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龍人鳥の徒然フォト日記

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2016年 09月 09日

『菅江真澄の道/光飯寺宝物(男鹿の春風)』

9月3日、男鹿半島へ。
真山神社に参拝。
境内で「菅江真澄の道/光飯寺宝物(男鹿の春風)」なる案内板が目に入った。
菅江真澄とは?
案内板に目を通した。
『菅江真澄の道/光飯寺宝物(男鹿の春風)』_a0289546_9475053.jpg
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菅江真澄の道
光飯寺宝物(男鹿の春風)
文化7年(1810年)4月10日 遍照院光飯寺にいくと、寺宝を出してみせてくれた。
明次(妙沢)作の不動尊等である。
弘法大師自筆の自画像は古びていた。
出山の釈迦仏は雪舟が描いている。
中国人が描いたという釈迦仏の画があり、また、石摺りの不動は慈覚大師の作である。
弘法大師が口・手・足などで書いたのを五筆の心経といって一巻にしている。
また、光明皇后の筆跡で大般若心経や蜀錦のきれに描いた阿羅々仙人が囲碁をしている図がある。
なお、面が二つあり、一つの面は秘蔵のもので、雨乞いの時にだけ神主がこの面をかけて舞う。
また、もう一つの面は丹塗りの天狗の面で、雨あげの時にこれをつけて舞う。
小さな塔の中に鳳凰石に刻んだ雪山の釈迦像は、修行中、乏しい穀物ばかりをとっていたために痩せたお姿である。
爪石・雷杖(石器)などがあるなかで、蓬華石というのはふきのとうでも化石したようだ。
礱(すり臼)がある。
また、西王母の桃の核だといって出して見せてくれた。
安倍貞任の所持した軍配扇もあるが、ずいぶん古びている。
この寺の庭の隅に大鐘がかけてある。
刻文に「康安2年(1362年)6月朔日」とあって400年余の昔が偲ばれた。
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光飯寺の宝物のことが縷々綴られている。
だが、菅江真澄とは?の疑問は解けない。
電脳網で「菅江真澄の道」を検索したところ、男鹿市のホームページの『菅江真澄の足跡をたどる 「菅江真澄の道」の標柱をご存知でしたか?』なるものにヒットした。
次のように記されている。
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菅江真澄の足跡をたどる
「菅江真澄の道」の標柱をご存知でしたか?

菅江真澄は今から約250年前の1754年に三河国(現在の愛知県)で生まれたといわれています。
30歳の頃から旅をはじめ、生涯を旅に暮らした人でした。
1784年初めて秋田を訪れ、以後青森、岩手、宮城、北海道を経て、1801年再び秋田へ戻ります。
その後は生涯を秋田で暮らし、1829年仙北で亡くなりました。

菅江真澄は、旅の道すがら、各地の暮らしや習俗を深く観察し、日記や図絵などをたくさん残しています。
男鹿半島を訪れて書いた紀行文は5編あり、「男鹿の五風」と呼ばれています。 
「男鹿の五風」とは、「男鹿の秋風」「男鹿の春風」「男鹿の鈴風」 「男鹿の島風」「男鹿の寒風」という紀行文です。
図絵も多く、当時の男鹿半島を知る上で大変貴重な資料となっています。

男鹿市内には、菅江真澄が男鹿半島を訪れた際の足跡の随所に「菅江真澄の道」と書かれた標柱が83本、説明板が8つあります。

市内にある標柱・説明板の地図と一覧表です。
(※本ブログでは、説明板の一覧のみ掲載する)
No. 説明板の名称 所在地
1 雄潟の渡し 船越
2 寒風山       脇本富永
3 門前 船川港本山門前
4 光飯寺宝物  北浦真山・・・・・・・・・※今回、この説明板に遭遇したのである。
5 入道崎  北浦入道崎・・・・・・・※後刻、入道崎を訪ねたが、見当たらず。
6 鰰  船川港船川
7 初竹の神事  脇本脇本
8 宮沢のナマハゲ 野石
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菅江真澄がどういう人物であったかが朧げに分かって来たが、更に、大好きな(???)ウィキペディアを紐解いてみた。
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菅江 真澄(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。
生まれは、三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)と伝えられる。

菅江真澄は三河を出奔して1783年5月から1784年6月まで信濃国本洗馬村に逗留。
その後、越後国を経て同年9月には出羽国庄内に至る。
1785年さらに北上し、蝦夷地を目指したが天明の飢饉のため断念し奥州平泉をめざし南下した。
平泉周辺にしばらく滞在した後、1788年再度蝦夷地への渡航を決意し北上した。
念願の蝦夷地では、松前藩の庇護のもと各地を数年間漫遊し、数多くの記録を残した。
1792年に蝦夷地を出て南部藩田名部に迎えられ、ここで数年を過ごす。
1795年南部藩を去り、津軽藩に入る。
(以下、津軽での生活が縷々記されている)
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江戸時代の蝦夷といえば、幕府の命を受けて蝦夷地を探検した、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬らの名前が思い浮かぶが、菅江真澄のように一般人として蝦夷地を旅した人もいたのであった。
ベンキョーになった。

フォト:2016年9月3日

by ryujincho | 2016-09-09 23:36 | 出羽国・陸奥国の旅 | Comments(0)


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