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龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/五日日、八女古墳群/石人山古墳』 kk-31

10月20日(土)、晴れ。

この日のプランは、八女古墳群探訪+アルファ。
九大本線筑紫吉井駅発、久留米経由、鹿児島本線西牟田駅で下車。

先ず、八女古墳群のうち、西側に位置する「石人山古墳(せきじんやまこふん)」、「弘化谷古墳(こうかだにこふん)」と、隣接の「広川町古墳公園資料館」を目指し、出発。

西牟田駅から県道84号線を東へ、知徳交差点を右折し、県道86号線を南下。
目的地は、県道86号線の右手(西側)となるのだが、入る道を通り過ぎてしまい、手持ちの地図ではよく分からず、スマホで検索。
最初に、広川町古墳公園資料館に立ち寄ろうと思っていたが、スマホに従い、走っていると、目的地のひとつ、石人山古墳に至った。

石人山古墳。
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立て看板には「史跡 石人山古墳 筑後市教育委員会 広川町教育委員会」とある。
この地は八女郡広川町であるが、筑後市教育委員会と広川町教育委員会が併記されている。
広川町は、久留米市、筑後市、八女市に隣接しているので、広川町と筑後市は無縁ではないだろうが、何故、併記されているのであろうか?

広川町について、ウィキペディアを紐解いてみた。。
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広川町(ひろかわまち)は、福岡県の南部にある町で、八女郡に属する。
八女市郡においては、県の強力な指導のもと、市町村合併が進められ、八女郡のほとんどの町村が八女市に合流する道を選んだが、広川町は、多くの住民が久留米市との合併を望んだ。
しかし、町議会の否決により久留米市との合併は失敗。
町議会は八女市との合併を模索したものの、これも合併には至らず、合併特例法の失効を迎えてしまった。
現在、広川町は町内に九州自動車道の広川インターチェンジ、周辺に工業団地を整備し、比較的財政基盤が安定しているため、今後も原則として単独町制を貫くとしている。
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筑後市教育委員会との関連はよく分からないが、広川町・筑後市が共同して石人山古墳の調査を行っているのかもしれない。

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石段を上る。
この石段は、古墳が築造された丘陵に上る石段と思われる。
後で分かることだが、この石段は一つ目の石段で、このあと、二つの石段が現れる。
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石段を上り切り、しばらく、平坦な道を進む。
クモの巣だらけである。
壱岐島でも、クモの巣に随分と悩まされた。
その都度、相棒の武衛さんが小枝を拾って、クモの巣の払い役をやってくれている。

クモの巣払いの図。
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前方に見える石段は二つ目の石段である。
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二つ目の石段を上り切ると、「直進/石人山古墳、右/弘化谷古墳」の標識あり。
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更に平坦な道を進む。
三つ目の石段が現れる。
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三つ目の石段脇に設けられた説明板に目を通す。
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石人山古墳
昭和53年3月24日
国指定史跡 八女古墳群として一括指定

この古墳は、岩戸山古墳(八女市)・石神山古墳(みやま市)と共に、石人を有することによって全国的によく知られます。
古記録に「貞享元年(1684)」3月、一条村の南岡に石人を立つ云々」とあるように、石人そのものが神と認識され、祭祀の対象ともなります。
古墳の形は「造り出し」と称する平坦部を持つ前方後円墳で、前方部は二段に、後円部は三段に丘陵上に西面して築造され、周濠を有します。
出土した須恵器片や埴輪などの年代から推考し、5世紀前葉と考えられています。
主体部は、横2m、奥行4mの石室に、阿蘇溶結凝灰岩で造った、横口式家形石棺が納められています。
棺蓋は寄せ棟型の屋根で、頭頂部の長さは1.9m、底部の長さは2.8mを測ります。
屋根の表面には、重圏文・直弧文・三角文などの精緻な彫刻が施されています。
棺身は4枚の板石を組み合わせて壁とし、高さは1.4m、長さは2.3mを測ります。
また、墳丘のくびれ部には、古墳名の由来となった石人が立ち、短甲を着し、武装しており、像高1.9mを測ります。
昭和51年6月5日、国の重要文化財に指定されました。

規模
全長 120.0m
前方部 高さ 11.3m 正面幅63.3m
後円部 高さ 12.0m 径 53.0m
周濠幅 1.5m

平成30年1月
広川町教育委員会
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三つ目の石段を上る。
石段を上り切ると、その先に覆屋が見えて来た。
覆屋の扉の上に「石人社」と墨書された扁額風の板が掲げられている。
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覆屋の扉の脇に「重要文化財 武装石人 昭和五十一年六月五日指定」と墨書された札が掲げられている。
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覆屋の扉は施錠されており、中には入れない。
扉越しに、覆屋の中を覗いてみる。
大きな武装石人が鎮座。

正面からの姿。
短甲を着用していることが見て取れる。
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左手から眺めた姿。
後ほど、隣接の資料館で入手したリーフレットに「短甲右脇の丹彩(にさい)の痕跡」とある。
確かに、丹色が見て取れる。
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右手から眺めた姿。
後ほど、隣接の資料館で入手したリーフレットに「短甲左脇の抉り込み」とある。
この「抉り込み」に関わる説明は記されていないが、大刀が嵌め込まれていたのかもしれない。
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裏から、窓越しに。
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後ほど、隣接の資料館で貰ったリーフレット「国指定史跡 八女古墳群 石人山古墳 」(広川町教育委員会)に目を通すと、この武装石人について、次の通り触れられている。
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武装石人と人形原(ひとがたばる)
石人山古墳は、その名の起こりともなった武人石人が立っていることでも有名で、石人は古墳前方部と後円部の、ちょうどくびれ部分に立っており、主体部の石棺に埋葬された被葬者を守っているかのようです。
この石人は背丈が約1.8mで、よろい(短甲)を身に着けて、靭(ゆき)と呼ぶ矢入れを背負った、武装した姿に彫刻されています。
極めて貴重な考古資料であることから、昭和51年6月5日付けで、国の重要文化財の指定を受けました。
この石人は江戸時代の中頃には地面に倒れていましたが、その当時、広川谷21ヶ村の大庄屋であった、稲員(いなかず)孫右衛門安則という人が、地面を平らにならして基壇を築き、石人を起こして顕彰しました。
時に貞享元年(1684年)3月のことです。
稲員安則が書き残した『家勤記得集』という記録には、石人山古墳をはじめ岩戸山古墳(八女市)や十連寺古墳(三潴町、みづままち)にも、もともと、石人や石馬がたくさん立てられていたことから、八女丘陵の別名を人形原(ひとがたばる)と呼ぶようになった、と書かれています。
ところが、江戸時代の初めに、関ヶ原の戦いで大手柄を立てて、筑後一国の領主となった田中吉政という人が、福島城(現・八女公園一帯)の整備のため、これらの石人石馬を選び出して、石垣の下積みに利用したのです。
このことから八女丘陵の古墳から石人石馬の姿が消えてしまったのです。
(中略)
今日、私たちが目にする石人はずいぶんと痛んでいて、特に首から上の部分は彫刻の模様がほとんど分かりません。
このように痛んでしまった原因は、地元に伝わる俗信によるのです。
昔から肩や腰の痛い人は、石人の肩や腰をさすったりすると治ると、強く信じられてきたからなのです。
ずいぶんと長い歳月、たくさんの人にさすられたり、たたかれたりして、いつの間にか今のような姿になってしまったのです。
天保3年(1832年)、久留米藩の有職故実家であっる松岡辰方の描いた模写図や、大分県日田市にある石人(江戸時代の終わり頃に模造された)の模様などから、もともとは極めて繊細な模様が彫刻されていたことが分かります。
また、石人の腰の部分には、今日なお、彫刻された当時に施された丹彩(にさい)の痕跡を留めています。
(図)江戸時代に模写された石人図
・天保3年(1832年)以前に描かれた図で、現在のところでは最も古い図、「歴世服飾考」
・天保3年(1832年)久留米藩有職故実家の松岡辰方が描いた模写図、「福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告集第十二集」
・嘉永年間(1850年頃)に矢野一貞が描いた模写図、「筑後将士軍談」
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※「十連寺古墳(三潴町、みづままち)」は、旧・三潴郡三潴町、現・久留米市三潴町にある、八女古墳群に属する径30mの円墳。

石人山古墳の武装石人は、長い年月の間に、病気治癒でさすられ、削られた姿になったという記述を読み、卑近な例ながら、こんなことを思い出した。
両国の回向院に鼠小僧次郎吉の墓がある。
墓標の前に「お前立ち」の石が置かれている。
「鼠小僧の墓石を持っていると博打で勝てる」という俗信があり、長年捕まらなかった鼠小僧の運にあやかろうと墓石を削ってお守りに持つ風習があり、墓石を削っていた。
しかし、そのようなことでは、何れ墓石が消滅してしまうであろうことから、現在は、墓石でなく、「お前立ち」の石を削るようになっている。

もうひとつ、卑近な例ではないことも記しておこう。
太宰府天満宮の御神牛像の頭を撫でると学業に御利益がある、怪我病気をした個所を撫でると治癒するとのことで、頭部をはじめ像のあちらこちらの部位がぴかぴかに光っている。
そんなことも思い出すのであった。

話が反れてしまった。
話を元に戻そう。

武装石人の覆屋の奥に、もうひとつ、覆屋が見える。
先ほど、目を通した説明板の内容からすると、石棺が納められている石室の覆屋と思われる。
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奥の覆屋へ向かおうとしたとき、ふと、右側を見ると、石標が倒れているのに気付いた。
石標には「史跡 石人山古墳」と刻まれている。
先の熊本地震のときに倒れたのかもしれない。
地形を見ると、斜面になっている。
前方後円墳の後円部の墳丘斜面と思われる。
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奥の覆屋へ向かう。
この地形からして、後円部の墳丘の一部を切り掻いて通路を作り、その先を平坦地にして、覆屋が建てられているように思える。
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奥の覆屋。
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史蹟 石人山古墳
昭和13年8月8日
文化財保護法により重要文化財指定
この古墳の構造は、長峰丘陵の一部を利用して築造した前方後円墳であります。
封土は二段に築かれ、全体の長さ約110メートル、後円部の径は約53メートル、前方部の幅約63メートルあり、周囲に空濠の跡が残っています。
後円部の前面には武装石人が立ち、貞享元年(1684年)、小堂を建て、これを被覆しています。
江戸時代、末に後円部の中央地下3メートルに石棺の全面は露出して副葬品については明らかでありません。
昭和11年3月25日、県の史跡調査によって、石棺上の覆土を除き、石棺の石槨の内部を部分的に発掘し、その結果、重圏紋と直弧紋が彫刻された見事な石棺の蓋が初めて発見され、久留米市浦山古墳と並び称されるものです。
これが保存のため、昭和13年5月、覆屋を設け、昭和29年3月補修、昭和39年3月改築しました。
広川町教育委員会
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※長峰丘陵とは、八女丘陵のことである。
※「封土は二段に築かれ」とあるが、前方部は2段、後円部は3段である。
※この説明板がいつ設けられたかは不明なるも、石人山古墳は昭和13年(1938年)8月8日に国の史跡に指定され、昭和53年(1978年)3月24日付けで、史跡の追加・統合指定が行われ、指定名称が「八女古墳群」に変更された。

扉越しに覆屋の中を覗く。
「竪穴系横口式石室」とそこに納められた「妻入り横口式家形石棺」。

正面から眺める。
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左手から眺める。
棺蓋に彫られた装飾文様が見て取れる。
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右手から眺める。
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もう一度、正面から。
今度は少しズームアップして。
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「石棺環境調査中!※石棺入り口にある物は、温湿度・日射を計測している機械です」。
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説明書きに目を通す。
説明書きはこれで三つ目である。
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史蹟 石人山古墳
この岡は東西7KMあり、古くから人形原とよばれ
幕末の矢野一貞は、この台地の大古墳群を筑紫國造家
の墓所であると云っている。 この古墳群の西端にあっ
て最も古い様式をもつのが本古墳である。5世紀後半
の築造とみられる前方後円の墳丘は古式を示し、長さ
120M 幅 後円部で60M 前方部で45Mあり、大形と云える。
中央に立つ石人はこの古墳の名の起りを示す。
前方部に向かって開く狭い石室は いまほとんど失はれ
ているが、それにおさめられた横口式家形石棺は円文
直弧文などで飾られ、石人とともに九州の地方色を強
く示している。    文化財保護委員会
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石人山古墳に到着してから、三つの説明板に目を通した。
書かれた時代によって古墳の規模を示す数字など記述が若干異なっている個所がある。
後ほど、隣接の資料室で入手したリーフレット「国指定史跡 石人山古墳 広川町教育委員会」も併せ、ここで整理しておきたい。

指定:
大正15年(1926年)3月 福岡県の指定を受ける
昭和13年(1938年)8月8日 国の史跡に指定される
昭和53年(1978年)3月24日 八女古墳群として国の一括指定となる

所在地:福岡県八女郡広川町大字一條字人形原(にんぎょうばる)1435番
築造年代:5世紀後半代の終わり頃(古墳時代中期)
立地:
東西10数kmにわたり広川町の南側に耳納山地(みのうさんち)からのびてきている狭長な丘陵、八女丘陵の西端付近に位置

外部施設:
・前方後円墳
・標高35m前後の丘陵の一部を利用して築造
・全長 120.0m
・前方部 
 正面幅(説明板では)63.3m(リーフレットでは)54m
 高さ(説明板では)11.3m(リーフレットでは)6m
・後円部 
 径(説明版では)53.0m(リーフレットでは)76m
 高さ(説明板、リーフレットとも)12.0m
・周濠幅(説明板では)1.5m(リーフレットでは)1,2m~1.3m
・前方部は2段築成、後円部3段築成
・前方部、西向き
・北側くびれ部に「造り出し」あり(南側にも存在したと推定されるが、開墾等により痕跡なし)
・墳丘には、葺石がなされ、円筒埴輪・形象埴輪がめぐっていたと推定される
・前方部と後円部の墳丘くびれ部分に、後円部にある石棺入口を背に1体の「武装石刃」が立つ
・竪穴系横穴式石室
 横幅 2m、奥行 4m、深さ(現在の墳丘面から)約 4m
・石棺
 阿蘇溶結凝灰岩製「妻入り横口式家形石棺」
 4枚の板石を組み合わせ、その上に刳抜式の屋根を被せたもの
 棺の長さ 2.8m、幅/西端 1.5m・東端 1.3m(台形)、高さ 2m
 棺蓋の東西単辺に棒状縄掛突起あり
 棺身の西側単辺の壁に開口部あり

※前方部と後円部の高さが説明板やリーフレットで異なる点が気になるが、深くは考えないことにする(前方部は2段築成、後円部は3段築成であるし、三つ目の石段がある点からして、前方部は6m、後円部は12mであろうと思われるが)。
※後円部の径も異なるが、基壇を含めるか場合もあるので、深くは考えないこととする。

石人社と石室を見分したのち、再び、三つ目の石段を下る。
下ったところ(武装石人はくびれ部付近に立っているとあるが、後円部墳丘に立っているように思われ、三つ目の石段を下った辺りがくびれ部ではないかと思われる)から周囲を眺めてみる。

墳丘の斜面。
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北側。
右端が後円部に繋がる墳丘斜面、その左側は造り出し部(と思われる)。
右手、木立の向こうに、隣接の資料室の屋根が見える。
中央から左手は前方部の北側の裾が広がっている。
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次は、弘化谷古墳へ。
三つ目の石段下から南側へ出る。

南西側から眺めた、石人山古墳の墳丘斜面。
左奥に先ほど、下って来た石段の手摺りが見える。
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「←弘化谷古墳」。
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南側から石人山古墳の後円部を眺める。
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左に小さな石標が見える。
ズームアップ。
「史跡境界(線?)」と刻まれている。
前述の通り、南側にも造り出し部があったと推定されるが、開墾等により痕跡はないということであった。
確かに、石人山古墳の南側は、畑地、或いは、手の入った空き地となっている。
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南東側から石人山古墳の後円部を眺める。
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後円部の裾をズームアップ。
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標識「弘化谷古墳 石人山古墳」。
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更に進むと、池が見えて来た。
この池は石人山古墳の後円部の東裾に位置している。
その昔、周濠の一部であったかもしれない。
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ジョギング中の人に、弘化谷古墳への道を確認する。
「道なりに進むと、上り坂になります。坂を上り切ると公園があります。その直ぐ先に弘化谷古墳があります」と。

フォト:2019年10月20日

(つづく)



by ryujincho | 2018-10-23 23:31 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)


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