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龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 02月 22日

『差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり』

2月22日(木曜)。
今朝の朝刊に、2月20日に亡くなった金子兜太さんに関する投稿記事が幾つか掲載されていた。
金子兜太さんの句に身近に触れたのは、2010年の秋、渥美半島をポタリングした際、伊良湖岬で彼の作が刻まれた句碑に出遭ったときのことであった。

「差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり」
『差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり』_a0104495_037166.jpg

サシバは「鷹の渡り」をみせる代表的な鳥である。
4月頃、夏鳥として東南アジアやニューギニアから日本に渡来し、標高1000m以下の山地の林で繁殖する。
秋の渡りは9月初めに始まり、沖縄・南西諸島を経由して東南アジアやニューギニアで冬を越す。
一部は沖縄・南西諸島で冬を越すものもある。
日本では4月ごろ夏鳥として本州、四国、九州に渡来し、標高1000m以下の山地の林で繁殖する。
秋の渡りの時には非常に大きな群れを作り、渥美半島の伊良湖岬や鹿児島県の佐多岬ではサシバの大規模な渡りを見ることができる。
一方、春の渡りは秋ほど大規模な群れは作らない。

「伊良湖岬」と「サシバ」、これらふたつの言葉から連想されるのはサシバの秋の渡りであるが、句碑に刻まれた「差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり」は春から夏にかけての伊良湖岬の風景である。

伊良湖岬の高台に建てられた伊勢湾海上交通安全センターの外壁に数羽のサシバが刻まれている。
『差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり』_a0104495_0224349.jpg
『差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり』_a0104495_0225665.jpg
このレリーフのサシバは、句碑とは異なり、春の渡りではなく、秋の渡りが刻まれたものであろう。

金子兜太さんは、戦中、トラック諸島に海軍主計中尉として赴任していたという。
1月4日に亡くなった、小生の極々近しい人も、戦中、トラック諸島に。

2009年3月、三浦半島をポタリングした際、「浦賀港引揚げ記念の碑」に目を惹かれた。
そのときのことをマイ・ブログに通り綴った。
その抜粋は次の通りである。
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東浦賀から浦賀の中心地を経て、浦賀港沿いに、西浦賀へ。
海側の歩道を走っていたところ、「浦賀港引揚げ記念の碑」と記された碑が目に入りました。
碑文を読みながら、小生に最も近しい人の話を思い出し、この碑をカメラに収めました。
『差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり』_a0104495_2121671.jpg

碑文は次の通り記されています。

昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に送還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。
引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かつてない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。
私たちは再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。                 
横須賀市 

小生の最も近しい人は、終戦後、引揚げ船で南方の戦地、トラック諸島から、無事、帰還。
その人が傘寿を迎えるにあたって綴った「生い立ちの記 風雪80年」の中で、次のように記されています。

「(略) 小笠原諸島を過ぎた頃、前方の雲間に白い三角形のものが見えた。船が内地に近づく程、三角形は大きくなり、富士山の頂上だとはっきり認識出来るようになり、白扇逆さまに掛かるの表現がよく理解出来た。直ぐに、船室の同僚に知らせたら、船酔いも忘れて、皆、甲板に出て、3年振りに見る霊峰富士の神々しい姿に、万感胸に迫り、ただただ、涙を流すばかりだった。
 昭和20年10月29日、「巨斉」は浦賀港に入港した。やっと生きて故国の土を踏むことが出来た。入国検査では、現在、有毒と言うことで使用が禁止されているDDTを頭から身体中が真っ白になる程、米兵に掛けられ、近くの横須賀銃砲隊の兵舎に入った。(略)」

この章では、この後、東京から復員専用列車で故郷に帰還するときの様子や故郷に無事、到着したときの様子も綴られています。

本ブログでは、紙面の都合上、上述の抜粋に留めますが、戦時の章では、召集令状から入隊、訓練、南方諸島への出陣、南方諸島での戦いや生活、無事の帰還、復員の様子が31ページに亘り、綴られています。

今回、ブログを掲載するに際して、この章を読み返してみましたが、やはり、胸の詰まる思いです。

碑の写真一枚で、苦労なさった皆さんのことを済ますつもりはありませんが、それはお許し戴いた上での掲載です。
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金子兜太さんは享年98歳、極々近しい人は享年96歳。
ひょっとしたら、二人はトラック諸島で出会っていたかもしれない。

このようにこのブログを綴っていると、トラック諸島からの無事の帰還と南方から日本に渡って来るサシバとが重なり合う思いに至るのであった。

合掌

フォト#1~#3:2010年11月7日(当時、綴ったブログより転載)
フォト#4:2009年3月21日(同上)



by ryujincho | 2018-02-22 23:31 | Comments(0)


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