龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(五)』 sp-18

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。
史跡の真ん中を「しなの鉄道」が横切り、南のゾーンと北のゾーンに分かれてしまった史跡。
北側のゾーンでの、国分僧寺跡と国分尼寺跡を見学。
線路下の連絡通路を通って、南側のゾーンの、国分僧寺跡と国分尼寺跡を見学。
再び、線路下の連絡通路を通り、北側のゾーンへ。
国分尼寺北門跡の北側に見事な花を咲かせている「カバンの藤」の藤棚へと向かう。

銘木「カバンの藤」。
前夜、戸倉上山田温泉での宴の際、信州の盟友、大給守さんが「信濃国分寺跡の藤の花は満開でありましょう」と言っていた通り、見事な花を咲かせている。
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「カバンの藤」とは。
千曲市立信濃国分寺資料館ロビーに次の通り掲示されていたパネルに目を通した。
信州の盟友、大給守さんからあらましは聞いていたので、直ぐに理解できた。
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「カバンの藤」
この藤棚は、1880年(明治13年)、当時の第十九銀行(現在の八十二銀行上田支店の前身)の役員、黒沢鷹次郎氏が、郷里、南佐久郡の農家から苗を渡し受け、その本店に移し、植えたものである。
(中略)
苗を手鞄に入れて運んだことから、「カバンの藤」の愛称をもって広く市民に親しまれてきた。
今日、八十二銀行は、この名木を本公園に寄贈された。
まことに有難く、ここにその由来をしるし、花の命の長いことを祈る。
昭和51年春 上田市長 石井 泉 謹書
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樹齢は、今年で、満138歳。
今年、明治150年であるから、如何に長寿の藤であるかが分かる。

この「カバンの藤」以上に長寿の藤がある。
その藤は、佐久市「旧中込学校」の藤である。
旧中込学校は、1875年(明治8年)に完成し、国内の学校建築のうち、現存する最古級の擬洋風建築物で、国の重要文化財に指定されている。
旧中込学校の藤は、1875年(明治8年)に中込学校が建設されたことを記念して植えられ、その苗は「カバンの藤」と同じ南佐久郡の農家のものといわれている。
旧中込学校の藤の樹齢は、今年で、満143歳。
旧中込学校の藤が兄(姉)で、信濃国分寺史跡公園の「カバンの藤」が5歳違いの弟(妹)ということになる。

この話は、苗を譲り渡した南佐久郡の農家さんと極々近しい人から聞いた話である。
因みに、この藤の兄弟(姉妹)の親となる、その農家さんの藤は今も1メートルにならなんとする花を咲かせており、その写真を見たことがある。

この「親子の藤」についてよくご存知の、信州の盟友、大給守さんから、信濃岩村田藩の殿様の藤にまつわる面白い話を聞いたことがある。

「金は内藤志摩守 すそからぼろが下がり藤」。
これは庶民が貧乏藩である岩村田藩の殿様を揶揄したものとのことである。

岩村田藩は、信濃国佐久郡・小県郡の一部(現在の佐久市)を所領とした藩で、藩主家は内藤氏である。
揶揄された殿様は、最後の藩主である第7代藩主、内藤志摩守正誠(まさのぶ)。
この人物は、江戸幕府日光祭礼奉行、奏者番、寺社奉行などを務めている。
こうした要職にあることと貧乏藩であることは繋がりにくいし、浅田次郎の小説『一路』で、参勤交代の途中、主人公が岩村田藩に金を借りに行くことととなり、そうしたことからして、岩村田藩が貧乏藩であったというのは解せないが、庶民の中ではそう言い囃されていたそうな。
因みに、小説『一路』で描かれた時代は幕末近くなので、金を借りに行ったときの岩村田藩の殿様は、この7代藩主、内藤志摩守正誠であったと思われる。
なお、7代藩主、内藤正誠は、1869年(明治2年)、版籍奉還ののち、岩村田藩知事になっている。

話が反れてしまった。
藤の花と躑躅の花、季節の花のツー・ショットを。
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次は、信濃国分寺史跡公園の北側にある「瓦窯跡」へ。
史跡公園の北側入り口へと向かう。
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「信濃国分寺 瓦窯跡 観察施設」。
「瓦窯跡」は、国道18号線を挟んで、史跡公園の向かい側にある。
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「あれっ、扉がしまっていますね。昼過ぎ、史跡公園に到着したときは開いていたんですが」と武衛さん。
時計を見たところ、午後3時を少し回ったところ。
午後4時に閉めるなら分かるが、午後3時に閉めるのはちょいと早過ぎやしませんか!(不満!)。

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来場記念(???)として「信濃国分寺 瓦窯跡 観察施設」の銘板をカメラに収める。
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説明書きに目を通す。
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瓦窯跡観察施設
この窯跡は、昭和42年2月、運輸会社建設工事の際、発見され、同年3月の緊急発掘調査により、半地下式平窯跡2基であることが確認された。
これは、尼寺金堂跡北東約200メートルに位置し、窯の中心線は2基とも東偏差24度30分で、中心線の間隔は43メートルである。
構造は瓦を使って構築した平窯で、焚口は大きい河原石を左右に立て、その上に大石をのせてある。
燃焼室はラッパ状に焼成室に向かって広がり、焼成室との境は障壁によって分けられ、下部に3個の通焔孔を設けてある。
焼成室は7本のロストルを設け、奥壁内に3本の煙道をつくってある。
この焼成室の高さは四囲の壁が破壊されているので明確ではないが、およそ1.3メートル程度と推定される。
また、構築材となっている瓦は、国分寺創建時の瓦と本瓦の工人が作成したものの2種であり、操業は平安時代初期における国分僧寺、尼寺の大修理に際して行われたと推定され、1回についての瓦焼成数は瓦を3段詰にした場合、約500枚程度と考えられる。
なお、この観察施設は、上田市が国、県の補助を得て、800万円の経費で建設したもので、2基の窯跡を鉄筋コンクリート壁で保護し、西側の1基について観察の便を計り、他の1基は床の下に埋め戻されている。
昭和48年10月1日
上田市教育委員会
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常陸国分寺・国分尼寺の屋根に葺く瓦を製造した窯跡「瓦塚窯跡」を探訪したことがあるが、この窯跡は常陸国分寺跡・国分尼寺跡から10kmくらい離れた丘陵地帯の裾に位置していた。
丘陵地帯の裾に窯が設けられたのは、この瓦窯は粘土質の地山をくり抜いてつくられた内部が5段の「地下式有段窖窯」で、地形的に丘陵地帯の方が作り易かったこと、瓦の材料である粘土や燃料の木々の確保し易かったことなどが考えられる。
しかし、窯から現場まで10kmもの距離がある「瓦街道」を通って瓦を運搬するのは大変であったろうと、そのとき、想像するのであった。
その点、信濃国分寺瓦窯は、寺の大修理用瓦窯として、現場近くに窯が設けられており、運搬は楽であったろう。
現場近くに瓦窯があるという事例をここで知ったことは有意義なことであった。
惜しむらくは、窯そのものを見学したかったのだが...。

800万円の費用をかけて観察施設を作ったということまで、説明書きに書く必要があるのかと思うが、そこまで書くなら、大枚、叩いて作った施設なのだから、早々と扉を閉めずに、せめて午後4時か5時頃までは見学可能にして欲しいものであると思うのであった。
因みに、向かいの上田市立信濃国分寺資料館の開館時間は午前8時半から午後5時まで、休館日は水曜日・年末年始・祝日の翌日となっており、この日は土曜日、窯跡を早々と閉める必要はないと思うのだが、如何だろうか(ああ、また、文句垂れ、いや、苦言を呈してしまった)。

次は、直ぐ近くの、後継寺院である国分寺へと向かう。

フォト:2018年4月12日

(つづく)



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by ryujincho | 2018-05-14 23:48 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(2)
Commented by ogyunokami at 2018-06-22 06:56 x
古木の”砂ずりの藤”のいわれについて名文を残していただいたと思います。 藤の見頃の良い季節の訪問でしたね。
Commented by ryujincho at 2018-07-01 01:57
大給守殿 
南佐久郡の農家さんの藤の木と旧中込学校の藤の木を見たのは2014年の秋。
今回、遂に、見事な花を咲かせた”砂ずりの藤”を見ることが叶いました。
ということで、これを機会に、これまでに貴殿から聞いていた話をマイ・ブログにすべて盛り込んでみました。
花の季節の旅はええもんです。


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