龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/森将軍塚古墳(下)』 sp-4

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市/森将軍塚古墳。

眼前に前方後円墳を眺めながら、案内人さんから説明を聞き、併せ、説明板にも目を通したのち、墳丘の裾を通り、墳頂へ。

前方部に立つ。
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先ほど、墳丘の裾を通った際、葺石を間近に見た。
説明板に「表面にはこの山から集めた石英斑岩を葺き並べています」、「約80,000個の石が並べられています」とあった。

案内人さんに尋ねてみた。
「葺石は千曲川から運んで来た丸い河原石かと思っていましたが、丸くはありませんね」。
「ここの葺石は山から採石したものです。あちらの山にその跡が見えます」。

指差された古墳の右(東)の山に目を遣る。
木々が生えた山肌に、一部、岩の露出したところが見える。
階段状になった採石跡が見て取れる。
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案内人さんは更に言葉を続けて、「千曲川のこの辺りでは砂利となっています。大きな丸い河原石が取れるのはもう少し上流の方になります」。

小海線沿いの千曲川の流れが目に浮かんだ。
佐久平ポタで眺めた千曲川を流れも目に浮かんだ。
小海から臼田あたりまでは川幅は狭く、流れが急であった。
臼田を過ぎて、太田部、中込あたりから流れは比較的穏やかになっていた記憶がある。
そうした流れと、岩が砕け、丸い河原石となり、砂利となり、砂となる関係が具体的に目に浮かんだ。

森将軍塚古墳の荒い葺石を見て、4月半ばに挙行した「遠賀川流域古墳めぐり」の中で探訪した沖出古墳(福岡県嘉麻市)の葺石は山の石であったことを思い出した。

次に西側を眺める。
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素晴らしい眺望。
善光寺平、そして、遥か彼方に北アルプスが白い屏風を広げたが如くに。
ズームアップ!
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景色はあとでゆるりと眺めるとして、古墳に集中!

前方部。
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前方部
前方部は、古墳の主が眠る後円部に至る通路、あるいは、儀式の場所ではないかと考えられています。
森将軍塚古墳の前方部は、後円部と同様に千曲川から運びあげられた玉砂利が敷き詰められて、埴輪が立て並べられた広いものです。
後には、竪穴式石室2基をはじめ、組合せ式箱形石棺や埴輪棺などの埋葬施設が設けられています。
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「千曲川から運びあげられた玉砂利が敷き詰められて」とある。
葺石は山から採取したものだが、玉砂利は千曲川から運ばれたのである。

前方部は儀式の場所という考えが通例である。
後に、前方部に埋葬施設が設けられたとのことだが、前方後円墳の前方部に埋葬施設が設けられた事例を初めて知った。

後に、埴輪を棺にしたり、前方部に埋葬施設をつくったりと、これはシナノ独特のことなのだろうか...。

続いて、後円部に立つ。
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後円部。
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後円部
一段と高い後円部には、長大な竪穴式石室が設けられ、森将軍塚古墳の主が埋葬されていました。
石室は特に大形で、その床面積は日本最大と推測されています。
副葬品には、鏡や剣・刀、勾玉・管玉などがみつかっています。
三角縁神獣鏡は、大和王権と特に関係の深かった有力者に限って持ったといわれています。
主はどんな人物だったのでしょう。
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二段墓壙。
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二段墓壙
石室は、二重の石垣で囲まれた墓壙の中央に設けられています。
外側(一段目)の長さ:13.8m、幅:8.8m
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竪穴式石室。
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竪穴式石室
石英閃縁岩の板状の石を小口積みにして築かれています。
長さ:7.6m
幅: 2.0m
高さ:2.3m
墳頂から石室床面までの深さ:3.4m
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副葬品。
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副葬品
青銅製の”三角縁神獣鏡”は、長野県下では唯一のものです。
翡翠製の勾玉・碧玉製の管玉
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説明板に「石室の床面積は日本最大と推測されている」とある。
後円部にブロックを並べて、石室の大きさ(長さ:7.6m x 幅:2.0m)が示されている。

「南国守さん、すみませんが、人と比べると石室の大きさが分かり易いので、そこに立って貰えませんか。寝っ転がって貰っても結構なんですけど、それは縁起が悪いんで、立つだけで結構です」。
「これでいいかな」と南国守さんと立ってくれた。
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幅2mは、これで如実に分かる。
長さ7.6mは遠近の都合で写真では分かり難いが、ブロックの数とその間隔、南国守さんの靴の大きさなどがその目安となろう。


科野のクニ。
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(説明板/上段)
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科野のクニ
千曲川両岸の自然堤防と後背湿地には、稲作が始まる弥生時代になると、たくさんのムラができ、農耕が営まれてきました。
やがて、この地域を中心に政治的なまとまりができてきました。
”科野のクニ”と呼ばれているものです。
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(説明板/下段)
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自然堤防と後背湿地
善光寺平を流れる千曲川は、過去に洪水を繰り返したために、その両岸に大量の土砂が堆積して、堤防状の微高地を形づくっています。
そのために、盆地を取り囲む山地から流れ出てくる沢山川や聖川は、出口を阻まれ、自然堤防の背後に広大な湿地を形成しました。
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左岸
1 篠ノ井・塩崎遺跡群 集落遺跡 弥生時代から平安時代(塩先・松節遺跡)
2 石川条理水田址 埋没水田遺跡 弥生時代から近世
3 姫塚古墳 前方後円墳 全長32m 4世紀代の築造
4 川柳(せんりゅう)将軍塚古墳 前方後円墳 全長93m 4世紀後半の築造
5 中郷(なかごう)古墳 前方後円墳 全長53m 5世紀代の築造
6 越(こし)将軍塚古墳 円墳 直径33m 5世紀中頃の築造
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右岸
1 屋代遺跡群 集落遺跡 弥生時代から平安時代(城ノ内・生仁遺跡他)
2 更埴条理水田址 埋没水田遺跡 弥生時代から近世
3 土口(どぐち)将軍塚古墳 前方後円墳 全長67m 5世紀中頃の築造
4 倉科将軍塚古墳 前方後円墳 全長82m 5世紀前半の築造
5 有明山将軍塚古墳 前方後円墳 全長36m 4世紀末から5世紀初めの築造
6 屋代城跡 山城 屋代氏築城 15世紀の築造
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図/左/南西から西にかけて。
森将軍塚古墳の南に、有明山将軍塚古墳。
森将軍塚古墳の南西に、屋代城跡。
対岸(千曲川左岸)に、越(こし)将軍塚古墳。
西の彼方に、北アルプス。
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図/央/西。
西の彼方に、北アルプス。
対岸(千曲川左岸)に、篠ノ井・塩崎遺跡群、聖川を挟んで、石川条理水田址。
山裾に、 越(こし)将軍塚古墳、中郷(なかごう)古墳、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳。
手前(千曲川右岸)に、城ノ内遺跡、更埴条理水田址。 
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図/右/北西から北、更に東にかけて。
彼方に、戸隠山、飯綱山。
対岸(千曲川左岸)、千曲川に流れ込む聖川、その北に石川条理水田址。
手前(千曲川右岸)、城ノ内遺跡、更埴条理水田址、生仁遺跡、土口将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳。
倉科将軍塚古墳は沢山川の北側後背地に位置している。

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眺望図での景色はここまでとし、本物の眺めを。

善光寺平、そして、遥か彼方に北アルプスが白い屏風を広げたが如くに。
森将軍塚古墳の被葬者も、生前、この景色を眺めたであろう。
この眺望が、この尾根に前方後円墳を築造しようと決心させた最大の要素であろう。
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アップで。
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超アップで、南から北へ。
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この風景を眺めながら、山男の南国守さんから白馬三山の話が出た。
この景色が白馬三山だと思い込んでいたが、このブログを綴りながらグーグルマップで確認したところ、白馬三山はもう少し北に位置していた。
因みに、白馬三山とは、白馬岳(2,932m)、杓子岳(2,812m)、白馬鑓ヶ岳(2,903m)。
山に疎い小生、この機会に白馬三山をベンキョーしたのであった。


ここで、案内人さんのことについて少し触れておきたい。
案内人さんは、何でもよくご存知である。
我らの質問に対しても、即答である。
有難いことである。
案内の仕事を14年に亘って務めているという。
冬場はスキーの指導員もされているという。
スキーの指導員、これは、信州の盟友、大給守殿と同じである。
前職は某所で先生をされていたという。
これは「前職は先生ではなかったですか」との我らの質問に対する答えで、当たり!であった。
案内の人には結構、元・学校の先生が多いのである。

下界の古墳館で案内人さんと出会ったときにまで話を戻そう。
我らは、屋代駅に着き、駅前で昼餉を摂り、千曲市森将軍塚古墳館に到着。
受付で案内の人をお願いした。
しばらくすると案内人さんが現れた。
「姥捨へ行っておりまして、今、戻って来ました。姥捨にいい蕎麦やがあるもので...」。
更に言葉を続けて、受付のお嬢さんに「サイクリングロードのマップがあったでしょう。それをこの方々に」と。
我らの頭にヘルメット、背にザックの姿を見ての気遣いであった。
「サイクリングのマップはないんです」と受付のお嬢さん。
「他所で貰ったサイクリングマップが手元にありますので、それを差し上げましょう」と案内人さん。
「それは助かります。サイクリング用のマップがあれば、オニカナ(鬼に金棒)です」と我ら。
そんな会話を交わしたあと、案内人さんと我らは見学バスに乗車し、尾根の森将軍塚古墳へ向かったのであった。

案内人さんから数々の説明があった。
その内容は、上述の通り、説明板併用で記した。

説明板にはない話を幾つか、ここで綴っておきたい。

「この辺りの古墳には、将軍塚という名が付されていますが、何か理由があるのでしょうか?」。
「5~6000人の兵士を統率する人を中国では将軍というそうです。被葬者はそれくらの権力を有していたであろうということから、『将軍塚』と名付けらたとのことです。森将軍塚の『森』は、以前、この辺りは埴科郡森村であったことから『森』と名付けられました」。

北西から北、東を眺める。
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「倉科将軍塚古墳は、右手の山の尾根にあります。木々に覆われていて見えませんが、あの辺りです。倉科氏の鷲尾城跡があり、古墳は城郭の一部に使われていました。その向こうの北の山に土口将軍塚古墳があります」。

指で差し示された辺りに目を遣る。
写真、右手前の山とその奥の山が説明された場所である。
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これで、埴科古墳群の4基の前方後円墳が、北から南に、土口将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳、森将軍塚古墳、有明山将軍塚古墳の順で位置していることが頭の中に入った。
因みに、年代順に並べると、4世紀末/森将軍塚古墳、4世紀末~5世紀初め/有明山将軍塚古墳、5世紀前半/倉科将軍塚古墳、5世紀中頃/土口将軍塚古墳となる。
眺望図と実際に景色を眺めながら説明を聞くと頭の中に入り易い。

「南から北へ流れていた千曲川は、これらの張り出した山の辺りから東へ流れを変えます」。
その辺りをズームアップ。
写真、中央に千曲川の流れが見える。
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「右側の山の向こうに松代があります。佐久間象山は大砲の試し撃ちをするために、大砲を山を越えてこちら側に運んで来ました。平地を通って来ればよいと思うでしょうが、川あり、湿地ありで、山越えの方が楽だったようです」。

「大砲を据えた場所はあの辺りです。緑の土手が見えている辺りです」。
右手(東)、山裾の手前の平地に目を遣る。
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「試射された弾は、今、我々の目の前に見えている畑の上を飛び、左手の神社(写真はなし)の辺りに落ちたとのことです。大砲の弾は貴重ですから、回収に行ったところ、そこは天領だったので返して貰えなかったとのことです」。

本ブログを綴るに際し、グーグルマップを参照。
写真中央に写っている建物とテニスコートは東部体育館、その北に「象山砲術試射地碑」(千曲市生萱)の表示を見つけた。
着弾場所の神社の名は失念したが、或る資料に「幕府領である満照寺に着弾」とあった。
グーグルマップで満照寺を確認したところ、屋代駅の直ぐ東にあり、その直ぐ近くに東山神社もあり、案内人さんが言った神社はこの東山神社に違いない。

佐久間象山といえば、都内をポタリングしていたとき、中央区で「佐久間象山塾跡」なる説明板があったことを思い出す。
また、三浦半島をポタリングしていたとき、浦賀で「吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)」なる石柱を見たことも思い出す。
ばらばらではあるが、『佐久間象山ゆかりの地を訪ねて』に、またひとつ、ゆかりの地が増えたこととなった。

話が古墳から反れてしまった。
反れついでに、もう少し。

姥捨について。
案内人さんは「姥捨の蕎麦やに行って来た」と言っていた。
5年前の、2013年の秋、「乗鞍岳下りま専科」を、ドラポタの盟友、大給守さん、南国守さん、ハリポタの盟友、御典医さんと六々守さんと共に挙行。
そのあと、松本で大給守さん、御典医さん、六々守さんは帰館。
南国守さんと小生は、更にポタリングを続け、松本から長野へ輪行する際、JR篠ノ井線に乗った。
途中、姥捨駅に停車。
そのときのことを兄弟ブログ『上総守が行く!』に綴ったことがあり、マイ・ブログを紐解いてみた。
2013年10月16日付け『天空ポタ/究極の下りま専科』 第27話<松本~長野、篠ノ井線輪行の巻> で縷々綴っていた。

そこに掲載されている写真を見て驚いた。
善光寺平とその向こうに屋代地区とその周辺が写っている。
千曲川右岸の山並みは、今、我らが森将軍塚古墳から眺めているのと同じである。
グーグルマップで確認すると、姥捨駅と森将軍塚は、善光寺平、千曲川を挟んで、南西と北東の位置関係にある。
まさか5年後に善光寺平の反対側にいよう、しかも森将軍塚古墳のある尾根にいようとは、そのとき、露ほどにも思わず、撮った写真であったのだが...。

折角なので、マイ・ブログを抜粋して、ここに転載しておこう。

=====quote=========================
松本駅を発つ。
しばらく走ると、電車は線路上でストップ。
随分と長く止まった後、漸く、動き出した。
「線路に置き石がありましたので、点検しておりました」との車内アナウンスあり。
物騒な話である。
(中略)
「姥捨駅」に到着。
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おお、この地が彼の有名な深沢七郎の「楢山節考」にもなった姨捨伝説の地かと思うと同時に、「右手に、風光明媚な善光寺平がご覧になれます...」の車内アナウンスが流れる。

車窓から善光寺平を眺める。
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ホームの椅子が向こう側を向いている。
ここに座って、ホームからの善光寺平の眺めをゆっくり楽しんでくださいという駅の心遣いがうかがえる。

「上総さん、こっち側のホームに投句箱がありますよ」との南国守殿の声。
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五七五を捻くり回し、駄句を乱発している上総を思っての南国守殿の声掛けであった。
ということで、投句箱を撮った訳だが、こうしてブログを編集していたところ、投句箱の横にある碑が気になる存在となった。

フォトを拡大してみると、碑に刻まれた文字は不鮮明ながら「月の友」の文字が読み取れた。
芭蕉の句「おもかげや 姨ひとりなく 月の友」の句碑であった。
芭蕉は、元禄元年(1688年)、名古屋から木曽路を経て、この地を訪れ、古人に倣い、更科姨捨山で月見をして江戸に戻った。
そのときの紀行文が『更科紀行』である。
句碑に刻まれた句はこのときに詠んだものなのであろう。

「月の姥捨 さらしなの里へ ようこそ/姥捨駅愛好会」。
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このホームのフェンスに掲げられた看板から姥捨駅とその周辺の素晴らしさが伝わってくる。
この看板に描かれているイラストは「田毎の月」である。
この辺りには名所旧跡がいっぱいある。
いつの日か、中秋の名月の頃に、この地をゆるりと巡ってみたいものである。

全国でも珍しいスイッチバックの後、長野方面へ走り出した。
車窓を流れ行く、善光寺平の風景を眺める。
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約30分遅れで長野駅に到着。

フォト:2013年9月9日
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翌2014年の秋、「高峰高原下りま専科」を挙行したあと、佐久平をポタリングした。
佐久平を走ったことでもあり、次は善光寺平も走ってみたいと思うのであった。
「田毎の月」も含めて...。

話を森将軍塚古墳に戻そう。

条理制にも興味がある。
「先ほど見た眺望図の中に、更埴条理水田址とありましたが、眼下に見えるのがそれでしょうか。南の方から住宅が迫って来ていますが、今、見えているのは保存地域なのでしょうか」。
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「洪水を繰り返しているので、条理制の跡は地下数メートルのところにあります。今、畑のところは保存地域ではなく、南の方から宅地化が進みつつあります」。

写真、手前のクリーム色の建物は千曲市森将軍塚古墳館、その前を斜めに走っているのが県道392号線、右手、南北に走っているのが上越自動車道。
遥か彼方に、戸隠山(左、1,904m)、飯綱山(右、1,917m)・・・眺望図、参照。
その間に、白く冠雪した山が垣間見えるが、さて、その山の名は?

盛りだくさんな墳丘での見学であった。
そろそろ、時間。
バス停へ向かう。

「頂戴したサイクリング・マップ、参考にさせていだきます。これから戸倉上山田温泉へ、明日は戸倉上山田温泉から上田方面へ走ります。
国道18号線は走りたくありません。千曲川左岸のサイクリングロードは、戸倉上山田温泉、上田まで通じていますか?」。
「ところどころで、一般道と一緒になったりしますが、通じています。古墳館の前の道を西へ、西へ行き、栗佐橋を渡ります。ここから見えているあの橋です。それを渡ると千曲川左岸です」。
「森将軍塚古墳を堪能しました。周辺のこともいろいろベンキョーになりました。有難うございました」。

次のお客さんをここで待つという案内人さんと別れ、ミニバン見学バスで下界へ下った。

古墳見学前に、古墳館で軽くヨシューした。
今度は、古墳見学後の、古墳館でのフクシューである。

フォト:2018年5月11日

(つづく)






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by ryujincho | 2018-05-14 23:34 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)


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