龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 05月 16日

『オオヨシキリとカッコウ』

5月11日から、jitensha を携え、二泊三日で信州史跡めぐり。

5月11日、千曲市/森将軍塚古墳を探訪したのち、戸倉上山田温泉まで千曲川右岸サイクリングロードを自走。
そのとき、河川敷の藪の中でオオヨシキリの、あのギョシギョシという鳴き声を耳にした。
オオヨシキリの声を聞くのは、今シーズン、これが初めてであった。
毎シーズン、その声を聞くのは、マイ・鳥見フィールドの手賀沼周辺なのだが、今シーズンは千曲川の畔と相成った。

翌12日、信濃国分寺跡を探訪。
カッコウの声が間近に聞こえる。
♪ カッコー、カッコー♪と幼き頃から歌を歌い、カッコウという鳥は馴染み深い鳥であるが、ナマの姿を見たことはない。
利根川サイクリングロードを走っていると、河川敷の木立の中で鳴いていることがあるが、その姿を見たことはない。
ここでも、信濃国分寺跡の森を縄張りとし、木立の中で鳴いているのだろうと、その姿を目にするなど思いもせず、声だけを聞いていた。
すると、史跡めぐりの相棒の武衛さんがその姿を見つけた。

「あの電線にとまって鳴いているのがカッコウのようです。鳴くときに羽を少し広げ気味にして、そのときにカッコウの声が。ということで、あれは、確かに、カッコウです」。
「では、オリンパス・イーグル・アイで、ズーム・アップ!」と張り切って、カメラを望遠鏡代わりにして、鳥見。
「ズームで撮ると、手振れが激しいので、ズームは止めて、あとで、トリミング」と張り切って、ズームから標準にして、シャッターを切る。

遠めの一枚。
信濃国分寺跡の真ん中を横切るしなの鉄道の電線にとまり、鳴くカッコウ。
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鳥ミング図。
胸の縞々模様が微かに見える。
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本ブログの冒頭で、毎シーズン、オオヨシキリの声を聞くのは、マイ・鳥見フィールドの手賀沼周辺なのだが、前日、千曲川左岸サイクリングロードを走っているとき、今シーズン初めて、オオヨシキリの声を聞いたことを述べた。
何故、ここで、再び、オオヨシキリの話を持ち出すかというと、それは、カッコウはオオヨシキリの巣に托卵するという関係にあり、前日、オオヨシキリの声を聞き、翌日、カッコウの姿を見たというのは奇縁と思うからである。

カッコウの雛は、比較的、短期間で孵化し、巣の持ち主の雛より早く生まれることが多い。
孵化したカッコウの雛は巣の持ち主の卵や雛を巣の外に押し出してしまう。
その時点でカッコウの雛は仮親の唯一の雛となり、仮親の育雛本能に依存して餌をもらい、成長して巣立っていく。
托卵を見破られないようにするため、カッコウは卵の色や斑紋などを仮親の卵に似せてたり、托卵する際に仮親の卵を巣から出して数合わせを行うこともあるという。
何故、カッコウは托卵するかについては、よく分かっていないが、体温が低いためという説がある。
いずれにせよ、「オオヨシキリ残酷物語」である。

電線に止まり、鳴いていたカッコウは、近くの森の方へ飛び立ち、木立の中で、再び、鳴いていた。

♪カッコー、カッコー♪と歌う童謡をはじめ、カッコウが登場する音楽は数多ある。
それについて語り出すと、音楽好きの小生としては、エンドレスになりかねないが、少し、ここで触れておきたい。

童謡(ドイツ民謡)『カッコウ』
♪ソミ、ソミ、レドレド~、レレミファ~レ、ミミファソ~ミ、ソ~ミ、ソ~ミ、ファミレド~♪
明るく、調子のよいメロディーである。
日本語詞はふたつある。
大浦正美作詞
かっこう かっこう どこかで 夏を呼ぶ 森の声 ほら ほら ひびくよ
かっこう かっこう よんでる さわやかに 谷の声 ほら ほら ひびくよ
小林純一作詞
カッコー カッコー 静かに 呼んでるよ 霧の中 ほら ほら 母さん
カッコー カッコー しずかに 鳴いてるよ 森の中 ほら ほら 朝だよ

童謡・唱歌『静かな湖畔』
静かな湖畔の森のかげから もう起きちゃいかがとカッコーが鳴く
カッコー カッコー
カッコー カッコー カッコー
夜も更けたよ おしゃべりやめて もうねちゃいかがとふくろうなく
ホッホーホッホー
ホッホーホッホーホッホー

この曲は相当に有名だし、小生はキリスト教の幼稚園に行っていたので、日曜学校の延長で臨海学校などもあり、キャンプファイアーのときにお兄さんやお姉さんらと一緒にこの歌を歌った記憶がある。
今思えば、海の近くで、『静かな湖畔』というのも変な話だが...。

このブログを綴り始めて、さて、この『静かな湖畔』の作詞作曲は?との疑問が湧いた。
調べてみたところ、1935(昭和10)年の夏、野尻湖キャンプ場で、慶応大学法学部を卒業し、紡績会社への就職を断って牧師の道を選んだ山北多喜彦なる人が作ったとのことで、若い牧師さんが作った歌なのであった。
そういうこともあって、キリスト教の幼稚園が催す日曜学校の延長での臨海学校で、この歌が歌われていたのかもしれない。
因みに、小生はクリスチャンではない。

クラシック音楽で登場するカッコウにも触れておかねばならないだろう。
『おもちゃの交響曲』にカッコウが登場する。
この曲の作曲者は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン、その弟のミヒャエル・ハイドン、モーツァルトの父であるレオポルド・モーツァルトなど諸説あったが、1992年、資料が発見され、オーストリアの作曲家、エドムンド・アンゲラーが1770年頃に作曲したということが明らかとなった。

ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』の第2楽章でカッコウが登場する。
クラリネットがカッコウの声を、フルートがサヨナキドリ(ナイチンゲール)の声を、オーボエがウズラの声を奏でる。
この曲の録音は数多あるが、小生はブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏が好きである。

カッコウは音楽に取り入れらるなど、世界中でその鳴き声を楽しんでいることが分かる。
一方、托卵をするなど、その習性は他の鳥にとって迷惑なことでもある。
愛される鳴き声と托卵の習性というギャップをもつ、奇妙な鳥とも言える。

オオヨシキリの話に戻そう。
千曲川でのオオヨシキリは声だけで姿は見なかったので、旅から戻った数日後の5月16日、オオヨシキリの姿を見るべく、マイ・鳥見フィールドの手賀沼へ出動した。

これが今シーズン、初のオオヨシキリの姿。
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フォト#1、#2:2018年5月12日/信濃国分寺跡にて
フォト#3、#4:2018年5月16日/手賀沼にて


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# by ryujincho | 2018-05-16 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『mmの世界/アリ@信濃国分寺跡』

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5月11日から二泊三日で信州史跡めぐり。
二日目、信濃国分寺跡を訪ねた。
史跡見学の傍ら、久方ぶりに 『mmの世界』 を撮った。
一時期、『mmの世界』に注力したが、前回、いつ、『mmの世界』 を撮ったかは記憶の彼方。
で、マイ・ブログを繰ってみたところ、昨年5月、「上野国史跡めぐり」の一環で、関東最大の前方後円墳、天神山古墳(太田市)を探訪した際に撮った『mmの世界/クヌギカメムシの幼虫』以来のことであった。
ここ暫く、<虫撮り>に注力することはなくなったが、それでも、史跡めぐりをしながら、<虫撮り>をやっているのであった。

フォト:2018年5月12日


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# by ryujincho | 2018-05-14 23:55 | 虫撮りの記(2018年) | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/大屋駅から上田駅へ』 sp-23

5月13日(土曜)、曇りのち雨。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
三日目。

上田方面から自走し、北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳を訪ねた。
天気は、曇りのち、昼前には雨が降り出すとの予報。
予報より早く、海野宿を出発する頃に雨が降り始めたが、大降りとはならず、中曽根親王塚古墳を見学する頃には雨は止んでいた。
中曽根親王塚古墳を出発し、しなの鉄道大屋駅に向かう途中で、また、降り始めたが、少し濡れる程度の雨で、無事、大屋駅に到着!

従来なら、ここで”今日の jitensha@大屋駅”を撮るところであるが、降雨になることに備え、自走で上田方面から大屋駅前に到着したときに撮影済み。
駅の時刻表を見る。
下り電車は9時46分発である。
時間は十分にある。
ゆるりと輪行準備をする。

”今日の jitensha@大屋駅”。
降雨対策で事前に撮影した写真(8時15分撮影)に、再び、登場願おう。
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9:46発長野行きに乗車。
大屋駅を出ると、信濃国分寺駅、そして、上田駅となる。
信濃国分寺駅を過ぎると、車窓から、前日、訪ねた信濃国分寺跡・国分尼寺跡が見えてくる。
事前にカメラを構え、撮影の心積もりをしていた割りには、いい写真は撮れなかったが、<記念写真>としてここに掲載しておこう。

信濃国分寺跡の真ん中をしなの鉄道が横切っていることは既に前話で縷々述べた通りである。
下り電車の車窓、左側に見える信濃国分寺跡/南側ゾーン。
中門と講堂をつなぐ回廊の西側部分。
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続いて、国分尼寺跡/南側ゾーン。
手前は東側回廊の外側の空き地、その向こうにある生垣の奥は金堂跡と講堂跡。
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下り電車の車窓、右側の国分寺跡/北側ゾーンを眺める武衛さん。
窓の外に見える白い建物は上田市立信濃国分寺資料館。
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窓枠を額縁として「カバンの藤」。
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9:52、上田駅に到着、下車。
あっという間の輪行であった。

南国守さんは背嚢を背負って、武衛さんと小生は宿に背嚢を預けてのポタリングであったので、駅で南国守さんに jitensha の子守をして貰い、我らは徒歩で宿へ荷物を取りに。
宿で荷物を受け取ると共に、宿の店で飯島商店の「みずず飴」をゲット。
もちろん、駅でjitensha の子守をしてくれている南国守さんへの子守賃の「みずず飴」も含めて。

上田駅発北陸新幹線上り時刻表。
毎時2本か3本あるのに、10時台だけ10:11発の1本のみ。
直近は11:11発はくたか558号。
それまで時間は十分にあるので、ゆるりと売店で車内反省会用飲み物とつまみを調達。

上田/東京間の所要時間は1時間半程度。
車内反省会をしている間に、あっという間に到着。
往路、朝、東京方面を発ち、昼餉は千曲市/屋代駅前で昼餉を摂ったことでもあり、長野県は近いと言ったが、帰路も、新幹線を利用すれば、長野県は極々近いということを改めて実感した。
因みに、古墳めぐりで、しばしば、高崎や前橋へ行くことがあるが、在来線で2時間弱を要し、新幹線を利用することも考えなくはないが、乗り換え時間、待ち時間なども含めると、在来線でよいという結論にいつもなるのであった。
乗鞍岳や高峰高原へ行くときは新宿発の高速バスを使ったこともある。
長野県は、行き先によって、新幹線、或いは、高速バスを使い分けるのがよいだろう。

こうして、二泊三日の「信州史跡めぐり&宴の旅」は、大満足のうちに、無事、終えたのであった。
武衛さん、南国守さん、そして、信州の盟友、大給守さんに感謝!

フォト:2018年5月13日

(完)

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# by ryujincho | 2018-05-14 23:53 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/中曽根親王塚古墳』 sp-22

5月13日(土曜)、曇りのち雨。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
三日目。

この日の探訪先は、北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳。
天気予報は、曇りのち雨。
雨は昼前には降り始める模様。

ポタリングはしたい、雨には極力濡れたくはない、雨が降り出すのは昼前頃、これらを勘案し、往路/上田駅前→探訪先自走、帰路/大屋駅→上田駅輪行とする。

北国街道海野宿を10年ぶりに訪ね、以前と変わらぬ街道筋の風景を楽しんだ。
海野宿を出発しようとしたとき、雨がぱら、ぱらっと降って来た。
雨に濡れるのはいやだ。
次の探訪先、中曽根親王塚古墳はギブアップし、このまま、大屋駅へ向かおうかと思った。
しかし、折角、ここまで来たことでもあるし、今回の信州史跡めぐりの旅は、千曲市の森将軍塚古墳に始まったことでもあり、東御市の中曽根親王塚古墳で〆ると、古墳に始まり、古墳に終わり、落ち着きがよいと思い、中曽根親王塚古墳へ向かうこととした。

中曽根親王塚古墳は、事前の調べでは、国道18号線沿いのホームセンターの敷地内にあるということであった。
海野宿から国道18号線に出るべく北へ向かって走る。
しなの鉄道の踏み切りを渡ると河岸段丘を一段上がるという感じで坂道を上る。
坂道を上って行くと国道18号線との交差点になると思いきや、国道の下をくぐる道となっていた。
国道をくぐると、ぐるっと回って国道へ入る、遠回りの坂道のようであった。
国道をくぐる手前に、国道へ上がる歩行者用の階段が設けられている。
これは好都合と、jitensha を担いでその階段を上り、国道へ出た。
国道18号線を西へ走る。
雨は降っているが、びしょ濡れになるような降り方ではない。
有難や。

しばらく走るも、目印のホームセンターはなかなか見えて来ない。
しばらくすると、後ろから、チーン、チーンと合図のベルと共に「左に古墳が見えまーす」と武衛さんの声。
jitensha を止め、左を見る。
「ええ形の古墳ですね。ホームセンターの看板ばかりを意識して、前方ばっかり見ていたので、左に古墳があることに気づきませんでした。古希ともなれば、視野が狭まっているのかもしれません」と言い訳がましいことを語りながら、古墳を眺める。
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事前調べでの目印はホームセンターであったが、正しくはガーデンショップであった。
「やすらぎの郷 ガーデンプラザ WATABE」。
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少し先の入り口からガーデンショップの敷地内に入る。
jitensha を止め、店先を過ぎ、奥の古墳へと向かう。
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軒先の向こうに、方墳とはっきり分かる墳丘が見える。
いい感じである。
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墳丘の裾にも販売用の植木が植えられている。
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女将さんと思しき女性とお客さんが植木の品定めをしていた。
「古墳を見学させてください」と言おうとしたところ、それより先に、女将さんと思しき女性が「どうぞ、古墳に上ってみてっください。眺めがいいですよ」と言ってくれた。
上ってはいけない古墳もあるので、有難い言葉であった。

「中曽根親王塚古墳 長野県史跡 昭和37年7月12日指定 長野県教育委員会 東御市教育委員会」。
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北角の裾から稜線を上り、墳頂へ。
このブログを綴るに際し、最初、「北西角の裾の稜線を上り」と書いたが、後述の説明板の内容ならびに地図上で古墳の向きを確認したところ、四角錐の各々の角は東西南北に位置しており、各辺は南西・北西・北東・南東に位置していることが分かった。

先発隊、南国守さんと武衛兵さん、登頂の雄姿。
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南国守さん、武衛さんに続き、小生も墳頂へ。
拳ふたつほどの大きさの川原石と思しき石が幾つか散見される。
これが葺石であれば、素晴らしい!と思った(果たして、墳頂に設けられて説明板に葺石と書かれていた。詳細は後述)。
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墳頂に立つ。
西の稜線角と彼方の景色。
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千曲川の流れ、そして、先ほど、上田方面から自走してきたとき、千曲川右岸から左岸に渡った大石橋が見える。
右岸を走っているとき、二つ目の上り坂では、それを回避するため、未舗装の細い農道を走ったが、その際に通過した浄水センターの建屋も見えている。
そして、手前の木立の影に、大石橋のひとつ上流に架かる大屋橋も垣間見えている。

その眺望をズーム・アップ!
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北西へ目を遣る。
左端に大石橋、千曲川が山裾に沿ってずっと流れ下っていく光景が目に浮かぶ。
前々日、前日と、千曲川右岸をずっと走ったので、目に見えぬ彼方の千曲川の流れもイメージ出来る。
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北西から北北西へ目を遣る。
「やすらぎの郷 ガーデンプラザ WATABE」の店舗全景と国道18号線。
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北北西から北へ目を遣る。
先ほど、国道18号線を右(東)から左(西)へ走って来て、道路際のハンドレールのところから古墳を眺めたのであった。
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北から東へ目を遣る。
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彼方の山は浅間山であろう。
ズーム・アップ!
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東へ目を遣る。
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東から南へ目を遣る。
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南から西へ目を遣る。
手前の少し盛り上がって見えるのが西の稜線の角である。

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以上を以て、墳頂から周囲360度を見渡したこととなる。
南から西にかけて千曲川を臨み、北から東にかけて浅間山とそれに連なる山々を臨む位置に築造された古墳であるということがよく分かった。

墳頂に設けられた説明板。
(表)
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(裏)
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中曽根親王塚古墳
この古墳は大塚(王塚)或いは丸山ともいう。
原形の一部が変形しているが、墳丘の基底が方形をなし、四隅に稜線が認められるもので、方墳に属する。
墳丘は、高さ10メートル余り、基底の一辺40メートル、上頂の一辺8メートルの截頭角錐状をなしている。
墳丘の一部に河原石をもってした葺石の跡がみられる。
埴輪の有無は明らかではないが、墳丘をめぐる周濠の存在が確認されている。
内部主体の構造は未だ確認されていないが、竪穴式石室の可能性が強い。
墳丘の各辺が東西又は南北の線に一致しないところから、方墳としては早い時期の構造と考えられるが、古墳時代の後半後期に位置すべきものと考えられる。
類例の少ない方墳中、規模の大きい点が注目される。
(裏面)
昭和49年1月
長野県教育委員会
東御市教育委員会 
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東御市は、旧・東部町と旧・北御牧村が合併して発足した市であることは先に述べた通りである。
説明板に刻まれた「東御市教育委員会」の「東御市」の文字の下に、以前、刻まれたいた「東部町」の文字の痕跡がくっきりと残っているところはがご愛嬌である。

説明書きの中で、次の3点につき、特記しておきたい。
1)「高さ10メートル余り、基底の一辺40メートル、上頂の一辺8メートルの截頭角錐状をなしている」とある。
墳頂に立ち、截頭角錐状(せつとうかくすいじょう)であることがしっかりと見て取れる。
誠に保存状態のよい方墳であるとの思いを強くする。
2)「墳丘の一部に河原石をもってした葺石の跡がみられる」とある。
北の稜線を上ったときに見た石は、やはり、葺石であったのだ。
前々日、探訪した、千曲川市の森将軍塚古墳の葺石は山で採石した石であった。
千曲川市あたりより上流の千曲川では川原石が採取できるが、千曲川市あたりの川原は砂になっており、石は採れないというのが森将軍塚古墳の案内人さんの話であった。
中曽根親王塚古墳の葺石に川原石が使われているということは、東御市あたりの千曲川の川原では葺石に適した石が採取できたということであり、森将軍塚古墳の案内人さんから的を得た説明を頂戴したということでもある。
3)「墳丘の各辺が東西又は南北の線に一致しないところから、方墳としては早い時期の構造と考えれれるが...」とある。
地図で中曽根親王塚古墳を見ると、稜線の角がほぼ東西南北の位置にあり、各辺は南西・北西・北東・南東面となっている。
この説明によれば、墳丘の各辺が東西南北の線に一致しているか、いないかが、方墳が築造された時期に関係しているように読み取れる。
即ち、各辺が東西南北に一致していれば、方墳としては遅い時期の構造ということになる。
果たして、そうなのかはこれからのベンキョーの課題としたい。
因みに、前方後円墳では、その方向に築造時期が関係したり、法則性があったりすることはなく、強いていえば、血縁関係にある古墳は同じ方向に並べて築造する場合があるということを、保渡田古墳群に隣接した「かみつけの里博物館」(群馬県高崎市)の学芸員さんに聞いたことがある。

説明書きの中には書かれていないが、築造時期は5世紀後半と考えられている。

墳頂から、上って来たのと同じ北の稜線を下る。
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途中、足を止め、葺石を改めてじっくりと眺める。
これは川原石であると自信を持って。
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古墳の下でのお客さんの応対は終わったのか、店先にいた女将さんと思しき女性に、しばし、インタビュー。
「あちらこらちの古墳をめぐっているんですが、方墳としては、なかなか立派な古墳だと思います。古墳にはいろんな名前が付けられていますが、中曽根親王塚古墳の名前の由来をご存知でしょうか?」。
「よくは知りませんが、この辺りは、以前、中曽根と呼ばれていたそうですので、それから付いた名前ではないでしょうか」。
「中曽根という地名が由来。誠に分かり易い由来です。有難い情報です」。

「中曽根」について:
1)「地名は地形から」の<原則>に従い、地形の「曽根(そね)」について調べてみた。
・河川沿いの微高地(自然堤防)
・扇状地の端で砂地のところ
・地味の悪い痩地、或いは、その荒地を開墾した地

2)「名字は地名から」の<原則>に従い、名字の「中曽根」について調べてみた。
①長野県飯山市中曽根発祥。南北朝時代に「中曽禰」の表記で記録のある地名。
②長野県東御市和曽根(旧:中曽根)発祥。戦国時代に「中そ禰」の表記で記録のある地名。長野県千曲市力石での伝承。
③群馬県高崎市上里見町での伝承。
④山梨県笛吹市付近(旧:八代郡)の中曽根から発祥。
⑤仲宗根の異形。沖縄県国頭郡本部町渡久地では1947年に仲宗根姓から改姓。

ずばり、②の通り、この地発祥の名字があった。
因みに、中曽根親王塚古墳付近の現在の住所は「東御市和」である。

「親王塚」について:
全国で「親王塚」と名づけられた古墳が散見される。
・阿保親王塚古墳(兵庫県芦屋市)/平城天皇の皇子で、在原業平の父、阿保親王(あぼしんのう)の墓所とされる。
・親王塚古墳(愛知県春日井市)/宗良親王あるいは護良親王の遺品を埋葬したとの伝承をもつ。
・小田中親王塚古墳(石川県鹿島郡中能登町)/崇神天皇の皇子、大入杵命の陵墓といわれている。

中曽根親王塚古墳の「親王塚」の由来は何処から来ているのであろうか?
森将軍塚古墳は、中国で5000人から6000人の兵を従える武将を「将軍」と称したことから、それくらいの勢力を有した豪族の墓ということで「将軍塚」と名づけられたという。
そうしたことから演繹すると、天皇の嫡出皇子に対する称号の「親王」ではなく、中央政権と深い繋がりをもった地方豪族が許しを得て、地方豪族の嫡出男子の称号としたのかもしれない。

方墳について:
方墳の有名どころをここで整理しておきたい。
・大成古墳(島根県安来市)/3世紀後半、1辺60m、最古の方墳
・造山古墳(島根県安来市)/3世紀後半、1辺60m、最古の方墳
・桝山古墳(奈良県橿原市鳥屋町)/1辺85m、5世紀前半、(宮内庁治定)第10代崇神天皇皇子の倭彦命の墓「身狭桃花鳥坂墓」、方墳としては全国第1位の規模
・春日向山古墳(大阪府南河内郡太子町)/7世紀前半、辺長63m×60m、(宮内庁治定)第31代用明天皇陵「河内磯長原陵」
・山田高塚古墳(大阪府南河内郡太子町)/7世紀前半、辺長63m×56m、(宮内庁治定)第33代推古天皇陵「磯長山田陵」
・赤坂天王山古墳(奈良県桜井市倉橋)/7世紀前半、東辺46.5m×西辺47m×南辺43.2mx北辺50.5m、第32代崇峻天皇の墓との説がある
・石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)/7世紀前半、墳丘は喪失、横穴式石室が露出、蘇我馬子の墓との説がある、上円下方墳との説もある
・龍角寺岩屋古墳(千葉県印旛郡栄町)/7世紀前半、1辺80m、方墳としては桝山古墳に次ぎ、全国第2位の規模

関東地方の方墳+中曽根親王塚古墳についてもここで整理しておきたい。
・龍角寺岩屋古墳(千葉県印旛郡栄町)/上述の通り、7世紀前半、1辺80m、方墳としては全国第2位の規模・・・探訪済み
・駄ノ塚古墳(千葉県山武市附)/7世紀前半、1辺60m
・宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町)/7世紀末、東辺54.5mx西辺51.2mx南辺49mx北辺42m・・・探訪済み
・蛇穴山古墳(群馬県前橋市総社町)/7世紀末、1辺39m・・・探訪済み
※中曽根親王塚古墳(長野県東御市和)/5世紀後半、1辺40m

ガーデンショップの女将さんに国道18号線から大屋駅への目印を尋ねた。
「左にTSUTAYAが見えたら、次の信号を左へ」の答えを貰い、礼を述べ、中曽根親王塚古墳を出発、しなの鉄道大屋駅へ。

フォト:2018年5月13日

(つづく)
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# by ryujincho | 2018-05-14 23:52 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/北国街道海野宿』 sp-21

5月13日(土曜)、曇りのち雨。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
三日目。

この日の探訪先は、北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳。
天気予報は、曇りのち雨。
雨は昼前には降り始める模様。

ポタリングはしたい、雨には極力濡れたくはない、雨が降り出すのは昼前頃、これらを勘案し、往路/上田駅前→探訪先自走、帰路/大屋駅→上田駅輪行とする。

7時半、宿を出発。
千曲川右岸を走り、しなの鉄道大屋駅に至る。
空は雲が立ち込めつつあるが、まだ、雨の気配はない。
雨が降る前に”今日の jitensha @大屋駅”をカメラに収める。
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中曽根親王塚古墳は大屋駅の北側を通る国道18号線沿いを東へ1kmくらい走ったところにある。
北国街道海野宿は、このまま東へ1kmくらい走ったところにある。
海野宿、中曽根親王塚古墳の順にめぐり、大屋駅に戻ってくることにし、大屋駅から東へ向け、出発する。

「北国街道 海野宿」。
ここは西の入り口。
海野宿を訪れるのはこれで三度目だが、最初と二度目は東の入り口から入ったので、様子が異なる。
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海野宿を西から東へゆっくりと走る。
記憶にある家並みが現れた。
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前回、海野宿を訪れたのは10年前であったと記憶。
そのときと何ら変わらない、落ち着いた町並みである。
この町並みの特徴のひとつである用水路は、10年前と同様に、清らかな水が流れている。

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「蠶種製造業 蠶児飼育所 蠶製造所 昇國館 冨士屋」。
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「蠶」は「蚕」の旧字体であることは容易に想像はつく。

漢字のベンキョー。
--------------------------
「蠶」
「蚕」の旧字体
部首 虫(むし・むしへん)
画数 26画
音読み さん
訓読み かいこ、こ
漢字の構成 兂 兂 日 虫 虫
----------------------------

前夜、上田の居酒屋で”反省会”。
その店のフロア・スタッフは信州大学繊維学部の学生たちであった。
蚕の勉強をしている学生さんもいた。

学生さんに代わって、蚕種製造業について、ここで触れておきたい。
・蚕種(さんしゅ)製造業とは、蚕の品種改良および蚕種紙(さんしゅし)の製造を行うと共に、養蚕農家への蚕種紙の販売、蚕の飼育法の指導も行う。
・蚕種紙とは、蚕紙(さんしゅし)・蚕卵紙(さんらんし)ともいいい、蚕の卵である蚕種が産み付けられた紙を指す。
・蚕種製造業には、多くの資本投下、知識集約が必要であったため、いわゆる名望家層、豪農層から転じて専業化したものが多かった。
・戦後は蚕業の衰退とともに数を減らし、今では国内にわずかに数業者が存在するのみとなっている。

前々夜、戸倉上山田温泉での酒宴の席で、信州の盟友、大給守さんが「海野宿へ行ったら、養蚕博物館に立ち寄ってみてください」との話があった。

海野宿の街道筋を注意深く見てみたが、「養蚕博物館」そのものも、案内表示も見当たらない。
まだ、8時半過ぎであったが、海野宿歴史民俗資料館の扉が開いていた。
声を掛けたところ、婦人が現れた。
「ちょっとお聞きしますが、養蚕博物館は何処でしょうか?」。
「養蚕博物館ですか?養蚕博物館というのは聞いたことがありませんね。民俗資料館の中にも養蚕に関係した展示をしています。上田で蚕を数十匹、買って来て育てています」。
海野宿歴史民俗資料館入り口に掲示されている館内案内図を見ると、確かに、養蚕のコーナーが図示されている。
「そうですか、養蚕博物館はご存知ないですか...。先ほど、筋向いで『蚕種製造業 昇國館 冨士屋』という看板を見ました。この辺りは、蚕種の製造をやっていたんでね。時間の都合もあるので、資料館の見学は次回とさせて貰います」。

後刻、大給守さんに「海野宿で養蚕博物館は見当たらず」とメールで伝えたところ、「グーグルマップのストリートビューにて、海野宿を確認しました。『富士屋』の屋号看板を出しているお宅の、左隣の家が矢島家で、裏に養蚕博物館があります。矢島家母屋は富士屋看板のお宅の道、用水を挟んだ対面の、大木戸風の門のある家です。養蚕博物館の表示はありませんね。ゴールデンウィーク中はオープンしていたのですが、今は閉館中のようです」との返信があり、我らが眺めていた、殊のほか、立派な家がそれで、"当たり!"であったのだ。

民俗資料館のおばちゃんは、養蚕博物館を知らなかったのか、そこまで気が付かなかったのかもしれず、養蚕博物館は私的な博物館なのかもしれない。
養蚕博物館があるとは認識していなかったが、前掲の写真の通り、養蚕博物館のお宅の表をしっかりとカメラに収めており、見落としてはいなかったのであった。

地面にカメラを置いて、一枚。
ロー・アングル好きの、加藤泰監督風に。
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マンホール・コレクション。
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マンホールに「とうぶ」と刻まれている。
2004年(平成16年)、小県郡東部町と北佐久郡北御牧村が合併し、東御市が発足。
マンホールに刻まれた「とうぶ」は、旧・東部町の名残りである。
各地の市町村合併で、由緒正しい令制国以来の「郡」の名(今回の例でいえば、小県郡・(北)佐久郡)が消えていくことは残念なことと思っているが、東御市は「とうみ」という音感が心地よく、この新しい名前は好ましく思っている。

マンホール写真を撮り終わったとき、ぱら、ぱらっと雨が降って来た。
雨に濡れるのはいやだ。
次の探訪先、中曽根親王塚古墳はギブアップし、このまま、大屋駅へ向かおうかと思った。
しかし、折角、ここまで来たことでもあるし、今回の信州史跡めぐりの旅は、千曲市の森将軍塚古墳に始まったことでもあり、東御市の中曽根親王塚古墳で〆ると、古墳に始まり、古墳に終わり、落ち着きがよいと思い、中曽根親王塚古墳へ向かうこととした。

フォト:2018年5月13日

(つづく)






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# by ryujincho | 2018-05-14 23:51 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/上田駅前から北国街道海野宿、中曽根親王塚古墳へ』 sp-20

5月13日(土曜)、曇りのち雨。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
三日目。

この日の探訪先は、北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳。
天気予報は、曇りのち雨。
雨は昼前には降り始める模様。

降雨を考慮して、三つのケースを考える。
ケース1:上田駅/大屋駅(探訪先の最寄り駅)往復共輪行
ケース2:往路/上田駅→大屋駅輪行、帰路/探訪先→上田駅前自走
ケース3:往路/上田駅前→探訪先自走、帰路/大屋駅→上田駅輪行

朝餉を摂りながら、評定。
ポタリングはしたい、雨には極力濡れたくはない、雨が降り出すのは昼前頃、これらを勘案し、ケース3を選択。
朝餉を追え、7時半、宿を出発。

国道18号線は幅が狭く、走り憎いのは、前日、経験済み。
千曲川右岸を走ることにする。
北陸新幹線高架の南側に沿って走り、常田新橋を渡り、千曲川右岸に出る。
右岸を遡る。
坂道が始まる。
前日、信濃国分寺跡を訪ね、上田駅前に向かう途中、遠目に、千曲川に架かる北陸新幹線の斜張橋が見えた。
北陸新幹線はこの斜張橋の右岸で直ぐにトンネルとなる。
我らはそのトンネルが掘られている山の北端の坂道を西から東へ上っているのである。
<峠>を越えた辺りで一服。
北陸新幹線斜張橋と千曲川を眺める。

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このブログを綴りながら、グーグルマップでこの辺りの航空写真を参照してみた。
北陸新幹線の斜張橋は「上田ハープ橋」と記されている。
斜張橋を楽器のハープに見立てて「ハープ橋」と名づけられているようである。
千曲川の幅は狭まり、広い砂州が見られる。
千曲川右岸は山が迫っている。
我らが走った道は山の北端と千曲川の間にへばりついたように通されている。
対岸の真北に信濃国分寺跡がある。
写真右の、横長の、こんもりとした緑の森がそれである。
アップで。
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<峠>から坂道を東へ下る。
しばらく走ると再び坂道が見えてくる。
結構、激坂である。
坂の手前に、左手に入っていく道がある。
道といっても、農道というか踏み分け道というか未舗装の細い道である。
轍は残っており、農耕用の車の通り道のようでもある。
上り坂を回避しようとこの道に入る。
しばらく走るとY字路に至る。
Y字路を左へ行くと千曲川沿いとなるが、道が先まで続いているのかどうかは不明。
Y字路の右手の先に倉庫のような建物が見える。
倉庫であれば、一般道に通じているであろう。
山男の南国守さんの勘に頼り、建物が見える右手の道を選択。
倉庫のような建物は上田市丸子浄化センターであった。
浄化センターを通り過ぎ、しばらく走ると、無事、一般道に出た。
このブログを綴りながら、グーグル・マップを参照したところ、Y字路は左右何れの道を選んでも一般道へ出ることが判明。
いずれにせよ、激坂を上ることは回避できたのであった。

「Y字路に立ち、来た道を振り返る」の図。
Y字路に立ち、左右どちらの道を行くか熟考したため、来た道を写真に撮ったが、Y字路の左右、先の道の写真は撮り忘れた。
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千曲川の支流、依田川を渡り、東郷橋東詰を左折し、北上する。
千曲川に架かる大石橋を渡る。

橋の上から千曲川を眺める。
先ず、上流を。
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下流を眺める。
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先ほど、激坂を回避し、農道へ入り、Y字路で立ち止まった際に左右どちらの道を行くかの判断材料となった浄化センターの建物が見える。
その手前には、依田川の千曲川への流れ込みも見える。
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更にアップで。
山裾の、細い未舗装の農道を走る三人組の姿が目に浮かぶ。
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依田川の流れ込みの少し下流に釣り人が見える。
ズームアップ!
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鮎の季節。
釣果を祈る!

余談ながら、グーグル・マップを見ていると、釣り人がいる対岸に「コハクチョウ飛来地」と記されている。
参考になる情報である。
走った道を、後に地図でトレースするのもポタリングの楽しみの一つである。

余談ついでに、今回のポタリングで渡った橋、眺めた橋、横目に見ただけの橋、見過ごした橋など、千曲川に架かる橋について下流から上流の順に列挙すると次の通りである。
粟佐橋 - 千曲橋(国道403号) - 平和橋 - 冠着橋 - 大正橋 - 万葉橋 - 笄(こうがい)橋 - 昭和橋 - 坂城大橋 - 大望橋 - 鼠橋 - 上田大橋(国道18号) - 古舟橋 - 上田橋 - (上田電鉄鉄道橋) - 常田新橋 - 小牧橋 - (北陸新幹線鉄道橋/上田ハープ橋) - 大石橋
この区間だけでも随分と橋の数が多い。
橋が多いことは有難いことである。

なお、大石橋のひとつ上流に架かる大屋橋(国道152号)を渡るつもりであったが、道なりに走り、ひとつ下流に架かる大石橋を渡ってしまったが、大石橋から、激坂を回避し、ショートカットした農道の辺りを間近に眺めることが出来、結果オーライであった。

大石橋を渡り、東へ少し走ると、河岸段丘らしく一段上へ上る坂道があった。
それを上ると国道152号線に出た。
国道152号線を少し東へ走ると、しなの鉄道大屋駅に至った。

空は雲が立ち込めつつあるが、まだ、雨の気配はない。
雨が降る前に”今日の jitensha @大屋駅”をカメラに収める。
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中曽根親王塚古墳は大屋駅の北側を通る国道18号線沿いを東へ1kmくらい走ったところにある。
北国街道海野宿は、このまま東へ1kmくらい走ったところにある。
海野宿、中曽根親王塚古墳の順にめぐり、大屋駅に戻ってくることにし、大屋駅から東へ向け、出発する。

フォト:2018年5月13日

(つづく)


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# by ryujincho | 2018-05-14 23:50 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/国分寺』 sp-19

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡を見学。
続いて、その北にある後継寺院の国分寺へと向かう。

信濃国分寺。
宗派は天台宗。
本尊は薬師如来。
山号・院号はないが、江戸時代には「浄瑠璃山真言院国分寺」と号したとのこと。
「八日堂」の別称があるとのこと。

寺標「八日堂 信濃国分寺」と仁王門。
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参道を進む。
正面に本堂が見えて来た。
右手に三重塔が見える。
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早速、龍コレクション。
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三重塔。
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重要文化財(旧国宝)
信濃国分寺三重塔
全高20.1メートル
信濃国分寺は平安末期現地に移ったと考えられ、源頼朝公発願と伝えるこの塔内に建久8年の墨書があったとされるが、様式上、室町中期の建立と推定される。
明治40年、国宝に指定され、昭和7年から同8年にかけて全面解体修理が行われた。
外観は軒反が強く壮麗で一部唐様のほか和様式であり、内部は四天王柱上の台輪や内外陣の詰組など純唐様式で、仏像は金剛界大日如来の木像である。
上田市教育委員会
-----------------------------------------

「源頼朝公発願」とある。
源頼朝や北条一族は善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行ったことなど、頼朝と信濃国の関わりはいろいろある。

鐘楼。
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本堂(薬師堂)。
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長野県宝 信濃国分寺本堂
国分寺本堂(薬師堂)の建立は、文政12年(1829)に発願され、天宝11年(1840年)に起工し、万延元年(1860)に竣工しました。
本堂再建は発願から完成まで実に31年の歳月を費やした大事業で、11冊におよぶ「信濃国分寺勧進帳」(上田市指定文化財)や、柱、梁、扉をはじめ、屋根の瓦に至るまで刻まれている寄進者の住所氏名などに、当時の勧進の苦心が偲ばれます。
本堂は、柱間1間を8尺(約2.4m)にとる桁行6間、梁行4間の入母屋造、妻入の建物です。
外観は善光寺本堂のように母屋のまわりに1間の庇(低い屋根)をつけているので、2階建てのように見えます。
内部は前側の外陣(参詣の空間)と、奥の内陣(仏の空間)にわかれ、内陣の両脇と背後の1間通りは入側(僧侶の通路)となっています。
内陣には薬師如来を本尊として、日光菩薩、学校菩薩及び十二神将を安置しています。
建立に携わった職人は、大工棟梁が佐久耳取村(現小諸市)の田島喜平、彫工は地元上沢出身の竹内八十吉で、瓦師は三河から招かれていたことが記録されています。
本堂は近世の堂としては東信地方最大の建造物で、同拝の彫刻にみられる鋭い彫りや、虹梁の複雑な絵様などに江戸時代末期の特徴がよくあらわれています。
平成9年2月20日指定
長野県教育委員会
上田市教育委員会
-----------------------------------------

本堂は「県宝」となっている。
「県宝」という言葉は初めて知る言葉である。
前掲の三重塔は「重要文化財(旧国宝)」となっている。
重要文化財とは、1950年制定の文化財保護法にいう有形文化財で、文部大臣が重要と思うものとして指定したものであり、そのうち、特に優秀で文化財史的意義の深いものは国宝に指定される。
因みに、文化財保護法施行以前の旧法では、「国宝」と「重要文化財」の区別はなく、国指定の有形文化財はすべて「国宝」と称されていた。
日本の地方公共団体(都道府県、市町村)においては、それぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財を「県指定重要文化財」、「市指定重要文化財」等と称する場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国が指定した有形文化財のことを指す。
となると、「県宝」は、長野県指定の重要文化財という意味であろうと思い、念のため調べてみた。
長野県教育委員会のHPに掲載されている「文化財情報(国・県指定等文化財)一覧」の「県指定/県宝/建物」の項に「県宝(建物)/寺院建築/国分寺本堂」とあるので、「県指定重要文化財」の長野県独特の呼び方と理解したい。

本堂の説明の中に「瓦師は三河から招かれていたことが記録されています」とある。
信濃国分寺跡・尼寺跡は、平安時代の大修理で、近くに瓦窯をつくり対応したが、この(新)信濃国分寺本堂では、日本三大瓦である三州瓦、淡路瓦、石州瓦のうち、三州瓦が使われたのかもしれない。

本尊は、小生の大好きな薬師如来。
懇ろにお参りした。

石碑「真田徳川会見之地」。
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真田徳川会見之地とは?
特に、説明書きはない。
真田、真田と騒ぐ上田市ではあるが、説明書きがないのは不思議。
上田市教育委員会は、「真田徳川会見之地」とだけ言えば、誰でも知っていると思っているのかも知れない。
ネット検索してみた。
------------------------------------
上田城下から少し離れた場所にある信濃国分寺は、戦国時代にも有名になった場所です。
慶長5年(1600)の第二次上田合戦の時、上田城に籠る真田昌幸と徳川軍(東軍)についた、昌幸の長男、真田信之(信幸)とその義弟、本多忠政が会見した場所がこの信濃国分寺です。
城を明け渡す準備をするので少し待ってほしいと申し出る昌幸、幸村。
しかし、数日後、再び国分寺を訪れた昌幸は、戦の支度ができたので一戦交えるべしと東軍を挑発。
そのまま、第二次上田合戦につき進む事になったのですが、その切っ掛けの場所がこの信濃国分寺です。
---------------------------------------

信濃国分寺跡と後継寺院の信濃国分寺の見学を終え、上田駅前の宿へ向かう。
来た道である、国道18号線、剣道41号線は車道、歩道とも狭く、走りたくない。
千曲川左岸を走り、宿へ帰ることにした。
信濃国分寺公園の北ゾーンと南ゾーン連絡通路を jitensha を担いで通り抜け、しなの鉄道の南側へ。

信濃国分寺跡の南ゾーンの周辺は住宅地。
先ずは千曲川右岸を走り、一番最初に現れた橋を渡り、左岸に出るという算段で、住宅地内の細い道を走る。
住宅地内の三叉路に至る。
三叉路に立つ標識は何れの方向も「この先、行き止まり」の表示。
山男の南国守さん、兎に角、右へ行きましょうと。
山男の勘が当たり、「行き止まり」はなく、そのまま走り、立派な橋の袂に出た。
橋の名は「小牧橋」、しなの鉄道、北陸新幹線、千曲川を跨ぐ橋。
橋を渡り、千曲川左岸に出る。

この日の午前中は、千曲川市から上田市まで千曲川左岸を遡って来たが、今度は流れに沿い、下る番。
川は人間の習性上、いや、小生の習性からして、下る方が落ち着く。
小牧橋のひとつ下流の常田新橋をやり過ごし、上田橋まで走り、右岸へ渡る。
上田橋は午前中、渡った橋である。
午前中は下流側を眺めたので、今度は上流側を眺める。
上流側の赤い鉄橋は上田駅と別所温泉駅を結ぶ上田電鉄別所線の鉄橋である。
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宿で一服。
窓からの景色を眺める。
先ほど、渡った上田橋とその手前に赤い上田鉄道の鉄橋が見える。
明日の天気は、曇りのち雨。
明日の予定は、北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳探訪。
午前中だけでも天気がもってくれればと願う。

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夕餉と本日の反省会を兼ねて、上田市内の居酒屋へ出動。
今回の旅の企画段階で、信州の盟友、大給守さんに上田市内によい居酒屋はないか問い合わせた。
以前、大給守さんが通っていた居酒屋はなくなり、跡地にマンションが建ち、その1階に”S”という居酒屋が出来ているという。

居酒屋”S”へと向かう。
途中、飯島商店に立ち寄る。
みすず飴を試食。
以前、ジャムを溶かした詰めたいジュースを飲ませて貰った記憶があるが、それはなかった。
飯島商店のジャムは美味い。
容器の瓶が重い。
今回はみすず飴で我慢。

居酒屋”S”に入る。
鄙には稀な(といっては失礼か。上田市は、長野市、松本市に次ぐ長野県下3番目の規模の都市。その昔、国府が置かれたところだし)小洒落た店である。
我々が入店したときにはカウンターに2、3人であったが、次々と客は来店、テーブル席も小洒落た小上がりも直ぐに埋まった。
客層は若い男性に若い女性が多く、GGは我らだけであった。
飲み物と料理を注文。
フロアの男性スタッフは、皆、今様にいえば、イケメン。
「あなたは信州大学の繊維学部の学生さんですか?」と武衛さんが声を掛けた。
「そうです」。
「ES法というのを知っていますか?」。
「ES法という言葉は知っていますが、詳しくは知りません。自分は蚕を生物として捉える勉強をしていますので」。
フロアの男性スタッフは3人いた。
次のスタッフにも同様の質問を。
やはり、信州大学の繊維学部の学生さんで、蚕を専門としていた。
3人目の学生さんはES法を知っていた。

信州大学のキャンパスは、松本、長野、伊那、上田に分かれており、武衛さんと学生さんの会話で、上田には繊維学部があることを知った。

ES法とは何ぞや?
後刻、武衛さんに解説して貰った。
・ES法とは、エレクトロ・スピニング(ES)法のこと。
・シリンジに入った高分子溶液とコレクタ電極間に高電圧を印可することで、シリンジから押出された溶液が電荷を帯び、細かな繊維となってコレクターに付着する微小繊維製造方法である。
・この方法により、サブミクロンからナノの直径を持つ繊維を製造することが出来る。
・1930年代に報告された技術であるが、最近になってナノテクノロジーの台頭とともに注目を浴びてきている紡糸技術である。

ふむ、なるほど。
武衛さんは、信州大学にこの方法で繊維を作る研究者がいることに注目していたので、信大アルバイト学生に話題にしたとのこと。
絹も大事、ナノ繊維も大事、信州大学繊維学部の若者たち、頑張れ!

居酒屋を出て、宿に向かう。途
中、南国守さんから「ラーメンを食べよう」との提案あり。
塩分控えめの生活を送っているので、長らく、ラーメンを食っていない。
<禁>を破って、ラーメン店に入る。
学生と思しきアルバイトさんが数人いる。
「あなた方は信州大学の学生さんですか?」。
「そうです」。
「さっきの居酒屋も信州大学の学生アルバイトでした」。
「何処の店ですか」。
「”S”という店」。
「知らない店です」。
「”S”のアルバイトさんは、皆、イケメン。ここはラーメンだけど」。
酔った勢いでつまらん駄洒落を言うてしまった。
外国人のアルバイトさんもいた。
「あなたは何処の国から来られましたか?」。
「スリランカです」。
スリランカは10年余、南国守さんが駐在していた地。
「学生さんですか」。
「語学の勉強をしています。日本の大学へ行きたいと思っています」。
「大学で、何を勉強したいですか」。
「観光学を勉強したいです」。
「頑張ってください」。

居酒屋とラーメン店で、上田市の一面が分かったような気がした。
頑張れ、若人!

明日は北国街道海野宿と中曽根親王塚古墳。
明朝、朝の天気予報を参考にして、自走、輪行などを検討することにした。

フォト:2018年5月12日

(つづく)

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# by ryujincho | 2018-05-14 23:49 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(五)』 sp-18

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。
史跡の真ん中を「しなの鉄道」が横切り、南のゾーンと北のゾーンに分かれてしまった史跡。
北側のゾーンでの、国分僧寺跡と国分尼寺跡を見学。
線路下の連絡通路を通って、南側のゾーンの、国分僧寺跡と国分尼寺跡を見学。
再び、線路下の連絡通路を通り、北側のゾーンへ。
国分尼寺北門跡の北側に見事な花を咲かせている「カバンの藤」の藤棚へと向かう。

銘木「カバンの藤」。
前夜、戸倉上山田温泉での宴の際、信州の盟友、大給守さんが「信濃国分寺跡の藤の花は満開でありましょう」と言っていた通り、見事な花を咲かせている。
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「カバンの藤」とは。
千曲市立信濃国分寺資料館ロビーに次の通り掲示されていたパネルに目を通した。
信州の盟友、大給守さんからあらましは聞いていたので、直ぐに理解できた。
-------------------------------------------
「カバンの藤」
この藤棚は、1880年(明治13年)、当時の第十九銀行(現在の八十二銀行上田支店の前身)の役員、黒沢鷹次郎氏が、郷里、南佐久郡の農家から苗を渡し受け、その本店に移し、植えたものである。
(中略)
苗を手鞄に入れて運んだことから、「カバンの藤」の愛称をもって広く市民に親しまれてきた。
今日、八十二銀行は、この名木を本公園に寄贈された。
まことに有難く、ここにその由来をしるし、花の命の長いことを祈る。
昭和51年春 上田市長 石井 泉 謹書
-------------------------------------------

樹齢は、今年で、満138歳。
今年、明治150年であるから、如何に長寿の藤であるかが分かる。

この「カバンの藤」以上に長寿の藤がある。
その藤は、佐久市「旧中込学校」の藤である。
旧中込学校は、1875年(明治8年)に完成し、国内の学校建築のうち、現存する最古級の擬洋風建築物で、国の重要文化財に指定されている。
旧中込学校の藤は、1875年(明治8年)に中込学校が建設されたことを記念して植えられ、その苗は「カバンの藤」と同じ南佐久郡の農家のものといわれている。
旧中込学校の藤の樹齢は、今年で、満143歳。
旧中込学校の藤が兄(姉)で、信濃国分寺史跡公園の「カバンの藤」が5歳違いの弟(妹)ということになる。

この話は、苗を譲り渡した南佐久郡の農家さんと極々近しい人から聞いた話である。
因みに、この藤の兄弟(姉妹)の親となる、その農家さんの藤は今も1メートルにならなんとする花を咲かせており、その写真を見たことがある。

この「親子の藤」についてよくご存知の、信州の盟友、大給守さんから、信濃岩村田藩の殿様の藤にまつわる面白い話を聞いたことがある。

「金は内藤志摩守 すそからぼろが下がり藤」。
これは庶民が貧乏藩である岩村田藩の殿様を揶揄したものとのことである。

岩村田藩は、信濃国佐久郡・小県郡の一部(現在の佐久市)を所領とした藩で、藩主家は内藤氏である。
揶揄された殿様は、最後の藩主である第7代藩主、内藤志摩守正誠(まさのぶ)。
この人物は、江戸幕府日光祭礼奉行、奏者番、寺社奉行などを務めている。
こうした要職にあることと貧乏藩であることは繋がりにくいし、浅田次郎の小説『一路』で、参勤交代の途中、主人公が岩村田藩に金を借りに行くことととなり、そうしたことからして、岩村田藩が貧乏藩であったというのは解せないが、庶民の中ではそう言い囃されていたそうな。
因みに、小説『一路』で描かれた時代は幕末近くなので、金を借りに行ったときの岩村田藩の殿様は、この7代藩主、内藤志摩守正誠であったと思われる。
なお、7代藩主、内藤正誠は、1869年(明治2年)、版籍奉還ののち、岩村田藩知事になっている。

話が反れてしまった。
藤の花と躑躅の花、季節の花のツー・ショットを。
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次は、信濃国分寺史跡公園の北側にある「瓦窯跡」へ。
史跡公園の北側入り口へと向かう。
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「信濃国分寺 瓦窯跡 観察施設」。
「瓦窯跡」は、国道18号線を挟んで、史跡公園の向かい側にある。
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「あれっ、扉がしまっていますね。昼過ぎ、史跡公園に到着したときは開いていたんですが」と武衛さん。
時計を見たところ、午後3時を少し回ったところ。
午後4時に閉めるなら分かるが、午後3時に閉めるのはちょいと早過ぎやしませんか!(不満!)。

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来場記念(???)として「信濃国分寺 瓦窯跡 観察施設」の銘板をカメラに収める。
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説明書きに目を通す。
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瓦窯跡観察施設
この窯跡は、昭和42年2月、運輸会社建設工事の際、発見され、同年3月の緊急発掘調査により、半地下式平窯跡2基であることが確認された。
これは、尼寺金堂跡北東約200メートルに位置し、窯の中心線は2基とも東偏差24度30分で、中心線の間隔は43メートルである。
構造は瓦を使って構築した平窯で、焚口は大きい河原石を左右に立て、その上に大石をのせてある。
燃焼室はラッパ状に焼成室に向かって広がり、焼成室との境は障壁によって分けられ、下部に3個の通焔孔を設けてある。
焼成室は7本のロストルを設け、奥壁内に3本の煙道をつくってある。
この焼成室の高さは四囲の壁が破壊されているので明確ではないが、およそ1.3メートル程度と推定される。
また、構築材となっている瓦は、国分寺創建時の瓦と本瓦の工人が作成したものの2種であり、操業は平安時代初期における国分僧寺、尼寺の大修理に際して行われたと推定され、1回についての瓦焼成数は瓦を3段詰にした場合、約500枚程度と考えられる。
なお、この観察施設は、上田市が国、県の補助を得て、800万円の経費で建設したもので、2基の窯跡を鉄筋コンクリート壁で保護し、西側の1基について観察の便を計り、他の1基は床の下に埋め戻されている。
昭和48年10月1日
上田市教育委員会
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常陸国分寺・国分尼寺の屋根に葺く瓦を製造した窯跡「瓦塚窯跡」を探訪したことがあるが、この窯跡は常陸国分寺跡・国分尼寺跡から10kmくらい離れた丘陵地帯の裾に位置していた。
丘陵地帯の裾に窯が設けられたのは、この瓦窯は粘土質の地山をくり抜いてつくられた内部が5段の「地下式有段窖窯」で、地形的に丘陵地帯の方が作り易かったこと、瓦の材料である粘土や燃料の木々の確保し易かったことなどが考えられる。
しかし、窯から現場まで10kmもの距離がある「瓦街道」を通って瓦を運搬するのは大変であったろうと、そのとき、想像するのであった。
その点、信濃国分寺瓦窯は、寺の大修理用瓦窯として、現場近くに窯が設けられており、運搬は楽であったろう。
現場近くに瓦窯があるという事例をここで知ったことは有意義なことであった。
惜しむらくは、窯そのものを見学したかったのだが...。

800万円の費用をかけて観察施設を作ったということまで、説明書きに書く必要があるのかと思うが、そこまで書くなら、大枚、叩いて作った施設なのだから、早々と扉を閉めずに、せめて午後4時か5時頃までは見学可能にして欲しいものであると思うのであった。
因みに、向かいの上田市立信濃国分寺資料館の開館時間は午前8時半から午後5時まで、休館日は水曜日・年末年始・祝日の翌日となっており、この日は土曜日、窯跡を早々と閉める必要はないと思うのだが、如何だろうか(ああ、また、文句垂れ、いや、苦言を呈してしまった)。

次は、直ぐ近くの、後継寺院である国分寺へと向かう。

フォト:2018年4月12日

(つづく)



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# by ryujincho | 2018-05-14 23:48 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(2)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(四)』 sp-17

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。
史跡の真ん中を鉄道が横切っており、史跡は南北に分かれてしまっているが、線路下に設けられた連絡通路でつながっている。

北側のゾーンを見学し、続いて、連絡通路を通り、南側のゾーンへ。
南側のゾーンで、先ず、僧寺跡を見学する。
やはり、国分寺跡の見学は北から順では駄目だ。
南から、南大門、中門、金堂、講堂...の順に見学すると落ち着く。

僧寺跡から西側の尼寺跡へ向かう。
信濃国分寺は僧寺と尼寺が隣接しているという珍しい事例の国分寺である。
尼寺跡へ向かうといっても、直ぐ隣りだから、5分と掛からない。

「史跡 信濃国分寺跡 尼寺跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 尼寺跡
ここは、古代信濃国分寺の尼寺回廊南西隅にあたります。
天平13年(741)、聖武天皇により国分寺建立(建設)の詔(命令)が下され、僧寺「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、尼寺「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」の建立が全国に命じられました。
僧寺には僧侶20人、尼寺には尼10人がおかれ、僧や尼は毎月8日に最勝王経を転読することなど、定められた規則にしたがって生活することが義務づけられました。
ところが、各地の国分寺造営(建設事業)は期待したようにはかどらなかったようで、天平19年(747)には国分寺の造営を督励(催促)する詔が発されています。
天平勝宝4年(752)に総国分寺である東大寺の大仏開眼供養が執り行われ、僧国分尼寺の法華寺も建立されました。
しかし、天平宝字3年(759)になっても国分寺造営を督促する記事が「続日本紀」にみられ、西暦770年前後に至ってようやく大半の国での国分寺が完成したと考えられています。
信濃国分寺跡では、昭和38年から46年に至る数次にわたる史跡整備と、これに伴う発掘調査が平行して行われ、僧寺・尼寺の伽藍の全容と、これに伴う多くの資料を検出することが出来ました。
この尼寺跡では、北から、北門・尼房・講堂・金堂・中門が直線的に並び、講堂と中門が回廊で結ばれ、講堂の西の経蔵も確認されました。
ただ、南大門と尼寺全体を取り囲む80間(約148m)四方と推定される築地塀の南辺と西辺はまだ確認されていないことや、建物の詳細については解明されていないことも多く、これからの調査や研究が必要とされています。
平成22年3月1日
上田市教育委員会
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これまで、各地の国分寺跡を訪ねる都度、「天平13年(741)、聖武天皇により国分寺建立の詔が下され、国分僧寺、正式名称『金光明四天王護国之寺』と、国分尼寺、正式名称『法華滅罪之寺』の建立が全国に命じられました...」の説明文を目にして来たが、この文言は、幾度、目にしても心地がよい。
「しもつけ風土記の丘資料館」(栃木県下野市国分寺)で、最勝王経(格調高いレプリカ)を見たことも思い出される。

この説明文の中で引っ掛かる点は「この尼寺跡では、北から、北門・尼房・講堂・金堂・中門が直線的に並び、講堂と中門が回廊で結ばれ」という記述である。
北からではなく、南から中門、金堂、講堂が直線的に並んでいるというのが正しいのではないか。
また、講堂と中門が回廊で結ばれているというのも逆で、中門と講堂が回廊で結ばれているというのが正しいのではないか。
やっぱり、上田市教育委員会のスタッフは、北からこの史跡を眺めていると言わざるを得ない。
但し、先ほど、僧寺中門跡で目を通した説明書きでは、南から順に記されていたので、上田市教育委員会のスタッフによって、ものの考え方が異なっているようにも思えるが、如何だろうか。

と、こう書きながら、官道から国分寺につながる道は、南大門にはつながっておらず、北門につながっていたのではないかと思ってしまう。
官道や国分寺につながる支道については、調べがついておらず、「南メイン説」より「北メイン説」が正しいのではないかと思ってしまう。

信州の盟友、大給守さんは、千曲市立信濃国分寺資料館の元・館長さんと知り合いとのことなので、官道は何処を通っていたのか、国分寺につながる道はどのようになっていたのか、「南メイン説」、「北メイン説」などについて問い合わせて貰うことにしたいくらいである。
いや、そうして戴こう。
小生が上田市教育委員会に電話で確認しても、話は噛み合わないであろうから。

話が反れてしまった。
国分尼寺跡に話を戻そう。

説明板に添えられている案内図と写真2葉をここに掲載しておこう。
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尼寺空撮(写真上が北)。
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尼寺金堂雨落溝発掘調査(昭和41年(1966))。
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尼寺中門跡。
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右/尼寺中門跡、そこから西に、そして、北に延びる南側回廊跡、西側回廊跡。
前方に、尼寺金堂跡、尼寺講堂跡、線路は見えないが、その向こうの白い建物が資料館。
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尼寺中門跡から尼寺金堂跡を眺める。
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尼寺金堂跡。
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尼寺金堂跡から尼寺講堂跡を眺める。
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尼寺講堂跡。
尼寺講堂跡の奥、金網のところが「しなの鉄道」の線路、その向こうに見事に花を咲かせている「カバンの藤」の藤棚。
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南東角から見た、東側回廊。
左奥/尼寺講堂跡、右ずっと奥/「カバンの藤」。
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東側回廊近くに立つ石柱。
「史跡 信濃国分尼寺 法華滅罪之寺跡」。
本来なら、この写真を最初に掲載すべきであるが、東側回廊からの帰路、通路に出たところで目に入ったので、尼寺跡めぐりの〆として。
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次は、先ほど、北側のゾーンで、国分尼寺北門跡を見学した際、その北側で見事な花を咲かせていた「カバンの藤」の藤棚へと向かう。

フォト:2018年5月12日

(つづく)

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# by ryujincho | 2018-05-14 23:47 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(三)』 sp-16

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。
ここは史跡の真ん中を鉄道が横切っており、南北に分かれてしまっているが、線路下に設けられた連絡通路でつながっている。

北側のゾーンを見学し、続いて、連絡通路を通り、南側のゾーンへ。
通路を抜けたところに設けられた案内図を眺める。
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信濃国分寺跡
信濃国分寺跡は、古代信濃を代表する遺跡であるとともに、全国の国分寺跡のなかでも特に歴史的重要性の高い遺跡です。
史跡指定は昭和5年(1930)に遡りますが、昭和38年から46年(1963~1971)にかけての発掘調査によって、僧寺跡と尼寺跡の伽藍跡とともに、それらが隣接して立地する特異性も明らかになりました。
遺跡の重要性に対する認識を受けて、同43年(1968)に史跡指定範囲の拡大と公有地化が促進され、続いて行われた整備事業により史跡公園化されました。
これは国分寺跡の本格整備としては、全国でも最も早い事例に属しています。
この説明板の位置は、その間に立つもので、おそらくは僧寺と尼寺の間を南北に通る道路上と推定されていますが、明確な道路遺構は、未だに確認されていません。
平成30年3月1日
上田市教育委員会
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「全国の国分寺跡のなかでも特に歴史的重要性の高い遺跡」とある。
全国で60余の国のうち、これまでに探訪したのは、常陸国、上総国、下総国、上野国、下野国、武蔵国、相模国、伊豆国、播磨国、讃岐国、筑前国など11ヶ国で、えらそうなことは言えないが、この説明文の1行目を読んで、信濃国分寺跡の何処に歴史的重要性があるのあろうと思った。
だが、続いて、「僧寺跡と尼寺跡が隣接して立地する特異性」が述べられている。
この点について、前話で、小生なりに触れていたので、何だか嬉しさを感じた。

前話では、僧寺と尼寺の間を”空き地”と記したが、この説明書きでは「明確な道路遺構は、未だに確認されていません」とのことながら、「僧寺と尼寺の間を南北に通る道路」があったと推定されている。
これも納得のいく推定である。
道が通っており、その両側に僧寺と尼寺の築地塀、いい風景である。
因みに、武蔵国分寺跡は、東に僧寺、西に尼寺、その間を南北に官道である東山道武蔵路が通っている。
道幅は異なれど、武蔵国分寺跡とイメージが重なる。
しからば、信濃国のこの周辺の官道は何処を通っていたのだろうか、官道から分かれれて、僧寺、尼寺の南大門へ通じる道があったとせば、何処を通っていたのだろうか、今は、史跡の南側は住宅地となっているが、この住宅地の辺りに道があったのであろうか、など、あれこれと考えるのである。

僧寺、尼寺の伽藍配置図。
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航空写真(平成16年)。
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赤文字、中央/現在地
赤文字、右(東)/僧寺跡
赤文字、左(西)/尼寺跡
赤文字、上(北)/資料館

僧寺跡、尼寺跡の順に見学。
先ず、僧寺跡から。
南側ゾーンの南端まで行ってみる。
背後で電車が近づいて来る音がする。
カメラを構えて、待つ。
しなの鉄道軽井沢行きである。
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南側ゾーンの南端は広い空き地となっている。
ロープが張られているのは、公有地を示しているのであろう。
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空き地の南側は住宅地である。
空き地と住宅地の間を通って、東へ進む。

「史跡 信濃国分寺跡 僧寺築地塀跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 僧寺築地塀跡
ここは、僧寺南大門から西に延びていた、僧寺の内と外を区画する施設が推定されており、現在のところ、築地塀が想定されています。
築地塀は、基礎に柱と貫(ぬき)の骨組みで木の枠を作り、そこに土を入れて、突き固める「版築」という方法で作られるものが多く、屋根や瓦、板などで葺いたものがあります。
信濃国分寺の内と外の区画施設が築地塀であるのか、板塀であるのか、未だにはっきりとはせず、現在も発掘調査により確認作業をしています。
また、規模も僧寺は100間(約187m)四方、尼寺は80間(約150m)四方と推定されていますが、これもはっきりとはしていません。
現在は想定される築地塀のラインにドウダンツツジを植えて表示しています。
平成26年3月1日
上田市教育委員会

説明板掲載写真
左/法隆寺東大門(重要文化財)から伸びる築地塀
央/僧寺西南隅の発掘調査(塀などの痕跡は確認できませんでした)
右/僧寺南大門址の発掘調査(礎石の下の栗石が確認され、八脚門であることがわかりました)
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築地塀の版築による一部復元は、上野国分寺跡、播磨国分寺跡、讃岐国分寺跡で見学したことがある。

築地塀跡の東側と南側は住宅地となっており、南大門跡の発掘調査は行われたのであろうか(後述の中門跡の説明の中に、中門は南大門より大きいと書かれているので、調査はされているのかもしれない)。

築地塀跡から北側を眺める。
前方に礎石の位置を示す算盤球状の石が置かれているのが見える。
北へ進む。

「史跡 信濃国分寺跡 中門跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 僧寺中門跡
ここは、古代信濃国分寺の僧寺中門跡です。
中門は、間口5間(18.0m)、奥行き2間(6.6m)の規模で、南大門よりも大きく、二層の建物も考えられています。
建物の下の基壇(土を一段高く盛った基礎部分)規模は東西20.8mx南北9.4mと判明しています。

この中門には、東西の両側に、講堂へとつながる回廊が取り付いていました。
回廊の多くは、幅1間の「単廊」と呼ばれる形式のものですが、この国分僧寺は梁間2間の「複廊」と呼ばれる大きさのものでした。
回廊の基壇は、幅が8.1mあり、南北の全長は79.2m、27間です。
また、東西長は、中門も含めて、66.1mありました。

この中門の北側(線路の向こう側)には、僧寺伽藍の中心である金堂、講堂が直線上に建ち並び、その東側には塔跡と僧房跡が、そして、南側には南大門が建つ、壮大な伽藍を形成していました。

金堂は、寺院のもっとも大切な建物空間で、中には本尊がまつられていました。
建物の規模は、間口7間(24.2m)、奥行き4間(14.4m)で、屋根の庇から落ちる雨落溝も確認されています。

講堂は、僧が仏教や学問を学ぶ建物です。
間口9間(28.8m)、奥行き4間(14.0m)で、雨落溝も確認されています。

このほか、僧寺跡には、僧侶の寝食の建物である僧房跡や、七重塔跡と推定される建物跡が確認されています。

ただ、周囲を取り囲む築地塀については、東西176.56mx南北178.05mとほぼ100間四方の寺域であったと推定されていますが、東・北・西の文などとともに、その確認は今後の調査にゆだねられています。

平成17年12月1日
上田市教育委員会

図、右上/講堂
図、右中央/金堂
図、右下/七重塔
図、左上/中門
図、左下/僧房
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この説明書きの表題は「僧寺中門跡」であるが、国分寺の伽藍に関わる主な事項のほどんどが述べられている。
惜しむらくは、経蔵と鐘楼について何ら触れられていないということである。

中門跡。
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西側から中門跡を眺める。
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西南角から中門跡を眺める。
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中門跡から西へ、そして、北へ延びる回廊跡。
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北西角から、手前/西側回廊跡、奥/南側回廊跡と中門跡を眺める。
中門跡から東へ延び、北へ向かう南側・東側回廊跡は、鉄道(左、金網沿い)が横切り、消滅している。

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線路の向こう側を眺める。
線路の北側、直ぐのところが金堂跡、その向こうの木立が1本見えるところが講堂跡。
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「史跡 信濃国分寺跡 僧寺西門跡」。
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史跡 信濃国分寺跡 僧寺西門跡
ここは、古代信濃国分寺の僧寺西門跡です。
西門は、いままでの僧寺の築地塀想定ライン上より少し西側で、僧寺金堂の真西に検出されました。
建物の規模は、桁行5.1m(17尺)、梁行2.7m(9尺)で、検出された柱穴は四脚門の控え柱です。
梁行の中間には、礎石の上に立つ親柱があり、そこに扉が付いていたと考えられています。
門の西側1.8m(6尺)の箇所には、並列する2個の柱穴が同じ桁行で検出され、庇が付属していたと推定されます。
この門は礎石建ちではなく、掘立柱であることや、出土する瓦の量がきわめて少ないことから、檜皮葺や板葺きの屋根であったと考えられます。
この西門の確認により、僧寺築地塀のラインが、これまでの想定ラインより5m西に振れていること、そして、この門が、僧寺と尼寺の間を南北行すると推定される道路に面しており、僧寺と尼寺とを繋ぐ出入口であることなど、たいへん、多くの情報を提供しています。
平成22年3月1日
上田市教育委員会

図、右上/現在地と西門を図示。
図、左下/僧寺西門復元想像図
図、右下/僧寺西門跡発掘調査(真上から/写真上が北)
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「西門は金堂の真西」とある。
先ほど、線路の北側のゾーンで金堂跡を見学した。
南面の南西角を線路がかすめていた。
西門はそこから、線路を挟んで、西にあったのだ。
線路があることでイメージし辛いが、説明板に添えられて図で、金堂と、線路を挟んで、西門が位置しているがよく分かり、この図は大いに助けとなる。

西門のこともさることながら、小生にとっては、僧寺と尼寺との間に南北行の道路が通っていたということが大事な点である。

先ほど来、カッコウの声が聞こえている。
♪ カッコー、カッコー♪と幼き頃から歌を歌い、カッコウという鳥は馴染み深い鳥であるが、ナマの姿を見たことはない。
利根川サイクリングロードを走っていると、河川敷の木立の中で鳴いていることがあるが、その姿を見たことはない。
ここでも、史跡公園の木立を縄張りとし、木立の中で鳴いているのだろうと、その姿を見ることなど思いもせず、声だけを聞いていたところ、武衛さんがその姿を見つけた。

「上総さん、あの電線にとまって鳴いているのがカッコウのようです。鳴くときに羽を少し広げ気味にして、そのときにカッコウの声が。ということで、あれは、確かに、カッコウです」。
「では、オリンパス・イーグル・アイでズーム・アップ」。
カメラを望遠鏡代わりにして、鳥見。
「ズームで撮ると、手振れが激しいので、ズームは止めて、あとで、トリミング」。

遠めの一枚。
電線にとまり、鳴くカッコウ。
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鳥ミング図。
胸の縞々模様が微かに見える。
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前日、千曲川左岸サイクリングロードを走っているとき、今シーズン初めて、オオヨシキリの声を聞いた(毎シーズン、その声を聞くのは、マイ・鳥見フィールドの手賀沼にて)。
何故、ここでオオヨシキリの話を持ち出すかというと、それは、カッコウはオオヨシキリの巣に托卵するという関係にあるからだ。

カッコウの雛は、比較的、短期間で孵化し、巣の持ち主の雛より早く生まれることが多い。
孵化したカッコウの雛は巣の持ち主の卵や雛を巣の外に押し出してしまう。
その時点でカッコウの雛は仮親の唯一の雛となり、仮親の育雛本能に依存して餌をもらい、成長して巣立っていく。
托卵を見破られないようにするため、カッコウは卵の色や斑紋などを仮親の卵に似せてたり、托卵する際に仮親の卵を巣から出して数合わせを行う場合もある。
何故、カッコウは托卵するかについては、よく分かっていないが、体温が低いためという説がある。
いずれにせよ、「オオヨシキリ残酷物語」である。

電線に止まり、鳴いていたカッコウは、近くの森に飛び立ち、再び、鳴いていた。

♪カッコー、カッコー♪と歌う童謡をはじめ、カッコウが登場する音楽は数多ある。
それについて語り出すと、音楽好きの小生としては、エンドレス状態になりかねないので、それは別の項の「鳥見雑記」で綴ってみたい。

僧寺跡から、西側の尼寺跡へと向かう。

フォト:2018年5月12日

(つづく)

















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# by ryujincho | 2018-05-14 23:46 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(二)』 sp-15

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

信濃国分寺跡・国分尼寺跡。

相当に期待していたのだが、少々、期待外れであったので、前第14話では、先に<文句垂れの巻>を綴った。

この第15話では、機嫌を直して、信濃国分寺跡・国分尼寺跡見学の巻を綴りたい。

国分寺と国分尼寺は幾らか距離を開けて建立されているのが通常であるが、信濃国分寺と国分尼寺は隣接して建立されており、これは珍しい事例である。

通常、国分寺跡・国分尼寺跡の見学は、南側の南大門跡からスタートするのが通例である。
しかし、信濃国分寺跡・国分尼寺跡は、北側に国道18号線が通っていることから、北側が入り口となっており、北から南の順で見学するという、特異なケースとなっている(往時の官道が何処を通っていたかまではまだ調べきれていない)。
加えて、史跡の真ん中を鉄道が横切っており、線路を挟んで、北側ゾーンと南側ゾーンに分断されているという、これも特異なケースとなっている。

よって、北から南の順で見学していくこととする。

僧寺伽藍配置。
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僧坊跡。
これまでに見て来た国分寺跡では、僧坊は講堂の北側にあり、これが<標準的配置>である。
一方、信濃国分寺跡では、僧坊は東側に設けられている(配置図参照)。

講堂跡。
北側から見た講堂跡。
(手前の敷石の道は回廊跡ではなく、単なる通路)
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北西角から見た講堂跡。
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金堂跡。
北から見た金堂跡。
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北西角から見た金堂跡。
南面、南西角(写真、右上)を線路がかすめている。
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線路の南側を眺める。
中門跡と回廊跡と思しき礎石が見える。
後ほど、見学。
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塔跡。
北側から見た塔跡。
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北西角から見た塔跡。
金堂跡と同様に、南面、南西角(写真、右上)を線路がかすめている。
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塔跡から、西側を眺める。
手前のコンクリート敷きは、東側回廊跡。
奥、左の金網のところが線路、その右のコンクリート敷きのところが金堂跡、その右の木が一本生えているところが講堂跡。
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西側の国分尼寺へ向かう。
各地の国分寺(僧寺)と国分尼寺は少し距離を置いて(少なくとも数百メートル)建立されているが、信濃国分寺と国分尼寺は隣接しており、これは珍しい事例である。

僧寺と尼寺が並んでいる様子はこの案内図でよく分かる。
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僧寺と尼寺の間の”空き地”は10数メートルであろう。
なお、いうまでもないことであるが、何処の国分寺、国分尼寺でも同様だが、いずれも築地塀で囲まれており、それぞれ独立した寺域となっている。

僧寺と尼寺の間の”空き地”。
白い建物は千曲市立信濃国分寺資料館。
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ちょうど、しなの鉄道長野行きが通過。
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尼寺跡の北側の「カバンの藤」。
「カバンの藤」については、続編で。
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尼寺跡。
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北門跡。
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北西角から見た北門跡。
北門跡の南面、南西角(写真、右側)を線路で削られている。
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尼寺の北側で見事に花を咲かせている「カバンの藤」をゆるりと鑑賞。
「カバンの藤」の詳細については、続編にて。

南側ゾーンへ行く前に、上田市立信濃国分寺資料館に立ち寄る。
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受付スタッフさんとしばし会話。
会話の内容は前第14話の<文句垂れの巻>、いや、<苦言の巻>で縷々述べた述べたので、詳しいことはここでは割愛するが、ひとことで言えば、こちらが投げかけた話に対し、ピリッとした対応ではなかったということで、興醒め。
よって、館内の展示は見学せず、ロビーの展示を軽く見学。

「上田市立信濃国分寺資料館」。

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上田市立信濃国分寺資料館
今から約1200年前、聖武天皇の発願によって、各国ごとに国分寺(僧寺と尼寺)が建てられました。
この国分寺は国家の繁栄と幸福を祈ることを目的とした国の寺(官寺)であります。
昭和5年11月、国の指定を受けた信濃国分寺跡は、上田市が国・県の指導を得て、昭和38年から昭和46年にかけて大規模な学術調査を実施しました。
その結果、僧寺と尼寺の規模と全容が明らかにされ、さらに窯跡(瓦を焼いた窯)跡まで発掘されるという成果を得ました。
その間、昭和43年3月にはこの一帯が国の追加指定を受け、国分寺史跡公園として整備を重ねて今日に至ったものであります。
この信濃国分寺資料館は、その発掘調査によって出土した信濃国分寺関係資料を中心として、上田小県(ちいさがた)地方の原始・古代から平安時代に至る資料を一堂に展示し、この地方の歴史を学ぶ場としたいとの願いをこめて建設されたものであります。
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国分寺址・国分尼寺址分布図。
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「信濃」をアップで。
八葉複弁蓮華文軒丸瓦。
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瓦について調べたところ、信濃国分寺跡の発掘調査で、創建期の瓦が出土しているという。
国分寺・国分尼寺の瓦の多くは、山田寺系、川原寺系のいずれであり、それにつても調べたところ、東大寺の軒丸瓦に似ているとあった(小生としては、この答えに納得し兼ねるところあり、と申し上げておこう)。

線路下の通路を通り、北側ゾーンから南側ゾーンへ。
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フォト:2018年5月12日

(つづく)






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# by ryujincho | 2018-05-14 23:45 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/信濃国分寺跡・国分尼寺跡(一)』 sp-14

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉から、千曲川左岸サイクリングロード(一部、一般道)を自走し、上田に到着。
昼餉は、手打ち蕎麦の「刀屋」で、極太の量的にも大満足な、ざるそばを頂戴する。
蕎麦パワーを充填し、元気いっぱいで、上田市内の史跡めぐりに出動。

数年前から、史跡めぐりの相棒、武衛さんと、国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社、これら三点セットでめぐることをテーマとして来た。
これまでに、常陸国、上総国、下総国、上野国、下野国、武蔵国、相模国、伊豆国、播磨国、讃岐国、筑前国などを探訪した。
今回は、その一環で、上田市内にある信濃国分寺跡・国分尼寺跡と信濃国総社をめぐることとなった。
信濃国府の所在地は不明なので、信濃国総社の探訪を以て国府跡も探訪したことにする。

信濃国総社である科野大宮社を探訪の後、信濃国分寺跡・国分尼寺跡へと向かう。
県道141号線を走り、国道18号線に合流。
どちらの道も車道が狭く、jitensha で走るには難儀な道。
歩道を走ろうとするが、歩道は溝の上に作られた、あの凸凹の歩道で、これも走るのが難儀。
やっぱり、千曲川を渡り、左岸を走るべきであったかと反省しながら、そのまま走り続け、信濃国分寺跡史跡公園に至る。

信濃国分寺跡史跡公園。
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入り口に掲示された「信濃国分寺跡史跡公園周辺の観光案内図」。
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楽しみにして来た信濃国分寺跡・国分尼寺跡なので、最初から文句を垂れてはいけないと思うのだが、垂れておこう、いや、文句ではなく、格好良くいえば、苦言を呈しておこう、であろう。

文句垂れ、いや、苦言は、見学開始前に感じたこと、見学中に感じた、それら全てをこの冒頭に書き出しておこう。
なお、信州の盟友、大給守殿に、これらのことを伝えたところ、「上田市のため、是非、よろしく。改善のヒントとなるでしょう」との応援メッセージも貰ったことでもあり、遠慮なく書かせていただこう。

苦言その1:
案内図の北が左、南が右となっている。
北は上、南は下というのが、地図や案内図の常識であろう。
時折、東西南北を、上下左右、無視して作られている案内図を見掛けることはある。
それは大目に見るとしても、こちらの案内図は国分寺と国分尼寺の伽藍配置を示す図でもある。
国分寺と国分尼寺は、先ず、南大門から始まる。
南大門は南にある。
よって、北を上に、南を下にして案内図を作れば、方角と伽藍配置が一致し、誠に気持ちのよい案内図となるのだが、南北を左右にされてしまうと、国分寺跡・国分尼寺跡好きの人間にとっては、我慢ならん!ということになるのである。

ということで、90度回転させ、北が上に、南が下になった案内図をここにアップロードしておこう。
まことに見易い案内図となった。
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苦言その2:
案内図に「JR信越線」とある。
この案内図は相当、昔に作られたもののようだ。
現在、軽井沢/長野間は第三セクターの「しなの鉄道」である。

国分寺跡・国分尼寺跡の真ん中を横切るように鉄道が敷かれている。
これについて、文句をいうつもりはない。
史跡好きの者にとっては、信濃国分寺跡・国分尼寺跡は可哀相であると思うくらいである。

信越線の歴史を紐解くと、官設鉄道として、1888年(明治21年)に軽井沢/上田間が延伸開通している。
以後、いろいろな変遷を辿り、1997年(平成9年)、軽井沢/長野間はJR東日本から第三セクターの「しなの鉄道」に引き継がれた。
今なら史跡保存を優先するであろうが、明治の頃は鉄道敷設優先であったことは否めず、線路が国分寺跡・国分尼寺跡を横切っていることは止むを得ないことと思わざるを得ない。

苦言その3:
史跡に北側に幹線道路の国道18号線が通っており、国道に面して「上田市立信濃国分寺資料館」が設けられていることから、北側が史跡の入り口となっている。
しかし、国分寺と国分尼寺の伽藍は、南から北に、南大門、中門、金堂、講堂が配置され、中門から講堂をつなぐ回廊があり、東西に鐘楼と経蔵、多くは東に塔という伽藍配置で、入り口はあくまでも南である。
そのことを強調するように、案内図や説明板に織り込むべきである。

因みに、我々は北から見学し、「しなの鉄道」下に設けられた連絡通路を通り、南側も見学した。
そこで見た案内図は、北を上に、南を下にした配置となっており、我々の満足のゆく作りとなっていた。
上田市の<名誉>のために、その案内図をここにアップロードしておこう。
この図は、上田市教育委員会による平成30年3月1日付けの説明文が掲示された説明板に添えられていたものであり、日付からして、最新版である。
こうしたものを北側の入り口に掲げておれば、ベストである。
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苦言その4:
「国分寺史跡公園」と称されている。
史跡と史跡公園では、所掌官庁も予算も別のものであると理解している。
しかしながら、この「国分寺史跡公園」は、史跡そのものを理解していないのか、史跡としての整備がよろしくない。
例えば、礎石。
オリジナルの場所にあるものはそのまま保存・・・これがベストである。
オリジナルの礎石であるが、伽藍域内の別の場所に置いてある・・・これも許される。
ところが、この「国分寺史跡公園」では、庭石と思しきものがあちらこちらに置かれており、礎石なのか、庭石なのか紛らわしいこととなっている。
次に、回廊跡。
細く、コンクリートが打設されたり、或いは、敷石が敷かれているところがある。
回廊跡を示しているのかと思いきや、史跡公園内の、単なる道なのである。
と、思いきや、或る場所では、回廊跡を示しているところもある。
回廊跡なのか、単なる道なのか、はっきりと仕分けをして欲しいものである。

苦言その5:
上述の通り、史跡内を線路が横切っている。
線路の下に通路が設けられ、南北の行き来ができるようになっている。
しかし、史跡公園内に「連絡通路はこちら」の標識は立っていない。
案内図にもその表示はない。
お粗末である。
なお、連絡通路入り口の頭上にはこんな表示があった。
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苦言その6:
上田市立信濃国分寺資料館の受付スタッフに覇気がない。
北側ゾーンをめぐって、資料館へ。
礎石と庭石のことを話したら、ふにゃふにゃと何を言っているか分からない返事。
回廊跡と道のことを話したら、やはり、ふにゃふにゃと何を言っているか分からない返事。
資料館の展示物の中で、これは必見というものはありますかと問うても、ふにゃふにゃと何を言っているか分からない返事。
学芸員さんを呼んで欲しいと言おうかと思ったが、学芸員はいませんという答えだったら、最悪と思い、敢えて聴かず。
信州の盟友、大給守さんから当館の元・館長さんの名前も聞いており、学芸員さんとの会話の中で元・館長さんの名も出せば、盛り上がるだろうと思ったが、その楽しみも敢えてなしとした。
「南側のゾーンへ行くには、外の踏み切りを渡っていくんですか?」と問うたところ、「連絡通路がありますよ」と、このときだけは元気な声で、バルコニーから指差し、その場所を教えてくれた。
そもそも案内表示がないのがおかしいと言おうと思ったが、また、ふにゃふにゃした答えであろうから、そのことについては言わず。

文句垂れ、いや、苦言の巻はこれくらいにして、機嫌よく、信濃国分寺跡・国分尼寺跡見学の巻に移ることとしたい。

フォト:2018年5月12日

(つづく)


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# by ryujincho | 2018-05-14 23:44 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/科野大宮社』 sp-13

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉から、千曲川左岸サイクリングロード(一部、一般道)を自走し、上田に到着。
昼餉は、手打ち蕎麦の「刀屋」で、極太の量的にも大満足なざるそばを頂戴する。
蕎麦パワーを充填したことでもあり、元気いっぱいで、上田市内の史跡めぐりに出動。

上田市内の史跡めぐりのメインは、国分寺跡・国分尼寺跡と総社。
これは、史跡めぐりの相棒、武衛さんと、数年前から、各地の国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社を三点セットでめぐることをテーマとして来ている。
ということで、事前に、信濃国の国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社の所在地などを調べている中で、次のことが分かった。

1)国の名について:
信濃国は、古くは、シナノキ(科の木、級の木)が多かったことから「科野」と呼ばれた。
シナノキは、幹の直径は1m、樹高は20m以上にもなる巨木で、樹皮は繊維が強く、古代人はこの繊維を使い、織物を織り、衣服とした。
今でも、シナノキの繊維はロープの材料とされ、木材は割り箸やマッチの軸、ベニヤ板などに利用されている。
「科野国」は、大宝4年(704年)、諸国印鋳造時に「信濃国」に改められた、或いは、和銅6年(713年)、好字を以て地名とせよという好字令により「信濃国」に改められたともいう。

2)信濃国府について:
『和名抄』では、信濃国府は筑摩(つかま)郡に在りとすることから、現在の松本市近辺と推定される。
しかし、国分寺・国分尼寺と総社は国府に置かれることが通例であり、信濃国分寺・国分尼寺と総社は小県(ちいさがた)郡(現在の上田市)に置かれていることから、国府は、当初は上田市近辺に置かれ、のちに、松本市近辺へ遷ったとするのが学界の通説であるという。
但し、国府の遺構は、上田市、松本市、いずれからも発見されていない。

3)信濃国分寺跡・国分尼寺跡について:
所在地 長野県上田市大字国分1049
通常、国分寺と国分尼寺は少し距離を置いて築造されていることが多いが、信濃国分寺と国分尼寺は隣接している。
これは珍しい事例である。
なお、後継寺院の国分寺は、国分寺跡・国分尼寺跡の北側に位置している。

4)信濃国総社について:
推定その1/科野大宮社(上田市常入字上常田723-1)
推定その2/伊和社(松本市大字惣社539)
上述の通り、国府は上田市近辺から松本市近辺に遷ったという説があり、それに伴い、総社も上田市近辺と松本市近辺に位置しているということとなる。
なお、科野大宮社と伊和社が総社であるとする絶対的な根拠はなく、推定である。

本来なら、国分寺跡・国分尼寺跡を訪ね、そのあと、総社を訪ねるというのが順序であるが、所在地の都合で、先ず、信濃国総社である科野大宮社へ。

県道141号線を南東に走る。
科野大宮社前交差点を左折し、科野大宮社に至る。

科野大宮社。
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扁額コレクション/其の一。
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「科野」の「野」は、「野」にあらず、「㙒」に近いが、そうでもなく、これ以上は漢字で表せないので、拡大写真で。
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扁額コレクション/其の二。
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狛犬コレクション。
阿形。
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吽形。
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御神紋「穀ノ木(カジノキ)」。
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御神紋 穀ノ木
桑科ノ植物で山野ニ自生シ古代カラ神ニ捧ゲル神木トシテ尊バレタ
コノ神木ハ諏訪大社本宮ヨリ寄贈
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唐破風棟鬼飾り(寺院ではこういうが神社でもこういうのかな?)の御神紋。
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幔幕に染め抜かれた御神紋。
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カジノキとは?
ウィキペディアを参照してみた。
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カジノキ(梶の木、学名:Broussonetia papyrifera)は、クワ科コウゾ属の落葉高木。
単にカジ(梶)またはコウ(構)とも呼ばれる。
古い時代においては、ヒメコウゾとの区別が余り認識されておらず、現在のコウゾはヒメコウゾとカジノキの雑種といわれている。
江戸時代に日本を訪れたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、この両者を混同してヨーロッパに報告したため、今日のヒメコウゾの学名が Broussonetia kazinoki となってしまっている。
カジノキは神道では神聖な樹木のひとつであり、諏訪神社などの神紋や日本の家紋である梶紋の紋様としても描かれている。
葉はブタ、ウシ、ヒツジ、シカなどの飼料(飼い葉)とする。
樹皮はコウゾと同様に製紙用の繊維原料とされた。
中国の伝統紙である画仙紙(宣紙)は主にカジノキを用いる。
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カジノキの漢字表記は、前掲の「御神紋」では「穀」とあり、通常は「梶」と書く。
調べてみたところ、中国も含め、カジノキの漢字表記は、梶、穀、構、楮、栲などいくつもある。
『諏方大明神画詞』には、「穀」と「梶」の両方の表記が見られるという。
カジノキ、コウゾ、ヒメコウゾなどが混同されていたとのことなので、漢字表記も混同していたのかもしれない。

鳥居横の説明板。
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市指定記念物(天然記念物)
一、種別 記念物(天然記念物)
一、名称 科野大宮社の社叢
一、所在地 上田市大字常入字常田7231-1番地
一、指定年月日 昭和44年5月9日

科野大宮社は、大巳貴命(おおなむちのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)を祭神とする。
延喜式にはないが、それ以前からの古社で、国分寺との関係も考えられ、あるいは、信濃国府の総社であったかとも思われる。
境内は、東西49m、南北38m、面積2,142m2で、社叢の30余本のうち、主なものは、けやき4本(枯れ死した神木1本を含む)、すぎ3本、むろ2本、大いちょう1本などがある。
昭和47年3月10日
上田市教育委員会
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総社の件については、「信濃国府の総社であったかとも思われる」と遠慮がちに述べられている。

この辺りは、地形的には、千曲川右岸、北陸新幹線、しなの鉄道などが通る平地、そこから東は台地となり、科野大宮社はその台地の常田地区に位置している。
国府は、常田地区の東隣の古里(こさと)地区にあったという説もあるが、それを示す遺構は発見されていない。

国府の所在地が不明な場合には、国府、国府台、総社、惣社などの地名のところに所在していたと推定するのがよい、或いは、総社そのものが現存する場合には、その近くにあったと推定するのがよいといわれている。
なお、日本の律令制において、国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。
よって、もし、信野国府が上田市近辺から松本市近辺に遷された時期が平安時代とすれば、総社は上田市近辺には設けられず、松本市近辺に設けられれたこととなり、伊和社(松本市大字惣社)が信濃国の総社ということも出来よう。

いずれにしても、信濃国府跡の所在地は不明なので、科野大宮社を訪ねたことを以て、信濃国府跡を訪ねたこととしたい。

今一度、科野大宮社とその社叢を眺める。
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次の探訪地、信濃国分寺跡・国分尼寺跡へと向かう。

フォト:2018年5月12日

(つづく)




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# by ryujincho | 2018-05-14 23:43 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(2)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/戸倉上山田温泉から上田へ(下)』 sp-12

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉から上田方面へと向かう。

千曲川左岸サイクリングロード(一部、一般道兼用)を走る。
途中、オシャレな黄色の大望橋の袂から千曲川を眺めたり、冠雪の北アルプスを眺めたり、ニセアカシアの倒木に遭遇したり、地震警報に遭遇したり、グランドゴルフおばちゃんに遭遇したり、養蜂箱に遭遇したりしながら、快調に走る。

グランドゴルフおばちゃんから「「あんた方、上田の方へ行くんだったら、こっちへ行っちゃ駄目ですよ。川にはまってしまいますよ。上田はあっちの道を行くんですよ」と親切なアドバイスを頂戴し、しばらく走ったところ、千曲川沿いのサイクリングロードは途切れ、複雑な交差点に出た。
千曲川ねずみ橋西詰の小網交差点である。
ここから、国道18号線のバイパス(上田坂城バイパス)を走る。
国道18号線は千曲川右岸を通っているのだが、バイパスは左岸を通っている。

しばらく走ると、上田市に入った。
千曲市、埴科郡坂城町、そして、上田市へ。
自走しているので、何だか満足感を感じる。

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先ほど、養蜂箱に出遭ったが、またまた、養蜂箱に遭遇。
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アップで。
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更に、ズームアップ。
ミツバチが元気よく巣箱を出入りしている。
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トンネルに入る。
トンネルの名は「半過(はんが)トンネル」。
全長は忘れたが、結構長いトンネルであった。
この辺りの地形は、西から山が迫り、山と千曲川の間は隘路となっている。
川沿いは旧道(県道77号線)で、その西側に、トンネルを掘り、バイパスを新たに設けたようである。


半過トンネルを抜けると、少し先に、もうひとつ、トンネルが見える。
「岩鼻トンネル」である。
岩鼻トンネルには入らず、バイパスを左に反れ、千曲川沿いに出る。
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畔の潅木にホオジロの姿が見える。
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川沿いの道を進むと、右手に奇妙な岩山が現れた。
落石防止であろか、コンクリートで箱根の函嶺洞門(2007年、バイパス完成により通行禁止となった)のような洞門が造られている。

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岩山を過ぎると、ぐっと開けて、右手に公園、その西側の国道18号線バイパス沿いに「上田 道と川の駅」 なる施設があった。
これが、先ほど、グランドゴルフおばちゃん、お勧めの「川の駅」なのであった。

この辺りの予備知識なしに走っていたので、この岩山を見たとき、これが何かは分からなかったが、このあと、見た案内板で「岩鼻(いわばな)」なる名勝であることを知った。

公園に入り、南側から「岩鼻」を眺める。
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岩鼻とは。
「上田市文化財マップ」(上田市マルティメディア情報センター)によれば、次の通りである。
-----------------------------------
岩鼻(半過、下塩尻)
種別 県指定、天然記念物
指定 昭和49年1月14日
千曲川を挟んで向かい合ってそそり立つ半過岩鼻(ひん岩)と下塩尻岩鼻(緑色凝灰岩の大岩壁は、千曲川に削られてできたもので、その景観はたいへん雄大です。
半過岩鼻にえぐるように開いた大穴は、川の浸食力のものすごさを物語っています。
この向かい合う岩鼻の景観と、そのすそを洗いながら悠々と流れ下る千曲川の広大な景観とがうまく調和して、ここは大正10年に日本百景の一つに選ばれました。
半過岩鼻山頂の千曲公園は、その入選記念につくられました。 
このすばらしい景観に併せて、岩鼻一帯にはここ特有の珍しい動植物の生態や分布が見られることから、長野県では岩鼻一帯の約13ha(うち約2haは地続きの坂城町分)を県天然記念物に指定し、その保護に努めています。
ここは、野鳥チョウゲンボウの集団繁殖崖として有名でしたが、最近は飛んでいることも少なくなり、気がかりです。
また、サハリンや北海道に自生するモイワナズナが、本州ではここだけにとび離れて分布していることや、数々の寒地系植物が自生することでも有名な場所となっています。
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千曲川左岸の半過岩鼻と右岸の下塩尻岩鼻、これらふたつの崖は、元は陸続きで、千曲川の浸食により、こうした地形になったのである。

かつて、岩鼻より上流は湖であった。
岩鼻近くに見える「塩尻」という地名は、かつての湖の北端に位置していたことに由来するとされる。
また、南佐久郡の「海の口」や「海尻」といった地名は湖の南端に位置していたことに由来するとされる。
これらの地名が上流に湖があったことを示しているという。

上流に湖があったというのは、2014年秋の「佐久平&八ヶ岳の旅」のことを綴ったブログで、南佐久郡の「海の口」や「海尻」の地名に関連して縷々述べた中で、「仁和3年(887年)あるいは仁和4年(888年)に起きたとされる八ヶ岳(天狗岳)の水蒸気爆発による大崩落によって千曲川の下の深山(現在の八那池洞門付近)が泥流によってせき止められ、海の口から海尻にかけて大きな湖ができた」ということであった。

この地には、伝承として、「多くの子ネズミを従える大ネズミが村に住みつき、田畑を荒らし回り、困った村人たちは、大きなネコをけしかけ、大ネズミを岸壁まで追い詰めたところ、大ネズミは死に物狂いで岩壁を食い破ると、湖の水がほとばしり、大ネズミや子ネズミは、ネコともども、流れ去った」との言い伝えもあるという。
岩鼻付近には「鼠」という地名があり、一説にはこの伝承に由来すると考えられている。
そういえば、先ほど、国道18号線バイパスに入ったのは「千曲川ねずみ橋」西詰交差点であったが、橋の名に「ねずみ」がついていた。
なお、「鼠」は、かつて、ここら辺りに信濃国の国府へ知らせる狼煙台があったことから、「不寝見」に由来するという説もある。

地名好きの小生にとって、これらの伝承と地名はなかなか興味深いものである。

「上田 道と川の駅」案内板。
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グランドゴルフおばちゃんは「川の駅」を強調していたが、国道18号線バイパス沿いの「道の駅」と千曲川沿いの「川の駅」の合体版であった。

案内図を見ながら、「半過古墳なるものがありますよ」と武衛さんの声。
今回は、信州史跡めぐりの旅である。
古墳は大歓迎である。
早速、半過古墳の方へ。

「半過古墳群10号墳の石室(移転復元)」。
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「半過古墳群10号墳の石室(移転復元)
-バイパス工事で発掘された中の沢遺跡・半過古墳群ー
中の沢遺跡と半過古墳群は、国道18号上田坂城バイパスの工事にともない、平成18~19年度に発掘調査が行われました。
遺跡は、ふたつのトンネルの間にあり、弥生時代から平安時代の住居のほか、半過古墳群の4つの古墳が発掘調査されました。
古墳からは人骨や青いガラス玉の首飾り、金銅製の耳飾り、鉄剣、土器などの副葬品が見つかりましたが、特に移築復元したこの10号墳は、副葬品が多く出土し、棺桶に入った遺体が骨となってそのままの形で残っていました。
直径7mほどの円墳で、遺体を納めた石室の全長は5mほどあります。
ここから少なくとも5人分の骨が見つかっており、女性や子供と考えられる骨もありました。
そのため、古墳は半過周辺を治めていたリーダーの家族墓と思われます。
ふつう、古墳は墳丘と呼ぶ土盛りが地上に見られますが、4つの古墳は背後の山から崩れた土砂で埋まっていたため、石室内がほとんど荒らされずに残ったものと考えられます。
10号墳から出土した須恵器(フラスコ形瓶)は東海地方で作られた7世紀後半のものであることから、古墳の遺体が埋葬された時期を特定するうえで貴重な資料となりました。
半過周辺には多くの古墳がありますが、発掘調査されたものは少なく、当時の生活を知る上で大きな成果となりました。
中の沢遺跡からは縄文時代早期(約8000年前)の押型文土器や、弥生時代(約2000年前)の石包丁(稲の穂を摘む道具)、平安時代(約1000年前)の鉄を精錬した鍛冶炉なども見つかっています。
道路工事にともない、遺跡は消滅しましたが、半過の歴史の1ページを後世に伝えていくため、ここに古墳を移築復元しました。
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半過古墳群10号墳石室(移築復元)。
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半過古墳群全景(写真中央が10号古墳)。
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棺桶に入った痕跡が残る人骨(左)。
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出土した鉄剣と須恵器(フラスコ形瓶)。
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川の駅ゾーンから千曲川を望む。
予定外の、半過古墳群10号古墳を見学出来たのは、グランドゴルフおばちゃんの「川の道に、是非、寄ってください」とのアドバイスのお陰だなあ、感謝、感謝と思いながら...。
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国道18号線バイパスをしばらく走る。
上田大橋西詰の手前でバイパスから外れ、千曲川左岸サイクリングロード(一部、一般道)に入る。

またまた、グランド・ゴルフ場が現れる。
先刻、見たのはいかにもグランドゴルフ場という風情であったが、それとは異なり、こちらはモトクロス・バイクを走らせてもよさそうな、ダートでハードなグランドゴルフ場である。
先刻のメンバーとこちらのメンバーで対抗戦をしたら、さて、どちらが勝利するであろうか。
いやいや、勝敗ではない、どちらがPPK(長野県はPPK、ピンピンコロリ運動が活発)かということであろう。

そんなことを思いながら走っていると、左手、右岸に上田の市街地が見えて来た。
そろそろ、左岸から右岸に渡らねばならない。
地図を出して確認しようと思った、ちょうどその時、犬の散歩中のご婦人に遭遇した。
地図をみるより、人に尋ねるのが一番。
「上田駅前に行くには、いずれの橋を渡れば、近いでしょうか」。
「次の橋を渡り、右へ行くと直ぐですよ」。
「ありがとうございました」。

上田橋を渡る。
千曲川の下流方面を眺める。
川沿いを走るときは、上流から下流へ下るということをモットーとしているが、今回は諸般の事情で遡上。
遡上ではあるが、ここまでは平坦な道で、楽チンだったなあと、川の流れを眺めながらそんなことを思うのであった。
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上田駅前の宿に到着。
丁度、12時。
まだ、時間が早く、チェックインは出来ないが、フロントに荷物を預け、身軽となる。

戸倉上山田温泉を出発したのが9時半。
ここまでの走行距離は20km。
2時間半で20km、寄り道も多いし、フォト・タイムも多いし、急ぐ旅でもないし、丁度、いいペース。

昼餉は「刀屋」。
今回の旅の企画段階で、武衛さんから「上田へ行くのは数十年ぶり。刀屋の蕎麦が懐かしい」とのメールがあり、旅程に「昼餉 刀屋」を織り込んだ。
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昼時である。
混み合っている。
店先には、日除けの葦簀張りが立てられ、床几が置かれている。
床几に座り、しばし、待つ。
蕎麦は勝負が早い。
直ぐに席は空き、店内に案内される。

品書きをみる。
もりそば(小)もりそば(中)もりそば(並)もりそば(大)
ざるそば(小)ざるそば(中)ざるそば(並)ざるそば(大)

小、中、並、大の量が分からない。
いつぞや、多摩湖をポタリングしたとき、近くの武蔵野うどんの店に入った。
うどんは、小、中、大とあり、「大って、何玉ですか?」と問うたら、「〇〇グラムです」とグラムで返事があり、グラムで言われても検討がつかず、おったまげたことがあった。
因みに、讃岐地方の讃岐うどんの店(讃岐地方だから讃岐うどんに決まているが、讃岐地方の店という意味で)の品書きは「小(1玉)、中(2玉)、大(3玉)」と書かれており、これは分かり易い。

小声で「おねえさん、隣の席の人の、あれは、大ですか?並ですか?」と尋ねた。
「あれは、中です」。
「えっ、あの量で、中ですか」。
「はい、うちの店は量が多いんですよ」。

「中」でも結構な量である。
「並」というと、「中」より少なめの感じがするが、「中」より「並」の方が多いのも面白い。
「中」にするか、「並」にするか、武衛さん、南国守さん、小生の3人、しばし、討議。
GGの胃袋には、「中」が丁度よさそうとの結論に達す。
前日、森将軍塚古墳を探訪したことでもあり、もりそばを頼もうと思った瞬間、南国守さんが「ざるそばの、中を三つ」と注文。
「森」と「盛り」の掛詞の目論見は見事に崩れた。
大袈裟に書けばそんなことだが、大勢に影響はない。

ざるそばが運ばれて来た。
極太である。
「中」ではあるが、その姿は「大盛り」である。
蕎麦屋の、もりそば、ざるそばといえば、その量はお上品である。
食べたかどうか、よくわからないような量である。
酒を飲んだあとなら、丁度よい量だが、昼餉としては不満が残る量である。
ところが、刀屋のそばはそうではない。
腹いっぱい、喰ってくだされ!と、そばが言っているような感じである。

腹いっぱい、喰った。
量的にも、「中」で、丁度よかった。

「おねえさん、何度も質問されているでしょうから、聞きにくいんですが、店の名、『刀屋』の由来は?」。
「昔は刀の仕事をしたそうです。刀といっても刀鍛治ではなく、刀の鍔です。祖父の代に食堂を始めました。そのあと、蕎麦屋に。食堂時代の名残りで、お腹がいっぱいになる蕎麦になったんです」。

刀屋の蕎麦に大満足し、店を出る。
昼のピークを過ぎ、先ほどに比べると、店先は静か。
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上田市内の史跡めぐりに出発する。

フォト:2018年5月12日

(つづく)


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# by ryujincho | 2018-05-14 23:42 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/戸倉上山田温泉から上田へ(上)』 sp-11

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉。
朝湯、早朝散歩、荒砥城跡からの善光寺平眺望、朝餉と、朝から盛りだくさんに楽しんだ。
朝餉のあと、この日、中山道ウォークの予定があるという大給守さんは四輪を駆って帰館。
我らは自走にて、上田方面へ。

この日の旅程は次の通り。
9:30 戸倉上山田温泉発
~自走(千曲川左岸)
・長野県指定天然記念物「岩鼻」・・・予定外、現地情報にて追加
・上田 道と川の駅・・・同上
・半過古墳群10号墳(移築復元)・・・同上
~自走(千曲川左岸~上田橋~右岸)
12:00 上田駅前着
(昼餉)
~自走(国道18号線ほか)
・科野大宮社(ここが信濃国総社と推定されている)
~自走(国道18号線)
・信濃国分寺跡・国分尼寺跡
・信濃国分寺資料館
・信濃国分寺
~自走(千曲川左岸ほか)
16:30 上田駅前旅籠着

千曲川左岸の温泉街を南進。
千曲川に架かる万葉橋西詰を右折。
千曲左岸サイクリングロード(一部、一般道)に入る。

先ほど、”登城”した荒砥城跡が見えるのではないかと jitensha を止め、振り返る。
見えた!
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荒砥城二の郭の物見櫓が城山にそびえている。
戦国時代、荒砥城は善光寺平の南からこんな感じで見えていたのであろう。
早朝散歩で眺めた「戸」「倉」「上」「山」「田」の大看板と大きな温泉マーク、そして、善光寺大本願別院も角度を変えてよく見える。

物見櫓をアップで。
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jitensha を止めた頭上に鳥たちの姿が。
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快調に走る。

川辺のサイクリングロードでは、橋を眺めるのも楽しみのひとつ。
黄色の、オシャレな橋が見えて来た。

橋の袂で休憩。
ローディが橋を渡る。
橋の中ほどで止まって、川の流れを眺めている。
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橋の名は「大望橋」。
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この辺りは埴科郡坂城町。
「はにしなぐんさかきまち」、いい響きの名である。

橋を渡ると、しなの鉄道テクノさかき駅近くに出る。
しなの鉄道坂城駅は北側の隣駅だから、町役場などがある中心地の南ということになる。
千曲市と同様に、坂城町も千曲川を跨いでのエリアを有している。
坂城町は、上田市と千曲市に挟まれているが、両市とは合併せず、由緒正しい埴科郡の名を守っている、なかなか健気な地方自治体である。

健気な地方自治体、坂城町の歴史は如何なるものであろうか?と、大好きなウィキペディアを紐解いてみた。
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江戸時代、坂木藩が置かれた後、天領となった。
坂木(後に中之条)に陣屋が置かれ、幕府代官による支配が行われた。
1886年(明治19年)近世以来の坂木村が改称して坂城村となる。
1888年(明治21年)官設鉄道信越線の駅として坂城駅が開業。
1904年(明治37年)坂城村が町制施行して坂城町となる。
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江戸時代、この地は天領であったとある。
前日、森将軍塚古墳で案内人さんから、佐久間象山が古墳の下に広がる一画で大砲の試射をやり、北から南に試射した弾を回収するため、着弾地点に行ったところ、そこは天領だったので、返して貰えなったという話と符号する。
何故なら、松代藩の所領は、信濃国北部の高井郡(現上高井郡、下高井郡及び中野市、須坂市)、水内郡(現上水内郡、下水内郡及び飯山市、長野市)、更級郡・埴科郡(千曲市を含む)の川中島四郡で、所領の南端(千曲市)と天領の北端(坂城町)が接していたと理解してよいだろうから。

毎度のことながら、話が反れてしまった。
大望橋に話を戻す。

橋の袂で休憩しながら、ふと、北西の方に目を遣ったところ、住宅の屋根の向こうに雪山が見える。
北アルプスである。
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ズーム・アップ。
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大望橋の袂での休憩を終え、再び、走り始める。
少し走って、黄色の、オシャレな橋を今一度、眺める。
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「狼煙が上がっておりまするぞ」。
「天領への闖入が発覚いたしましたかな」。
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快調に走る。
前日同様、千曲川河川敷には白い花を咲かせているニセアカシアが続く。

「これは何だ?」。
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ニセアカシアの木が根こそぎ、倒れている。
次々と、倒木が現れる。
洪水で倒れてのなら、周囲に何か浮遊物の残骸があるだろうが、そんなものはない。
となると、風で倒れたということになる。
ずっと、河川敷に生えるニセアカシアを見て来たが、倒木が見られたのはこの一画だけであった。

倒木を見た間なしに、スマホから地震警報の警報音鳴り響く。
続いて、坂城町のスピーカーからも地震警報の警報音とアナウンスが流れる。
だが、揺れは感じない。
揺れは感じないが、警報をスマホが受信するということは震源は近いということでもある。
揺れを感じないのに、警報を聞くというのは余計に不気味さを増す。
周りを見渡す。
左岸サイクリングロードの西側に山があるが、山が迫って来ている地形ではないし、河川敷も広い。
しかし、見知らぬ土地。
やっぱり、不気味である。

武衛さんがスマホで検索。
10時29分、震源は長野県北部、震度5強と。

一昨年の秋、播磨国分寺跡を訪ねていたときもスマホが地震警報を発した。
そのときは、鳥取での地震であった。
昨年8月下旬、北海道の旅の折、8月29日、函館での早朝、スマホの警報がなり、市内のスピーカーからも警報が流れた。
北がミサイルを発射、函館上空を飛ぶという警報であった。
地震の警報音、ミサイルの警報音、どちらも心臓に悪い。

しばらく走ると、河川敷にグランド・ゴルフ場が現れた。
長野県は長寿日本一の県。
こうした施設が整っており、GG&BBの健康促進に貢献しているのであろう。
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ニセアカシアの花の下、♪ わたし、ピンクのサウスポー ♪
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グランドゴルフをしていたおばちゃんと、しばし、会話。
「千曲川沿いはニセアカシアが多いですね」。
「きれいな花を咲かせているでしょ」。
「さっき、ニセアカシアの木が倒れまくっていたところがありましたが、あれは?」。
「強風で倒れてしまったんですよ」。

第8話で、ニセアカシア(和名:ハリエンジュ、針槐)について、国土交通省千曲川河川事務所のHPに記載されていたことを縷々綴ったので、詳しくは割愛するが、ひとことでいうと「ハリエンジュは、環境省指定の『要注意外来生物』。千曲川全体の自然植生のうち約24%をハリエンジュが占めている。ハリエンジュは根が浅いため、洪水時は簡単に流されてしまい、河川管理上、悪影響を及ぼす」というものであった。
根が浅いため、洪水で流されるのみならず、強風で倒れることもあり、河川管理上、面倒な代物となるのだ。

「あんた方、これから何処へ」。
「上田方面へ」。
「こっちへ行っちゃ、駄目ですよ。川にはまってしまいますよ。上田はあっちの道を行くんですよ」。

時折、サイクリングロードが途切れ、一般道を行くのか、砂利道だけど、そのまま行けばいいのかなどと迷うことがあり、ちょうど、変な道に入ろうとしていたときに、グランドゴルフおばちゃんから的を得たアドバイスを頂戴したのであった。

グランドゴルフおばちゃんは、更に言葉を続け、「上田へ行く途中、川の駅があります。是非、そこに立ち寄ってください」と。
「川の駅?」。
「そう、川の駅。道の駅みたいな川の駅。ここは千曲川だから、川の駅があるんですよ」。
「寄ってみます。いろいろ、どうも有難う」。

ニセアカシアの倒木、地震警報とよろしくないことがふたつ続いたが、そのあと、明るい、グランドゴルフおばちゃんに遭遇。
よいことは続くもので、もうひとつ、明るいことに遭遇。
ニセアカシアの白い花が咲き乱れているのに、何故、養蜂箱がないんだと、前日から思っていたのだが、遂に養蜂箱に出遭ったのだ。
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フォト:2018年5月12日

(つづく)









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# by ryujincho | 2018-05-14 23:41 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/戸倉上山田温泉、朝餉前の荒砥城跡』 sp-10

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉。
前夜は、信州の盟友、大給守さんも交えての宴で大いに盛り上がった。
早朝、目が覚める。
朝風呂に浸かる。
宿の近くを早朝散歩。
宿に戻る。
大給守さんが「朝餉前に、荒砥城跡に行きましょう」と。
前夜の宴の際、荒砥城跡を話題にし、久しぶりに行ってみたいと話したことでもあり、大給守さんの提案に、一もに二もなく、賛成!

荒砥城跡のことを話題にしたのは、前日、有明山の尾根に築造された森将軍塚古墳から善光寺平の風景を眺めながら、案内人さんとこんな話をしたからであった。

「あれはいつのことであったか、対岸の高台から今と同じような景色を見たことを思い出しました。NHKの大河ドラマ『風林火山』の頃であったような気がします。大河ドラマの撮影に使われた砦のような造りの場所でした」。
「それは、戸倉上山田温泉の裏の山にある荒砥城跡ですね。。荒砥城は、村上氏の一族、山田氏が16世紀初めに築城。武田氏、上杉氏、屋代氏、真田氏、徳川氏など、さまざまな関わりがあったのち、16世紀の末に廃城となった戦国時代の山城です」。

いつの頃であったかと、調べてみたところ、「2007年(平成19年)の大河ドラマ『風林火山』で、荒砥城跡を佐久海ノ口城に見立てて、武田晴信初陣のシーンを撮影した」とあった。
ということで、2007年以来、11年ぶりの荒砥城跡となったのであった。

大給守さん運転の四輪で、城山を上る。
この城山は、冠着山(かんむりきやま)から千曲川へ向かって伸びる舌状尾根の突端部にある。
この辺りの古墳築造も山城築城も、時代は変われど、その場所は、皆、尾根の先端部であるといえる。
因みに、この尾根には古墳はなく、倉科将軍塚古墳のように倉科氏の鷲尾城の城郭の一部に古墳を使うようなことはなく、山田氏はこの地に一から荒砥城を築城したといえる。

駐車場に車を置き、門の方へと向かう。
前方に男性が歩いている。
当地の管理人さんであった。
「開門は午前9時からなんですけど、今朝はお客さんが早めに来られるような予感がして、早めに来ました」と管理人さん。

今、朝7時過ぎ。
我らは、開門時間のことなど全く頭にないまま<登城>したのであったが、ラッキーであった。
ひょっとしたら、我らが、前夜あるいは今朝、宿で荒砥城跡のことを話題にしたのが管理人さんに聞こえていたのではないか、それとも、宿の人が我らの話を聞き、宿が気を利かせて、管理人さんに連絡したのではないか、いやいや、やはり、管理人さんのいう通り、彼の直感であったのだろう。

荒砥城跡に到着。
荒砥城の本郭は標高590mで、千曲川から比較するとおよそ220mの比高差があるとのこと。

門近くの石碑。
「甦る五百年の歴史 荒砥城 上山田町史跡整備助言委員 森嶋 稔」と刻まれている。
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アップで。
ちらっと見えている、赤いセーターの御仁は大給守さん。
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石碑裏面の碑文。
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荒砥城跡
荒砥城は中世戦国期、地域の衆族、村上氏の支族、山田氏による十六世紀頃築城による重要な山城ある。
〇〇の山城と同様にしてその出自は明確でない。
幾たびかの攻防記録も残されているが、戦国期末には、山田氏から武田方、屋代氏のもの、上杉方〇番衆による交代管理にもなったりした。
天文十一年(一五八三)四月、戦国のならいか、松代の上杉方海津城副将屋代秀正(勝永)は徳川方内通が発覚するや、この山城籠城の上、最後の抵抗を試みている。
だが、しかし、北信濃の諸将の攻撃を受けて〇日にして落城した。
その後は廃城となり、今日に至っている。
平成七年三月吉日
森島 稔 撰
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達筆なので、一部、推測しても判読不能な文字があり、それは〇印にてブランクとしている。

”早朝出勤”の管理人さんに入城料金三百文を支払い、入城券とリーフレットをゲット。
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開門!
入城券販売窓口の近くに掲げられていた「雪景色の門」の写真を借用して。
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二の郭へと進む。
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前を歩く大給守さんと管理人さんの会話が聞こえて来た。
石垣のことで会話を交わしている。
「この石垣の石は、望月の『てっぺいせき』ですね」。
「よくご存知で」。
「あの辺りにちょっとゆかりがあるものですから」。

「武衛さん、『てっぺいせき』って?」。
大給守さんと管理人さんの話に割り込んではいけないと思い、物知りの武衛さんに尋ねた。
「鉄に平な石。鉄平石です」。

鉄平石の石垣をもう一枚。
物事を理解せずして撮った写真と、理解した上で撮った写真では、その写真の重みは全く異なるので。
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鉄平石について。
毎度のウィキペディアでは面白くないので、佐久の某石材店のHPの解説文をここで引用させていただこう。
-----------------------------------------
鉄平石は長野県の諏訪や佐久地方に広く分布する安山岩で、板状節理を成すため板状に剥がれやすいのが特徴です。
この特徴を活かして様々な厚味やかたちに加工された石材は、 壁、床、庭、塀、時に屋根など、建築用の内外装材として広く利用されています。
色合いは灰色を基調とし、赤、青、黄、緑、茶など。
板状に剥離した鉄平石の表面は平板な中にも凹凸や模様が現れ、陰影によって天然石らしい手触りと表情を見せます。
また、表面を研磨すると色味が変わる特性を持ち、研磨したものは御影石とは異なるしっとりとした風合いを醸し出します。
--------------------------------------------

確かに、建物の内外装よく見掛ける石材である。
しかし、その名が鉄平石であるとは知らなかった。
また、ひとつ、カシコクなった。

カシコクなったついでに、鉄平石の石垣に咲く季節の花、ツツジをカメラに収める。
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四の郭、三の郭を過ぎ、二の郭に。

二の郭の門。
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鉄平石がやはり気になる。
石垣をアップで。
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鉄平石の特徴である平たい石が主であるが、ところどころに、平たくない、大きめの石が積まれている。
こうすることによって、石垣は平たい石だけよりも強固になるのかもしれない。
石垣を眺めていると、どうしても古墳の葺石を思い浮かべてしまう。
古墳時代からの石積みの変遷の歴史を見るようで、面白い。

ここからは、荒砥城のあれこれはさておき、善光寺平、千曲川、そして、彼方の山々の眺望を楽しむことにする。

二の郭、物見櫓に上る。
南側の眺望。
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北側の眺望。
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ここからは、前日、探訪した森将軍塚古墳が位置する有明山は見えないが、右手に見える善光寺平東辺の山伝いに東へ回り込んだ辺りに有明山は位置している。
正面の彼方に雪山が見える。
前日、森将軍塚古墳から眺めたときは、飯綱山と戸隠山の間に僅かに見えていた雪山だが、ここからはよく見える。
(左/戸隠山、央/雪山(名称不詳)、右/飯綱山の稜線のみ)
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二の郭から本郭へ。
先頭/管理人さん、赤/大給守さん、青/武衛さん、白/南国守さん、影/小生。
赤や青、白、そして、影などと書いていると、荒砥城の砦と相まって、昔、「仮面の忍者 赤影」なる忍者漫画、そして、それを原作とした特撮テレビ映画があったことを思い出す。
どんな番組だったかというと、覚えているのは、少年忍者、青影の、あのポーズ。
手のひらを閉じて、親指を鼻の頭につけて、指を開いて、「だいじょーぶ」というあれである。
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本郭。
南側の眺望。
二の郭の物見櫓、その向こうに、善光寺平と千曲川。
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北側の眺望。

二の郭からの眺望と同様に、正面の彼方に、前日、森将軍塚古墳から眺めたときは、飯綱山と戸隠山の間に僅かに見えていた雪山だが、ここからもよく見える。
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左/戸隠山、央/雪山(名称不詳)、右/飯綱山の稜線。
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左(西)に目を遣る。
木立の間の彼方に、前日、森将軍塚古墳から眺めた北アルプスがよく見えている。
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ズーム・アップ。
前日と眺める角度が違うのだが、前日と同様、白い屏風を広げたが如くである。
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前日の森将軍塚古墳からの眺望図では「北アルプス」とあったが、ここでは「北アルプス連峰」、更に(その北に)「北アルプス 白馬」と明記されている。
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荒砥城の概要、NHK大河ドラマ関連の撮影風景、脚本、撮影予定表などの展示あり。
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赤影、白影、青影の御三方。
「仮面の忍者 赤影」では、バタフライマスク状の仮面を付けていた。
仮面の代わりに、目の辺りにモザイクを。
御三方ともいい表情をなさっており、モザイクを掛けるのはもったいないのだが...。
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時計を見ると8時前。
宿の朝餉は7時45分からであったから、ちょうど、いい時間。
再び、大給守さん運転の四輪で城山を下り、宿に戻る。

もし、大給守さんもポタリングに参加であったなら、jitensha 傾向で、四輪はなく、荒砥城跡へは自走、というより<押し>、帰りは<下りま専科」であっただろう。
だが、多分、荒砥城跡はパスしていたであろう。

大給守さんの四輪があったこと、そして、案内人さんの直感で早朝開門がなされたこと、この二つのラッキーが重なって、荒砥城跡からの眺望を楽しむことが出来た。
感謝!

朝餉をゆるりと頂戴する。

フォト:2018年5月12日

(つづく)


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# by ryujincho | 2018-05-14 23:40 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/戸倉上山田温泉、朝餉前の早朝散歩』 sp-9

5月12日(土曜)、晴れ時々薄曇り。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。
二日目。

戸倉上山田温泉。
前夜は、信州の盟友、大給守さんも交えての宴で大いに盛り上がった。
早朝、目が覚める。
朝風呂に浸かる。
極楽である。

宿の近くを早朝散歩。
これも旅の楽しみのひとつ。

朝5時40分。
人通り、皆無。
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「山口洋子 千曲川展示館 うたフォーラム」の幟旗。
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前8話で、前日、千曲川左岸を走っている途中、jitensha を止め、千曲川の流れを眺めた。
そのときの写真に添えて、「♪ あーあー、川の流れのよーにー ♪ いや、ここは千曲川、美空ひばりじゃなくって、五木ひろしかも。♪ 水の流れに 花びらを そっと浮かべて 泣いたひと ♪ 」とキャプションを付けた。

その五木ひろしが歌う♪ 水の流れに 花びらを そっと浮かべて 泣いたひと ♪ は、作詞 山口洋子、作曲 猪俣公章の『千曲川』、1975年のヒット曲である。

山口洋子千曲川展示館は2014年に亡くなった山口洋子の遺品を展示しているという。
近くの、千曲川万葉橋の角にある万葉歌碑公園には、山口洋子直筆の『千曲川』の歌碑もあるという。

千曲川といえば、島崎藤村の『千曲川旅情の歌』ということになろうが、千曲川を題材にした作品で山口洋子も名を連ねるというのも時代の流れであろう。

温泉街のクラブやスナックでは、余毎、山口洋子作詞の歌がカラオケで歌われていることであろう。
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城山には「戸」「倉」「上」「山」「田」の大看板と、大きな温泉マーク。
左の赤い建物は、善光寺大本願別院。
右手に、小さく、荒砥城跡の物見台も見える。
荒砥城については、続編で詳しく。

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温泉マークをアップで。
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温泉マークというと、一時期、何やらいかがわしいニュアンスだったこともあったが、温泉マーク(温泉記号ともいう)は、温泉・鉱泉を示す歴とした地図記号である。
この記号の歴史を紐解くと、地形図の地図記号として最初に現れるのは、1884年(明治17年)の陸軍参謀本部陸地測量部が作成した「假製2万分1地形圖圖式」においてであるという。
昨年であったか、一昨年であったか、温泉マークは外国人観光客が暖かい飲み物とかラーメンと勘違いする恐れがあるとのことで、丸に湯気の中に湯に浸かる三人を加えた、新たな記号が考え出された。
しかし、大分県をはじめ、全国の温泉県から猛烈な反対があり、温泉マークの変更は見送りとなった。
日本の大事な観光資源である温泉は、我々が馴染んでいる温泉マークも含めての温泉である。
外国人観光客の中には、この温泉マークも見たいと思い、来日して人もいるのではないだろうか。
お役所が温泉マーク改悪案を取り下げたことはまことに喜ばしいことである。
そんなことを思いながら、山頂に誇らしく掲げられていう温泉マークを見上げるのであった。

早朝の温泉街、人通りはないが、鳥は早朝から出動である。
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おまけ写真。
宿のエレベーター内に掲げられていたポスター。
「千曲市 国の名勝 姥捨 棚田の田毎の月」。
第4話で綴った森将軍塚からの眺望の中で、姥捨、田毎の月に触れたことでもあり、掲載する次第である。
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宿に戻る。
大給守さんが「朝餉前に、荒砥城跡に行きましょう」と。
荒砥城跡のことは前夜の宴で話題にし、久しぶりに行ってみたいなあと話したことでもあり、一もに二もなく、大賛成!

フォト:2018年5月12日

(つづく)

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# by ryujincho | 2018-05-14 23:39 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/森将軍塚古墳から戸倉上山田温泉へ、そして、宴』 sp-8

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

森将軍塚古墳を探訪、そして、隣接の千曲市森将軍塚古墳館を見学。
大満足のうちにこれらを終え、一路、この日、投宿の戸倉上山田温泉へ。
といいたいところであるが、当地、千曲市は日本一のアンズの産地とのこと。
ということで、森将軍塚の向かいにある「あんずの里 物産館」に立ち寄ってみた。

アンズという果実は余り馴染みがないが、ジャムで味わったり、会席料理の食前酒で飲んだりすることはある。
ジャムのラベルには、アンズよりもアプリコットと書かれているものが多いように思う。

「あんずの里 物産館」で、アンズのソフトクリームを頂戴する。
バニラのソフトクリームにアンズのジャムがたっぷりと添えられてものであった。
甘酸っぱくて、さっぱりとした、なかなか結構なお味であった。

さあ、アンズ・パワーを補給したことでもあり、一路、戸倉上山田温泉へ向け、出発。
千曲川右岸の国道18号線は走りにくそうなので、これは避け、古墳の案内人さんに教えて貰った通り、古墳と物産館の前を東西に通る一般道を西へ走り、栗佐橋を渡り、千曲川左岸のサイクリングロード(一部、一般道と兼用)を戸倉上山田温泉方面へ遡ることにする。

千曲川に架かる栗佐橋を渡る。
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千曲川の流れ/上流方面を眺める武衛さんと南国守さん。
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先ほど、森将軍塚古墳からこの橋が見えていた。
ということは、この橋から森将軍塚古墳が見えるのではないかと振り返ってみる。

見えた!
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ズーム・アップ!
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電柱が入ってしまった。
少し、先に進んで、電柱をかわした位置で、もう一度、眺める。
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ズーム・アップ!
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栗佐橋を渡り、千曲川左岸サイクリングロード(一部、一般道兼用)に入る。

快調に走る。
走れども、走れども、途切れることなく、河川敷に、ニセアカシアの白い花が咲き乱れている。

前を走る二人に、チーンとチビ丸ベルを鳴らし、合図。
「ニセアカシアと一緒に写真を撮りまーす。前方の山も姿もええ感じやし...」。
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ニセアカシア。
和名はハリエンジュ(針槐)。

余りに千曲川沿いにニセアカシアが多いので、このブログを綴るに際し、「千曲川 ニセアカシア」でネット検索してみた。

国土交通省千曲川河川事務所のHPに次の通り記載されていた。
-------------------------------------------------
河川内樹木の悪影響
千曲川全体の自然植生のうち約24%をハリエンジュが占めている。
ハリエンジュは根が浅いため、洪水時は簡単に流されてしまい、河川管理上、悪影響を及ぼす。
-------------------------------------------------
ハリエンジュのイロハ
・明治初期に渡来した北米原産の外来種。
・高さ15-20mほどになる落葉高木。
 広く街路樹や砂防樹として植えられ、野生化している。
・花期は5-6月頃。白い花が咲きます。
・帰化植物ハリエンジュは空中窒素固定能力があるために荒廃した林地では旺盛な生長を示して繁茂し、しばしば純群落を形成。
 このような状態になるとハリエンジュの優占状態が続き、在来植生は回復しない。
・ハリエンジュは根からの再生能力があり、地上部を伐採しても根から多数の地上茎を発生させ、瞬く間に回復。
 再生した地上茎は1年で1m以上も伸長。
・「要注意外来生物」(環境庁ホームページより)。
------------------------------------------------

余談ながら、国交省千曲川管理事務所のHPでは「『要注意外来生物』(環境庁ホームページより)」とある。
2001年、環境庁は環境省に改組されている。
この国交省千曲川管理事務所のHPは相当に古いか、誤記である。

環境省のHPを参照したところ、確かに、「要注意外来生物リスト」に「ハリエンジュ(ニセアカシア) (Robinia pseudoacacia) 」の名前が挙げられていた。

翌日、戸倉上山田温泉から上田まで、同じく千曲川左岸サイクリングロードを走ったが、そのとき、ニセアカシアが何本も倒れている光景を見た(その写真は、戸倉上山田温泉~上田の巻の続編で)。

河川敷でグランドゴルフをしていた人に「あれは何で倒れているんでしょうか?」と尋ねたところ、「強風で倒れてしまったんです」と。
国交省千曲川管理事務所のHPでは「ハリエンジュは根が浅いため、洪水時は簡単に流されてしまい、河川管理上、悪影響を及ぼす」とあったが、洪水で流されてしまう以外に、風にも弱いのであった。

満開のニセアカシアを眺め、きれいやなあ、蜂蜜がいっぱい採れるやろなあなどと、いいことばかりを考えていたが、河川にとっては歓迎されざる樹木なのであった。


話が脱線した。
千曲川左岸の走りに話を戻そう。

白いニセアカシアの花を眺めながら走る。
オオヨシキリの声が聞こえる。
オオヨシキリの最初の声は、毎年、マイ・フィールドの手賀沼で聞いているが、今年は千曲川の畔となった。

jiensha を止めて、千曲川を眺める。
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♪ あーあー、川の流れのよーにー ♪
いや、ここは千曲川、美空ひばりじゃなくって、五木ひろしかも。
♪ 水の流れに 花びらを そっと浮かべて 泣いたひと ♪

一般道とミックスのサイクリングロードを快調に走る。

大正橋西詰、佐良志奈神社前交差点に至る。
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佐良志奈神社。
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扁額コレクション。
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ブログを綴っていると、佐良志奈神社とは?ということで、由緒を調べてみたくなる。
ネット検索していると、由緒もさることながら、「さらしな神社かたくりまつり」の文字が目に飛び込んで来た。
盟友、甲武信守さんや品濃守さん(not 信濃守)らと話しをしているときに、山好きの彼らからカタクリの花の話題がよく出る。
カタクリの花を見たい、撮ってみたいと長らく思い続けているが、山登りは苦手だし、念願は叶っていない。
佐良志奈神社の境内や隣接の八王子山の山道沿いの傾斜地にカタクリの群生地があり、「春の妖精 カタクリ」が4月上旬に咲くという。
今年の「さらしな神社かたくりまつり」は4月7日に開催されたという。

カタクリの花を見るなら、ここかもしれない。
同じ時期に、アンズの花も咲くという。
佐良志奈神社とその周辺は楽しみな場所でありそうだ。

戸倉上山田温泉は、千曲川の左岸、大正橋とひとつ上流の万葉橋の間の一画が温泉街となっている。
佐良志奈神社前交差点を過ぎ、しばらくして、右手の温泉街に入る。

宿に投宿。
湯に浸かる。
湯に浸かっていたら、四輪で到着した大給守さんが風呂場に現れた。

全員、ゆるりと湯に浸かり、6時45分、予定通り、宴を開始。

大給守さんを交えての宴は、1年4ヶ月ぶり。
大給守さんは、昨年1月、40余年の江戸勤番を終え、信州に隠居することと相成り、1月7日、ドラポタ走り初め&送別ポタリングを挙行。
題して、「東京の灯よいつまでも」。
ゴールの中野にて反省会。

続いて、1月11日、両国「もヽんじや」にて壮行会。
「もヽんじや」は「山くじら」の店。
「山くじら」は獣肉を食べることは禁忌であったことからイノシシの肉や獣肉を言い換えたもの。
「いのしし鍋」、「しし鍋」、肉の色から「ぼたん鍋」とも。
関西で育った小生には「ぼたん鍋」と称するのが最もしっくりする。
今風にいえば、ジビエ料理である。

何故、壮行会の場を「もヽんじや」にしたか。
それは、大給守さんは、現役時代、参勤交代で国許に戻ったとき、時折、狩猟会(?)のお仲間と猪肉や鹿肉を食しているとの話を聞いていたこともあり、もし、隠居後、国許で新ビジネスを立ち上げるということなら、猪肉や鹿肉を江戸へ売り込むビジネスもあろうかと思い、消費地の調査も兼ねてと思ったからである。

昔話が長くなった。
戸倉上山田温泉に話を戻そう。

今回、大給守さんも交えて、信州史跡めぐりのポタリングも一緒にしたかったのだが、全員の都合がピタリと合うことは難しく、大給守さんは宴だけの参加となった。
宴では、大給守さんの隠居生活談を酒の肴に杯を重ねた。
野良仕事、古文書を読む会、中山道を歩く会、キノコの会、ジビエの会、冬のスキー指導員、公共施設の館長さんなど、公私共に多忙にて隠居生活をエンジョイなされておる由にて、何よりである。
もちろん、武衛さん、南国守さん、小生の隠居生活談もあれこれと。
杯を重ねに重ね、会話は弾みに弾み、大満足のうちに閉宴と相成った。

フォト:2018年5月11日

(つづく)



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# by ryujincho | 2018-05-14 23:38 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/千曲市森将軍塚古墳館(下)』 sp-7

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市森将軍塚古墳館。
前第5話では、墓壙(ぼこう)と竪穴式石室を中心に綴った。
前第6話では、古墳館の展示物を”資料編”として綴った。

第7話では、2階展示室中央のワイドスクリーンに映し出される映像の幾つかを掲載しておきたい。
併せて、森将軍塚古墳をはじめ、『将軍塚』と名のつく古墳についてのあれこれを綴っておきたい。

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1600年の時を重ね...。
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雪に抱かれて眠る古墳。
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動植物たち。
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『将軍塚』と名の付く古墳。
そもそも、森将軍塚古墳を探訪しようと思い立ったのは、科野のクニを代表する前方後円墳であることや、尾根の地形に合わせて「くの字」に折れ曲がって築造されたという珍しい形の古墳であったこと、そして、『将軍塚』という名に惹かれたことであった。
第4話で、千曲川右岸に位置する『将軍塚』の名が付された埴科古墳群に属する前方後円墳4基、森将軍塚古墳、有明山将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳、土口将軍塚古墳について触れた。
第4話や第6話では、千曲川左岸に位置する『将軍塚』の名の付く古墳、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳も登場した。
これらの『将軍塚古墳』の築造場所、築造年代、規模などについて全体的に整理しておきたい。

1)築造場所:
①善光寺平東辺/埴科古墳群(南から北の順で):
・有明山将軍塚古墳(千曲市屋代、有明山)
・森将軍塚古墳(同上)
・倉科将軍塚古墳(千曲市倉科、北山)
・土口将軍塚古墳(長野市松代町岩野、千曲市土口、笹崎山)
②善光寺平西辺(長野市篠ノ井石川、湯ノ入山)
・川柳将軍塚古墳
(参考)川柳将軍塚古墳の北側に、前方後方墳の「姫塚古墳」(4世紀半ば、全長31m)が位置している。

2)年代順:
・4世紀末/森将軍塚古墳
・4世紀末~5世紀初め/有明山将軍塚古墳
・4世紀末~5世紀初め/川柳将軍塚古墳
・5世紀前半/倉科将軍塚古墳
・5世紀中頃/土口将軍塚古墳

3)規模順:
・森将軍塚古墳 全長100m
・川柳将軍塚古墳 全長91m
・倉科将軍塚古墳 全長83m
・土口将軍塚古墳 全長67m
・有明山将軍塚古墳 全長37m

『将軍塚』の名の由来について、「5~6000人の兵士を統率する人を中国では将軍というそうです。被葬者はそれくらの権力を有していたであろうということから、『将軍塚』と名付けらた」と、森将軍塚の案内人さんに教えてもらった。

上記の善光寺平の東辺・西辺の『将軍塚』古墳のほか、全国で『将軍塚』の付く古墳を調べてみた。
・将軍塚古墳(栃木県宇都宮市)
・元島名(もとしまな)将軍塚古墳(群馬県高崎市)
・野本将軍塚古墳(埼玉県東松山市)
・将軍山古墳(埼玉県行田市、※「将軍塚」ではなく「将軍山」だが、広義にとらえて)
・将軍塚古墳(大阪府茨木市)
・将軍山古墳(同上、※「将軍塚」ではなく「将軍山」だが、広義にとらえて)

将軍塚シリーズと銘打ち、これらの古墳も探訪してみたいものである。

ここ、科野の里歴史公園には、千曲市森将軍塚古墳館のほかに、長野県立歴史館もあり、立ち寄ってみた。
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受付で、展示物の内容について尋ねてみた。
企画展として、平成29年度に県内で発掘や整理を行った遺跡からの出土品を中心に展示した「長野県の遺跡発掘2018」なるものを開催中とのこと。
そういえば、昼餉を摂った店にこの企画展のポスターが貼ってあったことを思い出した。

現場と資料館をセットで見学することをモットーとしている。
長野県全体の出土品を見ても、現場は見ていないし、ただ、出土品を見ただけということになってしまう。
先刻、森将軍塚古墳館で相当に集中して見学したので、疲れて、集中力を欠いている。
というようなことで、長野県立博物館は入り口だけで失礼することにした。

「長野県立博物館 雷管記念」/長野県観光PRキャラクター&火焔型土器パネル。
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この長野県のユルキャラの名前は「アルクマ」とのこと。
プロフィールは「信州だけに出没する珍しいクマ。クマなのに寒がりでいつも頭にリンゴのかぶりもの。旅好きでいつも背中にリュック。信州をクマなく歩きまくり、信州の魅力を世の中にクマなく広めるのが生きがい」とのことだ。
「歩くクマ」で「アルクマ」なのである。
クマの出没は恐ろしいが、アルクマなら歓迎である。
クマといえば、2014年秋の「高峰高原下りま専科」に先立ち、盟友、大給守さんのアドバイスに従い、jitensha にクマ除けの鈴と装着した。
以来、今も時折、振動で揺れて鳴っている。

県立博物館前から、尾根の森将軍塚古墳を見上げる。
木立に半分隠れるようにして見えている。
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古墳館前から、今一度、見上げる。
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森将軍塚古墳、いろいろ楽しませてくれ、サンキュー!
案内人さん、いろいろと話を聞かせていただき、サンキュー!です。
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千曲市森将軍塚古墳館、サンキュー!です。
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時計は午後3時半を指している。
ここへ到着したのが午後1時少し前。
2時間半、たっぷりと古墳を楽しませて貰った。

フォト:2018年5月11日

(つづく)


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# by ryujincho | 2018-05-14 23:37 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/千曲市森将軍塚古墳館(中)』 sp-6

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市森将軍塚古墳館。
前話では、古墳館で見学した、墓壙(ぼこう)と竪穴式石室を中心に綴った。
この古墳館には興味深い展示が数多ある。
いつも、ブログを編集する際には、個々の説明書きの読み下しや、補足、意見、感想などを綴っているが、量的なこともあり、今回は割愛したい。
よって、ここでは、"資料編"としてのアップロードとしておきたい。


「史跡 森将軍塚古墳発掘調査図」。
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「全面発掘調査がおこなわれた森将軍塚古墳」。
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「『くの字』に折れ曲がった森将軍塚古墳」。
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「二段墓壙の中央に設けられた竪穴式石室」。
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「幅広な竪穴式石室」。
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「大和王権によって築かれた古墳」。
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「長野県下の主な前方後円(方)墳」。
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「くの字に折れ曲がった古墳」。
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「全長100mの前方後円墳を計画」。
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貼石帯について。
古墳現場の説明板に「貼石帯(はりいしたい) 石を敷き詰めて古墳の形が整えられています」とあったが、これの意味するところがよく分からなかった。
だが、この古墳館の説明板で「後円部をより円形に近づけようと貼石帯を設けたり...」とあり、よく理解でした。

「前方部の墳丘内石垣」。
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「森将軍塚古墳の築造作業」。
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模型。
(墳丘に白くあるのはガラスへの照明の映り込み)
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「壷から変化した埴輪を供える」。
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「三角形の透孔がたくさんある埴輪」。
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「合子形埴輪(ごうすがたはにわ)」。
古墳館の1階から階段を上り、2階の展示物の中で真っ先に目に入るのが、この埴輪。
確かに「三角形の透孔」がたくさんある埴輪である。
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「古墳で行われた儀式」。
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「前方部に造られた二つの石室」。
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「古墳の埴輪を利用した小さな墓」。
写真:2号埴輪棺
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写真:4号埴輪棺、5号埴輪棺
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写真:6号埴輪墳、8号埴輪墳
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「古墳を取り囲む64基もの石棺」。
写真:8号石棺
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「小型埋葬施設分布図」。
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「遠く大阪から運ばれた大きな甕」。
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森将軍塚古墳周辺の13基の円墳。
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円墳/2号墳。
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円墳/3号墳。
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「古墳に並ぶ埴輪列」。
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個々の埴輪をカメラに収めたったが、時間の都合もあり、一括で。
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「『科野のムラ』のくらし」。
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個々の出土品をカメラに収めたったが、時間の都合もあり、一括で。
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「7代続いた『科野のクニ』の王墓」。
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「有明山将軍塚古墳」。
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写真:有明山将軍塚古墳の全景(手前は前方部)
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「倉科将軍塚古墳」。
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「土口将軍塚古墳」。
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「将軍塚」の名が付く古墳について興味がある。
それについては、続編でまとめてみたい。

千曲市内の主な古墳時代の遺跡。
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以上が"資料編"。
いつも、ブログを編集する際には、個々の説明書きの読み下しや、補足、意見、感想などを綴っているが、量的なこともあり、今回は割愛した。
よって、ここでは、"資料編"としてのアップロードとした。
今後、時間があれば、読み下しや、補足、意見、感想などを記してみたいと思うが、さて...。

フォト:2018年5月11日

(つづく)

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# by ryujincho | 2018-05-14 23:36 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/千曲市森将軍塚古墳館(上)』 sp-5

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市/森将軍塚古墳。
有明山の尾根に築かれた前方後円墳を見学。
尾根の地形に合わせ築造されたため、「くの字」になっているという珍しい形の前方後円墳。
床面積が日本最大と推測されている竪穴式石室。
眼前に広がる、善光寺平、千曲川の流れ、彼方の山々、さらにその向こうに冠雪した北アルプスなどの素晴らしい眺望。
復原された古墳を眺め、案内人さんの話を聞き、説明板を参照し、古墳好きには堪らなくよき時間を過ごした。

千曲市森将軍塚古墳館。
古墳を見学する前に、古墳館で簡単にヨシューした。
次は、古墳を見学した後の古墳館で、この目で見た古墳のあれこれを頭に描きながら、フクシューである。

「千曲市森将軍塚古墳館」。
後背の山は有明山。
その尾根に森将軍塚古墳が見える。
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古墳館2階の展示室へ。

「-集団墓から巨大な古墳へー 森将軍塚古墳の時代」。
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弥生時代には、溝で区画した円形や方形の周溝墓が溝とうし寄り添うように集落の近くに造られていたのです。
古墳時代になると、ひときわ高い墳丘を築いた墓が単独で造られるようになります。
長野県下では、最初に前方後方墳が造られ、次いで、前方後円墳が築かれるようになります。
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年表では、黄色で古墳時代が塗り分けられている。
その右に「主な出来事」の記述がある。
古墳時代の右側には、その前後の弥生時代の末尾と飛鳥時代の冒頭も含め、次の通り記されている。
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239 邪馬台国の卑弥呼が中国に遣いを送る
    
    全国各地に古墳が造られる
    森将軍塚古墳が造られる
    大和政権 国内の統一を進める

504 聖徳太子が17条の憲法を定める
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随分とざっくりした記述である。
「全国各地に古墳が造られる」には「3世紀中頃」と補足しておきたい
「森将軍塚古墳が造られる」には「4世紀末頃」と補足しておきたい。

「主な出来事」の右側の掲載写真。
左/周溝墓 長野市篠ノ井遺跡。
右/前方後方墳 松本市弘法山古墳。
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前方後方墳に興味がある。
前方後方墳である松本市弘法山古墳について調べてみた。
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弘法山古墳(こうぼうやまこふん)
長野県松本市並柳、松本市の南西部、弘法山(標高約 650 m)にある古墳。
東日本最古級の3世紀末築造の前方後方墳。
墳丘長 66 m、前方部幅22 m ・高さ 2 m 、後方部幅 33 m ・高さ 6 m 。
東日本特有の前方後方墳は、前方後円墳に先駆けて出現。
長野県では、弘法山古墳と同時期の4世紀末に、姫塚古墳(長野市篠ノ井石川)が出現。
山梨県では、4世紀中頃に、小平沢古墳(甲府市下向山)が出現。
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弘法山古墳は、最寄り駅のJR篠ノ井線南松本駅から徒歩15分、花見の名所とある。
訪ねてみたい古墳である。

早速、話しが反れてしまった。
森将軍塚古墳に話しを戻そう。

古墳館2階の展示室中央に、後円部の二段墓壙と竪穴式石室が再現されている。
そして、その手前にそれらに関わる説明と石室から出土した副葬品が展示されている。

正面から。
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左から。
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右から。
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二段墓壙と竪穴式をアップで。
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竪穴石室からの出土した副葬品。
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撮影方向を変えて。
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副葬品をアップで。

左/小型丸底土器。
右、上段から/復元した矢、矢じり、復元した鎌。
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直刀、剣、剣。
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硬玉製勾玉、碧玉製管玉。
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右/三角縁神獣鏡(片)、右/三角縁神獣鏡の模型(森将軍塚古墳友の会寄贈)。
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説明書きに目を通す。

「残された副葬品」、「副葬品が語る古墳の主」。
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残された副葬品
古墳時代前期の古墳には、武器(剣・刀・矢)と共に、鎌、ノミなどの農具や工具が副葬されるのが特徴です。
中期以降の古墳では、多量の武器や馬具などが副葬されます。
この二つの土器は小型丸底鉢と呼ばれるもので、当時の政治や文化の中心である近畿地方の影響のもとに作られて土器です。
この科野のクニが、当時、近畿地方をはじめ各地と盛んに交流していたことがわかります。
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副葬品が語る古墳の主
石室内の副葬品は、そのほとんどがすでに持ち去られたようです。
しかし、残された品々から、大和王権と密接な関係を持ち、人々に反映をもららす指導力を発揮した、科野のクニの最初の王の姿をみることができます。
見つかった三角縁神獣鏡片は、中国製の大型鏡です。
大和王権から全国各地の王に、政治的な関係を結んだ証として与えられたといわれる、長野県下で唯一のものです。
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「竪穴式石室に納められた木棺」。
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竪穴式石室に納められた木棺
古墳時代前期の竪穴式石室に納められた棺は、巨木を二つに縦割りにし、内部をくり抜いて合わせた割竹形木棺が主流だといわれています。
森将軍塚古墳の棺は残っていませんでしたが、石室の床が幅広く平坦であることなどから、割竹形木棺ではなかったかと考えられます。
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「竪穴式石室は日本最大級」。
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竪穴式石室は日本最大級
古墳時代の埋葬施設には、竪穴式石室・粘土槨・横穴式石室などがあります。
竪穴式石室は、棺を納めた後、さらに側壁を積み上げ、大きな石などで蓋をして埋め戻す棺の保護施設です。
古墳時代初めの頃から、5世紀代まで用いられています。
森将軍塚古墳の竪穴式石室は、長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mの長大なもので、日本最大級の規模です。
床面積の幅が特に広いのが特徴です。
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前期古墳の竪穴式石室の比較
鳥取県 馬山4号古墳 長さ8.8m 面積 7.1m2
奈良県 メスリ山古墳 長さ8.3m 面積10.4m2
静岡県 松林山古墳 長さ8.0m 面積 9.2m2
長野県 森将軍塚古墳 長さ7.6m 面積15.6m2
京都府 椿井大塚山古墳 長さ6.9m 面積 7.6m2
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「後円墳に設けられた埋葬施設」。
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後円墳に設けられた埋葬施設
ひときわ高い後円部の中央には、長大な竪穴式石室が設けられ、森将軍塚古墳の主が埋葬されていました。
この竪穴式石室は、「墓壙(ぼこう)」と呼ばれる二重の石垣で囲まれた長さ15.0m、幅9.3m、深さ2.8mの大きな穴の中に築かれ、石室内には遺体を入れる木棺が納められていました。
墳頂から石室の底までは、約3.5mもあり、手厚く埋葬された様子が伺われます。
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しばらくすると、正面のワイドスクリーンに月が現れ、後円部の上空が明るくなった。

もう一度、左から。
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右から。
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正面から。
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左奥から、墓壙(ぼこう)と石室の間近に。
先ほど、墳頂で、石室の大きさがブロックで示された枠内に南国守さんに立って貰ったので、展示室での実物大の大きさがよく理解出来る(南国守さん、サンキューです)。
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1階から、石室内部の再現が見られるという。
1階へ降り、ガラス越しに見学する。
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こちらは、赤く塗られた石室内の再現。
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説明書きに目を通す。
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赤く塗られた石室
この石積みは、森将軍塚古墳の竪穴式石室の一部を築造当時の姿に再現したものです。
板状の石(石英閃緑岩)は古墳から3kmほど離れた倉科地籍の山から運ばれています。
石室の内部は、真っ赤に塗られていましたが、壁面の赤い顔料はベンガラ(酸化第二鉄)と呼ばれるものです。
棺の周りの床には、当地方にはなく、貴重品であった朱(赤色硫化水銀)がまかれていました。
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板状の石(石英閃緑岩)は「古墳から3kmほど離れた倉科地籍の山から運ばれた」とある。
先ほど、墳頂で、案内人さんが指差して教えてくれた採石場は東隣の山の崖であった。
倉科地籍の山は古墳から北東部に見える山である。
案内人さんは、採石の痕跡を教えてくれるために、例えば、ということで東隣の崖の採石跡を教えてくれたのであろう。

ベンガラ(酸化第二鉄)と朱(赤色硫化水銀)について。

昨年4月、金井東裏遺跡(群馬県渋川市)を探訪し、この遺跡から出土した「赤玉(あかだま)」なる遺物を群馬県埋蔵文化財調査センター発掘情報館で見学した。
そのときにベンキョーしたことは次の通りであった。
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・出土した赤玉の大きさは、直径5.5 ~ 8 ㎝、重さ350 ~ 400 gほどのものであった。
・赤玉は、赤色顔料の素材を団子状に丸めたものと考えられる。
・この種のものでは、九州地方で「朱玉(しゅだま)」と呼ぶ円形で扁平なものが知られている他は、全国的に見ても類例の少ないものである。
・赤い色は、古墳時代には神聖な意味があったようで、古墳の石室の壁のほか、土器や埴輪に塗られている。
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4月半ば、九州・遠賀川流域古墳の特別公開日に合わせ、超一級の装飾古墳といわれる王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町)も含め、6基の古墳をめぐった。
特別公開された王塚古墳の石室の実物は写真で見るほどの色彩感はなかった。
しかし、隣接の王塚装飾古墳館で見た、実寸大で造られたレプリカの石室は、赤・黄・緑・黒・白の5色で描かれた装飾壁画が見事に再現されていた。
王塚古墳の石室はいわば極彩色であったが、古墳の石室で彩色されたものの多くは赤色である。

上述の説明書きに、森将軍塚古墳では「棺の周りの床に、当地方にはなく、貴重品であった朱(赤色硫化水銀)がまかれていた」とある。
これまで数々の古墳の石室の説明書きを見て来たが、棺の周りに朱(赤色硫化水銀)という事例は初めて知ることであった。

硫化水銀とは。
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1.硫化水銀(Ⅰ)。
不安定で、常温の水溶液中でただちに分解し、硫化水銀(Ⅱ)と水銀とになる。
化学式Hg2S
2.硫化水銀(Ⅱ)。
黒色または赤色の固体。天然には辰砂(しんしゃ)として産出し、黒色のものは昇華により安定な赤色の粉末に変わる。
赤色のものは顔料に用い、朱(しゅ)とよぶ。化学式HgS
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因みに、高松塚古墳(奈良県明日香村)の女人像の赤い上衣はベンガラで、帯の赤は朱(赤色硫化水銀,HgS)で彩色されており、2種類の赤色が使い分けられている。
王塚装飾古墳館では、「九州の古墳」と「高松塚古墳」の分類で各種彩色見本が展示されたいた。
その中で、高松塚古墳の項には、九州の古墳と同じ"赤色A"に加え、”赤B”の見本も展示されていた。

更に、説明書きに「貴重品であった朱(赤色硫化水銀)は当地にはなかった」とある。
然らば、何処から持ち込まれたのであろうか。
朱(赤色硫化水銀)の産地について、調べてみた。
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・赤色硫化水銀は、弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。
・古くは、伊勢国丹生(現在の三重県多気町)のほか、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川(奈良県/吉野川、和歌山県/紀の川)上流などが特産地として知られた。
・現在では、大分県、熊本県、奈良県、徳島県などで産する。
・因みに、赤色硫化水銀は「辰砂(しんしゃ)」とも呼ばれるが、これは中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことによるものである。
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伊勢国丹生、大和水銀鉱山、吉野川上流辺りから産出されたものが、大和王権を経由して、科野のクニにもたらされたのかもしれない。

先ほどは、墳頂に立ち、案内人さんの話しを聞きながら、森将軍塚古墳を見学し、その前後に隣接の古墳館で数々の展示を見学した。
現場と資料館、両方を同時に見学することが古墳めぐりの"王道"であることを改めて実感した。

この「森将軍塚(Ⅳ)」では、墓壙(ぼこう)と竪穴式石室を中心に綴ったが、数多くの展示物を見学しており、それらについては続編で、"資料編"としてそのあらましを綴ることとしたい。

フォト:2018年5月11日

(つづく)





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# by ryujincho | 2018-05-14 23:35 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/森将軍塚古墳(下)』 sp-4

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市/森将軍塚古墳。

眼前に前方後円墳を眺めながら、案内人さんから説明を聞き、併せ、説明板にも目を通したのち、墳丘の裾を通り、墳頂へ。

前方部に立つ。
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先ほど、墳丘の裾を通った際、葺石を間近に見た。
説明板に「表面にはこの山から集めた石英斑岩を葺き並べています」、「約80,000個の石が並べられています」とあった。

案内人さんに尋ねてみた。
「葺石は千曲川から運んで来た丸い河原石かと思っていましたが、丸くはありませんね」。
「ここの葺石は山から採石したものです。あちらの山にその跡が見えます」。

指差された古墳の右(東)の山に目を遣る。
木々が生えた山肌に、一部、岩の露出したところが見える。
階段状になった採石跡が見て取れる。
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案内人さんは更に言葉を続けて、「千曲川のこの辺りでは砂利となっています。大きな丸い河原石が取れるのはもう少し上流の方になります」。

小海線沿いの千曲川の流れが目に浮かんだ。
佐久平ポタで眺めた千曲川を流れも目に浮かんだ。
小海から臼田あたりまでは川幅は狭く、流れが急であった。
臼田を過ぎて、太田部、中込あたりから流れは比較的穏やかになっていた記憶がある。
そうした流れと、岩が砕け、丸い河原石となり、砂利となり、砂となる関係が具体的に目に浮かんだ。

森将軍塚古墳の荒い葺石を見て、4月半ばに挙行した「遠賀川流域古墳めぐり」の中で探訪した沖出古墳(福岡県嘉麻市)の葺石は山の石であったことを思い出した。

次に西側を眺める。
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素晴らしい眺望。
善光寺平、そして、遥か彼方に北アルプスが白い屏風を広げたが如くに。
ズームアップ!
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景色はあとでゆるりと眺めるとして、古墳に集中!

前方部。
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前方部
前方部は、古墳の主が眠る後円部に至る通路、あるいは、儀式の場所ではないかと考えられています。
森将軍塚古墳の前方部は、後円部と同様に千曲川から運びあげられた玉砂利が敷き詰められて、埴輪が立て並べられた広いものです。
後には、竪穴式石室2基をはじめ、組合せ式箱形石棺や埴輪棺などの埋葬施設が設けられています。
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「千曲川から運びあげられた玉砂利が敷き詰められて」とある。
葺石は山から採取したものだが、玉砂利は千曲川から運ばれたのである。

前方部は儀式の場所という考えが通例である。
後に、前方部に埋葬施設が設けられたとのことだが、前方後円墳の前方部に埋葬施設が設けられた事例を初めて知った。

後に、埴輪を棺にしたり、前方部に埋葬施設をつくったりと、これはシナノ独特のことなのだろうか...。

続いて、後円部に立つ。
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後円部。
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後円部
一段と高い後円部には、長大な竪穴式石室が設けられ、森将軍塚古墳の主が埋葬されていました。
石室は特に大形で、その床面積は日本最大と推測されています。
副葬品には、鏡や剣・刀、勾玉・管玉などがみつかっています。
三角縁神獣鏡は、大和王権と特に関係の深かった有力者に限って持ったといわれています。
主はどんな人物だったのでしょう。
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二段墓壙。
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二段墓壙
石室は、二重の石垣で囲まれた墓壙の中央に設けられています。
外側(一段目)の長さ:13.8m、幅:8.8m
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竪穴式石室。
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竪穴式石室
石英閃縁岩の板状の石を小口積みにして築かれています。
長さ:7.6m
幅: 2.0m
高さ:2.3m
墳頂から石室床面までの深さ:3.4m
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副葬品。
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副葬品
青銅製の”三角縁神獣鏡”は、長野県下では唯一のものです。
翡翠製の勾玉・碧玉製の管玉
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説明板に「石室の床面積は日本最大と推測されている」とある。
後円部にブロックを並べて、石室の大きさ(長さ:7.6m x 幅:2.0m)が示されている。

「南国守さん、すみませんが、人と比べると石室の大きさが分かり易いので、そこに立って貰えませんか。寝っ転がって貰っても結構なんですけど、それは縁起が悪いんで、立つだけで結構です」。
「これでいいかな」と南国守さんと立ってくれた。
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幅2mは、これで如実に分かる。
長さ7.6mは遠近の都合で写真では分かり難いが、ブロックの数とその間隔、南国守さんの靴の大きさなどがその目安となろう。


科野のクニ。
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(説明板/上段)
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科野のクニ
千曲川両岸の自然堤防と後背湿地には、稲作が始まる弥生時代になると、たくさんのムラができ、農耕が営まれてきました。
やがて、この地域を中心に政治的なまとまりができてきました。
”科野のクニ”と呼ばれているものです。
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(説明板/下段)
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自然堤防と後背湿地
善光寺平を流れる千曲川は、過去に洪水を繰り返したために、その両岸に大量の土砂が堆積して、堤防状の微高地を形づくっています。
そのために、盆地を取り囲む山地から流れ出てくる沢山川や聖川は、出口を阻まれ、自然堤防の背後に広大な湿地を形成しました。
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左岸
1 篠ノ井・塩崎遺跡群 集落遺跡 弥生時代から平安時代(塩先・松節遺跡)
2 石川条理水田址 埋没水田遺跡 弥生時代から近世
3 姫塚古墳 前方後円墳 全長32m 4世紀代の築造
4 川柳(せんりゅう)将軍塚古墳 前方後円墳 全長93m 4世紀後半の築造
5 中郷(なかごう)古墳 前方後円墳 全長53m 5世紀代の築造
6 越(こし)将軍塚古墳 円墳 直径33m 5世紀中頃の築造
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右岸
1 屋代遺跡群 集落遺跡 弥生時代から平安時代(城ノ内・生仁遺跡他)
2 更埴条理水田址 埋没水田遺跡 弥生時代から近世
3 土口(どぐち)将軍塚古墳 前方後円墳 全長67m 5世紀中頃の築造
4 倉科将軍塚古墳 前方後円墳 全長82m 5世紀前半の築造
5 有明山将軍塚古墳 前方後円墳 全長36m 4世紀末から5世紀初めの築造
6 屋代城跡 山城 屋代氏築城 15世紀の築造
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図/左/南西から西にかけて。
森将軍塚古墳の南に、有明山将軍塚古墳。
森将軍塚古墳の南西に、屋代城跡。
対岸(千曲川左岸)に、越(こし)将軍塚古墳。
西の彼方に、北アルプス。
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図/央/西。
西の彼方に、北アルプス。
対岸(千曲川左岸)に、篠ノ井・塩崎遺跡群、聖川を挟んで、石川条理水田址。
山裾に、 越(こし)将軍塚古墳、中郷(なかごう)古墳、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳。
手前(千曲川右岸)に、城ノ内遺跡、更埴条理水田址。 
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図/右/北西から北、更に東にかけて。
彼方に、戸隠山、飯綱山。
対岸(千曲川左岸)、千曲川に流れ込む聖川、その北に石川条理水田址。
手前(千曲川右岸)、城ノ内遺跡、更埴条理水田址、生仁遺跡、土口将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳。
倉科将軍塚古墳は沢山川の北側後背地に位置している。

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眺望図での景色はここまでとし、本物の眺めを。

善光寺平、そして、遥か彼方に北アルプスが白い屏風を広げたが如くに。
森将軍塚古墳の被葬者も、生前、この景色を眺めたであろう。
この眺望が、この尾根に前方後円墳を築造しようと決心させた最大の要素であろう。
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アップで。
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超アップで、南から北へ。
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この風景を眺めながら、山男の南国守さんから白馬三山の話が出た。
この景色が白馬三山だと思い込んでいたが、このブログを綴りながらグーグルマップで確認したところ、白馬三山はもう少し北に位置していた。
因みに、白馬三山とは、白馬岳(2,932m)、杓子岳(2,812m)、白馬鑓ヶ岳(2,903m)。
山に疎い小生、この機会に白馬三山をベンキョーしたのであった。


ここで、案内人さんのことについて少し触れておきたい。
案内人さんは、何でもよくご存知である。
我らの質問に対しても、即答である。
有難いことである。
案内の仕事を14年に亘って務めているという。
冬場はスキーの指導員もされているという。
スキーの指導員、これは、信州の盟友、大給守殿と同じである。
前職は某所で先生をされていたという。
これは「前職は先生ではなかったですか」との我らの質問に対する答えで、当たり!であった。
案内の人には結構、元・学校の先生が多いのである。

下界の古墳館で案内人さんと出会ったときにまで話を戻そう。
我らは、屋代駅に着き、駅前で昼餉を摂り、千曲市森将軍塚古墳館に到着。
受付で案内の人をお願いした。
しばらくすると案内人さんが現れた。
「姥捨へ行っておりまして、今、戻って来ました。姥捨にいい蕎麦やがあるもので...」。
更に言葉を続けて、受付のお嬢さんに「サイクリングロードのマップがあったでしょう。それをこの方々に」と。
我らの頭にヘルメット、背にザックの姿を見ての気遣いであった。
「サイクリングのマップはないんです」と受付のお嬢さん。
「他所で貰ったサイクリングマップが手元にありますので、それを差し上げましょう」と案内人さん。
「それは助かります。サイクリング用のマップがあれば、オニカナ(鬼に金棒)です」と我ら。
そんな会話を交わしたあと、案内人さんと我らは見学バスに乗車し、尾根の森将軍塚古墳へ向かったのであった。

案内人さんから数々の説明があった。
その内容は、上述の通り、説明板併用で記した。

説明板にはない話を幾つか、ここで綴っておきたい。

「この辺りの古墳には、将軍塚という名が付されていますが、何か理由があるのでしょうか?」。
「5~6000人の兵士を統率する人を中国では将軍というそうです。被葬者はそれくらの権力を有していたであろうということから、『将軍塚』と名付けらたとのことです。森将軍塚の『森』は、以前、この辺りは埴科郡森村であったことから『森』と名付けられました」。

北西から北、東を眺める。
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「倉科将軍塚古墳は、右手の山の尾根にあります。木々に覆われていて見えませんが、あの辺りです。倉科氏の鷲尾城跡があり、古墳は城郭の一部に使われていました。その向こうの北の山に土口将軍塚古墳があります」。

指で差し示された辺りに目を遣る。
写真、右手前の山とその奥の山が説明された場所である。
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これで、埴科古墳群の4基の前方後円墳が、北から南に、土口将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳、森将軍塚古墳、有明山将軍塚古墳の順で位置していることが頭の中に入った。
因みに、年代順に並べると、4世紀末/森将軍塚古墳、4世紀末~5世紀初め/有明山将軍塚古墳、5世紀前半/倉科将軍塚古墳、5世紀中頃/土口将軍塚古墳となる。
眺望図と実際に景色を眺めながら説明を聞くと頭の中に入り易い。

「南から北へ流れていた千曲川は、これらの張り出した山の辺りから東へ流れを変えます」。
その辺りをズームアップ。
写真、中央に千曲川の流れが見える。
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「右側の山の向こうに松代があります。佐久間象山は大砲の試し撃ちをするために、大砲を山を越えてこちら側に運んで来ました。平地を通って来ればよいと思うでしょうが、川あり、湿地ありで、山越えの方が楽だったようです」。

「大砲を据えた場所はあの辺りです。緑の土手が見えている辺りです」。
右手(東)、山裾の手前の平地に目を遣る。
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「試射された弾は、今、我々の目の前に見えている畑の上を飛び、左手の神社(写真はなし)の辺りに落ちたとのことです。大砲の弾は貴重ですから、回収に行ったところ、そこは天領だったので返して貰えなかったとのことです」。

本ブログを綴るに際し、グーグルマップを参照。
写真中央に写っている建物とテニスコートは東部体育館、その北に「象山砲術試射地碑」(千曲市生萱)の表示を見つけた。
着弾場所の神社の名は失念したが、或る資料に「幕府領である満照寺に着弾」とあった。
グーグルマップで満照寺を確認したところ、屋代駅の直ぐ東にあり、その直ぐ近くに東山神社もあり、案内人さんが言った神社はこの東山神社に違いない。

佐久間象山といえば、都内をポタリングしていたとき、中央区で「佐久間象山塾跡」なる説明板があったことを思い出す。
また、三浦半島をポタリングしていたとき、浦賀で「吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)」なる石柱を見たことも思い出す。
ばらばらではあるが、『佐久間象山ゆかりの地を訪ねて』に、またひとつ、ゆかりの地が増えたこととなった。

話が古墳から反れてしまった。
反れついでに、もう少し。

姥捨について。
案内人さんは「姥捨の蕎麦やに行って来た」と言っていた。
5年前の、2013年の秋、「乗鞍岳下りま専科」を、ドラポタの盟友、大給守さん、南国守さん、ハリポタの盟友、御典医さんと六々守さんと共に挙行。
そのあと、松本で大給守さん、御典医さん、六々守さんは帰館。
南国守さんと小生は、更にポタリングを続け、松本から長野へ輪行する際、JR篠ノ井線に乗った。
途中、姥捨駅に停車。
そのときのことを兄弟ブログ『上総守が行く!』に綴ったことがあり、マイ・ブログを紐解いてみた。
2013年10月16日付け『天空ポタ/究極の下りま専科』 第27話<松本~長野、篠ノ井線輪行の巻> で縷々綴っていた。

そこに掲載されている写真を見て驚いた。
善光寺平とその向こうに屋代地区とその周辺が写っている。
千曲川右岸の山並みは、今、我らが森将軍塚古墳から眺めているのと同じである。
グーグルマップで確認すると、姥捨駅と森将軍塚は、善光寺平、千曲川を挟んで、南西と北東の位置関係にある。
まさか5年後に善光寺平の反対側にいよう、しかも森将軍塚古墳のある尾根にいようとは、そのとき、露ほどにも思わず、撮った写真であったのだが...。

折角なので、マイ・ブログを抜粋して、ここに転載しておこう。

=====quote=========================
松本駅を発つ。
しばらく走ると、電車は線路上でストップ。
随分と長く止まった後、漸く、動き出した。
「線路に置き石がありましたので、点検しておりました」との車内アナウンスあり。
物騒な話である。
(中略)
「姥捨駅」に到着。
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おお、この地が彼の有名な深沢七郎の「楢山節考」にもなった姨捨伝説の地かと思うと同時に、「右手に、風光明媚な善光寺平がご覧になれます...」の車内アナウンスが流れる。

車窓から善光寺平を眺める。
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ホームの椅子が向こう側を向いている。
ここに座って、ホームからの善光寺平の眺めをゆっくり楽しんでくださいという駅の心遣いがうかがえる。

「上総さん、こっち側のホームに投句箱がありますよ」との南国守殿の声。
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五七五を捻くり回し、駄句を乱発している上総を思っての南国守殿の声掛けであった。
ということで、投句箱を撮った訳だが、こうしてブログを編集していたところ、投句箱の横にある碑が気になる存在となった。

フォトを拡大してみると、碑に刻まれた文字は不鮮明ながら「月の友」の文字が読み取れた。
芭蕉の句「おもかげや 姨ひとりなく 月の友」の句碑であった。
芭蕉は、元禄元年(1688年)、名古屋から木曽路を経て、この地を訪れ、古人に倣い、更科姨捨山で月見をして江戸に戻った。
そのときの紀行文が『更科紀行』である。
句碑に刻まれた句はこのときに詠んだものなのであろう。

「月の姥捨 さらしなの里へ ようこそ/姥捨駅愛好会」。
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このホームのフェンスに掲げられた看板から姥捨駅とその周辺の素晴らしさが伝わってくる。
この看板に描かれているイラストは「田毎の月」である。
この辺りには名所旧跡がいっぱいある。
いつの日か、中秋の名月の頃に、この地をゆるりと巡ってみたいものである。

全国でも珍しいスイッチバックの後、長野方面へ走り出した。
車窓を流れ行く、善光寺平の風景を眺める。
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約30分遅れで長野駅に到着。

フォト:2013年9月9日
===========================

翌2014年の秋、「高峰高原下りま専科」を挙行したあと、佐久平をポタリングした。
佐久平を走ったことでもあり、次は善光寺平も走ってみたいと思うのであった。
「田毎の月」も含めて...。

話を森将軍塚古墳に戻そう。

条理制にも興味がある。
「先ほど見た眺望図の中に、更埴条理水田址とありましたが、眼下に見えるのがそれでしょうか。南の方から住宅が迫って来ていますが、今、見えているのは保存地域なのでしょうか」。
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「洪水を繰り返しているので、条理制の跡は地下数メートルのところにあります。今、畑のところは保存地域ではなく、南の方から宅地化が進みつつあります」。

写真、手前のクリーム色の建物は千曲市森将軍塚古墳館、その前を斜めに走っているのが県道392号線、右手、南北に走っているのが上越自動車道。
遥か彼方に、戸隠山(左、1,904m)、飯綱山(右、1,917m)・・・眺望図、参照。
その間に、白く冠雪した山が垣間見えるが、さて、その山の名は?

盛りだくさんな墳丘での見学であった。
そろそろ、時間。
バス停へ向かう。

「頂戴したサイクリング・マップ、参考にさせていだきます。これから戸倉上山田温泉へ、明日は戸倉上山田温泉から上田方面へ走ります。
国道18号線は走りたくありません。千曲川左岸のサイクリングロードは、戸倉上山田温泉、上田まで通じていますか?」。
「ところどころで、一般道と一緒になったりしますが、通じています。古墳館の前の道を西へ、西へ行き、栗佐橋を渡ります。ここから見えているあの橋です。それを渡ると千曲川左岸です」。
「森将軍塚古墳を堪能しました。周辺のこともいろいろベンキョーになりました。有難うございました」。

次のお客さんをここで待つという案内人さんと別れ、ミニバン見学バスで下界へ下った。

古墳見学前に、古墳館で軽くヨシューした。
今度は、古墳見学後の、古墳館でのフクシューである。

フォト:2018年5月11日

(つづく)






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# by ryujincho | 2018-05-14 23:34 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/森将軍塚古墳(中)』 sp-3

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

千曲市/森将軍塚古墳。

下界の資料館「千曲市森将軍塚古墳館」発の見学バスに乗車。
九十九折を登り、有明山の尾根に築造された古墳近くのバス停に到着。

「何時頃、迎えに参りましょうか」と運転手さん。
事前調べのときに古墳館に電話で聞いた通り、送迎は随時なのである。

「30分後」と南国守さん。
「説明を聞きながら、古墳を見学し、景色も眺める。そして、質問もいろいろしたくなる。となると、30分以上は掛かるでしょう」と武衛さんと小生。
案内人さんに「我々は時間は十分にあります。目一杯、説明をいただいたとして、どれくらい必要でしょうか」と尋ねた
「そうですね、40分から50分くらいは必要です」。
「では、運転手さん、迎えは1時間後でお願いします」。

「史跡 森将軍塚古墳」。
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有明山の尾根に築造された前方後円墳。
遂にその姿を間近に見た。
前方部に見学中の小学生の子供たちの姿が見える。
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案内人さんの話を聞く。
古墳を見比べながら。
そして、説明板も見比べながら。
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----------------------------------------------
森将軍塚古墳は、全面発掘調査の結果に基づいて、古墳築造時の姿に復原整備を行いました。
----------------------------------------------
前方後円墳に代表される古墳は、4世紀に入る頃、近畿地方の有力者たち(大和王権)によって築かれ始めたと考えられています。
古墳の形や大きさは、大和王権と各地の有力者たちとの関係の深さと力の大きさなどによって決まるといわれています。
長野県下で最初の、そして、最大の前方後円墳である森将軍塚古墳は、”科野のクニ”の最初の王者の墓といってもよいでしょう。
古墳は、主がおさめた善光寺平を一望できる、この狭い尾根の上に築かれたので、折れ曲がった形になったと考えられています。
また、尾根を削ったり、土を盛り、形を整え、表面にはこの山から集めた石英斑岩を葺き並べています。
-----------------------------------------------

「狭い尾根に築かれたので、折れ曲がった形」。
前方後円墳は、通常、シンメトリー。
だが、常識に反した、この「狭い尾根に築かれたので、折れ曲がった形」が、是非、森将軍塚古墳を訪ねてみたいと思わせたポイントであったのだ。

俯瞰図。
前方後円墳とその周辺の古墳(倍塚もしくは後の時代の墓ともいわれるものも一部ある)が図示されている。
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図示されいる周辺古墳を読み取ると次の通りである。
・前方部の下(南側)に、4号墓(これは後の時代の墓ともいわれている)と12号墳(これは倍塚ともいわれている)がある。
・後円部の左(西側)に、3号墳、4号墳、10号墳、9号墳、5号墳がある。
・後円部の上(北側)に、8号墳、7号墳、14号墳、13号墳、6号墳がある。
都合11基の周辺古墳(倍塚と推定されるものも含む)と1基の墓(後の時代の墓ともいわれている)が位置している。


水平図、断面図。
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------------------------------------------
平面図
墳丘長:約100m、前方部幅:約30m、後円部幅:約43m
葺石:約80,000個の石が並べられています。
貼石帯:石を敷き詰め、古墳の形が整えられています。
------------------------------------------
断面図
前方部高さ:約4m、前方部/後円部境界高さ:約3m、後円部高さ:約10m
丘尾切断部:古墳は尾根を断ち切り、造られています。
埴輪:約200個の埴輪が並べられています。
竪穴式石室:主の棺が納められています。
-------------------------------------------

「丘尾切断部」は前方部の裾と尾根の地面の間の箇所に矢印で示されている。
尾根の形状を利用しながら、前方後円墳の形に掘削し、築造していったということであろう。

古墳の種類と大きさ。
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--------------------------------------
古墳の種類
前方後円墳 円墳
前方後方墳、方墳
--------------------------------------
古墳の大きさ
仁徳天皇陵/墳丘部長さ 486m
森将軍塚古墳/墳丘部長さ 100m
クフ王のピラミッド/底辺 230m
始皇陵/底辺 350m
---------------------------------------

仁徳天皇陵、クフ王のピラミッド、始皇陵は、いずれも平地に築造されているが、森将軍塚古墳は山の尾根に築造されている。
古墳の大きさの比較もさることながら、この尾根に築造されているということが他の古墳と大いに異なるところであり、その築造場所に感心するのである。

古墳の築造。
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-------------------------------
古墳の築造
すべて、人の力で築かれました。
(1日約100人で約550日)
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発掘調査。
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発掘調査
形や大きさなどを確かめる調査がおこなわれました。
(1日約20人で約500日)
---------------------------------

復原工事。
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--------------------------------------
復原工事
クレーンやトラックなどの機械が使われました。
(1日約10人で約300日)
--------------------------------------

「古墳の築造...(1日約100人で約550日)」、「発掘調査...(1日約20人で約500日)」、「復原工事...(1日約10人で約300日)」は、なかなか面白い説明である。
古墳築造の1日100人と復原工事の1日10人は、古墳時代と現代の人口から考えると、古墳築造時の人集めだけでも大変なことであったことが推し測れる。

今一度、説明板の位置から古墳を眺める。
先ほどまで墳頂部にいた小学生の子供たちの姿は消えていた。
築造を終え、作業に携わっていた工人たちがいなくなったような感じである。
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墳丘へと向かう。
先頭、案内人さん、続いて、武衛さん...。
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葺石をアップで。
説明板に「表面にはこの山から集めた石英斑岩を葺き並べています」、「約80,000個の石が並べられています」とあった。
後刻、葺石について、案内人さんから話を聞いた。
それについては、続編にて。
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くびれ部近くで立ち止まって、何か説明を受けている。
急ぎ、そちらへ。
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説明を受けていたのは、これ。
4号埴輪棺。
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説明を聞きながら、説明板にも目を通す。
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-------------------------------------------
埴輪
森将軍塚古墳には、壷の形、壷をのせる台から変化した円筒形、壷と台を組み合わせた朝顔形、家形などの儀礼的なものを型どった埴輪がたくさん並べられていました。
後に、こうした埴輪を棺に再利用した埴輪棺が造られ、4号埴輪棺の付近を中心に12基みつかっています。
組合せ式箱形石棺などと共に5世紀代に造られた、小さなお墓のひとつです。

図、左上/埴輪棺の位置(右側のくびれ部辺り)
図、左下/埴輪棺
図、右/上段:象形埴輪、朝顔形埴輪、壷形埴輪、
図、右/下段:円筒埴輪、土をこねる人、埴輪の形に整形する人
-------------------------------------------

4月半ば、弥生時代の遺跡、吉野ヶ里遺跡を訪ねた。
その際、甕棺墓群を見学した。
甕棺と埴輪棺の比較学なるものがあるのだろうか?
調べてみたい。

前方部から後円部の流れるような線を眺める。
前方部から後円部へ、ぐぐっと一気に立ち上がっている姿が見事である。
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墳頂へと進む。

フォト:2018年5月11日

(つづく)

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# by ryujincho | 2018-05-14 23:33 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/森将軍塚古墳(上)』 sp-2

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅。

しなの鉄道屋代駅で下車。
駅前で昼餉を摂り、最初の探訪先、森将軍塚古墳へ。

県道392号線を北上、須須岐水神社を正面にして右折。
国道403号線を東へ、しなの鉄道の踏切を渡り、しばらく走る。
前方に「森将軍塚古墳→」の標識が目に入る。
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南側の有明山を眺める。
有明山の尾根にしっかりと森将軍塚古墳が見える。
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ズームアップ!
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千曲市森将軍塚古墳館(左)と森将軍塚古墳(前方)。
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「森将軍塚古墳館観覧券・バス往復券」とリーフレット「科野の里歴史公園 森将軍塚古墳館」。
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今回の旅の企画時、事前の調べで「古墳まで歩いて20分、見学バス(有料)も利用できます」とあった。
森将軍塚古墳館に電話で確認した。
「古墳まで見学バスも利用できるとのことですが、その時刻表は?」。
「見学バスは随時、出ます」。
「古墳での滞在時間は?」。
「運転手に希望時間を伝えて戴ければ結構です。随時、対応します。なお、古墳館も見学バスも午後4時半までとなっています」。
「徒歩の場合、片道約20分とのことですが、自転車は可能ですか?」。
「自転車は乗り入れ禁止となっています」。
「有難うございます。よく分かりました」。

史跡めぐりの際、現場を先に見学するか、資料館を先に見学するか、これはいつも迷うところである。
資料館、現場、そして、もう一度、資料館、これが理想である。
この日は時間は十分にある。
古墳館で軽くヨシュー、古墳でフィールドワーク、古墳館でじっくりフクシュー、ということになった。
実際は、そういう順であったが、本ブログでは、編集の都合上、古墳見学、古墳館見学の順でアップロードとする。

見学バス。
ボディの図柄は森将軍塚古墳。
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このバスは団体用。
我らは3名+案内人さん1名の計4名の少人数なので、森将軍塚古墳の図柄のない普通のミニ・バンに乗車。

九十九折の坂道をミニバンは力強く登って行く。
自転車で登って、古墳を見学し、そのあと、『下りま専科』を楽しもうと、事前調べのときに自転車の可否を尋ねたのであった。
しかし、この九十九折の坂道をバスで経験し、例え、自転車の乗り入れ可であったとしても、これは無理やなあと思った。

このブログを綴りながら、グーグル・マップを眺め、九十九折の坂道を確認した。
併せて、森将軍塚古墳の位置を今一度、グーグル・マップで確認した。
・森将軍塚古墳は有明山(標高651m)の北側の尾根(標高490m)に位置している。
・有明山は南北に連なる山並みの北端にある。
・南北に連なる山並みの下を北陸新幹線と上越自動道が貫通し、有明山の北端で平地に出ている。
・屋代駅や森将軍塚古墳の辺りから東を見ると、約20kmの地点に、日本百名山のひとつ、四阿山(標高2,345m)があり、有明山はその山並みの西端に位置している。
・我々は屋代駅から北側をぐるっと回り、有明山の北端裾に来たが、駅前のおしぼりうどんの女将さんが「わたしらは、駅の向こう側の山を登って将軍塚古墳へ行く」と言っていたが、駅の真東に森将軍塚古墳に通じる山道があり、これを登っていくという意味であることが分かった。

ミニバンは森将軍塚古墳近くのバス停に到着。
いよいよ、森将軍塚古墳をこの目で間近に見ることとなる。


フォト:2018年5月11日

(つづく)


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# by ryujincho | 2018-05-14 23:32 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 05月 14日

『信州史跡めぐり&宴の旅/序』 sp-1

5月11日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、二泊三日の信州の旅に出掛けた。

今回の旅に出掛けることとなった経緯などについて簡単に触れておきたい。

昨2017年1月、ドラポタの盟友、大給守さんは長年の江戸勤番を終え、国許の信州に隠居した。
ドラポタの盟友、武衛さんとドラポタの史跡めぐり組として、2015年の秋から「国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社めぐり」をテーマとし、その後、「古墳めぐり」もテーマに加え、あちらこちらをめぐっていた。
大給守さんと久方ぶりに一献やろうと、森将軍塚(千曲市)、信濃国分寺跡・国分尼寺(上田市)、中曽根親王塚(東御市)跡の探訪も兼ねて、信州へ赴くこととした。

今回の探訪先等は次の通り。
初日:
・森将軍塚古墳(千曲市)
・千曲市森将軍塚古墳館(千曲市)
・長野県立歴史館(千曲市)
・戸倉上山田温泉で夜宴(千曲市)
二日目:
・荒砥城跡(千曲市)
・科野大宮社(上田市)
・信濃国分寺跡・国分尼寺跡(上田市)
・信濃国分寺資料館(上田市)
・(後継寺院)信濃国分寺(上田市)
三日目:
・北国街道 海野宿(東御市)
・海野宿歴史民俗資料館(東御市)
・中曽根親王塚古墳(東御市)

題して「信州史跡めぐり&宴の旅」。

09:44 東京発(あさま607号長野行き)、11:20 上田着、11:28 上田発(しなの鉄道長野行き)に乗り継ぎ、屋代駅へと向かう。

「今、千曲駅です。次、下車駅の屋代です」。
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千曲市は、2003年(平成15年)、更埴市・更級郡上山田町・埴科郡戸倉町が合併して発足。
更埴市は、1959年(昭和34年)に更級郡稲荷山町と八幡村、埴科郡埴生町と屋代町との合併により成立し、「更級」と「埴科」のそれぞれの頭文字から「更埴」と名付けられた。
更埴市のときまでは、由緒正しい「更級(さらしな)」と「埴科(はにしな)」の名が市名に辛うじて残されていたが、千曲市の市名にはその面影は全くない。
寂しい限りである。

戸倉駅は、この夜、大給守さんも加わり、宴を催すこととしている戸倉上山田温泉の最寄駅である。
戸倉の読みは「とくら」と思っていたが、「とぐら」と濁るのであった。
地名の読みには微妙なものがある。

輪行中のしなの鉄道車内にて。
「南国さん、1枚、写します!にこっ!」。
左/ご機嫌な南国守さん。
右/これから探訪する森将軍塚古墳に思いを馳せる武衛さん。
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ドアの下面に、寒冷地らしい注意書きがある。
「あつい! 冬帰還はドアレールが熱くなりますのでさわらないでください」。
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11:51、しなの鉄道/屋代駅に降り立つ。
乗って来た長野行き電車を見送る。
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改札。
ローカル駅の改札は好きな風景のひとつである。
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運賃表。
運賃よりも路線図に興味あり。
しなの鉄道はJR東日本から経営分離された第三セクターの鉄道。
その経緯の詳細はここでは省略するが、JR東日本とは仲が悪いようである。
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駅出口の足元に"SHINSHU BRAVE WARRIORS"の敷き物。
"SHINSHU BRAVE WARRIORS"って、何?
ゲームソフト?
まさかっ!
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出口の頭上にも"SHINSHU BRAVE WARRIORS"。
"SHINSHU BRAVE WARRIORS"って、何?
ゲーム・ソフトでないことだけは確か。
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出口の脇に、顔抜き看板の"SHINSHU BRAVE WARRIORS"。
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"SHINSHU BRAVE WARRIORS"は、千曲市をホームタウンとするプロ・バスケット・チームであった。

今日の partners。
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今日の jitensha。
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ちょうど、昼餉時。
駅前通りにの右に大衆食堂、左の路地に「うどん」と染め抜かれた幟旗が立つ店あり。
信州といえば蕎麦だが、信州のうどんなるものにもちょいと惹かれる。
”合議”の結果、「うどん」の店に入る。

品書きからして、うどん屋ではなく、居酒屋である。
品書きの「郷土の味 おしぼり」に目を惹かれる。

「あのー、『郷土の味 おしぼり』って、どんなものですか?」
「釜揚げうどんを大根おろしの絞り汁につけて食べる、というものが、おしぼりうどん、なんですよ」と店の女将さん。
「では、それを三人前、お願いします」。

「新幹線を使うと長野県は近いですね」。
「朝10時前後に東京を出て、12時ちょうどに昼餉は長野県で。近さを実感しますね」
「この店はうどん屋というよりも、居酒屋。となれば、『おしぼり、下さい』なんていう客もいるだろうね。となると、いわゆる、手を拭くおしぼりなのか、郷土の味のおしぼりなのか混同するやろね」。

そんな会話をしているところへ、おしぼりが運ばれて来た。
手を拭くおしぼりじゃなくって、食べ物のおしぼりが、である。

おしぼりうどんが如何なるものなのかは、写真があれば一目瞭然なのだが、グルメ写真は撮らない主義。
ことばで表すと、一人前ずつ、お盆の上に並べられ、登場したものは次の通り。
・釜揚げうどん
・大根おろしの絞り汁
・葱、鰹節、味噌の薬味皿(強調しておきたいのは味噌)
・煮物の小鉢
・漬物

「先ず、薬味の味噌はなしで食べてみてください。次に、味噌を入れて食べてみてください。味噌は全部入れると辛いので、少しずつ、お好みで入れてください」と、おしぼりうどんは初めての客にの食べ方の親切なアドバイスあり。

絞り汁そのものは余り辛さはないが、熱いうどんを入れるとぐっと辛さを増す。
唐辛子などの辛さとは違い、爽快な辛さである。
味噌を入れると、ぐっと旨さを増す。

辛味大根の大根おろしが添えられた辛味そばは食べたことがあるが、おしぼりうどんは初めて味わうものである。

yome が讃岐出身なもので、これまでに食べたうどんは讃岐うどんがいちばん多いと思うが、稲庭うどん、武蔵野うどんに、しまだやのうどん(これはちょいと違うか)なども食しており、今回は初の信州の「おしぼりうどん」、何事も経験が大事である。

そうこうしているところへスマホが鳴った。
大給守さんからの電話であった。
「到着されましたか?」。
「予定通り到着しました。今、屋代駅の駅前で、おしぼりうどんなるものを食べ終わったところです」。
「おしぼりうどん、食べられましたか!それはよかった!お勧めです」。
「今日、戸倉上山田温泉に何時頃に到着できそうですか。我々は遅くとも5時頃には到着の予定です」。
「6時頃になろうかと」。
「了解です。先に風呂に入っておきます。夜宴は6時45分からとしましょう」。

おしぼりうどんの店の壁に貼られたポスター。
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「自転車で来られたんですね。何処からですか」と店の女将さん。
「何処から?」と聞かれると、毎度、悩むのはその答え方。
「東京方面から」というと、東京方面からここまで自転車で来たのかと思われるし、ここは面倒でも「東京方面から新幹線としなの鉄道を乗りついて、さっき、屋代駅に着いたところです」と答えるのが早いので、そう答えた。

続けて、「今から、森将軍塚古墳へ行きます。道順は、北へ行って、右へ曲がり、踏切を越えて、しばらく走ったところの右側ですね」。
「その通りです。わたしらは駅の向こう側から山を登って行っていましたが、自転車ならその道順です。気をつけて行ってください」。
「では、行って来ます」。

ひとつめの探訪先、森将軍塚古墳へと向かう。

フォト:2018年5月11日

(つづく)




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# by ryujincho | 2018-05-14 23:31 | 信州史跡めぐり 2018 | Comments(4)
2018年 05月 06日

『初夏の利根川~利根運河~江戸川ポタリング/江戸川左岸CRの巻』 te-3

5月5日(土曜)、晴れ。
利根川~利根運河~江戸川コースを単騎ポタリング。
このコースを走るのは久しぶりのことだ。

江戸川左岸CR。
このCRはいつ走っても気持ちがいい。
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田植えが終わった水田。
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カヤックと並走。
向かい風が強いせいか、川岸に近いコースをとっている。
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先行のカヤックに追いつき、川の中央にコースを変える。
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向かい風は、結構、強い。
川面は波立っている。
jitensha もカヤックも向かい風は辛い。
カヤックは川の流れの助けがあるから、向かい風は川の流れで相殺されるんじゃないかと思うも、
川は向かいから波が押し寄せ、カヤックはその波の抵抗にも合っており、相殺効果はないかもしれない。

そんなことを思いながら、こちらはスピードを上げ、並走から単騎走に。

畔の木立が切れたところで、カヤック部隊を待ってみようと思い、jitensha をとめる。
畔の草むらで動くものがある。
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ズームアップ。
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オスのキジの先にメスもいた。
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カヤック部隊を待たずに出発する。

背音が聞こえてきそうな浅瀬が見える。
この背をカヤックが通過する風景を見てやろうと、彼らを待つ。

赤いカヤックが現れた。
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続いて、後続も現れた。
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彼らは上流までカヤックを車に載せて搬送したはずである。
その車はどうしているのだろうか。
友達が下流まで運転し、彼らが下流のポイントに到着するまで待っているのだろうか。
そんな余計なことを考えながら走っているうちに、馬橋の辺りに差し掛かる。
愛馬の後輪リムが磨り減っており、交換せねばならないので、その打ち合わせをしようと思い、
サイクリング・ロードから外れ、馬橋の厩舎に向かった。

走行距離43kmの、利根川~利根運河~江戸川ポタリングであった。

フォト:2018年5月5日

(完)



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# by ryujincho | 2018-05-06 23:33 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 06日

『初夏の利根川~利根運河~江戸川ポタリング/運河水辺公園の巻』 te-2

5月5日(土曜)、晴れ。
利根川~利根運河~江戸川コースを単騎ポタリング。
このコースを走るのは久しぶりのことだ。

運河水辺公園。
春は桜が運河を彩る。
秋は鍾馗水仙が運河を彩る。
今日は5月5日、子供の日(&結婚記念日)。
鯉のぼりが運河を彩る。

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フォト:2018年5月5日

(つづく)

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# by ryujincho | 2018-05-06 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 06日

『初夏の利根川~利根運河~江戸川ポタリング/東深井古墳群の巻』 te-1

5月5日(土曜)、晴れ。
利根川~利根運河~江戸川コースを単騎ポタリング。
このコースを走るのは久しぶりのことだ。

利根川は、いつもはサイクリングロードとなっている右岸内側土手コースを走るのだが、今回は冒険心(???)が湧いて、利根川右岸外側土手コースを走ってみた。

根川右岸外側土手コースは、初めて走るコースである。
しばらくはサイクリングロード風であったが、すぐに途切れて一般道に合流してしまった。
「こりゃー、やっぱり、内側の土手ロードを走るべきであった」と思いながら、県道7号線、国道16号線を経由して、利根運河に出た。

利根運河/利根川方面。
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利根運河/江戸川方面。
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久しぶりに、東深井古墳群に立ち寄ってみた。
これまでも、利根運河CRを走ったときに、ときどき、立ち寄って見学したことがある古墳である。
或るとき、盟友、大給守さんは江戸川CRを河口方面から遡上、小生は利根川CRを遡上し、利根運河CRを走り、江戸川・利根運河合流地点で、落ち合い、東深井古墳群を見学、その近くのベンチで<ラーメン野点>で昼餉を摂り、<野点>のあと、それぞれ、再び、来た道を辿り、帰館したというようなこともあった。
それはいつのことであっただろうかと、記録を紐解くと、2011年10月10日のことで、随分、昔のことであった。

古墳めぐりをテーマに掲げて以降、東深井古墳群を訪ねるのは今回が初めてである。

説明板その1/「東深井古墳について」。
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東深井古墳について
古墳時代の人々は、一族の首長や権力のあった人が死ぬと、多くの時間と労力を費やして古墳を築きました。
古墳は、死者への敬意と悲しみを表現した重要な遺跡です。
東深井古墳群が造られ始めたのは埴輪の研究により6世紀から7世紀の初め頃と考えられています。
かつては40基を超える古墳がありましたが、現在はこの公園にある13基だけとなっています。
古墳上には、人(武人・貴人・女子)・動物を表しあ形象埴輪や円筒形をした円筒埴輪が出土しています。
埴輪は、死者への供物として、また、古墳を飾るための墳丘上や裾に囲むように立てられていました。
深い古墳群では、発掘を行ったほとんどの古墳から埴輪が出土しています。
中でも7号古墳からは出土例が少ない魚の埴輪や鳥の埴輪が、9号墳からは盾をもつ人物埴輪が発見されています。
このような埋蔵文化財(古墳をはじめ海図かや集落跡、出土した土器や石器など)は、私たちの貴重な財産を大切に保存・活用し、後世の人々に継承していきましょう。
流山市
流山市教育委員会
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魚形埴輪。
これまでに、いろいろな埴輪を見て来たが、魚の形をした埴輪があることは初めて知った。
この魚形埴輪ついては、のちほど、述べたい。

説明板その2/「東深井古墳群」。
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東深井古墳群
古墳時代後期(6~7世紀)に造られた有力者一族の墓。
前方後円墳1基と円墳11基の群集墳。
人物や馬、鶏、珍しい魚などの埴輪が出土。
東深井地区公園は昭和59年(1984)設置。
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「東深井古墳の森案内図」。
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以前、ここへ来たとき、古墳群をぐるっと回ったことはある。
しかし、当時は古墳めぐりをテーマとはしておらず、古墳といわれてみなければ、古墳には見えないような崩れた古墳が多いな、と思った程度であった。

今回は、魚形埴輪が出土したという円墳の7号古墳と、唯一の前方後円墳という9号墳を中心に見学することにした。

「〇号墳」が図示されており、それらに「円墳」や「前方後円墳」が矢印で示されているようだが、風化、劣化して、なかなか見辛い案内図である。
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東奥の、7号墳と9号墳をアップで。
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案内図の右下に記された注意事項。
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注意事項
この古墳は、地権者の方々の御好意により開設されたものです。
いつもきれいに大切にしましょう。
古墳は古代人のお墓です。
墳丘に登らないでください。
古墳の墳丘や廻りをみだりに掘ることは法律で禁止されています。
流山市
流山市教育委員会
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もっともな内容の注意書きである。

17号古墳。
古墳特有の<こんもり>は視認できない。
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10号古墳。
こちらの古墳も<こんもり>は視認できない。
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魚形埴輪が出土した7号古墳。
この古墳は、しっかりと<こんもり>が視認できる。
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7号墳から前方後円墳の9号墳へ。
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9号墳。
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前方後円墳とのことだが、一見しただけではそれは分からない。
「9号墳」の標識から時計回りで周囲をぐるっと回ってみることにした。

北側へ歩く。
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北側の斜面は削られており、一部は駐車場になっている。
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北斜面を東へ進むと右に回り込むと、前方後円墳の南斜面と思われる踏み分け道になる。
少し進み、西側から眺めてみる。
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更に少し進んで、西から眺める。
左側(北側)は9号墳と思しき<こんもり>、踏み分け道を挟んで右側(南側)も<こんもり>らしき地形である。
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ぐるっと時計回りで回って、再び、「9号墳」の標識前に戻って来た。
前方後円墳の形は具体的には確認できなかったが、「9号墳」の標識側が前方部か後円部の西端とし、この一画が東西方向の前方後円墳であると思えなくもない。

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新緑。
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コゲラが木を突っつく音が聞こえる。
音のする方に目を凝らし、音の主を探す。

いた!
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東深井古墳群は、鳥見スポットでもある。
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古墳めぐりの相棒、武衛さんに同道してもらい、今一度、この9号古墳を<吟味>してみようと思うのであった。


(メモ)
7号古墳出土の魚形埴輪について:
流山市立博物館に展示されているのではないかと同館に確認の電話を入れた。
レプリカが展示されているとのことであった。
本物は野田市立郷土博物館に収蔵されているとのことであった。
本物の見学は可能か同館に確認の電話を入れた。
常設展示はしていないという。
毎年2月と3月に収蔵物の特別展示を行うという。
開催年によって特別展示されるものは異なるという。
来年2月、3月の特別展示で、魚形埴輪が展示されるかどうかは分からないという。
東深井古墳群は流山市であるにも拘らず、そこからの出土品である魚形埴輪は野田市に収蔵されており、これについて尋ねてみた。
歴史学者の下津谷達男氏が東深井古墳群の発掘調査に携わったことによるものだという。
下津谷達男氏についてネット検索してみた。
同氏は野田市の出身で、國學院大學で王朝文学を学ぶ学生の頃に、東深井古墳群をはじめ、江戸川沿いの古墳の発掘調査に関わり、以後、王朝文学から考古学に転身した経歴を持ち、晩年(?)には野田市立郷土博物館の館長も務めたという人物であった。
そうしたことから、流山市内の古墳出土品ではあるが、野田市立郷土博物館に収蔵されているのだと想像するのであった。
先ずは、近いうちに、流山市立博物館でレプリカを見学してみようと思うのであった。


フォト:2018年5月5日

(つづく)





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# by ryujincho | 2018-05-06 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 05月 05日

『初夏の、柏あけぼの山農業公園』

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5月5日(土曜)、晴れ。

柏あけぼの山農業公園。
緯線、ここの風景写真を掲載したとき、「オランダへ行かれてたんですね」といわれたことがあった。
今回、こうして、この写真を眺めながら、柏あけぼの山農業公園といわなければ、オランダに見えなくもないなあと思った。

オランダには幾度か訪ねたことがある。
最後に訪ねたのは2004年の春であった。
そのときから、随分と月日が経ったなあ...。
マウリッツハウス王立美術館で『青いターバンの少女』や『デルフトの眺望』などのフェルメールの作品を鑑賞したなあ...。
アムステルダム国立美術館ではレンブラントの『夜景』を鑑賞したなあ...。
『牛乳を注ぐ女』や『小路』などフェルメールの作品も鑑賞したなあ...。
コンセルトヘボウでロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏を聴いたなあ...。

学生の頃に買った、若き常任指揮者、ベルナルド・ハイティンク指揮/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のブルックナーの交響曲第9番のレコードは、楽団がコンセルトヘボウの舞台にすらっと並んだ写真が掲載された見開きのジャケットであった。
その頃、叶うものなら、いつか、このコンセルトヘボウでライブを聴きたいと思った。
1988年、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は100周年を機にロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団に改称したということもあった。
2004年の春、30数年の時を経て、学生時代の念願が叶ったのであった。

柏あけぼの山農業公園の風景は、そんなことを思い出させてくれるのであった。

春に咲く花、初夏に咲く花、盛夏に咲く花...、この公園はこれからもいろいろな花で目を楽しませてくれるのである。

フォト:2018年5月5日

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# by ryujincho | 2018-05-05 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 04月 30日

『ドラポタGWポタリング/比企丘陵古墳めぐり/雷電山古墳』 hk-10

4月30日(月曜)、晴れのち曇り。
「ドラポタGWポタリング/比企丘陵古墳めぐり」と銘打ち、久しぶりにドラポタ・メンバー、武衛さん、南国守さん、上総の3名、打ち揃いてのポタリング。

今回のプランは次の通り。

JR高崎線/鴻巣駅
〜黒岩横穴墓群
〜吉見観音(岩殿山安楽寺)・・・現地で追加
〜岩室観音堂
〜吉見百穴
〜大谷瓦窯跡
〜秋葉神社(多分、古墳)
〜比丘尼山横穴墓群
〜雷電山古墳(大雷神社)
〜東松山駅前で名物「やきとり」で反省会(豚のカシラなれど「やきとり」とは此れ如何に)
〜東武東上線/東松山駅

黒岩横穴墓群、吉見観音(岩殿山安楽寺)、松山城跡(説明板のみ)、岩室観音堂。吉見百穴、吉見町埋蔵文化財センター、大谷瓦窯跡、比丘尼山横穴墓群、秋葉古墳(秋葉神社)をめぐり、残るはあと一ヶ所、雷電山古墳(大雷神社)である。

県道307号線を東へ走る。
先ほどの大谷交差点を左折し、県道391号線を北上する。

雷電山古墳(大雷神社)は川越カントリークラブ(東松山市なのに川越とはこれ如何に)へ向かう坂道の途中にあるというのが、事前の調べ。
目印は川越カントリークラブの看板である。

県道391号線を北上、しばらくして、左右に「←雷電山古墳」の標識と「←川越カントリークラブ」の看板が見えた。
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「市指定遺跡 三千塚古墳群 雷電山古墳」。
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標識に従い、左折する。
上り坂が始まる。
川越カントリークラブは、先ほど、立ち寄った比丘尼山と同じ丘陵に位置している。
丘陵の最南端に比丘尼山があり、川越カントリークラブは丘陵の北部にある。

坂道を上れども上れども、雷電山古墳(大雷神社)は現れない。
先ほど、県道391号線には立派な標識があったが、その後は何ら標識は現れない。
上り坂では「〇〇まであと何百メートル」とかの表示を設けるのが親切というものである。

右手にゴルフコースが見えて来た。
左手にもゴルフコースが見えて来た。
しかし、古墳や神社が現れる気配はない。
更に、上り坂を進む。
疲れて来る。
休憩する。

南国守さんが「斥候で先行します」と、再び、上り始める。
南国守さんが戻って来た。
「直ぐ、そこにありました」と。

出発する。
休憩したところから100メートル行かないところに、大雷神社と雷電山古墳があった。
人間、坂道が続くと気弱になる。
兎にも角にも、先ほどは比丘尼山横穴群では藪を掻き分けての横穴探し、そして、今度は、坂道を先行し、斥候を務めてくれた南国守さんに感謝!である。

「村社 大雷神社」。
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「雷電山古墳」、「←雷電山古墳(大雷神社)」。
古墳好きと神社好き、両方とも満足させる標識であるところが面白い。
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標識の背後の松林の下にゴルフ・コースが写っている。
川越カントリークラブのコースレイアウトを参照すると、これは東コース/8番のようだ。

説明板に目を通す。
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三千塚古墳群
昭和31年市指定史跡
大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。
これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳」と呼んでいます。
三千塚古墳群は、明治20年~30年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。
そのときに出土した遺物は、県外に持ち出されてしまい不明ですが、一部は国立博物館に収蔵されています。
三千塚古墳群からは、古墳時代後期(6~7世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・管玉など)が出土しています。 
雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に作られています。
この古墳は、高さ8m・長さ80mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。
雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。 
雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから5世紀初頭(今から1500年位前)に造られたものと思われます。
また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、6世紀初頭から7世紀後半にかけて、造られつづけた古墳であると思われます。
昭和52年3月
東松山教育委員会
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実測図。
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説明板の中に「雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に作られています」とある。
確かに、雷電山古墳(大雷神社)やゴルフ場のクラブハウス、駐車場は、丘陵の最上部に位置しており、その周辺の下方にゴルフ・コースが広がっている。
ということは、ゴルフ場開発で多くの古墳が消滅してしまったということか?
三千塚古墳群についてネット検索してみた。
ウィキペディアに「雷電山山頂の雷電山古墳を中心に、放射状に張り出す谷によって画された尾根状に9の支群に分かれて250基の古墳が分布していた。この丘陵はゴルフ場造成のため大きく地形が変わり、併せて多くの古墳が消滅した」とある。
うーん、やっぱりそうか、勿体ないっ!

説明板の中に「この古墳は、高さ8m・長さ80mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です」とある。
帆立貝式古墳(帆立貝形古墳ともいう)は次の2種類がある。
(1) 円墳に方形の造出部がつくもの
(2) 前方後円墳の前方部が短小化したもの
雷電山古墳は、「帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)」と括弧書きで注釈が付されているので、前方後円墳の前方部が短小化したものと考えてよいだろう。

標識と説明板から数十メートル、奥まったところに鳥居が見える。
松に囲まれた参道を進む。
右手に、川越カントリークラブ/東8番を見下ろしながら...。
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大雷神社。
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今日の jitensha。
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扁額コレクション。
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石段を上る。
雷電山古墳の墳頂に大雷神社が鎮座している。
墳頂に祠が祀られていたり、神社が鎮座している古墳は、しばしば、見かけることで、珍しいことではない。
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拝殿。
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扁額コレクション。
扁額は龍の彫刻で縁取られており、龍コレクションでもある。。
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瓦コレクション。
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由緒。
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明治百年記念之碑
大雷神社由緒沿革 
当神社は伊邪那美命の御子大雷命を奉斎し、御創建は今から壱千百十餘年前清和天皇の御代貞観元(八五九)年巳酉四月十二日と社伝に言い伝えられている。
貞観六(八六四)年辛亥七月二十二日には武蔵従五位下大雷神従五位上を授けられ、三代実録武蔵風土記等の古文献にも記載されている如く古代より有名な神社である。
古代より当地は山間の地にして水利の便非常に悪く五穀良く稔らず、大神を祭祀してより五穀豊穣が伝えられ盛夏干旱の時村民挙げて降雨の祈願をし遠近郷の農民も降雨の祈願に詣でて深く信仰された社殿は、雷電山と号する古墳の嶺を平坦にして大神を鎮座し、社殿の周囲には昔日埴輪の残片が多く古考の説に此の地は武蔵国司の墓と伝承され、付近一帯には陪臣の墓と思われる数百の古墳の群が散見せられた。
寛政十(一七九八)年壬午四月二十五日再建の社殿は村内はもとより、大神の御神徳を称せる近郷近在の人等によって上遷宮が執行された。
寛政の頃には、関東取締役人の御沙汰によって行なわれた特殊神事の奉納相撲は両関が揃い盛大に開幕され、明治以前まで続けられ大谷のぼた餅相撲と名高かった。
寛政十年から五十九年後の安政四(一八五七)年、近くの山火事により類火して本社火災の折、御神体と奉斎せる幣串自から社外に飛び去りしより神顕の広大さに村民崇敬者益々畏敬の念を深め、この幣串を今も御神体として奉斎する。
安政四年の火災後五年の歳月を経て現本殿が再建された。
昭和四十三年十月二十三日
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碑文に「...社殿は、雷電山と号する古墳の嶺を平坦にして大神を鎮座し、社殿の周囲には昔日埴輪の残片が多く古考の説に此の地は武蔵国司の墓と伝承され、付近一帯には陪臣の墓と思われる数百の古墳の群が散見せられた...」と、古墳のことにも触れられている。
誠に結構な碑文である。

「古墳の嶺を平坦にして」ということは、高さ8mの帆立貝型古墳であるが、墳頂は少し削られているということになる。

拝殿が鎮座している墳頂と、南北に向いている拝殿の南西角。
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墳丘の西斜面。
墳丘の裾の垣根の向こうはゴルフ場のクラブハウスに続く道路。
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墳丘の北西斜面。
帆立貝形古墳の造出部はこの北西斜面下に築造されている。
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造出部を間近にみようと石段を下り、道路に出る。
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道路側から背伸びして垣根越しに、帆立貝形古墳の造出部を眺める。
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今一度、墳丘実測図に登場して貰おう。
造出部の生写真と実測図の断面図を照らし合わせてみると、造出部が設けられていたことが容易に想像できる。
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ここで、帆立貝形古墳(帆立貝式古墳ともいう)について、少し触れておきたい。

日本の古墳の形は、大きく分けて、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の4つに分類される。
前方後円墳は、王やその一族、大和政権と密接な関わりのあった地方の有力首長が埋葬されているといわれている。
古墳の形には、これらの4つに加え、帆立貝型古墳、双円墳、双方墳、双方中円墳、双方中方墳、上円下方墳、八角墳、六角墳、上八角下方墳、横穴墳、地下式横穴墳といった様々なものがある。
これらの古墳は、埋葬される人の地位や財力、大和政権との関わりによって形が異なっているといわれている。
帆立貝形古墳は、大和政権から前方後円墳の築造許可をもらえなかった首長の墓との説もある。

今回、探訪した雷電山古墳は、帆立貝形古墳である。
前述の通り、帆立貝形古墳には、円墳に方形の造出部がつくものと、前方後円墳の前方部が短小化したものの2種類がある。
雷電山古墳の説明板には「帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)」と括弧書きで注釈が付されているので、前方後円墳の前方部が短小化したものということになる。

関東での、帆立貝形古墳の主なものは、次の4基といわれている。

・塚廻り古墳群(群馬県太田市)
 2017年5月3日、探訪。
 帆立貝形古墳は5基(1号墳、2号墳、3号墳、4号墳、10号墳)検出されている。
 検出された5基のうち、4号墳が復元されている。

・女体山古墳 (群馬県太田市)
 2017年5月3日、探訪。
 帆立貝形古墳の規模としては、乙女山古墳(奈良県北葛城郡河合町)に次ぎ、全国第2位。
 東日本最大の前方後円墳、天神山古墳(別称、男体山古墳)が斜め向かいに位置している。
 天神山古墳(別称、男体山古墳)と女体山古墳は何らかの関係性があると見られている。

・雷電山古墳(埼玉県東松山市・・・今回、探訪。

・野毛大塚古墳(東京都世田谷区野毛)
 今年3月4日の多摩川台古墳群探訪に続き、近々、野毛大塚古墳などの探訪の計画あり。
 関東四大帆立貝形古墳(関東四大、そんな言い方があるかな?)制覇の”野望”あり。


雷電山古墳をあとにして、坂道を下る。
毎度のことながら、上りはヒイコラいって、高度を確保。
『下りま専科』はあっと言う間。
だが、これが楽しいのである。

県道391号線を南下し、東武東上線東松山駅へと向かう。
県道391号線は、軽めではあるが、結構、アップダウンがある。
東松山市役所前に差し掛かったそのとき、計ったように、♪ゆうやけこやけでひがくれて...♪のメロディーが流れ始めた。
夕方5時の定時チャイムである。
市役所前に差し掛かったときにピッタリ鳴り始めたというのは奇遇である。
東松山市と気が合っているのかなあ...。

帰路は<押し>で帰宅することを約束として、駅前の居酒屋に入り、反省会。

今年4月半ばの九州・水町遺跡の横穴墓探訪に続き、今回、黒岩横穴墓群、吉見百穴、比丘尼山横穴墓群と三つもの横穴墓を探訪。
昨年5月の群馬県太田市の女体山古墳、塚廻り古墳に続き、今回、雷電山古墳を探訪し、関東有数の帆立貝形古墳の三つ目を探訪。
これらをメインとした今回の「比企丘陵古墳めぐり」は、大満足のうちに終えることが出来たのであった。

最後になったが、毎度の史跡めぐりの相棒である武衛さんに感謝!そして、今回、久しぶりに参加し、最後の二つの古墳で斥候を務めてくれた南国守さんに感謝!と申しあげ、本ブログを完結としたい。


フォト:2018年4月30日

(完)

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# by ryujincho | 2018-04-30 23:40 | 比企丘陵古墳めぐり | Comments(0)