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龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 07月 15日

『炎暑、上野国古墳めぐり/群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演会』 mt-4

『炎暑、上野国古墳めぐり/群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演会』 mt-4
7月14日(土曜)、晴れ。
上野国の古墳めぐりに出掛けた。
古墳めぐりの相棒、武衛さんと共に。
上野国史跡めぐりはこれで第8弾となる。

昨年4月、群馬県埋蔵文化財調査センター「発掘情報館」を訪ねた。
その際、イベントの開催案内等を配信してくれるとのことで登録した。
先日、公益法人群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演が前橋市で開催されるとの案内が到来した。
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「創立40周年記念講演会」開催のお知らせ(平成30年6月6日)

今年の7月に公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団は、おかげさまで創立40周年を迎えます。
創立40周年を記念して講演会を次の通り開催します。
ぜひ、ご来場ください。

◆日時 平成30年7月14日(土)    
    開場14:15 講演14:30~16:00
◆会場 前橋テルサ ホール 前橋市千代田町二丁目5番地1
◆演題 「群馬の古墳と日本の古墳-私が群馬の古墳から学んだもの-」
◆講師 大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長    
白石太一郎(しらいし たいちろう)先生
◆定員 250名(先着順)
◆入場 無料、資料代無償
◆問い合わせ 電話0279-52-2511
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この記念講演会だけで前橋へ行くのは勿体ないので、炎暑ではあるが、前橋市内と高崎市内の古墳探訪も織り込んた。

午前、広瀬古墳群/前橋天神山古墳、八幡山古墳、前橋二子山古墳を探訪し、前橋の市街地へ。
昼餉で入った蕎麦屋で、ちょうど、昼のニュースがテレビに映し出されていた。
前橋の気温は午前中からどんどん上昇し、午後には36度超なると報じていた。

昼餉を終え、講演会場の前橋テルサ・ホールへ。
先日、貰った講演会の案内に「定員 250名(先着順)」とあったので、1時間以上前に到着。
受付を済ませ、入場の”権利”を確保。
併せて、講演会の資料もゲット。

開場時間までホール1階のイタリアン・レストランで過ごすことにし、コーヒーとアイスクリームセットを注文。
冷房が心地よい。
空き時間を利用して、資料を写真に撮っておくことにする。
イタリアン・レストランによくある赤白チェックのテーブルクロスがちょいと気になるが、まあ、それはそれとして、撮影に勤しむ。

P.1/表紙
『炎暑、上野国古墳めぐり/群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演会』 mt-4_a0289546_07521444.jpg

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公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演
「群馬の古墳と日本の古墳-私が群馬の古墳から学んだもの-」
2018年7月14日(土)
14:30~16:00/14:15開場
前橋テルサ ホール
主催/公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団
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本ブログにおいて資料の内容を書き下しておきたいとも思うのだが、省エネ編集とし、一部を除き、項目のみ記しておきたい。

P.2/講師プロフィール
P.3/はじめに
P.3/1.前方後方墳の世界
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白石太一郎(しらいし たいちろう)先生 
プロフィール
経歴
1938年 大阪市に生まれる
1961年 同志社大学文学部文化史専攻卒業
1968年 同志社大学大学院博士課程(文化史専攻)満期退学
(財)古代学協会研究員、奈良県立橿原考古学研究所員、国立歴史民俗博物館助教授・教授・副館長、総合研究大学院大学教授、奈良大学文学部教授、大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授  

専門
日本考古学、考古学の立場から日本の古代国家・古代文化の形成過程を追求

主な著書(本ブログでは記載割愛)
主な編書(本ブログでは記載割愛)
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P.4/図1 関東最大の前方後方墳(前橋市八幡山古墳)
P.4/図2 毛野の主要古墳編年図(右島和夫氏による)

P.5/2.太田天神山古墳の長持形石棺
P.5/図3 太田市太田天神山古墳
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P.6/図4 伊勢崎市お富士古墳の長持形石棺

P.6/3.群馬の後期前方後円墳
P.7/図5.群馬(上毛野)における後期前方後円墳の分布
『炎暑、上野国古墳めぐり/群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演会』 mt-4_a0289546_07531568.jpg

P.8/表1 関東地方の後期大型前方後円墳(墳丘規模単位:m)
P.8/表2 畿内地方の後期大型前方後円墳(墳丘規模単位:m)

P.8/4. 群馬における前方後円墳の終末
P.8/図6 前橋総社古墳
P.9/図7 前橋愛宕山古墳
P.9/図8 前橋宝塔山古墳
P.9/図9 関東における国造の分布

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P.10/5.山上古墳と山上碑
P.10/図10 高崎市山上古墳
P.11/図11 高崎市山上古墳の横穴式石室
P.11/図12 高崎市山上碑、「山上碑」の銘文
『炎暑、上野国古墳めぐり/群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演会』 mt-4_a0289546_07535884.jpg

P.12/図13 山上碑と佐野・大胡・新川の位置関係
P.12/挿図等出典一覧
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会場満席、熱心に聴講。
冷房効き過ぎ、途中、毎度携行している薄手のウィンドブレーカーを着用。
『炎暑、上野国古墳めぐり/群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演会』 mt-4_a0289546_01381655.jpg

講演を聴きながら、資料に目を通しながら、これまで探訪した古墳や遺跡の多くが登場したこともあり、誠に親しみの湧く、そして、理解が深まることなった講演であった。

講演を聴きながら思うこと、いろいろあり。
その一部をここに書き出しておきたい。

「1.前方後方墳の世界」について:
先刻、前方後方墳である八幡山古墳を探訪して来たばかりであった。
現場を検分したのちに講演を聞く。
誠にグッド・タイミング!と自己満足するのであった。

八幡山古墳の脇に設えられて説明板に測量図の掲載はなかった。
且つ、現場で、前方後方墳の「後方部」の方形をこの目で確認しようとしたが、円ではないことは分かるが、しからば、方形であるということもはっきりとは見分けが付かなかったのが正直なところである。
ということで、資料に「図1 関東最大の前方後方墳(前橋市八幡山古墳)」として測量図が掲載されているのは有難いことである。

「2.太田天神山古墳の長持形石棺」について:
講演では「長持形石棺は畿内の大型古墳に特有の石棺である。関東では、太田天神山古墳とお富士山古墳でしか見られておらず、これらの古墳の被葬者とヤマト王権との関係を示すものである」というものであった。

数年前、茨城県石岡市の船塚山古墳を訪れた際、説明板に「関東第二位の前方後円墳」とあり、しからば、関東第一位の前方後円墳は何処の古墳?と思い、調べたところ、群馬県太田市の太田天神山古墳であることを知った。
気にはなりつつあるもそのままとなっていたが、遂に2017年5月、太田天神山古墳を探訪した。

探訪に先立つヨシューで「後円部南側の裾には、石棺部材と見られる石材の一部が転落した状態で残存する。この石材は群馬産の緑色凝灰質砂岩で、乳頭状突起を有する特徴から、組合式長持形石棺の部材の一部と見られている」とあり、現場で、古墳めぐりの相棒、武衛さんと石棺の一部とされる石材を探してみたが、残念ながら、見つけることは出来なかった。

講演で、太田天神山古墳のほかに、お富士山古墳で長持形石棺が使われていたことを知った。
お富士山古墳は、広瀬川の左岸、伊勢崎市にある。
この日、探訪した広瀬古墳群は広瀬川右岸にあり、広瀬川を少し下ったところの左岸である。
お富士山古墳の長持形石棺を、是非、この目で見てみたいものである。。
お富士山古墳を次回の探訪先に挙げておきたい。
(参考)
・お富士山古墳の長持形石棺は、後円部墳頂に鎮座する富士神社の脇に保存されている。
・複製は、国立歴史民俗博物館と群馬県立歴史博物館で展示されている。

「3.群馬の後期前方後円墳」について:
講演で「5世紀後半になると、各地の前方後円墳の規模は急速に小型化し、ひとり畿内の大王だけが依然として墳丘長200mを超える巨大な前方後円墳の造営を続ける。首長連合としてのヤマト政権の性格が大きく変わったことを物語っている。そうした中で上毛野をはじめとする関東地方では、なぜか比較的大規模な前方後円墳が数多く造営されている。(中略)この時期のヤマト王権を支える経済的・軍事的基盤の大きな部分が東国、それも上毛野を中心とする関東地方にあったことを示すものと考えるほかなかろう」との解説があった。

表1と表2を参照すると、畿内の後期大型前方後円墳は39基、関東地方の後期前方後円墳は216基、そのうち、上野だけで97基となっており、関東8ヶ国の中で図抜けて多いことが分かる。
古墳めぐりの相棒、武衛さんと小生は、関東各地の古墳を探訪する中、群馬県に足を運ぶ回数が最も多いのも頷けるとこの表を眺めながら納得するのであった。

「4. 群馬における前方後円墳の終末」について:
講演で「6世紀代、群馬の各地で数多く営まれていた前方後円墳は、7世紀初頭になると一斉にその造営が停止される。それまで60~100m級の前方後円墳が代々営まれていた各古墳群でも小規模な方墳ないし円墳が営まれるに過ぎなかった。ただ、群馬でただ1ヶ所だけ、前橋市の総社古墳群でのみ、愛宕塚古墳→宝塔山古墳→蛇穴山古墳という大型方墳の造営が続く。」との解説があった。

2017年の冬、総社古墳群の宝塔山古墳と蛇穴山古墳を探訪したことが思い出される。
当時、綴ったブログと総社歴史資料館で貰った資料を読み返してみた。
その一部をここに転記しておこう。
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総社古墳群のうつり変わり
総社古墳群は、東南方向に広がる榛名山の裾野の末端、現・利根川の西岸に南北約4kmに分布する古墳群です。
総社古墳群は、その規模や卓越した技術、優美な出土品などから、古くから注目されており、東国を代表する古墳群の一つに数えられています。
現在は前方後円墳3基、方墳3基、円墳3基が残されています。
大型古墳の分布を見ると、その立地から南北二群に分けられ、南支群には王山古墳・王河原山古墳(消滅)、北支群には遠見山古墳・総社二子山古墳・愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳があります。
古墳の移り変わりとしては、先ず、5世紀後半に北支群に遠見山古墳が築かれ、その後、6世紀初頭に南支群の王山古墳や、横穴式石室を持っていたと考えられる王河原山古墳が続きます。
以降は、北支群で大型古墳が造られ、総社二子山古墳(6世紀後半)⇒愛宕山古墳(7世紀後半)⇒宝塔山古墳(7世紀中葉)⇒蛇穴山古墳(7世紀後半)へと移り変わります。
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ここまでは講演の内容と同じであるが、講演では更に「きわめて興味深いことは、関東地方では前方後円墳の造営停止がこの地域における国造制の成立と対応する可能性が考えられる...」と続き、より理解が深まった。

なお、前回、愛宕山古墳群を探訪したときは、先ず、高崎市内の武衛さんの親戚にお邪魔し、そのあと、山王廃寺跡(この地から「放光寺」銘書の瓦が発見されたことから、山王廃寺が山上碑に刻まれた放光寺との可能性が高まった)、更に、総社古墳群/北支群の宝塔山古墳と蛇穴古墳、隣接の総社歴史資料館、そして、南支群の王山古墳を訪ねたが、冬の日暮れは早く、日没時間切れとなり、総社古墳群の中で未探訪となった古墳もあった。
機会があれば、それらの古墳も探訪したいと思っている。

「5、山上古墳と山上碑」について:
講演で「上野三碑の一つとして名高い高崎市の山上碑は、山上古墳という終末期の裁石切組積横穴式石室を持つ径12mほどの小円墳の前に立てられたもので、この古墳と密接な関係を持つものと考えられている。この碑は、碑文によると亥巳歳(681)に放光寺の僧長利がその母の黒売刀自のために建てたもので、その被葬者の一人に黒売刀自が含まれていることは疑いなかろう。興味深いのは、碑文から赤城山麓の新川臣の大児臣に嫁いだ黒売刀自が、その出身地である佐野の地の山上古墳に埋葬されていることである。私はこの古墳をその石室の型式から7世紀の第2四半期から中葉頃のものと想定し、黒売刀自の父のために営まれた古墳と考えている。まさに黒売刀自は里の父の墓に帰葬されているのである。(以下略)」との解説があった。

2016年の暮れ、史跡めぐりの相棒、武衛さんと上野三碑をめぐり、山上古墳とその脇に建つ山上碑を探訪した。
そのときのブログを紐解いてみた。
高崎市教育委員会の説明板の書き下しを再読してみた。
説明書きの全文はここでは割愛するが、「碑に隣接する山上古墳は、精緻な切石積みの石室をもつ有力首長の墓であり、7世紀中頃の築造と考えられる。その築造時期は、山上碑(681年)よりも数十年古いため、もともと、黒売刀自の父の墓として造られ、後に、黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられる(白石太一郎説)」とあり、この日の講師である白石太一郎氏の説が引用されていることに気付いた。
更に、マイ・ブログでは、白石太一郎氏のプロフィールも書き添えていた。
講演会のときにはそのことに気付かず、マイ・ブログを読み返し、気付くとは小生も耄碌したものだと思う一方、いやいや、2年前に山上碑と山上古墳を探訪していたからこそ、そうしたことが言えるのだと思い直し、満足感に浸るのであった。

(補遺)
講演会時、武衛さんと「資料の表紙の写真は何処の古墳なんだろう?」、「資料のどこにもその名は書かれていませんね」と会話を交わすも、その答えはないままに終わった。
後日、武衛さんから「我々が探訪した古墳の記憶を辿ってみました。表紙の古墳は、昨年秋に探訪した綿貫観音山古墳ではないかと、グーグルマップの航空写真と見比べながら確認してみました。周堤跡、周濠跡、墳丘に設けられた歩道、周辺の道路、電信柱の標準的間隔から図った墳長などから、綿貫観音山古墳と判定しました」とのメールが到来した。
確かに、綿貫観音山古墳であった。
すっきりした。

綿貫観音山古墳(資料の表紙掲載写真トリミング図)。
6世紀後半、前方後円墳。
墳丘長97m、後円部径61m、高さ9.6m、前方部幅64m、高さ9.4m。
国の史跡「観音山古墳」。
『炎暑、上野国古墳めぐり/群馬県埋蔵文化財調査事業団創立40周年記念講演会』 mt-4_a0289546_07371979.jpg

講演ならびに資料で登場した古墳や史跡は、お富士塚古墳(伊勢崎市)と愛宕山古墳(前橋市)を除き、すべて探訪済みで、より理解が深まった。
有意義な講演会であった。

講演会を終え、前橋市から高崎市の本島名将軍塚古墳へと向かう。
何故、今回の古墳探訪に本島名将軍塚古墳を含めたかについては続編で述べることとしたい。

フォト:2018年7月14日

(つづく)


by ryujincho | 2018-07-15 23:34 | 炎暑、上野国古墳めぐり 2018 | Comments(0)


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