龍人鳥の徒然フォト日記

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2014年 04月 05日

『ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねて/本妙寺』(5)

慈眼寺から隣りの本妙寺へと向かう。
5年前の夏、隣りの慈眼寺を訪れた際、この本妙寺の前を通った。
その際、表の「史跡 遠山金四郎之墓」の標柱を目にしたが、慈眼寺での小林平八郎の墓探しで疲れ果ててしまい、遠山金四郎の墓参は見送りとしてしていた。
今回の「ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねて」をよき機会とし、本妙寺もプランの中に入れたのであった。

本妙寺。
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山門の右に掲げられた本妙寺の史跡一覧に目を通す。
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この史跡一覧を眺めながら、遠山金四郎景元の墓のほか、明暦大火供養塔や千葉周作の墓、本因坊歴代の墓も巡ることにした。

山門の左の標柱「史跡 遠山金四郎之墓」の脇の説明書きに目を通す。
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東京都指定旧跡 遠山景元墓
遠山景元(1793-1855)は、江戸時代後期に長崎奉行を務めた遠山景普(かげみち)の子として生まれ、通称を金四郎といいます。
小目付、小納戸頭取、小普請奉行、勘定奉行などを歴任した後、天保11年(1840)、北町奉行に任ぜられ、天保14年(1843)、天保の改革の進行中に大目付に転じた後、弘化2年(1845)、南町奉行となり、以後7年間にわたり務めました。
下情に通じた江戸時代屈指の名奉行として、さまざまな伝説が伝わっています。
景元の功績として、例えば、天保の改革の際、芝居町の取り壊し策を場所の移転でとどめ、芝居を存続させことがあります。
嘉永5年(1852)の隠居後は、悠々自適の生活を送っていましたが、安政2年(1855)に病没、本郷丸山の本妙寺に葬られました。
その後、明治時代に寺の移転に伴い、現在の場所に改葬されました。
平成2年3月 東京都教育委員会
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これは遠山金四郎に関わる説明書きであるが、本妙寺がこの地に移転されるまでは本郷丸山(現在の東京都文京区本郷五丁目)に在ったということも大事なことである。
何故、それが大事なことなのか。
それは後ほど述べる明暦の大火に関わることだからである。

遠山金四郎景元の墓と碑。
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墓。
標柱の「名奉行」というのがなかなかよい。
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墓石の左側面。
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左側面には遠山の金さんと奥さんの戒名が刻まれている。
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遠山氏六代目左衛門尉景元
歸雲院殿従五位下前金吾校尉松僊日享大居士
安政二年乙卯二月廿九日卒
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遠山氏六代目景元室
偕壽院殿奐晎妙蕙日煕大姉
嘉永七年甲寅十一月七日卒
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遠山氏先塋之碑。
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碑には次の通り刻まれている。
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天保十三年
遠山氏先塋之碑
七月
遠山景元◇
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「先塋(せんえい)」とは祖先の墓地という意味である。
天保13年(1842年)、遠山景元49歳のときに景元自身の書により刻まれた碑である。

余談ながら、「塋」の漢字を知ったのは、5年前の「伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて」のテーマであちらこちらを徘徊していた中で、間宮林蔵の菩提寺、本立院(東京都江東区平野1丁目)を訪れたときのことであった。
境内に「間宮林蔵先生之塋域」と刻まれた石碑を見た。
恥ずかしながら、「塋域」という言葉を目にしたのはこれが初めてであった。
聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥である。
住職に尋ねようとしたが、生憎の不在。
後日、電話で確認。
「塋域です。エイイキと読みます。お墓の意味です。辞書で調べてみて下さい」。
広辞苑で調べてみた。
「塋域/はかば、墓地、兆域」。
兆域なる新しい言葉が出て来た。
兆域についても調べてみた。
「兆域/陵墓の区域、はかば、墓所」。
ということで、今回、本妙寺で碑に刻まれた「遠山氏先塋之碑」は戸惑うことなく理解出来たのであった。

千葉周作の墓。
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先ほどの遠山金四郎景元の墓の標柱にあった「名奉行」といい、この標柱にある「剣豪」といい、誠に庶民に分かり易い書き方だ。
「千葉周作は北辰一刀流」、「神田お玉が池の千葉道場に通うのは赤胴鈴の助」、「坂本龍馬は千葉周作の弟、千葉定吉のもとで剣術修行」と賑やか。

本因坊歴代の墓。
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2011年の秋、因島の本因坊秀策囲碁記念館を訪れたときのことが思い出される。
小生は囲碁の趣味はないが、囲碁好きの盟友、武衛殿や cafe de papa殿へのレポートとして、兄弟ブログ「上総守が行く!」において「秋の大遠征2011/しまなみ海道を行く/本因坊秀策の巻」<上・中・下>を綴った。
本因坊の凄いところは、実子が相続するのではなく、弟子の中で優れたものが相続するということである。
本妙寺での掲示「歴代本因坊の紹介」に目を通す。
十四世秀和と十五世秀悦の間に「跡目 秀策」の名が見える。
掲示「墓石配置略図」に目を通す。
秀策の名はないが、遺骨はここに葬られている。
本妙寺で本因坊秀策の墓参をした旨、囲碁好きの盟友、武衛殿や cafe de papa殿に報告しておかねばならない。
本因坊の墓参りをすれば棋力が上達するとのことであるから、例え、代理での墓参であっても、彼らの棋力は上達するであろう。

明暦の大火供養塔。
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BS TBS、月曜夜9時からの「吉田類の酒場放浪記」を楽しみに見て来たが、飽きて来た。
今は、同じくBS TBS、月曜の夜10時からの「謎解き!江戸のススメ」なる番組を贔屓にしている。
3月10日の放送は「災害からの復興」であった。
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江戸時代にも、大規模な災害は幾度となく起こりました。
その度に人々は力を合わせ復興してきたのです。
町の大半を焼き尽くした明暦の大火、200年ぶりに起きた富士山大噴火、そして、多くの餓死者を出した天明の大飢饉。
これらの災害から江戸の人々はどのように立ち上がっていったのか。
「災害からの復興」に秘められた謎を解き明かします!
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こうしたナレーションに続いて、番組は展開。
明暦の大火の火元が何処かについては諸説あるが、番組の中では「本妙寺火元引受説」を有力としていたように記憶する。
「本妙寺火元引受説」とは、こうだ。
・明暦3年(1657年)、本郷丸山から出火。
・火元は老中 阿部忠秋(下野壬生藩・武蔵忍藩主、徳川家光・家綱の時代の老中)の屋敷。
・しかし、老中大名屋敷からの出火では幕府の威信が失墜するとの懸念あり。
・老中阿部忠秋の屋敷に隣接する本妙寺が火元ということに摩り替えた。
これが「本妙寺火元引受説」のあらましである。
この説を有力とする理由はこうだ。
・火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわず、大火以前より更に大きな寺となったこと。
・大正時代にいたるまで阿部家より毎年多額の供養料が納められていたこと。
更に、本妙寺火元引受説が真相であるからこそ、豪商の娘の病気快癒祈願が本妙寺で営まれていた際、護摩祈祷に娘の振袖を焼いたところ、燃え上がった振袖が舞い上がり、出火の元となったという「振袖火事」の伝説が生まれたということである。

冒頭、本妙寺の表に掲げられた「遠山景元墓」の説明書きに触れた際、「本妙寺がこの地に移転されるまでは本郷丸山(現在の東京都文京区本郷五丁目)に在ったということも大事なことである。何故、それが大事なことなのか。それは後ほど述べる明暦の大火に関わることだからである」がようやくこれで繋がった。

ソメイヨシノ誕生の地<染井村>を訪ねては、桜吹雪の遠山の金さんゆかりの本妙寺でサクラ繋がりで上手い具合に〆ることが出来、ご満悦で、JR巣鴨駅前で大放談会。
ソメイヨシノ誕生の地<染井村>での花見と歴史散歩、そして、大放談会、贅沢な1日であった。

フォト:2014年3月31日

(完)
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by ryujincho | 2014-04-05 00:01 | 街歩き、村歩き、ポタリング | Comments(0)


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