龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 10月 09日

『昼餉散歩/四谷/2018.10.9』

10月9日(火曜)、晴れ。
所用あり、四谷へ赴いた。
約束の時間にはまだ間があり、赤坂迎賓館へ行ってみた。

迎賓館赤坂離宮。
本館正面に日本とミャンマーの国旗が掲揚されている。
守衛さんに尋ねたところ、首脳会議で、アウン・サン・スー・チーさんほかが来館されているとのこと。
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ミャンマーの旧国名はビルマ。
ビルマといえば、竹山道夫著『ビルマの竪琴』。
1956年と1985年に二度、映画化されている。
監督はいずれも市川崑。
出家僧となった水島上等兵は、第一作では安井昌二が、第二作では中井喜一が演じた。
第一作はテレビ放映で、第二作は映画館で観た。
涙が出た。

余談ながら、第二作を観た後、タイのアユタヤへ。
初めて訪ねたところなのに、以前、見たような景色であった。
アユタヤの涅槃像を見学したとき、この景色は第二作目の映画で水島が涅槃像の胎内を隠れ住まいとしていたシーンの撮影場所がここであることが分かった。
後背が森であることは同じだが、映画で見たときよりは若干刈り取られているような感じであったが...。

赤坂迎賓館前の公園にも国旗が掲揚されている。
警備の人たちも数人いる。
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国旗を眺める。
ラオスの国旗である。
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こちらはカンボジアの国旗である。
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ネット検索したところ、この日、第10回日本・メコン地域諸国首脳会議が開かれており、カンボジア、ラオス、ミャンマー、タイ、ベトナムの首脳が来日していたことを知った。
本館正面に日本とミャンマーの国旗が掲揚されていた頃は、全体会議とは別に、日本とミャンマーの二国間首脳会議が行われていたのであろう。

学習院初等科のお子達の下校時間でもあった。
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docomo の赤チャリ。
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ドコモ・バイクシェアの電動アシスト自転車レンタルは、千代田区・中央区・江東区・港区・新宿区の180か所以上の拠点で24時間どこでも借りて返せるとのこと。
今年6月、北欧各国を訪ね、北欧自転車事情を見分し、その中でシティ・レンタル・サイクルも見た。
欧州と同様、日本でも、こうしたレンタル自転車が整えられて来たことは誠に喜ばしい。

プラタナス。
和名 スズカケノキ。
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プラタナス
新宿区四谷見附公園
公園の中央部に植わるこの木は、新宿区立公園で最も大きな木です。
この公園が大正時代に赤坂離宮前記念公園として開園したころからあった木だと言われています。
新宿区は平成6年に区民の誰もが親しみをもてる木として『みどりの新宿30選』に選定しました。
和名の「スズカケノキ」は、実の形が山伏(山に籠って修行する人)の着る鈴懸にある房と似ていることや、実の様子がまるで鈴がぶら下がっているように見えることに由来するとされています。
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「新宿区立公園で最も大きな木」とのこと。
今一度、見上げてみる。

和名スズカケノキについて解説がなされている。
和名を大事にする姿勢、誠に結構なことである。

スズカケノキで思い出すのは、灰田勝彦の歌、或いは、鈴木章治のクラリネット演奏の ♪鈴懸の径♪である。
灰田勝彦の歌は戦中にヒットした歌だが、戦後生まれの者でもその歌声は耳にしたころがある。
作詞は佐伯孝夫、作曲は灰田勝彦の兄、灰田晴彦である。
戦後、鈴木章治とリズムエースの演奏で、ヒット。
更に、ピーナッツ・ハッコーの演奏でもヒット。
ハワイ移民の子である灰田晴彦・勝彦兄弟は祖母の納骨で来日中に関東大震災に遭い、震災の混乱の中、日本での滞在を余儀なくさせられた。
以後、紆余曲折があった中、ハワイへ戻ることなく、立教大学に進学し、音楽の世界、更には映画の世界にも身を置いた。
母校である立教大学のキャンパスにはモデルとなった鈴懸の径があり、歌碑が建てられている。

束の間の四谷ではあったが、良き昼餉散歩が出来た。

フォト:2018年10月9日





# by ryujincho | 2018-10-09 23:51 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2018年 10月 01日

『イグ・ノーベル賞の世界展』

10月1日(月曜)、晴れ。
3ヶ月に一度の「大放談会」は、文化的活動とセットでの飲み会。
今回は、東京ドーム・ギャラリーで開催中の『イグ・ノーベル賞の世界展』へ。
今年6月、ストックホルムを訪ね、ノーベル賞の記念晩餐会が行われる市庁舎やノーベル博物館を見学した。
ノーベル賞だけでは片落ちじゃないかと思い(そんなことはないか!?)、イグ・ノーベル賞展も見学することにしたのであった。
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イグ・ノーベル賞とは?
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1991年 Marc Abrahams(マーク・エイブラハムズ)により創設
イグ・ノーベル賞は、1991年にアメリカの科学雑誌"Improbable Reserch(風変りな科学雑誌)"の編集長マーク・エイブラハムズ氏によって創設された。

賞の対象は「まず笑わせ、そして考えさせる」
この賞は「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して贈られる。
それは様々な研究には柔軟な思考が必要で、そのためには心の余裕(笑い)が不可欠という考えからきている。
世界中から脚光を浴びるノーベル賞は、苦労話が多く語られるが、そうしたことに対して、若干の皮肉を込めて創設され、あえて、イグ・ノーベル賞と名付けられた。
元々、イグ・ノーベル賞の語源は"Ignoble(不名誉な)")からきており、「誰もがマネできない、そして、マネすべきでない」研究がその対象となる。

ハーバード大学での授賞式
授賞式は毎年秋にハーバード大学のサンダースシアター(大講堂)で行われ、ノーベル賞の式典にも負けないくらい世界的な話題となっている。
壇上にはノーベル賞の授賞者やハーバード大学の高名な教授が並んでいる。
ただ堅苦しい雰囲気は全くなく、むしろユニークを超越した笑いに包まれた内容である。
奇抜な格好の人たちが幼稚園式に入場し、途中で紙飛行機を飛ばしたたり、高名な教授が壇上に飛んできた紙飛行機を掃除したりと、普段の悩みが飛んでいくような内容である。
そのためか、毎年授賞式のチケットはあっという間に売り切れてしまう。

授賞式の顔ぶれ
多い日本人、そして、ノーベル賞の授賞者も
2018年までに24組の日本人授賞者を生み出し、現在まで12年連続で受賞している。
マーク・エイブラハムズ氏によれば、「日本人に根付いている自然豊かな感性が、イグ・ノーベル賞の波長と合っている」という。
また、イグ・ノーベル賞を受賞後数年して、ノーベル賞を受賞した人もいて、この賞の持つユニークさと感性の豊かさを示している。
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年表。
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入場者の中には子供さんの姿も。
この子供さんは、将来のイグ・ノーベル賞候補、いや、ノーベル賞候補、いや、両省受賞候補であろう。
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授賞式の様子。
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授賞式の様子は、パネル写真のほかに、映像もある。
まあ、兎にも角にも、賑やか、賑やか。

イグ・ノーベル賞に輝いた研究の数々がパネルや模型で紹介されている。
すべてをここで紹介する訳にもいかないので、小生の最も好きな研究をここに掲載しておこう。

物理学賞(2014年)/「バナナの皮は滑るという通説は本当か?」。
授賞者は北里大学 馬淵清資博士。
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受賞理由
床に置かれたバナナを人間が踏んだときの摩擦の大きさを計測した研究について
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バナナの皮は滑るという通説は本当か?
バナナの皮はそのままだと別に滑りやすくない。では、とうして?
馬淵先生を中心とするチームは、バナナの皮を踏み続けた。
バナナの皮を測定器の上に置いて踏む。
踏んで踏んで、踏み続ける。
バナナの皮を裏返してみたり、乾燥させたり、夏みかんやきゅうりの皮など、比較するために様々なものを踏み続けた。
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皮の内側がつぶれて出る粘液が犯人だ!
このヌルヌル粘液の滑りやすさは、雪のゲレンデを滑るスキーの板と同じ。
踏み続けた結果:上から踏んで皮の内側がつぶれると、ヌルヌルとした粘液が染み出す。
これにより、摩擦係数が激減する。
つまり、滑りやすくなるのだ。
バナナを踏んだ時、染み出す粘液でバナナの皮の摩擦係数は0.066となる。
これはゲレンデでスキー板が滑るときの数値に近い。
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研究のポイントは「人工関節の研究」
バナナの皮と間接の共通点は、粘液が存在することなのである。
この続きはここで学べる!
https://www.kitasato-u.ac.jp/ahs/ce/seitai/mabuchiJP.htm
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ゴジラ大好き人間は、こういうイラストに惹かれる。
近い将来、「ゴジラ vs バナナ」なんていうゴジラ映画が作られるかも。
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手書きのコメントが笑わせる。
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賞状(所蔵 馬淵清資)。
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「バナナの皮で船の進水式が出来ちゃった!?」。
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港湾労働者は、3.4tのバナナを進水式において船を滑らせる作業に用いた。
その結果、海事委員会はそれがグリースより効率がよいことを確認した。(1941年 米国)
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造船関係に勤めていた者として誠に興味深い記事である。


上述のイグ・ノーベル賞とは?の中に「2018年までに24組の日本人授賞者を生み出し、現在まで12年連続で受賞している」とあった。
ということで、今年のイグ・ノーベル賞をここに掲載しておこう。
授賞者は堀内朗医師(伊南行政組合昭和伊南総合病院 内科診療部長・消化器病センター長)。
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受賞理由
座った姿勢で大腸の内視鏡検査を行うと苦痛が少ないことを自ら実証したことに対して
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昭和伊南総合病院は長野県駒ケ根市にある病院である。

授賞者の堀内朗氏は、長野県上伊那郡飯島町出身。
長野県伊那北高等学校、信州大学医学部卒。同大助手、アメリカ合衆国への留学などを経て、1999年(平成11年)に昭和伊南総合病院に着任。
当時は胃がんが多かったが、苦しさを理由に検査を嫌う患者を目の当たりにし、「医療側の配慮が足りなかった」と患者の負担軽減策を模索。
細径スコープでの検査などを経て全身、麻酔薬の使用や、検査時に発見したポリープを同時に除去する方法を導入し、「駒ケ根方式」として知られ、全国から患者や視察が集まるようになった。
2018年(平成30年)、同研究でイグノーベル賞・医学教育賞を受賞した。
(ウィキペディアより)

堀内医師が座った姿勢で大腸の内視鏡検査を行うと苦痛が少ないことを自ら実証している姿をテレビで見たことがある。
こうした医師もいるのだと知り、頭の下がる思いであった。


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「イグ・ノーベル賞の世界展」の会場内で、映像で表彰式の様子を楽しむ人々。
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「柔軟な思考が必要、そのためには心の余裕(笑い)が不可欠」、「日本人に根付いている自然豊かな感性が、イグ・ノーベル賞の波長と合っている」。
イグ・ノーベル賞を頂戴するのは無理だが、心の余裕やイグ・ノーベル賞的感性は持っておきたいものである。
そんなことを思いながら、飲み会の会場へ、いや、大放談会の会場へ向かうのであった。

フォト:2018年10月1日


# by ryujincho | 2018-10-01 23:51 | Comments(0)
2018年 09月 12日

『久方ぶりの、かわせみ池』

9月12日(水曜)、曇り。
jitensha に跨り、手賀沼に出動。
前日も出動したが、風が強く、写真を撮る気になれなかったなかったが、この日は曇りながら無風。

手賀沼に出動するときは、先ず、お決まりのかわせみ池を覗いてみる。
石垣にカワセミの姿が。
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ダイビング(写真はなし)。
小魚をくわえて戻って来た。
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背中の色もきれいだが、胸の色もきれいだ。
カワセミは幾度見ても、池の宝石だ。
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映り込み。
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炎暑の夏は jitensha はしばしお休み状態であった。
この日は久方ぶりのかわせみ池であったが、待たずしてカワセミの姿を見ることが出来た。
やっぱり、この池は「かわせみ池」なのだ。

フォト:2018年9月12日


# by ryujincho | 2018-09-12 23:51 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(六)』

8月18日(土曜)、晴れ。播磨国入り。小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)
加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。
「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。
「二の巻」では、五色塚古墳の後円部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「三の巻」では、五色塚古墳の前方部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「四の巻」では、小壺古墳のあれこれを綴った。
「五の巻」では、五色塚古墳の北側と東側からの見分のあれこれを綴った。
「六の巻」では、パンフレット『史跡 五色塚古墳・小壺古墳』について綴ることとしたい。

パンフレット『史跡 五色塚古墳・小壺古墳』
表紙。
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五色塚古墳は、淡路島を望む台地の上に築かれた前方後円墳です。
その全長194mで、兵庫県で一番大きな古墳です。
周囲を深い濠と浅い濠で二重に囲い、西側には円墳で、直径70mの小壺古墳が築かれています。
この五色塚古墳は、全国的にみると40番目の大きさですが、同じ時期のものだけを比べると、奈良県北部の大王墓(佐紀古墳群)と肩を並べる大きさです。
4世紀の終わり頃、この古墳に葬られた人は、明石海峡とその周辺を支配した豪族だと考えらえます。
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西日本の大型前方後円墳が語られるとき、大きさランキング第1位~第3位の畿内/大山古墳(仁徳天皇陵、486m)、誉田御廟山古墳(応神天皇陵、425m)、石塚ヶ丘古墳(履中天皇陵、365m)に続いて、第4位と第10位の吉備/造山古墳(350m)、作山古墳(286m)、そして、その中間地点に位置する第40位の播磨/五色塚古墳(194m)が挙げられ、併せて、畿内・播磨・吉備の関係が語られることがある。


このパンフレットでは「全国的にみると40番目の大きさですが、同じ時期のものだけを比べると、奈良県北部の大王墓(佐紀古墳群)と肩を並べる大きさです」とあり、こうした比較の仕方もあるのだなあと改めて思った。

奈良盆地北部の佐紀古墳群は、奈良盆地東南部の大和古墳群、大阪平野の百舌鳥古墳群・古市古墳群と並ぶ大古墳群である。
佐紀古墳群は、五社神古墳(ごさしこふん、神功皇后治定陵、276m)、佐紀石塚山古墳(成務天皇治定陵、220m)、佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(日葉酢媛(ひはすひめ)治定陵、210m)、市庭古墳(平城天皇治定陵、253m)、ヒシアゲ古墳(磐之媛治定陵、218m)、コナベ古墳(204m)、ウワナベ古墳(265m)など全長200m以上の大型前方後円墳に加え、これらに随伴する陪塚群、そのほかの中・大型前方後円墳で構成される。

グーグル・マップの航空写真で佐紀古墳群を見てみる。
無数のといってもよいくらいの数の前方後円墳が見事に並んでいる光景を見ることが出来る。
佐紀古墳群は佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群とも呼ばれている。
これは、古墳と周濠の形が盾型をしており、それらが北側に後円部、南側に前方部という位置でそれぞれが平行に、また東西一直線に並んでいるからという。
確かに、グルーグル・マップの航空写真で盾が並んでいる光景が見て取れる。
いつ、誰が、何処から、佐紀古墳群を眺め、盾が並んでいるような光景を見て、そう呼んだのであろうか、航空写真もドローンもない時代に...。

話が五色塚古墳から反れてしまった。
五色塚古墳に話を戻す。

パンフレット、2ページ目/上段。
整備以前の五色塚古墳。
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整備工事緯線の五色塚古墳
五色塚古墳に関する最初の記事は、日本書紀に見られます。
「仲哀天皇の偽の墓で、葺石は淡路島から船で運んできた」と書かれています。
しかし、ほかの古墳と同様に、すべて丁寧に造られていることや、人が葬られる石室の石材が出土していることから、偽物とは考えられません。
江戸時代には様々な人が訪れ、絵や文章などの記録を残しています。
18~19世紀に活躍した絵師 司馬江漢も、長崎旅行の途中に立ち寄ったことが、彼の残した日記に記されています。
明治・大正時代には、人類学者や考古学者が調査をし、記録を残しています。
ほとんどの学者は埴輪に興味を示し、その大きさや配列城代を記録しています。
第二次世界大戦中、古墳に生えている松を切り、船材としたり、その根から油を採取しました。
また、戦後は食糧難から畑として開墾されたために、荒廃してしまいました。
昭和30年代の後半になり、五色塚古墳を守ろうと、文化財保護委員会(現・文化庁)が計画を立て、神戸市が地域の方々の協力を得て、昭和40年から10年の歳月をかけ、発掘調査と復元工事を行いました。
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葺石の産地について。
一の巻で、五色塚古墳の入口近くに設けられた説明板に「小さな葺石は古墳近くで採取され、大きな葺石は淡路島で採取された」と記されていることについて、「各地の古墳探訪で都度質問することは、葺石の採取場所。よって、この説明板は的を得ている」と小生のコメントを付した。
パンフレットに「日本書紀に葺石は淡路島から運んで来た」とあり、葺石の産地が淡路島である根拠が日本書紀であることが明らかにされている。
然らば、淡路島の何処で採取された石なのかということになるが、これは当然のことながらが、島内各所の石をサンプリング調査し、島内の産地が明らかになっていると思う。
よって、パンフレットでその旨も言及してくれているとより嬉しいのだが...(と記して、パンフレットの次の項「発掘調査」に目を通すと、「上二段の葺石は分析の結果、淡路島の東側の海岸で産出するものであることが分かりました」とあり、その答えが記されていた。流石、神戸市教育委員会!!)

パンフレットに「第二次世界大戦中、古墳に生えている松を切り、船材としたり、その根から油を採取しました」とある。
この記述で思い浮かぶことは、未探訪ではあるが、長らく探訪したいと思い続けている、栃木県大田原市の侍塚古墳群の下侍塚古墳のことである。
水戸光圀は、那須国造碑との関連を調べるため、上侍塚古墳と下侍塚古墳を発掘調査した。
調査後、墳丘の崩落を防ぐため、松を植樹し、保全整備が行われた。
下侍塚古墳は、今もその原形をとどめ、「日本で一番美しい古墳」といわれている。
片や、下侍塚古墳は文化的遺産を大事にする日本人の美徳の現れ、片や、戦時であれば何をやってもよいという軍部の暴走で、一時期、不幸な状態となってしまった五色塚古墳なのである。

パンフレット掲載写真。
「1960年頃、樹木はほとんどなく、畑になっている」とのキャプションが付された、整備工事以前の航空写真。
パンフレットに「戦後は食糧難から畑として開墾されたために、荒廃してしまいました」とあり、調査と保全工事が始まる昭和40年(1965年)頃まで、こうした状態が続いていたのであった。
但し、今ほどの住宅地とはなっておらず、田畑が広がっており、古墳の周辺環境としては幸せな時代であったかもしれない。
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盟友、品濃守さんは子供の頃、歌敷山(五色台塚古墳の北西部の丘)に住んでいたという。
その頃、五色塚古墳で遊んだことがあるという。
今のような葺石が施されてはおらず、畑であったという。
まさに、1960年頃の、この航空写真のような様子だったのであろう。
因みに、彼は小生より2歳年下だから、五色塚古墳で遊んでいた頃は10歳であったこととなる。

パンフレット、2ページ目/下段~3ページ目。
五色塚古墳の発掘調査。
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五色塚古墳の発掘調査
整備に向けて発掘調査がはじめられたのは昭和40年12月でした。
古墳は、畑でほとんど壊されているのではないかと考えれれていましたが、調査が進むにつれ、大変よく残っていることが分かり、古墳全体の発掘調査をすることになりました。
その結果、古墳は三段に築かれ、斜面にはびっしりと石が葺かれ、各段の平坦部と頂上には、鰭付円筒埴輪が並べられていました。
一番下の段の葺石は付近のものですが、上二段の葺石は分析の結果、淡路島の東側の海岸で産出するものであることが分かりました。
伝承として地域に残っていたものを日本書紀が採用したのでしょう。
埴輪はほどんどが鰭付円筒埴輪で、4~6本に1本の割合で鰭付朝顔形埴輪が立てられていました。
ほかには、蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)盾形埴輪などが少し出土しています。
濠の中には、島状の土壇が造られ、祭祀を行う場所であったと考えられます。
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鰭付円筒埴輪(左)、鰭付朝顔形埴輪(右)。
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復元された埴輪群。
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①円筒埴輪を利用した棺
②後円部東側の島状遺構
③各段に立て並べられて円筒埴輪
④東側くびれ部の埴輪列
⑤発掘調査中の前方部全景
⑥東側くびれ部の葺石
⑦前方部南側の通路状遺構
⑧東側くびれ部の島状遺構

この目で見分した墳丘を思い浮かべながら、これらの写真を見ると、誠に興味深い写真資料である。

裏面。
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五色塚古墳の復元整備
五色塚古墳の復元は、発掘調査の成果に基づいて、設計されました。
当初は、正確に築造当時の形に復元しようとし、発掘調査で出土した古墳時代の面に、転落した葺石を拾い上げ、葺き直しました。
しかし、工事中に古墳の一部が壊れたり、時間の経過とともに雨水などの影響で保存が困難であることが分かりました。
そこで、工法を改良しながら、前方部はすべて古墳築造当時の面を利用し、復元しました。
後円部は、幅1mで7ヶ所だけ調査をし、復元の資料を得ました。
従って、古墳築造時の面の調査は部分的でしたので、全体に50cmの盛土をし、その上に新たに購入した石を葺きました。
従って、前方部と後円部は50cmの違いがあります。
墳頂へ上がるためにくびれ部に設けた階段で、その差を解消しています。
(図)
左下/前方部復元計画模式図
右上/後円部の復元工事
右下/後円部復元計画模式図
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復元図。
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五色塚のCG復元
発掘調査資料をもとに、五色塚古墳が築かれた当時の姿をCGで復元したのが、右の画像です。
海に面した台地上に築かれ、周囲には深くて大きな濠が全周し、後円部ではその外に更に浅い溝が巡らされています。
濠の中には、くびれ部の両側と後円部の東側に島状のマウンドが築かれています。
また、前方部南側には通路のように土橋が設けられています。
古墳は三段に築かれ、斜面には石が葺かれ、各段の平坦面と墳頂には埴輪が並べられています。
小壺古墳は、二段に築かれた円墳で、斜面には石は葺かれていません。
平坦面と墳頂には、五色塚古墳と同様に埴輪が立て並べられ、濠の中には、はやり土橋が設けられています。
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解説に目を通しながら復元図を眺める。
現場で見分したことも重ね合わせながら、眺める。
現場やこれまでの説明板、そして、パンフレットの記述にはなかった土橋が、五色塚古墳の前方部南側や小壺古墳の北側に設けられていることがしっかりと読み取れる。
土橋がこういう形で築かれていることを初めて知った。

現場見分と説明板、そして、パンフレットで五色塚古墳について大いにベンキョーが出来、大満足の1日であった。
こうして、8月18日からの二泊三日の播磨国行脚を大満足のうちに終えたのであった。

フォト:2018年8月20日

(五色塚古墳・小壺古墳、一の巻~六の巻、完)




# by ryujincho | 2018-08-21 23:50 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(五)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。
「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。
「二の巻」では、五色塚古墳の後円部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「三の巻」では、五色塚古墳の前方部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「四の巻」では、小壺古墳のあれこれを綴った。
「五の巻」では、五色塚古墳の北側と東側からの見分のあれこれを綴ってみたい。

先程、五色塚古墳の墳丘に上った際、東側の石段は閉鎖されており、方形マウンドや周濠跡に入ることは叶わず。
五色塚古墳の東側の様子を見分すべく、五色塚古墳と小壺古墳の間の一般道を北へ、そして、東側へと向かう。
(写真、右/五色塚古墳、左/小壺古墳)
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五色塚古墳、後円部/西側傾斜面。
1段目傾斜面、芝張り養生中。
傾斜面の養生は墳丘維持のための大事な仕事。
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五色塚古墳の北西角から南側を眺める。
五色塚古墳の周濠跡や3段築がしっかりと見て取れる。
右手には小壺古墳の墳丘もしっかりと見て取れる。
説明書きでは、五色塚古墳には二重の濠、小壺古墳にも濠があったと記されており、一般道の幅ほどしかない僅かなスペースの中で、五色塚古墳と小壺古墳の周濠や堤が上手く収まっていたのであろう。
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北側から。
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北東角近くに標柱が立っている。
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標柱には「史跡 五色塚(千壺)古墳」と刻まれている。
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五色塚古墳の東側へ回り込む。
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北側から東側にかけての周濠跡。
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後円部の北東側の方形マウンドが見て取れる。
説明板の図で、くびれ部の東西両脇にある方形マウンドのほかに、もうひとつ、方形マウンドが図示されていた、その方形マウンドである。
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方形マウンドの手前に石積の円形マウンドらしきものも見える。
角度を変えて、眺めてみる。
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これは、石積みの円形マウンドであろうか?
そうであれば、説明板の図で図示されているはずである。
単なる養生用の石材だろうか?
いや、やはり、これは石積の円形マウンドと思いたい。
機会があれば、神戸市教育委員会に尋ねてみたい。

北西から後円部と前方部を眺める。
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くびれ部、東側の方形マウンド。
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角度を変えて、南側から方形マウンドを眺める。
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「一の巻」で触れたこと、それは説明書きに「濠の中には東西のくびれ部付近に方形マウンド(島状遺構)が造られているほか、円筒棺を埋めたマウンドもありました...」とあり、このくびれ部東側にある方形マウンドは陪塚ではないようだ、となると、この方形マウンドが造られた目的は何か?ということであった。

方形マウンドを間近に眺めながら、今一度、このマウンドの目的を考えてみた。
前方後円墳の前方部は祭祀を執り行う場所、後円部は埋葬の場所という説がある。
この方形マウンドは後円部を見上げるような位置にあり、この方形マウンドも祭祀を執り行う場所であったのかもしれない。
(のちほど、パンフレットに目を通していたところ、「濠の中には、島状の土壇が造られ、祭祀を行う場所であったと考えられます」とあり、現場での小生の推測は”正解”であった。)

墳丘の東側の道は山陽電車の線路の手前で行き止まりとなる。
前方部先端を眺める。
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丁度、山陽電車が走って来た。
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山陽電車の車窓からは、一瞬、前方部の葺石が見えるのであろう。
山陽電車に乗る機会は余りなく、見たことはない。
JR神戸線は山陽電車より一段下がったところを走っており、葺石は見えないかもしれない。
JR神戸線は乗る機会が多いが、見えたことはない。
次回、乗る機会があれば、目を凝らしてトライしてみたい。

線路際のマンションの銘板。
「舞子五色塚ハイツ」の書体は五色塚古墳を意識してのものと推察。
書体が素適なので、カメラに収めた。
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東南からの墳丘全景。
正確には”準・全景”。
周辺は住宅が迫っており、距離を取って遠く離れて全景を捉えることは叶わず。
広角レンズなら”全景”を撮り易いであろうが、古墳探訪は軽装備を常としているし...。
全長194メートルはそれほどに長いといえるのである。
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再び、西側に戻って来た。
草刈り作業が始まっていた。
夏場は草が刈ってあるか、草ボウボウかで、墳丘の様子は随分と違って来る。
炎暑の中での草刈りさんに感謝!である。
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時計は10時過ぎを指している。
ここに到着したのは9時前。
1時間超をかけての、五色塚古墳・小壺古墳探訪であった。

管理事務所でゲットしたパンフレットに今一度、目を通す。
簡潔明瞭にいろいろと解説されている。
それらについては続編にて。

フォト:2018年8月20日

(つづく)




# by ryujincho | 2018-08-21 23:49 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(四)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。
「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。
「二の巻」では、五色塚古墳の後円部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「三の巻」では、五色塚古墳の前方部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「四の巻」では、小壺古墳のあれこれを綴ってみたい。

五色塚古墳の墳頂を下り、小壺古墳へ。
正面に見える墳丘が小壺古墳である。
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小壺古墳は、一般道を挟んで、五色塚古墳の西側に位置している。
右/五色塚古墳入口、左/小壺古墳。
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「史跡 小壺古墳」。
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墳丘全景(北東角から)。
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説明板に目を通す。
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-----------------------------------------
史跡 小壺古墳
小壺古墳は、直径70m、高さ約8.5mの円墳で、古墳の裾と濠の大部分は周りの道路敷まで広がっています。
墳丘は2段で築かれており、墳頂部と中段の平坦面には、五色塚古墳と同形の鰭付円筒埴輪がめぐらされていました。
家形埴輪も数個分、発見されています。
斜面に葺石はありませんでした。
小壺古墳が造られた時期は、埴輪の形などからみて五色塚古墳と同じ、4世紀後半頃と推定されます。
整備にあたっては、墳丘斜面に平坦面をつくらず、斜面全体に芝張りを行いました。
-----------------------------------------

円墳の周囲を反時計回りでぐるっと歩いてみる。

墳丘の稜線と明石大橋のケーブルの、緑と白の””曲線美”(北東角から)。
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小壺古墳の墳丘と五色塚古墳の後円部の、緑と葺石色の”二重墳丘美”(北西角から)。
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小壺古墳の墳丘と五色塚古墳後円部の”二重墳丘美”(南西角から)。
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小壺古墳の東側た立っていた標柱「史跡 小壺古墳」のほかに、南東角にもうひとつ、こんな年季の入った標柱が立っていた。
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この年季の入った標柱は文字が消えかけているが、「史跡 五色塚千壺古墳 小壺古墳」と読み取れる。
五色塚古墳の入口にあった記念碑は「五色塚(千壺)古墳」と刻まれており、「千壺」は括弧書きであった。
一方、こちらの年季の入った標識は「五色塚千壺古墳」となっており、「千壺」は括弧書きにはなっていない。
五色塚古墳には2200本もの円筒埴輪が並べられていたということから「千壺」の名称が生まれたということは想像に難くない。
となれば、「千壺」の名は括弧書きなどにせず、堂々と(???)、この年季の入った標識のように「五色塚千壺古墳」とすることでよいのではないだろうか。

先程、五色塚古墳の墳丘に上った際、東側の石段は閉鎖されており、方形マウンドや周濠跡に入ることは叶わず。
小壺古墳から一般道を北へ、そして、東側へ回ってみることにする。
それについては、続編にて。

フォト:2018年8月20日

(つづく)




# by ryujincho | 2018-08-21 23:48 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(三)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。
「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。
「二の巻」では、五色塚古墳の後円部墳頂に上ってのあれこれを綴った。
「三の巻」では、五色塚古墳の前方部墳頂に上ってのあれこれを綴ってみたい。

後円部墳頂からの眺め。
前方部墳頂と埴輪列。
明石海峡、淡路島、明石大橋、左手、大阪湾。
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前方部の先端へ歩を進める。
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前方部先端からの眺め。
斜面下は、山陽電鉄、JR神戸線、国道2号線が並走、国道筋の建物群の向こうは海岸線(一部埋め立て)。
ちょうど、山陽電車が通過する。
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埴輪列と明石大橋。
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明石大橋と船。
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前方部、南東角。
埴輪列と大阪湾。
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前方部先端に設けられた説明板に目を通す。
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-------------------------------------
葬られた人物
五色塚古墳・小壺古墳は、須磨から明石にかけての海岸線が最も突出したところに造られています。
墳頂からは、明石海峡を隔てて淡路島が望め、右手に播磨灘、左手に大阪湾、天候がよければ小豆島や紀伊半島、友ヶ島まで望むことができます。
現在は眼前に埋立地が広がりますが、五色塚古墳・小壺古墳が造られた頃の海岸線は2号線付近で、海を見下ろす位置にあたります。
そのため、明石海峡を中心とした海陸交通要衝の地を支配した人物が葬られているのではないかと考えられています。
---------------------------------------
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CGで復元した五色塚古墳と周辺の地形(パンフレット「史跡 五色塚古墳 小壺古墳」より)。
まことによく出来たCG復元図である。
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航空写真(同上)。
左下から右上に弧を描くように連なって並んでいる建物群の辺りが国道2号線、即ち、古墳築造当時の海岸線。
昔の海岸線をこの航空写真でしっかりと読み取ることが出来る。
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前方部先端から後円部を望む。
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方形マウンド(東側)。
先程、後円部墳頂から眺めた方形マウンドを前方部墳頂から眺める。
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墳丘探訪を大満足で終え、西側の石段を下る。
前方下に見える墳丘が円墳の小壺古墳。
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五色塚古墳の墳丘の東側の石段は閉鎖されており、方形マウンドや周濠跡に入ることは叶わず。
一般道を通り、東側へ回ってみることにする。
併せて、小壺古墳も探訪。
それらについては、続編にて。

フォト:2018年8月20日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-08-21 23:40 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(二)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。
「一の巻」では、五色塚古墳の説明板や航空写真を眺めらながらのあれこれを綴った。
「二の巻」では、五色塚古墳の墳丘に上ってのあれこれを綴ってみたい。

五色塚古墳の西側から墳丘を上る。
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石段の途中から北側、後円部を眺める。
葺石がびっしり。
往時を偲ばせる如くに葺石が見事に復元されている。
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くびれ部から後円部にかけて、墳丘を眺める。
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前方部/西側斜面を眺める。
三段築造の斜面と平坦部が見事に復元されている。
視線の先には、明石海峡と淡路島が見える。
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後円部の墳頂に上る。
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後円部の墳頂に立ち、南西から反時計回りでぐるっと360度、見渡す。

南西から南にかけて。
明石海峡、明石大橋、淡路島。
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南から東にかけて。
明石海峡、淡路島、大阪湾。
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南東
大阪湾。
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東。
前方の山は鉢伏山。
山頂展望台の建物も見える。
麓の須磨浦公園付近は源平合戦の一ノ谷古戦場である。
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鉢伏山をズームアップ!
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北東から北にかけて。
丘陵地帯に広がる住宅地。
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北から北西部にかけて。
丘陵地帯に広がる住宅地。
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西から南西部にかけて。
丘陵地帯に広がる住宅地。
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方形マウンド(東側)。
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アップで。
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方形マウンドを眺めていたところ、丁度、前方部先端沿いに山陽電車が通り過ぎる。
そして、海峡を通り過ぎる船が彼方に見える。
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説明板では西側の方形マウンドも図示されていたが、復元はされておらず、その痕跡らしきも見えない。
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西側、小壺古墳(円墳)。
後程、墳丘の近くへ。
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再び、五色塚古墳に目を移す。
後円部墳頂の周囲に並べられた円筒埴輪と朝顔形埴輪。
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円筒埴輪も朝顔形埴輪も鰭付きで、見事に再現されている。
円筒埴輪は古墳の外側の世界と古墳とを遮蔽するために並べられたものと考えられている。
鰭のない円筒埴輪に比べ、鰭付きの円筒埴輪は隙間を作らないように並べることが出来る。
鰭付円筒埴輪を採用したこの古墳の設計者は、外側の世界と古墳を遮蔽しようとする強い意図を持っていたと考えられる。
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埴輪列の復元。
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-----------------------------------------
埴輪列の復元
五色塚古墳では、墳頂部・上段平坦部・中段平坦部の三段に埴輪が並べられていました。
古墳全体ではおよそ2200本もの埴輪がめぐらされていたと推定されます。
埴輪の大部分は鰭付円筒埴輪で、4~6本の1本の割合で鰭付朝顔型埴輪が立てられていました。
埴輪列は、幅0.5~0.7m、深さ0.4~0.5mの溝を掘り、その中に鰭が接するか前後に重なるように並べ、土で固定しています。
また、蓋型埴輪や家形埴輪、盾形埴輪なども少量発見されています。
後円部と前方に¥部墳頂の埴輪列は、出土した埴輪をもとにして鰭付円筒埴輪と鰭付朝顔形埴輪を合成樹脂で作成し、復元しました。
-----------------------------------------

今一度、明石大橋を眺める。
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古墳築造の技術、そして、架橋の技術、時代は変わっても土木技術は大事である。
そんなことを思いながら、石段を下り、前方部へ。
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後円部の高さは18.0m、前方部の高さは11.5mで、その差は6.5m。
知る限りでは、結構大きな差の前方後円墳といえる。

前方部のあれこれについては、続編にて。

フォト:2018年8月20日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-08-21 23:39 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五色塚古墳、小壺古墳(一)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
プラン通り、加西市/玉丘史跡公園で玉丘古墳群、羅漢寺、大日寺石仏群、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)と加古郡播磨町/兵庫県立考古博物館(本館)を訪ねた。

8月20日(月曜)、晴れ。
神戸市西部に位置する五色塚古墳、小壺古墳へ。

最寄り駅の山陽電鉄/霞ヶ丘駅に降り立つ。
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駅名表示と共に五色塚古墳の図絵が目に入る。
「大古墳 海峡望む 五色塚」。
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駅前の案内板。
「ここは 神戸市垂水区五色山町7番4号」。
神戸市というと摂津国と思い勝ちだが、神戸市垂水区は播磨国であり、本ブログのタイトル「炎暑!播磨国史跡めぐり」で間違いはない。
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五色塚古墳を訪ねるのは、2000年代初め、神戸に単身赴任しているときに散歩がてら訪ねて以来のこととなる。
当時は特段、古墳に興味を持っていた訳ではなく、散歩にちょうどよいという程度のことであった。
そのときは、JR舞子駅から国道2号線を東へ歩き、途中からJR神戸線の高架をくぐり、山陽電鉄の踏切を渡り、線路の北側の、この山陽電鉄沿いの道に出たと記憶する。
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線路沿いの細い道を東へ。
細い道は突き当り、左へ曲がり、北方向へ。
左へ曲がると、右前方に五色塚古墳の墳丘がどーんと現れる。
ええ光景!
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五色塚古墳の西側の道を北へ進み、入口へ。
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入口脇の管理事務所でパンフレットをゲットすると共に、事務所の壁に掲げられた航空写真を眺める。

航空写真(2005年撮影)。
蛍光灯の光が反射しているが、それはそれとして。
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播磨灘、明石海峡、海峡に架かる明石大橋、そして、淡路島を一望。
明石大橋の東側には、舞子公園、国道2号線を挟んで舞子ビラ、更に東の海岸線は埋立地のマリンピアなど。
明石大橋が架かる前と後で、舞子公園の辺りは大変貌。
子供の頃、”舞子の六角堂”と呼んでいた舞子公園内の移情閣は、今は、孫文記念館というらしい。
舞子公園の北東側の丘の上にある舞子ビラは旧有栖川宮別邸(1894年竣工)で、住友家への払い下げ、GHQによる接収、民間所有、神戸市所有、第三セクター、民間所有と幾多の変遷を辿り、現在は「シーサイドホテル舞子ビラ神戸」となっている。
我が人生もちょいとその変遷の中にあり、何を隠そう、我が結婚式は神戸市の施設であった時代の「舞子ビラ」で挙げたのであった。
以来、40数年が経ち、その間に建物は建て直されてはいるが、記念すべき場所なのである。
話が脱線した。

五色塚古墳に話を戻す。
五色塚古墳は、今は海岸線から少し離れているが、往時は海岸線ぎりぎりに築造されていたと思われる。
というのは、今は、南から、埋め立て地のマリンピア、旧海岸線、国道2号線、JR神戸線、山陽電鉄、そして、五色塚古墳の前方部先端(鉄道で一部、欠けている)となっている。
埋め立て以前は、海岸線から国道、鉄道を挟んで丘までの間の距離は然程なく、国道や鉄道が敷設される以前は、海岸線から前方部が立ち上がっているように見えたと思われる(古代の地形が現在の国道辺りが海岸線であったという前提で)。

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五色塚古墳の西隣の小壺古墳(円墳)もくっきりと。
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南側(正確には少し西に振っているが)、明石海峡、淡路島、そして、東に大阪湾。
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蛍光灯の反射のない、パンフレット表紙の航空写真。
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後円部の墳丘を背景に、古墳を模した標識とパンフレット。
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パンフレットに目を通す。
整備工事以前の五色塚古墳の航空写真が掲載されている。
「1960年頃、樹木がほとんどなく、畑となっている」とのキャプションが付されている。
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盟友、品濃守さんは子供の頃、歌敷山(五色台塚古墳北西の丘)に住んでいたという。
その頃、五色塚古墳で遊んだことがあるという。
今のような葺石が施されてはおらず、畑であったという。
まさに、1960年頃の、この航空写真のような様子だったのであろう。

パンフレットでの解説内容と掲載写真については、ページを改めて別途綴ることとしたい。

標柱。
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史跡
五色塚(千壺)古墳
小壺古墳
五色塚古墳復元整備完成記念
昭和50年8月
神戸市長 宮崎辰雄
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標柱ではなく、記念碑であった。
宮崎辰雄の名で思い出すのは、前市長の原口忠次郎から始まった「山、海へ行く」を継続し、「株式会社神戸市」を推進したたこと。
「最小の経費で最大の市民福祉」を基本理念に、原口忠次郎前市長時代にスタートした「山、海へ行く」のスローガンで、六甲山系西部の高倉山を削り取り、住宅地(須磨ニュータウン)とし、削り取った土砂でポートアイランドや六甲アイランドなど巨大な人工島を神戸港に造成する事業を継続し(六甲アイランドについては宮崎時代に事業開始)、大きく街の様相を変化させた。1981年(昭和56年)には神戸ポートアイランド博覧会協会会長として「ポートピア'81」の開催を成功させた。また、埋め立て地の売却益や、外国金融機関からの起債を中心に、国からの補助金に頼ることなく自力で神戸市を大きくする行政手法を展開。一連の宮崎行政は「株式会社神戸市」と呼ばれ、国内外から大きな注目を浴びた。一方で、元来登山家であった宮崎の開発一辺倒のこうした手法が、神戸の自然破壊を推し進めたとして強く批判されたりもした。 退任後の1995年(平成7年)に起きた兵庫県南部地震に伴う震災被害に関しては、宮崎時代の市政が経済を優先して災害対策を後回しにしたという批判が出たこともあった。
(筆者注:「株式会社神戸市」について、一部朧げな記憶もあったので、大好きなウィきぺディアを参照し、一部を引用した)
宮崎行政には功罪はあるが、今、我々が目にしている神戸の様相はまさに原口・宮崎時代に作られたもので、発展したとの評価はしてもよいと思うし、今の政治家にはみられない大胆な政策を打ち出す能力があったとも言えるのではないだろうか。

話は少々脱線してしまったが、神戸市長の力は大規模な古墳の築造を可能とした往時の豪族の長の力と共通する点もあるなあと記念碑を眺めながら思うのであった。

豪族の長は古墳で名を残す 市長は記念碑で名を残す
やっぱり、古墳時代の長の方が豪いかな?

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説明板に目を通す。
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史跡 五色塚古墳
五色塚古墳と小壺古墳は、古墳が造られた当時の姿が見られる野外博物館として、文化庁が計画を立て、神戸市により1965年から10年の歳月をかけて発掘調査と復元整備工事が行われました。
五色塚古墳は、墳丘の全長194m、後円部の多可さ18.8mの、兵庫県下最大の前方後円墳です。
周囲は深い濠と、今は見ることができませんが、浅い濠の二重に囲まれています。
墳丘は三段で築かれ、下段の斜面には古墳付近で集めた小さな石を葺き、中段と上段の斜面には淡路島から運ばれた大きな石を葺いていました。
墳頂と各段の平坦面には鰭付円筒埴輪・鰭付朝顔形埴輪をめぐらせていて、おおよそ2200本立てられていたと推定されます。
濠の中には東西のくびれ部付近に方形マウンド(島状遺構)が造られているほか、円筒棺を埋めたマウンドもありました。
五色塚古墳では、後円部にあると考えられる埋葬施設などの発掘調査は行っていません。
古墳が造られた時期を推定する材料は少ないですが、埴輪の形などからみて、4世紀後半頃と考えられています。
神戸市教育委員会
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興味深い記述は次の3点である。
①円筒埴輪・朝顔形埴輪が鰭付きであったということ
②小さな葺石は古墳近くで採取され、大きな葺石は淡路島で採取されたということ。
 各地の古墳探訪で都度質問することは、葺石の採取場所。
 よって、この説明板は的を得ている。
③くびれ部付近に方形マウンド(島状遺構)が存在すること。
 方形マウンドは陪塚ではないようだ。
 方形マウンドが造られた理由は、さて?
 円筒棺が埋められていたマウンドは陪塚か?

墳丘規模模式図。
方形マウンドを確認する。
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墳丘へ上ってみる。
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墳頂での様子は、続編にて。

フォト:2018年8月20日

(つづく)








# by ryujincho | 2018-08-21 23:38 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/兵庫県立考古博物館(下)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園で玉丘古墳群を見学。
つづいて、五百羅漢で有名な羅漢寺へ。
つづいて、大日寺石仏群へ。
つづいて、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)へ。
つづいて、兵庫県立考古博物館(本館)へ。

兵庫県立考古博物館(本館)。
古墳時代から律令国家のコーナーへ。
「法律で治める国が生まれた」。
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法律で治める国が生まれた
古墳時代が終わり、新しい時代がやってきました。
法律で国を治める律令国家の誕生です。
中国(唐)の制度のもとに新しい社会のしくみができました。
新しい社会の仕組み
一、法律ができた
一、役所が設置された
一、道が整備された
一、戸籍がつくられた
一、税の仕組みができた
(図)
但馬 但馬国府 但馬國印(豊岡市)
丹波 丹波国府 丹波國印(亀岡市)
播磨 播磨国府 播磨國印 (姫路市)
摂津 摂津国府 摂津國印 (大阪市)
淡路 淡路国府 淡路國印 (南あわじ市)
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国印。
解説パネルの”五ヶ国”にそれぞれの国印が朱肉色でプリントされている。
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以前、下野国庁跡資料館で国印(復元)を見たことがある。
「〇〇國印」の「印」の文字が下野国と上述の五ヶ国とで違っているように思える。
アーカイブで下野国印の写真を探してみた。
兄弟ブログ『上総守が行く!(二代目)』の2016年9月2日付「下野史跡めぐり/国庁跡資料館(中)」で、次の通り綴っていた。

=====「下野史跡めぐり/国庁跡資料館(中)」、抜粋=====

下野国印(推定復元)。
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下野国印
日本では「大宝令」頒布(702年)とともに、「新印様を頒布」し、ついで慶雲元年(704年)の「諸国印を鋳す」を印章使用の発足としています。
古代の印章は、すべて鋳造で、印文は陽刻の篆書体であり、内印(天皇の印)が方3寸(8.7cm)であり、それ以下の役所では次第にその大きさを減ずるのが官印の制度でした(『国史大辞典』吉川弘文館より)。
律令時代の各国の国印は方2寸(約6cm)の大きさでした。
下野国印は、現物も押捺した史料も現存していないので、他国の例を参考に推定復元しました。
印は、莟紐印の形状で、印文は養老5年(721年)「下総国印」の印影および丸山暁鶴氏の御教示により作成したものです。
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以上が、以前、下野国庁跡資料館で見た下野国の国印である。
見比べてみると、「印」の字が確かに異なっている。
五畿七道すべての国の国印を調べた訳ではないが、他の幾つかの国印を参照すると、「印」の文字には二種類あることがわかった。
どのような理由で二種類の「印」の文字が存在しているのか(畿内を中心に東と西に分けたのか?など)、その理由は今後の課題とし、機会があれば調べてみたい。


「すべての道は都に通ず」。
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全国を支配するために道を整備し、都と各地を結びました。
古代の国道と誕生です。
(図)
東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道を図示。
----------------------------------------
古代の「山陽道」
都と太宰府を結ぶ重要な道です。
広いところは10~12mもあり、平野部では一直線に通っていました。
1300年も前に現代の道路のような立派な道がつくれれていたのです。
----------------------------------------
林の中に眠っていた野麿駅家(やまのうまや)
-落池遺跡ー
落池遺跡(上郡町)では林の中に古代の駅家がそっくりそのまま残されていました。
長い塀や立派な門で囲まれ、瓦葺きの建物が建ち並んでいたことが分かりました。
(図)
清少納言も『枕草子』の中に「駅(うまや)は野麿駅(やまのうまや)」と書いています。
(写真)
姿をあらわした建物跡
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『枕草子』で野麿駅がとのように登場するのか調べてみた。
「うまやは。梨原。ひぐれの駅。望月の駅。野口の駅。山の駅。哀なる事を聞置たりしに、又哀なる事の有しかば、猶取り集めて哀也。」。
ここに登場する「山の駅」が「野磨駅家」なのである。

布勢駅家(ふせのうまや)の屋根瓦。
鬼瓦・軒丸瓦・軒平瓦
奈良時代
小犬丸遺跡(たつの市)
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小犬丸遺跡の周辺には、長尾薬師塚古墳(被葬者は布施駅長で里長でもあったと推測される人物)や小犬丸中谷廃寺跡などもあるという。

国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社めぐり(のちに、国分寺以前の古代寺院跡、更に古墳と時代を遡っての遺跡めぐりに拡大)のそもそもの発端は、東京都国分寺市で東山道武蔵路跡を見学したことであった。
その後、各地の国府跡や国分寺跡・国分尼寺跡、総社をめぐる中で、上野国分寺跡の南側にある東山道跡(と思しき道)や上野国新田郡庁跡近くの東山道跡、下野国庁跡近くの東山道跡なども探訪したことがある。
ということで、山陽道の駅に関する展示を興味深く目を通した。

なお、一昨年の秋、姫路市内の兵庫県立歴史博物館を訪ねた際、県立考古博物館にも古代瓦の展示があると聞いたことでもあり、今回、それを見学することも楽しみにしていたが、瓦の関連としては平安時代の瓦の展示が多く、古代瓦の関連では、前掲の布勢駅家から出土した瓦の展示のみであったことを言い添えておきたい。

山陽道の兵庫県下の駅(9駅、廃駅2駅)については、兄弟ブログ『上総守が行く!(二代目)』の2016年10月25日付「播磨国史跡めぐり/兵庫県立歴史博物館」で詳しく綴っていることでもあり、ここでは割愛する。


「丹波国氷上郡お役所めぐり」。
子供さん向けの表題となっているが、郡衙のことである。
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古代では国を群に分け、それぞれに役所(郡衙)が置かれました。
丹波国氷上郡(今の丹波市)は大きかったので、西と東の二ヶ所に役所が置かれていました。
一つのの群に二つの役所あったのは全国でも珍しいことです。
(写真)
氷上郡衙の本所
市辺遺跡
市辺遺跡は氷上郡衙の本所の一部です。
※など税として集めたものを保管する倉庫跡がたくさんみつかりました。
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市辺遺跡からの出土品。
墨書土器、木簡など。
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国府跡(国衙跡、国庁跡を含む)を探訪しているが、郡衙跡までは手が回らない。
しかし、上野国新田郡庁跡や下総国相馬郡衙正倉跡など、機会がある都度、訪ねている。
よって、但馬国氷上郡衙の展示について興味深く目を通した。

兵庫県の五ヶ国。
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兵庫県が出来る前のお話
みなさんが住んでいる兵庫県が出来て150年を迎えます。
それ以前は、摂津・播磨・但馬・丹波・淡路の五つの国に分かれていました。
その五つの国が一つになって兵庫県が誕生したのです。
それでは、兵庫県が出来る前に分かれていた五つの国はいつから始まったでのしょうか。
それは古墳時代に県内各地にいた有力者の勢力範囲を元にしています。
約1300年前、奈良に都が出来る頃には、都から役人が来て、国ごとにそれぞれの地域を治めるようになりました。
奈良時代は、天皇が法律によって日本を治めた時代です。
ひょうごの五つの国にも役所が置かれ、都から来た役人を中心にそれぞれの国を治めていました。
今回の展示は、発掘調査の成果を元にこの時代に五つの国であった出来事を紹介します。
平成30年7月21日
兵庫県立考古博物館
館長 和田晴吾
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播磨国。
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昔の人は何をつくっていたのだろう?
播磨国は、兵庫県の西部に位置し、神戸市西部、明石市、播磨町、稲美町、加古川市、高砂市、姫路市、太子町、たつの市、相生市、赤穂市、上郡町、佐用町、宍粟市、三木市、小野市、加東市、加西市、西脇市、多可町、市川町、神河町、福崎町の地域です。
播磨国は昔から焼き物づくりが盛んで、須恵器と呼ばれる灰色の硬い焼き物をつくっていました。
奈良時代には、都にも納めていたことが知られています。
ここでは、播磨でつくられた焼き物(食器)を見てみましょう。
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淡路国。
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昔の人は何を食べていたのだろう?
淡路国は、淡路島全域、現在の淡路市、洲本市、南あわじ市の地域です。
現在でも海の幸が豊富なことで知られているように、奈良時代の淡路国は若狭国(福井県)、志摩国(三重県)とともに天皇の食料を納める国でした。
奈良の都には、塩も運ばれていたことが知られています。
ここでは、淡路島で見つかった塩づくりで使用した土器やタコツボから、昔の人が何を食べていたかを見ましょう。
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摂津国。
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昔の人はどんな文字を書いていたのだろう?
摂津国は、兵庫県と大阪府にまたがっており、兵庫東部は、神戸市東部、芦屋市、西宮市、尼崎市、伊丹市、宝塚市、川西市、猪名川町、三田市の地域です。
奈良時代には、役所で文字が使われるようになり、文字の利用が広がっていきました。
ここでは、芦屋市で見つかった古い年号を記した文字や神戸市で見つかった硯に刻まれた文字、県内で見つかった文字も併せて取り上げます。
当時の人たちがどのような文字を書いたのかを見てみましょう。
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上段、央/
文字が書かれた土器「但馬」 深田遺跡(豊岡市)
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上段、右/
文字が刻まれた硯 太田町遺跡(神戸市)
直▢▢、荒田、冨里、郡中、荒田
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下段、左/
文字が書かれた土器「大伴」 丁・柳ヶ瀬遺跡(姫路市)
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下段、央/
文字が印で押された土器「榎」 丁・柳ヶ瀬遺跡(姫路市)
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左/年の書かれた木簡(元号) 深出遺跡(豊岡市)
「大同五年」(810年)
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右/年の書かれた木簡(干支)(レプリカ)
三条九ノ坪遺跡(芦屋市)
「三壬子年▢」
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芦屋市/三条九ノ坪遺跡出土の木簡に書かれた「三壬子年▢」は、西暦でいうと何年のことであろうか。
調べてみた。
この木簡に関する報告書の中で調査研究が縷々語られているが、ここでは結論だけを記しておきたい。
・「三壬子年」の「三」は、「三」と読めそうだが、研究の結果、「元」と読むのが妥当である。
・「元壬子年」と見なすと、白雉(はくち)元年壬子(じんし)の年となる。
・白雉とは、大化の後、西暦650年から654年までの期間を指し、九州年号では652年から661年までの期間を指す。
・白雉/西暦/干支を照らすと;
 白雉元年/650年/庚戌
 白雉2年/651年/辛亥
 白雉3年/652年/壬子
 (以下、省略)
・以上のことから、木簡に書かれた「元壬子年」は九州年号で西暦652年となる。
九州年号について書き出すと長くなるので、割愛する。

但馬国。
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昔の役人はどんな姿だったのだろう?
但馬国は、兵庫県の北部、現在の豊岡市、養父市、朝来市、香美町、新温泉町です。
豊岡市では、役人が川で行ったお祓いの跡から、たくさんのお祓いの道具や役人が身に着けたいたものが見つかっています。
ここでは、昔の役人が使ったベルトの飾りや着物を見てみましょう。
併せて、お祓いの道具に描かれたたくさんの顔の絵を見ながら、昔の人の姿を想像してみましょう。
(図)十数人の役人の顔の絵
(展示品)木簡に似た人形(ひとかた)
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役人の姿や役所の道具については、武蔵国の国府であった東京都府中市の「ふるさと府中歴史館」など各地の資料館で見学しているが、人形(ひとがた)をした木製祭祀具を見るのは初めてであった。

我が住まいとする千葉県は上総、下総、安房の三ヶ国があるが、我が生国の兵庫県は播磨、摂津、淡路、丹波、但馬と五ヶ国もある。
そうしたことを、一昨年の秋、姫路市内の兵庫県立博物館を訪ねた際のブログに綴ったなあと思い、マイ・ブログを繰ったところ、「関東各地の国府跡・国分寺跡をめぐった際、総じて各県<一国>であるが、千葉県は上総国、下総国、安房国の三国があり、(中略)我が生国の兵庫県は、播磨国、丹波国、但馬国、淡路国と、一部、摂津国の五つの国だったんだなあ、そして、五畿七道のうち、山陽道、山陰道、南海道と三つの道であったのだなあと改めて気づかされた」と綴っていた。
兵庫県は多様である。

「遺跡を掘ろう!」のコーナー。
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遺跡を掘ろう!
遺跡は昔の人たちの暮らしの跡だ。
考古学者は毎日あちらこちらで
土に埋もれた遺跡を掘って、
昔のことをしらべている。
みんなも考古学者になって、
遺跡を掘ってみよう!
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こうしたコーナーを見ると、古希のGGでも血が騒ぐ。
ましてや、好奇心旺盛な子供さんならもっと血が騒ぐだろう。
兵庫県下から優秀な考古学者が生まれることを期待したい。

大中遺跡公園。
炎暑ながら、空には秋の気配も。
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こうして、この日の播磨国史跡めぐりは大満足のうちに終えた。
関西の盟友、六々守さん、そして、播磨守さんに感謝!である。

翌日の探訪先は、五色塚古墳と小壺古墳(神戸市)。
それらについては、下の巻にて。

フォト:2018年8月19日

(兵庫県立考古博物館、上・中・下の巻、完)



# by ryujincho | 2018-08-21 23:37 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/兵庫県立考古博物館(中)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園で玉丘古墳群を見学。
つづいて、五百羅漢で有名な羅漢寺へ。
つづいて、大日寺石仏群へ。
つづいて、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)へ。
つづいて、兵庫県立考古博物館(本館)へ。

兵庫県立考古博物館(本館)。
上の巻では弥生時代終末期の墳墓までを綴った。
解説パネルは、いよいよ「古墳時代のはじまり」に移る。
古墳探訪は、今、小生が最も注力していること。
解説パネルに如何なることが書かれているのか、如何なる出土品が展示されているのか、大いに楽しみ。
この中の巻ではそれらのことについて綴っていきたい。


古墳時代のはじまり。
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古墳時代のはじまり
邪馬台国を中心として西日本がひとつの国(倭国)にまとまりました。
各地の王は倭国王から中国製の鏡をもらい、倭国王と同じ前方後円形の墓をつくりました。
古墳時代の始まりです。
(図)
前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の形別で古墳の場所を図示
画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡の出土場所を図示

三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡が出土した古墳
三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡は、倭国王が中国からもらった鏡です。
こhの鑑をもっているということは高い地位にあったことを示します。
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兵庫県最古の古墳/丁瓢塚(よろひさごづか)古墳(姫路市)。
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兵庫県最古の古墳
ー丁瓢塚古墳(姫路市)ー
兵庫県で最も古い古墳のひとつです。
奈良県にある箸墓古墳(初代倭国王卑弥呼の墓と考えられてている古墳)と同じ形をしています。
倭国の成立に力をつくした人物の墓です。
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航空写真。
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箸墓古墳/丁瓢塚古墳の大きさ比較。
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丁瓢塚古墳(姫路市) 全長107m
箸墓古墳(奈良県桜井市)全長272m
丁瓢塚古墳は箸墓古墳の約三分の一の大きさです。
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7月下旬、香川県善通寺市の野田院古墳を探訪。
野田院古墳は、くびれ部が細く、前方部は撥形であるという古い形の古墳の特徴がよく分かる古墳であった。
丁瓢塚古墳も、航空写真で、くびれ部が細く、前方部は撥形であることがしっかりと見て取れる。

是非、探訪してみたい古墳なので、丁瓢塚古墳の場所をグーグル・マップで確認。
・姫路市藤原区丁(よろ)
・夢前川と揖保川の間の中程、山陽新幹線の南、県道421号線沿い

「丁(よろ)」とは珍しい地名である。
地名の由来好きとしては調べない訳にはいかない。
角川日本地名大辞典によれば、兵庫県姫路市藤原区丁(よろ)の丁(よろ)は『播磨風土記』揖保郡大家里の条にある「与富等(よふど)」が「丁(よろ)」になったという。
「与富等」とは?と思うが、そこまで深入りはしないことにする。
古語辞典を紐解くと、「【丁(よほろ)】上代、公用の労働に徴用された青年男子。公用の人夫。」とある。
「丁(よほろ)=人夫」と古墳築造の工人との関係は?と思うが、そこまでは深入りしないことにする。

古墳時代/王権のシンボル。
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古墳時代
王権のシンボル
「王」は、その力を示すために、巨大な墓をつくり、豪華な武具を身につけた。
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武力を示す王
古墳時代中期の王は、鉄製のヨロイやカブトを身につけ、馬に跨り、勇ましく戦う「武人」の姿をしています。
王はその力を武力によって示しました。
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説明書きには「古墳時代の王はその力を武力によって示した」とある。
だが、これには補足が必要である。
弥生時代、ムラ同士の戦いがあった。
その後、ムラはクニへと変化し、クニ同士の戦いもあった。
古墳時代となり、ヤマト王権を中心とした連合国家となった。
王はその力を武力によって示すも、国内での戦いはほとんどなく、ひたすら古墳の築造に集中。
武力は、百済への援軍、あるいは、外敵に対する備えとしてのものであり、また、王として民衆を守るための祭祀の際の装束でもあった。

精巧なレプリカでの武具を纏う王を見ると、昨年4月、群馬県渋川市の金井東裏遺跡と群馬県埋蔵文化財センターを訪ねたときのことを思い出す。
金井東裏遺跡は、ひざまづいた姿で榛名山の噴火で埋もれていたヨロイを着た古墳時代の武人が発見された遺跡である。
この武人がヨロイを身に着けて何をしていたのかについては諸説あるが、榛名山の噴火を鎮めるために祭祀を司っていたときに火砕流に巻き込まれたという説もある。
群馬県埋蔵文化財センター情報館で、ヨロイを身に着け、跪いている武人を発掘された姿そのままに見学、それは感動的ですらあった。

王が葬られた部屋。
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王が葬れた部屋
雲部車塚(くもべくるまづか)古墳の石槨(5世紀)
雲部車塚古墳は古墳時代中期に築かれた前方後円墳です。
古墳の中に石積みの部屋がつくられ、ここに王が葬られていました。
明治時代の発掘の中で様子がわかりました。
(図)雲部車塚古墳の場所、図示(篠山市)
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王に供えられたもの。
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王に供えられたもの
石槨の中からたくさんの武器が見つかりました。
王ひとちが使うには多過ぎる量で、彼が思いのままに動かすことができた武力の大きさを表しています。
(図)
よろい 5領
馬具  1組
剣   8本
刀  34本
矢 107本
鉾   3本
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兵庫県の大型古墳。
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兵庫県の大型古墳
県内各地の大きな古墳と日本で一番大きい倭国王の墓・大山古墳(大仙古墳、仁徳天皇陵)を比べると、大きさはずいぶんと違いますが、形は同じ前方後円墳です。
同じ形は倭国の有力者だったことを示しています。
上段:
右/五色塚古墳 神戸市 墳長194m
央/雲部車塚古墳 篠山市 墳長158m
左/壇場山(だんじょうざん)古墳 姫路市 全長142m
中段:
右/池田古墳 朝来市 墳長141m 
央/玉丘古墳 加西市 墳長105m
左/行者塚古墳 加古川市 墳長98m
下段:
茶すり山古墳 朝来市 墳長:90m
近畿地方最大の円墳ですが、前方後円墳ではないので、倭国での地位は低かったのでしょう。
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上段と中段は、兵庫県内の大型前方後円墳の第1位から第6位まで列挙されている。
下段は、近畿地方最大の円墳(細かい話ながら、パネルでは「墳長:90m」と記されているが、円墳なので「直径:90m」と記すべきであろう)。

五色塚古墳。
翌日、探訪の予定である。

雲部車塚古墳。
篠山市なので、探訪は難しいが、前掲の石室の説明書きで航空写真が掲載されており、そこに陪塚らしきものが写っており、興味深い古墳なので少し調べてみた。
・所在地:篠山市東部、篠山市東本荘、篠山盆地東縁の亀岡盆地とつながる交通上の要衝に築造された大型前方後円墳。
・ 被葬者は明らかでないが、宮内庁により「雲部陵墓参考地」(被葬候補者:第9代開化天皇皇孫彦坐王王子丹波道主命)として陵墓参考地に治定されている。
・「車塚」の名称は、古墳両脇の陪塚を車輪に見立てたことに由来する。

やはり、航空写真に写っているのは陪塚であった。
航空写真では陪塚は1基だけしか残っていないように見えるが、グーグル・マップの航空写真を見ると、陪塚は2基あることがはっきりと見て取れる。

壇場山古墳。
所在地は姫路市御国野町国分寺。
2016年の秋に探訪した播磨国分寺と国分尼寺跡のある住所と同じである。
グーグル・マップで壇場山古墳を検索してみた。
国分尼寺跡の数百メートル東に位置していた。
その北側には山之越古墳(方墳、一辺60m)なる古墳があることも分かった。

池田古墳。
朝来市なので、探訪は難しい。
調べてみたところ、明治40年頃、山陰本線敷設の際、墳丘は削平され、その後、宅地化や国道9号線和田山バイパスが横断したことにより、墳丘は大きく損なわれているとのことである。

玉丘古墳。
前日、探訪して来たばかりの古墳である。

行者塚古墳。
本ブログ、上の巻で、弥生時代終末期の西条52号墓の関連で、西条古墳群について調べた中で行者塚古墳のことも知った。

古墳の現場を見る、そして、博物館で古墳の資料に目を通す、そうしたことで、その古墳が身近のものとなって来る。
これが古墳探訪の堪えられない愉しみなのである。


囲いの埴輪。
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囲いの埴輪
古墳の周りには筒形の円筒埴輪が並べられました。
古墳を何重にもめぐる、囲いのように使われました。
王の墓を悪いものから守ろうとしたのでしょうか。
(写真)五色塚古墳 神戸市
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装う人びと。
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装う人々
小さな古墳からも金メッキをした耳飾りや宝石で作られた勾玉などが見つかります。
王でない人びとも男女ともアクセサリーをつけていました。
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装った巫女の埴輪/塚廻り3号古墳(群馬県)。
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昨年5月、群馬県太田市の天神山古墳、女体山古墳と共に、塚廻り古墳群を探訪。
塚廻り古墳群では、円筒、朝顔形円筒、家形、器財、人物、馬などの復元埴輪が並べられた4号墳(帆立貝形古墳)を見学。
上掲のパネル写真にある3号墳(帆立貝形古墳)は埋め戻しされており、その姿を見ることは出来ない。
塚廻り古墳群からの出土品のパネルが、ここ、兵庫県立考古博物館で展示されているということを知り、何だか嬉しい。


土器が語る男の物語。
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土器が語る男の物語
人や動物の飾りがついた土器が2個、古墳の入り口に置かれていました・
鼻の高い男が主人公の葬られた人で、その人生を表情ゆたかに伝えています。
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右側の土器に、鼻の高い男が見られる。
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左側の土器には、相撲、男女、狩猟の様子が見られる。

相撲。
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相撲
鼻の高い男と鼻の低い男が相撲を取っています。
相撲はこの頃からある古い競技です。
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相撲は、鼻の高い男が勝ったのであろうか。

男女。
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男女
髪型から見て男女でしょう。
向き合っていますが、女は手を後ろにし、いやがっているようです。
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狩猟。
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狩猟
人が馬に乗って、シカとイノシシを追いかけています。
シカに矢が刺さったあとがあります。
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土器の足元に置かれた説明書き。
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飾りのついた土器
装飾付須恵器
古墳時代後期
勝手野6号墳(小野市)
県指定文化財
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装飾付脚付壺、台付長頸瓶、容器などの須恵器は見たことがあるが、このような円筒状の装飾付須恵器を見たのは初めてである。
で、調べてみたところ、壺に底がなく、口頸部に透かし穴がある装飾付須恵器は、この小野市/勝手野古墳出土品が全国初であるとのこと。

古代の須恵器は、大阪府堺市ほか/陶邑(すえむら)窯跡群、愛知県名古屋市ほか/猿投(さなげ)窯跡群、福岡県大野城市ほか/牛頸(うしくび)窯跡群など、いわゆる、三大古窯で焼かれた。
古墳時代の須恵器は、主に祭祀や副葬品に用いられ、初めのうち古墳からの出土に限られるが、普及が進んだ後期になると西日本で集落からも出土し、西日本では須恵器、東日本では土師器が優勢という違いが現れた。

須恵器は、古墳時代から奈良・平安時代まで生産された陶質土器(炻器)で、青灰色で硬く、同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できる。
土師器は、弥生土器の流れを汲み、古墳時代から奈良・平安時代まで生産され、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質である。
土師器は、須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。
埴輪も一種の土師器である。

弥生時代終末期の墳墓、そして、古墳時代の古墳のコーナーは誠に興味深いものが多かった。
次回の播磨国古墳探訪が愉しみである。

次のコーナー、律令国家の誕生へ。

フォト:2018年8月19日

(つづく)





# by ryujincho | 2018-08-21 23:36 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/兵庫県立考古博物館(上)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園で玉丘古墳群を見学。
つづいて、五百羅漢で有名な羅漢寺へ。
つづいて、大日寺石仏群へ。
つづいて、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)へ。
つづいて、兵庫県立考古博物館(本館)へ。

加西市内での史跡巡りを終え、盟友、六々守さんの運転で、兵庫県立考古博物館(本館)がある加古郡播磨町へ移動。
現地で、同じく関西の盟友、播磨守さんと落ち合う。

兵庫県立考古博物館(本館)。
同館は大中遺跡公園の一画にある。
大中遺跡は弥生時代中期から古墳時代中期の遺跡(国指定史跡)である。

県立考古博物館は、2016年の秋以来、是非訪ねたいと思っていた資料館である。
というのは、2016年の秋、播磨国府跡(姫路市総社本町、現・姫路郵便局)、播磨国分寺跡・国分尼寺跡(姫路市御国町)、総社(姫路市総社本町、射楯兵主神社)をめぐった。
その際、姫路城の東側にある兵庫県立歴史博物館に立ち寄り、国分寺以前の古代寺院、繁昌廃寺、溝口廃寺、西条廃寺の古代瓦、更に、播磨国分寺、播磨国分尼寺、但馬国分寺、淡路国分寺の古代瓦を見学した。
そのとき、学芸員さんから県立考古博物館にも古代瓦が展示されていると聞き、機会があれば、是非、県立考古博物館を訪ねたいと思っていたのであった。

先ず、県立考古博物館の展望台に上る。
南側の眺望。
先刻訪ねた加西市が播磨平野の北端なら、この眺望は播磨平野の南端。
明石海峡の西、播磨灘沿岸部の工場地帯も見える。
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北側の眺望。
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館内。
播磨国、但馬国、淡路国を俯瞰。
更に、西は備前、美作、因幡、東は摂津、大和、山城も。
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明石原人。
兵庫県立考古博物館であるから、当然のこととして、先ず、明石原人から、であろう。
そして、明石で育った筆者としては、子供の頃から馴染み深い明石原人でもあるから。
この博物館は子供さん向けに重きを置いているような作りなので、子供の頃に戻って説明書きに目を通す。
因みに、我らの子供の頃に斯様な立派な博物館はなかったということは申すまでもなきことかと。
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ナゾの人骨発見!
昭和6年(1931)、直良信夫さんが明石の西八木海岸で、化石になったヒトの左寛骨を見つけました。
直良さんは縄文時代より古い旧石器時代の人骨だと考えましたが、学界は認めませんでした。
旧石器時代には日本列島に人がまだいなかったと考えられていたからです。

(写真)博物学者 直良信夫さん
病気の療養のため、明石に住み、近くの遺跡の調査に力を入れていました。
(写真)発見当時の西八木海岸(明石)
この崖の下で、人骨が見つかりました。
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発見場所の西八木海岸の写真を眺める。
子供の頃、この崖を見学に行った記憶がある。
後年、十数年前、神戸に単身赴任していたときにも見に行ったことがある。

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燃えてしまった人骨
明石人骨は、東京に戻った直良さんの自宅で大切に保管されていました。
しかし、発見から14年後の昭和20年(1945)、戦争でアメリカ軍の爆撃を受け、家とともに人骨も燃えてしましました。
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「明石原人」の誕生
明石人骨は失われましたが、人骨の石こう模型が東京大学で保管されていました。
長谷部言人さんは昭和23年(1948)、この模型を調べ、約50万年前の原人の骨だと発表しました。
「明石原人」の誕生です。

(写真)長谷部言人さん
東京帝国大学(現・東京大学)元教授。
明石人骨を「ニッポナントロプス・アカシエンシス」(明石原人)と命名しました。
(写真)教科書にものった「明石原人」
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「明石原人」はいなかった!?
昭和57年(1982)、遠藤萬里さんと馬場悠男さんは、縄文時代以降の新しい骨あという説を発表しました。

(写真)明石人の骨
(写真)現代人の骨/前人の骨/猿人の骨/原人の骨
明石人骨をいろいろな時代の骨とくらべました。
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可能性を求めて
昭和60年(1985)、国立歴史民俗博物館の春成秀爾さんは、明石人骨に関する新たなデータを求めて、西八木海岸の発掘調査を行いました。
明石人骨が出土したとされる地層は6~13万年前の古いものだとわかりました。
その時代に人がいたことを示す決定的な証拠は見つかりませんでした。

(写真)西八木海岸の再発掘調査
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ナゾ解きは終わらない
「明石人骨」については、これまでにいろいろな説が発表されてきましたが、今も確かなことはわかっていません。
考古学では、新しい発見や研究方法の進歩により、発見されたものについての評価が変わることがあります。
「明石人骨」が古いものだという可能性がある限り、真実を明らかにすることが当博物館の使命であると考えています。

(写真)現在の西八木海岸
今もこの地に、まだ発見されていない明石人が眠っているかもしれません...。

直良信夫さんが手にした「明石人骨」とは何であったのか。
当博物館とみなさんでいっしょに、最初の”ひょうご人”のナゾ解きにいどみましょう。
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子供心に、人骨が戦争で焼けてしまったのは残念と思ったことが思い出される。
時代は変わり、もし、人骨が残っていれば、今の分析技術からすれば、新たな情報が得られたであろうが、石こう模型しか残っていないのは残念なことである。

この説明書きを見ながら、”ひょうご人”という呼び方に違和感を覚えた。
やはり、”明石原人”であろう。
原人であるかどうかは定かではないというなら、”あかし人”であろう。
最初に発見した直良信夫さんのことを思うなら、そして、発見場所を尊重するなら、明石という名は残さねばならないだろう。
と書いて、ああ、ここは兵庫県立だから”ひょうご人”としてるんだなと思ったりして。
そうであれば、それは間違った考え方でろうと、”明石原人”を擁護するのであった。

次のコーナーへ。
左奥から、縄文人、弥生人、古墳人の石膏胸像。
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迫力あるジオラマ。
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余談。
ふと、ジオラマという言葉はよく使うが、何語なんだろうとの思いに駆られた。
大好きな(???)ウィキペディアを紐解いてみた。
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ジオラマ (仏:diorama) は、展示物とその周辺環境・背景を立体的に表現する方法で、博物館展示方法の一つである。
19世紀初頭、フランス人風景画家で後に写真発明家となったルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが、画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子シャルル・マリ・プートンと共に、従来のパノラマに代わる新たな投影装置を開発し、”Diorama”と名づけたのが最初である。
箱の中に風景画と展示物を置き、その箱の一つの面に設けられた窓から中を覗くと、照明などの効果により本当に風景が広がっているかのように錯覚させる見せ物として人気を博し、明治時代に日本でも流行した。
「ジオラマ」は明治時代に入ってきたフランス語由来の外来語であり、国語辞書にも掲載されている一般的な言葉である。
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ウィキペディアに掲載されているジオラマの事例としての写真が、何と、兵庫県立考古博物館の、このマンモス狩りの様子を再現したジオラマであったことを言い添えておこう。

縄文時代→弥生時代→古墳時代。
土器の変遷。
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弥生時代/祈りの人 シャーマン。
今年3月、多摩川台公園古墳資料室で見た石棺の中の被葬者とその副葬品の再現も素晴らしいかったが、このシャーマンの姿の再現も素晴らしい。
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祈りの人 シャーマン
弥生人は豊かな実りを願い、祝い、また、大雨や日照りなどの災害からのがれるため、神に祈りました。
祈りの道具でいちばん大事な銅鐸は紐で吊り下げられて鳴らしました。
どのように鳴らしたか考えてみよう。
※南あわじ市で発見された松帆銅鐸で初めて紐がみつかりました。
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説明書きに「銅鐸をどのように鳴らしたか考えてみよう」とある。
冒頭、この博物館は子供さん向けの作りと記したが、この投げ掛けも多分に子供さん向けのものとも思える。
で、おっちゃんは知ってるで、つい半年前に知ったんやけどね、今年の4月、吉野ヶ里遺跡を訪ねたとき、弥生時代の服、貫頭衣をまとった案内人さんが木枠に吊るした小型の銅鐸(もちろん、レプリカ)で鳴らし方を教えてくれたんやで、おっちゃんも実際に鳴らしてみたんやで、と心の中で呟いた。

”大人”であるから、ちょいと専門的なことにも触れておかねばならないだろう。
銅鐸内面の下端を棒で叩くのである。
音を鳴らす棒は「舌(ぜつ)」という。
上述の説明書きの「南あわじ市で発見された紐」は、舌(ぜつ)を吊るす紐なのである。
銅鐸内側の下端は少し盛り上がっており、これは「突帯(とったい)」という。
舌(ぜつ)を当てて幾度も鳴らすと銅鐸の内側の下端は摩耗するので、その摩耗対策として銅鐸の内側に突帯(とったい)が施されているのである。


弥生時代/戦いのための砦。
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7月下旬、四国へ向かう道中、新幹線の中で読んでいた古代史の書物に「 瀬戸内海に残る高台の砦は倭国内乱の跡か?(略)この年代に対応する遺跡として注目されるのが、山口県の岡山遺跡、愛媛県の八堂山遺跡、香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡、岡山県の貝殻山遺跡などに代表される高地性集落(弥生中期)である(略)」との記述があった。
「香川県の紫雲出山遺跡」に目を惹かれ、四国滞在中に、紫雲出山遺跡を訪ねた。
紫雲出山遺跡は、瀬戸内海に突き出た荘内半島の紫雲出山頂にある弥生時代中期後半の高地性集落遺跡。
紫雲出山頂の資料館で、紫雲出山遺跡を含め、瀬戸内海から大阪湾にかけて存在した高地性集落の場所を示したパネルを見た。
その中に、兵庫県にある高地性集落遺跡として、会下山(えげのやま)遺跡(兵庫県芦屋市)が図示されていた。

そんなこともあって、この「戦いのための砦」のパネルを興味深く目を通した。
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戦いのための砦
播磨灘や大阪湾の沿岸部などでは、たくさんの砦が山の上につくられました。
(図)弥生時代中期から後期の砦の分布
とりでを山の上につくって、戦いのときに逃げ込んだり、敵の動きを見張って、狼煙(合図を送る煙)をあげました。
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濠にかこまれた砦
ー表山遺跡(神戸市)ー
明石から神戸に抜ける道(伊川谷)を見張る砦です。
ここからは、淡路島や六甲山系の砦が見えます。
(写真)濠の跡
敵からムラを守るため、幅4~6m、深さ3.5mの濠をめぐらしています。
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海を見守る砦
ー塩壺西遺跡(淡路市)ー
明石海峡を見張る砦です。
重要な砦なので、長い間、使われました。
狼煙の跡や鉄のヤジリが見つかっています。
(写真)狼煙の跡
海峡を見張り、敵が近づくと、狼煙をあげて対岸の砦に知らせました。
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最新の武器をもつ砦
ー会下山遺跡(芦屋市)-
大沢湾の沿岸を見張る砦です。
中国製の最新の武器をもっていました。
(写真)
砦からは大阪湾も見渡せます。
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7月下旬、四国へ向かう途中、新幹線の中で読んでいた本で、香川県に高地性集落の紫雲出山遺跡があることを知り、訪ねた。
それから1ヶ月も経たないうちに、兵庫県の高地性集落である表山遺跡、塩壺西遺跡、会下山遺跡の詳細を兵庫県立考古博物館で知ることとなり、これら三つの高地性集落遺跡も探訪したいとの思いに駆られるのであった。
=備考=
グーグル・マップで検索したところ、表山遺跡、塩壺西遺跡はずしされ現れなかったが、会下山遺跡は芦屋市立山手中学校の北にあり、遺跡の様子は十数枚の写真で知ることが出来た。

王墓の出現。
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王墓の出現
弥生時代の戦いを経て、ムラがまとまってクニになり、王が登場します。
豪華な副葬品をもった大きな王墓が各地で造られました。
(図)
・梅田東11号墳(朝来市)
・内場山墳丘墓(篠山市)
・有年原田中(うねはらたなか)遺跡(赤穂市)
・養久山(やくやま)5号墓(たつの市)
・西条52号墓(加古川市)
弥生時代後期から終末期の墓
日本海側の丹波・但馬には四角い墓が、瀬戸内海の播磨・摂津・淡路には丸い墓が造られました。
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現在、古墳時代の古墳探訪に注力しているが、このパネル資料を見ていると、弥生時代終末期の墳墓も探訪したいという衝動に駆られる。
パネルに列挙された5ヶ所すべては無理としてもは、加古川市の西条52号墓はロケーション的に探訪可能と思え、これについて調べてみた。
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西条52号墳
・所在地:加古川市神野町西条山手、加古川右岸、城山の麓、印南野平野を一望する丘陵地。
・西条古墳群の北で発見された。
・西条古墳群は嘗ては30基ほどあったが、宅地造成で消滅し、現在は5世紀頃に築造された人塚古墳(円墳)、尼塚古墳(円墳)、行者塚古墳(前方後円墳)が残るのみ。
・西条52号墳は他の古墳より古く、3世紀前半、弥生時代に築造された墳墓。
・西条52号墳は、弥生墓から前方後円墳につながる特徴を併せ持ち、円形部分:直径約12m、東に延びる突出部:長さ約6m、幅約4m、縁に2列の石が積まれた築造となっている
・木棺(長さ3.2m、幅0.6m)は古墳で見られる石槨(側面に石を積んだ穴)に納められたいたが、四方を石積みした完全な石槨ではなく、三方だけの石積み。
・石槨の上から打ち砕かれた銅鏡(内行花文鏡)が出土。
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西条52号墳は消滅しているようであるが、西条52号墳があった辺りをグーグル・マップで検索すると共に、現存する人塚古墳、尼塚古墳、行者塚古墳の位置を確認。

周辺情報として、次の事項もメモっておきたい。
・西条廃寺跡
 人塚古墳近くの県指定史跡公園「北山公園」内
 金堂・講堂・塔の基壇、中門・回廊跡などの復元あり
・日岡古墳群
 日岡陵古墳・西大塚古墳・南大塚古墳・北大塚古墳・勅使塚古墳など
 西条古墳群の西に位置
 西条古墳群と日岡古墳群は兵庫県南部においての最大の古墳群

立派な副葬品をもった王墓。
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立派な副葬品をもった王墓
ー梅田東古墳群(朝来市)・若水古墳(朝来市)ー
弥生時代の終わり頃、但馬のムラのリーダーは、中国製の鏡や青くきらめくガラスの玉、貴重な鉄製品などを墓に入れました。
リーダーはやがて王と呼ばれます。
(写真/左)
梅田東古墳群の墓には、たくさんの棺が埋められていました。
棺は石や木でつくられていましたが、木は腐るので残っていません。
(写真/右)
若水古墳では、丘の頂上を丸く削って大きな墓がつくられました。
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邪馬台国登場。
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各地のクニが激しく争っていた頃、邪馬台国の女王卑弥呼が現れ、周辺のクニをまとめていきました。
(図)
播磨(長越遺跡)⇔丹波
播磨(長越遺跡)⇔山陰
播磨(長越遺跡)⇔吉備
播磨(長越遺跡)⇔讃岐
播磨(長越遺跡)⇔邪馬台国(筆者注:畿内に図示)
播磨にあつまる人とモノ
邪馬台国の中心は今の奈良県にあり、播磨は邪馬台国と中国地方のクニを結ぶ重要な場所でした。
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邪馬台国の交流拠点
ー長越遺跡(姫路市)ー
邪馬台国の播磨における拠点であったと考えられます。
このムラからは近畿地方の土器をはじめ、中国・四国地方の土器もみつかっており、いろいろな地域から人やモノが集まっていたことを示しています。
(写真/左)いろいろな地域の土器が大きな溝の中からたくさん出ました。
(写真/右)四角い穴が家の跡です。たくさんの家がたっていました。
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説明書きで「邪馬台国の中心は今の奈良県にあり」と記され、図では邪馬台国は畿内に図示されており、兵庫県立考古博物館は邪馬台国畿内説派であると見受けられる。
邪馬台国の所在地については諸説ある中、子供さんに固定観念を植え付けるような記述は如何なものであろうかとも思うのであった。

現在、古墳時代の古墳めぐりをテーマとしているが、弥生時代終末期から古墳時代へ向かう過渡期の墳墓も大変興味深いものであり、大いにベンキョーになった。

解説パネルは、いよいよ「古墳時代のはじまり」に移る。
古墳時代の古墳めぐりは、小生か今、最も注力していること。
解説パネルに如何なることが書かれているのか、大いに楽しみ。
それらについては、下の巻にて。

フォト:2018年8月19日

(つづく)






# by ryujincho | 2018-08-21 23:35 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園で玉丘古墳群を見学。
つづいて、五百羅漢で有名な羅漢寺へ。
つづいて、大日寺石仏群へ。
つづいて、古代鏡展示館(兵庫県立考古博物館加西分館)へ。

兵庫県立考古博物館 加西分館/古代鏡展示館。
Hyogo Prefectual Museum of Ancient Cronze Mirrors
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鑑から鏡へ。
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から
には、光を反射させて人の姿やものの像などをうつし見る道具、という意味が一番に挙げられます。
古の人は、大きな容器に水をいれ、それを「水かがみ」として顔をうつしました。
漢字のはこの「水かがみ」を指し、を意味する古い文字になります。
つまり、という漢字は、よりも後から現れたのでした。
に通じるという文字は、三つの文字からできています。
脚のは水を張った台付きの容器を表し、大きなを示すと合わさり、水にうつった自らの姿を見入る様子を象っています。
西周時代の青銅器に記された文字(金文)には、その字形(→注)が見事に表現されています。
更に「鑑みる」という言葉が示すように、には自己を対象化し、現在のあり方を反省的に見る、また、真の姿を考え見るという意味でもあります。
、すなわち、には、人の姿だけではなく、心もうつし出す力があったのです。
そして、日本ではの表記に対して、「加賀美」(「古事記」)、「可我見(我を見る可し)」(「万葉集」)の文字を充てることがありました。
さあ、あなたは今日、に何をうつしますか?
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注)西周時代の青銅器に記された文字(金文)の字形は 観覧券の「古代鏡展示館」の頭に印字されたこの文字。
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東アジアの中の日本と鏡。
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上段:
漢の時代(紀元前202年~220年) [弥生~古墳時代]
金印の時代
卑弥呼と三角縁神獣鏡
(解説文は割愛)
下段:
唐の時代(618年~907年)[飛鳥~平安時代]
多彩な宝飾鏡の素材
遣唐使と正倉院
(解説文は割愛)
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装飾鏡、三種。
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三種の装飾鏡をそれぞれアップで。

金粒珠玉象嵌宝相華紋鏡(きんりゅうしゅぎょくぞうがんほうそうげもんきょう)
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宝相華とは、ボタンやハスなどの幸運をもたらす様々な花を合成した空想上の花。
それを金粒や宝石で華麗に表現する。
唐(8世紀) 直径5.8cm
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金粒珠玉象嵌宝相華紋八花鏡(きんりゅうしゅぎょくぞうがんほうそうげもんはっかきょう)
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金粒珠玉象嵌宝相華紋八花鏡
金の板を敷き、金の帯を立てて花紋を描く。
区画内にはトルコ石をはめ込み、金粒で区画の縁取りや区画内を充填する。
唐(8世紀) 直径5.9cm
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金粒珠玉象嵌宝相華紋六稜鏡(きんりゅうしゅぎょくぞうがんほうそうげろくりょうきょう)
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金粒珠玉象嵌宝相華紋六稜鏡
メノウ、ピンク水晶などの宝石で主紋を構成し、隙間を金粒で充填する。
細金細工は、ペルシャ起源の技法である。
唐(8世紀) 直径8.8cm
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象嵌鏡とは。
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象嵌鏡
宝石や金粒を貼り付けて文様を描き出す

鏡背を覆う金板に対し、厚さ0.1~0,2mm程度、高さ約1.5mmの金板をこれに垂直に立てて区画とし、加工を施したトルコ石を飾る。
紐の上とその周りに6個の紅水晶を嵌める。
その隙間は、径0.1~0.2mmの金の極細粒で埋め尽くされている。
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鍍金対置式神獣鏡。
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鍍金対置式神獣鏡
効能:不幸の除去、陰陽の調和
時代:後漢(紀元2世紀)
直径:14.9cm
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雲龍紋八花鏡。
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雲龍紋八花鏡
体をくねらせ、迫り来るような龍を表す。
龍は地上と天界を結ぶ霊獣で、神仙の乗り物ともいわれた。
唐(8世紀) 直径27.5cm
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五本爪の龍、四本爪の龍、三本爪の龍、これまでいろいろな龍をカメラに収めて来たが、銅鏡に描かれた龍をカメラに収めるのはこれが初めて。
龍蒐集家として大満足!

方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)。
この銅鏡は冒頭のポスター/企画展「吉祥の図像」に採用されており、当館の最も重要な所蔵品と思われる。
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方格規矩四神鏡
四神のうち青龍はカラスのいる太陽を、白虎はカエルのいる月をもつ。
隙間にはたくさんの愛らしい小鳥を描く。
新(王莽)(1世紀) 径20.4cm
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銅鏡に描かれた四神の拡大図。
四神は他の文様と共に細い線で描かれている。
四神は天の四方の方角を司る霊獣で、 東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武である。
四神は、方格の東西南北ではなく、方格の角に描かれている。
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この拡大図と実物を照らし合わせながら、上述の説明書きにある「青龍はカラスのいる太陽を、白虎はカエルのいる月をもつ」を目を凝らして探してみたが、判読出来なかった。

方格規矩四神鏡について、もう少し詳しく調べてみた。
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方格(ほうかく)
中心の鈕(ちゅう、ひもを通すところ)を四角く囲んだ箇所が方格である。
子・丑・寅・・・酉・戌・亥の十二支の漢字が並んでいる。
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規矩(きく)
方格から四方に出る「T」型の紋様、その対面の「L」型の紋様、「L]型と「L型」の間にある「V」型の紋様が規矩である。
規矩の「規」はコンパス、「矩」は定規のこと。
いずれも建築物の設計に使う道具であるが、銅鏡では世界を司る道具として描かれている。
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それらを確かめるために、今一度、実物を子細に眺めてみる。
確かに、方格の内側に十二支の漢字が見て取れる。
確かに、方格の外側に「T」型、その対面の円周の内側に「L」型、円周に沿って「L」型と「L」型の間に「V]型の文様が見て取れる。
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外周の内側に、漢字の銘文が円周にぐるっと刻まれている。
漢字そのものは我らが使っているものと、ほぼ同じである。
一文字ずつじっくりと読み取れば、浅薄な知識の筆者でも銘文の意味が分かりそうなほどであるが、残念ながら、目が渋くなった今、その根気はない。
因みに、参考文献で見た別の銅鏡の銘文の解説では、銅鏡が制作された経緯が刻まれていた。

方格規矩四神鏡の歴史を紐解くと次の通り。
・方格規矩四神鏡は、前漢時代(紀元前206年‐8年)後期に出現。
・方格規矩四神鏡は、西暦紀元直後の王莽(おうもう)皇帝の「新」王朝時代(8年‐23年)に多数作られた。
・方格規矩四神鏡は、その後も作り続けられ、魏の時代(220年‐265年)にも同じデザインの銅鏡が作られている。
・平原遺跡1号墳(弥生時代後期・晩期の墳丘墓)から出土した銅鏡40面のうち、32面が方格規矩四神鏡で占めらている。
・魏の「青龍三年」の銘が入った方格規矩四神鏡が大田南5号墳(京都府京丹後市)、安満宮山古墳(大阪府高槻市)などから出土おり、これは「魏志倭人伝」の邪馬台国の卑弥呼が魏に遣使を派遣(239年)した際に金印と銅鏡百枚などを授かったとの記述と年代が近いことから、邪馬台国の研究として注目されている。
・古墳時代には、倭国で方格規矩四神鏡を模造した鏡が多数作られていている。

伝 顧愷之「女子箴(じょししん)図」。
磨かれた銅鏡の表/生活のための鏡。
銅鏡は祭祀・呪術用の道具であったが、生活のための道具でもあった。
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「女子箴(じょししん)図」。
中国、東晋の画家 顧愷之(こがいし)の筆と伝えられる。
宮廷女官の心得を絵と文で描き表したもの。
東晋時代の原画を唐代に模写したものが大英博物館で所蔵されている。

鏡の裏(レプリカ)。
銅鏡は裏の紋様について語られることが多い。
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銅鏡の表(レプリカ)。
磨き抜かれた鏡面に映る我が身。
四面鏡張りの箱の中に入れられ、己が姿の鏡に映るを見て驚き、タ~ラリタ~ラリと油汗を流す四六ガマの境地...。
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これほど多くの古代鏡を一度に見たのは初めてである。
圧巻!のひとことである。
最後に、古代鏡展示館のホームページでの紹介記事をここに転載し、締め括りとしたい。
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千石コレクションについて
加西市在住の美術品蒐集家、千石唯司氏から当館に寄贈されたコレクションで、氏が30年以上にわたり蒐集されてきた300面を超える古代中国鏡が中心となっています。
その内容は、銅鏡が使用され始めた夏かの時代(約3700年前)から春秋戦国時代、そして、漢から唐の時代を中心として、宋の時代(約1,000年前)まで及ぶものであり、幅広い年代と多様な種類を網羅した、鏡の文化を知る上で極めて重要な資料です。
保存状態も良好であり、歴史的にも美術的にも高い価値を有する世界的な銅鏡コレクションです。
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つづいて、兵庫県立考古博物館本館(加古郡播磨町)へ。

フォト:2018年8月19日




# by ryujincho | 2018-08-21 23:34 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/大日寺石仏群』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園で玉丘古墳群を見学。
つづいて、五百羅漢で有名な羅漢寺へ。
つづいて、大日寺石仏群へ。

大日寺石仏群。
BSテレ東の『ミステリアス・ジャパン』はいつも楽しみにしている番組である。
いつぞや、「石仏が語る隠れキリシタン~兵庫県加西市~」と題し、加西市の大日寺石仏群が登場。
背に十字架が刻まれた石仏が映し出され、この地は隠れキリシタンの里だったのではないだろうかと番組では語られていた。
加西市は時折訪ねるところなので、馴染みがある。
加西市へまた行く機会があれば、是非、大日寺石仏群を訪ねたいと思っていたことでもあり、今回、六々守さんに案内をお願いしたのであった。

大日寺。
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境内には百日紅の花が、そして、空には湧き上がる雲が。
夏だ!
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本堂。
その左脇に石仏群とその覆い屋が見える。
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「市指定文化財 大日寺石仏群」。
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石仏を拝する前に、説明板に目を通す。
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大日寺石仏群
石棺仏
古墳時代後期(約1400年前)の家型石棺蓋石を再利用した石棺仏です。
蓋石裏側には、蓮華座の上に定印を結んだ座像を浮彫りし、阿弥陀如来として祀っています。
像の背面には、舟形光背を刻み、7体の化仏を配した鎌倉時代から南北朝時代頃(約700年前)の作と考えられます。
背面十字架地蔵
蓮華座に立つ地蔵菩薩像は、背面に意匠として十字架状の浮彫りを施した丸彫り立像で、江戸時代中期頃(約300年前)の作と考えられます。
背面に十字架状の文様を刻む石仏は、加西市域に特有のもので、地元産出の凝灰岩(通称、高室石)を用いています。
地元の牧師、吉田完次師を中心とする加西異形石仏研究会の調査では、この大日寺の地蔵菩薩は享保10年(1725年)頃、「大日講」の造としてキリシタン信仰を託したものと推察され、背面十字架地蔵としてキリシタン遺物の中でも全国的に異彩を放っている貴重な石造仏です。
加西市観光まちづくり協会
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何と、古墳時代の石棺の蓋に刻まれた大日如来像なるものが安置されていることであった。
背面十字架地蔵を見学すべく当地を訪ねたのだが、期せずして、古墳つながりにもなった。
惜しむらくは、石棺の蓋は何処の古墳のものであったかについては言及されていないことであった。

石仏群。
左から、石棺仏 阿弥陀如来、阿弥陀如来、背面十字架地蔵、弘法大師、延命地蔵、大日如来。
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石棺仏 阿弥陀如来。
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背面十字架地蔵。
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「キリスト教を布教するときに、神を『大日』と呼んだのであります」。
「なるほど。背面十字架地蔵が安置されている寺が大日寺。辻褄は合うね」。

フランシスコ・ザビエルは来日前、日本人のヤジロウとの問答を通してキリスト教の「Deus」を日本語に訳す場合、大日如来に由来する「大日」(だいにち)を用いるのがふさわしいと考えた。
しかし、これはヤジロウの仏教理解の未熟さによるもので、後に「大日」という語を用いる弊害のほうが大きいことに気づかされることになる。
1549年に来日したザビエルたちが、「大日を拝みなさい」と呼びかけると僧侶たちは仏教の一派だと思い、歓迎したといわれている。
やがてザビエルはキリスト教の「Deus」をあらわすのに「大日」という言葉を使うのはふさわしくないことに気づき、ラテン語Deusをそのまま用い、「でうす」や「デウス」とすることにした。
「大日を拝んではなりません。デウスを拝みなさい」とザビエルたちが急に言い出したため、僧侶たちも驚いたという。
その後、宣教師たちや日本人キリスト教徒たちの研究によって「デウス」の訳語としていくつかのものが考えられた。
それらは「天帝」「天主」「天道」などであり(語源的には「天部」である)、「デウス」と併用して用いられた。
彼らは「神」という言葉は日本の多神教的神を表すもので、自然や動物、人間にすら当てはめられる言葉なのでDeusの訳語にふさわしくないと考えていた。
もっとも、もともとラテン語の「deus」は、上述の通り古代ローマの多神教の神々を表す言葉であり、一部のローマ皇帝、つまり人間が「deus」に列せられる事もあった。
明治以降に漢文訳聖書の影響を受けた日本語訳聖書がキリスト教のDeusを「神」と翻訳し、日本の正教会・カトリック教会・プロテスタントのいずれにおいても、これが今に至るまで定着している。
(出典/ウィキペディア「デウス」)

境内に、古墳時代の石棺の蓋に彫られた大日如来像、そして、背面に十字架が刻まれた地蔵像が並ぶ大日寺。
誠に興味深い、特異な世界を見せて貰った。

つづいて、兵庫県立高校博物館加西分館の古代鏡展示館へ。

フォト:2018年8月19日





# by ryujincho | 2018-08-21 23:33 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/五百羅漢』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園で玉丘古墳群を見学。
つづいて、五百羅漢で有名な羅漢寺へ。

羅漢寺。
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高校生の頃、バイクで羅漢寺を訪れた記憶がある。
その当時は、加西市ではなく、加西郡北条町であった。

説明板に目を通す。
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兵庫県指定重要文化財
北条の五百羅漢(史跡)
■所在地 加西市北条町北条(羅漢寺)
■管理団体 五百羅漢保存委員会
■指定年月日 平成30年3月20日
■造立時期 江戸時代初期(17世紀後半)
古くから「親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢の堂に御座れ」とうたわれ、表情の異なる石仏の中に、必ず親や子に似た顔があると言われています。
素朴で表情豊かな野の仏として多くの人々に親しまれています。
地元で採れる高室石(凝灰岩)の角柱状石材を加工した羅漢立像が大半を占めるほか、釈迦三尊像や大日・阿弥陀如来像など中心となる本尊仏のほか、仁王像や造立に関与した高瀬家の供養者坐像など、459体で構成されています。
17世紀後半の酒見寺再興にあわせて信仰・供養のため造立だれたと考えられています。
中世から近世初頭における寺院の再興など、播磨における当時の社会的な動向を検討する上で、貴重な石仏群といえます。
また、その作風は江戸前期の市内石仏の代表例となっています。
平成30年7月 加西市教育委員会
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リーフレット/「親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢の堂に御座れ」。
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五百羅漢。
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夏の太陽に当たる仏さん、木々の陰が映る仏さん、炎暑の中の静寂...。
よきひとときを過ごした。

帰り際、境内の入り口で、白い花を咲かせるサギソウに出遭った。
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5月下旬、都内で野毛古墳群や田園調布古墳群をめぐった。
その際、九品仏で有名な浄真寺に立ち寄った。
境内でサギソウの説明板を見た。
そのことについて、マイ・ブログで「サギソウ。花期は7月から9月。その頃には、境内の池の周辺で、サギが羽根を広げたような姿を見せているのであろう」と綴った。
そのサギソウの花をここ羅漢寺で見られるとは。
五百羅漢さんのお導きに感謝!である。
そして、ここへ案内してくれた六々守さんに感謝!である。

つづいて、大日寺石仏群へ。

フォト:2018年8月19日



# by ryujincho | 2018-08-21 23:32 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 21日

『炎暑!播磨国史跡めぐり/玉丘古墳群』

8月18日(土曜)、晴れ。
播磨国入り。
小・中学校の同窓会"古希の集い"に出席。
この機会に、播磨国史跡めぐりもプラン。
8月19日(日曜)
加西市
・玉丘史跡公園/玉丘古墳群
・羅漢寺/五百羅漢
・大日寺/大日寺石仏群
・兵庫県立考古博物館加西分館/古代鏡展示館
加古郡播磨町
・兵庫県立考古博物館本館
8月20日(火曜)
神戸市
・五色塚古墳
・小壺古墳

8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さん運転の愛車”僕四”号で加西市へ。
jitensha は六々さんの愛馬を借用すべく”僕四”号に搭載されている。
前日の同窓会では、翌日に播磨国史跡めぐりポタリングが予定されていることでもあり、酒は控えめとしたが、それでも二日酔い気味。
古希の身、炎暑と二日酔い気味のダブルパンチを避けるべく、jitensha は止め、四輪での史跡めぐりに変更。

先ず、玉丘史跡公園(玉丘古墳群)へ。

以前、六々さんのブログに「玉丘古墳の近くの池でバードウォッチング」との書き込みを見た。
バードウォッチングも好きだが、それ以上に、古墳めぐりに入れ込んでおり、この書き込みに目を惹かれたのは、バードウォッチングではなく、玉丘古墳であった。
以来、播磨国を訪ねる機会があれば、是非、玉丘古墳群を探訪したいと長らく思いつづけて来たが、今般、それが実現したのであった。

史跡公園入口の案内板に目を通す。
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播磨風土記ゆかりの地
『播磨国風土記』は、奈良時代初期の和銅6年(713年)5月の官令により作成が命じられた地誌で、715年頃に編纂されたものと見られています。
この日本最古の地誌である『播磨国風土記』には、地名の由来や土地の伝承、土地の肥沃さなどが記されており、当時の生活や文化、自然、人やものの移動など、様々なことをうかがい知ることが出来ます。
加西市は、賀毛郡に含まれ、ゆかりの地が多く登場しています。

玉丘
『播磨風土記』に登場する玉丘の記述は「根日女(ねひめ)伝説」として加西市で広く知られています。
意奚(おけ、仁賢天皇)・袁奚(をけ、顕宗天皇)のニ皇子が遣わした使者が国造許麻(くにのみやつここま)のもとを訪れ、その娘、根日女への求婚を伝えます。
根日女は応じますが、入内は叶わないまま年老いて亡くなってしまいます。
根日女の訃報を聞き悲しんだ皇子たちは、再び、使者を派遣し、根日女を葬る玉で飾った墓を造ることを命じます。
ここに登場する二皇子のエピソードは『播磨風土記』の美嚢(みなぎ)郡条の志深(しじみ)里の記述にあります。

玉丘古墳
全長109mの前方後円墳で、県下6番目の規模を誇ります。
築造年代は4世紀末で、墳形や石棺の形状から被葬者は大和王権に大きな貢献をした地方豪族と考えられています。
4世紀末という築造年代は、譽田御廟山(ほんだごびょうやま)古墳(伝応神天皇陵:羽曳野市)と同時期で、応神朝と関係の深い古墳と考えられます。
応神天皇は(品太天皇、ほむたのすめらみこと)は、賀毛郡条で最もと登場回数が多い人物でもあるので、応神天皇と関連付けた伝承が記述されてもよさそうなものですが、6世紀の人物とされる二皇子との関連で伝承が語られています。

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平成26年3月 加西市播磨風土記1300年記念事業
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律令制が実施される7世紀以前の播磨平野は針間国(加古川以西)・明石国(明石郡・美嚢郡・加古郡・印南郡)・針間鴨国(加古川中流~上流)の国から成り、7世紀、律令制が実施され、明石国と針間鴨国は針間国に編入され、律令国の大国、播磨国が成立したとされる。
加西市の地域は針間鴨国は属していた。

説明書きにある「美嚢(みなぎ)郡条の志深(しじみ)里」の「美嚢(みなぎ)郡」は、「美嚢(みのう)郡」としてずっと残っていたが、美嚢郡吉川町が平成の大合併で三木市に編入され、消滅した。また、「志深(しじみ)里」は、漢字表記は変わっているが、三木市志染(しじみ)町として今も残っている。播磨国で生まれ育った筆者は、こうした地名に馴染みがあり、あれこれ書きたい衝動に駆られるのである。

玉丘古墳群は、玉丘古墳、クワンス塚古墳、陪塚第1号墳・第2号墳、壇塔山古墳、愛染古墳など計7基からなる。

先ず、玉丘古墳群の中心となる玉丘古墳へ。
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玉丘古墳。
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玉丘古墳
■墳形 前方後円墳
■規模 全長 109m 
    周濠幅 14~23m
■埋葬施設 長持形石棺直葬
■時期 古墳時代中期(5世紀前半)
■出土遺物 円筒埴輪・朝顔形埴輪・
      形象埴輪(家形・鳥形など)
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周濠と前方部(南西角より)。
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全景(西側広場より)。
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陪塚第1号墳。
玉丘古墳を挟んで、西側に陪塚第1号墳、東側に陪塚第2号墳が築造されている。
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遠目からは見えなかったが、周濠が残っている。
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これまでも各地で陪塚を幾つか見てきたが、周濠が残っている陪塚を見るのはこれが初めて。
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陪塚第一号墳
■墳形 円墳
■規模 径 20m
    周濠 不明
■埋葬施設 不明
■時期 古墳時代中期(5世紀頃)
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航空写真では円墳に見えないが、地形測量図ではくっきりと円墳が見て取れる。
円墳の南にある”森”が何であるかは不詳(田畑にせず、残した?)。
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クワンス塚古墳。
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クワンス塚
■墳形 円墳
■規模 径 35m
    周濠幅 10m
■埋葬施設 竪穴式石室 割竹形木棺
■時期 古墳時代中期(5世紀前半)
■出土遺物 円筒埴輪・朝顔形埴輪
■造出部 形象埴輪(鳥形など)
     土製品(杵形、円板形など)
     籠目土器など
■副葬品 小刀・鉄鏃・鉄鉾など
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クワンス塚とは面白い名である。
クワンス塚の名の由来について調べてみたが、答えは見つからなかった。
機会があれば、加西市教育委員会に尋ねてみたい。

航空写真。
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地形測量図。
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説明板に「造出部」とある。
測量図ではそうしたものは見当たらないが、航空写真では盛土が円墳の右手にはみ出ている。
雨で墳丘の土が流れ出たようにも見えるが、目を凝らして見てみると、調査時のトレンチが右手のはみ出たところまで続いているので、これが造出部と思われる。
となれば、円墳に張り出しのついた帆立貝形古墳といってもよいのではないだろうか。

「忠臣蔵サミット」。
クワンス塚古墳の脇に置かれた、前方後円墳を模したコンクリート造りの記念碑。
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嘗て、加西市は赤穂藩53,000石の領地のうち8,920石の飛び地であった。

趣味のひとつ、「忠臣蔵」、「赤穂浪士」をテーマに、本所松坂町吉良邸から高輪泉岳寺までの浪士ゆかりの地を訪ねての「赤穂浪士討入凱旋の旅」を綴ったことがある。
更に番外編で日本各地の赤穂浪士ゆかりの地も訪ねて来た。
そのひとつとして、以前、加西市内とその北隣の多可郡多可町を訪ねたことがあるが、この「忠臣蔵サミット」碑は初めて見るものであった。
期せずして遭遇した、この碑を新たな<番外編>に加えておきたい。
因みに、昨年11月に、 加西市で加西市制50周年記念事業として「第29回忠臣蔵サミットi」が開催されたとのこと。
また、今年は7月に、三次市で「第30回忠臣蔵サミット」が開催されたとのこと。

話が古墳から忠臣蔵に脱線してしまった。
話を古墳に戻そう。

南へ歩く。

壇塔山古墳。
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壇塔山古墳
■墳形 円墳
■規模 径 17m
    周濠幅 2m
■埋葬施設 不明
■時期 古墳時代中期(5世紀前半)
■出土遺物 円筒埴輪
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左/航空写真、右/地形測量図。
上段/壇塔山古墳
下段/芳ヶ端下第1号墳
調査時に掘られたトレンチがくっきりと写っている。
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航空写真と測量図で「芳ヶ端下第1号墳」なる古墳が登場。
墳丘も説明板も見当たらず(見落とかもしれないが、史跡公園入口の案内図にも図示はされておらず)。
玉丘史跡公園のホームページを参照したところ、次の通り。
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芳ヶ端下1号墳
壇塔山古墳に隣接する芳ヶ端下1号墳は径約18mの古墳時代後期の円墳もしくは方墳に考えています。
墳丘の改変は著しいものの、横穴式石室が南に向かって開口することがわかりました。
しかし、石室の天井をはじめ使用石材の大半が抜き去られています。
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更に南へ。
湿地帯(といっても水はないが)に架かる木製歩道を渡る。
中央に古墳を模したと思しき高台が、そして、左手に古墳が見える。
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愛染古墳(移築復元)。
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愛染古墳(移築復原)
旧所在地 加西市佐谷町字上天寺
■墳形 円墳
■規模 径 18m
■時期 古墳時代後期(7世紀中頃)
■埋葬施設 無袖式横穴式石室 
      組合わせ式家形石棺
■副葬品 土器(須恵器)
※西日本クボタ開発(株)オーセントゴルフ倶楽部の協力を得て、移築復原を行いました。
※石室開口方向を180度変え、移築しました。
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ゴルフ場建設地に古墳が存在することはしばしばある。
調査した後に消滅していまう古墳が多い中、こうして移築復原される古墳は”幸せ者””といえるかもしれない。

説明板最下段の「西日本クボタ開発(株)」の印字の上に貼り紙がされていたような痕跡がある。
念のため、オーセントゴルフ倶楽部を検索したところ、「タカガワオーセントゴルフ倶楽部」となっている。
西日本クボタ開発は2003年に民事再生法を申請、2009年にタカガワグループの経営に変わっている。
「タカガワグループ」の貼り紙が剥がれ、旧「西日本クボタ開発」の名が再び現れたということであろう。
古墳は千年以上も残る一方、会社は数十年の単位で消滅することも。
皮肉にも、そうしたことをこの説明板で見てしまった思いである。

話がまたまた反れてしまった。
愛染古墳に話を戻そう。

無袖式横穴式石室。
両袖、片袖のほか、袖石のない石室もあるのだ。

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組合わせ式家形石棺。
家形石棺とあるが、石棺の蓋は家形になっておらず、箱形石棺である。
復原時に誤って箱形にしたのであろうか(まさか?!)。
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古墳を模したと思しき展望台へ。
その前に展望台下の案内図を眺める。
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上述では、玉丘古墳は南北に向いているように記したが、正確には、僅かに南北からずれており、前方部/南東向き、後円部/北西向きとなっている。
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展望台からの眺望。
正面/玉丘古墳の前方部。
目を凝らすと、玉丘古墳と右手の家屋との間に陪塚2号墳らしき”こんもり”が見える。
陪塚2号墳には行かなかったが、こうして遠目に眺めるのもまた一興である。
彼方の山並みは中国山地。
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左へ目を遣ると、壇塔山古墳。
陪塚1号墳やクワンス塚古墳は壇塔山古墳の影に隠れて見えない。
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更に南西に目を転じると、池。
この池が、冒頭、盟友、六々守さんのブログに書き込みのあった「玉丘古墳近くの池でバードウォッチング」の池かもしれない。
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南東に目を遣ると、移築復原された愛染古墳。
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再び、正面。
夏の、玉丘古墳の墳丘と周濠の風景を目に焼き付けて、玉丘古墳群の見納めとする。
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播磨平野は広い。
平野の北に位置する中国山地まで、ずーっと平野である。
平野の最北部で勢力をもつ地方豪族とこの地方の古代の人々の生活の様子をイメージさせる玉丘古墳群であった。

五百羅漢で有名な羅漢寺へと向かう。

フォト:2018年8月19日



# by ryujincho | 2018-08-21 23:01 | 炎暑、播磨国史跡めぐり 2018 | Comments(0)
2018年 08月 07日

『縄文』

8月1日(水曜)、晴れ。
シアター・イメージフォーラム(渋谷)へ出掛けた。
上映作品は『縄文にハマる人々』。
古墳時代に入れ込んでいる最中なので、弥生時代、更に遡っての縄文時代までは手が回らないが、この映画の前評判を耳にし、映画館に足を運んだのであった。
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縄文にハマったのは、この人たち。
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映画の中で、縄文にハマった人たちの印象深い言葉が数々あった。
中でも、縄文造形家、猪風来さんの「ガラスケースの中に納められた出土品を眺めていても仕方がない」、「出土品を手に取って、その重さや感触を直に感じると、縄文土器を拵えたくなる」という言葉が琴線に触れた。
実は、4月、遠賀川流域古墳をめぐった際、こんなことがあった。
直方市の水町遺跡群を見学した際、出土品の須恵器をこの手で持つことが出来た。
思いのほか、軽かった。
古代人の技量を知る思いであった。
博物館や資料館でて展示された出土品を眺めていても味わえないひとときであった。
よって、猪風来さんの「ガラスケースの中に納められた出土品を眺めていても仕方がない」は琴線に触れる言葉であったのだ。

そして、映画の中で、何よりも印象部深かったのは、岡本太郎が縄文土器に造形美を見出したことに幾度も触れていることであった。
岡本太郎は、1970年の日本万国博覧会(大阪)でテーマ館展示プロデューサーを務め、あの『太陽の塔』を制作した。
『太陽の塔』を制作するする傍ら、メキシコで『明日の神話』も制作した。
『明日の神話』は、紆余曲折を経て、メキシコから日本へ戻り、2008年、京王井の頭線渋谷駅とJR渋谷駅を結ぶ連絡通路の壁画として復活した。

映画からの帰り、渋谷駅井の頭線コンコースに立ち寄り、久しぶりに『明日への神話』を鑑賞した。
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渋谷駅井の頭線コンコースから渋谷駅前交差点を眺める。
火焔土器ならぬ、炎暑の中を歩く人々をカメラに収めた。
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8月7日(火曜)、雨一時曇り。
上野の東京国立博物館で開催中の特別展『縄文 1万年の美の鼓動』へ。
1週間前、渋谷へ映画『縄文にハマる人々』を観に行った際は、気温35度超の炎暑。
その後もずっと暑さは続いたが、この日は20度台、やれやれである。
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特別展は;
第1章 暮らしの美
第2章 美のうねり
第3章 美の競演
第4章 縄文美の最たるもの
第5章 祈りの美、祈りの形
第6章 新たにつむがれる美
で構成されている。

縄文時代中期の火焔型土器・王冠型土器。
圧巻!
ガラス・ケースなし。
触ったり、持ち上げたりすることは厳禁なれど、あの複雑な造形美を間近に見られ、大満足。

ハイライトは、真っ赤な床、壁、天井の展示室に置かれた国宝6点。
国宝に指定された順に6点を列挙する。
・国宝「土偶 縄文のヴィーナス」 長野県茅野市/棚畑遺跡 縄文時代中期 1995年国宝指定
・国宝「火焔型土器」 新潟県十日町市/笹山遺跡 縄文時代中期 1999年国宝指定
・国宝「土偶 中空土偶」 北海道函館市/著保内遺跡 縄文時代後期 2004年国宝指定
・国宝「土偶 合掌土偶」 岩手県八戸市/風張1遺跡 縄文時代後期 2009年国宝指定
・国宝「土偶 縄文の女神」 山形県舟形町/西ノ前遺跡 縄文時代中期 2014年国宝指定
・国宝「土偶 仮面の女神」 長野県茅野市/中ッ原遺跡 縄文時代後期 2014年国宝指定

「土偶 縄文のヴィーナス」が縄文時代出土品の国宝第1号として指定されたのは1995年で、然程、昔のことではない。
これは縄文時代の出土品が如何に長らく評価されなかったことを示しているが、時代は変わり、その後、指定が続き、現在、6点が国宝となっている。

国宝のほかにも素晴らしい土偶は幾つもあるが、お気に入りを3点、挙げておきたい。
・国の重要文化財「ハート形土偶」 群馬県東吾妻町/郷原遺跡 縄文時代後期
 昨年4月、群馬県埋蔵文化財センター情報館を見学。
 そのとき、「ハート形土偶」の眺め、この土偶についてベンキョーした。
 今回、実物を間近に見学する機会を得、嬉しく思った。
 因みに、ハート型土偶は岡本太郎作の『太陽の塔』のルーツになったとされている。
・国の重要文化財「遮光器土偶」 青森県つがる市/木造亀ヶ岡遺跡 縄文時代晩期
 或る時、東北を旅した。
 遠目に、大きな遮光器土偶を模した建物が目に入った。
 五能線木造駅舎であった。
 そのときから、木造亀ヶ岡遺跡を訪ねたいと思い続けているが、実現していない。
 同遺跡出土の遮光器土器は現地の博物館所蔵かと思いきや、東京国立博物館の所蔵であることを今回知った。
 因みに、遮光器土器は木造亀ヶ岡遺跡のほかからも何点か出土していることを今回知った。
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・重要文化財「猪形土製品」 青森県弘前市/十腰内2遺跡 縄文時代後期
 猪形のみならず、亀形や水鳥、海獣など、動物型土製品も縄文時代を語る上で大事な要素である。

展覧会の最終章「新たにつむがれる美」で、岡本太郎が登場。
このコーナーは写真撮影、OK!
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岡本太郎(1911~96)
岡本太郎は、日本を代表する芸術家であり、思想家です。
パリ大学で哲学・社会学・民族学と幅広く学び、帰国後に前衛芸術運動を押し進めました。
それまで等閑視されていた縄文土器の造形美に注目し、高く評価したことでも著名です。
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岡本太郎と東博
「芸術は爆発だ」の名言で知られる芸術家です。
岡本は昭和26年(1951年)に東京国立博物館で開催された特別展「日本古代文化展」で「縄文」と出会いました。
そのときに受けた衝撃から、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話ー縄文土器論」を発表しました。
美術品としては評価されることのなかった縄文土器の美を認めたのです。
それによって日本美術史の始まりは、飛鳥時代から縄文時代に引き上げられました。
後に岡本は、自らカメラを手に取り、自分の目に映る縄文土器や土偶を写真に収めて『日本の伝統』を出版しました。
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岡本太郎が東京国立博物館で出会った縄文土器。
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映画は一人で行ったが、特別展は、史跡めぐりの相棒、武衛さんと共に。
特別展の帰り、上野の居酒屋で一献傾けながら、歴史談義。

フォト:2018年8月1日、8月7日


# by ryujincho | 2018-08-07 23:51 | Comments(0)
2018年 07月 31日

『火星最接近!』

7月31日(火曜)、晴れ。

国立天文台ホームページでの案内。
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火星観望の好機到来!
7月31日に火星が地球に最接近します。
最接近時の火星と地球の間の距離は5,759万キロメートルです。
今回の接近は、「大接近」とも呼ばれる近い距離での最接近となります。
6000万キロメートルよりも近い距離まで近づくのは2003年の最接近以来15年ぶりです。
火星は地球のひとつ外側にある惑星で、約780日(約2年2カ月)の周期で地球への接近(会合)を繰り返しています。
地球の軌道はかなり円に近い形をしていますが、火星の軌道は少しつぶれた楕円形をしています。
また、会合周期がちょうど2年ではなく2年2カ月であるため、火星と地球が接近する位置は毎回ずれ、距離も大きく変わります(最も近い位置での接近と最も遠い位置での接近では、距離が2倍ほど違います)。
火星の直径は地球の半分程度と小さく、遠い時は表面のようすがよく観察できませんが、地球との最接近を迎えるころは火星が大きく見えるため、観察の好機となります。
火星の接近というと最接近の日ばかりが話題になりますが、最接近前後の数週間は、地球と火星の距離はそれほど変わりません。
この機会に、ぜひ火星を望遠鏡で観察してみてください。
望遠鏡をお持ちでない方は、天文施設にお出かけになって、大きな望遠鏡で火星をご覧になってみてはいかがでしょう。

(図)「2018年7月31日 21時頃 東京の星空」
「7月31日の夜9時頃には赤くとても明るい星が南東の低い空に見えます」のキャプションと共に火星の位置を図示。
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夜9時。
南東の空を眺める。
火星を視認!
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火星を眺め、部屋に戻ると、ちょうど、夜のニュースで火星最接近が報じられていた。
NHK "NEWS WATCH 9"/21時18分(時刻は写真データによる)。
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ズーム・アップ!で、再度、眺めてみる。
円の中の文様はカメラ・レンズの悪戯(と思われる)。
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超ズームアップで眺めてみる。
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ズームアップで映し出された火星は、古代の銅鏡の如し。
カメラ・レンズの悪戯はなかなかのものである。

火星最接近のこの日は火曜日。
火曜日に火星を眺める。
奇遇である。

折角なので、ホルストの組曲「惑星」の第1曲「火星」を聴く。
数ある同曲異演の中で、高校生の頃から愛聴しているカラヤン/ウィーン・フィルの演奏で。

フォト:2018年7月31日


(追記)
8月19日(日曜)、晴れ。
関西の盟友、六々守さんの案内で、兵庫県立考古博物館加西分館「古代鏡展示館」を訪ねた。
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数々の銅鏡を見学しながら、7月31日、カメラ・レンズを通して眺めた火星を思い起す。
そして、古代の人々は、火星になぞらえて銅鏡を作ったのではないかと勝手な想像をするのであった。

フォト:2018年8月19日


# by ryujincho | 2018-07-31 23:51 | Comments(0)
2018年 07月 30日

『炎暑、讃岐国古墳めぐり/青の山山頂古墳群(1号墳)』

7月27日(金曜)、晴れ。
讃岐国古墳めぐり。

昨年3月末、善通寺市/有岡古墳群に属する王墓山古墳と宮が尾古墳を探訪。
前日(7月26日)、同じ有岡古墳群に属するが、平地に築造された王墓山古墳や宮が尾古墳に対し、大麻山の山頂に築造された野田院古墳(のだのいんこふん)を探訪。

この機会にもうひとつ讃岐で古墳をめぐっておこうと、綾歌郡宇多津町と丸亀市の境界に位置する青ノ山の山頂に築造された青ノ山山頂古墳群(1号墳)を訪ねた。

青ノ山の山頂近くの駐車場に車を止める。
見事な円錐形の姿を見せ、讃岐富士とも称される飯野山を眺める。
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讃岐には、飯野山と青ノ山を兄弟に見立てた伝説がある。
兄の飯野山(標高422m)が弟の青ノ山(標高224m)と背の高さで喧嘩になり、弟の青ノ山は兄の飯野山に頭を切られたため、頂上が平らになったという。
讃岐富士と称される優美な姿を見せる飯野山だが、こうした恐ろしい伝説も残っているのである。


駐車場から木立の中を抜けて頂上へと進む。
兄に頭を切られたという伝承の通り、頂上は広く、平らに開けている。
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石室がむき出しとなっていると思しき、大きな石が数個と説明板が目に入る。
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説明板に目を通す。
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青ノ山山頂古墳群(1号墳)
青ノ山山麓には古墳時代前期から同時代終末期にかけて10数基の古墳が営まれている。
標高224.5mの青ノ山山頂に位置する青ノ山1号墳はその特異な立地と方形墳という珍しい墳形から注目されている古墳である。
墳丘の規模や石室の形態など詳細なことは今後の調査によらなければならないが、見かけの墳丘は一辺9m、高さ2.5mの小形の方形墳で、安山岩・自然石を加工した大形の石材などを組み合わせて形成している。
石室はほぼ南方向に開口する両袖式の横穴式石室で全長6mを測る。
墳丘や石室の構築状況や既出の金・銅製耳環などから古墳時代後期(6世紀末~7世紀初頭)の造営になるものと考えられる。
宇多津町教育委員会
丸亀市教育委員会
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宇多津町と丸亀市、両市町の教育員会の”合作”であるところが好ましい。

「宇多津町指定文化財 青の山山頂古墳 宇多津町教育員会」と刻まれた標柱。
丸亀市の標柱は見当たらない(丸亀市は市の文化財に指定していないのかな?)。
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墳丘の周囲を時計回りで歩いてみる。
(南西角)
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(北西角)
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(北東角)
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(南東角)
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一辺9m、高さ2.5mの方墳であるが、盛夏の頃なので、草がしっかりと生えており、草刈がされた直後とか、冬枯れの頃でないと、その墳丘を視認することは難しが、墳丘の様子を頭の中でイメージする。


平らな原っぱの山頂を北へ歩いていく。
西の木立の間から丸亀城が見える。
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ズームアップ!
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超ズームアップ。
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天守を狙って、更にアップ。
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丸亀城天守。
三層三階の木造天守は万治3年(1660年)築。
全国に現存する『木造天守十二城』の一つ。
国指定重要文化財。
内堀から天守にかけて積み重ねられた石垣は、”扇の勾配”と呼ばれる特長的で見事な曲線を描く。

いつもは北側から眺めることの多い丸亀城だが、東側、青ノ山の高見から眺める丸亀城は初めてのこと。
大満足!

更に北へと進む。
炎暑の下、数羽のキタテハが元気よく飛んでいる。
しばし、キタテハに遊んで貰う。
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山頂北端の展望台。
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備讃瀬戸案内図。
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展望台からの風景。
若い頃、坂出市に住んでいたことがあるので、見えるものすべてを観光ガイド出来るくらいに熟知している。
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右手、街並みの先にあるのは聖通寺山。
聖通寺山をはさんで東側が坂出市、西側が綾歌郡宇多津町。
聖通寺山の先は、昔、番の州呼ばれる浅瀬であったが、1965年から1972年にかけて、番の州を浚渫した砂で沙弥島と瀬居島の間を埋め立て、番の州工業地帯となった。
番の州工業地帯の辺りに備讃瀬戸に架かる瀬戸大橋が霞んで見える。
瀬戸大橋が開通したのは1988年だが、坂出市に住んでいたのはそれよりずっと前のことなので、当時は岡山から宇野線、宇高連絡船を利用して高松に上陸というルートであった。

目を少し左(西)へ転じる。
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眼下に広がる宇多津町の街並み一帯は、以前、塩田であったが、1972年に塩田は廃止となり、その後、宅地化されたのであった。

更に、左(西)へ目を転じる。
綾歌郡宇多津町から丸亀市となるが、木立が高くなり、街並みは見えない。
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北端の展望台から再び、南側の1号墳の方へ歩く。
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1号墳の、石室が露出したと思しき大きな石を今一度、じっくりと眺める。
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青ノ山山頂古墳群/1号墳をあとにして、木立を抜け、駐車場へ向かう。

木立の中の踏み分け道。
古墳の石材かと思わせる石が散見される。
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木立を抜けると讃岐富士が現れた。
そして、青ノ山の山頂の縁には古墳に使われていたのではないかと思わせる石材が散在していたのであった。
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古墳時代の人々は 古墳築造の候補地を探すため、あちらこちらを歩き回ったであろう。
瀬戸内の眺めのよい山や高台にも上ったであろう。
そして、ここがベストだ!と、山頂が平らな青ノ山に白羽を立てたのであろうと想像する。
飯野山と青ノ山を兄弟に見立てた伝説はそうしたことも伝えているのではないかとも思うのであった。
であれば、古墳好きにとって、この言い伝えは、ますます面白い伝説と相成るのであった。

そんなことを思いながら、青ノ山を下り、今回の讃岐路の旅を終えた。

今回の「炎暑!讃岐路の旅」で立ち寄ったところを振り返ると、次の8ヶ所であった。
・四国八十八ヶ所第七十番札所/本山寺
・予讃線財田川鉄橋
・興隆寺遺跡
・生目神社
・野田院古墳
・紫雲出山遺跡
・父母ヶ浜
・青ノ山山頂古墳群/1号墳

炎暑の最中ではあったが、誠に有意義な旅であった。

フォト:2018年7月27日






# by ryujincho | 2018-07-30 23:31 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐路/父母ヶ浜』

7月26日(木)、晴れ。
荘内半島、父母ヶ浜(ちちぼがはま)。
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10年以上前になろうか、小豆島の二十四の瞳映画村で浜辺に憩う人々を撮った。
その写真を見た、盟友、六々守さんから「植田正治風やね」との言葉を貰ったことがあった。
今般、荘内半島の父母ヶ浜にて、新たに植田正治風が撮れたと悦に入っている。

ということで、もう1枚。
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フォト:2018年7月26日




# by ryujincho | 2018-07-29 23:38 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐国遺跡めぐり/紫雲出山遺跡(下)』 sy-2

7月26日(木曜)、晴れ。
高地性集落、紫雲出山(しうでやま)遺跡。
上の巻では、紫雲出山からの眺望について綴った。
そして、山頂に設置された、紫雲出山遺跡に関わる数枚の説明板に記されていたことについても綴った。
この下の巻では、紫雲出山遺跡館の展示パネルや出土品を見学しながらベンキョーしたことを綴り残しておきたい。

年表。
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弥生時代
町内のできごと
・紀元前200年 紫雲出山に弥生人が住みつく。
日本のできごと
・青銅器が副葬されたり、銅鐸まつりが行われる。
・機織りの技術が広がる。
・この頃、100余りの小さな国ができる。
・高床倉庫をもつ集落ができる。
・小さな国の間で戦いが絶えなくなる。
・この頃、瀬戸内海などで高地性集落ができる。
・中国の史書に、当時の人々の生活や習慣について書かれている。『魏志倭人伝』(最古の記録)
・女王卑弥呼が中国に使いを送り、金員と銅鏡などをさずけられる。
・鉄器が広がり、石器が次第に消える。
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紫雲出と弥生時代の戦争
稲を作り、米を食べることが日本の生活の基本となったのは、およそ2600~1700年前の弥生時代だった。
かつて、学会では、この弥生時代を平和な穏やかな農耕生活が営まれていた時代ととらえていた。
瀬戸内海から大阪湾にかけての沿岸や島々の高い丘上には、弥生時代の遺跡(高地性遺跡)が少なくない。
水田稲作の生活の場としては、低い土地が最も適しているはずだが、高い丘の上に住んだのは何故か。
中国の魏志倭人伝(「三国志」の魏書の東夷伝倭人の條)は、西暦2世紀の後半に、倭国、つまり西日本が乱れた、と記している。
この「倭国乱」の記述に対応するような戦いがあったのか、それとも、水田では支えきれないほど人口が増えたため、丘陵上にまで耕地を広げ、山畑を作ったのか。
この謎を解く目的で、京都大学の小林行雄先生をはじめとする人々がこの紫雲出山の頂にある弥生時代の遺跡を発掘調査したのは、1955年~57年のことである。
その結果、各種の土器、実った穂をつみとる石器(石包丁)、糸を紡ぐための重り(紡輪)など、低地の村あとにみられるものと同じ種類の生活遺物が数多く見いだされた。
矢尻(石鏃・やじり)や短剣など、石の武器も豊富だった。
それは、この地に恵まれた眺望とともに「紫雲出山が戦いにそなえた村だった」との解釈を導いた。
このようにして、その調査は「弥生時代こそが日本で戦争の始まった時代だった」といい、現在における考古学界九通の認識へのひとつの出発点となったのである。
土地争い、水争い、蓄えの奪い合い、政治的統合へ向けての武力衝突・・・農耕社会誕生は、集団と集団がぶつかりあって殺し合いという意味での戦争を導くことになったのである。
1988年、香川大学の丹羽祐一さんを指導者とする発掘調査によって、この山頂で弥生時代の家や倉のあとの存在が初めて明らかにされた。
それによって、ここ紫雲出山遺跡が名実ともに紀元前1~紀元後1世紀頃の「高地性集落」の代表の位置にまで高められたことはまことに喜ばしい。
1989年10月12日
奈良国立文化財研究所 技術部長 佐原 真
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「たたかうムラの分布」。
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西から;
井上山遺跡(山口県周防市)
吹越遺跡(山口県柳井市)
西山貝塚(広島県広島市)
八堂山遺跡(愛媛県西条市)
紫雲出山遺跡(香川県三豊市)
貝殻山遺跡(岡山県岡山市)
伯母野山(おばのやま)遺跡(兵庫県神戸市)
会下山(えげのやま)遺跡(兵庫県芦屋市)
観音寺山遺跡(大阪府和泉市)
滝ヶ峰遺跡(和歌山県和歌山市・海南市)

会下山遺跡。
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兵庫県芦屋市 会下山遺跡(高地性集落)
兵庫県会下山遺跡は、標高160m~200mの表六甲の尾根上に立地する弥生時代中・後期の高地性遺跡集落です。
大阪湾や紀伊水道を眼前にながめ、東は生駒の山並みや千里丘を望む見晴らしのよい場所に40人ほどの人々が生活をともにしていたようです。
住居7、祭場2、倉庫1、墓3、ゴミ捨て場1の施設が存在しており、当時最高の通信手段であるノロシを上げたと考えられる火たき場の跡も見つけられています。
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右/1955年(昭和30年)からの発掘調査。
左/1988年(昭和63年)の発掘調査。
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1955年(昭和30年)からの発掘調査の様子。
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1988年(昭和63年)の発掘調査の様子。
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出土品。
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ジオラマ。
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全景。
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煮炊き。
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祭祀。
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物見。
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狼煙。
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見回り出動。
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遺跡館を出て、右手の小高い、展望台に上ってみる。
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駐車場からの展望、山頂の四阿の展望台、その西の遺跡館の展望室、そして、更に西の、この小高い展望台と四つ目の瀬戸内海の風景を楽しむ。
奥/備後灘、左手/燧灘。
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光る海。
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潮目模様を描く海。
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来た道を戻る。
「発掘現場は紫陽花の遊歩道の辺り」と掃除をしていた人に教えて貰った通り、その辺りを眺める。
遺跡館で見た発掘調査時の写真をイメージしながら...。
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遺跡館での説明パネルに「矢尻(石鏃・やじり)や短剣など、石の武器も豊富だった。それは、この地に恵まれた眺望とともに『紫雲出山が戦いにそなえた村だった』との解釈を導いた」など、弥生時代は戦いの時代とのトーンでの説明であった。
この説は、讃岐へ向かう往路、新幹線の中で目を通した書物の「 瀬戸内海に残る高台の砦は倭国内乱の跡か?(略)この年代に対応する遺跡として注目されるのが、山口県の岡山遺跡、愛媛県の八堂山遺跡、香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡、岡山県の貝殻山遺跡などに代表される高地性集落(弥生中期)である(略)」との記述に符合する。
一方、20世紀末期頃からは、高地性集落を特殊な集落と捉えるのではなく、他の環濠集落や非環濠集落との関連性に着目し、地域の拠点となる拠点集落とその他の集落という関係で見直す動きも出ているということもあるようだ。
歴史を物語りと考えてはいけないが、物語り的には「倭国内乱の跡」説が面白い。

高地性集落での弥生人の生活を想像しながら、うねうねとした道を下り、紫雲出山を後にした。

フォト:2018年7月26日

(紫雲出山遺跡、上の巻、下の巻、完)


# by ryujincho | 2018-07-29 23:37 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐国遺跡めぐり/紫雲出山遺跡(上)』 sy-1

7月25日(水曜)、晴れ。
讃岐へ向かう道中、新幹線の中で読んでいた古代史の書物に「 瀬戸内海に残る高台の砦は倭国内乱の跡か?(略)この年代に対応する遺跡として注目されるのが、山口県の岡山遺跡、愛媛県の八堂山遺跡、香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡、岡山県の貝殻山遺跡などに代表される高地性集落(弥生中期)である(略)」との記述があった。
「香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡」に目を惹かれた。
讃岐に、数日、滞在することでもあり、その間に、紫雲出山遺跡を訪ねてみたく思った。

7月26日(木曜)、晴れ。
義兄の運転で荘内半島の紫雲出山へ。
うねうねとした坂道を上って行く。

荘内半島は、香川県の西、瀬戸内海に突き出た半島。
荘内半島は、風光明媚なところで、浦島伝説があり、紫雲出山の名は浦島太郎が玉手箱を開けた時に立ち上った煙に由来しているという。
荘内半島は、幾度か訪ねたことがあるが、紫雲出山に上ったことはなく、紫雲出山遺跡を見学したこともなく、期待が高まる。

山頂近くの駐車場に車を止め、瀬戸内海の景色を眺める。

名残の紫陽花、一輪と共に。
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少し画角を変えて、空と島々。
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駐車場から徒歩で山頂へ。
山頂の、枯れかけた紫陽花がつづく遊歩道を進むと、展望台が見えて来た。

展望台からの瀬戸内海を眺める。
駐車場より目線が高くなった分、更に見事な光景である。
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紫雲出山と荘内半島
この紫雲出山園地は昭和25年に荘内半島の一部と共に瀬戸内海国立公園に加えられている。
青くしずかな海、そこに浮かぶ変化に富んだ緑の島々、複雑な出入りを見せている海岸線、遠く中国山地など360度の眺望のすばらしさは瀬戸内海沿岸では他を寄せつけないであろう。
春は新緑、数百本に余る桜の花で海も染まる程である。
夏は海水浴、秋は紅葉と四季を通じてのレクリエーションの場となっている。

また、この荘内半島には、伝説、浦島太郎にまつわる話や地名があり、次のものは代表的なものである。
「紫雲出山」 浦島太郎が玉手箱をあけると白い煙が立ち昇り、夕日に映えて紫の雲となり、この山にかかったことからこの名前が付いた。
「浦島」 大浜浦、積浦、生里浦、家の浦、香田浦、粟島の総称。
「積浦」 浦島太郎が竜宮より宝物を積んで帰ったところ。
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瀬戸内海を眺めながらいつも思うこと、それは、瀬戸内海には幾つの島があるかということ。
海上保安庁の資料によれば、「島の外周が0.1km以上の島は727。島の外周が0.1km以下も含めるともっと多くなるでしょう」とある。
定義外の島々を含めれば、3000以上あるともいわれている。

この機会に、これまでに訪ねたことのある島を海域別に列挙しておくこととしたい。
淡路島、小豆島
直島、本島
高見島、志々島、粟島
伊吹島、豊島(注1)
向島、因島、弓削島、生名島、生口島、大三島、伯方島、大島(注2)
岡村島、中ノ島、平羅島、大崎上島、大崎下島、豊島(注3)、上蒲刈島、下蒲刈島
江田島
注1)瀬戸内海に幾つかある「豊島」のうち、燧灘に浮かぶ無人島の豊島
注2)瀬戸内海に幾つかある「大島」のうち、しまなみ海道の大島
注3)瀬戸内海に幾つかある「豊島」のうち、安芸灘とびしま海道の豊島

訪ねた島は24島。
24/727、”制覇率””は僅かだが、しまなみ海道ポタリング(6島)や安芸灘とびしま海道ポタリング(7島)が大いに貢献している。

因みに、紫雲出山の展望台からは霞んで見えない島もあるが、高見島、志々島、粟島、伊吹島など、これまでに訪ねたことのある島が視認出来る。

瀬戸内海の風景もさることながら、紫雲出山遺跡に気持ちをシフト。
紫雲出山遺跡の説明板に目を通す。
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紫雲出山遺跡
紫雲出山(352m)の山頂に形成された弥生時代中期の高地性遺跡。
昭和22年、地元の郷土史家 前田雄三氏が発見し、昭和31年から32年にかけて、当時の京都大学講師 小林行雄先生によって発掘調査された。
土器の包含層は山頂一帯に広がり、住居址と思われる列石遺構のほかに貝塚も発見されている。
出土品は、弥生時代の中期から中期末の多数の土器のほかに、打製石鏃、石槍、環状石斧、打製石包丁、磨製石斧、分銅形土製品、貝輪、鉄器片、シコクヒエなどがみられる。
中でも、長くて重量性のある石鏃が多数出土していることは、特に注目され、荘内半島の最高所に立地するという地形上の特性からも、軍事的、防禦的性格を帯びた特殊な遺跡として学会でも注目されている。
詫間町教育委員会
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この説明書きからすると、高地性集落は山頂全体にあったように読める。
山頂そのものは然程広くはない。
遺跡はどの辺りで発掘されたのだろう?と周囲を見渡す。
ちょうど、掃除していた人がいたので尋ねてみた。
先程、歩いて来た、枯れた紫陽花が連なる遊歩道の辺りで遺跡は発掘されたとのこと。
その場所は帰りに検分することにして、展望台の西側にある紫雲出山遺跡館に立ち寄ることにした。

「紫雲出山遺跡館」の脇に復元された竪穴式住居と高床式倉庫、そして、弥生人。
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紫雲出山遺跡館。
紫陽花の花で隠れているが、「〇〇町立」は「詫間町立」。
詫間町は、嘗ての三豊郡詫間町で、2006年、平成の大合併で周辺の6町と合併し、三豊市詫間町となった。
全国各地をめぐっていると、平成の大合併のあと、看板や説明書きで、旧市町村名の上に新しい市の名前が書き直されていることが多いが、この石に刻まれているように町名や先程の説明書きの詫間町教育員会など旧名を残しておく方が町の変遷が分かってよいのではないかと常々思うのである。
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先程とは別の、紫雲出山遺跡の説明板に目を通す。
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内容は先程の説明板と重複するところもあるが、全文を書き下しておこう。
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香川県指定史跡 紫雲出山(しうでやま)遺跡のあらまし
昭和22年、地元の郷土史家 前田雄三氏によって発見され、本町出身の田村実造先生(京都大学名誉教授)の紹介で、京都大学の小林行雄先生によって発掘調査された。
その結果、今から約2000年前(弥生時代中期)に人々が生活していたことがわかった。
生活に使われていた土器・鉄製品・弓の先につける石鏃や石の短剣・木材を倒したり、加工するための石斧・貝製の腕輪・食料のヒエなども見つけられた。
特に、ここは眺めがよく、多くの石鏃が見つけられているので、守りやすく、戦いの見張りに適した集落として作られたものではないかと注目されている。
昭和63年、香川大学の丹羽祐一先生の指導による調査で、半地下構造の家の跡(竪穴住居)と二階建ての倉庫(高床倉庫)を見つけた。
この遺跡館の隣には、竪穴住居と高床倉庫を少し移して当時のままに復元している。
また、本町庁舎横の考古資料館には、ここで見つけられた土器などを展示している。
これらの施設を歴史学習の場やいこいの場として活用してほしい。
詫間町教育委員会
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館内に入る。
遺跡館というよりも喫茶室(兼)展望所といった感がある。
史跡めぐりを趣味とするものにとっては、これはちょいと違うんじゃないかな?と思うも、説明板に「歴史学習の場やいこいの場として活用してほしい」とあり、異を唱えるような考えはは止めようと思った。

炎暑である。
冷たい甘酒を注文し、ガラス越しに瀬戸内海の風景を眺める。
先程の展望台より少し西側に来たせいか、また違った風景を楽しむ。
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右手に、嘗て訪ねたことのある、高見島、志々島、粟島が見える。
高見島は若い頃であった。
島の頂上まで上った記憶がある。
志々島と粟島は、然程、昔ではない。
志々島の樹齢1200年といわれる大楠は見事なものであった。
また、この島は映画『男はつらいよ 寅次郎の縁談』(1994年公開、マドンナは松坂慶子)で琴島として登場したことは寅さん映画のファンなら誰ても知っていることであろう。
粟島は三つの島が砂州でつながっており、三枚翼のプロペラのような形をしている。
レンタル・ママチャリで島内をめぐったことが思い出される。

おっと、景色に見入って、島々の思い出に浸っていてはいけない。
ここは紫雲出山遺跡館。
展示パネルや出土品を見学しながら、紫雲出山遺跡をベンキョー、ベンキョー。

遺跡館でベンキョーしたことは続編にて綴りたい。

フォト:2018年7月26日

(つづく)





# by ryujincho | 2018-07-29 23:36 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐国古墳めぐり/野田院古墳(下)-石積塚-』 nk-3

香川県善通寺の大麻山の尾根に築造された野田院古墳。
5月に訪ねた長野県千曲市の有明山の尾根に築造された森将軍塚古墳に触発され、同じく、山の尾根に築造された野田院古墳を、今回、探訪した。
上の巻では、説明書きを参照しながら、野田院古墳について縷々述べた。
中の巻では、比高差を中心に、野田院古墳と森将軍塚古墳について縷々述べた。

野田院古墳に関わる説明書きの中で「石積塚」について言及されている。
長野県の石積塚についても触れられている。
森将軍塚古墳を訪ねるに先立ち、長野県の古墳についてヨシューしていた際、「長野県の古墳」で検索したところ、ヒットしたのは;
・森将軍塚古墳など4基の前方後円墳が属する埴科古墳群(千曲市大字森、長野市松代町ほか)
・300余の積石塚古墳を中心とした大室古墳群(長野市松代町)
の2件で、積石塚のこともベンキョーしたことがある。
よって、この下の巻では、石積塚について触れてみたい。


野田院古墳の墳丘脇に設えられた説明板。
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積石塚に関わる解説。
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積石塚古墳の中には、土の代わりに川原石や山石を積み上げて造った「積石塚」と呼ばれるものがあります。
瀬戸内海沿岸部には、香川県を中心に、古墳発生期から前期にかけて造られた数多くの積石塚が分布していることが知られています。
この他には、長野県を中心に分布する古墳時代後期から終末期にかけて造られた積石塚が知られている程度で、全国的には分布していません。
朝鮮半島にも同様の積石塚が認められることから、渡来人が伝えたとする「外来説」と、日本で独自に発生したとする「自生説」がありますが、香川県では白鳥町の成重遺跡(弥生時代中期)や善通寺市の稲木遺跡(弥生時代後期)で集石墓が確認されており、積石塚は古代の讃岐で発生したのではないかと考えられています。
これは讃岐地方に古式の積石塚が多く残ることとも符合します。
野田院古墳では保存整備に伴う墳丘積石内部の発掘調査によって、優れた土木技術を用いて構築していたことが判明しました。讃岐地方の積石塚で内部構造が明らかになったのは初めてのことです。
弥生時代の集石墓は平地にあります。
また、川原石を積み上げた簡単な構造であり、短時間で技術が発達するとは考えにくいことから、自生説とともに高句麗の積石塚の構築技術の伝来も考える必要があるかもしれません。

香川県彼の積石塚分布図
※拡大図は省略※「野田院古墳」と「石清尾山(いわせおやま)古墳群(高松市)」の場所が図示されている。
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この説明書きでは、香川県と長野県の積石塚古墳についてしか触れていないが、大好きなウィキペディアを紐解くと更に各地の積石塚も列挙されている。
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積石塚(つみいしづか)
積石塚は、石を積み上げて墳丘を造っている墓である。
石塚・築石塚などと呼んだ時代や、他にケルンなども提唱されたが、近年はこの名称に定着している。
この用語は他の時代(縄文時代・中世)や地域(例、朝鮮半島等)でも使用されるが、この項では、古墳時代に限って説明する。

古墳時代にこの墓形式が存在する地域は、香川県から徳島県の一部の地域と長野県、山梨県の甲府盆地北縁など一部の地域に顕著に見られる。
また、長崎県の対馬、山口県の見島、そのほか、宮崎県・愛知県・静岡県・群馬県などにもみられる。
なかでも全長100メートルの海浜部に254基もの積石塚が拡がる福岡県の相島積石塚古墳群、長野県長野市の大室古墳群、香川県高松市の石清尾山古墳群、山口県萩市の見島ジーコンボ古墳群などが著名である。
香川・徳島のものは古墳時代前期(3~4世紀)を中心とし、香川の石清尾山古墳群では積石塚の前方後円墳9基、双方中円墳1基、円墳30数基がある。
長野・山梨のものは中期後半から後期(5~6世紀)にかけて形成された群集墳にみられる。
約500基からなる長野市松代町に所在する大室古墳群は、日本最大の積石塚古墳群で、大部分が積石塚であり、埋葬施設の多くが横穴式石室である。
長野県史跡である積石塚古墳群の八丁鎧塚古墳(長野県須坂市大字八町)は、第1号から第5号まである。
出土品として鏡・碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)・貝釧(かいくしろ)などがあるが、その出土鏡によって、これまでは6世紀以降の築造とされてきたが、5世紀代に溯るものと改められた。
(出典:ウィ木ペディア)
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野田院古墳関連の説明書きおよびウィキペディアを参考に、主要な積石塚(と思しき)次の6件について、その詳細を調べてみた。
(1)香川県高松市峰山町他/石清尾山古墳群
(2)徳島県鳴門市大麻町/萩原墳墓群
(3)長野県長野市松代町/大室古墳群
(4)長野県須坂市大字八町/八丁鎧塚古墳
(5)山口県萩市見島/見島ジーコンボ古墳群
(6)福岡県糟屋郡新宮町/相島積石塚古墳群

調べた結果は後述の通り。
但し、情報過多気味となったので、小生なりに纏めを先に記しておきたい。
調べた限りにおいては、徳島県の萩原墳墓群、次いで、香川県の石清尾山古墳群が最も古い積石塚古墳と思える。
長野県ほかの積石塚古墳はこれらが伝播したものか、各地独自で発生したかは定かではない。
渡来人が伝えたとする「外来説」、日本で独自に発生したとする「自生説」、いずれかはよく分からないが、「外来」ののち、各地に伝播し、「自生」したとも考えられる。
野田院古墳からヒントを得て、積石塚古墳をより詳しく知ることとなったことでもあり、機会があれば、各地の積石塚古墳を訪ねてみたい。殊に、長野県/大室古墳群のうち、最も規模の大きい大室谷支群を訪ねてみたいものである。


以下は、上記(1)~(2)の詳細調査結果。
今後、積石塚古墳を探訪する前に、今一度、目を通すための参考用として書き残すものである。


(1)石清尾山古墳群(香川県高松市峰山町他)
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石清尾山古墳群は、鶴尾神社4号墳、猫塚古墳、鏡塚古墳、石船塚古墳以外にも、北大塚古墳、北大塚東古墳、北大塚西古墳、小塚古墳、姫塚古墳、石清尾山9号墳の合計10基の積石塚古墳が国の史跡指定を受けています。(他に盛土墳2基も指定)。 
これら指定された古墳以外にも、紫雲山の尾根筋に、前方後円墳の稲荷山姫塚古墳、稲荷山北端1号墳、稲荷山1号墳等の積石塚古墳が知られています。 
なお、積石塚古墳は高松だけでなく、同じ時期のものが徳島県にもいくつかみられます。
また、長野県には6世紀から7世紀頃の積石塚古墳が極めて多く存在します。
(出典:高松市HP)
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墳丘の形状は多様である。
積石塚のうち、猫塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端古墳が双方中円墳、北大塚東古墳が方墳、稲荷山南塚北古墳が円墳、その他は前方後円墳である。
墳丘はどれも安山岩を積み上げて構築されている。
(出典:ウィキペディア)
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石清尾山古墳群には、4世紀から7世紀にかけてつくられた200基余りの古墳があります。
これらは、墳丘を土で築いた盛土墳と、石で築いた積石塚とに分けられます。
中でも、積石塚は4~5世紀にかけてつくられたもので全国的に珍しく、形も特異な双方中円墳をはじめ前方後円墳などと多様で、貴重な文化財として有名です。 
石清尾山では、古墳時代のはじめには既に前方後円墳が出現していたらしく、先進的な地域だったと思われます。
さらに、他の地方では見られない積石の古墳や中円墳等に強い個性がうかがえます。 
積石塚古墳の出現理由には、石清尾山では石を得られやすかったためとする自生説と、積石塚が所在する朝鮮半島から伝来したとする渡来説があります。
両説とも一長一短があり定まっていませんが、背景には豪族がいたのに間違いなく、当時の石清尾山周辺の繁栄がうかがい知れます。 
5世紀の中頃になると、積石塚は縮小され形も円墳となって、明らかに石清尾山の大豪族の衰退がみられます。
おそらく、個性的であったがために幾内の中央の勢力によって押さえ込まれたのでしょう。
5世紀の終わりごろになると、もはや積石塚古墳はつくられなくなります
その後、石清尾山に古墳がつくられるようになるのは約100年後のことです。 
それは、盛土で横穴式石室をもつ古墳として現れます。
この時期の古墳は、数多くつくられますが、古墳の規模、石室の構造、副葬品の内容等差異がみられなくなります。
石清尾山の横穴式石室古墳でも同様で、積石塚古墳がつくられたころの面影はありません。 
いずれにせよ、積石塚古墳によって代表される石清尾山古墳群は、極めて特色があるとともに、高松の文化の原点として、また、日本の歴史上貴重な古墳群といえます。
石清尾山古墳群のなかでも山頂一帯に所在する主要な11基の古墳は、昭和60年7月16日に国の史跡に指定されました。
高松教育委員会
(出典:高松市峰山公園HP)
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香川県高松市峰山町・室町・宮脇町ほかにある古墳群。
高松市中心街の南西に位置する標高230mほどの石清尾山山頂の稜線上には、数多くの積み石塚や盛り土墳が点在している。
北大塚1・2・3号墳、石船塚、小塚、姫塚、石清尾山9号墳などの前方後円墳、猫塚、鏡塚の双方中円墳、さらに東南の尾根にある鶴尾神社4号墳(香川県最古の古墳とみられる、しゃもじ形の前方後円墳)など、形態も多様である。
猫塚古墳は古墳群のなかでは最大規模で全長約96m、高さ5mあり、鏡塚古墳とともに双方中円墳という前方後円墳にもうひとつ方墳をつけたような特異な形をしている。
また、西方寺山尾根・摺鉢谷・浄願寺山には、積み石塚と古墳時代後期の横穴式石室など内部が石組みの多数の盛り土円墳が分布する。
古墳群は古墳時代前期から後期にわたる多様な古墳を有しており、瀬戸内海沿岸地方における古墳文化の研究に学術上貴重な遺跡群である。
1934年(昭和9)に石船塚古墳が国の史跡に指定されていたが、1985年(昭和60)に山頂にある多数の古墳を一括して追加指定し、石清尾山古墳群と名称変更され、1989年(平成1)に鶴尾神社4号墳が追加指定された。
古墳群はハイキングコースとして整備されている。
JR予讃線ほか高松駅から車で約15分。
(出典:コトバンク)
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(2)萩原墳墓群(鳴門市大麻町萩原字山下)
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萩原墳墓群
2基の墓があります。
萩原1号墓は昭和54~55年(1979~1980)に県道バイパス工事のために発掘調査され現在は消滅しています。
萩原2号墓は1号墓の上方にあり、平成16~19年(2004~2007)に徳島県教育委員会によって発掘調査されました。
形・規模
尾根上に築かれた積石墳丘墓です。
萩原1号墓は直径18mの円丘部に長さ8.5mの突出部を山側に向けています。
萩原2号墓は直径21.2mの円丘部に長さ5.6mの突出部を平野側に向けています。
古墳時代の積石塚に比べると墳丘の高さが低いのが特徴で、萩原1号墓は円丘部中央の高さがわ  ずか約0.8mです。造られた時代埋葬施設の上には砂岩円礫と多量の白色円礫が見られ、讃岐産の土器がお供えされていました。
築造時期は弥生時代終末期が考えられ、萩原2号墓⇒萩原1号墓の順番で築造されました。
埋葬施設は2基ともに積石木槨構造をしています。
畿内地域大和のホケノ山古墳や香川県石塚山2号墳の埋葬施設との関連が指摘されています。
(出典:さぬき市古墳勉強会)
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(3)大室古墳群(長野県長野市松代町)
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大室古墳群
長野県長野市松代町にある古墳群。
長野市街の南東約6km、千曲川南側の丘陵から派生する3つの尾根上と、それに挟まれた2つの谷に立地する。
標高は350~700m、約2.5km2の範囲に帯状に分布し、5世紀前半~8世紀に築かれた総数約500基の古墳群である。
古墳群は西から金井山、北谷、霞城(かじょう)、大室谷(おおむろだに)、北山の大小5つの支群に分かれている。
古墳群には盛り土による前方後円墳が1基あり、そのほかに土石混合墳も見られるが、約330基が石を積み上げた積み石塚古墳である。
積み石塚の墳形はほとんどが直径10mほどの円墳だが、日本ではきわめて珍しい積み石塚が、これほど多く密集する古墳群はほかに存在しない。
そして、合掌形石室と呼ぶ特異な構造を備えたものが約40基あり、石室の天井部に板状の石を三角形の切り妻屋根のように組み合わせた合掌形石室は、全国でも珍しく大室古墳群の特徴となっている。
出土遺物は土師器(はじき)や須恵器、珠文鏡、短甲、馬具、刀子、玉類、馬骨などで、なかでも馬具が多いのが特色といえる。
馬骨は頭骨だけで、横穴式石室の前庭部に多量の土師器や須恵器と一緒に埋納されていた。
このように大室古墳群は日本最大の積み石塚古墳群として重要であることから、大室谷支群の主要部分が1997年(平成9)に国の史跡に指定された。
積み石塚は高句麗(こうくり)の墓制と、合掌形石室は百済(くだら)の墓制と関係があるとする説もある。
長野電鉄屋代(やしろ)線大室駅から徒歩約20分。
(出典:コトバンク)
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大室古墳群は、積石塚324基と合掌形石室39基を含む、総計505基の古墳よりなる特異な古墳群である。
積石塚古墳は、四国(香川・徳島)や長野・山梨県の一部に顕著に見られる。
香川・徳島のものは、古墳時代前期(3~4世紀)の築造で、石清尾山古墳群では積石による前方後円墳などもある。
積石塚の源流は、高句麗・百済にあると考えられ、その移入経路は興味深い。
また、信濃国は、5世紀の馬文化移入に伴う馬飼育の場として早くから開かれ、その技術は渡来人に依っていたと考えられている。
古代牧の存在が、信濃の随所で見つけられている。
日本の馬文化発祥との関連も興味の一つである。
今回は、大室古墳群の大室谷支群を見学する。
大室古墳群では、北山支群に属す5世紀前半の全長55mの前方後円墳(18号墳)を最古とする。
5世紀中頃~後半には、積石塚に合掌形石室、箱型石室、竪穴式石室が組み合わせられた直径15m前後の円墳が造られた。
6世紀後半になると、横穴式石室が導入され、土石混合墳が主流になる。
古墳築造は、8世紀まで続いたと考えられている。
大室古墳群は、古くから知られていたが、明治大学考古学研究室の継続的な発掘調査により、その構成内容や分布が明らかになり、平成9年に大室谷支群の主要部分(約16.3ha、古墳数166基)が国史跡に指定された。

大室古墳群は、奇妙山の北西斜面に群集する古墳群で、三つの尾根上の「北山」、「霞城」、「金井山」と二つの谷筋の「大室谷」、と「北谷」の五つの支群に別れる。
平成9年に、大室谷支群の主要部分が国史跡に指定され、史跡入口部より山頂に向けて七つのゾーン(エントランス、施設整備、自然散策、歴史景観保全、遺構復元整備、山林修景、展望)に別け、保存整備中である。
平成24年度には、エントランス・施設整備ゾーンの正式公開が予定されているが、現在も整備された所は公開されている。
(出典:「歴史を旅」)
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大室古墳群は、長野県長野市松代町大室にある古墳群で、国指定の史跡。
約500基の古墳の中には、盛り土をした盛土墳(前方後円墳など)や土石混交合墳もあるが、八割近くが小石を積み上げて墳丘とした渡来人墓制である積石塚で、「合掌形石室」という特殊な埋葬施設となっていることから、他に類例の少ない遺跡として1997年(平成9年)7月28日に国の史跡に指定された。
この形は全国に40例、そのうち25例がこの古墳群に集中している。
古墳群は、地形的に北山(きたやま)・大室谷(おおむろだに)・霞城(かじょう)・北谷(きただに)・金井山(かないやま)の大小5つの支群に分類される。
このうち、最も規模の大きい大室谷支群が史跡指定地となっている。

形状:前方後円墳1基、積石塚400基など
規模:約2.5km2の範囲に約500基が密集
出土品:土師器、須恵器、土馬
築造時期:5世紀前半‐8世紀

大室古墳館
長野県長野市松代町大室310
料金 - 無料
見学時間 - 9:00-17:00毎週月曜日・祝日の翌日および冬季(12月-3月)休館
交通 - 長電バス屋代須坂線「大室駅」バス停下車徒歩約20分、上信越自動車道長野ICから約20分
(出典:ウィキペディア)
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(4)八丁鎧塚古墳(長野県須坂市大字八町)
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北信濃の長野盆地東側にある須坂市には古代氏族の墳墓である古墳が多く分布しています。
そのほとんどが川原石を積み上げた積石塚とよばれる古墳です。
須坂市南部を流れる鮎川沿岸段丘上には、積石塚古墳が数多く分布していることで知られています。
特に「八丁鎧塚古墳」は県史跡に指定されています。
(出典:須坂市観光協会HP)
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鮎川古墳群を構成する古墳群で、鮎川古墳群中、最上流域に位置する。
6基で構成され、1号・2号・6号墳が整備されている。
1号墳 直径25.5m、高さ2.5m、4世紀後半
2号墳 直径25.5m、高さ3.5m、5世紀後半
6号墳 直径12.5m、6世紀中頃
6号墳のみ積石塚ではなく、一般的な土を盛った古墳で、葺石が施されている。
以上、現地説明板より
(出典:「古墳マップ~古墳を旅する~」)
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(5)見島ジーコンボ古墳群(山口県萩市見島)
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山口県萩市見島にある古墳群。
萩の沖合約45kmの日本海上に浮かぶ、面積約7.8km2の見島にある。
本村(ほんむら)の東方高見山から晩台山にいたる横浦海岸一帯に、幅50~100m、東西約300mにわたって約200基の古墳が密集して築かれている。
海浜の玄武岩礫(れき)を利用し封土を用いずにつくった積み石塚で、内部主体は横穴式石室系と箱式石棺系のものがみられ、築造されたのは7世紀後半から10世紀初頭にかけてと推定される。
出土品は、鉄刀や鏃(やじり)などの武器類、金銅製かんざしやガラス小玉などの装身具、緑釉陶器や土師器(はじき)などの土器類、銅鈴や銅鏡などの青銅製品、和同開珎(わどうかいちん)などの銭貨など、種類も数も豊富である。
金具で飾られた鉄刀などの出土品から、被葬者は朝鮮との軍事的緊張にあたってこの島に派遣され、任期中に死亡した武人たちではないかと考えられる。
全国でもまれな集団古墳群として、1984年(昭和59)に国の史跡に指定された。
出土品は萩博物館、山口県埋蔵文化財センタ-にある。
萩商港から高速船で約1時間10分、本村港から徒歩約10分。
(出典:コトバンク)
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(6)相島積石塚古墳群(福岡県糟屋郡新宮町)
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福岡県糟屋(かすや)郡新宮町相島にある墓群。
相島の北東部、通称長井浜と呼ばれる海岸線南北約500mの範囲に、玄武岩の礫(れき)だけからなる、総数254基の積み石塚が分布。
1992年(平成4)に発見され、2001年(平成13)に国の史跡に指定された。
この石塚群は墳径約3mから5mほどの小型円墳、方墳が主だが、1辺12mの2段築成のものや地山を直接掘り込み主体部を造っているものもあり、これらは目印となる墳丘や墓標のようなものを一切つくっていないため確認が困難で、どれほど残っているかは不明。
内部主体は、竪穴(たてあな)式石室、箱式石棺、横穴式石室などである。
築造時期は5世紀前半から6世紀中ごろが中心だが、最初の築造時期は古墳時代前期までは確実にさかのぼることができる。
この古墳から北東方向の対岸には、同時期の有力な古墳が集中する宗像(むなかた)地域を望むことができ、その関連性も想定でき、朝鮮半島とのつながりや海人族との関係なども今後の調査研究に委ねられている。
西日本鉄道貝塚線西鉄新宮駅から新宮港まで徒歩約20分、新宮港から町営渡船で相島まで約17分、相島渡船場から徒歩約30分。
(出典:コトバンク)
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フォト:2018年7月26日

(野田院古墳、上の巻、中の巻、下の巻、完)


# by ryujincho | 2018-07-29 23:35 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐国古墳めぐり/野田院古墳(中)-野田院古墳・森将軍塚古墳”比高差”比較-』 nk-2

上の巻では、香川県善通寺市の大麻山の尾根に築造された野田院古墳について縷々綴った。
今回、野田院古墳を探訪する切っ掛けを作ってくれたのは、5月に訪れた、長野県千曲市の有明山の尾根に築造された森将軍塚古墳であった。

比高差。
野田院古墳に関わる説明書きで「野田院古墳が造られたときの集落は今の善通寺市街地の辺りで、その標高は約30m、野田院古墳の標高は約400mにあり、全国で最も比高差のある場所に造られた古墳としても知られています」とあった。
然らば、森将軍塚古墳の比高差は如何ほどであろうかと調べてみた。

森将軍塚古墳が造られたときの集落は、千曲市のHPによれば、発掘調査の結果、森将軍塚古墳のある有明山の山麓にあったとされている(山麓の「科野の里歴史公園」に縄文・弥生・古墳時代と続いた「科野のムラ」が復元されている)。
この山麓のムラの標高は不明なるも、最寄り駅である屋代駅から「科野の里歴史公園」一帯はフラットな地形なので、屋代駅の標高361mを集落の標高と見做すことにする。
森将軍塚古墳の標高は490mであり、比高差は139mである。
一方、野田院古墳の比高差は370mであり、説明書きの「全国で最も比高差のある場所に造られた古墳としても知られています」も頷けるのであった。

森将軍塚古墳。
下界から眺めるとこんな感じである。
木立が切れたところに、後円部がしっかりと視認出来る。
左の建物は古墳館。
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野田院古墳。
大麻山のうねうねした道を下り、善通寺市街地まで残り1kmの辺りから野田院古墳を探してみる。
木々に覆われているせいか、古墳らしきものは見えない。
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野田院古墳から右手の山頂付近に鉄塔が見えていたので、そこから稜線に辿って少し下の方をズームアップして探してみたが、やはり、木々に覆われているせいか、古墳らしきものは視認出来なかった。
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野田院古墳に関わる説明書きに「後円部の北西側は不安定な斜面にはみ出ています。後円部を造る場所をここから少し南東に移せば、全体を平坦な場所に造ることができたはずです。傾斜部に造られた後円部の側面はとても高い壁になっていて、しかも平野の方に向いています。皆が生活する場所からよく目立つように考えたようです」とあり、往時は集落からしっかりと墳丘が見えていたであろう。

野田院古墳は大麻山の尾根というよりもテラス状の地形で、築造の自由度は高いにも関わらず、集落から目立つように斜面ぎりぎりに築造している。
一方、森将軍塚古墳は狭隘な尾根で、自由度はなく、止む無く、尾根の形状に合わせ、いびつな形の前方後円墳となっているが、この尾根を築造場所に選んだのは集落からよく見えるからということであったかもしれない。
因みに、森将軍塚古墳を訪ねたときは、その眺望から、被葬者は死後も絶景を眺めながら眠るというようなことからこの地を選んだと思っていたのだが、それは誤りかもしれない。

森将軍塚古墳。
そのいびつな形と眺望。
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森将軍塚古墳は、善光寺平、そして、遠く、北アルプスも展望できる地にある。
野田院古墳は、丸亀平野、三豊平野、瀬戸内海、そして、遠く、吉備(岡山)・安芸(広島)、伊予(愛媛)まで展望できる地にある。
比高差は野田院古墳が勝っているが、眺望は甲乙つけ難い地に築かれている。
いや、瀬戸内育ちにとって、雪山の光景は魅力的で、森将軍塚古墳に軍配かもしれない。

山の尾根に築かれた古墳、これからも出来る限り、各地のそうした古墳を訪ねてみたいと思っている。

次は、下の巻で、積石塚について述べてみたい。

フォト#1、4~9:2018年5月11日
フォト#2、3:2018年7月26日

(つづく)



# by ryujincho | 2018-07-29 23:34 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐国古墳めぐり/野田院古墳(上)』 nk-1

7月26日(木曜)、晴れ。
讃岐国古墳めぐり。

昨年3月末、善通寺市/有岡古墳群に属する王墓山古墳と宮が尾古墳を探訪。
今回は、同じく、有岡古墳群に属する野田院古墳(のだのいんこふん)を探訪。

有岡古墳群は、野田院古墳・磨臼山古墳(すりうすやまこふん)・鶴が峰4号墳・丸山古墳・王墓山古墳・宮が尾古墳など、3世紀から6世紀にかけて築造された古墳からなる古墳群である。
野田院古墳は大麻山(おおさやま)の頂上付近に築造された古墳である。
今年5月、長野県千曲市の有明山の尾根に築造された森将軍塚古墳を訪ねたことでもあり、平野や山麓、丘陵のみならず、山頂や尾根に築かれた古墳にも大いに興味が湧き、今回、大麻山の野田院古墳を訪ねることにしたのであった。

大麻山のうねうねとした道を上り、頂上付近へ。
古墳探訪は jitensha もしくは徒歩を信条としているが、今回は義兄の運転する車で。
野田院古墳に到着して分かったことだが、古希となった今、この古墳は jitensha は無理であり、jitensha での<押し>も含め、徒歩は距離的に無理で、車で連れて行ってくれた義兄に感謝!であることを先に申し添えておきたい。

国指定史跡 有岡古墳群/野田院古墳。
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国指定史跡 有岡古墳群
善通寺市内には400基を越える古墳の存在が確認されています。
中でも筆ノ山(ふでのやま)・我拝師山(がはいしやま)で北部を、大麻山(おおさやま)で南部を限られた弘田川流域の有岡地区には、同一系譜上の首長墓と考えられる前方後円墳が集中し、大麻山山麓の谷間には、いたる所に後期古墳が群集していることが知られています。
中でも野田院古墳・磨臼山古墳(すりうすやまこふん)・鶴が峰4号墳・丸山古墳・王墓山古墳・宮が尾古墳は、4世紀から6世紀にかけて築造された県下を代表する古墳で、昭和59年11月29日に史跡に指定されました。
この6基の古墳は当地域における歴代の首長墓であり、讃岐の古代史解明に重要であるばかりでなく、中央や先進地域との緊密な交流を示す貴重な遺跡です。
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野田院古墳(3世紀後半)
野田院古墳は大麻山北西麓のテラス状平坦部(標高405m)という非常に高い場所に築かれた、丸亀平野周辺部で最古式の前方後円墳です。
その規模は、全長44.5m、後円部径21.0m、後円部の高さ2.5m、前方部幅13.0m、前方部は盛り土、後円部は安山岩塊の積石によって築かれています。
また、前方部はくびれ部が細く締まり、先端が撥形に開く発生期の前方後円墳の特徴を示していることなどから、3世紀後半に築造されたと考えられており、最初にこの地に登場した首長の墓ではないかと考えられています。

市内には他にも、大窪経塚、大麻山経塚、大麻山貸椀塚、丸山1号・2号墳など積石塚がありますが、この古墳群は坂出から綾歌の積石塚を経て、高松の岩清尾山(いわせおやま)古墳群と連鎖することが知られています。
つまり、この古墳は積石塚古墳の発生や変遷を研究し、当時の讃岐の地域集団関係を知る上で非常に貴重な遺跡なのです。

善通寺市 平成4年度
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墳丘実測図。
説明板がひび割れており、不鮮明ではあるが、じっくり見ると説明板書きにある「前方部はくびれ部が細く締まり、先端が撥形に開く発生期の前方後円墳の特徴を示している」ということがよく分かる。
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説明板の左手に鉄骨造りの展望台が設えられている。
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古墳と下界を俯瞰出来るのかもしれない。
早速、展望台へと向かう。

展望台の手前で、石積みの墳丘が目に入る。
気分が高揚する。
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展望台から墳丘を俯瞰。
手前/石積みの後円部、奥/盛り土の前方部。
くびれ部の付け根は前方部の墳丘に隠れて見えないが、前方部が撥形であることが見て取れる。
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展望台上の説明板/「野田院古墳遺構および施設配置図」。
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図下端、茶色個所:展望台
後円部、中央:第一主体部(竪穴式石室)、第二主体部(竪穴式石室)
前方部、縁の小さな点:基底部列石

後円部墳丘と、左手奥に木立の間から見える山を併せて眺める。
僅かだが、平野部の一部も見える。
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左手奥の山はその形から筆ノ山のようだ。
展望台上の案内板「野田院古墳からの展望」と見比べてみる。
やはり、筆ノ山である(案内板写真、右端の辺り)。
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野田院古墳が造られたときの集落は今の善通寺市街地の辺りで、その標高は約30m、野田院古墳の標高は約400mにあり、全国で最も比高差のある場所に造られた古墳としても知られています。
付近には視界をさえぎる山も少なく、古墳からは丸亀平野、三豊平野・瀬戸内海はもちろんのこと、遠く、吉備(岡山)・安芸(広島)、伊予(愛媛)まで展望できます。
よく晴れた日には瀬戸大橋のみならず、しまなみ海道(因島大橋)も見えます。
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今一度、北西から南西にかけての眺望と案内板の写真を見比べてみる。
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右側から;
右端/後円部墳丘とその向こうに善通寺市街地
右/備前(岡山)、央/安芸(広島)、左/伊予(愛媛)
右端から、瀬戸大橋、丸亀市、香色山、多度津町、筆ノ山、高見島、天霧山、我拝師山、中山、火上山、因島大橋、紫雲出山、庄内半島、しまなみ方面、七宝山、西条市、新居浜市

この説明で十分にイメージ出来る。
晴れの日、殊に、冬晴れの日なら、この風景がはっきりと見えることであろう。

展望台から降り、墳丘の周囲を反時計回りで歩いてみる。

後円部/南東面。
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くびれ部/南東面。
説明板の読み下しは後述にて。
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後円部とくびれ部付け根付近。

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前方部/北東角。
くびれ部の付け根もしっかりと視認。
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前方部/先端。
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前方部/北西角。
くびれ部の付け根もしっかりと視認。
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前方部/南西面から。
南西に傾斜したテラス状の地形であることがよく分かる。
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後円部/南西面。
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後円部/先端。
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墳丘脇の説明板に目を通す。
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説明板その1「古墳時代」。
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古墳時代
善通寺市は瀬戸内海に面し、温暖な環境で生活しやすい場所であったことから、古くから大勢の人が住み、独自の文化を育んできました。
少なくとも旧石器時代の終わり頃(2~3萬年前)には人々の生活が始まり、弥生時代には大きな集落が誕生していたことが明らかになっています。
弥生時代の終わり頃(3世紀後半)になると集落は更に発展し、政治的に人々をまとめる有力者が登場します。
この有力者は豪族と呼ばれ、人々は豪族がなくなると大きな墓を造って葬るようになりました。
やがて、各地の国は大和の大王家そ中心に統合され、前方後円墳という大王墓にならった墓を造るようになります。
大きな墓は、仏教が伝わり、火葬が始まる7世紀初め頃まで造られました。
この大きな墓を古墳と呼び、古墳が造られた時代が古墳時代です。
古墳の墳丘や石室を調べると、驚くほど優れた土木技術があったことがわかります。
また、死者に供えられた副葬品からは当時の生活の様子やどのような工芸技術があったのかがわかります。

200~300万年前
 旧石器時代 人類の誕生、石器の使用
 ※日本で紀元前35000年頃には人々が生活
約1万年前
 縄文時代 土器の使用
紀元前5世紀
 弥生時代 稲作の始まり
3世紀後半
 古墳時代 統一国家の始まり
7世紀初頭
 (飛鳥・白鳳)
 奈良時代 法治国家の始まり
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説明板その2「有明古墳群」。
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有岡古墳群
善通寺市内には400基以上の古墳があります。
昭和57年に発掘調査した王墓山古墳では石屋形をもった横穴式石室から豪華な副葬品がたくさん出土し、その中には大和政権や九州の先進地域との親しい関係を示す貴重な資料もありました。
この発見によって、王墓山古墳と周辺の代表的な5基の古墳(野田院古墳・宮が尾古墳・丸山古墳・鶴が峰4号墳・磨臼山古墳)が有岡古墳群として国の史跡に指定され、永久に保存されることとなりました。
6基の古墳はこの地域を治めた豪族の墓と考えられ、香川県(讃岐)の古代史を知る上で重要な遺跡です。

発生期 3世紀末頃 野田院古墳 竪穴式石室
前 期 4世紀代  鶴が峰4号墳 同上
中 期 5世紀代  磨臼山古墳、丸山古墳 同上
後 期 6世紀代  王墓山古墳 横穴式石室
終末期 7世紀初頭 宮が尾古墳・2号墳 同上
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説明板その3「積石塚」。
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積石塚
古墳の中には土の代わりに川原石や山石を積み上げて造った「積石塚」と呼ばれるものがあります。
瀬戸内海沿岸部には、香川県を中心に、古墳発生期から前期にかけて造られた数多くの積石塚が分布していることが知られています。
この他には、長野県を中心に分布する古墳時代後期から終末期にかけて造られた積石塚が知られている程度で、全国的には分布していません。
朝鮮半島にも同様の積石塚が認められることから、渡来人が伝えたとする「外来説」と、日本で独自に発生したとする「自生説」がありますが、香川県では白鳥町の成重遺跡(弥生時代中期)や善通寺市の稲木遺跡(弥生時代後期)で集石墓が確認されており、積石塚は古代の讃岐で発生したのではないかと考えられています。
これは讃岐地方に古式の積石塚が多く残ることとも符合します。
野田院古墳では保存整備に伴う墳丘積石内部の発掘調査によって、優れた土木技術を用いて構築していたことが判明しました。
讃岐地方の積石塚で内部構造が明らかになったのは初めてのことです。
弥生時代の集石墓は平地にあります。
また、川原石を積み上げた簡単な構造であり、短時間で技術が発達するとは考えにくいことから、自生説とともに高句麗の積石塚の構築技術の伝来も考える必要があるかもしれません。

香川県彼の積石塚分布図
※拡大図は省略
※「野田院古墳」と「石清尾山(いわせおやま)古墳群(高松市)」の場所が図示されている。
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説明板その4「野田院古墳が造られた時の様子(想像図)」。
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図に書き込まれていることは次の通り。
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右上:
ここは標高400mの高さにあるため、当時の人が住んでいた平野部はもちろんのこと、瀬戸内海や対岸の岡山・広島まで展望することができます。
今の市街地のあたりが当時の生活の中心でした。
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後円部:
この古墳には2基の石室があります。
夫婦・親子・兄弟の墓など様々な説がありますが、よくわかっていません。
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くびれ部付け根付近:
古墳のまわりの石室の上には赤く塗った壺形土器を並べていました。
ここが聖域であることを示すもので、埴輪のもとになるものです。
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左下:
集落を離れた場所での長期の工事です。
一時的に生活できるような家が造られていたかもしれません。。
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下端:
前方部は後円部が完成する間、重い石材を運搬する作業道として使われていたようです。
この後、更に土を盛り、石を葺き、前方部を完成させています。
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説明板その5「作業工程①~作業工程⑤」。
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作業工程①
最初に古墳を構築する場所を決めます。
野田院古墳の場合は見晴らしのいい尾根が選ばれました。
先ず、尾根の上を平らに整えることから始めますが、その周囲には急な斜面が残ります。
平坦部から一部傾斜部にかけて後円部の円周を設定し、これにそって石材を配置しています。
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作業工程②
次にその内側に石材を詰めます。
平坦部では小型の石材を詰めていくだけですが、傾斜部では内部に詰める石材は比較的大きく扁平なものが多く、地山と逆の向きに連続して立て、整然と配置しています。
これは傾斜部分の石材が下方に滑り出すことを防ぐことが目的と思われます。
傾斜部に高く石材を積み上げる際に、崩れにくい積み方を知っていたようです。
この工程で後円部の基礎を水平に仕上げています。
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作業工程③
作業工程②で造られた平坦部の上に二基の石室を造り始めます。
先ず、石室を造る部分に細かい石を敷き詰め、この上に荒い粘土を敷き、石室最下段の石材を配置します。
次に粘土床用の細かい粘土を敷いています。
この粘土は石室の床面だけでなく、石室最下段の石材を包むようにその外側にも及んでいます。
この粘土の中から多数のガラス小玉が出土しました。
通常の副葬品ではなく、祭祀遺物だったようです。
石室の四方の壁を積み上げながら、後円部周囲の壁も同様に高く積み、その間に石材を詰めていきます。
後円部の一段目は石室の下半分が積み上がった段階で完成します。
この作業工程は解体修理のときに後円部の断面で確認できました。
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作業工程④
次に後円部一段目の上に二段目を造り始めますが、このときに前方部の一部を坂道状に造っています。
古墳を造る場所を決めるにあたっては、その材料となる石材の取りやすさも大きく影響したと思われますが、野田院古墳の北東にある尾根付近には石材の露頭地があり、尾根伝いに運び降ろしたものと考えられます。
前方部は土でできていますが、くびれ部でその断面を見ると後円部の一段目の高さで前方部側にゆっくり下がる面が確認できます。
墳丘(後円部)へと石材を運びやすいくするための坂道が造られていたようです。
この作業道を利用して重い石材を運び上げたようです。
二段目は一段目より一回り小さくし、周りに平坦な段を造っています。
造り方は一段目と同じで、石室の四方の壁が完全に積み上がった高さで後円部の二段目が完成しています。
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作業工程⑤
ここで石室に巨大な石で蓋をします。
この蓋石を覆い隠すため、この上には更に多くの石が積まれていたようですが、後円部の三段目は完全に崩れていたため、元の形は不明です。
最後に作業道としての使用が終わった前方部を完成させ、その表面に石を葺き、古墳が完成します。
後円部の北西側は不安定な斜面にはみ出ています。
後円部を造る場所をここから少し南東に移せば、全体を平坦な場所に造ることができたはずです。
傾斜部に造られた後円部の側面はとても高い壁になっていて、しかも平野の方に向いています。
皆が生活する場所からよく目立つように考えたようです。
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「後円部と前方部の接合部検出状況(H12)」をアップで。
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後円部と前方部の説部に残る後円部(一段目と二段目)の検出状況です。
後円部を積んだ後に盛り土の前方部が造られてため、この部分では後円部の石積みが崩れずに完全な形で残っていました。
後円部はこれを参考に復元しました。
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説明板その6「野田院古墳保存整備事業」。
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野田院古墳保存整備事業
昭和59年11月29日に有岡古墳群が国の史跡指定を受けた後、最初に王墓山古墳、続いて、宮が尾古墳の保存整備事業を実施し、平成9年度からは野田院古墳の発掘調査と保存整備事業に着手しました。
発掘調査は平成13年度まで実施し、平成12年度から始まった保存整備事業は平成14年度に竣工しました。
積石塚の内部構造まで調べる発掘調査や解体修理・保存整備は国内でも初めての試みでしたが、古墳の内部構造や構築の工程まで知ることができました。
野田院古墳が造られてときの集落は今の善通寺市街地の辺りで、標高は約30m、野田院古墳の標高は400m付近にあり、全国でも比高差のある場所に造られた古墳としても知られています。
付近には視界をさえぎる山も少なく、古墳からは丸亀平野・三豊平野・瀬戸内海はもちろんのこと、遠く、吉備(岡山)・安芸(広島)・伊予(愛媛)まで展望できます。
展望台からご覧ください。
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「後円部の復元工事風景(H13)」をアップで。
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展望台の壁を利用して「尾根の傾斜部に造られた後円部の断面、1/2の大きさで再現」。
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左部分をアップで。
説明板、左端/1段目テラス(石室の下半分が積み上がった段階の高さ)
説明板、右上/2段目テラス(石室の四壁が完全に積み上がった段階の高さ)
説明板、下段/地山と傾斜と逆向きに連続して立て、整然と配置された石材
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右部分をアップで。
説明板/「墳丘と石室は並行して造られていることがわかります」。
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後円部断面再現脇の説明板。
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この説明板の内容はこれまでに目を通した説明版の内容と同じなので、書き下しは割愛。
但し、写真と図は特記しておくこととする。
説明板掲載写真、左下/後円部発掘調査時の航空写真(平成12年度)
説明板掲載写真、右上/傾斜部での後円部内部検出状況(平成13年度)/「比較的大きく扁平な石材を地山の傾斜と逆の向きに連続して立てて、整然と配置しています」。
説明板、央/墳丘実測図
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野田院古墳を堪能し、駐車場に戻ったところ、jitensha 2台と遭遇。
急ぎ、カメラを向け、シャッターを切る。
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坂道まで追いかけて、シャッターを切る。
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うねうねとした坂道を下り、下界へ。
やはり、この坂道は古希の身にとっては jitensha(漕ぎ&押し)は無理だなと改めて思った。
そして、大麻山の尾根に古墳築造の道具や資材を運んだ往時の人々の労苦を思うのであった。

現場を検分し、且つ、数多の説明書きに目を通した。
説明板は、入り口付近、展望台上、展望台下、墳丘脇と4ヶ所に亘り、内容が重複しているものとそうでないものが混在。
展望台下のものを除いて、全て、書き下し、記述内容と写真と見比べながら確認した点も多々あり。
大いにベンキョーすることが出来た。

折角なので、野田院古墳に関する所感を述べておきたいと思う。
それは、ページを改めて、下の巻で綴ることとしたい。

フォト:2018年7月27日

(つづく)


# by ryujincho | 2018-07-29 23:33 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐路/生目神社』

7月26日(木曜)、晴れ。
讃岐路を走っているとき、「目の神様 生目神社」の標識を目にしたことがある。
昨冬、白内障の手術。
それに先立ち、中野区の新井薬師に参拝、術後、御礼参りにも。
今夏、連れ合いが目の手術を予定しており、新井薬師参拝を考えていたが、その前に「目の神様 生目神社」にも参拝することとした。

生目神社。
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参拝。
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扁額コレクション。
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由緒。
目を凝らして読まないと、よく読み取れない、目の神様に視力検査をされているような由緒書き。
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生目神社について
香川県の西部に位置し、浦島太郎の伝説が残されている香川県三豊市。
三豊市の中心部から車で約10分の小高い山に、生目神社があります。
三豊市の生目神社は天保7(1838)年に、高松引田の扇子屋善兵衛が日向国宮崎生目村八幡宮(現在の宮崎県宮崎市)の御分霊を勧請(かんじょう、分霊を他の神社に移すこと)したことが始まりといわれ、ご祭神には藤原景清公がお祀りされています。
景清公は平安末期から鎌倉初期にかけて生きた勇猛な武士で、源平合戦の際は平家軍として奮闘しましたが、平家は壇ノ浦にて滅亡しました。
景清公は戦禍から脱出し、源氏の棟梁である源頼朝を討とうと企てましたが、源氏の武士に捕らえられました。
景清公の忠誠心と武勇を惜しんだ頼朝公は、日向の別当として赴任を命じます。
しかし、東国から離れた日向でも源氏の繁栄を見聞きすることに苦しんだ景清公は、自分の両目をえぐって投げ捨てたといわれ、その両目の落ちた場所に『生目神社 宮崎市』が建てられ、景清公は「目の神様」として信仰されるようになったといわれています。
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この由緒に目を通しながら思い出したことがある。
それは、鎌倉の御霊神社(権五郎神社)の祭神、鎌倉権五郎景政のこと。
鎌倉景政は、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍し、活躍、そのとき、左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し、帰還した。
一人の武士が、景政の左目に突き刺さった矢を抜こうと、景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言う。
かかる伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされ、また、眼病平癒にも効験があるとされる。

宮崎市の生目神社について調べていたところ、神社の南、5kmくらいのところに生目古墳群なるものがあることに気付いた。
この古墳の案内記事によると、古墳公園として整備されており、次の通り紹介されている。
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生目古墳群史跡公園
生目古墳群は、宮崎市大字跡江にある丘陵上に築かれた、古墳時代前期から後期(約1700年前から1400年前)の古墳群です。
この丘陵は大淀川右岸に位置しており、東には宮崎平野を見渡すことができます。
生目古墳群は50基の古墳で構成されており、公園内には、前方後円墳8基、円墳25基があります。
その中の1号墳、3号墳、22号墳は全長が100mを超える規模を誇り、生目古墳群は古墳時代前期において、九州最大の古墳群であったと言えます。
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古墳探訪を趣味としている者にとって、まことに興味深い古墳である。
宮崎県では、西都原古墳群を訪ねてみたいと常々思っていたことでもあり、生目古墳群も探訪先の候補に加えておこう。

生目神社から話が脱線してしまった。

脇の参道の鳥居をくぐって境内に入ってしまったようで、正面の参道の石段や狛犬をカメラに収める。

石段。
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狛犬コレクション。
阿形。
逆光がちょいと辛い。
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吽形。
こちらは順光。
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阿形、吽形とも、顎を上げているというちょいと珍しい姿の狛犬である。
真横から見てみるとよく分かるので、阿吽形を代表して吽形の写真を1枚。
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正面参道から社を眺める。
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香川県の生目神社を参拝したことで、宮崎県の生目神社のことも知り、ひょんなことから、宮崎県の生目古墳群のことも知った。
誠に面白い巡り合わせとなった生目神社参拝であった。


フォト:2018年7月26日







# by ryujincho | 2018-07-29 23:32 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 29日

『炎暑、讃岐路/うどん』

7月26日(木曜)、晴れ。
前日25日、讃岐入り。
「讃岐へ来たら、即、うどん!」を信条としているが、タイミングが合わず、前日は見送り。
翌26日の朝10時半に、うどん屋へ。
店は、毎度贔屓の観音寺市、財田川近くの「かなくま餅 福田」。
「かなくま餅 福田」は、その名の通り、餅もやっているが、れっきとした讃岐うどんの店。
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今どきの若者に合わせたイラスト。
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こちらは外国人観光客向け。
”An English Guide to Sanuki Udon ””
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うどんノート。
右/うどん用語、左/記録用。
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左/記録用をアップで。
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「かなくま餅 福田」の店先に貼られたポスター。
「瀬戸フィルハーモニー交響楽団 観音寺公演」。
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瀬戸フィルハーモニー交響楽団。
初めて聞く名前である。
最近、アマチュア・オーケストラのコンサートに二度ばかり行ったので、瀬戸フィルもアマチュア・オーケストラかと思うも、マーラーの『さすらう若人の歌』を演目に入れるなど、意欲的な楽団だし、入場料は3800円はアマチュア・オーケストラにしては高額だし、念のため、同楽団のホームページを検索してみた。
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瀬戸フィルハーモニー交響楽団について
瀬戸フィルハーモニー交響楽団は昨年11月創立15周年を迎えました。
現在、約60人の団員は、定期演奏会や自治体、企業などへのコンサートをはじめ、小中学校を訪問しての音楽鑑賞・指導教室を行うほか、0歳児から入場できるコンサートなど多彩な演奏活動を展開しております。
これからも音楽文化の普及に努め、県民の皆様と香川県が一層元気になるよう、とりわけ、青少年に、夢と希望をもたらすことができるよう精進してまいります。
<沿革>  
2001年(平成13年)11月 NPO法人として設立 四国で初めてのプロオーケストラ  
2009年(平成21年) 4月 一般社団法人に 
2010年(平成22年)1月 公益社団法人へ移行  
2014年(平成26年)10月 香川県文化芸術選奨受賞  
2016年(平成28年) 6月 日本オーケストラ連盟に準会員として加盟  
2018年(平成30年) 3月 第4回高松国際ピアノコンクールにオーケストラとして出演
<役員名簿>  
名誉顧問 : 松平賴武  
顧  問 : 浜田恵造 大西秀人 岡市友利 梅原利之 鎌田郁雄  
アドバイザー:川井郁子 木内晶子  
代表理事 : 川北文雄  
理  事 : 香西勝人 髙山桂一 野田法子 真鍋洋子 佃 昌道 宮﨑節二
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「四国で初めてのプロオーケストラ」とある。
納得!

名誉顧問として、松平賴武の名がある。
氏は高松藩松平家第14代当主。
作曲家の松平頼則、松平頼暁の姻戚かと思うも、作曲家の松平頼則、頼暁は常陸府中藩松平家の系統。
いずれも水戸徳川家の連枝。
アドバイザーとして、ヴァイオリニストの川井郁子の名がある。
川井郁子は高松出身ということで、この楽団に関わっているのであろう。

話が脱線してしまった。
讃岐うどん共々、瀬戸フィルハーモニー交響楽団の活躍を期待!


フォト:2018年7月26日





# by ryujincho | 2018-07-29 23:31 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 28日

『炎暑、讃岐国遺跡めぐり/興隆寺遺跡の石塔群』

2018年7月25日(水曜)、晴れ。
義兄の運転する車で、四国八十八ヶ所霊場第70番/本山寺/を参拝し、予讃線財田川橋梁復旧工事を取材。
そのあと、興隆寺遺跡の石仏群なるものに案内しようとの義兄の言あり。
暑い最中ではあるが、何でも見てやろう精神が沸き起こり、案内して貰った。

細い山道を上って行くと説明板が現れた。

興隆寺遺跡の石仏群とは。
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興隆寺遺跡の石塔群
興隆寺の石塔群は豊中町大字下高野字興隆寺3730‐5番地(地目、山林)標高約100mに占地している。
周辺の各所には大小さまざまの角礫凝灰岩が等高線に平行する形で露出しているが、石塔群はその中でも大形の岩塊を活用して造営されている。
百余基を有する世に稀な墓塔群であるが、大別して上下の二段に横並びに祀ってある、即ち、横さまに露出する凝灰岩壁を庇状に造成し、庇の下に墓塔を配列している。
下段の遺跡は不動明王(坐像)の摩崖仏を中にして左右に五輪塔30数基を配置し、上段の庇(石龕 せきがん)の中には五輪塔、宝塔、方篋印塔など約70基が造立されている。
これらの仏塔は鎌倉時代の後期から室町時代に及ぶ約200年の長期間にわたって継続的に造立されたものと考えられるが、風化の度が極めて軽微であり、造営当初の風格をただよわせている点にも驚かされる。
したがって、興隆寺の石塔群は量、質とも息詰まるほど充実し、中世における石塔の様相が把握できる貴重な遺跡である。
(香川県指定文化財)
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クモ。
石仏群の守り神(かな?)。
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先程、細い山道を上り始めたときに路傍に何体かの石仏が並んでいた。
その中で気になる石仏が二体あった。
その一体は、昨年春、訪れた竹生島の千手観音。
「第三十番」と刻まれている。
西国三十三ヶ所第三十番、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺である。
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もう一体は、光背ならぬ表からの光に照らされた御尊顔の石仏。
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「正観音 三十一番 長命寺」と刻まれている。
西国三十三ヶ所第三十一番、近江八幡の長命寺である。
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素朴な石塔と石仏。
親しみが湧く。


フォト:2018年7月25日




# by ryujincho | 2018-07-28 23:33 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 28日

『炎暑、讃岐路/豪雨災害』

7月25日(晴れ)。
讃岐へ向かう途中、岡山駅で「予讃線は、先の豪雨で財田川橋梁が傾いたため、本山/観音寺間は不通となっており、バスによる代替輸送...」とのアナウンスが流れた。
ニュースで、愛媛県内の予讃線が豪雨災害を受けたことは承知しているが、香川県内での不通は知らなかった。
下車駅は本山駅より東なので、旅に支障はないものの、出発前に不通区間の情報を承知していなかったとは...。

讃岐に到着後、四国八十八ヶ所霊場第70番札所の本山寺を参拝。
不通区間となっている財田川橋梁は本山寺の直ぐ近くである。
今回の豪雨で被災された人々のことを思うと不謹慎となるが、現場主義の小生、今回の豪雨被害の甚大さこの目で見ておきたく、財田川橋梁に立ち寄ってみた。

JR四国予讃線はこの辺りでは南北に走っている。
JR四国予讃線の財田川橋梁は財田川に架かる鉄橋である。
財田川は東から西に流れ、銭形砂絵で有名な観音寺市/有明浜の脇を過ぎ、燧灘に流れ込んでいる。

橋梁の北側(右岸)の線路脇から、下り方面、観音寺駅方向を見る。
線路の先がくの字に曲がっているのが見て取れる。
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線路内に入ることは禁止されているが、不通なので、線路内に入らせて貰う。
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ズームアップで見てみる。
上流方向から下流方向に大きな力が掛かり、線路がくの字に曲がってしまったことが見て取れる。
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背後に見える山は、雲辺寺山。
雲辺寺山は幾度も眺めたことがあるが、こういう形で見るということは思いもしなかった。
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雲辺寺山は讃岐山脈(阿讃山脈)の西端に位置し、香川県観音寺市と徳島県三好市の境界上にある標高900m余の山。
山頂に四国八十八ヶ所霊場第70番札所の雲辺寺がある。
寺の所在地は徳島県であるが、札所の順序としては香川県の寺となる。
雲辺寺には随分と昔に参ったことがある。
徒歩ではなく、ロープウェイで...。

上り方面、本山駅の方向を見る。
線路脇に新替え用のレールが既に置いてある。
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川下から工事現場を見る。
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暑い中、突貫工事で復旧にあたっている人々に敬意を表す。
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最寄り駅での掲示。
豪雨のときの濁流の状態が見て取れる。
8月10日頃には運転再開の見込みとのこと。
お盆までに間に合わせようとの努力が見て取れる。
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財田川橋梁の橋脚は石積みで築かれている。
ということは、相当、昔のものと思われる。
予讃線の歴史を紐解いてみた。
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1889年(明治22年)、讃岐鉄道により丸亀駅 - 多度津駅 - 琴平駅間が開業。
1897年(明治30年)、高松駅 - 丸亀駅間が開業。
1904年(明治37年)、山陽鉄道が讃岐鉄道を買収。
1906年(明治39年)、山陽鉄道を国有化。
1909年(明治42年)、国有鉄道線路名称制定。高松駅 - 多度津駅 - 琴平駅間を讃岐線とする。
1913年(大正2年)、多度津駅 - 観音寺駅間が開業。
(以下、略)
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「1913年(大正2年)、多度津駅 - 観音寺駅間が開業」とあるので、架け替えがなされていなければ、財田川橋梁は1913年(大正2年)頃に架けられた橋ということになる。

今回の西日本豪雨の被災地が早期に復旧することを願わずにはいられない。


(追記/2018年12月12日)
師走恒例の、今年の世相を表す漢字一文字は「災」(サイ/わざわい)に決まったと発表された。
西日本豪雨、台風21号、24号の直撃、記録的猛暑、北海道胆振東部、大阪府北部、島根県西部の地震などの自然災害が多発。
くの字に曲がった線路を思い起し、災害に対する構えを改めて心するのであった。


フォト:2018年7月25日



# by ryujincho | 2018-07-28 23:02 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)
2018年 07月 28日

『炎暑、讃岐路/本山寺五重塔、平成の大修復』

7月25日(水)、晴れ。
讃岐国入り。
十数年ぶりに、四国霊場第70番札所、本山寺を参拝。

仁王門脇に立つ「本山寺五重塔 平成の大修復 解体修復浄財勧募のお願い」の立て看板。
その向こうに、足場が組まれた五重塔の姿が。

四国霊場八十八ヶ所の中で五重塔を有するのは、竹林寺、志度寺、善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけ。
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仁王門。
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仁王門をくぐる。
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仁王門から修復工事中の五重塔を眺める。
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本堂の前から修復工事中の五重塔を眺める。
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足場の隙間から工事の様子を覗う。
よく磨かれた風鐸。
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平成の大修復完工の暁には、再び、こうした姿を現すであろう。
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鳥の声が賑やか。
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夏のヒヨドリ(であろうか)。
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「五重塔 平成の大修復 浄財のお願い」。
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五重塔 平成の大修復 浄財のお願い
本山寺五重塔は、明治43年に再建落慶いたしました。
再建以来、百年余もの間、風雨に持ち耐えて参りましたが、近年になり老朽化が著しく、倒壊の危険にあるのが現状です。
本山の象徴的存在であり、歴史的・文化財建築的にも価値のある五重塔を後世に伝え残すべく、大規模な解体修理を行います。
五重塔御本尊五仏は、胎蔵界中尊大日如来、四方に金剛界四仏の阿闍梨如来・阿弥陀如来・宝生如来・不空成就如来を祀っております。
大日如来は古きに台座を残して失われております。
解体修復と共に大日如来の新造と四仏の修復も行います。
『塔の功徳』とは礼拝することで、最上部の宝珠より参拝者に功徳が降り注ぎ、仏様の御力が得られるのです。
また、仏法交流の象徴的建造物なのです。
本山寺五重塔は文化財ではなく、国や県の補助はございません。
皆様の御力が必要です。
『一滴廣海を深くする所以は、心を同じくし力を勠することが之致すところなり。』 弘法大師のお言葉(性霊集)
1200年前に高野山を開創造営されたときのお言葉です。
一粒の砂も一滴の水も「心を同じくする者」が力を合わせれば、山となり、海となるのです。
本山寺五重塔を後世に伝え残すという皆様方の多くの心の御力を同じくしていただき、平成の大修復に御理解・御協力を伏してお願い申し上げます。
平成27年10月吉祥日
四国霊場第七十番 七宝山 本山寺
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本堂と仁王門について。
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本山寺本堂
寺伝によると、弘法大師の一夜建立といわれているが、現在の本堂は、1291年(正応4年、鎌倉時代末)に佐々木氏信の寄進を得て、1300年(正安2年、鎌倉時代末)心導上人の代に建て替えられたものである。
古文書などは、1854年(嘉永7年、江戸時代末)の火災にあって現存しないが、本堂の棟札や礎石の墨書などからみても、鎌倉末期に建立されたものであることは明らかである。
大正13年、特別保護建物に指定され、昭和27年、鎌倉建築として復元工事を行い、昭和30年、国宝に指定された。
また、四国霊場第70番札所として年中参拝者で賑わっている。
昭和59年3月 香川県
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国宝 本山寺本堂
瀬戸内海沿岸地方の折衷様建築を示す鎌倉時代の建物で、寄棟造りが美しい。
桁行5間、梁間5間で、堂内は外陣、内陣(広く)後陣(狭く)を自由におさめている点が極めて巧みで、これが平面的特徴である。
仏壇および逗子も当初のもので、建築的にもすぐれている。

重要文化財 仁王門
鎌倉時代の建物。
正面3間奥行2間の切妻造りで、本柱4本の前後に8本の控柱があるおで、八脚門ともいう。
組物・肘木・虹梁・冠木などに和様を主体として禅宗様や天竺様式を組み合わせ、新しい様式を見せて美しく、他に類例が少ない貴重な建物である。
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五重塔は、上述の通り、指定文化財ではない。
依って、修復の補助金はつかない。
国宝とはいわないまでも、国・県あるいは市の重要文化財に指定される価値があるのではないか、明治43年の再建ではその価値はないのか、と思うのは小生だけであろうか。

因みに、前掲の「特別浄財勧募のお願い」を見てみると、冒頭の「相輪修復浄財 一口 五十万円(十二名限定浄財)」から最後の「十二天柱檜新造浄財 一口 壱百万円(一名限定)」まで19件の浄財勧募が記載されている。
先程、足場の隙間から見えた風鐸について見てみると、「風鐸新造浄財 一口 十八万円(二名限定)」、「風鐸修理浄財 一口 八万円(十八名限定)」となっている。

2015年10月5日付けの地元新聞を参照すると、「昭和21年の南海地震でも倒れることはなかった」とある。
上野寛永寺の五重塔が関東大震災でも倒壊することはなかったということを思い起させる。
更に「平成27年秋に着工。平成30年には新しい五重塔がお披露目される予定である」とある。
今年中に盛大な再建落慶法要が執り行われるのであろう。
楽しみなことである。


フォト:2017年7月25日


# by ryujincho | 2018-07-28 23:01 | 炎暑、讃岐路 2018 | Comments(0)