2019年 05月 12日
5月8日(水曜)、晴れ。 加古川市内の古墳探訪。 関西の盟友、六々守さんと共に。 日岡山古墳群。 日岡陵古墳、続いて、西大塚古墳を探訪。 右手に西大塚古墳の崩れた墳丘を眺めながら南に歩を進める。 説明板が現れた。 南大塚古墳で間違いはなかった。 ------------------------------------ 南大塚古墳 この古墳は、古墳時代前期の前方後円墳で、王塚とも呼ばれていました。 周濠は、明治時代の耕地整理のときに畑にされていましたが、調査の結果、底には一面の栗石が敷いてあることがわかりました。 前方部は昭和20年以降に土取りがされて崩れていたのを復旧したものです。 古墳の大きさ 全長 約90m 後円部 径約57m 前方部 長さ約33m (図)南大塚古墳平面図 昭和60年3月 加古川市教育委員会 ------------------------------------ 墳丘の南側へ回り込む。 前方部南端の墳丘裾で法要が行われている。 先ほど、西条古墳群のひとつ、尼塚古墳の墳頂に「南無妙法蓮華経」と刻まれた宝塔があったので、「墳頂に日蓮宗の宝塔あり」と六々守さんに告げたところ、「あとで訪ねる日岡の南大塚古墳には日蓮宗の霊場があり、お経を唱えている光景を時々見掛けることあり」とのことであった。 まさに、その場に行き合わせたのであった。 お邪魔になってはいけないので、離れたところからズームアップ! 「日蓮宗霊場 寶塔寺」と大書された下に「1000m 御参拝順路 →」とある。 グーグルマップを参照すると、確かに約1000m東に宝塔寺(加古川市神野町石守)が所在している。 前方部の東側へ回り込む。 南側へ移動し、前方部南端を遠望。 つづいて、プランでは、北大塚古墳と勅使塚古墳の探訪となっている。 バードウォッチングなどで幾度も当地を訪れているジモティーの六々守さんではあるが、北大塚古墳と勅使塚古墳の場所は知らないとのことである。 スマホで検索するも、よく分からない。 南大塚古墳の西隣りに、日岡山公園管理事務所がある。 古墳に関わるマップがあるかもしれないと思い、立ち寄ってみる。 フォト:2019年5月8日 (つづく)
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by ryujincho
| 2019-05-12 23:23
| 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部
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2019年 05月 12日
5月8日(水曜)、晴れ。 加古川市内の古墳探訪。 関西の盟友、六々守さんと共に。 日岡山古墳群。 先ず、日岡陵古墳を探訪。 続いて、西大塚古墳へ。 野球場の南側に、西大塚古墳が現れた。 西大塚古墳。 北側から見通す。 --------------------------------------- 西大塚古墳 古墳の規模は、全長約74m、後円部の直径約40m、同高さ約3.5m、前方部の高さ約1.5mの前方後円墳です。 周囲には、幅10mから15mの濠が周っていたと思われます。 墳丘の南側は土取りにより大きく破壊されています。 埋葬施設については、よく分かっていません。 また、周濠からは円筒埴輪の破片が採集されています。 周囲の古墳との関係から、4世紀頃に築かれた古墳と考えられます。 平成16年3月 加古川市教育委員会 --------------------------------------- 北側の野球場。 墳丘の東側を南へ進む。 更に進み、振り返り、墳丘を眺める。 説明板にあった「墳丘の南側は土取りで大きく破壊されている」ということが見て取れる。 西大塚古墳の位置と形(前方後円墳)を、後刻、公園管理事務所でゲットした資料「日岡山周辺の文化財」の古墳分布図と測量図で確認しておきたい。 西大塚古墳は図の中央(北側の白い部分が野球場)。 西大塚古墳測量図。 西大塚古墳は、南西・北東方向(南西:前方部、北東:後円部)に主軸を置く前方後円墳。 右手に西大塚古墳の崩れた墳丘を眺めながら南に歩を進める。 すると、左手に、南大塚古墳と思しき墳丘が見えて来た。
フォト:2019年5月8日 (つづく) #
by ryujincho
| 2019-05-12 23:22
| 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部
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2019年 05月 12日
5月8日(水曜)、晴れ。 加古川市内の古墳探訪。 関西の盟友、六々守さんと共に。 稲根神社とその裏にある神野二塚古墳から南西に走り、日岡山公園へ。 日岡山公園は、一帯に日岡山古墳群と呼ばれる、日岡御陵古墳をはじめとして5基の前方後円墳と幾つかの円墳が分布している。 また、広大な敷地には、スポーツセンターやグラウンド、野球場、プール、武道館などがある。 日岡山公園に到着。 探訪プランは、日岡古墳群の前方後円墳5基。 □ 日岡陵古墳 (日岡陵(ひおかのみささぎ)、景行天皇皇后 稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)の陵墓とされる) □ 西大塚古墳 □ 南大塚古墳 □ 北大塚古墳 △ 勅使塚古墳・・・※結果、未達。 先ず、日岡陵古墳へ。 丘陵の坂道を上る。 ------------------------------------- 日岡御陵 日岡山公園内にある大きな前方後円墳が、日岡御陵です。 景行天皇の后、稲日大郎媛のお墓だといわれています。 皇后が亡くなられた時、日岡山に葬るため遺体を乗せて印南川(加古川)を渡っていた時、大きなつむじ風が吹いて船は転覆しました。 後に「ひれ」と「くしげ」だけが見つかり、これを葬ったので「ひれ墓」とも呼ばれています。 眺望がすばらしく、秋になれば日岡神社への参道には萩の花が咲き誇ります。 ------------------------------------- 「日岡陵 宮内庁」の立札。 古墳名「日岡陵古墳」。 別名「日岡御陵」、「褶(ひれ)墓」。 宮内庁治定「日岡陵(ひおかのみささぎ)」。 説明板に目を通す。 --------------------------------------- 日岡御陵(ひれ墓) この御陵は、明治16年4月14日、姫路総社の神主庭山武正の考証に基づき、宮内庁において第12代景行天皇のお后稲日太郎姫(いなびのおおいらつめ)陵と決定されたものである。 稲日太郎姫(播磨風土記では印南別嬢(いなみのわきいらつめ))は、若建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)の娘で、景行天皇がはるばる大和から妻どいされ、皇后になられた。 その後、年を経て稲日太郎姫は亡くなられ、葬送の儀がとりおこなわれた時、遺体を天の鳥舟に安置して印南川(加古川)で渡御の儀式が行われた。 この時,河は増水して濁流が渦巻き、更に大風が起って、天の鳥舟は姫の遺体と共に濁流に呑まれてしまった。 その後、必死に遺体の行方を求めたが、遂にわからず、ただ、匣(くしげ)と褶(ひれ)だけが見つかり、これを墓に葬ったと伝えられており、“ひれ墓”とも呼ばれている。 なお、この御陵は古墳時代前期の前方後円墳であるが詳細は不明である。 平成2年6月 加古川市教育委員会 --------------------------------------- 「姫路総社の神主庭山武正の考証に基づき」とある。 2016年の秋、国府跡、国分寺跡・国分尼寺跡、総社探訪の一環で、播磨国総社である射楯兵主神社(姫路市)を訪ねたことがある。 庭山武正なる人物は初めて目にする名前である。調べたところ、姫路藩の国学者で、後に射楯兵主神社社司となった人物である。 「稲日大郎媛」、「稲日太郎姫」の表記について。 冒頭の「ふるさと加古川60選」では「稲日大郎媛」となっている。 上述の説明板では「稲日太郎姫」となっている。 「大」と「太」、「媛」と「姫」の違い、細かい違いところが気になる性格なので調べてみたところ、いずれの表記もあり、どちらかというと「大」、「姫」が多いように思われる。< 匣(くしげ)と褶(ひれ)について。 「匣(くしげ)」とは、櫛などの化粧道具を入れる箱。櫛箱。 「褶」は、上述の説明板では「ひれ」と仮名が付されている。 「褶」を調べると、読みは「しびら」、衣服の上から腰につける簡略な裳(も)の意。 「ひれ」は「領巾・肩巾」、上代、主に女性が首から肩に掛けて長く垂らした白い布の意。 ここでは、白い布の「ひれ」と意と理解したい。 歩を進める。 突き当りを右に曲がると陵墓が現れた。 日岡陵礼拝所の前に立ち、三日後、奈良・山の辺の道での古墳探訪の中で景行天皇陵を訪ねることとしている旨、后に伝えた(勿論、心の中で)。 「稲日大郎媛」、「稲日太郎姫」の表記について上述したが、この石柱には「稲日大郎姫」と刻まれており、本ブログでは「大」、「姫」を採用することにする。 古墳の概要に関する説明板は見当たらないので、ウィキペディアの抜粋をここにしておきたい。 ---------------------------------- 日岡陵古墳 ・築造年代は古墳時代前期の4世紀代と推定され、日岡山古墳群のうちでは最古とされる。 ・被葬者は考古学的には明らかでないが、『播磨国風土記』では景行天皇妃の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の「褶墓(ひれはか)」に関する伝承が見えることから、現在では宮内庁により、景行天皇皇后、播磨稲日大郎姫の陵に治定されている。 ・日岡山古墳群の前方後円墳はいずれも加古川左岸の平野の方向に前方部を向けることから、その平野を支配した首長の墓と推定されている(筆者注:これまでにベンキョーした中で、前方後円墳の向きには特段の法則性はないが、血縁の近い被葬者の前方後円墳は同じ向きに築造されている事例もある、ということであった)。 ・古墳群からは他地域と同笵の三角縁神獣鏡の出土も知られ、畿内のヤマト王権勢力との密接な関係が指摘される。 ・古墳の規模 墳丘長:約80m 後円部直径:約45m、高さ:約7.5m 前方部幅:約33m、高さ:約5m くびれ部高さ:約4m ------------------------------------------ 日岡陵古墳の周辺は木々に覆われいる。 グーグル・マップで上空からの様子を見てみると、一帯は見事なくらいに広く森に覆われている。 その中に、南西・北東方向(南西:前方部、北東:後円部)に主軸を置く前方後円墳であることが見て取れる。 墳丘の裾周辺の木々は取り払われ、空き地と思しき細い線が前方後円墳の形を描いている。 そこは周濠跡と思えるが、水が溜まっている様子は窺えない。 来た道を戻る。 丘陵からの下り坂をカメラに収める。 つづいて、西大塚古墳へ向かう。 フォト:2019年5月8日 (つづく)
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by ryujincho
| 2019-05-12 23:21
| 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部
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2019年 05月 12日
5月8日(水曜)、晴れ。 加古川市内の古墳探訪。 関西の盟友、六々守さんと共に。 四つの造り出しを有する武者塚古墳を30分少々を掛けて見分。 大満足のうちに、次の探訪先、稲根神社裏の神野二塚古墳へ。 西に向かって暫く走ると、右手に<こんもり>が見えて来た。 一般道を外れ、<こんもり>に向かって路地に入る。 暫く走ると、稲根神社が現れた。 参拝。 「奉祝 天皇陛下御即位 令和 新しい御代をお祝いしましょう」と染め抜かれた幟旗。 5月4日、皇居一般参賀に馳せ参じましたよ、と幟旗に語り掛ける(勿論、心の中で)。 扁額コレクション。 社殿の脇から墳丘を見通す。 社殿とその裏に位置する墳丘を眺める。 事前の調べでは、二塚古墳にはふたつの石室があるとのこと。 それを見分したいところではあるが、先ほど、行者塚古墳で時間を費やしたことでもあり、六々守さんに何度も待って貰うのは申し訳ないし、後行程のことも考えて、神社脇から墳丘を眺めるだけに留めた。 -------------------------------------------- 稲根神社略記 一、由緒 太古、人々が食べ物を失ったとき、倉稲魂神がこれを憐れみ給い、高天原より稲穂を下されました。 このうち、三粒が神納郷高田別所の谷に落下して実り、やがて世の中に稲穂が満ち溢れるようになりました。 この御神恩に感謝して皇徳天皇の御代の白雉年間(約千三百年前)に此処を社地と定めて創始されました。 以来、稲根大明神と称え、天下撫育の宗社と崇められてきました。 二、御祭神 うかのみたまのかみ 主神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)をお祀りしています。 食物の守護神であると共に人々の命の源、健康をお守りされる神様であります。 相殿には猿田彦、菅原道眞公が配祀されています。 家内安全、交通安全と芸事上達、学業成就を守護される神様です。 三、祭日 例祭 十月九、十日 獅子舞、芸上奉納その他の神事 夏祭 七月十四、十五日 湯立神事 新年祭 祈年祭、新嘗祭、祖霊祭、月次祭等 四、境内・遺跡 境内地約六千平方米、四社の境内社には本社に関係のある神様がお祀りされています。 社殿後方の宮山には二基の古墳があり、文化財遺跡に指定されています。 又、この宮山から発掘された経筒は貴重な遺物として、歴史学会にもよく知られ、社宝として保存されています。 -------------------------------------------- 略記の第四項に「社殿後方の宮山に二基の古墳があり、文化財遺跡に指定されています」とある。 事前調べの際に参照した或る資料に「2つの石室を持つ前方後円墳ですが、最近まで2基の古墳と思われていました」とあった。 神野二塚古墳は前方後円墳なのである。 ・神野二塚古墳は、加古川市神野町神野の稲根神社裏山にある。 ・2つの石室を持つ前方後円墳だが、最近まで2基の古墳と思われていた。 ・神社寄りの後円部石室は奥壁が開口しており、全長7.5m、玄室長3.5m、幅2m、高さ2m以上の規模で、右片袖式。 ・前方部石室は全長約9m、玄室長3.6m、幅1.65m、高さ1.95m、羨道幅1.24m、高さ0.8mの規模で、右片袖式。 本ブログを綴るに際し、更に、神野二塚古墳について調べてみようとネット検索したところ、興味深い記事にヒットした。 ---------------------------------------- 明治9年に、加古郡手末村と二塚村が合併して神野村となった。 その旧・二塚村に稲根神社がある。 曇川の河口に近い。 稲根神社は、古代にさかのぼる神社のようである。 神社の裏に、二つの後期古墳がある。 旧・二塚村もこの古墳から名づけられている。 郷土史家の石見完次氏は『東播磨の民俗』で、稲根神社について、次のように語っておられる。 「・・・その塚(二塚古墳)に葬られていた豪族が、実は水と平地を求めて神野の里に来て、最初にこの地に稲を作った部族の長であると考えられ、そしてその有難い稲の御魂を祭ったのが稲根神社であると考えられる・・・」と。 また、稲根神社の由来は次のようである。 太古、人々が食べ物を失ったとき、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)がこれを憐れみ、高天原から稲穂を降らせた。 そのとき、この地に三粒が落下して、これが実って、世の中に米が満つようになった。 本来、神社の由来と言うものは、怪しげなものが多く検証が必要である。 しかし、稲根神社の由来は、二塚古墳・曇川・稲作、そして、なによりも神社の名前(稲根)をつなげてみると一考に価する。 ------------------------------------------- 後に前方後円墳であることが判明したが、長らく、二つの古墳と考えれらており、「二塚」の名が生まれ、村の名の由来にもなったとのこと。 由来好きの小生にとっては誠に興味深い記事となったのであった。 墳丘上に社や祠がある、或いは、墳丘の脇に神社があるという事例をしばしば目にすることから、時代は異なるが、古墳と神社のワンセット説が小生の持論である。 二塚古墳と稲根神社、この関係説を知り、大満足! 次の探訪地、日岡古墳群へ向かう。 途中、曇川に架かる高橋を通過する。 曇川は加古川の支流、西に流れる加古川と合流する。 フォト:2019年5月8日 (つづく)
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by ryujincho
| 2019-05-12 23:20
| 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部
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2019年 05月 12日
5月8日(水曜)、晴れ。 加古川市内の古墳探訪。関西の盟友、六々守さんと共に。 西条古墳群/武者塚古墳。 東側くびれ部付近の「東造り出し」、後円部北東裾の「北東造り出し」を見分。 続いて、墳丘北縁を回り込み、西側へ。 説明板に目を通す。 --------------------------------------- 北西造り出し この造り出しは、平成7年度に部分的な発掘調査が行われました。 大きさは裾周りで、長さ11.5m、幅9m、高さ約1mの台形の高まりです。 斜面の葺石は西側部分が特によく残っていました。 一番下には基底石と呼ぶ大振りの凝灰岩を据え、その上に小振りの凝灰岩や河原石を葺いていました。 造り出し上部の平坦部には、方形に埴輪列がめぐらされていました。 その他には、斜面から小型の壺や高杯、刺突文のある土器が出土しました。 部分的な調査であることから、全容はわかりませんが、西造り出しのマツリと似た、土器を使用したマツリが行われていたのではないかと推測されています。 (写真) ・北西造り出し調査写真 ・北西造り出しの葺石 ・刺突文のある土器 --------------------------------------- 北西造り出し調査写真、北西造り出しの葺石、刺突文のある土器。 北西造り出し調査写真。
刺突文のある土器。 西造り出し。 ------------------------------------- 西造り出し この造り出しは、平成7年度に発掘調査が行われました。 大きさは裾周りで、北側9m、南側9m、西側12,4mのいびつな台形です。 斜面には主に凝灰岩が葺石として使われています。 造り出し上部の平坦部には、円筒埴輪列が方形に立て並べられていました。 東側の埴輪列には食い違い部分があり、入り口のような状態になっていました。 また、壺形埴輪も多く出土していることから、ここでは、円筒埴輪の上に壺形埴輪をのせていた可能性があります。 方形埴輪列の区画内には家形埴輪が出土しました。 また、この西側には魚や鳥、アケビ状、ヒシの実、切り身状など食べ物を模した土製品と壺、高杯、笊形(ざるがた)土器などが出土しました。 土製品は、高杯や笊形土器になどにいれられたお供え物だったと考えられます。 また、後円部との間の谷部から囲形埴輪が出土しました。 (写真、図) ・西造り出し調査区 ・西造り出しイメージ図 ・各種土製品 ・円筒埴輪・壺形埴輪 ------------------------------------- 西造り出し調査区、西造り出しイメージ図、各種土製品、円筒埴輪・壺形埴輪。 西造り出し調査区。 各種土製品。 南西から眺める。 説明文に「東側の埴輪列には食い違い部分があり、入り口のような状態になっていました」とある。 その個所を眺めてみる。 確かに、L字型に埴輪が並べられており、入り口のような状態であることが見て取れる。 墳頂近くから西造り出しを見下ろす。 墳丘上に至る。 前方部中程から後円部を見通す。 前方部中程から後円部に歩を進める。 後円部墳頂。 小学生諸君と共に、解説の途中からではあったが、学芸員さんの解説に耳を傾ける。 説明が終わり、一団は墳丘を下り、去って行った。 ------------------------------------- 墳頂部 ここは、後円部の墳頂です。 平成7年度の発掘調査では、ここから、鰭付円筒埴輪列が発見されました。 埴輪列は部分的にしか残っていませんでしたが、本来は方形に墳頂部を囲んでいたと考えられます。 その他にも、家形、甲冑形、盾形などの形象埴輪の破片が出土しています。 死んだ人を葬った埋葬施設は粘土槨で、墓壙(ぼこう、墓穴)は長さ10m、幅7mありました。 調査では、棺の深さまでは掘り下げませんでした。 しかし、上から約50cm掘り下げると、2ヶ所から貴重な副葬品がまとまって出土しました。 これは木箱に入れられたような状況で出土したことから、西副葬品箱と中央副葬品箱と呼ばれています。 西副葬品箱からは鉄製品や青銅製品が折り重なって出土しました。 主な出土品は、穂摘具(ほつみぐ)85、鉄鋌40の他、鎌、錐、刀子、鉄床(かなどこ)、石突状鉄製品、鋸、鍑(ふく)、刀、剣、矛、鏃、巴形銅器などが出土しました。 中央副葬品箱からは大変珍しい金銅製虎文帯先金具と鉸具(かこ)、銙(か)、筒状青銅製品や轡、鋳造鉄斧などが出土しました。 これらの副葬品は加古川総合文化センターに展示されています。 (写真) ・西副葬品箱 ・中央副葬品箱 ・中央副葬品箱出土帯金具 ------------------------------------- 数多の副葬品が出土している。 これまでに各地の博物館や資料館で副葬品を見学しており、殆どの副葬品は承知しているつもりではあるが、ここでの出土品は名称だけではイメージ出来ないものも幾つかある。 ということで、それらについて調べてみた。 ・穂摘具(ほつみぐ):弥生時代の石製、木製があるが、古墳時代の副葬品としての穂摘具とは? ・鉄鋌(てつてい):朝鮮半島で製作された鉄素材、あるいは、権威を示す宝物など諸説ある。 ・鍑(ふく):容器の一種。首がくびれ、腹が張り出し、底が丸い釜形をなす。・鉸具(かこ):革帯の端につけられた金具。馬に乗るときの鐙やバンドの尾錠(バックル)。 ・銙(か):腰帯(ようたい)であり、革帯(かくたい)の一種。黒漆塗りの革の帯の表面に「銙」と呼ぶ金、銀、銅または玉石、石などの飾りの座を配置したもの。「銙」の材質によって金帯、銀帯、玉帯、石帯などともいう。 西副葬品箱、中央副葬品箱、中央副葬品箱出土帯金具。 墳丘を下ると、先ほど、最初に見分した東造り出しの脇に出た。 先ほど、小学生諸君に解説していた学芸員さんが立っていた。 「ご苦労さまでした。子供さんたちは?」。 「次の見学場所へ」。 「一緒に行かれないんですか」。 「もう一組、行者塚古墳見学組の子供たちが到着するので、それを待っているところです」。 しばし、学芸員さんと古墳談義。 次の小学生諸君の一団が現れたので、GGは退散した。 行者塚古墳の入り口まで戻る。 前方後円墳は、前方部・後円部の墳丘の周囲および墳頂を見分せねばならず、円墳や方墳に比べ、見分に時間を要する。 加えて、行者塚古墳には四つの造り出しがあり、これの見分も加わると更に時間を要した。 見分を開始してから、彼是、30分少々が経過していた(カメラ・データによる)。 「お待たせ!中身の濃い古墳やったんで、時間が掛かって」と六々守さんに声を掛け、次の探訪先、稲根神社裏の神野二塚古墳へと向かう。 フォト:2019年5月8日 (つづく) #
by ryujincho
| 2019-05-12 23:19
| 播磨国・大和国古墳探訪2019/播磨の部
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