人気ブログランキング |

龍人鳥の徒然フォト日記

ryujincho.exblog.jp
ブログトップ
2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(10)原の辻遺跡ガイダンス施設(下)』 kk-22

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
壱岐市立一支博物館に続いて、原の辻一支国王都復元公園へ。

「ガイダンス施設」の外に設けられた、船着場跡の復元大型模型を見学。
続いて、館内へ。

ガイダンス施設、ロビー。
a0289546_15591610.jpg
a0289546_15595560.jpg
a0289546_16133294.jpg
a0289546_16005596.jpg

----------------------------------------------
巴形銅器
巴型銅器は、弥生時代から古墳時代にかけてつくられた青銅製の飾り金具です。
反時計回りに6本から9本の脚が放射状に広がっています。
独特の形状は何をモチーフにしているかは謎が多く
①太陽を模した形
②南方の貝・スイジ貝を模した形
③ゴホウラ貝の断面形状を模した形
など様々な説があります。
出土状況から有力者のお墓の副葬品や楯に取り付けられた例から威信具として用いられたことがわかる。
鋭くとがった鋭利な脚から邪悪なものを断ち切るための祭器だったのではないかと考えられています。
----------------------------------------------

受付嬢に案内人をお願いする。
奥から男性があらわれた。
「ジオラマで簡単に説明しましょう」。
「船着場を中心によろしくお願いします」。

展示室。
a0289546_20461552.jpg

原の辻遺跡/ジオラマ。
ジオラマの台に設けられた説明板「原の辻遺跡の概要」。
a0289546_20505861.jpg

---------------------------------------
原の辻遺跡の概要
原の辻遺跡は、幡鉾川の流域に広がった、通称「深江田原(ふかえたばる)」と呼ばれる平野に位置しており、弥生時代前期の終わり頃から古墳時代前期の始め頃(紀元前3世紀後半~紀元後4世紀前半)にかけて存続した集落の跡です。
集落は楕円形に巡らされた多重の環濠に囲まれており、南北約750m、東西約350m、内部面積約16ヘクタールの環濠内部には祭儀場や竪穴式住居・高床式建物・平地式建物などが造られました。
また、環濠の外には船着き場、墓域、水田の畔、集落への出入りするための道路状遺構などがあり、遺跡全体の範囲は約100ヘクタールに及んでいます。
これまでにみつかった多くの遺構や出土遺物から、原の辻遺跡は『魏志』倭人伝に書かれた「一支国」の王都であったと考えられています。
---------------------------------------

原の辻遺跡のジオラマ。
南側からの眺め。
確かに、環濠集落は南北に楕円形となっている。
右上角の丘は、一支国博物館があった丘陵地帯。
その下に見える横線は西から東へ流れる幡鉾川。
船着場は、左上、幡鉾川の右岸近くにある。
a0289546_21401704.jpg

少し角度を変えて、南西方向から眺める。
a0289546_21392367.jpg

カメラを上に掲げ、ドローン風に、もう少し”上空”から。
a0289546_21394870.jpg

北側から眺める。
上段、南北の楕円形となっている環濠集落。
下段、太い水色は、西から東へ流れる幡鉾川(現在の流れ)。
細い水色のテープで示しているのが、弥生時代当時の幡鉾川の流れ。
幡鉾川の右岸にある建物は、今、我々がいるガイダンス施設。
その脇を南北に走る道は県道23号線。
a0289546_21550899.jpg

北西から眺める。
船着き場が見て取れる。
a0289546_22064450.jpg

ズームアップ。
船着場は、右手、白い札「船着場跡」で示されている。
左手、太い水色は西から東へ流れる幡鉾川。
細い水色の線で示されているのが、弥生時代当時の幡鉾川とその支流の流れ。
当時、本流も支流も大きく蛇行していたことが分かる。
船着場は支流沿いに設けられていた。
a0289546_22091884.jpg

西側からの眺め。
赤い点線は環濠集落。
左へ伸びている、薄い色の点線は道路状遺構。
手前の赤い線は遺跡範囲。
a0289546_22234275.jpg

案内人さんの説明のポイントは「海と内陸を結ぶ幡鉾川が集落の形成に大きく関わっていた」ということである。

ここで、幡鉾川について触れておきたい。
以下はウィキペディアの抜粋である。
-------------------------------------------
幡鉾川は、壱岐島中央部を流れ、東部の内海(うちめ : 内海湾とも)に注ぐ二級河川である。
壱岐島では北部の谷江川を上回る最大の川で、流域の全てが長崎県壱岐市に属する。
河内川(こうちがわ)とも呼ばれる。
流域には「物部田原」「木田田原」「深江田原(河内盆地)」といった平野部が広がり、国の特別史跡に指定された原の辻遺跡もこの川の下流域にある。
芦辺町湯岳地区の西にある鉾の木山(標高135m)を水源とする。
本流はまず西、次いで南へ流れる。
柳田方面からの支流が合流した後は東へ流路を変える。
下流域は約3km2の河内盆地が広がり、大原・湯岳・池田・深江といった集落がある。
川は町谷川や池田川などの支流を併せながら、水田地帯の中を東へ流れる。
河内盆地の最下流に原の辻遺跡があり、旧石器時代から中世までの複合遺跡となっている。
内海へ注ぐ河口域は壱岐島を形成する溶岩台地を刻む谷となっていて、両岸に丘陵地が迫る。
水源が標高135mと低いうえに勾配も緩く、流域のほとんどが標高50m以下である。
昔は海だったとも伝えられている。
河内盆地のみならず川に沿ったほぼ全域が水田に利用され、壱岐最大の稲作地帯となっている。
本流に対して流域面積が比較的広く、降った雨が同時に川に集まる。
さらに流れが緩く蛇行が多かったため、流域は古来から洪水が頻発していた。
1952年-1959年(昭和27-34年)に耕地整理事業に伴う河川改修が行われ、幡鉾川の流れは直線化された。
また、1992年-2004年(平成4-16年)にも河川改修が行われた。
但し、度重なる河川改修によって、淡水魚やニホンイシガメなど各種水生生物は大きく個体数を減らした。
-------------------------------------------

案内人さんから、内海へ注ぐ河口域は両岸に丘陵地が迫っていて谷になっているという説明を聞いた。
帰路、この地形で、大いに楽しい経験をさせて貰った(ホントは難行苦行)。
そのときのことについては、続編で縷々綴ることとしたい。

案内人さんの説明が終わり、映像を見る。
a0289546_22550871.jpg

俯瞰図、徐々にアップ。
a0289546_23000104.jpg
a0289546_23001887.jpg
a0289546_23003628.jpg
a0289546_23030465.jpg

パネルに目を通す。

「一支国」の王都ー原の辻遺跡ー。
a0289546_23054663.jpg
前掲のジオラマの脇の説明板「原の辻遺跡の概要」と同内容の点もあるが、新たな記述もあるので、読み下し文を綴っておこう。
----------------------------------------------
「一支国」の王都ー原の辻遺跡ー
原の辻遺跡は、壱岐島で最も広い流域をもつ幡鉾川の流域に広がる「深江田原」にあり、田原(平野のこと)の中の南北方向に長く延びる低い丘陵部を中心にしてその周辺平地一帯に広がっています。
丘陵部では竪穴住居跡や平地式住居跡、掘立柱建物跡とともに数多くの土坑・柱穴などが見つかっており、弥生時代の性格廃棄物などとともに多量の土器や石器を捨てた土器溜り遺構も数ヶ所で確認されています。
また、丘陵の頂上部では主軸方向をほぼ同じにする大型掘立柱建物跡と平地式建物跡などが検出され、ここは祭儀場であったとされています。
さらに、丘陵の裾部に沿って環濠と自然流路(河川)が複雑につながりながら何重にも巡っており、内部面積約16ヘクタールの大規模な多重環濠集落があったことがわかっています。
集落の周辺には、船着き場、複数ヵ所の墓域や水田などが広がっており、遺跡全体の広さは約100ヘクタールに及んでいます。
これまでの発掘調査の結果、原の辻遺跡は今から約2250年前(弥生時代前期後葉)頃から人々が生活を始め、約2150年前(弥生時代中期前葉)には集落の周囲に環濠が巡らされた環濠集落とて成立し、約1800年前(弥生時代後期後葉)に環濠が意識的に埋められたあとも約1650年前(古墳時代前期前葉)まで集落が存続していたことが確認されています。
そして、集落の規模と中国大陸や朝鮮半島から西日本各地方への広範囲に及ぶ交流、交易を物語る様々な出土遺物から、中国の『三国志』「魏書東夷伝志倭人条」、いわゆる『魏志』倭人伝に記載された「一支国」の王都であったと学問的に結論づけられた。
----------------------------------------------

原の辻遺跡発掘の歴史(概略)。
a0289546_11064083.jpg

-------------------------------------------
原の辻遺跡発掘の歴史(概略)
原の辻遺跡の発見は、明治37~38年頃に松本友雄氏が原の辻の辻の畑の中で土器片を採集したことに遡ります。
そして、松本友雄・山口麻太郎・鴇田忠正氏などの地元郷土史家によって、原の辻遺跡をはじめとする壱岐の弥生時代の遺跡と遺物が中央の学会誌に紹介され、原の辻遺跡の重要性が広く認識されることとなりました。
戦後になると九学会連合・東亜考古学会などによる調査が行われ、下層式土器(中期)と上層式土器(後期)の時期区分が設定されるともに、上層式の段階になると新たに鉄器が使われることが確認されました。
また、中国大陸・朝鮮半島から運ばれてきた各種鉄器、貨泉(かせん。中国の新で紀元14年に初鋳され、後漢の初めまでの約30年間にわたって造られた銅銭)、土器などが多数出土することから遺跡の国際性についても注目されました。
その後、昭和49年の石田大原地区における墓域の発見を契機とする遺跡範囲確認調査、平成5年以降の組織的な発掘調査によって数々の重要な遺構・遺物の発見が相次ぐとともに、原の辻遺跡は約100ヘクタール(約1,000,000m2)の範囲に広がり、遺跡の中心となる丘陵の裾部に何重もの環濠を巡らせた大規模環濠集落であることが明らかになりました。
そして、平成7年に中国の正史・『魏志』倭人伝に登場する「一支国」の王都であることが確定されたことを受け、平成9年9月2日の国史跡、平成12年11月24日の国特別史跡指定を経て現在に至っています。
(写真)
左/昭和29年(1954年)閨繰(みやくり)地区での発掘状況
右/昭和35年(1960年)高元地区での発掘状況
-------------------------------------------

原の辻遺跡の発見に関わった人々。
a0289546_11313104.jpg

-------------------------------------------
原の辻遺跡の発見に関わった人々
原の辻遺跡が発見されて学界で注目されるようになるまでには、壱岐島外の研究者とともに地元で活躍した研究者たちの努力がありました。
まず、松本友雄氏は明治37年(1904年)に壱岐島内の尋常高等小学校(国府小学校)の教師として赴任し、そのころに生徒から誘われて訪問した原の辻で畑の中に弥生式土器が散布しているのを発見しました。
また、石田小学校勤務となった大正12年(1923年)以降は遺跡へ頻繁に赴き、大正15年(1926年)には原の辻遺跡における最初の発掘調査を行いました。
そして、その調査結果を昭和2年(1927年)に中央の学会誌で発表し(「壱岐国考古通信(一)深江春の辻の遺物包含層地」『考古学雑誌』)、それによって原の辻遺跡が学界で広く知られるきっかけとなりました。
松本氏とともに原の辻遺跡をはじめとする島内の各遺跡から出土した遺物の報告を行い、壱岐の弥生文化や原の辻遺跡の重要性を指摘したのは山口麻太郎氏です。
山口氏は柳田国男に師事して民俗学を学び、その後、民俗学を基本に壱岐の民族伝承・歴史・考古学などを含めた郷土史(=「壱岐郷土学」)の研究に取り組みました。
昭和8年(1933年)には、わが国の電力開発の先覚者である松永安左ェ門氏から経済的な支援を受けて壱岐郷土研究所を開設し(昭和42年に閉所)、郷土史関連の資料収集や調査研究を精力的に行いました。
そして、それら初期の原の辻遺跡研究を総括したのが、当時、壱岐中学校教諭(その後、壱岐高等学校第三代校長に選任)であった鴇田忠正氏です。
鴇田氏は昭和14年(1939年)に原の辻の丘陵北東部斜面を調査し、昭和19年(1944年)に「長崎県壱岐郡田河村原の辻遺蹟の研究」(『日本文化史研究』)という論文をまとめました。
そして、壱岐の弥生文化が北部九州地域の影響下に形成される一方で、農業とともに狩猟・漁撈へ強く依存する生活内容や埋葬方法において特色が認めらると結論づけました。
これによって、壱岐の弥生時代研究は全国的な研究の中に位置づけられることとなり、その重要性が認識されて戦後の九学会連合と壱岐島の学術調査が行われる契機となりました。
(写真)
左/松本友雄氏
左/山口麻太郎氏
-------------------------------------------
※全文、原文通り。
※上述の(「壱岐国考古通信(一)深江春の辻の遺物包含層地」『考古学雑誌』)の「深江春の辻」は「深江原の辻」の誤記であろうか?
※上述の「長崎県壱岐郡田河村原の辻遺蹟の研究」(『日本文化史研究』)は「遺跡」ではなく「遺蹟」の漢字が使われている。


「原の辻遺跡へようこそ」。
本来、このパネルは、入館して、即、目を通さねばならないものであるが、時折、順序が逆になり、退館するときに目を通すことがある。
退館するときに目を通す方が、それまでに見学したあれこれが目に浮かぶという都合よきこともある。
a0289546_14223574.jpg

---------------------------------------------
原の辻遺跡へようこそ
日本が誇る国の特別史跡・原の辻遺跡へようこそお越し下さいました。
原の辻遺跡は、大正時代に初めて日本考古学会に紹介され、その後の調査研究を経て次第にその名を高めてまいりました。
平成5年(1993年)秋、幡鉾川流域総合整備事業(圃場整備)に伴う発掘調査において丘陵部を囲む大規模な環濠が現れ、多数の遺構や各種の遺物と、その出土数の多さから、3世紀に著された『魏志』倭人伝に記載された「一支国」の中心地であることが判明しました。
つまり、この地は一支国の”王都”なのです。
『魏志』倭人伝に記載された国々の中で、王都が判明したのはこの原の辻遺跡が初めてです。
平成12年11月24日には弥生時代の遺跡の中で3番目となる国の特別史跡に指定され、平成17年度から本格的な遺跡の復元整備事業を行い、現在に至っています。
原の辻遺跡は、壱岐の歴史を壱岐市民が誇りに思い、自分たちの生活や文化の源として発信していく場でもあります。
ご来園の多くの皆様と、語らい、交流していくことによって”文化の輪・心の輪”を広めていくことを希望しています。
このガイダンス施設は原の辻遺跡をより広く、より深く知ってもらうため、また、生涯学習や学校教育の場として活用するために、長脇健教育庁原の辻遺跡調査事務所を改装したものです。
皆様のご利用とあたたかいご支援をいただき、ここにいらした皆さまが壱岐の楽しさを語ってくだされば幸いです。
本日は、原の辻遺跡を大いに楽しんでください。
平成22年3月 壱岐市長 白川博一
---------------------------------------------

「弥生時代の遺跡の中で3番目となる国の特別史跡に指定され」とある。
国の史跡とは、文化財保護法第109条に基づき、文部科学大臣が、日本の国にとって歴史上、或いは、学術上、価値の高いとして指定した都城跡・旧宅・古墳・貝塚などの遺跡である。
国の特別史跡とは、特に重要な史跡として指定されたもので、史跡の国宝である。
弥生時代の遺跡で国の特別史跡は;
・登呂遺跡(静岡県)
・吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
・原の辻遺跡(長崎県)
の三ヶ所である。
吉野ヶ里遺跡は今年4月に訪ねた。
残るは、最も早く国の特別史跡に指定された登呂遺跡(1952年指定)だけ。
早いうちに訪ねておかねばなるまい。

「壱岐市立一支国博物館 長崎埋蔵文化財センター」の紹介パネル。
「歴史と浪漫が交差する島・壱岐 時空を超えて一支国が甦る”しまごと博物館”」のキャッチ・コピー付き。
こうした文言をみると、何やら柔(やわ)な感じがする。
一支国博物館は黒川紀章の設計。
このパネルに見られるように外観は斬新なデザインながら、どうしてもハコモノ的なイメージが重なってしまう。
前日、訪ねた岐風土記の丘資料館や、ここ、原の辻ガイダンス施設のような、素朴、且つ、実利的な資料館が小生は好きだ。
a0289546_01465417.jpg

先ほど、一支国博物館のジオラマで人面石を手にもった女性がいた。
a0289546_01473179.jpg
a0289546_01475561.jpg
-----------------------------------------
人面石(レプリカ)
2001年の発掘調査で原の辻遺跡から不思議な石が出土しました。
人の顔を模して加工された人面形石製品です。
祭祀や儀式の時に用いられたと考えられており、その通称が「人面石」です。
国指定重要文化財であり、他に例のない日本唯一の「人面石」は、原の辻を代表する遺物で、ゆるキャラにもなっています。
-----------------------------------------

人面石をもつ女性(一支国博物館ジオラマより)。
a0289546_01574665.jpg

原の辻遺跡ガイダンス施設と壱岐市立一支博物館がつながったところで、原の辻遺跡べと向かう。

フォト:2018年10月18日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:22 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)


<< 『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり...      『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり... >>