龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(三)』 sp-16

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。
ここは史跡の真ん中を鉄道が横切っており、南北に分かれてしまっているが、線路下に設けられた連絡通路でつながっている。

北側のゾーンを見学し、続いて、連絡通路を通り、南側のゾーンへ。
通路を抜けたところに設けられた案内図を眺める。
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信濃国分寺跡
信濃国分寺跡は、古代信濃を代表する遺跡であるとともに、全国の国分寺跡のなかでも特に歴史的重要性の高い遺跡です。
史跡指定は昭和5年(1930)に遡りますが、昭和38年から46年(1963~1971)にかけての発掘調査によって、僧寺跡と尼寺跡の伽藍跡とともに、それらが隣接して立地する特異性も明らかになりました。
遺跡の重要性に対する認識を受けて、同43年(1968)に史跡指定範囲の拡大と公有地化が促進され、続いて行われた整備事業により史跡公園化されました。
これは国分寺跡の本格整備としては、全国でも最も早い事例に属しています。
この説明板の位置は、その間に立つもので、おそらくは僧寺と尼寺の間を南北に通る道路上と推定されていますが、明確な道路遺構は、未だに確認されていません。
平成30年3月1日
上田市教育委員会
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「全国の国分寺跡のなかでも特に歴史的重要性の高い遺跡」とある。
全国で60余の国のうち、これまでに探訪したのは、常陸国、上総国、下総国、上野国、下野国、武蔵国、相模国、伊豆国、播磨国、讃岐国、筑前国など11ヶ国で、えらそうなことは言えないが、この説明文の1行目を読んで、信濃国分寺跡の何処に歴史的重要性があるのあろうと思った。
だが、続いて、「僧寺跡と尼寺跡が隣接して立地する特異性」が述べられている。
この点について、前話で、小生なりに触れていたので、何だか嬉しさを感じた。

前話では、僧寺と尼寺の間を”空き地”と記したが、この説明書きでは「明確な道路遺構は、未だに確認されていません」とのことながら、「僧寺と尼寺の間を南北に通る道路」があったと推定されている。
これも納得のいく推定である。
道が通っており、その両側に僧寺と尼寺の築地塀、いい風景である。
因みに、武蔵国分寺跡は、東に僧寺、西に尼寺、その間を南北に官道である東山道武蔵路が通っている。
道幅は異なれど、武蔵国分寺跡とイメージが重なる。
しからば、信濃国のこの周辺の官道は何処を通っていたのだろうか、官道から分かれれて、僧寺、尼寺の南大門へ通じる道があったとせば、何処を通っていたのだろうか、今は、史跡の南側は住宅地となっているが、この住宅地の辺りに道があったのであろうか、など、あれこれと考えるのである。

僧寺、尼寺の伽藍配置図。
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航空写真(平成16年)。
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赤文字、中央/現在地
赤文字、右(東)/僧寺跡
赤文字、左(西)/尼寺跡
赤文字、上(北)/資料館

僧寺跡、尼寺跡の順に見学。
先ず、僧寺跡から。
南側ゾーンの南端まで行ってみる。
背後で電車が近づいて来る音がする。
カメラを構えて、待つ。
しなの鉄道軽井沢行きである。
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南側ゾーンの南端は広い空き地となっている。
ロープが張られているのは、公有地を示しているのであろう。
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空き地の南側は住宅地である。
空き地と住宅地の間を通って、東へ進む。

「史跡 信濃国分寺跡 僧寺築地塀跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 僧寺築地塀跡
ここは、僧寺南大門から西に延びていた、僧寺の内と外を区画する施設が推定されており、現在のところ、築地塀が想定されています。
築地塀は、基礎に柱と貫(ぬき)の骨組みで木の枠を作り、そこに土を入れて、突き固める「版築」という方法で作られるものが多く、屋根や瓦、板などで葺いたものがあります。
信濃国分寺の内と外の区画施設が築地塀であるのか、板塀であるのか、未だにはっきりとはせず、現在も発掘調査により確認作業をしています。
また、規模も僧寺は100間(約187m)四方、尼寺は80間(約150m)四方と推定されていますが、これもはっきりとはしていません。
現在は想定される築地塀のラインにドウダンツツジを植えて表示しています。
平成26年3月1日
上田市教育委員会

説明板掲載写真
左/法隆寺東大門(重要文化財)から伸びる築地塀
央/僧寺西南隅の発掘調査(塀などの痕跡は確認できませんでした)
右/僧寺南大門址の発掘調査(礎石の下の栗石が確認され、八脚門であることがわかりました)
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築地塀の版築による一部復元は、上野国分寺跡、播磨国分寺跡、讃岐国分寺跡で見学したことがある。

築地塀跡の東側と南側は住宅地となっており、南大門跡の発掘調査は行われたのであろうか(後述の中門跡の説明の中に、中門は南大門より大きいと書かれているので、調査はされているのかもしれない)。

築地塀跡から北側を眺める。
前方に礎石の位置を示す算盤球状の石が置かれているのが見える。
北へ進む。

「史跡 信濃国分寺跡 中門跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 僧寺中門跡
ここは、古代信濃国分寺の僧寺中門跡です。
中門は、間口5間(18.0m)、奥行き2間(6.6m)の規模で、南大門よりも大きく、二層の建物も考えられています。
建物の下の基壇(土を一段高く盛った基礎部分)規模は東西20.8mx南北9.4mと判明しています。

この中門には、東西の両側に、講堂へとつながる回廊が取り付いていました。
回廊の多くは、幅1間の「単廊」と呼ばれる形式のものですが、この国分僧寺は梁間2間の「複廊」と呼ばれる大きさのものでした。
回廊の基壇は、幅が8.1mあり、南北の全長は79.2m、27間です。
また、東西長は、中門も含めて、66.1mありました。

この中門の北側(線路の向こう側)には、僧寺伽藍の中心である金堂、講堂が直線上に建ち並び、その東側には塔跡と僧房跡が、そして、南側には南大門が建つ、壮大な伽藍を形成していました。

金堂は、寺院のもっとも大切な建物空間で、中には本尊がまつられていました。
建物の規模は、間口7間(24.2m)、奥行き4間(14.4m)で、屋根の庇から落ちる雨落溝も確認されています。

講堂は、僧が仏教や学問を学ぶ建物です。
間口9間(28.8m)、奥行き4間(14.0m)で、雨落溝も確認されています。

このほか、僧寺跡には、僧侶の寝食の建物である僧房跡や、七重塔跡と推定される建物跡が確認されています。

ただ、周囲を取り囲む築地塀については、東西176.56mx南北178.05mとほぼ100間四方の寺域であったと推定されていますが、東・北・西の文などとともに、その確認は今後の調査にゆだねられています。

平成17年12月1日
上田市教育委員会

図、右上/講堂
図、右中央/金堂
図、右下/七重塔
図、左上/中門
図、左下/僧房
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この説明書きの表題は「僧寺中門跡」であるが、国分寺の伽藍に関わる主な事項のほどんどが述べられている。
惜しむらくは、経蔵と鐘楼について何ら触れられていないということである。

中門跡。
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西側から中門跡を眺める。
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西南角から中門跡を眺める。
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中門跡から西へ、そして、北へ延びる回廊跡。
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北西角から、手前/西側回廊跡、奥/南側回廊跡と中門跡を眺める。
中門跡から東へ延び、北へ向かう南側・東側回廊跡は、鉄道(左、金網沿い)が横切り、消滅している。

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線路の向こう側を眺める。
線路の北側、直ぐのところが金堂跡、その向こうの木立が1本見えるところが講堂跡。
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「史跡 信濃国分寺跡 僧寺西門跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 僧寺西門跡
ここは、古代信濃国分寺の僧寺西門跡です。
西門は、いままでの僧寺の築地塀想定ライン上より少し西側で、僧寺金堂の真西に検出されました。
建物の規模は、桁行5.1m(17尺)、梁行2.7m(9尺)で、検出された柱穴は四脚門の控え柱です。
梁行の中間には、礎石の上に立つ親柱があり、そこに扉が付いていたと考えられています。
門の西側1.8m(6尺)の箇所には、並列する2個の柱穴が同じ桁行で検出され、庇が付属していたと推定されます。
この門は礎石建ちではなく、掘立柱であることや、出土する瓦の量がきわめて少ないことから、檜皮葺や板葺きの屋根であったと考えられます。
この西門の確認により、僧寺築地塀のラインが、これまでの想定ラインより5m西に振れていること、そして、この門が、僧寺と尼寺の間を南北行すると推定される道路に面しており、僧寺と尼寺とを繋ぐ出入口であることなど、たいへん、多くの情報を提供しています。
平成22年3月1日
上田市教育委員会

図、右上/現在地と西門を図示。
図、左下/僧寺西門復元想像図
図、右下/僧寺西門跡発掘調査(真上から/写真上が北)
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「西門は金堂の真西」とある。
先ほど、線路の北側のゾーンで金堂跡を見学した。
南面の南西角を線路がかすめていた。
西門はそこから、線路を挟んで、西にあったのだ。
線路があることでイメージし辛いが、説明板に添えられて図で、金堂と、線路を挟んで、西門が位置しているがよく分かり、この図は大いに助けとなる。

西門のこともさることながら、小生にとっては、僧寺と尼寺との間に南北行の道路が通っていたということが大事な点である。

先ほど来、カッコウの声が聞こえている。
♪ カッコー、カッコー♪と幼き頃から歌を歌い、カッコウという鳥は馴染み深い鳥であるが、ナマの姿を見たことはない。
利根川サイクリングロードを走っていると、河川敷の木立の中で鳴いていることがあるが、その姿を見たことはない。
ここでも、史跡公園の木立を縄張りとし、木立の中で鳴いているのだろうと、その姿を見ることなど思いもせず、声だけを聞いていたところ、武衛さんがその姿を見つけた。

「上総さん、あの電線にとまって鳴いているのがカッコウのようです。鳴くときに羽を少し広げ気味にして、そのときにカッコウの声が。ということで、あれは、確かに、カッコウです」。
「では、オリンパス・イーグル・アイでズーム・アップ」。
カメラを望遠鏡代わりにして、鳥見。
「ズームで撮ると、手振れが激しいので、ズームは止めて、あとで、トリミング」。

遠めの一枚。
電線にとまり、鳴くカッコウ。
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鳥ミング図。
胸の縞々模様が微かに見える。
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前日、千曲川左岸サイクリングロードを走っているとき、今シーズン初めて、オオヨシキリの声を聞いた(毎シーズン、その声を聞くのは、マイ・鳥見フィールドの手賀沼にて)。
何故、ここでオオヨシキリの話を持ち出すかというと、それは、カッコウはオオヨシキリの巣に托卵するという関係にあるからだ。

カッコウの雛は、比較的、短期間で孵化し、巣の持ち主の雛より早く生まれることが多い。
孵化したカッコウの雛は巣の持ち主の卵や雛を巣の外に押し出してしまう。
その時点でカッコウの雛は仮親の唯一の雛となり、仮親の育雛本能に依存して餌をもらい、成長して巣立っていく。
托卵を見破られないようにするため、カッコウは卵の色や斑紋などを仮親の卵に似せてたり、托卵する際に仮親の卵を巣から出して数合わせを行う場合もある。
何故、カッコウは托卵するかについては、よく分かっていないが、体温が低いためという説がある。
いずれにせよ、「オオヨシキリ残酷物語」である。

電線に止まり、鳴いていたカッコウは、近くの森に飛び立ち、再び、鳴いていた。

♪カッコー、カッコー♪と歌う童謡をはじめ、カッコウが登場する音楽は数多ある。
それについて語り出すと、音楽好きの小生としては、エンドレス状態になりかねないので、それは別の項の「鳥見雑記」で綴ってみたい。

僧寺跡から、西側の尼寺跡へと向かう。

フォト:2018年5月12日

(つづく)

















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by ryujincho | 2018-05-14 23:46 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)


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