2018年 08月 21日
8月18日(土曜)、晴れ。播磨国入り。小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。 この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。 8月19日(日曜) 加西市 ・玉丘史跡公園/玉丘古墳群 ・羅漢寺/五百羅漢 ・大日寺/大日寺石仏群 ・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館加古郡播磨町 ・兵庫県立考古博物館本館 8月20日(火曜) 神戸市 ・五色塚古墳 ・小壺古墳 8月19日(日曜)、晴れ。 プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。 8月20日(月曜)、晴れ。 神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。 「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。 「二の巻」では、五色塚古墳の後円部墳頂に上ってのあれこれを綴った。 「三の巻」では、五色塚古墳の前方部墳頂に上ってのあれこれを綴った。 「四の巻」では、小壺古墳のあれこれを綴った。 「五の巻」では、五色塚古墳の北側と東側からの見分のあれこれを綴った。 「六の巻」では、パンフレット『史跡 五色塚古墳・小壺古墳』について綴ることとしたい。 表紙。 --------------------------------------- 五色塚古墳は、淡路島を望む台地の上に築かれた前方後円墳です。 その全長194mで、兵庫県で一番大きな古墳です。 周囲を深い濠と浅い濠で二重に囲い、西側には円墳で、直径70mの小壺古墳が築かれています。 この五色塚古墳は、全国的にみると40番目の大きさですが、同じ時期のものだけを比べると、奈良県北部の大王墓(佐紀古墳群)と肩を並べる大きさです。 4世紀の終わり頃、この古墳に葬られた人は、明石海峡とその周辺を支配した豪族だと考えらえます。 --------------------------------------- 西日本の大型前方後円墳が語られるとき、大きさランキング第1位~第3位の畿内/大山古墳(仁徳天皇陵、486m)、誉田御廟山古墳(応神天皇陵、425m)、石塚ヶ丘古墳(履中天皇陵、365m)に続いて、第4位と第10位の吉備/造山古墳(350m)、作山古墳(286m)、そして、その中間地点に位置する第40位の播磨/五色塚古墳(194m)が挙げられ、併せて、畿内・播磨・吉備の関係が語られることがある。 このパンフレットでは「全国的にみると40番目の大きさですが、同じ時期のものだけを比べると、奈良県北部の大王墓(佐紀古墳群)と肩を並べる大きさです」とあり、こうした比較の仕方もあるのだなあと改めて思った。 奈良盆地北部の佐紀古墳群は、奈良盆地東南部の大和古墳群、大阪平野の百舌鳥古墳群・古市古墳群と並ぶ大古墳群である。 佐紀古墳群は、五社神古墳(ごさしこふん、神功皇后治定陵、276m)、佐紀石塚山古墳(成務天皇治定陵、220m)、佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(日葉酢媛(ひはすひめ)治定陵、210m)、市庭古墳(平城天皇治定陵、253m)、ヒシアゲ古墳(磐之媛治定陵、218m)、コナベ古墳(204m)、ウワナベ古墳(265m)など全長200m以上の大型前方後円墳に加え、これらに随伴する陪塚群、そのほかの中・大型前方後円墳で構成される。 グーグル・マップの航空写真で佐紀古墳群を見てみる。 無数のといってもよいくらいの数の前方後円墳が見事に並んでいる光景を見ることが出来る。 佐紀古墳群は佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群とも呼ばれている。これは、古墳と周濠の形が盾型をしており、それらが北側に後円部、南側に前方部という位置でそれぞれが平行に、また東西一直線に並んでいるからという。 確かに、グルーグル・マップの航空写真で盾が並んでいる光景が見て取れる。 いつ、誰が、何処から、佐紀古墳群を眺め、盾が並んでいるような光景を見て、そう呼んだのであろうか、航空写真もドローンもない時代に...。 話が五色塚古墳から反れてしまった。 五色塚古墳に話を戻す。 パンフレット、2ページ目/上段。 整備以前の五色塚古墳。 ------------------------------------------- 整備工事緯線の五色塚古墳 五色塚古墳に関する最初の記事は、日本書紀に見られます。 「仲哀天皇の偽の墓で、葺石は淡路島から船で運んできた」と書かれています。 しかし、ほかの古墳と同様に、すべて丁寧に造られていることや、人が葬られる石室の石材が出土していることから、偽物とは考えられません。 江戸時代には様々な人が訪れ、絵や文章などの記録を残しています。 18~19世紀に活躍した絵師 司馬江漢も、長崎旅行の途中に立ち寄ったことが、彼の残した日記に記されています。 明治・大正時代には、人類学者や考古学者が調査をし、記録を残しています。 ほとんどの学者は埴輪に興味を示し、その大きさや配列城代を記録しています。 第二次世界大戦中、古墳に生えている松を切り、船材としたり、その根から油を採取しました。 また、戦後は食糧難から畑として開墾されたために、荒廃してしまいました。 昭和30年代の後半になり、五色塚古墳を守ろうと、文化財保護委員会(現・文化庁)が計画を立て、神戸市が地域の方々の協力を得て、昭和40年から10年の歳月をかけ、発掘調査と復元工事を行いました。 ------------------------------------------- 葺石の産地について。 一の巻で、五色塚古墳の入口近くに設けられた説明板に「小さな葺石は古墳近くで採取され、大きな葺石は淡路島で採取された」と記されていることについて、「各地の古墳探訪で都度質問することは、葺石の採取場所。よって、この説明板は的を得ている」と小生のコメントを付した。 パンフレットに「日本書紀に葺石は淡路島から運んで来た」とあり、葺石の産地が淡路島である根拠が日本書紀であることが明らかにされている。 然らば、淡路島の何処で採取された石なのかということになるが、これは当然のことながらが、島内各所の石をサンプリング調査し、島内の産地が明らかになっていると思う。 よって、パンフレットでその旨も言及してくれているとより嬉しいのだが...(と記して、パンフレットの次の項「発掘調査」に目を通すと、「上二段の葺石は分析の結果、淡路島の東側の海岸で産出するものであることが分かりました」とあり、その答えが記されていた。流石、神戸市教育委員会!!) パンフレットに「第二次世界大戦中、古墳に生えている松を切り、船材としたり、その根から油を採取しました」とある。 この記述で思い浮かぶことは、未探訪ではあるが、長らく探訪したいと思い続けている、栃木県大田原市の侍塚古墳群の下侍塚古墳のことである。 水戸光圀は、那須国造碑との関連を調べるため、上侍塚古墳と下侍塚古墳を発掘調査した。 調査後、墳丘の崩落を防ぐため、松を植樹し、保全整備が行われた。 下侍塚古墳は、今もその原形をとどめ、「日本で一番美しい古墳」といわれている。 片や、下侍塚古墳は文化的遺産を大事にする日本人の美徳の現れ、片や、戦時であれば何をやってもよいという軍部の暴走で、一時期、不幸な状態となってしまった五色塚古墳なのである。 パンフレット掲載写真。 「1960年頃、樹木はほとんどなく、畑になっている」とのキャプションが付された、整備工事以前の航空写真。 パンフレットに「戦後は食糧難から畑として開墾されたために、荒廃してしまいました」とあり、調査と保全工事が始まる昭和40年(1965年)頃まで、こうした状態が続いていたのであった。 但し、今ほどの住宅地とはなっておらず、田畑が広がっており、古墳の周辺環境としては幸せな時代であったかもしれない。 盟友、品濃守さんは子供の頃、歌敷山(五色台塚古墳の北西部の丘)に住んでいたという。 その頃、五色塚古墳で遊んだことがあるという。 今のような葺石が施されてはおらず、畑であったという。 まさに、1960年頃の、この航空写真のような様子だったのであろう。 因みに、彼は小生より2歳年下だから、五色塚古墳で遊んでいた頃は10歳であったこととなる。 パンフレット、2ページ目/下段~3ページ目。 五色塚古墳の発掘調査。 ----------------------------------------- 五色塚古墳の発掘調査 整備に向けて発掘調査がはじめられたのは昭和40年12月でした。 古墳は、畑でほとんど壊されているのではないかと考えれれていましたが、調査が進むにつれ、大変よく残っていることが分かり、古墳全体の発掘調査をすることになりました。 その結果、古墳は三段に築かれ、斜面にはびっしりと石が葺かれ、各段の平坦部と頂上には、鰭付円筒埴輪が並べられていました。 一番下の段の葺石は付近のものですが、上二段の葺石は分析の結果、淡路島の東側の海岸で産出するものであることが分かりました。 伝承として地域に残っていたものを日本書紀が採用したのでしょう。 埴輪はほどんどが鰭付円筒埴輪で、4~6本に1本の割合で鰭付朝顔形埴輪が立てられていました。 ほかには、蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)盾形埴輪などが少し出土しています。 濠の中には、島状の土壇が造られ、祭祀を行う場所であったと考えられます。 ----------------------------------------- 鰭付円筒埴輪(左)、鰭付朝顔形埴輪(右)。 復元された埴輪群。 ①円筒埴輪を利用した棺 ②後円部東側の島状遺構 ③各段に立て並べられて円筒埴輪 ④東側くびれ部の埴輪列 ⑤発掘調査中の前方部全景 ⑥東側くびれ部の葺石 ⑦前方部南側の通路状遺構 ⑧東側くびれ部の島状遺構 この目で見分した墳丘を思い浮かべながら、これらの写真を見ると、誠に興味深い写真資料である。 裏面。 ------------------------------------- 五色塚古墳の復元整備 五色塚古墳の復元は、発掘調査の成果に基づいて、設計されました。 当初は、正確に築造当時の形に復元しようとし、発掘調査で出土した古墳時代の面に、転落した葺石を拾い上げ、葺き直しました。 しかし、工事中に古墳の一部が壊れたり、時間の経過とともに雨水などの影響で保存が困難であることが分かりました。 そこで、工法を改良しながら、前方部はすべて古墳築造当時の面を利用し、復元しました。 後円部は、幅1mで7ヶ所だけ調査をし、復元の資料を得ました。 従って、古墳築造時の面の調査は部分的でしたので、全体に50cmの盛土をし、その上に新たに購入した石を葺きました。 従って、前方部と後円部は50cmの違いがあります。 墳頂へ上がるためにくびれ部に設けた階段で、その差を解消しています。 (図) 左下/前方部復元計画模式図 右上/後円部の復元工事 右下/後円部復元計画模式図 -------------------------------------- 復元図。 -------------------------------------- 五色塚のCG復元 発掘調査資料をもとに、五色塚古墳が築かれた当時の姿をCGで復元したのが、右の画像です。 海に面した台地上に築かれ、周囲には深くて大きな濠が全周し、後円部ではその外に更に浅い溝が巡らされています。 濠の中には、くびれ部の両側と後円部の東側に島状のマウンドが築かれています。 また、前方部南側には通路のように土橋が設けられています。 古墳は三段に築かれ、斜面には石が葺かれ、各段の平坦面と墳頂には埴輪が並べられています。 小壺古墳は、二段に築かれた円墳で、斜面には石は葺かれていません。 平坦面と墳頂には、五色塚古墳と同様に埴輪が立て並べられ、濠の中には、はやり土橋が設けられています。 -------------------------------------- 解説に目を通しながら復元図を眺める。 現場で見分したことも重ね合わせながら、眺める。 現場やこれまでの説明板、そして、パンフレットの記述にはなかった土橋が、五色塚古墳の前方部南側や小壺古墳の北側に設けられていることがしっかりと読み取れる。 土橋がこういう形で築かれていることを初めて知った。 現場見分と説明板、そして、パンフレットで五色塚古墳について大いにベンキョーが出来、大満足の1日であった。 こうして、8月18日からの二泊三日の播磨国行脚を大満足のうちに終えたのであった。 フォト:2018年8月20日 (五色塚古墳・小壺古墳、一の巻~六の巻、完)
by ryujincho
| 2018-08-21 23:50
| 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018
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