2019年 05月 12日
5月8日(水曜)、晴れ。 加古川市内の古墳探訪。 関西の盟友、六々守さんと共に。 行者塚古墳、人塚古墳、尼塚古墳の3基から成る西条古墳群。 円墳である人塚古墳、尼塚古墳を見分。 続いて、尼塚古墳の東に位置する西条古墳群のメイン、前方後円墳の行者塚古墳へ。 「史跡 西条古墳群 行者塚古墳」。 行者塚古墳は、南西・北東(南西:前方部、北東:後円部)に主軸を置く前方後円墳。 西条古墳群周辺位置図。 説明板に目を通す。 ----------------------------------- 行者塚古墳 行者塚古墳は全長99m、高さ約9mの前方後円墳(かぎ穴のような形をした古墳)です。 市内最大で、播磨地方でも屈指の規模を誇ります。 古墳時代中期の4世紀末から5世紀はじめ頃に造られました。 現在は土や木で覆われていますが、当初は土を盛った墳丘の斜面全体に石を貼っていました。 これを葺石(ふきいし)といいます。 墳丘は三段に造られ、その平らな部分には円筒埴輪や朝顔形埴輪などの焼き物を立て並べていました。 その総数はおよそ2500本と推定されています。 また、造り出しという高さ1m 程度の低い台形の突出部が4つあります。 そして、後円部の周囲には幅約14m ほどの浅い堀がめぐり、その外側にも溝をめぐらせていました。 この古墳は平成7年度に発掘調査が行われ、金銅製帯金具の出土など貴重な発見が多くありました。 (図) ・行者塚古墳調査区位置図 ・行者塚古墳復元模型 ------------------------------------ 説明文の1行目に「前方後円墳(かぎ穴のような形をした古墳)」と記されている。 前方後円墳の形については諸説ある。 ・幕末の儒学者、蒲生君平が、古来から「車塚」と呼ばれていたことに基づき、貴人が乗る牛車に見立てて「前方後円」と呼んだ説 ・円墳と方墳の合体説 ・円墳から突き出した通路から転訛したとする説 ・帆立貝形古墳が転訛したとする説 ・壺の形に似ていることから派生した壺形説 ・英語で"keyhole-shaped mound"と呼ばれることから「鍵穴形古墳」と呼ぶ説 などなど。 説明文に「前方後円墳(かぎ穴のような形をした古墳)」と記されていることから、加古川市の学芸員さんは鍵穴形派なのかもしれない、或いは、子供さんたちに分かり易い例えとして記されたのかもしれない。 ヨーロッパでは今でも「鍵穴」の形をした鍵穴が数多く見られるが、我が国では、昨今、「鍵穴」の形をした鍵穴を見ることは少なくなったと、ふと、思うのであった。 四つの造り出しを見分するのが愉しみである。 事前の調べでは、そのうちのひとつは埴輪や葺石が設えられ、復元されているという。 それを見分するのも愉しみである。 行者塚古墳調査区位置図、行者塚古墳復元模型。 四つの「造り出し」が残っていることは、大変興味深い。 四つの造り出しの位置は、東側と西側のくびれ部付近、後円部の北東と南東となっている。 五色台古墳(神戸市)で、東側くびれ部付近に残る「造り出し」をこの目で見たことがあり、それに照らし、この模型(図)から行者古墳の四つの造り出しを容易にイメージすることが出来る。 墳丘の東側を南から北へ見通す。 左手に、白い石(説明板)とその奥に造り出しと思しきマウンドが見える。 前方を行く一団は、古墳について野外学習中の、地元の小学生諸君と引率の先生、そして、加古川市の学芸員さん。 東造り出し。 --------------------------------------- 東造り出し 行者古墳には、造り出しが4つあり、これを東造り出しと呼んでいます。 この造り出しは、まだ、全体の発掘調査は行われていません。 平成7年度に行われた発掘調査では、おもにその北側の東くびれ部が調べられました。 これにより、墳丘斜面の葺石や平坦部の埴輪列などが確認されました。 特に注目されることは、東造り出しと後円部の間の谷部から囲形埴輪とその中に置かれた家形埴輪が発見されたことです。 これは浄水施設を表現したものと考えられています。 行者塚古墳における発見は、この種の埴輪の先駆的な発見となりました。 (写真) ・東くびれ調査区 ・東側谷部の家形・囲形埴輪の出土状態 ・家形・囲形埴輪 --------------------------------------- 家形埴輪が囲形埴輪の中に置かれている状態は浄水施設を表現している、とある。 何故、これが浄水施設を表していると分かるのであろうか。 ネット検索したところ、各地で囲形埴輪は見つかっている事例や幾つかの文献にヒットした。 その中の一つ、『広報ふじいでら』(第349号 1998年6月号)に行者塚古墳で出土した家形埴輪・囲形埴輪のことが記されていた。 その記事をここに引用しておきたい。 --------------------------------------- 今回は、藤井寺市から出土した囲形埴輪を紹介することにしましょう。 この埴輪は、史跡大鳥塚古墳の東隣の発掘調査で見つかった小さな円墳から出土しました。 調査を始めるまで、ここに古墳が眠っているとは分かっていませんでした。 もっともこの辺りは、古墳の集中しているところなので、新たな古墳が見つかることも予測はしていました。 調査開始まもなく、埴輪の破片や葺石に使ったと見られる川原石が出てきて、古墳の可能性が強まりました。 調査の進展にしたがって、この古墳は直径28メートルの円墳で、西側に「造出し」と呼ぶ突出部をもつことが分かってきたのです。 古墳の名前は小字名をとって「狼塚」としました。 さらに注目されたのは、造出しの北西側の、やや低まったところに平坦面をつくり、そこにこれまであまり類例の知られていない囲形埴輪を据えていたことでした。 囲形埴輪は、8つの箱形のパーツを組み合わせていました。 一辺につき、2つの箱を直列させ、1.2メートルの範囲を四角く囲っていたのです。 囲った内部は、小ぶりの川原石が敷き詰められていました。 その上に凹みをつけた羽子板形の粘土板、明日香の酒船石をほうふつとさせる奇妙な土製品が置かれていたのです。 一体これは何を模した埴輪なんだろうか。資料検索が始まりました。 もともと囲形埴輪自体がもう一つよく分からない謎の埴輪といわれていました。 上部にギザギザが表現されていて、四角く囲みを作っていることから、塀のような施設を現しているというところまでは分かるのですが、それが何の施設なのかはよく分からなかったのです。 兵庫県の行者塚古墳では、囲形埴輪の中に家形埴輪を納めた状態が見つかっています。 何かのまつりを執りおこなう建物と、その聖域を表現していると理解できますが、そのまつりの中身までは手掛かりがなかったのです。 ヒントは羽子板形の土製品でした。 奈良県南郷大東遺跡などで見つかっている浄水祭祀場に注目したのです。 水を引き込む木樋の凹みがこの土製品にそっくりだったのです。 囲形埴輪と呼ばれるすべての埴輪が浄水祭祀場を表現しているとは断定できませんが、かなりのものがそうであろうと考えられるのです。 狼塚古墳の囲形埴輪の発見によって、この埴輪の謎解きが大きく前進したのです。 --------------------------------------- 東くびれ部調査区、東側谷部の家形・囲形埴輪の出土状態、家形・囲形埴輪。 東くびれ部調査。 東側谷部の家形囲形埴輪の出土状態。 小さな文字で「東側谷部における家形・囲形埴輪の出土状況。囲形埴輪内部にも石が詰められている」とある。 家形・囲形埴輪。 家形埴輪はしばしば目にするが、囲形埴輪と共にというのは初めてである。 墳丘の東側を更に北へ歩を進める。 北東造り出し。 説明板に目を通す。 --------------------------------------- 北東造り出し 行者古墳には四つの造り出しがあり、これを北東造り出しと呼んでいます。 この造り出しは平成7年度に発掘調査が行われました。 大きさは裾周りで東西8.5m、南北12m、高さ1mの台形です。 斜面には石を葺いています(葺石)。 造り出しの上の平坦な部分には、方形に円筒埴輪列が立て並べられていました。 その区画の中には、家形埴輪が5個、甲冑形埴輪、盾形埴輪、靭形埴輪(矢筒を表現した埴輪)などが発見されました。 家形埴輪の中には、千木をつけた埴輪や片流れ屋根などの埴輪なども発見されました。 埴輪群の下には埋葬施設が確認されました。 棺内の調査は行っていませんが、粘土槨に箱形木棺を使用していたのではないかと推測されています。 出土した埴輪は、加古川総合文化センターに展示されています。 (写真) ・北東造り出しイメージ図 ・千木のついた家形埴輪 ・北東造り出し調査図 --------------------------------------- この日の最後の加古川総合文化センターを訪ねることにしている。 出土品の見学が楽しみである。 北東造り出しイメージ図、千木のついた家形埴輪、北東造り出し調査図。 北東造り出しイメージ図。
千木のついた家形埴輪。 北東造り出し調査図。 上段/勾玉 陥没による落ち込みの中から出土。 左は緑色凝灰岩製、右は滑石製。 下段/北東造り出し埋葬施設実測図。 粘土槨内は未調査のため、下半分の構造は不明。 汚れの目立つ説明板。 本ブログを編集しながら、ペットボトルのお茶で洗ってやればよかったと思うも、あとの祭り。 北東造り出しの見分を終えたところで、散歩中の老婦人と出遭った。 冒頭の説明板に、後円部に周濠があったと記されていたので、これについて尋ねてみた。 「古墳の周りは、今は住宅地になっていますが、それ以前の状態がどんな風だったかご存知でしょうか.。堀があったりしたでしょうか」。 「わたしの家は直ぐそこに見えている家ですが、ここに引っ越して来たときは、家は数軒しかなく、ほとんど畑でした。そのあと、畑が住宅地となり、家がどんどん増えました。堀はありませんでした。古墳は憩いの場所になっています」。 墳丘北縁を回り込み、西側へ。 フォト:2019年5月8日 (つづく) #
by ryujincho
| 2019-05-12 23:18
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2019年 05月 12日
5月8日(水曜)、晴れ。 加古川市内の古墳探訪。 関西の盟友、六々守さんと共に。 西条廃寺、そして、その西側にある西条古墳群の1基、人塚古墳を見分。 つづいて、その南側にある西条古墳群の1基、尼塚古墳へ。 「史跡 西条古墳群 尼塚古墳」 説明板に目を通す。 -------------------------------------- 国指定史跡 尼塚古墳 尼塚古墳は全長約51.5m、高さ約6mに復元される造出(つくりだし)付円墳です。 周囲には幅約7mの濠がめぐらされています。 墳丘は二段につくられており、上段の斜面は表面を葺石でおおわれていますが、下段にはありません。 葺石には河原石が多く使われていますが、一番下の基底部分には大きな竜山石が据えられています。 上段と下段の間には平坦面(テラス)があり、埴輪が並べられていました。 埴輪の特徴などから古墳時代中期(5世紀)に位置づけられ、行者塚古墳より新しい時期の古墳と考えられます。 昭和48年6月18日 国指定史跡 図、左/尼塚古墳調査図位置図 図、央/上段斜面の葺石(東調査区) 図、右/葺石と埴輪列(北調査区) -------------------------------------- 墳丘に上ってみる。 墳頂に建立された「礫石経塚」。 裏面に刻まれた撰文では「御宝塔」となっている。 下段に刻まれた文字を読み取ってみる。 左から; 〇〇院殿正姫正仁大〇神 〇〇院殿正経玉龍大天王 〇〇寶軍院赤松圓(眞)則村公 〇〇院殿寶正経仁大天王 〇〇院殿正宮儀仁大尊儀 〇〇院殿白旗大天王 三つ目に「寶軍院赤松圓(眞)則村公」とある。 先ほど、登った城山(じょやま)は、説明板に「標高85mの城山は、赤松則村(円心)(1277-1350)の城館跡と伝えられていることから、西条城跡の遺跡となっています」とあった、その赤松則村である。 そのほかの人物はよく分からない。 裏面。 -------------------------------------- 正主思恩報 日蓮宗石守御宝塔寺御 宝塔御守護二依難病困苦 ノ處御身平癒ス右記 為御宝塔建立ス右ハ日蓮宗〇〇 神野町石守 昭和二十六年十一月吉祥前田〇〇建立 -------------------------------------- 墳頂から周囲を見渡す。 北東側。 南東側。 南西側。 北西側。 墳丘を下る。 「墳頂に日蓮宗の宝塔あり」と六々守さんに告げると「あとで訪ねる日岡山の南大塚古墳には日蓮宗の霊場があり、お経を唱えている光景を時々見掛けることあり」と。 西条古墳群周辺図に目を通す。 ------------------------------------ 尼塚古墳 規模は一番小さく、古墳時代中期に位置づけられている。 ------------------------------------ 行者塚古墳 市内最大の前方後円墳であり、金銅製帯金具や家形埴輪、円筒埴輪が出土した。 ------------------------------------ 人塚古墳 西条廃寺跡に隣接する古墳時代中期の古墳である。 ------------------------------------- 周辺図をアップで。 図を90度回転させ、上が北になるよう、方位を修正。 続いて、尼塚古墳の東側に位置する行者塚古墳へ。 フォト:2019年5月8日 (つづく)
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| 2019-05-12 23:17
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2019年 05月 12日
5月8日(水曜)、晴れ。加古川市内の古墳探訪。 関西の盟友、六々守さんと共に。 城山(じょやま)から南下し、西条廃寺を見学。 つづいて、西条廃寺の西側にある西条古墳群/人塚古墳へ。 ----------------------------------------- 人塚古墳史跡整備事業 国指定史跡人塚古墳の整備事業は、「西条古墳群史跡整備事業」として実施しました。 整備に伴って行った発掘調査では、墳丘が二段になっていること、平坦面には埴輪列が巡ること、墳丘西側には2ヶ所の突出部(造出、つくりだし)を持つ可能性があることを確認しました。 また、墳丘の周りを濠が囲み(周濠)、外側に堤(外堤)が築かれていたことなどがわかりました。 史跡整備事業では、外堤部分への盛土、エントランスの整備、階段の設置などを行っています。 外堤の盛土については、平成20年度および22年度に行った発掘調査により、周濠からの立ち上がり部分を4ヶ所検出したので、その位置に合わせて盛土を行っています。 なお、西側の周濠部分は、後世に農工用水路設置などにより盛土されているため、周濠の幅は古墳が造られて当時とは異なっています。 外堤の高さについては、後世に地形が変更されていることにより、本来の高さが不明なため、復元したものではありません。 (写真) ・整備前の人塚古墳の様子(墳丘西側部分) ----------------------------------------- 整備前の人塚古墳の様子(墳丘南側部分)。 東側から墳丘(円墳)を眺める。 ちょっと近すぎたので、南側と北側を半分ずつでカメラに収める。 ------------------------------------- 古墳の周濠斜面を利用した瓦窯跡 平成21年(2009年)の人塚古墳の発掘調査において、古墳北東部の周濠を調査した際に、瓦窯跡1基が発見されました。 窯は、周濠の外側斜面を利用して造られた半地下式の窖窯(あながま)です。 窯の上半部は後世の削平で失われており、平面表示をしえいる長さ約4m、幅約2mの範囲だけが残されていました。 本来は全長7m前後であったと推定されています。 この窯跡の調査は、現状を保存するため、表面の記録と部分的な掘り下げに留めており、窯内部の詳しい様子はわかりません。 しかし、出土した瓦の製作技法が、隣接する西条廃寺の瓦と一致したことから、この窯が西条廃寺へ瓦を供給するためのものであったことがわかりました。 出土した瓦の製作年代は8世紀中頃と考えられ、人塚古墳が築かれた5世紀前半から300年以上を経た奈良時代に、この場所で瓦の生産が行われていたことが確認されました。 (写真) ・窯跡検出状況(削平部から周濠内をのぞむ) ・窯跡から出土した平瓦 加古川市教育委員会 ------------------------------------- 窯跡検出状況(削平部から周濠内をのぞむ)。 窯跡から出土した平瓦。 盗難防止が施されている訳ではなく、ただ単に置かれているだけ。 見学者は皆、道徳的、持ち去る人はいないのであろう。 瓦片を手に取って見分してみる。 布目が見て取れる。 布目瓦である。 「布目瓦」とは、瓦を作るとき、瓦の型に粘土が張りつくのを防ぐために間に入れる布の跡が残ったもので、古代の瓦に多く見られるものである。 数年前、茨城県石岡市で常陸国分寺跡・尼寺跡や資料館を見学した際、「瓦塚窯跡」なる遺跡があることを知り、窯跡を探訪したことがあった。 この窯跡は常陸国分寺跡から北へ約10kmの山裾にあり、粘土質の地山をくり抜いてつくられた地下式有段窖窯(あながま)であった。 この窯でつくられた瓦は、常陸国分寺・国分尼寺はもとより、常陸国府や茨城廃寺などの建立に供給されたとのことである。 因みに、この瓦塚窯跡でも、布目瓦の破片を見つけたことを付記しておこう(遺物保存のため、持ち帰ったりはせず)。 また、埼玉県/比企丘陵古墳を探訪した際、東松山市の「大谷窯跡」なる遺跡に立ち寄ってこともあった。 この瓦窯跡は、山の斜面を利用した「登窯」とよばれる半地下式のものであった。 いずれの窯跡も山裾にあり、供給先は遠方であっても、供給元は斜面を利用した窯造りに都合がよかったことのほか、燃料となる薪の調達も容易であったからと思っていた。 だが、ここ、人塚古墳の周濠に設けられた瓦窯は、山裾ではなく、供給先の西条廃寺の直ぐ隣りに設けられている。 瓦の搬送距離を短くすることを優先し、薪の調達は遠方からでもよいとの判断で、ここに窯が設けられたのであろう。 瓦窯を設ける場所の選定には、いろいろな判断基準があることが分かった。 そして、300年の時を経て、古墳が瓦窯の最適場所に選ばれたということも誠に興味深いことであった。 人塚古墳の全景を捉えるために、古墳から距離をとるため、北東方向へ移動。 西側の入り口には、西条古墳群に関わる説明板と人塚古墳に関わる説明板が設けられていた。 ---------------------------------------- 国指定史跡 人塚古墳 人塚古墳は直径約60m、高さ12m近くに復元される造出(つくりだし)付円墳です。 造出は墳丘の西法句に取りつくものと想像されますが、削られた部分が多く、全体の形状は不明です。 墳丘の周囲は、幅約12mの濠で囲まれています。 墳丘の墳頂部と平坦部(テラス)の上下二段となっています。 上段の斜面は竜山石を多く用いた葺石で覆われていますが、下段の斜面では見られません。 葺石の一番下には比較的大きな石が使われています。 平坦面(テラス)には、円筒埴輪が列状に並べられていました。 また、各種の形象埴輪も出土しています。 埴輪の特徴などから古墳時代中期(5世紀)に造られたと考えられます。 指定年月日 総和48年6月18日 写真 ・主土志田円筒埴輪列 ・葺石とテラスの円筒埴輪列 ---------------------------------------- 出土した円筒埴輪列。 葺石とテラスの円筒埴輪列。 西条古墳群に関わる説明板に目を通す。 --------------------------------------- 国史跡 西条古墳群 加古川東岸の台地上に位置する業者塚古墳、人塚古墳、雨塚古墳は、「西条古墳群」と総称され、昭和48年(1973年)に国史跡に指定されています。 この周辺は、かつて十数基の古墳が点在し、弥生時代終末期に墳丘墓として著名な西条52号墳なども所在していましたが、残念ながら昭和38年(1963年)からの大規模な住宅造成により大部分が消滅しました。 加古川市では、平成6年(1994年)に西条古墳群の史跡整備事業を開始し、具体的な整備計画を策定するため発掘調査を実施しました。 行者塚古墳の発掘調査では、良好に残る葺石・埴輪列の検出、造出の機能解明につながる資料群の出土、舶載品を多く含む副葬品箱の発見など、その後の古墳研究に影響を与えるような大きな成果をあげました。 人塚古墳の調査では、墳丘の形状把握を試み、特に開発により消失したとされる造出の痕跡から、墳丘西寄りに2ヶ所の造出が存在した可能性があることがわかりました。 尼塚古墳の調査では、それまでに詳細が把握されていなかった墳丘の形状を捉えることができ、造出が一つ付く特徴的な墳丘の形状や埴輪の特徴などから、西条古墳群の首長墓の中で最も新しい時期のものであることが判明しました。 古墳が築造された時期は、前方後円墳の行者塚古墳(5世紀前半)、造出付円墳の人塚古墳と尼塚古墳(5世紀中頃)の順であり、この地に連続して築かれた有力な王の墓の様子が明らかになりました。 これらの発掘調査で出土した遺物の一部は、加古川総合文化センター内の博物館で常設展示しています。 今回の史跡整備事業は、自然の景観を活かしつつ最小限の補修や盛土を加えることで、うっそうとした雑木林をなったいた場所を、古墳と自然景観が一体となった明るく親しみやすい史跡にすることを目的に実施しました。 (図)西条古墳群周辺図 平成27年12月 加古川市教育委員会 ----------------------------------------- 前話などで、古墳の墳丘上もしくはその近くに神社や祠が付き物であるという<説>を唱えた。 前日、瓢塚古墳や丁(よろ)古墳群の近くで、下太田廃寺があった。 そして、ここ、西条古墳群の近くには、西条廃寺があった。 以前から思っていることであるが、古墳が築造されてから、古代寺院が建立されるまでには長い時間の経過はあるものの、古墳を築造し、被葬された豪族と、同じ地で氏寺を建立した豪族は全くの無関係でないのではないかと、改めて思うのであった。 つづいて、尼塚古墳へ向かう。 フォト:2019年5月8日 (つづく)
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| 2019-05-12 23:16
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2019年 05月 12日
5月8日(水曜)、晴れ。 加古川市内の古墳探訪。 関西の盟友、六々守さんと共に。 城山(じょやま)に上り、高みから加古川や、先刻、訪ねた宮山大塚古墳などがある丘陵を眺望。 続いて、城山から南へ走り、次の探訪先、西条廃寺跡へ。 国分寺跡・国分尼寺跡、そして、それ以前の古代寺院の探訪も趣味としており、西条廃寺跡もその一環で今回の旅のプランに織り込んだのであった。 西条廃寺に至る。 大手毬が白い大きな花を咲かせている。 その花を添えて、もう1枚。 伽藍配置が復元基壇で再現されている。 中門跡。 中門跡の右手に、先刻の宮山農村公園や城山にも設けられていた「わままち加古川60選」が目に留まる。 ----------------------------------- わがまち加古川60選 西条古墳群・西条廃寺 国指定史跡の西条古墳群は前方後円墳の行者塚古墳、円墳の尼塚古墳、ホタテ貝式古墳の人塚古墳と3基の古墳で構成されています。 人塚古墳に隣接する西条廃寺は、奈良時代前期の壮大なもので、法隆寺式伽藍配置の市内最大の寺院跡です。 出土遺物の九輪・風鐸は復元されて加古川総合文化センターで展示されています。 古代ロマンを感じる空間です。 ----------------------------------- 歩を進める。 右手に金堂跡、左手に塔跡、奥に講堂跡の復元基壇が見て取れる。 -------------------------------------------- 塔跡 塔の基壇(建物の基礎)は、一辺11m、高さ1.2mあり、その上に三重塔が作られていました。 基壇の外側は瓦でおおわれていますが、これを瓦積基壇といいます。 基壇の中央には四角形の塔心礎があり、塔の中心の柱を支えていました。 復元された基壇は、創建当時の基壇を保護するため、ひとまわり大きくし、南面と西面には飛鳥・奈良時代(7~8世紀)の瓦をそのまま使って、瓦積基壇を再現しています。 ---------------------------------------------- 「南面と西面には飛鳥・奈良時代(7~8世紀)の瓦をそのまま使って、瓦積基壇を再現しています」とある。 他所ではコンクリートで復元した基壇を見たこともあり、古代瓦をそのまま使っての復元に、加古川市の遺跡保存の姿勢がよく現れているように思えた。 塔跡の基壇に上がってみる。 遺跡保存に対する加古川市の姿勢がよいと上述で褒めたのであったが、基壇上の草むしりくらいはやって欲しいとも思うのであった。 --------------------------------------------- 金堂跡 金堂は、東西7m、南北14.8m、高さ0.9m の規模で、塔と同じように瓦積基壇により建物の基礎が作られていました。 建物の柱を支えて礎石は残っていませんでした。 基壇は、創建当時の基壇を保護するため、ひとまわり大きくして、現代の材料を使って復元しています。 --------------------------------------------- 講堂跡。 --------------------------------------------- 講堂跡 講堂は、建物の基礎は残っていませんでしたが、屋根の雨水が流れる溝が発掘調査でみつかりました。 そのことから考えると、講堂の規模は、東西26.3m、南北15.6mで、高さは0.8mとなります。 講堂も塔・金堂と同じ瓦積基壇で作られていたと考えられます。 基壇は、土盛りと芝張りによって復元しています。 --------------------------------------------- 講堂跡を南東側から眺める。 伽藍配置図をアップで。 西条廃寺は塔が金堂の西側に位置しているが、東に位置している古代寺院もある。 2016年の秋、姫路城近くの兵庫県立歴史博物館で、県内の幾つかの古代寺院から出土した瓦を見学した。 その際、西条廃寺で出土した瓦を見たことがある。 そのときのことを兄弟ブログ「上総守が行く!(二代目)」、2016年10月25日付け「播磨国史跡巡り/兵庫県立歴史博物館」の項で綴っている。 その抜粋をここに掲載しておこう。 ===quote=== これらは、国分寺以前の、7世紀、白鳳時代の古代寺院の瓦。 後列、右/繁昌廃寺軒丸瓦・軒平瓦 後列、央/溝口廃寺軒丸瓦 後列、左/西条廃寺軒丸瓦 (中略) 後列、左/西条廃寺軒丸瓦をアップで。 ---------------------------------- 西条廃寺軒丸瓦7世紀(白鳳時代) 加古川市 西条廃寺跡 福原会下山人コレクション ---------------------------------- ===unquote=== 冒頭の「わがまち加古川60選/西条廃寺」で「出土遺物の九輪・風鐸は復元されて加古川総合文化センターで展示されています」とあった。 加古川総合文化センターは、この日、最後の立ち寄り先としている。 そのときに、西条廃寺の出土遺物を見学してみたい。 ということではあるが、詳細は後ほど綴る加古川総合文化センターの項でのこととして、その一部を先にここに<公開>しておこう。 話が反れてしまった。 県立歴史博物館や加古川市立総合文化センター展示の西条廃寺出土遺物の話題から、この日の古墳探訪ポタリングに話を戻そう。 西条廃寺の見学を終え、その西に位置する西条古墳群/人塚古墳へと進む。 フォト:2019年5月8日 (つづく)
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by ryujincho
| 2019-05-12 23:15
| 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部
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2019年 05月 12日
5月8日(水曜)、晴れ。 加古川市内の古墳探訪。 関西の盟友、六々守さんと共に。 先ず、宮山農村公園内の宮山大塚古墳&宮山1号墳~6号墳を探訪。 古墳近くの上中西八幡神社に参拝。 西へ走り、次の探訪先、城山へ。 今回の旅をプランしている最中、地図を眺めていたところ、「城山」なるものが目に入った。 調べてみると、眺望が素晴らしいとのことで、コースに織り込んだのであった。 城山の上り口に至る。 --------------------------------------- わがまち加古川60選 西条の城山(じょやま) 加古川左岸に位置する標高85mのこの山は、中世に豪族の赤松則村が西条城を築いたと言われています。 急な登山道を登り切れば、頂上から加古川の流れや遠く明石海峡大橋を一望することが出来ます。 --------------------------------------- 先ほどの探訪先は「宮山」と書いて「みややま」と思いきや、読みは「みやま」。 今度は「城山」と書いて「しろやま」もしくは「きやま」と思いきや、読みは「じょやま」。 地名の読みはなかなか難しい。 上り口に jitensha を止め、上り始める。 岩がゴロゴロ。 あと、どれくらいで頂上であろうか。 頂上が見えて来た。 木立が形作る円形に向こうに光が見えるという風景。 何処かで、そういう風景写真を見たことがあるなあと、ふと、思う。 記憶を辿ると、それは、ユージン・スミスの『楽園への歩み』であった。 山頂に至る。 山頂に鎮座する愛宕神社。 所在地 兵庫県加古川市八幡町中西条字城山931 主祭神 軻遇都突智神(かぐつちのかみ) 軻遇都突智神は火の神である。北側の眺望。 加古川の眺望が素晴らしい。 上って来た甲斐があった。 加古川は、丹波市の北西の粟鹿山(標高962m)を源流とし、本流96kmを経て、播磨灘に注ぐ。加古川は馴染みのある川だが、こうして高台から眺めるのは初めてである。 東側の眺望。 正面の小さな丘陵が、先ほど、訪ねた宮山農村公園(宮山大塚古墳、宮山1号~6号墳)である。 明石海峡大橋が見えるかと、更に、右方向に目を遣る。 残念ながら、木立の遮られ、南東側、南側の景色は見えない。 --------------------------------------- 西条の城山 標高85mの城山は、赤松則村(円心)(1277-1350)の城館跡と伝えられていることから、西条城跡の遺跡となっています。 江戸時代中期の地誌である『播磨鑑』には、中西条村から東へ2丁(約218m)の場所にあり、長さ140間(約265m)、横幅100間(約182m)、高さ84間(約153m)と記されています。 また、この城山には、建武3年(1336)に建立された紫鳳山法雲禅寺という寺院がありましたが、江戸時代には廃寺となったことが記されています。 平成26年3月 加古川市教育委員会 --------------------------------------- 城山からの眺望を満喫し、下山。 ゴロゴロした石や落ち葉の積もった坂道を、滑って転んで尻もちをつかないよう、慎重に下る。 無事、下山し、次の探訪先、西条廃寺へ向かう。 フォト:2019年5月8日 (つづく)
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by ryujincho
| 2019-05-12 23:14
| 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部
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