龍人鳥の徒然フォト日記

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2017年 05月 02日

『下がり藤』

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藤の花の季節。
藤の花をみると、亀戸天神の、花房の長い藤が頭の中に思い浮かぶ。
だが、それは去年の5月までのこと。
去年5月4日、ドラポタの盟友、大給守殿からの次のような「佐久平便り」で、頭の中の思い浮かぶ藤の花は一変した。
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「金は内藤 志摩守 裾からぼろが 下がり藤」。

佐久市岩村田は、信濃岩村田藩内藤家、1万6千石の小藩の領地でありました。
家紋は藤の花房でしょうか。
小藩故、財政はひっ迫しており、藩主といえ、羽織っている綿入れ半纏の裾から綿がはみ出して垂れ下がる始末であったとか。
領民はその有様を揶揄して「金は内藤 志摩守 裾からぼろが 下がり藤」と 陰口をたたいたとか。
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これを読んで、綿入れ半纏の裾からはみ出して垂れ下がる綿を藤に例えるとは、岩村田にはセンスのよい領民がいたという証しなんじゃないかと思った。
そして、家紋好きの小生、信濃岩村田藩内藤家の家紋について調べてみた。

岩村田藩内藤家。
1万5千石、高遠藩主内藤氏と同族、元禄16年(1703年)武蔵国赤松より移封し、幕末に至る。
家紋は次の三つを有す。
・岩村田藤・・・図柄は「下がり藤」
・五七桐
・「藤」の字

次に、「下がり藤」の家紋の由来について調べようとしたところ、ドラポタの盟友、南国守殿から次のようなe-mailが届いた。
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藤は長寿で繁殖力が強いところから藤原氏(鎌足)が大和に下賜したときに
家紋(丸に下り藤)に取り入れられ、日本で最も長く栄えたとされる藤原氏に
あやかろうと各地で家紋に採用されたとか、、、
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なるほど、家紋「下がり藤」には藤原氏が関わっていたのだ。
内藤氏は、その名の一文字、「藤」に引っ掛けて、「下がり藤」を家紋としたのかもしれない。

岩村田藩は、いつの時代に財政が逼迫していたのであろうか。
浅田次郎著『一路』で、主人公一行が江戸への参勤交代の途中、所持金が不足し、岩村田藩に用立てを頼む場面が登場する。
この物語は、文久2年(1862年)師走から翌年にかけての話。
このときの岩村田藩、第7代藩主は、若くして家督を継いだ内藤志摩守正誠(まさあきら)。
内藤正誠は、日光祭礼奉行、奏者番、寺社奉行などを歴任し、戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵している。

小説『一路』では、岩村田藩は借金を申し入れられる側であるから、財政が逼迫していたとは思えないし、藩主の役職、活躍ぶりからして、裾から綿が垂れ下がるような綿入れを着ていたとも思えない。
となると、財政が逼迫していたのは、初代から第6代藩主の時代のこととなる。
「金は内藤 志摩守 裾からぼろが 下がり藤」を知ってから1年が経過した今、大給守殿にその解明をお願いしておこうと改めて思うのであった。

信濃の藤はこれから。
大給守殿の御屋敷の「下がり藤」、そして、旧中込学校の「下がり藤」の景色が目に浮かぶ。

フォト:2017年5月1日、手賀沼北岸にて
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by ryujincho | 2017-05-02 23:31 | 花紀行 | Comments(0)


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