龍人鳥の徒然フォト日記

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2017年 11月 21日

『平将門伝説の地を訪ねて/日秀将門神社、将門の井戸、日秀観音、首曲げ地蔵』

11月21日、晴れ。
平将門伝説の地、日秀将門神社、将門の井戸、日秀観音、首曲げ地蔵を訪ねた。

5ヶ月前、『坂東の豪族 平将門フォーラム』なるものが開催され、聴講。
フォーラムの項目は次のようなことであった。
1.「将門伝説を取材して」
2.地域からの報告「我が町と将門」/取手市、流山市、坂東市、我孫子市
3.「将門の生産力」/「馬」、「鉄」、「布」について

このフォーラムの内容をヒントに、将門伝説の地をポタリングしてみようと思いつつ、実行せぬまま、夏が過ぎ、秋も晩秋となった。
史跡めぐりの相棒、武衛さんは、諸般の事情で半年ばかり jitensha から遠ざかっていたので、彼の足慣らしも兼ねて、手賀沼CR+我孫子市内/平将門伝説の地めぐりポタリングをプランしたのであった。

手賀沼北岸CR、手賀川CRを走り、手賀川に架かる水道橋から北上。
坂道を上り切り、台地に出ると、この辺り一帯が将門伝説の地、日秀(ひびり)である。

地図によれば、将門神社は坂道を上り切った左手奥に鎮座している。
左手奥へと向かう。

日秀将門神社。
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鳥居、そして、奥に真新しい覆屋と祠。
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扁額。
読み取り難い扁額の文字に目を凝らす。
「平親王  将門大明神」と刻まれている。
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真新しい覆屋に施された家紋「丸に揚羽蝶」。
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当神社の由来。
天慶三年(940)、将門が戦没するや、その霊は遺臣等と共に手賀沼対岸から沼を騎馬で渡り、沼の畔の丘の上で日の出を拝したと伝えられている。
その伝説の地に霊を祀り、鎮守としたのが当神社の起こりであるという。

「日秀(ひびり)」の地名は、将門の霊が日の出を拝したからとも、また、その遺臣である日出弾正なる者がこの地に隠栖したことから、「日出(ひいで)村」と呼ばれるようになり、のちに「日出」が「日秀」に変化したといわれている。

日秀将門神社は、手賀川(新田埋め立て前は、手賀川流域も沼であった)を臨む台地のほぼ南端にあり、東向きに鎮座していることから、この地名の由来は成る程!と思うのであった。

この地には桔梗を植えても花が咲かないという桔梗不咲伝説があるという。
また、この地に住む人たちは桔梗を植えたりはしないという。
これは、愛妾、桔梗御前の裏切りによって将門が討たれたとの伝説によるものという。。
更に、この地に住む人たちは成田山には参詣しないという。
これは、将門調伏の祈祷を行った成田山を快しとしないことによるものという。
こうしたことは、「平将門フォーラム」での「我が町と将門」の中で、日秀のみならず、各地に共通する慣習でもあることを知った。

将門神社から「将門の井戸」へ行ってみることにした。

右奥の標識/将門神社、左手前の標識/将門の井戸。
標識「将門の井戸」の右手の下り道が先ほど上って来た坂。
標識「将門の井戸」の手前の細い坂道(写真には写っていない)を下る。
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細い坂道を下って行ったが、井戸らしきものは見当たらない。
ちょうど上手い具合に、立ち話をしている二人の婦人を見付けた。
「将門さんの井戸はどの辺りでしょうか?」。
今、下って来た細い坂道の方を指差し、「この先に電信柱が見えるでしょう。そこが井戸です」と。

将門の井戸。
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「将門の井戸」と書かれた札が脇の樹木に。
井戸らしきものはないが、「将門の井戸」と思しき窪みがあった。
二人連れの婦人に出会わなかったら、探し回っていたかもしれない。
感謝!である。

「将門の井戸」。
承平2年(932)、将門自らが掘り、近くの分城の軍用に供したのが、この井戸であるという。
また、将門が滅亡ののち、興世王(おきよおう)が逃れるときに、将門の守り本尊である観音像をこの井戸に隠し、姿をくらましたともいわれている。

将門の井戸から、再び、細い坂道を jitensha を押し、標識「将門の井戸」まて戻る。
そこから北進し、日秀観音へと向かう。

JR成田線「日秀踏切」。
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踏切を渡り、しばらく進むと国道356号線に行き当たり、その左角が観音寺(日秀観音)である。

観音寺(日秀観音)。
観音堂に安置されている聖観世音菩薩は平将門の守り本尊で、行基の作と伝えられている。
平将門の守り本尊といえば、今月初旬、取手市の長禅寺三世堂が特別公開され、見学した。
この三世堂の説明書きに「縁起によると、織部時平公が、文暦元年(1234)に平将門公以来の守本尊である十一面観音菩薩像を安置するために観音堂を建立したことに始まる」とあった。
このように、極々近い地域であっても、将門の守り本尊について、井戸に隠した伝説、観音寺観音堂の日秀観音、長禅寺三世堂の十一面観音菩薩と三つもあるのであった。
どれが本当なのだろうか?などと野暮なことは考えないことにしたい。

観音寺の境内の一角に、国道365号線に面して安置された「首曲がり地蔵」。
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将門調伏を祈願した成田山に顔を背けている姿だといわれている。

成田山には参詣しないという日秀あるいは将門伝説の地に住まいする人たちには申し訳ないことではあるが、小生は、毎年、成田山新勝寺に初詣に行っている。
数年前、成田山に初詣した数日後に、ドラポタ走り初めで神田明神を参拝したこともあった。
そのときは、おっと、数日前に成田山に参っちまったが、ご勘弁を、と祈りながら随身門をくぐった。
今年2月、九十九里、尾垂の浜の「成田山本尊上陸の地」を訪ねたこともあった。
数日前には、成田山公園へ紅葉狩りにも行った。
一方、今年6月には「将門フォーラム」に参加したり、今月初めには将門ゆかりの、取手市/長禅寺三世堂を見学したりもしている。
バランスよくやっているということで、ご勘弁願いたい。

余談ながら、将門伝説の地のことを綴りながら思い出したことがある。
昨夏、下野国史跡めぐりの中で、下野国庁跡を訪ねた際、隣接の国庁跡歴史館で「下野国印」(推定復元印)を見た。
武衛さんが案内の館員さんに「下野国府が平将門の襲撃を受けたとき、国印はどうなったのですか」と尋ねた。
「国印はさっさと渡しました。すると、平将門軍はさっさと通り過ぎて行きました」という答えであった。

首曲がり地蔵の脇にでいいものを<発見>した。
それは「↑ 700m 相馬郡衙正倉跡」と書かれた案内標識であった。
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この続きは『下総国史跡めぐり/相馬郡衙正倉跡』と題し、続編にて綴ることとしたい。

フォト:2017年11月21日







 
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by ryujincho | 2017-11-21 23:31 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)


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