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龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(12)興神社、そして、壱岐総社神社』 kk-24

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐市立一支博物館、原の辻遺跡ガイダンス施設、原の辻遺跡を訪ねたのち、興神社、壱岐総社神社方面へ向かう。

原の辻遺跡から県道23号線を北上、幡鉾川を渡った後、県道23号線を外れ、西へ走る。
県道173号線との交差点に至り、左折し、県道173号線を南西に走る。

右手に、興神社が見えて来た。

今回の旅で、何故、興神社と壱岐総社神社を訪ねることにしたのかをここで述べておきたい。
いろいろテーマがある中で、国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社をめぐることもテーマのひとつとしている。
既に、関東圏のすべて+その他幾つかを探訪した。

今回の壱岐島訪問に先立ち、壱岐国について調べたところ、次の通りであった。

1)国府跡:
・国府は石田郡にあった。
・所在地については諸説あるが、遺構は発見されていない。
・推定地として、壱岐市芦辺町湯岳興触の興神社付近ではないかとされる説がある。
・社名「興神社」の「興」は「国府(こふ、こう)」の意味とされる。
・興神社は、国府の倉の鍵である「印鑰」を保管していたことから、近世には「印鑰神社」とも呼ばれていたこともある。

国府跡が不明な場合は、「府中」(東京都ほか)、「国府台(こうのだい)」(千葉県)、「国府津(こうづ)」(神奈川県)、「古国府(ふるこう)」(栃木県)などの地名を手掛かりに国府の所在地を推定する手法がある。
興神社の「興」が「国府(こふ、こう)」に通じ、この辺りに国府があったという説には諸手を挙げて賛成したい。

印鑰(いんやく)、印鑰神社(印鑰大明神)については、一昨年、讃岐国府跡を訪ねた際に知った。
即ち、
讃岐国府跡の説明板に「綾北平野の南限にあって、三方を山に囲まれたこの地域は、大化の改新による律令制度によって讃岐国府の置かれたところである。付近には、垣ノ内(国庁の区域)、帳次(ちょうつぎ、諸帳簿を扱った役所)、状次(じょうつぎ、書状を扱った役所)、正倉(国庁の倉)、印鑰(いんやく、国庁の印鑑・鍵の保管所)、聖堂(学問所)などの地名があり、名国司菅原道真の事跡とともに讃岐国庁の姿を偲ばせ、...(以下、略)坂出市教育委員会」とあり、印鑰のことに触れられている。

更に、讃岐国府跡の田畑の中に「国府印鑰明神遺跡」と刻まれた碑もあり、先述の説明板の「付近には...印鑰(いんやく、国庁の印鑑・鍵の保管所)...などの地名があり」と重ね合わせると、この地に「印鑰」の名を冠した神社があったと想像が出来、印鑰神社を調べてみると、ここ、坂出市のみならず、山形市、七尾市、福岡市、佐賀市、久留米市、八代市、西都市などにもあり、国府機能が衰退してから、大切な印鑰を神社の御神体として祀るようになったのではないかとも。

因みに、讃岐国府跡の説明板には「印鑰は国庁の印鑑・鍵の保管所」とあるが、広辞苑によれば、保管所の意味は含まれず、「官印と官庁の倉庫の鍵」とある。
以前、平将門のことを調べていたとき、ウィキペディアに「下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い...」とあり、印鑰は国印と鍵という意味である。
下野国庁跡資料館を訪ねた際、下野国印のレプリカがあり、係の人に「下野国府が平将門の襲撃を受けたとき、国印はどうなったのですか」と尋ねたところ、「国印はさっさと渡しました。すると、平将門軍はさっさと通り過ぎて行きました」との答えを貰い、大笑いしたことも思い出される。

なお、印鑰の読みは「いんやく」と書かれたものや「いんにゃく」と書かれたものがある。
「鑰」の読みは「やく」であり、「いんやく」でよいのが、「印(in)」と「鑰(yaku)」を合体すると「inyaku」となるから「いんにゃく」も正しいのであろう。

2)国分寺跡(僧寺):
・所在地:壱岐市芦辺町中野郷西触・・・前日、探訪済み(探訪記は本ブログの第2話にて)
=備考=
国分尼寺について:
以下のことから、国分尼寺は壱岐国では建立されなかったと思われる。
・「国分寺建立の詔は天平13年(741年)に出されたが、『類聚三代格』の天平16年(744年)の詔によれば、同年に至って壱岐島の国分僧尼両寺の造寺用料が肥前国から割り当てられている」(ウィキペディア)とあり、尼寺の建立も考えられていた。
・しかし、結果的には、壱岐島直(壱岐氏、壱岐島の古代豪族)の氏寺を島分寺とし、僧5口(他国では僧20口)を置くとされ、尼寺は見送られ、僧寺のみとなったようだ。

3)総社:
壱岐国の総社神社は「壱岐総社神社」。
所在地は壱岐市芦辺町(それつづく住所の詳細は不明)。
グーグル・マップによれば、興神社から県道173号線を南西に1kmほど走り、北側へ向かう細道に入った辺りの北側となっている。

前置きが長くなってしまった。
興神社に至ったところへ話を戻そう。

興神社。
説明板に目を通す。
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興神社
由緒沿革
主祭神 足仲彦尊 息長足姫尊
相殿  應神天皇 仁徳天皇 手力男命 八意思兼神 住吉大神
例祭日 四月十三日 神幸式大神楽奉奏
由緒沿革
一、当社は延喜式第十巻神明帳書載の壱岐嶋石田郡興神社である。社記に言う。往古壱岐伊宅郷国名村(湯岳村)国の一宮国分社で又官庫の鑰政所の印を納めていたので印鑰大明神と称したとある
一、神明記には興神社こう村以前は印鑰大明神式内社とある
一、神社帳には湯岳村久保頭興神社一宮とあり式内二十四座のうち宝殿拝殿あり神主吉野数之進とある
一、嵯峨天皇弘仁二年十月(千二百年前)朔日御鎮座で文徳天皇仁寿元年(千百四十年前)正六位上に叙せられ以後十回にわたり各一階づつ神階を進められ給う
一、永禄九年(四百四十年前)宝殿再建 松浦肥前守源隆信公の棟札あり
一、同年十三年 拝殿再建 松浦肥前守源鎮信公
一、慶安二年(三百四十年前)国主松浦肥前守鎮信公 木鏡及石額奉納せらる
一、社記には例祭日の前夜大神楽 翌例祭日には国主名代兵具や幣帛を献上するとあり又女池の行宮に渡御ありと記されている
一、壱岐七社の一つで明治九年十二月四日村社に列せらる
一、明治四十年 神饌幣帛料供進神社に指定せらる
(平成二年 御大典記念事業)
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※足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと。仲哀天皇)
※息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと。神功皇后)
※手力男命(たじからおのみこと=天手力男命 あまのたじからおのみこと)
※神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)

興神社。
一の鳥居。

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参道を進む。
二の鳥居、更に参道は続き、社殿へ。
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扁額コレクション。
一の鳥居扁額。
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二の鳥居扁額。
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二の鳥居、相欠きはぎ。
相欠きはぎは板材のはぎ合わせ方法として時々見掛けることがあるが、石材でも「相欠きはぎ」があるのだ。
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ここに国府があったのであろうと想像しながら、周囲を見渡す。
神社の裏(北側)は森、東側は空き地、南側は県道173号線を挟んで畑、西側も畑。
国府跡を偲ばせるものは見当たらないが、「興(こう)」=「国府(こう)であることと、由緒書きの「官庫の鑰政所の印を納めていたので印鑰大明神と称したとある」などを以て、ここが国府跡であると思いたい。

西側の畑。
ロールベーラーで丸められた干し草の風景。
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次は、壱岐総社神社へと向かう。
所在地はよくは分からないが、グーグルマップによれば、興神社から県道173号線を南西に1kmほど走り、北へ向かう細道に入った辺りの東側に位置している。

県道173号線を南西に走る。
この辺りだろうと、県道173号線から外れ、北へ向かう細道に入る。
「壱岐総社神社」を示す標識はない。

幡鉾川に架かる「ふなばし」、そして、「きゅうふなばし」に至る。
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手元の地図、そして、スマホでグーグル・マップを見る。
少し通り過ぎているようである。
少し戻る。

スマホのグーグルマップによれば、この細い坂道を上ったところにありそうである。
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時計を見る。
午後3時。
先を急がねばならない。
坂の奥は、更に細くなり、薄暗く、なんだかおどろおどろしい。
そもそも、総社神社は、と屁理屈をつけて、この細い坂道を上ることは諦め、壱岐総社神社はパスさせて戴くこととした。

「そもそも、総社神社は、と屁理屈をつけて」とは、次のようなことである。
国司の務めのひとつに、自国内の各地にある神社に詣でることである。
ところが、時代を経るに連れ、国司はおさぼり気味になったのか、国府(国庁)の近くに「総社(惣社)」を設け、各地にある神社に詣でる代わりに、総社に詣でることで済ませるようになった。
ということで、国府跡・国分寺跡・総社めぐりの中で、総社めぐりについては余り重きを置いておらず、国府跡の所在地が不明な場合には、総社が国府の近くにあるということを拠り所として、総社を訪ねることで国府跡を訪ねたと見做すことにしているのであった。
そうしたことで、今回は国府跡と推定される興神社を訪ねたことでもあり、壱岐総社神社は必須ではなくなったので、パスさせて戴いた次第である。

パスはしたければ、罰が当たってはいけないので、敬意を表し、この坂の上にあるであろう壱岐総社神社を想像しながら、坂の下で「今日の jitensha」を撮った。
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足元を見ると地面に「距離標」なるものが埋め込まれていた。
壱岐総社神社の近くまで来たという証拠(???)としてカメラに収めた。
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本ブログを綴るに際し、壱岐総社神社についてネット検索してみた。
1件、壱岐総社神社の様子が誠に分かり易く書かれたブログにヒットした。
その一部を抜粋してここに転載させて戴く。
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興神社から西へ500m程の曲がり角にある民家内の道を進み、竹林へ登って100m強の位置に、石祠が祀られている。
いろいろな資料に、その存在が記されていたが、詳細な場所がわからず、また住所もマチマチだった。
興神社へ参拝した時、ちょうど興神社の氏子の方がおられ、お聞きした。
自信が無いということで、わざわざ、他の家の方にも聞いていただいた。
曲がり角にある家の中の道であり、わかりにくい場所なので、そちらに、一声かけて下さい、ということだった。
その家に行ってみると、宅前で畑作業をしておられたので、お願いした。
「これから登られますか?」、「はい」、「かなり急な道だから、気をつけてくださいね」。
まだ、陽は高いのだが、竹林の中は、暗い。
少し滑りそうになりながら登ると、頂上付近が少し開け、二本の木に縄をかけた、その奥に、石祠が祀られていた。
民家裏の山中だが、荒れた様子はなく、山道も確かに急ではあったが、歩きやすかった。
石祠の前は壇になっており、祭祀の継続を想像させる。
現在は、ほとんど個人宅にあるような感じなのだが、付近の住民の方にも、よく知られており、最初に道をお聞きした方は、「位の高い神さんを祀っている」と表現した。
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表現力豊かな文章である。
注連縄と石祠の写真も添えられている。
坂の下からイメージしたことと重なるところもあるが、注連縄と石祠だけというのは想像外であった。
文章と写真が相まって、様子が目に浮かぶ。
「興神社から西へ500m」と「曲がり角に民家...」という点が少々異なるが、我々が見つけた細い坂道の上に壱岐総社神社の石祠が鎮座していたと信じたい。

時計は午後3時を指している。
これから、芦辺港近くの宿まで戻らねばならない。
しかし、この日の最後の立ち寄り予定地の、壱岐のモンサンミッシェル、小島神社にも寄ってみたい。
取り敢えず、原の辻遺跡の方へ来た道を戻りながら、あとはどうするかを考えることにする。

県道173号線を走り、途中で右折、県道23号線に出て、原の辻遺跡ガイダンス施設の前に至る。
幡鉾川沿いを東へ進む。
ここからは、峠越えが二つ、三つあった、来た道を戻るのではなく、海沿いの道へ出ることにした。

フォト:2018年10月17日

(つづく)




by ryujincho | 2018-10-23 23:24 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)


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