東詰。
大高源五句碑「日の恩や忽ち砕く厚氷」。
これまでに幾度、この句碑を眺めたであろうか。
a0289546_21180812.jpg

両国橋を渡りながら、能書きを垂れる。その能書きとは、大高源五と俳人宝井其角の遣り取りである。討入前夜、吉良邸の様子を探索するため、煤払いの竹売りに変装した大高源五と俳人宝井其角が、偶然、両国橋の袂で出会った際、其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだことに対し、大高源五は「あした待たるるその宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかした。これは後世のフィクションとのことであるが、「日の恩や...」の句と重ね合わせ、両国橋での両人の遣り取りが目に浮かぶのである。

両国橋を渡り、西詰から脇道に入り、柳橋を渡る。
a0289546_21203309.jpg

柳橋を渡りながら、神田川に浮かぶ屋形船を眺める。
a0289546_21211289.jpg

柳橋袂の、老舗の佃煮屋。
a0289546_21223770.jpg

神田川の左岸を歩き、神田佐久間町の蕎麦屋に到着。
一献傾けながら、年の瀬の、大放談。

フォト:2018年12月7日


# by ryujincho | 2018-12-08 23:32 | Comments(0)
2018年 12月 08日

『すみだ北斎美術館/須佐之男命厄神退治之図と鮟鱇図』

12月7日(金)、晴れ。
夕刻から、備前守さん、伊豫守さんと一献傾けながらの大放談会。
一献傾ける前に<文化活動>をするのが常。
今回の<文化活動>は、すみだ北斎美術館。

「須佐之男命厄神退治之図」(推定復元)。
a0289546_17201047.jpg

a0289546_17221345.jpg

説明書きに目を通す。
---------------------------------------------
須佐之男命厄神退治之図(すさのおのみこと やくじんたいじのず)
推定復元図 インクジェットプリント・金箔金泥・一部手着色

関東大震災(大正12年・1923年)で焼失した板絵額の推定復元図です。
弘化2年(1845年)、北斎が86歳の時に描き、牛嶋神社(墨田区向島一丁目)に奉納されて、社殿に掲げられていました。
サイズは縦4尺2寸、横9尺2寸(約126 x 276cm)で、北斎晩年の最大級の作品です。
描かれているのは、須佐之男命が厄神を退治し、今後、疫病や凶事を起こさないように、証文を取っている場面です。
明治43年(1910年)刊の『国華』に掲載されていたモノクロ写真をもとに、最新の技術を用いて制作当時の色彩と状態を推定復元しました。
----------------------------------------------

TVドキュメンタリー『ロスト北斎 The Lost Hokusai「幻の巨大絵に挑む男たち」』(NHK総合、2016年11月23日放送)で、北斎が描いた「幻の作品」を最先端のデジタル・テクノロジーを駆使して分析、さらに、伝統的な修復技術の力も用いて2年に及ぶ復元作業を見た。
以来、是非、色彩豊かな復元図を見たいと思っていたが、漸く、念願が叶った。


「須佐之男命厄神退治之図」は展示室の外壁に展示されている(写真撮影、可)。
「須佐之男命厄神退治之図」を鑑賞したのち、展示室で企画展『大江戸グルメと北斎』を鑑賞(写真撮影、不可)。


企画展のポスターは、葛飾北斎『北斎漫画』十二編「鰻登り」。
a0289546_17561423.jpg

-----------------------------------------------
大江戸グルメと北斎
「和食」は、ユネスコ無形文化遺産登録5周年を迎え、さらに世界からも関心を集めています。
この和食文化は江戸時代に大きく花開き、北斎が活躍した時代に大きな進歩をとげます。
江戸時代には、農業や漁業、経済が発展し、成熟した社会は人々に食を楽しむという余裕をもたらしました。
さまざまな工夫をこらした料理書や高級料理屋が登場し、食という営みは文化として磨かれていきました。
浮世絵に描かれた人々からは、ファストフードにスイーツや高級グルメまで、食を楽しむ様子がうかがえます。
さらに、季節を楽しむ日本ならではの食とのつきあいも見て取ることができます。
本展では、浮世絵だけではなく、江戸時代の料理を再現したレプリカや当時のレシピ本などもまじえ、現在の食文化のルーツである江戸時代の食の在り方をご紹介します。大江戸グルメを心ゆくまでご堪能ください。
(すみだ北斎美術館ホームページより)
-----------------------------------------------


葛飾北斎「鮟鱇図」(リーフレットよりトリミング)。
a0289546_17563147.jpg

つい、数日前、あんこう鍋を食しに大洗へ行ったばかり。
ということで、北斎の描いた「鮟鱇図」に惹かれた。
この「鮟鱇図」、仰向けに描かれている。
さあ、あんこう鍋でも何でもしてくれ!と、居直っているようで面白い。

江戸時代の川柳に「魚編に安いと書いて春のこと」というのがある。
あんこうの旬は12月から2月。
あんこうは高級魚、旬の頃には一般庶民には手が出ない。
旬が過ぎた春なら、味は落ちるが、値段は下がり、一般庶民の口に入るということを揶揄したのが、この川柳。

北斎の描いた「鮟鱇図」は、旬を過ぎているので、仰向けに描かれているのであろうか...。

フォト:2018年12月7日




# by ryujincho | 2018-12-08 23:31 | Comments(0)
2018年 12月 05日

『常陸国古墳探訪 with あんこう鍋 ポタリング/二日目、ひたちなか市/飯塚前古墳の巻』 ak-7

12月4日(火曜)、曇りのち晴れ。
1泊2日の「常陸国古墳探訪 with あんこう鍋ポタリング」、二日目。

大洗町から、ひたちなか市に入る。
華蔵院、湊公園/夤賓閣跡、那珂湊反射炉跡をめぐり、昼餉を摂る。
次の探訪先、三反田古墳群/飯塚前古墳を目指し、県道6号線を北西に走る。

古墳探訪の相棒、武衛さんと、年末恒例の「霞ケ浦漁師市&古墳探訪」の際には、必ず、茨城県特産の干し芋を家族の土産にゲットすることを常としている。
今回のポタリングでも、干し芋ゲットをしよう、ゲットするなら最終地の勝田駅辺りだなあと話をしていた。

ところが、勝田駅近くに行くまでもなく、県道6号線沿いに、干し芋の製造販売店が現れた。
その名は「大丸屋」、「干し芋専門店 創業明治参拾年」とある。
a0289546_17123835.jpg

早速、店内に入る(店先、店内の写真はなし)。
干し芋のイメージに反し、モダンな店である。
星きらり、紫芋、紅姫、紅はるか、玉豊、玉乙女、ベルベット、ヘルシーレッド、はやと芋、シルクスイート、いずみ、などなど、知っている品種、知らない品種と、数多の品種あり。
しかも、「平干しいも」と「丸干しいも」がある。
「平干しいも」はカットしたもの、「丸干しいも」は丸ままのもの。
「丸干しいも」は食べたことがない。
「紅はるか 丸干しいも」と「玉豊 平干しいも」をゲット。

店内では「おいもジェラート」も販売している。
カロリー補給を名目に、ひとつ、頂戴し、店内で食す。
店先には恐竜の像が数基、店内にはアンモナイトなどの展示あり。
店員さんに尋ねてみたところ、「オーナーのコレクションです」と。
1ヶ月前の、ひたちなか市/古墳探訪で海岸線を走っている途中、中世代白亜紀層を見学した。
オーナーは、近くに中世代白亜紀層があることを考えて、こうしたものを展示しているのであろうと想像した。

大きな駐車場内の看板。
a0289546_17125686.jpg

駐車場の奥の、温室のような、大型のほしいも乾燥施設を覗いてみた。
シーズン・オフなのか、干し芋の姿はない。
a0289546_17132210.jpg

県道6号線は県道38号線に変わる。
引き続き、北西に走る。
那珂川沿いの道を走りたかったのだが、県道38号線の方が、県道沿いの、飯塚前古墳の目印となる三反田小学校が分かり易かく、県道を選んだのであった。
那珂川は見えないが、那珂川左岸の河岸段丘上を走っていることは間違いない(後刻、飯塚前古墳に到着し、河岸段丘上であることを視認)。

目印の、ひたちなか市立三反田小学校を通り過ぎ、手元の地図に従い、三つ目の細道を左折、南西方向にしばらく走ると、右手に、飯塚前古墳が見えて来た。

飯塚前古墳。
東側から。
a0289546_00380829.jpg

飯塚前古墳は、三反田古墳群・飯塚前支群の中で現存する唯一の古墳。
長辺30m、短辺20mの長方墳。
現在の墳丘高は3mを測るが、墳頂部は近世の墓地に利用されていたため、若干、削平されていると考えられる。
築造時期は、6世紀後半から7世紀初頭と考えられる。
飯塚前古墳の周辺には、嘗て、多くの古墳が所在し、ひたちなか市三反田字飯塚・新平・羽黒などの広い範囲に古墳が分布し、三反田古墳群を形成。
飯塚前古墳は三反田古墳群の西端に位置している。
(現地説明板+ひたちなか市ホームページより抜粋)

南西から。
a0289546_01083588.jpg

北側から。
a0289546_01093876.jpg

西側には住宅があり、西側から墳丘を眺めることは出来ないが、東・南・北の三面を見ることは出来た。
しかし、今の墳丘の形からは長方墳であることは視認し難い。

飯塚前古墳は三反田古墳群の西端に位置しているとのことで、飯塚前古墳の北側に広がる畑の中から東側を眺めてみる。
東側の県道38号線と更にその向こうまでまでは平坦な地、その奥の林の中には古墳があるようにも思える。
a0289546_01124673.jpg
飯塚前古墳の脇を通る一般道を更に進んでみる。
南西へ、そして、南へカーブして、坂道となる。
坂道を下り切ると、那珂川左岸に出る。
那珂川左岸まで出てみたいが、坂道を下ってしまうと、戻りは上り坂となり、辛くなる。
ずぼらをして、坂道の手前で、那珂川を眺める。
a0289546_01232781.jpg

那珂川の流れは、僅かしか見えないので、脇の高台に上がってみる。
a0289546_01245238.jpg

これにて、飯塚前古墳が那珂川左岸の台地に位置していることを確認した。
別の言い方をすれば、次の参考図の通り、那珂川と中丸川に挟まれた台地に位置している。
(参考図)
ひたちなか市埋蔵文化財センターで入手した冊子「ひたちなか埋文だより 49」の「勝田一中学区編」より飯塚前古墳を示す部分を抜粋。
・飯塚前古墳は三反田小学校の直ぐに西側にプロットされている。
・この図では、中根駅を挟んで、南西に飯塚前古墳、北東に1ヶ月前に探訪した虎塚古墳・十五郎穴・ひたちなか市埋蔵文化財センターが位置していることもわかる。
a0289546_01012297.jpg

長方墳について。
飯塚前古墳の説明板に「長方墳は、市内のみならず、他でも余り例を見ない貴重な古墳」とある。
長方墳についてネット検索してみた。
次の4基にヒット。

□飯塚前古墳・・・上掲の通り
・所在地:茨城県ひたちなか市三反田字飯塚前
・規模:30m x 22m の長方墳
・石室(推定):横穴式石室、南側に開口

□徳化原(とっけはら)古墳
・所在地:茨城県東茨城郡城里町北方
※茨城県埋蔵文化財センター「いせきぴあ茨城」(旧北方小学校校舎)の隣り、那珂川右岸
・規模:東西約37m、南北約23mの長方墳
※1984年の調査では約35mの前方後円墳または方墳の可能性が指摘されていたが、2018年の調査で東西約37m、南北約23mの長方墳と判定された。
・石室:横穴式石室、完全な形で出土
・築造時期:7世紀半ば以降の古墳時代終末期

■輪台古墳
・所在地:茨城県北茨城市中里町小野矢指
・規模:28m x 16mの長方墳の可能性あり、とされている。

■磯部古墳
・所在地:茨城県常陸太田市磯部町
・規模:34m x 25mの長方墳の可能性あり、とされている。

2基は長方墳、残り2基は長方墳の可能性あり、となっている。長方墳は、可能性のあるものも含め、これら4基だけなのか、或いは、まだ他にあるのかは今後の宿題。

飯塚前古墳と那珂川左岸の台地を確認し、再び、県道38号線を北西に走る。

次の探訪地は、大平古墳群/第1号古墳。

1ヶ月前、ひたちなか市内の古墳探訪をした際、ひたちなか市埋蔵文化財センターで、同市内の古墳から出土品の数々を見学した。
中でも、これまでに見たことのない埴輪、大平古墳群出土の「乳飲み子を抱く埴輪」を興味深く見学。
ということで、この埴輪が出土した大平古墳群を探訪してみたいと思い、今回のコースに加えたのであった。

所在地は、ひたちなか市埋蔵文化財センターで入手した冊子「ひたちなか埋文だより 49」の「勝田一中学区編」で大平古墳群の位置がおおまかにプロットされた図を参考にした(グーグルマップでは、ズバリの場所はヒットせず)。
a0289546_01062218.jpg
a0289546_01064796.jpg

県道38号線の金上十字路を右折、ひたちなか海浜鉄道/金上駅近くの踏切を渡り、県道351号線を東へ走る。
しばらく走り、左折、勝田一中(ひたちなか市立勝田第一中学校)方面へ向かう。
住宅地の中にJA常陸勝田支店やホテル・クリスタル・パレスがある。
北側の斜面を下ると勝田一中、JAやホテルの東側も斜面となっており、この区域は古墳群があったと思わせる高台となっている。

付近をぐるっと回ってみたが、古墳らしきものはないし、埋め戻ししたあとの標識らしきものもない。
ホテルでの会合を終えたと思しきご婦人方が現れた。
この辺りに古墳はないか尋ねてみた。
虎塚古墳は知っているが、大平古墳群というは知らないという。
勝田一中の卒業で地元も地元だが、大平古墳群というような名の古墳は聞いたことがないという。

JA常陸勝田支店の外で休憩中の二人の男性がいた。
この辺りに古墳はないか尋ねてみた。
虎塚古墳は知っているが、大平古墳群というのは知らないという。
会合の婦人方、JAの男性二人、いずれからも虎塚古墳の名が出た。
我らも1ヶ月前に虎塚古墳を訪ねたことでもあり、虎塚古墳はひたちなか市民に熟知されているということはよく分かったが、太田古墳群の情報はない。

勝田一中まで行って尋ねてみようか、ひたちなか市役所か教育委員会、埋蔵文化財センターに電話で尋ねてみようかなどと思ったが、古墳探訪と銘打っているだけに、<探し><訪ねる>ことへの拘りもあり、且つ、時間的制約もあり、大平古墳群は埋め戻しされたということにして、勝田駅に向け、出発。

こうして、1泊2日の「常陸国古墳探訪 with あんこう鍋ポタリング」を大満足のうちに終えたのであった。

=備忘録=
今回の「水戸市・大洗町・ひたちなか市/古墳探訪」と1ヶ月前の11月10日の「ひたちなか市/古墳探訪」で訪ねた古墳を今一度ここで列挙しておきたい。
<今回>
□愛宕山古墳(水戸市)
□吉田古墳(水戸市)
□日下ヶ塚(ひさげづか)古墳(大洗町)
□車塚古墳(大洗町)
□姫塚古墳(大洗町)
□坊主山(ぼっちゃやま)古墳(大洗町)
□飯塚前古墳(ひたちなか市)
■大平古墳群(ひたちなか市)・・・未達
<11月10日>
□虎塚古墳(ひたちなか市)
□十五郎穴
□川子塚(かごづか)古墳


フォト:2018年12月4日

(完)






# by ryujincho | 2018-12-05 23:37 | 常陸国古墳めぐり+あんこう鍋2018 | Comments(0)
2018年 12月 05日

『常陸国古墳探訪 with あんこう鍋 ポタリング/二日目、ひたちなか市/夤賓閣跡、那珂湊反射炉跡の巻』 ak-6

12月4日(火曜)、曇りのち晴れ。
1泊2日の「常陸国古墳探訪 with あんこう鍋ポタリング」、二日目。

大洗町からひたちなか市に入り、先ず、華蔵院へ。

つづいて、華蔵院の仁王門を背に、参道を東へ真っ直ぐ進み、高台の湊公園へ向かう。

緩やかな坂道を上り切ると眼前が大きく開ける。

湊公園/夤賓閣跡。
a0289546_11233579.jpg

湊公園は、水戸藩第2代藩主徳川光圀の命により元禄11年(1698)に建てられた水戸藩別邸跡。
徳川光圀は、この別邸を謹んで客人を迎えるという意味から「夤賓閣(いひんかく)」と名付けたという。
この別邸は、歴代藩主の静養や接待のほか、海防の要衝として使用されたという。
夤賓閣は、湊御殿、御浜御殿とも称されたことから、海を臨むこの高台は、御殿山、或いは、日和山とも呼ばれている。
建物は、元治元年(1864年)の天狗党の乱で焼失。
現在は湊公園となっている。

前方の、松が生えているところまで走る。

「夤賓閣址」。
a0289546_11281555.jpg

見事な枝ぶりの松は、水戸光圀が須磨明石から取り寄せた黒松と云われている。
この松は江戸時代の絵図に描かれていることから、樹齢は300年を超えると推定される。
「須磨明石」は我が故郷。
斯様なところで繋がりがあるとは、何だか嬉しい。

松の生える高台から展望してみる。

西側の風景。
那珂川と川沿いに広がる住宅地。
a0289546_11373216.jpg

左に目を転じる。
河口近く。
先ほど、渡った海門橋が見える。
a0289546_11375098.jpg

アップで。
a0289546_11385822.jpg

説明板には「東に太平洋の海原、南には那珂川の流れと常陸野に続く筑波山が一望できるほか、秋冬の朝夕にははるかに富士山を望むこともできる」とある。
秋冬ではあるが、昼間である。
彼方は霞んでいる。
説明板にある風景を頭の中い描く。

石碑「日和山名月」。
水戸光圀は、この地から見た中秋の名月を「名に高き 月をみなとの 浦風に 雲もあとなく はるるそら哉」と詠んでいるという。
a0289546_11502079.jpg

絵図。
a0289546_12060069.jpg

再現図。
a0289546_12062075.jpg

この再現図で、地形的に海防の要衝であったことがよく分かる。
更に、この台地には、別邸が建てられる以前、古墳があったのではないかとも思わせる。

先ほど、華蔵院の門前で見た案内標識のデザイン文字である「湊公園」を、トリミングにて、もう一度。
湊公園/夤賓閣跡を眺めたことで、改めて、このデザイン文字の見事さを感じるのであった。
a0289546_16374596.jpg


湊公園/夤賓閣跡から那珂川沿いの一般道を北上、途中、道なりに川沿いから外れ、那珂湊反射炉跡へ。

1ヶ月前にも、ひたちなか市内の古墳をめぐった。
帰路、ひたちなか海浜鉄道/平磯駅から勝田駅までの輪行の中、隣の席にいた青年と暫し会話。
そのときのことをマイ・ブログに次のように綴った。
---------------------------------------
16:06平磯駅発、勝田行きに乗車。
隣の席にいた若者が「自転車ですか、いいですね」と話し掛けて来た。
「いい一眼レフをお持ちですね。いい写真が撮れましたか」と対応。
液晶ビューで、那珂湊反射炉跡の写真を見せてくれた。
「よく撮れていますね。来月、あんこう鍋の企画があり、また、こちら方面に来るので、反射炉跡に行ってみます。もちろん、自転車で」。
----------------------------------------


那珂湊反射炉跡。
a0289546_06593560.jpg

幕末、那珂湊沖にも異国船が出没するようになり、水戸藩第9代藩主徳川斉昭は、海防の要を唱え、領内各地に砲台を築くため、大砲鋳造を目的として、反射炉の建造を計画。
建設地として、地盤が強固なこと、水戸城下の近郊であること、原料の鉄と燃料の石炭の調達運搬に便利であることなどの条件を満たす場所として、この地、吾妻台が選ばれた。
安政2年(1855年)に1号炉(西炉)が完成(佐賀藩、薩摩藩、幕府直営の伊豆韮山に次いで四番目に完成)。
更に、同4年(1857年)に2号炉(東炉)が完成。
高さ約15m、使用された耐火煉瓦は約4万枚といわれている。
2基の反射炉で、モルチール砲、カノン砲を鋳造。
元治元年(1864)、藩内抗争、天狗党の乱で、反射炉は破壊された。
後年、復元の動きが起こり、昭和12年(1937年)、吾妻台の跡地に、ほぼ原形通りに復元された。 
(現地説明板および茨城県教育員会HPより抜粋)

a0289546_07122782.jpg
a0289546_07125491.jpg


煉瓦焼成窯。
吾妻台の南東側斜面に復元されているが、現地説明板には「窯の位置については、当時の絵図などによると敷地の北西側とも考えられ、窯の構造についても色々な考え方がある」と注釈が付されている。
a0289546_07131631.jpg

この窯を見て、思わず、モスラの幼虫と言ってしまった。
然様なことをいうのは不謹慎であることは重々承知の上だが、東宝特撮映画好きにはそう見えてしまうので、ご容赦願いたい。
なお、後背の建物は、茨城県立那珂湊高等学校の校舎。

復元された窯を上部から眺める。
吾妻台の台地の裾から那珂川まで広がる平地が微かに写っている。
a0289546_07133274.jpg

反射炉建設には、高熱に耐える煉瓦が必要。
耐火煉瓦を焼成するための、登り窯が築かれた。
耐火煉瓦の原料は、当時、水戸藩領であった那須郡小砂村(栃木県那珂郡那珂川町)の陶土や、水戸市笠原町の粘土、磐城産の燧石の粉末などを用い、瓦職人、福井仙吉の製陶技術により、優れた耐火煉瓦の製造に成功。
優れた耐火煉瓦と、宮大工の棟梁、飛田与七の指揮のもと、入念な基礎工事が相まって、反射炉は完成したのであった。
(現地説明板および茨城県教育委員会HPより抜粋)

今も脈々と継がれている高炉の建設技術、耐火煉瓦の製造技術。
当時の人々に敬意を表する。

古墳探訪や古代寺院探訪を趣味とする者としては、この耐火煉瓦焼成窯を眺めながら、古墳時代の埴輪製作所(茨城県内では、ひたちなか市/馬渡埴輪製作遺跡)や奈良時代の瓦窯(茨城県内では、常陸国分寺・国分尼寺建立のための石岡市/瓦塚窯跡)などにも思いを馳せるのであった。

吾妻台を下りながら、反射炉を、今一度、見上げるのであった。
a0289546_07141865.jpg

先ほど、華蔵院の門前で見た案内標識のデザイン文字である「反射炉」を、トリミングにて、もう一度。
那珂湊反射炉跡を眺めたことで、改めて、このデザイン文字の見事さを感じるのであった。
a0289546_16454684.jpg

古墳探訪がメインの旅ではあるが、午前の、日下ヶ塚古墳近くの「磯浜海防陣屋跡」、先ほどの湊公園の別邸兼海防の要衝である「夤賓閣址」、そして、吾妻台の「那珂湊反射炉跡」と、幕末の史跡を連続して訪ねることが出来た。


時計を見ると、ちょうど、正午。
昼餉を摂ることにする。
ひたちなか海浜鉄道/那珂湊駅近くなら昼餉を摂るところがあるだろうと駅の方へ向かう。
駅前の交差点の角に食堂があった。
一も二もなく、駅前食堂に入る。
サバの味噌煮定食を注文する。
1日の塩分摂取量6グラムのコントロールを始めてから1年半、久しぶりの、サバの味噌煮。
濃い味噌味がたまらなく旨かった。

次の探訪先は、三反田塙支群/飯塚前古墳。
県道6号線を北西に向け、走る。

フォト:2018年12月4日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-05 23:36 | 常陸国古墳めぐり+あんこう鍋2018 | Comments(0)
2018年 12月 05日

『常陸国古墳探訪 with あんこう鍋 ポタリング/二日目、ひたちなか市/華蔵院の巻 ak-5

12月4日(火曜)、曇りのち晴れ。
1泊2日の「常陸国古墳探訪 with あんこう鍋ポタリング」、二日目。

大洗磯前神社をあとにして、大洗海岸通りを北上。
途中、サーフィンを眺めたり、イソヒヨドリに遊んで貰ったりしながら、那珂川の河口に架かる海門橋に至る。
海門橋を渡りながら、那珂川の河口の風景を愉しみ、ひたちなか市に入る。

海門橋を渡り、そのまま真っ直ぐ北上し、T字路に至る。
T字路の前方の高台が湊公園、T字路を左折し、華蔵院に至る。

華蔵院の門前に立つ、面白い文字の、案内標識。
デザイン文字で示された場所は、「華蔵院」「反射炉」「湊公園」の3ヶ所。
a0289546_01471822.jpg

1ヶ月前にも、ひたちなか市内の古墳を探訪。
その際、駅名標や道路脇の案内標識が絵文字化された漢字で書かれていることに目を惹かれた。
そのときのブログを綴るに際し、駅名標についてネット検索してみたところ、「2015年度 グッドデザイン賞、受賞。受賞企業はひたちなか海浜鉄道会社、デザイナーは小佐原孝幸」とあった。
1ヶ月ぶりに、また、その楽しいデザイン文字の案内標識に出遭ったのであった。

華蔵院。
真言宗智山派の寺、号は戒珠山密厳寺(かいじゅざん みつごんじ)、本尊は大日如来。
寺伝によれば、応永年間(1394年-1428年)、宥尊の開基と伝えられている。
宥尊は、正平15年(1361年)、常陸国久慈郡上岩瀬(常陸大宮市)で生まれ、若くして出家、僧籍に入り、真言宗の布教を行った僧。
当寺は、江戸時代には、七堂伽藍・四塔堂・六供院があったが、元治元年(1864年)、天狗党の乱の兵火で寺宝と共に全てを焼失。
明治14年(1881年)、現在の堂宇が再建された。
仁王門は、明治40年(1907年)、暴風雨で崩壊するも、昭和32年(1957年)に再建された。

仁王門。
a0289546_01184825.jpg

モミジの赤が仁王門を染めたか、はたまた、仁王門の朱色がモミジの葉を赤に染めたかと思うほどに、仁王門もモミジの色も鮮やか。

寺号標には「華蔵院 破魔薬師尊」と刻まれている。
本尊は大日如来だが、本堂左の薬師堂に薬師如来が安置されている。
a0289546_01183185.jpg

扁額コレクション。
a0289546_01202287.jpg

本堂。
a0289546_01230235.jpg

扁額コレクション。
a0289546_01255864.jpg

龍コレクション。
a0289546_01262914.jpg
a0289546_01272386.jpg

扁額コレクション & 龍コレクション。
額縁は龍の彫り物、その中に「龍華園」の書。
a0289546_01293375.jpg

本堂と薬師堂を繋ぐ渡り廊下。
a0289546_01341230.jpg

薬師堂。
a0289546_01381127.jpg

冒頭の仁王門のところで、「寺号標には『華蔵院 破魔薬師尊』と刻まれている。本尊は大日如来だが、本堂左の薬師堂に薬師如来が安置されている」と綴ったが、破魔薬師尊の「破魔」が気になっていた。
薬師堂脇の説明板に「昔より當山の薬師如来は破魔薬師如来と呼ばれ、魔を消除し、すべての願いを叶える佛様として信仰され、今に伝えられている」とあった。

宝珠をアップで。
a0289546_01383511.jpg

龍コレクション。
a0289546_01432379.jpg

鐘楼。
a0289546_01445384.jpg
a0289546_01450806.jpg
a0289546_01462885.jpg

華蔵院の梵鐘。
標柱には「那珂湊市指定文化財」とあるが、現在は茨城県指定文化財。
南北朝時代、暦応2年(1339)に製作されたもの。
銘文には、佐竹氏一族の中賀野義長(なかかのよしなが)である源義長が、大工圓阿に製作させたことが記されている。
鎌倉時代以降室町時代以前の典型的な梵鐘の形式を示し、高さは117cm、口径は69cm。 
この梵鐘は、元々、那珂郡上檜沢村(現・常陸大宮市)の浄因寺にあり、後に、満福寺へ移り、天保(1830~1844)の頃、水戸藩の大砲鋳造のために徴収されて、那珂湊に運ばれて来た。
結局、大砲鋳造の原料として潰されることなく残ったのは、幸いなことで、明治時代に華蔵院の所有となった。
(茨城県教育員会、ひたちなか市ホームージ、参照)

朝、大洗町の日下ヶ塚古墳を訪ねた際、天保年間に造られた海防陣屋跡を見た。
海防陣屋が設けられたことと大砲鋳造のために梵鐘が徴収されそうになったことは、時代的にぴたりと一致する。

デザイン文字の「華蔵院」を、トリミングにて、もう一度。
華蔵院の建造物を眺めたことで、改めて、このデザイン文字の見事さを感じるのであった。
a0289546_09390116.jpg

墓参の婦人と暫し会話。
御宅は那珂湊漁港の近くとのこと。
東日本大震災とのときは津波で浸水したとのこと。
墓石は倒壊し、新たに建立したとこのこと。
1ヶ月前に、ひたちなか市を訪れたときも、ひたちなか海浜鉄道/平磯駅で、この地の男性から東日本大震災のときの様子を聞いた。
海岸線を見るにつけ、思い起こすのは、やはり、あの大地震のことである。

華蔵寺院の仁王門を背に、参道を東へ真っ直ぐ進み、高台の湊公園へ向かう。

フォト:2018年12月4日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-12-05 23:35 | 常陸国古墳めぐり+あんこう鍋2018 | Comments(0)
2018年 12月 05日

『常陸国古墳探訪 with あんこう鍋 ポタリング/二日目、大洗町~ひたちなか市の巻』 ak-4

12月4日(火曜)、曇りのち晴れ。
1泊2日の「常陸国古墳探訪 with あんこう鍋ポタリング」、二日目。

このプランは、次の通り。

大洗町/投宿先
~磯浜古墳群/日下ケ塚古墳、車庫古墳、姫塚古墳、坊主山古墳の4基、探訪
~大洗磯前神社
~大洗海岸を北上、大洗ゴルフ倶楽部を左に見ながら
~アクアワールド大洗、入館はせず外から眺めて
~那珂川河口/海門橋を渡る(橋は五代目、初代の橋は立派な木製の橋)
~ひたちなか市に入る
~湊公園/い賓閣跡
~華蔵院/梵鐘
~あづまが丘公園/那珂湊反射炉跡
~三反田塙支群/飯塚前古墳 ※古墳時代後期、長方形墳
~大平古墳群/第1号古墳・・・見当たらず、未達(埋め戻しされたのかも)
〇〇:〇〇 金上駅発(ひたちなか海浜鉄道)・・・実際は、勝田駅まで自走
〇〇:〇〇 勝田駅着
〇〇:〇〇 勝田発(JR常磐線)
※都内到着の頃は通勤時間帯となる可能性あること、含んでおくこと。

詳しくは、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」で綴ることとし、本ブログでは1泊2日の旅のハイライトを綴ってみることとしたい。

大洗磯前神社をあとにして、大洗海岸通りを北上。
通りに並ぶ旅館が切れた辺りに、昔、干物屋があった。
20年近く前のことである。
取引先のAさんが「毎週、江ノ島へ行って、カサゴの干物を買ってます。カサゴの干物、旨いですよ」と話ましていたことを思い出し、干物屋に寄ってみた。
店先にはカサゴの干物は見当たらなかったが、ダメ元で「カサゴの干物、ありますか」と尋ねてみた。
この問いに、何と「ありますよ」との答え。
店の奥からカサゴの干物が登場した。
身は厚く、濃い味で、食べ応えのある干物であった。
そんなことを思い出しながら、干物屋があった辺りを通り過ぎた。
店があった辺りは空き地になっており、最早、店はなかった。

左手、大洗ゴルフ倶楽部の松林、右手も海岸の崖に生える松林。
それを過ぎると、右手に海が見えて来た。
a0289546_00095024.jpg


磯に集う、鵜たち。
a0289546_00100810.jpg

磯を飛ぶ、鵜。
a0289546_00123716.jpg

1ヶ月前の、ひたちなか市内古墳探訪+アルファで、海岸線の平磯中世代白亜紀層を訪ねた際のブログで、鵜について次の通り綴った。
---------------------------------------
海にいるからウミウ(海鵜)、川にいるからカワウ(川鵜)と単純には決めつけられない。
川や湖沼でカワウが増え過ぎ、餌不足となり、海で採餌するカワウもいる。
日本各地の鵜飼いで使われている鵜はウミウである(中国ではカワウとのことであるが)。
そのほとんどは、茨城県日立市(旧十王町)の伊師浜海岸で捕獲されたウミウを調教し、使っている。
伊師浜海岸でウミウを捕獲している様子をテレビで見たことがある。

ウミウとカワウは、嘴の付け根(嘴の合わせ目の後端)で見分けられる。
即ち;
・ウミウ:後方に向けて三角形に尖っている。
・カワウ:三角形ではなく、上下の、ほぼ直線となっている。

写真を拡大し、確認してみた。
嘴の合わせ目の後端が僅かではあるが後方に突き出ており、ウミウであることを確認した。
-------------------------------------------

今回は、遠目に見る鵜なので、ウミウかカワウかは同定し辛いが、鵜飼い用の鵜の捕獲地に近いと言えば近いので、ウミウとしておこう。


ウミウの次は、ラッコ?
いや、サーファーである。
a0289546_06161897.jpg

波が来たのに、その波に乗ろうとするサーファーはいない。
乗り易い波、乗り難い波があるのだろう。
それとも、下手くそばっかり?
a0289546_06164684.jpg
次に来た波に、一人が乗った。
残りのサーファーは乗らず。
やっぱり、下手くそ?
a0289546_06171358.jpg

浜辺間近に。
a0289546_06173419.jpg

下手くそとか何とか言いながらも、眺めていて飽きない。
湘南の海岸を走っていて、大勢のサーフーを見掛けても、下手くそと思ったことはない。
それは、下手くそもいるのだが、人数が多いから見えていないだけであろうだと、納得。
大洗のサーファー諸君、懲りずに、東京オリンピック2020を目指し、波乗りに励んで下さい!


護岸の黒いカンバスの上に野鳥が1羽。
光の具合で、ほぼ、シルエット状。
イソヒヨドリ?
a0289546_06451486.jpg

角度を変えて、胸を。
イソヒヨドリといえば、胸の色はレンガ色だが、この鳥の胸は斑点というか、鱗模様というか。
a0289546_06180712.jpg

胸を視認した途端、磯の方に飛び降りた。
だが、直ぐに戻って来た。
餌をくわえて。
a0289546_06183749.jpg

餌を食べ終え、嗚呼、旨かったと言わんばかりに、くちばしを開いた。
これは撮らねばと、ちょっと慌ててしまい、ほとんどが海面になってしまった。
海辺の鳥見写真だから、それもまたよし!と納得。

撮れた写真をよーく見ると、舌まで写っている。
よっぽど、美味しいものを食ったんだなあ...。
a0289546_06191026.jpg

鳥ミング図で、舌を再現。
a0289546_23521243.jpg

さて、鳥の名は?
答えは、イソヒヨドリの♀。
イソヒヨドリといえば、♂の色合いの印象が強く、一瞬、迷ったが、♀であった。

アクアワールド大洗水族館を過ぎると、道は左に大きくカーブし、県道108号線(大洗那珂線)に入り、那珂川河口に架かる海門橋を渡る。

海門橋は、車専用と自転車・歩行者用に分かれている。
a0289546_09075988.jpg

自転車・歩行者用の橋から自動車専用の道を挟んで、那珂川の上流方向を眺める。
a0289546_09082577.jpg

a0289546_09111304.jpg

投げ釣りをしている人、1名、竿を担いで歩いている人、1名、散歩中でスマホを覗いているの、2名。
河口は汽水、汽水は魚種が豊富、釣果も期待出来よう。
a0289546_09121736.jpg

河口で見掛けたアオサギ。
河口は汽水、汽水は魚種が豊富、釣り人同様、こちらも釣果が期待出来よう。
a0289546_09133295.jpg

海門橋を渡り切る。
那珂川の北側の、ひたちなか市に入る。

フォト:2018年12月4日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-05 23:34 | 常陸国古墳めぐり+あんこう鍋2018 | Comments(0)
2018年 12月 05日

『常陸国古墳探訪 with あんこう鍋 ポタリング/二日目、大洗町/大洗磯前神社の巻』 ak-3

12月4日(火曜)、曇りのち晴れ。
1泊2日の「常陸国古墳探訪 with あんこう鍋ポタリング」、二日目。

このプランは、次の通り。

大洗町/投宿先
~磯浜古墳群/日下ケ塚古墳、車庫古墳、姫塚古墳、坊主山古墳の4基、探訪
~大洗磯前神社
~大洗海岸を北上、大洗ゴルフ倶楽部を左に見ながら
~アクアワールド大洗、入館はせず外から眺めて
~那珂川河口/海門橋を渡る(橋は五代目、初代の橋は立派な木製の橋)
~ひたちなか市に入る
~湊公園/い賓閣跡
~華蔵院/梵鐘
~あづまが丘公園/那珂湊反射炉跡
~三反田塙支群/飯塚前古墳 ※古墳時代後期、長方形墳
~大平古墳群/第1号古墳・・・見当たらず、未達(埋め戻しされたのかも)
〇〇:〇〇 金上駅発(ひたちなか海浜鉄道)・・・実際は、勝田駅まで自走
〇〇:〇〇 勝田駅着
〇〇:〇〇 勝田発(JR常磐線)
※都内到着の頃は通勤時間帯となる可能性あること、含んでおくこと。

詳しくは、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」で綴ることとし、本ブログでは1泊2日の旅のハイライトを綴ってみることとしたい。

大洗磯前神社。

一の鳥居。
a0289546_23581751.jpg

扁額コレクション。
「二品親王熾仁 書」とある。
二品親王熾仁とは、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひと しんのう)のことである。
有栖川宮熾仁親王は、有栖川記念公園の騎馬像でその姿を見ることが出来る。
a0289546_23584104.jpg

二の鳥居。
a0289546_23590036.jpg

扁額コレクション。
二の鳥居の扁額も、一の鳥居と同様に、「二品親王熾仁 書」とある、
a0289546_23592825.jpg

社号標。
社号標の揮毫者の名は標柱の側面に刻まれていることが多いが、確認し忘れた。
「二品親王熾仁 書」であればよいのだが、書体を見比べると「洗」の「先」の跳ねや「社」の「土」の止めが異なるように思える。

a0289546_23594978.jpg
狛犬コレクション。
阿形。
a0289546_23372749.jpg

吽形。
a0289546_23375031.jpg

長い石段を上る。
四輪だと、脇道から境内西側の駐車場に入ってしまう。
その点、jitensha なら適当なところに止めることが出来、長い石段を上るので、一層のご利益がある。
a0289546_00013381.jpg

随身門。
a0289546_00192124.jpg


a0289546_00194414.jpg

狛犬コレクション。
阿行。
a0289546_00243480.jpg

吽形。
a0289546_00245130.jpg

拝殿。
a0289546_00351386.jpg

参拝。
拝殿には数種の見事な彫り物。
そららを代表して、鳥の彫り物を。
「ツバキにオオタカ」であろうか。
a0289546_00384572.jpg

師走の4日、新年の設えも着々と。
拝殿左脇の「平成三十一年 己亥歳」の干支大絵馬。
平成は来年4月末まで。
新元号は、さて。如何なるものになるのであろうか。
a0289546_00394595.jpg

大浪に白い猪が描かれた、大洗らしい干支大絵馬。
この大絵馬を見て思い出したこと、それは和気清麻呂を助けた猪の古事。
その故事により、猪は和気清麻呂の随身として崇められ、和気神社は、狛犬ではなく、<狛亥>に守られている。
(狛犬コレクター談)


献納酒樽。
1ヶ月前の酒列磯前神社では、ずらっと並んだ献納酒樽を代表して、明利酒類株式会社「酒は天下の副将軍」をカメラに収めたが、この日は<贔屓>することなく、三種を。
左から、大洗町/月の井酒造店「月の井」、水戸市/吉久保酒造「一品」、水戸市/明和酒類「副将軍」。
a0289546_00485133.jpg

石段を下り、神磯の鳥居へ向かおうと、神門を出たところで、GG & BBご一党さんと出遭う。
しばし、会話。
幹事さんの頼みに応じ、彼らのカメラで、神門を背景に集合写真を撮って差し上げた。


神磯の鳥居。
a0289546_01084578.jpg

初日の出。
境内で掲示してあった写真を接写、借用。
a0289546_01101054.jpg

磯から路地を通しての、二の鳥居と石段の風景。
路地写真コレクション。
a0289546_01131131.jpg

1ヶ月前、酒列磯前神社に参拝した。
境内で「当社兄弟神社 大洗磯前神社へお参りください 車で15分」と書かれた案内板を見て、マイ・ブログに次のように綴った。
------------------------------------------
親切な案内である。
酒列磯前神社は、過去、一度しか参ったことがないが、大洗磯前神社は幾度か参っている。
1ヶ月後の「あんこう鍋&古墳探訪ポタリング」の際に、大洗磯前神社を参拝することにしている。
-------------------------------------------

1ヶ月のうちに、兄弟神社を参拝することが叶った。
新年には兄弟神社に初詣出来れば完璧なのだが、そう出来れば嬉しいなという願望としておこう。
大洗磯前神社の境内で「神磯の鳥居<日の出>」の写真もゲット出来たことだし...。

フォト:2018年12月4日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-12-05 23:33 | 常陸国古墳めぐり+あんこう鍋2018 | Comments(0)
2018年 12月 05日

『常陸国古墳探訪 with あんこう鍋 ポタリング/二日目、大洗町/磯浜古墳群の巻』 ak-2

12月4日(火曜)、曇りのち晴れ。

前日は、水戸市内/愛宕山古墳と吉田古墳を探訪、千波湖でコクチョウをはじめとする鳥たちに遊んで貰う。
大洗の料理旅館に投宿。
あんこう鍋と大洗の地酒「月の井」を頂戴する。

二日目のプランは、次の通り。

大洗町/投宿先
~磯浜古墳群/日下ケ塚古墳、車庫古墳、姫塚古墳、坊主山古墳の4基、探訪
~大洗磯前神社
~大洗海岸を北上、大洗ゴルフ倶楽部を左に見ながら
~アクアワールド大洗、入館はせず外から眺めて
~那珂川河口/海門橋を渡る(橋は五代目、初代の橋は立派な木製の橋)
~ひたちなか市に入る
~湊公園/い賓閣跡
~華蔵院/梵鐘
~あづまが丘公園/那珂湊反射炉跡
~三反田塙支群/飯塚前古墳 ※古墳時代後期、長方形墳
~大平古墳群/第1号古墳・・・見当たらず、未達(埋め戻しされたのかも)
〇〇:〇〇 金上駅発(ひたちなか海浜鉄道)・・・※実際は、勝田駅まで自走
〇〇:〇〇 勝田駅着
〇〇:〇〇 勝田発(JR常磐線)
※都内到着の頃は通勤時間帯となる可能性あること、含んでおくこと。

詳しくは、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」で綴ることとし、本ブログでは1泊2日の旅のハイライトを綴ってみることとしたい。

前置きはこれくらいにして、本論に。

宿で朝餉を済ませ、徒歩で、磯浜古墳群/日下ケ塚古墳、車庫古墳、姫塚古墳、坊主山古墳の4基の探訪に出掛ける。
この5月、南国守さんから大洗のあんこう鍋の料理旅館の予約が完了した旨のメールが届いた際、料理旅館の場所をグーグル・マップで調べてみた。
すると、何と、その付近に古墳群があることが判明。

詳しく調べてみた。
磯浜古墳群に属する次の4基の古墳が遺存(築造順)。
①姫塚古墳 前方後方墳(※「後方」である)
②坊主山(ぼっちゃのやま)古墳 前方後円墳
③日下ヶ塚(ひさげづか)古墳(別名、常陸鏡塚)前方後円墳 全長103.5m 茨城県指定史跡
④車庫古墳 円墳 直径88m 茨城県指定史跡

大洗町のホームページ「日下ヶ塚(常陸鏡塚)古墳の範囲確認調査の実施」の案内に「磯浜古墳群周辺には、弥生時代以来の大規模集落である髭釜・一本松遺跡が展開し、古墳時代の3世紀後半も継続されます。そのような中から、30m級の前方後方墳である姫塚古墳が築造され、4世紀にかけて、坊主山古墳、日下ヶ塚古墳、車塚古墳の大型の前方後円墳や円墳が次々と築造されていきます。出現期古墳や前期古墳が一地区に集中して築造され続けた、この地域の古墳時代の社会背景を探ります。(略)」とあった。
出現期古墳や前期古墳の古墳群、まことに興味深いものである。
ということで、「あんこう鍋ポタリング」と銘打っていたポタリングは、「古墳探訪ポタリング with あんこう鍋」に変えた。

(参考図)
この参考図は、古墳探訪の相棒、武衛さんが大洗町HP掲載の地図をプリントし、持参していたものを接写したもの。
磯浜古墳群4基の形状と位置関係がよく分かる。
※車塚古墳の西側に破線で図示された湮滅古墳があるが、これは宅地造成で所在不明となっていた円墳数基のうちの一つで、2018年8月の調査でその存在が明らかになった円墳である五本松古墳であろう。
a0289546_16185670.jpg

宿も高台にあるが、古墳群は更に高台にある。
急坂を上る。

日下ヶ塚古墳。
墳丘(殊に前方部)が崩れており、前方後円墳の墳丘全体を視認することは難しく、全体像は説明板の図で。
a0289546_09520531.jpg

主軸を南北(前方部:南、図の左、後円部:北、図の右)に置く前方後円墳。
前方部の南端から数十メートルのところで崖となっている。
崖の手前には、江戸時代天保年間に造られた「磯浜海防陣屋跡」が残っている。

海防陣屋は、文政8年(1825年)、外敵に備え、日下ヶ塚権現台に遠見番所が設けられ、その後、天保7〜13年(1836〜1842年)に水戸藩主 徳川斉昭がこれを強化し、海防陣屋としたものである。
そうしたことから、今でも、地元では「おでぇば山」(お台場山)と呼ばれているという。
海防陣屋跡は台状の盛土となっている。
前方後円墳の前方部が崩れているのは、前方部を切り崩し、その土を海防陣屋の盛土にしたのではないかとも思わせる(筆者の勝手な想像だが)。

海岸線はほぼ南北に位置しており、台地の縁にある海防陣屋跡に立つと、太平洋(鹿島灘)が一望出来る。
a0289546_10220958.jpg

遥か彼方の水平線の、少し明るくなっている辺りをズーム・アップ!
a0289546_10230880.jpg

更に、超ズーム・アップ!
a0289546_10240929.jpg

海防陣屋が造られるずっと以前に、日下ヶ塚古墳の被葬者は海を臨むこの高台に自らの墓を築造することを望んだことをこの景色を眺めることでよく理解できる。

日下ヶ塚古墳の具体的な被葬者は明らかでないが、この地は太平洋を一望するとともに那珂川・涸沼川水系の河口部に所在することから、被葬者は水上交通を掌握していた人物と考えられ、付近に鎮座する大洗磯前神社の神陵とする説のほか、仲国造一族の墓とする説などが挙げられている(一部、ウィキぺディアより抜粋)。

前日、探訪した愛宕山古墳(水戸市)の被葬者は仲国造と推定されているとのことであった。
水戸市と大洗町の古墳を探訪したことで、現在の水戸市から大洗町一帯が仲国造一族の支配下にあったことが実感できる。

海防陣屋跡を北側から眺める。
台状の盛土が見て取れる。
a0289546_10263925.jpg

墳丘の東側の周溝を通り、北へ歩き、比較的、墳丘の形が残っている後円部に上る。
a0289546_10301785.jpg

前方部墳頂/石碑「史跡 日下ヶ塚」。
a0289546_10330487.jpg

石碑の裏側には「この塚は古くより日下ヶ塚と称され...その由来を記し これを後世に傳えるものである 昭和四十年三月十四日 大洗町長 加藤 清」と刻まれている。
a0289546_10345242.jpg

後円部墳頂に生える松の木。
何故、こんな形になったのだろうと思わせる、不思議な枝ぶり。
a0289546_10412977.jpg

後円部墳頂から北側を眺める。
住宅の向こうに、車塚古墳(円墳)が見える。
a0289546_10464842.jpg

ズーム・アップ!
a0289546_10470629.jpg

後円部墳丘を下る。
右手、前方部の墳丘の一部と思しき形が僅かに視認出来る。
a0289546_10532305.jpg

日下ヶ塚古墳の東側を北へ進み、車塚古墳へと向かう。
日下ヶ塚古墳を見分したことでもあり、左、盛土/前方部、右<こんもり>/後円部と、墳丘の全体像を視認することが出来る。
a0289546_10575568.jpg

車塚古墳。
北側の墳丘裾に鳥居が立つ。
a0289546_11072311.jpg
a0289546_11083051.jpg

金網と鉄条網で囲われている。
扉がある。
施錠はされていない。
立入禁止の掲示もない。
折角の古墳探訪である。
墳丘に上らせて貰う。
a0289546_11141614.jpg

車塚古墳は、墳頂部、中段、下段に平面を持つ三段築造の円墳。
規模は、直径約88m(周濠を含めると約120m)、高さ約13m。
(現地説明板、抜粋)

墳頂に鎮座する祠。
a0289546_11374827.jpg

祠の右手に、高架が見える。
磯浜古墳群の西側を走る鹿島臨海鉄道鹿島線の高架である。
前日、この高架路線を通って、水戸から大洗駅に到着したのである。
a0289546_11445464.jpg
墳丘を下る。
墳丘に生えている大木はスダジイ。
a0289546_11474756.jpg

姫塚古墳。
車塚古墳の北側に位置する古墳。
姫塚古墳は、磯浜古墳群(3世紀後半~4世紀)の遺存4基の中で築造時期が最も古いとされている前方後方墳である。
a0289546_11530600.jpg
a0289546_11532188.jpg

姫塚古墳の現地説明板は見当たらない。
墳丘は残っているものの、前方後方墳であるとは視認し辛い。
車塚古墳現地説明板から抜粋した図で確認してみる。
図では薄く示されているが、主軸を東西(前方部:西、図の左、後方部:東、図の右)に置く前方後方墳であることが分かる。
但し、前方部は消滅しているようであるし、後方部は、盛土は南側へ崩れているのか、或いは、削平された前方部の土がそこへ移動されたのか、とにかく、前方後方墳の形を頭の中でイメージして眺めるほかない。
因みに、冒頭に掲載した、武衛さん持参の大洗町HP掲載地図コピーの接写写真では、くっきりと前方後方墳の形が描かれている。
a0289546_12091155.jpg

坊主山古墳。
車塚古墳の東側に位置する。
住宅の中を通り、北側から回り込み、墳丘の東側に出る。

主軸を南北(前方部:北、後円部:南)に置く前方後円墳。
墳丘の東側に立ち、前方部から後円部を見通す。
a0289546_12265119.jpg

前方部から後方部を見通す。
a0289546_12274461.jpg

前方部の南端に鳥居が立つ。
a0289546_12311863.jpg

鳥居をくぐり、前方部の墳頂に上ってみる。
墳頂に小さな祠が鎮座しているのが見える。
a0289546_12335299.jpg

墳頂に鎮座する小さな祠。
祠の脇は、狛犬かと思いきや、狐が鎮座。
祠はお稲荷さんということになろう。
a0289546_12373865.jpg

後円部墳頂から前方部を見通す。
a0289546_12384784.jpg

先ほど、通って来た墳丘の東側に生える紅葉の赤がきれい。
a0289546_12402274.jpg

車塚古墳のシダジイで形成された<こんもり>が見える。
a0289546_17310535.jpg


武衛さん持参の、大洗町HP掲載の地図コピーで、この朝、訪ねた、海防陣屋跡、日下ヶ塚古墳、車塚古墳、姫塚古墳、坊主山古墳を<おさらい>する。
・海防陣屋跡
・日下ヶ塚古墳(常陸鏡塚古墳):南北に主軸を置く前方後円墳
・車塚古墳:円墳
・姫塚古墳:東西に主軸を置く前方後方墳
・坊主山古墳:ほぼ南北に主軸を置く前方後円墳
a0289546_16185670.jpg

1ヶ月前に訪ねた「ひたちなか市立埋蔵文化財センター」で見たポスター。
航空写真に写っているのは、日下ヶ古墳とその周辺である。
企画展は11月17日から12月16日まで開催されているが、土曜・日曜のみで、平日は休館となっており、今回の探訪日は月曜で、見学は不可。
もっとも、午前11時からとなっており、例え、開館日であったとしても、後行程の都合上、11時までは待てなかったであろう。
大洗町のホームページに掲載されている、この催しでの見学会や講演会の内容を参照しながら、その様子を想像し、楽しんでみた。
a0289546_16205241.jpg

宿に戻り、荷物をピックアップ。
愛馬に跨り、出発!
先ず、大洗磯前神社へ向かう。

フォト#1~#31:2018年12月4日
フォト#32:2018年11月10日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-05 23:32 | 常陸国古墳めぐり+あんこう鍋2018 | Comments(0)
2018年 12月 05日

『常陸国古墳探訪 with あんこう鍋 ポタリング/初日、水戸/愛宕山古墳、吉田古墳、千波湖~大洗の巻』 ak-1

12月3日(月曜)、曇りのち晴れ。

1泊2日の「常陸国古墳探訪 with あんこう鍋ポタリング」に出掛けた。
メンバーは、南国守さん、武衛さん、そして、上総の3名。

某月某日、南国守さん曰く、「大洗でゴルフをして、あんこう鍋を食って来たよ」と。
「であれば、あんこう鍋ポタリングもやろう」と提案。
5月初旬、南国守さんから「シーズン間近になると、あんこう鍋の予約が取れなくなるんで」ということで、日程調整のメールが到来。
半年以上前のことながら、さもあらんと日程調整し、12月3日・4日の日程と決まり、あんこう鍋の料理旅館の予約も取れた。

大洗の料理旅館の場所をグーグル・マップで見たところ、何と、その周辺に古墳群が!
ということで、「あんこう鍋ポタリング」が「あんこう鍋 with 古墳探訪ポタリング」、否、古墳探訪が趣味なので、「古墳探訪 with あんこう鍋ポタリング」と銘打ち、企画を練った。

出来上がったプランは次の通り。
大洗町の古墳に加え、水戸市内、ひたちなか市内の古墳も織り込んだ。

12月3日(月)
〇〇:〇〇 各自、最寄り駅より乗車(JR常磐線)
11:21 水戸着
<水戸市内ポタ>
水戸駅
~県道272号線を北上
~那珂川/水府橋南詰、左折
~那珂川沿いを北西に(川沿いサイクリングロードあり?なければ、黄色の一般道を)
~右手に茨高グランドが見えたら、もう直ぐ
~「曝井」・・・※現地にて遭遇、万葉集、常陸風土記ゆかりの湧き水
~愛宕山古墳(=愛宕神社)※那珂国造の墳墓
~来た道を戻る
※茨城県立歴史館にて、三昧塚古墳出土/金銅製八頭馬形飾付冠を見学したいが、生憎、月曜は休館。
~千波公園/映画「桜田門外の変」オープンセット・・・結果、オープンセットは最早、なし。
~吉田古墳 ※水戸市元吉田町、八角墳、武具線刻壁画あり、国指定
~水戸駅
〇〇:〇〇 水戸駅発(鹿島臨海鉄道鹿島線)
〇〇:〇〇 大洗駅着
~自走
〇〇:〇〇 料理旅館着/あんこう鍋で酒宴

12月4日(火曜)
<大洗町&ひたちなか市南部ポタ>
料理旅館
~磯浜古墳群/日下ケ塚古墳、車庫古墳、姫塚古墳、坊主山古墳の4基、探訪
~大洗磯前神社
~大洗海岸を北上、大洗ゴルフ倶楽部を左に見ながら
~アクアワールド大洗、入館はせず外から眺めて
~那珂川河口/海門橋を渡る(橋は五代目、初代の橋は立派な木製の橋)
~ひたちなか市に入る
~湊公園/い賓閣跡
~華蔵院/梵鐘
~あづまが丘公園/那珂湊反射炉跡
~三反田塙支群/飯塚前古墳 ※古墳時代後期、長方形墳
~大平古墳群/第1号古墳・・・見当たらず、未達(埋め戻しされたのかも)
〇〇:〇〇 金上駅発(ひたちなか海浜鉄道)・・・※実際は、勝田駅まで自走
〇〇:〇〇 勝田駅着
〇〇:〇〇 勝田発(JR常磐線)
※都内到着の頃は通勤時間帯となる可能性あること、含んでおくこと。

詳しくは、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」で綴ることとし、本ブログでは1泊2日の旅のハイライトを綴ってみることとしたい。

水戸といえば、水戸黄門!
a0289546_10452327.jpg
a0289546_10454195.jpg

水戸市街地から那珂川右岸サイクリングロードを遡り、那珂川西岸の河岸段丘上に築造された愛宕山古墳へ向かう。

台地への坂道を上り始め、しばらくすると「森と泉と史跡の 水戸のロマンチックゾーン」と染め抜かれた幟旗が立っていた。
a0289546_10460988.jpg

曝井。
幟旗の最後にあった「万葉曝井の杜」が左手に現れた。
「那賀郡の曝井の歌」「三栗(みつくり)の 那賀(なか)に向へる 曝井(さらしゐ)の 絶えず通はむ そこに妻もが」と刻まれた歌碑と共に。
a0289546_10462500.jpg

愛宕山古墳/愛宕神社(水戸市愛宕町)。
主軸は後円部を北西に置き、前方部を東南に向けて築造された、全長136.5mの県内最大級の前方後円墳。
墳形や出土品などから、6世紀初め頃の築造、被葬者は仲国造(なかのくにのみやつこ)と推定されている。
後円部墳頂に愛宕神社が鎮座している。

前方部西側からの参道入口。
a0289546_10464352.jpg

本殿への石段。
即ち、後円部/西側斜面。
a0289546_10471648.jpg

本殿参拝。
a0289546_10513490.jpg

墳頂を見分。
後円部から前方部へ、そして、前方部から後円部へ戻る。
a0289546_10514867.jpg

前方部石段から墳丘を下り、墳丘を時計回りでぐるっと半周し、前方部の南東端へ。

南東端の参道入口。
a0289546_01040267.jpg

南東の参道石段。
即ち、前方部/南東端斜面。
a0289546_01042178.jpg

愛宕山古墳をあとにして、来た道を戻り、市街地へ。
水戸駅を北から南へ越え、緩やかな坂道を上り、吉田古墳が位置する台地へ。

吉田古墳(水戸市元吉田町)。
八角形墳。
近世以降に削平され、往時の姿はとどめておらず。
a0289546_10551934.jpg
a0289546_10553423.jpg

石室内に描かれた線刻壁画(現地説明板より転載)。
a0289546_10591844.jpg


吉田古墳の直ぐ近くで、水戸黄門に遭遇。
「梅酒と酒の資料館 別春館」。
1週間前、酒列磯前神社でカメラに収めた奉納酒樽「副将軍」の蔵元(明利酒類)にここで遭遇するとは、これも何かの縁!
a0289546_11033299.jpg

「別春館」の名の由来は、「杯の中には別の春がある」と水戸黄門の名言があり、その言葉をモチーフに名付けられたという。
150年余の由緒ある酒蔵店で、1階は酒蔵、2階は昔の酒の製造方法や道具などの展示品を見学できるという。
この日は月曜日で、休肝日、いや、休館日。
a0289546_11042967.jpg

吉田古墳から水戸駅近くへ戻る。

千波湖。
湖を一周。
湖を眺める南国守さん。
a0289546_11312700.jpg

湖を眺める水戸黄門。
a0289546_11324385.jpg

千波湖といえば、コクチョウ(黒鳥)。
コクチョウはオーストラリアに生息する固有種。
千波湖に移入された詳細は不詳。
千波湖にコクチョウは何羽くらいいるのだろう、千波湖だから千羽くらいはいるかも、そんなにたくさんはおれへんでぇ、と一人漫才をやりながら、調べてみた。
詳しい数字は分からないが、50羽超はいるようである。
a0289546_11330754.jpg
コクチョウとハクチョウ、そして、マガモ(♀)。
a0289546_11342905.jpg
コクチョウと、ハクチョウの陰から顔を出したマガモ(♂)。
a0289546_11395677.jpg
コクチョウの目は赤。
a0289546_11352859.jpg

オオバンもいるよ!と、登場。
白い額板と木の葉形の弁足(水かき)を自慢げに見せながら。
因みに、オオバンの目も赤い。
a0289546_11441898.jpg

水戸駅から鹿島臨海鉄道鹿島線で大洗まで輪行。

大洗。
料理旅館に投宿。
あんこう鍋。
合わせる酒は、「副将軍」ではなく、大洗の地酒「月の井」。
a0289546_11502724.jpg

あんこう鍋と地酒を頂戴し、大満足。

フォト:2018年12月3日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-05 23:31 | 常陸国古墳めぐり+あんこう鍋2018 | Comments(0)
2018年 12月 02日

『明治大学博物館/常設展示室/考古コーナー』 mm-3

12月1日(土曜)、晴れ。

『特別展 ウィリアム・ガウランドと日本の古墳研究』を見学すべく、駿河台/明治大学博物館へ。

特別展示室で『特別展 ウィリアム・ガウランドと日本の古墳研究』を見学。
そのあと、常設展示室へ。
明大コレクション「ガウランド研究の歩み」を見学。
つづいて、次のコーナー「考古」へ。

舟塚古墳/「埴輪のまつり」。
a0289546_07181269.jpg
a0289546_07210291.jpg

----------------------------------------
埴輪のまつり
埴輪は古墳の上に並べられた土製のやきもので、筒形の埴輪は柵のように立て並べて装飾あるいは古墳の内外を区分する境界線の機能を持っていた。
一方、家や人・動物などの埴輪は葬られた人物の生前の暮らしや儀式の様子を表している。
舟塚古墳の埴輪は、関東でも屈指の大型品で、80cmにも達する円筒埴輪や、力士など人物埴輪の多彩な構成と配置から、近畿の大王墓や関東の有力古墳との共通性が指摘されている。

(図)
舟塚古墳の墳丘と埴輪の出土状況(新井2000より作成)
●:円筒埴輪 ○:朝顔形円筒埴輪 △:人物埴輪 □:その他の埴輪
----------------------------------------

a0289546_09030847.jpg

------------------------------------------
舟塚古墳
茨城県小美玉市
6世紀中葉
1965-1968年発掘

玉里舟塚古墳とも呼ばれる全長72mの前方後円墳。
埋葬施設は、槨状の施設がめぐる二重構造の特異な箱式石棺。
盗掘されていたが、銀装の倭風大刀や挂甲・金銅装馬具・銀製梔玉などの豪華な副葬品があったことがわかっている。
------------------------------------------

説明文に「埋葬施設は、槨状の施設がめぐる二重構造の特異な箱式石棺」とある。
具体的にどういうことか、浅薄な知識では想像するに至らない。
後日の宿題とする。

埴輪群を、左から右、手前から奥に目を遣り、見分。
a0289546_07223632.jpg
a0289546_07240134.jpg
a0289546_07264293.jpg
a0289546_08445662.jpg
a0289546_08482071.jpg

舟塚古墳の調査の様子。
a0289546_09021668.jpg

三昧塚古墳。
a0289546_12152076.jpg

------------------------------------------
三昧塚古墳
茨城県行方市
5世紀末~6世紀初頭
1955年発掘

全長85mの前方後円墳。
埋葬施設は縄掛け突起がついた箱式石棺で、棺内と棺外の埋納施設から馬をあしらった金銅製冠や鏡・武器・馬具・冑・短甲・挂甲など多数の副葬品が出土している。
墳丘には円筒埴輪と人物・動物などの形象埴輪が並べられていた。
------------------------------------------


三昧塚古墳の調査の様子。
a0289546_12241483.jpg

三昧塚古墳出土 馬形飾付金銅冠(2018年、国の重要文化財指定、茨城県立歴史館蔵)。
a0289546_16110812.jpg


2016年12月、三昧塚古墳を探訪。
現地の説明板等で、かなり詳しく古墳の概要が解説されていた。

現地の説明板掲載写真/「金銅製馬形飾付冠」(茨城県立歴史館蔵)。
a0289546_16130360.jpg

現地の後円部墳頂/タイル上に被葬者と副葬品を再現。
前掲の三昧塚古墳調査の様子を撮影した写真とこの再現図を併せて眺めると、感慨深いものがある。
a0289546_16135202.jpg

現地の説明板では、明治大学によって調査されたことに一切、触れられていなかった。

ウィキペディアを参照すると、舟塚古墳(小美玉市)の詳細については紹介されていないが、三昧塚古墳(行方市)については、かなり詳しく紹介されている。

調査の関連は次の通り記されている。
-----------------------------------------------------------------
1955年(昭和30年)、築堤工事に伴う土取り、緊急発掘調査。副葬品多数の出土(第1次調査、後藤守一・斎藤忠・大塚初重ら、1960年に報告書刊行)。
-----------------------------------------------------------------
1990年(平成2年)8月23日、旧玉造町指定史跡(現在の行方市指定史跡)に指定。
-----------------------------------------------------------------
1994年度(平成6年度)、第2次調査(旧玉造町教育委員会・明治大学、1995年に報告書刊行)。
-----------------------------------------------------------------
1999年度(平成11年度)、第3次調査(旧玉造町遺跡調査会・明治大学、2001年に報告書刊行)。
-----------------------------------------------------------------
2004年(平成16年)1月8日、出土遺物が茨城県指定有形文化財に指定。
-----------------------------------------------------------------
2018年(平成30年)10月31日、出土品が国の重要文化財に指定。
------------------------------------------------------------------

「1955年 第1次調査、後藤守一・斎藤忠・大塚初重ら、1960年に報告書刊行」とある。
後藤守一氏(1888-1960)と大塚初重氏(1926-)のプロフィールは第2話で綴った。
斎藤忠氏は初登場。

斎藤忠(さいとう ただし、1908年 - 2013年)
考古学者。、1932年東京帝国大学文学部国史学科卒業、1965年東京大学教授、1970年大正大学教授、1983年退任、財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所長を務めた。
著書、多数。
※(備忘録)斎藤忠・大和久震平共著「那須国造碑・侍塚古墳の研究ー出土品・関係文書ー」(吉川弘文館、1986年)

第1次調査時、後藤守一氏は67歳、斎藤忠氏は47歳、大塚初重氏は29歳。
後藤守一氏は第1次調査報告書刊行時に亡くなっている。

展示を順番に見学していく。
a0289546_15193179.jpg
a0289546_15222086.jpg

三昧塚古墳出土/衝角付冑・横矧鋲留短甲(茨城県教育委員会蔵、明治大学博物館寄託)。
a0289546_15124294.jpg
こうした武具の出土品を見ると、群馬県立埋蔵文化財センター情報館で見た、金井東裏遺跡出土の「甲(よろい)を来た古墳人」(榛名山の噴火に伴う火砕流に埋もれた、膝を曲げ、両手で頭を抱え、前屈の姿勢で発見された、武具をつけた男性)を思い起すのであった。

壁面パネル/茨城県南部の前期古墳。
a0289546_15401273.jpg

--------------------------------------------
茨城県南部の前期古墳
茨城県南部の霞ケ浦北辺には、東日本第2位の全長をもつ舟塚山古墳など大型の前方後円墳が数多く築かれる。
ほとんどが中期から後期のものであるが、勅使塚古墳や佐自塚古墳は前期のものであり、6mを超える長大な木棺の中に日本製の鏡や装身具を副葬する。
注目されるのは、底部に穴をあけた儀礼専用の壺形土器や、壺をのせる器台の形を呈した埴輪で、近畿で始まった儀礼が次第に東へ広がっていく様子がうかがえる。
--------------------------------------------


霞ケ浦(高浜入り)の古墳群。
a0289546_15493764.jpg

第2話で述べた通り、毎年末、霞ケ浦漁師市(兼)霞ケ浦周辺古墳探訪を行っている。
この高浜入り周辺の古墳が記された地図は誠に有用である。

壁面パネル。
左/群週墳と積石塚
右/五領式土器と古墳時代土器の研究
a0289546_15235785.jpg


群集墳と積石塚。
a0289546_15292740.jpg

----------------------------------------------
群集墳と積石塚
6世紀頃から、全長30~10m程度の小規模な古墳が数基から数十基、多いものでは数百基という規模で密集して築かれる「群集墳」が現れる。
こららの古墳は地域を支配した豪族よりもさらに下位の有力農民層や、須恵器・馬・金属製品などを扱う特別な生産者集団が経済力を背景に成長し、古墳を築くほどの力をつけたことを示している。
長野県大室古墳群は500基以上で構成される一大群集墳で、石のみで築かれた朝鮮半島系の古墳である「積石塚」が初期にみられるほか、副葬品には馬具や武器が多く、また、馬形土製品も出土していることから、渡来系の技術を用いて馬の生産に携わる集団を率いた有力者たちの墓であったと考えられている。
----------------------------------------------


大室古墳群の群構成。
赤〇:積石塚、黒〇:土石混合墳
ナンバリングされたもののみ南(図、上)から順に特記する。
168号墳:積石塚(合掌形石室)
186号墳:土石混合墳
185号墳:積石塚
187号墳:積石塚
196号墳:積石塚
a0289546_01011638.jpg

大室第186号墳(土石混合墳、横穴式石室)
a0289546_01092909.jpg

今夏、香川県善通寺市/有岡古墳群に属する野田院古墳を探訪した。
現地説明板では、野田院古墳についてのほか、積石塚についても言及しており、興味深く思い、積石塚についてあれこれ調べた。

現地説明板では次の通り記されていた(抜粋)。
-------------------------------------------------
瀬戸内海沿岸部には、香川県を中心に、古墳発生期から前期にかけて造られた数多くの積石塚が分布していることが知られています。
この他には、長野県を中心に分布する古墳時代後期から終末期にかけて造られた積石塚が知られている程度で、全国的には分布していません。
朝鮮半島にも同様の積石塚が認められることから、渡来人が伝えたとする「外来説」と、日本で独自に発生したとする「自生説」がありますが、香川県では白鳥町の成重遺跡(弥生時代中期)や善通寺市の稲木遺跡(弥生時代後期)で集石墓が確認されており、積石塚は古代の讃岐で発生したのではないかと考えられています。
-------------------------------------------------

5月、長野県千曲市/森将軍塚古墳を探訪したこともあり、「この他には、長野県を中心に」の記述に触発され、積石塚を調べてみたところ、香川県のほか、徳島県、長野県、山口県、福岡県に事例があることが分かった。
中でも、「長野県を中心に」とある通り、長野県の大室古墳群(松代市)は相当に立派な古墳群で、その概要をベンキョーし、是非、訪ねてみたいと思っていた。
上掲の明治大学の解説では「馬」との関わりが唱えられており、大変、参考になった。

五領式土器と古墳時代土器の研究。
a0289546_15303694.jpg

----------------------------------------------
五領式土器と古墳時代土器の研究
古墳時代の土器には、弥生土器に続く土師器と朝鮮半島からもたらされた技術で生産された須恵器の2種類がある。
このうち、土師器は埼玉県五領遺跡の調査と、戦前以来の杉原荘介の研究によって、関東では前期の五領式から中期の和泉式・後期の鬼高式へと至る様相が明らかになった。
五領式土器は、文様が省略された小型の精製土器(坩・器台)が加わる点に特徴があるほか、東海以西の土器が製作技法や種類の構成に影響を与えている点が注目される。

(図)
古墳時代の土器の型式とその年代
250-400年 五領式土器 数種の須恵器、図示
400-500年 和泉式土器 同上
500-(700年)鬼高式土器 同上
----------------------------------------------

五領遺跡は、埼玉県東松山市柏崎に分布する古墳時代前期の集落址。
因みに、五領遺跡は吉見百穴の南西1km辺りのところに位置しており、吉見百穴に隣接した吉見町埋蔵文化財センターで展示物を見学したが、五領遺跡については記憶にない(見落としたか、展示そのものがなかったのかは不明)。

史跡めぐりの相棒、武衛さんらと、東松山市や比企郡吉見町の横穴墓群をめぐった際、次は鳩山町を中心とした南比企窯跡群を探訪しようという話が浮上していたこともあり、五領式土器の解説を興味深く思った。

=備考=
杉原荘介(すぎはら そうすけ、1913年 - 1983年)。
考古学者、1948年明治大学専門部助教授、1946年同大学文学部助教授、1953年同文学部教授、1959年以降は明治大学人文科学研究所長・考古学陳列館長・史学地理学科長となった。
静岡県/登呂遺跡発掘調査、群馬県/岩宿遺跡発掘調査では中心的役割を果たす。
論文中に土器の式名を明記し、杉原の設定した標式名は広く用いられ定着した。

五領式土器とは。
南関東の古墳時代前期の土師器の一型式。
1955年(昭和30年)、埼玉県東松山市柏崎の五領遺跡でから出土した土器群をもって、中山淳子らによって認定された。
壺、台付き甕、甑、高坏、小形器台、小形丸底坩、鉢などからなる。

和泉式土器とは。
南関東の古墳時代中期を代表する土師器の一型式。
1940年(昭和15年)、東京都狛江市和泉で出土した土器をもって、杉原荘介により設定された。
当時はこれが最古の土師器であろうと考えられていた。
高坏、小型丸底坩、「く」の字状口縁球胴の平底甕などからなる。

鬼高式土器とは。
南関東の古墳時代後期を代表する土師器の一型式。
1937年(昭和12年)、千葉県市川市鬼高で出土した土器群をもって、杉原荘介が名づけた。
長胴甕、大形甑、高坏などからなる。


右/古墳の終焉、左/環頭大刀と蕨手刀。
a0289546_16482120.jpg

----------------------------------------------
古墳の終焉
7世紀になると前方後円墳は次第に姿を消し、変わって大型の方墳や上円下方墳、八角形墳が造られるようになる。
旧来の権力の象徴である前方後円墳が消え、新たな形に変わっていく状況は、近畿から配布されたと考えられる双龍環頭をはじめとした装飾付大刀の広がりとあわせて、地方豪族が国家体制に組み込まれていく過程を物語っている。

九州に源流をもつ鮮やかな壁画古墳や、近畿から遠くは北海道にまでもたらされた蕨手刀は、そうした動きの中で権力者が広範囲にわたって交流していたことを示している。

やがて、古墳の築造に向けられていた地方豪族たちの力は、寺院の建設へと注がれていくことになるのである。

(写真)
関東の終末期古墳/千葉県・龍角寺岩屋古墳
装飾古墳/茨城県・虎塚古墳
----------------------------------------------

----------------------------------------------
環頭大刀と蕨手刀
柄も2匹の龍が玉をくわえる意匠の双龍環頭大刀は、古墳時代終末期の蘇我氏に関係する地方の首長へ、一方、蕨手刀は奈良~平安期にかけて、中央から東日本の有力者にもたらされたものと考えられている。
(展示品)
上・中段/環頭大刀
下段/蕨手刀
----------------------------------------------


文字に現れた倭国
『三国志・魏書』巻三〇 
『後漢書』巻一一五
『宋書』巻九十七
隅田八幡神社蔵人物画像鏡銘文
稲荷山古墳出土鉄剣銘文
江田船山古墳出土大刀銘文
a0289546_16511547.jpg
a0289546_16513650.jpg

弥生青銅器。
古墳時代から弥生時代へ時代は逆行するが、弥生時代もベンキョーせねばならないので...。
a0289546_16515442.jpg

参考ブログ。
アーカイブより。
2016年12月28日、三昧塚古墳探訪のマイ・ブログ。
こちらをポチッ!


ウィリアム・ガウランドの功績、ウィリアム・ガウランドに関わる研究、明治大学の発掘調査活動など、古墳に関連するあれこれを、明治大学博物館で大いにベンキョー出来た1日であった。

フォト:2018年12月1日

(完)



# by ryujincho | 2018-12-02 23:33 | 明治大学博物館/ウィリアム・ガウランド展 | Comments(0)
2018年 12月 02日

『明治大学博物館/常設展示室/ガウランド研究の歩み』 mm-2

12月1日(土曜)、晴れ。

『特別展 ウィリアム・ガウランドと日本の古墳研究』を見学すべく、駿河台/明治大学博物館へ。

特別展示室で『特別展 ウィリアム・ガウランドと日本の古墳研究』を見学。
そのあと、常設展示室へ。

明大コレクション「ガウランド研究の歩み」。
a0289546_02545292.jpg

4枚の壁面パネルを読み下す。

「明大コレクション 41
ガウランド研究の歩み
ー大塚初重氏の調査資料からー」
a0289546_03035402.jpg

--------------------------------------------
明大コレクション 41
ガウランド研究の歩み
ー大塚初重氏の調査資料からー

ウィリアム・ガウランド(William Gowland, 1842 - 1922)は、イギリスから明治政府によって招かれた冶金技師で、大阪・造幣局に勤め、日本の産業振興に寄与した人物である。

一方で、趣味の登山で「日本アルプス」の命名者として知られると共に、余暇を費やして没頭した古墳研究でも多くの業績を残している。
彼の先進的な研究の成果は帰国後に発表され、さらにコレクションがロンドン・大英博物館に収蔵されたことから、具体的な研究内容は不明な部分が多かった。
その解明の先鞭をつけたのが、本学名誉教授の大塚初重氏である。

大塚氏は1967年(昭和42年)、単身、大英博物館に渡って、調査にあたり、ガウランドが収集した考古資料の概要を把握し、その成果の一部を1977年に発表した。
これが、80年代以降に本格化するガウランド研究の端緒となったのである。

本展では、大塚氏からご寄贈いただいた当時の調査図面や写真から、ガウランド・コレクションと研究の歩みの一端を紹介する。
--------------------------------------------

大塚初重(おおつか はつしげ、1926年 - 健在)
考古学者、明治大学名誉教授。
今年4月の遠賀川流域装飾古墳めぐりに先立ち、大塚初重著『装飾古墳を世界をさぐる』(2014年、祥伝社)を読ませて貰った。
装飾古墳は勿論のこと、同氏が調査した装飾古墳以外の古墳についても触れられていた。
考古学界の先生方のことは余り承知していないが、この著を読んだことで、馴染みのある先生となり、且つ、ガウランド研究のため、大英博物館に赴いたとのことで益々親しみを覚えるのであった。

余談ながら、全国で16万基あると言われる古墳の中で「大塚」と名の付く古墳は最も多いもののひとつではないかといつも思っている。
名字の「大塚」の由来は「語源は、土や石を築いたところ、その高台を言う。後に『塚』は墓の意味も兼ね、地名となり、姓氏に転嫁した」(出典/名字由来ネット)とのことであり、大塚初重氏は生まれながらにして、古墳に関わる考古学者になる運命であったように思うのだが如何であろうか。

「ガウランド研究の歩み」
a0289546_02563174.jpg

-----------------------------------------------
ガウランド研究の歩み
ガウランドは日本人研究者との交流が少なく、論文を発表したのも帰国後であったため、研究に対する評価は浜田耕作氏や後藤守一氏(明治大学考古学専攻初代教授)など一部にとどまり、必ずしも高いものではなかった。

注目されるきっかけとなったのが1967年の大塚初重氏による大英博物館所蔵国レクションの実測調査とその成果の発表であり、次いで1979年に渡邊貞幸氏が参院での調査の様子を明らかにしている。
大きな転換期となったのが、上田宏範氏らによる『日本古墳文化論』の出版(1981年)で、ガウランドの論文が日本語訳されたことで、その研究が広く周知されることになった。

2000年代に入ると、後藤和雄氏とヴィクター・ハリス氏により、ガウランドが撮影した古墳の写真と古墳出土資料コレクションの概要が明らかにされたほか、池上悟氏や富山直人氏により、コレクションの実測調査と研究が始まった。

2007年には、後藤氏の研究資料が明治大学博物館に寄託され、特別展『ガウランド 日本考古学の父』が開催された。
さらに、2009年からは日本とイギリスの研究者による調査グループ Gowland Project が組織され、古墳出土資料、写真、古墳調査図面や、メモ、リストまでも含めたコレクションの総合的な調査と、ガウランドが調査した古墳の再調査を行うなど、多角的な視点から研究を進めている。

写真/後藤氏とヴィクター氏の調査(当館寄託)
------------------------------------------------

考古学界の先生方の名が幾人か挙がった。
考古学界の先生方の名は余り承知していないので、そのプロフィールを調べてみた。
(上記解説での登場順)

濱田 耕作(はまだ こうさく、1881年 - 1938年)
考古学者、京都帝国大学教授、同大学総長。
「日本近代考古学の父」と呼ばれる。

後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年 - 1960年)
考古学者、明治大学名誉教授。
浜田耕作亡き後、日本考古学界を代表する人物となった。
明治大学考古学研究室創設(私立大学初、1950年)、主任教授として多くの考古学研究者(大塚初重など)の育成に力を尽くした。

渡邊貞幸(わたなべ さだゆき、1945年 - 健在)
考古学者、島島根大学法文学部教授、出雲弥生の森博物館館長を経て、島根大学名誉教授、出雲弥生の森博物館名誉館長。
著書『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」123) 』。
四隅突出型墳丘墓に精通。
※プラン中の出雲古墳探訪に、西谷墳墓群(弥生時代後期から古墳時代前期の墳墓群)/西谷墳墓群史跡公園・出雲弥生の森/出雲弥生の森博物館を織り込んでいる。

上田宏範(うえだ ひろのり、1921年 - 2007年)
プロフィールは見つけられず。
著書『日本古墳文化論-ゴーランド考古論集』(上田宏範校注・監修、稲本忠雄訳、創元社、1981年)、『前方後円墳』(学生社、1996年)など。

後藤和雄、ヴィクター・ハリス
いずれも、プロフィールは見つけられず。
『ガウランド 日本考古学の父』(責任編集:ヴィクター・ハリス、後藤和雄、発行:大英博物館出版部、2003年)、『写真考古学ー写された歴史と写した目と』(1997年、皓星社)などにその名が見られる。

池上悟(いけがみ さとる)
考古学者、立正大学教授、立正大学博物館長。論文
「大英博物館所蔵のゴーランド・コレクションについて」(『立正考古』第41号、平成16年)、「ガウランドの墓に詣でる」(『考古学史研究』創刊号)など。

富山直人
1960年生まれ、1984年奈良大学文学部史学科卒業、2016年博士(文学)。
著書『古墳時代社会の比較考古学』(同成社、2017年)。


「大塚初重氏のコレクション調査」
a0289546_02565510.jpg

---------------------------------------------
大塚初重氏のコレクション調査
大英博物館のガウランド・コレクションは、梅原末治氏(1924年頃)など、一部の研究者が目にしていたが、日本国内に紹介される機会はほとんどなかった。

大塚氏は、教えを受けた後藤守一氏(明治大学考古学専攻の初代教授)がガウランドを評価していたこともあり、『ミクロリス』誌上に論考を寄せるなど、学生時代からガウランドに注目していた。
大塚氏は1967年に海外研究の機会を得ると、アメリカの次の調査地として大英博物館を選んだ。
そして、バジル・グレイ氏らの協力のもと、40日間にわたって百数十点の遺物を調査したことで、初めてガウランド・コレクションの概要をつかむことに成功した。
その成果は「大阪府芝山古墳の出土物をめぐる諸問題」(1977年)、芝山古墳以外の資料については『ガウランド 日本考古学の父』(2003年)において発表され、約100年の時を経て、ガウランドが収集した古墳出土資料の詳細が明らかとなったのである。

写真/1962年頃の大塚氏(中央、当館蔵)
このころは、茨城県南部の古墳調査を精力的に進めていた。
写真は石岡市佐自塚古墳での調査風景。
1967年は、特殊な箱式石棺と大型の埴輪が出土したことで知られる小美玉市舟塚古墳の調査などを手掛けた。
---------------------------------------------

ここでも考古学界の先生らの名が挙がった。

梅原末治(うめはら すえじ、1893年 - 1983年)
日本考古学の基礎を築いた考古学者。
病弱のため大学進学は叶わなかったが、日本で初めて京都帝国大学に考古学教室を開いた濱田耕作に師事。
1939年、京都帝国大学教授、1956年、京都大学名誉教授。

バジル・グレイ(1904年-1989年)
1946年から1969年まで大英博物館の東洋部長を務めた人物。

『ミクロリス』誌とは。
国会図書館リサーチによれば、「タイトル:ミクロリス、出版社:明治大学考古学研究部、出版年月日等:1952-1966 」とある。

古墳の名も幾つか挙がった。

大阪府芝山古墳については、別途、後述とする。

石岡市/佐自塚古墳。
石岡市内では、霞ケ浦、高浜入り近くの船塚山古墳や府中愛宕山古墳を探訪したことはあるが、北部の佐自塚古墳は未達。
北部の、恋瀬川左岸付近には、佐自塚古墳(前方後円墳)や丸山古墳(前方後円墳)が点在している。
今後の探訪候補としておきたい。

小美玉市/舟塚古墳。
小美玉市の隣り町、行方市の三昧塚古墳(大塚初重はこの古墳の調査にも携わっている)を探訪したことがあり、その付近の、同じく行方市の天神山古墳、大日塚古墳、権現塚古墳なども今後の探訪の候補としていた。
今般、小美玉市の舟塚古墳(玉里舟塚古墳)を知ったので、舟塚古墳をはじめ、小美玉市の霞ケ浦近くの、愛宕塚古墳、桃山古墳、滝台古墳、岡岩屋古墳、閑居台古墳なども探訪の候補としたい。
因みに、毎年末、行方市の霞ケ浦漁師市も兼ねて、霞ケ浦周辺の古墳探訪を恒例としているので、これらの古墳を今後のプランに織り込んでみたい。

パネル写真、2種。
a0289546_02571944.jpg

----------------------------------------------------
1967年当時の大英博物館とコレクションの収蔵状況(大塚氏撮影、当館蔵)
鹿谷古墳群の馬具と思われる。
左に大塚氏のカメラが写っている。
調査は40日間という長期にわたったが、大英博物館のジェシカ・カーク氏が毎日、資料を出納してくれたという。
----------------------------------------------------

前掲の「大塚初重氏のコレクション調査」でのバジル・グレイ氏(1904-1989、1946年から1969年まで大英博物館の東洋部長を務めた人物)に続いて、同じく、大英博物館のジェシカ・カークなる人物の名も登場。
この人物のことはよく分からないが、その名からして女性であり、バジル・グレイ東洋部長のアシスタントか秘書であったと思われる。

大英博物館に関連して、余談を少々。
1990年の前後、約4年間、ロンドンに駐在していた頃、しばしば、大英博物館へ行ったことがある。
そのほとんどは、日本からの来客者を案内してのことであった(本来の業務ではないが)。
毎度、見学する展示物は、ロゼッタストーン、ラムセス2世像、ミイラ(以上、エジプト)、守護獣身像、有翼鷲頭聖霊像、ライオンのレリーフ(アッシリア)、パルテノン神殿の彫刻(ギリシャ)など、代表的な所蔵物のみ。
大英博物館の所蔵物は15万点にのぼると言われており、その中で見学可能な展示物だけを見学して回ったとしても、かなりの日数を要する。
或る日、プライベートで行ったとき、博物館の奥の方に展示されている日本製の刀剣の鍔を見学したことがあった。
何段もの引き出しに納められた、数多くの鍔が並んだ光景は壮観であった。
然様なこともあって、大塚初重氏が、大英博物館で、40日間に亘り、バジル・グレイ東洋部長の協力を得て、百数十点のガウランドの遺物を研究する姿が目に浮かぶのであった。
駐在当時、ウィリアム・ガウランドの日本における活動を承知していたなら(ストーンヘンジは、二度、訪ねているが、残念ながら、ガウランドの名は不承知)、大英博物館でガウランドの古墳に関わる調査の遺物を見学していたかもしれないが、それは、タラ・レバのことであるし、且つ、駐在員としての仕事に邁進していたことでもあるし、今とは違い、古墳に芽生えていた訳でもないし、当時、見学していなかったことを悔やんではいない(斯様なことを書くということは悔やんでいる気持ちがあるのかな?)。


壁面の4枚のパネル資料につづき、下段の資料にも目を通す。
a0289546_10125302.jpg

下段には、須恵器に関わるガウランドの調査記録に冠詞、解説がなされている。
a0289546_10155291.jpg

-------------------------------------------
各地の須恵器
出雲と備前は自身の調査時、土佐は地質学者のナウマンから入手したもの。
美濃の資料は発掘者や販売者まで詳細な記録が残されている。
横穴式石室からこうした6世紀の須恵器がよく出土することから、ガウランドも集中的に収集していた。
-------------------------------------------

ガウランドは冶金技師であるから、地方へ出張した際に、古墳を調査したり、副葬品を収集したりしていた(特別展での学芸員さん談)。
出雲と備前は、たたら製鉄の地であるから、ガウランド自らがその地に赴き、須恵器を入手したということがよく理解できる。
出張先で、本業とは別の調べごとをするというのは、我が敬愛する民俗学者、柳田國男と共通したところがあるように思える。

土佐の須恵器を入手に関わる地質学者のナウマンとは、あのナウマンゾウに名を残すナウマンである。
ドイツの地質学者であるハインリッヒ・エドムント・ナウマン(1854年- 1927年)は、 いわゆるお雇い外国人の一人で、明治政府に招聘され、1875年(明治8年)から1885年(明治18年)の10年間、日本に滞在。
東京帝国大学(現・東京大学)地質学教室の初代教授に就任、内務省地理局内に地質課 (のちに農商務省地質調査所) を設立、調査責任者として日本列島の地質調査に従事。
調査は本州、四国、九州と広範囲にわたり、距離は10,000kmに及んだと伝えられている。
当時の地形図には等高線が記されておらず、海岸線の輪郭が記される伊能図を基に、地形図の作成と並行して地質調査を行い、日本における近代地質学の基礎を築いた。
フォッサマグナの発見や、ナウマンゾウの調査でその名を残す。
ガウランドがナウマンから入手した土佐の須恵器は、ナウマンが地質調査で土佐へ赴いた際にに手に入れたものと思われる。

下段の展示物を左から順に見ていく。

左:
上段、左/須恵器 提瓶 出土古墳不明 大阪府能勢町
上段、右/須恵器 はそう(「瓦」偏に「泉」)出土古墳不明 岡山県岡山市
下段、左、上/須恵器 坏身・坏蓋 出土古墳不明 高知県
下段、左、下/須恵器 坏身・坏蓋 工業高校裏横穴墓群または半分横穴墓群 島根県出雲市
下段、央/須恵器 高坏 出土古墳不明 島根県浜田市
下段、右/須恵器 高坏 工業高校裏横穴墓群または半分横穴墓群 島根県出雲市
a0289546_09554799.jpg

「工業高校裏横穴墓群または半分横穴墓群 島根県出雲市」とある。
「工業高校横穴墓群」でネット検索したところ、写真と共に、次のような記述にヒットした。
----------------------------------------
2012年12月22日(土)、上塩冶横穴墓群の発掘調査現地説明会を開催しました。
上塩冶横穴墓群は、出雲工業高校の裏山から塩冶神社にかけての丘陵に分布する県内最大級の横穴墓群であり、古墳時代後期から終末期に造られた遺跡です。
今回の調査地はその北側に位置しています。
県道出雲三刀屋線の道路改良工事に伴い、今年の8月から発掘調査を行っており、現在までに合計7基の横穴墓が確認されました。
-----------------------------------------

「半分横穴墓群」については、ネット検索ではヒットしなかった。

出雲古墳探訪をプランする中、出雲工業高校近くの、塩冶地蔵山古墳、塩冶築山古墳(いずれも円墳)を織り込んでおり、上塩冶横穴墓群も加えることとした。

央/左:
上段、左/須恵器 台付三連壺 出土古墳不明 大阪府?
上段、右/須恵器 長頸壺か? 出土古墳不明 下野(栃木県)
下段、左/須恵器 高坏 白鳥陵(軽里大塚)古墳 大阪府羽曳野市
下段、央、上/須恵器 坏蓋 出土古墳不明 岐阜県大垣市
下段、央、中/須恵器 坏蓋 高安千塚古墳群 大阪府八尾市
下段、央、下/須恵器 高坏 出土古墳不明 岐阜県大垣市 
下段、右/須恵器 高坏 月見山4号墳 岐阜県大垣市
a0289546_09560985.jpg

大阪府羽曳野市/白鳥陵(軽里大塚)古墳。
軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)。
古市古墳群に属する。
宮内庁治定として、白鳥陵(しらとりのみささぎ)、第12代景行天皇皇子、日本武尊の陵とされている。

羽曳野の地名の由来は、ヤマトタケルが東征の帰途、伊勢の能煩野(のぼの)で亡くなり、白鳥と化して大和の琴弾原(ことびきはら)から河内の旧市邑(ふるいちむら)に飛来したというヤマトタケルの白鳥伝説を踏まえ「さらに白鳥は舞い上がり、埴生の丘を羽を曳くがごとく飛び立った」とある白鳥神社(羽曳野市古市)の縁起に因む。

羽曳野市の白鳥神社は、堺ポタリングの際に参拝したが、軽里大塚古墳(白鳥陵)は未達にて、機会があれば、探訪したい。

大阪府八尾市/高安千塚古墳群。
高安千塚古墳群は、八尾市東部の高安山麓に6世紀代に造られた、多くの円墳が連なる近畿地方でも有数の大型群集墳。
古墳が数多く連なる情景から、古くから「千塚(せんづか)」と呼ばれ、江戸時代に河内の名所として「河内名所図会」に描かれたり、明治時代には外国人の研究者が訪れスケッチや写真撮影などを行い、海外でも紹介された。
大正時代には、565基もの古墳があったとの記録もあるが、現在は230基が豊かな自然や植木畑の中に残っている。
(八尾市ホームページより抜粋)
高安千塚古墳群も、機会があれば、探訪したい。

月見山4号墳。
月見山4号墳は調べ切れなかったが、大垣市内には、大塚古墳群(大塚1号墳、2号墳)、不破古墳群(昼飯塚古墳、車塚古墳、粉糠山古墳)、墳桂谷古墳群(牧田古墳群桂谷支群、円墳10基)などがあることを知った。
中部地方の古墳は不勉強で何も分かっておらず、これを機会にベンキョーしておきたい。

央/右:
台付装飾付長頸蓋 出土古墳不明 伝上野国小谷(群馬県)
a0289546_09591863.jpg

----------------------------------------------
伝 群馬県出土の装飾付壺
高さ52.5cmの大型品。
鳥や馬(鹿?)などの小像がつく装飾付須恵器は西日本に多く、関東での出土例は極めて少ない。
墓に納める副葬品として作れたもので、古墳時代の人々の世界観が表現されているともいわれている。
----------------------------------------------

鳥や馬(鹿?)の装飾付が見え易いよう、トリミング拡大版で。
記憶が正しければ、特別展で、実物かレプリカかは定かではないが、この装飾付壺を見学した。
a0289546_18262088.jpg

右:
馬具 八稜形鏡板付轡 鹿谷古墳群 京都府亀岡市
a0289546_09563753.jpg

京都府亀岡市/鹿谷(ろくや)古墳群。
ネット検索してもヒットしない。
グーグル・マップで検索してもヒットしない。
更に、ネット検索してみたところ、古墳群の詳細は不明なるも、奈良文化財研究所/全国遺跡報告総覧に次の通りリストされていた。
・鹿谷古墳群大市支群(京都府亀岡市稗田野町鹿谷大市)
・鹿谷古墳群茶ノ木山支群(京都府亀岡市稗田野町鹿谷丸ヶ城)


さて、前掲の「大塚初重氏のコレクション調査」の中にあった「大阪府芝山古墳」について後述するとしていたので、ここで述べることとしたい。

第1話で、特別展入口付近のロビーに展示されていた「ガウランドが発掘調査した芝山古墳の石室」について触れたが、この芝山古墳について、次のような説明書きが添えられていた。
a0289546_17051598.jpg

-------------------------------------------
芝山古墳(大阪府東大阪市東石切町)
前方後円墳、または、造り出し付きの円墳と考えられています。
標高80mほどの生駒山西麓の坊主山と呼ばれる場所に築かれ、内部には河内地域でも最古段階の特殊な横穴式石室がありました。
ガウランドが自らの手で石室内の本格的な発掘調査を行った唯一の古墳として知られていますが、1962年に宅地造成のため破壊され、消滅してしましました。
破壊直前の1959年に末永雅男氏や森浩一氏らによって発掘調査されています。
(配置図は、富山直人2005をもとに作成)
--------------------------------------------

芝山古墳は消滅しているが、グーグルマップで検索すると「芝山古墳跡」として図示され、周辺写真と共に「芝山古墳跡」の説明板の写真があらわれた。
古墳は消滅しても、ガウランドゆかりの地はきちっと残されているのであった。
最寄り駅は、近鉄奈良線/石切駅。
20年くらい前にに参拝したことのある石切劔箭命神社(いしきりつるぎやじんじゃ)が西1kmくらいのところに鎮座している。
石切劔箭命神社は不思議な雰囲気の神社。
機会があれば、石切劔箭命神社参拝とガウランドゆかりの地/芝山古墳跡を訪ねてみたい。

芝山古墳の説明書きの中に、末永雅男氏や森浩一氏の名が挙がっている。
上述で、考古学界の先生方の名は余り承知していないので、そのプロフィールを調べてみたとして、縷々綴ったので、ここでも綴っておきたい。

末永雅男(すえなが まさお、1897年 - 1991年)
考古学者、関西大学名誉教授、>橿原考古学研究所初代所長
大学は卒業していないものの、高瀬真郷、関保之助らについて学を修め、後京都帝国大学の考古学研究室員として、濱田耕作に師事。
その後、京大に在籍しつつ、奈良県史蹟名勝天然記念物調査会嘱託として発掘・研究を行う。
1950年、関西大学の講師に就任。
その後も、高松塚古墳を初め、大和地方の古墳を多く手掛ける。
また、航空機による古墳観察を初めて実践した。
多くの後進の考古学者(伊達宗泰、網干善教、森浩一など)を育てたことでも知られる。

森浩一(もり こういち、1928年 - 2013年)
考古学者、同志社大学名誉教授。
大阪府大阪市出身、少年時代は堺市近郊に住み、堺市の百舌鳥古墳群を通じて、古墳及び陵墓への関心を抱く。
大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)卒業、1951年。同志社大学文学部英文学科卒業[、1957年、同大学院文学研究科文化史学専攻修士課程修了。学生時代から古墳の発掘と報告書作成に取り組み、学生考古学研究会(後の古代学研究会)を創設。
その後、府立泉大津高校の教諭を勤める傍ら、古墳の発掘に従事。
その後、東京大学の井上光貞により『日本の歴史』(中央公論社)の考古学担当の執筆者に抜擢される。
関西大学講師、同志社大学専任講師を経て、1972年、同志社大学文学部教授に就任し、同志社の顔とも呼ばれる名物教授となり、999年に退任。
2012年、永年の考古学・古代史への貢献により第22回南方熊楠賞を受賞する。
著書、多数。
作家の松本清張、司馬遼太郎、黒岩重吾、財界人の相川賢太郎らとも交流があった。
数々の問題提起を行っている。
例えば、いわゆる天皇陵について、仁徳陵を大仙古墳と呼ぶべしなど、証明の出来無い天皇陵を所在地名で呼ぶべきとの提唱。
(以上、ウィキペディア抜粋)

なお、森浩一著『森浩一の考古交友録』(朝日新聞出版、2012年)は、数々の分野の人との交流談が綴られ、氏の調査研究活動と共に、氏の人柄にも触れることが出来た、なかなか興味深い書籍である。

明大コレクション「ガウランド研究の歩み」という、4枚のパネルと数種の須恵器に関わる資料だけの小さなコーナーながら、大塚初重氏をはじめとするガウランド研究と研究者、そして、大英博物館について、思うところ、多々ありで、随分と文字を費やしてしまったが、特別展とこのコーナーによって、ウィリアム・ガウランドの一端を知ることとなった。

次は、常設展室の次のコーナーへ。

フォト:2018年12月1日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-02 23:32 | 明治大学博物館/ウィリアム・ガウランド展 | Comments(0)
2018年 12月 02日

『明治大学博物館/特別展/ウィリアム・ガウランドと日本の古墳研究』 mm-1

12月1日(土曜)、晴れ。

『特別展 ウィリアム・ガウランドと日本の古墳研究』を見学すべく、駿河台/明治大学博物館へ。

a0289546_00403411.jpg


9月のまだ暑い頃、盟友、伊豫守さんから「明治大学の博物館で上総の好きそうな催しがあるそうや。詳しくは自分で調べてください」とのメールが到来。
ネット検索してみたところ、「特別展 ウィリアム・ガウランドと日本の古墳研究 2018年10月13日(土)~12月2日(日) 会期中無休 明治大学博物館特別展示室」とあり。
誠に有難い情報であった。

誠に有難い情報といえば、5月、盟友、備前守さんから「今、壱岐にいます、壱岐は古墳だらけです。私は古墳めぐりに来た訳ではないけれど」との電話があった。
これも誠に有難い情報。
ちょうど、4月の遠賀川流域装飾古墳探訪の続編として、筑後川流域装飾古墳探訪を目論んでいた頃で、壱岐島古墳探訪もプランに加えることにし、10月に挙行したのであった。

これらは、皆さんに我が趣味を存じて戴いていたお陰で、よき情報を戴けたということを大いに感謝するのであった。

明治大学アカデミーコモン/上階案内板「地下1階特別展示室で開催中↓」。
a0289546_01405644.jpg


観覧料金300円也を支払い、特別展示室内へ。
特別展示室内は撮影禁止。
記録として、入口とその付近の展示物をカメラに収める。
a0289546_00503533.jpg

「ガウランドが発掘調査した芝山古墳の石室」(縮尺2/3)。
a0289546_00595882.jpg

---------------------------------------------
ガウランドが発掘調査した芝山古墳の石室
明治時代に日本の古墳を研究したウィリアム・ガウランドは、日本で初めて石室の中を20か所に区切り、それぞれの区画にどのような土器や鉄でできた武器、アクセサリーや人骨が出てきたのかを細かく記録しました。
この記録と出土品は、ロンドン・大英博物館で130年にわたって大切に保管されています。
ガウランドが細かい調査の記録をとり、出土品を残してくれたおかげで、現代の研究者が現在の研究方法で再度分析することができます。
ガウランドが、だいえいはくぶつかんに残してコレクションは、調査の記録と出土品の保存がいかに大切なことなのかを、いまの私たちに教えてくだます。
---------------------------------------------

この解説文を読んだだけで、ウィリアム・ガウランドが「日本考古学の父」と呼ばれる所以がよく分かる。

小生が、親しみをもっているお雇い外国人は、「日本近代建築の父」、ジョサイア・コンドル、利根運河の建設などに貢献した土木技師、ローウェンホルスト・ムルデルの二人がいたが、新たに、ウィリアム・ガウランドが加わった。

入口案内板。
a0289546_01453202.jpg

大阪府塚原古墳群の石室に立つガウランド。
(明治大学アカデミーコモン/上階案内板よりトリミング)
a0289546_02064897.jpg


特別展示室に入室、見学。
特別展示室内は撮影禁止なので、個々の展示物についは割愛するが、明治大学ホームページ掲載の本特別展に関する紹介記事と、伊豫守さん(cc:備前守さん)宛ての特別展の様子を綴った礼状メールを、記録として、ここに転載しておきたい。

--------明治大学ホームページ、紹介記事--------

特別展 ウィリアム・ガウランドと日本の古墳研究 

日本アルプスの命名者としても知られる、英国人技師・ガウランド(William Gowland, 1842-1922)は、明治5(1872)年に来日し、大阪・造幣局に勤めながら数百基に及ぶ日本各地の古墳を調査し、精密な測量図や写真などの記録に基づいた研究論文を帰国後に発表しました。
彼の研究は、日本の古墳研究の先駆けとして高く評価されていますが、その全体像はベールに包まれたままでした。
今回は、ガウランド・コレクションを収蔵する大英博物館の全面的な協力を得て、ガウランドが収集した古墳出土資料や彼が作成した調査図面、アーネスト・サトウをはじめとする当時の研究者との交流を示す手紙、古墳を撮影した写真といった資料に国内の関連資料を交え、最新の研究に基づいたガウランドの古墳研究の実像に迫ります。 
大英博物館のコレクションは、日本国内では初めての公開となるのはもちろんのこと、大英博物館でも未公開であった貴重な資料が含まれます。
この機会にぜひご覧ください。

主催:明治大学博物館 
協力:日英共同調査グループ・Gowland Project 
後援:朝日新聞社
助成:芸術文化振興基金助成事業
---------------------------------------------------


----------12月2日付け礼状メール----------
伊豫守殿
cc:備前守殿

おはようございます。

明治大学博物館「ウィリアム・ガウランドと日本の古墳研究」。
昨日、行って来ました。
もっと早くに行きたかったのですが、学芸員のギャラリー・トーク付きが限定日となっており、なかなかその日に都合が合わず、千秋楽の1月日前ということに相成りました。

内容は誠に結構なもの。

ウィリアム・ガウランド(ゴーランドとの表記もあり)は明治期に来日したお雇い外人の化学兼冶金技師(銅の専門家)。
大阪造幣寮(現在の造幣局)に勤める一方、山登りに熱中。「日本アルプス」の命名者でもあるという。
来日後、3年ほど、山登りに熱中したあと、或ることがきっかけで古墳に興味を持ち、山登りの興味は薄れ、仕事の傍ら、各地の古墳を訪ね、調査。「日本考古学の父」とも呼ばれている。

1872年、30歳で来日し、1888年に帰国。
お雇い外人の中で16年も滞在した人は珍しい(因みに、我が敬愛する、「日本近代建築の父」、ジョサイア・コンドル(1852年-1920年)は日本人と結婚し、日本で没し、護国寺に夫妻の墓があります)。
帰国後、来日前に勤務していた精銅会社に復帰し、仕事の傍ら、ストーンヘンジの発掘、解体、研究、復旧復元。

展示物のうち、大英博物館から借りたものが14点。
大英博物館には1000点以上のガウランドが残した資料(紙資料のほかに、写真のガラス板ネガもあり)が所蔵されているとのこと。
大英博物館から貸し出される資料は10点までとの規定があるとのことだが、今回は特別に14点を借りることが出来たとのこと。

展示物を見ながら、説明パネルを読む、これが博物館や資料館での通常のパターン。
しかし、学芸員の解説付きとなれば、ぐっと理解が深まる、記憶に残ることとなります。
古墳探訪の折、資料館が隣接している場合、受付で学芸員さんの説明をお願いしますと頼むことを常としています。
今回の学芸員さんは、古墳のことのみならず、ガウランドそのものについても研究しているようで、誠に的を得た解説でありました。

暑い頃でありましたか、伊豫守さんから、明治大学の博物館で上総の好きそうな催しがあるようやで、詳しいことは調べてください、との情報を頂戴し、結果、古墳とストーンヘンジ、日本と英国がつながり、何だか嬉しく思っております。
5月には、備前守さんから、今、壱岐にいます、壱岐は古墳だらけです、との情報も頂戴し、筑後古墳探訪プランに壱岐古墳探訪プランも加え、10月に実行することも出来ております。
皆さんに我が趣味を存じて戴いていたお陰で、よき情報を戴けたということ、感謝!感謝!であります。

=追伸=
明治大学博物館は常設展示場(無料)もありました。
カテゴリー別に様々なものが展示されていました。
古墳出土品を見学。ギロチンや拷問の道具などの展示も見学。
・・・ギロチンを見ると、フランス人ちゅうのは、という思いになります。
・・・フランス革命のみならず、若い頃、アラン・ドロンがギロチンで処刑される映画を観たことも思い出します。
・・・何という映画だったかと調べてみたら、「暗黒街のふたり」(1973年)でありました。

阿久悠記念館(無料)もあります。・・・さらっと見る程度の展示ですけどね。

明大はお金持ち、こんな施設を持っているんですから。
W大の博物館といえば、演劇博物館、建物は見学する価値ありと思うのですが、資料は...。
R大はどんなものがあるのか興味あるところです。
大学博物館めぐりでもやろうかな...。

上総
--------------------------------------------


特別展示室から、次は常設展示室へ。

フォト:2018年12月1日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-12-02 23:31 | 明治大学博物館/ウィリアム・ガウランド展 | Comments(0)
2018年 11月 11日

『常陸国古墳めぐり/酒列磯前神社、中世代白亜紀層』 ht-3

11月10日(土曜)、曇りのち晴れ。
ひたちなか市(茨城県)古墳探訪。
第3話。

(はじめに)
今回、探訪した古墳の詳細については、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)に綴ることとし、本ブログではハイライトのみを綴ることとしたい。

プラン。 
9:41 勝田着
10:08 勝田発(ひたちなか海浜鉄道/湊線/阿字ヶ浦行き)
10:17 中根着
~虎塚古墳
~十五郎穴
~ひたちなか市埋蔵文化財調査センター
~馬渡埴輪製作所跡
~川子塚前方後円古墳
~酒列磯崎神社
~中世代白亜紀層
~最寄り駅から輪行

メンバー。
武衛さん、南国守さん、そして、上総の3名。
虎塚古墳、十五郎穴、ひたちなか市埋蔵文化財調査センター、馬渡埴輪製作所跡、川子塚前方後円墳を訪ね、次は古墳プラス・アルファの立ち寄り先へ。

川子塚前方後円墳から東へ走り、酒列磯前神社へ。

酒列磯前神社の手前に「比観亭跡」なる案内標識があり、立ち寄ってみる。
林の中の道を進むと、少し開けた場所に出た。

「那珂湊市指定文化財 史跡 比観亭跡」。
a0289546_10501626.jpg

「那珂湊市」と刻まれているが、前話でも述べた通り、1994年、那珂湊市と勝田市と合併し、ひたちなか市となった。

-------------------------------------------
比観亭跡
寛政3年(1791年)、水戸藩第6代藩主徳川治保は、酒列磯前神社を訪れた際、見晴らしの良い小高い丘から眼前に大洋を一望し、北に白砂青松の海辺を隔てて、遥か阿武隈の山地をみることが出来る景色に感動した。
そこで、治保は、この高台に「お日除け」(あずまや)を建てることにし、自身で9尺四面(約2.7m)の土地を画して、建設を命じた。
翌年、寺社手代小川勘助、郡方手代大久保常衛門らの立合いで建設がなされ、「比観亭」と名付けられた。
屋根は茅葺きであったという。
比観亭に掲げれた扁額は、彰考館総裁立原翠軒が筆をとり、これを桜の板に彫刻したものである。
現在、扁額は酒列磯前神社に保管されている。
(現地説明板)
-------------------------------------------

a0289546_11084282.jpg

周囲は背丈以上の木竹が生えており、景色は見えない。
石のベンチの上に立ち、背伸びしてみる。

僅かに、海が見えた。
「比観亭跡」というよりも、今は「未観亭跡」といったところだな、と思った。
いずれにせよ、先ほど訪ねた川子塚前方後円墳の被葬者も、水戸藩主も、時代は変わっても、那珂台地からの眺望が気に入っていたということである。
a0289546_11103875.jpg

酒列磯前神社。
鳥居を背景に「今日の jitensha」。
a0289546_11204115.jpg
社号標。
a0289546_11211514.jpg

扁額コレクション。
a0289546_11214125.jpg

境内。
15:20、晩秋の夕陽に照らされた影が長い。
a0289546_11421502.jpg

参拝。
a0289546_11332127.jpg
扁額コレクション。
a0289546_11365581.jpg

龍コレクション。
a0289546_11385101.jpg
a0289546_11390767.jpg


奉納酒樽。
ずらっと並んだ奉納酒樽を代表して、明利酒類株式会社「酒は天下の副将軍」を。
a0289546_11445350.jpg

酒列磯前神社の由緒は、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」で綴ることとするが、奉納酒樽が登場したことでもあり、「酒列(さかつら)」の由来について触れておきたい。

「酒列」には諸説ある。
・諸説その1:酒列磯前神社の祭神、少彦名命(すくなひこなのみこと)が酒造の神であるところから、酒瓶を列ねて祀ったからという。
・諸説その2:酒列は「サカナミ」とも読み、逆浪の義であるという。
・諸説その3:当社の東の海辺に列なる岩石群が南に約45度傾斜しているが、その一部が反対に北へ傾斜しているから「逆列」の地名となったという。

諸説あるとき、いつも、自身ではどの説を推すのかということを考える。
上述の諸説のほかにまだ説はあるかもしれず、もう少し調べてから、自分の推す説を考えてみたい。
なお、上述の三つの説だけで考えるなら、諸説その1が自身としては最有力だが、兄弟神社である酒列磯前神社と大洗神社を並べて考えると、諸説その2やその3も捨て難い。
やはり、もう少し考えてみたい。


神馬。
酒列磯前神社は、昔、一度だけ参ったことがある。
何故か、この神馬が最も鮮明に記憶に残っており、懐かしく思った。
a0289546_11463740.jpg

案内板「当社兄弟神社 大洗磯前神社へお参りください 車で15分」。
親切な案内である。
酒列磯前神社は、過去、一度しか参ったことがないが、大洗磯前神社は幾度か参っている。
1ヶ月後の「あんこう鍋&古墳探訪ポタリング」の際に、大洗磯前神社を参拝することにしている。
a0289546_11465410.jpg

先ほど、訪ねた川子塚前方後円墳は、那珂台地の海岸縁から少し奥まったところに位置している。
同じ台地の海岸縁に近い酒列磯前神社周辺にも、その昔、古墳が点在していたのではないかと思わせる地形である(あとで分かったことであるが、周辺には「磯崎東古墳群」がある)。
酒列磯前神社近くの、台地の縁に立ち、海を眺める。
a0289546_01325069.jpg

酒列磯前神社をあとにして、急坂を下り、海岸線に出る。
急坂の途中で jiensha を止め、海を眺める。
瀬戸内海で育った者にとって、太平洋を眺める度に、「これが太平洋! 海は箱庭じゃないぜ! 海の向こうはアメリカ大陸だぜ!」と海が語っているように思うのである。
a0289546_01344162.jpg

東から南に目を遣る。
a0289546_01432699.jpg

海岸線(県道6号線)に出る。
a0289546_02082098.jpg

海岸線を南へ走る。

中世代白亜紀層。
a0289546_06152014.jpg
------------------------------------------
大洗県立自然公園案内
この海岸の岩礁は、中世代白亜紀層からなり、海食崖前面に波食棚が発達しています。
当地域の中でも学術的に貴重なものであり、県の天然記念物にも指定されています。
また、阿字ヶ浦、大洗付近は区域にわたる砂丘地帯を形成し、海岸線の美しい景観が見られます。

これら豊かな自然と景観を保全するため、当地域を県立自然公園に指定しております。
自然公園内は建物の建設や木竹の伐採、動植物の採取など、景観や自然生態系に影響を与えるような行為が規制されています。
自然保護と環境美化のため、皆様のご協力をお願いいたします。

昭和26年7月13日指定 面積:2,543ヘクタール

(図)
・北/磯崎(酒列磯前神社付近の海岸)から南/平磯に至る「白亜紀層海岸」を図示
・現在地を図示

茨城県ひたちなか市 平成20年3月設置
--------------------------------------------

この説明板の図は有難いが、解説の内容については殆ど中身がない。

ということで、茨城県教育委員会のホームページを参照した。
---------------------------------------------------
平磯白亜紀層
平磯から磯崎にいたる海岸には、東へ30~40度傾斜した岩礁が連続し、これらは「那珂湊層群」と総称される中生代白亜紀の地層です。 
岩石は砂岩・泥岩・礫岩などからなり、軟かい部分が波に浸蝕され、硬い部分が残って鋸歯状を呈しています。 
地層からはアンモナイト・ウニ・二枚貝・サメなどの化石も発見されています。 
特に、この地域から発見されるアンモナイトは、平巻きではなく、巻き貝のように塔形の種類が多く、異常巻アンモナイトの群棲地として有名です。
アンモナイトは、約7500万年前の中生代白亜紀に棲息していたもので、アンモナイトの発見は、茨城県内最初の中生代地層の発見でした。 
指定範囲は、清浄石碑下の海岸330㎡の地域です。

指定年月日 昭和32年6月26日
所在地 ひたちなか市平磯町 三ッ塚地先海岸
管理者 ひたちなか市
------------------------------------------

誠に分かり易い解説である。
なお、後述の平磯駅前の観光案内板には「この地層から、2007年、翼竜の右肩甲骨の化石が発見され、ヒタチナカリュウと命名」との新たな情報も書かれてあった。

中世代白亜紀とは。
何となく分かっているが、よくは分かっていないというのが正直なところ。
ということで、今一度、参考書を紐解いてみた。
---------------------------------------------------
中世代
中世代は、古生代・中生代・新生代と分かれる地質時代の大きな区分の一つである。
約2億5217万年前から約6600万年前に相当し、恐竜が生息していた時期にほぼ対応する。
中生代は、さらに以下の3つの紀に細分される。
<三畳紀>
・約2億5217万年前〜約2億130万年前。
・爬虫類から、恐竜が出現。
・単弓類(脊椎動物のうち、陸上に上がった四肢動物の分類群の一つ)は、哺乳類の系統とわずかな小型種を除いて絶滅。
<ジュラ紀>
・約2億130万年前〜約1億4500万年前。
・恐竜が繁栄、原始的な鳥類の出現、被子植物の出現。
<白亜紀>
・約1億4500万年前〜約6600万年前。
・恐竜の繁栄が継続。
・白亜紀末に地球規模の大絶滅が起こり、恐竜類は鳥類を除いて絶滅した。
-------------------------------------------------------

中世代白亜紀の様子が目に浮かぶ。

余談を少々。
1990年代、仕事で台湾によく通った。
その当時、『失楽園』と書かれた映画の看板が目に入った。
映画『ジュラシック・パーク』(1993年公開)の看板であった。

この「ジュラシック・パーク」=「失楽園」はよく出来た造語だと思った。
何故なら、意味と音(英語の「ジュラシック」の音と中国語の「失楽」の音がよく似ている)の両方が「失楽園」に織り込まれているからであった。

昔、日本でも洋画に上手い邦題がつけられていた。
この話を始めるとエンドレスとなり、本論から外れるので、また別の機会に綴ることとしたい(ここで脱線するのを思い留まることが出来て、ほっとしている)。

中生代白亜紀層に話を戻す。

上述の茨城県教育委員会の解説に「指定範囲は、清浄石碑下の海岸330㎡の地域です」とある。
その「清浄石碑」がこれ。
a0289546_18122378.jpg

「清浄石」の下に「徳川義公命名」と刻まれている。
これは、あの水戸黄門、常陸水戸藩第二代藩主 徳川光圀のことである。
「義公」は 徳川光圀の諡号(しごう、おくりな、生前の行いを尊び死後に送られる称号)である。

清浄石は、古くは、阿字石あるいは護摩壇石と呼ばれ、昔からこの付近の岩礁は神聖なものとされてきたという。

暫し、平磯白亜紀層の景観を眺める。
a0289546_19052397.jpg
a0289546_18361727.jpg

暫し、打ち寄せては砕ける波を愉しむ。
a0289546_18363895.jpg

正面から。
a0289546_18520135.jpg

荒磯に1羽、鵜の姿。
a0289546_19070889.jpg

海にいるからウミウ(海鵜)、川にいるからカワウ(川鵜)と単純には決めつけられない。
川や湖沼でカワウが増え過ぎ、餌不足となり、海で採餌するカワウもいる。
日本各地の鵜飼いで使われている鵜はウミウである(中国ではカワウとのことであるが)。
そのほとんどは、茨城県日立市(旧十王町)の伊師浜海岸で捕獲されたウミウを調教し、使っている。
伊師浜海岸でウミウを捕獲している様子をテレビで見たことがある。

ウミウとカワウは、嘴の付け根(嘴の合わせ目の後端)で見分けられる。
即ち;
・ウミウ:後方に向けて三角形に尖っている。
・カワウ:三角形ではなく、上下の、ほぼ直線となっている。

写真を拡大し、確認してみた。
嘴の合わせ目の後端が僅かではあるが後方に突き出ており、ウミウであることを確認した。

今日の jitensha(セット中)。
a0289546_19103082.jpg

今日の jitensha(正式図)。
a0289546_19110932.jpg

海岸沿いを更に北へ走る。
時刻は午後3時40分。
もう少し走ってみたいが、ここら辺りが潮時、最寄りの駅へ向かうことにする。

荒磯の見納めとして、岩に砕ける波を撮る。
横山大観「波騒ぐ」のイメージで。
a0289546_01501356.jpg
a0289546_18560636.jpg
a0289546_18562473.jpg


海岸線から高台へ向かい、平磯駅に到着。
jitensha を格納する。
駅前の観光案内(ひたちなか市観光振興課)を眺める。
a0289546_02105350.jpg

案内板の地図は、中世代白亜紀層から平磯海水浴場の辺りまでが図示されている。

案内板には、6件の説明書きがある。
左上/中世代白亜紀層
左央/観濤所
左下/「網のし唄」の碑
右上/平磯海水浴場
右央/「 中村彝(つね)静養之地]の碑
右下/ひたちなか海浜鉄道

6件を代表して、中世代白亜紀層の説明書きを読み下してみる。
-------------------------------------------------
中世代白亜紀層
平磯町から磯崎町の海岸には、一様に北東の方向に35度~50度傾斜した鋸歯状の岩が連続しています。
この地層からはアンモナイトの化石が発見されており、中世代白亜紀の地層であることが確認されました。
このアンモナイトには異常巻と呼ばれるものがあるため、白亜紀終末期の今から約8000万年前の地層であると考えらえています。
また、この地層から翼竜の肩甲骨の化石も発見され、ヒタチナカリュウと命名されました。
-------------------------------------------------

前述の茨城県教育委員会ホームページの解説にはなかった「ヒタチナカリュウ」が登場した。

ヒタチナカリュウとは;
・2002年、最大長8.7cmの右肩甲骨の化石、発見。
・プテラノドン属に近縁な短尾型翼竜類。
・中生代白亜紀後期、今から約7500万年前の海岸付近に暮らしていた翼竜で、翼開張約4mに達し、滑空し、魚類等を捕食していたと考えられている。

電車を待つ間、地元のおっちゃんと暫し会話。
「東日本大震災のとき、津波は?」。
「阿字ヶ浦の方に被害がありましたが、この辺りは大丈夫でした」。
ずっと南の、房総半島の旭市は津波被害に遭っており、地形によって津波の襲来は異なるようである。

ひたちなか市のホームページによると「ひたちなか市においても、震度6弱を観測し、住宅や店舗、道路や上下水道、交通機関など、市内各所に大きな被害をもたらし、また、沿岸地域では4mの津波によって,約500世帯が床上・床下浸水するなどの甚大な被害が生じました」とある。
この約500世帯の床上・床下浸水が阿字ヶ浦地区や海岸線の地域のことと思われる。

16:06平磯駅発、勝田行きに乗車。
隣の席にいた若者が「自転車ですか、いいですね」と話し掛けて来た。
「いい一眼レフをお持ちですね。いい写真が撮れましたか」と対応。
液晶ビューで、那珂湊反射炉跡の写真を見せてくれた。
「よく撮れていますね。来月、あんこう鍋の企画があり、また、こちら方面に来るので、反射炉跡に行ってみます。もちろん、自転車で」。

武衛さんの隣の席のおばちゃんは「今から、勝田へ飲みに行くの」と言っていたそうだ。
飲みに行くのだから、四輪ではいけない。
ひたちなか海浜鉄道なら酔っぱらって帰っても大丈夫である。
この辺りの人はそういう生活パターンなんだと思った。

虎塚古墳・十五郎穴・資料館・馬渡埴輪製作所遺跡・川子塚前方後円墳を探訪、続いて、古墳時代から江戸時代にタイムトリップし、比亭跡に、再び、時代を遡り、斉衡3年(856年)創建の酒列磯前神社に、そして、遥か昔、約1億4500万年前から約6600万年前まで遡り、中世代白亜紀層にタイムトリップするなど、誠に変化のあるポタリングであった。

フォト:2018年11月10日

(完)


# by ryujincho | 2018-11-11 23:33 | 常陸国古墳めぐり2018 | Comments(0)
2018年 11月 11日

『常陸国古墳めぐり/馬渡埴輪製作所遺跡、川子塚後円墳』 ht-2

11月10日(土曜)、曇りのち晴れ。
ひたちなか市(茨城県)古墳探訪。
第2話。

(はじめに)
今回、探訪した古墳の詳細については、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)に綴ることとし、本ブログではハイライトのみを綴ることとしたい。

プラン。 
9:41 勝田着
10:08 勝田発(ひたちなか海浜鉄道/湊線/阿字ヶ浦行き)
10:17 中根着
~虎塚古墳
~十五郎穴
~ひたちなか市埋蔵文化財調査センター
~馬渡埴輪製作所跡
~川子塚前方後円古墳
~酒列磯前神社
~中世代白亜紀層
~最寄り駅から輪行

メンバー。
武衛さん、南国守さん、そして、上総の3名。
虎塚古墳、十五郎穴、ひたちなか市埋蔵文化財調査センターを訪ねたのち、後半の部へ。

虎塚古墳から、北へ、直線距離にして約4kmのところにある、馬渡埴輪製作所跡へと向かう。

馬渡埴輪製作所跡。
a0289546_19062062.jpg

----------------------------------------
馬渡(まわたり)埴輪製作所跡
・古墳時代の5世紀末から6世紀頃に操業していた埴輪製作遺跡。
・原料の粘土採掘から形を作り、焼き上げるまでの一貫した遺構と工人たちの住居跡がともに発見され、埴輪製作の実態をよくうかがわせ、古墳時代後期の埴輪製作所跡としてその学術的価値が高い。
・発掘調査を実施した結果、粘土採掘坑跡25か所、工房跡12基、窯跡19基、住居跡2軒、溝跡などの遺構が確認されている。
・遺構からは、人物・馬・円筒などの埴輪が多数出土し、工人たちの使用した土器類や鉄器なども発見されている。
(茨城県教育委員会ホームページ、抜粋)
----------------------------------------

先ほど、立ち寄った、ひたちなか市埋蔵文化財調査センターで、この埴輪製作所跡遺跡の発見のきっかけとなった馬形埴輪を見学した。

遺跡全体は「はにわ公園」化されている。
右奥の広い敷地が埴輪製作所跡。
木製遊歩道の先を進むのは、赤/南国守さん、黄緑/武衛さん。
a0289546_00094946.jpg
a0289546_00143853.jpg

前を行くのは、この日は水先案内人風の、南国守さん。
後ろを行くのは、インディアナ・ジョーンズ風の、武衛さん。
a0289546_00145855.jpg

話は少々脱線するが、映画「インディアナ・ジョーンズ(Indiana Jones)」シリーズでお馴染みの、インディアナ・ジョーンズのことを。
ハリソン・フォード演じる主人公、考古学者にして冒険家のインディアナ・ジョーンズ のフル・ネームは、ヘンリー・ウォルトン・“インディアナ”・ジョーンズ・ジュニア博士(Dr. Henry Walton "Indiana" Jones, Jr.)。
日本では、言い易さからであろうか、「インディ・ジョーンズ」とされているが、小生は原題通り「インディアナ・ジョーンズ」と呼ぶのが好きだ。
製作総指揮と監督はジョージ・ルーカスとスティーブン・スピルバーグ。
ルーカス・フィルム製作、パラマウント映画配給(ルーカス・フィルムは、2012年、ウォルト・ディズニー・カンパニーの傘下に)。
米国製の虚仮脅かしの映画は好きではないが、この「インディアナ・ジョーンズ」シリーズだけは好きだ。

今年4月、埼玉県の黒岩横穴墓群、吉見百穴、比丘尼山横穴墓群、雷電山古墳などをめぐった。
比丘尼山横穴墓群がある小高い比丘尼山の麓に到着したが、丘は藪に覆われていて、踏み込むのに躊躇。
そのとき、山男の、南国守さんがちょっと見て来ましょうと言い残し、藪の中へ。
しばらくして、ありましたよー、との声が藪の奥から。
その声に従い、武衛さんと小生は藪の中に入り、傾斜地を上り、横穴に辿り着いた。
そのとき、南国守さんはインディアナ・ジョーンズみたいやなあ、ということになった。
南国守さんがいなかったら、藪の外でギブアップしていたかもしれず(いや、していたであろう)、彼のお陰で、比丘尼山横穴墓群を制覇することが出来、感謝、感謝であった。

次に、そのあと、探訪した雷電山古墳。
丘陵の一般道を jitensha で上る。
上れども、上れども、古墳は現れない。
地図によれば、おおよそ、この辺りにあるんじゃないかというところまで至るが現れない。
そのとき、山男、南国守さんは、ちょっと、この先を見て来ましょう、とスピードを上げて坂道を上って行った。
ありましたよー、と坂道の向こうから声がした。
武衛さんと小生は、おもむろに坂道を上って行き、雷電山古墳に辿り着いた。
南国守さんは、斥候やなあ、ということになった。
これも、感謝、感謝であった。

因みに、南国守さんは、山登りが得意なので、山男であるが、商船大学卒なので、今回、先頭を行く南国守さんを見て、こりゃ、水先案内人やなあ、と思った次第。

武衛さんと小生は、古墳が大好きで、古墳探訪の相棒同士。
各地の古墳探訪は、二人連れ持って、行くことが多い。
次男坊曰く、古墳大好きって、まるでインディアナ・ジョーンズだね、と言っていた。
よって、当初の南国守さんのお株を奪って、武衛さんも小生も、自称、インディアナ・ジョーンズとなったのである。


埴輪遺跡跡。
広々としたエリアに、粘土採掘坑跡、工房跡、窯跡、住居跡、溝跡などが点在している。
a0289546_00240830.jpg
a0289546_00374844.jpg
a0289546_00380522.jpg
a0289546_00382174.jpg
a0289546_00402593.jpg

粘土採掘坑跡、工房跡、窯跡、住居跡、溝跡には、個々に説明板が設けられており、理解が深まる。
これらの詳細については、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」で綴ることとしたい。

次の探訪地、川子塚前方後円墳へと向かう。

馬渡埴輪製作所跡遺跡から東へ走る。
国営ひたち海浜公園に至る。
海浜公園沿いを走っていけば、距離的には目的地に近いのだが、少々勘違いもあって、国道245号線を南下、途中、左折し、工業団地の中を北上し、右折、県道265号線に入るという複雑な経路を辿り、目的地に到着。
複雑な道を辿ったが、結果オーライであった。
何故なら、国営ひたち海浜公園沿いに走っていたら、海岸沿いに出てしまい、海に迫った台地に位置する川子塚前方後円墳に行くには、急坂を上る羽目になっていたからである。

県道265線を東へ走り、阿字ヶ浦駅近くの踏切を渡る。
更にしばらく走ると、第1話で紹介した、面白いデザイン文字の案内標識が現れた。
a0289546_06575929.jpg
a0289546_07041934.jpg

川子塚(かごづか)前方後円墳。
a0289546_06513323.jpg

「那珂湊市指定文化財」と刻まれているが、1994年、那珂湊市と勝田市は合併、ひたちなか市となった。

墳丘を前にして、説明板に目を通す武衛さんと南国守さん。
a0289546_07020773.jpg

-------------------------------------------
川子塚前方後円墳(かごづか・ぜんぽうこうえんふん)
・本古墳は、阿字ヶ浦海岸を眼下に見下ろす海岸段丘上面に立地する前方後円墳。
・全長85m、後円部直径40m、高さ8m、前方部幅43m、高さ9mの規模。
・那珂大地に現存する古墳の中で最大級の古墳。
・築造年代は、古墳の形態や埴輪の特徴などから5世紀後半頃。
(現地説明板、抜粋)
-------------------------------------------

墳丘は、左手/後円部、右手/前方部。
後円部の墳丘傾斜面が樹木の間にしっかりと見て取れる。
a0289546_07112042.jpg

墳丘に上る。

前方部から後円部を見通す。
墳丘くびれ部付近に立ち、墳丘を見分中の人物は、古墳探訪の相棒、インディアナ・ジョーンズの、武衛さん。
それをカメラに収めるのは、もう一人のインディアナ・ジョーンズ、上総。
古墳探訪よりもポタリングがメインの南国守さんをお待たせすることになってしまっているが、そこはご理解を戴いて。
a0289546_09321410.jpg

後円部から前方部を見通す。
a0289546_09330176.jpg
後円部墳頂から海が見える。
この前方後円墳が、阿字ヶ浦海岸を眼下に見下ろす海岸段丘、那珂台地に立地していることがよく分かる
a0289546_09484516.jpg

川子塚前方後円墳から酒列磯前神社へと向かう。

フォト:2018年11月10日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-11-11 23:32 | 常陸国古墳めぐり2018 | Comments(0)