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龍人鳥の徒然フォト日記

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2017年 05月 13日

『江戸川ポタリング/国府台合戦地跡』 ed-5

5月12日(金曜)、晴れ。
jitensha を携え、松戸駅まで輪行。
そこから、矢切の渡し、野菊の墓文学碑、水元公園、そして、しばられ地蔵をめぐる。

坂道を上り、国府台の「野菊の墓文学碑」を訪ねる。
文学碑を見ることを目的にここを訪れたのだが、文学碑の直ぐ傍に掲げられた、もっといいもの(ワタシ的にはそう言ってもいいだろう)を見付けた。
それは、「史跡 国府台の戦争」と題した、大きな説明板である。
じっくりと目を通してみた。
『江戸川ポタリング/国府台合戦地跡』 ed-5 _a0289546_18555664.jpg
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史跡 国府台の戦争
今から約400年前、この国府台で二度の戦争があった。
それぞれ敵味方・千人以上の戦死者がここに死かばねをさらした。
今の真間山から松戸駅東側の台地までを国府台といい、第一回の戦争は、天文7年(1538年)10月7日、相模台の合戦ともいい、これを前(さき)の国府台合戦という。
第二回は、これより25年後、永禄7年(1564年)正月7日の合戦でこれを後(のち)の国府台合戦という。
それはここ矢切台で戦われた。

合戦の背景
この時代の関東地方はだいたい小田原の北条氏の勢力下にあり、松戸太谷口城主 高城(たかぎ)氏や、千葉氏、原氏などもその支配下にあった。
これに対して安房上総地方を侵略して勢力を拡大した里見氏は、県北の下総地方へも手を伸ばして、千葉、原、高城氏らを攻め、やがて、北条氏をも破って関東の実権を握ろうと野望をいだいて、茨城の佐竹氏を通して上杉謙信とも手を結んだ。

合戦のもよう
矢切側には里見義弘を大将として八千騎、これに対して江戸川柴又、小岩側に北条側は、江戸城代家老 遠山丹波守直景と葛西の富永三郎右衛門尉を先陣として着陣した。
この時、小金大谷口城主 高城氏も北条方に加勢のため、下矢切大堀外(今の矢切神社東側)に陣を張り、遠山軍を助けた。
遠山、富永等は大将 北条氏康、氏政父子の到着を待たず、矢切の渡しを押し入り、国府台から栗山、矢切へかけての里見軍へ攻め寄せた。
遠山軍に押された里見軍は、いったん退却するかに見せかけたが、勢いにのった遠山軍が大坂の途中まで攻め登った所を、一挙に坂上から攻め落とした。
北条方の勇将 富永三郎右衛門尉は、朝からジュンサイ池付近から大堀へかけて馬を縦横に馳せて奮戦したが、大坂上で落馬した所を折り重なって里見方に首を渡した。
その場所は、ここ文学碑わきの坂道であった。
又、遠山丹波守は、この坂下坂川の手前、「カイカバ曲がり目の内野」という所で、里見方の里見山之介という16才の少年にその首を打たれた。
この日の戦いは北条方の敗北で、柴又陣に引き退いたが、この夜半、戦勝の酒に酔いしれた里見軍の将兵は、北条氏の大軍にはさみ打たれ、さんざんの大敗戦となり、大将 里見義弘は市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが、その後再起することはなかった。
本土寺過去帳に「コウノ台ニテ上下諸人 遠山殿 江戸城主 癸亥正月 其外千余人」と記されている。
南無...
昭和45年正月
撰文 奥山儀八郎
矢切地区風致保存会
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国府台は幾度かポタリングしている。
直近では、丁度1年前に、ドラポタの盟友にして、史跡めぐりの相棒である武衛さんと、「下総国史跡めぐり/国府跡・国分寺跡・総社を訪ねて」と銘打ち、国府台をめぐった。

国府台の史跡は、ほぼほぼ知っていると思っていたが、これは思い込みであった。
この説明板に目を通しながら、新たにいろいろなことを知ることとなった。

■真間山から松戸駅東側の台地まで全体的に「国府台」と呼ぶほか、台地の部分、部分には「相模台」や「矢切台」という名もあるのだ。
■北条・高城・千葉・原氏連合軍 vs 里見氏軍の合戦。
 里見氏は下総まで進出していたのであった。
■高城氏の居城であった小金大谷口城跡(小金城跡)を何れ訪ねてみよう。
■里見城跡がある里見公園も何れ訪ねてみよう。
■ジュンサイ池は、以前、訪ねたことがあるが、戦跡として改めて訪ねてみよう。
■紫陽花や花菖蒲でも有名で本土寺(松戸市)には国府台合戦を示す過去帳が残っているとは。
 戦跡の関連として改めて訪ねてみよう。
■説明文の「北条方の勇将 富永三郎右衛門尉は朝からジュンサイ池付近から大堀へかけて馬を縦横に馳せて奮戦したが、大坂上で落馬した所を折り重なって里見方に首を渡した。その場所は、ここ文学碑わきの坂道であった」の記述に反応し、先ほど、渡った陸橋に戻り、坂道を眺めた。
『江戸川ポタリング/国府台合戦地跡』 ed-5 _a0289546_1982163.jpg

■「小金大谷口城主 高城氏も北条方に加勢のため、下矢切大堀外(今の矢切神社東側)に陣を張り」とある
 矢切神社は、この坂を上りきった辺りにあり、次回、訪ねてみよう。。
■説明文の最後に「大将 里見義弘は市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが...」とある。
 須和田は1年前に訪ねた六所神社のある辺りのことである。
 この六所神社は総社跡ではなく、移転後の新しい神社であり、本来は立ち寄る必要はなかったが、
 敬意を表して立ち寄ったのであったが、何処へでも立ち寄っておれば何かの役に立つものである。

野菊の墓文学碑と国府台合戦に関わる説明板は西蓮寺の境内にあるようで、隣に見えている墓地を抜ければ、表に出られそうだが、境の垣根の扉には鍵が掛かっているようで、抜けられない。
担いで上がった jitensha を再び担ぎ、石段を降り、坂道を一気に下った。

野菊の墓文学碑を訪ねたお陰で、国府台合戦地跡を知ることが出来た。
「野菊の墓」に感謝である。

新葛飾橋を渡り、江戸川右岸の水元公園と南蔵院へと向かう。

フォト:2017年5月12日

(つづく)

by ryujincho | 2017-05-13 23:35 | 江戸川ポタ/矢切~水元 | Comments(0)


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