龍人鳥の徒然フォト日記

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カテゴリ:街歩き、村歩き、ポタリング( 85 )


2014年 04月 05日

『ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねて/本妙寺』(5)

慈眼寺から隣りの本妙寺へと向かう。
5年前の夏、隣りの慈眼寺を訪れた際、この本妙寺の前を通った。
その際、表の「史跡 遠山金四郎之墓」の標柱を目にしたが、慈眼寺での小林平八郎の墓探しで疲れ果ててしまい、遠山金四郎の墓参は見送りとしてしていた。
今回の「ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねて」をよき機会とし、本妙寺もプランの中に入れたのであった。

本妙寺。
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山門の右に掲げられた本妙寺の史跡一覧に目を通す。
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この史跡一覧を眺めながら、遠山金四郎景元の墓のほか、明暦大火供養塔や千葉周作の墓、本因坊歴代の墓も巡ることにした。

山門の左の標柱「史跡 遠山金四郎之墓」の脇の説明書きに目を通す。
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東京都指定旧跡 遠山景元墓
遠山景元(1793-1855)は、江戸時代後期に長崎奉行を務めた遠山景普(かげみち)の子として生まれ、通称を金四郎といいます。
小目付、小納戸頭取、小普請奉行、勘定奉行などを歴任した後、天保11年(1840)、北町奉行に任ぜられ、天保14年(1843)、天保の改革の進行中に大目付に転じた後、弘化2年(1845)、南町奉行となり、以後7年間にわたり務めました。
下情に通じた江戸時代屈指の名奉行として、さまざまな伝説が伝わっています。
景元の功績として、例えば、天保の改革の際、芝居町の取り壊し策を場所の移転でとどめ、芝居を存続させことがあります。
嘉永5年(1852)の隠居後は、悠々自適の生活を送っていましたが、安政2年(1855)に病没、本郷丸山の本妙寺に葬られました。
その後、明治時代に寺の移転に伴い、現在の場所に改葬されました。
平成2年3月 東京都教育委員会
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これは遠山金四郎に関わる説明書きであるが、本妙寺がこの地に移転されるまでは本郷丸山(現在の東京都文京区本郷五丁目)に在ったということも大事なことである。
何故、それが大事なことなのか。
それは後ほど述べる明暦の大火に関わることだからである。

遠山金四郎景元の墓と碑。
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墓。
標柱の「名奉行」というのがなかなかよい。
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墓石の左側面。
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左側面には遠山の金さんと奥さんの戒名が刻まれている。
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遠山氏六代目左衛門尉景元
歸雲院殿従五位下前金吾校尉松僊日享大居士
安政二年乙卯二月廿九日卒
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遠山氏六代目景元室
偕壽院殿奐晎妙蕙日煕大姉
嘉永七年甲寅十一月七日卒
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遠山氏先塋之碑。
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碑には次の通り刻まれている。
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天保十三年
遠山氏先塋之碑
七月
遠山景元◇
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「先塋(せんえい)」とは祖先の墓地という意味である。
天保13年(1842年)、遠山景元49歳のときに景元自身の書により刻まれた碑である。

余談ながら、「塋」の漢字を知ったのは、5年前の「伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて」のテーマであちらこちらを徘徊していた中で、間宮林蔵の菩提寺、本立院(東京都江東区平野1丁目)を訪れたときのことであった。
境内に「間宮林蔵先生之塋域」と刻まれた石碑を見た。
恥ずかしながら、「塋域」という言葉を目にしたのはこれが初めてであった。
聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥である。
住職に尋ねようとしたが、生憎の不在。
後日、電話で確認。
「塋域です。エイイキと読みます。お墓の意味です。辞書で調べてみて下さい」。
広辞苑で調べてみた。
「塋域/はかば、墓地、兆域」。
兆域なる新しい言葉が出て来た。
兆域についても調べてみた。
「兆域/陵墓の区域、はかば、墓所」。
ということで、今回、本妙寺で碑に刻まれた「遠山氏先塋之碑」は戸惑うことなく理解出来たのであった。

千葉周作の墓。
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先ほどの遠山金四郎景元の墓の標柱にあった「名奉行」といい、この標柱にある「剣豪」といい、誠に庶民に分かり易い書き方だ。
「千葉周作は北辰一刀流」、「神田お玉が池の千葉道場に通うのは赤胴鈴の助」、「坂本龍馬は千葉周作の弟、千葉定吉のもとで剣術修行」と賑やか。

本因坊歴代の墓。
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2011年の秋、因島の本因坊秀策囲碁記念館を訪れたときのことが思い出される。
小生は囲碁の趣味はないが、囲碁好きの盟友、武衛殿や cafe de papa殿へのレポートとして、兄弟ブログ「上総守が行く!」において「秋の大遠征2011/しまなみ海道を行く/本因坊秀策の巻」<上・中・下>を綴った。
本因坊の凄いところは、実子が相続するのではなく、弟子の中で優れたものが相続するということである。
本妙寺での掲示「歴代本因坊の紹介」に目を通す。
十四世秀和と十五世秀悦の間に「跡目 秀策」の名が見える。
掲示「墓石配置略図」に目を通す。
秀策の名はないが、遺骨はここに葬られている。
本妙寺で本因坊秀策の墓参をした旨、囲碁好きの盟友、武衛殿や cafe de papa殿に報告しておかねばならない。
本因坊の墓参りをすれば棋力が上達するとのことであるから、例え、代理での墓参であっても、彼らの棋力は上達するであろう。

明暦の大火供養塔。
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BS TBS、月曜夜9時からの「吉田類の酒場放浪記」を楽しみに見て来たが、飽きて来た。
今は、同じくBS TBS、月曜の夜10時からの「謎解き!江戸のススメ」なる番組を贔屓にしている。
3月10日の放送は「災害からの復興」であった。
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江戸時代にも、大規模な災害は幾度となく起こりました。
その度に人々は力を合わせ復興してきたのです。
町の大半を焼き尽くした明暦の大火、200年ぶりに起きた富士山大噴火、そして、多くの餓死者を出した天明の大飢饉。
これらの災害から江戸の人々はどのように立ち上がっていったのか。
「災害からの復興」に秘められた謎を解き明かします!
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こうしたナレーションに続いて、番組は展開。
明暦の大火の火元が何処かについては諸説あるが、番組の中では「本妙寺火元引受説」を有力としていたように記憶する。
「本妙寺火元引受説」とは、こうだ。
・明暦3年(1657年)、本郷丸山から出火。
・火元は老中 阿部忠秋(下野壬生藩・武蔵忍藩主、徳川家光・家綱の時代の老中)の屋敷。
・しかし、老中大名屋敷からの出火では幕府の威信が失墜するとの懸念あり。
・老中阿部忠秋の屋敷に隣接する本妙寺が火元ということに摩り替えた。
これが「本妙寺火元引受説」のあらましである。
この説を有力とする理由はこうだ。
・火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわず、大火以前より更に大きな寺となったこと。
・大正時代にいたるまで阿部家より毎年多額の供養料が納められていたこと。
更に、本妙寺火元引受説が真相であるからこそ、豪商の娘の病気快癒祈願が本妙寺で営まれていた際、護摩祈祷に娘の振袖を焼いたところ、燃え上がった振袖が舞い上がり、出火の元となったという「振袖火事」の伝説が生まれたということである。

冒頭、本妙寺の表に掲げられた「遠山景元墓」の説明書きに触れた際、「本妙寺がこの地に移転されるまでは本郷丸山(現在の東京都文京区本郷五丁目)に在ったということも大事なことである。何故、それが大事なことなのか。それは後ほど述べる明暦の大火に関わることだからである」がようやくこれで繋がった。

ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねては、桜吹雪の遠山の金さんゆかりの本妙寺でサクラ繋がりで上手い具合に〆ることが出来、ご満悦で、JR巣鴨駅前で大放談会。
ソメイヨシノ誕生の地<染井村>での花見と歴史散歩、そして、大放談会、贅沢な1日であった。

フォト:2014年3月31日

(完)
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by ryujincho | 2014-04-05 00:01 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2014年 04月 04日

『ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねて/慈眼寺』(4)

染井霊園をあとにして、細道を通り、隣りの慈眼寺(じげんじ)へと向う。
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慈眼寺は5年前の夏に訪れたことがあり、備前守さん、伊豫守さん御両氏を案内したかった場所である。
「この寺に吉良家家老の小林平八郎の墓があるとのことで、5年前の夏、赤穂浪士討入凱旋の旅の番外編で訪ねたことがあります。そのとき、何処に墓があるのか分からず、暑い中、探し回り、ひっくり返りそうになった記憶があります。探し出せないので、寺務所で尋ね、教えて貰いました。この寺には、小林平八郎の他に、司馬江漢、田沼意次、芥川龍之介、谷崎潤一郎などの著名人の墓もあります」と能書きを垂れながら、ご案内。

と綴りながら、5年前に綴った、兄弟ブログ「上総守が行く!」/2009年7月29日付「都内日陰ポタ/慈眼寺」を紐解いてみた。
それをここに転記しておくこととしたい。

---------- 兄弟ブログ「上総守が行く!」、2009年7月29日付から引用----------

『都内日陰ポタ/慈眼寺』 mp-5

染井霊園脇を走り、慈眼寺(じげんじ)に到着しました。
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慈眼寺の墓地の入り口の案内書きには、当寺に墓のある著名な人物のあらましが書かれていました。
先ほど、染井霊園の案内板で見た谷崎潤一郎については書かれていませんでしたが、新たに斉藤鶴磯なる人物の名が出て来ました。
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墓地内を暫く歩くと、芥川龍之介の墓の場所を矢印で示す札が立てられていました。
芥川龍之介の墓前で合掌。
芥川比呂志、也寸志の名も墓誌に刻まれていました。合掌。

更に奥へ歩くと司馬江漢や斉藤鶴磯の墓の場所を示す札も立てられていました。

さて、小林平八郎の墓は?と思うも、その場所を示す札は見当たりません。
墓地内をぐるっと回り、墓に刻まれた名前をひとつずつ見ていきました。
墓を示す立て札はありませんでしたが、谷崎潤一郎の墓を見つけました。合掌。

しかし、幾ら探しても、小林平八郎の墓は見当たりません。
寺に向かい、受付の人に尋ねたところ、「司馬江漢の右隣」と教えて貰えました。

再び、墓地へ。
ありました!! 先ほど、墓地内は"予習"済みでしたので、当然ですが...。
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「小林平八郎平央通霊廟」と刻まれていました。合掌。

「央通(ひさみち)」は、吉良上野介義央が「義央(よしひさ)」の一文字を取り、小林平八郎に与えた名と言われており、これは理解出来ますが、「央通」の前の「平」と読み取れ文字の意味がよく分かりません。

暑さのため、この「平」と思われる文字の意味するところを推測する集中力もなく、また、いつもは墓の側面や背面の文字を書き取ったりしますが、その気力もありませんでした。

今回は墓の場所が分かっただけでも有難いこと、この「平」は後日の“宿題”とし、慈眼寺を後にしました。

小林平八郎については、既に訪ねた吉良家菩提寺/華蔵寺(愛知県幡豆郡吉良町)、清水一学の墓/円融寺(同)、吉良家江戸菩提寺/功運寺(東京都中野区上高田)、吉良義周の墓/法華寺(長野県諏訪市)や何度も訪れた本所松坂町吉良邸跡(東京都墨田区両国)などと共に「赤穂浪士討ち入り凱旋の旅/番外編/吉良家ゆかりの地を訪ねて」の中で何れ綴ってみたいと思っています。

フォト:2009年7月25日

(つづく)
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去年も一昨年の夏も暑かったが、2009年の夏も暑かった。
川沿いのサイクリングロードは日陰がなく、休憩する場所もないので、猛暑、酷暑を少しでも凌げる工夫として、ビルの日陰がある都内ポタをやっていたということが思い出される。
そして、「都内日陰ポタ」と題していたのは、我ながら上手いなあと自画自賛するのである。

5年前と今回の違いは、寺の門が閉ざされていたことだ。
5年前はお盆の時期でもあり、門に灯明と小さな幔幕(?)が設えられていたのであろう。
そして、何よりの違いは、猛暑と春の風、季節の違いであった。

このブログを綴るに際してベンキョーになったことは、慈眼寺は、元和元年(1615年)、深川六間堀猿子橋に建立、その後、本所猿江に移転、大正元年(1912年)、谷中妙伝寺と合併し、現在地の巣鴨に移転したということである。
であれば、本所松坂町吉良邸で赤穂浪士に討たれた小林平八郎の墓がここにあることも分かるような気がする。
また、芥川龍之介は東京市本所区小泉町(現在の墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、後年、伯父芥川道章の養子となり、芥川姓を名乗ることになったことから、龍之介の墓がここにあるのも分かるような気がする。

慈眼寺の隣りの、本妙寺へと向う。

フォト#1:2014年3月31日
フォト#2~#5:2009年7月25日

(つづく)
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by ryujincho | 2014-04-04 17:48 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2014年 04月 03日

『ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねて/染井霊園』(3)

染井霊園。
今回の街歩きを企画する際、染井霊園に埋葬されている著名人を調べてみた。
数々の著名人の墓がある中で、わたし的には、数年前に「伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて」と題し、あちらこちらを巡ったことでもあり、松浦武四郎に興味を惹かれた。
そして、実際に霊園の入り口の掲示板で著名人の墓所一覧を見て、目を惹かれたのは「下岡蓮杖」の名であった。
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下岡蓮杖(1823~1914年)は、幕末に写真技術を習得し、今でいう写真家、当時は写真師と言われ、我が国の商業写真の開祖として、日本の写真の歴史で最初に現れる人物のひとりである。  
著名人の墓所一覧の最後まで目を通す。
松浦武四郎は57番で登場した。
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著名人の墓所めぐりは趣味(???)のひとつだが、これは日を改めてもう一度ゆるりと参るひつようがあるなとことにしようと思いながら、誰の墓所が何処ということではなく、霊園の中を桜を愛でながら散策した。
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霊園内を jitensha で巡る御仁も。
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染井霊園の隣りにある慈眼寺へと向う。

フォト:2014年3月31日

(つづく)
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by ryujincho | 2014-04-03 23:02 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2014年 04月 02日

『ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねて/染井通り』(2)

染井通りを散策する。
「花咲か七軒町植木の里」。
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地元の人はソメイヨシノ誕生の地として誇りに思っているのが窺える。

染井通りから少し外れたところに旧家の門と蔵があると聞くので、横道に入ってみる。
右手に立派な門が現れた。
「旧丹羽家腕木門」。
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 説明書きに目を通す。
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豊島区指定有形文化財 旧丹羽家腕木門
旧丹羽家の門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが格式のある門です。
この門の建築年代を明らかにする記録はありませんが、言い伝えによれば、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれています。
当所の部材と考えられる親柱には和釘が使用され、風蝕もかなり進んで木目が深く浮き出ています。
また、都内の類例と比較して大名家の裏門として使われても不思議はない規模と構造といえます。
解体工事の過程で墨書が発見され、弘化4年(1847年)、嘉永6年(1853年)、安政6年(1859年)の3回修理が行われていたことが判明しました。
少なくとも建築年代は弘化4年以前ということになります。
この門が丹羽家の所有になった年代ははっきりしていませんが、当時は、染井通りに面して建っており、丹羽邸内に移築した時と、染井通り側にマンションを建てるため現在地に曳屋(建物を解体しないで、そのまま場所を移動させること)した時の少なくとも2回移動しています。
また、昭和10年(1935年)の主屋の増改築とあわせて門の屋根を、柿葺き(こけらぶき)(薄い木片を重ねて敷きつめた屋根)から瓦葺きに葺き替えたといわれています。
一方、親柱、冠木、袖戸、両開き扉などは杉で当所からの部材と考えられ、板扉に見られる技法から、建築当時の姿を概ね残しているといえます。
江戸時代の腕木門としては区内で唯一の事例であり、植木の里・駒込の歴史を物語るシンボル的存在とし長年地域の人々に親しまれています。
このように、染井の植木屋として活躍した旧家の遺構である旧丹羽家腕木門は、豊島区における貴重な文化遺産であることから、平成19年(2007年)8月3日、豊島区指定有形文化財になりました。
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津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したというところに惹かれる。

「旧丹羽家住宅蔵」。
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説明書きに目を通す。
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国登録有形文化財 旧丹羽家住宅蔵
この蔵は、丹羽家に残されていた記録から、昭和11年(1936年)の建築であることがわかっています。
もとは主家の北側に木造2階建ての蔵が建っていましたが、8代目茂右衛門が、9代目の結婚の際に主屋の増改築とあわせて、鉄筋コンクリート造りのこの蔵に建て直しました。
蔵は出入口を東面に設け、増築した六畳間と廊下で主屋とつながっていました。
出入口の観音開きの鉄製扉の内側に家紋(五三桐)が付いています。
また扉上部と両脇の柱に大理石が貼られるなど、装飾に気を使っている点が注目されます。
外壁は、昭和初期の土蔵や店舗などに多く用いられた工法である、モルタル下地に大理石の砕石粒洗出し仕上げになっています。
また、外壁の腰巻、水切り、雨押え、鉢巻などの細部や、窓の庇の銅板葺きなどに職人の丁寧な仕事ぶりがうかがえます。
蔵の内部は、地価に収納庫を設け、床板には槍板を用い、壁はモルタル下地に漆喰塗りで仕上げています。特に1階の天井や梁(はり)化粧面取りなどに投じの左官技術がよく表われており、意匠的にも優れています。
このように、旧丹羽家蔵は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造でありながらも、細部には職人の技術や建築主のこだわりが見られます。
建築後70年以上が経過していますが、昭和初期の建築当時の姿を残しています。
これらの点が評価され、平成20年(2008年)3月7日に国の登録有形文化財建造物になりました。
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門の建築年代は少なくとも弘化4年(1847年)で豊島区指定の有形文化財、一方、蔵の建築年は昭和11年(1936年)で国登録の有形文化財となっており、年代の古い方が区の指定、新しい方が国の登録となっている。
区と国では大違いだが、有形文化財の指定・登録基準はどのようなことなのかベンキョーしてみたい。

蔵で「染井の里 駒込 桜物語」(染井よしの桜の里駒込協議会)なるリーフレットを貰った。
その中にこの辺りの古地図「染井王子巣鴨邊繪圖」が掲載されていた。
古地図好きの小生、これをカメラに収めようとしていたところ、有難いことに、ボランタリーと思しき案内の人が「同じ地図でもっと大きなパネルがありますよ」と大版のものを裏から出して来てくだすった。
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前述の旧丹羽家腕木門の説明書きに「染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれています」とあり、これを古地図で探してみた。
地図中央右上に「藤堂和泉守」とあり、ここが津藩藤堂家下屋敷であったのだ。
因みに、地図で右手中程(南東)から左下端(北西)に亘って描かれている道が染井通りである。
古地図を拡大して見てみたが、「染井通り」という記述はなく、「巣鴨町」という文字が通り沿いに見られる。
通り沿いとその向こうに数多くの武家屋敷が並んでいる(■印は中屋敷、●印は下屋敷)。
例えば、地図の右上端に「松平時之助」とあり、これは大和郡山藩柳沢家下屋敷(即ち、六義園)、その左に、「藤堂和泉守」(=津藩藤堂家下屋敷)、「建部内匠頭」(=播磨林田藩建部家下屋敷)などの屋敷が並んでいる。
津藩藤堂家下屋敷の南側に「一橋殿」とあり、これは徳川一橋家下屋敷で、現在の千石緑地である。
地図の左下には「嘉永七年寅歳新刻 戸松昌訓圖之 麹町六丁目 尾張屋清七板」とあり、この地図は1854年、幕末当時のものである。

丹羽家の旧跡から更に歩を進める。
西福寺。
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旧丹羽家住宅蔵で貰ったリーフレットの「西福寺」に目を通す。
「染井の植木屋の菩提寺として有名。8代将軍徳川吉宗に気に入られ、江戸城内の庭師も務めていた植木屋、伊藤家4代目の伊兵衛政武の墓もあり、貴重な園芸書「地錦抄」も保管。(以下略)」とある。
JR駒込駅北口角の染井吉野記念公園の碑にあった北尾政美が描く「染井之植木屋」で登場した伊藤伊兵衛の4代目のことである。
植木屋、伊藤家は代々、伊兵衛を名乗っていたのであった。
初代伊兵衛は津藩藤堂家出入りの露除で、冷たい露から植物を守る仕事をするかたわら、不要となった植木や草花類を自分の庭に持ち帰り栽培を続けることでいつからか植木屋となったとのことである。
大名屋敷の出入り職人から江戸城への出入り職人へと、当時としては、これは大出世であったろう。

染井通りを歩き始めたときから沿道に咲くソメイヨシノを愛でて来たが、歩を進める毎に「今、愛でているソメイヨシノは染井村のソメイヨシノや。ホンモノのソメイヨシノや」との思いを強くするのであった。
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そめいよしの児童公園の角で、花と若葉を一緒につけた桜が目に入った。
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伊豫守さんが公園の中へ入って確認。
「これがオオシマザクラなんやねぇ」と。
ソメイヨシノの片親は見つかった。
もうひとつの親、エドヒガンも、探せば、この公園にあったのかもしれない。
エドヒガンは、その名の通り、春の彼岸ごろに花を咲かせ、葉より先に花が咲き、咲き始めは他種に比べると一週間から十日ほど早いとのことだ。
ソメイヨシノは葉より先に花が咲くので、その点はエドヒガンの血を受け継いでいるということであろう。
エドヒガンの有名どころでは、樹齢2000年を超えるといわれる神代桜(山梨県北杜市)や樹齢1500年を超える淡墨桜(岐阜県本巣市)、樹齢1000年と言われる樽見の大桜(兵庫県養父市)、樹齢300年を越える石割桜(岩手県盛岡市)などがあるが、この目で見たことのあるのは今のところ石割桜だけである。

再び、染井通りに出て、染井霊園へと向う。

フォト:2014年3月31日

(つづく)
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by ryujincho | 2014-04-02 23:58 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)
2014年 04月 01日

『ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねて/JR駒込駅北口角』(1)

3月31日(月)、『大放談会』のメンバー、備前守さん、伊豫守さんと共にソメイヨシノ誕生の地<染井村>(東京都豊島区駒込)を訪ねた。

『大放談会』は2010年の12月から始まった。
当初は備前守さんと小生の二人で一献傾ける会であったが、その後、伊豫守さんも加わり、いつの頃からか、一献傾ける前に街歩きをすることが定例となった。
ということで、今回の街歩きは、花見の季節でもあり、ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねることにしたのであった。

先ず、JR駒込駅北口角の「豊島区立染井吉野記念公園」に立ち寄る。
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園内にソメイヨシノの発祥の由来を説明する碑があると聞く。
碑は直ぐに見つかった。
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染井吉野櫻發祥之里 駒込
駒込の一部は、江戸時代、染井と呼ばれ、巣鴨とともに花卉・植木の一大生産地であった。
この地で江戸時代以降数多くの優れた園芸品種が誕生したが、なかでも染井吉野は当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。
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ソメイヨシノ誕生の地の説明としてはちょっと物足りない。
数年前、趣味の「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>のひとつとして、吉良家家老 小林平八郎の墓参で染井霊園隣りの慈眼寺を訪れた際、ついでに、ソメイヨシノと染井村のことをしっかりとベンキョーした。
そのときにベンキョーしたことは「染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋がエドヒガンとオオシマザクラを交配して作り出したサクラを大和の吉野桜に因んで『吉野桜』と名付けて売り出し、大ヒットした。しかし、大和の『吉野桜』はヤマザクラであって、それと混同するとのことで、改めてソメイヨシノと名付けられたとのことである」ということであった。
で、今回、このブログを綴りながらベンキョーしたことは、明治になって、サクラの調査をした植物学者の藤野寄命博士が別種であることを示し、ソメイヨシノの命名者になったしということである。

碑文の続きとして「左の絵は、植木屋の第一人者、染井の伊藤伊兵衛の庭で大勢の人が花を愛でている様子である」と記され、北尾政美が描く「染井之植木屋(絵本江戸桜)」(享和3年、1803年)が添えられている。
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花屋の伊兵衛といふ つつじを植えしおびたヾし 花のころ八貴賎群集す 其外千草方木かずをつくすとなし 江都第一の植木屋なり 上々方の御庭木鉢植など 大かた此ところよりささぐること毎日々々なり
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この書画で当時の染井村の様子が窺える。

この絵を描いた絵師、北尾政美とは?と思い、調べてみたところ、何と、北尾政美(きたおまさよし)は、東京スカイツリーの関わりで知った「江戸一目図屏風」を描いた津山藩のお抱え絵師、鍬形蕙斎(くわがたけいさい)のことであった。
津山藩のお抱え絵師になり、鍬形蕙斎と称したのは1794年(寛永6年)のことである。
「染井之植木屋(絵本江戸桜)」が描かれたのは1803年(享和3年)となっており、津山藩のお抱え絵師となった後に描いたものということになる。
ちょっと辻褄が合わないような気もするが、ここではそれ以上のことは詮索せず、北尾政美と鍬形蕙斎が同一人物であったということだけに留めておきたい。

染井吉野記念公園から染井通りへと向う。

フォト:2014年3月31日

(つづく)
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by ryujincho | 2014-04-01 23:58 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)