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龍人鳥の徒然フォト日記

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2018年 01月 18日

『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3

1月16日(火曜)、晴れ。
ドラポタ走り初め。
矢切の、野菊の墓文学碑と国府台合戦地跡を訪ねたのち、松戸街道(県道1号線)沿いの蕎麦やで鴨南蛮をたぐり、昼餉と摂る。
江戸川左岸サイクリングロードに戻ることなく、松戸街道(県道1号線)を南へ向け、走る。

目指すは、里見公園。
里見公園は、国府台城跡ということで訪ねることにしたのだが、企画の段階で里見公園や国府台城跡のことを調べていたところ、次のようなことが分かった。
里見公園内には、国府台城跡のほかに、前方後円墳の明戸古墳がある。
明戸古墳の盛り土は築城に使われてしまっており、野ざらしの石棺が2基ある。
おお、何と、明戸古墳という前方後円墳があるのか!
史跡めぐりの中で、古墳めぐりは主要なテーマとなっており、この情報を見て、大いに喜んだ。
更に、明戸古墳のことを調べていたところ、この付近に、法皇寺古墳(東京医科歯科大 市川キャンパス内)と弘法寺古墳(弘法寺境内)があることも判明。
益々、喜んだ。
これにて、下総南西地域、国府台の台地に築かれた三古墳めぐりの企画が成立したのであった。

県道1号線を南へ向け、走る。
この道を利用する車両は多く、その割に道幅は狭く、自転車にとっては走り難い道である。
そろそろ右(西)に入らないと、里見公園を通り過ぎてしまうかもしれない。
エイ、ヤー、この辺りで曲がってしまえと横道に入り、しばらく走ると、T字路にぶつかった。
さて、右か左かと考えたとき、武衛さんが「上総さん、ここに案内標識がありますよ」と。
T字路の左肩に立つ標識に「総寧寺 50m→」その他いくつかの行き先の案内がある。
里見公園の案内はないが、事前調べで地図を見たときに、里見公園の北側に総寧寺なる寺院があることを知っていた。

50メートル先の安寧寺に至る。
丁度、通り掛かった近所の住人と思しき婦人に里見公園への道を尋ねた。
「緫寧寺と里見公園は隣合わせ。この道を真っ直ぐ南へ行くと公園の入り口があります。公園の中は自転車が入れないはずなので、入り口の駐輪場に置かれるのがよいでしょう」と懇切丁寧に教えてくれt。

「曹洞宗 里見城跡 緫寧寺」と刻まれた石標。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_12485913.jpg
説明板に目を通す。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_12573588.jpg
安国山 総寧寺。
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総寧寺はもと、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳3年(1383)通幻禅師を開山として、近江国五槻庄樫原郷(さつきのしょうかしはらごう、滋賀県坂田郡近江町)に建立された曹洞宗の寺院であった。
ところが、天正3年(1575)に至って、小田原城主北条氏政が、寺領20石を与えて下総国関宿(千葉県関宿町)に移した。
その後、関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文3年(1663)遂に徳川4代将軍家綱に願って国府台に移った。
その折、幕府は寺領として128石5斗余、山林6万7千余坪を与えている。
総寧寺は古くから一宗の僧録に任ぜられていたが、徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じたのである。
しかも歴代住職は10万石大名の格式を以て遇せられ、江戸小石川には邸(やしき)が与えられた。
総寧寺の格式の高さは今日に残る下馬石によっても分かる。
明治5年(1872)学制の施行によって、第一学区の大学校舎を総寧寺境内に建設することになったが、それは後、陸軍用地となり、昭和33年現在の里見公園となった。
本寺の境内には、関宿より移された小笠原政信夫妻の供養塔である2基の五輪塔、小川稽古斎碑をはじめ、国府台合戦の伝説にまつわる夜泣石等を存する。
昭和54年3月
市川市教育委員会
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緫寧寺の境内を少し散策。
境内の南側に公園が見えるが、金網の塀で隔てられている。

婦人に教えられた通り、真っ直ぐ南へ行くと右手に里見公園の入り口が見えて来た。
入り口に入ると坂道。
台地でも公園(というか、国府台城跡)は一段低いところに位置していることとなる。
駐輪場に jitensha を止める。

公園内を歩く。
「国府台城跡」の銘板。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_16412463.jpg
「房総の魅力500選/市川の里見公園」。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_16450861.jpg
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房総の魅力500選
「房総の魅力500選」は、昭和58年に千葉県の人口が500万人に達したのを記念し、魅力あるふるさとづくりの一環として昭和63年1月に選定されたものです。
市川の里見公園
この公園は、戦国時代に里見氏などの房総勢と小田原の北条氏が二度も戦った古戦場跡で、今でも土塁や空堀の跡が残されえいます。
昭和33年に現在の公園となり、桜の名所として市民に親しまれています。
園内には、明戸古墳石棺、羅漢の井、里見諸将群霊墓などがあり、古い歴史を物語っています。
また、北原白秋の旧宅「紫烟草舎(しえんそうしゃ)」が昭和44年に移築復元されています。
千葉県
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「国府台城跡」。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_16553992.jpg
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国府台城跡
「鎌倉大草紙によれば、文明10年(1478)扇谷上杉氏の家宰太田道灌が「下総国府台」に陣取り、仮の陣城を構えたとあり、国府台城のはじまりであるとする説がある。
道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。

これより以前の康正2年(1456)千葉自胤は兄の実胤と共に「市川城」に立て籠もり、足利成氏に対抗していたが、簗田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れた。
この「市川城」と太田道灌の陣城との関係が注目されるが、同じものかどうかは不明である。

国府台は標高20~25mの下総台地の西の端であり、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在に里見公園の中に土塁状の城郭遺構が現存している。
そして、公園の北に向っても城郭の遺構らしきものが確認される。

公園内の遺構は破壊が激しく、築城時期を想定する事は難しいが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推定もある。

この地は、その後、天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏により行われた国府台合戦の舞台となっている。
天文7年(1538)の合戦は小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(千葉方)に拠点を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方方との戦いである。
これに対して永禄7年(1564)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに対抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄6年にも合戦が行われたという説もある)。

永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である、正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房へ敗走する。
現在の国府台城跡は、この合戦のなかで激突する両陣の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国時期の城郭に進化した、とする説もある。

現在の里見公園には、江戸時代になってから作られた里見軍の慰霊のための供養塔がたてられている。
この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は軍用地となり、終戦を迎えている。

平成18年3月 市川市教育委員会
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過去、「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」と銘打って各地をポタリングしたこともあり、冒頭の「文明10年(1478)扇谷上杉氏の家宰太田道灌が『下総国府台』に陣取り、仮の陣城を構えたとあり、国府台城のはじまりであるとする説がある」という情報で、「太田道灌ゆかりの地」がまた増えたこととなった。
嬉しい。

里見公園訪問のメインの目的は、明戸古墳石棺。
園内の何処にあるのだろうと、案内図を眺める。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_17242133.jpg
案内図によれば、明戸古墳石棺は北西の奥の方にある。
園内を歩くも、よくは分からず、手前の方をぐるっと回って元の場所に戻ってしまった。
もっと奥だろうと、西側の道を奥へ、奥へと進む。

石垣が見えて来た。
元は古墳であったろうと思わせる大きな盛り土も見えて来た。
明戸古墳、そして、古墳の盛り土を崩して築城されたともいわれる国府台城跡の区域に入ったようだ。

石垣の上に竹垣で囲まれた石碑3基と置き石。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_17543060.jpg
「里見広次並びに里見軍将士亡霊碑」。
碑は写真の右奥にちらっと見えている。
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里見広次並びに里見軍将士亡霊碑
永禄7年(1564)1月4日、里見義弘は8千の軍勢をもって国府台に陣を構え、北条氏康の率いる2万の兵を迎え撃ちました。
しかし、8日払暁、北条軍は寝込みを襲い、里見の陣地目がけて一斉に攻撃をかけたのです。
鬨の声に驚いた里見軍は「あるいは鎧、太刀よ馬に鞍おけと呼びまた太刀一振り鎧一領に2人3人取付て我よ人よとせり合い、兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるものあり」という狼狽ぶりを呈しました。

この合戦で敗北した里見軍は、里見広次、正木内膳らをはじめとして戦死するもの5千名と伝えております。
その後、里見軍の戦死者の亡霊を弔う者もなく、やっと文政12年(1829)に至って、里見将士群亡塚(左側)里見諸将霊墓(中央)が建てられ、また年代は不祥ですが、石井辰五郎という人によって里見広次公廟(右側)が建てられました。

ここに265年の歳月を経てようやくこの地で討死した里見軍将士の亡霊が慰められ、今日に残されたものです。
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「夜泣き石」伝説。
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「夜泣き石」伝説
伝えによると、国府台の合戦で北条軍に敗れた里見軍は多くの戦死者を出しました。
このとき、里見軍の武将里見弘次も戦死しましたが、弘次の末娘の姫は、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどり着きました。
未だ12、3歳だった姫は、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続け、ついに息絶えてしまいました。
ところが、それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになりました。
そこで里人たちはこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになりましたが、その後、一人の武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったといいます。
しかし、国府台合戦の記録は、里見弘次は永禄7年(1564)の合戦のとき15歳の初陣で戦死したことになっています。
この話は里見公園内にある弘次の慰霊碑が、もと明戸古墳の石棺近くに夜泣き石と共にあったところから、弘次にまつわる伝説として語り伝えられたものと思われます。
平成4年3月
市川市教育委員会
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後ほど、明戸古墳石棺の説明書きで知ることとなるのだが、石棺の蓋と思われる板石が「夜泣き石」の台座に使われているという。
今一度、台座を眺めてみる。
そういわれてみれば、そのように見える。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_18163471.jpg
更に奥へ進む。
右手に、これも古墳の名残かと思わせるような、こんもりとした高台がある。
これに上ってみる。
「市川市最高標高地点(標高 30.1m)」の標識が立っている。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_00210416.jpg
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_00220602.jpg
東の縁からグッと下がっており、その下は墓地となっている。
先ほど訪ねた総寧寺の境内の西にあった墓地である。
総寧寺や公園の南側は台地の中でも低い位置にあり、公園の北の奥は台地が一層高く立ち上がっている地形なのである。

市川市最高地点から南側を眺める。
こんもりとした盛り土に木々が生えている。
古墳の名残かもしれない。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_00301115.jpg
市川市最高地点から西側を眺める。
眼下に池が見える。
国府台城跡の空堀が池になったのかもしれない。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_00324659.jpg
鳥見中の Birderさんがいた。
「何狙いですか?」。
「シロハラです」。
池の近くに鳥が見える。
遠目にはツグミに見える(シロハラはツグミ科であるから、そう見えても不思議ではない)。
「この辺りに石棺があると思うのですが、ご存知でしょうか」。
「セキカン?」。
「古墳から出土した石棺、石の棺です」。
小生も鳥見が好きだが、今日は鳥見モードではなく、古墳モード。
Birderさんは、当然のことながら鳥見モードであるから、小生の言葉「石棺」を鳥の「セッカ」かと思い、「セキカン?」と聞き直したのかもしれない。
「石棺なら、向かいの高台の端にありますよ」と右手方向(北西)を指差して教えてくれた。

Birderさんに教えて貰った方向へ進んで行った。
それらしきものが見えて来た。
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市指定重要有形文化財 明戸古墳。
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明戸古墳石棺
明戸古墳は、全長40mの前方後円墳です。
周辺からは埴輪が採集され、埴輪から6世紀後葉に造られたことがわかります。
2基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ、今でもその位置を保っています。
かつての写真から石棺の蓋と思われる板石は、里見公園にある「夜泣き石」台座になっています。
石材は黒雲母片麻岩で、筑紫石と呼ばれるものです。
石材は筑波山麓から切り出され、霞ケ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます。

この2基の石棺は、天保7(1836)年に発行された「江戸名所図会」に「石櫃2座。同所にあり。寺僧伝え云う、古墳2双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同性長九郎弘次といへる人のはかなりという。一ツはその主詳ならず。或は云う、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらわる。その頃櫃の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎及び正木内膳の墓とするは何れも誤りなるべし。」と書かれ、図も描かれています。
「江戸名所図会」によって19世紀にすでに石棺があらわれていたことがわかるばかりか、失われた出土資料を知ることができます。

平成16年3月
市川市教育委員会
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「石材は筑波山麓から切り出され、霞ケ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます」とある。
古墳時代の霞ケ浦・手賀沼・江戸川は「香取海」であったと思われる。
龍角寺古墳群(千葉県印旛郡栄町)の岩屋古墳(龍角寺105号墳、7世紀中頃)の石室の石材も筑波山系片岩であった。
筑波山系の石材は下総各地の古墳の築造に使われていたということが分かる。
筑波山の西側のサイクリングロード「つくばりんりんロード」を走ると、何軒かの石材店を見ることがあり、昔も今も筑波山は良質の石材を産出しているのである。

昭和57(1982)年の考古博物館による測量図。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_01242465.jpg
国府台城築城のため、明戸古墳の盛り土が切り崩されたとしても、もし、この場所に古墳があったとせば、この測量図からして、前方部を北に向けて築造された前方後円墳ということになる。

「江戸名所図会」に描かれた国府台。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_01300355.jpg
測量図と江戸名所図会のふたつの資料から、古墳は下総西南の台地の縁、江戸川を見下ろす場所に築かれたといえる。

再び、泣き石の辺りまで戻り、台地の縁から江戸川を眺望する。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_01405024.jpg
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_01414252.jpg
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_01434993.jpg
正面に、富士と東京スカイツリー。
左から、大山(1252m)、三ノ塔(1206m)、塔ヶ岳(1491m)、丹沢山(1567m)、東峰(1345m)、蛭ヶ岳(1673m)、富士山(3776m)、袖平岳(1432m)、大室山(1588m)、御正体山(1682m)、鹿留山(1632m)、山倉山(1470m)、朝日山(1260m)、大峰山(841m)、二十六夜山(972m)。

この日は14℃、1月半ばとしては気温は高めで、しかも、午後でもあり、霞んで富士山は見えない。
冬晴れの午前中であれば、富士山がくっきりと見えるだろう。

展望台近くの、里見公園案内図。
『ドラポタ走り初め/柴又・矢切・国府台ポタリング/里見公園内 国府台城跡、明戸古墳』 df-3_a0289546_02023245.jpg
冒頭に掲載した、公園入り口近くで見た案内図は誠に分かり難かったが、この案内図は分かり易い。
この案内図を公園の入り口近くに掲げてくれていれば、明戸古墳石棺へ容易に行けたであろう。
公園内に「明戸古墳石棺 〇〇メートル →」というような標識を設けてくれれば、なお良い。

Birderさんに場所を聞き、明戸古墳石棺を見学することが出来、満足!

次は、東京医科歯科大 市川キャンパス内にある法皇塚古墳だ。
里見公園から東へ向かう。

フォト:2018年1月16日

(つづく)


by ryujincho | 2018-01-18 23:33 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)


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