龍人鳥の徒然フォト日記

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2017年 11月 21日

『下総国史跡めぐり/相馬郡衙正倉跡』

11月21日、晴れ。
史跡めぐりの相棒、武衛さんと、平将門伝説の地である、日秀将門神社、将門の井戸、観音寺の日秀観音と首曲がり地蔵を訪ねた。

日秀観音寺の首曲がり地蔵の脇にでいいものを<発見>した。
それは「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識であった。
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これまでに、武衛さんと国府跡・国分寺跡めぐりをして来たこともあって、国府跡(国衙跡、国庁跡)のみならず、郡衙についても大いに興味があった。
しかしながら、国府跡(国衙跡、国庁跡)のみならず、郡衙跡もめぐるとなれば、相当の労力が必要であり、これまでに訪ねた郡衙跡は上野国新田郡庁跡(群馬県太田市天良町)だけであった。
ここで、「相馬郡衙正倉跡」の標識に遭遇したことを首曲がり地蔵さんのお導きと感謝するのであった。

下総国について。
昨年5月、下総国の国府跡(推定地)と国分寺跡・国分尼寺跡を訪ねた。
そのときに、ベンキョーした下総国のことについてここでリピートしておきたい。
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律令制以前には、印波、千葉、下海上の国造が置かれていた。
律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11の郡(評)をもって令制国としての下総国とした(のちに豊田郡が加わる)。
国府は現在の市川市国府台付近に置かれ、国級は大国に位置づけられた。
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現在、この周辺で「相馬」の名を残しているのは、茨城県北相馬郡利根町のみである。
明治期、「相馬」は利根川を挟んで、北相馬郡と南相馬郡に分かれていたが、南相馬郡は東葛飾郡に編入され、消滅した。
因みに、徳川家康の利根川東遷事業による利根川の付け替え河川改修以前は、利根川は野田市関宿あたりから江戸へ流れ込んでいたので、「相馬」は大きな川に隔てられることなく、一体であった。
余談ながら、福島県の「相馬」は、中世、下総国相馬郡で起こった有力武士、相馬氏が同地へ移り住んだことに由来する。

さて、日秀観音寺の首曲がり地蔵の脇の標識、「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識にまで話を戻す。

郡衙跡にも興味のある武衛さんと小生は、この標識を<発見>し、首曲がり地蔵さんのお導きと大いに喜んだ。
標識の「↑ 700m」は南へ700メートルのことで、先ほど走って来た道だが、道沿いは「相馬郡衙正倉跡」の標識は見当たらなかった。
スマホを取り出し、「相馬郡衙正倉跡」を検索してみた。

千葉県教育委員会のホームページにヒットした。
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相馬郡衙正倉跡
所在地 我孫子市日秀字西60-6の一部ほか
概要
相馬郡衙正倉跡(日秀西(ひびりにし)遺跡)は、千葉県立湖北高等学校の建設に伴い発掘調査が行われ、その中心部分の様相が明らかになった遺跡である。
郡衙とは古代(奈良・平安時代)の郡の役所全体を指す名称で、正倉とは徴収した税である稲などを納めた倉庫群を指す名称である。
かつての相馬郡は現在の我孫子市、沼南町と柏市の一部、さらに利根川を挟んだ茨城県取手市、利根町、藤代町に相当すると考えられている。
(以下、省略)
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千葉県立湖北高等学校の建設に伴い、発掘調査されたとある。
県立湖北高校を目指せばよいということになるが、さて、高校は何処にあるのだろうか?
そう思ったとき、散歩中の婦人があらわれた。
「湖北高校への道順を教えていただきたいのですが」。
「湖北高校はなくなり、今は特別支援学校になっています。成田線の踏切を渡って、右へ行くと学校が見えて来ます」。

「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」の標識をよく見ると、その下に「県立湖北特別支援学校」と書かれている。
更によく見ると、「県立湖北高等学校」と書かれた上に新たに「特別支援学校」の紙が貼られているのであった。
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教えられた通り、踏切を渡り、右へ行く。
学校らしき建物が見えて来た。

正門脇の説明板/相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)。
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相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)。
古代の日本では行政区分として東北から九州が六十の国に、さらに国が複数の郡に分けられ、国の中心には国府、郡の中心には郡衙(郡家)という役所が置かれ、地域における支配を担っていました。
我孫子市周辺は下総国相馬郡とされてきましたが、中心となる相馬郡衙がどこにあるかは長らく謎のままでした。
昭和53年(1978年)、千葉県立湖北高校校舎建設に伴って(財)千葉県文化財センターによる日秀西遺跡発掘調査によって多数の遺構を確認しました。
1期(6~7世紀末)は竪穴建物188棟からなり、我孫子市内でも有数の古墳時代後期の大集落です。
2期(7世紀末~8世紀中頃)は竪穴建物を排除して掘立柱建物7棟が建てられ、3期(8世紀中頃~9世紀初頭)は東西120m、南北54mの広場を取り囲むように倉庫建築に用いられている総柱式掘立柱建物や礎石式基壇建物34棟が規格性をもって建てられています。
基壇建物の1つからはタガネで半分に割られて地鎮祭に用いられた和同開珎の銀銭が出土したほか、建物の基礎や周囲から大量の炭化米が出土しています。
4期(9世紀初頭~10世紀)は3期建物が火災で焼失した後、掘立柱建物9棟の小規模な区画で再建されたものです。
特に注目されるのは3期の建物で、広場を取り囲む規格性のある建物配置は当時の官衙(役所)遺跡に共通するものであり、相馬郡衙の中核的な施設である「正倉」であると考えられました。
郡衙正倉は、本来、税「租」として徴収した米(稲穀)を凶作時の備え、田植え時の種籾として貯蔵する施設で、在地支配の象徴的な存在でした。
また、3期建物が火災で焼失しているのは奈良時代の正史である『続日本紀』に記載されている神火事件(貯蔵米の不正使用発覚を恐れた郡衙役人による放火事件。各地の郡衙正倉遺跡で火災痕を確認)による可能性があります。
郡衙には正倉の他、郡庁、館(たち)、厨(くりや)、駅家(うまや)などの施設が付随し、郡司などの役人や郡内各地から集まった人々が居住する地域の政治・経済・文化の中心都市であったことが文献に記載され、我孫子市教育委員会が発掘調査を通じて全容の解明につとめています。
相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)は平成7年(1995年)、千葉県指定史跡となっています。
平成18年(2006年)3月
千葉県教育委員会
我孫子市教育委員会
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正倉復元想像図。
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日秀西遺跡、第1期~4期の建物配置。
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左上/第1期(6~7世紀末) 赤色:竪穴建物
右上/第2期(7世紀末~8世紀中頃) 破線:掘立柱建物
左下/第3期(8世紀中頃~9世紀初頭) 破線:総柱式掘立柱建物、黒色四角:礎石式基壇建物
右下/第4期(9世紀初頭~10世紀) 破線:総柱式掘立柱建物

校内には入れない。
学校の周辺をぐるっと回ってみる。
先ず、学校の東側の道を南へ向かい、南東地点から学校とその周辺を眺める。
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学校の東側から北の正門前を通り過ぎ、西側の道を南へ下り、台地の縁、里山の道を走る。
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先ほどの南東地点の台地の下に至る。
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ぐるっと回ったことで、この辺りに相馬郡衙正倉が設けられたことと地形の関係が分かるような気がした。

この辺りに鎌倉街道があるという。
台地の上に続く、鎌倉街道と思しき上り坂を眺める。
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鎌倉街道と思しき道を眺める。
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鎌倉街道は茨城県利根町でも訪ねたことがある。
今回の鎌倉街道がそれに続くものか、それとも別ルートなのかは今後の宿題。

将門伝説の地、我孫子市日秀をめぐり、偶然、「相馬郡衙正倉跡」の標識を見付け、相馬郡衙正倉跡をも尋ねることが出来た。
こうしたことがあるから、やっぱり、ポタリングは止められない。
ポタリングに感謝!である。

フォト:2017年11月21日
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by ryujincho | 2017-11-21 23:32 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)


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