龍人鳥の徒然フォト日記

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カテゴリ:東京の灯よいつまでも( 8 )


2017年 01月 10日

『ドラポタ走り初め 2017/東京の灯よいつまでも/杉並区~中野区の巻』 df-8

1月7日(土曜)。
ドラポタ走り初め/東京の灯よいつまでもポタ。

世田谷区内の寺社、松蔭神社、豪徳寺、世田谷八幡宮をめぐり、宮之坂から豪徳寺、梅ヶ丘、松原、羽根木を経由して、環七へ出て、環七を北上する。

環七、妙法寺入口交差点に差し掛かる。
「妙法寺に寄りますか?」。
「上高田の♪垣根の垣根の曲がり角♪と新井薬師はカットしたので、妙法寺へ行ってみましょう」。

妙法寺。
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閉門時間の4時半は僅かに過ぎ、山門は閉ざされている。
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山門の外に吊るされた鰐口を一叩きし、お参りする。
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この鰐口は上手く出来ている。
通常は「鈴の緒」(神社ではそういうが、寺院ではどういうのだろうか?)を振り、その結び目を鰐口に当てて鳴らすのだが、ここでは鰐口の前に横向きの撞木があり、そこに「鈴の緒」があたり、鰐口を鳴らすようになっている。
硬い撞木が鰐口を叩くので、よい響きで鳴るのである。

鉄格子の間から境内を眺める。
滑り込みセーフの参拝客が祖師堂でお参りをしている。
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常夜灯。
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常夜灯の台座に火消しの組名が刻まれている。
江戸の火消し組は、いろは四十八組、深川本所十六組があったという。

「一月行事予定」脇の鉄扉の隙間から境内右手奥のジョサイア・コンドル設計の「鉄門」を眺める。
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境内にいる守衛さんに「鉄門の写真を撮りたいので、ちょっと、脇に寄って頂けると有難いのですが」と声を掛け、脇に寄って貰い、シャッターを切る。
「あっ、人が来てしまった」と思わず声が出た。
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まあ、こうした写真も面白いと納得しつつあったとき、守衛さんから「中に入って、近くで撮ってください」と有難い言葉あり。
午前中に訪ねた清泉女子大の融通の利かない、いや、職務に忠実な守衛さんと異なり、こちらの守衛さんは臨機応変、誠に有難い対応である。
境内に入り、鉄門の前に立つ。
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折角、中に入れて貰って撮ったのだが、格子越しで撮った、人の入った写真の方が生き生きとしてそちらの方が出来がよかったかもしれない。。

折角、境内に入れて貰ったので、鐘楼と祖師堂も撮る。
「妙法寺」、「謹賀新年」と書かれたピンク色の提灯が妙にマッチしているところが面白い。
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妙法寺の由緒を調べようとホームページを紐解くと、冒頭、「日蓮宗 本山 やくよけ祖師 堀之内 妙法寺」の文字が現れる。
由緒は次の通りである。
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當山の由来は、今を去る事三百数十年前、元和(1615~1623)の頃、元真言宗の尼寺であったが、覚仙院日逕上人は老母妙仙院日圓法尼の菩提のため、日蓮宗に改宗し、老母を開山とし、日逕上人自らは開基第二祖となられた。
山号は開山日圓上人にちなみ日圓山とし、寺号を妙法寺と号した。

当初は、目黒碑文谷の法華寺の末寺となりましたが、元禄12年(1699)3月、身延山久遠寺の直末となりました。
この時、法華寺から除厄け日蓮大聖人の霊像を お迎え致しました。
この像があらゆる災難除けに霊験あらたかなことから人々の信仰を集め、法運隆盛をきわめて 今日に至っております。

祖師堂に安置し奉る日蓮大聖人像は、世に「除厄け祖師」と呼ばれ、江戸時代から現代に至るまで、霊験あらたかなことでひろく信仰を集めています。
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妙法寺を訪ねたのは、今回で三度目となる。
一度目は、「日本近代建築の父、ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて」の一環として2009年8月1に「訪ねたのが最初であった。

そのときのポタリング記録を紐解くと、「ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて/前編」/日暮里駅~上野、秋葉原、神田~丸の内/三菱一号館~霞ヶ関/旧法務省~浜松町(福気ラーメン)~芝公園~桜田通り~三田/綱町三井倶楽部(旧三井家倶楽部)~桜田通り~白金台/明治学院大学~高輪/高輪消防署二本榎出張所、承教寺(英一蝶の墓)~桂坂、第一京浜~高輪/三菱開東閣(旧岩崎弥之助高輪邸)~東五反田/清泉女子大学(旧島津家袖ヶ崎邸)~目黒川沿い桜並木~アルコタワー、目黒雅叙園旬遊紀(旧岩永省一邸)~白金~首都高速2号線沿い~恵比寿3丁目~外苑西通り(広尾、西麻布、青山墓地、南青山、神宮前(SPECIALIZED店)、仙寿院(明治公園/バイシクル・ホッケー)、JR中央線高架、四谷4丁目、新宿御苑東)~新宿通り~明治通り~大久保通り~環七通り~杉並・堀ノ内/妙法寺(鉄門)~環七通り~高円寺駅/走行距離は46.35km」と記されている。

そのときのことは兄弟ブログの初代「上総守が行く!」で「ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて」第9話「妙法寺鉄門」と題し、綴っており、読み返してみた。
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途中、バイシクル・ポロなどを眺めたりして寄り道もありましたが、目黒から恵比寿、広尾、西麻布、青山、神宮前、四谷、新宿を抜け、大久保通りを西へ走り、環七通りに至りました。
先ほどまでの天気は何処へやら、黒雲が広がって来て、今にも降りそうな雲行き。
環七通りを少し南へ下ると妙法寺、「もうちょっとだから、降らないでおくれ」と念じながら、妙法寺へ向け、急ぎ、走りました。

妙法寺に着くと、丁度、寺の鐘が鳴り始めました。
時計を見ると5時。
山門は既に閉じられていました。
お寺は、後日、ゆっくりお参りすることにして、鐘の音を聞きながら、目的の「鉄の門」を探しました。
直ぐに分かりました。
山門の右手に鉄門がありました。
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説明書きに「国重要文化財。1878年(明治11年)製作。明治初期の和洋折衷様式の鉄門として数少ないもの...」とありました。
こ鉄門が製作された1878年(明治11年)は、コンドルが来日した翌年です。
この鉄門は工部省の製作によるものとの記録はあるものの、コンドルが関わったかどうかは定かではないとのこと。
但し、コンドルは工部大学校の教師に加え、工部省の顧問でもあったので、この鉄門に関わったとの説もあるようです。
何故、工部省がお寺の門に関わったのかと、またまた、"歴史徘徊病"が頭をもたげて来ました。

JR高円寺駅から輪行にて帰宅。

走行距離46.35km。

フォト:2009年8月1日

<前編、完/後編に続く>
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因みに、「日本近代建築の父、ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて」の後編は、翌週の8月8日、「日暮里駅~上野/旧岩崎邸庭園~本郷/東大構内 ジョサイア・コンドル像~神田駿河台/ニコライ堂~湯島聖堂~神田明神~外堀通り、水道橋、春日通り、不忍通り~護国寺/ジョサイア・コンドル夫妻墓所~不忍通り、本郷通り~旧古河庭園~本郷通り~日暮里駅/26.67km」であった。

二度目の妙法寺訪問は、2012年2月11日。
最初の訪問は単独行であったが、二度目のときは、今回のメンバーと同様、大給守殿と武衛殿と共に、であった。

そのときのポタリング記録を紐解くと「JR中野駅集合~曹洞宗天徳院/梶川與惣兵衛の墓所(「抱きとめた片手が二百五十石」。浅野を抱き留めた梶川殿はその功績で五百石の加増とか)~曹洞宗龍寶山萬昌院功運寺/江戸の吉良家菩提寺~鈴木家/童謡♪たきび♪の垣根の曲がり角~真言宗豊山派新井山薬師寺、別称・新井薬師~哲学堂~北から南へ下がって~妙法寺/日本近代建築の父、ジョサイア・コンドル設計の鉄門~一路、高田馬場へ~~中山安兵衛高田馬場之決闘助太刀ゆかりの地/水稲荷神社境内/「堀部武庸加功遺跡之碑」~甘泉園/徳川御三卿清水家下屋敷跡~面影橋/太田道灌と山吹伝説、石碑「山吹の里」~上総旧宅跡(早い話が下宿先「三ヶ島家」跡)~神田川沿い~関口芭蕉庵~Printing Museum/球形モニュメント~丸の内/32.33km」と記されている。

最初の訪問のときは、閉門後であり、ジョサイア・コンドル設計の「鉄門」は表の鉄扉と思い込んでしまったが、二度目の訪問で境内右奥の「鉄門」がジョサイア・コンドル設計の門であることに気づいたのであった。

そんなこんなで、今回、閉門後ではあったが、ジョサイア・コンドル設計の「鉄門」を鉄扉越しに、そして、守衛さんの配慮で間近に眺めることが出来たのであった。

旧仕官先の先輩、K.K.氏は杉並区堀ノ内にお住まいだったなあと思いながら、妙法寺をあとにした。

JR中野駅に到着。
ちょうど、日は暮れた。
上高田の童謡「たきび」の♪垣根の垣根の曲がり角♪発祥地と新井薬師はカットし、中野ブロードウェイ東側のディープな飲み屋街に入り、台湾料理店で反省会。
先ずは、皮蛋と麦酒で乾杯。
そして、各種料理と台湾紹興酒を。
大給守殿から「紹興酒をもう1本」の声が出たが、「あかん、あかん、引っ越し前の大事な身体。ハーフボトルにしときましょ」。
三人で1.5本、適量であった。
もちろん、帰路は<押し>で。

こうして、今月半ばに引越しし、国許で隠居生活に入る大給守殿の(取り敢えずの)ドラポタ江戸府内ラストラン、題して、「ドラポタ走り初め/東京の灯よいつまでも」は無事に終わったのであった。
「東京の灯よいつまでも」写真は11日に予定されているドラポタ新年会&大給守殿壮行会のときに撮るであろう写真として、本ブログの最後を飾る写真は、グルメ写真家、大給守殿撮影の「皮蛋」で〆てみた。

フォト:2017年1月7日
#19(皮蛋):大給守殿提供
#13~#18:2009年8月1日(アーカイブより)

(完)
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by ryujincho | 2017-01-10 23:38 | 東京の灯よいつまでも | Comments(0)
2017年 01月 09日

『ドラポタ走り初め 2017/東京の灯よいつまでも/世田谷区の巻(Ⅲ)』 df-7

1月7日(土曜)。
ドラポタ走り初め/東京の灯よいつまでもポタ。

豪徳寺から西へ走り、世田谷八幡宮へ。
道に迷うことなく、走る。

世田谷八幡宮。
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変額コレクション。
シンプルに「八幡宮」とだけ刻まれているところがなかなかよい。
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狛犬コレクション。
狛犬は、片や、子連れ、方や、蹴鞠という姿が多いが、ここ、世田谷八幡宮の狛犬は、阿形、吽形、両方とも子連れで、これは珍しいものである。
2012年1月にこの両方とも子連れの狛犬を見て以来、各地の寺社の狛犬を仔細に見るようになり、狛犬コレクションを始めた、そうした切っ掛けを作ってくれたのが世田谷八幡宮の狛犬なのであった。

「狛犬さん、狛犬ちゃん、久しぶりだね、5年ぶりだね」と思いながら撮った6葉の写真をここに掲載しておこう。

右/阿形。
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角度を変えて、親を見上げる子の姿を。
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吽形。
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角度を変えて、親を見上げる子の姿を。
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世田谷八幡宮の祭神は、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后。
例祭日は、9月15日。
由緒 は、寛治5年(1091年)、後三年の役の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天気回復を待つため、滞在することとなり、今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の御加護に依るものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の御分霊をこの地に勧請し、祀ったという。

夕日に映える土俵を眺める。
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嘗ては、奉納相撲で、その勝敗によって豊作・凶作を占ったり、あるいは、豊作を感謝した。
今でも、毎年、秋の例祭には東京農大相撲部による奉納相撲が行われている。

時計は午後4時を指している。
「中野に到着する頃は日暮れ。上高田の ♪垣根の垣根の曲がり角♪と新井薬師 はカットとなりましょう」。
「取り敢えず、中野駅を目指し、走りましょう」。

宮之坂から豪徳寺、梅ヶ丘、松原、羽根木を走り、環七へ出て、環七を北上する。

フォト:2017年1月7日

(つづく)
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by ryujincho | 2017-01-09 23:37 | 東京の灯よいつまでも | Comments(0)
2017年 01月 09日

『ドラポタ走り初め 2017/東京の灯よいつまでも/世田谷区の巻(Ⅱ)』 df-6

1月7日(土曜)。
ドラポタ走り初め/東京の灯よいつまでもポタ。

松蔭神社から西へ走り、豪徳寺へ。
2012年1月、猫殿の誘いで「世田谷寺社めぐり」をした際は、順序が逆で、世田谷八幡宮、豪徳寺、松蔭神社の順に訪ねたが、案内は猫殿に任せていたので、道順ははっきりとは分かっていない。
多分、ここら辺りだったはずというところで、道行く人に尋ねた。
「ここは、ちょうど、豪徳寺の裏手です。その先の角を左に曲がり、真っ直ぐに行くと豪徳寺の山門へ出ます」と教えてくれた。

「諸説ありますが、井伊家の殿さんが鷹狩りに出掛けたとき、雨が降ってきて、木の下で雨宿りしていたところ、猫が招くので、そちらの方に行ったところ、先ほど、雨宿りしていた木に雷が落ち、殿さんは猫のお陰で命びろい。それが、豪徳寺の招き猫の由来」と知ったかぶりを披露しながら走っているうちに、豪徳寺の山門前に到着した。

豪徳寺の招き猫に関わる諸説を参照するため、2012年1月に豪徳寺を訪ねたときのことを綴ったマイ・ブログ、初代「上総守が行く!」を紐解いてみた。
我ながら申すのも何だが、誠によく書けている(???)おり、それをここに転載しておこう。

=====2012年3月2日付け=====
豪徳寺。
彦根般井伊家菩提寺、そして、招き猫の由来を持つ寺である。
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山門の扁額「碧雲閣」。
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三重塔には、小判をくわえた鼠の彫り物の脇に招き猫が飾られているとのこと。
これは、後日、知ったことで、次回の楽しみとなった。

彦根藩主井伊家墓所。
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説明書きの骨子は次の通りである。
寛永10年(1623年)頃、世田谷が井伊家所領となり、弘徳院が菩提寺になった。
2代藩主井伊直孝が没した後、その法号「久昌院豪徳天英大居士」に因み、「豪徳寺」となった。
井伊家菩提寺は、豪徳寺、清涼寺(彦根市)、永願寺(東近江市)の三ヶ寺である。

井伊家墓所全体図で、2代藩主井伊直孝と13代藩主井伊直弼の墓所を確認する。
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墓所の案内図は有難いものだ。
「日本近代建築の父、ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて」の際、護国寺では受付で墓地の配置図が貰えた。
「赤穂浪士討入凱旋の旅」《番外編》で、吉良家家老 小林平八郎の墓所である、巣鴨の龍眼寺を訪れた際には、掲示もなにもなく、墓を探すのに往生したこともあった。

井伊家墓所に入る。
直孝の墓は正面、直弼の墓は左奥だ。
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2代藩主井伊直孝の墓。
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13代藩主井伊直弼の墓。
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数日前に降った雪が残っている。
桜田門外の変のときも雪であった。
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墓参のあと、三重塔向かいの、招猫殿に詣でた。

フォト:2012年1月28日

(つづく)

=====2012年3月4日付け=====
豪徳寺。
近江彦根藩主井伊家墓参を終えた後、招猫殿に詣でた。
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ゆるキャラ「たまにゃん」。
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「御祈祷 お札 お守り福銭 塔婆 招福猫児 総受付迄」。
豪徳寺では、招き猫を「招福猫児(まねぎねこ)」という。
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招き猫の由来には諸説ある。
豪徳寺由来説もそのひとつ。
豪徳寺由来説にも諸説ある。

<豪徳寺由来説/その1>
近江彦根藩二代藩主 井伊直孝が鷹狩りの帰りに弘徳院(のちの豪徳寺)の前を通りかかった。
そのとき、この寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたので、寺に立ち寄り、休憩した
すると、雨が降りはじめた。
雨に降られずに済んだことを喜んだ直孝は、弘徳院に多額の寄進をし、豪徳寺と改め、井伊家の菩提寺とした。
猫が招いた縁によって盛り返した豪徳寺は、後に境内に招猫堂を建立し、猫が片手をあげ招いている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)を作るようになった。

<豪徳寺由来説/その2>
近江彦根藩二代藩主 井伊直孝が鷹狩りの帰りに弘徳院(のちの豪徳寺)の前を通りかかった。
豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の猫が手招きをしていた。
直孝がその猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちた。
雷に打たれずに済んだことを喜んだ直孝は、弘徳院に多額の寄進をし、豪徳寺と改め、井伊家の菩提寺とした。
猫が招いた縁によって盛り返した豪徳寺は、後に境内に招猫堂を建立し、猫が片手をあげ招いている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)を作るようになった。

彦根藩のお殿様が、寺の前にある、一本の木の下で雨宿りをするというのは不自然である。
寺があるのだから、寺の中で雨宿りをするというのが自然であろう。
しかし、猫の手招きに誘われて、落雷を避けることが出来たという説の方がインパクトがあるので、小生は、<豪徳寺由来説/その2>の”落雷説”を採りたい。

豪徳寺の招き猫を見てみると、大変、シンプルである。
右手(右前足)を掲げているだけである。
小判や打ち出の小槌などは持っていない。
右手(右足)としているのは、井伊家の菩提寺であることと関わりがあり、武士にとって左手は不浄の手であるからとのことだ。
また、招き猫は機会を与えてくれるが、結果までついてくるわけではなく、機会を活かせるかどうかは本人次第という考え方から、小判は持っていないとのことだ。

彦根には、ゆるキャラ日本一の呼び声が高い、「ひこにゃん」がいる。
「ひこにゃん」は、世田谷・豪徳寺のゆるキャラ「たまにゃん」の兄貴分といったところであろう。

今回の企画ならびに案内役を務めてくだすった「招猫守」殿の名も、ここ、豪徳寺の招き猫を由来とする。
即ち、世田谷在住の愛猫家、世田谷といえば豪徳寺、豪徳寺といえば招き猫ということで、ご本人、自ら命名されたもの。

世田谷寺社めぐりも、愈々、佳境。
最後の訪問地、松陰神社へ向かう。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
========================

以上が前回、豪徳寺を訪れたあと、綴ったブログである。
今回、訪れたときに撮った写真の中で、前回と被らないような写真のみピックアップして掲載しておきたい。

狛犬コレクション、その一。
仏殿前の大香炉。
豪徳寺は猫の寺であるが、狛犬コレクションの一環で大香炉の唐獅子を超アップで。
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仏殿。
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井伊家の家紋は「丸に橘」。
この家紋を見ると思い出すこと、それは映画『切腹』。
原作、滝口康彦著小説『異聞浪人記』。
小林正樹監督、仲代達矢、石浜朗主演、1962年松竹作品。
リメイク版は『一命』。
三池崇史監督、役所広司、市川海老蔵主演、2011年松竹配給。

物語りの始まりはこうだ。
寛永7年(1630年95月13日、井伊家の江戸屋敷を、元・安芸広島藩福島家の家臣、津雲半四郎と名乗る浪人が訪ねてきた。
半四郎は井伊家の家老である斎藤勘解由に「仕官もままならず生活も苦しいので、このまま生き恥を晒すよりは武士らしく、潔く切腹したい。ついては屋敷の庭先を借りたい」と申し出た。
そして、...。

第一作はモノクロ、リメイク版はカラー、モノクロがこの物語の陰惨さをよりリアルに表現している。
リメイク版は、第一作をリスペクトしてか、カメラ・アングルが非常に似通っており、好印象。
全体的に出来栄えは第一作に軍配であるが、リメイク版で、井伊家の家臣、沢潟彦九郎を演じた青木崇高の、あの演技がこの物語のおどろおどろしさに大いに貢献している。

この物語の面白いところは、元・安芸広島藩福島家の家臣である浪人の訪ね先が井伊家江戸屋敷になっているということだ。
豊臣恩顧の武将、福島正則は関ヶ原の戦いで徳川方につき、安芸広島藩49万石を拝領するも、徳川秀忠の時代になって、幕府に無断で広島城の石垣を修復したといちゃもんを付けられ、信濃高井野藩4万5千石に減封、その後、あれやこれやで改易となる。
元・福島家家臣にすれば、にっくき徳川幕府、ならば、徳川の重臣、井伊家をやっつけてやるということとなったになったのであろう。
井伊家江戸屋敷はえらく迷惑なことではあるが...。

さて、然様な物語のずっと以前の井伊家の物語、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』は新年8日から始まるが、どのような展開になるのか...。

本堂と八角灯籠。
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火袋には
雲の中を駆ける獅子と楽器を奏でる音声菩薩(おんじょうぼさつ)が浮き彫りされている。
昨年秋、東大寺を訪ねた際、大仏殿前の八角灯篭を見たばかりであったので、こちらの八角灯篭も興味深く見た。

笙を演奏する音声菩薩。
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縦笛を吹く音声菩薩。
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横笛を吹く音声菩薩。
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鈸子(ばっし)を打ち鳴らす音声菩薩。
鈸子はシンバルを小型にしたような楽器である。
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「招福猫児(まねぎねこ)」。
前回、訪ねたときはいっぱい写真を撮った。
今回はじっくりと眺めた。
今回、気づいたことは、猫の表情はすべて同じなのだろうが、見る角度によって異なって見えるということであった。
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「福」をカメラに吸い込んでいる大給守殿。
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「御祈祷お札お守り福銭塔婆招福猫児は總受付迄」。
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前回、訪ねたとき、同じ場面を撮っている。
上掲の当時の写真と見比べてみた。
変わりはないように見えたが、一点、異なっているところを見つけた。
それは、右上にある「家内安全」「商売繁昌」のお札に朱印がないということであった。
拡大してみると、朱印の痕跡のようなものがあるので、日に焼けて変色し、消えてしまったのかもしれない。
ちょっと細かいところを見過ぎてしまったようで、反省!

大小のペアで並んでいる招福猫児も可愛らしい。
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井伊家墓所。
前回も感じたことだが、ゆったりとした墓地。
午後3時過ぎの冬の光がきれいに掃き清められた墓地を照らす。
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歴代の殿様の墓を一つ一つの墓を見ながら、「やはり、皆、戒名は院殿なんだなあ」と武衛殿。

井伊直弼の墓。
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墓石には「宗觀院殿正四位上前羽林中郎將柳暁覺翁大居士」と刻まれている。
武衛殿が「正四位なんだなあ」と呟く。

上述の、2012年のブログで「三重塔には、小判をくわえた鼠の彫り物の脇に招き猫が飾られているとのこと。これは、後日、知ったことで、次回の楽しみとなった」とある。
今回、地元の案内人の人が参拝客に説明している声が聞こえたが、しっかりとは見なかった。
次回の楽しみに残しておこう。

松蔭神社を訪ね、豪徳寺も訪ねた。
これは、神田明神にも参るけど、成田山新勝寺にも参るというようなもので、我ながら、ちょいと呆れるが、まあ、何れにもご容赦願おう。

山門を抜け、参道を通り、表通りへ。
狛犬コレクション、その二/参道入り口にて。
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豪徳寺から西へ走り、世田谷八幡宮へ。

フォト#1~#20:2012年1月28日(アーカイブより)
フォト#21~36:2017年1月7日

(つづく)
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by ryujincho | 2017-01-09 23:36 | 東京の灯よいつまでも | Comments(0)
2017年 01月 09日

『ドラポタ走り初め 2017/東京の灯よいつまでも/世田谷区の巻(Ⅰ)』 df-5

1月7日(土曜)。
ドラポタ走り初め/東京の灯よいつまでもポタ。

目黒不動尊に参り、目黒通りを西へ走る。
「次は、駒沢オリンピック公園、松陰神社、豪徳寺、世田谷八幡宮となります。駒沢オリンピック公園は中根交差点を右折して、自由通りを北上。これをカットするなら、その手前の柿ノ木坂陸橋交差点を右折して環七を北上。後工程を考え、駒沢公園はカットしましょうか」。
「駒沢公園はカットしましょう」。

駒沢オリンピック公園。
2020年の東京五輪の施設建設で、声高に、レガシー、レガシーと叫んでいる御仁がいる。
レガシー、レガシーと叫んでいる割りには、駒沢オリンピック公園の施設利用の話はまったく耳にしない。
1964年の東京オリンピックが開催された当時、旧国立競技場や駒沢オリンピック公園がレガシーになると思われていたはず。
ということは、いま、レガシー、レガシーと言って建設される施設も、いずれ、旧国立競技場や駒沢オリンピック公園のように解体されたり、忘れ去られたりするのであろう。
今回は時間の都合で駒沢オリンピック公園はカットするが、2012年に世田谷在の猫殿が案内してくれた「世田谷寺社めぐり」の中で訪ねて以来、行っていないので、2020年の東京五輪開催までに、もう一度、訪ねておきたい。

松陰神社。
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申すまでもなきことながら、祭神は「吉田寅次郎藤原矩方命(よしだとらじろうふじわらののりかたのみこと)」。
神紋は「五瓜に隅立て万字」。
吉田家の家紋である。
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参道を進む。
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「松蔭先生、2012年1月以来のご無沙汰です」。
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境内奥の松下村塾を眺める。
「学は、人なる所以を学ぶなり」(松下村塾記)

萩の松蔭神社、そして、松下村塾を訪ねたのは、2010年秋のことであったなあ...。
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アーカイブ(2010年11月19日)より。
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世田谷の松蔭神社に話を戻して。
「一月 松蔭先生の言葉」。
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一月 松蔭先生の言葉
神明を崇め尊ぶべし。
妹 千代宛書簡
安政元年 在野山獄
十二月三日 二十五歳
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妹 千代宛書簡
安政元年(1854)12月3日
◎神明を崇め尊ぶべし。
大日本と申す国は神国と申し奉りて、神々様の聞き給える御国なり。
然ればこの尊き御国に生まれたるものは貴きとなく、賤しきとなく、神々様をおろそかにしてはすまぬことなり。
併し世俗にも信神心という事する人もあれど、大てい心得違ふなり、神前に詣でて柏手を打ち、立身出世を祈りたり、長命富貴を祈りたりするは皆大間違ひなり。
神と申すものは正直なるを好み、又清浄なる事を好み給う、夫れ故神を拝むには先ず己が心を正直にし、又己が体を清浄にして、外に何の心もなくただ慎み拝むべし。
是を誠の神信心と申すなり。
▲児玉家に嫁ぎ一児の母となった妹に送った手紙、松陰先生の家族観、育児観、女性観そして各々の家風を尊重し微風として受け継ぐことが大切としている。
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この日のポタリングには不出馬ながら、盟友、南国守殿がドラポタのメンバーとなる切っ掛けとなったのは、世田谷在の友、猫殿の計らいによるものであった。
猫殿と南国守殿は某商社の同僚にて、筆者の顧客で、若いころから仕事のみならず、夜な夜な、一緒に遊ぶこともあり、云わば、社会人になってからの、ポン友である。
南国守殿は2000年から或る南の国に駐在となり、時折、メル友はしていたが、10余年、会っていなかった。
2012年1月、猫殿の誘いで「世田谷寺社めぐり」を挙行。
コースは「東急田園都市線桜新町駅~<林田(水前寺清子)邸>~<長谷川町子美術館>~玉川大師~二子玉川~野毛公園~等々力渓谷~<小林旭邸>~九品仏/浄真寺~<小澤一郎邸>~日体大~駒沢大学~駒沢オリンピック公園~<猫殿ファクトリー/かとう>~<元・笠置シズコ邸>~世田谷八幡宮~豪徳寺~松陰神社~東急電鉄田園都市線駒沢大学駅前/居酒屋「酉の市」>というもので、最後の訪問地が松蔭神社、そして、反省会は駒沢大学駅前の居酒屋「酉の市」であった。
居酒屋「酉の市」へ入った瞬間、見慣れた顔が。
南国守殿であった。
10余年ぶりの再会であった。
「上総ちゃん、自転車、やってるんだって。おれさぁ、この3月で完全隠居だから、今、やってる合気道、登山、魚釣りに加え、自転車もやりたいんだよ」。
「了解!自称、自転車の伝道師。今は寒いから、春になる前に愛馬をゲットし、暖かくなったら、あちこち、一緒に走りましょう。いい馬市を知ってますんで、いずれ、そこへお連れしましょう」。
こうして、南国守殿はこの年、ドラポタのメンバーになったのであった。
そういうことで、ここ、松蔭神社は思い出の地なのであった。
ここで、改めて、猫殿に感謝!と申し上げておきたい。

松蔭神社から西へ走り、豪徳寺、世田谷八幡宮へと向かう。

フォト:2017年1月7日
フォト#1:大給守殿提供
フォト#6~#11:2010年11月19日(アーカイブより)

(つづく)
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by ryujincho | 2017-01-09 23:35 | 東京の灯よいつまでも | Comments(0)
2017年 01月 09日

『ドラポタ走り初め 2017/東京の灯よいつまでも/目黒区の巻』 df-4

1月7日(土曜)。
ドラポタ走り初め/東京の灯よいつまでもポタ。
千代田区から港区を経て、品川区/清泉女子大へ、そして、再び、港区に入り、白金台の三田用水路跡と東京都庭園美術館を訪ね、丁度、昼餉時となった。
ラーメン好きの大給守殿の提案で、権之助坂下の「勝丸」へ行くこととなった。
目黒通りを西へ走り、目黒駅を通過し、権之助坂を下る。

今回のポタで気付いたのだが、目黒駅は、目黒区内ではなく、品川区内なのである。

「勝丸はあるかなあ」。
権之助坂をどんどん下る。
「あった!」。
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「何で勝丸を知ってるの?」。
「仕事でここら辺りも来ていたこともあるので」。
今月半ば、国許に戻る大給守殿、思い出のラーメン店なのであった。

さて、愈々、次は、大給守殿からリクエストのあった目黒不動尊だ。

昨年末、武衛殿と霞ヶ浦ポタをしながら、次のような会話があった。
「何故、大給守殿は目黒不動尊を所望したのでありましょう?」。
「多分、ブラタモリで目黒界隈をやっていたからじゃないでしょうか」。

で、大給守殿に尋ねた。
答えは「仕事でこの界隈に来ることがあったんですが、目黒不動尊に参ったことがなく、是非に、と思った次第。そして、ブラタモリでやっていたから」。
武衛殿の推察通りであった。
因みに、理由はここでは述べないが、筆者はブラタモリは見ないことにしている。

大鳥神社交差点を左折し、山手通りを南進、適当なところで右折、細道を行き、不動公園を左折、目黒不動尊に至る。

目黒不動尊 瀧泉寺。
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山号は泰叡山、宗派は天台宗、本尊は不動明王。
通称、目黒不動。

寺伝では、808年(大同3年)、円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したという。
円仁(諡号、慈覚大師)は、794年(延暦13年)、下野国都賀郡の豪族、毛野氏の一族、壬生首麻呂の子として生まれる。
昨年8月、国府跡・国分寺跡・総社めぐりの一環で下野国を訪ね、更に、9月、男鹿半島の真山神社を訪ねた際、慈覚大師(円仁)お手植えと伝えられる樹齢千百余年の榧の木を見物した。
そんなこともあって、円仁(慈覚大師)が瀧泉寺を創建したと知り、親しみを覚えるのであった。
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扁額コレクション。
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龍コレクション、その一/山門脇手水鉢の龍の口(たつのくち)。
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龍コレクション、その二/独鈷の滝。
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独鈷の滝の傍らに立つ不動像に水をかける参拝客。
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大阪・法善寺横丁の、苔むした水掛不動を思い出す。
そして、場違いなるも、藤島恒夫が唄う「月の法善寺横丁」の歌詞とメロディーが頭の中を過ぎる。
♪包丁一本 さらしに巻いて 旅にでるのも 板場の修業...♪
台詞入りというのが、これまた、よかったなあ。
「...はよう、立派な板場はんになりやゆうて、長いこと水掛不動さんにお願いしてくれましたなあ。あの晩から、わては、わては、こいさんが好きになりました」。
1960年(昭和35年)、筆者、小学6年の頃のヒット曲であった。

石段を上り、本堂へ。
龍コレクション、その三/本堂前手水鉢の龍の口(たつのくち)。
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本堂。
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龍コレクション、その四。
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拍手に反応して踊る獅子舞。
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龍コレクション、その五/下り女坂の途中で見掛けた龍の口(たつのくち)。
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鷹居(たかすえ)の松跡。
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鷹居(たかすえ)の松跡
江戸幕府3代将軍家光が、寛永(1624~1644)の頃、目黒不動尊の近くで狩猟中に愛鷹が行方不明になりました。
家光が目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹は境内の大きな松の枝に飛び戻ってきました。
このことに家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と命名したといわれています。
これ以後、家光は不動尊を深く信仰するようになり、火災によって焼失していた目黒不動尊の堂塔を次々と再建させ、寛永11年(1634)には諸堂末寺等を併せて50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。
幕府の保護を受けて以来、歴代将軍が目黒不動尊へ参詣するようになると、江戸庶民にも不動尊信仰が広がり、目黒不動尊は江戸近郊の有名な行楽地の一つとなり、大変にぎわいました。
尚、現在の松は「鷹居の松」の話から何代か後のものになります。

平成21年3月
目黒区教育委員会
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ここに「目黒のさんま」のことも、ちょいと触れてくれておれば、粋な目黒区教育委員会となると思うんだが...。

武衛さんの案内で、門前の一角にある「白井権八、小紫の比翼塚」を眺める。
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白井権八は、4世鶴屋南北作の歌舞伎 「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)」 の一場、「鈴が森」 に登場する浪人崩れ。 
モデルは、実在の鳥取藩家臣、平井正右衛門の長男、平井権八。
歌舞伎は、平井権八の実話、即ち、寛文12年(1672年)年秋、父親と同僚の本庄助太夫と間のささいな諍いを耳にした権八が腹を立て、本庄を殺害し、そのかどで追われ、江戸へ逃れ、あれやこれやの経過を辿り、品川・鈴が森で処刑され、自分のために大罪を犯して、獄門になったことを知った小紫は、吉原を抜け出し、東昌寺の権八の墓前で後追い心中したという話をヒントに作られた物語。

歌舞伎には疎いが、鈴が森の場面での幡随院長兵衛の「お若いのー、お待ちなせーやし」、白井権八の「待てとおとどめなされしは、拙者が事で御座るかなー」の台詞はよく知られるところである。

東昌寺にあった比翼塚は、東昌寺が明治時代に廃寺となったため、この地に移されたとのこと。

比翼塚の脇に立つ札。
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江戸情緒 目黒比翼塚 白井権八 小柴
傾城の恋に眞こと無いとは誰が云うた 
まことありやこそ今が世に目黒にのこる比翼塚
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「江戸情緒」のひとつなのである。

江戸名所図会/目黒不動尊。
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昔も今もよく賑わっている。
正月七日ということもあるのかもしれないが、人気の目黒不動尊であるから普段から賑わっているだのだろう。

再び、目黒通りに出て、西へと走る。

フォト:2017年1月7日

(つづく)
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by ryujincho | 2017-01-09 23:34 | 東京の灯よいつまでも | Comments(0)
2017年 01月 08日

『ドラポタ走り初め 2017/東京の灯よいつまでも/港区~品川区~港区の巻(Ⅱ)』 df-3

1月7日(土曜)。
ドラポタ走り初め/東京の灯よいつまでもポタ。
千代田区から港区を経て、品川区/旧島津邸の清泉女子大本館見学をと思うも空振りし、、再び、港区に入り、白金台の旧三田用水路跡を見物し、目黒通りに出る。

「東京都庭園美術館に寄りましょうか?」。
「今日は館内には入れませんが、庭園だけでも見物しましょう」。

東京都庭園美術館。
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入園料100円、65歳以上50円。
嬉しいというか、ちょいと、悲しいような入園料。
今日1日で、何人の入園があるのだろう、券売所のお嬢さんの昼餉代くらいは出るのだろうかと妙な心配をしたりして。

東京都庭園美術館とは。
リーフレットに目を通す。
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東京都庭園美術館は、1933年(昭和8)に建設されたアール・デコ様式の旧朝香宮邸とその空間をいかした展覧会、そして緑豊かな庭園が調和したユニークな美術館として、1983年(昭和58)の開館以来、多くのみなさまに親しまれてきました。
そして2014年(平成26)にはホワイトキューブのギャラリーを備えた新館が完成し、80年余の歴史と伝統に、新たな創造空間が加わりました。
今後は文化財保護と新しい価値の創造を目指し、みなさまに芸術作品の鑑賞の機会を提供してまいります。
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旧朝香宮邸とは。
黒のエナメル仕様かと思わせる案内板に目を通す。
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重要文化財(建造物)
旧朝香宮邸
4棟 本館・茶室・倉庫・自動車庫
1基 正門
所在地 港区白金台5丁目26番
指定 平成27年7月8日

朝香宮鳩彦(やすひこ)王の住宅として昭和8年(1933)に竣工した建築群で、昭和22年まで朝香宮の本邸として使われていた。
本館は鉄筋コンクリート造2階建(一部3階建)で、外観は簡明な意匠である。
中庭を囲むロの字形平面の南半分を客間や住居とし、他を事務や厨房にするのはこの時期の宮内省内匠(たくみ)寮設計の邸宅に共通の配置である。
南側テラスは洋風庭園へ続き、和風庭園や正面からのアプローチも往時の雰囲気を良く留める。
和風庭園には茶室が現存する。
本館主要室の内装設計はフランス人装飾美術家アンリ・ラパンが担当、実施設計あ内匠寮工務課技師の権藤要吉らが分担して行った。
鳩彦殿下と允子(のぶこ)妃殿下は大正14年(1925)にパリで、のちにアール・デコ博といわれる美術博覧間を視察。
新邸にもアール・デコ様式が随所に採用され、新鮮かつ洗練された華やかな意匠が満ちている。
正面玄関のガラス扉は工芸家ルネ・ラリックの作品として有名である。
当時最新のフランスの芸術作品を取り入れたこの建物は、宮内省内匠寮による邸宅建築の頂点のひとつとして意匠的に優れ、価値が高い。

平成28年3月 建設
東京都教育委員会
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「指定 平成27年7月8日」とある。
昨年、国の重要文化財に指定されて間もない建物なのであった。
そういえば、昨年、松江城が国の重要文化財から国宝に格上げされたということもあったなあ...。
毎年、こうやって、いろいろな項目が審議され、国宝や重文に指定されているのである。

正門から本館へのアプローチ。
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梢のてっぺんで鳥影が。
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<鳥見ング図>で確認したところ、メジロであった。
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「隣の自然教育園には鳥がいっぱいいます」と武衛殿。
自然教育園とは、「国立科学博物館付属自然教育園」。
ホームページを開いてみると次の通りであった。
都内の鳥見スポットの新発見であった。
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附属自然教育園は大都会『東京』の中心部にあって豊かな自然が残る、都市砂漠の中のオアシスともいえる緑地です。
自然に親しみ、四季折々に変化する生物の姿や風景に心をなごませ、自然と人間との考える場として大いに利用していただきたいと思います。
(中略)
附属自然教育園は東京都心にありながら自然状態の常緑広葉樹林が残された施設です。
20ヘクタールの園内では1436種の植物、2130種の昆虫、130種の鳥類が記録されています。
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正面玄関。
バルコニー付きもさることながら、両脇に鎮座する唐獅子像が気に入った。
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唐獅子だが狛犬コレクションのひとつとして。
右/子連れ唐獅子。
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左/手毬唐獅子。
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手毬の中に封じ込められた玉は動くのかな?と触れてみると動いた。
こういう細工も好きである。
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灯り。
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灯篭と梅の木。
庭持ちの大給、武衛ご両氏は梅の木の剪定談義。
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梅の蕾を撮る大給守殿。
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上総も梅の蕾を一枚と思うも、どうもピントが上手く合わないが、この写真を採用。
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新館。
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茶室。
庭持ちの大給、武衛ご両氏は、国許の庭に茶室を造ってはどうだろうかと茶室談義。
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池の畔の梅の木。
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本館に戻って、バルコニーを眺める。
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「上総殿は、先般、旧前田公爵邸を訪ねたとのことでしたが」。
「建物は茶色で、こちらより渋い感じ。あちらは渋谷区、こちらは東京都、手入れの仕方が段違い。そして、こちらの方が明るく、開放感がありますね」。

正門の駐輪場へ戻る。
「ちょっと、待ってください。受付に犬を連れて来てよいか聞いて来ます」と武衛殿。
老婦人三人組が来園。
これで我らの分も含め、6名、900円の売り上げ。
「犬はダメだと言われました」と武衛殿が戻って来た。
さもあらん。

「12時前ですね。何処かで昼餉を摂りましょう」。
「権之助坂を下ったところに、昭和46年創業のラーメン店、『勝丸』があります。そこへ行きましょう」。
これ、もちろん、ラーメン好きの大給守殿の提案。
目黒通りを直進する。

フォト:2016年1月7日

(つづく)
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by ryujincho | 2017-01-08 23:33 | 東京の灯よいつまでも | Comments(0)
2017年 01月 08日

『ドラポタ走り初め 2017/東京の灯よいつまでも/港区~品川区~港区の巻(Ⅰ)』 df-2

1月7日(土曜)。
ドラポタ走り初め/東京の灯よいつまでもポタ。
桜田門から桜田通りを走り、愛宕トンネルを抜け、愛宕通り、日比谷通りを走る。
途中、松蓮社前を通過する。
武衛殿の案内で、懐中電灯を照らし、松蓮社の弁天洞を見学したのは2011年8月27日のことであった。

そんな思い出話をしながら、芝増上寺前を通過し、芝公園に差し掛かる。
師走恒例の「赤穂浪士討入凱旋の旅」で本所松阪町から高輪泉岳寺に向かう際、ここを通過し、正月には箱根駅伝のTV観戦でここを眺め、僅か1ヶ月足らずの間に三度目のこの界隈である。

冬晴れに聳え立つ東京タワーを眺める。
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ポタ恒例、「今日の jitensha」。
左から、武衛殿、大給守殿、上総の愛馬。
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「こうやって、改めて芝丸山古墳を眺めると、結構、大きな古墳であることが分かりますね」と、最近、上総と共に古墳めぐりに傾倒している武衛殿。
「ここにも豪族がいたのですねぇ。芝丸山古墳を訪ねたとき、東京地学協会が建立した『伊能忠敬測地遺功表』を発見。『伊能忠敬ゆかりの地を訪ねて』にプラス・アルファが出来たことを思い出します。芝東照宮の鳥居に刻まれた几号水準点も探索、発見しました」と上総。

芝公園を回り込み、赤羽橋交差点で再び桜田通りを走る。
綱坂の近くに差し掛かる。
2013年の冬、綱坂で几号水準点を探索。
しかし、見当たらず、港区区役所に電話で尋ね、その場所を確認するも、道路工事で消滅してしまったようで、唯一の未発見場所となったことを思い出す。

「もう直ぐ、『ラーメン二郎』ですね」と、ラーメン好きの大給守殿。
「ラーメン二郎」前には、まだ、朝10時過ぎだというのに、ずらっと列のなしている。
いつの日か、「朝ラー」を食べに来よう。

清正前交差点に差し掛かる。
加藤清正を祀った清正公堂がある覚林寺は初詣客で賑わっている。
覚林寺の表に立つ常夜灯の台座に刻まれた几号水準点の探索で覚林寺を訪れたのは、2013年の冬のことであった。

高輪台交差点に差し掛かる。
「清泉女子大に行ってみたいです」と大給守殿。
ここら辺りは、武衛殿の地元、彼の案内で細道から細道をすいすいと走り、清泉女子大に到着。

「ジョサイア・コンドル設計の本館を、外からだけでよいので、見せて貰いたいのですが」と上総から正門の守衛さんに用向きを伝える。
「見学は事前の予約が必要です。学校へ電話での予約をお願いします。詳しくはホームページをご覧ください」と杓子定規な返事。
「一人、信州から来ているんで、是非、この機会に見たいと言っておりますんで、お願い出来ませんか」と上総は粘る。
「信州から一人、来ている」、これは嘘ではない。
年末年始を信州で過ごした大給守殿は4日に信州から立ち戻ったのである。
しかし、粘りも泣きも通じず。

諦めきれぬ大給守さん、スマホを取り出し、学校に電話。
学校の回答は「4月、5月、6月に見学会の日を設けるので、そのときに」と。
粘る大給守殿に対し、「只今、担当者がいないので」と断りの常套文句も出たと。

上総は2009年8月、2011年1月に続いて、これで三度目の空振り、大給守殿と武衛殿は2011年1月に続いて、これで二度目の空振りであった。
というのは、次のような経緯があったからである。
過去のブログをそのまま引用して経緯をここに綴っておこう。

2009年8月9日付けブログ「ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて/第6話「旧島津家袖ヶ崎邸」。
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東五反田/清泉女子大学(旧島津家袖ヶ崎邸)。
正門の守衛さんが丁重に迎えてくれました。
「本日はどのようなご用件で」。
「英国の建築家ジョサイア・コンドルが携わった明治、大正時代の建物巡りをしています。こちらの本館がコンドルの設計とのことで、拝見したく参りました」。
「生憎、現在、改修工事中で建物には覆いが施されています。来年3月に完工します。日曜、祭日以外なら一般の方も構内に入れます」。
「歴史のある建物。改修工事は大事なこと。工事が終わった頃に、また、来させて戴きます。今回の来訪記念に正門の写真を撮らせて戴きます」。
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2011年1月25日付けブログ「修禅寺殿、初陣!都内ポタ/坂道と歴史を訪ねて』 第1話。
修善寺殿とは、武衛殿の当初の仮のハンドル・ネーム。
懐かしい。
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事前に、大学に確認の糸電話を入れてみたところ、次の通りであった。
<上総>
一昨年、夏、「ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて」の一環として、そちらの大学を訪れたことがありました。
そのときは、本館は改装工事中で見ることが出来ませんでした。
既に改装工事は終えられていることでもあり、この23日(日)に見学させて戴こうと思っておりますが、可能でしょうか。
<大学>
日曜祝日は一般の方々は構内に入れませんので、見学は出来ません。
平日9:00~17:00、土曜日9:00~13:00は、外観だけですが、見学可能です。
なお、2月3~5日は入学試験のため、一般の方々は構内には入れません。
4月から本館内部の見学会を予定しております。
詳しくはホームページのトップ、旧島津邸の項でご案内することになります。
是非、ご見学戴きたく。
<上総>
様子は分かりました。
また、改めての日取りで本館を見学させて戴きたく。

ということであったが、旧島津邸を正門から垣間見るだけでも、ということで訪れたのであった。
4月からの本館内部の見学が愉しみである。
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今回、三度目の<空振り記念>として、前回、前々回に倣い、正門をカメラに収める。
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同じ守衛さんでも、夕暮れ時に立ち寄った妙法寺(杉並区)の守衛さんは、臨機応変、全く別の対応であった。
それについては、後ほど綴る「杉並区の巻」で。

「三田用水路跡に行ってみましょう」と武衛さん。
桜田通りを横切り、白金台方面へ。

三田用水路跡。
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三田用水路跡
三田上水は、江戸市街の拡大で増加した水の需要に応じるため、寛文4年(1664)に玉川上水の水を下北沢で分水したものです。
中村八郎右衛門・磯野助六によって開かれたといわれ、代田、代々木、渋谷、目黒を経て、現在の白金台、高輪、三田、芝地区に配水されました。
享保7年(1772)に学者室鳩巣の意見で本所(亀有)、青山、千川の各上水とともに廃止され、江戸の街を潤す水道は玉川上水、神田上水の両上水だけとなりました。
しかし、三田上水は流域の村々の農業用水でもあったので、嘆願して廃止の翌々年から再び水を引くことを許され、三田用水と呼ばれて、一宿十三ヵ村の用水として使用されました。
当時の水道は自然に流れるだけでしたので、この付近では堤状に水路を残して通す工夫をしました。
ほとんど失われてしまった三田用水路の貴重な遺構は、特に断面がわかるように残されています。
また、水路の通っていた位置を示すための色違いのタイルを地上に並べて記念としています。

昭和57年3月設置(平成19年2月立替)
港区教育委員会
管理 ハイクレスト白金台管理組合
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三田上水は、いわゆる「江戸の六上水(神田上水、玉川上水、本所(亀有)上水、青山上水、千川上水、三田上水)の一つなのである。
ベンキョーになった。

三田用水路跡といわれる路地を辿り、目黒通りに出る。

フォト:2017年1月7日

(つづく)
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by ryujincho | 2017-01-08 23:32 | 東京の灯よいつまでも | Comments(0)
2017年 01月 08日

『ドラポタ走り初め 2017/東京の灯よいつまでも/千代田の巻』 df-1

1月7日(土曜)、快晴。
ドラポタ走り初め。
ドラポタ創成期からのメンバーである大給守殿は昨年末で65歳定年を迎え、年明けに国許へ引越しし、国許で隠居することと相成った。
ということで、今回のポタリングが江戸住まい(正確には、江戸近郊住まい)最後のドラポタと相成ることでもあり、本人にコースの希望ありや?と尋ねたところ、江戸名所ポタリング、皇居と目黒不動尊を含めて欲しいとの希望であった。
これまで幾度も走った江戸府内ポタでの<思い出の場所>も幾つか散りばめ、上総にてコース設定を行った。

JR東京駅
~皇居
~清泉女子大本館/ジョサイア・コンドル設計 旧島津公爵邸 ※ポタ当日、追加
~三田用水路跡 ※ポタ当日、追加
~東京都庭園美術館/庭園のみ立ち寄り
~目黒不動尊
~駒沢オリンピック公園/懐かしの東京五輪 ※ポタ当日、カット
~松陰神社/身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
~豪徳寺/招き猫、井伊家菩提寺
~世田谷八幡宮/源義家ゆかりの神社
~妙法寺/ジョサイアコンドル 設計 鉄門 ※ポタ当日、追加
~中野区上高田/童謡「たきび」の歌発祥地 ※ポタ当日、カット
~新井薬師/目が渋くなったので... ※ポタ当日、カット
~西武新宿線新井薬師前駅 ※ポタ当日、JR中野駅に変更

大給守殿は「江戸名所ポタ」と称していたが、これまで幾度も挙行した江戸府内ポタで、今回のポタが大給守殿にとっては江戸府内ラスト・ランであり、企画者、上総としては「ドラポタ走り初め/東京の灯よいつまでも」と題した次第である。
因みに、新川二郎が唄う♪東京の灯よいつまでも♪は1964年、東京五輪の年のヒット曲であった。

この日のメンバーは、大給守殿、武衛殿、そして、上総。
南国守殿も出馬の予定であったが、諸般の事情により、出馬は見合わせとなった。

東京駅丸の内北口。
武衛殿は到着済み。
大給守殿の到着を待ちながら、東京ステーションギャラリーで開催中の「健さん」を<取材>。
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<取材>を終えて、くるっと向きを変えたところで、大給守殿に激写されちまった。
(写真提供:大給守殿)
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今回のポタの<主人公>は大給守殿ゆえ、本来なら、彼の姿が最初に登場せねばならないところであるが、撮影者として最初の登場と相成った。

皇居。
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皇居で鳥見となれば、先ず、最初に目に入るのは、お濠の白鳥(コブハクチョウ)だ。
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大給守殿撮影のお濠の白鳥もアップしておこう(写真提供:大給守殿)。
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再び、上総の写真に。
白鳥三態。
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手賀沼のコブハクチョウと比べると、同じコブハクチョウでも皇居のそれは何となく品がある

皇居のお濠で楽しみな鳥がもう一種おり、お濠の水面に集まるカモ類に目を凝らず。
「今日はキンクロハジロが見当たらないなあ」と上総。
「あそこにいますよ」との武衛殿の声。
「サンキューです!」。
ぐぐっとズームアップして、キンクロ&カイツブリを。
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そして、キンクロ、単独で。
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桜田門の積み石に刻まれた「几号水準点」。
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几号水準点探索の旅。
2013年1月下旬から約2ヶ月間、5回に亘って都内40数箇所の几号水準点を探し訪ね、その殆どを探し当てた。
桜田門は第1回目の探索の旅で訪れたが、改修工事中で見ること、叶わず、5回目の探索の旅でようやく「不」の刻印を視認する出来たのであった。
この「几号水準点探索の旅」は大給守殿の「明治の遺構、几号水準点なるものが都内のあちらこちらにあるようです」の一言で生まれた企画で、ドラポタ史上、特筆に値する企画であった。

フォト:2017年1月7日
フォト#2、#5:大給守殿提供

(つづく)
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by ryujincho | 2017-01-08 23:31 | 東京の灯よいつまでも | Comments(2)