龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(四)』 sp-17

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。
史跡の真ん中を鉄道が横切っており、史跡は南北に分かれてしまっているが、線路下に設けられた連絡通路でつながっている。

北側のゾーンを見学し、続いて、連絡通路を通り、南側のゾーンへ。
南側のゾーンで、先ず、僧寺跡を見学する。
やはり、国分寺跡の見学は北から順では駄目だ。
南から、南大門、中門、金堂、講堂...の順に見学すると落ち着く。

僧寺跡から西側の尼寺跡へ向かう。
信濃国分寺は僧寺と尼寺が隣接しているという珍しい事例の国分寺である。
尼寺跡へ向かうといっても、直ぐ隣りだから、5分と掛からない。

「史跡 信濃国分寺跡 尼寺跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 尼寺跡
ここは、古代信濃国分寺の尼寺回廊南西隅にあたります。
天平13年(741)、聖武天皇により国分寺建立(建設)の詔(命令)が下され、僧寺「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、尼寺「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」の建立が全国に命じられました。
僧寺には僧侶20人、尼寺には尼10人がおかれ、僧や尼は毎月8日に最勝王経を転読することなど、定められた規則にしたがって生活することが義務づけられました。
ところが、各地の国分寺造営(建設事業)は期待したようにはかどらなかったようで、天平19年(747)には国分寺の造営を督励(催促)する詔が発されています。
天平勝宝4年(752)に総国分寺である東大寺の大仏開眼供養が執り行われ、僧国分尼寺の法華寺も建立されました。
しかし、天平宝字3年(759)になっても国分寺造営を督促する記事が「続日本紀」にみられ、西暦770年前後に至ってようやく大半の国での国分寺が完成したと考えられています。
信濃国分寺跡では、昭和38年から46年に至る数次にわたる史跡整備と、これに伴う発掘調査が平行して行われ、僧寺・尼寺の伽藍の全容と、これに伴う多くの資料を検出することが出来ました。
この尼寺跡では、北から、北門・尼房・講堂・金堂・中門が直線的に並び、講堂と中門が回廊で結ばれ、講堂の西の経蔵も確認されました。
ただ、南大門と尼寺全体を取り囲む80間(約148m)四方と推定される築地塀の南辺と西辺はまだ確認されていないことや、建物の詳細については解明されていないことも多く、これからの調査や研究が必要とされています。
平成22年3月1日
上田市教育委員会
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これまで、各地の国分寺跡を訪ねる都度、「天平13年(741)、聖武天皇により国分寺建立の詔が下され、国分僧寺、正式名称『金光明四天王護国之寺』と、国分尼寺、正式名称『法華滅罪之寺』の建立が全国に命じられました...」の説明文を目にして来たが、この文言は、幾度、目にしても心地がよい。
「しもつけ風土記の丘資料館」(栃木県下野市国分寺)で、最勝王経(格調高いレプリカ)を見たことも思い出される。

この説明文の中で引っ掛かる点は「この尼寺跡では、北から、北門・尼房・講堂・金堂・中門が直線的に並び、講堂と中門が回廊で結ばれ」という記述である。
北からではなく、南から中門、金堂、講堂が直線的に並んでいるというのが正しいのではないか。
また、講堂と中門が回廊で結ばれているというのも逆で、中門と講堂が回廊で結ばれているというのが正しいのではないか。
やっぱり、上田市教育委員会のスタッフは、北からこの史跡を眺めていると言わざるを得ない。
但し、先ほど、僧寺中門跡で目を通した説明書きでは、南から順に記されていたので、上田市教育委員会のスタッフによって、ものの考え方が異なっているようにも思えるが、如何だろうか。

と、こう書きながら、官道から国分寺につながる道は、南大門にはつながっておらず、北門につながっていたのではないかと思ってしまう。
官道や国分寺につながる支道については、調べがついておらず、「南メイン説」より「北メイン説」が正しいのではないかと思ってしまう。

信州の盟友、大給守さんは、千曲市立信濃国分寺資料館の元・館長さんと知り合いとのことなので、官道は何処を通っていたのか、国分寺につながる道はどのようになっていたのか、「南メイン説」、「北メイン説」などについて問い合わせて貰うことにしたいくらいである。
いや、そうして戴こう。
小生が上田市教育委員会に電話で確認しても、話は噛み合わないであろうから。

話が反れてしまった。
国分尼寺跡に話を戻そう。

説明板に添えられている案内図と写真2葉をここに掲載しておこう。
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尼寺空撮(写真上が北)。
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尼寺金堂雨落溝発掘調査(昭和41年(1966))。
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尼寺中門跡。
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右/尼寺中門跡、そこから西に、そして、北に延びる南側回廊跡、西側回廊跡。
前方に、尼寺金堂跡、尼寺講堂跡、線路は見えないが、その向こうの白い建物が資料館。
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尼寺中門跡から尼寺金堂跡を眺める。
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尼寺金堂跡。
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尼寺金堂跡から尼寺講堂跡を眺める。
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尼寺講堂跡。
尼寺講堂跡の奥、金網のところが「しなの鉄道」の線路、その向こうに見事に花を咲かせている「カバンの藤」の藤棚。
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南東角から見た、東側回廊。
左奥/尼寺講堂跡、右ずっと奥/「カバンの藤」。
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東側回廊近くに立つ石柱。
「史跡 信濃国分尼寺 法華滅罪之寺跡」。
本来なら、この写真を最初に掲載すべきであるが、東側回廊からの帰路、通路に出たところで目に入ったので、尼寺跡めぐりの〆として。
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次は、先ほど、北側のゾーンで、国分尼寺北門跡を見学した際、その北側で見事な花を咲かせていた「カバンの藤」の藤棚へと向かう。

フォト:2018年5月12日

(つづく)

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by ryujincho | 2018-05-14 23:47 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)


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