2018年 10月 23日
10月20日(土)、晴れ。 この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。 九大本線筑紫吉井駅発、久留米経由、鹿児島本線西牟田駅で下車。 先ず、八女古墳群のうち、西側に位置する「石人山古墳」、「弘化谷古墳」、隣接の「広川町古墳公園資料館」を見分、見学。 続いて、八女古墳群を西から東へ順に。 次は、岩戸山古墳を目指す。 資料館で貰った「八女古墳群マップ」に従い、茶畑の中を通る一本道を爽快ポタリング。 マップには次のような解説が記されている。 -------------------------------------------- 岩戸山古墳 北九州最大規模の前方後円墳! 筑紫君磐井が築いたお墓だといわれています。 --------------------------------------------- 別区 岩戸山古墳の北東にある正方形のエリア。 「筑後国風土記」(逸文)には、ここで裁判が行われた様子が書かれています。 --------------------------------------------- 墳丘と別区の図をアップで。 この図は、下が北、上が南で描かれている。 180度、時計回りに回転させると上が北となり、墳丘の向きや別区の方位がイメージし易い。即ち、前方部を西、後円部を東とした前方後円墳であり、別区は後円部の北東に位置している。 今年4月、遠賀川流域装飾古墳をめぐった際、竹原古墳(宮若市)を探訪。 そのとき、竹原古墳の被葬者は筑紫君磐井に連なる人物と推定されるとの話を聞いた。 この話を聞き、機会があれば、被葬者は筑紫君磐井とされる岩戸山古墳も是非訪ねたいと思い、今般、その願いが叶うこととなったのである。 説明板に目を通す。 --------------------------------------- 国指定史跡 八女古墳群 岩戸山古墳 指定年月日 昭和30年12月23日 (名称変更 昭和53年3月24日) 所在地 八女市吉田字甚三谷 八女丘陵は東西10数kmにおよぶ丘陵である。 この丘陵上には12基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。 八女古墳群のぼぼ中央に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135m、東側の後円部径約60m、高さ約18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり、周濠、周堤を含めると全長約170mになる。 墳丘は二段築造で、内部主体は未発掘のため不明である。 古墳の北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している。 岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527年)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓であり、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。 古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰岩でつくられた多量の石製品が埴輪とともに出土している。 種類も人物(武装石人、裸体石人など)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?犬?など)、器材(靱・盾・刀・坩・蓋・翳など)があり、円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。 石製品は埴製(土)を石製に代え、さらに実物大を基本とした所に特徴がある。 --------------------------------------- 今年4月、テレビの放送大学「日本の古代中世」で; 第1回「古代・中世史への招待」 第2回「日本列島の原始から古代へ」 第3回「律令国家への道」 第4回「律令国家と天平文化」 をベンキョー。第2回「日本列島の原始から古代へ」の内容は「岩宿・三内丸山・吉野ヶ里遺跡など、旧石器・縄文・弥生時代の発掘成果から列島の社会像を見直し、中国史書が伝える歴史像と突き合わせる。また、古墳時代の稲荷山古墳鉄剣や『宋書倭国伝』が語る列島像を、磐井の戦いにみる国際関係とともに再検討し、倭国の大王と地方豪族との関係を複眼的に見直す」というものであった。 磐井の戦いに関わる解説と共に、佐藤信放送大学客員教授は岩戸山古墳へ赴き、現地での解説もあった。 このとき、別区なるものがあることを知り、まことに興味深く拝聴したのであった。 そうしたこともあり、この説明板の内容はスッと頭の中に入った。 説明板掲示の航空写真をアップで。 この航空写真の方位は、下が北、上が南となっている。 180度、時計回りに回転させると上が北となり、墳丘の方向や別区の位置の方位がイメージし易い。即ち、前方部を西、後円部を東とした前方後円墳であり、別区は後円部の北東に位置している。 いつも迷うこと、それは、古墳を先に見分するか、隣接の資料館(八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷)を先に見学するかである。 時刻は丁度12時、昼餉時。 古墳見分、資料館見学、いずれを先にするかの前に、先ず、腹拵え。 資料館の中庭のベンチで、コンビニ握り飯とお茶で昼餉。 先ほど、石人山古墳・弘化谷古墳では、先に現場を見分し、そのあと、資料館を見学したので、今度は先に資料館を見学し、そのあと、現場を見分することとなった。 筑紫君磐井像。 館内に入る。 ロビー。 「磐井とその一族」。 ---------------------------------------- 「磐井とその一族」 これは福岡県立福島高校の教員であった井上自助氏が磐井の乱直前の筑紫君磐井一族を描いた作品です。 手前に描かれている四人の人物は磐井とその一族で、その向こうに岩戸山古墳、背景には飛形山と矢部川が描かれています。 この作品に描かれている完成間近の岩戸山古墳を見ると、たくさんの人たちがその築造に携わっていたのがわかります。 当時、これほど多くの人たちを従える権力をもっていた磐井はどんな人物だったのでしょうか。 展示室に展示されている出土品や伝承が、磐井という人物や時代の変化を考える手がかりを、現代に生きる私たちに伝えてくれます。 ※井上自助氏は、明治45年(1912年)福岡県に生まれ、昭和6年(1931年)東京美術学校(現東京芸術大学)入学。卒業後は教鞭ととりながら、揮毫活動を続け、昭和23年(1948年)福岡県立福島高校に赴任、創元会へ入会。昭和45年(1974年)第6回日展特選を受賞、翌年創元会常任委員となり、昭和61年(1986年)に逝去。この作品は井上氏が福島高校在職中に描かれたもの。 ----------------------------------------- 展示パネルや展示物をゆるりと見学する。 すべてをここで紹介することはできないが、興味深いと思ったものをピックアップして掲載しておきたい。 なお、一部、順不同の掲載となっているが、大きく分けて; ◇筑紫君磐井とその支配地域について ◇岩戸山古墳および周辺古墳について ◇石製装飾品(石人・石馬など)について ◇磐井の乱について ◇朝鮮半島との関わりについて となる。 第Ⅰ章 八女英雄伝説への招待 ------------------------------------------- プロローグ 筑紫君一族と大首長 磐井 八女には、かつて九州を代表する大豪族 筑紫君一族がおり、 八女北部の丘陵地に大きな古墳を次々と築きました。 中でも磐井はその絶頂期に活躍し、九州の諸豪族と連携しながら 朝鮮半島との海外交流を行っていました。 ------------------------------------------- 「有明海を制す!筑紫君 始動」。 ----------------------------------------- 有明海を制す!筑紫君 始動 倭王武(雄略天皇)の上表文や日本書紀には、中国への渡航ルートや国際港湾としての有明海の姿が記述されています。 5世紀中頃、高句麗と百済の戦争により玄界灘から大陸への渡航ルートの一部が遮断され、有明海の重要度が飛躍的に上がりました。 既に地場で盟主となっていた筑紫君一族は、有明の制海権を握ることで次第に巨大豪族になったものと推定できます。 ----------------------------------------- パネル図、拡大版。 本図では、大陸への渡航ルートが示されているほかに、朝鮮半島南部に矢印で「栄山江周辺の前方後円墳密集地域」と図示されている。 今年3月、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)で企画展「世界の眼で見る古墳文化」を見学した。 この企画展では、世界の、そして、日本の墳墓について言及する中、朝鮮半島の墳墓についても言及していた。 ざくっと言えば;①日本の前方後円墳は半島から伝わったものではなく、日本独自のものであり、②半島の墳墓は日本の前方後円墳に類似して部分が多く、日本の手法を基に築造されていると考えられる、ということであったと記憶する。 この企画展の図録が手元にあるので、該当ページを紐解いてみた。 ------------------------------------------ 朝鮮半島の墳墓 ◇高句麗・・・転載割愛 ◇百済・・・・同上 ◇新羅・・・・同上 ◇伽耶諸国・・・同上 ◇栄山江流域(馬韓) 朝鮮半島の西南部、栄山江流域では5世紀中頃になると、大型の墳丘を有する古墳(方台形墳)造営されはじめる。 この古墳は時には10基をこえるような複数の埋葬史跡をひとつの墳丘に設置する独特なもので、「多葬墳」と呼ぶ場合がある。 例えば、羅州伏岩里3号墳では、3世紀代の低墳丘の甕棺墓からはじまり、6世紀後半から7世紀に至るまで、継続して墳墓を営んでいた。 このような多葬墳の存在が、栄山江流域の特徴であり、北方の百済とは別の政治体(馬韓?)が営んでいた墓制であった可能性が高い。 もうひとつの特徴としては、5世紀後半~6世紀前半頃に、各地で前方後円墳が営まれる点である。 現在のところ、13基程度が確認されている。 埴輪の樹立、九州北部に系譜を求めうる横穴式石室、多種多様な倭径の副葬品からみて、当時の倭との交流の中で築造されたことは確かである。 ただし、冠や飾履などの装身具、釘や飾り金具を用いた木棺など百済中央との関わりをうかがわせる要素もある。 また、埴輪の製作に在地の土器工人が関わっている点、九州北部と関わるが独特な石室構造もある点など、在地的な要素も認められる。 (掲載写真) ・栄山江流域の有力者の墓/伏岩里3号墳(大韓民国全羅南道羅州市) ・栄山江流域の前方後円墳/新徳古墳(大韓民国全羅南道咸平郡) ・栄山江流域の有力者の墓/伏岩里丁村古墳(大韓民国全羅南道羅州市)・栄山江流域の前方後円墳に樹立した埴輪/チャラポン古墳(大韓民国全羅南道霊岩郡)出土 ------------------------------------------ 最好きなウィキペディアを参照したところ、次の通りである。 ------------------------------------------ 朝鮮半島南部の前方後円形墳 本項では朝鮮半島南部の前方後円形墳、すなわち朝鮮半島南部の大韓民国(韓国)全羅南道・全羅北道に分布する、日本列島の前方後円墳と同じ墳形の古墳について解説する。 これらの古墳は、日本側では「前方後円墳」・「前方後円形墳」、韓国側では「前方後円墳」のほか楽器のチャング(長鼓)になぞらえ「長鼓墳」などと表記される。 日本列島の前方後円墳との間には類似点・相違点が存在することから、以下本項では「前方後円形墳」の表記で区別して解説する。 朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。 これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、当時の日本列島と朝鮮半島の政治的・経済的・文化的状況を表す事例として注目される。 古墳の構造は、前方後円形という概形こそ各古墳で共通するものの、墳形の寸法や外表施設・埋葬施設の点では個々で相違し、画一的ではない。 発掘調査では、外表施設として一部の古墳に周堀・段築・葺石・埴輪・木製品が存在することや、埋葬施設として一部に九州系横穴式石室の要素が存在することが判明し、これらは日本列島の前方後円墳とも共通する。 しかし、それら墳丘・施設は列島のものの模倣に近く、また副葬品には倭(日本)系・百済系・大加耶系の文物が混在する点で、特定地域に限らず様々な地域との交渉を反映した多義的な様相が認められている。 前方後円形墳の分布する栄山江流域は、文献史学的には史料が乏しく当時の情勢が不明な地域になるが、考古学的には当時の倭・百済・加耶のいずれとも異なる独自の在地系勢力(馬韓残存勢力)が存在した地域とされる。 そして、この在地勢力が百済の支配下に入る時期(6世紀中頃)の前段階において、在地系の高塚古墳と列島系の前方後円形墳の2つの墓制が展開した。 しかし、栄山江流域は日本列島と連続する地域ではないほか、一帯では列島からの大量移住の形跡もなく、各前方後円形墳自体も1世代のみで築造を終焉するため、このような列島系の墳形が築造された背景は依然詳らかでない。 現在も、被葬者としては、在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれて議論が続くトピックになる。 --------------------------------------------- 国立歴博の企画展図録、ウィキペディアとも、断定的なことは書かれていないが、朝鮮半島南部の前方後円形墳は倭(列島)の影響を受けていると、改めてその説を認識した。 前方後円墳は日本独自のものであることに異論はないが、いつも疑問に思うことは、前方後円墳を含む本邦の古墳の設計と築造監督は渡来人の知識に負うところが大という説もあり、となれば、何故、半島の墳墓を模倣したものにならなかったのかということである。 その答えとして、ヤマト王権、或いは、地方豪族の首長は、自らが考える墳墓の形を渡来人の力を使って具現化したと思いたい。 「朝鮮半島 派遣争奪戦 ヤマト王権の思惑と外交戦略」 ------------------------------------------ 朝鮮半島 派遣争奪戦 ヤマト王権の思惑と外交戦略 当時の朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅、伽耶諸国があり、半島の派遣を争う動乱の時期でした。 大陸の文化・情報を百済から一元的に受けていたヤマト王権は九州で徴発した兵士や軍船を度々送るなど、対新羅を目的とした軍事援助を行っていました。 良質の鉄を産出し、友好関係にあった伽耶諸国にも援助を行い、百済支援と生命線である鉄の入手ルート確保に全力を注ぐため、地方支配の仕組みづくりを急いでいました。 ------------------------------------------ 「筑紫君の命運をかけた一戦」 ----------------------------------------------- 筑紫君の命運をかけた一戦 磐井の乱に込められた九州豪族の思い 度重なる百済支援のため、九州に要求される兵・船・馬などの軍事挑発、強まる地方への支配体制、磐井は遂に立ち上がり、火国・豊国と共にヤマトの軍勢に刃を向け、ここに古代史上最大の内乱「磐井の乱」が勃発します。 日本書紀は「旗や鼓が相対し、塵芥入り乱れ、互いに必死に戦った」と、壮絶な戦闘であったことを記しています。 戦いは、結果としてヤマト王権側の勝利で終結します。 磐井の無念を残したまま。 ----------------------------------------------- 年表。 -------------------------------------------- 520年 この頃、北部九州最大の前方後円墳である「岩戸山古墳」が築造される -------------------------------------------- 526年 継体大王(天皇)、磐余玉穂宮(現・奈良県桜井市)に宮を遷し、ようやく大和入りを果たす =心覚え= 継体天皇について ・誕生:古事記/485年、日本書紀/450年(允恭天皇39年)? 、近江国高嶋郷三尾野(現・滋賀県高島市) ・崩御:古事記/527年、日本書紀/531年または534年 ? ・在位:第26代天皇、507年 ? - 531年または534年 ? ・諱:男大迹(ヲホド) ・『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと) ・『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、別名で彦太尊(ひこふとのみこと) ・『筑後国風土記』(逸文)では雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」 ・『上宮記』(逸文)では乎富等大公王(をほどのおおきみ) ・漢風諡号「継体天皇」は、代々の天皇とともに、淡海三船(おうみのみふね)により、熟語の「継体持統」から継体と名付けられたという。 ・「継体」とは、傍系王族が皇位を継いだという意味があるという。 ・即ち、15代応神天皇の5世孫で、越前国を治めていたが、25代武烈天皇は後嗣を残さずして崩御したため、中央の有力豪族の推戴(すいたい)を受けて即位したとされる(諸説ある中の一説)。 ・皇居: 507年2月?、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。 511年10月?、筒城宮(つつきのみや、現・京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。 518年3月?、弟国宮(おとくにのみや、現・京都府長岡京市今里付近か)に遷す。 526年9月?、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現・奈良県桜井市池之内か)に遷す。 この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは晩年の5年のみである。 年表の「ようやく大和入りを果たす」はこれを意味する。 ・陵: 宮内庁治定/三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ、大阪府茨木市太田、遺跡名:太田茶臼山古墳) 歴史学界/今城塚古墳(大阪府高槻市郡家新町) -------------------------------------------- 527年6月 「磐井の乱」勃発 同年 加羅諸国救援のため、ヤマト王権から派遣された近江毛野臣(おうみのけなのおみ)軍の進路を磐井が妨害する(日本書紀) 同年8月、継体大王、物部麁鹿火(もののべのあらかび)を将軍とし、磐井の征討にあたらせる(日本書紀) 528年11月 筑紫の御井(現・久留米市御井付近)にて決戦。磐井は敗れ、斬られる(日本書紀) ※「筑後国風土記」(逸文)には、現・豊前市付近の山中に逃げ延びた、とある。 同年12月 筑紫君葛子(ちくしのきみくずこ)、糟屋屯倉(かすやのみやけ、現・福岡市東区~古賀市周辺)を献上し、死罪を免れる(日本書紀) -------------------------------------------- この頃、北部九州で装飾古墳が多く見られるようになる (541年~548年)「磐井の乱」後、乗場古墳(八女市)、善蔵塚古墳(広川町)、鶴見山古墳(八女市)の大型前方後円墳が丘陵上に次々に築造される --------------------------------------------- 「文献が記す、異なる2つの結末」 -------------------------------------------- 文献が記す、異なる2つの結末 郷土民の磐井への想い 西暦527年に始まり、1年半にも及んだ戦いは御井郡(現久留米市)において最終決戦が行われました。 磐井は斬られ、反乱は鎮圧されたと日本書紀に記されています。 他方、地方の産物や伝承を記録した「筑後風土記」の逸文では豊前国の山深い地に逃れた、と記しています。 「磐井を生かしておきたい。」という郷土の人たちの想いがあったのでしょうか。 -------------------------------------------- 『日本書紀 継体紀二十二年十一月・十二月条』 ----------------------------------------------- 日本書紀 継体紀二十二年十一月・十二月条 二十二年の冬十一月(しもつき)の甲寅(きのえとら)の朔(ついたち)甲子(きのえね)に、大将軍(おほきいくさのきみ)物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかひ)、親(みづか)ら賊(あた)の帥(ひとごのかみ)磐井と、筑紫の御井郡(みゐのこほり)に交戦(あいたたか)ふ。 旗(はた)鼓(つづみ)相望(あいのぞ)み、埃塵(ちり)相接(あいつ)げり。 機(はかりごと)を両(ふた)つの陣(いくさ)の間(あひだ)に決(さだ)めて、萬死(みをす)つる地(ところ)を避(さ)らず。 遂(つひ)に磐井を斬(き)りて、果して橿場(さかひ)を定む。 十二月(しはす)に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父(かぞ)のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐(おそ)りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を獻(たてまつ)りて、死罪(しぬるつみ)贖(あが)はむことを求(まう)す。 ----------------------------------------------- 磐井の乱の経緯の概略は、『日本書紀』によれば、次のとおりである。 ・ 527年(継体21年)6月、ヤマト王権の継体天皇は、新羅に奪われた加羅諸国救援のため、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)軍を派兵。 ・新羅を含む半島諸国と交流のある磐井は、ヤマト王権軍に対し、挙兵、火の国と豊の国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖し、ヤマト王権軍の進軍を阻み、交戦。 ・同年8月、ヤマト王権は、物部麁鹿火(もののべのあらかび)を将軍とする平定軍を派兵。 ・ 528年(継体22年)11月、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡にて交戦、磐井軍は敗北し、磐井は斬られた。 ・同年12月、磐井の子、筑紫君葛子は糟屋の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。 ここで気になることは、『日本書紀』の「遂(つひ)に磐井を斬(き)りて、果して橿場(さかひ)を定む」の中の「果して橿場(さかひ)を定む」という記述である。 「橿場(さかひ)を定む」とは「国境を定める」ということである。 これはヤマト王権側についた「火の国」や「豊の国」との国境ということであろう。 国境を定め、且つ、磐井の子、筑紫君葛子は糟屋の屯倉をヤマト王権へ献上し、一族は安堵され、その後はヤマト王権の支配下に入ったのである。 ということは、ヤマト王権は磐井の討伐に赴いたのではなく、国境を定めるために派兵し、磐井の抵抗にあったため、磐井を亡き者とし、糟屋の屯倉を手に入れたということとなる。 磐井の乱が起った理由には諸説あり、本当のところはよくは分かっていないのだが...。 因みに、『古事記』では、袁本杼命(=継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日?)としており、筑紫君石井が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(=物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して磐井を殺害させた、と簡潔に記している。 ------------------------------------------ 『筑後國風土記』(逸文) 筑後(ちくしのみちのしり)の國の風土記に曰はく、上妻(かみつやめ)の縣(あがた)。 縣の南二里(さと)に筑紫君磐井(ちくしのきみいはい)の墓墳(はか)あり。 高さ七丈(ななつま)、周(めぐ)り六十丈(むそつま)なり。 墓田(はかどころ)は、南と北と各(おのもおのも)六十丈(むそつま)、東(ひむがし)と西と各(おのもおのも)四十丈(よそつま)なり。 石人(いしひと)と石盾(いしたて)と各(おのもおのも)六十枚(むそひら)、交(こもごも)陣(つら)なり行(つら)を成して四面(よも)に周匝(めぐ)れり。 東北(うしとら)の角(すみ)に當りて一つの別區(ことどころ)あり。 號(なず)けて衙頭(がとう)と曰ふ。 衙頭は政所(まんどころ)なり。 其の中(うち)に一(ひとり)の石人あり、縦容(おもふる)に地に立てり。 號(なづ)けて解部(ときべ)と曰ふ。 前に一人あり、躶形(あかはだか)にして地に伏せり。 號(なづ)けて偸人(ぬすびと)と曰ふ。 生けりしとき、猪(ゐ)を偸(ぬす)みき。 仍(よ)りて罪を決められむとす。 側(かたわら)に石猪(いしゐ)四頭(よつ)あり。 贓物(ざうもつ)と號(なづ)く。 贓物は盗みし物なり。 彼(そ)の處(ところ)に亦(また)石馬(いしうま)三疋(みつ)、石殿(いしとの)三間(みつ)、石蔵(いしくら)二間(ふたつ)あり。 古老(ふるおきな)の傳(つた)へて云へらく、雄大迹(おほど)の天皇(すめらみこと)のみ世に當りて、筑紫君磐井、豪強(つよ)く暴虐(あら)くして、皇風(おもむけ)に偃(したが)はず。 生平(い)けりしの時、預(あらかじ)め此の墓を造りき。 俄(にわか)にして官軍(みいくさ)動發(おこ)りて、襲(う)たむとする間(ほど)に、勢(いきほひ)の勝つましじきを知りて、獨自(ひとり)、豊前(とよくにのみちのくち)の國上膳(かみつみけ)の縣(あがた)に遁(のが)れて、南の山の峻(さか)しき嶺(みね)の曲(くま)に終(みう)せき。 ここに、官軍(みいくさ)、追(お)ひ尋(ま)ぎて蹤(あと)を失(うしな)ひき。 士(いくさびと)、怒(いかり)泄(や)まず、石人(いしひと)の手を撃(う)ち折り、石馬(いしうま)の頭(かしら)を打(う)ち堕(おと)しき。 古老(ふるおきな)傳(つた)へて云へらく、上妻(かみつやめ)の縣に多く篤(あつ)き疾(やまい)あるは、蓋(けだ)しくは茲(これ)に由(よ)るか。 -------------------------------------------- この「筑紫國風土記」(逸文)からは次のようなことが分かる。 ・磐井の墓の場所と規模、石馬・石盾が立ち巡らされている様子 ・墓の北東角に配置された別區(ことどころ)の様子と別區(ことどころ)での裁判の様子 ・墓は筑紫君磐井の生前に築造されていること ・磐井の乱の様子 ・磐井は豊前国に逃れた旨のこと ・官軍は磐井に逃げられたことに怒り、石人・石馬を打ち壊したこと ・この地に重篤な病気があるのは、石人・石馬を打ち壊したことによる祟りではないかとの旨 など。 「中央集権と地方豪族」 ----------------------------------------------- 中央集権と地方豪族 エピローグ 筑紫君一族の末裔たち 磐井の乱が集結し、 磐井の息子「葛子」は罰せられることを恐れ 差し出した糟屋の地に ヤマト王権は直轄地「屯倉」を設置、 以後、北部九州に次々と設置していきます。 こうして地方の直接支配を着々と進め 中央集権国家を目指すヤマト王権に対し、筑紫一族の生き残りをかけた模索が始まります。 ----------------------------------------------- 右下/「磐井の乱に敗北したものの、一族の勢力は残すことができたんだ。だけど、これからは九州の王ではなく、国の地方官として生きていかなければならなくなったんだ」とつぶやく、息子、筑紫君葛子。 ---------------------------------------------- 予備知識とパネル解説が相まって、随分とカシコクなった(ような気がする)。 磐井の乱、筑紫君磐井の人望などについて、劇画調(???)の映像も観た。 これについては、続編で綴ることとしたい。 次は、石人・石馬などの石製装飾品の展示コーナーへ。 フォト:2018年10月20日 (つづく)
by ryujincho
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