龍人鳥の徒然フォト日記

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2017年 11月 26日

『モズの目』

モズ。
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捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む「モズの速贄(はやにえ)」という言葉がある。
その言葉からすると、モズは獰猛な鳥のような感じがする。
しかし、モズの目は意外と優しそうに見える。
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フォト:2017年11月26日、手賀沼北岸にて
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# by ryujincho | 2017-11-26 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 25日

『旧井上家土蔵SPレコードコンサート』

11月25日、晴れ。
布佐の旧井上家住宅の土蔵でSPレコードコンサートが開かれるというので、手賀沼CR、手賀川CRを走り、布佐へ。
この時期にしては珍しく、東の風で向かい風。

旧井上家住宅。
表門。
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主屋。
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主屋内部。
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井上家は、江戸時代前期から江戸尾張町(現:銀座)で食料雑貨商「近江屋」を営んでいたが、4代目の井上佐次兵衛の代に「享保の改革」の一環として実施された手賀沼の干拓事業に参入すべく、利根川舟運の主要な港町、布佐郊外に移り住み、相島新田を開いた豪農である。

SPレコードコンサート会場の、新土蔵。
新土蔵は昭和期に建てられたもの。
隣の保存整備工事中の建物は江戸末期に建てられた土蔵。
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「土蔵でSPレコードコンサート」。
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銘板”Brunswick”。
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ブランズウィック社は、もともと、ビリヤード台やボーリング場の製造と設備、高級家具の製造で知られたアメリカ最大手の木工メーカー。
同社による蓄音機の製造は1916年に始まり、後発のメーカーながらもエジソン社の蓄音機のケースを製作していた強みを生かし、ビクター社と並ぶ程の蓄音機メーカーに成長したという。
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竹針。
右下の針はサボテン針のようだ。
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レコード針を眺めながら思い出すのは幼き頃のこと。
小学校の低学年の頃までは、SPレコードであった。
針は、竹針やサボテン針ではなく、鉄針を使っていた。
親から言われたことは、「2回、掛けたら、針は換えるんだよ」であった。
数あるSPレコードの中で、お気に入りはロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」であった。
裁縫用の長い物差しを腰に差し、首に巻いた風呂敷をはためかせながら、曲に合わせ、部屋の中を走り回っていた。
当時は、走り回れるほどの、結構大きな家に住んでいたのであった。
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プログラム。
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エンリコ・カルーソー(1873-1921)/伊テノール歌手、ナポリ民謡「オーソレ・ミオ」
アメリータ・カルクルチ(1882-1863)/伊コロラトーラ・ソプラノ歌手、アダン「きらきら星変奏曲」
フォオドール・シャリアピン(1873-1938)/露バス歌手、ロシア民謡「ステンカ・ラージン」
リリー・ポンズ(1904-1976)/仏コロラトーラ・ソプラノ歌手、アリアビエフ「ナイチンゲール」
イポリカ・ツィツェル(1906-1971)/洪バイオリニスト、ポリアキン「カナリア」、プラーガ「天使のせれなーで」
パブロ・カザルス(1876-1973)/西チェリスト、バッハ「G線上のアリア」、バッハ「アンダンテ」
エディット・ピアフ(1915-1963)/仏シャンソン歌手、「ばら色の人生」
小唄勝太郎(1904-1974)/端唄「都々逸」

我々の世代でも馴染みのある演奏家が幾人かいる。
カルーソーは、オペラ史上、最も有名なテノール歌手の一人として、我々の世代でもその名を知っている。
シャリアピンは、来日時に帝国ホテルで所望し、調理された「シャリアピン・ステーキ」でも名を残している。
20世紀最大のチェリスト、パブロ・カザルスが1961年、ケネディ大統領に招かれ、ホワイトハウスで世界平和を願い、演奏したカタロニア民謡「鳥の歌」のCDは今も愛聴している。
エディット・ピアフが歌う「ばら色の人生」、シャンソンにはSPレコードの音がよく似合う。
アンコールはイブ・モンタンが歌う「枯れ葉」、名曲である。

SPレコードからLPレコードへ、そして、CDへ。
LPレコードとCDは、しばらく併用していたが、1990年代半ば、遂に、メモリアルな数枚を残し、泣きの涙で、数百枚のLPレコードを処分した。
以来、ずっとCDで音楽を楽しんでいる。
近年、ダウンロードとか、イヤフォンで聴くとかで、音楽を聴くということが随分とお手軽になってしまった感がある。
今日、こうしてSPレコードの音に触れ、昔の人が苦労して開発したアナログレコードの功績に思いを馳せ、また、今も蓄音機とSPレコードを大事にしながら、その音色を楽しんでいる人たちに敬意を表したい。
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手賀川CR、手賀沼CRを走り、帰途に。
往路、向かい風であった東風は、帰路は追い風に。
11月下旬の夕方3時過ぎともなれば、陽も落ち掛けて寒い。
だが、SPレコードコンサードの司会者さんの言葉を思い出し、寒さに負けず、しっかりとペダルを踏むのであった。
その司会者さんの言葉は、「土蔵の中は寒いですが、SPレコードの音は暖かいです」であった。

フォト:2017年11月25日
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# by ryujincho | 2017-11-25 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 21日

『下総国史跡めぐり/相馬郡衙正倉跡』

11月21日、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと、平将門伝説の地である、日秀将門神社、将門の井戸、観音寺の日秀観音と首曲がり地蔵を訪ねた。

日秀観音寺の首曲がり地蔵の脇にでいいものを<発見>した。
それは「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識であった。
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これまでに、武衛さんと国府跡・国分寺跡めぐりをして来たこともあって、国府跡(国衙跡、国庁跡)のみならず、郡衙についても大いに興味があった。
しかしながら、国府跡(国衙跡、国庁跡)のみならず、郡衙跡もめぐるとなれば、相当の労力が必要であり、これまでに訪ねた郡衙跡は上野国新田郡庁跡(群馬県太田市天良町)だけであった。
ここで、「相馬郡衙正倉跡」の標識に遭遇したことを首曲がり地蔵さんのお導きと感謝するのであった。

下総国について。
昨年5月、下総国の国府跡(推定地)と国分寺跡・国分尼寺跡を訪ねた。
そのときに、ベンキョーした下総国のことについてここでリピートしておきたい。
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律令制以前には、印波、千葉、下海上の国造が置かれていた。
律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11の郡(評)をもって令制国としての下総国とした(のちに豊田郡が加わる)。
国府は現在の市川市国府台付近に置かれ、国級は大国に位置づけられた。
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現在、この周辺で「相馬」の名を残しているのは、茨城県北相馬郡利根町のみである。
明治期、「相馬」は利根川を挟んで、北相馬郡と南相馬郡に分かれていたが、南相馬郡は東葛飾郡に編入され、消滅した。
因みに、徳川家康の利根川東遷事業による利根川の付け替え河川改修以前は、利根川は野田市関宿あたりから江戸へ流れ込んでいたので、「相馬」は大きな川に隔てられることなく、一体であった。
余談ながら、福島県の「相馬」は、中世、下総国相馬郡で起こった有力武士、相馬氏が同地へ移り住んだことに由来する。

さて、日秀観音寺の首曲がり地蔵の脇の標識、「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識にまで話を戻す。

郡衙跡にも興味のある武衛さんと小生は、この標識を<発見>し、首曲がり地蔵さんのお導きと大いに喜んだ。
標識の「↑ 700m」は南へ700メートルのことで、先ほど走って来た道だが、道沿いは「相馬郡衙正倉跡」の標識は見当たらなかった。
スマホを取り出し、「相馬郡衙正倉跡」を検索してみた。

千葉県教育委員会のホームページにヒットした。
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相馬郡衙正倉跡
所在地 我孫子市日秀字西60-6の一部ほか
概要
相馬郡衙正倉跡(日秀西(ひびりにし)遺跡)は、千葉県立湖北高等学校の建設に伴い発掘調査が行われ、その中心部分の様相が明らかになった遺跡である。
郡衙とは古代(奈良・平安時代)の郡の役所全体を指す名称で、正倉とは徴収した税である稲などを納めた倉庫群を指す名称である。
かつての相馬郡は現在の我孫子市、沼南町と柏市の一部、さらに利根川を挟んだ茨城県取手市、利根町、藤代町に相当すると考えられている。
(以下、省略)
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千葉県立湖北高等学校の建設に伴い、発掘調査されたとある。
県立湖北高校を目指せばよいということになるが、さて、高校は何処にあるのだろうか?
そう思ったとき、散歩中の婦人があらわれた。
「湖北高校への道順を教えていただきたいのですが」。
「湖北高校はなくなり、今は特別支援学校になっています。成田線の踏切を渡って、右へ行くと学校が見えて来ます」。

「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」の標識をよく見ると、その下に「県立湖北特別支援学校」と書かれている。
更によく見ると、「県立湖北高等学校」と書かれた上に新たに「特別支援学校」の紙が貼られているのであった。
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教えられた通り、踏切を渡り、右へ行く。
学校らしき建物が見えて来た。

正門脇の説明板/相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)。
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相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)。
古代の日本では行政区分として東北から九州が六十の国に、さらに国が複数の郡に分けられ、国の中心には国府、郡の中心には郡衙(郡家)という役所が置かれ、地域における支配を担っていました。
我孫子市周辺は下総国相馬郡とされてきましたが、中心となる相馬郡衙がどこにあるかは長らく謎のままでした。
昭和53年(1978年)、千葉県立湖北高校校舎建設に伴って(財)千葉県文化財センターによる日秀西遺跡発掘調査によって多数の遺構を確認しました。
1期(6~7世紀末)は竪穴建物188棟からなり、我孫子市内でも有数の古墳時代後期の大集落です。
2期(7世紀末~8世紀中頃)は竪穴建物を排除して掘立柱建物7棟が建てられ、3期(8世紀中頃~9世紀初頭)は東西120m、南北54mの広場を取り囲むように倉庫建築に用いられている総柱式掘立柱建物や礎石式基壇建物34棟が規格性をもって建てられています。
基壇建物の1つからはタガネで半分に割られて地鎮祭に用いられた和同開珎の銀銭が出土したほか、建物の基礎や周囲から大量の炭化米が出土しています。
4期(9世紀初頭~10世紀)は3期建物が火災で焼失した後、掘立柱建物9棟の小規模な区画で再建されたものです。
特に注目されるのは3期の建物で、広場を取り囲む規格性のある建物配置は当時の官衙(役所)遺跡に共通するものであり、相馬郡衙の中核的な施設である「正倉」であると考えられました。
郡衙正倉は、本来、税「租」として徴収した米(稲穀)を凶作時の備え、田植え時の種籾として貯蔵する施設で、在地支配の象徴的な存在でした。
また、3期建物が火災で焼失しているのは奈良時代の正史である『続日本紀』に記載されている神火事件(貯蔵米の不正使用発覚を恐れた郡衙役人による放火事件。各地の郡衙正倉遺跡で火災痕を確認)による可能性があります。
郡衙には正倉の他、郡庁、館(たち)、厨(くりや)、駅家(うまや)などの施設が付随し、郡司などの役人や郡内各地から集まった人々が居住する地域の政治・経済・文化の中心都市であったことが文献に記載され、我孫子市教育委員会が発掘調査を通じて全容の解明につとめています。
相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)は平成7年(1995年)、千葉県指定史跡となっています。
平成18年(2006年)3月
千葉県教育委員会
我孫子市教育委員会
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正倉復元想像図。
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日秀西遺跡、第1期~4期の建物配置。
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左上/第1期(6~7世紀末) 赤色:竪穴建物
右上/第2期(7世紀末~8世紀中頃) 破線:掘立柱建物
左下/第3期(8世紀中頃~9世紀初頭) 破線:総柱式掘立柱建物、黒色四角:礎石式基壇建物
右下/第4期(9世紀初頭~10世紀) 破線:総柱式掘立柱建物

校内には入れない。
学校の周辺をぐるっと回ってみる。
先ず、学校の東側の道を南へ向かい、南東地点から学校とその周辺を眺める。
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学校の東側から北の正門前を通り過ぎ、西側の道を南へ下り、台地の縁、里山の道を走る。
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先ほどの南東地点の台地の下に至る。
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ぐるっと回ったことで、この辺りに相馬郡衙正倉が設けられたことと地形の関係が分かるような気がした。

この辺りに鎌倉街道があるという。
台地の上に続く、鎌倉街道と思しき上り坂を眺める。
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鎌倉街道と思しき道を眺める。
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鎌倉街道は茨城県利根町でも訪ねたことがある。
今回の鎌倉街道がそれに続くものか、それとも別ルートなのかは今後の宿題。

将門伝説の地、我孫子市日秀をめぐり、偶然、「相馬郡衙正倉跡」の標識を見付け、相馬郡衙正倉跡をも尋ねることが出来た。
こうしたことがあるから、やっぱり、ポタリングは止められない。
ポタリングに感謝!である。

フォト:2017年11月21日
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# by ryujincho | 2017-11-21 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 21日

『平将門伝説の地を訪ねて/日秀将門神社、将門の井戸、日秀観音、首曲げ地蔵』

11月21日、晴れ。
平将門伝説の地、日秀将門神社、将門の井戸、日秀観音、首曲げ地蔵を訪ねた。

5ヶ月前、『坂東の豪族 平将門フォーラム』なるものが開催され、聴講。
フォーラムの項目は次のようなことであった。
1.「将門伝説を取材して」
2.地域からの報告「我が町と将門」/取手市、流山市、坂東市、我孫子市
3.「将門の生産力」/「馬」、「鉄」、「布」について

このフォーラムの内容をヒントに、将門伝説の地をポタリングしてみようと思いつつ、実行せぬまま、夏が過ぎ、秋も晩秋となった。
史跡めぐりの相棒、武衛さんは、諸般の事情で半年ばかり jitensha から遠ざかっていたので、彼の足慣らしも兼ねて、手賀沼CR+我孫子市内/平将門伝説の地めぐりポタリングをプランしたのであった。

手賀沼北岸CR、手賀川CRを走り、手賀川に架かる水道橋から北上。
坂道を上り切り、台地に出ると、この辺り一帯が将門伝説の地、日秀(ひびり)である。

地図によれば、将門神社は坂道を上り切った左手奥に鎮座している。
左手奥へと向かう。

日秀将門神社。
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鳥居、そして、奥に真新しい覆屋と祠。
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扁額。
読み取り難い扁額の文字に目を凝らす。
「平親王  将門大明神」と刻まれている。
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真新しい覆屋に施された家紋「丸に揚羽蝶」。
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当神社の由来。
天慶三年(940)、将門が戦没するや、その霊は遺臣等と共に手賀沼対岸から沼を騎馬で渡り、沼の畔の丘の上で日の出を拝したと伝えられている。
その伝説の地に霊を祀り、鎮守としたのが当神社の起こりであるという。

「日秀(ひびり)」の地名は、将門の霊が日の出を拝したからとも、また、その遺臣である日出弾正なる者がこの地に隠栖したことから、「日出(ひいで)村」と呼ばれるようになり、のちに「日出」が「日秀」に変化したといわれている。

日秀将門神社は、手賀川(新田埋め立て前は、手賀川流域も沼であった)を臨む台地のほぼ南端にあり、東向きに鎮座していることから、この地名の由来は成る程!と思うのであった。

この地には桔梗を植えても花が咲かないという桔梗不咲伝説があるという。
また、この地に住む人たちは桔梗を植えたりはしないという。
これは、愛妾、桔梗御前の裏切りによって将門が討たれたとの伝説によるものという。。
更に、この地に住む人たちは成田山には参詣しないという。
これは、将門調伏の祈祷を行った成田山を快しとしないことによるものという。
こうしたことは、「平将門フォーラム」での「我が町と将門」の中で、日秀のみならず、各地に共通する慣習でもあることを知った。

将門神社から「将門の井戸」へ行ってみることにした。

右奥の標識/将門神社、左手前の標識/将門の井戸。
標識「将門の井戸」の右手の下り道が先ほど上って来た坂。
標識「将門の井戸」の手前の細い坂道(写真には写っていない)を下る。
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細い坂道を下って行ったが、井戸らしきものは見当たらない。
ちょうど上手い具合に、立ち話をしている二人の婦人を見付けた。
「将門さんの井戸はどの辺りでしょうか?」。
今、下って来た細い坂道の方を指差し、「この先に電信柱が見えるでしょう。そこが井戸です」と。

将門の井戸。
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「将門の井戸」と書かれた札が脇の樹木に。
井戸らしきものはないが、「将門の井戸」と思しき窪みがあった。
二人連れの婦人に出会わなかったら、探し回っていたかもしれない。
感謝!である。

「将門の井戸」。
承平2年(932)、将門自らが掘り、近くの分城の軍用に供したのが、この井戸であるという。
また、将門が滅亡ののち、興世王(おきよおう)が逃れるときに、将門の守り本尊である観音像をこの井戸に隠し、姿をくらましたともいわれている。

将門の井戸から、再び、細い坂道を jitensha を押し、標識「将門の井戸」まて戻る。
そこから北進し、日秀観音へと向かう。

JR成田線「日秀踏切」。
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踏切を渡り、しばらく進むと国道356号線に行き当たり、その左角が観音寺(日秀観音)である。

観音寺(日秀観音)。
観音堂に安置されている聖観世音菩薩は平将門の守り本尊で、行基の作と伝えられている。
平将門の守り本尊といえば、今月初旬、取手市の長禅寺三世堂が特別公開され、見学した。
この三世堂の説明書きに「縁起によると、織部時平公が、文暦元年(1234)に平将門公以来の守本尊である十一面観音菩薩像を安置するために観音堂を建立したことに始まる」とあった。
このように、極々近い地域であっても、将門の守り本尊について、井戸に隠した伝説、観音寺観音堂の日秀観音、長禅寺三世堂の十一面観音菩薩と三つもあるのであった。
どれが本当なのだろうか?などと野暮なことは考えないことにしたい。

観音寺の境内の一角に、国道365号線に面して安置された「首曲がり地蔵」。
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将門調伏を祈願した成田山に顔を背けている姿だといわれている。

成田山には参詣しないという日秀あるいは将門伝説の地に住まいする人たちには申し訳ないことではあるが、小生は、毎年、成田山新勝寺に初詣に行っている。
数年前、成田山に初詣した数日後に、ドラポタ走り初めで神田明神を参拝したこともあった。
そのときは、おっと、数日前に成田山に参っちまったが、ご勘弁を、と祈りながら随身門をくぐった。
今年2月、九十九里、尾垂の浜の「成田山本尊上陸の地」を訪ねたこともあった。
数日前には、成田山公園へ紅葉狩りにも行った。
一方、今年6月には「将門フォーラム」に参加したり、今月初めには将門ゆかりの、取手市/長禅寺三世堂を見学したりもしている。
バランスよくやっているということで、ご勘弁願いたい。

余談ながら、将門伝説の地のことを綴りながら思い出したことがある。
昨夏、下野国史跡めぐりの中で、下野国庁跡を訪ねた際、隣接の国庁跡歴史館で「下野国印」(推定復元印)を見た。
武衛さんが案内の館員さんに「下野国府が平将門の襲撃を受けたとき、国印はどうなったのですか」と尋ねた。
「国印はさっさと渡しました。すると、平将門軍はさっさと通り過ぎて行きました」という答えであった。

首曲がり地蔵の脇にでいいものを<発見>した。
それは「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識であった。
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この続きは『下総国史跡めぐり/相馬郡衙正倉跡』と題し、続編にて綴ることとしたい。

フォト:2017年11月21日







 
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# by ryujincho | 2017-11-21 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 19日

『成田山紅葉狩』

11月19日、曇り時々晴れ。
近場で紅葉狩り、さて、何処で?
そうだ、成田山へ出掛けてみよう。

成田山公園。
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成田山公園をぐるっと、ひと回りし、「平和の大塔」下へ。
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平和の大塔を見上げる。その頃には、先ほどまでの曇り空から、すっかり、青空に。
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毎年、初詣は成田山新勝寺ながら、平和の大塔は遠目に眺めるだけであったが、今回は塔内へ。
明王殿に鎮座する、大塔の本尊、不動明王を拝す。
今年2月、九十九里、尾垂ヶ浜の「成田山不動尊上陸の地」を訪ね、不動明王が京の都から船で運ばれ、九十九里浜に上陸し、成田山に運ばれて来たことを思い浮かべるのであった。

大塔の隣の、造営中の、真新しい御堂。
ほぼ完成に近く、足元の外構の工事を残すのみとなっていた(工事中の箇所は写真ではカット)。
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後刻、この真新しい御堂は「醫王殿」であることを知った。
醫王殿の本尊は薬師如来(大醫王如来)。
来年の成田山開基1080年記念の目玉事業として、総檜造り、総工費約12億円をかけて建立されたという。
11月28日に入仏落慶大法会が開かれるという。
来年の初詣には、平和の大塔と醫王殿も参拝することにしよう。

フォト:2017年11月19日
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# by ryujincho | 2017-11-19 23:31 | 花紀行 | Comments(0)
2017年 11月 16日

『旧吉田家住宅』

11月16日。
旧吉田家住宅(柏市)を見学。

長屋門。
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長屋門前の桜の大樹。
趣味の、支柱コレクション。
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長屋門の瓦。
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瓦には吉田家の家紋が焼き込まれている。
家紋は植物のカタバミと剣が組み合わされた「剣片喰(けんかたばみ)」である。

門をくぐる。
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主屋。
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茶の間。
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「ミセ」。
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「ミセ」の玄関から表を眺める。
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「ミセ」から渡り廊下を通り、書院へと進む。
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書院。
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廊下の角の設えをアップで。
この角の設えを見ただけでも、施主と棟梁の拘りが見て取れる。
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吉田家とは。
吉田家は大規模に農業を営みながら代々名主の職を務めていたうえ、文化2年(1805)から醤油醸造業に進出し、天保2年(1831)から穀物商を営むなど在郷商人として成長した。
また、江戸幕府御用牧として開設された小金牧の管理にも携わり、野馬奉行の下で文政9年(1826)から明治4年(1871)牧の廃止に至るまで牧士に任命され、士分格の地位が与えられていた。

醤油醸造番付。
前頭筆頭の「花井 吉田官蔵」が当家である。
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大関に「野田 茂木勇右衛門」の名がある。
これはキッコーマン醤油の前身である。
関脇の「銚子 田中玄蕃」の名がある。
これはヒゲタ醤油の前身である。

吉田家住宅とは。
往時の吉田家の姿は、明治27年(1894)に作成された銅版画に克明に描かれている。
東西に細長い広大な屋敷地を東西に二分して、東半を宅地、西半を醤油醸造場とした。
その南前方には畑が広がっていた。
その後、大正12年(1923)には関東大地震により醸造場の諸施設が倒壊したことと、この当時事業が不振であったことが重なり、これを機に廃業された。
その後、醸造場跡地は吉田家の新宅となり、南面の畑は平成8年(1996)に芝地に改められた。
旧宅地・建物と芝地は平成16年(2004)に柏市に寄贈された。

明治27年(1894)の銅版画「千葉懸下総國東葛飾郡田中村花野井 醤油醸造吉田長左衛門邸宅」。
右(東側)/屋敷、左(西側)/醤油醸造所。
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屋敷をアップで。
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数年前、趣味のロケ地探訪の一環で、映画やテレビドラマでしばしば登場する坂野家住宅(常総市)を見学したことがあった。
この坂野家は新田開発に尽力した名主で、豪壮な主屋と表門、瀟洒な造りの書院など、豪農の屋敷構えはこういうものだったのだと実感した。
それに続いて、今回は、名主にして商人、そして、牧士に任命され、士分格の地位が与えられた吉田家の住宅、まことに立派なものを見学させて貰った。

フォト:2017年11月16日
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# by ryujincho | 2017-11-16 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 15日

『肩乗りペンギン』

11月15日。
早朝、TBSテレビ「朝チャン」を見ていた。
「次は肩に乗るペンギンの話題です」の言葉に、ペンギン好きの小生、即、反応。

カメラを取り出すのももどかしく、テレビ画面に映し出された「肩乗りペンギン」を撮った。
その写真が写真がこれ。
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慌ててカメラを取り出し、構え、シャッターを切ったので、写真が斜めになってしまってはいるが、撮影には<成功>!

<成功>はしたものの、さて、これは何処の水族館の、どういう話だったのかな?
写真を撮るのに精一杯で、話題の中身を何も理解していないことに気付いた。

ということで、「肩乗りペンギン」でネット検索してみた。
流石、インターネットである。
夏頃から話題になっていたようだ。

場所は、名古屋港水族館。
昨年10月に生まれ、まもなく1歳を迎えるアデリーペンギン。
水槽の清掃作業中に肩に乗るようになったとのこと。
この肩乗りはペンギンとしては非常に珍しい行動で、子供だからやっているのか、成鳥になってもずっとやり続けるのか、いつまでやるのかは分からないとのこと。

フォト:2017年11月15日
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# by ryujincho | 2017-11-15 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 12日

『毎度の、手賀沼ポタリング』

11月12日、晴れ。
毎度の、手賀沼ポタリング。

「水の館」前に差し掛かったところ、大勢の人が。
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何だろうな?と思ったところ、こんな立て看板が目に入った。
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先週は「ジャパン・バード・フェスティバル」、今週は「うなきちカップ・マラソン大会」。
「水の館」前は、毎週、毎週、忙しい。
まことに結構なことである。

ホオジロのさえずり。
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陽光と小舟。
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前回(11月2日)の「陽光と小舟」は超広角で撮った。
今回は、フツーの広角で。
ついでに、小舟と愛馬のツー・ショットも撮ってやった。
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ススキ。
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ススキ
<花の特徴>
枝分かれした枝に、隙間なく小穂が密生する。
小穂の先から細長い刺が伸び、鉤のように曲がっている。
これを芒(のぎ)といい、薄(ススキ)の特徴である。
(出典:みんなの花図鑑)
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水辺の鼎談。
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鉄塔とローディー。
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フォト:2017年11月12日
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# by ryujincho | 2017-11-12 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 05日

『ジャパン・バード・フェスティバル2017』

11月4日、5日。
毎年恒例の「ジャパン・バード・フェスティバル」が今年も開催された。
4日、5日の両日、jitensha に乗って会場へ。
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朝から大勢の人出。
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ジャパン・バード・フェスティバルは数多くの催しがあるが、ここ数年は山階鳥類研究所の<見にレクチャー>を集中的に聴いている。

聴講した講座。
初日:
・鳥の標本ってどんなもの?剥製標本の作り方
・ヤンバルクイナの野生復帰試験の現状
・羽1枚から種が分かるDNAバーコーディングの原理
・標識調査 回収こぼれ話
二日目:
・バードウォッチング入門~初歩の初歩~
・白い鳥小鳥なぜなぜ白い?
・鳥類とバイオミメティクス

興味深い話が幾つかあった。
・「標識調査 回収こぼれ話」
 手賀沼周辺で足環をしたオオジュリンを二度ばかり見たことがあり、興味深い話であった。
・「白い鳥小鳥なぜなぜ白い?」
 アルビノであろうと思ったが、白化にはアルビノも含め七つものパターンがあることを知った。
・「鳥類とバイオミメティクス」
 バイオミメティクスとは、生物のもつ優れた機能や形状を模倣し、工学・医療分野に応用するということ。
 カワセミの形状は新幹線の流線型フォルムに、パンタグラフの風切り音防止はフクロウの羽の構造を応用など。

講座の合間に、会場近くの木立で鳥見。
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エナガ。
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メジロ。
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講座の合間に、鳥の博物館で企画展「鳥・酉・鶏・とり~酉年はトリで楽しむ~」を見学。
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幾種ものニワトリの標本展示の中で、最も興味深いニワトリをここに掲載しておこう。

鶏冠から爪先まで真っ黒なニワトリ。
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この真っ黒なニワトリの名は。
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アヤム・チェマニ
アヤムはインドネシア語で「鶏」、チェマニは「黒」を意味します。
全身が黒く、羽毛や嘴、さらには肉や骨も黒い色をしています。
黒くないのは、血液と卵のみです。
現地では神秘的な力を持っているとされたことから、宗教的な儀式にも利用されています。
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この真っ黒なニワトリの標本だけが置かれ、解説もされていなければ、これは作り物じゃないかと思わせるような形態のニワトリである。
摩訶不思議な姿のニワトリは一見の価値あり!であった。

今年もジャパン・バード・フェスティバルを大いに楽しんだ。

フォト:2017年11月4日、5日
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# by ryujincho | 2017-11-05 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 11月 03日

『長禅寺三世堂見学ポタリング(下)』 cz-3

11月3日。
この日は、長禅寺(取手市)の三世堂の特別公開日。
2年前に長禅寺を訪ねたときは外から三世堂を眺めたが、さざえ堂形式の三世堂の内部を是非見学してみたいと思っていたので、長禅寺を訪問。

堂内に入る。

一層目/正面。
ここに本尊の十一面観音菩薩が安置されているのであろう。
罰が当たってはいかんので、正面からではなく、斜めから撮影。
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一層目、左側で履物を脱ぐ。
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左奥の階段は二層目からの下り階段。
この階段を上ってはいけない。
階段の手前を右折して、一層目の奥の回廊を進む。
坂東三十三ヶ所の本尊が並んで安置されている。
手を合わせながらぐるっと廻る。
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回廊の角は鋭角にならないよう、少しナックルさせているように見える。
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階段を上り、二層目へ。
階段はほぼ垂直と思えるほどに傾斜がきつい。
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二層目に出る。
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二層目には秩父三十四ヶ所の本尊が並んで安置されている。
手を合わせながらぐるっと廻る。
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階段を上り、二層目から三層目へ。
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三層目には西国三十三ヶ所の本尊が並んで安置されている(写真はなし)。
三層目、正面から山門を眺める。
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丸い窓。
禅の教えでは、四角い窓は「迷いの窓」、丸い窓は「悟りの窓」と呼ばれるそうだが、さて、ここでは?
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階段を下り、再び、二層目へ。
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二層目の回廊を進み、下って来た階段を眺める。
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二層目の下り階段辺りから回廊を眺める。
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二層目から一層目へ、最後の下り階段を滑り落ちないように用心深く下りる。
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先ほど、靴を脱いだ一層目の回廊に出た。

表に出て、今一度、説明書きに添えられていた一層目、二層目、三層目の平面図を見ながら、上り階段と下り階段の位置を確認。
平面図と現在の順路での上り/下りの階段は一層目だけ異なっているが、順路に沿って進めば、途中で交差することなく一巡できるという『さざえ堂』形式になっていることに変わりはなく、階段形式のさざえ堂形式ををしっかりと実体験できた。

説明板に「この三世堂は、宝暦13年に建築されたものとすれば、さざえ堂形式の堂の中では、現存する日本最古の建物となります」とあり、全国にあるさざえ堂を調べてみた。
主だったものをここに挙げておきたい。

・長禅寺三世堂:1763年(宝暦13年)建立、1801年(享和元年)再建
・円通三匝堂(福島県会津若松市):1796年(寛政8年)建立
・曹源寺本堂(群馬県太田市):1798年(寛政10年)
・蘭庭院栄螺堂(青森県弘前市 ):1839年(天保10年)頃

会津若松市の円通三匝堂(国指定重要文化財)は、通称、会津さざえ堂と呼ばれ、その写真を見ると、一度は実物を見ておきたいと思わせる二重螺旋構造の斜路をもつ特異な建物である。

今一度、三世堂を眺める。
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建物の内部構造もこの目で見たことでもあり、堂内を見学する前と後での外から眺める三世堂の印象は異なるものを感じる。

三世堂は春と秋の二度、特別公開するのが恒例になっている。
春は本尊の十一面観音菩薩、御開帳とのことである。
春に、再び、訪ねてみたいと思う。

フォト:2017年11月3日

(完)
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# by ryujincho | 2017-11-03 23:33 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 03日

『長禅寺三世堂見学ポタリング(中)』 cz-2

11月3日。
この日は、長禅寺(取手市)の三世堂の特別公開日。
さざえ堂形式の三世堂を、一度、見学してみたいと思っていたので、長禅寺を訪問。
長禅寺訪問は、2015年10月、「旧水戸街道ポタリング/取手宿」のときに訪ねて以来、2年ぶりのことである。
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石段を上る。
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山門をくぐると、正面に三世堂が現れる。
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説明書き。
前回訪問のときにも目を通しているはずだが、記憶の外に飛んでおり、堂内を見学する前に今一度。
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茨城県指定文化財
長禅寺三世堂

縁起によると、織部時平公が、文暦元年(1234)に平将門公以来の守本尊である十一面観音菩薩像を安置するために観音堂を建立したことに始まります。
現在の建物は、宝暦13年(1763)に、当時の長禅寺住職幻堂和尚によって建てられたものです。

外観は二層ですが、内部は三層となっております。
一層には守本尊の十一面観音像と坂東三十三ヶ所、二層には秩父三十四ヶ所、三層には西国三十三ヶ所の各観音霊場札所の本尊、合計百体の観音像が安置されています。

お参りする人は入口で手を合わせ順路に沿って進めば、途中で交差することなく一巡できるという、『さざえ堂』形式になっております。

三世堂の名称は、縁起に「過去現在未来之三千仏を安置して三世堂と号し候」とあるところに由来しております。
この三世堂は、宝暦13年に建築されたものとすれば、さざえ堂形式の堂の中では、現存する日本最古の建物となります。    

平成13年3月
長禅寺
取手市教育委員会
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右/立面図、左/断面図。
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右/一層平面図、央/二層平面図、左/三層平面図。
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堂内へ入る。

フォト:2017年11月3日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-11-03 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 03日

『長禅寺三世堂見学ポタリング(上)』 cz-1

11月3日。
朝、7時半頃の空。
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11月初旬はいろいろ興味深いイベントが。
11月3日は、長禅寺(取手市)の三世堂の特別公開日。
11月4日、5日は、毎年恒例の「ジャパン・バード・フェスティバル2017」(我孫子市)。

10時過ぎ、長禅寺(取手市)の三世堂へ向け、出発。
水戸街道を走って行けば近いのだが、ポタ日和なので、それでは勿体無い。
手賀沼CR、手賀川CR、利根川CRを経由して取手へと向かう。

手賀沼/「水の館」前。
朝方のおもしろい雲はなくなり、真っ青な空。
4日から始まる「バード・フェスティバル」の準備も着々と。
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手賀沼CRから手賀川CR、利根川に架かる栄橋を渡り、小貝川河口に架かる戸田井橋を渡り、利根川左岸CRを走る。

<利根川シュガーロード>。
ここを走り抜けるのは久しぶりだ。
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長禅寺に到着。
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長禅寺訪問は、2015年10月、「旧水戸街道ポタリング/取手宿」のときに訪ねて以来、2年ぶりのことである。

2015年10月の長禅寺訪問について、当時のブログを紐解いてみた。
『旧水戸街道ポタリング/取手宿/平将門ゆかりの長禅寺』

さざえ堂形式の三世堂。
その見学が楽しみ、楽しみと思いながら、石段を上る。

フォト:2017年11月3日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-11-03 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 11月 02日

『ドラポタ佐久平支部便り/千曲川、川霧白鷺之図』

11月2日。
千曲川。
川霧白鷺之図。
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輪友、大給守さんから「三日続きの晴天の朝、二日続きの放射冷却で、千曲川に川霧が発生。冬の装束で外に出て撮った川霧と鷺之図です」とのメッセージと共に、この写真が送られて来た。

この写真を眺めながら、一句と思うも思い浮かばず。
そうこうしていたときに、輪友、南国守さんから次のような歌が届いた。

朝霧に
何を思うか
鷺の群れ
千曲の里に
冬忍び寄る

フォト:2017年11月2日/大給守殿提供
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# by ryujincho | 2017-11-02 23:32 | ドラポタ佐久平支部便り | Comments(0)
2017年 11月 02日

『手賀沼ポタリング/超広角レンズを携えて』

11月2日、晴れ。
手賀沼ポタリング。
超広角レンズを携えて。

「水の館」とポプラの樹。
この辺りは翌々日から始まる「ジャパン・バード・フェスティバル2017」の会場でもあり、カラフルなテントが設営され始めている。
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陽光と小舟。
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ハス群生地。
正面に、先ほど、撮った「水の館」を据えての1枚。
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フォト:2017年11月2日
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# by ryujincho | 2017-11-02 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 10月 31日

『新国立競技場建設現場』

10月31日。
都内で所用があったので、所用の前に千駄ヶ谷で下車。
東京体育館裏から新国立競技場の建設現場を<視察>。

「東京都体育館/Tokyo Metropolitan Gymnasium」と刻まれた鏡面仕上げの銘板に映るクレーン群。
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東京体育館の大屋根、そして、新国立競技場工事現場。
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デザイン変更ですったもんだの大騒ぎになったとき、テレビで完成予想図や完成模型を嫌になるほど見せられたことでもあり、工事現場を眺めながらとんな建物になるかは想像に難くない。
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超広角レンズを携行してきたことでもあり、カメラマン自身も撮ってやった。
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青空であればよかったのだが、生憎の曇り空。
1964年の東京オリンピックのときは、開会式前日は雨、当日は秋晴れであった。
2020年の東京オリンピックのときには、夏晴れであることを期待す。

フォト:2017年10月31日
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# by ryujincho | 2017-10-31 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 10月 28日

『ドラポタ佐久平支部便り/スズメバチの巣、シカの図』

10月28日。
輪友、大給守さんから、10月2日の「内山峡/クリタケ便り」に続き、再び、「内山峡/スズメバチの巣、シカの図」が送られて来た。
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後刻、シカの図の右前脚を見てくださいとの便りがあった。
右前脚に罠がかかっている。

先日、罠に掛かったカモシカがテレビに映し出された。
ナレーションは次のようなことであった。
農作物の獣害は深刻である。
獣害対策のために仕掛けた罠に天然記念物であるカモシカが罠にかかってしまうことがある。
カモシカにGPSを装着し、その生息域を把握し、そのエリアには罠は仕掛けないという対策を行おうとしている。

大給守さんは内山峡で罠に掛かったシカがリリースされることを望むも結果はどうなったかは未確認とのことであった。
獣害対策は大事なことだが、罠に掛かったシカの目を見ると「山へ帰りたいなあ」と訴え掛けているようにも見える。
シカ、イノシシ、サル、野の獣との折り合いは難しい。

フォト:2017年10月/大給守殿提供
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# by ryujincho | 2017-10-28 23:31 | ドラポタ佐久平支部便り | Comments(0)
2017年 10月 27日

『コサギ/五線譜』

10月27日、晴れ。
手賀沼をポタリング。

電線にコサギが2羽とまっている。
カメラに収めようとしたそこのとき、更に1羽が飛んで来た。
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飛んで来た1羽のとまる位置は、最右翼。
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ほぼ同じ間隔で3羽が揃った。
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電線は3本だが、これを五線紙に見立て、白いコサギを全音符に見立てると、五線譜が仕上がったということとなる。

フォト:2017年10月27日
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# by ryujincho | 2017-10-27 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 10月 26日

『キタテハ』

10月26日、晴れ。
手賀沼ポタリング。
久しぶりに、虫撮り。

キタテハ。
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もう一度、裏翅を。
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裏翅の渋さが好きだ。

フォト:2017年10月26日
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# by ryujincho | 2017-10-26 23:33 | 虫撮りの記(2017年) | Comments(0)
2017年 10月 26日

『柿の日』

10月26日、晴れ。
手賀沼南岸を走る。
今日、10月26日は『柿の日』。
柿の実を撮る。
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明治28年の10月26日、奈良を旅行中の正岡子規があの有名な句を詠んだことに因んで、10月26日を「柿の日」としたとのことだ。

柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺  子規

20数年前、スペインを旅した。
果物屋の店先に”KAKI”と書かれた値札と共にカキが並べられていた。
へぇー、カキはスペイン語でも”KAKI”というんだと思わず口に出た。

カキの学名は Diospyros kaki 。
カキは東アジアの固有種で、日本原産ではないが、日本から欧米に伝わったことから学名が ”kaki” になったとのことである。

カキは、元々、渋柿で、甘柿は渋柿の突然変異種と考えられている。
写真に撮ったカキは野原に生えた渋柿。
正岡子規が食した柿は甘柿であったことは申すまでもないことであろう。

柿撮れば ヒヨの一声 手賀の沼  霹靂火

フォト:2017年10月26日
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# by ryujincho | 2017-10-26 23:32 | Comments(0)
2017年 10月 26日

『芒と十月桜』

10月26日、晴れ。
手賀沼ポタリング。

芒。
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フォト:2017年10月26日
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# by ryujincho | 2017-10-26 23:31 | 花紀行 | Comments(0)
2017年 10月 24日

『スパ・リゾート・ハワイアンズ』

10月23日、一泊二日で、スパ・リゾート・ハワイアンズへ。
1964年、常磐ハワイアン・センターとして開業、1990年、スパ・リゾート・ハワイアンズに改称。
我々の世代には、常磐ハワイアンセンターといった方が馴染み深い施設かもしれない。
だが、そういいながら、常磐ハワイアンセンターへ行ったことはなく、今回、初めてであった。

Before/石炭産業が斜陽となり、常磐ハワイアンセンターが開発されようとしていた頃の様子(展示パネルより)。
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After/現在の様子/モリノスタワー9階からウォーターパークを臨む。
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坑道に湧き出し、石炭採掘の悩みの種であった温泉を逆手に利用し、レジャー産業に転じた当時の経営者は立派!
そして、フラガールら、レジャー産業に転じた炭鉱家族らも立派!
まさに、「プロジェクト X 」である。

”Spa Resort Hawaiians”
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”Joban(常磐)”の名は何処にもなく、オシャレ。

ウォーターパークでプール&ウォータースライダー三昧。
スプリングパークで温泉三昧。
スプリングパークは水着着用の温泉。
ローマ風呂のような風呂も体験。
内風呂や露天風呂でも温泉三昧。
内風呂や露天風呂は当たり前のことながら水着不着用。

リストバンド。
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入院患者のネームバンドではない。
「スライダー3種共通1日券」のリストバンドである。
齢69歳にして、初めてウォータースライダーを経験。
(イメージ図)
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ステージに映し出されたポリネシアン・トライアングル。
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ポリネシアン・トライアングルは、北端/ハワイ諸島、南東端/ラパ・ヌイ(イースター島)、南西端/アオテアロア(ニュージーランド)の3点を結んで出来る三角形の海域。
ポリネシア文化圏は、この三角形以外にも、ミクロネシアやメラネシアにも飛び地のように残っており、これらは域外ポリネシア(Polynesian Outlier)と呼ばれる。

この機会に、ポリネシア人について調べてみた。
・ポリネシア人の祖先は台湾に定住していたモンゴロイド系の民族。
・紀元前2500年頃、一部のグループが台湾から南下を開始し、フィリピンを経て紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島(セレベス島)に到達。
・更に、ニューギニア島沿岸およびメラネシアへと東進し、紀元前1100年頃にはフィジー諸島に到達。
・紀元前950年頃から、現在のポリネシアと呼ばれる地域へ移住。
・300年頃にイースター島、400年頃にハワイ諸島、1000年頃にクック諸島やニュージーランドに到達。

太平洋・島サミット。
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「平成27年 第7回太平洋・島サミットが福島県いわき市スパ・リゾート・ハワイアンズで開催されました」とある。

「太平洋」の名は、16世紀、探検家のフェルディナンド・マゼラン率いる艦隊がスペインのセビリアを出発し、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を発見し、太平洋に到達したとき、荒れ狂う大西洋に比べ、太平洋の穏やかさから、マゼランが"Mar Pacifico" (平和な海)と表現したことに由来する。
日本語の「太平洋」は、この "Mar Pacifico" をほぼ忠実に訳した言葉(太平/泰平な洋)である。
余談ながら、子供の頃、「タイヘイヨウ」の「タイ」は「大」ではなく、真ん中にハワイがあるから「大」に点のついた「太」であると教えられたことがある。

太平洋の島々の国が集って「太平洋・島サミット」を開催することは、"Mar Pacifico"、「平和」「平穏」を追求する上で、まことに有意義なことと言えよう。

演舞/夜の部。
席が前過ぎて、踊りは上手く撮れなかったので、写真は割愛。
代わりに、ハワイアン・バンドの写真を。
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バッキー・白片とアロハ・ハワイアンズ、大橋節夫とハニー・アイランダースらの名を思い出す。

演舞の間に、観客も一緒になってのダンス、ダンス、ダンス。
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演舞/昼の部。
ハワイアン・ダンスとタヒチアン・ダンスの違いをしっかりと認識。
ハワイアン・ダンスは優雅、タヒチアン・ダンスは土俗的。
ハワイアン・ダンス。
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タヒチアン・ダンス。
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蒼井優ちゃん風ダンサー。
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映画『フラガール』(展示パネルより)。
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この映画は、2006年の公開時に映画館で観た。
その後、テレビ放映でも幾度か観た。
名作である。

炭鉱を扱った映画はいろいろある。
近年(といっても大人になってから、の意味だが)、観たものとしては、この『フラガール』のほかに、英国映画『ブラス!』(1996年作品)がある。
炭鉱の閉山騒ぎとブラスバンドの活動が織り交ざっての物語。
英国ブラスバンドの伝統的スタイルが見られるのもこの映画の魅力。

子供の頃に観た映画の中で、記憶に残っている炭鉱を扱った映画が2作ある。
一つはで、東宝特撮映画『空の大怪獣 ラドン』(1956年作品)。
物語は、九州の炭鉱での出水・落盤事故と共に始まり、大きな卵が映し出される...。

もう一つは、映画の題名が思い出せず、記憶にある「東映」、「炭鉱事故」、「波島進」をキーワードに検索。あった!1957年(昭和32年)、東映作品『どたんば』。

この検索で分かったことは、題名だけではなかった。
この映画の製作スタッフが凄いことも分かった。
原作 菊島隆三
脚色 橋本忍、内田吐夢
監督 内田吐夢
菊島隆三や橋本忍は、当時、東宝の黒澤明作品の脚本家。
この東映作品は、菊島隆三作・脚本によるNHKのテレビ・ドラマ(昭和31年度芸術祭文部大臣賞受賞)が映画化されたものであるということも分かった。

この映画のあらすじはこうだ。
坑道内に地下水が流入し、抗夫5人が生き埋めとなる。
救出活動に尽力するが、難航。
そうした中、突然、嘗て、この炭鉱で働いていた男が現れ、戦時中に掘られた隠し坑道の存在を伝える。
その坑道の塞ぎ口を爆破して古い坑道へ排水することで救出は成功する。
この突然現れた男を演じていたのが波島進である。
このシーンが印象的で、波島進の名と共に、子供の頃の記憶がずっと残っていたのであった。
余談ながら、波島進は後年、テレビ映画『特別起動捜査隊』でも活躍するのであった。

『空の大怪獣 ラドン』を観たのは8歳のとき、『どたんば』を観たのは9歳のとき。
『ラドン』は子供向けだが、『どたんば』はどちらかというと社会派映画で子供向けとは言えない。
何故、子供ながら『どたんば』を観たのであろうか。
その理由は定かではないが、映画好きの親父に連れられて観に行ったのではないかと思うのであった。
もう一度、観てみたい映画である。
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温泉三昧、プール三昧、フラダンス鑑賞三昧、石炭産業の歴史を改めてベンキョー、そして、懐かしい映画のことも思い出させてくれた一泊二日の旅であった。

フォト:2017年10月23日、24日
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# by ryujincho | 2017-10-24 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 10月 18日

『大放談会/湘南に遊ぶ』

10月18日、晴れ。
定例の<大放談会>。
今回は湘南にて。

片瀬江ノ島駅集合。
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備前守さん、伊豫守さん、小生は<大放談会>のメンバー、これに加え、この日は特別会員として、湘南在住の相模守さんも馳せ参じてくれた。

相模守さんはヨットマン。
相模守さんの案内で、江ノ島ヨットハーバーへ。
相模守さんはヨットハウスのフロント・スタッフと親しげに会話。
以前は江ノ島ヨットハーバーのメンバーだったので親しいのは当然のことだが、何だかカッコいい!
退職後は江ノ島を離れ、沖縄のヨットハーバーに自家用43フィート級ヨットを繋留しているとのこと。
やっぱり、カッコいい!

ヨットハウスの屋上から海の風景を眺める。
稲村ヶ崎をズーム・アップ。
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後ほど、訪ねる予定としている龍口寺の五重塔をズームアップ。
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ヨットハーバー近くのベンチでコンビニ弁当の昼餉を摂る。
空を舞いながら弁当を狙うトビの動きに注意しながら。
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ヨットハーバーから近道の石段を上って、江ノ島神社へ。
近道を知っているとは、流石、地元民の相模守さん。

展望台から海を眺める。
先ほどのヨットハウス屋上の眺望以上に良き眺め。
これまで幾度か湘南を jitensha で走っている。
初めて jitensha で走ったのは2008年の2月、小春日和の日、。逗子から江ノ島まで走った。
展望台から眺めながら、その道筋を思い起こす。
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逗子/小坪漁港とその後背の披露山をズームアップ。
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小坪漁港の”ゆうき食堂”、そこはドラポタのメンバーとの鎌倉ポタリングでは、いつも昼餉を摂る店。
昼餉のあと、小坪漁港で野点のコーヒーを沸かしたり、激坂をヒィヒィ言いながら上り、披露山へ行ったこともあったなあ...。

江ノ島は2020年の東京オリンピック開催地。
宿舎不足とのことで、小坪漁港近くの逗子マリーナ・リゾートマンション群の中に高層ホテルを建設する計画があると聞く。
披露山からの相模湾に浮かぶ江ノ島、彼方の伊豆半島の山々、そして、富士山の眺望を汚さないためにも高層は控えて欲しいと思う。

江ノ島神社を参拝。
先ほどとは別の展望台から<銀波>を眺める。
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参道を下る。
順序が逆だが、銅製の鳥居をくぐる。
扁額コレクション。
額縁は龍コレクション。
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江ノ島から龍口寺へ。

龍口寺。
扁額コレクション。
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手水舎の龍の口。
文字通り、「龍口」である。
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仁王門西側の、龍ノ口刑場跡。
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この刑場跡を見ながら思い出すのは、幼き頃に見た大映映画、長谷川一夫主演『日蓮と蒙古大襲来』(1958年)のワン・シーン。
そのシーンとは、日蓮が処刑されようとした、その時、処刑人が振りかざした大刀に雷が落ちるシーン。

刑場跡の周辺は、何の工事かは不明なるも、大掘削工事中。
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雷が落ちて地面が割れてしまったのであろうか?
まさか...。

今回の龍口寺訪問は、2012年6月以来5年ぶりのことである。
前回は、仁王門、山門から大本堂、五重塔、七面堂のみならず、後背の山頂にある仏舎利塔までめぐったのだが、仁王門の西側にある「龍ノ口刑場跡」を訪ねることを失念。
以来、ずっと、気になっていたが、今回、刑場跡を訪ねることが出来、大満足。

辻堂へ。
伊勢屋で<大放談会>。
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パートナーと天気に恵まれ、感謝!
懸案の龍ノ口刑場跡の見学が叶い、今回の龍口寺訪問の提案者、備前守さんに感謝!
<大放談会>に初参加いただいた相模守さんにも感謝!

フォト:2017年10月18日
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# by ryujincho | 2017-10-18 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 10月 15日

『上野国史跡めぐり/第七弾』

10月15日、雨。
上野国史跡めぐり/第七弾。

当初のプランは、JR高崎線/倉賀野駅~烏川に架かる流れ橋/佐野橋~観音山古墳~群馬県立歴史博物館~倉賀野駅というものであった。

群馬県立歴史博物館では企画展「海を渡って来た馬文化-黒井峯遺跡と群れる馬-」が開催中。
更に、企画展関連のイベントとして、数日に亘って数々の講演も開催中。
10月15日開催の連続講座、第2回(「黒井峯遺跡等から見た古墳時代の馬の生態」、「古代「群馬」の馬」)を予約。

当日は生憎の雨。
jitensha は携行せず、バスと徒歩にて決行することにした。

歴史博物館行きのバスを調べると;
JR倉賀野駅から
高崎市内循環バスぐるりん
岩鼻線 15系統 「昭和病院行き」 約9分
バス停「群馬の森」下車 徒歩3分
とある。

地図を参照すると、南から北へ歴史博物館、昭和病院、観音山古墳という位置関係にある。
終点の昭和病院で下車し、先ず、観音山古墳、次に歴史博物館の順で、数キロ、徒歩での雨中行軍でめぐることとした。
烏川に架かる流れ橋/佐野橋は方角が違うので、今回は端折ることとした。

JR倉賀野駅からバスに乗る。
終点近く、車窓の左手にこんもりとした森が見える。
「上総さん、あれは古墳ですね」と武衛さん。

終点でバスを降り、先ず、車窓から見えた古墳へ行ってみた。
不動山古墳。
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不動山古墳から出土した舟形石棺。
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不動山古墳から住宅街を通って北上する。
観音山古墳。
観音山古墳は国指定史跡、墳長100m級の前方後円墳。
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観音山古墳から県道13号線を数キロ、雨中行軍。
道路脇に溜まった水を跳ねないようにスピードを落としてくれる車、水を跳ねることにお構いなしの車、いろんな車がいるなあと思いながら歩く。

群馬県立歴史博物館。
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常設展で、観音山古墳の出土品を見学。
企画展「海を渡って来た馬文化-黒井峯遺跡と群れる馬-」を見学。
視聴覚室にて連続講座第2回/「黒井峯遺跡等から見た古墳時代の馬の生態」、「古代『群馬』の馬」を聴講。

本年4月の「上野国史跡めぐり第五弾/黒井峯遺跡」で現地を見学しており、企画展と講座はまことに興味深い内容であった。

群馬県立歴史博物館・近代美術館前に立つブロンズ像。
《巨きな馬》/エミール=アントワーヌ・ブールデル作。
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観音山古墳、不動山古墳ならびに企画展、講座の詳細は、いずれ、兄弟ブログ「上総守が行く(二代目)」で「上野国史跡めぐり第七弾」として綴ってみたいと思っている。

フォト:2017年10月15日
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# by ryujincho | 2017-10-15 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 10月 11日

『ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて/四度目の正直/旧島津家袖ヶ崎邸(下)』 sj-3

10月11日。
清泉女子大学本館/旧島津公爵邸見学ツアー。
庭から外観を眺めたあと、学生さんの案内で邸内を見学。

応接室。
天井に施されたレリーフが美しい。
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レリーフは薔薇。
薔薇は英国の国花。
本邸を設計したジョサイア・コンドルは英国人。
英国人の薔薇への愛着をここに表現しているのである。
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窓に映る灯り。
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二つ目の応接室。
窓の高さはソファに座ったときに庭が見えるように設計されている。
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窓は弧を描いている。
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玄関。
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中央ホールの暖炉。
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マントルピースには、先ほど、眺めた応接室の天井と同様に、薔薇が施されている。
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2階へ。
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階段の踊り場から階下を眺める。
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踊り場から窓の外を眺める。
英国でよく見られる、屋根の上に立つ煙突の風景を楽しむ。
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2階ロビー。
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バルコニーに出てみたかったが、保存管理のため、不可。
案内の学生さんの話によれば、「バルコニーの床面は白と黒の菱模様で、リーフレットの表紙の写真をご覧ください」とのことであった。
今一度、リーフレットを眺める。
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旧島津家袖ヶ崎邸洋館之図。
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リーフレットに「元工部大学校教師英国人建築家ジョサイア・コンドルに設計・施工を委嘱(中略)、鹿児島出身の洋画家黒田清輝監修のもと、家具、壁紙等の室内装飾が施され...」とある。
ジョサイア・コンドルは浮世絵師河鍋暁斎の弟子で、2015年に三菱一号館美術館で開催された『画鬼・暁斎—KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル』でその子弟関係をじっくりと教えて貰ったが、浮世絵師のみならず、本邸の建築を通じて洋画家の黒田清輝との接点もあったということも知った。

8年の月日を経て、四度目の正直で、旧島津家袖ヶ崎邸の見学が叶った。
帰路、品川の「響」で一献傾けながら<反省会>。
大満足の1日であった。

フォト:2017年10月11日

(完)
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# by ryujincho | 2017-10-11 23:33 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 10月 11日

『ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて/四度目の正直/旧島津家袖ヶ崎邸(中)』 sj-2

10月11日。
清泉女子大学本館/旧島津公爵邸見学ツアー。

正門。
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四度目の正直。
8年の時を経て、構内に入る。
坂道を上る。
坂道を上りきり、左に折れると、ジョサイア・コンドル設計の本館の正面玄関が現れた。
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正面玄関上面、「丸に十の字」のステンドグラス。
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「丸に十の字」のステンドグラスは、施主である島津家の要望によるものであろうか、それとも、設計者であるジョサイア・コンドルの発案によるものであろうか...。

庭から本館を眺める。
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庭に聳える大樹。
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品川区指定天然記念物
清泉女子大学のフウ

フウは楓と書くマンサク科の落葉の高木で、台湾や中国南部に自生する。
本樹は享保の頃(1716~35)に日本に初めて渡来した台湾フウの種類で、幹の周りは約3m、木の高さは約20m、推定樹齢は約200年である。
整然とした姿は美しく、木の勢いも盛んである。

本校の敷地は旧仙台藩の藩邸で、明治以降は島津家の邸宅として維持されていたところである。
眺望に優れた庭園の景観をひときわ引き立てているのが本樹で、藩邸の時代にすでに「高尾もみじ」と呼ばれて、有名であった。
この種の木は都内では大変数が少なく、また、これほどの大樹は珍しく重要である。
平成11年3月31日
品川教育委員会
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館内の見学ツアー開始の時間となった。
学生さんの案内付き。
何だか、嬉しい。

フォト:2017年10月11日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-10-11 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 10月 11日

『ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて/四度目の正直/旧島津家袖ヶ崎邸(上)』 sj-1

10月11日。
四度目の正直で、日本近代建築の父、ジョサイア・コンドルの設計による旧島津家袖ヶ崎邸(現・清泉女子大学本館)の見学が叶った。
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何故、四度目の正直、それを話し出すと長くなるが、簡単に触れておきたい。

2009年8月1日。
「ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて」と銘打ち、都内に残るジョサイア・コンドル設計の建物や銅像、墓所などをめぐった。
その際、清泉女子大学を訪ねたが、本館は改修工事中で外観も見られないとのことであった。
そのときのことをマイ・ブルグで次の通り綴っている。
『ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて/旧島津家袖ヶ崎邸』

2011年1月23日。
都内ポタの途中、日曜は見学不可ということは承知の上で、正門だけでもということで訪ねた。
そのときのことをマイ・ブログで次の通り綴っている。
『修禅寺殿、初陣!都内ポタ/坂道と歴史を訪ねて』/第1話
=備考=
このときの「修善寺」さんは仮のハンドル・ネームで、こののち、「武衛」が正式のハンドル・ネームとなった。

本年1月7日。
輪友、大給守さんは昨年末で長らくの江戸勤番を終え、国許に隠居することとなり、ドラポタ走り初めも兼ねて送別ポタリングを挙行。
その途中、清泉女子大に立ち寄ったが、見学は不可であった
そのときのことをマイ・ブログで次の通り綴っている。
『ドラポタ走り初め 2017/東京の灯よいつまでも/港区~品川区~港区の巻(Ⅰ)』/第2話
2009年、20011年の頃は余り厳しい制約はなく、構内に入り、本館を見学することは可能であったが、それから何年もの歳月が流れ、セキュリティなどが五月蝿く言われるようになった昨今のことであるから、見学にあれこれと条件が付けられることは止むを得ないことであろう。

本年7月某日。
電車内で「清泉女子大学オープンキャンパス 7月29日、8月11日開催」なる吊り広告が目に入った。
女子大に興味があるのではない。
オープンキャンパスのときに、清泉女子大学の本館を外観だけもいいから見学できれば、と思ったのであった。

早速、武衛さんにメールを送信。
武衛さんから返信あり。
「清泉女子大学のホームページを見ると、10月、11月、12月に『秋の本館(旧島津公爵邸)見学ツアー』なるものがあります。10月半ばの水・金曜日で申し込みの葉書を出しておきますが、如何でしょうか」と。
勿論、オーケーの旨、返信。

見学ツアーには人数制限があるので、<滑り止め>として、小生も12月半ばの水・金曜日で申し込み。

9月某日。
武衛さんより<合格通知>があった。
小生にも<滑り止め>の合格通知があった。

10月11日。
愈々、四度目の正直、「秋の本館(旧島津公爵邸)見学ツアー」の日となった。
清泉女子大正門で武衛さんと落ち合う。

<合格通知>(見学許可書)。
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説明板/旧・陸奥千台半伊達家下屋敷跡。
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旧・陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡
東五反田3丁目ほか

伊達家は、陸奥国(現宮城県)仙台藩の藩主で、松平の称号をもつ。
江戸屋敷のうち上屋敷と中屋敷は現在の港区にあり、下屋敷はここ「大崎屋敷」と品川区内にもう一つ大井村の「品川屋敷(味噌屋敷とも)の2ヵ所構えていた。

大崎屋敷は、概ね下図の付近にあり、元文2年(1727年)5代藩主の伊達吉村(よしむら)の時に鯖江藩間部家(まなべ)との相対替(交換)により取得したもので、敷地面積約2万3千坪(約75,000m3)と広大なものであった。
安政2年(1855年)頃の仙台藩主伊達陸奥守慶邦(よしくに)は65万5千石の家禄があり、
明治になって、旧鹿児島藩主島津公爵家の屋敷となったため「島津山」と呼ばれている。
上屋敷は芝口2丁目(現・港区東新橋)にあった。

清泉女子大学がこの地に移転していたのは、昭和37年(1962年)のことで、構内には大正6年(1917年)にJ・コンドルの設計によって建てられた旧島津公爵邸(清泉女子大学本館)がある。
品川区教育委員会
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余談ながら、仙台藩の江戸屋敷について少々触れておきたい。
仙台藩上屋敷の芝口2丁目(現・港区東新橋)は平たくいうと、現在の汐留地区、巨大複合都市”汐留シオサイト”の辺りである。
仙台藩中屋敷は、現在の新橋5丁目の塩竈公園の辺りにあった。
塩竈公園に隣接する盬竃神社(塩竃神社)は、元禄8年(1695年)、伊達藩内にある盬竃神社本社から分霊を勧請して伊達家上屋敷に創建、安政3年(1856年)、当地にあった伊達藩中屋敷に遷座したという。

説明板/旧島津公爵家袖ヶ崎本邸洋館。
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東京都指定有形文化財(建造物)
旧島津侯爵家袖ヶ崎本邸洋館
(清泉女子大学本館)
1棟 附旧事務所 1棟
所在地 品川区東五反田3-191-39
指定 平成24年3月21日

この建物は、旧鹿児島藩主だった島津家の第30代当主、公爵島津忠重(1886-1963)が島津家の本邸として大正4年(1915年)に建築工事の竣工をみた洋館です。

洋館の建つ高台は袖ヶ崎と呼ばれ、江戸時代には元仙台藩伊達家下屋敷があり、島津家の所有になったのは明治初年のことです。
洋館が内装なども含めて竣工した大正6年(1917年)には大正天皇の行幸があり、関東大震災後の大正12年から公爵家が常住しました。
昭和37年(1962年)からは清泉女子大学本館として利用されています。

洋館の設計は、日本近代建築史に大きな足跡を残したジョサイア・コンドル(1852-1920)によるもので、古典様式を基調とした意匠と、当時流行した白タイルを用いた外装が特徴的です。
玄関車寄せはトスカナ式巨大柱を配した重厚なものですが、対照的に、南側庭園に面したバルコニーは列柱廊を一部円弧状に張り出させた軽やかな表現となっています。
内部意匠も大階段室を中心に、島津家家紋をあしらったステンドグラスや、石造マントルピースや天井の繊細な彫刻などが良好に保存されています。

平成26年3月 
東京都教育委員会
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この地は、江戸時代/仙台藩伊達家下屋敷~明治時代/島津公爵家袖ヶ崎邸~昭和時代/日本銀行所有(一時期、GHQ管理下)、清泉女子大学と歴史的変遷をたどっている。

正門脇の守衛所で見学者ホルダーを貰い、正門から坂道を上り、本館へと進む。

フォト:2017年10月11日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-10-11 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2017年 10月 09日

『ドラポタ佐久平支部便り/キノコの季節』

10月9日、輪友、大給守さんから「内山峡は紅葉も始まり、キノコの季節到来です。」とのメッセージと共に、キノコの写真が送られて来た。
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クリタケ。
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クリタケは初めて見るキノコである。
メッセージに「クリタケは、味噌汁、うどんなどに入れて食すと、しゃきしゃき感があり何とも言えない旨さです。保存がきかないため市場には出回りません。保存がきかないため、送れないことをご了承ください」とあった。
そういうキノコがあってもよい。
写真を眺めながら、クリタケを味わうのであった。

フォト:2017年10月/大給守殿提供
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# by ryujincho | 2017-10-09 23:31 | ドラポタ佐久平支部便り | Comments(0)
2017年 09月 22日

『鳥とゴルフ』

9月末に我孫子ゴルフ倶楽部で開催される第50回日本女子オープンゴルフ選手権の掲示板に「鳥とゴルフ」に関する記事があった。
ゴルフ用語のバーディやイーグル、アルバトロスの由来は何となく承知していたが、すべての用語がしっかりとまとめられていた。
よって、「鳥見雑記」のひとつとして、「鳥とゴルフ」の記事をここに全文掲載しておこう。

「鳥とゴルフ~羽毛で作ったゴルフボール~」
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人は昔から、空を自由に飛びまわる鳥にあこがれを抱いていたのでしょう。
例えば、鳥の羽を飾りとして身に付けたり、鳥の姿を真似て踊ったりする風習は世界各地に見られ、それは「自由に空を飛べる力」を求める気持ちの現われと考えられます。
ゴルフボールも一時期、球状に縫った革の中に鵞鳥の羽毛を詰めたものを使っていました。
羽毛の代わりに綿や布を詰めても同じくらい飛びそうですが、「空を翔ける鳥」の羽を使うと、いかにも遠くまで飛びそうに思えたのではないでしょうか。
その羽毛球を1個作るためには、シルクハット一杯分ほどの大量の羽毛が使われました。
球状の革の小さな穴に錐のような道具で、羽毛をぎゅうぎゅうに詰め込みます。
手前の端を胸に当て、針の先でボールの穴に力一杯押し込むので、連日そんな作業を繰り返したボール作りの職人は、胸が圧迫されて病気になり、若死にする人が多かったといいます。
鳥にとっても迷惑だったでしょうが、人にとっても命がけのボール作りでした。
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「ゴルフのスコアと鳥の関係」
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皮肉なことに実際にボールが飛ぶようになったのは、羽毛を使わずにゴムを使うボールが出てからです。
19世紀半ばにガッタパーチャという樹脂を団子のように丸めて成型したボールが使われるようになり、飛ぶ距離が大きく伸びました。
さらに明治31(1898)年、ゴムを糸状に切って引き伸ばして、芯に巻き付ける糸巻きボールが作られました。
このボールはさらに大きな飛距離を実現しました。
これらの新たなボールの開発により、ゴルファーのスコアも良くなりました。

明治31年か明治32年(1899)年(一説では明治36(1903)年)、アトランティックシティのコースでアブとウィリアム・スミスの兄弟、そして友人のジョージ・クランプがプレーしたときに、アブが2打目をピンそばにピタリと付けました。
それを見たクランプが「こいつはバードショット!」と叫んだといいます。
この頃、アメリカでは素晴らしいものを俗語で「バード」と呼んでいたようで、以来、「基準打数より1打少ないスコア」をバードの幼児語形「バーディー」と呼ぶようになりました。
語感が可愛らしく、空を翔けて飛ぶイメージもあるこの言葉が広く使われるようになり、「基準よりも良いスコア」に鳥にまつわる言葉が使われるようになりました。

例えば、基準より2打少ないスコア「イーグル」は、小鳥よりも大きく、しかもアメリカの国鳥(ハクトウワシ)であったため付けられました。
そして、基準より3打少ないスコアをアメリカでは「ダブルイーグル」、イギリスでは「アルバトロス」としています。
このようなスコアは珍しいことだったので、名前が付けられたのは後のことです。
諸説ありますが、大正10(1921)年にボビー・ジョーンズが3打少ないスコアを出したときに、一緒に回ったイギリス人ゴルファー、シリル・トレイが付けたとか(摂津茂和著『ゴルフ千夜一夜』)、大正15(1926)年にアメリカ・フロリダ州ウィンストンゴルフクラブでジョン・マクマレーが出したときに、そのコースの古老が付けたという説もあります。
いずれにせよ、その命名者はイーグルよりも大きく、非常に長い距離を悠々と跳ぶアルバトロスの姿が、この快挙にふさわしいと考えたのでしょう。
羽を持たない人間が、思い切り遠くに球を飛ばして少ない打数で目標をクリアしたとき、まるで鳥の能力を持ったような気分になれた・・・これらの名称には、そんな喜びが潜んでいるのかもしれません。

ところで、その「アルバトロス」の仲間が日本にもいて「アホウドリ」と呼ばれています。
体が大きく地上では動作が遅く、飛び立ちのに長い距離が必要で、しかも集団で生息し、警戒心が低いことから、羽毛を取ろうと人が近づいても逃げずに易々と棒で打ち付けられて殺されてしまいます。
このようなことから、人間にやりら放題の「アホウな鳥」という意味でそう名付けられたと言われています。
そして、獲り放題に獲られた結果、一時は絶滅したとされていましたが、幸いなことに「アホウドリ」が鳥島で生き残っていることがわかり、山階鳥類研究所をはじめとする多くの人たちの努力で徐々に増えています。

その他にも「コンドル」と呼ばれるのは、基準打数より4打少ないスコア。
これはトリプルイーグル、ダブルアルバトロスとも呼ばれています。

なお、日本だけでしか使われていませんが、最下位からひとつ上の順位を「ブービー」(カツオドリ)と呼んでいます。

山階鳥類研究所や鳥の博物館など鳥にゆかりのある我孫子市で、この度、第50回女子オープンゴルフ選手権が開催されます。
バーディー、イーグル、アルバトロスなど、良いスコアが飛び出す、にぎやかな大会になることが期待されます。
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写真上段から;
・ボビー・ジョーンズ(明治34(1902)年~昭和46(1971)年)
 米国アトランタ生まれの最強のアマチュア。
 25歳で全英。全米オープンを制覇。
 マスターズ・トーナメントの創設で有名。
・イーグル(鷲)
・アルバトロス(アホウドリ)
・コンドル
・ブ-ビー(カツオドリ)

フォト:2017年9月22日
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# by ryujincho | 2017-09-22 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 09月 18日

『カイツブリ・ファミリー』

9月18日。
手賀沼を走る。
南岸、染井入落の入り江でカイツブリ・ファミリーを眺める。
5月に手賀沼や手賀川で、雛が親の背中に乗っかっている様子を楽しんだ。
あれから4ヶ月、雛は随分と成長し、幼鳥に。
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フォト:2017年9月18日
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# by ryujincho | 2017-09-18 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 09月 06日

『鳥の目/旭山動物園にて』

オオワシ。
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正面顔は何となく、おとぼけ感あり。
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シロフクロウ。
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正面顔は何となく、おとぼけ感あり。
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きりっとした全身像。
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ワシミミズク。
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暫時、待つも、目は開いてくれず。
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イワトビペンギン。
オオワシ、シロフクロウ、ワシミミズクと猛禽類を並べたあとにペンギンというのは違和感がなきにしもあらずだが、イワトビペンギンの目付きは猛禽類よりも鋭く、攻撃的な性格という。
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フォト:2017年8月31日
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# by ryujincho | 2017-09-06 23:37 | いきものがかり | Comments(0)