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龍人鳥の徒然フォト日記

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2019年 05月 12日

『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2

5月8日(水曜)、晴れ。
前日は、姫路市内の古墳を探訪した。
この日は、関西の盟友、六々守さんと、加古川市内の古墳探訪。
姫路から加古川まで輪行。

加古川駅で六々守さんと落ち合い、最初の探訪先、宮山農村公園内の、宮山大塚古墳と宮山1号墳~6号墳へ向かう。

前方に小さな丘陵が見えて来た。
宮山農村公園は丘陵の上にあるという。
緩やかな坂道を上る。
公園の入り口に至る。

「宮山(みやま)農村公園」。
説明板に目を通す。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_09464259.jpg

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わがまち加古川60選
宮山農村公園
この公園は、農村公園整備事業のひとつとしてできたもので、公園内にあるのが宮山遺跡です。
縄文時代後期の敷石住居跡1棟、弥生時代から平安時代にかけての建物跡や祭祀跡、中央部には古墳時代中期に造られた宮山大塚古墳と周囲にある古墳時代後期に造られた6基の古墳(1号墳は横穴式石室が完全な形で残っている)と、古代遺跡が集合しています。
敷石住居跡は市内最古の住居跡で、昭和43年市指定史跡に選定されました。
また、隠れた桜の名所で、広場もあり、子供達の遊び場になっています。
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この後、公園内に入ることとなるのだが、「農村公園」と称される根拠は何処にも見当たらず、「遺跡公園」が相応しいのではないかと思うのだが...。

「宮山遺跡」。
説明板に目を通す。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_09475516.jpg

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市指定史跡 宮山遺跡
この宮山遺跡には縄文時代晩期の住居跡のほか、古墳時代中期の円墳1基、古墳時代後期の円墳6基、さらに平安時代のものと思われる堀立柱の建物跡1棟、祭祀の建物跡1棟、祭祀場一箇所が残されています。
これらの遺跡は古代人の生活を知る手がかりとして貴重な資料であり、市史跡に指定し、保存されています。
ここから採集された遺物は、須恵器、土師器、中世の磁器があり、それ以外にわずかながら縄文土器片、弥生土器片、サヌカイトなどがあります。
平成19年3月 加古川市教育委員会
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縄文時代、弥生時代、古墳時代、はたまた中世の遺物もあるという。
縄文時代、弥生時代、古墳時代と時代区分があるが、スパッと時代を区分出来る訳はなく、重なり合いながら時代が変遷していっている証しがここにもある。

サヌカイト、別名「讃岐岩」は叩くと高く済んだ美しい音がする。讃岐で聴いたことがある。サヌカイトは讃岐の特産と思っていたが、今般、この機会に調べてみたところ、大阪と奈良の県境の二上山産もあるということを知った。
また、サヌカイトという名称は、明治政府に招かれ、日本各地の地質を調査したドイツ人地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(フォッサマグナの発見やナウマンゾウに名を残す人物)が、讃岐岩を本国に持ち帰り、知人のバインシェンクが研究して命名したということも知った。

宮山大塚古墳。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00103685.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00113050.jpg

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宮山大塚古墳は、古墳時代中期(5世紀後半)に造られ、平面は帆立貝の形をしています。
古墳の大きさは、直径約40m、盛土の高さ約6mあり、周りには約6mの堀があります。
(後掲の説明板より抜粋)
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「周りには約6mの堀」とある。
周濠が丘陵の周囲であれば理解出来るが、古墳の周囲に幅6mの周豪ともなると、地形的に、どのような濠があったのか想像するのが難しい。
濠の一部は崖からはみ出してしまうのではないかとも思われる。
小さな丘陵上にどのようにして水を溜めたのかも想像するのが難しい(だが、濠の水については合点のいく推論が見つかった。それについては、後述する)。

宮山1号墳。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00253230.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00255102.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00270987.jpg

1号墳標柱側面の解説/「古墳時代後期 6世紀 円墳 横穴式石室」。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00435545.jpg

1号墳/横穴式石室。
先刻の説明板にあった「1号墳は横穴式石室が完全な形で残っている」をこの目で確認。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00362936.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00364791.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00371915.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00373690.jpg

次に進む。

宮山3号墳。
前方の墳丘が3号墳。
手前右手は1号墳。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_00584288.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_01002740.jpg

1号墳標柱側面の解説/「古墳時代後期 6・7世紀頃 円墳」。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_01005233.jpg

3号墳から更に歩を進める。
前方に標柱と説明板らしきものが見える。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_01011277.jpg

前方に見えていたのは4号墳の標識であった。

宮山4号墳。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_05303254.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_05314964.jpg

4号墳標柱側面の解説/「古墳時代後期 6・7世紀頃 円墳」。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_05321684.jpg

4号墳脇の説明板と案内板。
何故、園内の表側ではなく、裏側に設置されているのかな?
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_05401865.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_05404055.jpg

案内図を90度回転させ、図の上が北となるよう方位を修正。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_07014179.jpg

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宮山遺跡
加古川市指定史跡
宮山遺跡は、縄文時代後期の敷石住居跡1棟、弥生時代から平安時代の建物跡や祭祀跡、中央部にある宮山大塚古墳と周囲にある6基の古墳などが複合している遺跡です。

縄文時代後期の敷石住居は、地面を浅く円形に堀り、その底に石を敷き詰めており、市内では最古の住居跡です。

宮山大塚古墳は、古墳時代中期(5世紀後半)に造られ、平面は帆立貝の形をしています。
古墳の大きさは、直径約40m、盛土の高さ約6mあり、周りには約6mの堀があります。

周囲にある6基の古墳は、いずれも古墳時代後期(6世紀)に造られており、横穴式石室がある直径15~20mほどの円墳です。
1号墳は、盛土や横穴式石室が昔に造られた状態で残っています。
3号墳から6号墳は、造られた時の状態を復元しています。

宮山遺跡は、昭和43年4月1日に加古川市指定史跡に指定されています。
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宮山5号墳。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_06224749.jpg

『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_06233129.jpg

宮山2号墳。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_06254681.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_06260623.jpg

宮山遺跡住居跡。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_06282828.jpg

説明板をズームアップ。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_06294627.jpg

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宮山(みやま)遺跡住居跡
ここには、縄文時代晩期の敷石式住居跡があります。
この住居跡は、昭和40年の発掘調査によって発見されたもので、宮山全域にわたってこのような住居跡があったと考えられます。
その後、古墳時代に入って、これらの住居があったところに古墳が造られました。
宮山遺跡は、昭和43年に加古川市の史跡に指定され、平成5年に史跡整備を終え、保存活用されています。
平成24年3月 加古川市教育委員会
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宮山大塚古墳には周濠があったことについて、地形的に想像し難いと上述したが、縄文時代晩期に住居跡があったということは生活用の水を川から運ぶのではなく、湧き水を使っていたと想像出来る。
となると、地形的に濠が崖の一部からはみ出ることは別として、濠に溜める水の確保は可能と思える。

角度を変えて、住居跡を眺める。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_06535854.jpg

宮山6号墳。
1号墳~5号墳の5基は宮山大塚古墳の西側に位置しているが、6号墳は少し離れた、東側に位置している。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_07092087.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_07095219.jpg
6号墳標柱側面の解説/「古墳時代後期 6・7世紀頃 円墳」。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_07100884.jpg

高台からの眺望を楽しむ。

北東側の眺望。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_07204092.jpg

東側の眺望。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_07234900.jpg

南側の眺望。
東播磨南北道路/八幡稲美ランプが見える。
東播磨南北道路は、加古川/小野間を繋ぐ自動車専用道路。
建設途上で、加古川市内から八幡稲美ランプまでが開通している。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_07262229.jpg

先ほど上って来た南側の坂道を下り、一般道に出る。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_07442645.jpg

坂道を下ると、一般道を挟んで神社が鎮座している。
墳丘上に神社あり、或いは、古墳の近くに神社ありというのが小生の唱える説。
当地でも事例を集めることが出来た。

手元の兵庫県道路地図のコピーを参照すると「八幡宮」とある。
ネット検索してみると「上中西八幡神社」とある。
由緒書きは見当たらないので、これもネット検索してみる。
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上中西八幡神社
加古川市八幡町上西条字宮山515
主祭神 品陀別命(ほむだわけのみこと)
配祀神 息長足媛命(おきながたらしひめのみこと)

応和2年(962年)、創立。
明治7年(1874年)、村社に列せられる。

秋祭は屋台と子供御輿が出て、八幡大神の代わりとして幼子が冠、衣装を付け馬に乗り境内を3回廻って本殿に向って拝礼する。
暮れには花の頭という氏子入の神事も斉行される。
頭人が太い〆縄を作り楼門に取り付け、それに神主が武運長久、家内安全と書いた木札をつるす。
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主祭神 品陀別命(ほむだわけのみこと)は第15代応神天皇の別称。
配祀神 息長足媛命(おきながたらしひめのみこと)は第14代天皇仲哀天皇の皇后、神功皇后諱号。

参拝。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_09595125.jpg

扁額コレクション。
年季が入っており、刻まれた文字は読めない。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_10011525.jpg

超ズームアップ。
「八幡」と刻まれているのであろうか。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_10024336.jpg

楼門。
ネット検索の由緒にあった通り、立派な注連縄が取り付けられている。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_10225748.jpg

楼門脇の「天皇陛下御在位六十周年記念」。
ロイヤルファミリー・ファンとしては、こうした石柱に目を惹かれるのである。
先日5月1日、平成から令和に。
昭和生まれとしては、明治・大正・昭和と対比し、昭和・平成・令和の順を見てみると、昭和は明治に当たるんだなあと、暫し、感慨に耽る。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_10244015.jpg

一段、高みに建つ、立派な社殿。
時間の都合上、楼門をくぐったところで参拝とさせていただく。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_10262483.jpg

西へ走り、次の探訪地、城山へ向かう。
途中、振り向いて、宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳が築造された小さな丘陵の<こんもり>を眺める。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/宮山大塚古墳、宮山1号墳~6号墳、上中西八幡神社』 kk-2_a0289546_10520450.jpg

フォト:2019年5月8日

(つづく)



# by ryujincho | 2019-05-12 23:13 | 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部 | Comments(0)
2019年 05月 12日

『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/序』 kk-1

5月8日(水曜)、晴れ。
前日は、姫路市内の古墳を探訪した。
この日は、関西の盟友、六々守さんと、加古川市内の古墳探訪。

探訪先のプランは事前に連絡済み。
探訪順は”ジモティー”の六々守さんにお任せ。
六々守さんが選んだ探訪順は、北から南へというルートで。
遠いところから順にというのはポタリングの鉄則、理に叶っている。

南から順に列挙していた探訪先を北から順に並べ直す。
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宮山農村公園
□ 宮山大塚古墳
(事前の調べのウィキペディアでは「前方後円墳」とあったが、現地で「帆立貝形古墳」と判明)
□ 宮山1号墳~6号墳(円墳)
□上中西八幡神社・・・現地追加
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□ 城山(山裾/西条八幡神社、山頂270m/愛宕神社※眺めがよい>)
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北山公園
□ 西条廃寺跡
西条古墳群
□ 行者塚古墳(前方後円墳)
□ 天塚古墳(円墳)
□ 人塚古墳(円墳)
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□ 神野二塚古墳(稲根神社裏)
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日岡山古墳群(前方後円墳x5基)
□ 日岡陵古墳(景行天皇皇后 稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)の陵墓とされる)
□ 西大塚古墳
□ 南大塚古墳
□ 北大塚古墳
△ 勅使塚古墳・・・未達
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加古川総合文化センター
□ 西条廃寺跡出土品
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朝、姫路から加古川へ輪行。
約束の時間より少し早く到着した。
六々守さんを待つ間、加古川駅前を<取材>。

街灯フラッグ「棋士のまち 加古川」。
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/序』 kk-1_a0289546_22562034.jpg

加古川は将棋が盛んな町なんだ。
そういえば、改札口を出たところに棋士の写真が並んだ立て看板があったなあと思い、駅構内へ。

立て看板「ようこそ 棋士のまち 加古川へ」。
上段、右/久保利明 九段 祝700勝達成
上段、左/井上慶太 九段
下段、央/稲葉陽 八段
下段、左/神吉宏光 七段
下段、右/船江恒平 六段
『播磨国・大和国古墳探訪/加古川の巻/序』 kk-1_a0289546_22564109.jpg

加古川市のHPを参照。
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加古川市は、市ゆかりのプロ棋士5名が活躍中であることから、第23期竜王戦第4局や第60期王将戦第4局、第61期王将戦第4局を誘致するなど、「棋士のまち加古川」を全国に発信しています。
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六々守さんが到着。
最初の探訪地、宮山農村公園内/宮山大塚古墳、宮山1号~6号墳を目指し、出発!

フォト:2019年5月8日

(つづく)


# by ryujincho | 2019-05-12 23:12 | 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部 | Comments(0)
2019年 05月 12日

『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11

5月7日(火曜)、晴れ。
山陽本線/はりま勝原駅から御着駅まで輪行。
御着駅の北に位置する古墳3基を探訪。
□ 壇場山古墳(前方後円墳)
△ 林堂東塚古墳(第1号古墳、陪塚、円墳)・・・民家の中にあり、これはパス。
□ 櫛之堂古墳(第2古墳、陪塚、円墳)
□ 山之越古墳(第3号古墳、方墳)

これにて姫路市内の古墳探訪を終え、所期の目的は達した。
2016年10月に播磨国分寺跡と国分尼寺跡を探訪しているが、近くまで来たことでもあり、再度、訪ねてみることにした。

先ず、播磨国分尼寺へ。
山之越古墳から西へ向かい、前回、通った南北に走る道に出て、北上。
一度来たら100回来たのも同じ、通いなれた道である。
T字路を右折し、少し東へ走ると、播磨国分尼寺跡である。

播磨国分尼寺跡。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_06271556.jpg

石柱「播磨国分尼寺跡参考地」。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_06282796.jpg

数年ぶりに、説明板に目を通す。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_06291389.jpg

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播磨国分尼寺跡
姫路市御国野町国分寺字毘沙門252-1他

天平13年(741年)、聖武天皇の詔により、鎮護国家のために国ごとに設置が決められた国分二寺の一つ。国分尼寺は、正式には『法華滅罪之寺』という。
これまで計5回の発掘調査が行われ、中央部付近から講堂を囲む雨落溝や金堂基壇の築土などが、毘沙門池の近くからは、東・北部築地基壇や井戸跡が検出された。
寺域は東西約134メートル、南北約180メートルの規模が推定されている。
多数出土した古瓦は、国分寺出土瓦と極めて共通しており、本寺跡が国分尼寺跡であることを傍証している。
なお、南方約0.5キロメートルに国指定史跡国分寺跡があり、「ふるさと歴史の広場」公園として整備されている。

平成6年3月
姫路市教育委員会
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播磨国分尼寺跡参考地碑由来記。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_06292612.jpg

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播磨国分尼寺跡参考地碑由来記
昭和40年頃 播磨国分寺跡は荒廃の極みにあった 姫路市当局に再三その保護を訴
えた結果 発掘調査されて 徐々に保存へ向かうことになった 然し国分尼寺跡は この
御国野町に 尼寺の前 尼寺の道 尼寺が池などの地名と共に 礎石や古瓦などの出土に
よる有力な推定地が 専門家に指摘されていながら全く放置されていたので、この推
定地の湮滅を防ぐため 以前に礎石の残存する土壇があったというこの場所に 国分
尼寺跡参考地碑を立てておかれるよう 市当局に請願すること数年 且つ費用の一部
を寄進して 昭和46年建立されたのが 隣接の参考地碑である
その建碑について 播磨国分寺史跡保存会長故中島広蔵氏に絶大な献身的協力を
頂いたことは感激の極みである また土地所有者 久野房雄氏と母堂故きくの刀自に
よる建碑地の提供と礎石の返還 更に地元石材店主元山義一氏の多大な物質的協力等 
私の請願に大きなご援助を頂いた右各位に 心から深謝する次第である
後日 もし尼寺跡が正式に解明されて地域に移動があった場合にも この尼寺跡保
護のために先駆した民間人の努力の跡が 全国の志ある方々へのはげみともなるよう
尼寺跡参考地碑ならびにこの由来記碑の二基は 播磨国分尼寺跡保護の経緯を語る資料
として 必ず共に遺跡の一隅に永久保存されることを念願するものである

昭和54年(1979年)11月
諸国国分二寺保護発願者 東京都杉並区 岩永蓮代 記
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前回と様子は変わっていないが、1点だけ異なることがある。
それは季節。
前回は秋、今回は初夏。
バラが黄色い花を咲かせている。
ということで、石柱と季節の花をアップで。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_06404169.jpg

再び、T字路まで戻り、南北に走る道を南下し、播磨国分寺跡へ向かう。
グーグルマップでこのエリアを参照すると、播磨国分寺跡、壇場山古墳、山之越古墳、播磨国分尼寺跡は、完全な一直線ではないが、南北にほぼ一直線の並んでいる。
南下しながら、ふと、国分尼寺跡と山之越古墳の間に何か史跡があるのではないかと思い、東へ行く細道に入る。

しばらく走ると神社が目に入った。
国分尼寺跡の南側は田畑が広がっているが、南から北に向かって宅地化が進んでおり、民家が立ち並び始めている。
そうした中に神社が鎮座している。

鳥居の扁額には「天満宮」と刻まれている。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_07120407.jpg


扁額コレクション/その一。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_07121927.jpg

由緒書きは見当たらない。
「天満宮 姫路市御国野町国分寺」でネット検索すると「天満神社」にヒットした。
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天満神社
主祭神 菅原道真公(スガワラノミチザネコウ)
配祠神 大年神(オオトシノカミ)

創立年代は不詳だが、永く壇上山古墳上に奉祀され、明治7年(1874年)2月、村社となり、大正5年(1916年)、無格社(兵庫県神社誌)大年神社を合祀した。  

壇上山古墳は、耕地中に造営された一大墳丘で、その形はいわゆる前方後円形を示し、大きさは縦径約140m、横径82m、環濠の幅3~22m、後円部高さ約10m、濠外周囲約530メートル余を測る。
後円部頂上に石棺蓋石が露出し、大きさは長さ2.7m、広さ1.2mでその形状により組合せ式の長持形石棺と思われる。
前方部には天満神社が奉祀せられるため、いささか原状を損ぜるも、全体としてよく旧観を残し、県下屈指の大古墳として注目に価するものである。
(大正10年(1921年)3月、内務大臣指定史跡) 

平成11年(1999年)9月、文化庁による史跡壇上山古墳の整備計画に伴い、百有余年鎮座の地を離れる事を余儀なくされ、この地に御新築遷座した。  

神社の創立年代はわからないが、古墳の上におそらく江戸時代に建立されたのではないかと思われる。
元々、村の鎮守は大年神社であり、その後、天神信仰の流布により、天満神社が祀られたものと思われる。
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天満神社は、元々、壇場山古墳の前方部に鎮座し、20年前に当地に遷座したとある。
古墳の墳頂に鎮座している神社あるいは祠はしばしば目にすることであり、珍しいことではない。
先刻、壇場山古墳前方部の墳頂を見分したが、20年の時を経ていることでもあり、神社が鎮座していた痕跡はなかった。
しかし、墳頂へ向かう際、古墳の北東角に立派な石段が設けられており、これを上った。
この石段は参道の一部であり、天満神社が墳頂に鎮座していたことを示すものであったのだ。

「配祠神 大年神」、「大年神社を合祀した」とある。
幼・少年期を播磨地方で過ごしたが、大年神社なるものは初耳である。
大年神社と大年神について調べてみた。
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大歳神(大年神)は農業神、穀物神で、雨量の少ない瀬戸内海気候の地域に灌漑用の池や水路の建設を勧め、農産物の生産量を増大させた。
兵庫県では400社近い大歳神社(大年神社)が鎮座しており、大歳神の神徳の大きさが窺われる。
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この日は、午前中に探訪した丁(よろ)古墳群/勝山町支群近くに鎮座する「薬司神社」、続いて、壇場山古墳近くに鎮座する天満神社(大歳神社(大年神社)を合祀)と、二つの神社についてベンキョーする機会を得た。

東の鳥居をくぐり、南からの参道に立つ。
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扁額コレクション/その二。
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参拝。
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『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_10342832.jpg

狛犬コレクション。
阿形。
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吽形。
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御神牛。
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社殿を眺める。
午後の逆光を避けるため、西側から眺める。

拝殿。
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奉納額。
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拝殿から幣殿、本殿へと目を遣る。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_10561755.jpg

本殿の西側に小さな覆い屋がある。
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神仏混淆、石仏であろうか。
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境内から西側に出る。
玉垣を挟んで、社殿を眺める。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_11175953.jpg

前掲の写真で、幣殿としてよいのかと思いつつ、「拝殿から幣殿、本殿へと目を遣る」とキャプションを付した。
こうして、社殿を眺めてみると、やはり、幣殿と考えてよさそうである。
簡素な造りながら、本殿と拝殿の間に幣殿を設けた社殿となっているのである。
幣殿をもたない社殿もあるので、壇場山古墳前方部墳頂から遷座する際、しっかりとした計画、設計のもとに建立されたものと思われる。

来た道を戻り、南北に走る道を南下。

左手に、壇場山古墳の<こんもり>が建物の間から垣間見える。
壇場山古墳を訪ねていなければ、単なる森にしか見えなかっただろうなと思いながら、季節の花と共に、カメラに収める。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_11240363.jpg

<こんもり>をズームアップ。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_11242068.jpg

更に南下。
国道2号線を渡り、播磨国分寺跡に至る。
当地を訪ねるのは2016年の秋以来のことである。

播磨国分寺跡。
北東側から。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_06535673.jpg

国分寺跡のすぐ南を山陽新幹線が走っている。
上りの新幹線の左車窓から国分寺跡を一瞬ではあるが、眺めることが出来る。
上りの新幹線に乗った際、左車窓から姫路城、そして、播磨国分寺跡を眺めるのが楽しみの一つでもある。
新幹線がやって来るのを待つ(鉄チャンではないが)。
上りの新幹線がやって来た。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_06565467.jpg
数年ぶりに説明板に目を通す。
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国指定史跡 播磨国分寺跡
天平13年(741年)、聖武天皇の詔により国ごとに国分寺、尼寺の設置が決められました。
これは、仏法の加護により国家の平安を祈念したもので、播磨国分寺もその一つです。
往時には、2町四方の寺域に七重塔、金堂、講堂などの壮大な伽藍が立ち並び、国の華として大国播磨にふさわしい堂々たる寺観を誇っていたと思われます。
今回、ふるさと展示の広場事業として、遺構の復元や模型展示を行い、歴史公演として整備したものです。
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国分寺跡は、復元基壇で、中門、金堂、塔などの位置が示されている。
今回は、個々の基壇の写真の掲載は省略する。

逆光を避けるため、西側に移動し、国分寺跡の全景をカメラに収める。

北西側から、築地塀(復元)と共に。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_07261370.jpg
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南西側から。
奥に見える白い塀のところは後継寺院の播磨国分寺、山号は牛堂山、宗旨は真言宗。
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後掲寺院、播磨国分寺の西側の石碑「播磨国分寺 聖武天皇勅願所」。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/播磨国分尼寺跡~播磨国分寺跡』 hk-11_a0289546_07355963.jpg

今回の古墳探訪の旅で奈良へ行くが、聖武天皇陵・光明皇后陵の探訪は織り込んでいない。
しかし、播磨国分寺跡・尼寺跡を訪ねたことでもあり、少しだけ、ここで触れておきたい。
・聖武天皇 陵墓名:佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)、遺跡名:法蓮北畑古墳
・光明皇后 陵墓名/佐保山東陵(さほやまのひがしのみささぎ)
所在地は奈良県奈良市法蓮町、東大寺の北西、佐保川を渡った辺りに位置している。
付近には、松永久秀が築いた多聞山城跡がある。
城跡は奈良市立若草中学校の敷地である。

瓢塚古墳から始まった姫路市内の古墳探訪+アルファは大満足の内に終了した。
明日は、関西の盟友、六々守さんと加古川市内の古墳探訪である。
これも愉しみである。

フォト:2019年5月7日

(つづく)




# by ryujincho | 2019-05-12 23:11 | 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部 | Comments(0)
2019年 05月 12日

『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10

5月7日(火曜)、晴れ。

山之越古墳。
南側から時計回りで墳丘の周囲を一周。
一周し終わり掛けたところで、町人(まちびと)男性に出遭った。
墳丘への上り口を訪ねたところ、親切にも上り口まで案内してくれた。

案内された場所は、ブロック塀の民家脇の細道であった。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_02100190.jpg

町人(まちびと)の男性に礼を述べ、別れる。
細道の入り口に jitensha を止め、奥へ進む。

墳丘の裾に至る。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_02362127.jpg

細道は、先ほど、到着したばかりのときに南側の駐車場を通り抜け、説明板のある墳丘裾へ行ったが、そこに繋がる道であった。
但し、この細道は駐車場から1段、上にあり、先ほどは1段低い駐車場から説明板を眺めたので、草ぼうぼうの踏み分け道は見えず、墳丘に上るのを躊躇したが、今度は踏み分け道らしきものが見えるのであった。

墳丘に上る前に、今一度、説明板に目を通す。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_02370262.jpg

読み下し文は前話で掲載したが、もう一度、読み下しておこう。
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山之越古墳(第三古墳)
山之越古墳は、大正10年、壇場山古墳、第1、第2古墳とともに第3古墳として国史跡に指定された。
5世紀中頃の方墳で、壇場山古墳に次ぐ首長墓とされる。
平成23年に姫路市が行った墳丘東部の発掘調査により、墳丘の一辺約60mで、周囲に幅15m程度の周濠が巡ることが確認された。
墳丘は北側を中心に大きく削平されており、中央に竜山産の凝灰岩製長持型石棺が露出している。
石棺は明治30年に開棺調査され、獣帯鏡、鉄刀、鉄剣、玉類が出土した。
平成24年3月 姫路市教育委員会
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墳丘を上る。
墳頂に近づくに連れ、背の高い雑草は少なくなり、踏み分け道がしっかりと現れた。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_02374589.jpg

墳頂に至る。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_02380956.jpg

墳頂の奥、北側寄りに南北方向に位置する、露出した石棺。
墳丘は石棺の北端で大きく崩れている(写真では分り辛いが)。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_02382795.jpg

説明板に「墳丘は北側を中心に大きく削平されており...」とあり、石棺の北端が崩れているように見えるのであった。

同じく説明板に「...中央に竜山産の凝灰岩製長持型石棺が露出している。石棺は明治30年に開棺調査され、獣帯鏡、鉄刀、鉄剣、玉類が出土した」とある。

石棺の石材、竜山石(たつやまいし)については、第6話の壇場山古墳の長持形石棺の項で縷々述べたが、もう一度、ここで述べておこう。
石棺の石材、竜山石(たつやまいし)は、姫路市の西隣りの高砂市で産出されたものである。
竜山石は、古代の石棺はもとより、近世、近代においても、姫路城や明石城の石垣、国会議事堂の石材として使用されている。
幼き頃、親父に連れられて採石場へハイキングに行ったこともあり、その頃から「石の宝殿」の名で親しんだ採石場でもある。

竜山産凝灰岩製長持型石棺を見分する。

南側から。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_07292978.jpg

石棺北端部分の掛け縄突起をアップで。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_07381192.jpg

墳頂北端から少し降りてみる。
確かに、削平されており、且つ、崩れている。
石棺を見上げる。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_07451263.jpg

アップで。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_07453179.jpg

再び、墳頂に戻る。
墳頂から東西南北を眺望する。
先ず、南側から時計回りで。

南側。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_10000320.jpg

南西側。
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西側。
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北西側。
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北側。
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北東側。
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東側。
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南東側。
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先ほど、南東側から空き地を挟んで墳丘を眺めていたとき、町人(まちびと)の男性に出遭い、墳丘への上り口を尋ねたのであった。
そのとき、標柱らしきものが見えたので、この辺りが上り口ではないかとの思いもあって、男性に尋ねたのだが、男性は南側の上り口へ案内してくれたのであった。

標柱を確認すべく、墳丘を下ってみた。

黄色い花に囲まれた標柱。
野草の名には疎いが、この黄色い花はウマノアシガタのようだ。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_21412457.jpg

標柱の下へ回り込んで、標柱に刻まれた文字を確認する。
「史蹟 第三古墳」、「大正十年三月 内務大臣指定」と刻まれている。
大正10年に設置された標柱としては随分と新しく見える。
近年、新たなものに替えられたものと思われる。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_21415245.jpg

先ほど、季節の花の黄色いウマノヒヅメを撮ったことでもあり、今度は同じく季節の花であるヤマツツジを墳頂と共にカメラに収めた。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_21571528.jpg

再び、墳頂に戻る。
<正規のルート>である南側から墳丘を下る。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_22022175.jpg

南側上り口に至る。
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町人(まちびと)の男性に遭遇したのは偶然であった。
偶然のお陰で、墳丘に上ることが出来、山之越古墳の探訪は中身の濃いものとなった。
町人(まちびと)男性に感謝!

山之越古墳探訪の<おさらい>として、壇場山古墳脇の説明版にあった実測図を今一度、ここに掲載しておこう。

壇場山古墳と山之越古墳の位置関係。
図で赤文字の「現在地」が壇場山古墳/前方部北東角。
山之越古墳は壇場山古墳の真北に位置。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_22152908.jpg

山之越古墳実測図。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(下)』 hk-10_a0289546_22185826.jpg

(メモ)
長持形石棺について。
関東では、太田天神山古墳(群馬県太田市)、お富士山古墳(群馬県伊勢崎市)の2ヶ所からしか出土していない。
これは考古学上、注目すべきことなのだそうだ(講演会などでベンキョー)。
近畿地方では20ヶ所(更に、出土地が分かっていないものが約10基ある)、中国地方では4ヶ所、九州地方では2ヶ所の古墳から出土している。
関東では2ヶ所しかないにも拘らず、この日1日だけで壇場山古墳と山之越古墳の2ヶ所で長持形石棺を見分出来たことは近畿地方に如何に多いかという証しであろう。

これにて姫路市内の古墳探訪を終え、所期の目的は達した。
播磨国分寺跡と国分尼寺跡は2010年10月に探訪済みだが、近くまで来たことでもあり、再度、訪ねてみることにした。

先ず、播磨国分尼寺へ。

フォト:2019年5月7日

(つづく)




# by ryujincho | 2019-05-12 23:10 | 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部 | Comments(0)
2019年 05月 12日

『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9

5月7日(火曜)、晴れ。
壇場山古墳の墳丘と周濠を見分。
つづいて、壇場山古墳の南西角に位置する櫛之堂古墳(陪塚)を見分。
同じく東南角に位置する林堂東塚古墳(陪塚)は民家の中にあるとのことで、これはパス。

つづいて、壇場山古墳の北に位置する山之越古墳へ。

壇場山古墳北側の住宅地を通り抜けると、駐車場の奥に墳丘が現れた。

山之越古墳(方墳)。
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駐車場を通り抜け、住宅のブロック塀近くまで歩を進める。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_11291358.jpg
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_11293198.jpg

墳丘南面裾の、雑草の中に立つ説明板に目を通す。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_11294951.jpg

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山之越古墳(第三古墳)
山之越古墳は、大正10年、壇場山古墳、第1、第2古墳とともに第3古墳として国史跡に指定された。
5世紀中頃の方墳で、壇場山古墳に次ぐ首長墓とされる。平成23年に姫路市が行った墳丘東部の発掘調査により、墳丘の一辺約60mで、周囲に幅15m程度の周濠が巡ることが確認された。
墳丘は北側を中心に大きく削平されており、中央に竜山産の凝灰岩製長持型石棺が露出している。
石棺は明治30年に開棺調査され、獣帯鏡、鉄刀、鉄剣、玉類が出土した。
平成24年3月 姫路市教育委員会
---------------------------------------

墳丘に上ってはいけないとの立札はない。
墳丘に上ってみようかと思うが、雑草が生い茂っており、踏み分け道も見当たらない。

取り敢えず、墳丘の周囲をぐるっと回ってみることにする。

南側からの墳丘の姿をカメラに収める。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_11314503.jpg
西側に回り込む。
墳丘の周りは住宅地となっており、墳丘は見えない。
だが、1ヶ所、住宅が途切れ、<隙間>あった。

両脇の住宅を額縁にして、西側からの墳丘をカメラに収める。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_11355216.jpg
<額縁>を無しにして、もう1枚。
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北側へ回り込む。
北西側に空き地が現われた。
空き地の<隙間>から1枚。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_11393322.jpg

ズームアップ。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_11402237.jpg

北側。
民家の<隙間>から垣間見える墳丘。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_11425066.jpg

ズームアップ。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_11433381.jpg

東側へ回り込む。
北東側に空き地が現われた。
北東側からの墳丘の姿。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_07015604.jpg

西側の建物が、墳頂に建てられているように見える。

ズームアップ。
『播磨国・大和国古墳探訪/姫路の巻/山之越古墳(上)』 hk-9_a0289546_07051615.jpg

墳丘の裾に目を遣る。
墳丘の北東角が直角になっていることが視認出来る。
方墳であることの証しである。
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更にアップで。
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墳丘を今一度、アップで。
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南東側に空き地が現われた。
南東側の墳丘の姿。
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ズームアップ。
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南東側で写真を撮っていたところ、村人ならぬ、町人(まちびと)の男性、発見!
「こんにちは。今、南側から墳丘を時計回りで一周して来たんですけど、墳丘に上ってもいいんでしょうか?」。
「上っている人はいますよ」。
「上り口は何処でしょうか?」。
「案内しましょう」。

案内された場所は、ブロック塀の民家脇の細道であった。
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町人(まちびと)の男性に礼を述べ、別れる。
細道の入り口に jitensha を止め、奥へ進む。

墳丘の裾に至る。
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細道は、先ほど、到着したばかりのときに南側の駐車場を通り抜け、説明板のある墳丘裾へ行ったが、そこに繋がる道であった。
但し、この細道は駐車場から1段、上にあり、先ほどは1段低い駐車場から説明板を眺めたので、草ぼうぼうの踏み分け道は見えず、墳丘に上るのを躊躇したが、今度は踏み分け道らしきものが見えるのであった。

墳丘に上る。

フォト:2019年5月7日

(つづく)









# by ryujincho | 2019-05-12 23:09 | 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部 | Comments(0)