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龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/狐塚古墳から珍敷塚古墳へ』 kk-45

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

筑後川右岸の朝倉市を東から西へ走る。
堀川用水と三連水車・二連水車を見学。
つづいて、一つ目の古墳探訪、狐塚古墳を探訪。
次の探訪先、珍敷塚(めずらしづか)古墳へと向かう。

国道386線を少し東へ戻り、右折、県道80号線を南下。
筑後川に架かる朝羽大橋北詰に至る。
背後に見える山は耳納(みのう)山地。
右手に歩行者用の補助橋がある。
安全第一、右手の補助橋を渡ることにする。
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補助橋から自動車道を挟んで筑後川の上流方向を眺める。
彼方に見える山々は?
大分県日田市方面である。
日田市周辺の山々を調べてみると、一尺八寸山(みおうやま)、大将陣山、岳滅鬼山(がくめきざん)、釈迦岳、御前岳などがある。
山には疎く、残念ながら、山の名は特定できない。
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朝羽橋南詰に近づく。
筑後川の下流方向を眺める。
彼方の山は脊振山地である(山には疎いが、これは自信を持って、そう言おう)。
河川敷にサイクリングロードが通っている。
「筑後川自転車道」である。
"CYCLING NAVI"によれば、筑後川自転車道は「区間:うきは市吉井町大字桜井~久留米市東櫛原町、距離:27.4km」となっている(もっと長~い区間の自転車道かと思っていたが)。
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筑後川を渡り切る。
今度は筑後川左岸に点在する古墳探訪である。

どんどん南へ走る。
国道210号線(バイパス)を横断する。
更に南へ走り、国道210号線(本線)に至る。
左折して、国道210号線を少し東へ走り、右折。
右手に目印の「福岡県立浮羽究真館高等学校」が見えて来た。

福岡県立浮羽究真館高等学校。
公立高校だが、何だか、私立のような校名である。
由来好きの小生、校名の由来は?と思い、調べてみたが、県立浮羽高校と県立浮羽東高校が合併した高校ということだけで、「究真館」とした理由は分からなかった。

校名の由来を調べている中、「競泳選手、後藤暢は、浮羽高等学校3年時、1952年ヘルシンキオリンピックで男子800m自由形リレー銀メダルを獲得」とあった。
もう少し、詳しく調べたところ、「後藤 暢(ごとう とおる)、1934年6月26日生まれ、福岡県朝倉郡朝倉村(現・朝倉市)出身の元競泳選手。浮羽高校3年生のとき、1952年のヘルシンキ・オリンピックに出場。男子800m自由形リレーで鈴木弘、浜口喜博、谷川禎次郎とともに銀メダルを獲得、100m自由形で4位」とあった。

ヘルシンキ・オリンピックの頃、筆者は4歳にならなんとする頃であった。
よって、ヘルシンキ・オリンピックのことはリアル・タイムでは知らない。
その次の1956年のメルボルン・オリンピックはリアル・タイムで知っており、そのときにヘルシンキ・オリンピックが戦後初めて日本が参加したオリンピックであることを子供なりに知った。
また、古川勝選手が競泳男子200m平泳ぎで金メダルを獲得したこともラジオで知った。
後藤暢選手の活躍は、今、こうして調べている中で知り、恥じ入るばかりであるが、後藤選手らの活躍が古川選手の活躍に繋がり、水泳王国ニッポンの名を馳せたのであった。
後藤暢氏に敬意を表したい。

話が逸れてしまった。
オリンピックの話になると、どうも、力(りき)が入ってしまうのである。
珍敷塚古墳へ向かう途上に話を戻そう。

浮羽究真館高校を通り過ぎ、久大本線の踏切を渡り、ゆるやかな坂を上り(地形的に耳納山地の北麓であることが分かる)、県道151号線に至る。
左折して、県道151号線を東へ走る。

左手に珍敷塚古墳の標識が現れた。
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「珍敷塚古墳 →」の標識と「装飾古墳等同時公開 珍敷塚古墳→」の立て看板。
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装飾古墳が語られるとき、珍敷塚古墳は、王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町、探訪済み)やチブサン古墳(熊本県山鹿市、未探訪)と共に、必ず挙げられる古墳である。
どんな古墳か、愉しみ、愉しみ...。

フォト:2018年10月21日

(つづく)







# by ryujincho | 2018-10-23 23:45 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/狐塚古墳』 kk-44

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

筑後川右岸の朝倉市を東から西へ走る。
先ず、堀川用水と菱川三連水車・三島二連水車・九重二連水車を見学。
つづいて、一つ目の古墳探訪、狐塚古墳(朝倉市)へと向かう。
国道386線を西へ走り、標識に従い、左折し、一般道を南下。

狐塚古墳に到着。
「←狐塚古墳公開」の立て看板と共に、今日の jitensha。
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墳丘と思しき上に建屋がある。
現地に来て気付いたことだが、狐塚古墳の墳丘と石室の上部は失われ、残った石室の一部には覆屋が施され、保存されているのであった。
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標柱「史跡 狐塚古墳」。
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覆屋の入り口脇に設けられた説明板に目を通す。
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狐塚古墳
福岡県指定文化財(史跡)
昭和35年(1960年)3月5日指定

狐塚古墳は6世紀後半~7世紀前半に築造された古墳です。
古墳は当時の人々を葬ったお墓ですが、特にこの古墳は大きさや副葬品などから、この地を治めた首長層の墓であると考えられます。
円墳で、直径40~60m、高さは5m以上であったと考えられます。
主体部は前室と玄室からなる横穴式石室で、石室の長さは約13mです。
前室、玄室の平面形は円形で、「胴張り」といわれる筑後地方に多くみられる石室です。
副葬品は金環・銀環(耳飾)、餝玉(かざりだま)、鉄地金銅張の馬具類、刀装具、刀子、弓金具(弓)、鉄鏃(矢)、棺桶に使う鉄釘、須恵器、土師器などが出土しました。

この古墳は、石室の壁に石を刻んで絵を描いた線刻系の装飾古墳です。
筑後川流域では顔料(絵の具)で描いた彩色系が主流ですので、数少ない例と言えます。
線刻画は、石室の玄門~玄室にかけて動物や的状のもの、ゴンドラ型の船などを描いています。
これらの他にも多くの線刻がありますが、抽象的なものが殆どです。
石を積んで出入口を塞ぐものですが、狐塚古墳では開閉式の扉がついていたようです。
全国的に見ても例は少なく、貴重な古墳といえます。
(図)
左下/石室と線刻画の位置関係図
・玄室南壁:船
・玄室奥壁:船ほか
・玄室北壁:船
・玄門北側:的?と動物?
・玄門南側:動物
右上(写真))/玄室南壁の線刻画(白い石の表面を削って船を描いている)
右下(図)/墳丘平面図
右下(図)/墳丘断面図

平成26年3月
朝倉市教育委員会
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石室展開図。
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学芸員さんの説明を受けながら、覆屋内の石室を見分。
石室展開図と実際の石室を見比べると、実際の石室の羨道部は僅かな長さだけを残し、その殆どの部分は埋め戻されている。
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左から右に、玄室→央/前室→前室入口(前室/羨道部の間の両袖石部分)を見通す。
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前室/羨道部の間の袖石をズームアップ!
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仕切石をズームアップ!
仕切石の右端に軸穴らしきものが見える(説明板で「石を積んで出入口を塞ぐものですが、狐塚古墳では開閉式の扉がついていたようです」とあり)。
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開閉式扉について、これまでに各地の古墳でベンキョーしたことを記しておきたい。
・元々、古墳は被葬者は一人であったが、時代を経るに連れ、被葬者は複数となった。
・被葬者が出る都度、入口を塞いだ石を動かし、石室に遺骸を安置した。
・入口の石を容易に動かせるよう、石の開閉式扉を作ったと考えられる。


前室(右下/前室入口、左上/玄門)。
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前室南壁をアップ!
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前室から玄門、玄室を見通す。
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玄門側から玄室をズームアップ!
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玄室を真横(北側)から。
手前が張り出していて、大きな円形をした玄室そのものをカメラで捉えることは出来ない。
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玄室南壁。
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線刻画は、この目で見るのも、カメラに収めるのも至難の業。
然は然りながら、後日、カメラに収めたものを<眼力>で見ることとし、学芸員さんがレーザーポインターで指し示した部分をカメラに収める。

玄門南側の袖石(写真中央の四角い石)には「動物」、玄室南壁、玄門近く、袖石のそばの丸い石(写真では紫っぽく写っている石)には「船」が描かれている。
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前掲の説明板の「石室と線刻画の位置関係図」で該当箇所を、今一度、見てみる。
・図、左上/玄室南壁「船」
・図、右下/玄門南側「動物」
と図示されている。
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もぅひとつの説明板に目を通す。
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狐塚古墳
朝倉町大字入地字狐塚

狐塚古墳は筑後川右岸(北側)では数少ない装飾を持つ古墳です。
石室には「船」を主題にした線刻画が描かれています。
出土遺物より、古墳時代の終わり頃(約1400年前)に作られたと考えられます。

狐塚古墳の線刻画(奥壁鑑石)
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狐塚古墳は石室(遺骸を安置する部屋)に特徴があります。
平面プラン(石室の間取り)がほぼ円形で、筑後川流域に多く見られるものです。
また、羨道(石室に通じる廊下)と前室の間の敷石には、扉の柱を据える軸受の小穴が彫り込まれており、古墳時代の葬儀方法を考える上で興味深い点です。
盛り土と石室の上部が失われているため、正確にわからない点もありますが、複式の横穴式石室(二つの部屋を持ち、正面に入口がある石室)で、周囲に溝を巡らせた直径が約40~60mの円墳だったと考えられます。

狐塚古墳の石室
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狐塚古墳の最大の特徴は線刻による装飾です。
鋭利な工具で、安山岩の地肌に文様を彫り込む方法(線刻画)により装飾が施されています。
筑後川中流域の装飾古墳は一般的に染色(顔料を塗布する方法)が主流ですが、狐塚古墳ではこれとは違って線刻による装飾です。
石室の奥壁の石(向かって左奥下)にゴンドラ型の船が描かれており、石室・羨道の他の石にも線刻画が認められます。

狐塚古墳の線刻画
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=筆者による補遺=
この図と覆屋の入り口脇に設けられた説明板の図を照らし合わせると;
・左上/玄室南壁/「船」
・左下/玄室北壁/「船」
・右上/玄門南側/「動物」
・右下/玄門北側/「的?と動物?」
となる。

平成9年3月 朝倉町教育委員会
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上述の石室に関する説明の中で「羨道(石室に通じる廊下)と前室の間の敷石には、扉の柱を据える軸受の小穴が彫り込まれており、古墳時代の葬儀方法を考える上で興味深い点です」とある。
開閉式扉の目的について、筆者の理解を既に述べたが、説明板では「古墳時代の葬儀方法を考える上で興味深い点です」と思わせぶりな記述となっている。
筆者の理解していること以外に、まだ他に開閉式扉とする目的があるだろうか...。

出土品。
説明板に「副葬品は金環・銀環(耳飾)、餝玉(かざりだま)、鉄地金銅張の馬具類、刀装具、刀子、弓金具(弓)、鉄鏃(矢)、棺桶に使う鉄釘、須恵器、土師器などが出土しました」とあった。

そのうちの、これらは馬具類と鉄釘と思われる。
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最下段の馬具は鉄地金銅張であることがよく分かる。
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色が黒っぽく、土師器と思われる。
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通常、出土品は、資料館のガラスケースの中に展示され、お宝の如く、ガラス越しに見学することが殆どである。
しかし、ここ、狐塚古墳では、装飾古墳特別公開日に、出土品を現地に運び込み、無造作に展示されている姿が何とも素朴で好感が持てる。

覆屋の周りを見分。
墳丘の一部や石室の一部が見て取れる。
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暫し、歓談する朝倉市のスタッフさんと、古墳探訪の相棒、武衛さん。
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狐塚古墳の北側の風景を眺める。
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南側の写真はないが、筑後川に向かってなだらかな傾斜となっている。

時計は10時半を指している。
到着したのが9時45分。
一つ目の古墳のときは集中力があり、じっくりと見分するので、ついつい、時間を費やしてしまうのが常。
今回も一つ目で随分と時間を費やしてしまったと思ったが、45分で仕上がったのは上出来。
しかし、先はまだまだ長い。
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今年度の「筑後川流域装飾古墳同時公開」は、狐塚古墳(朝倉市)、珍敷塚古墳、日岡古墳、月岡古墳(以上、うきは市)、寺徳古墳、前畑古墳(以上、久留米市)、花立山穴観音古墳(小郡市)、仙道古墳(筑前町)の8ヶ所。

花立山穴観音古墳、仙道古墳はコースが組みにくかったのでカットし、今回の探訪先は古墳6ヶ所+河童コレクションの一環として田主丸駅舎の都合7ヶ所とした。
狐塚古墳は<制覇>したので、残るは古墳5ヶ所+アルファ1ヶ所。

狐塚古墳をあとにして、次の探訪先、珍敷塚古墳(うきは市)へと向かう。

フォト:2018年10月21日

(つづく)






# by ryujincho | 2018-10-23 23:44 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/六日日、筑後川流域/三連水車』 kk-43

10月21日(日)、晴れ。
この日のプランは、筑後川流域古墳群探訪プラス・アルファ。

探訪先をコース順に列挙すると次の通り(□:古墳、■:プラス・アルファ)。
■朝倉市/三連水車
□朝倉市/狐塚古墳
□うきは市/珍敷塚古墳
■田主丸駅/カッパ駅舎(河童コレクションの一環)
□久留米市/寺徳古墳
□久留米市/前畑古墳
□うきは市/日岡古墳
□うきは市/月岡古墳
※筑前町/仙道古墳・・・コースから外れるため、カット
※小郡市/花立山穴観音古墳・・・同上

この日は筑後川流域の装飾古墳を中心に石室の一般公開日。
これに合わせ、今回の古墳探訪の日程を組んだのであった。

午前8時過ぎ、宿を出発し、筑後川右岸、国道386号線を西へ走る。
標識に「菱野三連水車」の表示あり。
jitensha を止め、左手の筑後川の展望スペースへ行ってみる。
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筑後川の流れと山田堰。
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上流方面。
逆光を受けて、写真的には拙いが、午前8時40分の朝日の記録として。
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周辺案内図を眺める。
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山田堰の説明板に目を通す。
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山田堰
山田堰は、筑後川の水を農業用水として利用するため、江戸時代に造られました。
せき止められた水は筑後川右岸の水門を通って堀川を流れ、8km以上隔てた田畑まで送られます。
水門部分(取水口)は、恵蘇八幡宮北側の御陵山から連なる岩盤を人力で一部くりぬいて作られた切貫水門となっています。
堀川が開通したときの堰は、筑後川の小さな落差(瀬)を利用した簡単なものであったと考えられます。
その後、取水量の安定を図るため、100年以上の歳月をかけて改良が加えられ、寛政2年(1790年)の工事により、ほぼ現在の形になりました。
ゆるやかに左にカーブして流れる筑後川に、流れに斜交する石畳を築造し、水はカーブの外側(右岸)に設置される水門へと導かれます。
平水時は筑後川の本流となる「舟通」や「土砂吐」部分を水が流れ、増水時には石畳全体を水が越えることで堰の安全と取水量の安定を保っています。
山田堰は、自然の地形を巧みに利用した貴重な農業遺産であり、絶え間なく変化する筑後川と共に数百年の時を越えて来た先人の知恵の結晶です。
水面下に隠れる部分を含め、最長部172m、総面積約25,370m2の巨体な構造物です。
平成25年3月 朝倉市
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昨年(2017年)7月、九州北部は大豪雨に見舞われた。
殊に、朝倉市は気象観測史上、最大級の集中豪雨となり、大きな被害を被った。
堀川に設けられた三連水車が土砂に埋もれてしまった光景が、幾度もニュースで映し出された。
その後、地元の人たちやボランタリーの人たちの努力で三連水車が見事に復活したことも報じられた。
そうしたこともあって、今回の旅で、堀川用水と三連水車を是非訪ねてみたいと思ったのであった。

三連水車の見学に先立ち、堀川の大元となる山田堰に関わる懇切丁寧な説明板に目を通し、大いに勉強になった。
因みに、案内図を見て初めて知ったこと、それは、菱野の三連水車のみならず、三島の二連水車、九重の二連水車なるものもあるということだった。

案内図拡大版/堀川と三連水車(菱野)・二連水車(三島)・二連水車(九重)。
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説明板にある案内図は、上が南、下が北となっている。
地図の原則に従い、上が北、下が南になっていないと落ち着かないのが筆者の<性格>。
上が北になるように180度回転させた図も掲載しておこう。
文字が逆さまになり、ちょいと気分が悪くなりそうだが、方位がきちっとしたことにより、地図的には頭の中にすっきりと入って来る。
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西へしばらく走ると、左手に水車が見えて来た。
物産販売所「三連水車の里あさくら」の水車のモニュメントである。
県道から外れ、堀川沿いを西へ走る。

菱川三連水車。
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橋の上から見分。
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ズームアップ!
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橋を渡って、反対側からも見分。
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アップで。
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間近に。
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説明板に目を通す。
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国指定史跡 堀川用水および朝倉揚水車
平成2年7月4日 国指定
所在地 朝倉郡朝倉町大字山田 菱野・古毛(こも)
指定地域 堀川(取入口より九重橋)
     三連1基 二連2基 計3基礎

歴史・由来
当時、絶え間なく押し寄せる筑後川の洪水や、かんばつ、ききん等天災地変の中に幾多の犠牲と死闘を繰り返しつづけてきた祖先が、新田開発のため、寛文3年(1663年)、筑後川から水を取り入れることにより堀川を造った。
更に60年後の享保7年(1722年)、岩盤を切り貫き、現在の取入口を新設したのである。
しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかった。
そのために、この土地では自動回転式の水車が設置されたのである。
三連水車は寛政元年(1789年)に設置されており、三島・九重の二連水車も同じく宝暦のころに設置されたものと思われる。
毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、かんがい面積は3基で35ヘクタールにもおよぶ。

①山田堰
寛政2年(1730年)、当時の庄屋古賀百工を中心にして、堀川の水量を増加させ、かんがい面積を増やすために筑後川(堀川取水口上部)に堰を造った。
これが山田堰である。
表面積25,370m2で、今日もなお昔の面影をとどめ、堀川への導水を容易にし、670ヘクタールの美田をうるおしている。
②切貫水門内部
享保7年(1722年)、安定した水量を確保するために旧取水口を現在の位置に移した。
内部は巨大な岩をノミでくり貫いてあり、トンネル式になっている。
当時、長さ11間(約20m)内法5尺(約1.5m)四方で新設され、その後、数回の改修が行われ、内法10尺(約30m)四方に広められて現在に至っている。
③三連水車
寛政元年(1789年)、もともと、二連式であったものに一挺加えることにより、現在の形態となった。
車の直径は上部4.76m、中部4.30m、下部3・98mで、この大きさは、水車の回転数、高さ、揚水の量と密接な関わりをもっており、1日当たり7,892t揚水し、13.5ヘクタールの水田をかんがいしている。

朝倉町教育委員会
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=備考=
説明板では「所在地 朝倉郡朝倉町大字山田 菱野・古毛(こも)」「朝倉町教育委員会」となっているが、朝倉郡朝倉町は、2006年(平成18年)、甘木市、杷木町と合併し、朝倉市となった。

案内図。
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堀川用水と三連水車の恩恵に預かっている用水北側の田畑を眺める。
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堀川用水の南側の田畑も眺める。
緑の土手の向こうに筑後川。
その向こうに見える山並みは耳納(みのう)山地。
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堀川用水沿いを更に西へ走る。

三島二連水車。
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堀川の流れ。
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九重二連水車。
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堀川沿いから、再び、国道386号線に出て、狐塚古墳を目指し、西へ走る。

フォト:2018年10月21日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-10-23 23:43 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女市/一念寺』 kk-42

10月20日(土)、晴れ。
この日のプランは、八女古墳群探訪プラス・アルファ。

JR西牟田駅で下車、八女古墳群を西から東へ。
石人山古墳~弘化谷古墳+資料館~岩戸山古墳+資料館~乗場古墳~善蔵塚古墳~(丸山塚古墳、立ち寄り忘れ)~茶臼塚古墳~鶴見山古墳~釘崎古墳群を探訪し、残るはプラス・アルファだけ。

プラス・アルファとは;
・「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>の一環として、八女市/一念寺/寺坂吉右衛門の墓
・「国府跡・国分寺跡・総社めぐり」の一環として、久留米市/筑後国府跡・国分寺跡・尼寺跡・味水御井神社
のふたつである。

今回の古墳探訪先を検討していたとき、道路地図上で、一念寺を<発見>。
寺坂吉右衛門の墓は東京都港区南麻布の曹渓寺にあるのだが、寺坂吉右衛門の墓とされるところが八女市の一念寺も含め全国各地にあることは長年の赤穂浪士に関わるケンキューの中で承知していたので、気付いた次第である。
ということで、今回の古墳探訪の旅に一念寺を加えたのであった。

因みに、全国各地にある、寺坂吉右衛門の墓やそれに類するものは次の通りである。
・曹渓寺(東京都港区)
 晩年、曹渓寺で寺男をして渓いたことから、曹渓寺に葬られた。
 よって、ここが本当の墓で、夫婦の墓が並んでいる。
 魚籃坂を上れば、泉岳寺は直ぐのところにあり、寺男を務めながら、主君と浪士の墓参に通ったことであろう。
・泉岳寺(東京都港区)
 四十六士の墓所に、後年、供養墓が建立された。
・実相寺(宮城県仙台市泉区)
 友人が写真を送ってくれたことがある(生憎、管理が悪く、デジタル写真は消滅)。
 小学校が写っていた記憶があり、グーグルマップで見たところ、実相寺の向かいに仙台市立七北田小学校あり。
・慈眼寺(静岡県賀茂郡西伊豆町)
・一運寺(大阪府大阪市住吉区)※天野屋利兵衛の菩提寺であった龍海寺にあったものを明治期に移設
・信行庵(島根県江津市)
・一念寺(福岡県八女市)
・恵剣寺(長崎県五島市)

全国各地に寺坂吉右衛門の墓、供養墓、庵などがあるのは、討ち入りの様子を浅野家のゆかりの者、浪士ゆかりの者へ伝えるために全国を行脚したことや、浪士は「武士の鑑」と思われるようになり、各藩が寺坂吉右衛門を丁重に扱ったということなどによるものと思われる。

話を八女市に戻そう。

釘崎古墳群1号墳・2号墳から坂道を下り、一念寺に到着。

一念寺。
先ほど、釘崎古墳のある高台から遠望した寺を今度は下から見上げる。
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石段を上り、山門をくぐり、境内に入る。
本殿と霊光殿の間に石段がある。
多分、この石段を上って行った先に寺坂吉右衛門の墓があるのだろうと推測。
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何事も自力で探すことをモットーとしており、且つ、それを楽しみととしているのだが、時刻は既に午後4時近く。
時間セーブのため、寺務所で墓がある場所を尋ねることにする。
寺務所の呼び鈴を押す。
住職の御内儀と思しき婦人が現れた。
「ちょっとお尋ねしますが、寺坂吉右衛門さんの墓は?」。
「本堂と霊光殿の間の石段を上ったところにあります。直ぐに分かります」。
「失礼な質問になりますが、寺坂吉右衛門さんがこの地で亡くなったのは伝聞でしょうか」。
「久留米に親戚がいたとかで、当寺に来られたとこのことです。吉右衛門さんの刀や槍が当寺に遺っております。お祭りもやっております」。
「貴重な話をお聞かせ戴き、有難うございました。では、お墓に参らせて戴きます」。

先刻、眺めた石段を上る。
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寺坂吉右衛門の墓所。
墓石(供養塔)は僧侶の墓塔のような無縫塔となっている。
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先ず、参拝。
続いて、台座や巻石(外柵)に刻まれた文字を読み取る。
外柵には「豊福青年會建」、左には「昭和四年十二月」と刻まれている。
これは長らく地元の人たちが墓所を守り、供養を続けていることを示すものである。
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無縫塔の台石に刻まれた文字を読み取る。
読み取りが難しい個所もあるが、極力、読み取ってみる。
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------------------------------------
右(縦)/享保十四(?)
央(縦)/願譽順故、央(横)/大徳 
左(縦)/(?)九月廿六日
------------------------------------

文字は読み取り辛いが、「享保」はしっかりと読み取れている。
寺坂吉右衛門が没したのは、延享4年10月6日(1747年11月8日)。
となると、刻まれている年月日「享保14年9月26日」(1729年)は寺坂吉右衛門の命日ではない。
因みに;
・享保は1716年から1736年までの期間
・延享は1744年から1748年までの期間
である。
となると、寺坂吉右衛門が亡くなる以前に建立されたこととなる。
となると、?マークがいっぱい付くことになるのだが、この謎解きは追ってのこととしたい。

墓所の脇に設えられた案内板に目を通す。
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保護プラスチック板が反射し、上手く読み取れない。
加えて、杉板に黒ずんだ個所があったり、墨書きがかすれている個所もあり、上手く読み取れない。
しかし、大事な資料である。
武衛さんと共に、読み取れる文字を読み取ってみる。
以下はそのエッセンス。
-------------------------------------
1行目  寺坂吉右ヱ門傳記
2行目  、、、足軽ヨリ奮起シ、、、
15行目 、、、最後に六部姿ニテ九州ニ渡リ、、、
16行目 、、、久留米ニ来リテ(現在ノ日吉町博集舘附近)
18行目 、、、吉田忠左ヱ門ノ伯母ノ子ニ、、、
20行目 、、、立山ノ庵寺ニ入リ佛器等主君、、、
21行目 、、、享保十四年閏九月廿六日、、、
22行目 、、、ニヨリ遺骸を當山ニ、、、
---------------------------------------

「久留米」、「吉田忠左ヱ門ノ伯母之子二」は、先ほどの御内儀の「久留米の親戚」の話に呼応する。
寺坂吉右衛門は、浪士の一人、吉田忠左衛門に仕えていたので、全国の浪士ゆかりの人々を訪ねる中で、久留米の吉田忠左衛門の親戚に立ちよったということになる。
「享保十四年閏九月廿六日」は、台石に刻まれた年月日と呼応しており、謎解きの有用なヒントになる。

帰宅後にじっくりと読み取ろうと思い、三分割してカメラに収める。
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これから、この3枚の写真をゆるりとながめ、詳細を読み取り、「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>の一助としたい。

寺崎吉右衛門の墓所の近くで、古墳時代の石人・石馬などの石製品に類するものではないかと思わせる石を見つけた。
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一念寺の境内から釘崎古墳群1号墳と2号墳を遠望。
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山門を抜け、石段の上から釘崎古墳群1号墳、2号墳を遠望。
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これにて、「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>として、一念寺の寺坂吉右衛門の墓参が叶い、大満足!

この日の残るプランは、「国府跡・国分寺跡・総社めぐり」の一環として、久留米市内の筑後国府跡、筑後国分寺跡、筑後国分尼寺跡、総社である味水御井神社の探訪である。

時計を見ると、午後4時10分。
これから久留米市内に向かうと夕暮れ時となる。
国府跡・国分寺跡・総社めぐりはギブアップせざるを得ない。一念寺から、朝、下車した鹿児島本線/西牟田駅へ行くか、当初のプラン通り、久留米市内へ向かい、九大本線/久留米大学駅前へ行くかである。どちらも、距離的には、然程、差はない。当初プランで久留米市内へ向かうことにしていたので、地図も準備済みである。県道82号線、国道3号線を通り、九大本線/久留米大学前駅へ向かうことにする。

午後4時10分、一念寺を出発。
県道82号線、国道3号線などを通り、午後5時半、九大本線/久留米大学前駅に到着。
幹線道路だから道に迷うことはないと思っていたが、バイパス工事や何やかやで、途中、よく分からない道も走ったが、日暮れ直前に、何とか駅に到着出来た。
やれやれであった。

筑後国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社めぐりはギブアップしたが、今後の参考として、事前に調べた事項をここに記しておきたい。
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□筑後国府跡・・・久留米大学前駅の北西
・一期国庁、前身官衙、二期国庁舎、国司館跡、調査事務所などあり
・合川公民館(合川校区コミュニティセンター)前に説明板あり
□総社/味水御井(うましみずみい)神社・・・久留米大学前駅の直ぐ、北
※南に4期国府/横道遺跡あり
□筑後国分寺跡・・・陸上自衛隊久留米駐屯地付近
・日吉神社境内と重複して位置し、寺域は約150メートル四方と推定される
・遺構としては講堂跡・塔跡・築地跡が確認されている。
・神社境内に礎石1個が残る
・道路を挟んで塔跡が位置する
□筑後国分尼寺跡
・僧寺跡の北約200メートルの西村地区と推定(遺構、未発見。古瓦、出土)
・西村地区の「西」は「尼寺」の転訛ともいわれる
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17:50 久留米大学前駅発/18:14 筑後吉井駅着。
宿へ戻る途中、リンガーハットで夕餉を摂る。
コンビニでビールとつまみを調達し、宿で一献やりながら、<本日の反省会>と<明日の作戦会議>を行う。

大満足の1日を終え、さあ、明日は筑後川流域古墳探訪である。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:42 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/乗場古墳、(丸山塚古墳)、茶臼塚古墳、鶴見山古墳、釘崎古墳群』 kk-41

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

八女古墳群を西から東へ。
「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」、岩戸山古墳、隣接の資料館「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」を見分、見学。

時刻は既に午後2時を過ぎている。
先を急がねばならない。
岩戸山古墳を出発し、次の探訪先、乗場古墳へと向かう。

岩戸山古墳から東へ、坂道を下り、国道3号線を渡り、坂道を上る。
右手に乗場古墳、前方に福岡県立福島高校が現れた。

広川町古墳館と岩戸山歴史文化交流館で集中し過ぎてしまったせいか、乗場古墳の見分で墳丘に上る気力が失せてしまった。
ということで、墳丘の見分は相棒の武衛さんにお任せした。

乗場古墳の前方部北側を上る武衛さん。
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墳丘を見分する武衛さんと標柱「史跡 乗場古墳」。
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小生は道路から墳丘を見分。
北西角から墳丘を見通す。
道路の拡幅、或いは、墳丘の保全のためか、墳丘の北側と西側は人工的にがっちりと固められてしまっている〈後掲の説明書きに「以前は、周溝と周堤がめぐっていたが、昭和30年代に周囲を造成した際に削られた」とあった)。
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説明板に目を通す。
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国指定 八女古墳群
乗場古墳
指定年月日 大正11年3月8日
(昭和53年3月24日名称変更)
所在地 八女市大字吉田字乗場

乗場古墳は岩戸山古墳から東方約300mに位置する2段築成の前方後円墳で、墳丘の長さ約70m、後円部径約30m、高さ約5m、前方部幅約35mでさ、高さは前方部の方がやや低い。
以前は、周溝と周堤がめぐっていたが、昭和30年代に周囲を造成した際に削られた。

江戸時代の終わり、久留米藩士 矢野一貞が著した「筑後将士軍談」によれば、乗場古墳はすでに「吉田村奈良山之図」として紹介された周堤をめぐらした絵図があり、石人の出土も伝える。

石室の構造はほぼ南側に入口がある全長約10mの複室構造の横穴式石室で、石室の玄室の奥壁と両側壁、前室の両側壁と袖石に彩色によって装飾文様が描かれている。
出土遺物は明治~大正年間に発見された玉、馬具、土器があり、現在、東京国立博物館に収蔵中。
人物埴輪、環頭大刀柄頭は福島高校に保管されている。
古墳の年代は岩戸山古墳に次ぐ6世紀中頃から後半頃と推定されている。

平成4年3月 八女市教育委員会

(図)「筑後将士軍議」より
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久留米藩の学者である矢野一貞が著した『筑後将士軍談』は、先ほど、訪ねた資料館2館で馴染みとなった書物である。

『筑後将士軍議』で描かれた乗場古墳の図をアップで。
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左図(”立面図”)拡大版。
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本図から次のような記述が読み取れる。
※括弧内は読み取り不明瞭あるいは推測を示す。
-------------------------------
吉田村奈良山之圖
岩戸山ノ寅の方三四町ニアリ
岩戸山ヨリハ稍小也

直立西ハ二間六分
ハエ七間五分
三方ハ直立ニ間ニ分二厘
ハエ七間
--------------------------------
古(瓦)甚ダシ
石人ノ残缺缺モアリ
--------------------------------
周廻百間
--------------------------------
周囲ニ堀ノ形
(略)残シ(共)全カラズ
-------------------------------
(是)及朝田ノ塚等眞ノ山陵造
也(地)ノ類モ侭有之
--------------------------------


右図(”平面図”)拡大版。
※北が北上に位置するよう、図を90度右回転。
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本図から次のような記述が読み取れる。
------------------------------
(方位)東、西
------------------------------
二十間五分
------------------------------

説明板の内容と江戸時代の記述を照らし合わせながら読むとまた別の思いが湧いて来る。

一般道を西から東へ見通す。
緩やかな上り坂(墳丘築造の地形が類推出来る)。
右/墳丘、前方/福岡県立福島高校正門、左/同校グラウンド。
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福岡県立福島高校正門をズームアップ。
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岩戸山古墳隣接の資料館で見た絵画『磐井とその一族』は同校で教鞭をとっていた井上自助氏が描いたものとあった。
また、前掲の説明板では、乗場古墳から出土した人物埴輪、環頭大刀柄頭は同校で保管されているとあった。
地元の学校が古墳に関わっていることは誠に結構なことである。
遺跡には教育委員会が関わっているから当然のことといえばそれまでであるが、現場に近い学校が関わっているということに意味がある。

一般道から墳丘後円部を眺める。
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案内標識「八女古墳群」。
これから探訪する古墳・古墳群がずらりと。
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墳丘探訪の武衛さんも合流し、出発。

上り坂の頂上を右折し、前方部東端を眺める。
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墳丘の南側は十数メートルの崖となっている。
ということは、乗場古墳は八女丘陵の高台南端に築造されているということになる。

我らは南へ下ることなく、東へと走る。
東側も下り坂となったあと、上り坂、坂を上り切ると平坦部が続き、丘陵の高台を東へ走る。

因みに、これまでずっと八女丘陵の高台を走っているが、平坦ばかりではなく、アップダウンがある。
即ち、石人山古墳・化谷古墳から岩戸山古墳までは比較的平坦が続いたが、岩戸山古墳から乗場古墳の間は一旦ダウンし、アップ、乗場古墳から東は一旦ダウンし、アップ、そのあとは平坦部が続くといった具合だ。
更に、茶臼塚古墳を過ぎるとダウンし、アップ、その高台に鶴見山古墳、釘崎古墳群が位置しているという地形である。

善蔵塚古墳。
左手に善蔵塚古墳の標識、その奥に墳丘が見える。
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-------------------------------------
(右側標識)
古墳ロード
八女丘陵上には5世紀から7世紀にかけて大小300基の古墳が造られました。
丘陵上のこの道路の両側にはたくさんの古墳が点在しています。
広川町観光協会
-------------------------------------
(左側標識)
史蹟 八女古墳群
善蔵塚古墳
この古墳は大切な文化財です。
ごみを捨てたり、彫ったりしないでください。
広川町教育委員会
-------------------------------------

この辺りは八女市と思っていたが、八女郡広川町(北側)と八女市(南側)の境界線上であったのだ。

墳丘に目を遣る。
墳丘のどの部分を見ているのかまだよく分からない。
更に進んで見分してみることにする。
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説明板が見当たらない。
ウィキペディアによれば、次の通りである。
---------------------------------------------
善蔵塚古墳
所属 八女古墳群
所在地 福岡県八女郡広川町六田字善蔵塚
形状 前方後円墳
規模 全長95m
出土品 埴輪
築造時期 6世紀前半~中頃
史跡 昭和53年(1978年)国の史跡

八女古墳群における有力古墳であり、岩戸山古墳、石人山古墳に次ぎ第3位の規模を誇る。
前方部を西に向け、2段築成の墳丘には葺き石と埴輪が巡る。
築造時期は表採された円筒埴輪などから、6世紀前半~中頃とみられ、乗場古墳と同時期か、やや遅れ、鶴見山古墳と並行すると考えられる。
------------------------------------------------

西側から前方部西端を眺める。
2段築成であることが見て取れる。
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前方後円墳であることを視認すべく、後円部北西の裾からズームアップし、前方部を覗いてみる。
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墳丘に上ってみたいのだが、時間的に厳しく、次へ。

しばらく走ると、左手に墳丘が見えて来た。

茶臼塚古墳。
西側から。
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南側から。
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草が刈り込まれ、整備がされていることでもあり、時間的に厳しいが、墳丘を見分することにする。

墳丘下に設えられた説明板に目を通す。
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国指定史跡 八女古墳群
茶臼塚古墳
指定年月日 昭和53年3月24日
所在地 八女市大字宅間田字ウト967番地
    八女市大字豊福烏帽子886番地の2他

八女丘陵のぼぼ中央に位置する円墳です。
墳丘は盗掘のため中央部分が陥没していますが、古墳を復元してみると直径約24m、高さ約5.3mの円墳となります。
墳丘の周囲から円筒埴輪が出土しており、出土遺物から6世紀の古墳と考えられています。
(図)
航空写真
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航空写真
右上/茶臼塚古墳・・・更地のように見えるが、目を凝らすと円墳とわかる
左下/丸山塚古墳・・・円墳がくっきりと見える 
※写真上では「丸山古墳」となっているが、丸山古墳は八女市の東南部にあり、八女丘陵のこの古墳は「丸山塚古墳」である。
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グーグルの航空写真でこの辺りをみると、善蔵塚古墳は森の状態、丸山塚古墳と茶臼塚古墳は見事な円となっているのが確認出来る。

墳丘を反時計回りで見分。

北東裾から南東を眺める。
畑の向こうに茶畑が見える。
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西裾から墳丘を眺める。
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西側から墳丘南裾と東側を見通す。
東側の畑の向こうに茶畑も見える。
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葺石かな?
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アップで。
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八女丘陵を更に東へ走る。
坂道を下る。
南北に走る県道82号線に至る。
そこで、ふと、気付いた。
丸山塚古墳に立ち寄っていなかった。
丘陵の道を東へ走りながら、左手にあると思い込んでいたのが間違い。
丸山塚古墳は、善蔵塚古墳と茶臼塚古墳の間の右手にあったのだ。
標識があったかどうかは定かではないが、道の左手にばかり気を取られていたので、見落としたのかもしれない。

時計をみると午後3時を回っている。
再び、坂道を上り、丸山塚古墳まで戻る時間的余裕も元気もない。
丸山塚古墳はギブ・アップしたが、せめてもの救いは、茶臼塚古墳に関する説明板掲載の航空写真に丸山塚古墳が写っていたことである。
ということで、丸山塚古墳の航空写真(トリミング図)をここに掲載しておきたい。
※写真上では「丸山古墳」となっているが、丸山古墳は八女市の東南部にあり、八女丘陵のこの古墳は「丸山塚古墳」である。
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説明板に代え、ウィキペディアによれば、次の通りである。
---------------------------------------------
丸山塚古墳
所属 八女古墳群
所在地福岡県八女市宅間田
形状 円墳
規模 直径約33m、高さ約5.3m
埋葬施設 両袖型横穴式石室
築造時期 6世紀後半
史跡 昭和53年(1978年)国の史跡

丸山塚古墳は大型の円墳で、本来は墳丘を取り巻く周濠・周堤が存在したと思われる。
北側200mの所には、善蔵塚古墳と茶臼塚古墳がある。
埋葬施設は両袖型横穴式石室で、全長8mを測り、南に開口する。
乗場古墳と同様、前室と後室に分かれた複室構造で、腰石に大きな石材を用い、上部には扁平の石材を用い割石積みをし、ドーム状に積み上げている。
また、奥壁や玄室・前室の袖石には赤・黄・緑の三色により三角文・円文・蕨手文が描かれている。
石室は保存のため調査後に埋め戻され、現在入ることは出来ない。
丸山塚古墳が造営された時期は、石室が複室構造であることなどから広川町の弘化谷古墳よりやや後出するものと考えられ、6世紀後半頃と推定されている。
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県道82号線を横切り、更に東へ。
上り坂となる。
坂を上り切ると再び平坦な道となり、右手奥に鶴見山古墳が現れた。

鶴見山古墳。
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鶴見山古墳
所在地 八女市大字豊福967番地他

八女丘陵の中ほどに位置している前方後円墳で、主軸を東西方向にとり、全長約85mの二段築造になっています。
周溝を含めると全長110mになります。
前方部は幅約50m、高さは現況で約6m、後円部は直径約40m、現況の高さで約5.5mです。
主体部は、後円部に築かれた横穴式石室で、複室構造になっています。
武人埴輪(盾を持つ埴輪)や円筒埴輪が出土しており、これらの遺物から6世紀中頃から後半頃の古墳と考えられています。
(図)
航空写真
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航空写真。
右(東)/鶴見山古墳、左(西)/茶臼塚古墳。
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航空写真/鶴見山古墳をトリミング拡大版で。
ビニールハウスの北側に、東西を主軸とする前方後円墳が見て取れる。
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墳丘を見分。

南東から前方部を眺める。
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墳丘上を見分する武衛さん。
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小生も墳丘に上ってみる。

前方部墳頂から北東を眺める。
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後円部西端。
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墳丘から下り、後円部を北側から眺める。
後円部の西側一帯は果樹園となっている。
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鶴見山古墳をあとにして、更に東へ走る。
秋の風情の中に立つ案内標識。
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釘崎古墳群は3・4号墳が道の左側(北)に、1・2号墳が道の右側(南)に。
1・2号墳を探訪することにする。
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釘崎古墳群は、八女市ホームページによれば次の通りである。
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釘崎古墳群
豊福地区に所在する、円墳8基・前方後円墳4基からなる古墳群です。
八女古墳群中、最も前方後円墳が密集している古墳群で、1号墳、2号墳、3号墳(現在は消滅)はこれまでに発掘調査が行われています。
3号古墳からは鏡や太刀、馬具と共に多量の鉄鏃(鉄の矢じり)が出土しており、被葬者は武人的性格の強い人物であったと想像できます。
11号古墳(円墳)は赤色の円文(丸い紋様)をもつ装飾古墳であることが確認されています。
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八女古墳群1号墳と2号墳を見分。
1号墳、2号墳は、いずれも主軸を南北にとる前方後円墳(北/前方部、南/後円部)。
1号墳が最南端に、そのすぐ北に2号墳が位置している。

1号墳(全長57m)。
南東方向から後円部を眺める。
右手のブルーシートに白い重しのあるところは調査用のトレンチ。
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1号墳、くびれ部付近。
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2号墳(全長47m)。
南側から前方部を眺める。
こちらも調査用のトレンチが掘られている。
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後円部を東側から眺める。
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くびれ部付近を東側から眺める。
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前方部の一部と午後3時40分の西に傾く太陽。
左下の紫色は、逆光のときのレンズの悪戯で僅かに現れたゴースト・フレア。
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1号古墳の南側が丘陵の南縁。
南縁に立ち、向かいの丘陵の高台にある一念寺を眺める。
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一念寺を訪ねるのか。


本日のプランで、このあと、一念寺を訪ねることにしている。
古墳探訪とは異質のところを訪ねるのは何故か。
それは続編の一念寺の巻にて。
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釘崎古墳群1号墳、2号墳をあとにして、坂を下り、一念寺へ。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:41 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/岩戸山古墳(Ⅵ)』 kk-40

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

八女古墳群を西から東へ。
「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。
続いて、岩戸山古墳へ。

岩戸山古墳。
先ず、隣接の「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」を見学。
第35話から5話に亘って、館内の展示品や展示パネルについて縷々綴った。
次は、古墳そのものの見分である。
資料館から岩戸山古墳へ徒歩で向かう。

到着時に目を通した説明板をもう一度。
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国指定史跡 八女古墳群
岩戸山古墳
指定年月日 昭和30年12月23日
(名称変更 昭和53年3月24日)
所在地 八女市吉田字甚三谷

八女丘陵は東西10数kmにおよぶ丘陵である。
この丘陵上には12基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。
八女古墳群のぼぼ中央に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135m、東側の後円部径約60m、高さ約18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり、周濠、周堤を含めると全長約170mになる。
墳丘は二段築造で、内部主体は未発掘のため不明である。
古墳の北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している。
岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527年)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓であり、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。
古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰岩でつくられた多量の石製品が埴輪とともに出土している。
種類も人物(武装石人、裸体石人など)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?犬?など)、器材(靱・盾・刀・坩・蓋・翳など)があり、円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。
石製品は埴製(土)を石製に代え、さらに実物大を基本とした所に特徴がある。
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今年4月、テレビの放送大学「日本の古代中世」で;
第1回「古代・中世史への招待」
第2回「日本列島の原始から古代へ」
第3回「律令国家への道」
第4回「律令国家と天平文化」
をベンキョー。

第2回「日本列島の原始から古代へ」の内容は「岩宿・三内丸山・吉野ヶ里遺跡など、旧石器・縄文・弥生時代の発掘成果から列島の社会像を見直し、中国史書が伝える歴史像と突き合わせる。また、古墳時代の稲荷山古墳鉄剣や『宋書倭国伝』が語る列島像を、磐井の戦いにみる国際関係とともに再検討し、倭国の大王と地方豪族との関係を複眼的に見直す」というものであった。
磐井の戦いに関わる解説と共に、佐藤信放送大学客員教授は岩戸山古墳へ赴き、現地での解説もあった。
このとき、別区なるものがあることを知り、まことに興味深く拝聴したのであった。

そうしたこともあり、この説明板の内容はスッと頭の中に入った。

説明板の航空写真をアップで。
この航空写真の方位は、下が北、上が南となっている。
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航空写真を、180度、回転させると上が北となり、墳丘の方向や別区の位置の方位がイメージし易い。
即ち、前方部を西、後円部を東とした前方後円墳であり、別区は後円部の北東に位置している。

航空写真の墳丘部と別区の部分だけをトリミングし、且つ、北が上になるよう、180度回転させ、方位を定めた写真がこれ。
・こんもり部分の、西(左側)が前方部、東(右)が後円部。
・北東(右上)の、芝の枯れた黄色の方形部分が別区。
眼を凝らしてこの写真を見ると、別区の東辺に置かれた石人・石馬(レプリカ)が黒い点線状で写真に写っているのが分かる。
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先ず、別区から見分。
別区は一辺約43mの方形である。
別区の北東角に立つ。
左手(別区、東辺)に石人・石馬(レプリカ)。
右手奥の<こんもり>は墳丘(後円部)。

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別区の北西角に立つ。
左奥(別宮、東辺)に石人・石馬(レプリカ)。
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別区東辺に並ぶ石人・石馬(レプリカ)。
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放送大学で佐藤信放送大学客員教授が岩戸山古墳へ赴いて現地での解説があったと上述したが、まさに、教授が立っていたところに、今、我らが立っているのである。

そして、先ほど、資料館で見学し、第35話の中で綴った『筑後國風土記』(逸文)の一説が頭の中に思い浮かぶのであった。

ということで、『筑後國風土記』(逸文)を今一度、ここに掲載しておこう。
※「筑紫國風土記」(逸文)の前段、中段あたりに岩戸山古墳と別区の様子が記されている。
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『筑後國風土記』(逸文)
筑後(ちくしのみちのしり)の國の風土記に曰はく、上妻(かみつやめ)の縣(あがた)。
縣の南二里(さと)に筑紫君磐井(ちくしのきみいはい)の墓墳(はか)あり。
高さ七丈(ななつま)、周(めぐ)り六十丈(むそつま)なり。
墓田(はかどころ)は、南と北と各(おのもおのも)六十丈(むそつま)、東(ひむがし)と西と各(おのもおのも)四十丈(よそつま)なり。
石人(いしひと)と石盾(いしたて)と各(おのもおのも)六十枚(むそひら)、交(こもごも)陣(つら)なり行(つら)を成して四面(よも)に周匝(めぐ)れり。
東北(うしとら)の角(すみ)に當りて一つの別區(ことどころ)あり。
號(なず)けて衙頭(がとう)と曰ふ。
衙頭は政所(まんどころ)なり。
其の中(うち)に一(ひとり)の石人あり、縦容(おもふる)に地に立てり。
號(なづ)けて解部(ときべ)と曰ふ。
前に一人あり、躶形(あかはだか)にして地に伏せり。
號(なづ)けて偸人(ぬすびと)と曰ふ。
生けりしとき、猪(ゐ)を偸(ぬす)みき。
仍(よ)りて罪を決められむとす。
側(かたわら)に石猪(いしゐ)四頭(よつ)あり。
贓物(ざうもつ)と號(なづ)く。
贓物は盗みし物なり。
彼(そ)の處(ところ)に亦(また)石馬(いしうま)三疋(みつ)、石殿(いしとの)三間(みつ)、石蔵(いしくら)二間(ふたつ)あり。
古老(ふるおきな)の傳(つた)へて云へらく、雄大迹(おほど)の天皇(すめらみこと)のみ世に當りて、筑紫君磐井、豪強(つよ)く暴虐(あら)くして、皇風(おもむけ)に偃(したが)はず。
生平(い)けりしの時、預(あらかじ)め此の墓を造りき。
俄(にわか)にして官軍(みいくさ)動發(おこ)りて、襲(う)たむとする間(ほど)に、勢(いきほひ)の勝つましじきを知りて、獨自(ひとり)、豊前(とよくにのみちのくち)の國上膳(かみつみけ)の縣(あがた)に遁(のが)れて、南の山の峻(さか)しき嶺(みね)の曲(くま)に終(みう)せき。
ここに、官軍(みいくさ)、追(お)ひ尋(ま)ぎて蹤(あと)を失(うしな)ひき。
士(いくさびと)、怒(いかり)泄(や)まず、石人(いしひと)の手を撃(う)ち折り、石馬(いしうま)の頭(かしら)を打(う)ち堕(おと)しき。
古老(ふるおきな)傳(つた)へて云へらく、上妻(かみつやめ)の縣に多く篤(あつ)き疾(やまい)あるは、蓋(けだ)しくは茲(これ)に由(よ)るか。
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石馬の脇に置かれた「別区」の表示。
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別区から後円部東端の裾を眺める。
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別区の北東角から墳丘の北側を東から西へ見通す。
念のため、磁石を取り出し、方位を確認。
立っているのは別区の北東角、墳丘の向きは東西(東/後円部、西(写真、奥)/前方部)である。
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後円部、墳丘の裾。
裾に「後円部」の表示あり。
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標識「後円部」をアップで。
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別区(東側)から西、墳丘の北側を見通す。
墳丘の北側が凸に見える。
これは;
左/墳丘裾(幅の狭い周濠があったのだろうか?と思わせるような凹みあり)
央/周堤
右/堤の外側に更に周濠があったのであろうか?と思わせるような凹みあり
という地形だからであろう。
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別区(東側)から墳丘北側の周堤を歩き、西へ進む。
途中、振り返り、西から東を眺める(右/後円部裾、奥/別区)。
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再び、西に向き、前進する。

墳丘の裾。
右下に「前方部」の標識あり。
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標識「前方部」をアップで。
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「前方部」の標識がある辺りから墳丘を上る。
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前方部の墳頂に至る。
前方部西端の北側に鎮座する社。
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前方部西端の南側に設えられた石段。
あとで分かることだが、後円部南側の裾に吉田大神宮の本殿が鎮座しており、先ず、本殿に参拝し、この石段を上り、前方部墳頂の社に参拝、更に、後円部の大神宮旧蹟にも参拝し、再び、この石段を下るというのが吉田大神宮参拝の正式ルートと思える。
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前方部墳頂から後円部墳頂を見通す。
足元の緑に苔むした辺りは丸みを帯びた凸凹になっている。
葺石かもしれない。
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既に別区で磁石を取り出し、方位(前方部/西、後円部/東)は確認したが、念のため、墳丘上でも方位を確認する。
当然のことながら、前方部は西、後円部は東である。
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前方部から後円部へ進む。

後円部。
後円部墳頂と、それをカメラに収める、古墳探訪の相棒、武衛さん。
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後円部墳頂に立つ石碑「大神宮舊跡」。
あとで分かることになるのだが、後円部の南裾に吉田大神宮の本殿が鎮座しており、この石碑「大神宮舊跡」は、以前、本殿は後円部墳頂に鎮座していたことを示している。
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石碑には「大正15年1月」と刻まれており、新たな本殿はその頃、或いは、それ以前に造営されたものと思われる。
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後円部墳丘斜/北縁斜面。
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後円部墳丘/東縁斜面。
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後円部墳丘/南縁斜面。
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後円部墳頂から前方部を見通す。
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後円部から、再び、前方部へ。
しつこいようだが、またまた、磁石を取り出して。
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前方部墳頂から南側へ石段を下る。
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下って来た石段を見上げる。
前方部の高さ約17mをこの目で確認。
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扁額コレクション。
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墳丘の北側裾部の見分、墳頂の見分に続いて、次は墳丘の南側裾部の見分。
南側の裾部を西から東へ進む。

後円部南裾に鎮座する、吉田大神宮本殿。
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鳥居の脇に立つ標柱「史跡 岩戸山古墳」。
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扁額コレクション。
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後円部南裾、吉田大神宮本殿(東)から前方部南裾方向(西)を見通す。
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北側にも説明板があった(冒頭に掲載)が、南側にも説明板がある。
同じ内容と思うも、<おさらい>も兼ねて、目を通す。
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国指定史跡 八女古墳群 岩戸山古墳
指定年月日 昭和30年12月23日(名称変更 昭和53年3月24日)
所在地 八女市大字吉田字甚三谷
八女丘陵は東西10数kmにおよぶ丘陵である。
この丘陵上には11基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。
八女古墳群のぼぼ中央に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135m、東側の後円部径約60m、高さ約18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり、周濠、周堤を含めると全長約170mになる。
墳丘は二段築造で、内部主体は未発掘のため不明である。
古墳の東北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している。
岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527年)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓であり、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。
古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰岩でつくられた多量の石製品が埴輪とともに出土している。
種類も人物(武装石人、裸体石人など)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?犬?など)、器材(靱・盾・刀・坩・蓋・翳など)があり、円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。
石製品は埴製(土)を石製に代え、さらに実物大を基本とした所に特徴がある。
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筑紫君磐井(つくしのきみいわい)
約1500年前の古墳時代後期に当地を含めた現在の福岡県南部を拠点とした大豪族である。
奈良時代に編纂された古事記や日本書紀には磐井に関する記述が残っており、日本書紀では「磐井は西の戎(ひな)の姧(かだましき)猾(やつこ)なり。川の阻(さか)しきこと負(たの)みて庭(つかえまつ)らず。」とされ、悪賢く、朝廷に使えない人物と評価されている。
また、磐井は西暦527年に火国(ひのくに)・豊国(とよのくに)(現肥前・豊前・豊後)と共に反乱を起こし、翌528年には筑紫の御井郡(現久留米市の三井周辺)において決戦が行われ、磐井は斬られたとも記されている。
しかし、筑後国風土記(逸文)には「豊前(とよくにのみちのくち)の國上膳(かみつみけ)の縣(あがた)に遁(のが)れて、南の山の峻(さか)しき嶺(みね)の曲(くま)に終(みう)せき。」とあり、現在の豊前市付近に敗走したと伝えている。
この記述は、磐井が地域の盟主であるが故に生かしたとの郷土民の強い思いであったのかもしれない。
2015年11月
八女市教育委員会
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南側の説明板の上段「国指定史跡 八女古墳群 岩戸山古墳」について:
2ヶ所を除き、北側の説明板と、一言一句、同じである。
相違点は次の2点である。
①前方後円墳の基数:(北側)12基、(南側)11基
 確認のため、ネット検索してみた。
 11基、12基、両方の記述あり。
 何れが正しいかは、八女市教育委員会に確認するしかない。
②別区の位置の表現:(北側)「古墳の北隅」、(南側)「古墳の東北隅」
 これは明らかである。
 南側の説明板「東北隅」に軍配!
 因みに、小生自身の文章の中では、「東北」ではなく、「北東」と記しているが...。

南側の説明板の下段「筑紫君磐井」について:
これは、北側の説明板にはなかったものであるが、資料館の展示パネルで解説されていた。
この説明板では「磐井は西暦527年に火国(ひのくに)・豊国(とよのくに)(現肥前・豊前・豊後)と共に反乱を起こし」とあり、資料館の展示パネルでも「筑紫君の命運をかけた一戦磐井の乱に込められた九州豪族の思い度重なる百済支援のため、九州に要求される兵・船・馬などの軍事挑発、強まる地方への支配体制、磐井は遂に立ち上がり、火国・豊国と共にヤマトの軍勢に刃を向け、ここに古代史上最大の内乱『磐井の乱』が勃発します」(全文は第35話に掲載)とあり、磐井は火国・豊国と共にヤマト王権軍と戦ったとしている。
磐井が火国・豊国と共にヤマト王権軍と戦ったということに異論を唱えるつもりはないが、関連資料に目を通していると、火国はヤマト王権軍に寝返ったという説もあることを申し添えておきたい(これに関する詳細は第35話と第38話にて述べた通りである)。

岩戸山古墳の見分に大満足!
後円部の南裾、東の吉田大神宮本殿から墳丘の南側を西へ進み、前方部の南西角を曲がり、前方部西端の裾を北へ進む。

前方部西端、南側から北側を見通す。
前方部の幅、約92mを実感する。
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前方部西端の北西角を曲がり、先ほど通り抜けた墳丘の北側を東へ進み、jitensha を止めてある資料館に戻る。

資料館ロビーの床面に貼られた航空写真。
現在地の岩戸山古墳、次の探訪先である乗場古墳、善蔵塚古墳、丸山塚古墳、茶臼塚古墳、鶴見山古墳、釘崎古墳がプロットされている。
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時刻は既に午後2時を過ぎている。
先を急がねばならない。
岩戸山古墳を出発し、次の探訪先、乗場古墳へと向かう。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:40 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/岩戸山古墳(Ⅴ)』 kk-39

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

八女古墳群を西から東へ。
「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。
続いて、岩戸山古墳へ。

岩戸山古墳。
先ず、隣接の「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」を見学。
第35話から4話に亘って、館内の展示品や展示パネルについて縷々綴って来た。
岩戸山古墳の見分も控えていることにて、そろそろ、館内展示について最終とせねばならない。

全話で掲載した「筑紫君全盛の頃の主要古墳分布図」の中で今城塚古墳がプロットされていたので、今城塚古墳について次の通り触れた。
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今城塚古墳について:
本図に、磐井の乱で筑紫君磐井が相対した継体天皇(第26代)の墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市郡家新町)がプロットされている。
なお、宮内庁治定による継体天皇の陵(みささぎ)は三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ、大阪府茨木市太田、遺跡名:太田茶臼山古墳)であるが、歴史学界では今城塚古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。
何故、継体天皇に関わる古墳がふたつあるのか、それについては、近々、三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)と今城塚古墳を探訪する予定としており、探訪後、別の機会に綴ることとしたい。
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話が少々逸れるが、筆者のもう一つの趣味である「赤穂浪士」、「忠臣蔵」の関連で、赤穂浪士ゆかりの地を<取材>しているが、それだけでは片落ちとなるので、吉良郷(愛知県西尾市吉良町、旧・幡豆郡吉良町)や江戸の吉良家菩提寺である萬昌院功運寺(東京都中野区上高田)など、吉良家ゆかりの地も<取材>している。

それと同様に、筑紫君磐井とその墓所のことだけを綴ったのでは片落ちとなるので、継体天皇とその墓所についても触れておかねばならないと思う次第である。

第37話で掲載した立山山古墳出土の人物埴輪3点の背面に展示されていたパネル資料や立山山古墳・カクチガ浦古墳・岡寺古墳出土の馬形埴輪3点の背面に展示されていたパネル資料は継体天皇もしくは今城塚古墳関連の記事となっていたが、当地出土の人物埴輪や馬形埴輪と今城塚古墳が重なり合うような混乱を避けるため、今城塚古墳はモザイク処理を施した。

今回は継体天皇について触れるため、モザイク処理した部分を復活させた写真を掲載する。
当地出土の人物埴輪と馬形埴輪はモザイク処理をすることなく残しておくが、今城塚古墳とは無関係の埴輪であることは申すまでもなきことかと。

最大のライバル!
継体大王が眠る今城塚古墳
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最大のライバル!
継体大王が眠る今城塚古墳
大阪府高槻市にある墳丘長190mの前方後円墳で、6世紀前半に築かれた古墳としては日本最大です。
墳丘は慶長・伏見地震(1596年)などで大きく崩れ、石室本体も失われていますが、平成13年には大規模な埴輪配列区画が発見され、当時の大王墓祭祀が明らかとなりました。
平成10年には墳丘上で熊本県宇土産凝灰岩の石棺財が発見され、磐井の乱後も火君と大王家との関係が深いことが分かりました。
(図)
上/今城塚古墳祭祀場近景
下/今城塚古墳祭祀場遠景
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(メモ)
継体大王、継体天皇の表記について
当資料館のパネル資料および映像解説においては、「大王」の表記が使われている。
大王(おおきみ、だいおう)は、古墳時代から飛鳥時代にかけてのヤマト王権の首長の称号あるいは倭国の君主号である。
天武朝(第40代天武天皇、673年~686年)の頃から中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった。
そうしたことからすると、初代神武天皇(諸説あるが)から数えて、継体天皇は第26代、天武天皇は第40代であるから、継体大王と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。
ここ、八女市は筑紫君磐井のご当地であり、磐井の乱でヤマト王権と戦ったことでもあり、ヤマト王権の首長を継体天皇ではなく継体大王と表記しているのかもしれない。

パネル資料をアップで。
上/今城塚古墳祭祀場近景
下/今城塚古墳祭祀場遠景
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祭祀場は多数の埴輪(レプリカ)が並べ、復元されている。
祭祀場の背後が今城塚古墳。
墳丘の右手(西)が前方部、左手(東)が後円部。
説明書きにある通り、後円部は地震で大きく崩れ、墳丘は低い。

馬形埴輪3体の背後のパネル写真
右/「今城塚古墳」
左/「日本書紀 継体紀二十二年十一月・十二月条」
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今城塚古墳をアップで。
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『日本書紀 継体紀二十二年十一月・十二月条』をアップで。
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日本書紀
継体紀二十二年十一月・十二月条

二十二年の冬十一月(しもつき)の甲寅(きのえとら)の朔(ついたち)甲子(きのえね)に、大将軍(おほきいくさのきみ)物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかひ)、親(みづか)ら賊(あた)の帥(ひとごのかみ)磐井と、筑紫の御井郡(みゐのこほり)に交戦(あいたたか)ふ。
旗(はた)鼓(つづみ)相望(あいのぞ)み、埃塵(ちり)相接(あいつ)げり。
機(はかりごと)を両(ふた)つの陣(いくさ)の間(あひだ)に決(さだ)めて、萬死(みをす)つる地(ところ)を避(さ)らず。
遂(つひ)に磐井を斬(き)りて、果して橿場(さかひ)を定む。

十二月(しはす)に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父(かぞ)のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐(おそ)りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を獻(たてまつ)りて、死罪(しぬるつみ)贖(あが)はむことを求(まう)す。
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以上が簡単ではあるが、継体大王についてである。
文字数は異なるが、これで、筑紫野君磐井と継体大王の両者を綴ったので、”片落ち””は解消できた。

次は、映像による磐井の乱とその後について、綴ってみたい。
映像は劇画調で、筑紫君磐井は「エエモン」風に、継体大王は「ワルモン」風に描かれている。
映像と共に流れるナレーションによるストーリーは『日本書紀』とは少々異なる。
「エエモン」、「ワルモン」や『日本書紀』とはストーリーが少々異なるのは、『日本書紀』はヤマト王権側から書かれたものであり、八女は筑紫君磐井のご当地であるから当然のことであろう。

「八女英雄伝説への招待」
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筑紫君磐井の一族が治める筑紫の地は平和そのものである。
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この頃、筑紫は半島諸国と人の交流や物の交流などがあり、文化経済圏を同じくし、友好関係にあった。
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当時、半島は高句麗、百済、新羅、伽耶諸国などであった。
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半島で、新羅が伽耶(日本書紀では任那(みまな)、伽耶と同義)に侵攻したため、伽耶と交流のあったヤマト政権は伽耶を助けるため、出兵した。
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ヤマト王権は筑紫君磐井にも半島への出兵を要請する。
ヤマト王権の要請に応えるべきか否か熟考する筑紫君磐井。
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磐井は筑紫の安定と半島との友好関係を優先し、ヤマト王権からの出兵要請を断り、ヤマト王権軍と対峙した。
『日本書紀』では、新羅が筑紫君磐井に賄賂を渡してヤマト王権軍を阻止するよう要請したとあるが、映像では異なる説を採っている。
磐井は平和主義者的に描かれており、容貌も温和な感じに描かれている。

ヤマト王権では、継体大王と家臣により、筑紫君磐井への対応策を謀議。
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継体大王。
顔つきは「ワルモン」。
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大伴大連金村(おおともおおむらじのかなむら)。
この人も人相が悪い。
隣にいるのは物部大連麁鹿火(もののべおおむらじのあらかび) 、或いは、許勢大臣男人(こせおおおみのおひと)か。
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物部大連麁鹿火(もののべおおむらじのあらかび)。
筑紫君磐井の征討将軍に任じられ、出兵。
『日本書紀』では、「大将軍(おほいくさのきみ)物部大連麁鹿火」と記されている。
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ヤマト王権征討軍に対し、挙兵する筑紫君磐井と筑紫の民衆。
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磐井の乱。
筑紫君磐井、御井郡(みゐのこほり)にて戦死(『日本書紀』)。
筑紫君磐井、豊前の國上膳の縣に遁れる(『筑後國風土記』)。
磐井の乱は、ヤマト王権軍の勝利、筑紫君磐井軍の敗北で、終結。
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コーナーは変わって、「磐井の乱、その後」のコーナーでの映像に。

筑紫君磐井の子、葛子は糟屋の屯倉をヤマト王権に献上。
「ワルモン」顔で、再び、登場の継体大王。
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ヤマト王権は北部・中部九州に屯倉を設置。
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ヤマト王権の勢力下に入った筑紫ではあるが、筑紫の民衆の心には穏やで人望のあった筑紫君磐井の記憶がいつまでも残るのであった。
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郷土の英雄「筑紫君磐井」。
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郷土の英雄「筑紫君磐井」
西暦527年に起きた「磐井の乱」。
地域の首長が各地を治める中、
親百済を貫くヤマト王権は5世紀後半頃から
大王(天皇)を頂点とした統一国家を強く望んでおり、
乱は不可避な出来事でした。
磐井が真に望んだことは、
九州の盟主としてヤマト王権に介入されることを排し、
「地方の、地方による統治」を実現する。
これこそ磐井が目指したものであり、
実現するため避けて通ることが出来なかった戦い、
それが「磐井の乱」だったのではないでしょうか。
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争いごとは控えねばならないが、地方自治、地方創生が叫ばれる今、かみしめねばならぬ一文かもしれない。

更に、映像で、岩戸山古墳につき、現場にての見分に先立ち、事前ベンキョー。

航空写真。
岩戸山古墳と周辺の古墳、俯瞰の図。
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古墳探訪では、ドローンを飛ばすか、少し離れた丘や山の上などの高台からでないと、墳丘を俯瞰することは出来ない。
その点、こうした航空写真があると随分と助かる。

この航空写真は西側から俯瞰したもの。
岩戸山古墳の別区は後円部の北東部に。
磐井の乱後に築造された古墳がずらっと。
この日の探訪は、乗場古墳、善蔵塚古墳、茶臼塚古墳、鶴見山古墳、丸山塚古墳(結果的には見落とし)、釘崎古墳群まで。
この映像は方位が的確(上が北)。
この日の探訪ルートが一目瞭然。

八女古墳群の図。
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岩戸山古墳、俯瞰の図。
墳丘長は135m。
北東隅の別区は一辺43mの方形。
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別区。
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別区と石人・石馬など。
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随分と資料館で時間を過ごした。
次は、いよいよ、岩戸山古墳そのものの見分である。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:39 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/岩戸山古墳(Ⅳ)』 kk-38

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

八女古墳群を西から東へ。
「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。
続いて、岩戸山古墳へ。岩戸山古墳。隣接の「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」を見学。
先ず、筑紫君磐井とヤマト政権の関わりについて、パネル資料でベンキョー。
続いて、石人・石馬などの石製品を見学。
続いて、埴輪や装飾品などの出土品を見学。

本資料館では、数多くのパネル資料が展示されている。
既に触れたパネル資料もあるが、まだ触れていない多くの資料もある。。
本話では、そうした資料の幾つかを掲載しておきたい。
なお、興味深く感じたものをピックアップして掲載しているので、一部、時代やカテゴリーで順不同となっているものがある。


筑紫君全盛の頃の主要古墳分布図。
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この図にプロットされた、筑紫君全盛期ころの古墳の個々の名称の抜き書きは割愛する。
なお、特記事項として次の3点を記しておきたい。

1)石製品が出土した古墳について:
本図でプロットされた古墳のうち、石製品が出土した古墳は次の通りである。
※出土した石製品の種類は筆者による調べ。
・石人山古墳(福岡県八女市広川町) 石人
・岩戸山古墳(福岡県八女市) 石人・石馬・石鶏・石猪・石盾・石壺・石刀・石靫・石蓋など100点以上
・石神山古墳(ふくおか県みやま市) 石人
・チブサン古墳(熊本県山鹿市)石人
・江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町) 石人
・三の宮古墳(熊本県荒尾市)石人
・臼塚古墳(大分県臼杵市) 石甲
・下山古墳(大分県臼杵市) 石甲
・石馬谷古墳(鳥取県米子市) 石馬 

美豆良を結った古墳人が「日本各地に広く分布する古墳の中でも、石人・石馬がみつかった古墳は九州に集中しているんだね」と語っている(本図、左下)。
その言葉の通り、石製装飾品は九州に集中しており、本州では石馬谷古墳(鳥取県米子市)での石馬出土が唯一の事例である。

2)火君について:
本図の北部・中部九州北部に「筑紫君(ちくしのきみ)・火君(ひのきみ)」と記されている。
「火君」とは、古墳時代に現在の熊本県の地域で最も勢力をもった豪族である。
現在の熊本県の地域は、「火の国」、「肥の国」、「肥後国」、「隈本」、「熊本」とその名称が変遷している。
「火の国」の由来については、「阿蘇山の火」説、「八代海の不知火」説、「氷川町の氷川(火川)」説、そして、「豪族の火君」説などがある。

熊本県八代郡氷川町に「野津古墳群」や「大野窟(おおののいわや)古墳」がある。
野津古墳群は、古墳時代後期(6世紀初~中頃)としては珍しい墳丘の長さ60~100mの前方後円墳が4基(物見櫓古墳・姫ノ城古墳・中ノ城古墳・端ノ城古墳)が4基並んでいる。
これらの古墳は、この辺りで最も勢力を誇った「火君」一族の墳墓である可能性が高いと考えられている。

筑紫君磐井は火君と親密であったが、磐井の乱では火君はヤマト王権側につき、筑紫君磐井と火君は敵対することとなったという。

3)今城塚古墳について:
本図に、磐井の乱で筑紫君磐井が相対した継体天皇(第26代)の墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市郡家新町)がプロットされている。
なお、宮内庁治定による継体天皇の陵(みささぎ)は三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ、大阪府茨木市太田、遺跡名:太田茶臼山古墳)であるが、歴史学界では今城塚古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。
何故、継体天皇に関わる古墳がふたつあるのか、それについては、近々、三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)と今城塚古墳を探訪する予定としており、探訪後、別の機会に綴ることとしたい。



磐井の後継者たち。
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磐井の後継者たちは乗場古墳や鶴見古墳などの大型前方後円墳を次々と築造していきます。
規模は90m前後で岩戸山古墳より小型化しますが、6世紀中頃の九州では最大級の大きさです。
乱で敗北した一族ですが、平成17年度に行われた鶴見山古墳の調査において武装石人が発見されるなど、最盛期の勢力はヤマト王権にそがれながらも、強い地域色を出しながら一族最高の機会を窺っていたようです。
(図)
左上/岩戸山古墳~釘塚古墳群位置図
下段、左(航空写真)/善蔵塚古墳
下段、央(航空写真)/乗場古墳(装飾古墳)+上段/乗場古墳の石室内部
下段、右(航空写真】/鶴見山古墳
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上述の通り、鶴見山古墳で武装石人が発見されているほか、乗場古墳でも石人が出土している。


筑紫君一族の側近者たちの墳墓?
釘崎古墳群
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筑紫君一族の側近者たちの墳墓?
釘塚古墳群
前方後円墳4基と円墳12基から成る古墳群です。
5世紀末頃に築かれた2号古墳を初代として、6世紀後半まで古墳築造が続きます。
磐井が出現する直前から筑紫君一族最後の首長墓・童男山(どうなんさん)古墳まで続くことから、磐井と共に歩み、筑紫君一族と運命を共にした被葬者たちの姿が想像できます。
なお、3号古墳からは多量の鉄製武器とともに装飾大刀も出土しており、被葬者は武官的な印象が持たれる古墳群です。
(図)
左上(航空写真):釘塚1号古墳、釘塚2号古墳
下段、左/釘塚1古号墳調査状況
下段、央/釘塚2号古墳調査状況
下段、右/釘塚古墳群位置図
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鉄から宝飾品へ。
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鉄から宝飾品へ
金属製品保有の意味
倭の五王(讃・珍・済・興・武)時代であった5世紀は、「戦いの世紀」とも呼ばれ、馬の導入、騎馬戦用の武具の出現、貫通性の高い鉄鏃など、実践的なものが多く見られます。
しかし、6世紀になると装飾付大刀や金製装身具などが重視されるようになっていきます。
これはヤマト王権に権威付けされた装飾品を身に付けることで、自己の権威を示すようになった在地首長の姿を表しています。
(図)
左、上/首長の住まいか?(南中学校校庭遺跡 11号竪穴住居)
左、下/東館遺跡 6号古墳
央、上/土器類の出土状況
央、中/鉄器・銅製品の出土状況
央、下/貝飾付銅製辻金具の出土状況
右/関連遺跡位置図(南中学校校庭遺跡、東館遺跡)
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本6号墳(真浄寺2号墳)
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5世紀後半に築造されたと考えられる直径30m超の大型円墳です。
昭和35年の調査の折、石室内から単甲2領が出土しました。
鉄製短甲や装飾付大刀などやヤマト王権から拝与されたものと考えられており、被葬者は王権との関係が深かったものと思われます。
(図)
左上/本6号墳(真浄寺2号墳)位置図
左下/本6号墳(真浄寺2号墳)全景
右下/本6号墳出土1号単甲、2号単甲・・・前話で展示の単甲、掲載
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筑紫君 胎動
豪族出現のメカニズム
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筑紫君 胎動
豪族出現のメカニズム
5世紀初頭(西暦400年頃)になると、直径30m前後の円墳を築造し、権力の象徴である銅鏡・勾玉・鉄製武器を副葬する有力者が市内域に出現します。
古墳の構造や副葬品の類似から「個人」ではなく「地域代表」として上位権力から古墳築城の許可や副葬品の授与があったものと思われます。
この有力者の更なる結合が「筑紫君」一族を生み出したと考えられ、一族は有力者連合の代表であったと考えられます。
(図)
左上/5世紀前半頃の主な古墳
左下/各古墳位置図と勢力の結集(イメージ)
右下/有力者連合代表(筑紫君)と地域代表の関係図
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図「5世紀前半頃の主な古墳」拡大版
図「各古墳位置図と勢力の結集(イメージ)」拡大版
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図「有力者連合代表(筑紫君)と地域代表の関係図」拡大版
・有力者連合代表(筑紫君)は前方後円墳
・地域代表は円墳
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石人山古墳~童男山古墳 首長墓系列
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石人山古墳~童男山古墳首長墓系列
本図には、28基の古墳がナンバリングされ、5世紀、6世紀、7世紀に区分して、図示されている。
28基すべての名称を書き下すことは割愛するが、オレンジ色の線で結ばれた古墳(首長墓系列)は次の通りである。
 1.石人山古墳(5世紀線半)前方後円墳
 6.石櫃山古墳(5世紀中頃)同上
 9.岩戸山古墳(6世紀線半)同上
10.乗場古墳(6世紀後半)同上
12.善蔵塚古墳(6世紀後半)同上
17.鶴見山古墳(6世紀後半)同上
28.童男山古墳(1号墳)(6世紀末)円墳
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上述の首長墓とされる古墳の被葬者(推定を含む)を調べてみた。
・石人山古墳:?(筑紫君磐井の祖父の墓と推定される。嘗ては、筑紫君磐井の墓に比定されていたこともあった)
・石櫃山古墳:?(筑紫君磐井の父?)
・岩戸山古墳:筑紫君磐井とされる
・乗場古墳:?(筑紫君磐井の子、葛子の墓との説がある)
・善蔵塚古墳:?(同上)
・鶴見山古墳:?(同上)
・童男山古墳:?(筑紫君磐井の嫡子、火中君の墓との説がある)



筑紫君一族の盟友たちが眠る
童男山古墳
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筑紫君一族の盟友たちが眠る
童男山古墳群
6世紀中頃から末頃に形成された古墳群で、1号墳を盟主墳とした27基の古墳で成り立っています。
熊本県北部地域に多く存在するタイプの石室が構築され、内部には同地域で特徴的な石屋形や死床、石棚状の構造が見られ、一部には石人も認められます。
被葬者たちは現在の山鹿地方から進出してきた一族と考えられ、「火国」の系統で筑紫君と関係の深い「火中君」の関係者である可能性があります。
(図)
右下/童男山古墳群全景
左上/1号墳
左中/2号墳
左下/3号墳
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前述で「火君」が登場したが、ここでは「火中君」が登場。
「火中君」についてベンキョーしようとネット検索したところ、筑紫君磐井および磐井に連なる主要人物の解説記事にヒット。
なかなか結構な記事であるので、それを引用させて貰うことにする。
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筑紫君磐井(つくしのきみいわい)
倭王武(倭の五王)の子または孫とされる。
福岡県八女市近郊を拠点として、筑紫国全体を統治していたが、磐井が直接統治していたのは筑後国一帯と考えられる。
御妻(御端)郡、御池(御毛)郡、御井郡、御原郡などの地名から、筑紫御国(つくしのみくに)と呼んだとする仮説もある。
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火中君(ひのなかのきみ)
磐井の嫡子で、磐井の反乱において磐井と共に死去。
磐井の時代、筑紫国の領土となっていた熊本県北部、火中国を統治していたと考えられる。
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筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)
磐井の子で、磐井の反乱において磐井と火中君が死去した際、粕屋屯倉を献上して助命され、筑紫君を継承した。
それ以前は、筑前国一帯を統治していたと考えられる。
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筑紫火君(つくしのひのきみ)
筑紫君磐井と火王朝の一族との間に生まれた庶子とされ、佐賀県鳥栖市近郊を拠点として、磐井の時代には筑紫国の領土となっていた肥前国一帯、筑紫火国を統治していたと考えられる。
筑紫君葛子と筑紫火君は同一人物、または筑紫火君の子とする説もある。
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古墳時代終焉の序章
八女古墳群 最後の首長墓
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古墳時代終焉の序章
八女古墳群 最後の首長墓
童男山古墳(1号墳)は推定直径48mの大型円墳です。
福岡県内3番目の長い横穴式石室を持ち、内部には石屋形と呼ばれる安置施設と石棺3基がありました。
八女古墳群では童男山古墳(1号墳)の築造直前から前方後円墳が造られなくなり、最後に大型円墳が築かれます。
以後、古墳は徐々に姿を消し、やがて古墳時代は終焉を迎えます。
(図)
上/童男山古墳位置図
下/童男山古墳(1号墳)石屋形と石棺
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童男山古墳群および童男山古墳(1号墳)については、当資料館でベンキョーするまで全く承知していなかったが、この地域において重要な古墳のひとつであることを理解した。
因みに、童男古墳群は、今回の八女古墳群探訪の中で最東端の、最後に訪ねた、釘崎1号・2号墳の東南東、直線距離にして約4kmほどのところに位置している。



「九州の豪族」から「ヤマトの臣下」へ
北部九州 兵站(軍事)基地化計画
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「九州の豪族」から「ヤマトの臣下」へ
北部九州 兵站(軍事)基地化計画
磐井の乱後、ヤマト王権は、筑紫君や火・豊国(ひ・とよのくに)等の監視のため、北部九州各地に拠点となる「屯倉(みやけ)」を設置し、国造(くにのみやつこ)として臣下となった豪族の反乱など、不測の事態に備えつつ、百済救済支援、新羅征討を継続します。
また、北部九州には乱を鎮圧した物部氏や大伴氏一族が軍事的一団を従えて進出して来るようになり、北部九州の兵站(軍事)基地としての最前線化が顕著になって来ます。
火君(ひのきみ)は得意な海上活動能力を買われ、乱後、九州各地に進出していきます。
しかし、これはヤマト王権の北部九州兵站基地化を推進するための「移住命令」であり、火国の勢力拡大のための積極的な進出ではなかったものと思われます。
(図)
図(九州全図)/オレンジ色矢印にて「火君による進出経路(推定)」を図示
左上(写真)/福岡市側から見た糸島半島(嶋郡川辺里、本岡遺跡群の位置を図示)
右上(写真)/童男古墳
右下(写真)/姫ノ城古墳(野津古墳群)
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「火君による進出経路(推定)」拡大図。
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・南の「谷津古墳群」からオレンジ色矢印はスタート
・この辺りの屯倉は春日部屯倉
・八代海から有明海を経由して、西原古墳・童男山古墳群付近を経由して、北部九州方面へ
・八代海から天草灘を北上し、壱岐水道を経由して、北部九州方面、嶋郡川辺里、元岡遺跡群方面へ



地域支配の拠点「屯倉」の設置
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地域支配の拠点「屯倉」の設置
磐井の乱後、ヤマト王権は地方支配の一環として、各地に地域支配の拠点となる「屯倉」を設置しました。
磐井の子「葛子」が献上した糟屋の屯倉を含め、その数は筑紫・火国・豊国だけで9ヶ所にのぼります。
王権側は屯倉を核とした地域生産力の取り込みを図ると同時に、後の古代官道につながる地域間ネットワークを整備し、物や人の交流を促進しながら地方への睨みを効かせていました。
(図)
安閑期までにおける九州の屯倉比定地・候補分布図
(筑紫)那津官家、糟屋屯倉、穂波屯倉、鎌屯倉
(豊)腠碕屯倉、大抜屯倉、肝等屯倉、我鹿屯倉、桑原屯倉
(火)春日部
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(筆者注)
※糟屋屯倉は26代継体天皇時代
※那津官家は28代宣化天皇時代
※その他の屯倉は27代安閑天皇時代
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磐井の末裔たち
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磐井の末裔たち
磐井の乱後、岩戸山古墳に続き、善蔵塚・鶴見山・童男山古墳など首長墓と呼べる大型古墳が築造されており、筑紫君一族は滅亡することなく継続したものと思われます。
日本書紀 天智10年(671年)の場には筑紫君一族である「筑紫君薩野馬(さちやま)」の名称を見ることができ、乱後約150年ほど経過した後でも筑紫君一族は脈々と影響力を行使していることが分かります。
(図)
日本書紀(原本)
日本書紀(原本)抜粋(筑紫君薩野馬記述部分)
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日本書紀(原本)
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八女 古墳時代の生き証人
立山山古墳群
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八女 古墳時代の生き証人
立山山(たちやまやま)古墳群
5世紀~6世紀にかけて造られた42基の古墳からなる古墳群です。
弥生時代からの墓制である箱式石棺系石室のほか、竪穴・横穴式の石室など多彩な形態の石室が見られ、八女市域の古墳時代全期間に関わった古墳群です。
8号墳出土の金製垂飾付耳飾は極小の金細工が見られ、朝鮮半島で製作されたものと考えられます。
八女と海外で活発な交流をしていたことを示す貴重な一品です。
(図)
左上/立山古墳群位置図
下/発掘調査時の立山山古墳群
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海外交流の証し
金製垂飾付耳飾
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海外交流の証し
金製垂飾付耳飾
立山山古墳群8号墳から出土した垂れ飾りが付く純金に近い金製の耳飾りです。
細金細工の技法を用いて中間飾りや垂下飾り部分の表面に非常に細かい金粒を吹き付けた見事な金粒細工が見られます。
6連の鎖部分を二重にするなど複雑ながらも精巧なつくりとなっています。
この耳飾りは朝鮮半島南部周辺で製作され、日本国内に持ち込まれたものと考えられます。
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立山山古墳群8号墳出土/金製垂飾付耳飾。
前話掲載の出土品でも登場したが、今一度、トリミング図にて。
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立山山古墳群/発掘調査時の航空写真(パネル資料からの切り抜き拡大版)。
43基からなる古墳群で、円墳数基が写っている。
金製垂飾付耳飾が出土した8号墳はひときわ大きく、盟主的古墳と見て取れる(直径は不明)。
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この地方を語るとき、筑紫磐井君や岩戸山古墳、磐井の乱に目が向きがちとなるが、数々の資料でそれ以外についても多くのことを知ることとなった。
殊に、ベンキョーになったのは;
・首長系列墳墓について
・磐井の乱以降の一族について
・今回、探訪予定に入っていない、童男山古墳群や立山山古墳などについて
であった。

次のコーナーへと進む。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:38 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/岩戸山古墳(Ⅲ)』 kk-37

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

八女古墳群を西から東へ。
「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。
続いて、岩戸山古墳へ。岩戸山古墳。隣接の「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」を見学。
先ず、筑紫君磐井とヤマト政権の関わりについて、パネル資料でベンキョー。
続いて、石人・石馬などの石製品を見学。
続いて、埴輪や装飾品などの出土品を見学。

埴輪。
人物埴輪3点
右/壺を持つ女子 古墳時代 6世紀 立山山13号墳出土
央/美豆良(みずら)を結った人物 古墳時代 6世紀 立山山8号墳出土
左/鞍に乗った貴人 古墳時代 6世紀 立山山13号墳出土
(注:展示パネルは無関係にてモザイク)
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壺を持つ女子 
古墳時代 6世紀 立山山13号墳出土
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美豆良(みずら)を結った人物 
古墳時代 6世紀 立山山8号墳出土
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鞍に乗った貴人 
古墳時代 6世紀 立山山13号墳出土
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少しアップで。
貴人の風貌である。
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馬形埴輪3点
右/馬形埴輪 古墳時代 6世紀 立山山8号墳出土
央/馬形埴輪 古墳時代 6世紀 カクチガ浦10号墳
左/馬形埴輪 古墳時代 6世紀 岡寺古墳出土
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前話で「これまで、各地で、人物埴輪、動物埴輪、器財埴輪、家形埴輪などの形象埴輪を見分してきたが、ここ、『八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷』において、ヤマト政権に対抗して、埴輪に代わる、巨大な石人・石馬などの石製品を製作した九州豪族の<心意気>を見た気がした。つらつら考えるに、埴輪を製作するには、素材の土に加え、窯をつくる必要がある。一方、この地においては、阿蘇溶結凝灰岩が容易に手に入ることから、石製品も容易に製作できたのであろう」と綴った。
ということで、巨大な石製品に目が向いてしっていたが、埴輪も製作されていたのである。

続いて、装飾品などの出土品を見学。
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展示物の幾つかをハイライトして。

右/人物埴輪頭部 古墳時代 6世紀 乗場古墳出土
左/単鳳環頭大刀柄頭(たんほうかんとうたちつかかしら) 同上
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右/馬具破片 古墳時代 6世紀 鶴見山古墳出土
左/銅鏡破片(ヒメクロバエ蛹跡付着)古墳時代 6世紀 鶴見山古墳出土
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左、下段の解説文に目を通す。
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殯(もがり)とヒメクロバエの蛹跡
「殯」は今のお通夜と同じで、亡き人をあの世に送る儀式です。
ただ、現代と異なるのは2週間ほど遺骸をそのままにしておくことです。
遺骸はすぐに腐食し、身体全体をウジが覆います。
やがてウジは蛹になりますが、この蛹跡はその痕跡なのです。
この後、遺骸は石室に入れられますが、この光景は日本書紀 神代 上「黄泉の国」に書かれているイザナミのウジだらけの姿が思い出されます。
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各地の資料館で、棺と棺に納められた被葬者の姿を再現したレプリカを見ることがある。
被葬者は衣服や髪を整え、被葬者の周辺には副葬品が置かれている。
しかし、この「殯(もがり)とヒメクロバエの蛹跡」の解説文を読むと、レプリカとは大いに異なるイメージとある。

短甲 古墳時代 5世紀 本6号墳出土
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昨年4月、群馬県渋川市の遺跡探訪の際、群馬県埋蔵文化財センター/発掘情報館に立ち寄った。
金井東裏遺跡(群馬県渋川市)で発見された、榛名山の6世紀初頭の火砕流で埋まった「甲(よろい)を着た古墳人」を見学した。
以来、「甲(よろい)」を見ると、「甲を着た古墳人」の、地面に跪き、祈るような姿を思い出すのである。
そんなこともあって、「短甲」をアップで。
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出土品3点
上段、右/鏡板付轡上段、 古墳時代 6世紀 釘崎3号古墳出土
上段、左/轡 同上
下段/鉄鏃 同上
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出土品3点
上段、右/辻金具 古墳時代6世紀 釘崎3号墳出土
上段、左/平縁四乳文鏡(ひらぶちしにゅうもんきょう)同上
下段/単龍環頭大刀(たんりゅうかんとうたち)同上
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大刀の環頭をアップで。
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出土品4点(馬具)
上段、右/鞍金具 古墳時代 6世紀 東館遺跡6号墳
上段、央/金銅製杏葉(ぎょうよう) 同上
上段、左/鉸具(かこ) 同上
下段/貝飾付銅製辻金具 同上
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馬具の種類と名称
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出土品
上段/鉄地金銅張帯金具 古墳時代 6世紀 東館遺跡6号墳出土
下段、右/ガラス玉 同上
下段、左/銅地金金張耳環 同上
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出土品
鏡板付轡 古墳時代 6世紀 南中学校校庭遺跡出土
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出土品
上段、右/猿面 古墳時代 6世紀 立山山8号墳出土
上段、左/人物埴輪(頭部) 古墳時代 6世紀 立山山13号古墳
下段、右/イレズミのある人物 同上
下段、左/人物埴輪(右手) 同上
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出土品
上段、右/鉸具(かこ) 古墳時代 6世紀 立山山8号墳出土
上段、央/轡 古墳時代 6世紀 立山山13号墳出土
上段、左/鞖(しおで) 同上
下段、右/鎌 同上
下段、左/挂甲小札(けいこうこざね)古墳時代 6世紀 立山山8号墳出土
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出土品
上段、右/銅地金張耳環 古墳時代 6世紀 立山山13号墳出土
上段、左/同上
中段、央/金製垂飾付耳飾 古墳時代 6世紀 立山山8号墳出土
下段、右/銅地銀張耳環 古墳時代 6世紀 牛焼谷3号墳出土
下段、央、右/水晶製切子玉 立山山8号墳出土
下段、央、左/銅地金張耳環 古墳時代 6世紀 牛焼谷1号墳出土
下段、左/銅地金張耳環 古墳時代 6世紀 岩戸山4号墳出土
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出土品
上段、右/直口壺 古墳時代 6世紀 立山山13号墳出土
上段、央/はそう(漢字は「瓦」に「泉」) 同上
上段、左/提瓶(さげべ) 同上
下段、右、央/坏身・坏蓋(つきみ・つきふた) 同上
下段、左/子持ち壺 同上
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右/器台 古墳時代 6世紀 立山山13号墳出土
央/馬の透かしのある器台 同上
左/器台 古墳時代 6世紀 八女古墳群出土
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石製品と埴輪が鶏形と猪形で<揃い踏み>。
こうした展示の仕方は、埴輪と石製品の見比べが出来るので、なかなかよい。
奥から、猪形埴輪、鶏形埴輪・水鳥形埴輪、石鳥、石猪?、水鳥石。
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鶏形・水鳥形埴輪(右)と鶏石(左)。
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鶏形埴輪・水鳥形埴輪
上段、右/鶏形埴輪 古墳時代 6世紀 岡寺古墳出土
上段、左/鶏形埴輪 古墳時代 6世紀 岩戸山古墳出土
下段/水鳥形埴輪 古墳時代 5世紀 伝 石人山古墳出土
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鶏形・水鳥形埴輪をアップで。
鶏形埴輪は岡寺古墳出土(右)と岩戸山古墳出土(左)で、出土古墳は異なるが、親子のように見えて、気に入っている。
水鳥形埴輪は小動物のように見え、角度を変えて撮ってやればよかっと、ちょいと後悔。
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石鶏
古墳時代 6世紀 岩戸山古墳隣接地出土
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石鶏をアップで。
埴輪に比べ、石鶏は厳しい面立ち。
耳は線刻でしっかりと表現されている。
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猪形埴輪
右/古墳時代 6世紀 立山山8号墳
左/古墳時代 6世紀 岡寺古墳出土
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石猪?
古墳時代 6世紀 岩戸山古墳付近個人宅敷地内出土
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石水鳥
古墳時代 6世紀 岩戸山古墳出土
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知らない古墳が登場した。
調べてみた。
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立山山古墳群(福岡県八女市本字立山・・・八女古墳群の南側一帯)
・5世紀~6世紀
・総数40基以上が確認されている。
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カクチガ浦10号墳(福岡県筑紫郡那珂川町)
・5世紀中葉~後半
・円墳
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岡寺古墳(佐賀県鳥栖市田代本町)
・6世紀前半
・前方後円墳
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本6号墳(=真浄寺2号墳、八女市本)
・本古墳群、7基のうちのひとつ
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東館遺跡6号墳
※住所は不明
※パネル資料の中に位置図あり・・・第38話で掲載
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南中学校校庭遺跡(福岡県八女市馬場)
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牛焼谷1号・3号墳
※所在地不明
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このコーナーで、最も興味深かったのは;
・銅鏡破片(ヒメクロバエ蛹跡付着)
・解説文「殯(もがり)とヒメクロバエの蛹跡」
・鶏、水鳥、猪などの石製品と埴輪の並列展示
・八女古墳群の南側に40数基からなる立山山古墳群の存在
など。

次のコーナーへ。

フォト:2018年10月20日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:37 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/岩戸山古墳(Ⅱ)』 kk-36

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

八女古墳群を西から東へ。
「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。
続いて、岩戸山古墳へ。

岩戸山古墳。
隣接の「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」を見学。
先ず、筑紫君磐井とヤマト政権の関わりについて、パネル資料でベンキョー。
続いて、石人・石馬などの石製品の展示コーナーへ。

「第Ⅲ章 磐井と石人・石馬」。
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磐井と石人・石馬
筑紫君一族がヤマト王権と関係を深めていく中で、
磐井は北部九州を結束させる程の
強大な影響力を持つようになります。
全国の古墳に見られる「埴輪」を立てるのではなく、
被葬者を守る役目を持つ凝灰岩製の
石製品「石人・石馬」を数多く樹立させるなど、
九州古墳文化の独自性を強く表現するようになります。
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右下のイラスト/石人を製作する石工は「石人・石馬は埴輪以上の圧倒感を出しながら、ヤマト王権との違いを表現しつつ、仲間との結びつきを確認する大事な舞台装置だったんだ」と語っている。
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石人、石馬、石盾、石靫など大型石製品。圧巻の展示。
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武装石人
古墳時代 6世紀 鶴見山古墳出土
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武装石人の背面
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武装石人頭部
古墳時代 6世紀 伝 岩戸山古墳出土
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石馬
古墳時代 6世紀 伝 岩戸山古墳出土
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石馬の「鞍」、「鐙」をアップで。
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石馬の「杏葉(ぎょうよう)」をアップで。
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石馬
頭と脚、尻の端部は欠損しています。
首から胴にかけての曲面、丸みをおびた腹から続く大腿部と尻の力強い筋肉、馬鐸(馬に付け、馬の歩みによって音を出す)、鐙(足を乗せるための馬具)、手綱、鞍、杏葉(馬の胸や尻の部分につける装飾物)が浮彫で表現されています。
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石盾
古墳時代 6世紀 岩戸山古墳出土
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石盾
表面には、ノミのあとが残り、側面には赤色顔料が確認できます。
大正時代に、岩戸山古墳の後円部と別区の接合部の□□で東西通路を□□した際に、周堤部分から出土したと伝えられています。
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石靫(いしゆき)
古墳時代 6世紀 岩戸山古墳出土
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石製品5点+パネル資料「凝灰岩の生い立ち」
上段、左/石刀、右/石靫(いしゆき)
下段、左/石刀、央・右/勾金(まがりかね)
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石製品5点を代表して「勾金(まがりかね)」をアップで。
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勾金(まがりがね)
大刀の柄(つか)は、柄頭(つかかしら)、握る部分の柄間(つかあい)、柄縁(つかふち)に分けられます。
柄の側方には手の甲を保護するために柄頭から、柄縁にかけて渡した細板状の帯を勾金と呼びます。
岩戸山古墳の石製表飾品の勾金には三輪玉の装飾が施されています。
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「凝灰岩の生い立ち」
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凝灰岩の生い立ち
形成のメカニズムと用途
凝灰岩とは、噴火活動によって噴出したマグマにより発生した火砕流や火山灰が谷に堆積し、高温・高圧により溶けて固結することで形成される岩石をさします。
九州では阿蘇山の噴火により形成されるため、阿蘇溶結凝灰岩や阿蘇の灰石(はいいし)と呼ばれています。
凝灰岩は比較的軽く、加工も容易であることから、現在でも石燈篭や石像、オブジェなど幅広い用途に用いられています。
(図)
左上/凝灰岩分布図
下段/火砕流・噴火の概念図
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石製品3種+パネル資料「九州結束の証し」
右から、石蓋(いしきぬがさ)、石壺、石獣胴部
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石蓋(いしきぬがさ)
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石蓋(いしきぬがさ)
貴人に差しかざす、柄の長い笠を表現したものと思われます。
下部内側には、柄を差し込むためと思われる窪みが施されています。
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石壺
古墳時代 6世紀 岩戸山古墳出土
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石獣胴部
古墳時代 6世紀 岩戸山古墳出土
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「九州結束の証し」
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九州結束の証し
5世紀前半頃、初代筑紫君と思われる石人山古墳の被葬者は石人に象徴的な意味合いを見出し、同族結束の証として石人を用い、視覚的にも結束を再認識することを目的として古墳祭祀に採用したものと考えられます。
石人・石馬は、筑紫君一族のシンボルであり、有明海沿岸を拠点とする豪族のシンボルでもあったのでしょう。
(図)
有明海沿岸地区の石製品分布図
▲: 単甲・人物をモデルとする石製品を示す
● :盾形・笠形をモデルとする石製品を示す
・西原古墳(佐賀県佐賀市) ▲
・岩戸山古墳(福岡県八女市) ▲● 
・石人山古墳(福岡県八女郡広川町) ▲
・石神山古墳(福岡県みやま市) ▲
・白塚古墳(?) ▲
・三の宮古墳(熊本県荒尾市) ▲
・清原(せいばる)古墳群(江田船山古墳など、熊本県玉名軍和水町) ▲ 
・チブサン古墳(熊本県山鹿市) ▲
・フタツカサン古墳(=木柑二ッ塚(きこうじふたつづか)古墳、熊本県菊池市) ▲ 
・富ノ尾古墳群(熊本県熊本市) ▲
・北原1号墳(?) ▲●
・石ノ室古墳(熊本県熊本市) ▲●
・竹島3号墳(?) ▲●
・天堤古墳(熊本県八代郡氷川町) ▲●
・姫ノ城古墳(熊本県八代郡氷川町) ▲●
=備考=括弧内記載の古墳所在地などは、筆者の調べによる。
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トリミング図。
石製品のイラスト鑑賞用として。
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力士の石人2点+資料パネル「ナゼ、岩戸山古墳に多いのか?」
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右/力士の石人(上半部)
古墳時代 6世紀 伝 岩戸山古墳出土
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力士の石人
上半部のみが残り、頭部、両腕、下半部は欠損しています。
下腹部の形や、胸部の線刻から力士が想像できます。
首回りや脇腹付近には、赤色顔料が残っています。
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褌をした力士(腰部~脚部)
古墳時代 6世紀 伝 岩戸山古墳出土
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武装石人2点
左/武装石人、右/刀を帯びた石人
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石人、2点
右/裸形の石人、左/正座した裸形の石人
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正座した裸の石人を斜めから(確かに、正座している)
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前掲の、壁際展示の、石製品を見渡す。
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これまで、各地で、人物埴輪、動物埴輪、器財埴輪、家形埴輪などの形象埴輪を見分してきた。ここ、「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」において、ヤマト政権に対抗して、埴輪に代わる、巨大な石人・石馬などの石製品を製作した九州豪族の<心意気>を見た気がした。
つらつら考えるに、埴輪を製作するには、素材の土に加え、窯をつくる必要がある。一方、この地においては、阿蘇溶結凝灰岩が容易に手に入ることから、石製品も容易に製作できたのであろう。

石製品の展示コーナーから、埴輪、装飾品などの出土品展示コーナーへ。


フォト:2018年10月20日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:36 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/岩戸山古墳(Ⅰ)』 kk-35

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

九大本線筑紫吉井駅発、久留米経由、鹿児島本線西牟田駅で下車。
先ず、八女古墳群のうち、西側に位置する「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。
続いて、八女古墳群を西から東へ順に。
次は、岩戸山古墳を目指す。
資料館で貰った「八女古墳群マップ」に従い、茶畑の中を通る一本道を爽快ポタリング。

岩戸山古墳に到着!
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岩戸山古墳周辺マップを眺める。
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マップには次のような解説が記されている。
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岩戸山古墳
北九州最大規模の前方後円墳!
筑紫君磐井が築いたお墓だといわれています。
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別区
岩戸山古墳の北東にある正方形のエリア。
「筑後国風土記」(逸文)には、ここで裁判が行われた様子が書かれています。
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墳丘と別区の図をアップで。
この図は、下が北、上が南で描かれている。
180度、時計回りに回転させると上が北となり、墳丘の向きや別区の方位がイメージし易い。
即ち、前方部を西、後円部を東とした前方後円墳であり、別区は後円部の北東に位置している。
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今年4月、遠賀川流域装飾古墳をめぐった際、竹原古墳(宮若市)を探訪。
そのとき、竹原古墳の被葬者は筑紫君磐井に連なる人物と推定されるとの話を聞いた。
この話を聞き、機会があれば、被葬者は筑紫君磐井とされる岩戸山古墳も是非訪ねたいと思い、今般、その願いが叶うこととなったのである。

説明板に目を通す。
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国指定史跡 八女古墳群
岩戸山古墳
指定年月日 昭和30年12月23日
(名称変更 昭和53年3月24日)
所在地 八女市吉田字甚三谷

八女丘陵は東西10数kmにおよぶ丘陵である。
この丘陵上には12基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。
八女古墳群のぼぼ中央に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135m、東側の後円部径約60m、高さ約18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり、周濠、周堤を含めると全長約170mになる。
墳丘は二段築造で、内部主体は未発掘のため不明である。
古墳の北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している。
岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527年)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓であり、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。
古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰岩でつくられた多量の石製品が埴輪とともに出土している。
種類も人物(武装石人、裸体石人など)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?犬?など)、器材(靱・盾・刀・坩・蓋・翳など)があり、円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。
石製品は埴製(土)を石製に代え、さらに実物大を基本とした所に特徴がある。
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今年4月、テレビの放送大学「日本の古代中世」で;
第1回「古代・中世史への招待」
第2回「日本列島の原始から古代へ」
第3回「律令国家への道」
第4回「律令国家と天平文化」
をベンキョー。

第2回「日本列島の原始から古代へ」の内容は「岩宿・三内丸山・吉野ヶ里遺跡など、旧石器・縄文・弥生時代の発掘成果から列島の社会像を見直し、中国史書が伝える歴史像と突き合わせる。また、古墳時代の稲荷山古墳鉄剣や『宋書倭国伝』が語る列島像を、磐井の戦いにみる国際関係とともに再検討し、倭国の大王と地方豪族との関係を複眼的に見直す」というものであった。
磐井の戦いに関わる解説と共に、佐藤信放送大学客員教授は岩戸山古墳へ赴き、現地での解説もあった。
このとき、別区なるものがあることを知り、まことに興味深く拝聴したのであった。

そうしたこともあり、この説明板の内容はスッと頭の中に入った。

説明板掲示の航空写真をアップで。
この航空写真の方位は、下が北、上が南となっている。
180度、時計回りに回転させると上が北となり、墳丘の方向や別区の位置の方位がイメージし易い。
即ち、前方部を西、後円部を東とした前方後円墳であり、別区は後円部の北東に位置している。
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いつも迷うこと、それは、古墳を先に見分するか、隣接の資料館(八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷)を先に見学するかである。
時刻は丁度12時、昼餉時。
古墳見分、資料館見学、いずれを先にするかの前に、先ず、腹拵え。
資料館の中庭のベンチで、コンビニ握り飯とお茶で昼餉。

先ほど、石人山古墳・弘化谷古墳では、先に現場を見分し、そのあと、資料館を見学したので、今度は先に資料館を見学し、そのあと、現場を見分することとなった。

「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」。
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筑紫君磐井像。
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館内に入る。

ロビー。
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「磐井とその一族」。
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「磐井とその一族」
これは福岡県立福島高校の教員であった井上自助氏が磐井の乱直前の筑紫君磐井一族を描いた作品です。
手前に描かれている四人の人物は磐井とその一族で、その向こうに岩戸山古墳、背景には飛形山と矢部川が描かれています。

この作品に描かれている完成間近の岩戸山古墳を見ると、たくさんの人たちがその築造に携わっていたのがわかります。
当時、これほど多くの人たちを従える権力をもっていた磐井はどんな人物だったのでしょうか。
展示室に展示されている出土品や伝承が、磐井という人物や時代の変化を考える手がかりを、現代に生きる私たちに伝えてくれます。

※井上自助氏は、明治45年(1912年)福岡県に生まれ、昭和6年(1931年)東京美術学校(現東京芸術大学)入学。卒業後は教鞭ととりながら、揮毫活動を続け、昭和23年(1948年)福岡県立福島高校に赴任、創元会へ入会。昭和45年(1974年)第6回日展特選を受賞、翌年創元会常任委員となり、昭和61年(1986年)に逝去。この作品は井上氏が福島高校在職中に描かれたもの。
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展示パネルや展示物をゆるりと見学する。
すべてをここで紹介することはできないが、興味深いと思ったものをピックアップして掲載しておきたい。
なお、一部、順不同の掲載となっているが、大きく分けて;
◇筑紫君磐井とその支配地域について
◇岩戸山古墳および周辺古墳について
◇石製装飾品(石人・石馬など)について
◇磐井の乱について
◇朝鮮半島との関わりについて
となる。

第Ⅰ章 八女英雄伝説への招待
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プロローグ
筑紫君一族と大首長 磐井
八女には、かつて九州を代表する大豪族 筑紫君一族がおり、
八女北部の丘陵地に大きな古墳を次々と築きました。
中でも磐井はその絶頂期に活躍し、九州の諸豪族と連携しながら
朝鮮半島との海外交流を行っていました。
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「有明海を制す!筑紫君 始動」。
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有明海を制す!
筑紫君 始動
倭王武(雄略天皇)の上表文や日本書紀には、中国への渡航ルートや国際港湾としての有明海の姿が記述されています。
5世紀中頃、高句麗と百済の戦争により玄界灘から大陸への渡航ルートの一部が遮断され、有明海の重要度が飛躍的に上がりました。
既に地場で盟主となっていた筑紫君一族は、有明の制海権を握ることで次第に巨大豪族になったものと推定できます。
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パネル図、拡大版。
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本図では、大陸への渡航ルートが示されているほかに、朝鮮半島南部に矢印で「栄山江周辺の前方後円墳密集地域」と図示されている。

今年3月、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)で企画展「世界の眼で見る古墳文化」を見学した。
この企画展では、世界の、そして、日本の墳墓について言及する中、朝鮮半島の墳墓についても言及していた。
ざくっと言えば;①日本の前方後円墳は半島から伝わったものではなく、日本独自のものであり、②半島の墳墓は日本の前方後円墳に類似して部分が多く、日本の手法を基に築造されていると考えられる、ということであったと記憶する。

この企画展の図録が手元にあるので、該当ページを紐解いてみた。
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朝鮮半島の墳墓
◇高句麗・・・転載割愛
◇百済・・・・同上
◇新羅・・・・同上
◇伽耶諸国・・・同上
◇栄山江流域(馬韓)
朝鮮半島の西南部、栄山江流域では5世紀中頃になると、大型の墳丘を有する古墳(方台形墳)造営されはじめる。
この古墳は時には10基をこえるような複数の埋葬史跡をひとつの墳丘に設置する独特なもので、「多葬墳」と呼ぶ場合がある。
例えば、羅州伏岩里3号墳では、3世紀代の低墳丘の甕棺墓からはじまり、6世紀後半から7世紀に至るまで、継続して墳墓を営んでいた。
このような多葬墳の存在が、栄山江流域の特徴であり、北方の百済とは別の政治体(馬韓?)が営んでいた墓制であった可能性が高い。

もうひとつの特徴としては、5世紀後半~6世紀前半頃に、各地で前方後円墳が営まれる点である。
現在のところ、13基程度が確認されている。
埴輪の樹立、九州北部に系譜を求めうる横穴式石室、多種多様な倭径の副葬品からみて、当時の倭との交流の中で築造されたことは確かである。
ただし、冠や飾履などの装身具、釘や飾り金具を用いた木棺など百済中央との関わりをうかがわせる要素もある。
また、埴輪の製作に在地の土器工人が関わっている点、九州北部と関わるが独特な石室構造もある点など、在地的な要素も認められる。

(掲載写真)
・栄山江流域の有力者の墓/伏岩里3号墳(大韓民国全羅南道羅州市)
・栄山江流域の前方後円墳/新徳古墳(大韓民国全羅南道咸平郡)
・栄山江流域の有力者の墓/伏岩里丁村古墳(大韓民国全羅南道羅州市)
・栄山江流域の前方後円墳に樹立した埴輪/チャラポン古墳(大韓民国全羅南道霊岩郡)出土
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最好きなウィキペディアを参照したところ、次の通りである。
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朝鮮半島南部の前方後円形墳
本項では朝鮮半島南部の前方後円形墳、すなわち朝鮮半島南部の大韓民国(韓国)全羅南道・全羅北道に分布する、日本列島の前方後円墳と同じ墳形の古墳について解説する。
これらの古墳は、日本側では「前方後円墳」・「前方後円形墳」、韓国側では「前方後円墳」のほか楽器のチャング(長鼓)になぞらえ「長鼓墳」などと表記される。
日本列島の前方後円墳との間には類似点・相違点が存在することから、以下本項では「前方後円形墳」の表記で区別して解説する。

朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。
これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、当時の日本列島と朝鮮半島の政治的・経済的・文化的状況を表す事例として注目される。
古墳の構造は、前方後円形という概形こそ各古墳で共通するものの、墳形の寸法や外表施設・埋葬施設の点では個々で相違し、画一的ではない。
発掘調査では、外表施設として一部の古墳に周堀・段築・葺石・埴輪・木製品が存在することや、埋葬施設として一部に九州系横穴式石室の要素が存在することが判明し、これらは日本列島の前方後円墳とも共通する。
しかし、それら墳丘・施設は列島のものの模倣に近く、また副葬品には倭(日本)系・百済系・大加耶系の文物が混在する点で、特定地域に限らず様々な地域との交渉を反映した多義的な様相が認められている。
前方後円形墳の分布する栄山江流域は、文献史学的には史料が乏しく当時の情勢が不明な地域になるが、考古学的には当時の倭・百済・加耶のいずれとも異なる独自の在地系勢力(馬韓残存勢力)が存在した地域とされる。
そして、この在地勢力が百済の支配下に入る時期(6世紀中頃)の前段階において、在地系の高塚古墳と列島系の前方後円形墳の2つの墓制が展開した。
しかし、栄山江流域は日本列島と連続する地域ではないほか、一帯では列島からの大量移住の形跡もなく、各前方後円形墳自体も1世代のみで築造を終焉するため、このような列島系の墳形が築造された背景は依然詳らかでない。
現在も、被葬者としては、在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれて議論が続くトピックになる。
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国立歴博の企画展図録、ウィキペディアとも、断定的なことは書かれていないが、朝鮮半島南部の前方後円形墳は倭(列島)の影響を受けていると、改めてその説を認識した。

前方後円墳は日本独自のものであることに異論はないが、いつも疑問に思うことは、前方後円墳を含む本邦の古墳の設計と築造監督は渡来人の知識に負うところが大という説もあり、となれば、何故、半島の墳墓を模倣したものにならなかったのかということである。
その答えとして、ヤマト王権、或いは、地方豪族の首長は、自らが考える墳墓の形を渡来人の力を使って具現化したと思いたい。


「朝鮮半島 派遣争奪戦 ヤマト王権の思惑と外交戦略」
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朝鮮半島 派遣争奪戦
ヤマト王権の思惑と外交戦略
当時の朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅、伽耶諸国があり、半島の派遣を争う動乱の時期でした。
大陸の文化・情報を百済から一元的に受けていたヤマト王権は九州で徴発した兵士や軍船を度々送るなど、対新羅を目的とした軍事援助を行っていました。
良質の鉄を産出し、友好関係にあった伽耶諸国にも援助を行い、百済支援と生命線である鉄の入手ルート確保に全力を注ぐため、地方支配の仕組みづくりを急いでいました。
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「筑紫君の命運をかけた一戦」
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筑紫君の命運をかけた一戦
磐井の乱に込められた九州豪族の思い

度重なる百済支援のため、九州に要求される兵・船・馬などの軍事挑発、強まる地方への支配体制、磐井は遂に立ち上がり、火国・豊国と共にヤマトの軍勢に刃を向け、ここに古代史上最大の内乱「磐井の乱」が勃発します。
日本書紀は「旗や鼓が相対し、塵芥入り乱れ、互いに必死に戦った」と、壮絶な戦闘であったことを記しています。
戦いは、結果としてヤマト王権側の勝利で終結します。
磐井の無念を残したまま。
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年表。
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520年 この頃、北部九州最大の前方後円墳である「岩戸山古墳」が築造される
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526年 継体大王(天皇)、磐余玉穂宮(現・奈良県桜井市)に宮を遷し、ようやく大和入りを果たす
=心覚え=
継体天皇について
・誕生:古事記/485年、日本書紀/450年(允恭天皇39年)? 、近江国高嶋郷三尾野(現・滋賀県高島市)
・崩御:古事記/527年、日本書紀/531年または534年 ?
・在位:第26代天皇、507年 ? - 531年または534年 ?
・諱:男大迹(ヲホド)
・『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)
・『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、別名で彦太尊(ひこふとのみこと)
・『筑後国風土記』(逸文)では雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」
・『上宮記』(逸文)では乎富等大公王(をほどのおおきみ)
・漢風諡号「継体天皇」は、代々の天皇とともに、淡海三船(おうみのみふね)により、熟語の「継体持統」から継体と名付けられたという。
・「継体」とは、傍系王族が皇位を継いだという意味があるという。
・即ち、15代応神天皇の5世孫で、越前国を治めていたが、25代武烈天皇は後嗣を残さずして崩御したため、中央の有力豪族の推戴(すいたい)を受けて即位したとされる(諸説ある中の一説)。
・皇居:
 507年2月?、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
 511年10月?、筒城宮(つつきのみや、現・京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。 
 518年3月?、弟国宮(おとくにのみや、現・京都府長岡京市今里付近か)に遷す。 
 526年9月?、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現・奈良県桜井市池之内か)に遷す。 
 この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは晩年の5年のみである。 
 年表の「ようやく大和入りを果たす」はこれを意味する。
・陵:
 宮内庁治定/三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ、大阪府茨木市太田、遺跡名:太田茶臼山古墳)
 歴史学界/今城塚古墳(大阪府高槻市郡家新町)
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527年6月 「磐井の乱」勃発
同年 加羅諸国救援のため、ヤマト王権から派遣された近江毛野臣(おうみのけなのおみ)軍の進路を磐井が妨害する(日本書紀)

同年8月、継体大王、物部麁鹿火(もののべのあらかび)を将軍とし、磐井の征討にあたらせる(日本書紀) 
528年11月 筑紫の御井(現・久留米市御井付近)にて決戦。磐井は敗れ、斬られる(日本書紀)
※「筑後国風土記」(逸文)には、現・豊前市付近の山中に逃げ延びた、とある。

同年12月 筑紫君葛子(ちくしのきみくずこ)、糟屋屯倉(かすやのみやけ、現・福岡市東区~古賀市周辺)を献上し、死罪を免れる(日本書紀)
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この頃、北部九州で装飾古墳が多く見られるようになる
(541年~548年)「磐井の乱」後、乗場古墳(八女市)、善蔵塚古墳(広川町)、鶴見山古墳(八女市)の大型前方後円墳が丘陵上に次々に築造される
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「文献が記す、異なる2つの結末」
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文献が記す、異なる2つの結末
郷土民の磐井への想い
西暦527年に始まり、1年半にも及んだ戦いは御井郡(現久留米市)において最終決戦が行われました。
磐井は斬られ、反乱は鎮圧されたと日本書紀に記されています。
他方、地方の産物や伝承を記録した「筑後風土記」の逸文では豊前国の山深い地に逃れた、と記しています。
「磐井を生かしておきたい。」という郷土の人たちの想いがあったのでしょうか。
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『日本書紀 継体紀二十二年十一月・十二月条』
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日本書紀
継体紀二十二年十一月・十二月条

二十二年の冬十一月(しもつき)の甲寅(きのえとら)の朔(ついたち)甲子(きのえね)に、大将軍(おほきいくさのきみ)物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかひ)、親(みづか)ら賊(あた)の帥(ひとごのかみ)磐井と、筑紫の御井郡(みゐのこほり)に交戦(あいたたか)ふ。
旗(はた)鼓(つづみ)相望(あいのぞ)み、埃塵(ちり)相接(あいつ)げり。
機(はかりごと)を両(ふた)つの陣(いくさ)の間(あひだ)に決(さだ)めて、萬死(みをす)つる地(ところ)を避(さ)らず。
遂(つひ)に磐井を斬(き)りて、果して橿場(さかひ)を定む。

十二月(しはす)に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父(かぞ)のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐(おそ)りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を獻(たてまつ)りて、死罪(しぬるつみ)贖(あが)はむことを求(まう)す。
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磐井の乱の経緯の概略は、『日本書紀』によれば、次のとおりである。
・ 527年(継体21年)6月、ヤマト王権の継体天皇は、新羅に奪われた加羅諸国救援のため、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)軍を派兵。
・新羅を含む半島諸国と交流のある磐井は、ヤマト王権軍に対し、挙兵、火の国と豊の国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖し、ヤマト王権軍の進軍を阻み、交戦。
・同年8月、ヤマト王権は、物部麁鹿火(もののべのあらかび)を将軍とする平定軍を派兵。
・ 528年(継体22年)11月、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡にて交戦、磐井軍は敗北し、磐井は斬られた。
・同年12月、磐井の子、筑紫君葛子は糟屋の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。

ここで気になることは、『日本書紀』の「遂(つひ)に磐井を斬(き)りて、果して橿場(さかひ)を定む」の中の「果して橿場(さかひ)を定む」という記述である。
「橿場(さかひ)を定む」とは「国境を定める」ということである。
これはヤマト王権側についた「火の国」や「豊の国」との国境ということであろう。
国境を定め、且つ、磐井の子、筑紫君葛子は糟屋の屯倉をヤマト王権へ献上し、一族は安堵され、その後はヤマト王権の支配下に入ったのである。
ということは、ヤマト王権は磐井の討伐に赴いたのではなく、国境を定めるために派兵し、磐井の抵抗にあったため、磐井を亡き者とし、糟屋の屯倉を手に入れたということとなる。
磐井の乱が起った理由には諸説あり、本当のところはよくは分かっていないのだが...。

因みに、『古事記』では、袁本杼命(=継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日?)としており、筑紫君石井が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(=物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して磐井を殺害させた、と簡潔に記している。

以上のほか、『筑後国風土記』(逸文)にも磐井の墓や磐井の乱に関する記事が残されている。

『筑後國風土記』(逸文)
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『筑後國風土記』(逸文)
筑後(ちくしのみちのしり)の國の風土記に曰はく、上妻(かみつやめ)の縣(あがた)。
縣の南二里(さと)に筑紫君磐井(ちくしのきみいはい)の墓墳(はか)あり。
高さ七丈(ななつま)、周(めぐ)り六十丈(むそつま)なり。
墓田(はかどころ)は、南と北と各(おのもおのも)六十丈(むそつま)、東(ひむがし)と西と各(おのもおのも)四十丈(よそつま)なり。
石人(いしひと)と石盾(いしたて)と各(おのもおのも)六十枚(むそひら)、交(こもごも)陣(つら)なり行(つら)を成して四面(よも)に周匝(めぐ)れり。
東北(うしとら)の角(すみ)に當りて一つの別區(ことどころ)あり。
號(なず)けて衙頭(がとう)と曰ふ。
衙頭は政所(まんどころ)なり。
其の中(うち)に一(ひとり)の石人あり、縦容(おもふる)に地に立てり。
號(なづ)けて解部(ときべ)と曰ふ。
前に一人あり、躶形(あかはだか)にして地に伏せり。
號(なづ)けて偸人(ぬすびと)と曰ふ。
生けりしとき、猪(ゐ)を偸(ぬす)みき。
仍(よ)りて罪を決められむとす。
側(かたわら)に石猪(いしゐ)四頭(よつ)あり。
贓物(ざうもつ)と號(なづ)く。
贓物は盗みし物なり。
彼(そ)の處(ところ)に亦(また)石馬(いしうま)三疋(みつ)、石殿(いしとの)三間(みつ)、石蔵(いしくら)二間(ふたつ)あり。
古老(ふるおきな)の傳(つた)へて云へらく、雄大迹(おほど)の天皇(すめらみこと)のみ世に當りて、筑紫君磐井、豪強(つよ)く暴虐(あら)くして、皇風(おもむけ)に偃(したが)はず。
生平(い)けりしの時、預(あらかじ)め此の墓を造りき。
俄(にわか)にして官軍(みいくさ)動發(おこ)りて、襲(う)たむとする間(ほど)に、勢(いきほひ)の勝つましじきを知りて、獨自(ひとり)、豊前(とよくにのみちのくち)の國上膳(かみつみけ)の縣(あがた)に遁(のが)れて、南の山の峻(さか)しき嶺(みね)の曲(くま)に終(みう)せき。
ここに、官軍(みいくさ)、追(お)ひ尋(ま)ぎて蹤(あと)を失(うしな)ひき。
士(いくさびと)、怒(いかり)泄(や)まず、石人(いしひと)の手を撃(う)ち折り、石馬(いしうま)の頭(かしら)を打(う)ち堕(おと)しき。
古老(ふるおきな)傳(つた)へて云へらく、上妻(かみつやめ)の縣に多く篤(あつ)き疾(やまい)あるは、蓋(けだ)しくは茲(これ)に由(よ)るか。
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この「筑紫國風土記」(逸文)からは次のようなことが分かる。
・磐井の墓の場所と規模、石馬・石盾が立ち巡らされている様子
・墓の北東角に配置された別區(ことどころ)の様子と別區(ことどころ)での裁判の様子
・墓は筑紫君磐井の生前に築造されていること
・磐井の乱の様子
・磐井は豊前国に逃れた旨のこと
・官軍は磐井に逃げられたことに怒り、石人・石馬を打ち壊したこと
・この地に重篤な病気があるのは、石人・石馬を打ち壊したことによる祟りではないかとの旨
など。


「中央集権と地方豪族」
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中央集権と地方豪族
エピローグ
筑紫君一族の末裔たち

磐井の乱が集結し、
磐井の息子「葛子」は罰せられることを恐れ
差し出した糟屋の地に
ヤマト王権は直轄地「屯倉」を設置、
以後、北部九州に次々と設置していきます。
こうして地方の直接支配を着々と進め
中央集権国家を目指すヤマト王権に対し、筑紫一族の生き残りをかけた模索が始まります。
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右下/「磐井の乱に敗北したものの、一族の勢力は残すことができたんだ。だけど、これからは九州の王ではなく、国の地方官として生きていかなければならなくなったんだ」とつぶやく、息子、筑紫君葛子。
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予備知識とパネル解説が相まって、随分とカシコクなった(ような気がする)。

磐井の乱、筑紫君磐井の人望などについて、劇画調(???)の映像も観た。
これについては、続編で綴ることとしたい。

次は、石人・石馬などの石製装飾品の展示コーナーへ。

フォト:2018年10月20日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-10-23 23:35 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/広川町から茶畑を走る』 kk-34

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

九大本線筑紫吉井駅発、久留米経由、鹿児島本線西牟田駅で下車。
先ず、八女古墳群のうち、西側に位置する「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。

続いて、八女古墳群を西から東へ順に。
次は、岩戸山古墳を目指す。
資料館のスタッフさんから頂戴した、茶畑の中を走るルートが書かれた「八女古墳群マップ」に従い、走る。

午前中にこちらへ向かう際、走って来た県道86号線を横切り、東へ走る。
九州自動車道に架かる橋を渡り、県道713線を横切ると上り坂となる。
坂を上ると、茶畑が広がる。
申すまでもなく、彼の有名な八女茶の茶畑である。
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これまでに眺めたことのある茶畑を思い起してみた。
東から順に列挙してみる。
・静岡茶/静岡県/東海道新幹線の車窓から。
・西尾茶/愛知県西尾市/「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>で吉良郷を訪ねたとき。
・宇治茶/京都府宇治市/木津川サイクリングロードを走ったとき。
・高瀬茶/香川県三豊郡高瀬町(現・三豊市高瀬町)/ドライブで。
・八女茶/福岡県八女市/バス旅行で、そして、今回。
・知覧茶/鹿児島県川辺郡知覧町(現・南九州市知覧町)/バス旅行で。

茶畑の中を通る一本道を東へ、東へとはしる。
走っているところは、八女丘陵の台地の平坦地。
左手には平坦地が広がり、右手は平坦地であったり、傾斜地であったりとなっている。
平坦地の茶畑も、傾斜地の茶畑も、秋の太陽をいっぱいに浴びている。

茶畑の手入れ(かな?)に入ろうとしている機械車に出遭った。
先を急ぐ気持ちもあり、遣り過ごそうとして走り過ぎたが、貴重なシーンと思い、jitensha を止め、作業の様子を眺めさせて貰う。

上述で「機械車」としたが、正式には何というかとネット検索してみた。
「乗用型刈り取り機」、「動力式茶摘採機」などの名称があるようだ。
本ブログでは、便宜上、「機械車」とさせて貰おう。

機械車は、茶畑の畝の幅に合わせた門型となっている。
これはテレビなどで見ており、上手く考えたものだなといつも感心して見ていたが、今回、ホンモノを見る機会を得たのであった。

道路と茶畑の間に細い溝がある。
溝には、茶畑の畝の位置と機械車の門型幅に合わせて、橋の如く、蓋が置かれている。
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機械車の車輪はキャタピラーである。
余談ながら、キャタピラーは米国キャタピラー社は商標名である。
セメダインとかセロテープ、ホッチキス、皆、商品名ながら一般名称のように使われており、キャタピラーもその類のひとつである。
キャタピラーの一般名称について、調べてみた。
・一般名称は「無限軌道」。
・無限軌道には、クローラー、トラックベルト 、履帯(りたい)、キャタピラーなど、複数の呼び名がある。
・一般用途では、無限軌道と呼ばれ、軍事用語では、履帯と呼ばれる。
・日本の法令条文(車両制限令、道路交通法施行規則等)ではキャタピラーが変化したカタピラという用語が用いられている(以前は履帯が用いられていた)。

話が反れた。
作業の様子に話を戻そう。

機械車は茶畑の中へ。
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折角なので、真後ろへ移動して、見学。
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10月も半ば過ぎ。
茶摘みのシーズンは終わっているのでは?と思うも、調べてみると、生産地によって異なるが、おおむね、次のようなことである。
・通常、年4回、お茶の新芽が伸び、お茶は新芽で作るので、年に4回、新茶が出来る。
・1番茶:4月の終わり~5月上旬にかけて生産されるお茶。
・2番茶:6月中下旬に生産されるお茶で、1番茶に次いで品質がよいとされる。
・3番茶:7月終わり~8月上旬にかけて生産されるお茶。
・4番茶:9月下旬~10月上旬にかけて生産されるされるお茶。
・1番茶は前年の秋から養分を貯めた茶樹であり、茶畑によっては3番茶、4番茶は摘採せず、翌年の1番茶として温存することもある。

今、この茶畑で行われている作業は、4番茶の摘採なのか、手入れをしているのかは不明(インタビューしたいが、作業中なので、お邪魔虫となる)。

茶畑はいつみても整然として美しい。
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再び、走り始める。
しばらく走ると、お茶の花に遭遇した。
お茶の花を見るのは初めてである。
咲いているのは一輪、その周囲には蕾がいっぱい。
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お茶の花を見るの初めて。
お茶の花が咲くのは秋。これも初めて知った。
ということで、お茶の花についてウィキペディアを紐解いてみた。
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チャノキ
チャノキ(茶の木、学名:Camellia sinensis)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹である。
「チャの木」あるいは「茶樹」とも記され、単に「チャ(茶)」と呼ぶこともある。
原産地はインド、ベトナム、中国西南部とされるが詳細は不明。
茶畑での栽培のほか、野生化した樹木を含め熱帯から暖帯のアジアに広く分布する。

花は10-12月初旬頃に咲く。
そのため「茶の花」は日本においては初冬(立冬〔11月8日頃〕から大雪の前日〔12月7日頃〕)の季語とされている。
花は枝の途中の葉柄基部から1つずつつき、短い柄でぶら下がるように下を向く。
花冠は白く、径2-2.5センチメートル、ツバキの花に似るが、花弁が抱え込むように丸っこく開く。

果実は花と同じくらいの大きさに膨らむ。
普通は2-3室を含み、それぞれに1個ずつの種子を含む。
果実の形はこれらの種子の数だけ外側に膨らみを持っている。
日本の地図記号で茶畑を表す記号は、この果実を図案化したものである。
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花は「ツバキの花に似るが、花弁が抱え込むように丸っこく開く」とある。
咲いている花を実際に見たことでもあり、まさにその通りで、この記述はよく理解出来る。

茶畑の地図記号は「茶の果実を図案化したもの」とある。
「日本の地図記号一覧」を参照してみた。
茶畑の地図記号は三つの黒い点(正三角形の三つの角に黒い点を置いたように)である。
史蹟・名勝・天然記念物の地図記号もよく似ているが、それらの記号は黒い点は大きく、茶畑の記号は控えめに小さな黒い点である。

お茶の花を愛で、再び、走り始める。

左手(北)の茶畑の彼方に山が見える。
先ほど、弘化谷古墳近くの公園からも見えた、南麓に吉野ヶ里遺跡が位置する脊振山地と思われる。
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茶畑ポタリング。
こんな機会は滅多にない。
まことに爽快な走りであった。

茶畑を走ったお陰で、お茶についていろいろとベンキョーも出来た。
殊に、お茶の花を見ることが出来たのはラッキーであった。

目的地の、岩戸山古墳に到着!
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フォト:2018年10月20日

(つづく)







# by ryujincho | 2018-10-23 23:34 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/広川町古墳公園資料館』 kk-33

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。

九大本線筑紫吉井駅発、久留米経由、鹿児島本線西牟田駅で下車。
先ず、八女古墳群のうち、西側に位置する「石人山古墳(せきじんやまこふん)」、「弘化谷古墳(こうかだにこふん)」と、隣接の「広川町古墳公園資料館」から。

石人山古墳、弘化谷古墳を探訪。
続いて、隣接の「広川町古墳公園資料館」へ。

広川町古墳公園資料館。
いつも迷ううこと、それは先に資料館を見学し、次に古墳を見分するのがよいのか、或いは、その逆がよいのか。
今回は先に資料館を見学するつもりでいたが、少し道に迷い、先に古墳を見分することとなった。
結果論であるが、資料館で結構、時間を費やすことが多く、先に古墳を見分しておいてよかったかもしれない。

そんなことを思いながら、資料館へのアプローチに設けられた「石人山・弘化谷古墳公園」の案内板に目を通す。

こうした案内板を先に見ておくと、実際に見分した古墳の位置関係などが頭に入り、そうしたことは資料館が先というメリットかもしれない。
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石人山・弘化谷古墳公園。
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石人山・弘化谷古墳公園
八女丘陵上には、300基近くの古墳があると考えられていますが、石人山古墳・弘化谷古墳を含む8基礎の古墳が「八女古墳群」として国の史跡に指定されています。
この古墳公園は、古代史研究や古代ロマンに想いをはせる場所として、石人山・弘化谷両古墳を見学しながら楽しんでいただく所です。

※八女古墳群(石人山古墳、弘化谷古墳、善蔵塚古墳、以上、広川町。岩戸山古墳、乗場古墳、丸山古墳、丸山塚古墳、茶臼塚古墳、以上、八女市。)
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広川町古墳公園資料館。
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広川町古墳公園資料館
広川町は八女丘陵や町の北側の丘陵など各所に多くの古墳が点在します。
また、これらの古墳の母体となった集落跡も丘陵や平野部に確認されています。
これらの古墳や集落跡の発掘調査におり、私たちの郷土の人々が古代においてどんな生活をしていたのかを知る上の、貴重な資料もたくさん出土しています。
1階はロビーに弘化谷古墳石屋形の複製を常設展示し、展示室には石人山古墳・弘化谷古墳を中心に、古墳時代をよく理解するために遺跡から出土した遺物などの展示を行っています。
2階には、研修室・資料室を設けています。
研修室からは、石人山古墳と弘化谷古墳を見渡すことができます。
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以下は、前第31話、32話で幾度も書き連ねて来たことながら、復習の意味で、そして、現場を今一度、思い起こすためにも、読み下しておきたい。

石人山古墳。
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石人山古墳(5世紀初め~中頃に築かれる)
全長107mで「造り出し」を持つ前方後円墳。
前方部2段・後円部3段に築かれています。
前方部で幅63m・高さ約11m、後円部では直径約53m・高さ約12mの規模です。
後円部の中央には、天井石が失われた横穴式石室が西に向けて開口し、石室内の空間を埋めるように凝灰岩製の横口式家形石棺が置かれています。
石棺の屋根の両側に直弧文・重圏文がそれぞれ5個ずつ立体的に浮き彫りされ、赤く塗られていた跡も残っています。
前方部と後円部のくびれの部分に、石棺を守るように凝灰岩で造られた武装した姿の石人が立っています。
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弘化谷古墳。
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弘化谷古墳(6世紀中頃に築かれる)
高さ7m、直径約39mに復元される2段に築かれた大型の円墳です。
1970年(昭和45年)に果樹園造成中に偶然発見された古墳です。
この時、石室の3分の1まで壊れましたが、その後、復元整備され、観察室を備えた保存施設が1990年(平成2年)に完成しました。
やや銅張りの横穴式石室内に石屋形奥壁に、赤色と緑色を使って靭(矢入れ)・双脚輪状文・同心円文・連続三角文が描かれ、天井と側壁の内側には赤色を使った三角文が描かれています。
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石人山古墳の俯瞰図。
案内図からの切り取り。
オリジナルの図は方位が上を南にしており、イメージし辛いため、180度回転させ、上を北にした。
そうすることによって、西に前方部、東に後円部とする前方後円墳であることが一目瞭然となる。
前第31話で、後円部の墳頂に至る間に、石段を三度上ったと記した。
一つ目の石段は丘陵上に上るため、二つ目の石段は前方部の西端、そして、三つ目は後円部の西側斜面であると思っている(のだが、少々、自信がないこともない)。
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弘化谷古墳の俯瞰図。
案内図からの切り取り。
オリジナルの図は方位が上を南にしており、イメージし辛いため、180度回転させ、上を北にした。
そうすることによって、石室の開口部が西南西であることなど、一目瞭然となる。
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広川町古墳公園資料館。
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資料館ロビー/弘化谷古墳石室石屋形および壁画(レプリカ)。
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レプリカの脇に置かれた、子供さん向けに書かれたと思しき説明書きに目を通す。

弘化谷古墳の壁画。
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弘化谷古墳の壁画
みなさんの前にあるものは、公園内にその姿を復元している「弘化谷古墳」の石室の中に造られた石屋形(いしやかた)と、その内側に描かれている装飾壁画のレプリカ(実物そっくりにつくった模型)です。
この「石の家」のような石屋形の中に、地域の有力者が死んだ後、横に寝かされ、永遠の眠りについたのです。
わたしたちは、紙によく絵を描きます。
弘化谷古墳では、亡くなった有力者の魂が安らにしずまることと、死者に悪霊などが近寄らないことを願って、古代の絵のうまい人が、平たい石に赤や緑の色を塗り、靫(ゆき、矢づつ)・同心円文・双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)・三角文などの文様を描いたのです。
この壁画には、「まじない」的な意味もあったと思われます。
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双脚輪状文のはなし。
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双脚輪状文
石屋形の中を見てみましょう。
壁画の真ん中の左寄りに、円文から「たこ」の足のようなものが、2本のびている文様が2個ならんでいるのがわかると思います。
そうです!この文様が、双脚輪状文です。
この文様は、日本でも九州の福岡県と熊本県の四つの古墳で発見されているだけです。
どうですか?不思議な形ですね。
何をもとにして描かれたのでしょうか。
「翳(さしば)」と呼ばれる大きな団扇(うちわ)がもとになっているともいわれますが、まだよくわかっていません。
しかし、弘化谷古墳は永遠に眠る人の生きていたころの実力を示すと共に、魔よけの意味が込められていたことは確かです。

(図)
上段/弘化谷古墳石室石屋形の壁画
左側、上から/王塚古墳、横山古墳、釜尾古墳の双脚輪状文
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前第32話で、現場での説明板では「双脚輪状文の意味は不明」とあったので、今年4月、王塚古墳探訪時に「翳(さしば)という説もある」とベンキョーした旨綴ったが、ここ、広川町古墳公園資料館でしっかりとその旨が述べられており、ほっとした。

(メモ)双脚輪状文が描かれた古墳4例の所在地:
・弘化谷古墳(福岡県八女郡広川町)
・王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町)
・横山古墳(熊本県山鹿本郡植木町→山鹿市鹿央町/肥後古代の森、移築復元)
・釜尾古墳(熊本県熊本市北区釜尾)

これら四つの古墳の双脚輪状文はそれぞれに独特である。
弘化谷古墳の双脚輪状文は横山古墳のものとよく似ている。
横山古墳と釜尾古墳の双脚輪状文の実物も是非見てみたいものである。

ロビーから展示室へ。
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石人山古墳の直弧文。
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石人山古墳の「直弧文」
古墳時代に彫られた魅力的な文様
美しく残った日本で唯一のもの
ひろかわの宝であり
守り続けていく文化財です。
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直弧文とは。
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直弧文とは
一定の幅をもった帯の組み合わせを表出した文様を「直弧文」と定義したのは小林行雄です。
この文様にはその原型となった一定の構図が明確ではありません。
浮彫や線刻された文様を読み解いていく必要があります。
この直弧文で飾られた遺物から、この文様の持つ意味は何かを厳重に封じ込めようとする文様であり、邪悪なるものを封じ、その災いを避ける(僻邪 へきじゃ)の意味を持つことが考えられます。
神霊を結び鎮める呪力がこの文様に込められていたのです。
石人山古墳の家形石棺の棺蓋表面には、5個の連接する直弧文が半浮彫風に見られます。
装飾古墳に見られる直弧文としては全国的にみても重要なものです。
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(メモ)
「僻邪(へきじゃ)」、この言葉を覚えておこう。
と思うも、「邪悪なるものを封じ、その災いを避ける(僻邪 へきじゃ)の意味を持つ」という記述に違和感を覚えたので、広辞苑を紐解いてみた。
「【僻邪 へきじゃ】心がねじけて、よこしまなこと」とある。
となれば、「邪悪なるもの」の後に(僻邪 へきじゃ)と書くべきで、「邪悪なるもの(僻邪 へきじゃ)を封じ、その災いを避けるの意味を持つ」が正しい記述であろう。細かいことが、ついつい、気になってしまうのである。

直弧文をアップで。
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今一度、5個の重圏文(円文、上段)と5個の直弧文(下段)が施された棺蓋をアップで。
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こんな展示コーナーもあった!
「直弧文彫刻体験ワークショップ」。
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道具一式。
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完成!
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2017年『直弧文の世界展』 展示資料 Nо. 1
石山古墳 直弧文(西平孝史氏作成)
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石棺と同じ阿蘇溶結凝灰岩(天草産)に彫刻された直弧文。
西平氏独自の三次元計測により直弧文の浮き彫りをみごとに再現されています。
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石人山古墳の武装石人(パネル写真)と埴輪の破片。
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石人山古墳の家形石棺(パネル写真)と須恵器。
本ブログにアップロードする際、「個人からの借用品のため、撮影をご遠慮ください」と朱書きされた札が置かれていることに気付いたので、展示品はモザイク掛けとしている。
家形石棺の棺蓋に刻まれた文様がよく写っており、それを見分するためにアップロードする次第である。
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数々のパネル資料に目を通す。
パネル資料の中で、1件だけここに掲載しておこう。

「石人山古墳の世界(4)『石人さん』のひとりごと」。
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石人山古墳の世界(4)「石人さん」のひとりごと
みんな知ってる?
ぼくがつくられたのが、今から1500年以上も前だってこと...。
最初はたくさん仲間がいて、にぎやかだったのに、お城の工事でほとんど運び出されたてしまい、残ったのはぼくだけ。
とてもさびしかったけれど、病気がなおる神様として、村の人達にとても愛されてきたのは、うれしかったなあ。
昔の人が描いた石人の図を見ると、模様がだんだん消えていくのがよくわかるとおもうのだけど、これもみんなに親しまれた証拠と言えば、仕方ないかもしれないね。
現在、僕は、国の重要文化財なので、みんがにさわってもらうことはできないけれど、この古墳のシンボルとして、これからもずっとずっとながく、親しんでもらえたらいいなあと思っているんだ。

(図)左から;
・天保3年以前に描かれた図で現在のところでは最も古い図、「歴世服飾考」明治26年 田中尚房編
・「筑後国石人図考」寛延4年5月(1751年)杉山正中図
・「筑後国柳川原石人図」 安永2年(1773年)白蓮社主人 空阿図
・「福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書第十二集」天保3年(1832年)松岡辰方図
・「帰厚遺物並三丘古物抄」嘉永5年(1852年)矢野一貞図
・「筑後将士軍談」嘉永年間(1850年頃)矢野一貞図
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このパネルは子供さん向けに書かれたものである。
本件の<大人向け>は、当館で入手したリーフレット「国指定史跡 八女古墳群 石人山古墳 」(広川町教育委員会)に掲載されており、前第31話で全文、書き下した。
江戸期に描かれた石人の図は<大人向け>リーフレットでは3点であったが、<子供向け>は3点重複+2点の都合5点が掲載されており、そうしたことも含め、<子供向け>パネル資料は貴重なものと思い、掲載する次第。

<大人向け>リーフレットの解説文は既に前第31話で掲載済みであるが、今一度、ここに掲載しておこう。
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武装石人と人形原(ひとがたばる)
石人山古墳は、その名の起こりともなった武人石人が立っていることでも有名で、石人は古墳前方部と後円部の、ちょうどくびれ部分に立っており、主体部の石棺に埋葬された被葬者を守っているかのようです。
この石人は背丈が約1.8mで、よろい(短甲)を身に着けて、靭(ゆき)と呼ぶ矢入れを背負った、武装した姿に彫刻されています。
極めて貴重な考古資料であることから、昭和51年6月5日付けで、国の重要文化財の指定を受けました。
この石人は江戸時代の中頃には地面に倒れていましたが、その当時、広川谷21ヶ村の大庄屋であった、稲員(いなかず)孫右衛門安則という人が、地面を平らにならして基壇を築き、石人を起こして顕彰しました。
時に貞享元年(1684年)3月のことです。
稲員安則が書き残した『家勤記得集』という記録には、石人山古墳をはじめ岩戸山古墳(八女市)や十連寺古墳(三潴町、みづままち)にも、もともと、石人や石馬がたくさん立てられていたことから、八女丘陵の別名を人形原(ひとがたばる)と呼ぶようになった、と書かれています。
ところが、江戸時代の初めに、関ヶ原の戦いで大手柄を立てて、筑後一国の領主となった田中吉政という人が、福島城(現・八女公園一帯)の整備のため、これらの石人石馬を選び出して、石垣の下積みに利用したのです。
このことから八女丘陵の古墳から石人石馬の姿が消えてしまったのです。
(中略)
今日、私たちが目にする石人はずいぶんと痛んでいて、特に首から上の部分は彫刻の模様がほとんど分かりません。
このように痛んでしまった原因は、地元に伝わる俗信によるのです。
昔から肩や腰の痛い人は、石人の肩や腰をさすったりすると治ると、強く信じられてきたからなのです。
ずいぶんと長い歳月、たくさんの人にさすられたり、たたかれたりして、いつの間にか今のような姿になってしまったのです。
天保3年(1832年)、久留米藩の有職故実家であっる松岡辰方の描いた模写図や、大分県日田市にある石人(江戸時代の終わり頃に模造された)の模様などから、もともとは極めて繊細な模様が彫刻されていたことが分かります。
また、石人の腰の部分には、今日なお、彫刻された当時に施された丹彩(にさい)の痕跡を留めています。
(図)江戸時代に模写された石人図
・天保3年(1832年)以前に描かれた図で、現在のところでは最も古い図、「歴世服飾考」
・天保3年(1832年)久留米藩有職故実家の松岡辰方が描いた模写図、「福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告集第十二集」
・嘉永年間(1850年頃)に矢野一貞が描いた模写図、「筑後将士軍談」
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広川町古墳公園資料館で幾つかの資料を貰った。
その資料名をここに挙げておこう。
・「石人山・弘化谷古墳公園 広川町古墳公園資料館 こふんピア広川」
・「(郷土の文化財1)国指定史跡 八女古墳群 弘化谷山古墳 」(広川町教育委員会)
・「(郷土の文化財2)国指定史跡 八女古墳群 石人山古墳 」(広川町教育委員会)
※「八女丘陵古墳マップ」

これらの資料は、遺跡の写真がプリントされた、美麗なクリアファイルに入れられ、手渡された。
広川町の<おもてなし>の気持ちが込めらていると感じた。

更に、嬉しかったのは、当館のスタッフさんとの会話の中で、我らは各地の古墳探訪を趣味としており、いずれも自転車でめぐっており、今回もその一環で当地を訪ねたと話したところ、痛く喜んで貰え、「こんな地図があります」と、ガリ版刷り風(えらく古い例えながら)の『八女丘陵古墳マップ』なるものを頂戴したことであった。

「この地図ですと、八女丘陵の茶畑の中の道を行くということになり、自転車での古墳めぐりにちょうどいいと思います」との言葉もあった。
この言葉で、自分たちが茶畑の中を走っている光景が目に浮かび、楽しさが倍増するのであった。

平成30年度 広川町古墳公園資料館企画展の案内ポスター。
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弘化谷古墳石室の一般公開案内ポスター。
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催しは翌月の11月11日から。
こうした催しに合わせて予定を組むことが出来ればいいのだが、今回は筑後川流域装飾古墳一般公開の日(10月21日)に合わせて予定を組んだので、八女古墳群を探訪できるということだけで、よし、とせねばなるまい。

スタッフさんに礼を伝え、資料館を出た。

資料館脇の庭に鎮座する「石人さん」に一礼。
遠くからだけでは失礼と思い、近くへ。
小生、身体が万全ということでもないので、その部位の治癒を願い、撫でてみたいが、レプリカといえども、すり減ってはいけない。
その代わりと言っては何だが、数枚、写真を撮らせて貰った。
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次の探訪先は、岩戸山古墳。
いざ、出発!

フォト:2018年10月20日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-10-23 23:33 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/弘化谷古墳』 kk-32

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。
九大本線筑紫吉井駅発、久留米経由、鹿児島本線西牟田駅で下車。
先ず、八女古墳群のうち、西側に位置する「石人山古墳(せきじんやまこふん)」、「弘化谷古墳(こうかだにこふん)」と、隣接の「広川町古墳公園資料館」から。

石人山古墳を探訪。
続いて、弘化谷古墳へ。

石人山古墳の南側を東へ進み、坂を上る。
坂を上り切ると小さな公園と駐車場になっている。
公園から先ほど探訪した石人山古墳を眺める。
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駐車場の先に、よく整備された墳丘が見える。
木々が生い茂った、こんもりとした墳丘も好きだが、草が刈られ、よく整備された墳丘も好きだ。
要は、どちらも好き!ということなのだが...。
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駐車場の入り口に立つ石標。
「石人山 弘化谷古墳公園」と刻まれている。
足の便からして、当地に来るときは四輪に乗って来るというのが一般的であろう。
ということで、ここに駐車場が設けられ、石人山古墳と弘化谷古墳、ふたつの古墳めぐりは、ここからのスタートするのが一般的なのだろう。
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弘化谷古墳。
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磁石を取り出し、方位を確認。
横穴式石室の開口部は西南西。
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説明板に目を通す。
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国指定史跡 八女古墳群
弘化谷古墳(こうかだにこふん)
昭和52年7月19日指定
広川町教育委員会

1.所在地 福岡県八女郡広川町大字広川字弘化谷
2.築造年代 6世紀中頃(古墳時代後期)

3.外形 
高さ約7m、直径約39mに復原される2段築成の円墳。
濠と周堤を含めた外径は約55mとみられ、当地方では最大である。

4.石室
西南西に開口する横穴式石室で、昭和45年3月に果樹園造成工事中に発見されたため、大破したが、単室と推定される。
割石を積み上げた石室の正面に、県内では珍しい肥後系の石屋形を設置しているのが大きな特色である。
石室は、現存、長さ約4.5m、最大幅4.1m、高さ3.6m。

5.出土品
盗掘を受けているため、イアリング・管玉、やじり、土器など、副葬品の一部が乗っていたに過ぎない。
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6.壁画
石屋形の奥壁、両側壁・天井石の内面と全面小口の計7面に、赤・緑・黄の3色で、三角形文・双脚輪状文・円文・矢筒(靫、ゆき)などを描き、上段の7個の靫だけは輪郭を線刻する。
なお、双脚輪状文は、桂川町・王塚古墳など全国でも4例しかない、極めて珍しい文様だが、意味は不明。
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説明書きでは「双脚輪状文は、桂川町・王塚古墳など全国でも4例しかない、極めて珍しい文様だが、意味は不明。双脚輪状文」とある。
今年4月、桂川町/王塚古墳を訪ねた際、隣接の王塚装飾古墳館で、壁画の文様について、いろいろとベンキョー。
双脚輪状文についてもベンキョーした。
双脚輪状文の意味は不明ながら、団扇に長い柄をつけて貴人にかざす翳(さしば)をかたどったものではないかとの説もあるとのことであった。

今回、石室の中を見学することは叶わなかったが、後ほど、立ち寄った「広川町古墳公園資料館」で弘化谷古墳石屋形の複製を見学し、詳細をベンキョーした。
それについては、続編にて。

弘化谷古墳を見分する。
6時方向から3時方向に円墳を眺める。
周濠と周堤が見事に復元されている。
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南側の周堤下からの眺め。
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周堤を6時方向から3時方向に歩く。
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3時方向の辺りに墳丘に上る石段が設けられている。
石段を上る。
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北西側を眺める。
先ほど、探訪した石人山古墳の<こんもり>が見える。
手前の広場は、先ほど、通って来た、小さな公園と駐車場。
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北側を眺める。
先ほどの石人山古墳と同様に、北側が開けている。
彼方に見える山並みは、脊振山地。
その南麓にある吉野ヶ里遺跡が頭に思い浮かぶ。
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念のため、磁石を地面に置いて方位を確認。
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墳頂の北縁近くに立つ。
周濠(灰色)と周堤(薄茶色)が見て取れる。
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東側は森となっている(写真はなし)。

南側に目を遣る。
墳丘のすぐ近くを一般道が通っている。
この一般道が、今朝方、西牟田駅からこちら方面へ走って来た際に通り過ぎた県道86号線であることを後ほど知ることになる。
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墳頂に上れ、大満足。
石段を下る。
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先ほど、墳頂から眺めた南側の一般道に出てみる。
何と、西牟田駅からこちらへ向かう際に通り過ぎていたことに気付く。
前方ばかりに集中していたからであろうか、墳丘は目に入らなかった。
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来た道を戻る。
古墳の北側の公園を通り過ぎようとしたとき、先ほど、墳頂から眺めたときには気づかなかったものが目に入った。
遥か彼方に、白い仏像らしきものが見える。
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ズームアップし、確認。
観音像である。
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更にアップ!
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脊振山地の山並みを背景にした、真っ白な観音像。
この観音像は?と調べてみた。
大本山成田山新勝寺の久留米分院、高さ62mの、大慈母観音像であった。
この日、10月20日は亡き母の誕生日。
これも何かの縁であろう。

弘化谷古墳脇の駐車場、小さな公園、坂道、石人山古墳の南側の畑地・空き地、石人山古墳のくびれ部付近から、クモの巣だらけの遊歩道を進み、石段二つを下り、jitensha を止めた場所に戻る。

石人山古墳の北側にある「広川町古墳公園資料館」へ向かう。

フォト:2018年10月20日

(つづく)





# by ryujincho | 2018-10-23 23:32 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/石人山古墳』 kk-31

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。
九大本線筑紫吉井駅発、久留米経由、鹿児島本線西牟田駅で下車。

先ず、八女古墳群のうち、西側に位置する「石人山古墳(せきじんやまこふん)」、「弘化谷古墳(こうかだにこふん)」と、隣接の「広川町古墳公園資料館」を目指し、出発。

西牟田駅から県道84号線を東へ、知徳交差点を右折し、県道86号線を南下。
目的地は、県道86号線の右手(西側)となるのだが、入る道を通り過ぎてしまい、手持ちの地図ではよく分からず、スマホで検索。
最初に、広川町古墳公園資料館に立ち寄ろうと思っていたが、スマホに従い、走っていると、目的地のひとつ、石人山古墳に至った。

石人山古墳。
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立て看板には「史跡 石人山古墳 筑後市教育委員会 広川町教育委員会」とある。
この地は八女郡広川町であるが、筑後市教育委員会と広川町教育委員会が併記されている。
広川町は、久留米市、筑後市、八女市に隣接しているので、広川町と筑後市は無縁ではないだろうが、何故、併記されているのであろうか?

広川町について、ウィキペディアを紐解いてみた。。
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広川町(ひろかわまち)は、福岡県の南部にある町で、八女郡に属する。
八女市郡においては、県の強力な指導のもと、市町村合併が進められ、八女郡のほとんどの町村が八女市に合流する道を選んだが、広川町は、多くの住民が久留米市との合併を望んだ。
しかし、町議会の否決により久留米市との合併は失敗。
町議会は八女市との合併を模索したものの、これも合併には至らず、合併特例法の失効を迎えてしまった。
現在、広川町は町内に九州自動車道の広川インターチェンジ、周辺に工業団地を整備し、比較的財政基盤が安定しているため、今後も原則として単独町制を貫くとしている。
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筑後市教育委員会との関連はよく分からないが、広川町・筑後市が共同して石人山古墳の調査を行っているのかもしれない。

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石段を上る。
この石段は、古墳が築造された丘陵に上る石段と思われる。
後で分かることだが、この石段は一つ目の石段で、このあと、二つの石段が現れる。
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石段を上り切り、しばらく、平坦な道を進む。
クモの巣だらけである。
壱岐島でも、クモの巣に随分と悩まされた。
その都度、相棒の武衛さんが小枝を拾って、クモの巣の払い役をやってくれている。

クモの巣払いの図。
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前方に見える石段は二つ目の石段である。
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二つ目の石段を上り切ると、「直進/石人山古墳、右/弘化谷古墳」の標識あり。
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更に平坦な道を進む。
三つ目の石段が現れる。
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三つ目の石段脇に設けられた説明板に目を通す。
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石人山古墳
昭和53年3月24日
国指定史跡 八女古墳群として一括指定

この古墳は、岩戸山古墳(八女市)・石神山古墳(みやま市)と共に、石人を有することによって全国的によく知られます。
古記録に「貞享元年(1684)」3月、一条村の南岡に石人を立つ云々」とあるように、石人そのものが神と認識され、祭祀の対象ともなります。
古墳の形は「造り出し」と称する平坦部を持つ前方後円墳で、前方部は二段に、後円部は三段に丘陵上に西面して築造され、周濠を有します。
出土した須恵器片や埴輪などの年代から推考し、5世紀前葉と考えられています。
主体部は、横2m、奥行4mの石室に、阿蘇溶結凝灰岩で造った、横口式家形石棺が納められています。
棺蓋は寄せ棟型の屋根で、頭頂部の長さは1.9m、底部の長さは2.8mを測ります。
屋根の表面には、重圏文・直弧文・三角文などの精緻な彫刻が施されています。
棺身は4枚の板石を組み合わせて壁とし、高さは1.4m、長さは2.3mを測ります。
また、墳丘のくびれ部には、古墳名の由来となった石人が立ち、短甲を着し、武装しており、像高1.9mを測ります。
昭和51年6月5日、国の重要文化財に指定されました。

規模
全長 120.0m
前方部 高さ 11.3m 正面幅63.3m
後円部 高さ 12.0m 径 53.0m
周濠幅 1.5m

平成30年1月
広川町教育委員会
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三つ目の石段を上る。
石段を上り切ると、その先に覆屋が見えて来た。
覆屋の扉の上に「石人社」と墨書された扁額風の板が掲げられている。
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覆屋の扉の脇に「重要文化財 武装石人 昭和五十一年六月五日指定」と墨書された札が掲げられている。
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覆屋の扉は施錠されており、中には入れない。
扉越しに、覆屋の中を覗いてみる。
大きな武装石人が鎮座。

正面からの姿。
短甲を着用していることが見て取れる。
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左手から眺めた姿。
後ほど、隣接の資料館で入手したリーフレットに「短甲右脇の丹彩(にさい)の痕跡」とある。
確かに、丹色が見て取れる。
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右手から眺めた姿。
後ほど、隣接の資料館で入手したリーフレットに「短甲左脇の抉り込み」とある。
この「抉り込み」に関わる説明は記されていないが、大刀が嵌め込まれていたのかもしれない。
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裏から、窓越しに。
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後ほど、隣接の資料館で貰ったリーフレット「国指定史跡 八女古墳群 石人山古墳 」(広川町教育委員会)に目を通すと、この武装石人について、次の通り触れられている。
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武装石人と人形原(ひとがたばる)
石人山古墳は、その名の起こりともなった武人石人が立っていることでも有名で、石人は古墳前方部と後円部の、ちょうどくびれ部分に立っており、主体部の石棺に埋葬された被葬者を守っているかのようです。
この石人は背丈が約1.8mで、よろい(短甲)を身に着けて、靭(ゆき)と呼ぶ矢入れを背負った、武装した姿に彫刻されています。
極めて貴重な考古資料であることから、昭和51年6月5日付けで、国の重要文化財の指定を受けました。
この石人は江戸時代の中頃には地面に倒れていましたが、その当時、広川谷21ヶ村の大庄屋であった、稲員(いなかず)孫右衛門安則という人が、地面を平らにならして基壇を築き、石人を起こして顕彰しました。
時に貞享元年(1684年)3月のことです。
稲員安則が書き残した『家勤記得集』という記録には、石人山古墳をはじめ岩戸山古墳(八女市)や十連寺古墳(三潴町、みづままち)にも、もともと、石人や石馬がたくさん立てられていたことから、八女丘陵の別名を人形原(ひとがたばる)と呼ぶようになった、と書かれています。
ところが、江戸時代の初めに、関ヶ原の戦いで大手柄を立てて、筑後一国の領主となった田中吉政という人が、福島城(現・八女公園一帯)の整備のため、これらの石人石馬を選び出して、石垣の下積みに利用したのです。
このことから八女丘陵の古墳から石人石馬の姿が消えてしまったのです。
(中略)
今日、私たちが目にする石人はずいぶんと痛んでいて、特に首から上の部分は彫刻の模様がほとんど分かりません。
このように痛んでしまった原因は、地元に伝わる俗信によるのです。
昔から肩や腰の痛い人は、石人の肩や腰をさすったりすると治ると、強く信じられてきたからなのです。
ずいぶんと長い歳月、たくさんの人にさすられたり、たたかれたりして、いつの間にか今のような姿になってしまったのです。
天保3年(1832年)、久留米藩の有職故実家であっる松岡辰方の描いた模写図や、大分県日田市にある石人(江戸時代の終わり頃に模造された)の模様などから、もともとは極めて繊細な模様が彫刻されていたことが分かります。
また、石人の腰の部分には、今日なお、彫刻された当時に施された丹彩(にさい)の痕跡を留めています。
(図)江戸時代に模写された石人図
・天保3年(1832年)以前に描かれた図で、現在のところでは最も古い図、「歴世服飾考」
・天保3年(1832年)久留米藩有職故実家の松岡辰方が描いた模写図、「福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告集第十二集」
・嘉永年間(1850年頃)に矢野一貞が描いた模写図、「筑後将士軍談」
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※「十連寺古墳(三潴町、みづままち)」は、旧・三潴郡三潴町、現・久留米市三潴町にある、八女古墳群に属する径30mの円墳。

石人山古墳の武装石人は、長い年月の間に、病気治癒でさすられ、削られた姿になったという記述を読み、卑近な例ながら、こんなことを思い出した。
両国の回向院に鼠小僧次郎吉の墓がある。
墓標の前に「お前立ち」の石が置かれている。
「鼠小僧の墓石を持っていると博打で勝てる」という俗信があり、長年捕まらなかった鼠小僧の運にあやかろうと墓石を削ってお守りに持つ風習があり、墓石を削っていた。
しかし、そのようなことでは、何れ墓石が消滅してしまうであろうことから、現在は、墓石でなく、「お前立ち」の石を削るようになっている。

もうひとつ、卑近な例ではないことも記しておこう。
太宰府天満宮の御神牛像の頭を撫でると学業に御利益がある、怪我病気をした個所を撫でると治癒するとのことで、頭部をはじめ像のあちらこちらの部位がぴかぴかに光っている。
そんなことも思い出すのであった。

話が反れてしまった。
話を元に戻そう。

武装石人の覆屋の奥に、もうひとつ、覆屋が見える。
先ほど、目を通した説明板の内容からすると、石棺が納められている石室の覆屋と思われる。
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奥の覆屋へ向かおうとしたとき、ふと、右側を見ると、石標が倒れているのに気付いた。
石標には「史跡 石人山古墳」と刻まれている。
先の熊本地震のときに倒れたのかもしれない。
地形を見ると、斜面になっている。
前方後円墳の後円部の墳丘斜面と思われる。
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奥の覆屋へ向かう。
この地形からして、後円部の墳丘の一部を切り掻いて通路を作り、その先を平坦地にして、覆屋が建てられているように思える。
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奥の覆屋。
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史蹟 石人山古墳
昭和13年8月8日
文化財保護法により重要文化財指定
この古墳の構造は、長峰丘陵の一部を利用して築造した前方後円墳であります。
封土は二段に築かれ、全体の長さ約110メートル、後円部の径は約53メートル、前方部の幅約63メートルあり、周囲に空濠の跡が残っています。
後円部の前面には武装石人が立ち、貞享元年(1684年)、小堂を建て、これを被覆しています。
江戸時代、末に後円部の中央地下3メートルに石棺の全面は露出して副葬品については明らかでありません。
昭和11年3月25日、県の史跡調査によって、石棺上の覆土を除き、石棺の石槨の内部を部分的に発掘し、その結果、重圏紋と直弧紋が彫刻された見事な石棺の蓋が初めて発見され、久留米市浦山古墳と並び称されるものです。
これが保存のため、昭和13年5月、覆屋を設け、昭和29年3月補修、昭和39年3月改築しました。
広川町教育委員会
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※長峰丘陵とは、八女丘陵のことである。
※「封土は二段に築かれ」とあるが、前方部は2段、後円部は3段である。
※この説明板がいつ設けられたかは不明なるも、石人山古墳は昭和13年(1938年)8月8日に国の史跡に指定され、昭和53年(1978年)3月24日付けで、史跡の追加・統合指定が行われ、指定名称が「八女古墳群」に変更された。

扉越しに覆屋の中を覗く。
「竪穴系横口式石室」とそこに納められた「妻入り横口式家形石棺」。

正面から眺める。
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左手から眺める。
棺蓋に彫られた装飾文様が見て取れる。
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右手から眺める。
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もう一度、正面から。
今度は少しズームアップして。
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「石棺環境調査中!※石棺入り口にある物は、温湿度・日射を計測している機械です」。
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説明書きに目を通す。
説明書きはこれで三つ目である。
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史蹟 石人山古墳
この岡は東西7KMあり、古くから人形原とよばれ
幕末の矢野一貞は、この台地の大古墳群を筑紫國造家
の墓所であると云っている。 この古墳群の西端にあっ
て最も古い様式をもつのが本古墳である。5世紀後半
の築造とみられる前方後円の墳丘は古式を示し、長さ
120M 幅 後円部で60M 前方部で45Mあり、大形と云える。
中央に立つ石人はこの古墳の名の起りを示す。
前方部に向かって開く狭い石室は いまほとんど失はれ
ているが、それにおさめられた横口式家形石棺は円文
直弧文などで飾られ、石人とともに九州の地方色を強
く示している。    文化財保護委員会
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石人山古墳に到着してから、三つの説明板に目を通した。
書かれた時代によって古墳の規模を示す数字など記述が若干異なっている個所がある。
後ほど、隣接の資料室で入手したリーフレット「国指定史跡 石人山古墳 広川町教育委員会」も併せ、ここで整理しておきたい。

指定:
大正15年(1926年)3月 福岡県の指定を受ける
昭和13年(1938年)8月8日 国の史跡に指定される
昭和53年(1978年)3月24日 八女古墳群として国の一括指定となる

所在地:福岡県八女郡広川町大字一條字人形原(にんぎょうばる)1435番
築造年代:5世紀後半代の終わり頃(古墳時代中期)
立地:
東西10数kmにわたり広川町の南側に耳納山地(みのうさんち)からのびてきている狭長な丘陵、八女丘陵の西端付近に位置

外部施設:
・前方後円墳
・標高35m前後の丘陵の一部を利用して築造
・全長 120.0m
・前方部 
 正面幅(説明板では)63.3m(リーフレットでは)54m
 高さ(説明板では)11.3m(リーフレットでは)6m
・後円部 
 径(説明版では)53.0m(リーフレットでは)76m
 高さ(説明板、リーフレットとも)12.0m
・周濠幅(説明板では)1.5m(リーフレットでは)1,2m~1.3m
・前方部は2段築成、後円部3段築成
・前方部、西向き
・北側くびれ部に「造り出し」あり(南側にも存在したと推定されるが、開墾等により痕跡なし)
・墳丘には、葺石がなされ、円筒埴輪・形象埴輪がめぐっていたと推定される
・前方部と後円部の墳丘くびれ部分に、後円部にある石棺入口を背に1体の「武装石刃」が立つ
・竪穴系横穴式石室
 横幅 2m、奥行 4m、深さ(現在の墳丘面から)約 4m
・石棺
 阿蘇溶結凝灰岩製「妻入り横口式家形石棺」
 4枚の板石を組み合わせ、その上に刳抜式の屋根を被せたもの
 棺の長さ 2.8m、幅/西端 1.5m・東端 1.3m(台形)、高さ 2m
 棺蓋の東西単辺に棒状縄掛突起あり
 棺身の西側単辺の壁に開口部あり

※前方部と後円部の高さが説明板やリーフレットで異なる点が気になるが、深くは考えないことにする(前方部は2段築成、後円部は3段築成であるし、三つ目の石段がある点からして、前方部は6m、後円部は12mであろうと思われるが)。
※後円部の径も異なるが、基壇を含めるか場合もあるので、深くは考えないこととする。

石人社と石室を見分したのち、再び、三つ目の石段を下る。
下ったところ(武装石人はくびれ部付近に立っているとあるが、後円部墳丘に立っているように思われ、三つ目の石段を下った辺りがくびれ部ではないかと思われる)から周囲を眺めてみる。

墳丘の斜面。
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北側。
右端が後円部に繋がる墳丘斜面、その左側は造り出し部(と思われる)。
右手、木立の向こうに、隣接の資料室の屋根が見える。
中央から左手は前方部の北側の裾が広がっている。
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次は、弘化谷古墳へ。
三つ目の石段下から南側へ出る。

南西側から眺めた、石人山古墳の墳丘斜面。
左奥に先ほど、下って来た石段の手摺りが見える。
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「←弘化谷古墳」。
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南側から石人山古墳の後円部を眺める。
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左に小さな石標が見える。
ズームアップ。
「史跡境界(線?)」と刻まれている。
前述の通り、南側にも造り出し部があったと推定されるが、開墾等により痕跡はないということであった。
確かに、石人山古墳の南側は、畑地、或いは、手の入った空き地となっている。
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南東側から石人山古墳の後円部を眺める。
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後円部の裾をズームアップ。
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標識「弘化谷古墳 石人山古墳」。
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更に進むと、池が見えて来た。
この池は石人山古墳の後円部の東裾に位置している。
その昔、周濠の一部であったかもしれない。
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ジョギング中の人に、弘化谷古墳への道を確認する。
「道なりに進むと、上り坂になります。坂を上り切ると公園があります。その直ぐ先に弘化谷古墳があります」と。

フォト:2019年10月20日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-10-23 23:31 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群へ』 kk-30

10月20日(土)、晴れ。
前日、壱岐島から博多経由、筑紫野市原田の五郎山古墳を訪ね、久留米経由、大久本線筑後吉井駅から筑後川対岸の朝倉市/原鶴温泉に投宿した。

この日で、壱岐島・筑後川流域古墳めぐりは、五日目となる。
この日の探訪予定先は、八女古墳群に属する古墳、数ヶ所と、筑後国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡と盛りだくさん。
(八女郡広川町)
■石人山古墳(せきじんやまこふん)
■弘化谷古墳(こうかだにこふん)
□広川町古墳公園資料館
■善蔵塚古墳(ぜんぞうづかこふん)
(八女市)
■岩戸山古墳
□岩戸山歴史文化交流館いわいの郷
■乗場古墳(のりばこふん)
■茶臼塚古墳
■丸山塚古墳
■鶴見山古墳
※丸山古墳・・・ルートから外れており、時間セーブのため、未達
□一乗寺/寺坂吉右衛門の墓・・・「赤穂浪士討入凱旋の旅」番外編の一環にて墓参
(久留米市)
※筑後国分寺跡・・・・夕方、時間切れにて、未達
※筑後国分尼寺跡・・・同上
※筑後国府跡・・・・・同上


原鶴温泉(朝倉市)から筑後川を渡り、筑後吉井駅(うきは市)へ。

今日の jitensha @筑後吉井駅。
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前日の夕方、筑後吉井駅に到着したときは、未知の地であり、先ずは宿へ急ごうと、駅舎や吉井町の白壁の街道筋は目で楽しみ、写真は撮らなかった。
今朝は輪行便の到着時刻までまだ間があり、写真を数枚、撮った。

筑後吉井駅は、街道筋の建物と同様に、白壁海鼠塀を模した造り。
駅前のポストは昔ながらの赤ポスト。
その脇のポールの先端には丸型時計。
ポールの台座には、白いタイルに藍色で「寄贈 創立25周年記念 浮羽ロータリークラブ 平成8年4月29日」と記されている。
更に、白タイルに藍色で「みどりの清流 白壁と古墳の町 吉井町」の文字も。
この町の売りは、白壁の通りと古墳なのである。
今日は八女市方面へと向かうが、明日は「筑後川流域装飾古墳一般公開」となっており、この町の古墳をじっくりと見分することになる。
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ここで、うきは市について、少し触れておこう。
うきは市は;
・福岡県の南部、筑後地方に位置。
・2005年(平成17年)、浮羽郡吉井町と同郡浮羽町が合併し、うきは市となる。
・西は久留米市田主丸町、南は八女市星野村、北は筑後川を挟んで朝倉市と接し、東は 大分県の日田市に接している。
・市内を久大本線と国道210号が東西に横断する。
・北部を筑後川が流れ、北部から中央部は筑後平野の比較的、平坦な地形で、南部は耳納山地(みのうさんち)の一角を占めていおり、山がちな地形である。

白タイルに藍色で記された「浮羽ロータリークラブ」や「吉井町」の名は、旧・浮羽郡吉井町時代の名残りである。

浮羽郡吉井町と同郡浮羽町の合併後の市名は、漢字で「浮羽市」ではなく、平仮名で「うきは市」である。
地元の人の話によれば、漢字の「浮羽市」だと、旧吉井町民は吉井町が浮羽町に吸収合併されたたように思うからとのこと。
もし、漢字の「浮羽市」となっていたとしても、部外者なら、難しいことは考えず、由緒ある郡の名である「浮羽」を新市名に採用したんだろうなと考えるのだが...。

因みに、この地方は、的邑(いくはのむら)→ 生葉郡(いくはぐん)→ 浮羽郡(うきはぐん) → うきは市と変遷してきている。

筑後吉井駅上りホームにて。
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名所案内
白壁通り 北東500m 徒歩10分・・・昨日、今朝、この通りを走った。
吉井百年公園 南1km 徒歩25分
若宮八幡宮 日岡・月岡古墳 北東1km 徒歩20分・・・明後日、探訪予定。
原鶴温泉 北東3km 徒歩40分・・・投宿先
三連水車 北3km 徒歩40分・・・明後日、訪問予定。
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筑紫吉井駅発、久留米経由、西牟田駅へ。
8:24 筑紫吉井発(久大本線久留米行き)
9:01 久留米着
9:27 久留米発(鹿児島本線八代行き)
9:42 西牟田着

西牟田駅到着。
西牟田駅は無人駅。

今日の jitensha @西牟田駅前。
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駅前駐輪場は何処も同じで、ママチャリだらけ。
その中で、紅一点ならぬ黒一点、ロードバイクあり。
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"COLEL"なるブランドのロードバイクである。
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知らないブランド名である。
調べてみた。
サイクルショップ ASAHI が販売しているロードバイクのようである。

先ず、八女古墳群のうち、西側に位置する「石人山古墳(せきじんやまこふん)」、「弘化谷古墳(こうかだにこふん)」と、隣接の「広川町古墳公園資料館」を目指し、出発。

西牟田駅から県道84号線を東へ、知徳交差点を右折し、県道86号線を南下。
目的地は、県道86号線の右手(西側)となるのだが、入る道を通り過ぎてしまい、手持ちの地図ではよく分からず、スマホで検索。

最初に、広川町古墳公園資料館に立ち寄ろうと思っていたが、スマホに従い、走っていると、目的地のひとつ、石人山古墳に至った。
a0289546_17444522.jpg

フォト:2018年10月20日

(つづく)





# by ryujincho | 2018-10-23 23:30 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/四日日、筑紫野市/五郎山古墳(下)』 kk-29

10月19日(金)、雨、晴れ、雨、晴れ。
朝、壱岐島を出発、九州郵船ジェットフォイルとJR鹿児島本線を利用して、博多経由、筑紫野市原田の五郎丸古墳へ。

五郎丸古墳。
先ず、古墳館で、映像や展示パネルで装飾壁画のあれこれをベンキョー、そして、館内に設けられた石室(レプリカ)に入り、石室内の様子を事前ベンキョー。
つづいて、古墳と実際の石室内見学。
再び、古墳館に戻り、まだ目を通していない展示資料を中心に館内をめぐる。

本ブログでは<資料編>的にまとめておきたい。

古墳に描かれた壁画。
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古墳に描かれた壁画
五郎山古墳の壁画は、玄室の奥壁を中心に、側壁と玄門の袖石に描かれています。
壁画は全部で79か所あります。
赤、黒、緑の三色が使われ、描かれた当時は鮮やかな色彩を放っていたと思われます。
この壁画に古代人が何を描きたかったのか謎につつまれていますが、魂を黄泉の国へ運ぶと考えられた「船」や、魂を守護するための「靭(ゆき)」や「弓」などの武具が人物などよりも大きく描かれているいことから、これらの壁画が”死者への鎮魂”を願っていたものと思われます。
人物系や動物系などの壁画は”死者の生前の姿”を描いたのではないかとも考えられます。

人物系=騎馬人物・人物
動物系=馬、猪、犬、鳥など
器物系=靭・鞆・弓・幡・建物・船など
文様系=同心円文・円文・三日月門・珠文など
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玄室奥壁・側壁の壁画展開図。
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装飾壁画の解析。
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装飾壁画の解析
次に掲げたパネルは、1400年の歳月を経て薄くなった壁画をコンピューターを使って再現しました。
当時の人が壁画に何を描こうとしたのか探ってみたいと思います。
ここに取り上げた絵は、奥壁と側壁に描かれたもので、ハイビジョンで撮影したものをコンピューターで補色しました。
五郎山古墳の壁画は大胆に表現されています。
でこぼこの岩肌に膠で溶いた粘り気のある顔料で描いたと思われることから、細やかな描写は難しかったのではないでしょうか。
当時の人は描こうとしたものの特徴を簡潔に表現しています。
たとえば、「船」はゴンドラのように舳先と艫を強調しています。
この描き方は、熊本県山鹿市の弁慶ヶ穴古墳や吉井町の珍敷塚古墳などにも共通しています。
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(メモ)
・熊本県山鹿市/弁慶ヶ穴古墳:いずれ探訪したい候補とする。
・吉井町/珍敷塚古墳:
 吉井町とは福岡県浮羽郡吉井町のこと。
 現在は同郡浮羽町と合併し、うきは市吉井町である。
 明後日、筑後川流域古墳探訪の一環として訪問の予定としている。

船(魂を運ぶ船)。
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船(魂を運ぶ船)
上段/補色前
下段/補色後
玄室左の壁画に描かれた船の絵でず。
舳先と艫は2本の線で描かれ、この船が準構造船であることを示しています。
船の中央に描かれた四角い箱のようなものは、死者の魂を入れた棺とも屋形ともいわれています。
船の周りに散らばる珠文は「宿星(夜空に散らばる星)と考えられています。
このことから、死者の魂を乗せ、夜の冥界に漕ぎ出す船の図ではないかと推測されます。
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準構造船とは;
・丸木舟を船底にして、舷側板などの船材を結合した船のことである。
・丸木舟から準構造船、そして、すべて板材を結合した構造船へと船の建造技術は変遷。
これは、本ブログの第21話「原の辻遺跡ガイダンス施設」で触れた通りである。

動物(槍か矢が刺さった猪)
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動物(槍か矢が刺さった猪)
上段/補色前
下段/補色後
左を向いた4本足の動物の絵です。
頭に鹿のような角がないことから「猪」ではないかと推測されます。
背中に赤いものが描かれていますが、おそらく槍か矢が刺さった状況を描いたのではないでしょうか。
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靭。
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靭(ゆき)
上段/補色前
下段/補色後
赤で縁取りされた鼓のような形をしたものは「靭(ゆき)」という矢をいれる筒です。
上に見える赤い棒のゆなものは「矢」です。
人物と比較して大きく描かれているのは、靭が死者の魂を守護すると考えられていたからです。
桂川町の王塚古墳のように、壁面に多数の靭を描いた例もあります。
五郎山古墳の壁面には、3つの靭が描かれています。
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桂川町(福岡県嘉穂郡)の王塚古墳の装飾壁画は今年4月に見学。
石室内でガラス越しに装飾壁画を見学したが、保存状態はよろしくなく、よくは判別出来なかったというのが正直なところである。
一方、隣接の王塚装飾古墳館に設えられたレプリカの石室は見事なもので、その色彩に圧倒された。

盾を持つ騎馬人物。
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盾を持つ騎馬人物
上段/補色前
下段/補色後
馬にまたがり、右手に四角いものを持つ人物が描かれています。
おそらく盾ではないでしょうか。
左手には赤い棒のようなものが描かれており、剣か槍を描いたのではないかと思われます。
また、馬の尾には赤い飾りがついていることがわかります。
左の2頭の動物も馬ではないでしょうか。
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人物(神殿に祈りを捧げる女性)。
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人物(神殿に祈りを捧げる女性)
上段/補色前
下段/補色後
左の絵は、建物を描いたと考えられます。
角のように飛び出したものは、切妻の屋根ではないでしょうか。
右の人物は、スカートのような裾の広がった着物で、手を前に捧げた姿をしています。
左の建物に向かって祈りを捧げているのではないかと思われます。
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騎馬人物(旗を差した馬に乗る人物)
上段/補色前
下段/補色後
奥壁上段の壁画です。
左端の2重丸の絵は、同心円文と呼ばれるもので、中国古代思想の影響を受け、太陽を表しているといわれています。
右下の騎馬人物は、馬にまたがり、弓を引く人物を描いており、馬の尾の上には赤い縁取りの旗指し物があります。
この人物は五郎山古墳の被葬者ではないでしょうか。
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代表的な石室の壁画、5例。
上段、左/五郎山古墳、右/王塚古墳(その1/玄室奥壁)
中段、左/珍敷塚古墳、右/王塚古墳(その2/前室後壁)
下段、左/日ノ岡古墳、右/竹原古墳
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※五郎山古墳(福岡県筑紫野市原田)・・・今回、探訪
※王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町)・・・・今年4月、探訪
※珍敷塚古墳(福岡県うきは市吉井町)・・・明後日、探訪の予定
※日ノ岡古墳(同上)・・・・・・・・・・・同上
※竹原古墳(福岡県宮若市竹原)・・・・・・今年4月、探訪

古墳から出土した品々。
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古墳から出土した品々
五郎山古墳の副葬品は、以前に盗掘されたり、行方不明になったものもあり、全体にはよくわかっていません。
しかし、調査したときの記録などによれば、次の出土資料がわかっています。

出土遺物実測図
碧玉製管玉 碧玉製珠 ガラス製小玉 金環 金環 
刀子 刀装具
0-5cm スケール

須恵器:坏蓋・坏身・高坏・蓋長脚高坏(有蓋・無蓋)・盌・椀・提瓶・平瓶・甕
土師器:椀
装身具:ガラス製勾玉・碧玉製管玉・ガラス製小玉・金環・銅釧
武 器:鉄鏃・刀子・刀装具
馬 具:心葉形杏葉(鉄地金金銅張)
その他:砥石
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出土品をアップで。
上段、須恵器 左/坏蓋(つきぶた)・坏身(つきみ)、右/同左
下段、須恵器 左/盌(まり)、央/平瓶(ひらべ)、右/提瓶(さげべ)
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古墳の発見とその後。
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五郎山古墳の発見
五郎山古墳は昭和22年(1947)10月、土地の所有者であった山内弥之助さんによって発見されました。
「古墳発見申告書」によれば、弥之助さんは父親から所有地に古墳らしきものがあるので注意するようにと言われていました。
10月11日、土地が埋没しているところをみつけてスコップで突いたところ、石室が発見されました。
中に入ってみて、絵がたくさん描かれていることに驚いた弥之吉さんは、さっそく村役場に届けました。

写真/発見者の山内弥之助さん
写真/昭和22年頃の五郎山古墳
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第1回調査と史跡指定
山内さんから発見の報告を受けた福岡県は、史蹟調査委員の鏡山猛氏、森貞次郎氏、臨時委員に京都大学の小林行雄氏を選任し、昭和22年11月20日から12月6日にかけて調査を行いました。
このとき、石室内はすでに盗掘を受けており、わずかな人骨の破片と須恵器が採集されただけでした。
しかし、玄室の奥壁を中心に騎馬人物や動物、靭や弓、船などの彩色画がたくさん描かれていることがわかりました。
この調査結果から貴重な装飾古墳であることが判明し、昭和23年(1948)3月16日、仮指定を受け、昭和24年(1949)7月13日付けで国の史跡に指定されました。

写真/小林行雄先生が記録した調査日誌(昭和22年11月20日)
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保存への歩み
昭和25年(1950)、石室の天井部に開いていた盗掘坑をふさぐ復元工事が行われ、昭和34年(1959)には、羨道部入口に鉄筋コンクリート製の覆屋が建設されました。
これによって、石室内部の見学が可能になりました。
その後、地元原田の人たちが「五郎山古墳保存会」を結成し、見学者の案内や古墳の清掃などに取り組んで来ましたが、石室内にカビが発生したり、見学者のいたずらが相次いだため、昭和53年(1978)に閉鎖しました。
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保存整備計画と第2回調査
平成5年(1993)、五郎山古墳の保存と壁画の公開を図るため、「五郎山古墳保存整備基本計画策定委員会」が発足しました。
この中で、地質調査や石室内の温湿度観測など、基礎的なデータを得るための調査を行いました。
また、考古学的な確認調査を平成6年から8年にかけて3次に亘って実施しました。
調査は、福岡大学の小田富士雄氏を中心に行われ、墳丘の規模や構造、石室内の再調査、周溝・前庭部の確認などが行われました。
調査成果を基に、平成9年(1997)から「ふるさと歴史広場保存整備事業」に着手し、墳丘の復元、観察室の設置、五郎山古墳館の建設、周辺整備などを行い、平成13年(2001)3月に完成しました。

図:第2回調査におけるトレンチ配置図
写真:第2回五郎山古墳調査風景
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奥/かなりの大きさに拡大、再現された玄室奥壁の壁画。
点前/壁画に描かれた人物・動物などの再現フィギュア。
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再現フィギア。
左から、人物(祈りを捧げる女性)、人物(袴のようなものをはいた人)、人物(矢を射る人)、人物(手を挙げる人)、動物(犬)、騎馬人物(写真は一部欠落ながら)。
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「つくしの散歩 国指定史跡 五郎山古墳」(筑紫野市教育委員会作成リーフレット)。
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国指定史跡
五郎山古墳
五郎山古墳は、1947年10月11日に土地所有者であった山内弥之助氏により発見されました。
山内氏は同月20日に、村を通じ福岡県にその旨を報告し、県教育委員会は史蹟調査委員であった鏡山猛氏、森貞次郎氏、さらに臨時委員として小林行雄氏を加え、調査を行いました。
そして、1948年3月16日に仮指定となり、1949年7月13日には国の史跡に指定されました。

五郎山古墳は途中に段をもつ円墳です。
墳丘の裾には幅(平均)2mの溝が巡り、その内側に幅(平均)1.5mのテラスが設けられています。
その外周で測った墳丘の直径は東西32.5m、南北31.8mで、上から見た形は正円に近い形をしています。
さらに、幅(平均)2.3mのテラスを挟み、二段目が築かれています。
二段目テラスは、テラスの内側で東西17.3m、南北20.3mで、やや後方が高く、卵を縦割りにしたような形をしています。
石室入口の前方は、緩やかな扇形となり、墳丘との境には石が並べてあったと考えられます。
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まことに分かり易い、墳丘に関わる解説である。
この解説を読みながら、リーフレット掲載の航空写真も眺める。
現場をこの目で見分しており、容易にイメージ出来る。
航空写真をアップで。
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リーフレットの裏面にも目を通す。
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五郎山古墳の石室は複室の横穴式石室です。
石室の全長約11mで、ほぼ完全な状態でのこっています。
羨道の長さ3.6m、幅1mほどで、高さは前室側で1.4m、入口側が0.9mと羨道のなかほどから入口部分に向かって天井が低くなっています。
この羨道を抜けると、幅2m、奥行き1.6mほどの前室があります。
高さは2m余りと考えられます。
さらに、その奥に玄室があります。
玄室は幅3m、高さ4.2m、高さ3.5mほどです。

壁画は前室と後室に描かれていますが、後室奥に最も多くの絵が描かれています。(筆者注:ここでいう「後室」とは「玄室」のことと理解する)

腰石には、右端に鞆や靭、弓などの弓に関する道具が描かれています。

中央部には、上から鳥、同心円文、靭、船が描かれ、右端と中央部の絵の間には、冠をかぶった人物や矢が刺さった動物、スカート状の着物を着た人物などが見られます。

中央部の鳥の左には動物が描かれ、この動物を狙うように、右下に矢を構えた人物がいます。

その下には鎧兜を身につけ、太刀をもった騎馬人物、その左上に動物が上下に描かれています。

祈るようなポーズの人物、さらにその左下には両手両足を広げた人物が描かれています。

これらの最下段には、はしご状の幡か楯をもった騎馬人物が見られます。

左端には切妻造りの屋根をもつ家、動物が上下に描かれています。

腰石の上に置かれた方形の石には同心円文、その右側に左手を腰に当て、右手を上げたポーズをとる力士と思われる人物、その下にも動物と人物が描かれています。

右側には旗をなびかせ、矢をつかえた騎馬人物があり、その右上には円文が描かれています。

後室側壁では西側奥の腰石に船と16個の小さな丸、東側奥の腰石とその上の石にそれぞれ船が描かれています。

さらに船は前室奥壁側の両方の袖石にも見ることができます。

五郎丸古墳が造られた時期は古墳や石室の形体や出土遺物から6世紀後半と考えられ、当時のこの地域の豪族の墓と思われます。
近くには古代の文献にも登場する筑紫神社があり、この神社が筑紫君と何らかの関係を持つことが想定されており、葬られる人物も筑紫君と関わりがある人物かもしれません。
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五郎山古墳について、随分とベンキョーした。
ということで、ちょっと息抜き。
こんな趣味もいいかも。
小石に壁画を模写。
左上は竹原古墳の壁画の一部(ぱっと見ただけで、それが分かるんやでぇ!と自慢げな気持ちが湧く)。
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参考情報。
「熊本県内 装飾古墳一斉公開」の案内ポスター。
福岡県と並び、熊本県も有名な装飾壁画を有する古墳が多く、是非探訪したみたいと思い、参考資料としてカメラに収めた。
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平成30年の一般公開対象古墳は次の通り。
井手古墳と石之室古墳については、「熊本地震からの復旧状況を説明します。石室内には入れません」との注釈あり。
あの激震、さもあらん。
(下記の※印は筆者の参考用としてメモしたもの)
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右:
・横山古墳(山鹿市)
・宇賀岳古墳(宇城市)※線刻装飾あり
・井寺古墳(嘉島町)※国指定史跡、装飾あり
・石之室古墳(熊本市)※国指定史跡・塚原古墳群に属する
・鍋田横穴群(山鹿市)※国指定史跡、61基中、16基が装飾横穴
・田河内第1号古墳(八代市)※県指定史跡、線刻装飾あり
左:
・石貫穴観音湯尾小穴(玉名市)※国指定史跡
・石貫ナギノ横穴群(玉名市)※国指定史跡
・永安寺東古墳(玉名市)※永安寺東古墳、永安寺西古墳とも国指定史跡、装飾あり
・大坊古墳(玉名市)※国指定史跡、装飾あり
・塚坊主古墳(和水町)※近傍の江田船山古墳・虚空蔵塚古墳と共に国指定史跡、装飾あり
・京が峰横穴群(錦町)※県指定史跡、線刻装飾あり
・大村横穴群(人吉市)※国指定史跡、27基の横穴群、線刻装飾あり
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・弁慶ヶ穴古墳(山鹿市)
※国指定史跡、装飾あり※前掲の展示パネル「装飾壁画の解析」で「弁慶ヶ穴古墳(山鹿市)」が挙げられていたので、備忘録として、ここに書き加えておく次第。

時計を見る。
12時55分、昼時を過ぎている。
古墳館のスタッフさんにこの辺りで昼食の摂れる店を訪ねる。
大通りに出たところに「井手ちゃんぽん」なる店があると教えて貰った。
詳しい解説と案内をしてくれたスタッフさんに礼を述べ、五郎山古墳を出発。

ちゃんぽんの全国区は「リンガーハット」で、「井手ちゃんぽん」の名は初めて聞くもの。
佐賀県武雄市で創業、「野菜たっぷり60年 昭和24年創業」とある。
創業は、五郎山古墳が発見、調査された頃とほぼ同じ頃で、これも何かの縁か。
メニューを見て面白かったのは、麺の量と野菜の量の組み合わせがいろいろあることだった。
旨かったのは申すまでもなきことかと。

「井手ちゃんぽん」で昼餉を終え、原田駅へ。
当初の予定では、次の通りであった。
13:42 原田発(鹿児島本線快速久留米行き)
13:58 久留米着
(待ち時間22分)
14:20 久留米発(大久本線日田行き)
14:52 筑紫吉井着

しかし、五郎山古墳でベンキョーをし過ぎ、時間超過。
そして、昼餉も摂ったので、13:42 原田発には間に合わず。

14:02 原田発(鹿児島本線快速原田行き)/14:17 久留米着に乗車。
原田駅を出発した後、車掌さんが車内を回って来た。
この電車の到着ホームが久大本線ホームと同じであれば、乗り換え時間は3分あるので、当初予定の、14:20久留米発筑紫吉井行きに間に合う。
車掌さんの答えは、同じホーム、ということであった。
よし!間に合う、と思いきや、我らの乗っている電車の久留米駅到着が少々遅れた。
同じホームだから、大丈夫と思いきや、九大本線は同じホームのずっと先にある、いわゆる、切欠きホームであった。
jitensha を携え、大急ぎで走る。
何とか、ぎりぎり間に合った。

筑紫吉井駅で下車。
筑紫吉井駅は、うきは市。
宿は、筑後川を渡った朝倉市の原鶴温泉。
筑紫吉井駅から原鶴温泉を目指し、走る。
途中、翌々日に探訪予定の、日岡古墳・月岡古墳を通り過ぎる。
筑後川左岸に至る。

坂東太郎、筑紫次郎、四国三郎、そんなことを思いながら、筑後川を渡る。

原鶴大橋から筑後川の下流方面を眺める。
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さあ、明日は八女市の八女古墳群めぐり、そして、明後日は筑後川流域古墳めぐり、愉しみ、愉しみ...。

フォト:2018年10月19日

(つづく)




# by ryujincho | 2018-10-23 23:29 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/四日日、筑紫野市/五郎山古墳(中)』 kk-28

10月19日(金)、雨、晴れ、雨、晴れ。
朝、壱岐島を出発、九州郵船ジェットフォイルとJR鹿児島本線を利用して、博多経由、筑紫野市原田の五郎丸古墳へ。

原田の読みは、「はらだ」ではなく、「はるだ」。
九州では「原」のつく地名は「はる」と呼んでおけば、先ず、間違いはない。

五郎丸古墳。
先ず、古墳館で、石室の壁画を事前ベンキョー。
館内に設けられた石室(レプリカ)に入り、石室内の様子を事前ベンキョー。
つづいて、古墳と実際の石室内見学へ。

古墳館は丘の南西角にある。
南側からぐろっと回って、古墳がある丘の上へと向かう。

丘の上は公園となっている。
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「県内文化財一斉公開 ふくおか歴史 彩 発見」と染め抜かれた幟旗。
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五郎山古墳の墳丘全貌と石室入口(南西側)。
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石室入口の掲示された貼り紙。
「石室公開 10月20日(土)9:00~16:00」。
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今年4月、遠賀川流域の古墳をめぐった。
遠賀川流域の古墳は、春と秋に一般公開を行っており、春の部を狙っての探訪であった。
五郎丸古墳は遠賀川流域からも筑後川流域からも離れているが、筑後川流域古墳の一般公開(今年は10月20日)に合わせて行っているようである。
五郎丸古墳の石室の一般公開は10月20日であるが、我らは一般公開とは別に事前予約をしていたので、この日(公開日の前日)の見学と相成った次第である。

石室内を見学する。
石室内は撮影禁止(先刻、古墳館でレプリカの石室に入り、数多の装飾壁画をカメラに収め済み)。

墳丘を裾下から眺める。
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墳丘の西側の裾からずっと下がると「学びに場」と名付けられた区画となっている。
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説明書きに目を通す。
リーフレットや古墳館の展示資料で目を通している内容とほぼ同じだが、現場で古墳を前にして目を通す説明書きはまた格別である。

左/説明文。
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五郎山古墳
五郎山古墳は、古墳時代にこの地方を治めた豪族の墓で、昭和22年(1947)年に地元の人によって発見されました。
すでに盗掘を受けていましたが、石室にたくさんの壁画が描かれているなどから、昭和24(1949)年に国の指定を受けました。
古墳は、6世紀の中頃(約1400年前)に築かれた円墳で、直径約32m、高さは約7mあります。
古墳の周りには周溝と呼ばれる浅い溝が巡っています。
墳丘の中には、全長約11mの横穴式石室があり、壁面には「馬にまたがった人」「祈りを捧げる人」「弓を引く人」などの人物画や、被葬者の冥福を祈るための「鳥」、「船」、魂を守護したといわれる「靭」「弓」など、当時の人々の生活や考え方を知ることのできる貴重な絵が「赤」「黒」「緑」の3色を使って描かれています。
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戦後、間もない頃にも拘らず、文化財の保護活動がなされている、各地でこうしたことを目にし、感慨に更けるのである。

右/五郎山古墳奥壁に描かれた色彩画。
随分と汚れている。
資料とはいえ、折角の装飾壁画であり、もう少しきちっと管理して貰いたいものである。
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更に斜面を下ると、墳丘断面模型と共に4種の説明が添えられている。
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石室内部断面模型。
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五郎山古墳の形。
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五郎山古墳は、径約32mの円墳です。
墳丘は、上下二段に築かれており、幅約1.5m~2.3mのテラス(平坦面)が巡っています。
これは、高く築いた古墳の斜面が崩れないようにするための工夫です。
古墳の廻りには幅約2m、深さ約0.3mの「周溝」と呼ばれる浅い溝が巡っています。
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五郎山古墳 平面図。
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五郎山古墳 墳丘断面図。
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築造方法。
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築造方法
現存している墳丘は高さ約6mで、1段目までは元の丘陵と削って形を整えた(地形整形)ものです。
2段目からは、土を薄く突き固め、層を重ねて盛る「版築技法」で築かれています。
確認調査の結果、墳丘が崩れて低くなっていることがわかったので、整備にあたり、築造当時の高さ(約7m)まで復元しました。
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古墳探訪を始めたばかりの頃は、古墳は版築方法で築造されたものと思い込んでいたが、各地の古墳をめぐるに連れ、地形整形の古墳があることを知った。
五郎山古墳は、丘陵全体の地形から見て、地形整形であることがよく分かる。

墳丘の周囲をぐるっと回り、二段築、テラス(平坦面)、周溝跡を実地見分する。
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本ブログを綴りながら、今一度、前掲写真と断面図を見比べてみる。
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実地見分、拡大写真。
手前の黒い部分はアスファルト舗装の遊歩道。
その奥の、ざらざらした黒い個所は周溝跡の復元。
そして、2段築の墳丘(薄茶色の個所はテラス)。

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五郎山公園案内図。
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この図は方位は北が右となっている。
上を北にするよう、90度、左回転した図がこちらの図。
こちらの方が頭の中で方位を<変換>しなくて済む。
即ち、古墳館は丘の南西角(左下角)、五郎山古墳は丘陵部の南側(下端)に位置し、石室開口部は南西側である。
この案内図には、石室開口部の方角もしっかりと読み取れるよう描かれている。
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木々が開けている東側から、多分、あの辺りが大宰府であろうと想像しながら遠望する。

丘を下り、古墳館に戻る。

フォト:2018年10月19日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:28 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/四日日、筑紫野市/五郎山古墳(上)』 kk-27

10月19日(金)、雨、晴れ、雨、晴れ。
この日の探訪先は、筑紫野市原田の五郎山古墳。
原田の読みは、「はらだ」ではなく、「はるだ」。
九州では「原」のつく地名は「はる」と呼んでおけば、先ず、間違いはない。

7:55 芦辺港発/9:00 博多港着の九州郵船ジェットフォイル”VENUS”に乗船。

朝、宿を出るときは雨が降っていた。
宿のマイクロバスで港まで送って貰った。
ジェットフォイルに乗船する頃には雨は止み、天気は回復。
往路に比べ、波は高い。
波に上手く乗りながらの航行、流石、九州商船!
博多港入港、桟橋に着桟直前に浮遊物を吸い込んだとのことで暫し停船。
予定より若干遅れて着桟。
乗車予定の電車は10:06JR博多駅発(鹿児島本線快速)/10:26 原田着なので、博多港着は若干遅れたが、余裕あり、何ら問題なし。

ベイサイドプレイス/博多埠頭、壱岐・対馬行きのりば。
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我らを壱岐へ、そして、博多へ運んでくれた九州郵船/ジェットフォイル"VENUS"。
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博多港からJR博多駅まで自走。
予定通りの電車に乗車。
途中から雨が降り出した。
原田駅に到着した時もまだ、降っていた。

五郎丸古墳は事前予約しておけば、見学は可能とのことにて、10時40分で予約していた。
原田駅から「駅に到着していますが、雨が降っており、駅で雨宿りし、止み次第、参ります」と電話。
少し待ったところで、上手い具合に止んでくれた。

原田駅から自走にて五郎山古墳へ向かう。

五郎山古墳館。
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古墳および石室内見学の前に、館内で映像による解説やパネル資料、そして、レプリカの石室などで事前ベンキョー。

映像解説。
「よみがえる装飾壁画 五郎山古墳」。
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映像解説による予習は勿論のこと、帰宅後の復習もせねばならぬことにて、映像解説の主だったところはカメラに収めさせて貰ったが、著作権の関係があり、ブログへのアップロードはタイトルだけに止め、解説部分の画像のアップロードは控えることとする。

なお、映像解説の主な事項は次の通りである。
・五郎山古墳が築造されている丘陵の全景
・五郎山古墳の上空からの航空写真
・五郎山古墳の規模
・仁徳陵古墳(原文のまま)(5世紀、大阪市)、岩戸山古墳(6世紀、八女市)、御塚古墳・権現塚古墳(5世紀、久留米市)などの紹介
・九州の古墳分布、基数など
・竹原古墳(6世紀、若宮市)、チブサン古墳(6世紀、熊本県)などの装飾壁画
・直弧文、同心円文、三角文、わらび(蕨)手文などの解説
・五郎山古墳の装飾壁画の詳細解説(図柄と人物埴輪、動物埴輪、形象埴輪などとの対比解説もあり。絵具の解説もあり)

4月中旬、遠賀川流域の装飾古墳(王塚古墳、竹原古墳ほか)をめぐったことでもあり、映像解説の内容はすっと頭の中に入った。

映像を眺めながら、竹原古墳の装飾壁画を実際にこの目で見ることが出来、感激したことが甦った。
また、竹原古墳の見学時に「竹原古墳の被葬者は不明ながら、筑紫君磐井に連なる人物の墓と推定され、筑紫君磐井の墓は岩戸山古墳」との説明を聞き、そのとき、是非、次の機会に岩戸山古墳を探訪したいと思い、今回の旅の五日目に探訪することにしたのであった。

続いて、古墳館内に再現された石室内に入っての説明となる。
その前に、パネル資料で装飾壁画の予習を。
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上段、上、左から/同心円文、人物(2ヶ所)、旗、騎馬人物、円(2ヶ所)
上段、左(矢印)/動物
上段、右(矢印)/珠文(2ヶ所)
下段、左(矢印)/動物、鳥、家、動物(2ヶ所)
下段、右(矢印)/同心円文、珠文、弓、鞆、動物、靭
下段、下、左カラ/騎馬人物、人物(6ヶ所)、騎馬人物、珠文、船、三日月形文



古墳館内に再現された石室内に入る。
貸与されたヘルメットを被り、手に懐中電灯を持つ。

羨道の高さは結構低い。
腰を屈めて奥へと進む。
内部は暗い。
暗いから距離が長いように感じる。

前室に近づくに連れ、徐々に高さは高くなって来る。
前室の玄室入口近くから袖石、そして、微かに見える玄室内を見通す。
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玄室に入る。
常設の仄暗い照明に浮かび上がる、正面の壁に描かれた装飾壁画。
レプリカといえども、興奮する。
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演出であろうか、常設の照明が少し明るくなる。
案内人さん、武衛さん、小生の懐中電灯も駆使し、壁画を浮かび上がらせる。

正面壁の壁画、左右側壁角の壁画。
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正面/上下段。
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正面/上段。
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正面/下段。
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左・側壁角・下/船と16個の丸。
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右・側壁角・上/船と2個の丸。
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右・側壁角・下/船。
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玄室から前室へ戻る。
玄室入口の袖石に描かれた壁画を探す。

左、袖石/一筆で小さく描かれた船。
「舟」と書いた方がよいかもしれないくらに、細く、小さく、描かれている。
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同、上部に描かれた船。
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右、袖石に描かれた船。
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レプリカの石室内から外の出る。
案内人さんから「この中に入る前に、あとでお教えすることがありますと申し上げました。今からお教えします」との言葉があり、レプリカの石室に施された仕掛けについて、ネタばらしがあった。
それは、レプリカの石室が左右に割れることであった。
電動で内部が左右に割れ、壁が移動する仕組みになっていたのだ。
我々、健常者は羨道を這って行ったが、体の不自由な人も内部の見学が可能となるように作られているとのことである。
レプリカの石室内に入る前に写真は撮り忘れたので、before/after の比較写真とはならないが、after の写真、オープン状態がこれだ!
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石室展開図(リーフレット「ちくしの散歩 国指定史跡 五郎山古墳」より)
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石室の規模。
・全長 11.2m
・羨道、前室、玄室からなる横穴式
・羨道 長さ3.6m、幅1m、高さ0.9(入口側)~1.4m(前室側)
※石室展開図を見ると、羨道を内部へ進むほど、高さは徐々に高くなっていることがよく分かる。
・前室 奥行き1.6m、幅2m 高さ2m
・玄室 奥行き4.2m、幅3m、高さ3.5m

次は、古墳、そして、実際の石室内見学である。

フォト:2018年10月19日

(つづく)










# by ryujincho | 2018-10-23 23:27 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(14)海岸線を走る』 kk-26

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐焼酎の猿川伊豆酒造所をカメラに収め、鍛冶屋さんと歓談。
壱岐島最古の古墳、大塚山古墳を実地見分。
壱岐市立一支博物館、原の辻遺跡ガイダンス施設で事前ベンキョーし、原の辻遺跡を実地見分。
国府跡といわれる興神社を訪ね、壱岐国総社の壱岐総社神社は近くまで行くも諸般の事情でパス。
原の辻から幡鉾川左岸の崖の上の道を通り、海岸線へ。
この日最後の立ち寄り先、日本のモンサンミッシェル、小島神社を対岸から参拝。
小島神社をあとにして、海岸沿いを走り、一路、芦辺港近くの宿へ。

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「ちょっと、待ってくださ~い! フォト・タイム、お願いしま~す!」。
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走って来た道。
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小島神社が鎮座する小島。
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九州電力の発電所がある青島とその対岸の半島。
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道を渡り、護岸にもたれ、内海湾に浮かぶ小島を眺める。
時計を見る。
午後4時20分。
夕日にはまだ少し早い。
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日本のモンサンミッシェル、小島と小島神社の眺望を十分に楽しんた。
「フォトタイム、サンキューです」。
再び、走り始める。

青島に繋がる青島大橋北詰を過ぎる。
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青島大橋を背景に神社が鎮座している。
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目を凝らし、鳥居の扁額を読み取る。
「金刀比羅神社」と刻まれている。
金刀比羅神社は、讃岐・琴平町の、象頭山中腹に鎮座する金刀比羅宮を総本宮とする神社で全国に存在。
仕事柄、そして、極々近しい人が讃岐出身なので、琴平の金毘羅宮をはじめ金毘羅神社や琴平神社にしばしば参拝。

鳥居をくぐり、参拝せねばならぬところながら、欠礼して道路側から参拝。
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扁額コレクション。
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壱岐には小さな祠も含め1000以上の神社があると宿の人から聞いた。
今回の旅は古墳探訪がメインであったが、祀られた神さまには失礼ながら、行き当たりばったりも含め、何社かの神社にも参拝させて貰った。
参拝した神社を備忘録としてここに挙げておきたい。
月読神社、片国主神社、興神社、括弧付きで壱岐総社神社、小島神社、そして、ここ、金刀比羅神社の5社+括弧付き1社である。

更に海岸沿いを走る。
道路地図に加え、宿で貰った「宿から小島神社への行き方」の手書き地図も参考にして走っており、宿の地図に記載された目印、八幡小学校が見えて来た。
東へのびる八幡半島のくびれ部を北へ抜け、北側の海岸線を北西へ走ると、芦辺港方面へ向かうこととなる。

八幡小学校を左手に見ながら、北側の道に出る。
こちらの海岸線は先ほどの内海湾の平穏な海とは異なり、玄界灘の荒波が消波ブロックに打ち寄せている。
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波はひとつとして同じ形で打ち寄せることはない。
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正面に目を遣る。
こうした波を見ると横山大観が描く海に思えてくる。
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正面から右手に目を移す。
半島の沖合に白い船体色の船が見える。
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船をズームアップする前に、もうひとつ、横山大観風を。
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沖合を行く船はフェリーのようである。
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波はいろんな形で打ち寄せては引き、引いては打ち寄せて来る、ずっと眺めていても飽きない。
瀬戸内海で育った筆者は、殊の外、外海の波に目を惹かれるのである。
太平洋であれ、日本海であれ、そして、玄界灘であれ。
しかし、あの東日本大震災のときの巨大津波のことを思うと、斯様なことを申してははいけないのかもしれないが...。

海、そして、打ち寄せる波を眺めていると、エンドレスとなる。
時計は夕方4時40分を指している。
そろそろ、博多発芦辺港着・発の九州郵船/ジェットフォイル”VENUS”が沖合に姿を現す頃である。
その姿が見られるのではないかと海を眺めつつ走る。

ところが、雨がパラパラして来た。
先ほど、小島神社の対岸で、工事中のおっちゃんらと歓談しているとき、山の方で雷が鳴っているような音を聞いた。
このまま走れば、濡れてしまう降り方になって来た。
ちょうど、そのとき、「小坂うに店」の建屋が見えて来た。
店は閉まっているが、軒先を借り、暫し、雨宿り。
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すると、奥から主人らしき男性が現れた。
「軒先をお借りしています」と挨拶し、暫し、会話。
温暖化の影響で、壱岐周辺ではウニの取れ高が減少しているとのこと、先ほど、幟旗で見た「長寿牡蠣」は寒くなってからとのことなど。
雨は小降りとなった。
礼を伝え、出発。

本ブログを綴るに際し、壱岐のウニについてネット検索してみた。
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長崎県のうにの資源は豊富であり、壱岐、対馬、南・北松浦郡、西彼杵郡でとれるが、主産地は壱岐で県下の76%を産する。
従来、長らく下関などへ原料として供給されてきたが、近年地元での加工が盛んとなり、昭和60年以降目覚しい発展を遂げている。 
壱岐うには、高級品として関東方面でのブランドイメージが確立している。
本県の加工うに(粒うに)の生産量は、全国シェアの14%を占め、山口県に次いで第2位である。
起伏にとんだ海岸線を持つ長崎県には、荒磯が育てた品質のよいうにが豊富で、五島列島・壱岐・対馬・西彼杵郡などいたるところで獲れる。
生うに・塩粒うに・磯漬けうになど、各地で製造されているが、甘塩で新鮮な剥き身をたっぷり使った壱岐のうにが特に有名である。
--------------------------------------------------------------------

海の資源は、乱獲はコントロール出来るとしても、温暖化など自然の影響によるものは如何ともしがたい。
ウニの好物である海藻を育て、養殖という手法もあるのだろうが、海水温の影響で海藻は育たないということもあるかもしれず、素人があれこれ述べることではないが、ウニ好きとしては心配だ。

芦辺港の港口の南にある芦辺町芦辺浦の町の中を通り過ぎる。
昔懐かしい風情を感じさせる町である。
雨に濡れることなく、そして、濡れた道で滑って転倒することもなく、無事、宿に到着。
その直後、大降りとなった。
ラッキー!

夕餉に、前日、壱岐風土記の丘の休憩所でJA壱岐さんとの会話で話題となった壱岐牛が遂に登場!
勿論、海の幸も。
初日にキープした壱岐焼酎、猿川伊豆酒造の自然熟成プラス超音波熟成焼酎「猿川 円円」900ミリリットルもいよいよ最後、じっくりと味わって飲んだ。

=備忘録=
今回の壱岐島の旅で探訪した古墳、史跡、参拝した神社、訪ねた博物館・資料館、お世話にたった人々、そして、走行距離を備忘録としてここに纏めておきたい。
(古墳)
鬼の窟古墳、双六古墳、掛木古墳、百合畑古墳群(13号墳、14号墳、15号墳、16号墳、18号墳、号墳不明1基の計6基)、対馬塚古墳、兵瀬古墳、カジバヤ古墳、平原1号墳(但し、遠目に場所のみ視認)、大塚山古墳の計9ヶ所、14基。
※計画するも未達は百田頭古墳群と釜蓋古墳群の2ヶ所だが、対馬塚古墳とカジバヤ古墳の2ヶ所を追加探訪したので、達成率は100%!
(史跡)
原の辻遺跡
(博物館・資料館)
壱岐風土記の丘古墳館、一支国博物館、原の辻ガイダンス施設
(神社)
月読神社、片国主神社、興神社、(壱岐総社神社)、小島神社、金刀比羅神社
(お世話になった人々)
宿のスタッフさん、壱岐風土記の丘資料館のスタッフさん、壱岐風土記の丘であった壱岐JAさん、兵瀬古墳近くの民家の奥さん、山川鍛冶工業所のおやじさん、一支国博物館のスタッフさん、原の辻ガイダンス施設のスタッフさん、小島対岸で工事中のおっちゃん達+九州商船のスタッフさん
(走行距離)
10月17日:24.65km(激坂度:結構きつかったが、激坂の数は一つだけ)
10月18日:29.41km(激坂度:結構きつかった。激坂数は複数、印象深いのは二つ)

フォト:2018年10月18日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-10-23 23:26 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(13)難行苦行、そして、小島神社』 kk-25

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐焼酎の猿川伊豆酒造所をカメラに収め、鍛冶屋さんと歓談。
壱岐島最古の古墳、大塚山古墳を実地見分。
壱岐市立一支博物館、原の辻遺跡ガイダンス施設で事前ベンキョーし、原の辻遺跡を実地見分。
国府跡といわれる興神社を訪ね、壱岐国総社の壱岐総社神社は近くまで行くも諸般の事情でパス。
そして、いよいよ、残るは、この日最後の立ち寄り先、日本のモンサンミッシェル、小島神社である。

午前中、芦辺港近くの宿から走って来た道を戻り、途中から海岸線に出れば、小島神社へ行ける。
しかし、このルートだと、峠を二つ、三つ、越えねばならない。
来た道を戻るか、新たなルートとするかを思案する。

興神社、壱岐総社神社近くから走りながら思案しているうちに、幡鉾川を渡り、原の辻遺跡ガイダンス施設近くに至る。

橋の上から幡鉾川の下流を眺める。
幡鉾川沿いを行けば、海岸に出られる。
そう考え、幡鉾川右岸を西から東へ走る。
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幡鉾川右岸を走りながら、ふと、原の辻ガイダンス施設の案内人さんの言葉が頭に浮かんだ。
その言葉は「川の下流に山が見えるでしょう。あの山の向こうが海です」というものであった。

幡鉾川について、第22話で縷々触れたが、今一度、ここで触れておきたい。
以下はウィキペディアの抜粋である。
-------------------------------------------
幡鉾川は、壱岐島中央部を流れ、東部の内海(うちめ、内海湾とも)に注ぐ二級河川である。
壱岐島では北部の谷江川を上回る最大の川で、流域の全てが長崎県壱岐市に属する。
河内川(こうちがわ)とも呼ばれる。
流域には「物部田原」「木田田原」「深江田原(河内盆地)」といった平野部が広がり、国の特別史跡に指定された原の辻遺跡もこの川の下流域にある。
芦辺町湯岳地区の西にある鉾の木山(標高135m)を水源とする。
本流はまず西、次いで南へ流れる。
柳田方面からの支流が合流した後は東へ流路を変える。
下流域は約3km2の河内盆地が広がり、大原・湯岳・池田・深江といった集落がある。
川は町谷川や池田川などの支流を併せながら、水田地帯の中を東へ流れる。
河内盆地の最下流に原の辻遺跡があり、旧石器時代から中世までの複合遺跡となっている。
内海(うちめ)へ注ぐ河口域は壱岐島を形成する溶岩台地を刻む谷となっていて、両岸に丘陵地が迫る。
水源が標高135mと低いうえに勾配も緩く、流域のほとんどが標高50m以下である。
昔は海だったとも伝えられている。
河内盆地のみならず川に沿ったほぼ全域が水田に利用され、壱岐最大の稲作地帯となっている。
本流に対して流域面積が比較的広く、降った雨が同時に川に集まる。
さらに流れが緩く蛇行が多かったため、流域は古来から洪水が頻発していた。
1952年-1959年(昭和27-34年)に耕地整理事業に伴う河川改修が行われ、幡鉾川の流れは直線化された。
また、1992年-2004年(平成4-16年)にも河川改修が行われた。
但し、度重なる河川改修によって、淡水魚やニホンイシガメなど各種水生生物は大きく個体数を減らした。
-------------------------------------------

ガイダンス施設の案内人さんの言葉「川の下流に山が見えるでしょう。あの山の向こうが海です」と、この解説の中の「内海(うちめ)へ注ぐ河口域は壱岐島を形成する溶岩台地を刻む谷となっていて、両岸に丘陵地が迫る」は同義なのであった。

即ち、
幡鉾川の右岸を西から東へ走るとT字路にぶつかる。
このT字路を左折し、幡鉾川に架かる橋(前掲の写真の奥に写っている橋)を渡る。
すると坂道が始まる。
川の河口近くは平地で、両岸、或いは、右岸左岸何れかの何れかに道があり、楽に海岸線に出られるという勝手な想像は一気に崩れたのである。
ガイダンス施設の案内人さんの言葉と幡鉾川の概要を縷々綴ったのは、この勘違いをより具体的に説明したいがためであった。

手元の道路地図(昭文社)のコピーを参照する。
道路地図というものは、その場に至って眺めてみると、細く描かれた道もしっかりと見えて来るものなのである。
幡鉾川の左岸を行く道が海岸線に通じていることは確かである。
坂道を漕ぐ漕ぐで上ったり、押し押しで上ったり、ひぃこらいいながら上り、数回、休憩したり...。
知らない道を行くのは何やら不安であるが、先はどうなっているのだろうという冒険心の楽しみもある。
軽四輪が二度ばかり通り過ぎて行ったので、これは島の人たちの日常、使う道であることを示しており、安心材料のひとつとなる。

ついに、峠に至る。
うわー、海や!
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アップで。
「わあー、海や!」と言ったが、この海の正式名称は「内海湾(うちめわん)」あるいは「内海(うちめ)」である。
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既に、漕ぐ漕ぐ、押す押すで、高度は確保してある。
あとは、海岸線まで”下りま専科”である。

直ぐに下っては勿体ない。
しばし、内海湾の風景を楽しむ。

カメラを望遠鏡代わりに、ズームで湾内を眺める。
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右手の丸い形をした島の左側に何か見える。
目を凝らして見る。
海の中の鳥居であった。
「あれが、日本のモンサンミッシェル、小島神社の鳥居じゃないかな」。
前夜、宿の人から「干潮のときは砂州で繋がり、陸から歩いて参拝出来ます」との案内があった。
干潮時刻は午前10時37分と教えて貰った。
その時刻にここに立ち寄ると後行程がしんどくなるので、干潮時の参拝はパスした。

少しアップ。

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更にアップ。
潮が満ちているが、砂州は僅かに顔を出している。
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陸側をアップで。
陸側からのびる砂州は海の中に没している。
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峠から海岸線へ一気に下る。
海岸線から、こんもりとした小島を眺める。
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こんもりした小島の右手に見える、平坦な島は青島。
青島の右手にシーバースらしきものが見える。
あとで分かったのだが、青島は人は住んでいないが、公園と九州電力の発電所があるのだった。
ということで、シーバースと煙突があるのであった。
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小島の奥、青島から左に橋が見える。
陸と青島を繋ぐ、その名も青島大橋である。
青島大橋は島内最長の橋(全長315m)とのこと。
この橋は一支国博物館の屋上展望台からも見えた橋である。
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小島をアップで。
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小島を超アップで。
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小島から、左、陸側へ目を遣る。
あとで分かるのだが、左端のこんもりしたところ(前小島)が陸側の先端で、海岸への降り口があるところ。
その右手、水面に黒く平坦に見えるところから右に砂州が張り出していく。
今は、陸側からのびる砂州が一部、海に没し、右へ行くに従って僅かに砂州が現れている。
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小島神社が眺められる辺りに向かって、海岸線を走る。
前日は内陸中央部の古墳探訪、この日も内陸南東部の原の辻遺跡など、内陸ばかりを走っていたので、今回の旅で、初めて海岸線を走っているのであった。
何だか嬉しい。

海岸線を走りながら気づいたことがある。
それは、朝、県道23号線を南に向かって走っていたとき、前方に激坂が見えたので、これを回避するため、海岸に出た。
しかし、海岸線のルートもその先は坂道のように思えたので、県道23号線に戻り、激坂を上った。
このときに見た海が、この内海湾だったのである。

目的地に到着!
日本のモンサンミッシェル、いや、小島神社が鎮座する小島を間近に眺める。
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「日本のモンサンミッシェル」というような言い方には、ちょいと、抵抗がある。
房総半島の屛風ヶ浦も「東洋のドーバー」とか呼ばれており、これも同様に、抵抗がある。
しかし、あれこれ説明するよりも、そう言った方が分かり易いことも事実であり、許そう。

少し、角度を変えて、鳥居の正面に立ち、眺める。
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折角なので、横長写真に続いて、縦長写真も。
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潮が満ち、砂州の一部は水没しているが、水に塗れることを我慢すれば、渡れないこともなさそうな感じもする。
ただ、これ以上に潮が満ちれば、島で孤立状態になることは必定。
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護岸の上から浜に降りて、砂州へ向かうようになっている。
護岸から降りた個所を工事していた、おっちゃん達と暫し歓談。
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「仕事中、お邪魔します」。
「どこから来られのかな」から始まり、先ず、今回の旅のあらましを述べるのは常のこと。
「壱岐風土記の丘で、作り物ですけど、壱岐牛をみました」。
「昔はどこの家でも一家に一頭、飼ってたんだけど、今はそうしたこともなくなったね」。
「昔は人口は5万人くらいいたんだけど、今は2万5千人くらい。牛を飼う人もいなくなるわけだ」。
「壱岐焼酎の猿川の向かいの鍛冶屋さんにも会いました」。
「あのおやじさんも頑張ってるな。何やら立派な看板に変えたようだし」。
「昔は7、8軒の鍛冶屋があったそうですが、今は、あのおやじさんのところ、1軒だけと言われていました」。
「自転車に乗ることは滅多にないな」。
「アップダウンがありますから、やっぱり、車社会なんでしょうね」。
「酒を飲みにいくときくらいかな、自転車に乗るのは」。
「自転車も自動車も飲酒運転は禁止!」。
「これから何処へ」。
「海沿いを走って、芦辺港近くの宿へ戻ります」。
「この道を真っ直ぐ行くと、牡蠣小屋があるから、その前を通り過ぎて、そのまま、ずーと海沿いを走れば、芦辺港だよ」。

山の方で雷が鳴るような音が聞こえる。
空は晴れており、雨が降る気配はないが、先を急ぐことに越したことはない。
方々に御礼を伝え、出発する。

暫く走ると説明板があった。
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内海湾(うちめわん)
長崎県壱岐市芦辺町
内海湾は、「一支国」の王都、原の辻を訪れる古代船が往来した玄関口です。
内海湾に入港した古代船は、小舟に荷物を積み替えて、幡鉾川を通って原の辻へと向かったものと思われます。
江戸時代末期の1861年(文久元年)に書かれた『壱岐名勝図誌』にも内海湾の様子が挿絵で描かれており、内海湾に多くの船が往来していたことが記録として残っています。
また、湾内には、神が宿る島としてあがめられてきた小島があり、満潮時には参道が海中に沈み、干潮になると海が割れて参道が海中から姿を現します。
島のほぼ中央に小島神社があり、恋愛成就、商売繁盛、五穀豊穣、航海安全などの願い事が叶う御祭神が祀られています。
限られた時間にした参詣できない神社として人を魅了するパワースポットとなっています。
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『壱岐名勝図』に描かれた内海湾の景色。
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右肩に「児島夕景」とある。
ここでは「小島」ではなく、「児島」と書かれている。
方角的には、陸側の「前小島」から南東方向に「小島」が位置している。
よって、夕日は右手の山の方に沈むこととなる。
絵図には、前小島の手前や砂州の参道に黒い点描で描かれた、多くの参拝客の姿が見て取れる。
江戸時代、島内の人々のみならず、島外からも参拝客が訪れたものと思われる。


小島/航空写真。
砂州の参道を進み、鳥居をくぐり、反時計回りで島の反対側に進むと、小島神社が鎮座しているとのことである。
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幡鉾川河口の様子。
一支国博物館のジオラマで河口付近を往来する大小の船が表現されていた光景が思い浮かぶ。
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はためく幟旗「ようこそ、壱岐へ。」。
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工事のおっちゃんたちの愛車と内海湾。
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内海湾を眺め、原の辻の集落が栄えたことがよく分かった。
内海湾そのものが天然の良港。
そして、幡鉾川の河口が湾の最も奥に位置していることも好条件。
海、川、そして、川を遡ると川の最下流に平野部、それらすべてが相まって原の辻の集落が形成されていったことがよく理解できる。
原の辻から<新規ルート>で海岸線に出たことは地形を知る上でよき選択であった。

海岸沿いの細道から一般道へ出る。
おっちゃん達の言葉通り、牡蠣小屋があった。
「長寿牡蠣」と染め抜かれた幟旗が立っている(写真はなし)。
シーズンともなれば、旨い牡蠣が食せるのであろう。

海沿いの走りを楽しむ。
それらについては続編にて。

フォト:2018年10月18日

(つづく)




# by ryujincho | 2018-10-23 23:25 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(12)興神社、そして、壱岐総社神社』 kk-24

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐市立一支博物館、原の辻遺跡ガイダンス施設、原の辻遺跡を訪ねたのち、興神社、壱岐総社神社方面へ向かう。

原の辻遺跡から県道23号線を北上、幡鉾川を渡った後、県道23号線を外れ、西へ走る。
県道173号線との交差点に至り、左折し、県道173号線を南西に走る。

右手に、興神社が見えて来た。

今回の旅で、何故、興神社と壱岐総社神社を訪ねることにしたのかをここで述べておきたい。
いろいろテーマがある中で、国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社をめぐることもテーマのひとつとしている。
既に、関東圏のすべて+その他幾つかを探訪した。

今回の壱岐島訪問に先立ち、壱岐国について調べたところ、次の通りであった。

1)国府跡:
・国府は石田郡にあった。
・所在地については諸説あるが、遺構は発見されていない。
・推定地として、壱岐市芦辺町湯岳興触の興神社付近ではないかとされる説がある。
・社名「興神社」の「興」は「国府(こふ、こう)」の意味とされる。
・興神社は、国府の倉の鍵である「印鑰」を保管していたことから、近世には「印鑰神社」とも呼ばれていたこともある。

国府跡が不明な場合は、「府中」(東京都ほか)、「国府台(こうのだい)」(千葉県)、「国府津(こうづ)」(神奈川県)、「古国府(ふるこう)」(栃木県)などの地名を手掛かりに国府の所在地を推定する手法がある。
興神社の「興」が「国府(こふ、こう)」に通じ、この辺りに国府があったという説には諸手を挙げて賛成したい。

印鑰(いんやく)、印鑰神社(印鑰大明神)については、一昨年、讃岐国府跡を訪ねた際に知った。
即ち、
讃岐国府跡の説明板に「綾北平野の南限にあって、三方を山に囲まれたこの地域は、大化の改新による律令制度によって讃岐国府の置かれたところである。付近には、垣ノ内(国庁の区域)、帳次(ちょうつぎ、諸帳簿を扱った役所)、状次(じょうつぎ、書状を扱った役所)、正倉(国庁の倉)、印鑰(いんやく、国庁の印鑑・鍵の保管所)、聖堂(学問所)などの地名があり、名国司菅原道真の事跡とともに讃岐国庁の姿を偲ばせ、...(以下、略)坂出市教育委員会」とあり、印鑰のことに触れられている。

更に、讃岐国府跡の田畑の中に「国府印鑰明神遺跡」と刻まれた碑もあり、先述の説明板の「付近には...印鑰(いんやく、国庁の印鑑・鍵の保管所)...などの地名があり」と重ね合わせると、この地に「印鑰」の名を冠した神社があったと想像が出来、印鑰神社を調べてみると、ここ、坂出市のみならず、山形市、七尾市、福岡市、佐賀市、久留米市、八代市、西都市などにもあり、国府機能が衰退してから、大切な印鑰を神社の御神体として祀るようになったのではないかとも。

因みに、讃岐国府跡の説明板には「印鑰は国庁の印鑑・鍵の保管所」とあるが、広辞苑によれば、保管所の意味は含まれず、「官印と官庁の倉庫の鍵」とある。
以前、平将門のことを調べていたとき、ウィキペディアに「下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い...」とあり、印鑰は国印と鍵という意味である。
下野国庁跡資料館を訪ねた際、下野国印のレプリカがあり、係の人に「下野国府が平将門の襲撃を受けたとき、国印はどうなったのですか」と尋ねたところ、「国印はさっさと渡しました。すると、平将門軍はさっさと通り過ぎて行きました」との答えを貰い、大笑いしたことも思い出される。

なお、印鑰の読みは「いんやく」と書かれたものや「いんにゃく」と書かれたものがある。
「鑰」の読みは「やく」であり、「いんやく」でよいのが、「印(in)」と「鑰(yaku)」を合体すると「inyaku」となるから「いんにゃく」も正しいのであろう。

2)国分寺跡(僧寺):
・所在地:壱岐市芦辺町中野郷西触・・・前日、探訪済み(探訪記は本ブログの第2話にて)
=備考=
国分尼寺について:
以下のことから、国分尼寺は壱岐国では建立されなかったと思われる。
・「国分寺建立の詔は天平13年(741年)に出されたが、『類聚三代格』の天平16年(744年)の詔によれば、同年に至って壱岐島の国分僧尼両寺の造寺用料が肥前国から割り当てられている」(ウィキペディア)とあり、尼寺の建立も考えられていた。
・しかし、結果的には、壱岐島直(壱岐氏、壱岐島の古代豪族)の氏寺を島分寺とし、僧5口(他国では僧20口)を置くとされ、尼寺は見送られ、僧寺のみとなったようだ。

3)総社:
壱岐国の総社神社は「壱岐総社神社」。
所在地は壱岐市芦辺町(それつづく住所の詳細は不明)。
グーグル・マップによれば、興神社から県道173号線を南西に1kmほど走り、北側へ向かう細道に入った辺りの北側となっている。

前置きが長くなってしまった。
興神社に至ったところへ話を戻そう。

興神社。
説明板に目を通す。
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興神社
由緒沿革
主祭神 足仲彦尊 息長足姫尊
相殿  應神天皇 仁徳天皇 手力男命 八意思兼神 住吉大神
例祭日 四月十三日 神幸式大神楽奉奏
由緒沿革
一、当社は延喜式第十巻神明帳書載の壱岐嶋石田郡興神社である。社記に言う。往古壱岐伊宅郷国名村(湯岳村)国の一宮国分社で又官庫の鑰政所の印を納めていたので印鑰大明神と称したとある
一、神明記には興神社こう村以前は印鑰大明神式内社とある
一、神社帳には湯岳村久保頭興神社一宮とあり式内二十四座のうち宝殿拝殿あり神主吉野数之進とある
一、嵯峨天皇弘仁二年十月(千二百年前)朔日御鎮座で文徳天皇仁寿元年(千百四十年前)正六位上に叙せられ以後十回にわたり各一階づつ神階を進められ給う
一、永禄九年(四百四十年前)宝殿再建 松浦肥前守源隆信公の棟札あり
一、同年十三年 拝殿再建 松浦肥前守源鎮信公
一、慶安二年(三百四十年前)国主松浦肥前守鎮信公 木鏡及石額奉納せらる
一、社記には例祭日の前夜大神楽 翌例祭日には国主名代兵具や幣帛を献上するとあり又女池の行宮に渡御ありと記されている
一、壱岐七社の一つで明治九年十二月四日村社に列せらる
一、明治四十年 神饌幣帛料供進神社に指定せらる
(平成二年 御大典記念事業)
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※足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと。仲哀天皇)
※息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと。神功皇后)
※手力男命(たじからおのみこと=天手力男命 あまのたじからおのみこと)
※神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)

興神社。
一の鳥居。

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参道を進む。
二の鳥居、更に参道は続き、社殿へ。
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扁額コレクション。
一の鳥居扁額。
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二の鳥居扁額。
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二の鳥居、相欠きはぎ。
相欠きはぎは板材のはぎ合わせ方法として時々見掛けることがあるが、石材でも「相欠きはぎ」があるのだ。
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ここに国府があったのであろうと想像しながら、周囲を見渡す。
神社の裏(北側)は森、東側は空き地、南側は県道173号線を挟んで畑、西側も畑。
国府跡を偲ばせるものは見当たらないが、「興(こう)」=「国府(こう)であることと、由緒書きの「官庫の鑰政所の印を納めていたので印鑰大明神と称したとある」などを以て、ここが国府跡であると思いたい。

西側の畑。
ロールベーラーで丸められた干し草の風景。
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次は、壱岐総社神社へと向かう。
所在地はよくは分からないが、グーグルマップによれば、興神社から県道173号線を南西に1kmほど走り、北へ向かう細道に入った辺りの東側に位置している。

県道173号線を南西に走る。
この辺りだろうと、県道173号線から外れ、北へ向かう細道に入る。
「壱岐総社神社」を示す標識はない。

幡鉾川に架かる「ふなばし」、そして、「きゅうふなばし」に至る。
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手元の地図、そして、スマホでグーグル・マップを見る。
少し通り過ぎているようである。
少し戻る。

スマホのグーグルマップによれば、この細い坂道を上ったところにありそうである。
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時計を見る。
午後3時。
先を急がねばならない。
坂の奥は、更に細くなり、薄暗く、なんだかおどろおどろしい。
そもそも、総社神社は、と屁理屈をつけて、この細い坂道を上ることは諦め、壱岐総社神社はパスさせて戴くこととした。

「そもそも、総社神社は、と屁理屈をつけて」とは、次のようなことである。
国司の務めのひとつに、自国内の各地にある神社に詣でることである。
ところが、時代を経るに連れ、国司はおさぼり気味になったのか、国府(国庁)の近くに「総社(惣社)」を設け、各地にある神社に詣でる代わりに、総社に詣でることで済ませるようになった。
ということで、国府跡・国分寺跡・総社めぐりの中で、総社めぐりについては余り重きを置いておらず、国府跡の所在地が不明な場合には、総社が国府の近くにあるということを拠り所として、総社を訪ねることで国府跡を訪ねたと見做すことにしているのであった。
そうしたことで、今回は国府跡と推定される興神社を訪ねたことでもあり、壱岐総社神社は必須ではなくなったので、パスさせて戴いた次第である。

パスはしたければ、罰が当たってはいけないので、敬意を表し、この坂の上にあるであろう壱岐総社神社を想像しながら、坂の下で「今日の jitensha」を撮った。
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足元を見ると地面に「距離標」なるものが埋め込まれていた。
壱岐総社神社の近くまで来たという証拠(???)としてカメラに収めた。
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本ブログを綴るに際し、壱岐総社神社についてネット検索してみた。
1件、壱岐総社神社の様子が誠に分かり易く書かれたブログにヒットした。
その一部を抜粋してここに転載させて戴く。
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興神社から西へ500m程の曲がり角にある民家内の道を進み、竹林へ登って100m強の位置に、石祠が祀られている。
いろいろな資料に、その存在が記されていたが、詳細な場所がわからず、また住所もマチマチだった。
興神社へ参拝した時、ちょうど興神社の氏子の方がおられ、お聞きした。
自信が無いということで、わざわざ、他の家の方にも聞いていただいた。
曲がり角にある家の中の道であり、わかりにくい場所なので、そちらに、一声かけて下さい、ということだった。
その家に行ってみると、宅前で畑作業をしておられたので、お願いした。
「これから登られますか?」、「はい」、「かなり急な道だから、気をつけてくださいね」。
まだ、陽は高いのだが、竹林の中は、暗い。
少し滑りそうになりながら登ると、頂上付近が少し開け、二本の木に縄をかけた、その奥に、石祠が祀られていた。
民家裏の山中だが、荒れた様子はなく、山道も確かに急ではあったが、歩きやすかった。
石祠の前は壇になっており、祭祀の継続を想像させる。
現在は、ほとんど個人宅にあるような感じなのだが、付近の住民の方にも、よく知られており、最初に道をお聞きした方は、「位の高い神さんを祀っている」と表現した。
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表現力豊かな文章である。
注連縄と石祠の写真も添えられている。
坂の下からイメージしたことと重なるところもあるが、注連縄と石祠だけというのは想像外であった。
文章と写真が相まって、様子が目に浮かぶ。
「興神社から西へ500m」と「曲がり角に民家...」という点が少々異なるが、我々が見つけた細い坂道の上に壱岐総社神社の石祠が鎮座していたと信じたい。

時計は午後3時を指している。
これから、芦辺港近くの宿まで戻らねばならない。
しかし、この日の最後の立ち寄り予定地の、壱岐のモンサンミッシェル、小島神社にも寄ってみたい。
取り敢えず、原の辻遺跡の方へ来た道を戻りながら、あとはどうするかを考えることにする。

県道173号線を走り、途中で右折、県道23号線に出て、原の辻遺跡ガイダンス施設の前に至る。
幡鉾川沿いを東へ進む。
ここからは、峠越えが二つ、三つあった、来た道を戻るのではなく、海沿いの道へ出ることにした。

フォト:2018年10月17日

(つづく)




# by ryujincho | 2018-10-23 23:24 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(11)原の辻遺跡』 kk-23

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐市立一支博物館、そして、原の辻遺跡ガイダンス施設で、事前ベンキョーをした後、原の辻遺跡を実地見分するため、原の辻一支国王都復元公園へと向かう。

原の辻遺跡。
船着き場跡。
原の辻ガイダンス施設を出たところで、受付嬢に船着き場跡の場所を教えて貰った。
「ずーっと先に、赤と白のポールがありますでしょう。そこが船着き場跡です」と指差す彼方に目を凝らす。
「うん、見えました!」。
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筆者は前掲の写真でポールが視認出来る。
しかし、ぱっと見た限りでは、何が何だか分からない。
よって、分かり易いように、トリミングしたのがこれ。
手前の白いキャンバス状の右、4分の1あたりの奥に彼方の森の緑と少し重なって白い縦線が見えるが、如何だろうか。
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この目で視認したのち、超ズームアップで、紅白に塗り分けられたポールを捉えたのがこれ。
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時間の都合上、船着き場跡には立ち寄らす、環濠集落へ向かう。

環濠。
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説明板に目を通す。
説明書きのアクリル板に映った二つの姿は武衛さんと筆者である(霊ではありません。念の為)。
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環濠
原の辻遺跡は、丘陵の周りに何重にも溝(環濠)を巡らせています。
また、湧き水を溜めた水汲み場や土器捨て場なども見つかっており、外敵や動物の侵入を防ぐだけでなく、生活の場としても使われていたようです。
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道路上遺構。
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土器溜り。
ガラスの覆屋となっている。
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説明板に目を通す。
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土器溜り
一般の土器や石器などとともに、まつりに使われてた土器がこの辺りにまとめて捨てられていました。
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ガラス越しに、中を覗いてみる。
ガラスに空が映り込み、よく見えない。
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ガラスに目を近づけて、中を覗く。
底に土器の破片らしきものが見える。
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前方に物見櫓が見える。
更に先へ進む。
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物見櫓近くから中心域に入る。
現地で入手したパンフレット「原の辻一支国王都復元公園」(壱岐市教育委員会)の図を参照すると、中心域は次の通りである。
中心域は;
■物見櫓、番小屋、交易司の家、使節団の宿舎、譯の家(「譯(やく)」とは通訳のこと)などの区画
■交易の倉の区画
■長老の家、集会所などの区画
■迎賓の建物、使節団の倉、従者の宿舎などの区画
■王の館の区画
■主祭殿、脇殿、祭器・儀器の倉、食材の倉などの区画
■穀倉の区画
などに区分されている。

これらの建物のうちの幾つかを写真と共に紹介しておこう。

物見櫓(見張り台)と番小屋。
左に少し屋根の見えている建物は使節団の宿舎。
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角度を変えて、物見櫓と番小屋。
左奥に見える建物は交易司の家。
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物見櫓(見張り台)
集落の外の動きを見張る建物。
音(鳴り物など)で危険を知らせます。
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穀倉。
右手奥にみえるのは物見櫓と番小屋。
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角度を変えて。
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穀倉
収穫された米や麦などを入れる倉。
中心域の人々の暮らしに使う。
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高床式構造をアップで。
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鼠返し盤を見るたびに、古代人の知恵に感心するのである。
更に申せば、造船に携わっていた者として、ラットガード(鼠除け、鼠返し。自船から張り出している係留索に取り付けてネズミが索を伝って船内に入って来るのを防止するための漏斗型・傘型のブリキ製金具)を思い出すのである。

「祭りや儀式の場」の区画に入る。
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祭りや儀式の場
主祭殿や脇殿のほか、祭りや儀式を行うための倉庫があります。
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後の時代の神社の鰹木や千木を思わせる屋根に鳥が止まっている。
作り物の鳥かと思いきや、本物であった。
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鳥が止まっているのは建物の裏側。
表側に回ってみる。

建物に貼られたプレート。
「主祭殿 祭りや儀式を行うための中心建物。一支国の王が神を祀るための建物」とある。
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主祭殿、全景。
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少し角度を変えて。
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先ほどの屋根の止まっていた鳥は逆光気味であったので、順光でもう一度。
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神代の、神々しい鳥のように見える。
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食材の倉。
奥の建物は祭器・儀器の倉。
右手に柱の上に鳥の模型が置かれた門が見える。
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食材の倉
祭りや儀式に備える食膳の食材を納める倉。
特に選りすぐった収穫物や酒などを置く。
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祭器・儀器の倉
嘗めの祭りなどクニのまつりの儀式で使用する器や衣、装飾品・楽器・供物の調理に使う調理具などの道具類を収納する倉。
(パンフレットより)
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柱の上に鳥の模型が置かれた門から外に出てみる。
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門の外から、食材の倉と祭器・儀器の倉を眺める。
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門の柱の上に設えられた鳥の模型をアップで。
今年4月、吉野ヶ里遺跡を訪ねた際も門の柱の上に置かれた鳥の模型を見た。
鳥の模型が置かれた門は、鳥居の原型という説もある。
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王の館。
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何故、王の館が門の外にあるのだろうと思ったが、この門は居住域へ入る門ではなく、祭儀場の門と考えれば納得がいく。
パンフレットのページを繰ってみたところ、「祭儀場は周囲を生垣で囲み、出入口には鳥形をのせた門柱が建ててあります」とあり、十分に納得。

周溝状遺構。
(北から南に向かって)
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周溝状遺構
周りを溝で囲んだ場所は、重要な儀式が行われたところと考えられています。
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説明板から右手(西)に目を移す。
周りを溝で囲まれた矩形がくっきりと。

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南側から眺める。
北に祭儀場の生垣、そして、その向こうに主祭殿の屋根が見える。
右手奥に、物見櫓の屋根、そして、その彼方の丘の上に一支国博物館の白い建物も微かに見える。
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西に目を遣る。
右に主祭殿、左に王の館が見える。
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周溝状遺構に関するパンフレットでの解説は次の通り。
------------------------------------
周溝状遺構
祭儀場の南側に、周囲を溝で取り囲んだ場所があります。
溝の中からは鉄剣や鉄鎌などが見つかっています。
何らかの儀式が執り行われたものと考えられています。
-------------------------------------

再び、祭儀場を抜け、居住域の真ん中辺りを広場を歩く。
右手/穀倉、左手/物見櫓と番小屋。
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広場を回り込むと、北側、奥に集会所と長老の家、そして、その手前の右手に交易の倉。
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時計を見る。
午後2時10分。
次の探訪地が控えていることでもあり、原の辻遺跡の見学はここまでとする。

道路上遺構を北へ向け走り、一般道へ向かう。
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前方の丘の上に一支国博物館の白い建物が見える。
ズームアップ!
ビューシアターのカーテンは閉まっている。
これが開くと前方に、今、我々がいる場所、目印は物見櫓が遠望されるのである。
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今年は、4月に吉野ヶ里遺跡、そして、今回の原の辻遺跡と、弥生時代を代表する大きな遺跡をふたつも見学する機会を得た。

前第22話で触れた通り、弥生時代の遺跡で国の特別史跡は;
・登呂遺跡(静岡県)
・吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
・原の辻遺跡(長崎県)の三ヶ所である。
残るは、最も早く国の特別史跡に指定された登呂遺跡(1952年指定)だけ。
早いうちに訪ねておかねばなるまい。
これら三つの遺跡を制覇した暁には、<比較論>を綴らねばならないだろう。

次の探訪地は、興神社と壱岐総社神社。
原の辻遺跡から一般道を北西に向け、走る。

フォト:2018年10月18日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:23 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(10)原の辻遺跡ガイダンス施設(下)』 kk-22

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐市立一支博物館に続いて、原の辻一支国王都復元公園へ。

「ガイダンス施設」の外に設けられた、船着場跡の復元大型模型を見学。
続いて、館内へ。

ガイダンス施設、ロビー。
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巴形銅器
巴型銅器は、弥生時代から古墳時代にかけてつくられた青銅製の飾り金具です。
反時計回りに6本から9本の脚が放射状に広がっています。
独特の形状は何をモチーフにしているかは謎が多く
①太陽を模した形
②南方の貝・スイジ貝を模した形
③ゴホウラ貝の断面形状を模した形
など様々な説があります。
出土状況から有力者のお墓の副葬品や楯に取り付けられた例から威信具として用いられたことがわかる。
鋭くとがった鋭利な脚から邪悪なものを断ち切るための祭器だったのではないかと考えられています。
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受付嬢に案内人をお願いする。
奥から男性があらわれた。
「ジオラマで簡単に説明しましょう」。
「船着場を中心によろしくお願いします」。

展示室。
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原の辻遺跡/ジオラマ。
ジオラマの台に設けられた説明板「原の辻遺跡の概要」。
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原の辻遺跡の概要
原の辻遺跡は、幡鉾川の流域に広がった、通称「深江田原(ふかえたばる)」と呼ばれる平野に位置しており、弥生時代前期の終わり頃から古墳時代前期の始め頃(紀元前3世紀後半~紀元後4世紀前半)にかけて存続した集落の跡です。
集落は楕円形に巡らされた多重の環濠に囲まれており、南北約750m、東西約350m、内部面積約16ヘクタールの環濠内部には祭儀場や竪穴式住居・高床式建物・平地式建物などが造られました。
また、環濠の外には船着き場、墓域、水田の畔、集落への出入りするための道路状遺構などがあり、遺跡全体の範囲は約100ヘクタールに及んでいます。
これまでにみつかった多くの遺構や出土遺物から、原の辻遺跡は『魏志』倭人伝に書かれた「一支国」の王都であったと考えられています。
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原の辻遺跡のジオラマ。
南側からの眺め。
確かに、環濠集落は南北に楕円形となっている。
右上角の丘は、一支国博物館があった丘陵地帯。
その下に見える横線は西から東へ流れる幡鉾川。
船着場は、左上、幡鉾川の右岸近くにある。
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少し角度を変えて、南西方向から眺める。
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カメラを上に掲げ、ドローン風に、もう少し”上空”から。
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北側から眺める。
上段、南北の楕円形となっている環濠集落。
下段、太い水色は、西から東へ流れる幡鉾川(現在の流れ)。
細い水色のテープで示しているのが、弥生時代当時の幡鉾川の流れ。
幡鉾川の右岸にある建物は、今、我々がいるガイダンス施設。
その脇を南北に走る道は県道23号線。
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北西から眺める。
船着き場が見て取れる。
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ズームアップ。
船着場は、右手、白い札「船着場跡」で示されている。
左手、太い水色は西から東へ流れる幡鉾川。
細い水色の線で示されているのが、弥生時代当時の幡鉾川とその支流の流れ。
当時、本流も支流も大きく蛇行していたことが分かる。
船着場は支流沿いに設けられていた。
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西側からの眺め。
赤い点線は環濠集落。
左へ伸びている、薄い色の点線は道路状遺構。
手前の赤い線は遺跡範囲。
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案内人さんの説明のポイントは「海と内陸を結ぶ幡鉾川が集落の形成に大きく関わっていた」ということである。

ここで、幡鉾川について触れておきたい。
以下はウィキペディアの抜粋である。
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幡鉾川は、壱岐島中央部を流れ、東部の内海(うちめ : 内海湾とも)に注ぐ二級河川である。
壱岐島では北部の谷江川を上回る最大の川で、流域の全てが長崎県壱岐市に属する。
河内川(こうちがわ)とも呼ばれる。
流域には「物部田原」「木田田原」「深江田原(河内盆地)」といった平野部が広がり、国の特別史跡に指定された原の辻遺跡もこの川の下流域にある。
芦辺町湯岳地区の西にある鉾の木山(標高135m)を水源とする。
本流はまず西、次いで南へ流れる。
柳田方面からの支流が合流した後は東へ流路を変える。
下流域は約3km2の河内盆地が広がり、大原・湯岳・池田・深江といった集落がある。
川は町谷川や池田川などの支流を併せながら、水田地帯の中を東へ流れる。
河内盆地の最下流に原の辻遺跡があり、旧石器時代から中世までの複合遺跡となっている。
内海へ注ぐ河口域は壱岐島を形成する溶岩台地を刻む谷となっていて、両岸に丘陵地が迫る。
水源が標高135mと低いうえに勾配も緩く、流域のほとんどが標高50m以下である。
昔は海だったとも伝えられている。
河内盆地のみならず川に沿ったほぼ全域が水田に利用され、壱岐最大の稲作地帯となっている。
本流に対して流域面積が比較的広く、降った雨が同時に川に集まる。
さらに流れが緩く蛇行が多かったため、流域は古来から洪水が頻発していた。
1952年-1959年(昭和27-34年)に耕地整理事業に伴う河川改修が行われ、幡鉾川の流れは直線化された。
また、1992年-2004年(平成4-16年)にも河川改修が行われた。
但し、度重なる河川改修によって、淡水魚やニホンイシガメなど各種水生生物は大きく個体数を減らした。
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案内人さんから、内海へ注ぐ河口域は両岸に丘陵地が迫っていて谷になっているという説明を聞いた。
帰路、この地形で、大いに楽しい経験をさせて貰った(ホントは難行苦行)。
そのときのことについては、続編で縷々綴ることとしたい。

案内人さんの説明が終わり、映像を見る。
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俯瞰図、徐々にアップ。
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パネルに目を通す。

「一支国」の王都ー原の辻遺跡ー。
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前掲のジオラマの脇の説明板「原の辻遺跡の概要」と同内容の点もあるが、新たな記述もあるので、読み下し文を綴っておこう。
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「一支国」の王都ー原の辻遺跡ー
原の辻遺跡は、壱岐島で最も広い流域をもつ幡鉾川の流域に広がる「深江田原」にあり、田原(平野のこと)の中の南北方向に長く延びる低い丘陵部を中心にしてその周辺平地一帯に広がっています。
丘陵部では竪穴住居跡や平地式住居跡、掘立柱建物跡とともに数多くの土坑・柱穴などが見つかっており、弥生時代の性格廃棄物などとともに多量の土器や石器を捨てた土器溜り遺構も数ヶ所で確認されています。
また、丘陵の頂上部では主軸方向をほぼ同じにする大型掘立柱建物跡と平地式建物跡などが検出され、ここは祭儀場であったとされています。
さらに、丘陵の裾部に沿って環濠と自然流路(河川)が複雑につながりながら何重にも巡っており、内部面積約16ヘクタールの大規模な多重環濠集落があったことがわかっています。
集落の周辺には、船着き場、複数ヵ所の墓域や水田などが広がっており、遺跡全体の広さは約100ヘクタールに及んでいます。
これまでの発掘調査の結果、原の辻遺跡は今から約2250年前(弥生時代前期後葉)頃から人々が生活を始め、約2150年前(弥生時代中期前葉)には集落の周囲に環濠が巡らされた環濠集落とて成立し、約1800年前(弥生時代後期後葉)に環濠が意識的に埋められたあとも約1650年前(古墳時代前期前葉)まで集落が存続していたことが確認されています。
そして、集落の規模と中国大陸や朝鮮半島から西日本各地方への広範囲に及ぶ交流、交易を物語る様々な出土遺物から、中国の『三国志』「魏書東夷伝志倭人条」、いわゆる『魏志』倭人伝に記載された「一支国」の王都であったと学問的に結論づけられた。
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原の辻遺跡発掘の歴史(概略)。
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原の辻遺跡発掘の歴史(概略)
原の辻遺跡の発見は、明治37~38年頃に松本友雄氏が原の辻の辻の畑の中で土器片を採集したことに遡ります。
そして、松本友雄・山口麻太郎・鴇田忠正氏などの地元郷土史家によって、原の辻遺跡をはじめとする壱岐の弥生時代の遺跡と遺物が中央の学会誌に紹介され、原の辻遺跡の重要性が広く認識されることとなりました。
戦後になると九学会連合・東亜考古学会などによる調査が行われ、下層式土器(中期)と上層式土器(後期)の時期区分が設定されるともに、上層式の段階になると新たに鉄器が使われることが確認されました。
また、中国大陸・朝鮮半島から運ばれてきた各種鉄器、貨泉(かせん。中国の新で紀元14年に初鋳され、後漢の初めまでの約30年間にわたって造られた銅銭)、土器などが多数出土することから遺跡の国際性についても注目されました。
その後、昭和49年の石田大原地区における墓域の発見を契機とする遺跡範囲確認調査、平成5年以降の組織的な発掘調査によって数々の重要な遺構・遺物の発見が相次ぐとともに、原の辻遺跡は約100ヘクタール(約1,000,000m2)の範囲に広がり、遺跡の中心となる丘陵の裾部に何重もの環濠を巡らせた大規模環濠集落であることが明らかになりました。
そして、平成7年に中国の正史・『魏志』倭人伝に登場する「一支国」の王都であることが確定されたことを受け、平成9年9月2日の国史跡、平成12年11月24日の国特別史跡指定を経て現在に至っています。
(写真)
左/昭和29年(1954年)閨繰(みやくり)地区での発掘状況
右/昭和35年(1960年)高元地区での発掘状況
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原の辻遺跡の発見に関わった人々。
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原の辻遺跡の発見に関わった人々
原の辻遺跡が発見されて学界で注目されるようになるまでには、壱岐島外の研究者とともに地元で活躍した研究者たちの努力がありました。
まず、松本友雄氏は明治37年(1904年)に壱岐島内の尋常高等小学校(国府小学校)の教師として赴任し、そのころに生徒から誘われて訪問した原の辻で畑の中に弥生式土器が散布しているのを発見しました。
また、石田小学校勤務となった大正12年(1923年)以降は遺跡へ頻繁に赴き、大正15年(1926年)には原の辻遺跡における最初の発掘調査を行いました。
そして、その調査結果を昭和2年(1927年)に中央の学会誌で発表し(「壱岐国考古通信(一)深江春の辻の遺物包含層地」『考古学雑誌』)、それによって原の辻遺跡が学界で広く知られるきっかけとなりました。
松本氏とともに原の辻遺跡をはじめとする島内の各遺跡から出土した遺物の報告を行い、壱岐の弥生文化や原の辻遺跡の重要性を指摘したのは山口麻太郎氏です。
山口氏は柳田国男に師事して民俗学を学び、その後、民俗学を基本に壱岐の民族伝承・歴史・考古学などを含めた郷土史(=「壱岐郷土学」)の研究に取り組みました。
昭和8年(1933年)には、わが国の電力開発の先覚者である松永安左ェ門氏から経済的な支援を受けて壱岐郷土研究所を開設し(昭和42年に閉所)、郷土史関連の資料収集や調査研究を精力的に行いました。
そして、それら初期の原の辻遺跡研究を総括したのが、当時、壱岐中学校教諭(その後、壱岐高等学校第三代校長に選任)であった鴇田忠正氏です。
鴇田氏は昭和14年(1939年)に原の辻の丘陵北東部斜面を調査し、昭和19年(1944年)に「長崎県壱岐郡田河村原の辻遺蹟の研究」(『日本文化史研究』)という論文をまとめました。
そして、壱岐の弥生文化が北部九州地域の影響下に形成される一方で、農業とともに狩猟・漁撈へ強く依存する生活内容や埋葬方法において特色が認めらると結論づけました。
これによって、壱岐の弥生時代研究は全国的な研究の中に位置づけられることとなり、その重要性が認識されて戦後の九学会連合と壱岐島の学術調査が行われる契機となりました。
(写真)
左/松本友雄氏
左/山口麻太郎氏
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※全文、原文通り。
※上述の(「壱岐国考古通信(一)深江春の辻の遺物包含層地」『考古学雑誌』)の「深江春の辻」は「深江原の辻」の誤記であろうか?
※上述の「長崎県壱岐郡田河村原の辻遺蹟の研究」(『日本文化史研究』)は「遺跡」ではなく「遺蹟」の漢字が使われている。


「原の辻遺跡へようこそ」。
本来、このパネルは、入館して、即、目を通さねばならないものであるが、時折、順序が逆になり、退館するときに目を通すことがある。
退館するときに目を通す方が、それまでに見学したあれこれが目に浮かぶという都合よきこともある。
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原の辻遺跡へようこそ
日本が誇る国の特別史跡・原の辻遺跡へようこそお越し下さいました。
原の辻遺跡は、大正時代に初めて日本考古学会に紹介され、その後の調査研究を経て次第にその名を高めてまいりました。
平成5年(1993年)秋、幡鉾川流域総合整備事業(圃場整備)に伴う発掘調査において丘陵部を囲む大規模な環濠が現れ、多数の遺構や各種の遺物と、その出土数の多さから、3世紀に著された『魏志』倭人伝に記載された「一支国」の中心地であることが判明しました。
つまり、この地は一支国の”王都”なのです。
『魏志』倭人伝に記載された国々の中で、王都が判明したのはこの原の辻遺跡が初めてです。
平成12年11月24日には弥生時代の遺跡の中で3番目となる国の特別史跡に指定され、平成17年度から本格的な遺跡の復元整備事業を行い、現在に至っています。
原の辻遺跡は、壱岐の歴史を壱岐市民が誇りに思い、自分たちの生活や文化の源として発信していく場でもあります。
ご来園の多くの皆様と、語らい、交流していくことによって”文化の輪・心の輪”を広めていくことを希望しています。
このガイダンス施設は原の辻遺跡をより広く、より深く知ってもらうため、また、生涯学習や学校教育の場として活用するために、長脇健教育庁原の辻遺跡調査事務所を改装したものです。
皆様のご利用とあたたかいご支援をいただき、ここにいらした皆さまが壱岐の楽しさを語ってくだされば幸いです。
本日は、原の辻遺跡を大いに楽しんでください。
平成22年3月 壱岐市長 白川博一
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「弥生時代の遺跡の中で3番目となる国の特別史跡に指定され」とある。
国の史跡とは、文化財保護法第109条に基づき、文部科学大臣が、日本の国にとって歴史上、或いは、学術上、価値の高いとして指定した都城跡・旧宅・古墳・貝塚などの遺跡である。
国の特別史跡とは、特に重要な史跡として指定されたもので、史跡の国宝である。
弥生時代の遺跡で国の特別史跡は;
・登呂遺跡(静岡県)
・吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
・原の辻遺跡(長崎県)
の三ヶ所である。
吉野ヶ里遺跡は今年4月に訪ねた。
残るは、最も早く国の特別史跡に指定された登呂遺跡(1952年指定)だけ。
早いうちに訪ねておかねばなるまい。

「壱岐市立一支国博物館 長崎埋蔵文化財センター」の紹介パネル。
「歴史と浪漫が交差する島・壱岐 時空を超えて一支国が甦る”しまごと博物館”」のキャッチ・コピー付き。
こうした文言をみると、何やら柔(やわ)な感じがする。
一支国博物館は黒川紀章の設計。
このパネルに見られるように外観は斬新なデザインながら、どうしてもハコモノ的なイメージが重なってしまう。
前日、訪ねた岐風土記の丘資料館や、ここ、原の辻ガイダンス施設のような、素朴、且つ、実利的な資料館が小生は好きだ。
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先ほど、一支国博物館のジオラマで人面石を手にもった女性がいた。
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人面石(レプリカ)
2001年の発掘調査で原の辻遺跡から不思議な石が出土しました。
人の顔を模して加工された人面形石製品です。
祭祀や儀式の時に用いられたと考えられており、その通称が「人面石」です。
国指定重要文化財であり、他に例のない日本唯一の「人面石」は、原の辻を代表する遺物で、ゆるキャラにもなっています。
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人面石をもつ女性(一支国博物館ジオラマより)。
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原の辻遺跡ガイダンス施設と壱岐市立一支博物館がつながったところで、原の辻遺跡べと向かう。

フォト:2018年10月18日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:22 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(9)原の辻遺跡ガイダンス施設(上)』 kk-21

10月18日(木)、晴れ。壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐市立一支博物館を見学。
博物館上階のビューシアターの窓から、そして、屋上展望広場から原の辻遺跡とその周辺を眺めた。
そのあと、原の辻遺跡へ。

一支国博物館から坂道を下り、台地から平野部に出る。
西から東へ流れる幡鉾川沿いを西へ向かって走る。

右手(北側)に、先ほど訪ねた大塚山古墳や一支国博物館のある丘陵が見える。
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ロールベーラーで丸められた干し草をローディングショベルで運んでいる。
30年前、英国にしばらく住まいしていた頃、丸められた干し草を見て以来、こうした風景が好きだ。
因みに、息子たちは、丸められた干し草をグリコの「コロン」になぞらえて”コロン”と呼んでいた。

その向こうの高台に一支国博物館が見える。

”コロン”と博物館をアップで。
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左手に原の辻遺跡を含む「原の辻一支国王都復元公園」とちょいと仰々しい名称の公園が見えて来る。
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公園の北西端にある「ガイダンス施設」に立ち寄る。

「国指定特別史跡 原の辻遺跡」。
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上段の説明に目を通す。
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国特別史跡
原の辻遺跡
長崎県壱岐市芦辺町・石田町(深江田原一帯)

長崎県で2番目の大きさを誇る平野(深江田原)にある原の辻遺跡は、弥生時代から古墳時代の初め(今から約2200年前から1650年前)に栄えた国内を代表する環濠集落跡で、国の特別史跡に指定されています。
中国の歴史書『三国志』の中に記された「魏志」倭人伝には、壱岐嶋が「一支国(原文では一大国と記載)の国名で登場し、当時の様子が57文字で書かれています。
「魏志」倭人伝に記された国で”国の位置”と”王都の場所”の両方が特定されているのは壱岐・原の辻遺跡だけであり、倭人伝に記された内容と遺跡の発掘調査成果を見比べながら”弥生時代における東アジアとの交流の歴史”を解明できる国内唯一の事例として注目されています。
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(右上掲載写真)
左上段船着き場調査状況 
左下段/人面石出土状況
中央/原の辻遺跡概略図
右上段/環濠
右下段/墓域
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下段の説明に目を通す。

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上段/船着き場の再現図
下段右/原の辻遺跡遠景
下段左/「魏志」倭人伝に記された一支国の57文字
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(原文)
又南渡一海千余里 名曰瀚海 至一大(支)国
官亦曰卑狗 副曰卑奴母離
方可三百里 多竹木叢林 有三千許家
差有田地 耕田猶不足食
亦南北市糴
(訳文)
(対馬国を出港し)南に海を渡ること千余里で一支国に到着する
この海は瀚海(かんかい)と名付けられている
大官は卑狗(ひこ)、次官は卑奴母離(ひなもり)という
広さ三百里ばかり、竹木の叢林が多く、三千ばかりの家がある
やや田畑があるが、水田を耕しても
皆が食べるだけの量には足りない
南や北のクニグニと交易をして暮らしている
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船着場跡模型。
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船着場跡模型
日本最古 東アジア唯一
■説明
この船着場跡は、平成8年度の発掘調査で発見されました。
弥生時代の川の中に造られており、2本の突堤と荷揚げ場、それと「コ」の字形に囲まれたドック部分と通路からなっています。
突堤の造り方は、
①基礎の部分に木や枝や石を敷き、その上に盛土する
②盛り土が崩れないように、木で抑えたり、杭で止める
③水で流されないように盛土の斜面に樹の川や石を張り付けて補強する
というハイテク技術が使われています。
この工法は、「敷粗朶(しきそだ)工法」といわれ、大陸から伝わった技術と考えられますが、東アジアにおける発見例は、ここ原の辻遺跡が唯一ですか?。
なお、船は大阪府久宝寺遺跡で出土した準構造船を参考に復元し、高床式建物や当時の人々の働く姿を再現してあります。
■縮尺 1/10
■時代 弥生時代中期(約2200年前)
■規模・・・書き下し、省略
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準構造船とは、丸木舟を船底にして、舷側板などの船材を結合した船のことである。
丸木舟から準構造船、そして、すべて板材を結合した構造船へと船の建造技術は変遷。

船着場跡再現模型。
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先ほど、一支国博物館のジオラマで船着場を見た。
あちらはどちらかというとミニチュア。
こちらは縮尺1/10で、規模の大きい再現模型、しかも、発掘現場近くで見られるというところにリアリティさを感じる。

「ガイダンス施設」の館内へ入る。
のちほど、ガイダンス施設の館内で、船着場について更にベンキョーすることとなる。
それについては、続編で。

フォト:2018年10月18日

(つづく)




# by ryujincho | 2018-10-23 23:21 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(8)壱岐市立一支国博物館(Ⅴ)』 kk-20

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐市立一支博物館。

展示室の見学を終え、屋上展望広場へ。

展望図。
南南東から南西にかけての展望。
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展望図、左から中央。
南南東から南南西にかけて。
唐津市方面(38km先)、印通寺港、馬渡島(まだらじま、21km先)、壱岐水道、松浦市方面(46km先)、原の辻遺跡、平戸市方面(48km先)。

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展望図、中央から右。
南南西から南西にかけて。
原の辻遺跡、平戸市方面(48km先)、深江田原平野(400ha 長崎県内2番目の広さ)、船着場跡、幡鉾川。
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展望図外の、左手/北東に湾と島々が見える。
あとで分かることになるのだが、内海、あるいは、内海湾と呼ばれている湾である。
帰路、この湾沿いを走り、宿に戻った。
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湾の左に橋が見える。
ズームアップ。
これもあとで分かることになるのだが、青島大橋である。
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南。
左手の川は幡鉾川の支流。
幡鉾川は西から東に流れており、川は手前の丘陵に隠れており、見えない。
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西南西。
原の辻遺跡の集落(復元)が見える。
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ズームアップ。
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物見台を狙って、更にズームアップ。
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北北東。
右奥が、到着時に”今日の jitensha”を撮影した、博物館の入り口。
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屋上展望広場のフロアに軽食を提供するカフェがあった。
スタッフは、おばちゃん一人。
メニューは、うどんとおにぎり、そして、コーヒーくらい。
うどんを注文する。
客は我々の前に注文済みの四人組、高校生らしき二人、そして、我々のあとに来た一人。
おばちゃんは一人でてんてこ舞い。
ようやく出来上がったうどんと手持ちのコンビニ握り飯で昼餉を撮る。

高校生らしき二人と会話。
「修学旅行ですか?」。
「いえ、地元の高校生です。今日は博物館で職業体験をしているんです」。
「職業体験?それはいい制度ですね。ここで働きたいと希望したのですが」。
「そうです。それぞれ希望するところへ行って職業体験をするんです」。
「博物館ではどんな仕事を?」。
「資料の袋詰めをしています」。
「そうですか。案内係の方が勉強になるかもしれませんね。頑張ってください」。
職業体験、これは我々の時代にはなかった制度だが、いい制度だと思う。
二人は、はきはきした、好印象の少年たちであった。

1階に降り、ミュージアムショップを覗いてみる。
「壱岐焼酎」がずらっと。
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本ブログ、第14話で、壱岐焼酎について縷々綴った。
今一度、それをここに。
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壱岐焼酎大陸から伝わったとされる製法をもとに、16世紀頃から製造されている壱岐焼酎。
1995年には壱岐焼酎の名が世界貿易機構(WTO)の地理的産地指定を受け、世界が認めるブラントに。
伝統と製法も守り続ける全7蔵元の銘柄を紹介。(五十音順)
天の川酒造/壱岐市郷ノ浦町田中触808
壱岐の蔵酒造/壱岐市芦辺町湯岳本村触520
壱岐の華/壱岐市芦辺町諸吉二亦触1664
重家酒造/壱岐市石田町印通寺浦200
玄海酒造/壱岐市郷ノ浦町志原西触550-1
猿川伊豆酒造/壱岐市芦辺町深江本村触1402-1
山の守酒造場/壱岐市郷ノ浦町志原西触85
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世界貿易機構(WTO)の地理的産地指定とは;
・ワインのボルドーやシャブリ
・ブランデーのコニャックやアルマニャック
・ウイスキーのスコッチ(英国スコットランド地方)やバーボン(米国ケンタッキー州バーボン郡)
・焼酎の壱岐、球磨、薩摩、泡盛の琉球など。
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猿川伊豆酒造。
今回の旅での贔屓と相成ったので、そのポスターをアップで。
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壱岐島に到着した夜、宿の夕食時に、壱岐焼酎のメニューを眺め、「猿川(さるこう)」を選び、三日間の晩酌用として900ミリリットル瓶をキープした。
そのキープした銘柄が、この、自然熟成プラス超音波熟成焼酎の「猿川 円円」である。
(写真は720ミリリットルだが、宿でキープしたのは900ミリリットル。念のため)
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先ほど、博物館内を見学していたときに、スタッフさんに「原の辻遺跡の、原の辻の名の由来は?」と尋ねた。
「ちょっと調べて来ます」ということで、スタッフさんは姿を消した。
帰り際に、次のように書かれた手書きをメモを貰った。
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原の辻の名前の由来
・辻は道が交差し、人々が出会うところ。
・原の辻の中心部を地元の人は昔から「原(はる)」と呼んでいた。
・「原」の中の「辻」で、「原の辻」ではないかな。
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明解な答えに感謝!

自転車置き場に戻る。
同好の士。
重装備のランドナー。
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ARAYA製である。
関西の盟友、六々守さんの愛馬も ARAYA製である。
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坂道を下り、次の探訪地、原の辻遺跡へと向かう。

フォト:2018年10月18日

(つづく)





# by ryujincho | 2018-10-23 23:20 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(7)壱岐市立一支国博物館(Ⅳ)』 kk-19

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐市立一支博物館。
上階で、ビューシアターと「魏志倭人伝」のコーナーを見学。
そして、展示室へと移る。
上階から、スロープの両脇の数々の展示の中で古墳時代と壱岐国分寺跡のコーナーをメインに見学しながら、スロープを下ると、1階の展示フロアに設えられた大きなジオラマが見えて来た。
弥生時代の遺跡、原の辻集落とその周辺を再現したジオラマのようなである。

1階の展示フロアへ降りる手前のスロープからジオラマを俯瞰する。

入り江。
浜ではクジラを解体しているようだ。
遡っていく舟がいる辺りは原の辻集落に続く幡鉾川の河口と思われる。
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船着場。
船着場跡については、後ほど、原の辻遺跡に隣接する資料館「原の辻ガイダンス」で詳しいことを知ることとなる。
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集落。
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様々な生活風景。

食。
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祭祀。
その奥では土器つくりなど。
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土器つくりなどの仕事中の人たち。
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土器を乾かしているのであろうか。
土器を運ぶ婦人、そして、土器を布で磨く婦人。
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埋葬。
墓域は環濠内あるいは環濠外である。
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左、上端/石棺による埋葬。
家族の悲しみが伝わってくるジオラマである。
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左上/甕棺による埋葬。
こちらも家族の悲しみが伝わってくるジオラマである。
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弥生時代には、前期から中期にかけて、支石墓、木棺墓、石棺墓、甕棺墓などの変遷が見られる。

墓域内で祈るような姿の女性は人面石(2001年出土)を持っている。
人面石が何を意味するのかは不詳(後ほど、訪ねた原の辻遺跡/ガイダンス施設で人面石に関する説明パネルでベンキョーした)。
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門と門兵。
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門の柱の上に設えられた鳥の模型。
今年4月、吉野ヶ里遺跡を訪ねた際も門の上の鳥の模型を見た。
鳥の模型が置かれた門は、鳥居の原型という説もある。
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スロープから1階フロアに降り、ジオラマを含む弥生時代の展示全体を眺める。
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フォト:2018年10月18日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-10-23 23:19 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(6)壱岐市立一支国博物館(Ⅲ)』 kk-18

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐市立一支博物館。

上階で、ビューシアターと「魏志倭人伝」のコーナーを見学。
そして、展示室へと移る。
古墳時代の展示を見学。
次に、時代は変わり、壱岐国分寺跡のコーナー。

国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡めぐりは、古墳めぐりを始める前から掲げているテーマで、<各国>をめぐっている。
壱岐国分寺跡は、前日、探訪。
その<おさらい>の意味も兼ねて、壱岐国分寺跡のコーナーで展示物を見学。

壱岐国分寺跡(壱岐嶋分寺跡)。
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壱岐国分寺跡(壱岐嶋分寺跡)
奈良時代、聖武天皇は、仏教の力で国を守るため、全国に国分寺を建てるように指示を出しました(741年(天平13年))国分寺建立の詔)。
その指示を受けて、各国は国司が政務を司る役所(国府)があった場所もしくはその周辺に国分寺を新たに建立しました。
壱岐国では、新たに国分寺を建立せず、壱岐を統治していた壱岐直(いきのあたい)が建てたお寺を壱岐国分寺に昇格させたことが『延喜式』に記載されています。
お寺の名称も「壱岐国分寺」ではなく、「壱岐嶋分寺」とされ、756年にはまだ国分寺として機能していなかったことが『続日本紀』に記されていますが、844年には国分寺として機能を果たしていたことが当時の記録の中に残っています。
壱岐国分寺(壱岐嶋分寺)は、新たに建立せず、壱岐直のお寺を国分寺に昇格させたため、新たに建立された全国にある国分寺の伽藍配置と異なっているのが特徴です
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壱岐国分寺(壱岐嶋分寺)の瓦のすごいところ!
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奈良時代、九州各地につくられた役所(国府)、有力者のすまい(館)、大きなお寺などは、当時、九州の政治の中心地だった大宰府の瓦と同じ瓦を使って建てられました。
しかし、壱岐国分寺(壱岐嶋分寺)の瓦は、大宰府と同じ瓦ではなく、日本の政治の中心だった奈良の平城京と同じ瓦を使って建てられています。
しかも、平城京遷都時に建てられた大極殿に用いられた瓦の笵木をもとに製作された軒丸瓦が使用されていることから、はやい段階から壱岐国(壱岐直)と平城京(中央政権)との間に強い結びつきがあったことが発見された瓦から分かります。
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水を差すようだが、ちょっと、小生の意見を述べておきたい。
各国の国分寺建立に使われた瓦には、中央寺院の川原寺系や山田寺系、紀寺系などがある。
瓦の笵木は中央政権が管理しており、地方に貸与したという説がある。
九州の国分寺跡としては、今年4月、筑前国分寺跡と国分尼寺跡、更に国分寺跡近くの国分瓦窯跡を訪ねた。
国分窯跡の説明書きによれば、「窯跡の周囲からは、老司式軒丸瓦のほか、縄目や格子模様の叩きを施した平瓦が見つかっている。また、窯も複数あることから、奈良時代の初め頃から平安時代にかけて、長期間操業していたと推定される。ここで焼かれた瓦は、周辺の遺跡で出土した瓦の状況から、筑前国分寺をはじめ、大宰府政庁や観世音寺周辺の建物の屋根に葺かれていたと考えられる」とある。
一支国博物館の説明書きでは「九州の役所、館、大きな寺は大宰府と同じ瓦を使った」とあり、国分寺に使ったとは書かれていないが、この国分窯跡の説明書きからして、少なくとも、筑前国分寺と大宰府の瓦は共通であることが分かる(他の九州の国分寺の瓦も同様と理解したい)。
中央では川原寺系・山田寺系・紀寺系などの貸与用の笵木が払底し、大宰府の瓦の笵木を使ったのではないかとも推定出来る。また、壱岐については、大宰府の瓦の笵木が払底し、やむなく、平城京大極殿の瓦の笵木を貸与したのかもしれない。
但し、壱岐に瓦窯があったかどうかは不詳である。
瓦窯がなければ、笵木が貸与されても瓦は焼けないこととなり、中央から瓦そのものを搬送(常識的にはそれはないが)したか、九州本土の瓦窯で焼いて貰い、島に運び込んだということになる。

出土瓦。
古代瓦を見るのが大好き。
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左/平瓦。
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壱岐嶋分寺から発見された資料
平瓦(ひらがわら)
古代 壱岐嶋分寺跡 出土
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央/軒丸瓦。
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平城京の大極殿に使用された軒丸瓦と同じ笵木でつくられた壱岐嶋分寺の瓦
軒丸瓦(のきまるがわら)
古代 壱岐嶋分寺 出土
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アップで。
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壱岐国分寺、平城京大極殿、筑前国分寺、大宰府の軒丸瓦は、これまでに撮り集めた写真を見ると、いずれも複弁八葉蓮華文のように思える。
のちほど、ゆるりと詳細に見比べ、「壱岐国分寺=平城京大極殿」であることを見極めてみたい。

丸瓦。
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壱岐嶋分寺から発見された資料
丸瓦(まるがわら)
古代
壱岐嶋分寺跡 出土
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上階から、スロープの両脇の数々の展示の中で古墳時代と壱岐国分寺跡のコーナーをメインに見学しながら、スロープを下る。
すると、1階の展示フロアに設えられた大きなジオラマが見えて来た。
弥生時代の遺跡、原の辻集落を再現したジオラマのようなである。
詳しくは続編で。

フォト:2018年10月18日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-10-23 23:18 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(5)壱岐市立一支国博物館(Ⅱ)』 kk-17

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。

壱岐市立一支博物館。
上階で、ビューシアター、そして、「魏志倭人伝」のコーナーを見学。
そのあと、展示室へと移る。

何処の博物館、資料館においても、展示で興味があるのは、古墳時代のものと国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡である。
それに比べれば、弥生時代は、弥生時代には申し訳ないことだが、興味の度合いは低い(当博物館は、弥生時代の環濠集落、原の辻遺跡がメインではあるが)。
更に、縄文時代は、土器・土偶を見学するのは好きだが、時代が長く、ベンキョーすることが多過ぎるので、深入りはしていない。
旧石器時代も同様である。

展示室はスロープの両側に数々の展示がなされており、階段を下りることなく、下の階へ行けるつくりとなっている。

展示を見ながら気づいたのだが、時代が逆行している。
即ち、壱岐国分寺跡の出土品に関する展示の次に、古墳時代の出土品の展示が続き、そして、弥生時代となっているのである。
これは冒頭、「先ず、上階へ行ってください」との案内があり、ビューシアターを見せたいがためで、その流れで展示は上階から見ることになり、時代が逆行してしまうのである。
本来は、下の階の古い時代から上階の新しい時代へと進み、最後にビューシアターに至るように見学させるべきなのである。

文句を垂れるのはこのくらいにして、本ブログでは、時代順+興味深いもの順、即ち、古墳時代、国分寺跡、そして、弥生時代の順で綴ることとしたい。

古墳時代。
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「壱岐を治めていた人が眠るお墓」。
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壱岐を治めていた人が眠るお墓
島の中央部に長崎県最大の前方後円墳である双六古墳をはじめ、大きな古墳が作られています。
これらの古墳は当時の壱岐を治めていた首長のお墓と考えられています。
古墳の石室の中からは、埋葬された首長が生前に使っていたもの、金銅製の馬具や大刀などの権力を象徴するもの、トンボ玉や銀製空玉(うつろだま)などの装飾品が見つかっています。
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壱岐の首長の古墳からわかること
挑戦・新羅で使われていた土器、中国・北斉製の二採陶器やトンボ玉など東アジア諸国との交流によって入手したものをたくさん持っているのが特徴です。
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壱岐の首長のお墓 国史跡「壱岐古墳群」。
双六古墳 笹塚古墳
兵瀬古墳 掛木古墳
鬼の窟古墳 対馬塚古墳
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左/国重要文化財「金銅製雲珠」(八方に広がる固定金具)/国史跡 笹塚古墳 出土
右/国重要文化財「金銅製宝珠貝飾付辻金具」(イモガイをあしらった固定金具)/国史跡 笹塚古墳 出土
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左/国重要文化財「金銅製パルメット文飾金具」(パルメット文様の起源はエジプトにあり)/国史跡 笹塚古墳 出土
右/国重要文化財「金銅製亀形飾金具」(国内唯一の亀を模した馬具飾り)/国史跡 笹塚古墳 出土
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国内唯一の、金銅製亀形飾金具。
前日、壱岐風土記の丘古墳館のパネル写真でこの金銅製亀形飾金具を見たとき、是非、実物を見たいと思った。
ここで実物に出会うことが出来、大満足!
ということで、今一度、アップで。
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出土土器。
左/国重要文化財 新羅土器 蓋破片(新羅国と笹塚古墳に眠る有料者との友好の証)/国史跡 笹塚古墳
右/国重要文化財 新羅土器 短頸壺と壺蓋(新羅国と双六古墳に眠る有料者との友好の証)/国史跡 双六古墳
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「壱岐の有力者が眠るお墓」。
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壱岐の有力者が眠るお墓
壱岐を治めていた首長が眠る大きな古墳は島の中央部につくられていて、その大きな古墳を取り囲むように、ひと回り、小さな古墳がたくさんつくられています。
一つの場所に数基から数十基が集まってつくられていることから「群衆墳」と呼ばれています。
これらの古墳の首長の一族や首長に仕えた有力者がつくったお墓と考えられます。
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壱岐の有力者のお墓。
百田頭古墳群 百合畑古墳群
釜蓋古墳群 釜蓋古墳出土遺物
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「壱岐の海人が眠るお墓」。
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壱岐の海人が眠るお墓
壱岐島には長崎県に存在する古墳の約6割にあたる280基ほどの古墳があります。
島の各地に壱岐の海人がつくった古墳が点在しています。
壱岐の海人がつくった古墳の中には、石室の壁に船やクジラなどの絵を細い線で彫り込んだ線刻画が描かれているものもあります。
クジラを捕獲する様子を描いた線刻画は、埋葬された人物が生前、海で活躍したことを物語っています。
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(パネル/央)
上段、左/壱岐の海人の古墳からわかること
上段/右/石室に描かれた線刻画
下段/壱岐の海人が眠るお墓
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壱岐の古墳からわかること
壱岐の海人は金銅製品などの副葬品は少ないものの、石室の壁に線刻画を描いて自分の存在を後世に残しているのが特徴です。
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石室に描かれた線刻画
(本ブログ、第6話、壱岐風土記の丘古墳館の巻で「鬼屋窪古墳/捕鯨の様子を描いた線刻画。左下に、大小、2頭の鯨が見て取れる」のキャプション付きで拡大図を掲載済み)
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海人が眠るお墓
大塚山古墳 カジヤバ古墳
鬼屋窪古墳 松尾古墳
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大原天神の森古墳模型(前方後円墳)
長崎県壱岐市郷ノ浦大原触
縮尺 1:50
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島内各地の山や森の中にはたくさんの古墳が残っています。
これらの古墳の多くはまだ発掘調査が行われていません。
こえらの古墳は壱岐の古墳時代の歴史を解明する上で貴重なものばかりです。
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壱岐島内古墳出土品。
左/須恵器 小形平瓶/壱岐島内古墳 古墳時代 今から1700年前~1300年前
央/須恵器 小形横便/壱岐島内古墳 古墳時代 今から1700年前~1300年前
右/須恵器 宝珠付坏蓋/壱岐島内古墳 古墳時代 今から1700年前~1300年前
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妙泉古墳出土品、当田古墳出土品。
左/須恵器 はそう/妙泉寺古墳 古墳時代 今から1700年前~1300年前
央/須恵器 坏/当田古墳 古墳時代 今から1700年前~1300年前
右/須恵器 坏/当田古墳 古墳時代 今から1700年前~1300年前
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「国内唯一の亀を模した馬具飾り」。
パネルと馬の模型で解説。
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国内唯一
金銅製亀形飾金具
馬の額の部分に取り付けて使用する金具。
四方に広がる手脚には鋲が打たれており、紐で固定することができる作りになっているのが特徴。
長寿の生き物として知られる亀を模すことで、持ち主自身が長生きしたいという気持ちが込められていたものと思われます。
ミュージアムショップにてマグネット販売中。
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「ミュージアムショップにてマグネット販売中」の記述は、商魂逞しく、素晴らしい!

先ほど、実物をアップで撮ったが、こちらの方が鮮明。
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取り付け方。
まことに分かり易い説明である。
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下段パネルに、馬の模型に関し、次のように記されている。
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現在も対馬に実在する対州馬(たいしゅうば)をモデルに再現しました
対馬の中でも数少ない貴重な馬、対州馬!
大きさも実寸大でつくられている
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馬の話が出た。
これまでに、馬の伝来や古代牧での馬の生産などについていろいろベンキョーした。
馬の伝来には諸説あり、それを綴り出すと長々となるので、ここでは割愛する。
現存する小型在来馬は、前述の対州馬も含め、次の8種となっている。
・北海道和種(北海道、俗称:道産子)
・木曽馬(長野県木曽地方)
・野間馬(愛媛県今治市野間)
・対州馬(長崎県対馬)
・御崎馬(宮崎県都井岬)
・トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)
・宮古馬(沖縄県宮古島)
・与那国馬 (沖縄県与那国島)
中・大型在来馬(南部馬など)の純血種は絶滅している。

ガラス床の下に、石室の床面が再現されている。
金銅製装飾金具が手前、左角に見える。

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金銅製装飾金具をアップで。
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時代は変わり、次は、壱岐国分寺跡のコーナーへ。

フォト:2018年10月18日

(つづく)




# by ryujincho | 2018-10-23 23:17 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(4)壱岐市立一支国博物館(Ⅰ)』 kk-16

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
訪ねる先は、大塚山古墳、壱岐市立一支博物館、原の辻遺跡、原の辻ガイダンス、興神社(壱岐国府跡‐推定‐)、壱岐総社神社(壱岐国総社)、小島神社など。

大塚山古墳をあとにして、次は、壱岐市立一支博物館。
博物館は、位置的には南西方向、大塚山古墳のある丘陵とは別の東側の丘陵にある。
坂道を下る。
そして、再び、坂道を上り、下る。
下り坂の途中の右手に壱岐市立一支博物館が現れた。

博物館前で”今日の jitensha”。
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壱岐の風景をラッピングした観光バスが駐車している。
前日、壱岐風土記の丘の駐車場でもこの種の観光バスを見たが、それぞれにラッピングの風景は異なっている。

原の辻遺跡のラッピング。
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もう、これで原の辻遺跡を見学した気分。
ということで、角度を変えて、もう1枚。
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こちらは、筒城浜(つつきはま)のラッピング。
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「壱岐市立一支博物館」/「長崎県埋蔵文化財センター」。
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「埋蔵文化財センター」の名を見ると、なぜかゾクゾクするのである。
群馬県埋蔵文化財センター/情報館での体験がそうさせるのかもしれない。

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ロビーで観覧料400円也を支払う。
シニア割引はない。

「正面の階段を上がって、先ず、上階のホールへ行ってください」との案内あり。
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階段を上り、上階へ。

ビューシアター。
「魏志倭人伝」によれば、「一大國(一支國)」は...。
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原の辻集落の誕生。
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映像が写されていたスクリーンが開く。
映像に代わり、原の辻遺跡が眼前に現れる。
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ガラス越しに見えるワイド・ビュー、そののセンター部分をズームアップ。
復元された原の辻集落の環濠や物見台が見て取れる。
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前面のスクリーンが開かれ、眼前に実際の風景が現れるという趣向はこれが初めてなら凄いなあと思うところであろう。
しかし、既に、数年前、上総国分尼寺跡展示館(千葉県市原市)で、ジオラマによる尼寺跡の解説がなされた後、前面のスクリーンが開き、緑の草地の向こうに朱色も鮮やかな中門と金堂を結ぶ復元回廊が現れるという趣向を経験済みでもあり、今回、同じような仕掛けに驚くということはなかった。

原の辻遺跡は、後ほど、見学することにしており、その様子は続編にて。


次のコーナーへ。
「魏志倭人伝の世界」。
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魏志倭人伝の世界
邪馬台国への道
三世紀末に書かれた中国の歴史署「三国志」の中の「魏志倭人伝」。
「魏志倭人伝」には、日本国内の様子や邪馬台国までの道のりが2008文字で記されています。
壱岐は、朝鮮半島にある狗邪韓国を出て対馬国の次に海を渡って訪れた一支国として登場します。
このゾーンでは、57文字で記された一支国の様子や「邪馬台国への道」として重要な役割を果たしていた国々の様子を知ることができます。
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壱岐国に先立ち、対馬国に関わる記述がある
(写真8行目の4文字目「始度」・・・11行目「南北市糴」)
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始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
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始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。
大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。
絶島で400余里四方の広さ。
1000余戸が有る。
山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。
船で南北岸の市へいく。
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対馬国に続く、一支国に関わる記述は次の通りである。
(写真11行目の8文字目「又南渡」・・・14行目「南北市糴」)
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又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
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また南に瀚海(かんかい)と呼ばれる一つの海を渡り、千余里を行くと一大國に至る。
また長官を卑狗(ひく)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。
広さは約三百里四方ばかり。
竹や木のしげみが多い。
三千ばかりの家がある。
田畑が少しあるが、農耕だけでは食料には足らず、また、南や北に海を渡って穀物を買い入れている。
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魏志倭人伝では「一大國」と記されている。
他の史書では「一支國」と記されている。
魏志倭人伝は「支」と書くべきところを「大」と誤記しているとの説がある。
一方、誤記ではないとする説もある。

「魏志倭人伝」について、映像での解説もあり。
一支国に関わる57文字の記述。
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最初の27文字、それに続く、15文字、10文字、4文字の記述とその読み下し文が次々の映像に現れる。
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又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離
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対馬国から南に瀚海(かんかい)という海をわたること千余里、一支国(いきこく)に至る。
大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)という。
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方可三百里 多竹木叢林 有三千許家
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一支国は三百里四方ほどの広さで、竹や木が生え、藪が多い。
そして、三千ほどの人家がある。
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差有田地 耕田猶不足食
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いくらか田畑もあるが、農耕だけでは食料が足りない。
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亦南北市糴
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そのため人々は、南や北に海を渡り、交易をおこなっている。
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上階のビューシアター、そして、「魏志倭人伝」のコーナーから、展示室へと移る。

フォト:2018年10月18日

(つづく)




# by ryujincho | 2018-10-23 23:16 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)