龍人鳥の徒然フォト日記

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2017年 05月 28日

『オオヨシキリ 2017.5.28(Ⅰ)』

5月28日、晴れ。
手賀沼鳥見ポタリング。

オオヨシキリ。
気持ちのいいくらいに、大きく、くちばしを開けて鳴く。
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喉の奥が見えんばかりに、大きく、くちばしを開けて鳴く。
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フォト:2017年5月28日、手賀沼南岸にて(トリミング)
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# by ryujincho | 2017-05-28 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 05月 27日

『手賀沼上空雲龍図』

5月27日(土曜)、晴れ。
手賀沼鳥見ポタリング。

途中から、今にも龍が現れそうな雲行きに。
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顔馴染みの BIDERさんも愛機を構え、龍の出現を待つ。
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暫くすると、再び、晴れに。
龍は現れなかった...。

フォト:2017年5月27日、手賀沼にて
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# by ryujincho | 2017-05-27 23:34 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 05月 27日

『カイツブリ・ファミリー 2017.5.27(Ⅱ)』

5月27日(土曜)、晴れ。
手賀沼鳥見ポタリング。
カイツブリの親子に出会う。

先ほどまで、親鳥の背中に乗っかっていた雛は独りで泳ぎ出した。
親のあとを追いかけながら。
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雛は「もう一度、背中に乗せてくれよぉ」と親の背中に乗りそうになるが...。
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「だめ、だめ、自分で泳ぎなさい」といわれてしまったよう。
写真の写りがよろしくなく、不鮮明ながら、雛は<沈没>しそうになっている?
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雛は気を取り直して泳ぎ始めた。
親鳥は振り返って、雛の様子を見ている。
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もう一度、背中に乗せてやるのかと思ったが、甘やかしはしなかった。
背中に乗って欲しいのは、こちとらの<鳥見写真>的に、との思いだけで、親鳥には親鳥の教育方針があるのだ。

フォト:2017年5月27日、手賀沼にて
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# by ryujincho | 2017-05-27 23:33 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 05月 27日

『カイツブリ・ファミリー 2017.5.27(Ⅰ)』

5月27日(土曜)、晴れ。
手賀沼鳥見ポタリング。
カイツブリの親子に出会う。

親鳥は雛を背中に乗せて。
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雛は親鳥の背中から降りて遊泳。
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フォト:2017年5月27日、手賀沼にて
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# by ryujincho | 2017-05-27 23:32 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 05月 27日

『オオバン・ファミリー 2017.5.22 & 5.27』

5月22日、手賀沼で鳥見。
オオバンの親子に出遭う。
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オオバンの雛。
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雛の額板は赤いが、成長するにつれ、白色に。
いつも、この変化を観察して行こうと思うも、そうしたことに遭遇したことは皆無。

5月27日、手賀沼で鳥見。
再び、オオバン・ファミリーに出遭った。
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オオバンの雛たち。
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赤い額板に加え、弁足(木の葉形状の水かき)にも注目。
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雛の額板が成長するにつれ、赤から白色に変化していくところを観察したいといつも思うのだが、そうした姿に遭遇したことは未だ一度もない。
さて、今年は?

フォト#1、#2:2017年5月22日、手賀沼にて
フォト#3、#4:2017年5月27日、手賀沼にて
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# by ryujincho | 2017-05-27 23:31 | 鳥見雑記 | Comments(0)
2017年 05月 23日

『オオカミ談義』

仲間内でオオカミ談義。
山に仕掛けた害獣駆除のためのワナの話題に端を発し、三峯神社の眷属の狼は数あるご利益の中のひとつとして四足退散の守護神でもあること、W大探検部は秩父でオオカミ探しをしているとのこと、はたまた、眷属のおかみ様や真神の子孫の大口マックも登場。
これらの談義を「オオカミ談義」と題し、綴り残しておきたい。

5月半ば、輪友、大給守さんからドラポタ・メンバー宛てに国許便りが到来。
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方々
今日はキノコ会開催の山で、 斜度40度以上の急斜面に紅葉の若木を記念植樹。
獣道を通り、ほぼ絶壁状態の斜面に5本植樹。
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土曜の雨で2~3年の原木から椎茸が一気に出てきて、15分ほどの収穫で添付フォトの通りの収穫。
大きいものは直径17cm。
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スーパーで売っている、菌床栽培の椎茸と比べると別物の旨さ。
早速、塩を振り、炙って食すと、絶品旨さ。 
いくらでも食えます。

植樹メンバーには猟師もいます。
シカその他の食害を看過できず、山に檻や足をとらえるワナを仕掛けています。
山に仕掛けた檻での捕獲はゼロ。
足をとらえるワナで、これまでに、鹿4頭、タヌキ1頭、ハクビシン1頭を捕獲。
鹿は既に何回か胃袋に入りました。

大給
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上総からの返信。
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1枚目の写真、ええ写真!
ここから切り出した石は何処の古墳に?と、最近、何でも古墳に結びつけてしまう癖あり。
ここ暫く、古墳めぐりをやっている関係で...。

鹿や狸の肉は喰っても、ハクビシンの肉は喰わないでせう。
剥製に?それとも、襟巻きに?

岩山に 紅葉愛でけり 鹿の声  霹靂火

上総
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大給守さんからの返信。
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人の胃袋に入るのは、鹿のロースの一部のみ。 
ドラム缶改造の燻製器で桜と胡桃のチップで燻した燻製で食します。
鹿鍋で食すこともあります。
残りの部位と、狸、ハクビシンは、焼却施設へ持ち込み、有料焼却処理です。
大給
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上総からドラポタ・メンバーに送信。
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方々
先日、一泊二日で三峯神社参拝。
早朝、ご来光を拝み(雲間に微かに)、雲海を眺め、温泉に入って<禊>を行い、朝7時から気温10度以下の拝殿で祝詞、御祓い、御神楽奉納、そのあと、朝食を頂戴し...ということで、すっかり清い身となりました。
そして、長瀞ラインくだり、川越観光のおまけも楽しみ、帰館。

先般の大給守殿電子飛脚便に「...シカその他の食害を看過できず、檻やワナを仕掛け...」とあり。

三峯神社の御祭神、由緒などに目を通していたところ、「御祭神は伊弉諾尊、伊弉册尊...(中略)...御神徳は家内案安全・諸業繁栄・開運成功・縁結び・交通安全・諸災消除・海上安全・大漁満足・病気平癒等の御守護をいただきます。又、御眷属・大口真神の霊験あらたかなことは古来広く世に知られるところで、養蚕倍盛・火防盗賊除・四足退散の守護神として信仰されています」とあり。

御眷属・大口真神とは、オオカミのことでありますから、害獣除けにはオオカミの存在が最善なのでありませう。

「大口真神」について、ウィキペディアを参照すると次の通りであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。
大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来より聖獣として崇拝された。
大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)と記され、少なくとも(大和国風土記の逸文と合わせ)8世紀からみられる。
人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。
また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。
現在も埼玉県秩父地方の神社を中心に、狼が描かれた神札(お札)が頒布され、信仰を集めている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

御眷属・大口真神をコレクションするなど罰当たりとならぬようお許し戴き、狛犬コレクターとして、<狛犬>ならぬ<狛狼>四対をコレクション。

<狛狼>四対を超アップでご披露します。
先ず、遥拝殿近くの鳥居脇の<狛狼>。
阿形像。
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吽形像。
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随身門脇の<狛狼>。
阿形像。
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吽形像。
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参道中程の<狛狼>。
阿形像。
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吽形像。
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社殿前、石段中程の<狛狼>。
阿形像。
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吽形像。
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上総
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武衛さんからの返信。
-------------------------------------
上総守殿、方々
上総守殿には三峰詣りの本懐を遂げられ、先ずはおめでとうございます。
狼(日本犬)は古墳巡りで訪ねた保渡田古墳群の八幡塚古墳出土の埴輪にもある霊獣、一方、欧州では家畜を襲う悪魔として目の敵にされてきたほど、扱いに違いがある様です。
某は一昨日から、眷属のおかみ様と真神の子孫の大口マックを連れて、ラフォーレで芝刈りを執り行い、富士山等を遠く望み、連れ添って37年になった、おかみ様の霊鎮めをしてきました。
武衛
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「眷属のおかみ様と真神の子孫の大口マック」、「芝刈り、富士山、おかみ様の霊を鎮める」とは、上手いこと、言うやないか、腕、上げたなあ、と某漫才コンビの常套文句を頭の中に思い浮かべながら、独り笑いするのであった。

南国守さんからの返信。
-------------------------------------
上総守殿、方々
某の山仲間の友人は早稲田の探検部ですが、その仲間が数年前から秩父と奥多摩の境あたりで、ニホンオオカミの足跡をおっております。
定期的に定点写真観測を繰り返し、幻の映像をとらえようと、、、
鹿とか、狸、ハクビシンなどは映っているらしいですが、まだオオカミはとらえていないようです、、、
南国
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上総からの返信。
---------------------------------------
南国守殿、方々

そうですか、お友達のW大探検部OBさんはオオカミを探していますか。
ネッシー、イッシー、ツチノコなんぞは?ながら、オオカミはまだいる可能性は大やと思います。

「早稲田大学探検部 オオカミ」で検索してみました。
いろいろと掲載されていますね。

この機会に、ニホンオオカミについてウィキペディアを参照し、ベンキョー。
遺跡めぐり、古墳めぐりに入れ込んでいる今の小生には、次の記述が大いにベンキョーになりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本列島では縄文時代早期から家畜としてのイヌが存在し、縄文犬と呼ばれている。
縄文犬は縄文早期には体高45センチメートル程度、縄文後期・晩期には体高40センチメートルで、猟犬として用いられていた。
弥生時代には大陸から縄文犬と形質の異なる弥生犬が導入されるが、縄文犬・弥生犬ともに東アジア地域でオオカミから家畜化されたイヌであると考えられており、日本列島内においてニホンオオカミが家畜化された可能性は形態学的・遺伝学的にも否定されている。
なお、縄文時代にはニホンオオカミの遺体を加工した装身具が存在し、千葉県の庚塚遺跡からは縄文前期の上顎犬歯製の牙製垂飾が出土している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(筆者注)
「千葉県の庚塚遺跡」とあるが、千葉県内には同じ名称の遺跡が千葉市稲毛区と山武郡山武町にある。
更に、庚塚古墳なるものが千葉市中央区にある。

初日、希望者は奥の院までとの予定で、三峯神社には昼過ぎに到着。
しかし、二瀬ダムを過ぎた辺りから徐々に霧が出始め、三峯神社につく頃には霧、霧、霧...。
ということで、奥の院参拝は中止。
残念というか、楽チンになったというか、オオカミに遭いそびれたというか...。
上総
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大給守さんからの返信。
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上総守殿 方々

本日の信濃毎日新聞の東北信版記事で、21日長野市で「日本オオカミ教会」協会長を務める丸山東京農工大学名誉教授の講演会「オオカミの復活による自然生態系の再生保護と農林水産業の振興」の講演会の開催が報じられています。

シカの食害が深刻化する森林について、オオカミの復活で守ることができる。
海外からオオカミを導入する構想を説明、中国に生息する「ハイイロオオカミ」はかつて日本に生息したオオカミと同種のため、生態系に悪影響は出ないとの考えを示し、アメリカイエローストーン国立公園のオオカミ移入例を紹介したとあります。
オオカミは臆病で人を恐れるため、人前には姿を見せないとの考えを示したとの事です。

農産物、森林の鹿による食害は深刻で、ハンターの老齢化による減少がシカの増加の直接理由であり、オオカミ導入は解決策であるかもしれません。
ペットの飼育ができず、自然に放したことによる、ミンク、ハクビシンなども害獣で、オオカミ導入の方がましであるかと思います。
大給
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上総からの返信。
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大給守殿、方々

おはようございます。
信濃毎日新聞記事の紹介、サンキューです。

やはり、オオカミで害獣を退治しようと考えている学者先生がいるんですね。
この先生はハイイロオオカミの移入を考えているようですね。
先日、ニホンオオカミについてウィキペディアでベンキョーした際、「」ニホンオオカミは、同じく絶滅種である北海道に生育していたエゾオオカミとは、別亜種であるとして区別される。エゾオオカミは大陸のハイイロオオカミの別亜種とされているが、ニホンオオカミをハイイロオオカミの亜種とするか別種にするかは意見が分かれており、別亜種説が多数派であるものの定説にはなっていない」とありました。
この先生は、ニホンオオカミは中国に生息するハイイロオオカミと同種と考えているようですね。

以前、山階鳥類研究所での鳥の分類の講座で、ユーラシア大陸の西と東にいる鳥でもDNAを調べば直ぐに同種、亜種、別種が分かり、最早、形態や色での識別、分類など、これまでの手法は通じないというようなことを聴いた記憶があり、ニホンオオカミがハイイロオオカミの同種、亜種、別種かは、ニホンオオカミの剥製が残っていることでもあり、DNAを調べれば直ぐに分かることではないかと思うのであります。

ニホンオオカミとハイイロオオカミが同種と判明しない限りは、ハイイロオオカミを移入しては駄目だと思うのであります。
何故なら、ニホンオオカミが生きているなら、移入した<外来種>のハイイロオオカミに駆逐されてしまうからであります。
最もよいのは、W大探検部OBによりニホンオオカミが発見されることであり、これを期待したいと思います(W大OBとしても)。

大給守殿の電子飛脚便を読みながら、某の敬愛する動物カメラマン、ジム・ブランデンバーグの撮ったオオカミの写真が目に浮かびました。
「ジム・ブランデンバーグ」で検索してみてください。
オオカミのみならず、数々の、素晴らしい動物写真が現れます。

「ジム・ブランデンバーグ」関連でこんなブログも綴っています。
2014年8月4日付け
「心象風景/ジム・ブランデンバーグ」
2012年2月10日付け
「ジム・ブランデンバーグ写真展 "A TRIBUTE TO NATURE" (Ⅰ)」
「ジム・ブランデンバーグ写真展 "A TRIBUTE TO NATURE" (Ⅱ)」

ニホンオオカミの話に戻ります。
ウィキペディアによれば、ニホンオオカミの耳は短いとあり、剥製の写真を見てもそのように見えます。
三峯神社で6対の<狛狼>を”発見”しましたが、顔の長いもの、短いもの、耳の長いもの、短いものなど、形態はいろいろでありました。
社殿内に鎮座した、真っ白な<狛狼>の顔は長く、耳も流れるように長く、まさに神の使いに相応しい姿でありました。

この機会に、国立科学博物館に足を運び、ニホンオオカミ(の剥製)を見てみたいと思い居ります。

信濃毎日新聞記事の紹介、サンキューでした。

上総
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三峯神社での<狛狼>コレクションは、ブログ「三峯神社参拝」全8話の中で、第1話、第2話、第7話、第8話として掲載している。
『三峯神社参拝/霧中散策(上)』
『三峯神社参拝/霧中散策(中)』
『三峯神社参拝/朝日の中の散策(上)』
『三峯神社参拝/朝日の中の散策(下)』

これら以外の<狛犬>コレクションもここに掲載しておきたい。

飴。
<狛狼コレクション>+<龍コレクション>。
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<狛狼>単独で。
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煎餅。
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宿舎「興雲閣」土産物店ビニ袋。
ビニ袋とて、コレクターには”貴重”。
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絵馬/其の一。
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絵馬/其の二。
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「御眷属・大口真神の霊験あらたかなことは古来広く世に知られるところで、(中略)四足退散の守護神として信仰されています」と前述した。
ということではあるが、三峯神社境内散策の途中、「熊に注意」の立て看板を見た。
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登山道周辺には熊が生息しています。
・鈴やラジオ等、音の出るものを携行し、人がいることを気づかせてください。
熊に遭遇したら
・子熊に遭遇したら、近くに親熊がいます。そっと立ち去ってください。
・大声や物をなげつけると熊は興奮します。目を離さず、静かに後退して、熊が立ち去る機会を
 与えてください。
秩父市
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三峯神社の御眷属、狼の地で、斯様な注意書きがあるのは、何とも皮肉な話である。
今も、狼が生息していたなら、昨今、問題となっている熊の生息状況も変わっていたであろう。

フォト#1、#2:2017年5月15日付け、大給守殿
フォト#3~#21:2017年5月17日、18日

(完)
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# by ryujincho | 2017-05-23 23:31 | いきものがかり | Comments(0)
2017年 05月 22日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/川越』

5月18日、晴れ。
一泊二日の旅。
秩父神社参拝、三峯神社参拝、長瀞ライン下り、旅の最後は川越観光。

川越といえは、時の鐘。
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川越といえば、サツマイモ。
サツマイモも、近年は、こうしたお洒落な姿に。
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川越といえば、小生にとっては、時の鐘でもサツマイモでもなく、太田道灌ゆかりの地。

川越市役所前。
石碑/「川越城大手門跡」。
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太田道灌像。
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台座に嵌め込まれた説明板。
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太田道灌公像
川越は、古代から、この地方の文化の中心であった。
長禄元年(西暦1457年)に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので、川越は江戸の母と呼ばれた。
明治以後も引続き埼玉県第一の都府として、大正11年(1922年)、他に魁けて市制を施行した。
ここに市制50周年を迎えるに当り市庁舎を新築し、川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌公の銅像を建て、古き歴史を偲びつつ新しき未来を開こうとするものである。
昭和47年7月吉日
川越市長 加藤 瀧二
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正面の御姿を、ぐぐっと近寄って。
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斜めからの御姿を、ぐぐっと近寄って。
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左手の設えを、ぐぐっと近寄って。
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右手の設えを、ぐぐっと近寄って。
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山吹の枝が右の手にしっかりと握られている。

山吹伝説について。
兄弟ブログ「上総守が行く!」で縷々綴ったことがあり、それをここで引用しておきたい。
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2012年7月28日付け
「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/新宿中央公園、久遠の像」(抜粋)

七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき

山吹伝説。
或るとき、道灌が鷹狩りに出かけた折、俄か雨に遭ってしまった。
近くの農家に駆け込み、蓑を貸してくれないかと頼んだところ、若い娘が山吹の枝を差し出した。
蓑を貸してくれと頼んだのに花の枝とは何事か、花では雨がしのげぬではないかと、内心腹立たしく思いながら、雨の中を帰っていった。
城に戻った道灌、早速、このことを家臣に語ったところ、家臣の一人が「後拾遺集に醍醐天皇の皇子 中務卿兼明親王(なかつかさきょうかねあきしんのう)の詠まれた『七重八重花は咲けども山吹のみ(実)のひとつだになきぞかなしき』との歌が御座りまする。農家の娘は『みのひとつだになきぞかなしき』と蓑ひとつない貧乏を山吹の花に例えたので御座りまする」といった。
それを聞いた道灌は己の不明を大いに恥じ、歌道に益々精進するようになった。

山吹伝説、更なる言い伝え。
山吹の枝を差し出した農家の娘の名は紅皿。
後に、道灌は紅皿を江戸城に呼んで和歌の友としたとの説もある。
道灌、亡き後、紅皿は大久保に庵を建てて尼となり、死後、その地に葬られ、大聖院(新宿6丁目)の境内にある碑は紅皿の墓ともいわれている。
また、大聖院の脇の坂は山吹坂と称されている。
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今回、川越を訪ねたことで、またひとつ、「太田道灌ゆかりの地」の消し込みが叶った。
「太田道灌ゆかりの地」を列挙し、めぐり始めたのは2012年のこと。
足掛け5年での「川越」達成と相成ったこととなる。

ここで、「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」を思いたった2012年のときのことを、兄弟ブログ「上総守が行く!」を引用して、振り返っておきたい。

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」の2012年7月22日付け第1話と、2012年7月28日付け第7話で、「太田道灌ゆかりの地」を次の通り列挙している。
※〇印:訪問済み、△印:未訪問を、今回、印した。
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「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」 第1話(抜粋)

退職前のことである。
「上総の昼餉散歩」と称して、昼餉を終えたあと、時折、仕官先江戸屋敷の周辺を散歩することがあった。

或る日、御濠端を「上総の昼餉散歩」していたところ、平川橋の袂近くに「太田道灌公追慕之碑」なるものが建立されていることに気付いた。
毎年の「赤穂浪士討入凱旋の旅」の中で、皇居東御苑内の"松の大廊下跡"に立ち寄ることがあり、平川橋を渡り、平川門から入場することが多いにも拘らず、この「太田道灌公追慕之碑」には、ついぞ、気付かなかった。

これまで、JR日暮里駅前の「太田道灌騎馬像」や/面影橋(豊島区高田)近くの「山吹の里の碑」を訪ねたり、不忍通りで地名標識「道潅山下」に出遭ったりしているが、「太田道灌公追慕之碑」に遭遇した機会に、太田道灌ゆかりの地として他にどんなところがあるのだろうと思い、調べてみた。

前述の碑や像に加え、いろいろとあった。
<都内>
〇平川橋/追慕之碑
〇有楽町/東京国際フォーラム・ガラス棟/立像
〇不忍通り/地名標識「道灌山下」
〇西日暮里駅西側/道灌山跡(西日暮里公園)
〇日暮里駅西側/月見寺(本行寺)/道灌が築いた斥候台跡に「道灌丘之碑」
〇日暮里駅前/騎馬像
〇豊島区高田 面影橋付近/山吹の里の碑
△同/山吹の里公園
〇新宿中央公園/久遠の像
<神奈川県>
〇鎌倉市/英勝寺/扇谷上杉家家宰太田道灌屋敷跡
△伊勢原市/伊勢原観光道灌まつり
△同市上糟屋/扇谷上杉氏糟屋館跡(産業能率大学)
△同市下糟屋/大慈寺/首塚
△同市上糟屋/洞昌院/胴塚
<埼玉県>
〇さいたま市岩槻区/(旧)岩槻区役所庁舎前/立像
〇同/芳林寺/騎馬像
〇同/岩槻城址(公園)
〇同/地名「太田」
〇川越市役所庁舎(川越城大手門跡)/立像
〇入間郡越生町/山吹の里歴史公園
(以下、省略)
-------------------------------------
「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」 第7話(抜粋)

「江戸の巻」を綴りながら、新たに都内おける「ゆかりの地」が幾つか見つかった。
△新宿区/地名「山吹町」
△新宿区6丁目/大聖院/紅皿の碑
△新宿区6丁目/大聖院脇/山吹坂
△荒川区/道灌山学園保育福祉専門学校
△根津神社/文明年間、太田道灌が社殿を奉建。
これらは、何れ、「江戸の巻」Part II で巡ってみたい。
新宿区山吹町は走行済みなるも、地名標識の取材も兼ねて、もう一度。
根津神社は幾度も訪問済みだが、道灌ゆかりの地であることを念頭に、再び。

(追記)
〇長野県佐久市/『久遠の像』(佐久市立中央図書館脇)
新宿中央公園の『久遠の像』のブログを見た、盟友、大給守殿から「佐久市にもよく似た像があります」とのメッセージと共に写真が送られて来た。
何故、佐久市に『久遠の像』があるのかは不明なるも、新たな「ゆかりの地」が見つかった。
---------------------------------------

この機会に、上記で列挙した「太田道灌ゆかりの地」の頭に、訪問済みは〇印、未訪問は△印を付けて整理してみた。
併せて、訪問済みの期日もこの機会に整理してみた。
「江戸の巻」・・・2012年4月21日
「岩槻の巻」・・・2012年6月10日
「江戸の巻」(新宿中央公園/久遠の像)・・・2012年6月18日
「鎌倉の巻」・・・2012年12月23日
「江戸の巻」(皇居内/道灌堀)・・・2014年4月7日(註)
「佐久の巻」2014年10月18日
「越生の巻」・・・2016年2月27日
「川越の巻」・・・2017年5月18日
(註)皇居内/道灌堀はリスト外。皇居乾通り一般公開のお陰で見学することが叶った。

マイ・ブログの「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」の関連記事も整理してみた。
「江戸の巻」、「岩槻の巻」、「鎌倉の巻」
「佐久の巻」
「越生の巻/龍穏寺」
「越生の巻/山吹の里歴史公園」

今回、三峯講二代目講元の企画のお陰で、太田道灌ゆかりの地の川越を訪ねる機会を得た。
二代目講元に感謝!である。

そして、この機会に、これまでの「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」の実績整理も出来た。

残るは、「伊勢原の巻」と「江戸の巻」(Part II)。
さて、これらの達成はいつの頃となろうか。
楽しみである。

フォト:2017年5月18日
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# by ryujincho | 2017-05-22 23:31 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2017年 05月 21日

『長瀞ラインくだり(四)』 nt-4

5月18日、晴れ。
三峯神社参拝のあと、長瀞ラインくだりを楽しむ。

長瀞ラインくだり。
親鼻橋乗船場から長瀞乗船場までを下る。
秩父鉄道荒川橋梁の煉瓦造りを愛で、急流の波しぶきを愛で、清流を愛で、奇岩を愛で、舟下りを楽しんだ。

岩畳乗船場で下船。
土産物店の通りを歩く。
この通りは「岩畳通り」というそうだ。
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岩畳通りをツバメが飛び交う。
ラインくだりの舟に乗船するときに、親鼻橋の上空で群れ飛ぶツバメを見た。
岩畳通りを飛び交う一羽が土産物店の軒先に飛び込んだ。
野鳥を追い掛けるのは本位ではないが、折角の機会なので、<長瀞鳥見>をさせて貰うことにした。

軒先にとまるツバメ。
ようこそ、元気に南から。
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更に、1羽が軒先に。
小枝らしきものをくわえている。
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小枝をくわえて、営巣中の巣へ。
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体の向きを変えて、小枝を巣に据える。
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巣の先端が気になるのか、手直しを始める。
手で直すのではなく、くちばしで直すのだから、「手直し」ではなく、「くちばし直し」に言い方を訂正。
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こうやって、小枝や泥を何度も運び、営巣するのである。
健気である。

秩父鉄道長瀞駅前/ラインくだり案内所。
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静かな流れ。
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急流。
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この急流の写真を見ると、我々の乗船時に比べ、相当に水量が多い。
急流というよりも激流であったかもしれない。
我らには、激流よりも急流が丁度いい。

記憶を辿るに、長瀞を訪れたのは1975年の秋以来のことである。
1975年の夏、関西勤務から東京勤務となり、引越しして来て間もない頃、宝登山神社に参拝し、長瀞ラインくだりを楽しんだ。
宝登山神社は、秩父神社、三峯神社と共に、秩父三社の一社であり、今回、秩父神社と三峯神社に参拝したことで、42年ぶりに秩父三社の参拝が叶ったこととなる。

42年ぶりの長瀞ラインくだり、いいところに連れて来て貰った。
三峯講二代目講元に感謝!である。

旅はまだ続くが、「長瀞ラインくだり」の巻はこれでお終い。
次は、川越へ。

フォト:2017年5月18日

(完)
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# by ryujincho | 2017-05-21 23:34 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 21日

『長瀞ラインくだり(三)』 nt-3

5月18日、晴れ。
三峯神社参拝のあと、長瀞ラインくだりを楽しむ。

長瀞ラインくだり。
親鼻橋乗船場から長瀞乗船場までを下る。
秩父鉄道荒川橋梁の煉瓦造りを愛でる。
一つ目の急流が現れる。
ビニールシートを被ったり、外したりしながら、急流を楽しむ。
それを過ぎると、静かな流れに。
次に、二つ目の急流が現れる。
この急流は結構長い。
ビニールシートを被ったり、外したりしながら、急流を楽しむ。
二つ目の急流を乗り切り、再び、静かな流れに。
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左の岩を大きく回り込み、静かな流れの中を更に進んで行く。
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左、岩の角を曲がると、彼の有名な「岩畳」がずっと続く。
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岩畳に観光客の姿が。
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遠足の子供たちの姿も。
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崖の上に人影は、先日、録画で見た超リバイバル映画『帰らざる河』(1954年)のワン・シーンを思い出させる。
それは、主人公らを乗せた筏が急流を下る、それを断崖の上からインディアン(今では「ネイティブ・アメリカン」と呼ぶべきであるが)が見下ろすというシーンである。
崖の上の小学生から「おっちゃん、ちょっと、映画の見過ぎと違う?」と言われそうだが...。

「瀞」を間近に眺める。
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「瀞」(とろ、どろ)とは、河水が深くて流れの静かなところ(広辞苑)。
全体的には「瀞」であったも、時には急流もある。
岩の形や位置によって、小さな渦を巻くところもある。
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静かな流れに棹をさす。
静かな流れの中を進んで行く。
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前方、右に黄色いゴムボートらしきものが見える。
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ズーム・アップ!
乾舷に"RAFTING"の文字が見える。
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長瀞はラフティングのメッカである。
インターネットで検索すると、「長瀞/荒川でラフティング」と題し、豪快なラフティングの写真と共に、こんな紹介記事があった。
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長瀞は、荒川上流部に位置する渓谷で、国指定の名勝・天然記念物に指定されているほか、埼玉県立長瀞玉淀自然公園にも指定されている風光明媚な渓谷です。
埼玉県秩父郡長瀞町にあります。
荒川ライン下りと岩畳(特別天然記念物)が有名で、カヌーやラフティング、キャンプを楽しむアウトドア趣味のメッカとなっています。
長瀞は、変化に富んだ水の流れが大きな魅力。
荒川の急流が刻んだ岩畳の中をゆったりのんびりと、ときにはスリリングな早瀬のホワイトウォーターも! 
アクティブに水と遊ぶ長瀞が、いま大人気です。
---------------------------

ゴールの、長瀞乗船場が近づいて来た。
岩畳上船場から更に下流の高砂橋乗船場へ向かうコースの舟が流れを下って行く。
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岩畳上船場が見えて来た。
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しばし、岩畳乗船場出発組の舟の棹さばきを見物。
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岩畳乗船場で下船。
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岸から、下流へ下って行く舟とラフティングボートを見送る。
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山、緑、川、舟...。
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フォト:2017年5月17日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-21 23:33 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 21日

『長瀞ラインくだり(二)』 nt-2

5月18日、晴れ。
三峯神社参拝のあと、長瀞ラインくだりを楽しむ。

長瀞ラインくだり。
親鼻橋乗船場から岩畳乗船場までを下る。
秩父鉄道荒川橋梁の煉瓦造りを愛で、一つ目の急流を楽しむ。
一つ目の急流を過ぎ、静かな流れにを楽しむ。
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カヤックで遊ぶ人たち。
うらやましい。
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ハリポタの盟友、六々さん所有のカヤックで遊んだこともあう。
マイ・フィールドの手賀沼で乗ってみようかとも思い、アウトドアの店、mont-bell や WILD-1で、ARFEQ 製VOYAGER 460Tを候補にして購入を検討したこともあるが、諸般の事情で購入計画は頓挫した。

静かな流れを行く。
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二つ目の急流に近づく。
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タイミングを見計らって、ビニールシートを被る。
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ビニールシートを膝まで下ろし、流れを楽しむ。
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この二つ目の急流は結構長い。
先ほど、一度、急流に突っ込み、波を被ったが、続いて、二度目の突っ込みが予想される白い流れが見えて来た。
タイミングを見計らって、再び、ビニールシートを被る。

下船後、分かったことだが、こんなことがあった。
次男坊夫婦は後続の舟に乗っていた。
波がどういう動きをしたのかは不明ながら、ビニールシートを被っていたにも拘らず、次男坊の座っていたところに波が直撃し、次男坊は”水も滴るいい男”に。

ということで、この次男坊スプラッシュ・アトラクション事件の<記念>として、先発の舟ではあるが、ビニールシート越しに撮った、この急流シーンでの連続写真を全て駆使し、<ノーカット版>て再現しておきたい。
掲載枚数が多く、、少々くどくなるが、ご容赦願いたい。
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うわぁー、岩にぶつかるぅーっ!
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角度的に、岩にぶつかりそうに見えるだけで、もちろん、セーフ!
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こうやって、急流を下る連続写真を眺めてみると、白い波の形や動きがどのように変化しているかがよく分かる。
次男坊はビニールシートを被っていたにも拘らず、大波を被ったとのこと。
どんな形の、どんな動きをした波かは想像がつかないが、波もまた<自然の驚異>のひとつである。

急流を乗り切り、静かな流れに。
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左の岩を大きく回り込み、静かな流れの中を更に進んで行く。

フォト:2017年5月18日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-21 23:32 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 21日

『長瀞ラインくだり(一)』 nt-1

5月18日、晴れ。
三峯神社参拝のあと、長瀞ラインくだりを楽しむ。

長瀞ラインくだり。
親鼻橋乗船場。
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親鼻橋の上空をツバメが舞い飛ぶ。
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見えないって?
では、鳥見ング(トリミング)加工して。
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岩畳乗船場へ向け、出発。
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秩父鉄道荒川橋梁。
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煉瓦造りの橋脚。
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煉瓦造り、大好き!
<煉瓦造りコレクション>。
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楕円形の橋脚を、超アップで。
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秩父鉄道荒川橋梁について調べてみた。
--------------------------
秩父鉄道荒川橋梁
上長瀞駅 - 親鼻駅間で荒川(長瀞渓谷)を渡河。
全長153メートル、荒川本流の最も上流に架かる鉄道橋。
橋脚高さ、約20メートル。
秩父鉄道の前身、上武鉄道の時代の、1914年(大正3年)に架設。
橋梁は汽車製造製。
(出典:ウィキペディア(抜粋))
-----------------------------

橋梁は「汽車製造製」とある。
これは汽車製造株式会社(1896-1972)のことである。
汽車製造株式会社は、1896年(明治29年)に井上勝らによって設立された汽車製造合資会社を前身とする。
井上勝は、幕末に活躍した長州五傑の一人で、明治維新後は、官僚として、また、民間人として、日本の鉄道の発展に寄与したことから「日本の鉄道の父」と呼ばれた人物である。
都内ポタリングの中、自転車倶楽部、ドラポタの盟友、武衛さんの案内で、品川の東海寺大山墓地内にある井上勝の墓に参ったことがある。
墓所のすぐ傍を東海道新幹線が通っており、井上勝は日本の鉄道の父、これも何かの縁なのだろうなと思ったことがある。
汽車製造株式会社は、1972年に我が旧仕官先と合併したこともあり、秩父鉄道荒川橋梁に親しみを覚えるのであった。

橋梁の次は、橋脚について。
橋が大好きと思しきブロガーさんが綴ったブログなどから次のようなことが分かった。
---------------------------------
橋脚は楕円形の煉瓦製4段積み。
現在は橋脚の最上部1段はコンクリート製、下部3段は煉瓦造りとなっている。
煉瓦の積み方はイギリス積み。
橋脚の一部は花崗岩で補強されている。
橋脚に使われている煉瓦は、大宮町(現在の秩父市)への路線延長には、渋沢栄一の経済的な支援があったので、おそらく日本煉瓦製造(埼玉県深谷市)の製品と推測される。
----------------------------------

煉瓦について。
当時の煉瓦製造会社としては、日本煉瓦製造、品川白煉瓦、大阪窯業東京工場などがあった。
日本煉瓦製造の工場は埼玉県榛沢郡上敷免村(現在の深谷市上敷免)にあったことから、地理的には荒川橋梁の工事現場に近いこと、日本煉瓦製造や秩父鉄道に関わりのある渋沢栄一の存在があったこと、更に、同時期に架橋された秩父鉄道黒谷川橋梁の煉瓦に日本煉瓦製造の工場名を示す「上敷免製」の刻印があることなどから、荒川橋梁の煉瓦は日本煉瓦製造製と考えるのが妥当かもしれない。

橋の話が長くなってしまった。
長瀞ラインくだりの流れに話を戻そう。

一つ目の急流。
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タイミングを見計らって、席に準備されたビニールシートを被る。
ビニールシートで波しぶきを上手くかわすのだ。
ビニールシート越しにシャッターを切る。
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波を被る恐れはなくなった。
ビニールシートを膝の上まで降ろし、シャッターを切る。
先ほどまで乾いていた舟縁(ふなべり)や底板が波しぶきで濡れている(船頭さんの足元に注目)。
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急流はひとつでは終わらない。
長瀞ラインくだりは、まだまだ続く。

フォト:2017年5月18日

(つづく
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# by ryujincho | 2017-05-21 23:31 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 20日

『三峯神社参拝/朝日の中の散策(下)』 mj-8

5月17日(水曜)、曇り、18日(木曜)、晴れ。
三峯講の講元である極々近しい人から誘われ、一泊二日の三峯神社参拝の旅に出掛けた。
初日は、奥ノ院参拝、三峯神社興雲閣泊、二日目、早朝に昇殿参拝との旅程にて。

二日目。
早朝に起床し、ご来光を拝み、雲海を楽しみ、午前7時の昇殿参拝、朝餉を終え、出発時間まで再び境内を散策。
これで、前日の霧中散策、翌朝の早朝散策につづく、三度目の境内散策となる。
三度目の境内散策の主な目的は、朝日の中の<狛狼>を眺めることであった。

前日の霧中散策は、遥拝殿(見晴台)近くの鳥居から随身門を抜け、社殿に向かったことでもあり、同じ参道を辿ることとした。

遥拝殿(見晴台)近くの鳥居脇の<狛狼>像や随身門脇の<狛狼>像をめぐり、更に参道を進む。

参道で狛犬コレクション。
右、<狛狼>阿形像。
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左、<狛狼>吽形像。
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阿吽形、両方とも端正な顔立ちである。
阿形像は口を開き、厳しい表情であるが、何処か大人しげな感じもする。
前日は気づかなかったが、阿形の口を見ると「犬歯」がない(見えていない?)。
これが厳しい表情を和らげているのかもしれない。
一方、吽形像の口を見ると「犬歯」が僅かに覗いている。
しかし、厳しさを増すほどには覗いておらず、程よくという感じである。
これが厳しい表情を和らげているのかもしれない。

吽形像の左横顔を見ながら、気づいたことがある。
それは、たてがみ(といってよいのだろうか。人間でいうところの、もみあげ)が僅かに赤く見える。
阿形像はどうだろう?と思い、今一度、見てみたがその形跡はない。
赤い色は光線のせいであろうか、苔が変色したのであろうか、それとも当初は彩色が施されていたのであろうか...。
余り考えると「地下鉄の電車は何処から入れたのでしょう」状態になるので、考えないこととする。

社殿に向かう石段に至る。
石段、中ほどの左右に<狛狼>が鎮座。
石段で狛犬コレクション。

右、<狛狼>阿形像。
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左、<狛狼>吽形像。
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つい、先ほど、朝7時の昇殿参拝で、拝殿内に鎮座する阿形像、吽形像の<狛狼>を目にした。
拝殿内の<狛狼>とこの石段の<狛狼>は、耳の長さや体躯のしなやかさよく似ているように思えた。
似ているように思えた。
唯一、異なるのは、拝殿内の<狛狼>は真っ白な体躯、耳の内側と口は真っ赤ということである。

拝殿。
つい、先ほど、朝7時の昇殿参拝を終えたばかりである。
拝殿の中の様子が目に浮かぶ。
既に参拝客の姿も。
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こうして、一泊二日の三峯神社参拝を終えた。

最後に、三峯神社の「峯」という文字、そして、鳥居と<狛狼>について、触れておきたい。

「峯」という文字について。
我がパソコンでは、「みつみねじんじゃ」を漢字変換すると「三峰神社」となる。
だが、ホームページでは「三峯神社」となっており、「峰」ではなく、「峯」が使われている。
一方、地名や駅名、山の名などは「三峰」となっており、「峰」が使われている。
三峯神社の境内では、「三峯」のほか、「三峰」、更に「参峰」(「参峯」ではない)の表記も散見された。
今回、ブログを綴るにあたっては「峯」に統一して使った。

ということで、この機会に、「峯」、「峰」、「嶺」の文字について調べてみた。
広辞苑を紐解くと、[峯]はなく、[峰・嶺]となっている。
-----------------------------
[峰・嶺]
①山のいただきのとがった所。山頂。ね。
②物の高くなった所。
③刀剣の歯の背。棟(むね)。
④烏帽子の頂上。
⑤櫛の背。
------------------------------

更に、インターネットで検索してみる。

調べ/その1/デジタル広辞林:
この辞書における「みね」は[峰・嶺]となっており、意味は広辞苑と同じである。
但し、「み(御)」は接頭語との説明があり、これはベンキョーになった。

調べ/その2/デジタル大辞泉:
この辞書における「みね」は[峰・峯・嶺]となっており、意味は広辞苑や大辞林とほぼ同じである。
但し、《「み」は接頭語。「ね」は山の頂。山を神域とみていう語》との説明があり、これはベンキョーになった。

調べ/その3/Yahoo!知恵袋(抜粋+アルファ):
-----------------------------------
「みね」には、「峰」、「峯」、嶺」がある。
常用漢字は「峰」だけである。。
人名用漢字には「峰」、「峯」、「嶺」の3字体がある。
「峯」は「峰」の異体字である。
異体字とは、標準字体と同じ意味・発音を持つが、表記に差異がある文字のこと。
「峯」の方が「峰」より先に生まれたのに異体字とは奇妙ではあるが、標準字体に対し異体字(旧字体ではない)ということである。

「峯」は、神が降りてくる神木のある山、神がかり、神秘的なことに出逢う場所を表した漢字である。
「夆」は、神の領域にある「鉾杉」や「神杉」のようなまっすぐ伸びた木の秀つ枝(ほつえ=上の方の枝)に、神が降ってくる形である。
「丰」が秀つ枝で、「夂」が上から降るときの後ろ足の形なのである。
そのような木のある山を「峯」といい、そのような神霊に遭遇することを「逢」という。

「嶺」は「やまへん」と「領」から成り立っており、「領」はひざまずいて神意を聴き入る姿や、服の襟首という意味で、ひざまずいたり、襟首というのは、一段低い格好や場所であるから、「嶺」は山頂に対していわば「肩」の部分、山頂より低い場所を表している。
--------------------------------------

「嶺」は山頂より低い場所を表している、とある。
一方、広辞苑や広辞林、大辞泉では「峰」、「峯」、「嶺」は同義語とされているので、矛盾する。
だが、「峯」と「嶺」が同じ時代に使われていたとするなら、前者は山頂、後者は山頂より低い部分を指す文字で、山の部位をきちっと区別して使われていたとも考えられる。
これについては今後の課題とする。
そして、「峯」が「峰」に、いつ、変じたのかも今後の課題とする。

ということで、少し疑問は残るが、今回の調べで、「峯」という文字は神が降りてくる神木のある山を表す文字であることが分かった。
「峯」、スタイリッシュでいい文字である。

鳥居と<狛狼>について。
今回の三峯神社参拝で、3基の鳥居と1基の随身門、6対の<狛狼>を見た。
(1)三峯神社下、駐車場近くの、三ツ鳥居と<狛狼>1対。
  車窓から、写真はなし。
  ※三ツ鳥居とは、明神鳥居とその両脇に小規模な鳥居を組み合わせた鳥居様式。
(2)遥拝殿(見晴台)近くの鳥居と<狛狼>1対。
(3)随身門と<狛犬>1対。
(4)参道中ほどで、<狛狼>1対。
(5)拝殿に向かう石段の中ほどで、<狛狼>1対。
(6)拝殿前の鳥居。
(7)拝殿内の<狛狼>1対。

鳥居はこのほか、下界の国道140号線沿い、大輪地区の表参道入口(標高370m)に”一ノ鳥居”があるという。
この”一ノ鳥居”の脇には<狛狼>が鎮座していると思われる。
更に、奥ノ院およびその途中にも鳥居や<狛狼>があるのではないかと想像する。
機会あれば、それらも見てみたい。

旅はまだまだ続くが、「三峯神社参拝」の巻はこれでお終い。
次は、長瀞ライン下り、そして、川越へ。

フォト:2017年5月18日

(完)
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# by ryujincho | 2017-05-20 23:38 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 20日

『三峯神社参拝/朝日の中の散策(上)』 mj-7

5月17日(水曜)、曇り、18日(木曜)、晴れ。
三峯講の講元である極々近しい人から誘われ、一泊二日の三峯神社参拝の旅に出掛けた。
初日は、奥ノ院参拝、三峯神社興雲閣泊、二日目、早朝に昇殿参拝との旅程にて。

二日目。
早朝に起床し、ご来光を拝み、雲海を楽しみ、午前7時の昇殿参拝、朝餉を終え、出発時間まで再び境内を散策。
これで、前日の霧中散策、翌朝の早朝散策につづく、三度目の境内散策となる。
三度目の境内散策の主な目的は、朝日の中の<狛狼>を眺めることであった。

前日の霧中散策は、遥拝殿(見晴台)近くの鳥居から随身門を抜け、社殿に向かったことでもあり、同じ参道を辿ることとした。

遥拝殿(見晴台)近くの鳥居。
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前日の霧中散策では気づかなかったが、左右の高台に<狛狼>が鎮座なさっていた。
御無礼仕りましたと、これまでに撮った<狛狼>以上に、念入りに写真を。

狛犬コレクション。
右、<狛狼>阿形像/その1。
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右、<狛狼>阿形像/その2/横顔。
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左、<狛犬>吽形像/その1。
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左、<狛犬>吽形像/その2。
左目は金色っぽく見える。
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アップで。
やはり、金色だ。
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更にアップで。
左目のみならず、右目にも金色の名残りが。
建立時は両眼とも金色だったのだ。
a0289546_17174015.jpg
この一ノ鳥居の<駒狼>は趣き深いものを感じさせる。
長い間、風雪に耐えて来たことは、ひと目で分かる。
それが趣き深いものを感じさせるのであろう。
丸顔の<駒狼>に親しみを覚える。

参道を進み、随身門へ。
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随身門。
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扁額コレクション。
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狛犬コレクション。
右、<狛狼>阿形像。
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左、<狛狼>吽形像。
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前日、霧中散策の中で、この随身門脇の<狛狼>を見て、その印象を次の通り綴った。
---------------------------------------
通常、狛犬の表情は、吽形像より阿形像の方が厳しく見える。
だが、この<狛狼>は吽形像の方が厳しい表情に見える。
これは、阿形像、吽形像の「犬歯」の作りの違いによるものかもしれない。
-----------------------------------------

その翌朝、こうやって、再び、この随身門脇の<狛狼>を見ているのであるが、やはり、この<狛狼>に限って、吽形の方が厳しい表情に見える。

随身門を抜け、参道を進む。
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フォト:2017年5月18日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-20 23:37 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 20日

『三峯神社参拝/昇殿参拝』 mj-6

5月17日(水曜)、曇り、18日(木曜)、晴れ。
三峯講の講元である極々近しい人から誘われ、一泊二日の三峯神社参拝の旅に出掛けた。
初日は、奥ノ院参拝、三峯神社興雲閣泊、二日目、早朝に昇殿参拝との旅程にて。

二日目。
早朝に起床し、ご来光を拝み、雲海を楽しんだ。
温泉に入り、昇殿参拝前の禊をする。

朝7時の昇殿参拝は、通常の昇殿参拝とは異なるものであることを知った。
朝夕の「日供祭(にっくさい)」の朝の部のときに昇殿し、参拝というものであった。
日供祭は、毎日、朝と夕に祭神にお供え物をする祭祀で、祭神に召し上がっていただくお供えを行うと共に、氏子や崇敬者の安寧を祈るというものである。

昇殿参拝の刻限、午前7時となる。
拝殿へと向かう。
5月半ばとはいえ、標高1100メートル、早朝の気温は10度以下。
着るものをしっかりと着て。

昇殿参拝時の写真はない。
記憶を辿りながら、その様子を綴っておきたい。
記憶を辿っての記述なので、記憶違いがあれば、ご容赦願いたい。

宿舎の興雲閣から渡り廊下を歩き、拝殿へと向かう。
途中、手水場があり、手水を使う。
手水場の端に紐で手拭き用の和紙が吊るされている。
手拭いがぶら下げられている手水舎は時折見掛けることがあるが、手拭き用の和紙というのは初めてだ。
手水舎にぶら下っている手拭いを使ったことはないが、手拭き用の和紙は使わせて貰った。

拝殿に入る。
床机椅子がずらっと置かれている。
二代目講元一行、総勢20数名は真ん中の席に。
その他に、家族連れが左右の席に数組。

拝殿の外扉は開かれている。
扉からの冷気が足元を流れて行く。
冬は無理だな、初夏から秋までだなと思いながら、拝殿内の冷気、否、神気を楽しむ。

拝殿中央には祭神が祀られているのであろう(じっと見ると罰当りとなるので、見ず)。
その左右に眷属の阿形の狼、吽形の狼が鎮座。
狼は真っ白、耳の内側と口の中は真っ赤、耳は後ろにたなびくように長い。
更にその外側の左右に、男神であろうか、衣冠束帯姿の像が鎮座している。

渡り廊下の方で太鼓の音が響く。
神官が現れた。
祭神に向かって、右に一人、中央に一人、左に三人の神官が座す。
右に座した一人の神官が、阿形の狼像の前に置かれた大きな太鼓を叩く。
大きな太鼓を叩くリズムは木魚を叩くリズムによく似ている。
神仏習合の時代があったことを思わせるリズムである。
太鼓に合わせ、神官全員で禊払い、大払いが唱和される。
法事のとき、坊さんがお経を唱和するときの響きに何処となく似ている。
これも神仏習合の時代あったことを思わせる。
つづいて、神官から参拝者に対し清めの言葉があった後、大幣(おおぬさ)が左右左と振られ、お祓いを受ける。
つづいて、祝詞の奏上が行われる。
つづいて、右に座した三人の神官が奏する笛や太鼓に合わせ、神楽が舞われる。
この神楽は二代目講元をはじめとする我ら一行の講からの奉納によるものである。
つづいて、二代目講元と副講元が玉串を奉納。
席にいる我らも立ち上がり、講元の二礼二拍手一礼に合わせ、同様に二礼二拍手一礼し、参拝。

最後に、祭主からの挨拶を頂戴し、昇殿参拝を終えた。
渡り廊下の方で太鼓の鳴り、神官は下がり、つづいて、我らも。
拝殿内に元の静けさが戻った。

造船業に携わっていた者として、その仕事柄、起工式や入魂式で神事を間近に見て来たこともあり、この日の祭祀は誠に興味深いものがあった。
昇殿参拝は、仕事柄、顧客と共に金比羅宮で、あるいは、プライベートでは熊野速玉大社で行ったこともある。
また、伊勢神宮では垣内参内を行ったこともある。
何れの参拝も甲乙をつけるものではないが、今回は「日供祭」、そして、冷気漂う早朝の参拝でもあり、今回の三峯講昇殿参拝は誠に印象深いものとなった。

拝殿内の設えについて記しておこう。
上述の通り、正面に祭神、左右に眷属の狼像、更に左右に衣冠束帯姿の男神が安置されていた。
そして、拝殿外側に施された極彩色の彫刻と同様に、拝殿内にも極彩色の彫刻が施されていた。
三峯神社の建物は皆、新たに築造されたものではないかと思わせるくらいに見事な色彩を放っているが、建物は江戸時代のもので、昭和の大修理、平成の大修理を重ね、今の姿となっているとのことである。
拝殿内は、一時期、彫刻の代わりに絵になっていたこともあるが、その後、彫刻が復活したとのことである。

こうして昇殿参拝を終えた。
二代目講元をはじめ三峯講の一行の皆さんは心を新たにされ、清々しい表情。
宿舎の興雲閣に戻り、朝餉を頂戴した。

日供祭、昇殿参拝の様子は記憶を辿ってのものであり、一部、記憶違いがあればご容赦願いたい。

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-20 23:36 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 20日

『三峯神社参拝/早朝散策(下)』 mj-5

5月17日(水曜)、曇り、18日(木曜)、晴れ。
三峯講の講元である極々近しい人から誘われ、一泊二日の三峯神社参拝の旅に出掛けた。
初日は、奥ノ院参拝、三峯神社興雲閣泊、二日目、早朝に昇殿参拝との旅程にて。

二日目、早朝、遥拝殿(見晴台)から、彼方の雲を微かに赤く染めるご来光に手を合わせる。
そして、雲海を眺め、楽しむ。

前日と同様に、日本武尊像と摂社末社の前を通り、宿舎へ。

前日、霧の中に微かに姿を見せていた日本武尊像を丘の下から眺める。
「どこに見えるかって?真ん中の杉の木の左側」。
これは第3話で霧の中に立つ日本武尊像を掲載したときのキャプションであったが、さて、今回は?
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ミツバツツジと共に。
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ご尊顔をアップで。
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摂社末社。
前日は霧の中に並び、翌朝は朝日の中に並ぶ、さて、どちらの景色がよかろうか...。
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これらの摂社末社についてのh詳細は、第3話で縷々述べた通りである。

社殿前の鳥居と燈篭。
燈篭にはまだ灯りが。
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社殿前の石段にはまだ通行止めの柵が置かれたまま。
時計を見ると、丁度、5時。
拝殿の扉はまだ閉じられている。
拝殿の扉が開き、参拝が出来るようになるのは6時からかもしれない。
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ご来光を拝み、そして、雲海に出遭い、喜ばしい限りの早朝散策であった。

この日の朝の最も大事なこと、それは、朝7時からの昇殿参拝。
昇殿の前に、温泉に浸かり、禊をするのが決まり事とのこと。
禊の歴史を紐解いてみたところ、「『記紀』によるとイザナギノミコトが黄泉 (よみ) 国から帰ったとき,筑紫日向の橘の小戸 (おど) の檍原 (あはぎはら)の流れで禊をしたのに始るとされる」とあった。

宿舎の興雲閣に戻り、温泉に浸かる。
禊は勿論のことだが、標高1100メートル、5月半ばとはいえ、気温は10度以下、早朝散策で体は冷えてしまっており、体を温めるのに温泉が丁度いい。、
興雲閣の湯は、源泉名を大滝温泉三峰神の湯といい、泉質はナトリウム-塩化物泉。
聞くところによると下界の源泉からトラックで湯を運んでいるとも。
いずれにせよ、誠に結構な湯である。

昇殿参拝の刻限となる。
拝殿へと向かう。

フォト:2017年5月18日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-20 23:35 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 20日

『三峯神社参拝/早朝散策(上)』 mj-4

5月17日(水曜)、曇り、18日(木曜)、晴れ。
三峯講の講元である極々近しい人から誘われ、一泊二日の三峯神社参拝の旅に出掛けた。
初日は、奥ノ院参拝、三峯神社興雲閣泊、二日目、早朝に昇殿参拝との旅程にて。

初日の奥ノ院参拝は霧のため中止。
霧の境内を散策。
初日の夕食時、禰宜さんから、条件が整えば、雲海を見ることが出来るれるとの話があった。
翌朝の天気次第だが、東京地方の日の出は4時30分頃、ご来光を拝もうと思っていたことでもあり、これに、ひょっとしたら、雲海見物のチャンスもあることとなった。

二日目、朝4時起床。
窓の外を見る。
空に雲が広がっているが、晴れ基調。
前日の散策のスタート地点でもあった遥拝殿(見晴台)へと向かう。
前日は霧が立ち込め、何も見えなかったが、さて、今朝はどのような景色を見せてくれるのだろうかと思いながら...。

4:29、遥拝殿(見晴台)に立つ。
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先日とはまったく別の景色であった。
空には雲が広がっているが、下界は雲海といってよいだろう。

雲海を、そして、その動きを眺めながら撮った写真は、午前4時29分から4時51分の間の22分間で26枚。
その中から<厳選>して時系列でアップロードしておこう。

4:31、前日の、濃い霧が立ち込め、手前の木立しか見えなかった風景とは打って変わって...。
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4:34、崖の道。
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4:35、雲海。
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4:39、山肌に沿って雲海が上っていく。
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4:45、気温が僅かに変化したのであろうか、雲海が少し薄くなったような...。
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4:48、彼方の雲がうっすらと赤く朝日に染まる。
ご来光に二礼二拍一礼。
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4:50、雲海は徐々に薄くなって来る。
「今日は晴れ!」との兆しを示すかの如く、彼方の空は徐々に明るさを増して来る。
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4:51、明るい空に向かって、もう一度、二礼二拍一礼。
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雲海を見るのは、2013年秋の乗鞍岳、2014年秋の高峰高原以来のことであった。
乗鞍岳と高峰高原は、自転車で上まで登るのは至難の業というか苦手(ヒル・クライムが得意な人もいるけれど)、自転車を携行し、バスで頂上まで上がり、そこから下界へ向かって下るというもの。
乗鞍岳は畳平(標高2702m)から乗鞍高原(約1500m)まで、高峰高原は車坂峠(1973m)から小諸市内(675m)まで。
こうしたことを我が自転車倶楽部の仲間内では、「下りま専科」と称している。

今回の三峯神社参拝で、三峰神社(標高1102m)から二瀬ダム(約550m?)までの間、「下りま専科」コースだなあと思うも、狭い道幅からして、(そして、年齢からして)、これは無理もしれないなあ、とも思った。

話が反れてしまった。
秩父の雲海、いいものを見せて貰った。

フォト:2017年5月18日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-20 23:34 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 20日

『三峯神社参拝/霧中散策(下)』 mj-3

5月17日(水曜)、曇り、18日(木曜)、晴れ。
三峯講の講元である極々近しい人から誘われ、一泊二日の三峯神社参拝の旅に出掛けた。
初日は、奥ノ院参拝、三峯神社興雲閣泊、二日目、早朝に昇殿参拝との旅程にて。

三峯神社に到着。
霧により奥ノ院参拝は中止。
霧、霧、霧の境内を散策する。
先ず、遥拝殿(見晴台)から社殿まで<狛狼>をはじめ、あれやこれやを眺め、楽しみながら、社殿に至り、参拝。
更に、霧の境内を散策する。

日本武尊像。
霧の丘の上に日本武尊像が見える。
どこに見えるかって?
真ん中の杉の木の左側。
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丘の上に上ってみる。
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三峯神社のホームページを紐解くと、その由緒の中に日本武尊について次の通り綴られている。
--------------------------------
当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。
尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し、二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。
これが当社の創まりであります。
----------------------------------

日本武尊といえば、われ等の世代はどうしても、東宝特撮映画『日本誕生』(1959年)を思い出す。
三船敏郎がヤマトタケルノミコトとスサノオノミコトの二役を演じていた。
ヤマトタケルノミコトの魂が白鳥となって、高天原に向かって飛んでいくラスト・シーンが子供心に印象的であった。

「大阪・堺ポタリング」で大鳥神社(大阪府堺市西区鳳北町)を参拝したときのことをブログに綴った記憶があり、探してみた。
あった、2011年初夏のポタリングでのことであった。
「大阪・堺ポタリング」第11話
やはり、ここでも東宝特撮映画『日本誕生』に触れていた。
更に、龍の指の数についても触れている。
紙面の都合上、ここでは詳しくは記さないが、龍の指の数について一家言あり、龍の指の数のことがきっかけて<龍コレクション>を始めたのであった。

ツツジの花。
二瀬ダムから三峯神社に上る途中、車窓からあちらこちらで花を咲かせるツツジを見て来たが、この日本武尊像が鎮座する丘でもツツジが花を咲かせている。
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霧が水滴になったのであろうか、花々に水滴がいっぱいついている。

カエルの卵?
いいえ、クモの巣と水滴がつくった景色。
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三つの水滴。
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花の色が映り込む水滴。
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4月初旬、皇居東御苑で早くも花を咲かせたツツジを見た。
「トウゴクミツバツツジ」の札が添えられていた。
トウゴクミツバツツジ、漢字表記は「東国三葉躑躅」。
宿舎の興雲閣で三峯神社の周辺で咲いているツツジの花の種類を尋ねたところ、「ミツバツツジ」とのことで、「トウゴク」かどうかは分からないとのこと。
秩父に咲くミツバツツジだから、さしづめ、「チチブミツバツツジ」といったところかもしれない。
因みに、「ミツバツツジ」の名の由来は、4、5月頃の開花と同時に、或いは、開花後に、枝先に三枚の葉がつくことからこの名がついたとのこと。

摂社末社。
ずらっと並んだ摂社末社。
この写真の右手手前、写真に入っていないところから摂社末社は並んでいる。
左手、霧の中に僅かに見える白い社は伊勢神宮。
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真新しい伊勢神宮の社。
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2013年10月の式年遷宮の後、真新しい社になったのかもしれない。何でも書き留めておきたい小生、社に掲げられた神社名を書きとめておこうと思うも余りの多さにギブ・アップ。
ウィキペディア「三峯神社」を開いてみると、全て記載されていた(ウィキの記述は時折、間違いもあるが、やはり便利)。
ひとつずつ、神社名を見ていくと、神社は結構訪ねているが、馴染みのある名、そうでないものなど、いろいろあり、それらについて、一口コメントを記しておこう。
------------------------------------
御仮屋(大口真神)
祖霊社(開山以来の歴史の祖霊、勤山者、氏子総代又各地の三峯講社関係者や講元、世話人)
国常立神社(国常立尊・瓊瓊杵尊・神倭岩余彦尊)
日本武神社(日本武尊)・・・堺ポタリングの際、大鳥大社を参拝、日本武尊像を眺めたなあ...。
伊勢神宮(天照皇大御神・豊受姫大神)・・・小学校の修学旅行以来、幾度か参拝。直近は2013年の式年遷宮後。
月讀神社(月夜見命)・・・土浦ポタリングの際に、月讀神社なる神社の存在を知った。
猿田彦神社(猿田彦命・天宇受賣命)・・・伊勢参りの際には、こちらの神社にも。
塞神社(八衢彦神・八衢姫神・久那斗神)・・・すみません、馴染みのない名の神社です。
鎮火神社(火産靈命・水速女命・埴山姫命)・・・同上
厳島神社(市杵嶋姫命)・・・幾度か参拝しています。
杵築神社(大国主命・事代主命)・・・「きづきじんじゃ」、すみません、馴染みのない神社です。
琴平神社(大物主命・崇徳天皇)・・・讃岐のこんぴらさん、786段マイナス1段下がり785段の石段、更に奥の院にも。
屋船神社(屋船豊受姫命)・・・「さいじんじゃ」、すみません、馴染みのない神社です。
稲荷神社(宇迦御靈命)・・・各地で。
浅間神社(木花開耶姫命)・・・各地で。
菅原神社(菅原道眞)・・・天満宮、天神社、各地で。一浪後は京都北野の天神さんだった。感謝!
諏訪神社(武御名方命)・・・各地で。勿論、諏訪大社も。
金鑽神社(天照皇大御神・素盞嗚神・日本武命)・・・「(かなさなじんじゃ」、武蔵国五ノ宮としてその名を知る。
安房神社(天太玉神)・・・安房国総社の鶴谷八幡宮は訪ねたが、安房国一ノ宮の安房神社は欠礼した。
御井神社(水速女命)・・・「みいじんじゃ」、すみません、馴染みのない神社です。
祓戸神社(瀬織津姫命・速開都姫命・氣吹戸主命・速佐須良姫命)・・・「はらえどじんじゃ」、すみません、馴染みのない神社です。
東照宮(徳川家康)・・・東照宮といえば、日光。江戸府内では上野と芝。
春日神社(武甕槌命・天兒屋根命・齋主命・比賣神)・・・奈良の春日大社、そして、各地で。
八幡宮(誉田別命・息長帶姫命・比賣神)・・・各地で。
秩父神社(八意思兼命・知知夫彦神)・・・今回の三峯神社参拝の前に「知知夫神社」にも。
大山祇神社(大山祇命)・・・ドライブで、そして、しまなみ海道ポタリングで。
二ツ宮(大山祇命)・・・「ふたつみや」?、さて?
------------------------------------

二代目講元に、いろいろな山や神社の講があるが、何故、三峯講になったのかと尋ねたところ、三峯神社にはいろいろな神社が集まっているからとのことであった。
摂社末社の社が並ぶ光景を見て、なるほど!と思った。

霧の中の掲載散策を終え、社務所の前を通った。
齢を重ねた昨今、余り関係のなくなった「厄年表」だが、下段の「昭和23年」の文字が目に入った。
a0289546_740719.jpg
「年祝い表(数え年)」のところに「古希 昭和23年」とある。
そうだったんだ、今年、数え年で古希だったんだ。
しかし、既に誕生日は過ぎている。
何事も満年齢で過ごして来ている。
家族でやってくれた還暦の祝いも満年齢であった。
来年、祝って貰おう、生きていれば、のことだけどね...。

フォト:2017年5月17日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-20 23:33 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 20日

『三峯神社参拝/霧中散策(中)』 mj-2

5月17日(水曜)、曇り、18日(木曜)、晴れ。
三峯講の講元である極々近しい人から誘われ、一泊二日の三峯神社参拝の旅に出掛けた。
初日は、奥ノ院参拝、三峯神社興雲閣泊、二日目、早朝に拝殿でご祈祷を受けるとの旅程にて。

三峯神社に到着。
霧により奥ノ院参拝は中止。
霧、霧、霧の境内を散策する。
先ず、遥拝殿(見晴台)へ、霧の彼方と下界を眺めたあと、一つ目の鳥居や随身門で、鳥居の姿、門の姿、門の天井画、<狛狼>像を眺め、楽しみながら、更に参道を進む。

参道脇に鎮座する<狛狼>。
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狛犬コレクション。
右、<狛狼>阿形像。
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a0289546_1124074.jpg
左、<狛狼>吽形像。
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a0289546_1175114.jpg
a0289546_11222574.jpg
先ほどの随身門脇で眺めた<狛狼>の印象を「通常、狛犬の表情は、吽形像より阿形像の方が厳しく見える。だが、この<狛狼>は吽形像の方が厳しい表情に見える。これは、阿形像、吽形像の「犬歯」の作りの違いによるものかもしれない」と綴った。
一方、この参道の阿吽形像を見比べると、先ほど、随身門での印象とは異なり、通常通り、阿形像の方が厳しい表情に見える。
それは何故か。
この吽形像は「犬歯」が見えていない、それが表情を優しく見せ、その比較において、阿形像の表情が厳しく見えるのではないかと思うのであった。

参道脇に並ぶ石碑。
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「奉納 苗木〇〇本 昭和〇〇年〇月〇日 〇〇講社」と何れの石碑にも苗木の奉納の旨が刻まれている。
今回、お誘いを受けた講の苗木奉納の石碑を見つけた。
「創立二十周年記念 昭和四十七年晩夏」と刻まれていた。
昭和47年で創立20周年ということは、創立は昭和27年、西暦1952年である。
となると、今年で創立65年という歴史ある三峯講であることが分かった。
そして、現在の講元は親父さんから引き継いだ二代目、石碑に刻まれた講元の名は初代講元であった。
二代目講元は、二十周年の石碑が作られたことは知っているものの、その所在地は知らなかったとのことで、小生の<発見>を喜んで貰えた。
小生の趣味のひとつである史跡めぐりで石碑を見るのが好きなので、それが講の記念碑<発見>に効を奏したということかと自画自賛。

社殿に向かう石段に至る。
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石段、中ほどの左右に<狛狼>が鎮座。
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右、<駒狼>阿形像。
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肋骨が浮き出ている。
先ほどの随身門脇の阿形像(石像)も肋骨が浮き出ていたが、然程、気になるものではなかったが、こちらはリアルだ。
リアルなところをアップで。
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右横顔を。
こちらは光線の具合で、阿形像の口の開き方がよく分かる。
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アップで。
「犬歯」に水滴が見える。
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正面顔。
「しょうめんがお」というよりも「しょうめん、ガオー」である(なんちゃって)。
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左、<駒狼>吽形像。
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アップで。
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右横顔の表情は光線の具合でよく見えない。
光線の具合がよい左横顔で表情を観察。
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吽形像は、すまし顔。
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正面顔はこんな感じ。
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随身門や参道で見た<狛狼>の耳は立っていた。
こちらの石段の<狛狼>は耳が長く、後ろへ寝ており、どちらかというとオオカミ的ではない。
本物のオオカミの耳は立っているはずと思い、念のため、図鑑を紐解き、確認。
耳は立っていた。

石段を上り切る。
鳥居、手水舎、そして、社殿。
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扁額コレクション。
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極彩色の手水舎。
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手水舎で、龍コレクション。
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拝殿に向かい、二礼二拍一礼。
そして、扁額コレクション。
明朝は昇殿参拝、拝殿に上がっての参拝、そして、ご祈祷を受けるのだなあと思いながら...。
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扁額コレクション、龍コレクション、そして、念願の<狛狼>コレクションが叶った。
<狛狼>コレクションは、遥拝殿(見晴台)近くの鳥居(ここでの<狛狼>は翌朝の”取材”となるが)、随身門、参道の途中、そして、石段中程と、四対に出遭うことが出来た。
大満足!

まだまだ、霧の中の境内散策は続く。

フォト:2017年5月17日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-20 23:32 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 20日

『三峯神社参拝/霧中散策(上)』 mj-1

5月17日(水曜)、曇り、18日(木曜)、晴れ。
三峯講の講元である極々近しい人から誘われ、一泊二日の三峯神社参拝の旅に出掛けた。
初日は奥ノ院参拝、三峯神社興雲閣泊、二日目は早朝に昇殿参拝、その後、長瀞ライン下りと川越観光という旅程にて。

17日(水曜)、昼過ぎ、三峯神社に到着。
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下界は曇り空であったが、三峰山頂(標高1102m)に鎮座する三峯神社とその周辺は霧に包まれていた。
妙法ヶ岳(標高1329m)の山頂に鎮座する奥宮参拝は、山道を登山して片道約1時間。
講元の「霧が立ちこめており、天候不良。安全を優先」との判断で奥宮参拝は取り止めとなった。
山道を往復2時間はちょいと辛いかも、しかし、参らねば罰当たりになりかねないし、と思っていたこともあり、何やらほっとする。

一先ず、投宿先の興雲閣に入り、昼食を摂り、一服。
興雲閣の案内を見ると、やはり、霧のことに触れている。
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三峯山のある奥秩父までは、都心からわずか2時間。
神秘感漂う森林には、樹齢1000年の老杉・古檜をはじめとする針葉樹、また、栃・欅などの広葉樹の巨木が生い茂っています。
夏ともなると、山は時折深い霧に覆われ、霊山の名にふさわしい厳かな姿を見せてくれます。
--------------------------------

霧が立ち込める境内を抜け、遥拝殿(見晴台)へ。
遥拝殿(見晴台)は妙法ヶ岳山頂の奥宮を遥拝する場所、そして、下界が一望できる場所だが、彼方も下界も霧、霧、霧。
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遥拝殿(見晴台)から境内を散策しながら社殿へ向かうこととする。

三峯神社は、秩父神社、宝登山神社とともに秩父三社の一社。
狼を守護神とし、狛犬の代わりに神社各所に狼の像が鎮座している。
これまで各地の神社に参った際、<狛犬コレクション>といってもよいくらいに数々の狛犬を眺め、カメラに収めて来た。

三峯神社を参拝し、ご利益を頂戴することは勿論のことながら、<狛犬>ならぬ<狛狼>を見るのも楽しみのひとつとして当山に赴いた。

三峯神社のホームページを紐解くと次のようなことが書かれている。
----------------------------------
三峯神社は、日本武尊がこの国の平和と人々の幸せを祈り、国生みの神、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)をお祀りしたのが始まりです。
お使い(神様の霊力を受け、神様と同じ働きをするとして仰がれる動物)はオオカミです。
日本武尊の道案内をされ、その勇猛、忠実さから、当社の使い神に定められたと伝えます。
また、オオカミとは、三峯山の不思議な霊気を言うと古書にも見え、大口真神(親しみを込めてお犬様、ご神犬、御眷属様とも呼ばれる)は、あらゆるものを祓い清め、さまざまな災いを除くと言われます。
古くからこの御眷属様を御神札として一年間拝借し、地域の、或いは一家のご守護を祈る事が行われています。
これを御眷属拝借と呼び、火盗除、病気除、諸難除の霊験あらたかです。
御眷属を拝借されて一家の無事息災をお祈りください。
----------------------------------

これを読むと、狼の像を<狛狼>などというのは憚られるが、<狛犬コレクション>の流れでということで、お許し願おう。

遥拝殿(見晴台)から参道へ向かう一つ目の鳥居と、<狛狼>。
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右上に<狛狼>が写っているが、このときは<狛狼>の存在に気づかず、気づいたのは翌朝のことであった。
翌朝、撮った阿形像と吽形像の<狛狼>は続編でアップロードすることとしたい。

参道を進む。
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霧の向こうに薄っすらと随身門の姿が。
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随身門。
左右に、<狛狼>阿形像、吽形像が鎮座。
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扁額コレクション。
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狛犬コレクション。
右、<狛狼>阿形像。
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左、<狛狼>吽形像。
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<狛狼>阿形像、吽形像を随身門右角から。
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通常、狛犬の表情は、吽形像より阿形像の方が厳しく見える。
だが、この<狛狼>は吽形像の方が厳しい表情に見える。
これは、阿形像、吽形像の「犬歯」の作りの違いによるものかもしれない。

随身門を抜けながら天井を見上げると、薄っすらと龍の天井画が見える。
狛犬コレクションに続き、龍コレクションも。
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更に、鶴の天井画も見える。
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随身門を抜け、参道を進む。
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フォト:2017年5月17日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-20 23:31 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 19日

『秩父神社参拝』

5月17日、曇り。
秩父神社参拝。

本殿の前で巫女さんから御神酒を頂戴する。
参拝を終え、社殿の東西南国に施された数々の彫刻を見学する。
禰宜さんの案内付きなのだが、<独自取材>が忙しく、付いて行くには遅れ気味。
彫刻のハイライトは<龍コレクション>でもある左甚五郎作「つなぎの龍」。
「つなぎの龍」の登場前から、順を追ってアップロードしていきたい。

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扁額コレクション+早速の、龍コレクション。
額縁には龍の彫り物あり。
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本殿中央の、正体不明の彫刻。
袴をはいた何者かが本殿の梁をよじ登ろうとしているようにみえるが、さて?(備忘録:秩父神社に機会あれば確認しておきたい)
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こちらの彫刻は麒麟と獅子。
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社殿は本殿・幣殿・拝殿の三棟からなる権現造り。
社殿の周囲には数々の彫刻があり、それらを時計回りで見学。

「子宝・子育ての虎」。
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説明板に目を通す。
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子宝・子育ての虎
まだ群雄割拠の戦国時代、当社は甲斐の武田信玄公の手により永禄12年(1569年)に焼失の後、徳川家康公のお力により現在の御社殿が再建されました。
家康公は寅の年、寅の日、寅の刻生まれということで、虎にまつわる話がすくなくありません。
それにちなんでか、当社の拝殿前は四面にわたって虎の彫り物が施されています。
特に拝殿正面左より二つ目の子虎と戯れる親虎の彫刻は名工“左甚五郎”が家康公の威厳とご祭神を守護する神使として彫刻したものと伝えられています。
当時の狩野派では、虎の群れの中に必ず一匹の豹を描くことが定法とされていたことから、母虎があえて豹として描かれているのが特徴的です。
いずれに致しましても、子育てにちなんだ虎の逸話は数多く、お子様やお孫様の健やかな成長をお祈りするにあたり、この「子宝 子育ての虎」の縁起物をお持ち帰り戴きますようご案内申し上げます。

親の心得
赤子には肌を離すな
幼児には手を離すな
子供には目を離すな
若者には心を離すな
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説明の中に「当時の狩野派では、虎の群れの中に必ず一匹の豹を描くことが定法とされていたことから、母虎があえて豹として描かれているのが特徴的」とある。
今一度、眺めてみる。
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確かに、豹である。

「お元気三猿」。
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「お元気三猿」について
三猿といえば日光東照宮が有名ですが、同じ徳川家康縁りの御社であるにも拘らず、当社の三猿は日光とはまったく違った表情をしています。
日光が古来の庚申信仰にちなんで「見ざる・言わざる・聞かざる」なのに対し、当社の三猿は「よく見・よく聞いて・よく話そう」ということで、現代の情報化社会にふさわしく、俗に”お元気三猿”として皆様に親しまれています。
当社の祭神である妙見様は、神仏の中心にあって、人間の元気な命を司る神様として永く信仰されてきたことから、特に不老長寿のご利益があると言われています。
今や人生100年とも言われる高齢化時代、この三猿にあやかって皆様がいつまでもお元気で、笑顔の絶えることのない生活ができますよう、参拝の機に「お元気三猿」の特製絵馬やお守りをお受けになり、従前にも増して見聞を深めつつ、家族友人共々に旅の土産話に興じて戴きますようご案内申し上げます。
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お元気三猿は何処に居るのじゃ?
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下段の左側じゃ。
おお、居た、居た。
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龍コレクション。
龍の蒐集家としては、「お元気三猿」に加え、どうしても上段中央の「お元気龍」に惹かれてしまう。
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後ほど、登場する「つなぎの龍」はしっかりとした由緒があるが、この緑の龍については特に説明書きはない。

「北辰の梟」。
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説明板に目を通す。
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「北辰の梟」について
ご本殿北側中央に彫刻された梟は、「北辰の梟」といって、菱川師宣描く有名な「見返り美人」よろしく、体は正面のご本殿に向き、頭は正反対の真北を向いて昼夜を問わず、ご祭神をお守りしています。
当社のご祭神と特に縁りの深い瑞鳥であると言えるでしょう。
洋の東西を問わず、梟は知恵のシンボルとして考えられており、当社のご祭神、八意思兼命(やこころおもいかねのみこと)が知恵の神として崇敬の篤いことと重ねて、思慮深い神使として社殿北面に施されたものと思われます。
このご利益にちなんで、机上において学業成就の霊力を得る「梟の置物」をはじめ、「梟=不苦労」に通じることから、開運招福の標とし、身につけて招福を願う「梟根付守り」など、参拝の記念にお受け戴きますようご案内申し上げます。
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「北辰の梟」を少し、アップで。
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「北辰の梟」よりも、柱に描かれたセミかウチワエビ、いや、これもフクロウと思えるのような図柄に轢かれた。
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「つなぎの龍」。
伝 左甚五郎の作。
この日、最大の龍コレクション。
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説明板に目を通す。
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---------------------------------
「つなぎの龍」
その昔、秩父札所十五番少林寺近くに、「天ヶ池」という池がありました。
その池に棲みついた龍が暴れた際には、必ずこの彫刻の下に水溜りができていたことからこの彫り物の龍を鎖で繋ぎ止めたところ、その後、龍は現れなくなったという不思議な伝説が伝わっています。
ご本殿東側で鎖に繋がれた青い龍の彫刻こそ、この伝説に語られた「つなぎの龍」の姿なのです。
昔から日本人は家や地域の四方を青龍・朱雀・白虎・玄武という神使が守っていると信じてきました。
この彫刻も、当社の東北(表鬼門)を守護する青龍の姿を、名工 左甚五郎が社殿彫刻に施したものなのです。
往古より家の鬼門に神仏を祀り、家内の安全と子孫の繁栄とを祈ることが行われてきました。
夫婦や親子といった家族の絆が見直されている現代にあって、多くの庶民の願いは今も昔も変わりありません。
この「つなぎの龍」の特製絵馬を各ご家庭の居間や東北の角にお祀り戴き、ご家族皆々様のお幸せをどうぞお祈りください。
---------------------------------

どう繋がれているのであろうかと、今一度、「つなぎの龍」を眺める。
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よく見えない。
で、更にズーム・アップ。
先ず、左側を、そして、右側を。
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鎖が見える。
繋がれた青龍、跳ねる兎、物静かな山鳥、左甚五郎作の彫刻に大満足!

天神地祇社。
通り過ぎようとしたが、ちらっと見た説明板の「総社」の文字に目を惹かれた。
各地の国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社めぐりをしていることもあって、これは大事と思い、じっくりと説明板に目を通した。
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天神地祇社(てんじんちぎしゃ)について
平安時代から中世にかけて、朝廷の「二十二社」奉幣制度と共に、全国の各国毎に「一ノ宮」「総社」の運営、祭祀の尊重が図られるようになりました。
かつて、秩父地方は、知知夫国として独立した存在でありましたが、その当時には既に武蔵国に属しており、現在の東京都府中市に鎮座致します大国魂神社(別称 六所宮)が武蔵国の総社とされ、その第四ノ宮に当社のご祭神が奉祀されました。
古くから当神社の境内社の一つとされて参りましたこの天神地祇社は、全国の一ノ宮(計七十五座)をお祀りしています。
これほど多くの一ノ宮の神々を、境内社としてお祀りしている事例は全国的に珍しいものと思います。
何故、このような形でお祀りされたのかは定かではありませんが、一説によると、当社のご祭神である八意思兼命(やこころおもいかねのみこと)が多くの神々の意見を纏められ、折々のご聖断を下される神様として古典神話の中で活躍されていることから、たくさんの一ノ宮の神様がお祀りされたとも云われています。
ともあれ、これも秩父の歴史風土に深く根ざした独自の信仰の表れであると云えるかもしれません。
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この説明板に目を通しながら、国府跡・国分寺跡・国分尼寺跡・総社めぐりの一環で、昨夏、武蔵国総社、大国魂神社を訪ねたときの「總社六所宮」と刻まれた<扁額コレクション>を、当時、綴ったブログにアップロードしていたので、そのブログを紐解いてみた。
「總社六所宮」と刻まれた扁額の写真と共に次の通り綴っていた。
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古代、中央から諸国に派遣された国司はその国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。
武蔵国では、ここ、大國魂神社が総社となった。
大國魂神社は、武蔵国の一之宮から六之宮までを合わせ祀ることから、扁額にもある通り、「六所宮」とも呼ばれる。
因みに、武蔵国の一之宮から六之宮は次の通りである。
一之宮:小野神社(東京都多摩市)
二之宮:二宮神社(東京都あきる野市)
三之宮:氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区)
四之宮:秩父神社(埼玉県秩父市番場町)
五之宮:金鑚神社(埼玉県児玉郡神川町)
六之宮:杉山神社(神奈川県横浜市緑区)
各地に六所神社があるが、総社も含め六社というところもあれば、ここ、武蔵国のように六社+総社というところもある。
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天神地祇社、全景。
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奉献酒。
神社で奉献酒を見るのも楽しみのひとつである。
地酒の銘柄を知ることが出来るので...。
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日本酒のみならず、ウィスキーもあり。
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リーフレット/「知知夫の総鎮守 秩父神社」。
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平成二十六年 御鎮座弐千壱百年
知知夫国の総鎮守
秩父神社

ご祭神
八意思兼命 (やごころおもいかねのみこと) 政治・学問・工業・開運の祖神
知知夫彦命 (ちちぶひこのみこと) 知知夫国の初代国造・秩父地方開拓の祖神
天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ) 北辰妙見として鎌倉時代に習合した神
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう) 先帝昭和天皇の弟宮様。昭和28年に合祀

ご由緒
平安初期の典籍「先代旧事記-国造本紀-」によれば、人皇第十代、崇神天皇の御代、知知夫国の初代国造に任ぜられた知知夫彦命が、祖神である八意思兼命をお祀りしたことに始まります。

社殿
戦国時代の末期に兵火によって焼失したるものを、天正20年(1592年)9月、徳川家康公が大旦那となって、代官である成瀬吉衛門に命じて再建されたのが現在のご社殿です。
建築様式は、本殿・幣殿・拝殿の三棟からなる権現造りで、極彩色に彩られた数多の彫刻群に覆われた豪華な造りとなっており、建造時の棟札と共に埼玉県の重要文化財に指定されています。
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さて、次は標高1102mの三峰山に鎮座する三峯神社へ。
もちろん、バスで。

フォト:2017年5月17日
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# by ryujincho | 2017-05-19 23:31 | 秩父の旅 | Comments(0)
2017年 05月 18日

『下がり藤 Part 2』

5月2日付けブログで「下がり藤」のことについて縷々綴った。
『下がり藤』
信濃岩村田藩内藤家の家紋とそれに纏わる話の〆として、「大給守殿の御屋敷の『下がり藤』、そして、旧中込学校の『下がり藤』の景色が目に浮かぶ」と結んだ。

そうこうしている中、5月15日、大給守殿から旧・中込学校の藤の写真が送られて来た。
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旧・中込学校は国内の学校建築のうち現存する最古級の擬洋風建築物。
近年、改修工事を終え、往時の姿を再び現した。
藤の色と白い校舎の色が佳き雰囲気を醸し出している。

更に、5月18日、大給守殿殿から、「砂ずりの藤」と題し、御屋敷の庭の藤の写真が送られて来た。
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確かに、「砂すりの藤」である。

今年も藤の花を大いに楽しんだ。
残るは、「金は内藤 志摩守 裾からぼろが 下がり藤」と領民が揶揄したように、信濃岩村田藩内藤家の財政が逼迫したのはいつの時代であったか、これの解明のみである。

砂ずりの 裾たくし上げ 志摩守   霹靂火

5月2日付けブログでは家紋の「下がり藤」について縷々触れたが、ここでは家紋の「上がり藤」について少々触れておきたい。

「上がり藤」の由来を調べたところ、諸説あるが、「下がり藤」の家紋家が本家・分家の区別をつけるために「上がり藤」が作られたとか、家の勢力が下がるのを嫌って運気を上げる「上がり藤」にしたという説が有力のようだ。

「下がり藤」は下へ垂れ下がるという自然の摂理に従って作られた家紋であり、運気を下げるというようなことは当たっていないと思うのだが、如何であろうか。

来年は白い藤をメインに写真を撮ってみようと思っている。

フォト:2017年5月15日、18日、大給守殿提供
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# by ryujincho | 2017-05-18 23:31 | 花紀行 | Comments(0)
2017年 05月 13日

『江戸川ポタリング/業平山南蔵院(下)』 ed-9

5月12日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、松戸駅まで輪行。
そこから、江戸川左岸の「矢切の渡し」、「野菊の墓文学碑」をめぐる。
野菊の墓文学碑の傍で「国府台合戦地跡」を<新発見>というおまけもあり、これだからポタリングは止められないと改めて思うのであった。
江戸川左岸から新葛飾橋を渡り、江戸川右岸の水元公園を経て、この日、最後の立ち寄り先、「しばられ地蔵」の南蔵院を訪ねた。

南蔵院の山門や手水舎、鐘楼をカメラに収め、本堂、地蔵堂、太子堂、そして、しばられ地蔵尊を参拝。
そのほか、境内でいろいろと<いいもの>を見学し、南蔵院は「しばられ地蔵尊」や「大岡政談」のみならず、「在原業平ゆかりの地」でもあるなど、いろいろと知ることとなった。

それらの、いろいろ<いいもの>をここに列挙しておこう。

風に揺れる「しばられ地蔵尊」。
南蔵院の絵馬は、カワユく描かれた「しばられ地蔵尊」である。
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「出世牛」。
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牛といえば、天神さまだが、こちらは寺院。
脇の立て札に「牛に跨ると出世する」とある。
足元には、小さな牛が2頭、子連れ牛であろうか。
この場を離れたあと、「これ、鼠?」、「鼠じゃないよ、牛だよ、出世牛。跨ると出世すると書いてあるよ」との参拝客の会話が聞こえる。
鼠か、遠目にはそう見えてもおかしくはない姿をした牛である。

出世牛の後ろには、藤棚が設えられている。
藤の花の季節は過ぎたが、花の頃には境内に、文字通り、花を添えるのであろう。
来年が楽しみである。

藤棚の下に石碑がある。
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光っているので、刻まれた文字がよく見えない。
目を凝らして見てみる。
「しばられ地蔵音頭」の文字が見て取れた。
-----------------------------
しばられ地蔵音頭
作詞 岡田 進
作曲 長谷川堅三

むかし業平いま水元に
ときは変れど変らぬものは
願いかけますしばられ地蔵
詣りつづけてあの人あの娘
しばりましょうよ願かけ祈ろ
祈りゃ願いが笑顔にかわる

学び失せもの待ち人いとし
遠くかしこい越前さまも
願いかけますしばられ地蔵
今日も来る来るあの人あの娘
しばりましょうよ願かけ祈ろ
祈りゃ願いが笑顔にかわる

四十世 歓順代
-----------------------------

当地に移転して来た寺の歴史もきちっと織り込まれた、なかなかよく出来た音頭である。

藤棚。
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藤棚下から本堂を眺める。
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手前の置き石が「舟石」。
「白御影の砂利は隅田川、参道は業平橋、右手の石は業平の舟石です」とパンフレットに書かれたあった、あの舟石である。

本堂の前に立派な松がある。
その名も「聖徳の松」、樹齢450年。
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支柱コレクション。
この松の面白いところは、その枝ぶりに加え、その支柱が珍しいことである。
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数年前、盟友、大給さんの国許御屋敷の松の支柱を検討すべく、手始めに、鎌倉・瑞泉寺の梅の支柱をコレクションして以来、支柱が気になるようになり、コレクションするようになった。
松の枝を支える支柱そのものは<T型>で、極々普通の型である。
だが、支柱に奉納者の名が墨書されているのは大変珍しい。
これまで、あちらこちらで支柱を見て来たが、奉納者の名が記された支柱を見るのはこれが始めてである。
新たな「支柱コレクション」が出来た。
大給守さんに報告しておこう。
御屋敷庭の松の支柱に「施主 大給守 平成〇〇年〇月吉日」と墨書するのも面白いと思うので...。

話が反れて、支柱コレクションの話になってしまった。
「聖徳の松」の話に戻そう。

先ほど、境内の奥に並んだ、地蔵堂、しばられ地蔵尊、そして、太子堂を参拝しながら、何故、当院に太子堂があるだろうと思ったが、当院のホームページを見たところ、に太子堂のことや聖徳の松のことが次の通り記されていた。
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太子堂
本尊聖徳太子は日本文化の始祖、当地に鎮座して300年、萬能の守護として尊崇され、殊に除厄災招福家運隆盛商売繁盛に霊験あらたかなりといわれています。
建物は旧聖徳寺の本堂の一部で、間口三間、奥行一間の茅葺切妻造りでしたが、昭和55年に瓦葺の八角堂に建て替えられました。
その折、太子堂修復、造立に関する棟札が2枚発見されました。
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霊松 聖徳の松
樹齢四百五十年といわれる老松です。
南蔵院の現在地には、もと聖徳寺という天台宗の寺院があり、聖徳太子像を本尊として安置していました。
明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈運動によって荒廃したものと思われます。
この霊松は、南蔵院の太子堂に安置する尊像をはじめ、多くの石仏とともに残された貴重な遺産です
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なるほど、この地には聖徳太子を本尊とする聖徳寺なる寺院があったのである。
前掲の「聖徳の松」の写真のキャプションに「本堂の前に立派な松がある。その名も聖徳の松、樹齢450年」と前述したが、「本堂の前にある」というよりも「太子堂の前にある」と言った方が正しいかもしれない
因みに、当院の本尊は釈迦如来である。

荒縄に縛られた、だるま。
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このだるまが「しばられ地蔵に由来し、厄除けから縁結びまで、あらゆる願い事を結ぶ開運の縁起もの『結びだるま』。大晦日と元旦の二日間、江戸情緒あふれる『結びだるま市』を開催しております」とホームページに書かれている、その『結びだるま』なのである。
ということで、荒縄で縛られているのではなく、縄で海運の縁を結んでいるのである。

大晦日か元旦の「結びだるま市」の頃にまた訪ねてみたい、藤の花の季節にもまた訪ねてみたいと思いながら、南蔵院をあとにした。

ちょこっと出掛けたつもりであったが、「矢切の渡し」、「野菊の墓文学碑」、「国府台合戦地跡」、「水元公園」、「南蔵院」と全9話にも亘る、盛りだくさんな1日であった。

フォト:2017年5月12日

(完)
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# by ryujincho | 2017-05-13 23:39 | 江戸川ポタ/矢切~水元 | Comments(0)
2017年 05月 13日

『江戸川ポタリング/業平山南蔵院(中)』 ed-8

5月12日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、松戸駅まで輪行。
そこから、江戸川左岸の、矢切の渡し、野菊の墓文学碑をめぐる。
野菊の墓文学碑の傍で「国府台合戦地跡」を<発見>というおまけもあった。
江戸川左岸から新葛飾橋を渡り、江戸川右岸の水元公園を経て、「しばられ地蔵」の南蔵院へと向かう。

業平山南蔵院。
山門を眺める。
山門をくぐり、境内を眺める。
当院の由緒に触れ、在原業平ゆかりの寺であることを知る。
境内を進む。

手水舎。
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手水鉢。
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「足元のペダルを踏むと水だ出ます」。
節水のための設備投資かも。
ペダルを踏んで...。
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龍コレクション。
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鐘楼。
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本堂。
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扁額コレクション/「業平山」。
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境内奥、右から、地蔵堂、しばられ地蔵尊、太子堂。
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地蔵堂。
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太子堂。
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しばられ地蔵尊。
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右側の箱に「願かけ縄 一本 百円」も文字が、その後ろに、新しい荒縄が掛けられている。
地蔵尊の両脇に「解き縄入れ」と書かれた桶が置かれている。

しばられ地蔵とは。
(南蔵院ホームページより)
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しばられ地蔵尊は、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。
像高1メートルほどの石の地蔵尊で、元禄14年(西暦1701年)の造立と伝えられています。
「文政寺社書上」によると、この地蔵尊は諸願成就、殊に難病平癒に霊験があり、信心の者が祈願するときは地蔵尊を縄で縛り、成就したときには縄を解くことから、しばられ地蔵と称したと記されています。
毎年12月31日(大晦日)の夜、しばられ地蔵尊の縄解き供養が行われます。
また、大晦日と元日には厄除けから縁結びまで、あらゆる願い事を結ぶ開運の縁起・「結びだるま市」が開かれます。
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ぐるぐる巻き。
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背には江戸情緒を醸し出す奉納額。
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やさしげなお顔。
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しばられ地蔵の由来。
(南蔵院ホームページより)
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江戸時代の享保年間、八代将軍徳川吉宗の治世。
日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。
調べに当たった名奉行、南町奉行大岡越前守忠相は、「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じました。
かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻され南町奉行所へ。
物見高い野次馬が、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれ込みました。
頃を見計らった越前守は門を閉めさせ「天下のお白州に乱入するとは不届至極、その罰として反物一反の科料申附ける」の一声、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。
手代に調べさせるとその中から盗品が出て、それからそれへと調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。
越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行いました。
以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれ、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。
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南蔵院のしばられ地蔵尊を参拝したことでもあり、今一度、時代劇「大岡越前守」の「しばられ地蔵」をみてみたいものである。

しばれれ地蔵のことを調べていたところ、品川区の願行寺境内に承応元年に造立されたしばられ地蔵があるという記事をみつけた。
承応元年は西暦でいうと1652年。
大岡越前守忠相は徳川幕府8代将軍吉宗の時代、享保の改革の頃に町奉行を務めていた人物である。
享保は西暦でいうと1716年から1735年までの時代。
となると、願行寺のしばられ地蔵の方が古いこととなる。
しばられ地蔵の言い伝えは各地にあるのかもしれない。

港区元赤坂の豊川稲荷東京別院は、大岡越前守忠相が豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とする。
南蔵院のしばられ地蔵を参拝したことで、「ゆかりの地」を訪ねるのが好きな小生、これで、大岡越前守ゆかりの地、二ヶ所を訪ねたこととなる。

更に、境内をめぐる。

フォト:2017年5月12日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-13 23:38 | 江戸川ポタ/矢切~水元 | Comments(0)
2017年 05月 13日

『江戸川ポタリング/業平山南蔵院(上)』 ed-7

5月12日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、松戸駅まで輪行。
そこから、江戸川左岸の、矢切の渡し、野菊の墓文学碑(その傍で国府台合戦地跡を<発見>)をめぐり、新葛飾橋を渡り、江戸川右岸の水元公園を訪ねたのち、「しばられ地蔵」の南蔵院へと向かう。

南蔵院の「しばられ地蔵」について。
いつぞや、テレビ時代劇「大岡越前守」で「しばられ地蔵」なるものを観た。
単なる物語と思いきや、大岡政談の中の有名な話のひとつであることを知った。
そのときから、荒縄でぐるぐる巻きにされた「しばられ地蔵尊」にお目に掛かりたいと思い続けていた。
そんなことで、この機会に南蔵院を訪ねてみたのであった。

南蔵院山門。
超広角レンズで。
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「天台宗業平山南蔵院」。
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「江戸名所 縛られ地蔵尊」。
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山門脇の案内板に目を通す。
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史跡 しばられ地蔵尊
当山は業平山東泉寺南蔵院と号し、貞和4年(約600年前)林能法師の開創に成り、境内の地蔵堂には「しばられ地蔵尊」が安置されている。
「しばられ地蔵尊」は、昭和4年、旧本所区中之郷(墨田区吾妻橋3丁目)から寺とともに移転してきた。
大岡政談の一つとしても有名である「しばられ地蔵尊」は昔より、盗難除け、足止め、厄除け、あらゆる願いごとを叶えるとして祈願するものが多く、祈願者は先ず地蔵尊を荒縄でしばり、成就の暁にはこれを解く風習となっている。
南蔵院
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山門脇の小口から境内に入る。
山門と同様、境内もよく整えられている。
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「パンフテット、自由にお持ちください」。
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パンフレットを頂戴し、目を通す。
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南蔵院のはじまり
伊勢物語で知られる平安時代の歌人 在原業平が東下りの際に、隅田川で舟遊びをした時、船が転覆して多くの人が亡くなりました。
業平はその人々を弔い、像を刻み村人に与え、法華経を写経して塚に納めました(業平塚)。
その傍らに南蔵院が創建されました。
そこには橋が架け渡され、業平橋と名付けられました。
南蔵院の境内はその隅田川の様子を表したものです。
白御影の砂利は隅田川、参道は業平橋、右手の石は業平の舟石です。
古(いにしえ)の世に思いを馳せつつ眺めていただければ幸いです。

名にし負わばいざこと問はむ都鳥
わが思う人はありやなしやと   
在原業平 
渡し舟に揺られ詠みし歌
-----------------------------

山門脇の標柱に刻まれた山号「業平山」を見て、在原業平に関係があるのかな?と思ったが、やはり、在原業平ゆかりの寺であったのだ。

パンフレットに「白御影の砂利は隅田川、参道は業平橋、右手の石は業平の舟石」とある。
今一度、境内を眺める。
確かにそのように整えられていることが見て取れる。
当院のご住職は几帳面な方なのだと想像する。

山門脇の案内板によれば、当院は昭和初期に墨田区吾妻橋3丁目から当地、葛飾区東水元2丁目に移転してきたとある。
境内の「白御影の砂利は隅田川、参道は業平橋、右手の石は業平の舟石」の設えを眺めていると、以前の地である隅田川や業平橋の辺りにいるような気分になって来る。

都内ポタリングで幾度か業平橋付近を走っている。
マイ・ブログで業平橋のことを綴った記憶がある。
探してみた。
2011年8月のポタリングで業平橋を訪ねた際のことを綴ったブログがあった。
『大江戸大周遊/東京電波塔&東京天空塔巡察ポタ』 第6話
読み返してみた。
業平橋のことは第6話に綴っているが、第1話から全部読み返してみた。
当時のことが蘇る。

業平橋について、ウィキペディアを参照してみた。
面白い記述がある。
それは、最近、古墳めぐりに凝っており、「業平塚」なるものについて、上代の舟形式古墳との説もあるという記述に目を惹かれたのであった。
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業平塚
この橋の名の由来となった業平天神社(現存せず、現、墨田区吾妻橋3丁目6番)は、南蔵院(現、葛飾区東水元、昭和元年に転出)の境内にあった神社である。
江戸時代初期に開かれたといわれ、その由緒は、在原業平が亡くなった場所に建てられた業平塚に由来する(『江戸名所記』)といわれるが、業平塚については、力士成川運平の墓が業平の墓に転じたという説(『遊歴雑記』)、里見成平の墓という説(『本所雨やどり』)など諸説あり、『江戸名所図会』には「当社の伝説粉々として詳らかならず。」と記されている。
歴史研究者の石川悌二は「業平天神の由来は定かではないが、業平塚と里人がよんでいた塚は古くからこの地にあって、考古学の鳥居龍蔵博士はそれを上代の舟形式古墳であると推定した。要するに伝承が伝承を生んで業平天神の社祠が建立されたものであろう」と推測している。
(出典:ウィキペディア)
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境内の右手に手水舎と鐘楼、左手に本堂、奥に地蔵堂、しばられ地蔵尊、太子堂と三つのお堂が並んでいる。

境内を進む。

フォト:2017年5月12日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-13 23:37 | 江戸川ポタ/矢切~水元 | Comments(0)
2017年 05月 13日

『江戸川ポタリング/水元公園』 ed-6

5月12日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、松戸駅まで輪行。
そこから、矢切の渡し、野菊の墓文学碑、水元公園、そして、しばられ地蔵をめぐる。

江戸川左岸の矢切の渡し、野菊の墓文学碑、<新発見>の国府台合戦地跡をめぐり、新葛飾橋を渡り、江戸川右岸へ。

久方ぶりの水元公園。
水元公園といえば、先ず、メタセコイアの森である。
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メタセコイア
スギ科 metasequia glyptostrooboides
落葉性の針葉樹です。
円錐形の整った樹形になり、さわやかな新緑が美しく、秋の紅葉は赤褐色~黄褐色で渋い趣があります。
葉は扁平な針葉樹で対生し、秋には小枝ごと落ちます。
メタセコイアは化石が先に発見されましたが、1945年に中国で自生しているのが発見され、「生きている化石」として有名になりました。
陽樹で成長がきわめて早く、適潤の排水のよい肥沃地に適していますが、水湿地でもよく育ちます。
水元公園には全部で1900本植えられています。
記念広場周辺おメタセコイアの純林は昭和46年空7年に植栽したものです。
当時は高さ5m~8m、幹の回りは30cm~60cmの若木でした。
現在では高さ20m、幹回りは1mにもなっています。
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こうやって、「メタセコイアの森」の案内板を読み下していると、2009年の秋、琵琶湖周遊の途中、マキノ高原で2kmも続くメタセコイアの並木道を走ったことを思い出した。
「ハリポタ藩 秋の遠征2009/琵琶湖周遊ポタ」第10話

メタセコイアの森のほか、ポプラ並木もお気に入りの風景だ。
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水元公園であるから、「水」も登場させておかねばなるまい。
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水元公園は江戸川の西に位置しているので、この大きな池は江戸川に通じていると思いきや、然に非ず。
江戸時代、古利根川を堰き止めて作られた用水なのである。
江戸時代、こうした用水のことを溜井(ためい)といい、小合村(こあいむら)の溜井であったことから小合溜井(こあいためい)と呼ばれていた。
小合溜井は近隣の村々を潤す水源になったことから、この辺りは「水元」と呼ばれるようになったとのことである。

となれば、このブログの標題「江戸川ポタリング」は不適当となるが、まあ、江戸川沿線を走って来たことでもあり、「江戸川ポタリング」のままとしておきたい。

水元公園の周回路に設けられた「← しばられ地蔵」の標識に従い、水元公園から外れ、しばられ地蔵へと向かう。

フォト:2017年5月12日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-13 23:36 | 江戸川ポタ/矢切~水元 | Comments(0)
2017年 05月 13日

『江戸川ポタリング/国府台合戦地跡』 ed-5

5月12日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、松戸駅まで輪行。
そこから、矢切の渡し、野菊の墓文学碑、水元公園、そして、しばられ地蔵をめぐる。

坂道を上り、国府台の「野菊の墓文学碑」を訪ねる。
文学碑を見ることを目的にここを訪れたのだが、文学碑の直ぐ傍に掲げられた、もっといいもの(ワタシ的にはそう言ってもいいだろう)を見付けた。
それは、「史跡 国府台の戦争」と題した、大きな説明板である。
じっくりと目を通してみた。
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史跡 国府台の戦争
今から約400年前、この国府台で二度の戦争があった。
それぞれ敵味方・千人以上の戦死者がここに死かばねをさらした。
今の真間山から松戸駅東側の台地までを国府台といい、第一回の戦争は、天文7年(1538年)10月7日、相模台の合戦ともいい、これを前(さき)の国府台合戦という。
第二回は、これより25年後、永禄7年(1564年)正月7日の合戦でこれを後(のち)の国府台合戦という。
それはここ矢切台で戦われた。

合戦の背景
この時代の関東地方はだいたい小田原の北条氏の勢力下にあり、松戸太谷口城主 高城(たかぎ)氏や、千葉氏、原氏などもその支配下にあった。
これに対して安房上総地方を侵略して勢力を拡大した里見氏は、県北の下総地方へも手を伸ばして、千葉、原、高城氏らを攻め、やがて、北条氏をも破って関東の実権を握ろうと野望をいだいて、茨城の佐竹氏を通して上杉謙信とも手を結んだ。

合戦のもよう
矢切側には里見義弘を大将として八千騎、これに対して江戸川柴又、小岩側に北条側は、江戸城代家老 遠山丹波守直景と葛西の富永三郎右衛門尉を先陣として着陣した。
この時、小金大谷口城主 高城氏も北条方に加勢のため、下矢切大堀外(今の矢切神社東側)に陣を張り、遠山軍を助けた。
遠山、富永等は大将 北条氏康、氏政父子の到着を待たず、矢切の渡しを押し入り、国府台から栗山、矢切へかけての里見軍へ攻め寄せた。
遠山軍に押された里見軍は、いったん退却するかに見せかけたが、勢いにのった遠山軍が大坂の途中まで攻め登った所を、一挙に坂上から攻め落とした。
北条方の勇将 富永三郎右衛門尉は、朝からジュンサイ池付近から大堀へかけて馬を縦横に馳せて奮戦したが、大坂上で落馬した所を折り重なって里見方に首を渡した。
その場所は、ここ文学碑わきの坂道であった。
又、遠山丹波守は、この坂下坂川の手前、「カイカバ曲がり目の内野」という所で、里見方の里見山之介という16才の少年にその首を打たれた。
この日の戦いは北条方の敗北で、柴又陣に引き退いたが、この夜半、戦勝の酒に酔いしれた里見軍の将兵は、北条氏の大軍にはさみ打たれ、さんざんの大敗戦となり、大将 里見義弘は市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが、その後再起することはなかった。
本土寺過去帳に「コウノ台ニテ上下諸人 遠山殿 江戸城主 癸亥正月 其外千余人」と記されている。
南無...
昭和45年正月
撰文 奥山儀八郎
矢切地区風致保存会
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国府台は幾度かポタリングしている。
直近では、丁度1年前に、ドラポタの盟友にして、史跡めぐりの相棒である武衛さんと、「下総国史跡めぐり/国府跡・国分寺跡・総社を訪ねて」と銘打ち、国府台をめぐった。

国府台の史跡は、ほぼほぼ知っていると思っていたが、これは思い込みであった。
この説明板に目を通しながら、新たにいろいろなことを知ることとなった。

■真間山から松戸駅東側の台地まで全体的に「国府台」と呼ぶほか、台地の部分、部分には「相模台」や「矢切台」という名もあるのだ。
■北条・高城・千葉・原氏連合軍 vs 里見氏軍の合戦。
 里見氏は下総まで進出していたのであった。
■高城氏の居城であった小金大谷口城跡(小金城跡)を何れ訪ねてみよう。
■里見城跡がある里見公園も何れ訪ねてみよう。
■ジュンサイ池は、以前、訪ねたことがあるが、戦跡として改めて訪ねてみよう。
■紫陽花や花菖蒲でも有名で本土寺(松戸市)には国府台合戦を示す過去帳が残っているとは。
 戦跡の関連として改めて訪ねてみよう。
■説明文の「北条方の勇将 富永三郎右衛門尉は朝からジュンサイ池付近から大堀へかけて馬を縦横に馳せて奮戦したが、大坂上で落馬した所を折り重なって里見方に首を渡した。その場所は、ここ文学碑わきの坂道であった」の記述に反応し、先ほど、渡った陸橋に戻り、坂道を眺めた。
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■「小金大谷口城主 高城氏も北条方に加勢のため、下矢切大堀外(今の矢切神社東側)に陣を張り」とある
 矢切神社は、この坂を上りきった辺りにあり、次回、訪ねてみよう。。
■説明文の最後に「大将 里見義弘は市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが...」とある。
 須和田は1年前に訪ねた六所神社のある辺りのことである。
 この六所神社は総社跡ではなく、移転後の新しい神社であり、本来は立ち寄る必要はなかったが、
 敬意を表して立ち寄ったのであったが、何処へでも立ち寄っておれば何かの役に立つものである。

野菊の墓文学碑と国府台合戦に関わる説明板は西蓮寺の境内にあるようで、隣に見えている墓地を抜ければ、表に出られそうだが、境の垣根の扉には鍵が掛かっているようで、抜けられない。
担いで上がった jitensha を再び担ぎ、石段を降り、坂道を一気に下った。

野菊の墓文学碑を訪ねたお陰で、国府台合戦地跡を知ることが出来た。
「野菊の墓」に感謝である。

新葛飾橋を渡り、江戸川右岸の水元公園と南蔵院へと向かう。

フォト:2017年5月12日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-13 23:35 | 江戸川ポタ/矢切~水元 | Comments(0)
2017年 05月 13日

『江戸川ポタリング/野菊の墓文学碑』 ed-4

5月12日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、松戸駅まで輪行。
そこから、矢切の渡し、野菊の墓文学碑、水元公園、そして、しばられ地蔵をめぐる。

先ず、矢切の渡し。
矢切から柴又、柴又から矢切と渡し舟を楽しみ、続いて、野菊の墓文学碑へと向かう。

地図によれば、野菊の墓文学碑は矢切の渡しから真っ直ぐ東へ。
途中、坂川に架かる矢切橋を渡る。
本来の読みの通り、清音で「やきりばし」と刻まれている。
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橋の袂の「野菊の墓100周年記念碑」。
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野菊のような人
「・・・・・・まア綺麗な野菊 政夫さん 私に半分おくれッたら 私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き 民さんも野菊が好き・・・・・・」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好(この)もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き・・・・・・道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。
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矢切橋の欄干は野菊と矢切の渡しの意匠が施されている。
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江戸川ならぬ坂川を渡るが如くに見える渡し舟。
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更に東へ走る。
野菊の墓文学碑は平地にあるのだろうとイメージしていたのだが、上り坂となる。
そこで、初めて、文学碑は国府台にあるのだと分かった。
事前の調べで知っていた、目印となる陸橋が見えて来た。
文学碑へ向かう枝道があるはずだが、分からない。
陸橋へ向かう石段を jitensha を担いで上る。
すると、野菊苑展望台なるところへ出た。

展望台から江戸川方面を一望。
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陸橋を渡り、文学碑へ。

野菊の墓文学碑。
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野菊の墓文学碑
僕の家といふは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所。
崖の上となっているので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一ゑんが見渡せる。 
秩父から足柄箱根の山々、富士の高峰も見える。
東京の上野の森だと云ふのもそれらしく見える。
村はづれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。
ここから見下ろすと少しの田圃がある。
色よく黄ばんだ晩稲に露をおんで、シットリと打ち伏した光景は、気のせゐか殊に清々しく、胸のすくやうな眺めである。
伊藤左千夫著 野菊の墓より
昭和三十九年十月
門人 土屋文明 識
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「門人 土屋文明 識」と刻まれている。
群馬県群馬郡上郊村(現・高崎市)の農家に生まれた土屋文明は、伊藤左千夫門下となり、短歌の指導を受け、後に、アララギ派の指導的存在になるなど、歌壇の最長老として活動すると共に国文学者として『万葉集』の研究にも携わった。

昨秋、上野国史跡めぐりで、保渡田古墳群(群馬県高崎市)を訪れた際、その近くで「群馬県立土屋文明記念文学館」の標識を見た。
もう一度、保渡田古墳群を訪ねたいと思っているので、そのときにこの記念文学館も訪ねてみたいと思っている。

野菊について。
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野菊について
「野菊」という花は、山野に咲く数種の菊を総称したものであり、「野菊」という名の花はありません。
関東近辺で一般的に「野菊」と呼ばれる花は、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどがあり、いずれも白か淡青紫色で田のあぜや川べりに生える多年草です。
さて、小説『野菊の墓』には、政夫が「民子さんはどう見ても野菊の風だ」民子が「政夫さんはどうみてもりんどうnようだ」という記述がありますが、民子が好きだった「野菊」とはどのような花だったのdしょうか。
矢切地区風致保存会
[この野菊は、(株)コーヤマの協力により寄贈・管理されています。]
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野菊という花はない。
どこかで聞いたような言葉。
そうだ、昭和天皇の「雑草という草はない...」とのお言葉とよく似た響きであった。
カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクにういて、電脳網の花図鑑を参照してみた。

カントウヨメナ(関東嫁菜)
いわゆる「野菊」の仲間。
やや湿性の高い場所に自生する多年草。
草丈50cmほどで、しばしば1mほどになることもある。
花は白。

ノコンギク(野紺菊)
同上。
花は紫色。

ユウガギク(柚香菊)
同上。
花は白。

秋になったらこれらの花を探してみたいと思う。
どれも「野菊」に見えてしまうのであろうが...。

フォト:2017年5月12日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-13 23:34 | 江戸川ポタ/矢切~水元 | Comments(0)
2017年 05月 13日

『江戸川ポタリング/矢切の渡し(下)』 ed-3

5月12日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、松戸駅まで輪行。
そこから、矢切の渡し、野菊の墓文学碑、水元公園、そして、しばられ地蔵をめぐる。

矢切の渡しを往復し、矢切に戻る。
矢切の乗船場周辺を<取材>。

「矢切の渡し」の標識。
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標識の脇の石碑。
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「矢切の渡し/細川たかし 識/昭和59年3月吉日」と刻まれている。

先ほど、柴又から乗船した老夫婦の奥さんはスマホで細川たかしの「矢切の渡し」をを流していた。
そのとき、細川たかしじゃなくって、ちあきなおみでお願いします、と言おうと思ったが、気が小さいのでそんなことも言えず。

小生は、ちあきなおみが歌う「矢切の渡し」が好きだ。
歌謡曲「矢切の渡し」は、そのヒットまでに紆余曲折があったようだ。
ウィキペディアにその経緯が縷々書かれている。
その中から抜粋してここに引用させて戴く。
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矢切の渡し(曲)
「矢切の渡し」は、石本美由起の作詞、船村徹の作曲による演歌。
1976年(昭和51年)、ちあきなおみのシングル「酒場川」のB面曲として発表された。
それから6年が経った1982年(昭和57年)、ちあき盤「矢切の渡し」は梅沢富美男の舞踊演目に用いられたことで好評を博し、同年6月に開始したTBS系列のテレビドラマ『淋しいのはお前だけじゃない』(梅沢も出演した)の挿入歌としても使用されて話題を集めた。
そこで、同年10月21日に本作をA面としたシングルが改めて発売された。
翌1983年(昭和58年)に多くの歌手によって競作され、中でも細川たかしのシングルが最高のセールスとなった。
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「細川たかし 識」の石碑は「昭和59年3月吉日」となっており、ヒットした翌年のものであることが分かる。
細川たかしは歌は上手いが、「おれ、上手いやろ」という気持ちが表に出過ぎて、いわゆる、鼻に付くというやつで、細川たかしファンには申し訳ないことだが、感じが悪い。
プロの歌手なんだから、歌が上手いのは当たり前。
そういうことで、細川たかしは好きではないのである。

その点、ちあきなおみは、いい。
ちあきなおみは、1969年、「雨に濡れた慕情」でデビュー。
高田馬場駅前のムトウレ楽器店でデビュー曲のキャンペーンがあった。
当時、小生は新宿区戸塚町、都電の面影橋近くに下宿していたW大の学生で、クラシック音楽を聴くことが趣味であったので、ムトウレコード店によく通っていた。
そんなこともあり、ちあきなおみなる女性歌手が来店するということを事前に知り、ミーハーでもあったので、当日、ルンルン気分で、店へ足を運んだのであった。

店は1階がポピュラー音楽と歌謡曲、2階がクラシック音楽のコーナーとなっており、ちあきなおみは2階から1階へ階段を下りながら、「雨に濡れた慕情」を歌うという憎い演出であった。

当時は知らなかったが、ちあきなおみは1947年生まれ、小生は1948年生まれ、なおみさんは1歳年上のお姉さんだったのだ。

以来、日劇で彼女のショーを見たりして、ずっと、彼女のファンなのである。
今は、YouTube やテレビ東京系のBSジャパンの懐かしの昭和歌謡番組などで彼女の歌が聴ける、彼女の姿を見ることができるだけであるが、テレビ東京系の「演歌の花道」で来宮良子のナレーションで始まる、ちあきなおみの「矢切の渡し」は何度聴いても絶品である。

話は少々脱線するが、来宮良子の声は独特である。
彼女の声、そして、名前を知ったのは、1950年代の米国製テレビ映画「アニーよ銃をとれ」のアニー役の吹き替えであった。
以来、何十年もいろいろな番組で彼女の声を聞いて来たが、その姿を見たことは一度もなかった。
で、この機会にネット検索し、ご尊顔を拝した。
1931年生まれ、2013年に故人となっている。合掌。

いろんな貼り紙。
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営業時間、ペットの扱い、天候での運航対応、柴又帝釈天への案内、禁煙注意のほか、今回の乗船で経験したことに関することが具体的に書かれており、それらを貼り紙写真と共にここで披露しておこう。

先ず、最初にご披露する貼り紙は、やっぱり、これ!
「自転車の扱い」について。
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売店の大将が教えてくれた通りのことがここに書かれていた。
自転車はOKというのは、自転車での通勤通学客がいた頃の名残りなのかもしれない。
括弧書きで折りたたみ自転車は乗船可となっているので、これは自動的にOKで、大口径自転車は係員に尋ねてくださいということなのであろう。
自転車乗りにとっては誠に結構な、有難いルールである。

先ほど、舟の上で、スマホを操り、YouTube の「矢切の渡し」を流していた老夫婦さんにピッタリの貼り紙がこのふたつ。
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携帯電話での通話は控えよとあり、メールと写真は可とある。
YouTube は可とも不可とも書かれていないから、可!であろう。

手漕ぎと動力航行について。
これを明示していないと、「手漕ぎにせぇや!」と、何故か、関西弁で文句をいう客がいるのかもしれない。
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我らは「手漕ぎ」であった。
ラッキーであった。
船頭さん、サンキュー!

このあと、「野菊の墓文学碑」を訪ね後、水元公園と南蔵院へ向かうため、新葛飾橋を渡っていたところ、下流に渡し舟の姿が見えた。
カメラを取り出し、望遠で覗いてみた。
船頭さんは櫓を漕いでおらず、座っている。
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アップで(トリミングです)。
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乗船客が幾分多いので、動力航行しているようだ。

矢切の渡しは、静寂さを味わうために、やはり、手漕ぎに限る。
午前中、早めに出掛け、客の少ない時間帯に乗船する、これが矢切の渡しの楽しみ方のコツであるとここに記しておこう。

説明板「矢切の渡し」。
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矢切の渡し
矢切の渡しは松戸市下矢切と東京都柴又を往復する渡しで、その始まりは380余年前江戸時代初期にさかのぼります。
当時、江戸への出入りは非常に強い規則のもとにおかれており、関所やぶりは「はりつけ」になろうという世の中でしたが、江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、その耕作のため関所の渡しを通らず、農民特権として自由に渡船で行き交うことができました。
これが矢切の渡しの始まりで、いわゆる農民渡船といわれるものです。
明治以降は、地元民の足として、また、自然を愛する人々の散歩コースとして利用され、現在では唯一の渡しとなっています。
この矢切の渡しの庶民性と矢切の里の素朴な風景は、千葉県の生んだ歌人でもあり、小説家でもある伊藤左千夫の小説”野菊の墓”の淡い恋物語の背景となっており、その小説の中で美しく描かれております。
平成10年3月
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説明書きの二行目あたりから数行、「当時、江戸への出入りは非常に強い規則のもとにおかれており、関所やぶりは「はりつけ」になろうという世の中でしたが、江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、その耕作のため関所の渡しを通らず、農民特権として自由に渡船で行き交うことができました。これが矢切の渡しの始まりで、いわゆる農民渡船といわれるものです」という記述がある。

確かに、徳川幕府は江戸の防衛に腐心している。
川に架橋することは先ずなく、渡し舟であるが、大井川に至っては架橋は勿論のこと、渡し舟も許さず、馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)であった。

江戸川沿いをポタリングしていると、「〇〇の渡し」という標識を幾つか目にする。
これらの標識を写真に撮ったり、その名をメモしたりはしていないので、調べてみた。

「関宿の渡し」、「野田の渡し」、「流山の渡し」、「松戸の渡し」、「市川・浦安の渡し」など約50ヶ所の渡し場があったとのことである。

<公>の渡し場には、江戸への出入りを監視する関所もしくはそれに類するものが設けれれていたであろう。
そうした中、農民の渡河の利便のために農民渡船といわれるものが設けられ、そのひとつが矢切の渡しであったということがこの説明書きから読み取れる。

話は少々脱線するが、隅田川に架かる両国橋は武蔵国と下総国を結ぶ橋であったことから、「両国橋」と名付けられたことはよく知られたことだ。
徳川幕府は江戸の防衛上、隅田川の架橋は千住大橋以外に認めていなかったが、明暦の大火(1657年、明暦3年)で橋がなかったことから江戸市民は逃げ場を失い、多数の死傷者が出たことで、両国橋が架けられたのである。
この後、本所・深川方面も江戸の町として組み込まれていくのである。

趣味の忠臣蔵から演繹すると、呉服橋に住まいしていた吉良上野介は、隠居後、本所松坂町に屋敷替えとなったのは、松の廊下事件が起こった半年後、即ち、1701年(元禄14年)9月であり、その頃には、本所松坂町は、最早、完全に江戸の一角であったといえよう。

こうしたことを綴りながら、しからば、江戸とは何処から何処までが江戸なのか、殊に隅田川の東側は何処までが江戸なのかという疑問が湧く。
ということで、ネット検索してみた。

「江戸の範囲」という誠に結構なサイトにヒットした。
「江戸市中(御府内)の範囲を幕府が示したのは、たった一度、しかもその時期は江戸幕府が誕生してから200年を過ぎた1818年だった」という見出しで、縷々、江戸の範囲が綴られている。
江戸の範囲を示す「文政江戸朱引図」なる図も掲載されている。
江戸の範囲を知るにはこの図を見るのが最も手っ取り早いので、このサイトをここに貼り付けさせて戴こう。
「江戸の範囲」

この図を見ると、江戸の東端は荒川右岸近くまで(一部は荒川左岸まで)となっている。

荒川の東には中川があり、更にその東に江戸川がある。
江戸時代、中川がどのような流れになっていたかはまだ調べきれていないが、江戸川は徳川家康江戸入府後、伊奈忠次、伊奈忠治らによる利根川東遷事業が始められ、江戸川に利根川の水が流れるようになったとあるので、江戸川は「御府内」から最も近い東の防衛線であったと考えられる。

矢切の渡しをあとにして、「野菊の墓文学碑」を目指し、出発する。

フォト:2017年5月12日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-13 23:33 | 江戸川ポタ/矢切~水元 | Comments(0)
2017年 05月 13日

『江戸川ポタリング/矢切の渡し(中)』 ed-2

5月12日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、松戸駅まで輪行。
そこから、矢切の渡し、野菊の墓文学碑、水元公園、そして、しばられ地蔵をめぐる。

矢切の渡し。
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舟は対岸の葛飾柴又側に。
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矢切の渡しの脇に袂に売店がある。
「すみません。舟は向こう側にいるんですが(どのように呼べばいいでしょうか」」と売店の主人に声を掛けた。
「待っていれば、直ぐに来ますよ」と。
更に続けて、「自転車をそこに止められましたが、100円、追加で払えば、舟に乗せてくれますよ」と。
「それはご親切な言葉。ただ、舟に乗ったあと、こちら側で訪ねてみたいところもありますんで、自転車はここに置かせて貰います」。

舟がやって来た。
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新矢切丸、着桟。
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柴又へ向け、離桟。
櫓を操る船頭さん。
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客は女性が4人、男性が二人の総勢6名。
船外機が装備されているが、櫓で舟は進んで行く。
船外機は緊急用だろうか、それとも客が少ないから、櫓で漕いでくれているのであろうか。
いずれにせよ、櫓を使って貰えるのは有難い。
静かに舟は進んで行く。

上流方面。
左に丸い屋根の金町浄水場取水塔(とんがり帽子の取水塔は見えておらず)、、中央手前に新葛飾橋、その奥の常磐線鉄橋と重なって見える。
普段は土手から眺める風景ながら、川面から眺める風景はまた格別。
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アップで(トリミングです)。
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右岸の彼方に東京スカイツリー、そして、土手のサイクリング・ロードを疾走するローディ。
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アップで(トリミング加工です)。
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櫓で漕ぐ渡しは柴又の乗り場へどんどん進んで行く。
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柴又に着桟。
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5人が下船、小生は折り返しでそのまま乗船、柴又で二人が乗船し、折り返しの客は都合3人。
船頭さんは再び櫓を漕ぎ、矢切へ向かう。

上流方面。
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常磐線鉄橋を電車が渡る。
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柴又から乗って来たのは老夫婦。
小生は前の席、老夫婦は後ろの席。
二人の会話を聞くともなく、聞く。
「ラジカセで矢切の渡しの歌でも流れればいいのにね」とご亭主。
「あら、聞けるわよ」と奥さん。
「細川たかしと、ちあきなおみがあるけど、細川たかしにするわね」と。
スマホで YouTube を検索したことが会話で分かる。
細川たかしじゃなくって、ちあきなおみでお願いします、と言いたいところではあるが、ぐっと我慢。
何故、ちあきなおみか、その訳は下の巻で綴ることとしたい。

細川たかしの歌が流れる。
スマホで、舟の上で歌が聞ける、随分と時代は進歩したものだ。

「きみ、スマホでそういう操作も出来るんだね」とご亭主。
「カメラだって使えるわよ。何だって、使ってみなきゃ、使いこなせないんですからね」と奥さん。
その通りである。

「船頭さん、今日の水量は?」。
「少ない方ですね。何処かの堰で水を堰き止めているのかもしれませんね」。
「ちょうど、田植えの時期だから、そうかもしれませんね」。

「魚はどんなものがいますかね」。
「フナにコイ、ハゼ。アユも遡上して来てきています」。
(帰宅後、「江戸川 アユ遡上」で検索したところ、国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所のHPにアユ遡上の取り組みの記事が掲載されていた)

「矢切の渡しは何度もテレビに登場しますが、船頭さんは何回くらいですか」。
「都心に近いせいもあって、何とか散歩とかの番組が多く、数え切れないくらいです」。

テレビに登場した矢切の渡しで最も印象に残っているのは、NHK「新日本風土記~渡し船~」(2016年12月9日放送)。
まだ、録画が残っているはずなので、もう一度見てみようと思っている。

下流方面。
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北総線鉄橋を電車が渡る。
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矢切が近づいて来る。
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矢切に着桟。
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小生は下船、スマホの扱いが巧みな奥さんとご亭主は再び柴又へ。
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フォト:2017年5月12日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-13 23:32 | 江戸川ポタ/矢切~水元 | Comments(0)
2017年 05月 13日

『江戸川ポタリング/矢切の渡し(上)』 ed-1

5月12日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、松戸駅まで輪行。
そこから、矢切の渡し、野菊の墓文学碑、水元公園、そして、しばられ地蔵をめぐった。

何故、急にこのコースのポタリングを思いついたか。
それは、5月初旬、某氏からのメールの中に「2月末か3月初めのNHKの『小さな旅』で松戸を紹介していました。 最初の画面が矢切の渡しで、伊藤左千夫の『野菊の墓』の舞台は松戸だったと改めて知りました」とあったことによる。

矢切の渡しは小説『野菊の墓』でその名が知られ、更に、矢切が『野菊の墓』の舞台でもあることは歌謡曲の『矢切の渡し』がヒットしたときに紹介されたこともあり、矢切は『野菊の墓』の舞台であることは我々の世代の人は誰でも知っていることと思っていたが、このメールを読み、必ずしもそうではないことが分かった。

斯く言う小生とて、矢切と柴又の乗船場から渡し舟を眺めることは幾度かあるが、渡し舟に乗ったことはないし、『野菊の墓』ゆかりの地を訪ねたこともないし、エラソーなことを言えたものではないとも思った。

となれば、<現場主義>の小生、この機会に、矢切の渡しに乗船し、『野菊の墓』ゆかりの地を訪ねておこうと出掛けた。
そして、江戸川沿いにもうひとつ、以前から訪ねてみたいと思っていた水元公園近くの、南蔵院、通称、しばられ地蔵も訪ねることとしたのであった。

松戸駅から江戸川の土手を目指して西へ走る。
普段は土手のサイクリングロードを走るのだが、今回は土手下の一般道を走る。
常磐線、新葛飾橋の下を通り過ぎ、しばらく走ると大きな看板が見えて来た。
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「初恋のまち・やきり」と書かれている。
そもそもの「矢切」の読みは、清音の「やきり」である。
由来好きの小生、「矢切」の地名の由来や、清音の「やぎり」から濁音の「やぎり」に変化した経緯などにも興味があり、それらについては、後ほど綴ってみたい。

顔抜き看板コレクション/小説「野菊の墓/民子と政夫」。
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土手の上に上がる。
毎度の江戸川ポタリングで見慣れた標識/「海から16.75km」。
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こちらは「川の一里塚」。
草で隠れてみえないが、下の方に「河口から16.8km」と刻まれている。
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残したい『日本の音風景100選』顕彰碑。
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残したい『日本の音風景100選』
松戸市の「矢切の渡し」が、東京都葛飾区の「柴又帝釈天の界隈」とあわせて、残したい『日本の音風景100選』に、平成8年7月1日、環境庁により認定されました。
この矢切の渡しは、江戸時代に近在の農民が農作業のために利用したものですが、今では、川面に渡る渡し舟と冬のユリカモメ、春のヒバリ、夏のオオヨシキリなどの鳥の声とあわせて江戸川の悠然とした風景にとけこんだ、のどから情緒をかもしだしています。
この碑は、この100選に認定されたことを記念したものです。
周囲の音や風の音を楽しむために、穴を集音型にしましたので、耳や目をあてたりして、ぜひ碑に触れてみてください。
そして、あなたの身近な場所や日常生活の中で、よい音を探して、耳を澄ましてみてはいかがでししょうか、なにか新しい発見があるかもしれません。
松戸市では、騒音を出さないことと、よい音を残していくことを進めていきますので、このよりよい音環境を皆さんと一緒に守っていきたいものです。
平成9年11月3日
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そうした風景に、5年前から東京スカイツリーが加わった。
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アップで。
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フォト:2017年5月12日

(つづく)
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# by ryujincho | 2017-05-13 23:31 | 江戸川ポタ/矢切~水元 | Comments(0)