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龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 10月 23日

『壱岐島・筑後川流域古墳めぐり/三日日、壱岐島内探訪(3)大塚山古墳』 kk-15

10月18日(木)、晴れ。
壱岐島南東部方面、探訪。
訪ねる先は、大塚山古墳、壱岐市立一支博物館、原の辻遺跡、原の辻ガイダンス、興神社(壱岐国府跡‐推定‐)、壱岐総社神社(壱岐国総社)、小島神社など。

芦辺港近くの宿を出発、県道23号線を南へ走る。
途中、壱岐焼酎の蔵元のひとつ、猿川伊豆酒造の建屋をカメラに収める。
その真向いにある鍛冶屋の山川さんと歓談。
作業場をはじめ色々なものを見せて貰った。
地元の人たちとの会話も旅の楽しみのひとつである。

県道23号線を更に南へ走る。
しばらく走ると下り坂となる。
坂を下り切ると三叉路となる。
右(西)へ道なりに行くと本線そのままに県道23号線、左(東)へ行くと大塚山古墳、壱岐市立一支国博物館方面。
左折する。
直ぐに上り坂となる。

坂を上り切る。
左手に標識が現れる。
「県指定史跡 大塚山古墳 これより30m先右折/芦辺町教育委員会」。
芦辺町教育員会となっているので、2004年の郷ノ浦町、勝本町、芦辺町、石田町の合併による壱岐市発足以前の標識であることが分かる。
何れにせよ、標識が設けられていることは旅の者にとって有難い。
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「300m先右折」、大塚山古墳への入り口。
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森の中の散策道のような感じの道を進む。
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「県指定史跡 大塚山古墳 これより入る 110m先/芦辺町教育委員会」。
先ほど、県道23号線を下り、三叉路を左折し、東へ向かって走り、右手の古墳への入口を入り、更に右に曲がって走り、この標識に至ったことから、西へ向かっていることになる。
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林の中を更に進む。
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後世の墓地(?)。
古墳のあるところに、後世、墓地としているところを時折見ることがある。
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木立の間から垣間見える、北側の眺望。
先ほど下って来て三叉路に至った坂道、県道23号線が見える。
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アップで。
この写真で、大塚山古墳が丘陵地の高台に位置していることが分かる。
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大塚山古墳。
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石標「県指定史跡 大塚山古墳」。
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説明板に目を通す。
前日、壱岐国分寺跡でかなりの字数を費やして書かれた説明板に目を通したが、こちらの説明板もそれに負けないくらいの字数である。
ゆるりと読む/書き下す。
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長崎県指定史跡
大塚山古墳
昭和62年(1987年)3月3日指定
所在地:壱岐市芦辺町深江触栄字清水504番地
指定面積:400m2

古墳とは、古墳時代(4世紀~7世紀)に造営された小高い墳丘をもつ墓のことで、一般に有力者を葬ったとされる。
基本的な形体は円墳・方墳・前方後円墳などであるが、ここにある古墳は山頂部を活用した円墳に属する。

この古墳は、標高74mの頂上部にあり、竪穴系横口式石室を持つ。
5世紀後半に築造されたものと考えられている。
数多く残る壱岐の古墳の中で築造時期が最古のものとされ、竪穴式石室(4世紀~5世紀前半)から横穴式石室(5世紀後半~7世紀)への移行過程を示すものとして学問的にも貴重なものである。

江戸時代、安政2年(1855年)2月27日に壱岐安国寺の観翁白華和尚により調査が行われており、発見の経緯を記した古文書と、石室直上の大石の上から発見された須恵器のはそう(瓦へんに泉)が昭和57年(1982年)に所有者によって公開された。
なお、「大塚山」の名前は白華和尚が名付けたものであり、土地の人は寺山と呼んでいる。
同年8月に壱岐國研究會による古墳の石室実測調査が行われ、昭和61年(1986年)夏に墳丘の規模や石室の構築状況などについての補完調査を行っている。

この古墳の規模は、直径14m、高さ2mの円墳で、墳丘は山頂部を竪穴状に掘り込んで石室を構築している。
その掘り込みに合わせるように裏込めに大小の礫を用いて盛土したと考えられる。
盛土の状況は、石室を覆う程度のものであったと推定される。
横口部には袖石がなく、一枚の板石を垂直に立てており、前面にはやや外広がりの側壁が構築されている。

南西に開口した石室は前幅1.18m、奥幅1.28m、奥行3.96mの大きさを持ち、奥および左右の壁は厚み12cmの玄武岩の板石を小口積みにしている。
壁面の一部にはベンガラが残っており、本来は前面に塗布されていたと思われる。

出土品は、安政2年に掘り出された須恵器のはそう(瓦へんに泉)と、昭和61年に石室前面の墳丘上から表採された鉄器2点(1点は蕨手刀子の把の部分)しかない。

壱岐島内には約260基の古墳が現存する。
壱岐中央部に比較的密集しているが、大塚山周辺には古墳が少ない。
また、巨石古墳については皆無である。
その理由として、弥生時代の中心集落であった原の辻集落が終息後、一時的にこの周辺の豪族が存在したが、6世紀後半に壱岐島中央部に強大な勢力が移っていったのかもしれない。
だが、確証に乏しく、今後の研究を待つことが大であるが、この古墳が壱岐島の歴史研究の上で大きな役割を果たすことは間違いない。

平成19年3月
長崎県教育委員会
壱岐市教育委員会
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ポイントは次に3点。
1)5世紀築造の、直径14m、高さ2mの円墳(壱岐島、最古の古墳)
2)竪穴系横口式石室(横穴式石室への移行過程を示すものとして貴重)
3)大塚山古墳の周辺には古墳が少なく、巨石古墳は皆無(その理由として、未確証ながら、弥生時代の原の辻集落が終息後、しばらくの間、豪族がいたが、その後、中央部に強力な豪族が出現したと推定される)
=備考=
もし、時間があれば立ち寄ってみようと思い、計画段階で、大塚山古墳周辺の古墳を調べていた。
・鶴亀鬼屋(つるきおにや)古墳
・玉塚古墳
・観上山古墳群1号墳(=観上神社?)
・大原天神の森古墳群
これらを調べていたこともあり、中央部に比べ、大塚山古墳の周辺には古墳が少ないという説明板の記述は何となく納得が行く。
時間の制約もあり、これら3基を探訪することは叶わず、実感として納得した訳ではないが...。

説明関連はこれくらいにして、大塚山古墳をこの目で見分。

竪穴系横口式石室。
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開口部をアップで。
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内部をアップで。
前幅1.18m、奥幅1.28m、奥行3.96m。
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右壁。
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更にアップ。
小口積みをしっかりと見る。
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左壁。
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墳丘の周りを一周。
南東側から墳丘を眺める。
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説明板に「安政2年(1855年)、壱岐安国寺の観翁白華和尚により調査が行われ...。なお、「大塚山」の名前は白華和尚が名付けたものであり、土地の人は寺山と呼んでいる」とある。
壱岐安国寺の場所をグーグルマップで見てみたところ、大塚山古墳と同じ丘陵の直ぐ南西側にあり、寺側から見ると土地の人が「大塚山」を「寺山」と呼んでいることも頷ける。

壱岐安国寺についてウィキペディアを紐解いてみると「1338年(暦応元年)足利尊氏と直義は、平和祈願と元寇以来の戦死者の冥福を弔うために、従来あった海印寺を安国寺とした。室町時代の貴重な文化財を多く所蔵し、なかでも高麗版大般若経は国の重要文化財に指定されている。開山は観応元年(1350年)に来島した京都南禅寺の禅師無隠元晦。」とある。
なお、高麗版大般若経は、1994年、591帖のうち493帖が宝物殿から盗まれていることが発覚、翌1995年、韓国で酷似したもの3帖が韓国で発見されたが未返却、未解決となっている。

大塚山古墳をあとにして、次の訪問先、壱岐市立一支国博物館へと向かう。

フォト:2018年10月18日

(つづく)


by ryujincho | 2018-10-23 23:15 | 秋の九州史跡めぐり 2018 | Comments(0)


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