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龍人鳥の徒然フォト日記

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2017年 12月 14日

『赤穂浪士討入凱旋の旅(中の巻)』

12月14日(木曜)、晴れ。
赤穂浪士吉良邸討ち入りのこの日、高輪泉岳寺の義士祭に出掛けた。
しばし、泉岳寺で過ごし、そのあと、泉岳寺に程近い、浪士らの御預け四家のひとつ、細川家下屋敷跡へ。

細川家下屋敷跡へは「御預け四家を訪ねて」ポタリングで幾度か訪ねており、道に迷うことはない。
泉岳寺山門脇から高輪高校脇の細道を抜け、坂道を上り、二本榎通りへ出る。
通りを横切り、旧高松宮邸と都営アパートの間の道を入ると、細川家下屋敷跡が見えて来る。

細川家下屋敷跡。
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赤穂義士史跡碑
正義を愛し名節を重んずる者は暫くここに歩を停めよ
此処は徳川時代細川邸の跡
実に赤穂義士の総帥大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である
昭和三十五年三月二十日
財団法人 中央義士会
東京都教育委員会
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自刃せる義士左の如し。
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大石良雄外十六人忠烈の跡。
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東京都指定史跡
大石良雄外十六人忠烈の跡
所在地 港区高輪1の4、6~16
標識 大正7年4月
指定 昭和30年3月28日

この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら一七人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部です。
赤穂事件とは、元禄14年(1701年)3月14日におこった殿中刃傷事件とその翌年12月14日夜から15日にかけての吉良邸討ち入り及びその一連の事件のことをいいます。
当時の藩主五代綱利は、老中稲葉肥後守からの御預けの命を受けると、大目付仙石伯耆守の屋敷に総勢875人の藩士と駕籠を送り引き渡しを受けます。
このような大部隊を送ったのは、大藩の威武を示すとともに、上杉家の襲撃を警戒したためといわれています。
細川家は、大藩の威厳と識見をもって優遇し、御預け四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。
元禄16年(1703年)3月4日午後2時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹の申渡しを受け、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存知奉り候」と礼を述べました。
切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を背負った位置でした。
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細川家のことのみをここに掲載するのは片落ちとなるので、御預け四家について触れておきたい。
肥後熊本藩細川家下屋敷/大石内蔵助ほか17名御預け切腹(所在地は高輪/泉岳寺脇を上がる) 
三河岡崎藩水野家下屋敷/間十治郎ほか9名御預け切腹(所在地は芝/田町駅、慶応仲通り商店街)
伊予松山藩松平家下屋敷/大石主税ほか10名御預け切腹(所在地は三田/イタリア大使館)
長門長府藩毛利家下屋敷/岡島八十右衛門ほか10名御預け切腹(所在地は六本木/テレビ朝日傍) 

四家お預けに絡んで、巷間、「細川の 水の流れは 清けれど ただ大海の 沖ぞ濁れる」なる狂歌が詠まれた。
2008年、初めて、「お預け四家を訪ねて」ポタリングをしたとき、水野家下屋敷の説明書きで、この狂歌を知った。
「細川の」は細川家、「水の」は水野家、「大海の」は(海(かい)と毛利甲斐(かい)守を引っ掛けて毛利家、「沖ぞ」は沖(おき)と松平隠岐(おき)守を引っ掛けて松平家を読み込み、細川家と水野家は浪士らを丁重に扱ったが、毛利家と松平家はそうではなかったという落首である。

この狂歌の通り、細川家と水野家は厚遇であったが、その厚遇の度合いを比べると細川家の方が相当に厚遇であったようだ。
例えば;
①上記の説明書きにもある通り、藩主細川綱利自らが浪士らに引見したとのこと(他の三家は家老クラス)。
②浪士らの生活は座敷であったとのこと(他の三家は侍長屋)。
③浪士らが手紙をしたためことを制限しなかったとのこと(他の三家は幕府に都度お伺い)。
④食事は豪華で酒も付いていたとのこと。大石内蔵助は1年8ヶ月の浪人生活で粗食に慣れ、ご馳走は胃にもたれるので、粗食に変えて欲しいと申し入れるも聞き入れられなかったとのこと。
⑤大石内蔵助以下17名切腹の後、幕府から細川家下屋敷に切腹の庭を清めるための役人が派遣された時、藩主細川綱利は「ここで果てた勇士たちは、屋敷のよき守り神なので、庭を清めるには及ばない。そのままにしておくように」という意味のことを言ったとのこと。

泉岳寺は大勢の人出であったが、ここ、細川家下屋敷を訪ねる人は僅か。
我々が訪ねたときは、ほかに男性二人組だけであった。

フォト:2017年12月14日

(つづく)

by ryujincho | 2017-12-14 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)


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